『終戦のエンペラー』を渋谷のシネパレスで見ました。
(1)戦前のことを取り上げたアニメ『風立ちぬ』を見たことでもあり、また出演する俳優の顔ぶれもなかなかなので、映画館に足を運びました。
本作は、マッカーサー元帥(トミー・リー・ジョーンズ)らを乗せた米軍機が、1945年8月30日に厚木飛行場に到着するところから始まります。
その後、GHQは横浜から東京に移り、戦犯の逮捕などを進めるところ、マッカーサーは、側近の軍事秘書官・フェラーズ准将(マシュー・フォックス)に対し、10日間のうちに、昭和天皇を免責にするか逮捕するか結論を出して報告せよと命じます。
さあ、フェラーズの調査はうまく進展するのでしょうか、……?
本作では、自殺を図る東条英機(火野正平)、フェラーズと近衛文麿(中村雅俊)とのやりとり、天皇の側近・木戸幸一(伊武雅刀)がフェラーズに話す玉音放送を巡る騒動など、終戦時のエピソードが次から次に描かれて、なかなか興味深いものがあります。
それに、俳優陣の演技はなかなか見応えがありました。
配役を知って躓きかねないのが、マッカーサー役のトミー・リー・ジョーンズです。あの貴族然として尊大な感じがするマッカーサーと、田舎者丸出しのように見えるトミー・リー・ジョーンズとは、なかなかイメージが一致しません(注1)。
でも、ソックリさんが望ましいわけでもありません。ここは、登場人物の心情を演技でどのように表現できるかが問題でしょう。そういう点からすれば、逆に、トミー・リー・ジョーンズの起用は成功しているのではないかと思います。
また、関屋・宮内次官に扮した夏八木勲は、本年は『希望の国』で主演するなど活躍していましたが、そして本作でも大層存在感のある演技を披露していますが、残念ながら亡くなりました。
(2) とはいえ、『風立ちぬ』を見た時と似たような感想を持ってしまいました。
というのも、本作では、終戦時における歴史的な話の中に、フェラーズと日本人女性アヤ(初音映莉子)との恋物語(全くたわいのないフィクション)が挿入されるのです(注2)。
結果は、『風立ちぬ』が実在の堀越二郎と架空の奈穂子を無理につなぎ合わせたのと、基本的に同じ有様になってしまっています。
もとより、本作にフェラーズとアヤのラブ・ストーリーを挿入したのは、堅苦しいトーンに終始しかねない占領当初の話に色を添えるためなのでしょう。
いうまでもなく、映画を見て歴史の勉強をしようなどとは寸毫も思っていませんから、こうしたフィクション仕立てにすること自体問題があるとは思いません。
それにもともと、アヤにはモデルらしき人物が複数いたようなのです(注3)。
常識的には、准将としてマッカーサーに仕えている職業軍人が、若い頃一般の共学の大学にいて、留学中の日本人女性と知り合う機会があったとは考えられないところです。
ですが、この映画が原作とする岡本嗣郎著『終戦のエンペラー~陛下をお救いなさいまし』(集英社文庫)によれば、実際にはフェラーズは、陸軍士官学校に入る前に、18歳でインディアナ州にあるアラーム大学に入学していて、そこで26歳の留学生・渡辺ゆりと親しくなっています(P.53)(注4)。
この渡辺ゆりは、「女子英語塾」(津田塾大学の前身)で河井道(その後恵泉女学園を創設)の一番の教え子だったところ(注5)、その河井道も1934年に渡米した際にフェラーズと会っているのです(注6)。
こんなところから、渡辺ゆりと河井道が合わさってアヤの一部を形成しているとも考えられるところです。
ただ、二人ともフェラーズとかなり歳の差があり、常識的には恋愛関係を想定できません。ですから、本作のアヤはフィクションと考えるべきでしょう(注7)。
それにしても、本作においては、終戦の5年前に日本で再開したフェラーズとアヤは、叔父の鹿島大将(西田敏行)のアドバイスによって別れてしまいますが、どうしてフェラーズは、いともあっさりとそのアドバイスに従い、アヤを日本に置いたまま米国に戻ってしまうのでしょうか(注8)?
