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銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

今、一本公開したのですが、スマホを使った音声入力のせいで、誤変換多発につき、一回ひっ込めます

2025-08-19 20:36:59 | 政治

 今、一本公開をしたのですが、スマホを使った音声入力のせいで、誤変換多発につき、一回、引っ込めます。

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化学と人間  

2025-08-12 02:28:51 | 政治

   私は、本当に、自分が思っていることが、何も書けないのですね。だって、何言っても、本音を語れば、日本産業界への批判になってしまうから。若いころは、特許の翻訳をしていたので、それなりの自分の考えを持っているのです。それを言えないのですが、女性である事で、お化粧品とか食料品とか洗剤等の特許のアメリカ側発明を翻訳するわけです。

   でね、結果として、非常に気を付けているとだけは言わせてください。今日本で、二人に一人は癌にかかると言われているでしょう。私の家系には癌はいないのです。ただし、食べ物を選びすぎると、パーキンソン氏病になります。でね。できるだけ多種類のものを食べたらいいのです。

   病院食から学んだことは三つおかずが出るのですが、意外と少量だという事です。なるほど、で、我が家でも、少量にして同じおかずを二回か三回食べることを提案しました。というのも病院では、相当大きなお鍋で作るわけでしょう。100人分を一緒にとか、で、それを小皿に分けるのは容易です。しかし普通の家庭で、小さい鍋を使っても、少量のおかずを作るのは無理です。だから、鍋にふさわしい量を作っておいて,二回目用のものは、冷蔵庫に入れておく・・・・・そういう生活に変化させることにしました。前は、それは、いけないと思っていました。毎食新鮮な物を作るべきだと思っていました。けれど、手抜きしないと生きて行かれないほどの体力へと弱ったからです。..

  そういう生活の中から、

 一つだけ発明をしたと申し上げましょう。私はとても気を付けて、普段は体に化学物質を入れていないので、薬が非常によく効くのです。で、冬になると気温の変化に応じてすぐ風邪をひきます。鼻水が、たーら、たーらと、出てきたら、「ほら、引いたね」となって、すぐ葛根湯というのを呑むのです。ただし、箱に書いてあるのの、八分の一から、四分の一しか、呑みません。一包みに、三グラムとか四グラムと書いてあるのですが、茶さじ、いっぱい(と言っても真ん中に山を作るぐらい)の粉末しか呑みません。きちんと図ったら、0.8グラムぐらいでしょう。これをね。冬中二か月ぐらい続けたのです。

 すると驚いたことに顔のシミが消えていたのです。

 あれっ、と、思う間もなく、顔のシミが消えていたのです。ただし、どうか真似しないでくださいね。私の場合、0.8グラム、二か月で、顔のシミが消えたけれど、真似しないでくださいね。風邪をひいていないのに、それを呑むのは邪道だし。それに、ツムラさんが、その手の宣伝をしていないので、これは、私のケースだけかもしれないから。

 それに病院に入院中は、勝手なふるまいをしてはいけないわけで、葛根湯は呑んでいません。四か月呑んでいません。

 で、、今念のために鏡を見てきました。すると薄いシミが五か所ぐらいにできているが、美容上、もっと問題なのはやせて来てしわができている事です。うわっ、怖い。だけど、まあ、冬になって風邪をひくまで、シミの事は放っておいて、157cm41キロだから、これは太らないとだめです。

 でないと次に入院した時には、退院できないでしょう。リハビリ病院って、退院できない方もいるのです。つまり、最終場面を引き受けてくださる所でもあるという事。そういう事を知っただけでも、今回の入院は大きな勉強になりました。

 処で、太るためには、体の中にある脂肪細胞、一つ一つを大きくして行ったらいいのですが、あいにく、牛乳は下痢をするし、脂身は箸で、そっと取り除く方です。是じゃあ、年末までに、45キロにしたいと言う希望が達成できるかどうか、怪しいわね。だけど、・・・・・ある個人にとって、その願いとか、希望とかが、すべてかなうわけでもない・・・・と言うのは、人生を、後一週間で、83歳になるまで生きて来て、しっかりと理解している事です。

