電脳筆写『 心超臨界 』

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( マーク・トウェイン )

歴史を裁く愚かさ 《 「集団の罪」をめぐって――西尾幹二 》

2024-07-13 | 04-歴史・文化・社会
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罪を「集団」と「個人」に分けたり、責任を「道徳的」と「政治的」とに分けたり、かくも複雑煩瑣な論理概念上の手続きを踏むのは、他民族集団殺戮(ホロコースト)という世界史上例のない民族の犯罪にどう対処したらよいかという苦心の産物なのである。ドイツ人はじつに気の毒な民族である。日本人はこんなことをする必要はない。「一億総懺悔」というかたちで大雑把に「集団の罪」を認めている。認めてもこわくもなんともない。なぜなら他方において同時に「集団の無罪」を信じ、主張し、その声は年ごとに高まりをみせているからである。


『歴史を裁く愚かさ』
( 西尾幹二、PHP研究所 (2000/01)、p255 )
第4章 日本人よ、知的に翻弄されるな
4 ヴァイツゼッカーは聖者ではない

◆「集団の罪」をめぐって

前大統領が『荒野の40年』の中の一節で、「一民族全体に罪がある」というようなことはなく、罪はどこまでも「集団的」ではなく「個人的」なものだ、と述べたくだりに関する私の解釈に、『Ronza』平成7年9月号で梶村太一郎氏が反論した。私はこのことばには歴史的に大きな含みと背景があり、ふと漏らした不用意な言葉ではなく、ドイツ国民全体の罪は存在しない、罪はどこまでも個人次元の問題にすぎないという、民族としてのドイツ国民の自己免罪の動機を含んでいると解釈したのに対し、梶村氏はまったくそうではなく、ユダヤ人など何かの民族に属している者には罪があるとする人種主義思想を単に否定する言葉で、それ以上の意味はない、と反論した。

言葉の表面だけしか知らない氏の疑問は無理もないが、「集団の罪」Kollektivschuld は存在しない、に要約されるこの言葉――たしかに最初は氏の言う意味から始まった――は、戦後ドイツ人がなにかというと隠れ蓑のように自己防衛に巧みに利用してきた両義性を孕(はら)む概念で、あの「解放」と同じようにきわどい含みを持つ言葉になっている。近い例でいえば、ズデーテンからドイツ国籍に属する者が集団的に追放された不当性を訴えるため、「集団の罪は成り立たないはずだ」という防衛的主張が、今おこなわれている。ドイツ人のこの主張は自分の過去を棚に上げて厚かましい、とチェコ人は考える。

同じような構図は戦後久しく、ドイツ民族全体の「集団の罪」は成り立たないとするドイツの保守階層や右派勢力と、英米など連合軍や左派知識人との間の論争となって火花を散らした。反ファシズム的立場から歴史を見直そうとする勢力は、当然のことながら、民族全体としてのドイツ人の「集団の罪」、いいかえれば道徳的責任を問おうとしたが、これは成り立たないというのが国を挙げての圧倒的な反論(注1)であり、また歴代大統領のとる立場でもあった。他民族絶滅を実行に移した国民が、これは一部ナチ党幹部の「個人」の罪ではなく民族全体の罪、道徳的責任であると認めることは、報復としてドイツ民族が絶滅させられても文句がいえないという恐怖心につながる。

(注1):『ヒトラー以後、ホーネッカー以後』という本に、このいきさ
    つが述べられている。そのなかの一節を挙げると、「『集団の
    罪』の理論は成り立たない、と国中いたる所でいま論難攻撃の
    声が聞こえるが、これは圧倒的に、反ファシズム的立場での歴
    史の徹底見直しを拒もうとする自己防衛の徴候である」(Ludwig
    Elm: Nach Hitler, nach Honecker, Dietz Berlin 1991, S. 47)


「集団の罪」の否定はヤスパースの『責罪論』(1946年)に端を発する。ヤスパースはドイツ民族全体にかかわる「集団の罪」を否定した。そして、その理由として、ある特定の人種に属しているから罪があるとしたナチスの人種主義思想と同じ理由でドイツ人を戦後裁こうとするのは認めがたいとし、世界世論の前でいち早く自国民を哲学的に防衛した。この間の事情は裏の心理を含め、拙著『全体主義の呪い』(注2)にくわしい。

(注2):『全体主義の呪い』(新潮社)の第7章「人間の罪は区別でき
    るか」は、一章をあげて、ドイツ人による罪の概念規定の問題
    をとりあげている。ヤスパース『責罪論』への批判的見解を含
    む。

その際大切なことは、ヤスパースが罪を四つに区分し(注3)、そのうちの二つの罪、道徳上の罪(道徳的責任)と政治上の罪(政治的責任)の区別が戦後のドイツ政治に決定的に重要な影響を与えたことである。道徳的責任は「個人」の心の中の問題であるとされる。一方、政治的責任は金銭による償いである。ヤスパースはドイツ国民に「集団の罪」がもしあるとすれば、それはどこまでも政治的責任の範囲においてでしかないと定め、道徳的責任は「個人」の精神上の問題であるとした。そしてこの巧妙な概念上の区分規定はドイツの保守系政治家の思想の中にしっかり刻みこまれ、ヴァイツゼッカー氏は紛れもなくその影響下にある。

(注3):ヤスパースは罪を四つに区分した。(1)刑法上の罪、これは裁
    判官によって処罰される。(2)政治上の罪、これに対しては
    賠償が支払われる。(3)道徳上の罪、これは悔い改めと自己
    再生を引き起こす。(4)形而上の罪、これは神の御前での人
    間の自覚の変貌を引き起こす(Karl Jaspers: Die Schuldfrage.
    Piper, Neuausgabe 1987, D. 20f.)。

    これを見る限り、(1)は明白な法律違反を犯した行為以外に
    は処罰できない。戦前の刑法で裁ける範囲の、直接手を下し
    た実行犯など。(2)は賠償金で片がつき、(3)(4)はどこまで
    も心の内部の問題だから、人間による裁きの対象にはならな
    い。これでは全体主義の犯罪に対抗するにはあまりにも無力
    である。しかしドイツ国民には、ヤスパースのこの理論は防
    波堤になった。

『朝日新聞』の「深き淵より ドイツ発日本」平成7年1月3日付の記者との対談で氏は私の予想したとおり、ドイツ国民全体が背負うのは道徳的責任ではなく、政治的責任だけであると明言している。

「私の自動車を他人が運転して事故を起こしても、私は賠償責任を負う。政治的責任とはそういう意味の責任だ。一方、人は自分がしていないことについて、道徳的な責任はとれない」

なんというあっけらかんとした割り切り方であろう。日本人は戦後生まれまでが、アジアから「道徳的責任」を問われているかのようにマスコミに言い立てられ、身構えているのと、何という違いであろう。

罪を「集団」と「個人」に分けたり、責任を「道徳的」と「政治的」とに分けたり、かくも複雑煩瑣な論理概念上の手続きを踏むのは、他民族集団殺戮(ホロコースト)という世界史上例のない民族の犯罪にどう対処したらよいかという苦心の産物なのである。ドイツ人はじつに気の毒な民族である。日本人はこんなことをする必要はない。「一億総懺悔」というかたちで大雑把に「集団の罪」を認めている。認めてもこわくもなんともない。なぜなら他方において同時に「集団の無罪」を信じ、主張し、その声は年ごとに高まりをみせているからである。
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