映画『風立ちぬ』において、結核の菜穂子を放っておいて飛行機設計に没頭する主人公・二郎の姿とオーバーラップしてしまいます。
あるいは、アヤの叔父を通して(注9)、日本軍の真の姿をフェラーズが把握するというスト-リーにしたかったのかもしれません(注10)。
でも、何よりも彼にとって必要なのは、日本兵の具体的な心理であり、さらには天皇を無実とする確実な証拠なのであり、鹿島大将が語るような迂遠なもの(注11)ではないはずですが。
(3)また、マッカーサーと昭和天皇(片岡孝太郎)との会見の様子は、上記の岡本の著書の内容(注12)と、かなり違ったものになっています(注13)。
すなわち、本作では、『マッカーサー回想記』(1964年)が記載するもの(注14)と類似する発言(「全責任は私にあります。罰を受けるのは私個人であり、日本国民ではありません」)を、昭和天皇はマッカーサーに対して行います。
勿論、本作は娯楽映画であり研究成果の発表の場ではないのですから、本作のような描き方もまたあり得ると思います。
ただ、そんな程度のものだったら従来からよく知られていることであり、本作の宣伝文句に言う「知られざるドラマ」とまでいうのはどうかなと思います(注15)。
ところで、昭和天皇とマッカーサー元帥との会見を取り扱っている映画として思い出すものにソクーロフ監督が制作した『太陽』があります(『ファウスト』に関する拙エントリの「注11」でわずかに触れています)。
今回、再度そのDVDを見てみたところ、その映画では、イッセー尾形扮する昭和天皇が、実にありそうもない行動をするのです(注16)。でも、何にせよ真相は分からないわけですから、こうした描き方でも、向かい合った両者の心情を観客が汲み取れるならば、また十分にあり得るのではないかと思います。
(4)渡まち子氏は、「マッカーサーを演じる名優トミー・リー・ジョーンズが、ユーモアを漂わせて貫禄の名演。対する日本を代表する俳優たちも皆好演だ。美術やセットも素晴らしく、戦後すぐの焼け野原の日本のリアルな風景に、戦争という悲劇を二度と繰り返してはならないとの願いが込められている」として70点を付けています。
また、前田有一氏は、「(歴史に)興味がある人にとっては、この時代の歴史を描いた映画がいかにダメ揃いかわかっているはずで、そういう人が見たらあまりにまっとうな映画が、それもアメリカからやってきたということで本当にうれしくなるはずだ。その価値がわかる人にとって本作は、歴史に残る一本となることは疑いない」として90点を付けています。
さらに、小梶勝男氏は、「夏八木や西田、政治家の木戸幸一を演じた伊武雅刀ら、日本の俳優たちが素晴らしい。あの時代を、身体や雰囲気で見事に表現していた。外見は全く似ていないマッカーサーを存在感で演じきったジョーンズもさすがだ。プロデューサーを奈良橋陽子と野村祐人の親子が務めていて、米国映画だが、むしろ日本人の胸に響く作品になっていると思う」と述べています。
(注1)トミー・リー・ジョーンズについては、最近では、『告発のとき』(それもDVDで)くらいしか見てはおりませんが。
(注2)初音映莉子は、本作のヒロインとして実に初々しく演技しているなと感心しました。なお、彼女は『ノルウェイの森』に出演していたようですが、印象に残っておりません。
(注3)この点が、小説からヒロインを持ってきた『風立ちぬ』と違っている点でしょう(尤も、小説『風立ちぬ』のヒロイン・節子は、作者・堀辰雄の妻をモデルにしているとされています。ただ、そうだとしても、彼女と、同作の主人公のモデル・堀越二郎とは何の繋がりもありません)。
(注4)フェラーズは、アラーム大学を中退した後に入った陸軍士官学校を22歳で卒業しています(ということは、同大学での在籍期間は短かったのでしょう。その後、39歳の時に陸軍指揮幕僚大学を出ています)。
なお、映画『風立ちぬ』の主人公のモデル・堀越二郎に、実際に妻がいて息子がいたのと同じように(同作に関する拙エントリの「注3」を参照)、フェラーズにも、実際に妻・ドロシーや娘・ナンシーがいました。
(注5)渡辺ゆりは、帰国後日本人と結婚しましたが、岡本の著書によれば、「河井とゆりの関係は実の姉妹にも優る濃いつながりがその後結ばれ」たとのことです(P.56)。
(注6)そのとき、フェラーズは38歳、河井道は57歳でした〔もしかしたら、その4年前の来日の折に、フェラーズは河井道と会っているのかもしれません(岡本の著書では、1934年の出会いが「再会」とされているので:P.130)〕。
なお、岡本の著書によれば、フェラーズが1935年に提出した論文「日本兵の心理」で河井道のことに触れているとのことです(P.130)。あるいは、これを下敷きにして、下記の「注10」のエピソードが本作に設けられたのかもしれません。
(注7)なにより、岡本の著書によれば、河井道は、フェラーズがマッカーサーに提出した覚書草稿を事前に見て手を入れているとのことですが(P.264)、他方、本作のアヤは、米軍の空襲によって疎開先の静岡で死亡しているのです。
