
『怪物はささやく』を渋谷シネパレスで見ました。
(1)予告編を見て面白そうだなと思い映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、教会の鐘の音がした後、教会が壊れて、その前の墓地が地中に落下していくと思ったら、主人公のコナー少年(注2:ルイス・マクドゥーガル)がベッドで「ママ」と言って飛び起きます。
そして、モノローグで「物語の始まりは、多くの物語と同じ」「子供と大人の狭間にいる少年が悪夢を見る」。
コナーは窓の外を見ています。

次いで、タイトルロールが流れます。
朝になって、コナーは着替えをし、キッチンでパン焼き機にパンを入れ、洗濯物を洗濯機に入れます。そして、冷蔵庫から「吐き止め」を出し、焼きあがったパンを食べ、靴下を履きます。
ベッドにママ(フェリシティ・ジョーンズ)が寝ているのを確認してから、登校するために家の外へ。
学校のクラスでは、先生が「 e は自然対数の底であって、…」と教えています。
その時、コナーのもとへ「放課後また会おう」と書かれたペーパーが回ってきます。
雰囲気を感じて、先生が「コナー、疲れているように見えるが、大丈夫か?寝てないんじゃないか」と尋ねますが、コナーは「大丈夫です」と答えます。
放課後になって、学校の裏庭でコナーは、同級生のハリー(ジェームス・メルヴィル)によって、「何がそんなに楽しそうなんだ」などと言われて殴られます。ハリーの仲間が2人ほどいますが、見ているだけ。
コナーは家に戻り、ママが「お祖父ちゃんの映写機」と言うプロジェクターを点けて、2人で『キング・コング』を見ます。
夜になってコナーは、自室の机に向かってノートに絵を描いています。
時刻が12時6分になると、鉛筆が独りでに転がって床に落ちたり、外では風が吹き出したりします。
コナーが窓を開けて外を見ると、大きなイチイの木が怪物(リーアム・ニーソン)に変身してこちらに向かって歩き始めます。
怪物と向かい合うコナーに対して、怪物は、「さらいに来たぞ。なぜママのもとに逃げないんだ?」と訊きます。コナーは、それに対して「ママに手を出すな!」と叫びます。

すると、怪物は、「3つの物語を聞かせる。それを話し終わったら、お前が4つ目を話す。物語が真実であり、隠しているのは悪夢だ」などとコナーに言います。
そして、コナーは机の前にいる自分に戻っています。
これが本作の初めの方ですが、さあ、これから本作はどのように展開するのでしょうか、………?
本作は、ダークファンタジーの世界的ベストセラーを実写化した作品。難病の母親と暮らしている主人公の少年のもとに、ある夜、怪物が現れて3つの物語を話すからお前も4つ目の物語を話せと言うところから、この映画は始まります。映画で描き出される物語の中で語られる物語というように、作品全体が入れ子構造になっていますが、その意味するところは深く、少年を主人公とする映画とはいえ、大人の鑑賞にも十分に耐えるものだなと思いました。
(2)本作は、末期がんの症状を示すママの現実を主人公の少年が次第に受け入れていくという、一種の成長譚だと思われます。
その際に中心的な役割をはたすのが、怪物が話す3つの物語です。
第1の物語は王国の権力をめぐる物語、第2の物語は薬の調合師と牧師を巡る物語、そして第3の物語は透明人間の物語。
怪物が3つの物語を話すと、怪物は、今度はコナーに4つ目の物語を話すように求めます。
怪物の話を聞いたり、自分の話をしたりすることによって、コナーはママの現実をしっかりと受け止めることが出来るようになり、以後、地に足を着けて堅実に生きていくことでしょう。
なかなか良く出来た全体の構成だと思われます。
ただ、問題点がないわけではない感じがします。
例えば、
イ)怪物は絶えず「真実を言え」とコナーに言いますが、怪物が話す物語が真実だと、コナーくらいの歳の少年にどうして分かるのでしょう?コナーには、単なるおとぎ話のようにしか思えないのではないでしょうか(注3)?
