銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

ゴッホは、テオを追い詰め過ぎてしまったのか?

2009-10-31 23:16:49 | Weblog
 私は評論的に書くことが好きではなく、事実を引き合いに出して書くことが好きです。ゴッホについて書くときも、美術の世界では、お金がかかる事実があって、それを身にしみて感じているから、共感をするし、家族や親族から援助を受けている事実も、実は自分とそっくりなのです。15万円という額ですが、それは、部屋代や食費さえも含むので、ゴッホにとっては、まったく、正当な貧乏生活であって誠実のみぎりの生活だという自覚があることも、アトリエで一人暮らしを経験した身、そして、海外で滞在型研修を三回も続けた、身には、よおく、よおく、わかることなのです。

 芸術家という種族にとって、漂泊の生活はとても、よいのです。定着して蓄財に励むなどというのは芸術家の、姿とは遠いものです。だから、ゴッホのオーヴェール生活は真に理想的なものでした。が、その影で、車輪に轢かれるようにして、弟テオが犠牲になったというのが、その番組の新説です。

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 特に弟テオが結婚をして子供ができました。その新婚家庭に、ゴッホが訪問をした際に、どうも、口論があったらしいのです。それは誰も、文章として記録していないそうですが、ゴッホが友人たちに会う約束をキャンセルして、急にオーヴェールへ帰ったことから、その推理が成り立つのだそうです。

 つまり、三日ぐらい弟の家に滞在する予定だったのが、一日程度で急に帰ったわけです。私は弟が独身時代には、ゴッホは、その部屋で自由に滞在できたが、お嫁さんがいる家では、わがままができなくなっていたし、

 その上、お金の側面でも、奥さんから、テオは、
「お兄さんに、もう、送金を止めるといいなさい」などと、責められていたのでしょう。

 ここから先は番組でも触れなかった、例の私固有の見てきたようなうそをいい、の類ですが、奥さんがわざと、隣室で、「お金が無い」とか、「お金が足りない」いうせりふをゴッホに聞こえるような大きさで、吐いたとしましょう。
 子供を産んだ女性は、悪い言葉で言えば、したたかというか、よい言葉で言えば「母は強し」で、はっきりものをいう可能性はあります。一種の計算に基づいて、そういう言葉を出すことはあるでしょう。

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 ゴッホはもちろんびっくりして、次の日の早朝に帰宅したわけです。しかし、決定的にテオから縁切りをされているわけではないから、テオに手紙を出します。

 その内容はゴッホファンにとっては残念なものですが、弟に、見当はずれな忠告をしたものです。つまり、「孫を見せるためにオランダにある奥さんの、実家訪問をかねた旅行をするのを、止めなさい」と言った手紙なのです。「それは、お金がかかりますよ」という言葉を添えて。

 奥さんはそれを、読んで怒ったと思いますよ。で、二人はゴッホに逆らって旅行を決行しました。しかも、奥さんはその際に、パリに戻りませんでした。<<<孫を見せに帰ったついでに、実家に戻ってしまった>>>というよくあるケースです。

 『夫の優柔不断を見限っているわけです』。この二重カッコ内の一行はテレビでは言われておりませんが、私はそうだったと感じます。それに、テオは追い詰められてしまいました。

 奥さんをとるか、お兄さんをとるかの綱引きに追い詰められてしまったのです。もしゴッホが察しのよい人間で、しかも気弱な人間だったら、ここで、テオは、自分の主張をゴッホに告げて、ゴッホが絵描きを止めて、労働者(たとえば農家の小作人として働く)こともあったかもしれないのですが、

 ゴッホはすこぶる強い人だったのです。あのゴーギャンさえも追い詰めた人なのですから、弟テオを追い詰めていても、

 しかもそれに、気が付いていても、その対策に当たって、自分が絵を描くのを止めることを、考え及びはしませんでした。自分から絵を止めるとは言わなかったのです。

 言葉で説得ができなかったので、テオはピストルでゴッホを撃ったというのが、その新説です。うーん、書くのも疲れますが、それでも、これは、さまざまなことを考えさせられる、事実なので、さらに連続して考え続けましょう。ただ、長くなるので、ここで、一回ほどきります。どうか、よろしく。
    2009年11月1日、これを書き、送るのは、後で、
                          雨宮舜(川崎千恵子)
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ゴッホは、一月、15万円で暮らしていた?

2009-10-31 00:41:03 | Weblog
 匠展という北鎌倉の文化祭の催しは、公民館の名前だけが間違っていました。場所は同じですが、山之内公会堂というのが正しい名前の模様です。

 『そこへ参加をなさった後で、1日と2日の両日、我が家へもお寄りいただきたい』と二日前に、申し上げましたが、よく考えると作品を取りに行くために、2日は、午後二時に家を出ますので、同日はほとんど、お招きが無理かと思います。あしからずご了承をいただきたく。・・・・・・

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 さて、BSジャパンの驚くべき再現番組、ゴッホの暗殺説ですが、これは、小林利延という方の、著書に基づいた、説らしいのですが、

 私はこの新説にも、70%のレベルで賛成をいたします。

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 ここで、新説による、他殺者の名前を書いてしまうと、ネタばれになるので、番組の構成をみならって、一応、犯人と称される名前をかたらず、ゴッホの当時の生活費について述べさせてくださいませ。

 それほど、裏事情が丁寧に、説明をされており、それが納得ができるものでした。 

 ともかく、創作者、もしくは芸術家というのは、身内にとっては、厄介な存在です。とても重荷になります。演奏家というのは、比較的やわらかい種族で、ヴァイオリニストや、ピアニストが身内にいることを誇る人は多いのですが、

 現代アートや、詩、や、評論関係の文章系創作者、が、身内にいると、それ以外の、普通の精神やら神経を持っていて、ビジネスマンとして生きている、親族は負担を感じるものなのです。

 というのも、普通の仕事をして、お金を稼ぐということは、イコール、記帳をしたり、パソコンをいじったり、会議をしたりプレゼンをしたりして、人と会うとか、人と交流することで、成り立っています。そういう、こまごまとした時間の積み重ねによって、お金が稼げるものなのです。そういう人から見ると、芸術家というのはある一点に、行動を集中しているので、不器用でもあり、わがままにも見えます。

 その結果、天才的であると後世に称される人ほど、生きている間は、お金はほとんど稼げません。日本では石川啄木、宮沢賢治、田中一村、など、清貧のうちに、なくなっていますし、外国でもモーツァルトや、シューベルトがお金持ちであったとは聞いたことがありません。

 特に天才的な絵描きはそうです。その裏側が真にどうなっているかはほとんど、公開されていませんが、ゴッホの場合は膨大な手紙類が残されていて、後世の学者の研究意欲をそそるのか、たくさんの分析が重ねられています。

 で、今回の番組で、特に説得力が高かったのは、金銭的な側面の研究でした。オーヴェールで、ゴッホは屋根裏部屋を借り、食事は、一種の下宿として、一階のレストラン(または、カフェ)で提供をされるものを食べていた模様です。

 これから先は、番組が触れなかった下世話な部分であり、そこから離れて、私独自の計算ですが・・・・・

 主婦として、その70日間を考えると、その下宿代が、今の日本円で、一月に、7万円から9万円だと考えられます。

 画家として、絵の制作代を考えて見ましょう。70日間に70枚の絵を描いたそうですが、突然の死ですから、未使用のキャンバスが余っていたとして、一枚1200円程度で計算しても、12万円、一か月にして、5~6万円です。

 ゴッホは、油絵の具をたくさん使う類の絵を描いています。だから、油絵の具のチューブを買うお金も必要です。それが、総計で、4~5万円として、一か月当たり、2~3万円です。時々はパリに出かけているし、手紙もたくさん書いているので、通信・交通費として、つきに一万円は見ておきましょう。

 洋服代や、靴代は含んでいません。

 以上を総計として計算すると、どうしても、月に15~19万円かかります。
 これから先、もう一回番組で紹介した情報に戻ると、ゴッホは弟のテオから毎月、当時のお金で500フラン、現在の日本円で、15万円の仕送りを受けていたそうです。そこで、ぴったりと計算が合います。

 ところが、パリにいるテオは、サラリーマンでした。画廊を経営しているわけではなくて、画廊の勤め人だったのです。

 ということは商売上手で売上金の何十パーセントかが、自分の懐に入ったとしても、総計、30万円~50万円以内の収入だったと考えられます。
 30万円だったら、50%を兄に上げることと成り、60万円だったら、15%を兄に与えることと成ります。

 間をとって、40万円だったと仮定をして見ましょう。これは、私独自の説ですが、ありえます。そうなると、兄のヴィンセントに渡すお金は、月収の40%になります。将来兄の絵が、高額で売れると信じれば、現在の40%の資本投下は冷静な計算でも可能かもしれません。

 ただ、それでも、自分の収入の40%を兄に渡すというのは、テオが非常に優しい性格だったことを示しています。しかし、優しい人には問題がおきやすいのです。私は、56歳まで優しいの一辺倒で、人になめられたり馬鹿にされてきたから、そこがよくわかるのですが、

 優しい人は我慢に我慢を重ねます。そういう意味では強いのです。そして、ある日耐えられなくなって爆発します。優しくない人は怒り(とか、マイナスの感情)を小出しにしますので、爆発をしませんが、やさしい人は爆発をします。

 これが、その新説の心理的な側面の骨子だと、私は思うのです。でも、これから先は長くなりすぎますので、後日の続編とさせてくださいませ。

 ともかく、活発に、創作活動をしようとすると大変にお金がかかるのが美術の世界です。ゴッホの月に、15万円の生活費というのは、ゴッホにとっては贅沢をしているという意識は無かったでしょう。清貧のきわみの生活です。そこも大きなポイントとなります。では、2009年11月1日雨宮 舜(川崎千恵子)
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『いやあ、びっくり、鎌倉の新市長は、松尾さんでした』