(注8)アヤの方には、米国人と結婚してはならないという死んだ父親のいいつけがあったにせよ。
(注9)フェラーズは鹿島大将と戦前に会っていますが(下記「注10」)、終戦後屋敷に面会に来たフェラーズに対し鹿島大将は、「自分は、サイパン、沖縄で司令官だった」旨の発言をします。ただ、「大将」として二つの島で司令官だった人物など思い当たりません(もしかしたら、サイパン島で自決した南雲大将を想定しているのでしょうか)。あるいは、彼は、会いに来たフェラーズに、アヤの死を告げるために出現した幽霊ではないかとも解されるところです。
(注10)映画では、論文の作成に行き詰まってしまったフェラーズが、鹿島大将を訪ねて行くという流れになっています(ただ、実際には、フェラーズの論文「日本兵の心理」は、「上記注」の陸軍指揮幕僚大学の卒業論文ですから、映画の時点よりも5年ほど前のことになります。また、その論文に書かれていることは、岡本の著書によれば(P.159~P.162)、映画で鹿島大将が話しているような抽象的で大雑把なものでもなさそうです)。
(注11)鹿島大将は、「建前と本音」などにつき、至極ありきたりで抽象的な日本文化論を展開するだけです(この映画を見る外国人には、こうした簡略な説明の方が理解できることと思いますが)。
(注12)岡本は、作家の児島襄の論考「天皇とアメリカと太平洋戦争」(1975年)に基づきながら(同論考は、外務省の通訳・奥村勝蔵の「手記」に依拠しているとされます)、「史実に最も近いとされる天皇とマッカーサーのやりとりを、私なりの言葉でかみくだいてここに再現してみる」として、同書P.252~P.255に書き記しているところ、そこでは、天皇は、「今度の戦争については、私自身としては極力これを避けたい考えでいましたが、開戦のやむなきに至りましたことは、私の最も遺憾とするところです」と述べるにとどまっています。
いうまでもなく、関西学院大学・豊下楢彦教授が言うように、「外務省や宮内庁が公式記録を公表しないかぎり、〝真実〟は永遠にあきらかにならないようで」す(『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交』:岩波新書、1996年.P.146~P.147)。
(注13)そもそも、岡本の著書は、「恵泉女学園」を創設する河井道の生涯をメインとする評伝であり、彼女を描く上で必要な限りにおいてフェラーズのことが触れられているに過ぎないようにも思われます(なにしろ、河井道の人柄を浮き彫りにすべく、教え子の証言がたくさん書きこまれていたり、河井道の考え方について評価までしているのです)。
本作は、タイトルを岡本の著作から取ってきているとはいえ、フェラーズを主人公とする点などからみて、同著とは全く別のものと考えた方がよさそうです。
(注14)「天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」。私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである」(以上は、このサイトの記事によります)。
(注15)この映画で描かれている他のエピソードも、よく知られていると思います〔例えば、玉音放送用の録音盤の奪い合いなどは、『日本のいちばん長い日』(1967年)などで描かれています〕。
(注16)その映画の中では、マッカーサーは天皇と2度会見しますが、1度目の会見では、冒頭に、天皇が「あなた方のどのような決定をも受け入れる用意がございます」と言い、2度目ではディナーを一緒に取るところ、天皇はマッカーサーに対して、突然ナマズのことを話し出します。これに飽きたマッカーサーが「緊急な用事がある」と退席し、一人置き去りにされた天皇は、ワルツを踊ったり、食卓に並べられている蝋燭の火を「ローソク消し」で次々に消したりします。そして、その姿を密かに覗き見していたマッカーサーは微笑んだりします。
なお、興味深いことに、本作に90点もの高得点を与えた前田有一氏はソクーロフの映画に対しては、前田氏の立場からすれば当然なのでしょうが、30点という手厳しい得点を与えています。
★★★☆☆
象のロケット:終戦のエンペラー
(1)戦前のことを取り上げたアニメ『風立ちぬ』を見たことでもあり、また出演する俳優の顔ぶれもなかなかなので、映画館に足を運びました。
本作は、マッカーサー元帥(トミー・リー・ジョーンズ)らを乗せた米軍機が、1945年8月30日に厚木飛行場に到着するところから始まります。
その後、GHQは横浜から東京に移り、戦犯の逮捕などを進めるところ、マッカーサーは、側近の軍事秘書官・フェラーズ准将(マシュー・フォックス)に対し、10日間のうちに、昭和天皇を免責にするか逮捕するか結論を出して報告せよと命じます。
さあ、フェラーズの調査はうまく進展するのでしょうか、……?
