『シャニダールの花』を吉祥寺バウスシアターで見ました。
(1)この映画を制作した石井岳龍監督の前作『生きてるものはいないのか』を見たこともあり、映画館に行ってみました。でも、興行的には不振のようで、休日にもかかわらず6人ほどの観客でした。
映画の最初に、「恐竜に食い荒らされた植物が、絶滅から免れるために花を生んだ。植物が花と種に小型化したために、餌が激減してしまい恐竜は絶滅した」というナレーションが入ります。
次いで、製薬会社の研究所で働く研究者・大瀧(綾野剛)が、新任のセラピスト・響子(黒木華)を連れて研究所内を案内します。
研究室では研究員が研究に勤しんでいますし、ゲストハウスには何人もの若い女性が暮らしています。女性たちは、胸に植物の芽が生えてきたことから、1億円の契約金と引き替えに、この施設で花が咲くまで生活します。
他方で、研究所の所長(古舘寛治)は、胸から花を切り離す手術に立ち会います。切り離した花は特別な容器に入れられます。ただ、その手術を受けた患者は酷く苦しみだし、モニターの心電図が平坦になってしまい、電気ショックが与えられます。
一体この研究所では何が行われているのでしょう、大瀧と響子はこれからどうなるのでしょうか、……?
若い女性の胸に植物が芽生え、ついには花を咲かせてしまうという着想は凄く面白く、またその花を中心にして描かれる大瀧と響子のラブストーリーも興味深く、総じて、原因不明の大量死が次々に描かれる『生きてるものはいないのか』より本作の方が、ズッと滑らかに物語が展開しているという印象を持ちました。
主演の綾野剛は、『横道世之介』とか『その夜の侍』などで見ているものの、主演作を見たのはクマネズミにとってこれが初めて。持てる魅力が上手く発揮されている感じで、これからも大いに活躍するものと思います。
また、ヒロインの黒木華は、『舟を編む』(あとから辞書編集部に参加)や『草原の椅子』(主人公の娘)で見ましたが、本作も含めて、至極真面目で芯のある女性の役にはうってつけではないかと思いました。
(2)本作を見て当然に起こるのは、「シャニダールの花」とは本作において何を意味しているのかということでしょう(注1)。
映画の中では、「ネアンデルタール人の墓にあった花」と説明されています(注2)。でもそれは、付けられた名前の由来であって、この花の持つ意味合いではありません。
石井岳龍監督自身は、「花はエロスと死の象徴であり、それに侵される男女を見つめ直すことは、生命力の在り方をとらえ直すこと」と語っています(注3)。ただ、それではなんだかありきたりで(注4)、全般的・抽象的なのではと思えます(注5)。
そこでまず、本作でおける「シャニダールの花」の特徴を見てみると、例えば次のようなものが挙げられるでしょう。
・若い女性の胸に、突然芽が出てきて花が咲く。
・ただ、女性なら全てこの花を咲かせられるというものでなく、どうやらかなり限られた女性だけに起こる現象のようです。
・芽が出てきたら全て花が咲くわけではなく、枯れてしまう場合もあります(その場合には、施設から退去させられます)。
・切り取られた花からは、画期的な新薬を作り出すことが出来るとされています(それで、製薬会社は、大金をかけて芽を持った女性を集めています)。
・花は咲かせたままにしておくと女性の命に問題があるとされ、適当な時期に切り離されますが、花を胸から切り離す手術を施すと、その女性が死に至る場合もあります。
本作において、この「シャニダールの花」は何かを象徴しているのではと考えられるところ、こう様々の特徴を持っているとなると、ドンピシャで当てはまるものはなさそうながら、クマネズミは、とりあえずは「女性の女性たるところ」あるいは「純粋な愛の心」といったものではないかと考えてみました。
映画の中のより具体的なケース(注6)を踏まえながらもう少し言えば、若い女性の場合、純粋に愛の心を育んでいればこの花を大きく咲かせることが出来ますが、嫉妬や憾みでその心が歪むと育ちが悪くなり、また愛の心がなくなってしまうとたちまち枯れてしまう、というように考えてみたらどうなのか、と思いました。
とはいえ、ラストの光景を見ると(注7)、こんな解釈ではどうも狭すぎるようです。なにしろ、辺り一面に「シャニダールの花」が咲き乱れる光景が出てくるのですから。そうであれば、やはり、「花はエロスと死の象徴」とするありきたりな解釈でとどめておいた方が無難なのかもしれません(あるいは「解釈X」とでもしておいて、この先も何がXとして代入できるか考え続けるべきなのでしょう )。
(3)もう一つ、この映画を見て興味深いなと思ったことは、大瀧のアシスタントのはずの響子が中心的に能動的に動いていて、主役の大瀧は、むしろ響子にいいように動かされている感じがする点で(注8)、なんだか最近見た『さよなら渓谷』が思い起こされました。
(4)渡まち子氏は、「人の胸に寄生する不思議な花をめぐるミステリアスなファンタジー「シャニダールの花」。終末論的な物語が展開するが、基本はメロドラマ」として60点を付けています。
(注1)響子は大瀧に対し、「この花は何?それが一番大切じゃないの?何より花のことを知らなくては」と言います(大瀧は、それに対し、「我々の仕事は、花を育て摘み取ることだけだ」と言うのですが)。
