ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

忘れかけた大切なもの

2014年05月30日 | 随筆・短歌
 毎日様々なニュースに接していますと、本当なのかしら?と思うことがあるようになりました。信じられない私の心が、きっといけないのかと思いますが、経済優先が過ぎて、人間性が犠牲になってはいないか、情報に操作の手が加わっていないかなど、要らぬ心配をしている自分に気付きます。
 5月22日の新聞各紙が、可成りの紙面で「大飯原発再稼働認めず」と大見出しをつけて報道しています。福井地裁の樋口英明裁判長が、21日に「地震対策に欠陥がある」として、現在定期点検中の2基の再稼働を認めない判決を言い渡したのです。  
 私が心を引かれたのは、骨子の5項目の中の最後に「福島原発事故は、最大の環境汚染である。二酸化炭素の排出削減は原発運転継続の根拠にならない」という所でした。
 関電側の基準値振動(耐震設計の目安となる地震の揺れ)の1.8倍までは、苛酷事故に至らないとする主張は、「それを超える地震が来ない根拠はない」と退けています。事故が起きた場合は、実態把握が困難で、炉心溶融(メルトダウン)までの時間が短いともしています。
 基準値振動を下回る振れでも外部電源や主給水が断たれ、冷却機能が確保出来ないと判断したのです。
 さらに「使用済み核燃料プールから、外部に放射性物質が放出される堅固な設備は存在しない」と言い、「福島事故は我が国最大
の環境汚染」と認定し、原発は二酸化炭素(CO2)排出削減に資するとする関電の主張を「甚だ筋違い」と否定。「原発は人格権よりも劣位に置かれるべきだ」とまで踏み込んでいます。
 私も人格権の方が最優先であるべきだと心得ていますから、この判決には同感です。しかし、菅官房長官は、21日の記者会見で、「再稼働を進める政府方針に変化は無い」との認識を示しましました。
 やがて南海・東南海トラフを震源とした大地震が起きると言われているこの時期でも、そして現在も原子炉地下水を汚染させずに海に流す方策が、100%確立している訳ではなく、毎日溜まり続けている現状をどう見ているのでしょうか。「経済優先」の国の方針は、使用済み核燃料の処理方法すら見つからないまま、日本ばかりでなく、外国にまで売り歩いています。世界の人類に多大な影響を与えるとしたら、その責任は誰が取るのでしょうか。
 何時も穏やかな鎌倉の円覚寺のブログ「居士林だより」にも、5月22日には、「私心なき生こそ大自然から頂いたこのいのちを本当に全うする生き方なのです」と諭されています。
 「原発は人格権より劣位に置かれるべきだ」という裁判長の意見が、素直に身に浸みます。経済優先は、私心そのものです。
 何が真実かということは、禅で言うと本来誰にも解らないことのようですが、今を生きて居る私達は、少なくとも将来の人々に、何万年も消えない汚染された環境を残してはならないのです。
 どうしたら放射線が無害になるのか、今もって誰にもわかりません。このままいけば、やがて私達は自然界から、無害の食べ物も頂けなくなるかも知れないと心配しています。
 私達日本人は昔からこの様な利益第一主義の民族だったのでしょうか。
 先頃たまたま九州一周のツアーに入れてもらって、行ってきました。その際にフランシスコ・ザビエルが初めて日本に上陸した地、鹿児島市の坊津という所を通りました。
 ザビエルは、自身の見た日本人の印象を、イエズス会の仲間に手紙でこう綴っています。

 私は今日まで自ら見聞きし得たことと、他の者の仲介によって識ることの出来た日本のことを、貴兄等に報告したい。
 先ず第一に、私達が今までの接触によって識ることのできた限りにおいては、この国民は、私が遭遇した国民の中では一番傑出している。私にはクリスチャンでないどの国民も、日本人ほど優れている者はないと考えられる。
 日本人は、相対的に良い素質を有し、悪意が無く、交わってとても感じがよい。彼らの名誉心は特別に強烈で、彼らにとって名誉が全てである。
 日本人は大抵貧乏である。しかし武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だとは思っている者は一人もいない。
 彼らには、キリスト教国民の持っていないと思われるひとつの特徴がある。それは武士がいかに貧困であろうとも、平民がいかに裕福であろうとも、その貧乏な武士が、裕福な平民から富豪と同じように尊敬されていることである。(中略)
 日本人は妻を一人しか持っていない。窃盗は極めて稀である。死刑をもって処刑されるからである。彼らは盗みの悪を非常に憎んでいる。大変心の善い国民で、交わり且つ学ぶことを好む。
 神のことを聞く時、とくにそれが解るたびに大いに喜ぶ。私は今日まで旅した国において、それがキリスト教徒たると異教徒たるとを問わず、盗みに就いて、こんなに信用すべき国民を見たことがない。
 獣類の形をした偶像などは祭られていない。大部分の日本人は、昔の人を尊敬している。私の知り得た所に依れば、それは哲学者のような人であったらしい。国民の中には、太陽を拝む者が甚だ多い。月を拝む者もいる。しかし、彼らは、みな、理性的な話を喜んで聞く。また、彼らの間に行われている邪悪は、自然の理性に反するが故に、罪だと断ずれば、彼らはこの判断に両手を挙げて賛成する。(「よく生きよく笑いよき死とであう」アルフォンス・デーケン著 新潮社より)

 このザビエルの言う日本は、鹿児島市に上陸した1549年(室町時代)ですから、ずいぶん以前ですが、私達は日本人というDNAを受け継いでいますから、現在でもそれをかいま見る場面が多々あります。卑近な例では3.11の大災害の時に、東北の人々が整然と行動したこと、また他人の金庫が放置されていても盗まれなかったという報道が海外で流されて、有名になったことがありました。
 脈脈と引き継がれた優れた価値観や倫理観、そしてその底流にDNAがある訳ですから、ザビエルの話に改めて誇りを覚えました。 今この大切な時に、名誉と誇りを重んずる日本人のDNAに期待する人々は、多数居るのではないでしょうか。様々なニュースに紛れて、忘れかけていた大切なことを思い出す旅になりました。

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