本作では、自殺を図る東条英機(火野正平)、フェラーズと近衛文麿(中村雅俊)とのやりとり、天皇の側近・木戸幸一(伊武雅刀)がフェラーズに話す玉音放送を巡る騒動など、終戦時のエピソードが次から次に描かれて、なかなか興味深いものがあります。
それに、俳優陣の演技はなかなか見応えがありました。
配役を知って躓きかねないのが、マッカーサー役のトミー・リー・ジョーンズです。あの貴族然として尊大な感じがするマッカーサーと、田舎者丸出しのように見えるトミー・リー・ジョーンズとは、なかなかイメージが一致しません(注1)。
でも、ソックリさんが望ましいわけでもありません。ここは、登場人物の心情を演技でどのように表現できるかが問題でしょう。そういう点からすれば、逆に、トミー・リー・ジョーンズの起用は成功しているのではないかと思います。
また、関屋・宮内次官に扮した夏八木勲は、本年は『希望の国』で主演するなど活躍していましたが、そして本作でも大層存在感のある演技を披露していますが、残念ながら亡くなりました。
(2) とはいえ、『風立ちぬ』を見た時と似たような感想を持ってしまいました。
というのも、本作では、終戦時における歴史的な話の中に、フェラーズと日本人女性アヤ(初音映莉子)との恋物語(全くたわいのないフィクション)が挿入されるのです(注2)。
結果は、『風立ちぬ』が実在の堀越二郎と架空の奈穂子を無理につなぎ合わせたのと、基本的に同じ有様になってしまっています。
もとより、本作にフェラーズとアヤのラブ・ストーリーを挿入したのは、堅苦しいトーンに終始しかねない占領当初の話に色を添えるためなのでしょう。
いうまでもなく、映画を見て歴史の勉強をしようなどとは寸毫も思っていませんから、こうしたフィクション仕立てにすること自体問題があるとは思いません。
それにもともと、アヤにはモデルらしき人物が複数いたようなのです(注3)。
常識的には、准将としてマッカーサーに仕えている職業軍人が、若い頃一般の共学の大学にいて、留学中の日本人女性と知り合う機会があったとは考えられないところです。
ですが、この映画が原作とする岡本嗣郎著『終戦のエンペラー~陛下をお救いなさいまし』(集英社文庫)によれば、実際にはフェラーズは、陸軍士官学校に入る前に、18歳でインディアナ州にあるアラーム大学に入学していて、そこで26歳の留学生・渡辺ゆりと親しくなっています(P.53)(注4)。
この渡辺ゆりは、「女子英語塾」(津田塾大学の前身)で河井道(その後恵泉女学園を創設)の一番の教え子だったところ(注5)、その河井道も1934年に渡米した際にフェラーズと会っているのです(注6)。
こんなところから、渡辺ゆりと河井道が合わさってアヤの一部を形成しているとも考えられるところです。
ただ、二人ともフェラーズとかなり歳の差があり、常識的には恋愛関係を想定できません。ですから、本作のアヤはフィクションと考えるべきでしょう(注7)。
それにしても、本作においては、終戦の5年前に日本で再開したフェラーズとアヤは、叔父の鹿島大将(西田敏行)のアドバイスによって別れてしまいますが、どうしてフェラーズは、いともあっさりとそのアドバイスに従い、アヤを日本に置いたまま米国に戻ってしまうのでしょうか(注8)?
