転勤族だった父がS市に転勤してから生まれたのが、私と二歳下の弟です。四歳下の妹は次の転勤先で生まれましたので、私のS市の記憶は、三歳の頃のものです。
その頃の記憶として忘れられないのが、近所で火事があった事です。夜のことですが、私と一歳年上の姉と三歳年上の兄の三人は、防空ずきんのようなものをかぶせられて、大人の足で5分ほどの神社の境内へ避難させられました。少しの手回りの荷物を持たされて、ここを動いてはいけないよ、と言って母は家に戻りました。
火事の赤い空はとても不安を誘い、泣きそうになるのを我慢しました。大勢が避難していました。やがて火事は無事に収まり父母が迎えに来た時は、生き返ったようでした。家に帰る道筋に消防車のホースが幾筋も延びていた事を覚えています。直ぐ近くまで燃えたのですが、幸い我が家は無事でした。
もう一つの記憶は、地震があったことです。高い所の好きな私は、良く近くの防火水槽の縁の上を歩いて遊んだりしたのですが、その時も防火水槽の縁を歩いていたのです。(勿論この遊びは父母に禁止されていました)何となくふらふらして下にとび降りました。ところが防火水槽の水がチャプチャプと揺れるのを見た姉が、「地震だ」と叫びました。急いで家に走って帰りましたら、弟を抱いていた母も「大きな地震だったね」と言いました。
我が家の前の道は、左右に通る道と、前方に海に向かって真っ直ぐに延びている道があって、少し前方の左手に防火水槽が有り、更に右手少し先に お地蔵様の庵がありました。海までは直ぐでしたし、砂浜が広がっていましたので、その辺りは私達の格好な遊び場でした。
裏庭からは、高い山が遠くに見えて、家々の向こうにはずっと遠くまで田畑が続き、とても良いところでした。裏庭に小さい物置が付いていて、兄の木馬が置いてありましたが、私はその木馬の目が怖くて、一人で物置へ行くことが出来なかったのです。前後に揺れる木馬でしたが、私は乗った記憶がありません。
兄はやんちゃで、ある日隣の家のねこが来た時、ねこに紙の袋をかぶせてしまいました。ねこは、外そうとして、後へ後へと下がりながら、左右の手でひっかいて、走り回りとうとう外して逃げて行きました。その格好がおかしくて、転げて笑いました。ねこが少し気の毒に思い、悪い兄だと思いましたが、忘れられない想い出です。
その後60年以上経って、私と夫は二人で旅のついでに、その家のあった場所を訪れることにしました。私の記憶が正しければ、神社が目安であり、家の前が真っ直ぐに海に通じ、左手に防火水槽、右手に地蔵堂が有るはずでした。
その頃には父母も既に亡くなっていましたので、番地も解らず、家の近くと思しき通りの銀行で尋ねましたら、とても親切に地図をコピーして教えて下さいました。
探し当てた場所には美容院が建っていました。未だ朝早かったので、恐る恐るドアを明けて、当時のことについて何かご存じか尋ねました。
するとその方が「もしかしたらお父様は高校の先生でしたか」と尋ねられたのです。父は其処では旧制女学校の教師でしたので、「そうです」と言いましたら、「此処は昔高校の先生の官舎だったのを払い下げて貰ったのです」と仰り、懐かしそうに話して下さいました。
私はとても感激して丁寧にお礼を述べて、自分が三歳だった頃の記憶を確かめるべく、家の前を真っ直ぐに海に向かいました。すると左手に今も防火水槽があって、危険防止に金網がかぶせられていました。その先の右手には小さなお堂があり、お地蔵様が数体祭られていました。まさに私の記憶が間違っていなかったことを知って、すっかり嬉しくなりました。
防火水槽の縁を両手を広げて歩く、きかん坊の女の子、猫を追いかける腕白小僧、そしてお地蔵様に小さな手を合わせる二人の女の子、それらの幻影がこの風景の中に溶け込んで浮き上がって来るように思えました。水槽も地蔵堂も記憶よりずっとこじんまりしていましたが。海辺で蟹の穴を見つけて、わらしべで手の甲ほどの蟹(そんな大きな蟹は釣れる筈もない)を釣って遊んだ記憶もあって、子供の頃の大きい、は如何に小さいものか良く解ったのです。
人は三歳以下の記憶は無いと言いますから、私もきっと三歳になってからの記憶でしょうが、記憶の原点として、現在でも懐かしい想い出です。
