
遅ればせながら『桐島、部活やめるってよ』を新宿バルト9で見ました。
(1)物語の舞台は現代の高校(山がすぐそばにある地方の高校でしょう)、登場するのはほとんどが高校2年生ながら、まずまずの作品に仕上がっています。
とりわけ、
イ)映画のタイトルにもなっている桐島は、女子の人気が高く〔飛びきり美人の梨紗(山本美月)が、部活が終わるまで体育館の外のベンチで待っているくらいです〕、成績優秀、合わせて運動能力も抜群(バレー部のキャプテン)でありながらも、「部活をやめる」との噂が学校中を駆け巡ります。
ですが、本作には御本人の登場は最後までありません。
ロ)そんな彼を皆が酷く頼りにしているため、その噂は様々な波紋を生徒たちに引き起こします。
例えば、梨紗は、これだけ誠意を尽くしているのにもかかわらず、自分に重大なことを何も知らせてこない桐島に腹を立ててしまいます。
バレー部は対外試合に臨んだもののの、桐島を欠いているため負けてしまいます。副キャプテンは、桐島に代わって出場した風助が問題だとばかりに、部活で彼一人だけを特訓し続けます(注1)。
ハ)そんな生徒たちの様子が、映画で複眼的に描き出されます。
映画の最初の方では、同じ「金曜日」の出来事(「桐島が部活をやめたらしい」との情報が飛び交う)が4回も違った視点から描かれて、同じ事件も違った人物からすると違ったように見えることが観客にわかるようになっています(これは、推理物で、同じ事件について違った証言がなされる場合にも使われる方法でしょう)。
ニ)高校の映画部では、指導担当の先生から制作のストップをかけられているにもかかわらず、生徒だけでゾンビ映画を撮ろうとします(注2)。

そして、本作では、キャプテンの涼也(神木隆之介)の頭の中で出来上がっているゾンビ映画の断片が映し出されるところ、バレー部の副キャプテンの内臓がえぐり取られるなどのシーンがあったりして、なかなか興味深いものがあります(『スーパーエイト』で子供たちが制作したゾンビ映画とか、『東京公園』で挿入されるゾンビ映画などが思い起こされます)。
ホ)亜矢(大後寿々花)がキャプテンを務める吹奏楽部が、ワーグナーの曲(注3)を大層うまく演奏しています。

ヘ)そんな中にも愛情のもつれのようなことも描かれます。
映画部のキャプテン涼也は、同級のかすみ(バドミントン部:橋本愛)に思いを寄せているものの(注4)、彼女は同級の竜汰と付き合っています。
吹奏楽部のキャプテン亜矢は、同級の宏樹(野球部→帰宅部:東出昌大)に密かに好意を寄せているのですが、彼は沙奈が好きなのです(宏樹の関心を引こうとして亜矢がサックスを吹くシーンがありますが、なんとなく『スイングガールズ』の上野樹里を思い出させます)。
本作に出演する俳優は若く、『スープ』に出演していた橋本愛を除いて初めて見る顔ぶれですが(注5)、暫くしたら皆活躍し出すのではないでしょうか。