(注2)響子がハルカ(刈谷友衣子)に、「「シャニダールの花」は、ネアンデルタール人の墓にあった花で、心が発生した瞬間だという説がある」と言い、「胸に生える花は、人が初めて生んだ花だから「シャニダールの花」と名づけられた」と説明します。
ただ、ラストの方で、研究所(そのときは既に閉鎖されていますが)の所長が、「その話は大嘘。ネアンデルタール人は、残忍で肉食。あいつらは、花に寄生されて滅んだんだ。あの花はマグマの力を持っている。兵器になる可能性があり、各国のスパイが狙っている」などと大瀧に話します。
とはいえ、所長の話自体も大嘘のようにも思えます。
Wikipediaの「ネアンデルタール人」の項の「埋葬」には、「R・ソレッキーらはイラク北部のシャニダール洞窟で調査をしたが、ネアンデルタール人の化石とともに数種類の花粉が発見された。発見された花粉が現代当地において薬草として扱われていることから、「ネアンデルタール人には死者を悼む心があり、副葬品として花を添える習慣があった」と考える立場もある」と記載されています。
なお、R・ソレッキーから送られてきた試料を分析したフランスの古植物学者のルロワ=グーランが書いた論文の翻訳を、このサイトで読むことが出来ます。
(注3)公式サイトの「Introduction」。
(注4)「花はエロスと死の象徴」と言われると、クマネズミはアラーキーの「花」の写真を思い出してしまいます。
例えば、写真展「花緊縛」(2008年5月)に関する紹介文では、「「エロス(性/生)とタナトス(死)についていつも考えている」と荒木は言います。常にエロスとタナトスを表裏一体のものとして作品に抱え込む荒木は、本展にて、エロスとして“緊縛”を、タナトスとして“花”を用い、それらをひとつの作品のなかに共存させ、これまでに無いかたちで昇華させています」と述べられています。
(注5)なお、映画の中で響子は大瀧に対して、「みんな心に大きな穴を持っていて、大切なものを探して揺れている。花は心の絵なの」と言いますが、大瀧は「それは君の感傷的な解釈に過ぎない」と切り捨てます。
(注6)研究所のゲストハウスにいる女性について、簡単に見てみましょう。
・ユリエ(伊藤歩)の場合は、心を寄せていた大瀧が響子に関心が深いのを知ると、「何で先生は、私じゃなくて花にしか興味がないの!」と酷く暴れますが、結局は手術で花を切り離してもらうことになります。ところが、花が摘み取られた後、心臓が停止して死んでしまいます。
・ミク(山下リオ)の場合は、途中で芽が枯れてしまい錯乱して、他の女性の胸から咲きかかっている花をむしり取ってしまいます。
・ハルカの場合は、研究所の施設に入りたくないと言っていたところ、響子の説得で翻意しそこで暮らすことになり、大きな花を咲かせます(ただし、その花を摘み取ってミクに手渡して倒れてしまいますが)。
(注7)「この花は、人を滅ぼす悪魔なのか、それとも人をどこかに導く天使なのか」と思い迷う大瀧の背後から響子が現れ(夢の中のようです)、「目が覚めたのか?」と問う大瀧に対して、「あなたが、今日、目が覚めたの」と言い、地面に咲く2つの花を指して「これが私、これはあなた」と言います。と周りを見ると、当たり一面に「シャニダールの花」が咲いており、大瀧は「僕たちはみんな花に戻る」とつぶやくのです。
(注8)響子は、密かに一人で研究室に潜り込んで「シャニダールの花」について調べるなど、自分でどんどん行動していくタイプのようです。
響子が研究所に勤めてから暫くすると、彼女の胸にも芽が生えてきます。響子は、この芽を大事に育てて花を咲かせ、摘まないで種を得たらどうなるか見てみたいと強く望みますが、大瀧は、花は毒を盛っているから危険だとして、響子が寝ている隙に芽をナイフで切り取ってしまいます。すると、響子は大瀧に対して、「あなたは、自分が考えられることしか受け入れられない人だ。さよなら」と言って立ち去ってしまいます。
★★★★☆
象のロケット:シャニダールの花
(1)この映画を制作した石井岳龍監督の前作『生きてるものはいないのか』を見たこともあり、映画館に行ってみました。でも、興行的には不振のようで、休日にもかかわらず6人ほどの観客でした。
映画の最初に、「恐竜に食い荒らされた植物が、絶滅から免れるために花を生んだ。植物が花と種に小型化したために、餌が激減してしまい恐竜は絶滅した」というナレーションが入ります。
次いで、製薬会社の研究所で働く研究者・大瀧(綾野剛)が、新任のセラピスト・響子(黒木華)を連れて研究所内を案内します。
研究室では研究員が研究に勤しんでいますし、ゲストハウスには何人もの若い女性が暮らしています。女性たちは、胸に植物の芽が生えてきたことから、1億円の契約金と引き替えに、この施設で花が咲くまで生活します。
他方で、研究所の所長(古舘寛治)は、胸から花を切り離す手術に立ち会います。切り離した花は特別な容器に入れられます。ただ、その手術を受けた患者は酷く苦しみだし、モニターの心電図が平坦になってしまい、電気ショックが与えられます。
一体この研究所では何が行われているのでしょう、大瀧と響子はこれからどうなるのでしょうか、……?
