電脳筆写『 心超臨界 』

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( キャロル・バーネット )

南京大虐殺という嘘 《 捏造の決定的証拠――古荘光一 》

2024-06-20 | 05-真相・背景・経緯
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
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◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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決定的な資料さえ手に入った。董顕光、フィッチらと南京で付き合いのあったポーランド人女性、ラルフ・イローナ・スーが書いた「鱶ヒレと雑穀」(1944年、ボストン)である。同書により、フィッチらアメリカ人宣教師やドイツ商人が日本軍占領下の南京に居残った目的が、でっち上げにあったことが確認できるのである。しかも、この本に董顕光は怒り、またフィッチの妻、ジェラーディンも批判した。数々の秘密を暴露され、痛かったのであろう。


◎いまさらの「日中歴史共同研究」――「南京大虐殺」はない
古荘光一・フリージャーナリスト
『WiLL』2010年5月号 、ワック出版、p231 )

(その2): 冒頭よりつづく

◆捏造の決定的証拠(p232)

本稿で問題にするのは、アメリカ人宣教師らが言い立てた「南京大虐殺」である。これは当初、“中立的立場”の外国人が証言していることだから事実だと宣伝されていた。

しかし、連中は中立どころか、支那の手先だった。その事実を本誌の2008年1月号で明らかにした。

記事を書くにあたっては、いくつかの資料を発掘した。捏造(ねつぞう)に励む宣教師を指揮したジョージ・フィッチ、背後に隠れて彼らを操っていた国際宣伝処副処長の董顕光らの著書である。かれらが言っていることが、どこまで事実でどこからが嘘か、また何を隠しているかを検証した。

記事ではまず、フィッチが蒋介石の“走狗”であった事実を明らかにし、二人が握手している写真を添えた。また、「南京大虐殺」の基本文献のような扱いで欧米の書物にしばしば引用された『これが戦争だ』の編集者ティンパーリが、董顕光の部下だった事実も明確にした。

さらに、「事件」を“報道”したニューヨーク・タイムズの記者のダーディンが、実は国民党系の新聞チャイナプレスで董顕光の元部下であったこと、問題の記事が宣教師の一人から貰った文書を数カ所で引用していることを指摘した。

その後も資料を探し続けているが、捏造の証拠こそ加われ、史実だったとみなすべき根拠は現れてこない。

いな、決定的な資料さえ手に入った。董顕光、フィッチらと南京で付き合いのあったポーランド人女性、ラルフ・イローナ・スーが書いた「鱶ヒレと雑穀」(1944年、ボストン)である。同書により、フィッチらアメリカ人宣教師やドイツ商人が日本軍占領下の南京に居残った目的が、でっち上げにあったことが確認できるのである。

しかも、この本に董顕光は怒り、またフィッチの妻、ジェラーディンも批判した。数々の秘密を暴露され、痛かったのであろう。

資料がここまで揃うと「南京大虐殺」が蒋介石政権のプロパガンダであり、捏造であることはもはや疑えなくなる。それを今さら史実として合意されては、片腹痛い。

◆日米開戦の裏側(p234)

北岡教授は、前期の記事で、《日中戦争は計画的な侵略ではない》とも語っておられるが、この表現も飽き足りない。なぜなら、日中戦争(1937年~1945年、以下、支那事変)は、当時の蒋介石政権が周到な準備に基づいて、挑発した戦争であるからだ。

周到な準備については、すでにさまざまな資料が発掘され、その一部をわたしも本誌2009年3月号に書いたことがある。しかし、最近、日本の歴史家が見逃してきた史実を発見した。これは単に支那側の周到ぶりを証明するだけでなく、大東亜戦争全体の再評価を迫るものだ。

それは日米戦争の背景である。日米戦争は、支那事変の最中の1941年(昭和16年)12月に日本海軍による真珠湾攻撃で始まったが、理由は、アメリカ、英国、支那、オランダがいわゆるABCD包囲網を形成し、日本に対し石油と屑鉄の供給を断ったことにある。そのABCD包囲網形成の裏に蒋介石の陰謀が存在した。

蒋介石は、アメリカに大量の工作員を送り込み、政府、議会、大衆を騙す大掛かりなキャンペーンを展開した。蒋介石に踊らされたアメリカ側は包囲網の形成に動き、大戦の原因を作った。日米の戦争で死んだ日本人もアメリカ人も、蒋介石の悪知恵によって殺されたのである。

話は真珠湾より、4年以上前に遡る。早くから対日戦争を準備していた蒋介石は、尋常な勝負では日本に勝てるとは思っておらず、様々な策を弄した。その一つが日米貿易妨害キャンペーンである。

当時の日本は、“産業の米”といわれる鉄鋼を生産するため、アメリカから屑鉄を輸入し、また“産業の血液”であり、軍事物資でもある石油をアメリカとオランダ領東インド(現在のインドネシア)から買い付けていた。これを日本の最大の弱点と見た蒋介石は、これらの供給を断とうと画策した。

一方、アメリカは、南北アメリカを除く地域、とくにヨーロッパやアジアの国際政治に関与しないという孤立主義に凝り固まっていた。

孤立主義は建国以来のアメリカを何度か襲った政治的発作で、1930年代には、かつてない高まりを見せた。このため対外干渉主義者であった大統領のフランクリン・ルーズベルトは就任後しばらく、孤立主義世論にさからうことを控えた。

この風潮に乗ったアメリカ議会は、1935(昭和10年)年8月、「中立法」を制定し、戦争当事国に対する軍需物資の輸出を事実上禁止した。

日本と支那の双方が開戦からしばらく戦争状態を認めず“事変”と呼称したのは、このためである。当事者が戦争を認めると、アメリカは同法を発動し、日本は屑鉄や石油などの原材料を、支那は工業製品を輸入できなくなる恐れがあった。

これに対し、支那は日本に対してだけ、輸出を止めさせようと企んだ。キャンペーンの指揮をとった董顕光は、回想記で次のように述べている。《海外の民主主義的な人々が、支那における戦争の重要性を認識し、われわれに精神的、物質的支援を与え、われわれの敵にはそれを与えないことが絶対的に重要だった》

その3へつづく)
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