(2)この映画の中心人物は、映画のタイトルにもなっている「桐島」ですが、最初にも申し上げたように、彼は本作には一切登場しないのです。
そんなところから、クマネズミは、これは、上で触れた『東京公園』のエントリで取り上げましたロラン・バルトの『表徴の帝国』に通じるところがあるのでは、と思いました。
くどくなって恐縮ですが、もう一度引用しておきましょう。
「わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、≪いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である≫という逆説を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、……、その中心そのものは、なんらかの力を放射するためにそこにあるのではなく、都市の一切の動きに空虚な中心点を与えて、動きの循環に永久の迂回を強制するために、そこにあるのである。このようにして、空虚な主体にそって、〔非現実的で〕創造的な世界が迂回してはまた方向を変えながら、循環しつつ広がっているのである」。
その際には、三浦春馬扮する主人公の光司が、バルトの言う「空虚な中心」なのかもしれないと申しあげましたが、本作の「桐島」の方がもっとその言葉に相応しいのかもしれません。
(3)渡まち子氏は、「アメリカ映画では当たり前の、学校内の格差を明言したことが起爆剤となり、物語は、屋上で繰り広げられるクライマックスのカタルシスとなって昇華される。神木隆之介、橋本愛、大後寿々花など、日本映画の将来を担う若手俳優たちがリアルな高校生に扮し、部活、友情、恋愛だけでなく、秘密や嫌悪、劣等感、孤独や不安まで見事に演じきった」として80点もの高得点をつけています。
(注1)劇場用パンフレットに、風助について「2年生。リベロ。同じリベロでありキャプテンでもある桐島を慕い尊敬していた」とあるところ、Wikipediaによれば「リベロはチームキャプテン・ゲームキャプテンともに務めることはできない」とされており、一般と違って高校生の場合は認められるとも考えられますが、「桐島」が格好良くてスポーツ万能だとしたら、そもそも「リベロ」だとは考えられないのですが?
(注2)涼也は父親譲りの8ミリカメラを所持して映画を製作しようとしていますが、こんなところは、『キツツキと雨』の中で、小栗旬扮する映画監督の幸一が、役所公司扮する克彦に「どうして映画なんかやろうとしたの?」と聞かれて、「おやじがビデオカメラを買って、俺が遊びで使いだした、まあそんなとこ」と答える場面を思い出しました(涼也は、宏樹に「将来は映画監督?」と尋ねられて、「無理」と答えますが、『キツツキと雨』の幸一のようになるのも考えられないわけでもないでしょう!)。
(注3)歌劇「ローエングリン」より「エルザの大聖堂への入場」。
(注4)涼也は、中学時代にかすみと同級だったものの、高校に入ってからは疎遠にしていたところ、塚本晋也監督の『鉄男』を見た映画館でかすみと偶然に出会い、話をするようになります。
なお、『鉄男』については、このエントリの(3)で触れています。
(注5)『スープ』には大後寿々花も出演していたようですが、印象に残りませんでした。
★★★☆☆
象のロケット:桐島、部活やめるってよ
(1)物語の舞台は現代の高校(山がすぐそばにある地方の高校でしょう)、登場するのはほとんどが高校2年生ながら、まずまずの作品に仕上がっています。
とりわけ、
イ)映画のタイトルにもなっている桐島は、女子の人気が高く〔飛びきり美人の梨紗(山本美月)が、部活が終わるまで体育館の外のベンチで待っているくらいです〕、成績優秀、合わせて運動能力も抜群(バレー部のキャプテン)でありながらも、「部活をやめる」との噂が学校中を駆け巡ります。
ですが、本作には御本人の登場は最後までありません。
ロ)そんな彼を皆が酷く頼りにしているため、その噂は様々な波紋を生徒たちに引き起こします。
例えば、梨紗は、これだけ誠意を尽くしているのにもかかわらず、自分に重大なことを何も知らせてこない桐島に腹を立ててしまいます。
バレー部は対外試合に臨んだもののの、桐島を欠いているため負けてしまいます。副キャプテンは、桐島に代わって出場した風助が問題だとばかりに、部活で彼一人だけを特訓し続けます(注1)。
ハ)そんな生徒たちの様子が、映画で複眼的に描き出されます。
映画の最初の方では、同じ「金曜日」の出来事(「桐島が部活をやめたらしい」との情報が飛び交う)が4回も違った視点から描かれて、同じ事件も違った人物からすると違ったように見えることが観客にわかるようになっています(これは、推理物で、同じ事件について違った証言がなされる場合にも使われる方法でしょう)。
ニ)高校の映画部では、指導担当の先生から制作のストップをかけられているにもかかわらず、生徒だけでゾンビ映画を撮ろうとします(注2)。

そして、本作では、キャプテンの涼也(神木隆之介)の頭の中で出来上がっているゾンビ映画の断片が映し出されるところ、バレー部の副キャプテンの内臓がえぐり取られるなどのシーンがあったりして、なかなか興味深いものがあります(『スーパーエイト』で子供たちが制作したゾンビ映画とか、『東京公園』で挿入されるゾンビ映画などが思い起こされます)。
ホ)亜矢(大後寿々花)がキャプテンを務める吹奏楽部が、ワーグナーの曲(注3)を大層うまく演奏しています。

