
「Goemon」を渋谷シネパレスで見てきました。
日本のCG技術がどのくらいのレベルになっているのかとか、かなり奇想天外とされるストーリーはどんな内容なのか、といったことを確かめてみたいという気もあり、出かけてきた次第です。
実際に見てみますと、前田有一氏が言うように、「退屈しらずのアクション時代劇」であることは間違いありません。
ただ、こうした類の映画を余り見ていない私にも、スターウォーズまがいの場面がいくつも出てくることくらいわかり(「ET」にオマージュを捧げているシーンもあります)、CG映画といえども大枠はどれも変わらないのだな、と思えてしまいます(出来上がりの優劣は、制作費としてどれだけの資金が調達できるのか、という点にかかってくるのでしょう)。
それなら、ストーリー展開はどうかと言いますと、石川五右衛門とか霧隠才蔵、猿飛佐助、などといった講談本の世界に登場するキャラクターが活躍する映画ですから、「妄想を大爆裂」させたといった評語が当てはまる訳のものではあり得ません。
粉川哲夫氏は、「思い切りフィクショナルに脱構築した石川五右衛門と霧隠才蔵をからませた歴史解釈」と述べていますが、歴史の外にいる「フィクショナル」な人物をいかに「脱構築」しようと、「歴史解釈」とは無関係ではないでしょうか?
それに、前田氏は、「主人公が戦いながら、唐突に反戦テーマを語りだす紀里谷演出も絶好調。せんそうはんたいの地球市民・ゴエモンは、みんなの幸せのため、こなみじんになるまで戦うというわけだ」とストーリーの矛盾点を突こうとしていますが、その程度の話ならばどこにでも転がっていること(「平和のための戦争」!)、そう目くじらを立てるほどでもありません。
むしろ、些細な点ながら、次のような問題があるのではと思いました。
貧民窟の道端で倒れている男を指して、“これが「自由」のもたらす結果なのだ、ごく少数の強い者しか勝ち抜けない世の中なのだ”などと猿飛佐助が唐突に叫びます。
これは、直接的には当時行われていた楽市楽座を批判しながらも、間接的には小泉改革(市場原理主義!)に対するあからさまな非難でしょう。
そのあとでは、信長→秀吉→家康という天下人の交代に対して、“勝手に支配者が何人も入れ替わりおって”などといった台詞も飛び出します。これも、明らかに、与党内での政権たらい回しに対する揶揄でしょう!
いうまでもなく、「自由」に対する批判はいくら行おうとそれこそ「自由」ですが、その結果として、自分の発想の「自由」さが縛られてしまっては意味がないのでは、と思った次第です〔例えば、粉川氏が言うように、この映画は最近の流れを踏襲し、秀吉を悪役(明智光秀と結託して主君信長を葬った、など)にし、信長を理想化して描いているに過ぎません〕。
とはいえ、最後まで退屈せずに見ることが出来ましたから、『週刊文春』今週号の尻馬に乗って映画の酷さを論う(「5分のPVを延々と2時間見せられているよう」などと言う)気は毛頭ありません。
また、あるブログでは、「特に酷いのは千利休の平幹二朗である。頬の弛んだ薄気味悪い笑い顔は、もう醜悪としか表現のしようがない」云々と述べられていますが、だからこの映画が駄目だということにならないでしょう。この映画の中での位置づけを考えずに、従来の千利休像で判断しても全くのムダというものです。
なお、近日公開される『五右衛門ロック』にも、「Goemon」で主役を演じた江口洋介が、五右衛門ではない役ながら出演しているのも興味深いことだなと思います。
日本のCG技術がどのくらいのレベルになっているのかとか、かなり奇想天外とされるストーリーはどんな内容なのか、といったことを確かめてみたいという気もあり、出かけてきた次第です。
実際に見てみますと、前田有一氏が言うように、「退屈しらずのアクション時代劇」であることは間違いありません。
ただ、こうした類の映画を余り見ていない私にも、スターウォーズまがいの場面がいくつも出てくることくらいわかり(「ET」にオマージュを捧げているシーンもあります)、CG映画といえども大枠はどれも変わらないのだな、と思えてしまいます(出来上がりの優劣は、制作費としてどれだけの資金が調達できるのか、という点にかかってくるのでしょう)。
それなら、ストーリー展開はどうかと言いますと、石川五右衛門とか霧隠才蔵、猿飛佐助、などといった講談本の世界に登場するキャラクターが活躍する映画ですから、「妄想を大爆裂」させたといった評語が当てはまる訳のものではあり得ません。
粉川哲夫氏は、「思い切りフィクショナルに脱構築した石川五右衛門と霧隠才蔵をからませた歴史解釈」と述べていますが、歴史の外にいる「フィクショナル」な人物をいかに「脱構築」しようと、「歴史解釈」とは無関係ではないでしょうか?
それに、前田氏は、「主人公が戦いながら、唐突に反戦テーマを語りだす紀里谷演出も絶好調。せんそうはんたいの地球市民・ゴエモンは、みんなの幸せのため、こなみじんになるまで戦うというわけだ」とストーリーの矛盾点を突こうとしていますが、その程度の話ならばどこにでも転がっていること(「平和のための戦争」!)、そう目くじらを立てるほどでもありません。
むしろ、些細な点ながら、次のような問題があるのではと思いました。
貧民窟の道端で倒れている男を指して、“これが「自由」のもたらす結果なのだ、ごく少数の強い者しか勝ち抜けない世の中なのだ”などと猿飛佐助が唐突に叫びます。
これは、直接的には当時行われていた楽市楽座を批判しながらも、間接的には小泉改革(市場原理主義!)に対するあからさまな非難でしょう。
そのあとでは、信長→秀吉→家康という天下人の交代に対して、“勝手に支配者が何人も入れ替わりおって”などといった台詞も飛び出します。これも、明らかに、与党内での政権たらい回しに対する揶揄でしょう!
いうまでもなく、「自由」に対する批判はいくら行おうとそれこそ「自由」ですが、その結果として、自分の発想の「自由」さが縛られてしまっては意味がないのでは、と思った次第です〔例えば、粉川氏が言うように、この映画は最近の流れを踏襲し、秀吉を悪役(明智光秀と結託して主君信長を葬った、など)にし、信長を理想化して描いているに過ぎません〕。
とはいえ、最後まで退屈せずに見ることが出来ましたから、『週刊文春』今週号の尻馬に乗って映画の酷さを論う(「5分のPVを延々と2時間見せられているよう」などと言う)気は毛頭ありません。
また、あるブログでは、「特に酷いのは千利休の平幹二朗である。頬の弛んだ薄気味悪い笑い顔は、もう醜悪としか表現のしようがない」云々と述べられていますが、だからこの映画が駄目だということにならないでしょう。この映画の中での位置づけを考えずに、従来の千利休像で判断しても全くのムダというものです。
なお、近日公開される『五右衛門ロック』にも、「Goemon」で主役を演じた江口洋介が、五右衛門ではない役ながら出演しているのも興味深いことだなと思います。