電脳筆写『 心超臨界 』

偶然は用意の出来ている人間しか助けない
( ルイ・パスツール )

読む年表 戦国~江戸 《 大坂冬の陣/夏の陣――渡部昇一 》

2024-07-27 | 04-歴史・文化・社会
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秀吉が建てた方広寺(ほうこうじ)大仏殿を秀頼が再建し、その開眼(かいげん)供養が間近に迫ったところで、鐘の銘に「国家安康(こっかあんこう) 君臣豊楽(くんしんほうらく) 子孫殷昌(しそんいんしょう)」とあるのに家康が激怒した。これは「家康」の名を分断することによって徳川家を滅ぼし「豊臣家の子孫繁栄」をめざす意味だというのだ。もちろん、これは言いがかりであって、はじめから秀頼を潰(つぶ)すつもりだったのである。


◆大坂冬の陣/夏の陣

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p138 )

1614(慶長19年) /1615(元和元年)
《 大坂冬の陣/夏の陣 》
豊臣家が滅亡し、徳川の下で太平の世となる

関ヶ原では福島正則、加藤清正をはじめとする「豊臣恩顧(おんこ)の大名」たちの奮戦で勝ったことを、賢明な家康はよくわかっていた。だから、豊臣秀頼を奉じた石田三成の西軍が負けたあと、豊臣家がどうなるかと心配する大名たちの感情を十分に配慮した。

家康は将軍になった五カ月後、秀吉との生前の約束どおり孫娘の千姫(7歳)と秀頼(11歳)を結婚させ、自らは「秀頼公の後見人になる」と宣言して豊臣恩顧の大名を安心させた。さらに、豊臣家の武将、つまり外様の大名たちに領土を大盤振る舞いして歓心を得る。

ところが、秀吉が建てた方広寺(ほうこうじ)大仏殿を秀頼が再建し、その開眼(かいげん)供養が間近に迫ったところで、鐘の銘に「国家安康(こっかあんこう) 君臣豊楽(くんしんほうらく) 子孫殷昌(しそんいんしょう)」とあるのに家康が激怒した。これは「家康」の名を分断することによって徳川家を滅ぼし「豊臣家の子孫繁栄」をめざす意味だというのだ。もちろん、これは言いがかりであって、はじめから秀頼を潰(つぶ)すつもりだったのである。

家康は秀頼のいる大坂城を攻めた。だが、城というのはそう簡単に落ちるものではない。いわんや大坂城は秀吉が知恵と財力を惜しみなく注いでつくった天下の名城である。「冬の陣」では、城を落とすどころか、真田幸村が築いた出城「真田丸」で家康軍はさんざんにやられた。ぐずぐず一年も戦いが続いたら、いまは家康に味方しているものの、元来は秀吉にとりたてられた大勢の大名たちが脱落してしまうかもしれない。そこで、急いで和平条約にもっていったのだが、このとき策略をもって大坂城の外堀を埋め、裸城(はだかじろ)にしてしまった。豊臣側は抗議したが、時すでに遅く、翌年の「夏の陣」で城は落とされてしまう。

豊臣家は女が国を滅ぼしたいい例である。源頼朝を平清盛が殺そうとしたのを清盛の継母の池禅尼(いけのぜんに)が説得して助命したばかりに平家は滅びた。その先例が忘れられたのは、秀吉が征夷大将軍ではなく関白になったことによって、豊臣家が武家というより宮廷風になったからである。平安時代を見ればわかるように、宮廷では女性の発言権が強いから、結局、秀頼の母淀君のような女に牛耳られ、真田幸村や後藤又兵衛(基次)たちの戦略が用いられなかった。

家康の軍を何度も破ったことがあるのは真田家だけだから、もし武勇の誉れ高い真田幸村を総参謀長クラスにして戦っていたらどうだったろう。大坂城は一年や二年は当然のように持ちこたえ、勝敗はどちらに転ぶかわからなかったであろう。

しかし、ここでも家康の運が物を言うのである。とくに家康の場合は長寿と強運が分かち難い。もし55歳(当時としては十分高齢)で亡くなっておれば関ヶ原の戦いはなかったし、古稀(70歳)の齢(とし)に亡くなっていても豊臣家は無事だったであろう。徳川時代は家康の長寿に基礎があったとも言える。家康は大坂夏の陣の翌年に徳川家の将来に安心して瞑目(めいもく)した。
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