ヘ)そんな中にも愛情のもつれのようなことも描かれます。
映画部のキャプテン涼也は、同級のかすみ(バドミントン部:橋本愛)に思いを寄せているものの(注4)、彼女は同級の竜汰と付き合っています。
吹奏楽部のキャプテン亜矢は、同級の宏樹(野球部→帰宅部:東出昌大)に密かに好意を寄せているのですが、彼は沙奈が好きなのです(宏樹の関心を引こうとして亜矢がサックスを吹くシーンがありますが、なんとなく『スイングガールズ』の上野樹里を思い出させます)。
本作に出演する俳優は若く、『スープ』に出演していた橋本愛を除いて初めて見る顔ぶれですが(注5)、暫くしたら皆活躍し出すのではないでしょうか。

(2)この映画の中心人物は、映画のタイトルにもなっている「桐島」ですが、最初にも申し上げたように、彼は本作には一切登場しないのです。
そんなところから、クマネズミは、これは、上で触れた『東京公園』のエントリで取り上げましたロラン・バルトの『表徴の帝国』に通じるところがあるのでは、と思いました。
くどくなって恐縮ですが、もう一度引用しておきましょう。
「わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、≪いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である≫という逆説を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、……、その中心そのものは、なんらかの力を放射するためにそこにあるのではなく、都市の一切の動きに空虚な中心点を与えて、動きの循環に永久の迂回を強制するために、そこにあるのである。このようにして、空虚な主体にそって、〔非現実的で〕創造的な世界が迂回してはまた方向を変えながら、循環しつつ広がっているのである」。
その際には、三浦春馬扮する主人公の光司が、バルトの言う「空虚な中心」なのかもしれないと申しあげましたが、本作の「桐島」の方がもっとその言葉に相応しいのかもしれません。
(3)渡まち子氏は、「アメリカ映画では当たり前の、学校内の格差を明言したことが起爆剤となり、物語は、屋上で繰り広げられるクライマックスのカタルシスとなって昇華される。神木隆之介、橋本愛、大後寿々花など、日本映画の将来を担う若手俳優たちがリアルな高校生に扮し、部活、友情、恋愛だけでなく、秘密や嫌悪、劣等感、孤独や不安まで見事に演じきった」として80点もの高得点をつけています。
(注1)劇場用パンフレットに、風助について「2年生。リベロ。同じリベロでありキャプテンでもある桐島を慕い尊敬していた」とあるところ、Wikipediaによれば「リベロはチームキャプテン・ゲームキャプテンともに務めることはできない」とされており、一般と違って高校生の場合は認められるとも考えられますが、「桐島」が格好良くてスポーツ万能だとしたら、そもそも「リベロ」だとは考えられないのですが?
(注2)涼也は父親譲りの8ミリカメラを所持して映画を製作しようとしていますが、こんなところは、『キツツキと雨』の中で、小栗旬扮する映画監督の幸一が、役所公司扮する克彦に「どうして映画なんかやろうとしたの?」と聞かれて、「おやじがビデオカメラを買って、俺が遊びで使いだした、まあそんなとこ」と答える場面を思い出しました(涼也は、宏樹に「将来は映画監督?」と尋ねられて、「無理」と答えますが、『キツツキと雨』の幸一のようになるのも考えられないわけでもないでしょう!)。
(注3)歌劇「ローエングリン」より「エルザの大聖堂への入場」。
(注4)涼也は、中学時代にかすみと同級だったものの、高校に入ってからは疎遠にしていたところ、塚本晋也監督の『鉄男』を見た映画館でかすみと偶然に出会い、話をするようになります。
なお、『鉄男』については、このエントリの(3)で触れています。
(注5)『スープ』には大後寿々花も出演していたようですが、印象に残りませんでした。
★★★☆☆
象のロケット:桐島、部活やめるってよ
さらに半年遅れの鑑賞になりましたが
本当に観れて良かったと思う作品でした。
これからの活躍が楽しみとは言え
今はまだ売出し中の若手のみの出演
ほとんど学校内だけの撮影で
こんな面白い映画がつくれるって、すごいと思いました。
橋本愛は『さよならドビュッシー』で主演をしていますが、
他の若手もこれからどんどん活躍してほしいものだと思い
ます。