新しい年を迎えて1日1日と何とか無事な日が過ぎていっています。何でもない事のようですが、これはこの上もなく有り難いことです。誰もが解って居るのですが、あのミレーの「晩鐘」のように、今日一日の終わりに感謝の祈りを捧げている人は少ないのではないかと思います。私は習慣として朝のお参りの時に、「今日一日を頂いた感謝」を述べるのですが、これは形式化しています。
しかし、何時も平和で幸せという訳にはいかず、誰しも悲しいことにも沢山出会います。とても耐えきれないと思う程の辛さや悲しみに出会っても、何とか生きてさえいれば、やがて乗り越えられます。
「時間」がその悲しみとの融和に力を貸してくれるからです。特別に時間を自覚しなくとも、過ぎて行く時間は新しい環境(例えば花が咲く等)新しい人間関係(思いがけない人とのに出会い)毎日の生活がもたらす新たな刺激などによって、とらわれていた意識が、何時の間にか周囲に向けられて、次第に悲しみとの融和が図られて行くようです。
私は最近、人生の終末における悲しみとどう向き合うか、常々恐れていました。愛する家族との別離、自分の体が思う様に動かなくなる悲しみ、呆ける事への恐れ・・・。湧きあがっては、何とかやり過ごし、又沸き上がる事の繰り返しでした。希望を持って新年の一歩を踏み出したい等と悟ったようなことを言っていても、心は常に迷いの中です。
ずっと以前私が40代の頃に、尊敬する同僚の女性の一人が「夫婦は早く呆けた方が勝ち・早く死んだ方が勝ち」と仰いました。私は未だ未熟な人間で、自分が老いた先の事について深く考えていない頃でした。
先ずは目の前の夫の両親の介護に備えることが、最優先の頃でしたから、突然明確に仰ったその言葉が忘れられなくなりました。私の実父は、母を傍に侍らせて片時も離さなかった、典型的な亭主関白でした。一方母は、女学校で良妻賢母の指導を受けていましたので、「お父さんよりも1日でもよい。長く生きてあげないと、お父さんが気の毒だし、子供たちにも気の毒だ」とよく言っていました。
現に父が脳梗塞で入院した時、私が遠くから駆けつけましたが、父は私に「無理しなくても良いのだよ」と言いつつ喜んでくれましたが、介添えを必要とする時は、母の手を借りる方が遠慮無く、好んでいる事が私にも良く解りました。若い頃から何処へ行くのも何時も夫婦一緒で、夫唱婦随の仲の良い夫婦でした。
現在の私は、子ども達が幼く、元気に遊んでいたり、子連れで旅行したりしていた頃がとても懐かしく思い出されます。
父が亡くなって、母が一人で居る時に訪ねた折に、母は「何と言っても、子供達がみんな成人して出て行って、夫婦二人で過ごした静かな時間が一番幸せだった」と言いました。私には少し意外な言葉でした。大勢の子ども達を育てた両親でしたから、育児も大変なことだったのでしょう。父は末っ子の妹を早くお嫁にやって、楽になりたいとしきりに言ったと聞きました。これは先立つ人の心として良く解ります。
でも夫婦二人っきりの方が楽しいということは、今だ私には、理解が出来ません。私には、家族で暮らす方が余程楽しいと思えるからです。ずっと大家族で暮らして来たせいかも知れませんし、私が寂しがりやだからかも知れません。
つい先日、夫の知人であり、私の短歌を新聞で見かける度に電話を下さっていた人のところへ、二人してお見舞いに出掛けました。とても知的で優しい方でしたが、ご高齢の為に脳出血で入院され、回復されたものの、今まで出来ていた日常の事が出来なくなって、ある施設に入所されたのでした。
暖かな談話室に、大勢の方達と椅子に掛けておられましたが、「私すっかり頭が悪くなって・・・」と仰り、困ったような顔をしておられました。私も自分の行く末を目の当たりにした思いでした。
そこで先の「早く呆ける方が勝ち、早く死ぬ方が勝ち」と言う言葉を思い出したのです。自分が解らなくなるという悲しみは、自己の確立が成されている時のことであり、解らなくなってしまえば、意外とそれ相応に幸せなのかもしれないと思って、少し和らいだ気持ちになりました。
時間が悲しみを融和させてくれるように、呆けることも死ぬことも、自然の計らいであって、やはりゆったりした時間が悲しみとの融和を図ってくれているような気がしました。
今春の友人の賀状にも、砂時計の残りを気にしながら頑張っています、とありました。考えてみると、私達は生まれた時から、自分の砂時計から砂がこぼれ落ちているのですね。
次の一首目は、娘が亡くなって間もなくの私の短歌で、その次は、10年ほど前の短歌です。
砂時計青色の砂こぼし終ゆ反せば悲しき刻また戻る(実名で某誌に掲載)
