『LION/ライオン 25年目のただいま』を渋谷シネパレスで見ました。
(1)アカデミー賞の6部門にノミネートされた作品ということで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭の舞台は、インド中西部の田舎町。
映画は、空から地上を俯瞰する画面が続きます。カメラは、高いところから次第に地表近くまで降りてきて、森が終わると道路が見えてきます。
そして、「これは真実の物語」との字幕。
次いで、幼い子供(5歳のサルー:サニー・パワール)が、たくさんの蝶が舞っているのを見ています。兄のクドゥ(アビシェーク・バラト)が「サルー」と呼び声をあげます。
それから、貨車の上に乗っているクドゥが、「早く乗れ」とサルーに言って、貨車の中に引き上げます。そして、クドゥは、貨車に積まれていた石炭をサルーに渡します。
すると、警備員がやってきて、「お前ら、早く降りろ!」と怒鳴ります。
「インド カンドワ 1986年」との字幕。
貨物列車はトンネルに入り、それを抜けると、少年たちは貨車を飛び降ります。
クドゥが「今日は、たくさんの石炭をとった」と言うと、サルーは「すごいだろ」と応じます。
2人は市場で、石炭と牛乳を交換します。
サルーが「揚げ菓子(注2)も欲しい」と言うと、クドゥは「いつか買ってやる」と答えます。
森を抜けて家に戻って、母親・カムラ(プリヤンカ・ボセ)に牛乳を渡すと、母親が「何処で牛乳を」と驚きますが、2人は笑って答えません。
母親は、サルーに「妹のシェキラを見ていて」と言って、家を出ていきます。
暗くなって寝ていると、クドゥが家を出ようとしているのを見て、サルーが「僕も行く」と言います。
クドゥは、「夜通し働く大人の仕事だから、お前にはムリ」と答えるのですが、サルーは、そばに置いてあった自転車を持ち上げ、「力はある」と言い張ります。クドゥは根負けして、「わかった」と応じます。
2人は、自転車で駅に行き、貨車に乗り込み、少し行った先の駅で降ります。
ですが、サルーは、眠気に襲われて目が開けていられません。駅のベンチで横になって寝てしまいます。クドゥは、仕方なく「仕事を見つけて戻ってくるから、ここで待ってろ」と言い置いて、行ってしまいます(注3)。
ここから、サルーの劇的な人生が始まるのですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?
本作は、5歳の時にインドで迷子になった男の子が、その後、養子となってもらわれていったオーストラリアの家庭で育ちながらも、インドにいる家族への思いは止みがたく、おぼろげな記憶しかなかったにもかかわらず、とうとう母親を探し出すという実話に基づくお話。主人公の青年が実際にインドで旅をして探すというのではなく、グーグルマップで映し出される航空写真を使って捜索するだけなので、映画全体が単調になってしまった感が否めないものの、やっぱり感動してしまいます。
(2)こうした子が親を、あるいは親が子を探し回る物語は色々あるようです。
例えば、小説『クオレ』(1886年)の挿入話の「母をたずねて三千里」でしょうし(注4)、最近では、DVDで見た『消えた声が、その名を呼ぶ』(2015年)は、アルメニア人の父親が自分の娘を探し求めて、トルコからアメリカまで旅を続けるというものでした。
「母をたずねて三千里」は、日本ではアニメ版が知られていますが、原作については、この青空文庫の翻訳版「母を尋ねて三千里」(日本童話研究会訳)で読むことが出来ます。
ごく大づかみに言えば、母親が、2年ほど前に、ジェノバからアルゼンチンのブエノスアイレスに出稼ぎに行ったものの便りが途絶えてしまったので、13歳になる少年マルコが船に乗ってアルゼンチンまで探しに出かけていくというものです。
マルコは、旅の途中で所持金が尽きてしまったり、病気になったりもし、最後の1週間はアンデス山脈の麓の道を徒歩で歩かねばならなかったにもかかわらず(注5)、人々の好意もあってなんとか母親のもとにたどり着きます(注6)。
他方で、本作の主人公のサルーは、マルコとは逆に、自分自身が、生まれ育ったインドからオーストラリアのタスマニアに渡り、25歳になって故郷に残る母親らを探すという話です。
その探す方法は、マルコのように、自分でインドに出かけていくというのではなく、自分の持つ幼少期のおぼろげな記憶を頼りに、Google-Earthで探すという、いかにも現代的なやり方です。