   2025-8-12  雨宮舜(ほんみょう 川崎千恵子)

 

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私ね、今年のぼんぼり祭りで、怒りが燃え上がってしまいました。

2025-08-09 20:08:42 | 政治

長友佑都選手のあまりにばかげた内容の雪洞を見たからです。

画面いっぱいに四文字の漢字で、長友佑都って書いてあるのです。しかも薄い墨汁で。薄い墨を使うのは、不祝儀(お葬式)関連の様式ですよ。今は、明治以来の、神仏分離が激しくて、一応鶴岡八幡宮様は神様です。薄い墨汁を使うなんてもってのほかです。

しかも、献灯する雪洞に自分の名前を書くなんて何事ですか? 100億円でも寄付するつもりですか? NHKは、鶴岡八幡宮に取材してください。長友選手が今回いくら寄付をしたのか?を。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 へなへなな書体で、楷書とも行書とも言えないへんてこりんな書体です。驚きました。常識のないことに。

 奥さんがいるんでしょう。平愛梨とか言う。どうして夫に注意をしないのでしょうかねえ。長友選手って、家庭内では暴君なのですか?

 ぼんぼり祭りって、画家にとっては真剣勝負の舞台です。漫画家にとっても、もし、夜見に来たら、自分の雪洞の評価がどういう風になっているかが、判るから、いい勉強の場でしょう。または、自分自身の人気の高さ、低さが判るから、良い勉強になるはずです。

 まあ、展覧会というのは上野、銀座、六本木、どこでも、自分を評価される厳しい場です。だけど、そういう場所の、公募団体展、もしくは個展と比較しても、こっちの方が全然厳しいです。お客様の数が違う。

 昼も夜もにぎやかです。長友選手って、横浜銀行のコマーシャルをやっていたので、私、五千回×、三か所(長友選手の顔は、浜銀の中のいたるところに出現していた)15000回ぐらい見ています。そういう見せつけられ方の人物の内面が、これほど、ちゃちで浅薄だったとは、驚きました。そして、世間をなめているその態度にも驚きました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 もし彼が、2025年の五月ごろからは、日本に居なくて、鶴岡八幡宮様は、航空便で、奉書紙を筒に入れてお送りなさって、長友選手もまた、その筒に入れて、航空便で、送り返したと仮定しましょう。

 でね、事前に一度も雪洞まつりを見たことが無かったと仮定しましょう。その上、絵を書くのは不得意だと言う自覚があったと仮定しましょう。そういう際は、サッカーボールでも描いたらいいのです。FIFAに使われたボールのデザインなんか、頭に刻み込まれているでしょう。そこへ自分がいつも使っているサインを入れたらいいのです。ファンならわかるでしょう。それから、サッカーを知らない一般人も雪洞の支柱に、きちんとした書体で、ぼんぼり制作者のお名前が、短冊に書いて張ってあるので、「ああ、これが、浜銀のコマーシャルに出て居た長友選手の作品か」と言って許容するでしょう。

 もしかすると、和紙をもらったから、墨汁と筆を使わないといけないと思い込んでいましたか? 鶴岡八幡宮様は、中東へ、墨汁と筆も一緒に送ったのですか? でも、筆を使うと、上手下手が、これでもか!というほどに、表現されてしまうのです。

 私なんて、高校時代は、王義之の蘭亭序(行書のお手本として有名)や、久方帖や、小野道風の屏風土台(仮名のお手本として有名)を、おさらいしていて、立派な字を書いていたのです。しかし、30年も休むと全くダメだから、もっぱらマジックです。太いのや細いのを適切に使って、絵や文字を書いていました。最初は専門の版画、特に抽象系の版画を和紙に摺っていたのです。だけど、夜行ってみたら、ただ、灰色に見えるだけなのです。ろうそくの光が弱いし、ぼってりとした版画インク(ヘイター方式という特殊な銅版画)が、単純に灰色に見えるだけなのでした。