ロ)怪物は、コナーに真実の物語を求めますが、未成年だとしても、コナーには抱えている問題がいくつもあるはずで(注4)、そのうちのどれを話せばいいのか、本当のところはコナーにはわからないのではないでしょうか?それに、怪物が話すような物語を話せと言われたら困惑してしまうのではないでしょうか(注5)?そもそも、ここでいわれている「物語」とは、一体何なんでしょう?
次いで、原作とかなり違っている点を挙げるとしたら、例えば次の2つでしょう。
イ)原作のラストは、本作のラストのエピソードは書かれていません(注6)。
本作のようなエピソードをラストに付け加えることによって、怪物が話す3つの物語、あるいは怪物自体の出所が明示されることになり、見ている方も「ああ、そういうことか」と簡単に納得してしまうでしょう。
それは、コナーと母親との強いつながりを示してもいるわけで、十分意味があるのでしょう。
でも、そのように明示してしまうことによって、見る方の選択肢が狭められてしまうようにも思われます。あるいは、そのエピソードのようなことを考える観客もいるでしょうが、もしかしたら、3つの物語等はすべてコナー少年の無意識が創り出したもの(注7)、さらには、ユングの「元型」のように集団的な無意識が生み出したもの、などなど様々に考える観客も出てくるのではないでしょうか?
クマネズミには、このエピソードはなくもがなという感じがしました(注8)。
ロ)原作では、リリーという少女がしばしば登場しますが、本作ではほんの少しだけ登場するに過ぎません(注9)。こうした少女をコナー少年の近くに配することで、映画はより幅が広くなり、またファンタジー性も増すように思われますが、なぜ役割を小さくしてしまったのでしょう(注10)?
とはいえ、本作は、怪物が語る物語をアニメ化したり、怪獣をSFXによってかなりリアルに描き出したりしてもいて、コナー少年に扮するルイス・マクドゥーガルの秀逸な演技と合わさり、なかなか面白い作品に仕上がっているなと思いました(注11)。
(3)渡まち子氏は、「幻想的なアニメーションの素晴らしいビジュアル、怪物の声を担当するリーアム・ニーソンの深くしみいるような声、コナーを演じるルイス・マクドゥーガル少年の繊細な演技が心に残る」として85点を付けています。
真魚八重子氏は、「監督のJ・A・バヨナは子どもの不幸を容赦なく描く。本作もファンタジーの域を超えて、現実的な避けがたい絶望がたちこめ、哀切極まりない。そんな寒々しさの合間を、孤独な者の心に寄り添うように妖しく美しいアニメが彩る」と述べています。
毎日新聞の鈴木隆氏は、「物語はファンタジーというより厳しく現実的。それを和らげることなく少年の目線で描き切った。それでも、母親に抱かれているような感覚が全編を包んでいるから不思議だ」と述べています。
(注1)監督はJ.A.バヨナ。
脚本は、原作を書いたパトリック・ネス。
原作はパトリック・ネス著『怪物はささやく』(創元推理文庫)。
(元々、英国の女性作家のシヴォーン・ダウトがガンにために47歳で亡くなった際に、原案がドラフトで遺されていて、それを米国の作家のパトリック・ネスが完成させました)
原題は「A Monster Calls」.
出演者の内、最近では、シガニー・ウィーバーは『宇宙人ポール』、フェリシティ・ジョーンズは『博士と彼女のセオリー』、トビー・ケベルは『悪の法則』(トニー役)、リーアム・ニーソンは『沈黙-サイレンス-』で、それぞれ見ました。
(注2)コナー少年は、12歳ほどとされているようです。
(注3)原作では、怪物が、自分が話した物語について説明をするところが書かれています。
例えば、コナーが「どっちもほんとなんて、ありえないよ」と言うと、第1の物語について、怪物は「ありえるさ。人間とは、実に複雑な生き物なのだからね。女王は善良な魔女であり、同時に邪悪な魔女でもあった」、「王子は殺人者であり、同時に救世主でもあった」と答え、さらにコナーが「何が言いたいのかよくわからない」と言うと、怪物は「人間の心は、毎日、矛盾したことを幾度となく考えるものだ」などと答えるのです。最後に、コナーが「じゃ、どうしろって?」と尋ねると、怪物は「真実を話せばいいんだよ」と答えるのです。
常識的には、こうしたコナーの対応の方が普通に思え、経験の少ない少年は、怪物の説明に心から納得できるのでしょうか?