2009-10-30 11:31:12 | Weblog
 昨日の深夜、匠(たくみ)展の情報を上げました。
それは、たった、八時間だけ上げて更新してしまっていますので、北鎌倉の秋の散策にご興味のあるかたは、どうか、そちらもごらんをいただきたく・・・・・・

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 また、この文章自体も、2時間で、補遺を最終段階で加えております。

 その中で、鎌倉の新市長は、「渡辺光子さんです」と書いてしまったのですが、今朝、ある筋から偶然にも、新・市長は、松尾たかしさんだと、聞きました。

 一報前では、間違えましたね。だけど、渡辺光子さんのためには、これで、よかったと感じます。
 ご家族ともども、・・・・・・
・・・・・・久しぶりに、静かな日々が訪れて、ご家族の方はひたすら、ほっとなさっておられるところでしょう。

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  私がこの件を一切書かなかったのは、裏にいらっしゃる家族がお気の毒でね。それがわかるから、何も書きませんでした。

  お母さんを、政治に盗られちゃって、家族は大丈夫かしら?と、それを、心配して、一切について触れなかったのです。

  
  彼女自身は結婚後も大学院へ行ったり、仙台(子供のころを過ごした)で、役所の課長さんとかをなさっておられ、最近では神奈川県議会・議員だったのです。

  だから、ご本人はタフだと思う。

  そして、モダンで知的な美人です。

  だけど、普通の奥様という雰囲気も表に出される方ですから、その後ろに健全で、人のよいご家族が控えて支えておられることが、推察をされ、それゆえに、選挙という戦争のさなかでは、ご家族は、ひたすら大変だろうなあと、いたわしく思っていたのです。

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  私なんか、あまり、他人とかかわりの無い、創作の仕事だけですが、20年から10年ぐらい前までは、大変でした。葛藤があって、・・・・・だけど、今は私があきらめて丸くなっていますし、子供も家にいないし・・・・・で、バランスが取れているのですが、

  私の本を読んだ方が、必ずおっしゃる言葉として、『ご主人様がおえらいですね。お宅では』というのがあって、現代日本で、女性が健全な形で働こうとしたら、家族との、融和・協調は欠かせないものなのです。

  『いや、私は天才だから、若死にしていいんだ』と思う人もあろうし、そのくらいでないと、美術史に残るような作品はできません。だから、それはそれでいいんですが、

  政治家になるとしたら、常識ある円満せいが必要でもあり、それは、ご家族との融和・協調の上で、できることだから、この落選は・・・・・・あながち不幸ばかりではなくて、

・・・・・ご家族のためには、よかったと感じます。

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 でも、彼女の最もよいところは、他人に対して礼儀正しく、かつ、公平なところです。そして、よくやるサークル後のお茶のみ(この会は男性も入っているから、軽くビールを飲む人もいるが)を、やらないで帰る・・・・・そこも後で、(将来は、鎌倉市長になるという)大望があったのだとわかってみれば、賢いことでした。

  だけど、不思議な落選でした。これは、途中で民主党が乗っかってきたからだと、私は、推察します。彼女はまったくの無所属で『市民の何とか』という手弁当の主婦たちに、担ぎ上げられたおみこしに乗っていたのに、途中から街宣車が「民主党、民主党の、何の何がしが応援に来て・・・・・』というようなことをがなりたて始めたので、

  あれが、意外にマイナスになったのではないかと感じます。『あれ、主旨が変わってきたぞ』と感じた人は多いのではないかなあ? 彼女の特徴は無所属。で、無色なのが、一番よい点だったのです・・・・・本当に普通の主婦、でも、知的でモダンで、公平(無私?の方は現場を見たことがないが、公平の方は確か)で、いつも穏やかで明朗な人であると、みんなに信頼されていたのです。

  その特徴は、現在の既成政党には無いものです。そこがよかったのに、それが、失われたことが大きいのでしょう。 でも、彼女には汚いことは似合わないので、これが、彼女人生の総体にとっては幸せなことだったかもしれません。政治は、どうしても、汚いところがあると思います。


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 二時間後に加えた補遺

そうなんです。私が渡辺光子さんという賢くて健全な女性について、選挙期間中に一切触れなかったのは、その戦略の変貌についていけなかったことが大きいのです。

最初は、彼女らしい、支援者に囲まれた手作りのささやかなもので、それは、感じのよいものでした。

ところが、。・・・・・・週刊朝日などで、小沢民主党・幹事長が、じゅうたん爆撃的に、官僚社会はぶっ壊すし、あれもぶっ壊す、これも、ぶっ壊すといい始めたら、非常にいやな感じがしました・・・・・・

が、渡辺光子さんへの急に決まった支援も、その一環であるように受け取られてしまうのです。しかも選挙カーが大音量で、毎日回る・・・・・こういうのを鎌倉市民は好みません。鎌倉市民は、100分の一ぐらいの露出度であった松尾さんを選んだわけでした。

成熟しているわけです。大新聞や、マスメディアには踊らされないし、ましてや音の大攻撃などで、左右をされません。

常識をわきまえていて、・・・・・・そのじゅうたん爆撃的、民主党、勝利というのや、それがもたらす未来(一党独裁につながるかもしれない)・・・・・・というのを好んでいないような気がします。

だから、圧倒的に有利だとみなされていた、渡辺光子さんの落選が起きた。と、そのように感じます。でも、渡辺光子、さん、個人にとっては意外と、こちらのほうが、人生上の、上策だったのかもしれないのです。

人生というのは、棺のふたを覆うまで、何が、一番よい選択だったのかは、神のみぞ知ることなのですから・・・・・若い彼女にとって、今は、何も確定できない段階です。

        2009年10月30日             雨宮舜(川崎 千恵子)




                   2099年10月30日  雨宮 舜(川崎 千恵子)
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匠展(北鎌倉、バザープラス、工芸展)のご案内

2009-10-29 23:58:50 | Weblog
 ゴッホの自殺が、本当は他殺であったという新説の続きを書かないといけません。ただ、私はここに三日、匠(たくみ)展という、グループ展の用意のために忙しくしていて、文章をしっかり書く、余裕がありませんでした。

 ゴッホが自殺ではなくて、他殺であったなどという新説を紹介するためにはそうとうな集中とエネルギーが必要です。

 で、それを後回しにして、匠(たくみ)展のご案内のほうをさせてくださいませ。

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 JR横須賀線の北鎌倉の駅は相当に風情のある駅です。JR横須賀線の中でも一番美しい気配のある駅でしょう。

 そこに、文化人の集まる会があって、最近、その中から、鎌倉市長を出したはずです(?)、ちょっとニュースをきちんと見ていないが・・・・・

 私はその会に、一年強、顔を出していたことがあって、20人弱の出席者のうちで『一番、できる女性だな。人間としても格が高い』と思っていた、渡辺光子さんが『あれよ、あれよ』という間に、鎌倉市長におなりになったので、『お、そうだったのか、やはりね』と思ったわけですが・・・・・ごめんなさい。本当に詳しいニュースを知らないのですが、下馬評では圧倒的に有利だという話でしたから、多分、この情報は正しいとして、大丈夫でしょう。

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 その会が秋に文化祭をやるのです。円覚寺の参道や、浄智寺などの参道を使って、物産品の販売(一種のバザーめいたものですね)と、北鎌倉の公民館を使ってグループ展をやるのです。

 その北鎌倉の公民館ですが、平屋建ての小さなものですが、雰囲気は和風の画廊で、中に、主に工芸作家を中心とした展覧会を、11月1日は午後4時ごろまで、11月2日に午後三時まで、開いています。

 北鎌倉には魯山人の昔から工芸作家が多いのです。

 茶釜、竹細工、表装、他の作家の作品が展示をされます。そこへ、ちょっとご紹介によるお招きを受けて、4回ほど、版画を展示させていただいています。

 私の持分は、はば一メートルですので、版画を二点だけ出します。ニューヨーク時代に作ったものですが、色合いは割りと地味なほうです。ですから、昔からの友人たちに来ていただくのは申し訳ないのですが、

 私の実像を知らない方に、本を差し上げたいので、ご興味のある方はおいでくださいませ。

 平台に、6冊目の本『おばさん、お釣りを 忘れているよ』を置いてありますので、ご自由にお持ち帰りくださいませ。

 なお、実像といっても、私は、その場にはおりません。このごろものすごく体が弱くなって、展覧会会場に詰めていることができないのです。

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 だけど、そこから、鎌倉駅行きのバスで、五停留所目にすんでいますので、コメントいう形で、ご連絡をいただければ、住所と電話番号をお知らせいたしますので、お立ち寄りくださいませ。ただ、11月2日は、2時に家を出て、搬出ということをいたします。ので、おたちよりを2時までとさせてくださいませ。

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 匠展につきましては、北鎌倉駅にポスターが出ていると思います。北鎌倉の公民館は、鎌倉街道を、南に向かって、駅から、3分程度のところ、向かって右側にあります。

 北鎌倉の秋をご堪能にいらしていただいて、ついでに、匠展にもおよりいただけますれば幸いです。では、2009年11月30日、雨宮舜(川崎千恵子)
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ゴッホは、自殺ではない、他殺だと言う新説-1

2009-10-28 23:38:32 | Weblog
 その後で、・・・・・というのは、10月27日や28日に公開した、このブログ内の記事に出ていた、BSジャパンの番組のことですが、その中では、
・・・・・あっと驚く新説が披露されました。目をひん剥くとはこのことかと思うほど、びっくりさせられました。

 というのも、ゴッホは自殺ではなくて、他殺で亡くなったというのですから。

 また、決してあざといというわけでもなくて、慎重に論理は進められますが、それでも、一種のミステリー仕立てで進みますので、なかなか真犯人には到達しません。

 私はここで、誤解をして、<<<<<モーツァルトと同じく、前衛過ぎるので、フリーメーソンに殺されたのではないか、とうとうそれが、明らかになるのではないか>>>>>とさえ、期待をしたほどです。

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 テレビ東京は『美の巨人たち』という良質な番組をすでに、長く続けているので、こういう番組の作り方がうまくて、最終的な犯人と目される人物に到達するまで、他の人へ疑惑が向くような設定で、番組が進みます。