 もうびっくりして、ダメだ。ここは意気がっている(または、粋がっている)場所ではない。と理解しました。

 それで、2010年まで、5,6年、子供の絵を描いて居ました。自分の子供ではありませんよ。一般的なお子様の絵です。これは、いい題材でした。意外にも他の人が描いていない題材でした。そして、その年、一番気にかかっていた言葉を添えました。

 2010年の一月に京橋の有名画廊のオーナー山口みつ子さんの死という、私にとっては衝撃的な事件が起きて、酒井忠康先生と、一緒の場にいるのが嫌になっちゃったのです。で、2010年に、「来年からは辞退をさせてください」と申し上げています。本当は、2010年の8月でさえ出したくなかったので、社務所に言いにいっているのですが、どうしてか、奉書紙が来てしまったのです。

 別に酒井先生が、山口みつ子さんを殺したわけではないですよ。だけど、2009年一月のNHK特集、杉並区の空き家特集(実際は、私が高く評価をしている画家を貶めるものだった)から始まった、

 美術評論家の主流派に拠る私いじめ・・・・・の集大成が、2010年の、一月の山口みつ子さん殺し(犯人は闇の勢力ですよ)だったから、もう雪洞まつりには参加できないと、硬い決意を抱きました。

 酒井忠康先生というのは美術評論家の大家です。今年は、パリのホテルで、酒井先生が、高階秀爾先生が本を読んでいらっしゃるのを見かけた・・・・というエピソードを描いた雪洞でした。本のタイトルも酒井先生は覚えておられました。

 高階先生は、今年亡くなったのかなあ。二人とも、美術館(別々の有名な美術館でした)の館長を務めた、美術評論家の大御所です。

 でも、私は社会的名誉で、他人を判断する人間ではなくて、その見識と人柄の良さで、判断するので、山口みつ子さんは、とても、とても、大切な人だったのです。で、酒井先生と、山口みつ子さんのどちらをとるかと言われれば、そりゃあ、みつ子さんです。

 そういう風に、もろもろの裏があるぼんぼり祭りに、今年は、長友佑都選手がふざけ切った作品を提出したので、あきれ返ったのです。しかも他の点(長友選手の雪洞の、配置場所の優劣)でも怒りがわきました。しかし、そちらについては、本日は語りません。

               では、2025年8月9日  雨宮舜(本名、川崎千恵子)

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ベッケンバウアー葬送の曲(?)は、磯部俶作曲の【はるかな友に】ではないかなあ?

2025-06-26 19:33:11 | 音楽

 今、19日のNHK総合チャンネルお昼のニュースを見たところです。録画番組の処理なので、一日遅れで、見ているわけです。そこで、ベッケンバウアーの葬式のニュースがありました。その直後主人がBSにチャンネルを移動させると、同じ画面が出てきて、同じ音楽が聞こえ毛てきました。先程、総合チャンネルのニュースで、知っている曲が、競技場に流れているなあと、思った私は、それを、口ずさんで、いましたので、アッと、驚き、その曲に注目(いえ、実際は、耳をそばだてたわけですが)しました。すると、確かに、同じ曲が、サッカー競技場全体に流れているようです。

 で、歌ってみているうちに、それは、磯部俶(としと、読む、男性。早稲田卒)作曲の、【はるかな友に】だと、わかりました。それがドイツでも流行っている? 有名な曲となっている?