(注4)例えば、コナーは、ママに自分がハリーにいじめられていることを話していません。また、祖母(シガニー・ウィーバー)と気が合わないことはママも感づいているでしょうが、きちんとは話していないようです。それに、米国で別に暮らしているパパ(トビー・ケベル)のことについても話すことがいろいろあるでしょう。

(注5)実際にも、4番目の物語は、いわゆる物語の形式を踏まえてはおらず、コナー少年の真情の吐露にすぎません。
その点からすれば、怪物が話す3番目の物語も、誰からも無視されていた透明人間が他人から見えるようになろうとしたという骨組みが語られるだけで物語とは到底言えないでしょう(実際には、コナーがハリーを倒す場面に連続的につながってしまいます←下記の「注11」もご覧ください)。
(注6)原作のラストは、「コナーは母さんを抱き締めた。二度と放してなるものかと抱き締めた。そうすることで、今度こそ本当に母さんの手を放すことができた」と書かれています(P.250)。
(注7)本文の(1)に記したように、怪物は、コナーがノートに絵を描き出した途端に出現するのですから(本作では、コナーがノートに四角い枠取りをすると、それが窓になって、その窓から教会とか墓地とかが見え、そしてイチイの木が怪物に変身するのです)。
(注8)劇場用パンフレット掲載の「About The Production」の中で、バヨナ監督は、(パトリック・ネスの脚本について)「この物語は死の暗い側面を描いているけれど、最後には“希望”が見える」と述べています。前回取り上げた『ちょっと今から仕事やめてくる』の拙エントリの「注6」で触れた「希望」がここでも登場します!
(注9)と言っても、クマネズミには、リリーが本作の何処に登場していたのか判然としないのですが(配役名までクレジットに掲載されているので、どこかに登場はしていたのでしょうが)。
(注10)おそらく、コナーと母親との関係をより一層強調するためなのでしょう。
加えて、リリーについて、原作では、「コナーとリリーが生まれる前から、母さん同士が友達だった。だからコナーにとってリリーは、別の家で暮らしているきょうだいみたいなものだった」、「コナーとリリーはただの友達で、二人のあいだにロマンチックなことは何もなかった」、「母さんの“話”」は「だれも知らないはずだった」のに「リリーの母さんはまもなく知ることにな」り、「そのあとすぐ、リリーも」、「おかげで、みんなに知れ渡った」、「(だから)リリーを許す気になれない。ぜったいに」などと書かれてもいますし(P.46~P.47)。
(注11)つまらない事柄ですが、コナー少年が、怪物に唆されて家の中にある家具をかなり破壊しますが、これは『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』に登場するデイヴィス(ジェイク・ギレンホール)、さらには恋人の息子のクリス(ジューダ・ルイス)を思い起こさせます(両作とも、古い時計が壊されます)。
また、コナー少年は、3番目の物語の中で、自分をいじめるハリーに体当たりを食らわして倒してしまいますが、これは『ムーンライト』の「2.シャロン」におけるシーン―シャロン(アストン・サンダース)がイジメの張本人であるテレル(パトリック・デシル)を、椅子で思い切り殴り倒しすシーン―を彷彿とさせます〔尤も、シャロンはそのために少年院送りになりますが、コナーの方は、教頭(ジェラルディン・チャップリン)に、「校則に従えば、即刻退学。でも、できません。あなたを罰して何になるというの」と言われます〕。
★★★☆☆☆
(1)予告編を見て面白そうだなと思い映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、教会の鐘の音がした後、教会が壊れて、その前の墓地が地中に落下していくと思ったら、主人公のコナー少年(注2:ルイス・マクドゥーガル)がベッドで「ママ」と言って飛び起きます。
そして、モノローグで「物語の始まりは、多くの物語と同じ」「子供と大人の狭間にいる少年が悪夢を見る」。
コナーは窓の外を見ています。

次いで、タイトルロールが流れます。
朝になって、コナーは着替えをし、キッチンでパン焼き機にパンを入れ、洗濯物を洗濯機に入れます。そして、冷蔵庫から「吐き止め」を出し、焼きあがったパンを食べ、靴下を履きます。
ベッドにママ(フェリシティ・ジョーンズ)が寝ているのを確認してから、登校するために家の外へ。
