映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

古代の富山

2009年10月04日 | 
①はじめに―映画「劔岳 点の記」

 3ヶ月以上前に見た映画のことで恐縮ですが、映画「劔岳 点の記」には、始めの方に「富山驛」のシーンがあるところ、実際の駅全景の撮影は、富山地方鉄道「岩峅寺(いわくらじ)駅」で行われています。 


(画像は現在の岩峅寺駅:「長者丸作業部」による)

 この駅舎は、大正10年(1921)に建てられ、神社風の破風屋根を持つ駅舎としては富山県唯一というところから、ロケ地に選定されています。
 映画の舞台が明治40年頃という設定なので、掲示板に貼られているビラなども当時のものを再現したりしているようです。 

 このシーンばかりでなく、そのころの雰囲気を出すべく、映画では様々な工夫が凝らされています。
 例えば、富山駅のプラットホームに降り立った柴崎(浅野忠信)を長次郎(香川照之)が出迎えるシーンは、明治村の「SL東京駅」(保存建築物ではありませんが)で撮影されましたし、柴崎夫婦の新婚家庭としては、明治村にある森鴎外・夏目漱石住宅が使われました。

 映画「劔岳 点の記」は、監督の木村大作氏が細部の細部にまでこだわった作品で、オールロケの山岳シーンだけでなく、こうした歴史的な過去に関わるシーンにも、監督の繊細な配慮が行き届いています。

②立山信仰

 こうなると、映画に関連して、こちらも何かこだわってみたくなります。
 例えば、剣岳のある富山県の昔についてはどうでしょうか?

 映画では「立山信仰」のことが描かれています〔岩峅寺の「立山曼荼羅」が映し出されます〕。なにより、柴崎らがやっとの思いで剣岳山頂を登頂したと思ったら、驚いたことに、千年以上も昔に修験者が既に登頂していた証が見つかりました。過去のことが気になっても当然でしょう。
 〔ちなみに、「岩峅寺」は、江戸時代に盛んになった立山信仰の拠点でしたが、明治になってから廃仏毀釈運動によって廃寺に追い込まれ、雄山神社に改組されてしまいました〕


(画像は立山曼荼羅)

③『越と出雲の夜明け』

 その際に導きの糸の一つとなりうる素晴らしい著書があります。先の「邪馬台国を巡って」の「」と「」でご紹介した在野の古代史研究者・宝賀寿男氏が著した『越と出雲の夜明け―日本海沿岸地域の創世史―』(法令出版、2009.1)です。



 もとより、本書は富山県史ではありません。著者が得意とする古代史分野の豊富な知見等が様々に動員されて、「日本海沿岸地域の創世及び交流」に関して実に斬新な分析がなされています。
 としても、「越後から但馬・因幡さらには出雲にかけての日本海沿岸地域」(P.373)を一つのものとして記述しているわけではなく、年代及び地域の差異を踏まえて7章から構成されていて、そのうちの第六章と第七章とが「越中」に充てられています(言うまでもなく、各地域の相互交流にも目が配られているところです)。

④古代の富山

 そこで、第六章「高志之利波臣の起源」を少しばかり覗いてみることといたしましょう。
 まず第六章の冒頭には、「巡り合わせで平成5年(1993)夏から富山県で勤務することになって、同地を含む北陸地方の古代史について、現地に即して検討する機会を得た」(P.296)とあります。この著書を著す契機として、重要な地域にもかかわらず従来から研究の積み重ねが余り見られなかったという客観的な事情のみならず、個人的な事情にあったことがわかります。

 さて、「越中を含むコシ(越、高志)の地域は、時代によりその範囲を変えてきたが、現在の富山県と等しい越中国の成立は、大宝2年(702)のことである」というところから本論が始められます(P.297)。

 「ここに至るまでの上古代の越中地域の歩みについては、まるで分からない状況」としながらも、著者は、「弥生後期から末期にかけての有力者の墳墓」が二つの遺跡で発掘されたことや、「これら遺跡と時期をほぼ同じくして、富山平野に発生期古墳ないし弥生墳丘墓とみられる「ちょうちょう塚」が築造された」こと―富山平野に最初に君臨した王者(首長)の墓とみる見解がある―に注目しています(P.297~P.298)。

 また、主に島根・鳥取両県に集中する形式の墳墓(四隅突出形墳丘墓)が富山県で7基もみつかっており、そのことから「日本海をルートとして、山陰と北陸とが密接に交流していたことが分かる」と述べられています(P.298)。

 次いで、「畿内の大和朝廷の勢力が越中に及ぶのは、4世紀前葉の崇神朝における大彦命の越遠征かその関連によるとみられる」と進みます(P.300)。
 ここで、著者の瞠目すべき見解が述べられます。すなわち、「戦後の古代史学界にあっては、…総じていえば、大彦命を含めて四道将軍の派遣や、崇神天皇の実在性を否定する見解が大勢である」が、しかし「日本列島各地域の古墳時代の開始が大和朝廷の勢力伸長の動向とほぼ軌を一にして、その時期が4世紀前葉にあたることからいって、当時の大王として崇神の存在はむしろ自然である」(P.300)。