映画『風立ちぬ』において、結核の菜穂子を放っておいて飛行機設計に没頭する主人公・二郎の姿とオーバーラップしてしまいます。
あるいは、アヤの叔父を通して(注9)、日本軍の真の姿をフェラーズが把握するというスト-リーにしたかったのかもしれません(注10)。
でも、何よりも彼にとって必要なのは、日本兵の具体的な心理であり、さらには天皇を無実とする確実な証拠なのであり、鹿島大将が語るような迂遠なもの(注11)ではないはずですが。
(3)また、マッカーサーと昭和天皇(片岡孝太郎)との会見の様子は、上記の岡本の著書の内容(注12)と、かなり違ったものになっています(注13)。
すなわち、本作では、『マッカーサー回想記』(1964年)が記載するもの(注14)と類似する発言(「全責任は私にあります。罰を受けるのは私個人であり、日本国民ではありません」)を、昭和天皇はマッカーサーに対して行います。
勿論、本作は娯楽映画であり研究成果の発表の場ではないのですから、本作のような描き方もまたあり得ると思います。
ただ、そんな程度のものだったら従来からよく知られていることであり、本作の宣伝文句に言う「知られざるドラマ」とまでいうのはどうかなと思います(注15)。
ところで、昭和天皇とマッカーサー元帥との会見を取り扱っている映画として思い出すものにソクーロフ監督が制作した『太陽』があります(『ファウスト』に関する拙エントリの「注11」でわずかに触れています)。
今回、再度そのDVDを見てみたところ、その映画では、イッセー尾形扮する昭和天皇が、実にありそうもない行動をするのです(注16)。でも、何にせよ真相は分からないわけですから、こうした描き方でも、向かい合った両者の心情を観客が汲み取れるならば、また十分にあり得るのではないかと思います。
(4)渡まち子氏は、「マッカーサーを演じる名優トミー・リー・ジョーンズが、ユーモアを漂わせて貫禄の名演。対する日本を代表する俳優たちも皆好演だ。美術やセットも素晴らしく、戦後すぐの焼け野原の日本のリアルな風景に、戦争という悲劇を二度と繰り返してはならないとの願いが込められている」として70点を付けています。
また、前田有一氏は、「(歴史に)興味がある人にとっては、この時代の歴史を描いた映画がいかにダメ揃いかわかっているはずで、そういう人が見たらあまりにまっとうな映画が、それもアメリカからやってきたということで本当にうれしくなるはずだ。その価値がわかる人にとって本作は、歴史に残る一本となることは疑いない」として90点を付けています。
さらに、小梶勝男氏は、「夏八木や西田、政治家の木戸幸一を演じた伊武雅刀ら、日本の俳優たちが素晴らしい。あの時代を、身体や雰囲気で見事に表現していた。外見は全く似ていないマッカーサーを存在感で演じきったジョーンズもさすがだ。プロデューサーを奈良橋陽子と野村祐人の親子が務めていて、米国映画だが、むしろ日本人の胸に響く作品になっていると思う」と述べています。
(注1)トミー・リー・ジョーンズについては、最近では、『告発のとき』(それもDVDで)くらいしか見てはおりませんが。
(注2)初音映莉子は、本作のヒロインとして実に初々しく演技しているなと感心しました。なお、彼女は『ノルウェイの森』に出演していたようですが、印象に残っておりません。
(注3)この点が、小説からヒロインを持ってきた『風立ちぬ』と違っている点でしょう(尤も、小説『風立ちぬ』のヒロイン・節子は、作者・堀辰雄の妻をモデルにしているとされています。ただ、そうだとしても、彼女と、同作の主人公のモデル・堀越二郎とは何の繋がりもありません)。
(注4)フェラーズは、アラーム大学を中退した後に入った陸軍士官学校を22歳で卒業しています(ということは、同大学での在籍期間は短かったのでしょう。その後、39歳の時に陸軍指揮幕僚大学を出ています)。
なお、映画『風立ちぬ』の主人公のモデル・堀越二郎に、実際に妻がいて息子がいたのと同じように(同作に関する拙エントリの「注3」を参照)、フェラーズにも、実際に妻・ドロシーや娘・ナンシーがいました。
(注5)渡辺ゆりは、帰国後日本人と結婚しましたが、岡本の著書によれば、「河井とゆりの関係は実の姉妹にも優る濃いつながりがその後結ばれ」たとのことです(P.56)。
(注6)そのとき、フェラーズは38歳、河井道は57歳でした〔もしかしたら、その4年前の来日の折に、フェラーズは河井道と会っているのかもしれません(岡本の著書では、1934年の出会いが「再会」とされているので:P.130)〕。