頼りにするのは、駆け回った森の印象、駅のそばにあった給水塔、そして“ガネストレイ(Ganestlay)”と耳で覚えていた地名くらい(注7)。
さらには、メルボルン大学(注8)に入った際の仲間から、列車に乗っていた時間と列車の時速を調べれば、捜索の範囲が絞られるのでは、というアドバイスを受けて、サルーはGoogle-Earthを使い出します(注9)。
ただ、これは、コンピュータのディスプレイを見るだけの作業ですから、単調なことこの上ありません。
マルコのように自分で旅をする方が、親探し物としてはきっと盛り上がることでしょう。
それでも、その間、サルーの身の上に何も起こらなかったわけではありません。
優しく育ててくれた養父母(ニコール・キッドマンとデヴィッド・ウェンハム)を傷つけることになるからと相談せず、自室で秘密裏に捜索作業を続けますが、没頭する余り、満足に就職もせず、恋人・ルーシー(ルーニー・マーラ)をも遠ざけてしまいます。
ただ、そうなると、余計に話が単調になってしまいます。
もう少し言えば、本作が単調に思える他の要因の一つとして、演じる俳優があまりにも可愛いかったり、美男・美女過ぎたりして、欠点が見受けられないことも挙げられるのではないでしょうか?
特に、5歳のサルーを演じるサニー・パワールは、こんな子役を登場させるのはルール違反ではないかと観客に思わせるくらい可愛いのです!
また、大人になってからのサルーを演じるデヴ・バテルも、今や、立派過ぎる顔を持った世界的な俳優となっていますし、その恋人役のルーニー・マーラも、『キャロル』での演技は、主演のケイト・ブランシェットに勝るとも劣らない魅力的なものがありました。
それに、ニコール・キッドマンについては、言わずもがなでしょう。
こういう俳優が一つの作品に揃うことは、一面では豪華といえるでしょうが、他面では、それぞれの特徴がなくなってしまうという欠点もあるのではないでしょうか?
とはいえ、5年ほど経過したあと、それまでの捜索範囲の外側をなにげなく見た時に、ピンとくるものがあって、ついに故郷を探し出せた瞬間のサルーの喜びとか、サルーと再会できた際の実母の嬉しがりようには、それまでの経過についてあれこれ言いたくなるにしても、やっぱり感動してしまいます。
(3)渡まち子氏は、「この驚きの実話には素直に感動を覚えた。それはデヴ・パテルやニコール・キッドマンの説得力のある名演技と、子ども時代のサルーを演じるサニー・パワールの圧倒的な存在感があるから」として70点を付けています。
藤原帰一氏は、「感動的なお話ですし、俳優もニコール・キッドマンにルーニー・マーラと第一級。それでも、インド社会の視点から見たらどんなお話になるだろうか、そこがちょっと気になりました」と述べています。
真魚八重子氏は、「サルーが誠実さによって、人を傷つけてしまうアンバランスさ。彼は実母を捜す行為が、養母を裏切るようで、彼女に合わせる顔がないと感じる。その不器用な感情は、善人ゆえの融通のきかなさで切ない。演出で頻繁に行われる、過去の幻影と、現在をワンショットで捉えるカットも魅力的だ」と述べています。
(注1)監督はガース・デイヴィス。
脚本はルーク・デイヴィス。
原作はサルー・ブライアリー著『25年目のただいま 5歳で迷子になった僕と家族の物語』(静山社)。
原題は「LION」(原著のタイトルは「Lion:A Long Way Home」)。
なお、出演者の内、最近では、デヴ・パテルは『マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章』、ニコール・キッドマンは『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』、ルーニー・マーラは『キャロル』で、それぞれ見ました。
(注2)この動画では、幼いころ市場で見たものを、25歳になったサルーがキッチンで見つけて昔を思い出すことになる様子がよくわかります。
ただ、この記事には、言われている「ジャレビ」ではなく「イマルティ」ではないか、と述べられています。同記事によれば、「ジャレビは小麦粉が主原料」ながら、「イマルティはレンズ豆の粉を使い、サフランで色を、カルダモンで香りをつけ」るとのこと。
