電脳筆写『 心超臨界 』

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( シェークスピア )

不都合な真実 《 梶山答弁——メディアが死んだ日/阿部雅美 》

2024-05-27 | 04-歴史・文化・社会
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88年3月26日の「梶山答弁」に戻る。雑談やオフレコの場ではない。無責任な噂話ではない。国会の予算委員会で政府が北朝鮮の国名をはっきりと挙げて、人権・主権侵害の国家犯罪が「充分濃厚」とし、警察庁が「そういう観点から捜査を行っている」と答える。これは尋常なことではない。だれでもトップニュースと思うだろう。しかし、この答弁がテレビニュースに流れることは、ついになかった。新聞は産経がわずか29行、日経が12行、それぞれ夕刊の中面などに見落としそうになる小さいベタ(1段)記事を載せただけだった。


◆88年3月26日

『メディアは死んでいた』
( 阿部雅美、産経新聞出版、2018年05月、p115 )

バブル景気真っただ中だった。私が「メディアが死んだ日」と自戒を込めて言い続けている88年3月26日を迎える。この日の意味合いを理解いただくため、ここまでの軌跡を簡単に整理する。

(1) 産経が北朝鮮によるアベック3組の拉致疑惑、1件の拉致未遂事件を
  報じる(80年1月)。虚報、誤報とされる。
(2) 政府、3件の事件性、4件の関連否定答弁(同年3月)
(3) 心光洙容疑者ら韓国で逮捕。原敕晁(ただあき)さん拉致発覚(85年)
(4) 富山の未遂事件、公訴時効を迎える(同)
(5) 大韓航空機爆破事件(87年11月)
(6) 金賢姫元工作員、日本から拉致された日本人女性「李恩恵」の存在を
  証言(88年1月)。アベック3組の女性と「季恩恵」の関連に注目が
  集まる(同年1~2月)
(7) 金賢姫証言の信憑性が揺らぎ、アベック3組の拉致疑惑は再び、闇の
  中へ(同年3月)

「メディアが死んだ日」と大仰に書く以上、マスメディアが報じることがなかった、この日の参院予算委員会の質疑を正確に再現したい。

質問者は共産党の橋本敦議員、答弁した政府委員は警察庁の城内康光警備局長だった。今度は、80年の時と違い、一般の刑事事件を所管する刑事局長ではなかった。質問者がなぜ共産党議員だったのかは後述する。

――昭和53年(1978)年7月と8月、わずか2カ月間に4件(注・未遂含む)にわたって若い男女のカップルが突然姿を消すという事件が立て続けに起こっているのであります。これは極めて重大な事件でありますが、福井、新潟、鹿児島そして富山、こうなりますが、1件は未遂であります。警察庁、簡単で結構ですが、この3件の事件の概要について述べてください

80年の産経報道から8年アベック3組の拉致疑惑が初めて国会の場で取り上げられた瞬間だった。


◆梶山答弁

【 同、p120 】

――捜査を預かっていらっしゃる国家公安委員長として、こういう家族の今の苦しみや思いをお聞きになりながらどんなふうにお考えでしょうか

梶山清六国家公安委員長(自治相)は、それまでの質疑をくくるように答えた。

《昭和53年以来の一連のアベック行方不明事犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが充分濃厚でございます。解明が大変困難ではございますけれども、事態の重大性に鑑み、今後とも真相究明のために全力を尽くしていかなければならないと考えておりますし、本人はもちろんでございますが、ご家族の皆さん方に深いご同情を申し上げる次第であります》

これを通称「梶山答弁」という。

拉致について一度も公式に言及していなかった政府、警察が初めて北朝鮮による日本人拉致疑惑の存在を認めた。それまで拉致については、言ってみればゼロ回答だったのだから、一歩踏み込んだというレベルの話ではなかった。

続いて警察庁の城内康光警備局長が答弁した。

《一連の事件につきましては北朝鮮による拉致の疑いが持たれるところでありまして、すでにそういった観点から捜査を行っておるわけであります。被疑者が国外に逃亡している場合には時効は停止しているということが法律の規定でございます》


◆メディアが死んだ日

【 同、p122 】

88年3月26日の「梶山答弁」に戻る。

雑談やオフレコの場ではない。無責任な噂話ではない。国会の予算委員会で政府が北朝鮮の国名をはっきりと挙げて、人権・主権侵害の国家犯罪が「充分濃厚」とし、警察庁が「そういう観点から捜査を行っている」と答える。

これは尋常なことではない。だれでもトップニュースと思うだろう。

しかし、この答弁がテレビニュースに流れることは、ついになかった。

新聞は産経がわずか29行、日経が12行、それぞれ夕刊の中面などに見落としそうになる小さいベタ(1段)記事を載せただけだった。

( 中略 ⇒ p124 )

一体何があったのか。

各社の記者が、なぜ原稿にしなかったのか、あるいは原稿は書いたが、本社サイドでボツにしたのか。

いや、突然、あの質疑を聞いても、拉致についての相当な予備知識、関心がなければ一体何のことなのか訳が分からず、原稿にしようがなかったのではないか。答弁の重大さにきづかなかったのではないか。

そんな冷めた見方もあるが、「メディアが死んだ日」の真相は今もって分からない。

報道しなかったという事実が報じられるはずもなく、「梶山答弁」は事実上、幻、つまり存在しなかったことになってしまった。

拉致についての政府の次の公式アクションは、97年、横田めぐみさん拉致疑惑発覚後に、国会で公表された拉致被害者認定まで待たなければならない。

この間、9年。取り返しのつかない空白が生じた。

( 中略 ⇒ p269 )

最大の後悔は、やはり「梶山答弁」のあった1988年3月26日を「メディアが死んだ日」にしてしまったことだ。大転機を、みすみす逃してしまった。

後年、産経以外の新聞、テレビの若い記者たちとも知己を得た。梶山答弁をメディアがそろって無視した話をすると「ありえないな」「ひどい話だ」と異口同音だ。「ひどい話」に加担した私には弁明の言葉がない。

報じないという選択が時に正しいことを否定しない。抑制的な報道の大切さも否定しない。しかし拉致で繰り返しの不報は、そうした言葉で正当化できるものとは到底思えない。

メディアの不報が問題視された例は、あまり知らない。第2章で紹介した共同通信社「報道と読者」委員会での元最高検検事、土本武司氏の発言ではないが、あの時、一斉に報道し、継続して執拗に取材を進めていたならば、拉致に逆風が吹いた空白の9年(88年から97年の第2氷河期)はなかったのではないか。

産経は「梶山答弁」を掲載した、といってもベタ(1段)記事だ。ベタであっても、載っているか否かは大違いだ。棘(とげ)に刺されるような痛みがずっと続いている。その棘を抜きたい。本書を書き始めた理由の一つだったが、このまま抜かずにおこうと、今、思い直している。

40年といっても拉致取材に費やした時間はわずかだ。忘れかけた時期もあった。一日たりとも安息の日を持てなかった。今も持てずにいる横田滋さん、早紀江さん夫妻、有本明弘さん、嘉代子さん夫妻ら被害者家族の心中を思えば、私の痛みなど、いかほどのものでもない。
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