なお、岡本の著書によれば、フェラーズが1935年に提出した論文「日本兵の心理」で河井道のことに触れているとのことです(P.130)。あるいは、これを下敷きにして、下記の「注10」のエピソードが本作に設けられたのかもしれません。
(注7)なにより、岡本の著書によれば、河井道は、フェラーズがマッカーサーに提出した覚書草稿を事前に見て手を入れているとのことですが(P.264)、他方、本作のアヤは、米軍の空襲によって疎開先の静岡で死亡しているのです。
(注8)アヤの方には、米国人と結婚してはならないという死んだ父親のいいつけがあったにせよ。
(注9)フェラーズは鹿島大将と戦前に会っていますが(下記「注10」)、終戦後屋敷に面会に来たフェラーズに対し鹿島大将は、「自分は、サイパン、沖縄で司令官だった」旨の発言をします。ただ、「大将」として二つの島で司令官だった人物など思い当たりません(もしかしたら、サイパン島で自決した南雲大将を想定しているのでしょうか)。あるいは、彼は、会いに来たフェラーズに、アヤの死を告げるために出現した幽霊ではないかとも解されるところです。
(注10)映画では、論文の作成に行き詰まってしまったフェラーズが、鹿島大将を訪ねて行くという流れになっています(ただ、実際には、フェラーズの論文「日本兵の心理」は、「上記注」の陸軍指揮幕僚大学の卒業論文ですから、映画の時点よりも5年ほど前のことになります。また、その論文に書かれていることは、岡本の著書によれば(P.159~P.162)、映画で鹿島大将が話しているような抽象的で大雑把なものでもなさそうです)。
(注11)鹿島大将は、「建前と本音」などにつき、至極ありきたりで抽象的な日本文化論を展開するだけです(この映画を見る外国人には、こうした簡略な説明の方が理解できることと思いますが)。
(注12)岡本は、作家の児島襄の論考「天皇とアメリカと太平洋戦争」(1975年)に基づきながら(同論考は、外務省の通訳・奥村勝蔵の「手記」に依拠しているとされます)、「史実に最も近いとされる天皇とマッカーサーのやりとりを、私なりの言葉でかみくだいてここに再現してみる」として、同書P.252~P.255に書き記しているところ、そこでは、天皇は、「今度の戦争については、私自身としては極力これを避けたい考えでいましたが、開戦のやむなきに至りましたことは、私の最も遺憾とするところです」と述べるにとどまっています。
いうまでもなく、関西学院大学・豊下楢彦教授が言うように、「外務省や宮内庁が公式記録を公表しないかぎり、〝真実〟は永遠にあきらかにならないようで」す(『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交』:岩波新書、1996年.P.146~P.147)。
(注13)そもそも、岡本の著書は、「恵泉女学園」を創設する河井道の生涯をメインとする評伝であり、彼女を描く上で必要な限りにおいてフェラーズのことが触れられているに過ぎないようにも思われます(なにしろ、河井道の人柄を浮き彫りにすべく、教え子の証言がたくさん書きこまれていたり、河井道の考え方について評価までしているのです)。
本作は、タイトルを岡本の著作から取ってきているとはいえ、フェラーズを主人公とする点などからみて、同著とは全く別のものと考えた方がよさそうです。
(注14)「天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」。私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである」(以上は、このサイトの記事によります)。
(注15)この映画で描かれている他のエピソードも、よく知られていると思います〔例えば、玉音放送用の録音盤の奪い合いなどは、『日本のいちばん長い日』(1967年)などで描かれています〕。
(注16)その映画の中では、マッカーサーは天皇と2度会見しますが、1度目の会見では、冒頭に、天皇が「あなた方のどのような決定をも受け入れる用意がございます」と言い、2度目ではディナーを一緒に取るところ、天皇はマッカーサーに対して、突然ナマズのことを話し出します。これに飽きたマッカーサーが「緊急な用事がある」と退席し、一人置き去りにされた天皇は、ワルツを踊ったり、食卓に並べられている蝋燭の火を「ローソク消し」で次々に消したりします。そして、その姿を密かに覗き見していたマッカーサーは微笑んだりします。
なお、興味深いことに、本作に90点もの高得点を与えた前田有一氏はソクーロフの映画に対しては、前田氏の立場からすれば当然なのでしょうが、30点という手厳しい得点を与えています。
★★★☆☆
象のロケット:終戦のエンペラー