ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

お店の顔

2017年02月10日 | 随筆
 毎日の生活に欠かせないお店が、スーパーとかコンビニでしょう。私はコンビニは殆ど利用しませんが、スーパーへはウォーキングのコースの途中で、殆ど何処かのお店に寄っています。
 スーパー以外では、ホームセンター、ドラッグストア、花鉢の並ぶ園芸店などに立ち寄ります。
 これらのお店で感じることは、お店の顔は「レジ係」だということです。同じお店であっても、レジ係の感じの良い人の所は矢張り混みます。私達も少し並んでも、誠実で丁寧な仕事をして下さる係のところに並びます。客達は概ね同じ印象を持っているのでしょう。
 短期間でレジの係がやめて入れ替わって行くお店は、どうも何か問題がありそうです。働き易いお店は、時間給の人が多くても、人間の入れ替えは余り無いと言って良いようです。
 多くの人は、きっと僅かな時間に接する人の感じの良し悪しも、お店選びの大切な要素にしていると言えましょう。
 わが家の後ろ8軒ほどのところに,交差する広い道路があり、その左は元高校、右の先は商店街につながっています。その商店街は年々年老いて、あるじが変わるとお店がなくなったりして、何処も同じですが、シャッター街に変わりつつあります。この商店街には二つの銀行と郵便局がありますが、珍しく古くからの銭湯が生き残っていて、コーヒー店が二軒、美容院が二軒それにお茶屋さん、電気屋さん衣料品店、歯科医院などがあります。しかしこの10年程の間に、八百屋さん、パン屋さん、肉屋さん、酒屋さん、加えて食堂さえ、閉店しました。内科医院も医師の都合で無くなりました。
 文房具店、畳やさん、宝石店、贈答品を置く店、数えてみると、幾つものお店がどこかへ去ってしまっています。家具屋さんも電気屋さんもあって、小さいながら便利ではありましたが、郊外の量販店にお得意さんを奪われたようです。代わりにいくつかのビルで学習塾が流行っています。栄枯盛衰とは言いますが、「枯れ行く」方向へ向かっての一方的な推移は、街の活気を失ってしまいます。
 車社会になりましたから、勢い品揃えの多い量販店へ立ち寄って帰る人も多いのでしょうが、これからの高齢化社会には、歩きの高齢者はどこで買い物をすることになるのでしょうか。特に不便を感じない地理的に幸せな私達にくらべて、道路一つ越えた所はすでに買い物困難区域です。
 空港に続く広い道路が出来て、それに交差する昔からの商店街にあって、私達と同じ世代の古い時計屋さんは、実に誠実そのもので、左右のお店が無くなっても、また入れ変わっても、健在です。こぎれいなお店と、主の真面目さと、奥さんが上品なカップに珈琲を入れての接待に、(多分、何か買う予定が無く、話しをしに来る老人にも)笑顔で他のお客様の邪魔にならないように気遣いつつ対応しておられます。そのために、何時もどなたかお店に来ておられ、今もって現役で元気ある商店です。年老いての閉店は仕方ないとして、働き盛りであっても閉店せざるを得なかった人々の苦渋の選択を思うと、商業も人生も戦いだと思い知らされます。
 ところで今や家に居て商品が買え、配達して貰えるネットショップは若者を中心に私達くらいの年齢層まで、信用さえあれば、商いが出来ますし、双方に便利な時代になって来ました。それどころか既にスマホで決済のキャッシュレスの時代になろうとしています。でもそれは良いことなのでしょうか。対人関係のある、一言二言笑顔を交わす温かい売り方も捨ててしまって、合理性ばかり追求の販売システムは寂しくないでしょうか。
 人間の居ないスーパーに行って、自分で精算の作業をして、「有り難う御座いました」の機械音に送られて店を出る、想像しただけでこんなお店は避けたいです。
 こういうスーパーの問題点は、客はお金を払う機械と見なし、人間だと思って居ないと言う点です。
 今日裁判のあった「殺して見たかった」という国立大学生の殺人者にそれほど罪悪感が感じられず、親も子も人間と人間の密度の高いつき合いを十分経験して来ていないのでは、と考えさせられています。
 やがて全ての家事も介護もロボットがしてくれるようになり、人間は余暇をどう過ごすか腐心する時代になるのでしょうか。適度の仕事があり、社会奉仕がありして、気持ちの良い環境でお互い助け合い、感謝して暮らせる社会、こういう社会生活を望むのは、もう古いのでしょうか。それにしても気持ちの良い人間相手に暮らしたいと思う人は多いかと思います。
 レジ係りの店員さん達はスーパーの顔だと思っている,古いタイプの人間が今なお存在しているということを、合理化の前に経営者の方達に知って欲しいと思っています。


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