電脳筆写『 心超臨界 』

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( マーク・トウェイン )

大陸への出兵を計画した徳川家光――西尾幹二

2023-11-01 | 04-歴史・文化・社会
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しかし、明がとうとう満州族に滅ぼされ、清朝になってからは、日本の中国に対する対決意識は対等からむしろ優越へと転じた。満州族は、日本を二度襲撃し撃退されたモンゴル兵と同一視されていた。「神州不滅」の日本に比べ、何度も中原(ちゅうげん)を奪われる漢民族への軽蔑感が芽生えた。明の遺臣は二度にわたり清朝皇帝に対し反乱を起こし、日本に救援を求めてきた。徳川幕府は一度は本気で介入を考えた。将軍家光は日本遠征軍2万人を中国沿岸に上陸させる戦闘計画さえ立てた。しかし明の遺臣が大敗したとの情報で、沙汰止みとなった。


『国民の歴史 上』
( 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p436 )
14 「世界史」はモンゴル帝国から始まった

◆大陸への出兵を計画した徳川家光

日本で徳川幕府が開幕した頃はまだ明の末期だった。

幕府は初期段階では、秀吉の朝鮮出兵で乱れた明との関係を一度は修復しようとしたが、書簡には慎重に明の年号使用を控え、中国皇帝の普遍性を否定する内容形式をあえてつきつけたために、関係修復はならなかった。幕府の外務大臣に当たる林羅山は朝鮮からタイに至る国々を羅列、日本に朝貢しはじめた国々であると宣言し中国の覇権に事実上挑戦状をつきつけたに等しかった。明との関係回復より、日本の自主性維持が優先され、政府間交流の途絶をむしろもっけの幸いとした。

朝鮮との関係修復は最初はより困難だった。しかし朝鮮は満州族に北辺を脅かされているため、日本に接近せざるをえなかった。日本は朝鮮の書簡が明の年号を用いるのを拒んだ。それさえ用いなければ、日本の年号の使用を強制しないと妥協し、朝鮮を対等の国として尊重した。日本年号を中国年号と対等の地位におく布石でもあった。

しかし、明がとうとう満州族に滅ぼされ、清朝になってからは、日本の中国に対する対決意識は対等からむしろ優越へと転じた。満州族は、日本を二度襲撃し撃退されたモンゴル兵と同一視されていた。「神州不滅」の日本に比べ、何度も中原(ちゅうげん)を奪われる漢民族への軽蔑感が芽生えた。

明の遺臣は二度にわたり清朝皇帝に対し反乱を起こし、日本に救援を求めてきた。徳川幕府は一度は本気で介入を考えた。将軍家光は日本遠征軍2万人を中国沿岸に上陸させる戦闘計画さえ立てた。しかし明の遺臣が大敗したとの情報で、沙汰止みとなった。

このように明からの救援要請や、明の知識人の日本亡命が日本人の優越感をさらに強めた。華夷秩序の華の中心は疑うべくもなく日本であり、もはや中国ではありえないとの確信が高まった。

秀吉の朝鮮出兵の動機――のちの項で取り上げるが――は、このように当時の日本の政治指導者の高まる自負心と切り離して考えることはできない。

日本はその後江戸時代を通じ、清朝と正式の国交をあえて結ぼうともしなかった。新しい北京政府を仮に無視しても、外交的にも、経済的にも十分にやっていける自信が日本にはすでにあったからだ。

日本人が徳川期に見ていた国際秩序は、どこまでも日本中心であり、日本が対外関係の主導権をとるという前提の下に考えられていた。華夷二分法といっても華の中心に据わったのは日本である。日本こそが華であり、世界の中心であるというイメージされた「日本国大君外交」が演出され、確立されることによって初めて中国中心的世界観から自分を離脱させることに成功したのである。日本がヨーロッパ列強の襲来時に、他の東アジア諸国、とくに朝鮮より自由に行動でき、ヨーロッパの「文明」を自己選択的に取り入れることを可能にしたのは、それまでの自覚的行動力が功を奏していたためである。

しかしこのことは、日本が「世界史」の理念を少しでもものにしたという話ではない。「日本国大君外交」は朝鮮と琉球に対し中華の「華」の役割を演じるというもくろみが、あって、中華秩序のイミテーションの枠を少しでもこえたものではなかったのである。

さりとて、モンゴルと中国をめぐるユーラシアの凄絶かつ壮大な争闘のドラマを見ていた目に、海をへだてた日本の地勢的有利は、他のなにものにも替えられないこの国の文明の特色を形づくる条件であったということをいやでも思い知らされる。朝鮮半島にはつねに容赦のない厳しい条件がつきつけられていた。朝鮮半島は大陸の動向とほとんどいつも一体である。

それにしても、秀吉の出兵という出来事で、この大型歴史ドラマの一角に日本は一度だけチラッと顔を出す。ドラマ全体からすれば、幕間の寸劇といった程度である。あの手の攻略はユーラシア大草原では日常茶飯事だった。日本史における顕著な出来事、突発的異変、老いたる英雄の痴愚狂気とされる不可解の謎も、これを謎としつづけるのは日本人の経験量の乏しさに由来する。今までみてきたとおり、大陸では珍しい事件でもなんでもないのだ。機会と条件さえ整えば、徳川家光もやってみる気があったということは面白い。日本は「鎖国」なんかしていなかった証拠だ。明の援軍というのはどこまでも表向きの言葉で、本音は「天下取り」の可能性をうかがった言動であったと、私は解釈している。
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