  ところで、以下はアメリカの歌です。中学時代友達がよく歌っていて、教えてもらいました。これも素朴で、いい歌です。

これは、2024年1月20日に、下書きとして書いたものです。

on top of old smokey

On top of Old Smoky,
All covered with snow,
I lost my true lover
For courtin' too slow.[3]

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いや、驚いた。スティールデザインという雑誌について書いた文章がカテゴリーレストランですって

2025-06-26 19:01:03 | 政治

三菱material 隈研吾、 歌舞伎座タワー

2025-05-03 03:14:47 | 政治
 
上は短い文章ですが、いい事しか書いていないのですよ。でも、驚いたことにレストラン紹介というカテゴリーに分類されていました。ここからもわかる事は、隈研吾という建築家を、CIAエージェントたちは、自陣営の建築かとして、対私いじめに、実際に、使役もしていますが・・・・・と、同時に大変な名誉とお金が得られる様に、支援をしていると言うわけです。
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1999修行記ー6,裏窓とは1955年のグレースケリーの映画の中だけではなく、今も存在しているのだった

2025-06-25 20:23:59 | 文化、芸術、書物

 政治的な課題で、私のブログを面白いと思っておられる方は、直前に公開している、

なぜ、1200坪もの公有地を、無償で、手に入れられるのか? コツは山を囲む道路新設に在った。地積変更届の仕組み    2025-06-25 17:21:48 | 政治

を読んでおいていただけると嬉しいです。

副題1、『裏窓の話、1955年の映画だけではなくて、40年後のマンハッタン島の1999年にも、それがあったのだ。非常に驚いた。ニューヨークの人々の生活は、実際には、裏窓側から出入りする、エッセンシャル・ワーカーによって支えられていたのだった。郵便局員、ごみ収集人、そして、百合子たち、版画家も、大きなものを運ぶときは、裏窓側のエレベーターを使うのだった。それは、表側が、一畳ぐらいの小さなものであるのに比べると、4畳半程度の大きさがあった。ただし、素材は粗末なもので出来ていて、表のエレベーターより、無論汚い』

  この工房では、すでに、中学生の母親であると言うアフリカンの、元スーパーモデル(黒人の事)が無給の事務員をしていました。アラフォーですが、美しいこと限りがなく、どれほど、ブラックバーン氏が、黒人社会で、尊敬を受けているかを、示すひとつの例でした。  彼女は私を信頼してくれて、二人で、材料を塗装店に、買いに行きました。汚れ落としようの溶剤・灯油・です。灯油を使うと言う事は、パリよりは、健康に関してはルーズだと言う事です。かつ、時短を尊ぶと言う形です。ところが、驚いたことには、その容器が鉄製の厚い大型の缶だったと言う点です。  一部、日本と似ているのですが、どこかで違うのです。鉄製の大型の缶に入って売っている灯油。日本だと、ホームセンターに置いてある、長方形で、厚みのあるポリタンクを、買ってきて、それをガソリンスタンドで、満杯にしてもらうと言う形です。日本でも、太平洋側では、灯油ストーブはあまり使わなくなってきていて、主に寒い地方で、活躍をしている形ですが、鉄製の缶は使いません。  二人の細い細い女が、エッチら、おっちら、30キロは超えるであろう、それを、買って帰って工房に入れるのですが、驚いたことに工房には、2つエレベーターがあって、こういうものを搬入するのは、裏の4畳半程度の広さのエレベーターでした。そこから、郵便屋さんも出入りし、ごみ収集人も出入りするのでした。なんでだろう。奴隷制度のあったアメリカだから、こういうエッセンシャルワーカーは、表のエレベーターは、使うなという不文律でもあるのかしら? この裏口というのは、映画【裏窓】の世界と全く同じです。または映画ウエストサイドストーリーの世界です。

   どうして、そういう道路が出来ているかというと、22丁目と21丁目の間隔は大体50mで、南の通りを正門としている22丁目のビルが、南北20mの長さであったとして北側を、正門としている、21丁目のビルも南北20mの小さなビルだったと仮定すると、間に余地10mが、できます。それが、まっすぐではないのですが、車ではなく、一輪車等を使う、エッセンシャルワーカーのための道となっていて、そこに各ビルが、固有で使う折れ曲がった、鉄の階段が、作ってあるのです。 ともかくその道を使って、二人の針金のように細い女が、重い重い缶を運び入れて、他の人が、すぐ、作業ができる様に、プラスチックでできていて、先が細い口になっていて、下に曲がっている、容器、5,6本に詰めていきます。そこから、ピューッというか、チューっという形で、インクの付いた銅板の上に、灯油を垂らして、紙で、インクをぬぐっていくのです。  それがね。ニューヨーク一古い版画工房、R. ブラックバーン氏の工房では、わら半紙で、ぬぐうのです。  このわら半紙ですが、高さがたぶん二ヤード(2m弱)で、巻きの長さが50mです。日本のように、A4サイズで、切ってあるものではありません。