 まず、最初はガシェ博士という精神科医へ疑惑の目が向かいます。ガシェ博士は絵を描くのが好きで実際に絵を描き、ゴッホをオーヴェールに招いた人物でもあります。しかし、ゴッホの死後、数々の不可解な行動をとります。

 ・・・・・これも、ネタばれの一種ですが、番組が、相当よいものなので、ネタばれをしても、皆様が視聴をなさると信じて、書きますが、・・・・・・

 イギリス人の研究家によると、オルセー美術館に収められているゴッホの作品の中には、相当数ガシェ博士が、写真から再現した絵が含まれているそうです。オルセー美術館の方では、その件については今のところ、沈黙をしているそうですが・・・・・

 私は、この<<<<<ガシェ博士ガ、ゴッホの贋作を数々制作した>>>>>という説にも80%は賛成します。特に死後寝室から数々の絵を持ち出したというのは、暗殺して、それで、儲けようとしたわけではなくて、ゴッホの絵の、美術的価値に心酔していたからこそ、その模倣によって、自らの絵の、鮮明度=切れ味=を増すことに役立てようとして持ち出したと考えられるからです。

 ゴッホの死後数年後、評価があがり、値が付き始めた模様でしたが、それで、ガシェ博士、および一緒に持ち出した息子が何らかの金銭を得たとしても、今数十億円で売買をされている時代ではないのですから、高が知れている金額で、それゆえに、ガシェ博士は絵が特別に、好きなゆえに、こういう行動をとったという結論で終わり、

 暗殺とは、無関係だったことがわかります。

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 さて、その次にゴーギャンに入っていくのです。耳の件が、ゴーギャンであることを知らされますので、視聴者はまたもや、あやうく、ゴーギャンがやったのかしら? と戦慄をします。

 特にゴーギャンだけが、<<<<知人の中で、葬儀に参列しなかった唯一の人物であった>>>>>などというナレーションが、画面の中から、響いてくる段階では、本当に危うくそれを信じたくなってしまいます。

  だけど、真犯人は別に現れるのです。では、この続きは明日に。

      2009年10月26日   雨宮 舜(川崎 千恵子)



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「こどもの耳から血が出た、助けて」といわれて

2009-10-27 23:12:56 | Weblog
 あれは、30年以上前のことです。我が家は年子の子供がいるので、常に、保育所状態で、よそのお子さんがいっぱい集まっていました。そちらのお母さんたちは「川崎さんは、公平だから安心して預けられる」とおっしゃっていたが、本当にこちらは大変で、『なんだか、毎日振り回されて、自分だけ損をしているなあ』とも思いましたが、『この奉仕は自分の子のためでもある』と思って、ずっと我慢をしていたのです。

 だけど、『人がいいなあ』と思われて、主婦の間では見くびられていることは、知っていました。それでね。それを挽回する方法を知らないのです。いまだと、わかりますね。だけど、30代、40代は、人付き合い(特に主婦同士のそれ)に、どうしていいかわからないという感じで、・・・・・
 
 ところで、その保育園状態の時代に、うちの三~五歳時代の娘を、特に慕ってくれる同い年のナイト(騎士)がいました。小さいながら紳士で、あらゆる意味で、娘をかばってくれたし、大好きだと言う感情を示してくれたのです。

 ところで、親同士は親しくはありませんでした。どうしてかというと、夫同士が同じ会社で、しかも上下関係があり、内の方が上でした。

 そして、妻のほうは、彼女のほうが上でした。その理由は、あらゆる意味で、彼女は、形を崩さない、上品極まりない人なのですが、私は無防備で、まったく警戒心が無いので、すぐ、他人から馬鹿にされてしまうからです。

 それで、夫と、妻の関係がアンバランスなので、子供同士は、めちゃくちゃに、仲良しでも、母親同士は、深い話をしたことがありませんでした。

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 ところが、ある夜のこと、彼女が玄関の戸をたたいて、「すぐ来て、坊やの耳が大変なの。真っ赤な血が出ている。どうしたらよいか、わからないから見に来て、助けて」といいました。私はすぐさま、うちの二人の子に、「待っていてね」といいおいて、すぐそちらに向かいました。

 私は近隣から馬鹿にされています。だけど、大勢いる主婦の中で、私を特に選んで頼ってくれたことに感動して、絶対に救おうと思っていました。

 私は普段は馬鹿みたいですが、結構冷静なところもあって、すぐ、坊やの全体像を見ました。別に、弱っているとも青い顔をしているとも見えず、『これなら、命は大丈夫だ』とまず感じて、『落ち着け、落ち着け』と自分に言い聞かせました。

 ぼうやの耳の中は確かに真っ赤でした。でも、その赤みが、ぬれていないし、つやがあるのです。『母親が気が付かないうちに、出血をして、それが知らないうちに、固まったとしても、これほどの、つやがあるだろうか?』とまず、思いました。『もしかしたら血ではないのではないか』と考えました。

 これほどのつやのある赤いものといえば、小豆です。「小豆じゃあないかしら?」とお母さんに言うと、「えっ」という感じでびっくりして、「小豆は、別に、今日は、出していないけれど」と答えます。

 でも、私は、「これは、きっと小豆よ。ともかくどうしたら、それが、出てくるかを考えましょう」と提案して、最後には遠くから、弱い力で掃除機を当てて、吸い出したのだと思います。あまり強い力をかけると鼓膜を破りますので、そりゃあ、気をつけました。

 ともかく、ポロッと出てきて、小豆であることがわかりました。母親同士二人で、どうして、小豆が坊やの耳に入ったかを考えました。

 私が「お手玉は無い?」と聞くと「ある」との事です。おもちゃ箱をひっくり返してお手玉を出すと、それの中には、確かに小豆が入っていました。坊やにはお姉さんがいて、ちょうど、お手玉をはじめるくらいの年頃だったのです。

 でも、坊や自身は小豆という名前を知らないので、小豆が入ったとお母さんに告げられなかったのでした。そして、ある程度は痛いというか、違和感があったのだと思います。

 だから、「痛い」ということはお母さんに言ったのです。おかあさんは本当の親だからこそ、パニックに陥ってしまいました。でも、身じまいを気をつけて整える人だから、すぐ、救急車を呼ぶこと(それは、大騒ぎを引き起こすことです)など考えられなくて、まず、私に助けを求めてくれたのでした。私は他人ですので、パニックには、陥りませんでした。だから、問題を解決できたのです。が、ともかく、本当にうれしく思いました。

 どちらの家にも、夫はまだ、帰ってきていなかった時間帯だったと思います。主婦二人だけで解決できてどんなに、ほっとしたでしょう。

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 でも、うちへ帰ってきたときに、私の思いは、複雑でした。表面には出ない形ながら、そのお母さんが、何十人もいる近所の主婦の間で、普段は、馬鹿にされている私を、特に選んで、頼ってくれたことが、ある種の、しかも言うに言われない複雑な思いを、きたしたからです。

 今だったら、「ふん、表面はともかくとして、私は、実力があるん・だ・かんね」とダメンズ・ウォーカーか、タモリ風、または谷岡やすじ風・口調で、鼻息荒く、ぶっ飛ばしておけばよいことなのですが、そのころは、本当に純情で華奢でね。

 こんな小さなことにも、ものすごく感動したのです。だけど、雅子様ではないが、小さいころからお受験で、お勉強ばかりしてきた主婦なんて、人付きあいが下手なんですよね。だけど、究極の所では、ちゃんと、人の役に立つんだと思って・・・・・それが、うれしかったのです。

 それに『子供が仲良しと成る間柄の親なんて、やはり、仲良しなんだ。根っこのところでは、ちゃんと信じあっているのだ』ともわかってね。それもうれしかったのです。子供同士は本当に仲良しでした。うちの娘がおっとりと構えているほうで、坊やがいつも先頭切って守ってくれてね。すごくほほえましい関係でした。

 ゴッホの耳の事件を書いているうちに急に、この30年以上も前のことを思い出したのです。では、今日はこれで。 2009年10月27日 雨宮舜(川崎千恵子)
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ゴーギャンと、彼自身の子供たちとの関係

2009-10-26 22:43:57 | Weblog
ゴッホには、自分自身の子供はいませんでした。

これは、芸術家となるにしては、最良の選択でした。結婚をしなかったのです。
遊びもしなかったと思われます。

創作とは、もっとも、高密度の快楽ホルモンが出るそうです。だから、異性と遊ぶ必要が無いのです。

私はそれは当たっているような気がします。

私って、他に何も無いのですよ。創作をする時間以外は。お金も無ければ名誉も無い。
支援者(時々、ほんの感想を頂き、それに欣喜雀躍しますが、それらの方に、おんぶに抱っこができるわけでもない)もいない、孤立無援の状態ですが、

元気、元気です。

ただ、この前の電車の中のご老人を見て、『老人になったら、おしゃれをしなければ成らない』と思い始めたのですが、

それをすると、人から、親切にしてもらえなくなるような気もします。
いまね、本当に人に親切にしてもらっています。普通の、しかも、縁の無い、知らない人に親切にしてもらっています。未知の人に親切にしてもらっています。