 さらに越中と大和朝廷との接触が、崇神の次の垂仁朝における「阿彦叛乱と征討」に際して見られ、「4世紀中葉の景行朝になると、吉備武彦の一隊の通過」があったと辿られます。この「阿彦」という者の叛乱に着目したところに、本著全体の立論の基礎の一つがあるといえ、この事件と後世への影響を重視している点が従来の見方から大きく踏み出した新鮮なものです。

 加えて、越中の地に関係する白鳥伝承は記紀に2つ記載されていて、その一つが垂仁記にある「ホムチワケ王に関係する鵠(ククヒ:白鳥)の捕獲譚」(P.301)であり、もう一つは仲哀朝のこととされる白鳥献上の伝承だと述べられます(P.302)。

 以上を踏まえて、「記紀等に記される崇神~仲哀朝の所伝からいって、4世紀の越中は中央との交渉がかなりあったことが分かる」とまとめられます(P.303)。

 ここからも第六章の記述はさらに続きますが、長くなりすぎてしまいますので、このあたりで止めておきましょう。

 ただ、最後に取り上げた白鳥伝承に関しては、本書の第七章で詳しく検討されていることを申し添えます〔この場合、崇神天皇の実在性を巡って上記したのと同様の観点から、「ホムチワケ関連の白鳥伝説は史実であり、白鳥を追って越中に到った鳥取部の一族が、婦負郡を中心とする越中の開拓者であったこと」が述べられます(P.353)〕。白鳥を追った人々が近世・現在の富山の産業面にもつながるのではないかという指摘は、興味深いものです。

 また、本書は日本海沿岸地域の古代史(特に、上古史)を検討するものですから、映画「劔岳 点の記」に出てくる立山信仰は主題的に取り扱われてはおりません(関連する白山・弥彦の信仰は第五章に記されます)。それでも、第七章の末尾近くにおいては、「越中でも、新川郡は良質の褐鉄鉱山が多く、この開発が立山開山縁起と結びつくという推測が木本秀樹氏よりなされて」いるとの記述がみられます(P.370)。

⑤おわりに

 富山県のみならず日本海沿岸地域の古代の有様について、地域内の交流に加えて中央との交流までも詳細に描き出している本書は、著者の富山県勤務の際に得た知見と、これまで著者によって積み重ねられてきた古代史研究とが、実に旨くマッチングした貴重な成果と考えます。


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2 コメント

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資料が乏しい地域の歴史 (ダークミラージュ)
2009-10-05 16:44:56
  立山・劔岳が契機の一つとなって富山に関心をもっていただいたことに対し、その関係者の一人として感謝します。

  富山県は、一向一揆・佐々成政といい、隣の加賀・越後からいつも攻められては敗れてきた歴史もあり、江戸期でも大半が加賀百万石の前田家の領地でした(前田家支藩の富山藩は富山市域くらい)。こうした戦火の歴史に因るのか、県内に残る文書も、断片的な木簡などの出土物を除くと、古代に遡るものは皆無であり、最古のものでも室町期十四世紀くらいではなかったかと記憶します。そうしたなかでも、立山信仰などの祭祀や各種の伝承が現在まで残りますし、交渉のあった他の地域に残る資料もあります。富山に限らず、こうした地域の古い歴史を様々な観点から本源的に尋ねることも、歴史学の分野といえます。

  戦後の古代史が考古学中心の研究で、その拠ってたつ年代観が自然科学的な装いのものが主体となったとしても、上古代から人々の営みが厳然として存続してきたこと、そして中央など他の地域との交流もあって、政治的にも社会的にも相互に影響を及ぼしたことを無視しては、体系的・総合的な歴史の流れの把握が困難となりましょう。人間不在の「歴史」は人文科学としての歴史学なのだろうか。現在にまで残る祭祀・地名・伝承・民俗・産業など多くの関連する面も適宜、取捨選択して、整合性のある歴史大系を構築する努力が研究者にとっても要請されるものと思われます。
  古い時代の出来事が正確に文書に残ると考えるのは、基本的な誤解であり、むしろ長い間の伝承期間のなかで様々に変形・転訛していく事情を踏まえて、史実や原型を探ることが必要なわけです。立山・劔岳に古代に修験者が登頂した足跡が物理的証拠で確認されて、明治のの劔岳測量隊は愕然とするわけですが、人々の昔からの営みや祭祀を無視する研究姿勢は誤りであると映画からも痛感されるところです。とくに、日本海沿岸地域では、立山信仰のみならず、古くから白山・弥彦・羽黒山などの信仰・祭祀が広い範囲で見られますから、歴史学の研究対象は広がると思われます。

現代の歴史研究者は、蜃気楼の向こうに何を見るのだろうか、あるいは見ようとしないのだろうか。
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歴史の探究 (クマネズミ)
2009-10-05 21:48:30
ダークミラージュさん、含蓄のあるコメントをありがとうございます。
言ってみれば山頂一番乗り競争に過ぎない物語が、明治における地図作成の苦難の歴史や、さらには立山信仰を巡る話などに丁寧に裏打ちされると、途端に奥深いものに豹変します。
そういった意味合いからも、「富山に限らず、こうした地域の古い歴史を様々な観点から本源的に尋ねること」がなお一層求められることになりましょう。
そしてその際には、おっしゃるように「整合性のある歴史大系を構築する努力が研究者にとっても要請される」ことでしょう。
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