若い女性の胸に植物が芽生え、ついには花を咲かせてしまうという着想は凄く面白く、またその花を中心にして描かれる大瀧と響子のラブストーリーも興味深く、総じて、原因不明の大量死が次々に描かれる『生きてるものはいないのか』より本作の方が、ズッと滑らかに物語が展開しているという印象を持ちました。
主演の綾野剛は、『横道世之介』とか『その夜の侍』などで見ているものの、主演作を見たのはクマネズミにとってこれが初めて。持てる魅力が上手く発揮されている感じで、これからも大いに活躍するものと思います。
また、ヒロインの黒木華は、『舟を編む』(あとから辞書編集部に参加)や『草原の椅子』(主人公の娘)で見ましたが、本作も含めて、至極真面目で芯のある女性の役にはうってつけではないかと思いました。
(2)本作を見て当然に起こるのは、「シャニダールの花」とは本作において何を意味しているのかということでしょう(注1)。
映画の中では、「ネアンデルタール人の墓にあった花」と説明されています(注2)。でもそれは、付けられた名前の由来であって、この花の持つ意味合いではありません。
石井岳龍監督自身は、「花はエロスと死の象徴であり、それに侵される男女を見つめ直すことは、生命力の在り方をとらえ直すこと」と語っています(注3)。ただ、それではなんだかありきたりで(注4)、全般的・抽象的なのではと思えます(注5)。
そこでまず、本作でおける「シャニダールの花」の特徴を見てみると、例えば次のようなものが挙げられるでしょう。
・若い女性の胸に、突然芽が出てきて花が咲く。
・ただ、女性なら全てこの花を咲かせられるというものでなく、どうやらかなり限られた女性だけに起こる現象のようです。
・芽が出てきたら全て花が咲くわけではなく、枯れてしまう場合もあります(その場合には、施設から退去させられます)。
・切り取られた花からは、画期的な新薬を作り出すことが出来るとされています(それで、製薬会社は、大金をかけて芽を持った女性を集めています)。
・花は咲かせたままにしておくと女性の命に問題があるとされ、適当な時期に切り離されますが、花を胸から切り離す手術を施すと、その女性が死に至る場合もあります。
本作において、この「シャニダールの花」は何かを象徴しているのではと考えられるところ、こう様々の特徴を持っているとなると、ドンピシャで当てはまるものはなさそうながら、クマネズミは、とりあえずは「女性の女性たるところ」あるいは「純粋な愛の心」といったものではないかと考えてみました。
映画の中のより具体的なケース(注6)を踏まえながらもう少し言えば、若い女性の場合、純粋に愛の心を育んでいればこの花を大きく咲かせることが出来ますが、嫉妬や憾みでその心が歪むと育ちが悪くなり、また愛の心がなくなってしまうとたちまち枯れてしまう、というように考えてみたらどうなのか、と思いました。
とはいえ、ラストの光景を見ると(注7)、こんな解釈ではどうも狭すぎるようです。なにしろ、辺り一面に「シャニダールの花」が咲き乱れる光景が出てくるのですから。そうであれば、やはり、「花はエロスと死の象徴」とするありきたりな解釈でとどめておいた方が無難なのかもしれません(あるいは「解釈X」とでもしておいて、この先も何がXとして代入できるか考え続けるべきなのでしょう )。
(3)もう一つ、この映画を見て興味深いなと思ったことは、大瀧のアシスタントのはずの響子が中心的に能動的に動いていて、主役の大瀧は、むしろ響子にいいように動かされている感じがする点で(注8)、なんだか最近見た『さよなら渓谷』が思い起こされました。
(4)渡まち子氏は、「人の胸に寄生する不思議な花をめぐるミステリアスなファンタジー「シャニダールの花」。終末論的な物語が展開するが、基本はメロドラマ」として60点を付けています。
(注1)響子は大瀧に対し、「この花は何?それが一番大切じゃないの?何より花のことを知らなくては」と言います(大瀧は、それに対し、「我々の仕事は、花を育て摘み取ることだけだ」と言うのですが)。