(注3)知らない駅のベンチで寝ていたサルーですが、しばらく経って目を覚まし、周りを見回しても、兄のクドゥどころか人っ子一人おりません。近くに停車していた列車の中で兄を探していると、また眠気に襲われ、座席に横になって寝てしまいます。ところが、その列車は、サルーが寝ている間に動き出してしまい、おまけに回送列車のために駅には停まらずにドンドン走り続けるのです。こうしてサルーは、1人で、全く見も知らぬ、そして言葉も通じないコルコタ(カルカッタ)に降り立つことになります。
(注4)『クオレ』の翻訳本については、例えばこちら。
なお、「母をたずねて三千里」の原題は「アペニン山脈からアンデス山脈まで」。
(注5)例えば、青空文庫版から引用すると、「こんどはコルドバへ行くのですがお金を一銭も持っていないのです」、「マルコは悲しくなってただすすりあげて泣いていました。マルコはとうとう病気になりました。三日のあいだ荷車の中で何もたべずに苦しんでいました」、「彼は元気を出して歩きました。ひろいきび畑を通ったり、はてしない野の間をぬけたり、あの高い青い山を見ながら四日、五日、一週間もたちました。彼の足からはたえず血がにじみ出ました」。
(注6)母親は、アルゼンチン北部のツークーマンで病に臥せっていて、マルコがやっとの思いで辿り着くと、それまで拒否していた手術を受けて快方に向かいます(「医者は入口に出て来て「おかあさんは助かった、」といいました」)。
(注7)この記事によれば、サルーの出身地は、“Ganestlay(あるいは Ginestlay)”と発音するのではなく、カンドワ(Khandwa)の北部郊外の「Ganesh Talai.」とされるところのようです(Googleマップの航空写真には、カンドワのすぐ北部に「ガネーシャ タライ」の記載があります)。
(注8)サルーは、メルボルン大学で「ホテル経営」を学びます。
ちなみに、前回の『T2 トレインスポッティング』に登場するベグビーの息子も、大学に行って「ホテル経営」を学ぶと言っています。一時期「ジャーナリズム」が流行ったようですが、今や「ホテル経営」なのでしょうか?
(注9)きっかけは、上記「注2」で触れた「ジャレビ」を、仲間の部屋のキッチンで見たことです。
★★★☆☆☆
象のロケット:LION/ライオン 25年目のただいま
(1)アカデミー賞の6部門にノミネートされた作品ということで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭の舞台は、インド中西部の田舎町。
映画は、空から地上を俯瞰する画面が続きます。カメラは、高いところから次第に地表近くまで降りてきて、森が終わると道路が見えてきます。
そして、「これは真実の物語」との字幕。
次いで、幼い子供(5歳のサルー:サニー・パワール)が、たくさんの蝶が舞っているのを見ています。兄のクドゥ(アビシェーク・バラト)が「サルー」と呼び声をあげます。
それから、貨車の上に乗っているクドゥが、「早く乗れ」とサルーに言って、貨車の中に引き上げます。そして、クドゥは、貨車に積まれていた石炭をサルーに渡します。
すると、警備員がやってきて、「お前ら、早く降りろ!」と怒鳴ります。
「インド カンドワ 1986年」との字幕。
貨物列車はトンネルに入り、それを抜けると、少年たちは貨車を飛び降ります。
クドゥが「今日は、たくさんの石炭をとった」と言うと、サルーは「すごいだろ」と応じます。
2人は市場で、石炭と牛乳を交換します。
サルーが「揚げ菓子(注2)も欲しい」と言うと、クドゥは「いつか買ってやる」と答えます。
森を抜けて家に戻って、母親・カムラ(プリヤンカ・ボセ)に牛乳を渡すと、母親が「何処で牛乳を」と驚きますが、2人は笑って答えません。
母親は、サルーに「妹のシェキラを見ていて」と言って、家を出ていきます。
暗くなって寝ていると、クドゥが家を出ようとしているのを見て、サルーが「僕も行く」と言います。
クドゥは、「夜通し働く大人の仕事だから、お前にはムリ」と答えるのですが、サルーは、そばに置いてあった自転車を持ち上げ、「力はある」と言い張ります。クドゥは根負けして、「わかった」と応じます。
2人は、自転車で駅に行き、貨車に乗り込み、少し行った先の駅で降ります。
ですが、サルーは、眠気に襲われて目が開けていられません。駅のベンチで横になって寝てしまいます。クドゥは、仕方なく「仕事を見つけて戻ってくるから、ここで待ってろ」と言い置いて、行ってしまいます(注3)。
ここから、サルーの劇的な人生が始まるのですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?
