今は折り鶴の作り方をご存知無い人も居られるかも知れませんが、私が折り紙に親しむ年齢になって、一番の憧れが折り鶴を折る事が出来るようになることだった気がします。
金や銀の紙の入った千代紙セット(折り紙セット)は、おままごとセットなどとともに女の子の憧れでした。慣れない手つきで丁寧に折った作品は、大抵は折り方の本によってか、年上の子から教えて貰ったものでした。
紙の端端をしっかり合わせて丁寧に折って行き、翼を長く折って細い嘴と尾をピンと立て、お腹から息を吹き込んでテーブルに置くと、清楚な鶴が舞い降りたように出来上がります。
今回アメリカのオバマ大統領が広島へおいでになった時、4羽の実に美しくご自分で折り上げた鶴を持って来られました。
折り鶴は平和の象徴であり、千羽ヅルは病気の平癒を祈るものであり、スポーツの大会では、優勝を祈るものでもあります。
広島の平和記念公園には、2歳で被曝して10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんが折り鶴を両手で頭上高く掲げている像があります。この像は、「原爆の子の像」と呼ばれ、今でも一年間に世界各国から、1千万羽(重さにして10トン)の折り鶴が届くそうです。
オバマ大統領もとてもに美しい模様の紙で丁寧に折られた折り鶴を持参されました。2羽は出迎えた小中学生に手渡しされ、残りの2羽は「共に平和を広め、核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」という手書きのメッセージに添えて、今は原爆資料館に置かれて公開されているそうです。
この映像を見ていた私は、そのお心遣いに深く感動致しました。広島の被曝者の皆さんも、きっとこのメッセージと4羽の鶴を、同じような心で受けとめられた事と思います。
私は以前二回広島の原爆資料館を見に訪れました。二度目の方がより資料が整い、赤く焼けた空の下を、ぼろぼろになった衣服なのか皮膚なのか解らないようなものを身に付けて、裸足で歩く被災者の痛ましい再現像に涙が溢れました。
こうまでしなければ戦争は終わらなかったのか・・・、と腹立たしい気がしました。感じ方はそれぞれに異なったことと思いますが、最後の一兵迄戦うと言われ、私の母達も竹槍を持って集団訓練をしていました。幼かった私にもそれは異常に映り、悲壮感が漂って見えました。
今も言われるように、もし原爆が落ちなかったら、戦争は終わらなかったのでしょうか。新聞やラジオは、勝った勝ったと言いましたが、戦争の最前線はジリジリと本土に近づいていて、実は負けているのだと大人達が囁いていたことを想い出します。私の叔母も我が家へ来て、○○から形成が逆転して、日本軍は反撃に出るのだそうだとか、いやいや、やがて日本本土に米英軍が来て、一人残らず死ぬ迄戦わなければならないのだと聞かされました。実際に家の前の畑に、家中の人間が辛うじて入れる小さな防空壕を掘ったりもしました。
広島に続いて長崎にも原子爆弾が落ちて、8月15日の玉音放送をもって、戦争は終わりました。東京も焼け野原になりましたが、私の叔父家族も田舎へ疎開していましたのに、空襲によって家を失いました。戦後私の父も援助して、東京の杉並区に家を建てて住むようになりました。
あれから70年が経ちましたが、あの焼け野原と原爆の恐ろしさから立ち上がって、日本が今日のような平安な美しい国になると誰が想像した事でしょう。
二度と再び戦争だけはしてはいけないと思った筈でしたのに、私達の身の周りでは、軍備の強化が実際に成されていて、日本も原爆を持つべきだと言う声さえも聞こえて来るようになりました。
オバマ大統領のメッセージのように、「核兵器の無い世界を追求する勇気」を持たなくてはいけないと、深く感じています。
何十年ぶりに、私も折り鶴を折って見ました。震えそうな手で折ったツルは、余り上手くできませんでした。4羽の折り鶴の上手さに到底及びも付きませんでしたが、もし原爆が落とされるようになったら、それが地球上の人類の滅亡に繋がってしまうと言う思いは、同じです。決して後戻りしてはいけないと、「未来志向」と言われるアメリカの大統領の言葉に、同じ思いを重ねて、私達も一羽の鶴をそれぞれ折って、平和を誓いたいものだと思いました。
世界のリーダーが自ら鶴を折って被災地に届けるという行為の、何と温かく、優しく、愛情に満ち行為でしょうか。これを見た時、原爆にまつわる全ての確執は洗い流されて、お互い手を携えて世界平和に努力するべきだと思いました。大統領のこの行為は、幾万語にも優る無言のメッセージを伝えて下さったのだと思っています。
