世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(14)

2024-05-07 00:00:00 | Weblog

(10) 間違いの10、「(二〇三高地から)旅順港は、見おろせるか」と電話 

   で確認して初めて解ったこと。「坂の上の雲」では初めから見えるとし 

   て話を進めている。これは司馬の捏造に他ならない。p184 

 

   (9)の最後の引用文には、「二百三高地さえ落とせばいい、そこなら旅順 

  港を見おろすことができるのである。大本営(陸軍部)参謀本部もこれ 

  を十分了承していた。」とあるが、これは司馬の大捏造である。 

  そうであるなら、何も児玉が電話で山頂の将校に旅順港は、見おろせる 

  か」などと確認する必要はないはずである。 

  もし聞くとしたら「どのように見えるのか」であれば整合性がある。 

 

  司馬遼太郎は、海軍までもが 

  「海軍にすれば二〇三高地の頂上に立てば旅順港を見下ろせる。そこに観 

  測兵を置いて港内の軍艦を陸軍砲で砲撃すればそれで旅順の残存艦隊は消 

  える。などと勝手に「見下ろせる」などとしていたのであるが、ならば 

  「旅順港は、見おろせるか」などという事は必要なかったはずである。 

 

  実際には日本軍にとっては、何もわかっていなかったということであり、 

  だからこそ二〇三高地の占領が必要だったのである。「坂の上の雲」での 

  話は、つじつまが合っていない。 

 

  これは司馬遼太郎一流の捏造だったからである。 

 

(11) 二〇三高地後、乃木軍は「多少ノ時日ヲ費スモ確実ナル方法」を採用す 

   る。司馬の「残敵掃蕩期に入った」は間違い。

 

  旅順第一回総攻撃は1904年8月19日の朝、攻城砲攻撃部隊の砲撃で火蓋 

  を切った。そして前哨戦として歩兵の突撃が開始されたが、死傷者続出し 

  た。軍主力の攻撃は、8月21日午前四時を持って開始されたが、激烈を極 

  め8月22日午前五時、攻撃不成功を覚り、攻撃を中止した 

 

  桑原嶽著の「乃木希典と日露戦争の真実」(P135)には次のように書かれて 

    いる。 

   

  「旅順第一回総攻撃は終わった。 

   我の戦闘総員五万七百六十五名。戦死傷者一万五八六〇名に対し、 

  彼の方は、戦闘総員約三万三七〇〇名、死傷者の数は約一万一五〇〇 

  である。(p135) 

  …旅順攻撃中止の決断は、我が砲弾か底をついて、これ以上の砲撃が不可 

  能となったので下されたのである。(p136)…」 

 

  そして乃木の判断は、 

  「すでに砲兵弾薬が消耗し尽くし、このまま攻撃を続行することは徒に損 

  害を増やすだけであり、成功の見込みは全くない。このまま攻撃を続行す 

  ることは徒に損害を増やすだけであり、成功の見込みは全くない。きわめ 

  て妥当な決心と言うべきであろう。」(p129)とも書かれているのである。 

 

  第三軍総司令官の乃木希典大将としては、外野からの圧力によりこのよう 

  な無理な攻撃をせざるを得なかった訳であるが、決してこれは乃木の本心 

  ではなかった。 

  二〇三高地後は、「…今ヤ多大ノ犠牲ヲ供して強襲する必要無キガ故ニ 

  少ノ時日ヲ費スモ確実ナル方法ニ由リ勉メテ我損害ヲ滅シ且全力ヲ一点ニ 

  集中朝ニ一塁ヲ略シタニ一塁ヲ奪ヒ逐次各堡塁ニ及ホスノ方針ヲ採レリ 

  との状況判断になっている(p185)。 

(続く)

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