学校のクラスでは、先生が「 e は自然対数の底であって、…」と教えています。
その時、コナーのもとへ「放課後また会おう」と書かれたペーパーが回ってきます。
雰囲気を感じて、先生が「コナー、疲れているように見えるが、大丈夫か?寝てないんじゃないか」と尋ねますが、コナーは「大丈夫です」と答えます。
放課後になって、学校の裏庭でコナーは、同級生のハリー(ジェームス・メルヴィル)によって、「何がそんなに楽しそうなんだ」などと言われて殴られます。ハリーの仲間が2人ほどいますが、見ているだけ。
コナーは家に戻り、ママが「お祖父ちゃんの映写機」と言うプロジェクターを点けて、2人で『キング・コング』を見ます。
夜になってコナーは、自室の机に向かってノートに絵を描いています。
時刻が12時6分になると、鉛筆が独りでに転がって床に落ちたり、外では風が吹き出したりします。
コナーが窓を開けて外を見ると、大きなイチイの木が怪物(リーアム・ニーソン)に変身してこちらに向かって歩き始めます。
怪物と向かい合うコナーに対して、怪物は、「さらいに来たぞ。なぜママのもとに逃げないんだ?」と訊きます。コナーは、それに対して「ママに手を出すな!」と叫びます。

すると、怪物は、「3つの物語を聞かせる。それを話し終わったら、お前が4つ目を話す。物語が真実であり、隠しているのは悪夢だ」などとコナーに言います。
そして、コナーは机の前にいる自分に戻っています。
これが本作の初めの方ですが、さあ、これから本作はどのように展開するのでしょうか、………?
本作は、ダークファンタジーの世界的ベストセラーを実写化した作品。難病の母親と暮らしている主人公の少年のもとに、ある夜、怪物が現れて3つの物語を話すからお前も4つ目の物語を話せと言うところから、この映画は始まります。映画で描き出される物語の中で語られる物語というように、作品全体が入れ子構造になっていますが、その意味するところは深く、少年を主人公とする映画とはいえ、大人の鑑賞にも十分に耐えるものだなと思いました。
(2)本作は、末期がんの症状を示すママの現実を主人公の少年が次第に受け入れていくという、一種の成長譚だと思われます。
その際に中心的な役割をはたすのが、怪物が話す3つの物語です。
第1の物語は王国の権力をめぐる物語、第2の物語は薬の調合師と牧師を巡る物語、そして第3の物語は透明人間の物語。
怪物が3つの物語を話すと、怪物は、今度はコナーに4つ目の物語を話すように求めます。
怪物の話を聞いたり、自分の話をしたりすることによって、コナーはママの現実をしっかりと受け止めることが出来るようになり、以後、地に足を着けて堅実に生きていくことでしょう。
なかなか良く出来た全体の構成だと思われます。
ただ、問題点がないわけではない感じがします。
例えば、
イ)怪物は絶えず「真実を言え」とコナーに言いますが、怪物が話す物語が真実だと、コナーくらいの歳の少年にどうして分かるのでしょう?コナーには、単なるおとぎ話のようにしか思えないのではないでしょうか(注3)?
ロ)怪物は、コナーに真実の物語を求めますが、未成年だとしても、コナーには抱えている問題がいくつもあるはずで(注4)、そのうちのどれを話せばいいのか、本当のところはコナーにはわからないのではないでしょうか?それに、怪物が話すような物語を話せと言われたら困惑してしまうのではないでしょうか(注5)?そもそも、ここでいわれている「物語」とは、一体何なんでしょう?
次いで、原作とかなり違っている点を挙げるとしたら、例えば次の2つでしょう。
イ)原作のラストは、本作のラストのエピソードは書かれていません(注6)。
本作のようなエピソードをラストに付け加えることによって、怪物が話す3つの物語、あるいは怪物自体の出所が明示されることになり、見ている方も「ああ、そういうことか」と簡単に納得してしまうでしょう。
それは、コナーと母親との強いつながりを示してもいるわけで、十分意味があるのでしょう。
でも、そのように明示してしまうことによって、見る方の選択肢が狭められてしまうようにも思われます。あるいは、そのエピソードのようなことを考える観客もいるでしょうが、もしかしたら、3つの物語等はすべてコナー少年の無意識が創り出したもの(注7)、さらには、ユングの「元型」のように集団的な無意識が生み出したもの、などなど様々に考える観客も出てくるのではないでしょうか?