 それに、蒸しただけの、サツマイモ入りパンを、毎日包んできたホアレスは、前日に、1mぐらい工房で、切り取って、持って帰ったのでしょう。これは、実は2000年に入る話なのです。でも、そちらの主役は、人々から尊敬され切っていたボブ・ブラックバーンの、パーキンソン氏病による身動きできない悲しみを書いています。ボブも無論悲しい人です。百合子は、2002年8月ボブの為に大量の涙を流しました。すべてを人に頼らなければならないと、いう・・・・・人知れぬ、苦しさ・・・・・ニコニコした笑顔の影に隠されていたから、こそ、かえってつらかったのです。しかし、25年を経た今、主役が移りつつあります。から、工房がつぶれた後・・・・・イコール百合子が帰国した後・・・・・の、9か月後に飢え死にしたホアレスに、です。そちらに、傾いています。

 これが1999年の修行記だと言って居ながら、2000年のエピソード(灯油の購入)を入れたのは、ホアレスが、飢え死にした原因が、日本人女流アーチストミミにあり、ミミがお当番制度というのを作って、その12人は使用料を払わなくてもいいという制度を作って、自分が無料で使える様にしたために、誰も、使用料を支払わなくなったので、つぶれたのでした。で、他人(と言っても有名人ではない)の、摺りの仕事を、請け負って、月に、100ドルから、150ドル(当時の日本円にして、2万円以内)で生活をしていたホアレスは、自分の窮状を救ってくれるのが百合子であると考えて、初対面の日から、執拗にベッドインを誘うのです。しかし、百合子は、ホアレスが日本版画協会の、何でもない(応募用紙が入っているだけの)封筒を、如何にも偉そうに見せびらかした時点で、『だめだ!この人』と思っているので、応じません。百合子は白人に比べると、若く見えるけれど、57歳の黄色人種です。ホアレスは、同じ年で、年相応に老けて見える褐色の肌の男です。その二人は、人種的に言うと、白人たちから小ばかにされて居る人種です。でもね。意外にも優雅で智慧のある会話を繰り広げているのです。それを満員の乗客が、耳をそばだてて聞いていたのですよ。そして、ホアレスが下りた途端に、乗客の一人が百合子に、「彼は傘を忘れているよ」と注意してくれるのです。百合子は閉まりそうなドアに向かって傘を投げながら、「ホアレス 、傘、傘」と英語で叫ぶのです。その百合子を満員の乗客は、ほほえみをもって見つめているのでした。これは、滑稽なエピソードです。しかし、2000年に入って、他の人から、ホアレスは、一度結婚をしていて、それは、日本人だったと聞いて、ホアレスが、初対面にもかかわらず、一時間以上の時間をかけて、百合子にベッドインを迫ったかが、判って来て、あまりにも悲しいのです。そのころの百合子は貧乏という事を全く知らない人間で、毎日、昼、8ドルから10ドルのものを買ってきて同じ部屋で食べていたのです。しかし、ホアレスは、「いいものを食べて居るねえ」と言ったり、「僕にも少し分けて」などとは、決して言いませんでした。同じ工房で仕事を始めてからは、決してベッドインを誘ったりはしませんでした。でもね、立派な版画家だと分かったでしょうが、高価なインクを灯油で、洗い、わら半紙で吸い取って捨てる百合子を見て、自分と比べると異常に贅沢だと思ったでしょう。