砂時計砂の落ち行く確かさに一人居となる時を怖るる(実名で某誌に掲載)
誰しもきっと、この世で出会った幾つかの苦しかった事、悲しかった事が、穏やかな時間の中で、ゆったりとした心に溶け込んで行くことでしょう。
しかし、何時も平和で幸せという訳にはいかず、誰しも悲しいことにも沢山出会います。とても耐えきれないと思う程の辛さや悲しみに出会っても、何とか生きてさえいれば、やがて乗り越えられます。
「時間」がその悲しみとの融和に力を貸してくれるからです。特別に時間を自覚しなくとも、過ぎて行く時間は新しい環境(例えば花が咲く等)新しい人間関係(思いがけない人とのに出会い)毎日の生活がもたらす新たな刺激などによって、とらわれていた意識が、何時の間にか周囲に向けられて、次第に悲しみとの融和が図られて行くようです。
私は最近、人生の終末における悲しみとどう向き合うか、常々恐れていました。愛する家族との別離、自分の体が思う様に動かなくなる悲しみ、呆ける事への恐れ・・・。湧きあがっては、何とかやり過ごし、又沸き上がる事の繰り返しでした。希望を持って新年の一歩を踏み出したい等と悟ったようなことを言っていても、心は常に迷いの中です。
ずっと以前私が40代の頃に、尊敬する同僚の女性の一人が「夫婦は早く呆けた方が勝ち・早く死んだ方が勝ち」と仰いました。私は未だ未熟な人間で、自分が老いた先の事について深く考えていない頃でした。
先ずは目の前の夫の両親の介護に備えることが、最優先の頃でしたから、突然明確に仰ったその言葉が忘れられなくなりました。私の実父は、母を傍に侍らせて片時も離さなかった、典型的な亭主関白でした。一方母は、女学校で良妻賢母の指導を受けていましたので、「お父さんよりも1日でもよい。長く生きてあげないと、お父さんが気の毒だし、子供たちにも気の毒だ」とよく言っていました。
現に父が脳梗塞で入院した時、私が遠くから駆けつけましたが、父は私に「無理しなくても良いのだよ」と言いつつ喜んでくれましたが、介添えを必要とする時は、母の手を借りる方が遠慮無く、好んでいる事が私にも良く解りました。若い頃から何処へ行くのも何時も夫婦一緒で、夫唱婦随の仲の良い夫婦でした。
現在の私は、子ども達が幼く、元気に遊んでいたり、子連れで旅行したりしていた頃がとても懐かしく思い出されます。
父が亡くなって、母が一人で居る時に訪ねた折に、母は「何と言っても、子供達がみんな成人して出て行って、夫婦二人で過ごした静かな時間が一番幸せだった」と言いました。私には少し意外な言葉でした。大勢の子ども達を育てた両親でしたから、育児も大変なことだったのでしょう。父は末っ子の妹を早くお嫁にやって、楽になりたいとしきりに言ったと聞きました。これは先立つ人の心として良く解ります。
でも夫婦二人っきりの方が楽しいということは、今だ私には、理解が出来ません。私には、家族で暮らす方が余程楽しいと思えるからです。ずっと大家族で暮らして来たせいかも知れませんし、私が寂しがりやだからかも知れません。
つい先日、夫の知人であり、私の短歌を新聞で見かける度に電話を下さっていた人のところへ、二人してお見舞いに出掛けました。とても知的で優しい方でしたが、ご高齢の為に脳出血で入院され、回復されたものの、今まで出来ていた日常の事が出来なくなって、ある施設に入所されたのでした。
暖かな談話室に、大勢の方達と椅子に掛けておられましたが、「私すっかり頭が悪くなって・・・」と仰り、困ったような顔をしておられました。私も自分の行く末を目の当たりにした思いでした。
そこで先の「早く呆ける方が勝ち、早く死ぬ方が勝ち」と言う言葉を思い出したのです。自分が解らなくなるという悲しみは、自己の確立が成されている時のことであり、解らなくなってしまえば、意外とそれ相応に幸せなのかもしれないと思って、少し和らいだ気持ちになりました。
時間が悲しみを融和させてくれるように、呆けることも死ぬことも、自然の計らいであって、やはりゆったりした時間が悲しみとの融和を図ってくれているような気がしました。
今春の友人の賀状にも、砂時計の残りを気にしながら頑張っています、とありました。考えてみると、私達は生まれた時から、自分の砂時計から砂がこぼれ落ちているのですね。
次の一首目は、娘が亡くなって間もなくの私の短歌で、その次は、10年ほど前の短歌です。
砂時計青色の砂こぼし終ゆ反せば悲しき刻また戻る(実名で某誌に掲載)
砂時計砂の落ち行く確かさに一人居となる時を怖るる(実名で某誌に掲載)
誰しもきっと、この世で出会った幾つかの苦しかった事、悲しかった事が、穏やかな時間の中で、ゆったりとした心に溶け込んで行くことでしょう。