金や銀の紙の入った千代紙セット(折り紙セット)は、おままごとセットなどとともに女の子の憧れでした。慣れない手つきで丁寧に折った作品は、大抵は折り方の本によってか、年上の子から教えて貰ったものでした。
紙の端端をしっかり合わせて丁寧に折って行き、翼を長く折って細い嘴と尾をピンと立て、お腹から息を吹き込んでテーブルに置くと、清楚な鶴が舞い降りたように出来上がります。
今回アメリカのオバマ大統領が広島へおいでになった時、4羽の実に美しくご自分で折り上げた鶴を持って来られました。
折り鶴は平和の象徴であり、千羽ヅルは病気の平癒を祈るものであり、スポーツの大会では、優勝を祈るものでもあります。
広島の平和記念公園には、2歳で被曝して10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんが折り鶴を両手で頭上高く掲げている像があります。この像は、「原爆の子の像」と呼ばれ、今でも一年間に世界各国から、1千万羽(重さにして10トン)の折り鶴が届くそうです。
オバマ大統領もとてもに美しい模様の紙で丁寧に折られた折り鶴を持参されました。2羽は出迎えた小中学生に手渡しされ、残りの2羽は「共に平和を広め、核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」という手書きのメッセージに添えて、今は原爆資料館に置かれて公開されているそうです。
この映像を見ていた私は、そのお心遣いに深く感動致しました。広島の被曝者の皆さんも、きっとこのメッセージと4羽の鶴を、同じような心で受けとめられた事と思います。
私は以前二回広島の原爆資料館を見に訪れました。二度目の方がより資料が整い、赤く焼けた空の下を、ぼろぼろになった衣服なのか皮膚なのか解らないようなものを身に付けて、裸足で歩く被災者の痛ましい再現像に涙が溢れました。
こうまでしなければ戦争は終わらなかったのか・・・、と腹立たしい気がしました。感じ方はそれぞれに異なったことと思いますが、最後の一兵迄戦うと言われ、私の母達も竹槍を持って集団訓練をしていました。幼かった私にもそれは異常に映り、悲壮感が漂って見えました。
今も言われるように、もし原爆が落ちなかったら、戦争は終わらなかったのでしょうか。新聞やラジオは、勝った勝ったと言いましたが、戦争の最前線はジリジリと本土に近づいていて、実は負けているのだと大人達が囁いていたことを想い出します。私の叔母も我が家へ来て、○○から形成が逆転して、日本軍は反撃に出るのだそうだとか、いやいや、やがて日本本土に米英軍が来て、一人残らず死ぬ迄戦わなければならないのだと聞かされました。実際に家の前の畑に、家中の人間が辛うじて入れる小さな防空壕を掘ったりもしました。
広島に続いて長崎にも原子爆弾が落ちて、8月15日の玉音放送をもって、戦争は終わりました。東京も焼け野原になりましたが、私の叔父家族も田舎へ疎開していましたのに、空襲によって家を失いました。戦後私の父も援助して、東京の杉並区に家を建てて住むようになりました。
あれから70年が経ちましたが、あの焼け野原と原爆の恐ろしさから立ち上がって、日本が今日のような平安な美しい国になると誰が想像した事でしょう。
二度と再び戦争だけはしてはいけないと思った筈でしたのに、私達の身の周りでは、軍備の強化が実際に成されていて、日本も原爆を持つべきだと言う声さえも聞こえて来るようになりました。
オバマ大統領のメッセージのように、「核兵器の無い世界を追求する勇気」を持たなくてはいけないと、深く感じています。
何十年ぶりに、私も折り鶴を折って見ました。震えそうな手で折ったツルは、余り上手くできませんでした。4羽の折り鶴の上手さに到底及びも付きませんでしたが、もし原爆が落とされるようになったら、それが地球上の人類の滅亡に繋がってしまうと言う思いは、同じです。決して後戻りしてはいけないと、「未来志向」と言われるアメリカの大統領の言葉に、同じ思いを重ねて、私達も一羽の鶴をそれぞれ折って、平和を誓いたいものだと思いました。
世界のリーダーが自ら鶴を折って被災地に届けるという行為の、何と温かく、優しく、愛情に満ち行為でしょうか。これを見た時、原爆にまつわる全ての確執は洗い流されて、お互い手を携えて世界平和に努力するべきだと思いました。大統領のこの行為は、幾万語にも優る無言のメッセージを伝えて下さったのだと思っています。