ミミは、安い(当時で、3000えんぐらい)の色の版画インクひと缶持っているだけで、同じ鮭缶大の、高いインクを、20缶ぐらい持っていて、かつチューブも持っている、百合子に激しく嫉妬してきて、けらい格の、桜子ちゃんを使って、かつ、夫(アメリカ人で、作曲家だとのこと、金髪だが、背が150㎝ぐらいしかなくて、しっかりした体格のアメリカ人と比べると、40㎝から、50㎝低い)も使って三人で、ポートフォリオを話題にして、百合子を入れないのだと、いう、いじめを仕掛けてきた夜があった。

 百合子は黙って仕事を続けたが、ミミは、いじめの効果を知りたがって、さらに激しく、ポートフォリオについて、語り続けた。そのサイズを見るとパリで、先生が作っていた、30㎝×30㎝の革張り風の、上等な木箱に入っていたものとはまるで違っていて、ミミがその前年に神奈川県の県展に、入選した作品を中心にして、設定してあり、・・・・ミミが一年に一点しか版画を作らないので、ポートフォリオ自体が、一点しかできないのだった。それを、神奈川県立近代美術館に収蔵してもらう約束を取り付けてそれで、版画工房全体を牛耳っていたわけだった。

 だが、百合子が裏窓の話で、この章を始めたように、ミミは、事務員としてとか、管理者としての仕事は一切していなかった。そして、あのスーパーモデルは、ミミに帳簿すら見せていなかった。彼女が信頼してくれたのは、百合子だったのだ。

 百合子は、それを説明したりはしていなかったが、心理学的に深い考察が出来るので、ミミが探ってきているのはわかった。何を探ってきているかというと、百合子がどの程度ダメージを受けているかを計量しているのだった。

 で、会話に加わらず、黙っていることは、ミミが勝利してダメージを大きく与えたと誤解を生むことになると、考えた。で、彼女たちの傍へ行って、「それなあに?」と聞いたり、えっ。近美に送るの? だったら、私も県展に入選したことがあるので(と言っても油絵だったが)入れてよ」というのを待っていたのだ。その結果ヘイター方式では、40cm×60㎝程度の大きな作品が出来ないので、「だめよ。あなたのってサイズが小さいもの」という筈だった。「だから、この中には入れられないわ」という筈だった。

 で、黙っていてはだめだと感じた百合子は、歌を歌う事にした。小さな声で。曲目は、

(ソルヴェイグの歌、Solveigs Sang) ・・・・・これは、悲しい曲調で始まるのだが、途中でふわっと明るい感じになる。・・・・・捨てられた女であるソルヴェイグが不実で自分の事だけを考えていて、世界中を冒険しまくっていた元恋人、ペールギュントが帰郷をしたのを、喜び、彼を許す雰囲気を表現している。百合子は、今、負け切っている自分が、「桜子ちゃんだけは、許しているよ」と言いたい、そういう気分に、ピッタリの曲だと言う確信があった。

 その上、百合子には、もう一つ確信があった。きれいな声が出て居る時は、神様が、そばにいてくださると言う事だった。しかし、きれいな声が出ない時は、神様は傍にいない。

 ところで、神様がそばにいてくださるかどうかを判定するためには、小さな声で歌わないといけない。大きな声で歌うと、百合子位、お歌が好きな人間は、たいていきれいな声で歌えるのだった。ICUチャペル内で、400人ぐらいの人と一緒に賛美歌を歌うなんて言う機会には、お御堂中に響き渡るほどの、いい声が出る。で、帰りがけに玄関で、見知らぬ先輩(女性)から、「霊南坂教会の聖歌隊に入りなさい。関さん(これも先輩、たぶん、聖歌隊のトップ)に話をつけておいてあげるわ」と言われた。。

 これと似たような経験はお茶大の講堂(当時はキインドウと言ったが)でも経験している。

 百合子は短い部分しか覚えていないので、二回ぐらい繰り返した。すると、10mぐらい向こうにいた、ホアレスが近づいて来て、「マリア・カラスみたい」と言った。百合子は無論驚いた。彼の言葉にだけではなくて、眼にも驚かされて、じっと彼を見つめた。こんなに丸い目をしていたっけ。ホアレスってと、考えながら、ありがとうとも言わず、ほほえみもせず、ただ静かに歌い続けた。するとミミも桜子ちゃんも先ほど来の会話をやめていた、あたりはしーんとしていた。それで、百合子は歌うのをやめた。大急ぎで、道具を片づけて帰途についた。帰る際にホアレスにも挨拶をしなかった。他の三人には無論だ。