「あなたは、宗教家なの?」と昔、問われたことがあるが、やっと、本物の、
宗教家らしくなったかな? 本当に受け入れてもらえるし、親切にしてもらえます。

ただし、裏側から、何らかの悪口を聞いてしまっている存在からは、駄目なのですよ。でも、それも人生にとっては、胡椒みたいなものです。

~~~~~~~~~~

 ところで、ゴーギャンには子供がいます。パリにも五人もいて、もしかしたらタヒチにもできたのかもしれません。

 しかし、一回前の文章の中で、述べたように、子孫は一切名乗りを上げておりません。今までの私は、妻子の方から愛想尽かしをしてきたと考えていましたが、結構、ゴーギャンの方から、子供や、妻との縁を切ったのかもしれない、と私は思いはじめました。

 その理由のひとつとして、ゴッホとのこの新説にあたる確執があり、それの罪を自覚していたからです。

 さらに言えば、ゴッホが早死にをしてしまい、二人の間の修復ができなかったから、この事件がゴーギャンの上に大いなる重荷としておしかかり、

 子供の、面倒を見るどころでもないし、こどもに教育をする資格も自分には無いと思い込んだかもしれないからです。・・・・・

 結果として、<<<ゴーギャンも、気の毒な存在と化す>>>という話となります。

 こうなると、ゴッホが、思いがけずもつみ深いといえます。

 わかりませんが、そうなります。より高いレベルから見ればゴッホにもつみはあります。ただ、子供がいなかったことは、芸術家として、100%燃焼しつくすことにはそれが、一種の貢献となりました。彼は、そのように導かれた人生を送ったといえます。

 なお、この新説は、ドイツの学者が著書の中で、発表したということが、2009.5.6 00:38に、産経ニューづでウエブ上に公開されていますね。

 BSジャパンの番組はとても複雑で、全部は記憶できませんでした。新説の宝庫でしたので・・・・・
   2009年、10月26日早朝、   雨宮舜(川崎 千恵子)
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あの耳はゴーギャンが刺した(?)・・・・・新説

2009-10-26 00:20:35 | Weblog
 BSジャパンで土曜日に、午後7時からゴッホに解する新解釈をもたらす番組が放映されました。『小林利英』という方の新解釈に基づいた、再現的歴史ドラマですが、現地の撮影が美しく、かつ再現ドラマのロケ場所も相当選んであり、見ごたえがありました。

 ゴッホ役は、選び抜いた役者でしたが、ゴ-ギゃン役は、もし、ゴーギャンファンが見たら、納得できない役者だったかもしれません。ゴーギャンは、ゴッホに比べれば常識のある人ですから、もっと、重々しい感じの役者を選んだほうがよかったでしょう。

 しかし、全体によくできていて、二つの新解釈が提示され、結論としていえば、ゴッホはやはり聖人であったと、なります。

 『ゴッホの手紙(日本語訳』という厚手の立派な本を40年以上前に、東大図書館で見つけて感動した私は、自分の本作りの情熱の根源がそこにあると、四冊目の本で告白しているくらいなのです。

 その本を読む限り、ゴッホは、聖人の一人です。純粋無垢な人間のひとりです。

 しかし、さまざまな新解釈と研究が行われ、そのひとつが、私が、この23日に公開した『ゴッホも意外と人間くさかった』という解釈で、それは、現在、ゴッホの子孫が運営しているもっとも大型の美術館の、全面協力を得て制作をされた、NHKで、何回か放映されたものに基づいています。

 それに真っ向から反対する解釈が、こと、耳そぎ事件で現れました。

 これは、ゴーギャンが、葛藤の上でけんかになり、彼がフェンシングの剣で(それが上手だったそうで、アルルにもそれを持ってきていたそうです)でゴッホの耳たぶに傷をつけたというアイデアです。

 私はのちほど展開された、もうひとつの<自殺に関する>新説については、小林利英氏の研究からきているということは、はっきり覚えているのですが、こちら耳たぶの方は、はっきりとは覚えておりません。でも、どうも、これも小林氏の研究成果らしいという記憶があります。

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 ゴッホは、後世の人には聖人ですが、往時の身近な人にとっては、なかなか、一緒に暮らすのが厄介な人でもあったと、思えます。

 それゆえに、この喧嘩について、ゴーギャンは謝るつもりはなく、ただ、すぐアルルを去っています。そして、ゴッホは、詳細を誰にも語らず、ただ、自分が包帯を巻いている姿を絵に表しています。

 今回の新解釈では、ゴッホが、ゴーギャンに、自ら語るのを促したが、ゴーギャンが何も語らなかったので、ゴッホも、「僕も何も語らない」と決心をしたと、何らかの資料からうかがい知ることができるし、

 ゴーギャンの絶筆の、最背景部分に、ゴッホのひまわりとそっくりなひまわりが描かれていて、その真ん中に目玉も一つ描かれているので、それがゴーギャンからの告白であるとの説も、傍証として挙げてあります。

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 結果として言えることは、・・・・・下世話な表現とはなりますが、・・・・・ゴッホが聖人となるわけです。だって、他者の罪を許し、ひたすらかばったわけですからね。

 私がこの説に賛成するか、否定するかですが、70%は賛成します。というのもその後のゴーギャンの生活ぶり、には、もし、その根底に絶望があったとすれば頷けるからです。そして、子孫がほとんど名乗りを上げないこと・・・・・などが、この説を肯定すると、納得ができることと成ります。

 五人も子供がいたのです。子供たちが父を尊敬すれば、後日、自分たちはゴーギャンの子孫であると名乗りを上げてもよいはずです。だが、一切出てきません。今までは、タヒチに逃避をしたので、それを、嫌がっていたと考えていましたが、ゴーギャンのほうから、縁を切るように、わざとしたのだと考えると、それも、納得ができます。子供たちを愛するがゆえに、縁を切ったと成ります。

 ゴーギャン自身、深く傷ついたのです。心が傷ついたのです。言うに言われない傷を負ったから、タヒチにまで逃避してしまった・・・・・と推定ができます。

 外科的な傷はゴッホのほうにもたらされました。ゴッホはそれを、許すという高邁な行動をとったことによって、さらに上の段階に達して、すばらしい意欲を持て、パリよりも北にあるオーヴェール(?)で70枚の有名な作品を次から次へと創作します。

 だから、この説が正しいように思えます。もし、自傷行為に走ったのならそこからの精神的な回復には時間がかかったはずです。

 ただし、この新説を聞いて、私はゴーギャンを軽蔑をし始めはしません。かえってゴーギャンに同情をし始めました。今までは本能的にゴーギャンの絵を嫌っていましたが、それは、どこかで、『ゴーギャンには、何らかの、秘密が在るであろう』と推察していたものだと思われます。

 でも、このように、明らかにされてしまうと、『そんな秘密を抱えながらも、ゴーギャンは絵描きとしてがんばったのだから、それもまた、偉いことだ』と感じ、かえって尊敬を新たにしました。

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 この後で、もうひとつの驚くべき新説<自殺に関する部分>が続きます。それこそ、小林利英氏の解釈によるのだそうですが、あっと驚く新解釈です。それは、明日語らせてくださいませ。2009年10月25日  雨宮 舜(川崎千恵子)
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青山霊園そばの、幽霊屋敷群

2009-10-24 21:36:20 | Weblog

 私は人間分析に興味があります。と、いいながら、最近ずっと、大学の立地条件について書いています。それはある個人でもそうですが、ある組織においても選択の妙ということがあって、選択をうまく重ねると発展をするという現象を見るからです。別に大学のブランドにこだわっているわけではありません。

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 この年になると、本当の勉強とは、ずっと、ひとつのことを、やり続ける、特に三ヶ月単位でずっと、そればかりやる生活を続けていると、ものすごい実りをもたらすことが、私にはわかってきていて、大学という細切れの単位(または、講座、または、講義)を受ける季節を、そう立派なものだとも思っては、いないのです。
 だから、大学を出なくても、とても立派だという人がいるのは真実です。

 だけど、文章を書くにあたっては、きっかけというものが必要であって、それによって、ひょいと発想が浮かぶことがあります。最近、ある先輩から、「テーマの(きっかけの)見つけ方が独特ですね」といっていただいたこともあり、

 自己の変幻自在、融通無碍なテーマの拾い方には、いささかの自負も抱き始めたところです。

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 さて、今日は広告からテーマが拾えました。朝日新聞に先週、國學院大學の大広告が載りました。渋谷キャンパスの再開発ということ・・・・・私はこの大学についてはほとんど知識が無くて、本居宣長のイメージから、ちょっと、古風なイメージを持っていたのですが、ある日、広尾に用事があって、渋谷からバスで広尾に出たのです。すると、大昔、50年以上も前に、誘われて学園祭へ行った東洋英和があったりして、愛育病院もあったかなあ。・・・・・ともかく、それらがすべて、モダンな街へと変化しており、それについては、ちょっと、驚いたし、國學院大學も、広尾に在るという、その地の利ゆえに、モダンな大学へと、変化しているのかもしれません。

 でも、その名前はあくまでもきっかけに過ぎなくて、今日お話をしたいのは、その日、広尾から、青山へ出ようとして、いろいろ迷ってしまって、その結果、驚くべき、幽霊屋敷群に出あったことがポイントです。

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 私はその日地図も持っておらず、ケータイは持っているが、持ち歩かない主義で、だから、太陽を見ながら勘を頼りに歩き始めました。

 広尾から青山まで、二十分程度であろうという信念をもって歩き始めたのですが、高速道路にさえぎられて、なんとも、右や左に振り回され、こ一時間近く歩かされてしまったのです。

 バスは通っているみたいですが、どうも、一種の陸の孤島、らしくて、頻繁に本数が出ているとも思えず、タクシーも通らず、ただ、ひたすら歩き続けたのですが、こういうことをするのは、パリで、パリ在住が長い日本人の人たちが、よく、三十分程度は歩いてしまうのを知り、それ以降、ニューヨークでそれを見習って、縦・横・無尽に、30分程度は、用事をかねて、自由に歩くようになったからです。バスや地下鉄に乗るよりも、面白いことを数々発見しますしね。

 東京だって、銀座に行けば、画廊めぐりで階段を含めて、ほぼ、3時間程度は歩き続けるのですから、歩くのは別にかまわないのです。