(注2)響子がハルカ(刈谷友衣子)に、「「シャニダールの花」は、ネアンデルタール人の墓にあった花で、心が発生した瞬間だという説がある」と言い、「胸に生える花は、人が初めて生んだ花だから「シャニダールの花」と名づけられた」と説明します。
ただ、ラストの方で、研究所(そのときは既に閉鎖されていますが)の所長が、「その話は大嘘。ネアンデルタール人は、残忍で肉食。あいつらは、花に寄生されて滅んだんだ。あの花はマグマの力を持っている。兵器になる可能性があり、各国のスパイが狙っている」などと大瀧に話します。
とはいえ、所長の話自体も大嘘のようにも思えます。
Wikipediaの「ネアンデルタール人」の項の「埋葬」には、「R・ソレッキーらはイラク北部のシャニダール洞窟で調査をしたが、ネアンデルタール人の化石とともに数種類の花粉が発見された。発見された花粉が現代当地において薬草として扱われていることから、「ネアンデルタール人には死者を悼む心があり、副葬品として花を添える習慣があった」と考える立場もある」と記載されています。
なお、R・ソレッキーから送られてきた試料を分析したフランスの古植物学者のルロワ=グーランが書いた論文の翻訳を、このサイトで読むことが出来ます。
(注3)公式サイトの「Introduction」。
(注4)「花はエロスと死の象徴」と言われると、クマネズミはアラーキーの「花」の写真を思い出してしまいます。
例えば、写真展「花緊縛」(2008年5月)に関する紹介文では、「「エロス(性/生)とタナトス(死)についていつも考えている」と荒木は言います。常にエロスとタナトスを表裏一体のものとして作品に抱え込む荒木は、本展にて、エロスとして“緊縛”を、タナトスとして“花”を用い、それらをひとつの作品のなかに共存させ、これまでに無いかたちで昇華させています」と述べられています。
(注5)なお、映画の中で響子は大瀧に対して、「みんな心に大きな穴を持っていて、大切なものを探して揺れている。花は心の絵なの」と言いますが、大瀧は「それは君の感傷的な解釈に過ぎない」と切り捨てます。
(注6)研究所のゲストハウスにいる女性について、簡単に見てみましょう。
・ユリエ(伊藤歩)の場合は、心を寄せていた大瀧が響子に関心が深いのを知ると、「何で先生は、私じゃなくて花にしか興味がないの!」と酷く暴れますが、結局は手術で花を切り離してもらうことになります。ところが、花が摘み取られた後、心臓が停止して死んでしまいます。
・ミク(山下リオ)の場合は、途中で芽が枯れてしまい錯乱して、他の女性の胸から咲きかかっている花をむしり取ってしまいます。
・ハルカの場合は、研究所の施設に入りたくないと言っていたところ、響子の説得で翻意しそこで暮らすことになり、大きな花を咲かせます(ただし、その花を摘み取ってミクに手渡して倒れてしまいますが)。
(注7)「この花は、人を滅ぼす悪魔なのか、それとも人をどこかに導く天使なのか」と思い迷う大瀧の背後から響子が現れ(夢の中のようです)、「目が覚めたのか?」と問う大瀧に対して、「あなたが、今日、目が覚めたの」と言い、地面に咲く2つの花を指して「これが私、これはあなた」と言います。と周りを見ると、当たり一面に「シャニダールの花」が咲いており、大瀧は「僕たちはみんな花に戻る」とつぶやくのです。
(注8)響子は、密かに一人で研究室に潜り込んで「シャニダールの花」について調べるなど、自分でどんどん行動していくタイプのようです。
響子が研究所に勤めてから暫くすると、彼女の胸にも芽が生えてきます。響子は、この芽を大事に育てて花を咲かせ、摘まないで種を得たらどうなるか見てみたいと強く望みますが、大瀧は、花は毒を盛っているから危険だとして、響子が寝ている隙に芽をナイフで切り取ってしまいます。すると、響子は大瀧に対して、「あなたは、自分が考えられることしか受け入れられない人だ。さよなら」と言って立ち去ってしまいます。
★★★★☆
象のロケット:シャニダールの花