ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

花束を捧げる時

2013年03月02日 | 随筆・短歌
 先の大戦の記憶を持っている人が少なくなりました。私も終戦を迎えたのは小学校の時でしたから、当時の真実を知るためには、現在生存されている方の証言や、書籍の記録から推察するしかありません。
 そんな中に、次のような美しい話が目にとまりました。戦争が始まって初期の頃、日本軍は破竹の勢いで東南アジアへ攻め込んで行っていた頃の話です。マレー沖海戦という激しい戦いがありました。
 「レパルス」と「プリンス・オブ・ウェールス」のイギリスの戦艦二隻を発見し、飛行機から爆弾や魚雷を落とす日本軍と、艦上から日本機を狙い撃ちするイギリス軍と、約三時間余りの激しい戦いがありました。結局装備が整っていた戦艦も、日本海軍航空隊の激しい攻撃に、遂に沈没しました。沈み行く艦と艦長や提督も最後を共にしたのです。
 日本機は、二隻の戦艦の沈没を見届けると、翼をふって英海軍将兵の敢闘をたたえながら、雲間に姿を消しました。そして翌日、戦果を確認の為に飛来した鹿屋(かのや)航空隊の壱岐春記大尉は、二束の野の花を戦場に投下しました。一束は日本武士道の戦士のため、もう一束は、最後まで勇敢に戦った英国騎士道の戦士達のために捧げられたそうです。(「太平洋戦争」中央公論社)
 たとえ野の花であっても、鎮魂の花束は美しく、心優しいものです。しかも、敵である兵士の為にも捧げられたという話に、私は胸を打たれました。その心の美しさ・優しさ・暖かさを思う時、心の奥深くに何時までも残るような感動を覚えたのです。
 鎮魂の花束といえば、皇后陛下の水仙の花束を思い出します。1995年1月17日に起きた「阪神淡路大震災」の時に、天皇・皇后両陛下がお揃いで、壊滅した菅原市場へお見舞いに行かれて、亡くなられた多くの方達に手を合わせられ、その後皇后陛下が、皇居のお庭で摘んで持参された水仙の花束を、そっと手向けられた事を思い出します。
 その日の朝、お手ずから摘み取られ、箱に入れてお付きの方に預けてあったものを、瓦礫の上に置かれたのでした。
 その後沖縄へ行かれた時も、東北の大災害のお見舞いの時も、何時も花束を捧げられる時は、丁寧に心を込めて深く礼をされるお姿から、心からの鎮魂の意志が伝わって来ます。これが時代を越えて伝えられて来た日本人の哀悼の心を伝える作法だと、何時もそう感じ、見習わなければと思っています。
 その後、東北の地宮城県をお見舞いされた時、津波で何も無くなった家の跡地に咲いた水仙を、「この水仙のように頑張りますから」とご婦人が皇后様に手渡され、両陛下のお見舞いへの感謝のメッセージとされたのですが、皇后様は東京の空港へ降り立たれた時も、しっかりとその水仙の花束をお手に握られていたのです。
 このように花束は優しい心を手渡すという、大変貴重な役割を担い、人から人へと渡され続けています。結婚式の花嫁のブーケ、新しく娘や息子となった子からの新しい親に手渡される花束、金婚・還暦・米寿などを祝う慶賀の花束もあります。そして亡くなった人への哀悼の花束、中には突然の痛ましい事故に際して、見知らぬ人からの花束もあり、その映像を見て手を合わせる多くの人々の優しい心が国の隅々まで伝わっていきます。
 人間はこんなに優しいのに、何故お金が欲しいだけで関係の無い人を殺傷したりするのでしょうか。そうなっていく原因は何処にあるのでしようか。教育・道徳・宗教など多くの原因が絡み合って、今日の世相が生まれて来ているのでしょうが、日本人の本来の心とは、どの様なものであったかを考えさせられる花束でした。

他人(ひと)の痛み察して赦す人であれ子に諭されて我が老いを知る(実名で某誌に掲載・再掲)


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