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 さて、青山霊園を、東に見るある一角で、驚くべき廃墟に出会いました。すべてのおうちが、ほとんど、80坪から、100坪程度の敷地面積があり、建物は、20年ぐらい前に、建て直された50坪程度の家が、整っていて、20軒に一軒ぐらい、60年ぐらい前に建てられたかなあ。古い木造だなあ・・・・・と思う地域なのですが、人の気配が無いのです。15年前には人が住んでいたであろう、だけど、今は無人の地域だ・・・・・ということが推定されました。

 大マンションを建てるために、地上げをされたのでしょうが、ちょっと、地下鉄の駅に遠いのです。陸の孤島といってよいかなあ。表参道に、30分、か、40分、広尾にも三十分は歩かないといけない。だけど、山手線の内側です。

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 地の利という意味では、億ション(高い値段のマンション)を建てるべき都心ということになりますが、人気は出ないでしょう。特に最近の少子化で、マンションが有り余っていると、聞きますので。

 そして、よく考えてみると青山霊園を眼下に見下ろす地域です。それも、億ションには向きません。それこそ、バブル崩壊以前の、狂奔した時代に地上げをされ、ここの住人はみんな、高い保証金をもらって、ご自分の好きな場所に移動をしたと思われます。

 いったいこの土地は、その後どうなったのか、銀行の不良債権を、税金等で補填したはずだけど、誰かの勘の鈍さに、国民はつき合わされたのか? とか、一種の義憤も感じましたよ。

 だけど、それとともに、『ああ、このうちの一軒でも自分のものになったらいいなあ』という夢を持ちました。銀行家、大デヴェロッパーの持ち物でしょうから、絶対に個別には売り出されない場所でしょう。

 だけど、自転車を使えば、銀座まで、行って帰ってこられる場所です。電動自転車でも買えば、自由自在に銀座あたりに出かけられます。

 ニューヨークでは地下鉄内に自転車を持ち込んでもよかったから、動きが・・・・・(みなさん)、自由自在のでした。そして、私は、1974年によこすかに、27坪の家を建てたし、1986年ごろ、鎌倉の家を、15坪増築したのです。別に一級建築士ではないけれど、両方とも、自分で方眼紙に、設計図を書いて、1974年の方は、立面図等は父(これも素人だけれど)が書いてくれて、市の建築許可も取ってくれたほどなので、

 家の設計・図面を考えるのは大好きなのです。敷地が80坪程度の区画ですよ。どんなに、自由な設計ができるかなと思えば、夢は膨らみます。そういう夢の対象が今荒れ果てていて、ほうったらかしにされている。

 もったいないことでした。そして、その地上げを計画した人は定年を迎えていたりして、無責任に何も考えておらず、・・・・・その土地は、政府(国民の)お金で補填をされたまま、利益が見込めないために、雨ざらしに成っている。・・・・・そして、すべての家が、幽霊屋敷となっている。・・・・・まあ、この節の、この最後の三行は、私の想像で書いている文言ですが、ほとんど当たっているでしょう。非常に、もったいないことでした。

 別に私が地団太を踏んで、悔しがっても仕方がないから、『へーっ』と思って通り過ぎただけですけれど、『誠実なビジネスとは何か?』を考えさせられたものです。では、2009年10月24日   雨宮 舜(川崎 千恵子)

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明大・・・・・駿河台・漫画・図書館という、・・・・・名案

2009-10-23 17:09:55 | Weblog
 麻生さんが、漫画・博物館のアイデアを出したときに、私は一切それについては触れませんでした。私が触れないというのは、婉曲なる否定です。その私に向かって、高名な美大の先生が、「あなたは文章を書くのだから、あれに反対する文章を書きなさい」とおっしゃいました。そのお言葉の裏に在るものは、私もよくわかるし、賛成です。

 というのも、FINE ARTS といわれる純粋美術に対して、お金が回らない現状の中で、お金が潤沢に回っていて、ビジネスとしても大成功をしている(売れ行きが斜陽になったとか、言われていますが、現代アートの世界などに比べれば、ゼロが三つぐらい多いか、もしかすると、四つぐらい多い形で)、お金が回っている世界ですから、支援すべきでもないと思っていたのです。

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 でもね、よく考えてみると、美術館というのは、数多くすでに設立をされています。運営の費用が自治体から出ないので、箱物行政に堕している美術館も在るらしいが、それでも、数としては、五万とあるほどと、言うほど数はあります。

 となると、まだひとつも無い漫画博物館の先鞭をつけるのは、よいことだったかもしれないのです。私はこれでも(貧乏なくせに)、結構ハイレベルな紳士どもともお付き合いしている(間接的であったりしますが)が、そういう中で、海外との交流が激しい方ほど、あの漫画博物館の案がつぶれたのを残念がっておられます。

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 確かに、日本は、もとから美術の国であり、手先が器用であり、そして、今、文明的に、思想や哲学で、世界をリードできません。結構、日本という国自体が監視されている模様で、自由奔放に振舞うわけにも行かないのです。そういう日本にとって、サブカルチュアーと言っても、ともかく、世界の人が好んだり、喜んでくれるものは大切です。そういうものを見たいと思っても、

 この間、私が秋葉原で案内をした、数学者のように、ネットカフェの情報を知らない人は大勢いるでしょう。だから、美術館か、図書館か、博物館の形で、それらに、公に接することができるのは、とても、よいことですね。

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 明治大学は、創始者、もしくは、数代にわたる理事、学長の選択によって、駿河台(昔はニコライ堂で有名だったのに、高いビルができてしまって、ニコライ堂がどこにあるかも今では見えませんが)

 という、岡(それは、文化の程度が高いような気がします。私が出かけた先だけの経験ですが、海外でも、美術・大学はたいてい、高い丘の上にあったりしますし)

 の上に学校が在ることの利点を最大限に生かすことと成ります。だから、大変、喜ばしいことです。

 他大学との収入や利益の上で、立地条件による、差が付きすぎることを、文化の側面で還元していくのは、すばらしいことです。それこそ、お金持ちの常道の行き方です。大学は個人ではないが、一種の有機体でもあると考えれば、より本質的な方向を目指す形で、発展をしていくのは、天の恩寵をいただける方向です。そうやって、がんばって、進んでいただきたいです。

 どこやらか、聞こえてきて、今まで一切触れなかった問題ですが、資金運用に怪しげな、金融商品を買って、大幅に、財産を目減りさせる、半・公共的な団体や組織(大学や、協同組合も含まれていたと思う)が多い中で、こういう方向でお金を使ってくださるのは、すばらしい発案です。

 「新しい建物を建設するかどうかはわからない」と書いてありますが、そうですね。大空間としての吹き抜けがあったりするから、そういうところに、木造を利用した、しっかりした、付属建物を作り上げるのとか、いろいろ、美しい建造物として、その図書館を作り上げる建築・技術は、今の建設業界には、在ると思います。この前の、小さい子供が胸や頭を圧迫されてしまったような本棚で、作り上げられたら困りますし・・・・・大丈夫でしょう。信頼しています。お金持ちがなさることですから・・・・・

 がんばってください。日本は、欧米から地理的に遠いので、普通の市民が観光に来るというより、文化人の来日が多いのです。だから、そういう人に訴える最新の情報発信・基地となれば、最高ですね。そして、運営も美術や芸術に対して、素人である

 県や、市の(もちろん、意識的に勉強をなさる立派な方も多いのですが、作家そのもののエネルギーや、意識の高さから見ると、安定した立場で、ゆっくりした行動しか取れないのだなあと思うような、)課長さんが、上から降りてきて、運営する、単なる箱物と堕した、公立美術館よりも、ぐっと、生き生きと、運営されるでしょう。

 館長などが、講座を持ったりすれば、その講座から、館長を連続し手出すことができるし、運営や財政もガラス張りだろうし、赤字の時には、大学・総体から補填金も出るだろうし、これは、本当によいアイデアです。
  では、2009年10月23日    雨宮 舜(川崎 千恵子)
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ゴッホも意外と人間くさかった

2009-10-22 11:58:49 | Weblog
 私たちはゴッホのことを思い浮かべると、つい、天才だと考え、聖人のようにみなしがちです。特にひまわりの絵がオークションで、何億、または、何十億、という価格で落札されたと、聞いたりすると、天上の人であることを実感をさせられてしまいます。

 また、多数の書簡が残っていますので、そこからも純粋無比であることが理解されます。で、ファンが多いのです。

 比較をすると、ゴーギャンには、それほど、熱烈なファンがいません。~~~~~~~~~~~

 これは家族、親族との感情的な密度が違うからだと私は思います。ゴッホには自分が形成した家族はありません。しかし、親族、特に弟の、テオがゴッホを深く、信頼して愛してくれました。女性との愛には恵まれなかったけれど、兄弟、特にテオとの間の愛に恵まれました。

 テオは30代の若さで亡くなった兄のすぐ後を追って亡くなりましたが、すでに、よい家族を形成していて、残さた妻は、夫の希望やら、仕事を引き継ぎ、まず、ゴッホの書簡集を出版します。そこから、ゴッホの評価が高まっていきます。

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 ところが一方のゴーギャンは、株式仲買人、<<<それは、ブルジョワ資本主義の時代では、最先端の恵まれた職業ではなかっただろうか?>>>>として、収入のある時代に、妻との間に五人の子供をもうけています。しかし、その家族を捨てて、画家になってしまったために、子供たちが、「私はゴーギャンの子供であります」とか、「孫であります」といってテレビや、ドキュメンタリーの世界へ登場したり、著作を著すことも無く、遺作品収蔵の美術館を開くこともなさそうです。寡聞にして、聞いたことがありません。

 この間、ゴーギャンに関する立派な番組が、NHKで放映をされましたが、ゴーギャンは、タヒチでもパリでも、処遇が悪くて、その事を悲しみつつ、亡くなった模様です。美術系の天才は音楽や美術に比較して、悲しみの中に死ぬケースが多いが、残った作品を通じて、圧倒的な存在感を示すものです。そこが救いですが。