本作は、5歳の時にインドで迷子になった男の子が、その後、養子となってもらわれていったオーストラリアの家庭で育ちながらも、インドにいる家族への思いは止みがたく、おぼろげな記憶しかなかったにもかかわらず、とうとう母親を探し出すという実話に基づくお話。主人公の青年が実際にインドで旅をして探すというのではなく、グーグルマップで映し出される航空写真を使って捜索するだけなので、映画全体が単調になってしまった感が否めないものの、やっぱり感動してしまいます。
(2)こうした子が親を、あるいは親が子を探し回る物語は色々あるようです。
例えば、小説『クオレ』(1886年)の挿入話の「母をたずねて三千里」でしょうし(注4)、最近では、DVDで見た『消えた声が、その名を呼ぶ』(2015年)は、アルメニア人の父親が自分の娘を探し求めて、トルコからアメリカまで旅を続けるというものでした。
「母をたずねて三千里」は、日本ではアニメ版が知られていますが、原作については、この青空文庫の翻訳版「母を尋ねて三千里」(日本童話研究会訳)で読むことが出来ます。
ごく大づかみに言えば、母親が、2年ほど前に、ジェノバからアルゼンチンのブエノスアイレスに出稼ぎに行ったものの便りが途絶えてしまったので、13歳になる少年マルコが船に乗ってアルゼンチンまで探しに出かけていくというものです。
マルコは、旅の途中で所持金が尽きてしまったり、病気になったりもし、最後の1週間はアンデス山脈の麓の道を徒歩で歩かねばならなかったにもかかわらず(注5)、人々の好意もあってなんとか母親のもとにたどり着きます(注6)。
他方で、本作の主人公のサルーは、マルコとは逆に、自分自身が、生まれ育ったインドからオーストラリアのタスマニアに渡り、25歳になって故郷に残る母親らを探すという話です。
その探す方法は、マルコのように、自分でインドに出かけていくというのではなく、自分の持つ幼少期のおぼろげな記憶を頼りに、Google-Earthで探すという、いかにも現代的なやり方です。
頼りにするのは、駆け回った森の印象、駅のそばにあった給水塔、そして“ガネストレイ(Ganestlay)”と耳で覚えていた地名くらい(注7)。
さらには、メルボルン大学(注8)に入った際の仲間から、列車に乗っていた時間と列車の時速を調べれば、捜索の範囲が絞られるのでは、というアドバイスを受けて、サルーはGoogle-Earthを使い出します(注9)。
ただ、これは、コンピュータのディスプレイを見るだけの作業ですから、単調なことこの上ありません。
マルコのように自分で旅をする方が、親探し物としてはきっと盛り上がることでしょう。
それでも、その間、サルーの身の上に何も起こらなかったわけではありません。
優しく育ててくれた養父母(ニコール・キッドマンとデヴィッド・ウェンハム)を傷つけることになるからと相談せず、自室で秘密裏に捜索作業を続けますが、没頭する余り、満足に就職もせず、恋人・ルーシー(ルーニー・マーラ)をも遠ざけてしまいます。
ただ、そうなると、余計に話が単調になってしまいます。
もう少し言えば、本作が単調に思える他の要因の一つとして、演じる俳優があまりにも可愛いかったり、美男・美女過ぎたりして、欠点が見受けられないことも挙げられるのではないでしょうか?
特に、5歳のサルーを演じるサニー・パワールは、こんな子役を登場させるのはルール違反ではないかと観客に思わせるくらい可愛いのです!
また、大人になってからのサルーを演じるデヴ・バテルも、今や、立派過ぎる顔を持った世界的な俳優となっていますし、その恋人役のルーニー・マーラも、『キャロル』での演技は、主演のケイト・ブランシェットに勝るとも劣らない魅力的なものがありました。
それに、ニコール・キッドマンについては、言わずもがなでしょう。
こういう俳優が一つの作品に揃うことは、一面では豪華といえるでしょうが、他面では、それぞれの特徴がなくなってしまうという欠点もあるのではないでしょうか?
