ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

みんな違ってみんないい

2014年06月28日 | 随筆・短歌
 「好きこそものの上手なれ」という諺があります。人間の得意不得意を分類して、理系・文系などよく言われますが、理系の人が文系の仕事に就いたり、文系の人が理系の仕事に就いたりしたら、恐らくご本人は可成り苦しい思いをすることになるでしょう。ですが、人間は様々な能力を持っている為に、自分自身を良く把握していない場合が結構あるようです。
 自分が文系であると思っていたら、実は隠れた理系の素質を持っていた、またはこの反対ということがまま有ると聞きます。最初の職業をどうしても好きになれず、職業を変えたり、或いは自由人になって、自分が本当にやりたいものが何なのか、解ったということもあります。
 職業に貴賎は無いと言いながら、社会が無責任に作った価値観に振り回されて、自己を殺したまま、一生をがまんして終える人がとても多い気がします。
 先日ある新聞に評論家が、次のような記事を書いておられました。
 「有名大学を出て就職したが、どうしてもその仕事が自分に向いていないと思い、本職の植木職人に弟子入りして、やがて独立した植木やさんになった人が居る。物静かな人で、綺麗な仕事をする職人さんである。」とこの評論家の人は、高く評価しておられました。
 同じように、物作りに魅せられて転職する人は結構居られます。「親のお膳立てで一流大学、一流企業と、順調に進んで来たと思われた人が、突然この仕事は私に向かないと、ガラス細工を始めたという。親は、自分達は何の為に苦労して来たのだろうと嘆き、子は生き生きとして働いているという。」
 こんな話しは、珍しくないし、特に近年になって、増えた気がします。ここで私は、どうにも理解出来ないのは、親が何の為に苦労してきたのか、と嘆いたと言う処です。縁あって、このような価値観をもつ人の子供として産まれた人達は、気の毒な人達です。
 何が幸せかと言って、何十年かの働いている期間を、生き生きと喜んで過ごせるほど良いことは無いのではないでしょうか。
 高学歴であるとか、一流企業であるとか、それは単なる見栄という虚構であって、そこから何の人間的な価値も産まれて来ないと言うことは、少なくとも優秀なご本人には解って居るはずです。
 高校卒の18歳くらいの年齢で、本当に自分に適している進路(文系とか理系とか)を選び決めるのは、可成り困難が伴う気がします。しかし、大抵は何となく好き嫌いや、その時代の人気などで、決めたりしても、人間の適応範囲が広く、ひたすら努力している内に、その道のベテランになっているということは良くあることです。また一生自分の優れた才能を知らずに過ごす人も、多いのではないでしょうか。
 自分に合わないという悲劇は、教育熱心な親や学校の指導で、理系文系と振り分けられたりして、レールに乗ってしまうところから、多くは生まれるように思います。
 私の夫は、大学の卒業を迎えて、教授会の振り分けで、半ば強制的?に推薦されて、ある会社に入社しました。しかし、会社で与えられた仕事が、とても自分の性格に合わない仕事であることに気付き、たった5ヶ月で退社したといいます。その頃は、夫が身につけた職業は、引く手が多く、やがて自分で納得した所に就職出来、生涯の仕事としました。
 その後縁があって私達は結婚したのですが、私でさえも、最初の職業はとても夫の性格に合わないと思いました。
 夫は理系の大学でしたから、理系の仕事につきましたが、退職してからの趣味は文系でした。もしあのまま退社せずに、ぐずぐずしていたら、どんな人生になったのでしょう。悲惨なように思えます。
 人間は、何も出来なくとも、産まれて来るということは奇跡と思われ、それだけでありがたいことだとある高僧が説いておられるのを聞きました。
 人間は、生きているだけで役に立っているというのが、私の信条です。生まれてからずっとベッドに伏せて居なくてはならない病を持って生まれたとしても、生きているだけで、親は子育てにいそしみ、子供の笑顔に救われます。それで充分生まれて来た価値があるし、育てる喜びに恵まれたのだと思います。一生を赤ちゃんの状態で過ごす訳ですが、和顔施と言われるものがあります。ニコニコとするだけで、回りの人の心を和ませることを言います。不思議なことに赤ちゃんと死に行くお年寄りと、どちらも和顔施が美しいと思います。
 昨日のニュースに、中国の赤ちゃんポストに、障害児がとても多く見られると聞いて、私は思いもよらないことに、悲しい思いをしました。産まれて来る赤ちゃんに罪がある訳ではないのです。どうしてそんなむごいことが出来るのでしょう。独りで育てられないなら、国が援助すべきですし、その道を選べることを教えるべきです。
 今日はまた、日本で過去3年の間に483人の子供が、親に遺棄されたとありました。食べ物を与えられずに餓死する子供の悲惨さを思うと、涙が出て来ます。また、突然トイレに置いてきぼりにされたり、その理由が彼氏に会いたかったという親のエゴだったと聞くと、情けなさを超えて怒りが湧いて来ます。
 我が子をせっせとなめて育てる動物に比べて、なんと情けないことでしょう。最低限の人間性さえも身についけいないとしか、言いようがありません。共働きで、義父母にすっかり育児を手伝ってもらった私としては、こんな事を言うのは、恥ずかしいのですが、せめて、親がまともな人間として子育てが出来るような「親育て」の必要性をも感じます。、出産・育児の折々に、どのように愛情を注いで育てるべきか、教える必要があります。それが身に付いていない人が、子供を遺棄したり、殺したりするのではないか、と思うのです。
 政治は、未来指向であらねばならないと思います。あらゆる政策の中で、一番大切なことは、子供の教育だと思います。それも幼い時代を、親が愛情を込めて育てられるように、国家をあげて支援して欲しいと願っています。
 いわゆる鍵っ子として育てられた親達が、今の親だとしたら、親御さん達は子供の気持ちがわかる筈だと思います。
 国は今、女性の社会進出を計画していますが、その為には、どうしても子育て支援が欠かせません。愛情不足に育てられた子供に、将来犯罪者が多く出たり、自分もまた愛情不足の親になると言われています。豊かな愛情に包まれて、戸外で太陽に当たって友達と駆け回り、花や動物と一緒に育つ、そんな豊かな子育てであって欲しいと願うのは、贅沢でしょうか。
 平沢 興と言う京都大学第16代総長だった医学者が「社会の中で何が尊いとか、何が素晴らしいとかいっても、おそらく幼児の教育に携わることほど尊い仕事は無かろうと思います」と書いています。(「人生を豊かにする言葉」新潟日報事業社)
 この中には、むろん親も入ります。愛情豊かな子育てがやがて心豊かな国の礎を作り、国を発展させると信じて居ます。そして個性が生かされた道に進めるように、みんなで考えて行きたいものだと思います。
 どの様な人でも、それぞれが、生き生きと仕事に励み、自分の存在が世の中の役に立っていることを知ることができ、満足と安心感をもって暮らせるような国であって欲しいと思っています。
 金子みすずの詩に「私と小鳥と鈴と」というのがあります。素晴らしい詩です。

 私が両手を広げても
 お空はちっとも飛べないが
 飛べる小鳥は私のやうに
 地面(じべた)を早く走れない

 私がからだをゆすっても
 きれいな音は出ないけど
 あの鳴る鈴は私のやうに
 たくさんな唄は知らないよ
 
 鈴と小鳥とそれから私
 みんなちがってみんないい 


「みんなちがってみんないい」そうですよね。それで初めて世の中は丸くなって行くのですよね。

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