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 今日、これから、述べますことは、ゴッホにとって、救いになる話かゴーギャンにとって、救いになる話かは、ちょっと、断定するのが難しいのですが、ここ最近の研究で、思いがけない事実が出てきて、

 それをNHKが去年か、おととしの段階で、放映しました。まず、ミステリーよろしく、キャンバスの研究から入っていきます。日本でも最近ではキャンバスをロールといって、木枠に張らない巻いたた形で、専門家は買うのですが、ゴッホたちもそうして、思いがけないことに、幅の真中を上下に切って、半分ずつ使った模様です。

 工業製品で無かった時代には、キャンバス地にムラがあったのかもしれません。だから、最初の五メートルと後ろの五メートルには品質に差が在るなどということがあり、だから、半分に切った細い、10メートルをお互いに持っていたのです。単に保管に便利だったからかもしれませんが、裏の刻印等で、それが、判明しました。

 超がつくほどの仲良しとして、二人の関係は始まりました。

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 ところが、株式仲買人としての経験がある、ゴーギャンは、純粋すぎるゴッホとの関係が重荷に成ってきたと思います。それは、私たちだって容易に推察をすることができます。しかし、決定的な瞬間は、ゴーギャンから放たれた、たった、一言の「僕の絵は売れたよ」だったみたいです。

 ゴーギャンは、いままでビジネスの世界にいた人ですから、ゴッホに比べれば会話の能力は上でしょう。
 だから、ゴーギャンにしてみたら、こんなせりふは、へでもない日常的なものだと思います。その上、ゴーギャンにとって、ゴッホはすでに、うっとうしくなっていたと推察されますし。二人の住まいが狭くて隣通しだったことも、普通の神経を持っていたら、疲れる上に、画家どうしですから余計疲れがたまる神経戦があったのです。

 ゴッホは、あれだけの手紙を書くところから見て、口が重い人です。自分が感じたことを、冗談任せでさらっと表現することができない人間です。だから、まず、ゴッホのほうに不満がたまったのでしょう。ゴーギャンに「ああいいたい、こういいたい」と、思いながら年上のゴーギャンに対する遠慮から、口に出せないでいた不満がたくさんあったでしょう。

 二人は画家としては、理論上も、大変な仲良しでしたが、起きた寝たの気配さえ聞こえてしまう狭いとなりどおしの部屋に住む、生活者同士では、乗り越えられない日常生活のいろいろが、積み重なっていたのです。

 そのいらいらをさらに過剰にさせたのが、クリエーター同士がどうしても、抱いてしまう嫉妬心の問題でした。

 今日ゴッホも意外と人間くさかったというのは、彼の『耳そぎ落とし事件』は上の「僕の絵は売れたよ」の一言で、絶望したゴッホが、潜在意識の中で、不満がたまりたまっていたゴーギャンを殺そうと、ナイフを持って出たのが真相だった模様です。

 それほど、ゴーギャンにとっては些細なせりふ(しかもそれ以前にゴーギャンの方にも不満があったろう)が、若くて下の立場に在るゴッホを決定的に追い詰めてしまったのでした。

 ここで、クリエーターは誰もが自分の作品の質を知っていると、以前申したことが役に立ちます。社会的な身分やら、年の上下、会話能力、などの、日常生活のすべてに劣っていても、ゴッホは、自分の絵のほうが、上だと確信をしていたでしょう。それは他者には言いません。だけど、深い確信を自らのうちへ持っている。

 それを否定されたと思って、ゴッホはたまりにたまったものが噴射してしまい、ナイフを持って、夢遊病者のように、<<<一足先に、カフェに向かって飲みに出た>>>ゴーギャンの後を追ったのでした。

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 しかし、牧師の息子といわれるゴッホです。ふと、気がつけば、自分が、今、どんなに恐ろしいことをやろうとしていたかを、自覚してしまいます。

<<<恐ろしい自分>>>、それに対してはすばやく、罰を加えなければ成りません。それが、自分の耳をそぎ落とすことだった模様です。

どうしてその場所が、耳であったかは、わかりません。もっと深い恥を知れば、自殺になるけれど、捨て台詞ひとつ浴びたことで、自殺するのもあまりにもばかばかしいですよね。そこらあたり、混迷のさなかにあったゴッホにも、瞬間的な納得があって、腹や、胸、首などを刺すことは無かったのでしょう。

 私はこの話を聞いて、やっと、ゴッホのこともよくわかりました。・・・・・ゴッホも、意外に人間くさいところがあったのだ。・・・・・・と、思いほっとしています。

 だって、ゴッホの怒りは、大きく言えば、嫉妬心の問題に入るからです。範疇として言えば、そうなります。だからそれを示したゴッホは、人間そのものの姿でありました。共同生活の相手として選んだ大切なひと、ゴーギャンに対してさえ、抑えきれない原初の、嫉妬心があったのです

 では、今日はこれで。
           2009年10月22日  雨宮 舜(川崎 千恵子)
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プリンストン大学の食堂・・・・・(まるで、家庭なのです)

2009-10-21 10:34:55 | Weblog
 私は実はICUというところを出ていて、そここそ、郊外型キャンパスのはしりです。で、食堂は林の中にありました。今度改築をされるそうですが、ともかく、太陽光のさす、一階です。盛り付けはきれいだけれど、量が少なかった。学食というのは、当時では、千円以内に抑えないといけなくて(あれ、今もほとんど、値段が変わらないであろうか?)、600円前後にするためには、材料をよくすれば量が少なくなるわけです。

 その後、勤務先での東大で、毎日学食でお昼を食べたのですが、生協の経営でビルの半地下にあった記憶があります。ボリュームは満点ですが、当時の私は一皿もりの料理には慣れていなかったのです。今では、ぜんぜん平気です。何でも食べられますが、若いときには、さっぱりした、日本料理系できちんと別皿にもられていないと、食欲がわかなかった方で、一皿にまとめられた豚のしょうが焼きや、ハンバーグの類は苦手な方でした。

 昔の実家の料理、つまり、和風割烹みたいな、純粋な日本料理ばかり食べていた父は、パーキンソン氏病になりました。だから、今の私は手羽先でも、トン足でも、もつ(豚の腸かな?)でも、何でも食べます。ただ、いまだに、ミルク系統は苦手で、アイスクリームとか、ケーキの形になっていないと、よく下痢をしますが、・・・・・

 もうひとつ、学食が苦手なのは、誰と食べるかが大問題だし、それから、隣の人と席が近すぎることも、苦手のひとつでした。でも、お弁当の人ではないから、学生時代も、職場でも、学食でお昼を食べていたのです。

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 今はまったく変わりました。一人食も平気です。たくましくなりました。ただ忙しいので、渋谷ならここ、新宿ならここ、池袋ならここ、銀座ならここ、というように、行く店を決めてあります。少しでも神経や時間を節約したいからです。チェーン・レストランでもよいのです。ただ、便利で、おいしくて安くて、地の利がよいことが一番です。

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 さて、そのように人生経験をつんで、しかも観察の人となった私が、プリンストン大学の食堂(ひとつではないはずですが、メインらしいところです)へ入って第一番に驚いたのは、一種の家庭であるかのごときに、すべてをしつらえてあることでした。

 平屋建てです。私の母校の当時もそうでしたが、部屋は、大部屋で、ずらっとテーブルが見渡せるしつらえです。

 それに比べると、プリンストン大学の食堂は、スキップフロアーになっていて、一部屋ずつは、それほど、大きめには感じられないのです。しかもテーブルがすべて、家庭のテーブルの形にしつらえてあります。長いテーブルではないのです。四人がけ、または、6人がけの形です。いすは木製で、飾り彫りがあるようなもの。

 しかもテーブル同士の間が、相当離れています。4メートルぐらいは離れています。また、床材は木です。しかも都電や、一時期のバスのように、油が塗ってはありません。白木(といっても茶色になっていますが)で、においはしませんし、靴に当たる感覚がとてもやさしいのです。日本の食堂って、たいていはリノリュームか、人口大理石で、床ができていますでしょう。それに比べると圧倒的な素朴さです。

 全体が、・・・本物とは違うが、・・・童話アリスの世界にあるような家(擬・家庭)を感じさせます。または学生が住んでいた実家を髣髴とさせるようなしつらえ・・・・・

 そこで二人連れ、三人連れ、または、四・五連れで、談笑しながら食事をしている人たちを見ていると、・・・・・華美ではないが、実質的には、豊かなんだなあ・・・・・と感じさせられました。

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 よく、「京都大学からは、ノーベル賞がでるが、東大からは如何して出ないか」という議論がなされます。その理由として、「京都は街が小さいので、学者同士がよく一緒に呑めるからだ」という話・・・・・を聞いたことがあります。

 つまり、『自由な会話は、大切だ』ということです。プリンストン大学の食堂は、非常に余裕が在る感じです。絶対に追い出されることは無いだろう。どんなに、長居しても(あ、そうはいっても、一時間程度で皆さん、話を終わらせるとは思いますが)追い立てられることは無い。これは、学者にとっては天国であろうと、感じました。

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 私は自分自身、「引きこもりが好きだ」と広言していますが、実は最近、非常によい会話に恵まれます。一期一会ですが、大きな学びと喜びを、瞬間的に与えられるような会話に恵まれています。

 別に学者ではないので、誰かとの会話から、発想が湧き出るということも無いのですが、こうして、毎日ブログを更新するようなエネルギーは、そういう接触から与えられる向きもあるのです。だから、人と人の会話が、まるで、家庭で行われているような演出は、非常によく考えられた、学生や職員向けの、よい発想だと感じました。誰の設計かはしらないものの、人間の善の方向を延ばす設計でした。

 ただね。土地が広い。圧倒的に広い。それこそ、郊外型キャンパスの典型だからなりたつ、食堂の形ででもあったでしょう。・・・・では、今日は別に政治的な、または強いメッセージは、何も無かったですが、お許しを。2009年10月18日、雨宮舜(川崎 千恵子)
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プリンストン大学・・・・・郊外型校舎の典型

2009-10-20 21:16:49 | Weblog
