映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

のぼうの城

2012年12月02日 | 邦画(12年)
 『のぼうの城』をTOHOシネマズ六本木ヒルズで見ました。

(1)本作は、1年前に劇場公開される予定だったものが、3.11によって今頃公開の運びとなったものです。

 物語の舞台は、およそ400年前、戦国時代末期の忍城(現在は、埼玉県行田市)。

 時の関白の豊臣秀吉市村正親)は、全国統一を成し遂げるべく、自分に従わない北条氏を攻め滅ぼそうと、北条家の当主・氏政が居住する小田原城を攻めるとともに、その周辺に置かれている22の支城にも攻撃を仕掛けます。
 支城の一つ忍城に対しては、石田三成上地雄輔)に2万の兵を与えて攻めさせます〔副将として大谷吉継山田孝之)らが付き従います〕。



 他方、忍城の城主・成田氏長西村雅彦)は、北条氏政の命によって小田原城に入ったため、代わりに氏長の従兄弟の成田長親野村萬斎)が、城代として石田三成軍を迎え撃ちます。
 といっても、氏長は、豊臣方に内通するつもりでおり、籠城は見かけだけとしすぐに開城せよと、小田原に向う前、忍城に残留する者たちに命じていました。
 ところが、皆から「のぼう様」と言われていた長親は、石田軍からの使者・長塚正家平岳大)に対して「戦いまする、いくさ場で出会おう」と言ってのけてしまいます。
 長親の元には、家老の正木丹波守佐藤浩市)、自称“軍略の天才”の酒巻靱負成宮寛貴)、豪傑の柴崎和泉守山口智充)といった強者らが控えているものの、いったい500の軍勢(注1)が2万の大軍にどう立ち向かうのでしょうか、……?



 本作は、常識では絶対にあり得ない戦いを挑んだ武士たちを描いた娯楽大作で、そのアクションシーンは「動」を描くものとしてなかなかの面白さが見られますし、他方大軍を前にして長親が踊る「田楽踊り」のシーンは「静」の部分として味わいがあります。

 出演する俳優陣は、皆それぞれところを得てなかなかの演技を見せています。
 中でも、主役の成田長親を演じる野村萬斎は、クライマックスの「田楽踊り」のシーンを見ると、まさにこの人以外には考えられないという気がしました。



 ただ、『東京公園』や『アントキノイノチ』で見た榮倉奈々の甲斐姫は、その男勝りの腕前を発揮する場面が少なく、やや期待外れでした。

(2)本作は、黒澤明監督の『七人の侍』と比して語られることが多いようです(注2)。
 確かに、野武士集団に取り囲まれた村を、農民たちが、雇った七人の侍と一緒になって守り、勝利を収めるという『七人の侍』の物語は、石田三成を総大将とする大軍に囲まれた忍城を少数の武士と農民で守るという本作のストーリーと類似しているといえるでしょう。
 さらに例えば、湖の中に城(浮城!)があるという利点を生かして(注3)、相手を少人数に分断して撃破するという本作で見られる戦法は、『七人の侍』でも採られています。
 でも、そんな戦法が通じるのは敵の第一波の攻撃であり、第二波の攻撃ともなれば、平城の忍城は到底耐えきれなかったのではと思われます(注4)。

 しかしながら、ここで敵将・石田三成が採った戦法は水攻めでした。
 ここがクマネズミにはよくわからないところです。
 なぜ、そんな時間のかかる迂遠な方法をわざわざ採る必要があったのでしょうか?
 なるほど、忍城の周囲は湖で、城の門に向って取り付けられている細い道以外のところを進もうとすれば、泥濘に馬や足軽たちの足が取られてしまい身動きできなくなるのかもしれません(注5)。
 ですが、水攻めの堤が決壊した後、水浸しの城に向かって、石田軍は大量の土嚢を敷いて兵を進めているのです(注6)。その方法を当初から採れば、そんなに長い時間をかけずとも(注7)、簡単に城を陥落させることができたのではないかと思われます。
 特に、城門と城門との間は非常に脆弱でしょうから(注8)、石田軍は一気にそこを突き破れたのではないでしょうか?
 といっても、歴史の事実としては、水攻めが行われたようです。
 そこら辺りが、本作ではあまりうまく描かれてはいないのではないか、ほとんど軍議などせずに、単に石田三成の鶴の一声で決まってしまったように描かれているのでは、という気がしました。

 あるいは、そこら辺りは観客側で考えればいいのかもしれません。
 たとえば、「定石」どおりの戦法で忍城を揉み潰しても何の面白いことはないと考えていた三成に(注9)、なんとも風変わりな男・長親が戦いを挑んで来たため、世の中が驚くような戦法を採ってみたくなってしまった、とでもいうように。
 ただその場合には、映画における三成のポジションを長親と並ぶくらいに引き上げたら、「長親vs三成」としてもっと面白さが増すのではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「肉食系アクションに草食系キャラのこの映画、人間ドラマよりアクションが勝った印象が残る。湖上での田楽踊りが最大の見せ場というのがその証拠だ。ともあれ、敵の鼻を明かして一矢報いる。これもまた日本人好みのエモーションかもしれない」として60点をつけています。



(注1)劇場用パンフレット掲載の河合敦氏によるエッセイ「史実の忍城戦と、成田長親という男の矜持」によれば、「侍はわずかに六十九人、足軽(下級武士)は四百二十人しかいなかった」とのこと。
 ただ、領民も城に入ったので、「忍城に籠もる人数は三千七百四十人に膨れあがった」(ただし十五歳以下が三分の一)ようです。

(注2)たとえば、ブログ「お楽しみはココからだ~映画をもっと楽しむ方法」の11月9日のエントリ

(注3)「忍城は、洪水が多いこの一帯にできた湖と、その中にできた島々を要塞化した城郭であった」(原作文庫版上 P.30)。

(注4)このブログによれば、小田原城の支城であった八王子城は、山に設けられた堅固な守りの城で、それを1,000名の武士と農民らが守っていたにもかかわらず、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの北国軍15,000の前にはひとたまりもなく、一日にして落城してしまいました。

(注5)「問題はあの異様に深い田じゃ。あれでは大軍を擁したところで使うことができぬ」と長束正家が述べます(原作文庫版下 P.61)。

(注6)「深田が城を囲んでいるのは、忍城だけではない。そうした場合、田圃に埋草を突っ込みながら進軍するのが常套手段であった。三成は、これを土俵(つちだわら)で実施するよう全軍に指示した」。このやり方について、柴崎和泉守は、「定石」と言っています(原作文庫版下 P.156)。

(注7)石田三成は、「足掛け五日で」7里(28km)に及ぶ人口堤を完成させましたが (原作文庫版下 P.84)。

(注8)石田三成からすると、忍城は、「土塁を掻き揚げただけで石垣はなく、天守閣もなく、櫓といえば材木を組み上げた積み木のようなものがあるだけの城など、城郭というより湖を結衣つの要害と恃んで人が集まった単なる島のようにしかみえなかった。城の堀端に柵を結い回し、棘のような逆茂木も差し並べているようではあるが、これも取り立てていうほどのものではなく、ごく普通の城の守りであると三成は知っている」(原作文庫版上 P.166)。

(注9)三成に命じられていた攻略目標の内の館林城は、石田軍が取り囲んだだけで自ら開城してしまいました。



★★★☆☆



象のロケット:のぼうの城