とはいえ、5年ほど経過したあと、それまでの捜索範囲の外側をなにげなく見た時に、ピンとくるものがあって、ついに故郷を探し出せた瞬間のサルーの喜びとか、サルーと再会できた際の実母の嬉しがりようには、それまでの経過についてあれこれ言いたくなるにしても、やっぱり感動してしまいます。
(3)渡まち子氏は、「この驚きの実話には素直に感動を覚えた。それはデヴ・パテルやニコール・キッドマンの説得力のある名演技と、子ども時代のサルーを演じるサニー・パワールの圧倒的な存在感があるから」として70点を付けています。
藤原帰一氏は、「感動的なお話ですし、俳優もニコール・キッドマンにルーニー・マーラと第一級。それでも、インド社会の視点から見たらどんなお話になるだろうか、そこがちょっと気になりました」と述べています。
真魚八重子氏は、「サルーが誠実さによって、人を傷つけてしまうアンバランスさ。彼は実母を捜す行為が、養母を裏切るようで、彼女に合わせる顔がないと感じる。その不器用な感情は、善人ゆえの融通のきかなさで切ない。演出で頻繁に行われる、過去の幻影と、現在をワンショットで捉えるカットも魅力的だ」と述べています。
(注1)監督はガース・デイヴィス。
脚本はルーク・デイヴィス。
原作はサルー・ブライアリー著『25年目のただいま 5歳で迷子になった僕と家族の物語』(静山社)。
原題は「LION」(原著のタイトルは「Lion:A Long Way Home」)。
なお、出演者の内、最近では、デヴ・パテルは『マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章』、ニコール・キッドマンは『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』、ルーニー・マーラは『キャロル』で、それぞれ見ました。
(注2)この動画では、幼いころ市場で見たものを、25歳になったサルーがキッチンで見つけて昔を思い出すことになる様子がよくわかります。
ただ、この記事には、言われている「ジャレビ」ではなく「イマルティ」ではないか、と述べられています。同記事によれば、「ジャレビは小麦粉が主原料」ながら、「イマルティはレンズ豆の粉を使い、サフランで色を、カルダモンで香りをつけ」るとのこと。
(注3)知らない駅のベンチで寝ていたサルーですが、しばらく経って目を覚まし、周りを見回しても、兄のクドゥどころか人っ子一人おりません。近くに停車していた列車の中で兄を探していると、また眠気に襲われ、座席に横になって寝てしまいます。ところが、その列車は、サルーが寝ている間に動き出してしまい、おまけに回送列車のために駅には停まらずにドンドン走り続けるのです。こうしてサルーは、1人で、全く見も知らぬ、そして言葉も通じないコルコタ(カルカッタ)に降り立つことになります。
(注4)『クオレ』の翻訳本については、例えばこちら。
なお、「母をたずねて三千里」の原題は「アペニン山脈からアンデス山脈まで」。
(注5)例えば、青空文庫版から引用すると、「こんどはコルドバへ行くのですがお金を一銭も持っていないのです」、「マルコは悲しくなってただすすりあげて泣いていました。マルコはとうとう病気になりました。三日のあいだ荷車の中で何もたべずに苦しんでいました」、「彼は元気を出して歩きました。ひろいきび畑を通ったり、はてしない野の間をぬけたり、あの高い青い山を見ながら四日、五日、一週間もたちました。彼の足からはたえず血がにじみ出ました」。
(注6)母親は、アルゼンチン北部のツークーマンで病に臥せっていて、マルコがやっとの思いで辿り着くと、それまで拒否していた手術を受けて快方に向かいます(「医者は入口に出て来て「おかあさんは助かった、」といいました」)。
(注7)この記事によれば、サルーの出身地は、“Ganestlay(あるいは Ginestlay)”と発音するのではなく、カンドワ(Khandwa)の北部郊外の「Ganesh Talai.」とされるところのようです(Googleマップの航空写真には、カンドワのすぐ北部に「ガネーシャ タライ」の記載があります)。
(注8)サルーは、メルボルン大学で「ホテル経営」を学びます。
ちなみに、前回の『T2 トレインスポッティング』に登場するベグビーの息子も、大学に行って「ホテル経営」を学ぶと言っています。一時期「ジャーナリズム」が流行ったようですが、今や「ホテル経営」なのでしょうか?
(注9)きっかけは、上記「注2」で触れた「ジャレビ」を、仲間の部屋のキッチンで見たことです。
★★★☆☆☆
象のロケット:LION/ライオン 25年目のただいま