 本当は『加藤和彦氏の死、私なりの分析』のスピンオフとして、『ゴッホと、ゴーギャンの真実』を書かなければならないのですが、今日は一日中でかけていて、新しい文章を書く力がありませんので、おととい麻から、午後だけにかけて公開した、プリンストン大学に関した文章を、また、少しの間、アップロードをさせてくださいませ。夜こてを開いてくださる方へ向けた、行動です。どうか、よろしく。

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 さて、私はずっと、大学の立地条件ということで書いています。その件で戦後、郊外型キャンパスが、はやってきたのは、土地が高い時代があって、都心の土地を売ると、莫大な財産になったからであろうとも思っております。『マルサの女』という映画があって、地上げ屋の暗躍(もうけ過ぎ)などの側面を描き出していました。私はあの映画そのものは、それほど好きではないが、映画が時代を反映し、記録するという意味では、たいした映画だったと考えています。


 大学の経営権を握っている理事たちが、高級なる地上げ屋、(つまり、銀行などの大・金融機関)のお勧めにより、都心の土地を売って、郊外に、莫大な広さの新しい土地を得て、郊外型キャンパスを作ることがはやったのです。その裏に土地開発に走った地方自治体の思惑も隠れていたでしょう。

 私がこのブログの世界で四回前に褒めた、明大も、共立学園も、都心型と平行して、郊外に大きな新キャンパスを持っている模様ですね。

 ところが青山学院は厚木校舎を、引き払ったとか聞きます。うまい選択というか、賢い選択というか。・・・・・いや、はや。

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 もうひとつファクターがありました。戦後のアメリカ文化の影響です。東大が設立をされたときに、ヨーロッパとアメリカのどちらを模範にしたかは知りません。
 でも、福沢諭吉はアメリカへ留学をしたのですよね。私は、それこそ、三田の慶応キャンパスすら、入ったことが無い(そばの大使館等には行ったことがあるが、慶応・三田には入ったことがない)けれど、きっとアメリカ型キャンパスを模しているでしょう。

 でも、明治期というか、戦前よりも、さらに戦後は、アメリカ文化が怒涛のごとく押し寄せてきた時代です。アメリカに留学をしたエリートも多くて、そういう人が戦後社会を作り上げたのです。となると、郊外型キャンパスはアメリカの大学を模していると、なります。

 私はそれを、ずっと、推測していましたが、1999年の滞在の時に、まず、ブルックリンのプラット・インスティチュートで、それを感じ、しかも、用事があって、出かけたニュージャージーで、お昼を取るために、プリンストン大学へ、車を寄せてもらい、<<<<<実は私は、母に自動車運転を習わないように、勧めら(命令さ)れた人間で、運転ができません。その理由は「常に、頭の中で、何か別のことを考えている人で、必ず、交通事故を起こすはずだ」からでした>>>>>>

 まず、事務棟に行って規約書をもらいました。ここで、シャロン・スイートというソプラノ歌手(その年にメトロポリタン・オペラでアイーダを歌った人)が講座を持っていると聞いたので、『将来、聴講でもよいから、それを、受けてみたいな』と思ったからです。いや、あれから、10年もたって、自分の声が出にくくなっているのに、まだ、その夢は叶えていませんが・・・・・余談をおいて、元に戻ると・・・・・

 その事務棟を囲む樹木を、離れれば、ともかく広い(それこそ、東京ドームぐらい入りそうな芝生のはるか向こうに、別の校舎があります。『うわ、このキャンパスは自転車に乗るか、車の運転ができないと授業も受けられない広さだわ』と思いました。

 ですから、ここ、二・三回展開をしたアルバイトの問題などとは無縁の世界です。アメリカのカーストの上下の開きを思い起こさせました。

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 しかし、私はアメリカの事に関しては是々非々なのです。よいことも観察するし、悪い点もしっかり見ています。ブログは短い文章で終わらせないといけないので、一回ごとにすべてがかけるわけでもありませんが、明日からはアメリカ型・郊外式キャンパスに対する叙情的な感想を、いろいろ、述べて行きたいと、考えております。

    では、2009年10月18日  雨宮舜(川崎 千恵子)
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加藤和彦氏(死)の研究ー4、前衛であることの苦悩

2009-10-19 16:19:59 | Weblog
 私は、今朝から、貫徹明けにもかかわらず、すでに、原稿用紙換算、32枚を超える文章を、加藤和彦氏の自殺をきっかけに書いているわけですが、

 自分で「これは、読みたくなかった」という北山修氏の、朝日新聞朝刊内の、追悼文でも、

 一部分で、『圧倒的に、これは、すばらしい文章である』と感じるところがあって、それを読めば、北山氏が、深い友情を持っている事を、信じさせられるのです。

 それゆえに、今までの文章で、かえって、あっけらかんと、北山氏は若き日に、潜在意識の中で、加藤氏に嫉妬したであろうとか、加藤氏は、現在に至って、急に自分の孤独死に終わりそうな老後に気がつき、比較対照例としての、北山氏の生活に追いつけないことを知り、それを、引き金として自殺を実行なさったと言う仮定を展開しているわけですが、

 そんな失礼なことを堂々といえるのも、この文章を詳細に、丁寧に読み、北山氏の追悼文が、加藤氏の日本文化状況に対する、最も、すばらしい貢献に触れていることに気がつき、それゆえに、北山氏に信頼があるからこそ、こういう反語的な表現、かつ露悪的な表現にさえ、踏み込むことができたのでした。

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 朝日新聞をまだ読んでいらっしゃらない方のために、そこをコピペしますと、

・・・・・自主制作の「帰ってきたヨッパライ」が300枚作られ、結果的に280万枚を売った半年で、日本の音楽の流れが大きく変わったのだ。大先生が作る作品を歌手が歌うという「上から下」の主流に、自作自演という「下から上」への波が音を立てて、流れ込んだのである。・・・・・

 上の引用がもっとも大きなところですが、その前に、叙情的な表現で、

・・・・・はっきり言って、私たちは、アマチュアで、関西にいて、大した機会に恵まれなかった。そして、振り返るなら、多くの「若者の戦い」の中で、あの音楽の戦いだけは一瞬成功したかに見えたし、クリエーター加藤和彦は、このプレーヤーたちの戦いの騎手となった。・・・・・

 すばらしい追悼文です。これだけで、二人の友情は圧倒的に信じられます。

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 しかし、それをさておいて、<<<加藤和彦氏に、悩みが生まれるような、采配が後ろからひそかに行われていた>>>と、想像する私でもあるのです。不思議な形、一見すると政治闘争とも思えないし、言論弾圧とも思えないのですが、

 結果として、総合して分析をすると、見事に言論弾圧、または、前衛つぶしに当たる現象が多数、私の身の上に起きたからこその、推察です。

 私がそのことに初めて気がついたのは、忘れもしない、2007年の4月17日のことですが、頁設定を終えた、私の単行本用原稿が、銀座の大黒屋ギャラリーというまったく、無縁な画廊の、検索項目に引っ付いていたのです。

 驚いて、こういうことに詳しい出版界の友人に電話で相談すると、それは、すぐ消えました。だから、電話が盗聴されているということは、のちに、弁護士さんから注意を受けるまでも無く、その時点で気がついたのです。それ以降、私はほとんど電話を使いません。また、ケータイも使いません。

 まったく大正時代風の生活に入ってしまっています。大切な人には会いに行くし、できるだけ手紙を使っていますが、それも怪しくなってきました。

 そして、銀座の画廊街で、オーナーたちを使って、いじめをかけてきたり、作家(今は美術系のアーチストも専門家の間では、このように呼びます)を使って、いじめをかけてきたりします。

 それと、パソコンの変調は、見事に連動していて、また、文章を分析してのことと思われる、音による攻撃も頻発します。そういうポイントをすべて、分析すると、『あ、自分は、攻撃をされている。言論弾圧の対象になっているのだ』とわかってきてしまいます。

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 私は別に政治評論家でもなんでもないのです。だけど、芸術の方向でしっかりとものを考えていくと、結局はモーツァルトと同じく、前衛的になってしまうのです。とくに、本を作り始めました。アマチュアです。だけど、「面白い」とよくいわれています。それは、決定的に言って、「下から上」への行動です。

 それは、アマチュアが、プロ並の仕事をすることを意味するし、自分の意見を自由に発表できる世界を得たということも意味しています。

 これは、私の意見に脅威を感じる勢力からすれば、由々しき事態です。最近の最高の証拠のあるいじめは、京都の人文書院の渡辺睦久氏という方から、6冊目の出版の直前に、『出版を止めなさい。出版をしても、受け取る人がいないでしょう』という潜在的には、脅迫文とも取れる、速達をもらったことです。

 渡辺睦久氏とは、個人的な関係は何も無く、ただ、出版を前にデータを送っただけなのです。でも、郵便が監視をされていたり、私自身のすべての言動が観察をされていれば、渡辺氏が、褒め言葉を最初に言ってくださり、それを、私が喜んでいることは、言論弾圧者には伝わりますので、

 渡辺氏に氏と親しい人物から教唆をかけて、「雨宮舜(川崎千恵子)にかくかくしかじかの手紙を送りなさい」と依頼をすることはできます。

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 このほか、一万件に近い数で、これは、言論弾圧の、ヴァリエーションであろうと、感じることはあるのです。だから、相当に激しい戦いの渦中に在る存在でもあります。
 
 そして、常に、『私は文章の才能は無い』と明言をしておりますが、

 才能は無いからこそ、丁寧な仕事をします。すると、達成度が高い文章ができます。修飾語が頻繁に使われているというわけではなくて、その根本思想が、強い文章ができます。だから、意外にも影響力の高い文章を書いているかもしれないのです。

 無名です。小さい存在です。だけど、力強い存在かもしれません。いまだ公開をしておりませんが、日本の文化状況の中で、真に国民を困らせる文化人が誰であるかなども、音による攻撃で、はっきりと傍証付き、で、把握をしたりしています。

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 加藤和彦さんは、文章の表現者ではありません。だけど、ホリエモンなども一種の過剰な、逮捕劇(いかにも悪人であるかのごとく、一般人に信じさせるようなもの)にさらされましたし、角川春樹さんの逮捕なども、さまざまに、考えさせられるポイントなのです。だから、作曲者といえども、言論弾圧、それから、つぶしの対象となると考えられます。

