ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

「棄てないと片付かない」と思うけど

2010年01月14日 | 随筆・短歌
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 年を重ねることとは、不要品を溜めることかと思う程、いつの間にか不要品が溜まっていきます。何年か前に思い切って棄てた筈だったのに、またまた年と共に不要品が溜まり、埃をかぶっています。もう少し暖かくなったら、又思い切って棄てよう、と心に決めています。
 私が退職した時、義父母が亡くなった後、市のゴミの捨て方が変わった時、と幾たびか思い切って棄てて来ました。それは不要品の整理というだけでなくて、死の準備の一環として片付けたのですが、矢張り私の日頃の管理に問題があるようで、いつの間にかまた不要品が溜まってしまいました。
 夫はそんなに熱心に片付けけなくとも、最後は業者がみんな持って行って棄てて呉れるのだから心配しなくても良い、と言います。けれども私は、少しでも片付けて置かないと、後々迷惑をかけるような気がして、気が済まないのです。
 夫は身の回りの片付けが上手で、何時も不要な物を置かず、きちんと整頓しています。
その片付け方は見事なまでです。私が新聞を読もうと、テーブルに出して来て、自分の座席に着き、さて、と新聞に手を出すと、新聞はもう其処にはありません。夫が既にラックに片付けてしまっているのです。私は何時も、次の行動に移る迄に少し時間が掛かる、いわゆる尻の重い人間です。ですからそのちょっとした隙に、綺麗好きの夫にサッと片付けられてしまうのです。 
 衣類は一枚買ったら、一枚棄てよ、とか、洋服ダンスに3年手を通さなかった物があればそれは不要だ、とか言われて、私も毎年努力はしているのですが、それでも「勿体ない」という思いが生まれて、棄てかねることがあります。
 沢山の雑誌類も、図書館で読むものとして、例外の1~2冊を除き、購入しなくなりました。
 夫は目に見えるところは何時も「たった今掃除したばかり」という状態に保つ綺麗好きですが、見えない押し入れや物置などは、余り気にならない人間です。反対に私は、見えるところは少し雑然と、新聞など出ていてもさして気になりませんが、見えないところも気になる性分なので、二人合わせて一人前で、何とかここまで大過なく過ごして来たと言えるでしょう。物置の二階に使わなくなった電気ジュータンが残っている、とか、一度も使わない電磁調理器がある等と時々私がぼやくので、「最後は業者」と言われてしまいます。
 市の方針で、粗大ゴミはそう簡単に棄てられなくなったので、思い立ったから直ぐに、とはいかないのです。それが尚更災いとなって、埃をかぶったものが残っていく事になってしまいます。 
 しばらく使わない物は物置に持って行くのが常で、記念品とか、引き出物とか頂いた品々もその一つです。娘が結婚した時、姪が結婚した時に気に入った物はみな持って行って貰いましたが、まだまだ残っています。子供達が小さかった頃の作品集の入った箱とか、娘がドイツから持ち帰った物とかは、捨てようとして一旦は手にしてみても、矢張り時折は眺めたり読み返したくなるので捨てられません。 
 一冊の本を読んで、今後不要と判断すると、直ちに捨てるという思い切りの良い夫と息子の書棚は何時も整然としていますが、また何時か読むかも知れない、などと思い切りの悪い私の書棚には、いつの間にか何年も開かない本が溜まっていきます。読書量が少ないと家族に笑われている私ですが、本にしてももう少し捨て上手にならないといけないとしみじみと感じています。
 今や不要となった品々であっても、一度は使用して重宝した品であったり、我が家にとって出番は無かったものの、贈って下さった人が、これが最適と思って選んで下さった気持を思うと、どうしても捨てがたい愛着を感じて、ついつい辛くなってしまう為、何時までたってもスッキリとは片付かない我が家の物置なのです。

  ガラクタとなりしもそれなり役立ちぬ今日捨てし物みないとおしき 
                         (実名で某誌に掲載)

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