生(あ)れし町記憶頼りに訪ひ来たり住処(すみか)見つけり古稀過ぎし秋 (あずさ)
その頃の記憶として忘れられないのが、近所で火事があった事です。夜のことですが、私と一歳年上の姉と三歳年上の兄の三人は、防空ずきんのようなものをかぶせられて、大人の足で5分ほどの神社の境内へ避難させられました。少しの手回りの荷物を持たされて、ここを動いてはいけないよ、と言って母は家に戻りました。
火事の赤い空はとても不安を誘い、泣きそうになるのを我慢しました。大勢が避難していました。やがて火事は無事に収まり父母が迎えに来た時は、生き返ったようでした。家に帰る道筋に消防車のホースが幾筋も延びていた事を覚えています。直ぐ近くまで燃えたのですが、幸い我が家は無事でした。
もう一つの記憶は、地震があったことです。高い所の好きな私は、良く近くの防火水槽の縁の上を歩いて遊んだりしたのですが、その時も防火水槽の縁を歩いていたのです。(勿論この遊びは父母に禁止されていました)何となくふらふらして下にとび降りました。ところが防火水槽の水がチャプチャプと揺れるのを見た姉が、「地震だ」と叫びました。急いで家に走って帰りましたら、弟を抱いていた母も「大きな地震だったね」と言いました。
我が家の前の道は、左右に通る道と、前方に海に向かって真っ直ぐに延びている道があって、少し前方の左手に防火水槽が有り、更に右手少し先に お地蔵様の庵がありました。海までは直ぐでしたし、砂浜が広がっていましたので、その辺りは私達の格好な遊び場でした。
裏庭からは、高い山が遠くに見えて、家々の向こうにはずっと遠くまで田畑が続き、とても良いところでした。裏庭に小さい物置が付いていて、兄の木馬が置いてありましたが、私はその木馬の目が怖くて、一人で物置へ行くことが出来なかったのです。前後に揺れる木馬でしたが、私は乗った記憶がありません。
兄はやんちゃで、ある日隣の家のねこが来た時、ねこに紙の袋をかぶせてしまいました。ねこは、外そうとして、後へ後へと下がりながら、左右の手でひっかいて、走り回りとうとう外して逃げて行きました。その格好がおかしくて、転げて笑いました。ねこが少し気の毒に思い、悪い兄だと思いましたが、忘れられない想い出です。
その後60年以上経って、私と夫は二人で旅のついでに、その家のあった場所を訪れることにしました。私の記憶が正しければ、神社が目安であり、家の前が真っ直ぐに海に通じ、左手に防火水槽、右手に地蔵堂が有るはずでした。
その頃には父母も既に亡くなっていましたので、番地も解らず、家の近くと思しき通りの銀行で尋ねましたら、とても親切に地図をコピーして教えて下さいました。
探し当てた場所には美容院が建っていました。未だ朝早かったので、恐る恐るドアを明けて、当時のことについて何かご存じか尋ねました。
するとその方が「もしかしたらお父様は高校の先生でしたか」と尋ねられたのです。父は其処では旧制女学校の教師でしたので、「そうです」と言いましたら、「此処は昔高校の先生の官舎だったのを払い下げて貰ったのです」と仰り、懐かしそうに話して下さいました。
私はとても感激して丁寧にお礼を述べて、自分が三歳だった頃の記憶を確かめるべく、家の前を真っ直ぐに海に向かいました。すると左手に今も防火水槽があって、危険防止に金網がかぶせられていました。その先の右手には小さなお堂があり、お地蔵様が数体祭られていました。まさに私の記憶が間違っていなかったことを知って、すっかり嬉しくなりました。
防火水槽の縁を両手を広げて歩く、きかん坊の女の子、猫を追いかける腕白小僧、そしてお地蔵様に小さな手を合わせる二人の女の子、それらの幻影がこの風景の中に溶け込んで浮き上がって来るように思えました。水槽も地蔵堂も記憶よりずっとこじんまりしていましたが。海辺で蟹の穴を見つけて、わらしべで手の甲ほどの蟹(そんな大きな蟹は釣れる筈もない)を釣って遊んだ記憶もあって、子供の頃の大きい、は如何に小さいものか良く解ったのです。
人は三歳以下の記憶は無いと言いますから、私もきっと三歳になってからの記憶でしょうが、記憶の原点として、現在でも懐かしい想い出です。
生(あ)れし町記憶頼りに訪ひ来たり住処(すみか)見つけり古稀過ぎし秋 (あずさ)