 どういう攻撃が行われたかですが、・・・・・これから先は見てきたようなうそをいいの類ですが、・・・・・

 たとえば、東京の音楽状況の中で、特にラジオや、テレビの世界などで、坂本龍一氏の企画が次々に通り、一方の加藤氏の企画が次々と没になったとこれも仮定をしてみましょう。

 これは論理や理性の世界では、以下のように分析をされます。

 『坂本龍一氏は、芸大卒である。一方の加藤和彦氏は、音大出ではない、アマチュアだ』と分析をされ、仕方がないとなります。だから、黙って引き下がるべきであるとなります。実際に加藤和彦氏は、そうなさったでしょう。

 だけど、クリエーターで在る限り、仕事の質には自信があります。『どうして、自分の仕事が認められないのだ』・・・・・と煩悶する日もあったでしょう。となると、うつ病であったというのもうなずける展開となっていきます。

 私は同窓会内部やら、銀座の画廊街で、「あの人は、ノイローゼだ」という、うわさを数々流され、それを、個展の初日に言いにきた、『眠り姫』内の、<<<招待を受けなかったのをうらんでのろいをかけにきた>>>、魔女のごとき存在さえあるのです。

 個展というのは招待状が無くても、誰が来てもよいものですし、私はその人に招待状を上げていました。メールの形とはがきの形の二重にですが・・・・・

 だから、個人的に恨まれる筋合いはまったく無くて、ある種の讒言が裏にあると感じました。そりゃあ、ドキッとしますよ。他のお客も一緒に聞いているのですから。こういうケースが一万回も重なれば、裏があるとは気が付くのが当然です。

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 加藤氏がそれに気が付いていたかどうかは知りません。でも、実際に収入が少なくなる形で、追い詰められて行ったのです。

 私の場合に、そこをどう、クリアーするかですが、次から次への新手の攻撃に対して、こちらも、次から次への防衛策を講じて、暗黙の戦いを続けてきたのです。

 その結果、『セロ弾きのゴーシュ』とまったく同じ現象が起こり、凡人たる私がいつの間にか、ライターとか、人によってはジャーナリストだと、規定されるほどになってきたのでした。

 決していきがっているわけではないが、『人の進路などは、自分で決定すべきものでもない』と感じる私は、『こういう方向へ流れていくのが運命だったのだ。書くことは天命である』と、このごろでは推察するほどです。

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 加藤和彦氏は、たまたま、『イムジン河』の発表への、圧迫というところから、こういう流れに巻き込まれ、ご本人もいささかの程度で、気が付いておられて、だからこそ、必死で戦ってこられた。しかし、別方向で、何らかの決定的なダメージを与えられ、それゆえに、自殺をなさったと推察する私です。

 北山修氏との比較は、単に、10%程度の規模の、悲しみだったかもしれません。

 では、今日は、四本も更新しまして、後ろのほうからごらんになる方は、やや、意味が不明かもしれませんが、1からご覧になると、意味が通じます。だけど、長いです。ごめんなさい。それから、スピンオフのゴッホと、ゴーギャンの話はまた、別の日にお送りをさせてくださいませ。
           2009年10月19日  雨宮舜(川崎 千恵子)
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加藤和彦(死)の研究3・・・・・男の嫉妬心

2009-10-19 14:55:21 | Weblog
 さきほど、『加藤和彦氏の、死の、私なりの分析ー2』をアップしてから、四時間ほど身を横たえていますが、まったく眠くありません。頭の中には膨大な文案が浮かび、睡眠とは程遠い状態です。ので、無理の上に無理を重ね、67歳の体の弱い女としては、自分が死んでしまいそうですが、それでも、書き進めていきましょう。

 さて、二人がグループを結成した、ほぼ、数年後には、二人の間には、秘めたる葛藤が起きたと仮想してみます。それは女性よりも激しい男の嫉妬心の発露だったとこれも、仮定をさせていただきましょう。
 それが在るからこそ、二人は、ハシダ・ノリヒコ氏を加えたと、考えることもできます。そして、何より大きいのは、ヒットを出しながら、北山氏は、医者になる修行を怠らなかったという点です。

 今、『北山修は若いころ、加藤和彦に嫉妬心をいただいたであろう』と、私が言えば、それは、失礼極まりないことですから、それゆえに、「これから、奇想天外な発想を述べます」と、この一連の文章の最初にお話をさせていただいています。

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 ここで、この奇想天外な発想の説得力を増すために、自分のことを引き合いに出させてくださいませ。私は文章のこと、および歌のことで、誰にも嫉妬されたことがありません。だからこそ、そこに才能が無いことがわかるのです。

 ところが、美術の世界では、子供がいて、制限が激しかった私より先に世に出でて、すでに有名になっている女流画家から、しかも、何人もの相手から、激しいいじめを受けてきていて、それの原因を考え抜いた結果、才能に対する嫉妬であろうと、結論を付け、それゆえに、そのごたごたがいやで、それも絵を描かなくなった理由のひとつです。そして、自分の絵心(ごころ)は、本を作ることに発揮しています。

 挿絵を描いたり、装丁をすることなどに、美術に対する小さな、志向とセンスを発揮しています。

 こちらの世界でも、すでに、相当ないじめが始まっているから、こちらにも相当才能があるのではないかと感じていますが、いまのところ、私の方がそれに耐える、力をもっているので、この世界で突っ走っていて、それゆえに、私は前向きな活力を失わないでいるわけです。これから、果たすべきことの目標があります。印刷と製本用のお金さえあれば、20冊ぐらい自分の本を作りたいです。

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 でね、元へ戻れば、最初は、加藤和彦氏は、何にも気がつかなかったというべきでしょう。どうしてかというと、そちらにより才能が在るからです。何か小さな違和感に気がついたとしても、ほとんど、気にしなかったでしょう。嫉妬を抱きあう関係で、上に在る方はほとんど、気にしないものです。それは、天賦の才能ゆえに恵まれた無邪気さ(イノセンス)によるものです。

 ひとつの楽曲を作るときに、メロディと詞のどちらが大切かといえば、それはメロディだと感じます。『荒城の月』あたりまでは、詞が先にできていて、詞を書く人の方が大家であったと感じますが、最近ではメロディが先にできていることが多いそうです。そうなると先に作った方にイニシアティブがあります。

 最初の時期に、声のよい歌い手が、どちらだったのかを知りませんが、ともかく、音楽家としての才能は、圧倒的に加藤和彦氏の方が上であったと仮想しておきます。

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 しかし、そこに油断が生まれてしまった。それに、最初の自主制作、CDがヒットにつながり、数十億円の売り上げを得たと考えますので、それも、人生の最初期のことですから人間としての油断につながったと、私は考えます。そうすると、この自殺が納得がいくこととなります。

 あのね、これはすでに他の人が言っていることですが、音楽と文学は工業生産的なコピーを取れます。しかし、美術の世界ではそうではありません。で、美術の世界の人は、貧しくて苦労が多く、決して油断をしないのです。甘くありません。そして、聖書が「貧しきものは幸いなり」というとおり、きれいな世界で、普通は生きています。

 私への嫉妬など異例なことかもしれません。が、後で、スピンオフとして語る、ゴッホとゴーギャンの逸話を見ると、才能に関する嫉妬の問題はどこででも、起きていることがわかります。

 そういえば、今年のNHK主催の、全国・合唱コンクール、中学校の部の課題曲YELLはすばらしい歌ですが、作詞・作曲が一人の人で行われています。これは、後々のことを思えば幸いでした。そして、グループ『いきものがかり』も、男の子二人は、小学校時代からの仲良しらしくて、かわいいらしい性格を発揮していますので、人生をうまくやりぬけそうです。

 しかし、加藤和彦氏、と、北山修氏は、ただならぬインテリでした。しかも時代を切り開く前衛でもあったのです。これは、相当なタマ、どうしなのです。一筋縄ではいかぬものどうしです。

 比較して爆笑問題という二人組みですが、ウエブサイトで調べたところ、太田光君のほうが、絶対にコンビを崩さない覚悟があるみたいです。自分にとって、田中君が大切だと肝に銘じているそうです。テレビの世界でのやり取りを見ていると、圧倒的に太田君が主導権を握っているみたいですが、田中君の役割に対して、太田君は、きちんと自覚的に認めているみたいです。だから、テレビに出づっぱりというストレスの高い、生活ながら二人が破綻をしません。

 そして、加藤和彦氏と、北山修氏もお互いに、今までは、その潜在意識を表に出すことも無く、上品に紳士として、お互いをいたわってきて、一切を、・・・・・悪い言葉で言えば、上滑りに・・・・・見過ごしてきたのです。

 しかし、人生の終盤に入ってきて、加藤和彦氏の方が突然に、『自分の人生は、一種の失敗ではなかったか?』という根源的な疑惑にとらわれたと、これも仮定をして見ましょう。そのときに、突然に対照例として、北山修氏の生活が目に浮かんだ・・・・・と、これも仮定をします。

 そして、北山氏は、有名人にもかかわらず、一種の職業人としての、普通の生活(定期的な収入があり、奥様や子供もいる家庭も在ると仮定すると)、その世界の構築がすでに、間に合わない遠さで、自分に感じられたときに、加藤氏は一気に、自殺へと入ったと、私は仮定するのです。

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 もちろん、この自殺の影には、もっと、大きな問題が隠されている可能性があります。男同士の嫉妬心などという点に矮小的に、集約できない、思想性の問題が隠されている可能性もあります。

 だけど、それに触れる前に、ゴッホとゴーギャンの最新研究をスピンオフとして書きたいと思っています。自殺とか、自傷行為はどうして起きるのかの研究です、NHKテレビが放映をしました。それを、加藤和彦(死)の分析ー4として次にアップロードをさせていただきたいと今は感じています。だけど、<<<先に熟睡を三時間程度でも、とる、必要があるかなあ。私自身の命を守るために・・・・・ただ、やはり眠れない>>>と思いますね。

 この自殺は、クリエーターという種族にとって、非常に大きな問題だからです。

2009年10月19日   雨宮舜(川崎千恵子)
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