電脳筆写『 心超臨界 』

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( トニー・ロビンズ )

読む年表 戦国~江戸 《 桶狭間の戦い――渡部昇一 》

2024-06-19 | 04-歴史・文化・社会
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戦場で2千人が2万人と団子となって戦えば百パーセント負ける。しかし、敵が進軍中のところに突っ込んで行けば、紐状に伸びた状態の敵を横から襲う形で戦える。先に進軍している今川の軍勢が織田軍の攻撃を知って引き返しても、十数分では戻ってこられない。いざ斬り込んでみると、義元の周囲には5百騎くらいしかいなかった。義元は馬ではなく輿(こし)に乗って引き揚げようとしていた。今川軍の中で実際に戦えるのは2百騎くらいだったから、戦力は逆に十対一となった。信長はみごと義元を討ち取った。


◆桶狭間の戦い

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p102 )

1560(永禄3年)
《 桶狭間の戦い 》
機を逃さず、情報を重視した信長の知略が強敵今川義元を打ち破った

織田家は信長の父信秀の時代から今川義元と国境をめぐる戦いを重ねていた。しかし、永禄3年(1560)、満を持して上洛を目指す義元が2万の大軍を動員して尾張に侵攻し、いよいよ最後の決戦となった。有名な「桶狭間の戦い」である。

迎え撃つ織田信長勢は今川軍の十分の一の2千前後にすぎない。織田側ではしきりに軍議が開かれ籠城案も出たが、信長は何も言わず、武将たちは敗戦を覚悟するほど意気阻喪(そそう)した。

ところが、織田の丸根(まるね)砦と鷲津(わしづ)砦が落ちたと聞くと、信長はやおら立ち上がって幸若舞(こうわかまい)「敦盛(あつもり)」を舞った。「人間五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」と謡うや、「皆の者、続け」といきなり馬を駆って飛び出して行った。

続々と兵が続き、およそ2千人が熱田神宮に集まって戦勝祈願を行った後、善照寺(ぜんしょうじ)の砦に向かい、さらに中島砦から桶狭間に打って出ようとするが、家臣たちは「中島砦までの道は両側が深田(ふかた)だから一騎ずつ縦隊でしか進めず、しかも桶狭間山の今川方からはこちらの軍勢の少なさが丸見えです」と必死になって止めた。にもかかわらず信長は作戦を強行した。

ここが信長の発想が並の武将と違うところである。敵から丸見えだということは、それだけ敵に近づいたということである。桶狭間までは4キロ足らずであった。信長は若い時から馬で尾張中を駆け巡っていたから、馬なら十数分で行けることがわかっていた。

さらに、戦場で2千人が2万人と団子となって戦えば百パーセント負ける。しかし、敵が進軍中のところに突っ込んで行けば、紐状に伸びた状態の敵を横から襲う形で戦える。先に進軍している今川の軍勢が織田軍の攻撃を知って引き返しても、十数分では戻ってこられない。

いざ斬り込んでみると、義元の周囲には5百騎くらいしかいなかった。義元は馬ではなく輿(こし)に乗って引き揚げようとしていた。今川軍の中で実際に戦えるのは2百騎くらいだったから、戦力は逆に十対一となった。信長はみごと義元を討ち取った。

実際に今川義元を討ち取ったのは、毛利新助(もうりしんすけ=義勝(よしかつ))、服部小平太(こへいた=一忠(かずただ))の二人だった。当時の概念で言えば、百万石の大名の首を取ったのだから、これは最高の手柄である。

ところが、信長が与えた論功行賞は彼らが一番ではなかった。恩賞第一等は、敵がいつ何処にいるか、その情報を伝えた野武士上がりの簗田政綱(やなだまさつな)であった。

これは実にすばらしい考え方である。信長にしてみれば、「これはおれが考えた戦いだ」と言いたかったのであろう。自分が考えたとおりにやれば、義元の首は必ず誰かが取る。だから、いちばん重要なのはいつ何処に義元がいるか、である。その情報の価値を一番に認めたのは画期的なことであった。
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