クマネズミには、このエピソードはなくもがなという感じがしました(注8)。
ロ)原作では、リリーという少女がしばしば登場しますが、本作ではほんの少しだけ登場するに過ぎません(注9)。こうした少女をコナー少年の近くに配することで、映画はより幅が広くなり、またファンタジー性も増すように思われますが、なぜ役割を小さくしてしまったのでしょう(注10)?
とはいえ、本作は、怪物が語る物語をアニメ化したり、怪獣をSFXによってかなりリアルに描き出したりしてもいて、コナー少年に扮するルイス・マクドゥーガルの秀逸な演技と合わさり、なかなか面白い作品に仕上がっているなと思いました(注11)。
(3)渡まち子氏は、「幻想的なアニメーションの素晴らしいビジュアル、怪物の声を担当するリーアム・ニーソンの深くしみいるような声、コナーを演じるルイス・マクドゥーガル少年の繊細な演技が心に残る」として85点を付けています。
真魚八重子氏は、「監督のJ・A・バヨナは子どもの不幸を容赦なく描く。本作もファンタジーの域を超えて、現実的な避けがたい絶望がたちこめ、哀切極まりない。そんな寒々しさの合間を、孤独な者の心に寄り添うように妖しく美しいアニメが彩る」と述べています。
毎日新聞の鈴木隆氏は、「物語はファンタジーというより厳しく現実的。それを和らげることなく少年の目線で描き切った。それでも、母親に抱かれているような感覚が全編を包んでいるから不思議だ」と述べています。
(注1)監督はJ.A.バヨナ。
脚本は、原作を書いたパトリック・ネス。
原作はパトリック・ネス著『怪物はささやく』(創元推理文庫)。
(元々、英国の女性作家のシヴォーン・ダウトがガンにために47歳で亡くなった際に、原案がドラフトで遺されていて、それを米国の作家のパトリック・ネスが完成させました)
原題は「A Monster Calls」.
出演者の内、最近では、シガニー・ウィーバーは『宇宙人ポール』、フェリシティ・ジョーンズは『博士と彼女のセオリー』、トビー・ケベルは『悪の法則』(トニー役)、リーアム・ニーソンは『沈黙-サイレンス-』で、それぞれ見ました。
(注2)コナー少年は、12歳ほどとされているようです。
(注3)原作では、怪物が、自分が話した物語について説明をするところが書かれています。
例えば、コナーが「どっちもほんとなんて、ありえないよ」と言うと、第1の物語について、怪物は「ありえるさ。人間とは、実に複雑な生き物なのだからね。女王は善良な魔女であり、同時に邪悪な魔女でもあった」、「王子は殺人者であり、同時に救世主でもあった」と答え、さらにコナーが「何が言いたいのかよくわからない」と言うと、怪物は「人間の心は、毎日、矛盾したことを幾度となく考えるものだ」などと答えるのです。最後に、コナーが「じゃ、どうしろって?」と尋ねると、怪物は「真実を話せばいいんだよ」と答えるのです。
常識的には、こうしたコナーの対応の方が普通に思え、経験の少ない少年は、怪物の説明に心から納得できるのでしょうか?
(注4)例えば、コナーは、ママに自分がハリーにいじめられていることを話していません。また、祖母(シガニー・ウィーバー)と気が合わないことはママも感づいているでしょうが、きちんとは話していないようです。それに、米国で別に暮らしているパパ(トビー・ケベル)のことについても話すことがいろいろあるでしょう。

(注5)実際にも、4番目の物語は、いわゆる物語の形式を踏まえてはおらず、コナー少年の真情の吐露にすぎません。
その点からすれば、怪物が話す3番目の物語も、誰からも無視されていた透明人間が他人から見えるようになろうとしたという骨組みが語られるだけで物語とは到底言えないでしょう(実際には、コナーがハリーを倒す場面に連続的につながってしまいます←下記の「注11」もご覧ください)。
(注6)原作のラストは、「コナーは母さんを抱き締めた。二度と放してなるものかと抱き締めた。そうすることで、今度こそ本当に母さんの手を放すことができた」と書かれています(P.250)。
(注7)本文の(1)に記したように、怪物は、コナーがノートに絵を描き出した途端に出現するのですから(本作では、コナーがノートに四角い枠取りをすると、それが窓になって、その窓から教会とか墓地とかが見え、そしてイチイの木が怪物に変身するのです)。
(注8)劇場用パンフレット掲載の「About The Production」の中で、バヨナ監督は、(パトリック・ネスの脚本について)「この物語は死の暗い側面を描いているけれど、最後には“希望”が見える」と述べています。前回取り上げた『ちょっと今から仕事やめてくる』の拙エントリの「注6」で触れた「希望」がここでも登場します!
(注9)と言っても、クマネズミには、リリーが本作の何処に登場していたのか判然としないのですが(配役名までクレジットに掲載されているので、どこかに登場はしていたのでしょうが)。
(注10)おそらく、コナーと母親との関係をより一層強調するためなのでしょう。
加えて、リリーについて、原作では、「コナーとリリーが生まれる前から、母さん同士が友達だった。だからコナーにとってリリーは、別の家で暮らしているきょうだいみたいなものだった」、「コナーとリリーはただの友達で、二人のあいだにロマンチックなことは何もなかった」、「母さんの“話”」は「だれも知らないはずだった」のに「リリーの母さんはまもなく知ることにな」り、「そのあとすぐ、リリーも」、「おかげで、みんなに知れ渡った」、「(だから)リリーを許す気になれない。ぜったいに」などと書かれてもいますし(P.46~P.47)。
(注11)つまらない事柄ですが、コナー少年が、怪物に唆されて家の中にある家具をかなり破壊しますが、これは『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』に登場するデイヴィス(ジェイク・ギレンホール)、さらには恋人の息子のクリス(ジューダ・ルイス)を思い起こさせます(両作とも、古い時計が壊されます)。
また、コナー少年は、3番目の物語の中で、自分をいじめるハリーに体当たりを食らわして倒してしまいますが、これは『ムーンライト』の「2.シャロン」におけるシーン―シャロン(アストン・サンダース)がイジメの張本人であるテレル(パトリック・デシル)を、椅子で思い切り殴り倒しすシーン―を彷彿とさせます〔尤も、シャロンはそのために少年院送りになりますが、コナーの方は、教頭(ジェラルディン・チャップリン)に、「校則に従えば、即刻退学。でも、できません。あなたを罰して何になるというの」と言われます〕。
★★★☆☆☆
怪物の正体、そして怪物がどうして出てきたのか?が最後に触れられますが、3つの物語がリアルでしたね。
ダークファンタジーの形を借りた、親子のドラマであり、少年の成長譚でもありました。
そういった面のほうが大変心に留まった作品でした
いつもTBありがとうございます。
おっしゃるように、「大変現実的なファンタジー」だと思いましたが、「3つの物語がリアル」なだけに、コナー少年にわかってもらえたのかどうか、ちょっと疑問に思いました。
原作ではリリーという少女が出てきたのですね?
で、本作にはどこに出てきたのか…?私にもわかりませんでした。もしかしたら、いじめられた時にちらっとコナーをうかがっていた前の席のクラスメートのこと?
そもそも原作のリリーはどんな役割を果たしていたのでしょうね?
原作のリリーのままだと、拙エントリの「注10」で触れましたように、あるいは 本作のごとくカットすることも可能でしょう。ただ、やはり、ファンタジー作品にするためにも、原作よりもコナーに絡んでくる女の子としてリリーを描いたりしたらどうなのかなと思ったところです。
本作の「怪物」について、おっしゃるように、「怪物=少年の心の中の答を自覚している自分」といったように捉える自由度を残してくれるラスト(原作ではそのように書かれています:クマネズミは「3つの物語等はすべてコナー少年の無意識が創り出したもの」などと考えましたが)にしてくれたら良かったのに、と思いました。