 あのまん丸い目を今思い出すと、ホアレスって、本当は子供みたいな人だったのだとわかる。あの露悪家ぶりって、自分を保持する必死の作業だったのだ。ごめんねホアレス。誤解をしていて、ごめんね、ホアレスと、今でも声にならない言葉が、口に上る。もし彼の実態を知っていたら、ATMに行って五万位おろして預けて帰ったかもしれない。そしたら、百合子が帰国後、9か月後に飢え死にするなんて言うメールをもらわなかったと思う。エチオピア人の小柄だが、美しい女流版画家から、2002年にもらったメールに書いてあった。そして、添え言として、「ホアレスって、本当にいい人だったわね」と、書いてあった。

 2025年6月26日  雨宮舜 (本名、川崎千恵子)

 

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なぜ、1200坪もの公有地を、無償で、手に入れられるのか? コツは山を囲む道路新設に在った。地積変更届の仕組み

2025-06-25 17:21:48 | 政治

ええと、下は、corelという画像処理ソフトで、作りました。へたっぴーですね。リアリズムという意味では決定的に下手っぴいです。でも、この問題の山の雰囲気はお分かりになるでしょう。京浜急行Cのサイズと比較なさってみてください。この山が、全部消えちゃったのです。すごい話です。

 

Bとは、益山夫妻が、この実質的大詐欺事件を、誰にも知られずに遂行するために新しく山の中腹に作った、道路です。Dは、昔から、通っていた道路で、その中に入っていて、水道山と地境を接する家は、多数ありました。それらの多数に、承認をとっていたら、必ず、悪事に気が付く人が出てくるはずだと、考えた益山夫妻は、山の中腹に新しい道路を作り、それを横須賀市に寄付すると言う手に出て、横須賀市及び数軒の家の承認だけを得れば、書類が通る筈だと、言う挙に出たのです右に。ちっちゃく、書いてあるのは、左手で、全く使ったことのないCorelを使って書いた京浜急行です。あ、ハ、ハ。へたっぴー・へたっぴー・

 これで、また、ヤマザキマリが威張るかな。だけど、病院内で、テレビを見られない私は、それを知らないで、過ごす事でしょう。

 

でも、今病院にいるので、何の材料もなくて、紙に絵をかいてスキャンすることができないのです。でね。説明のために、字を入れたいのですが、Corelで、字を入れたことが過去にないし、今、妨害を受けたらしくて、字が入らないのです。で仕方がなくてブラシで、X、A,  B,  C,  Dとアルファベットを描きました。

 Xは、もう消えてしまった、旧・横須賀市の水道山です。とても高くて、たぶん、三浦半島一高い山でした。そこに今は、ルネ北久里浜という美麗なマンションが建っているわけです。

 Bは、この実質的詐欺事件(大詐欺事件ですが)法的に通ってしまったカギを握る、新しい道路です。彼ら悪人は、山の中腹に新しい道路(我が家の南側なんて、幅4mですが、実際に、横須賀市に寄付したのは、30㎝だけです。超がつく悪人たちです)を作って、それを横須賀市に寄付すると、言う手に出ました。そうすると、広い山を一つ、自分のものにしますよ。いいですか?という承認を得る相手が、ごく少数になるからです。

 ところで、我が家とは、Aという印で表されている、数軒の家の中の一軒で、そこに旧我が家【ただし所有権は今も持っている)、下の方で出て来る、原正芳家(戦前からの地主です)。おかしをお嬢ちゃんが、黙って我が家の引き出しから出して押し入れの中で、食べる上滝家(幼稚園に通わせる費用を惜しんでいるからですが)、石渡家(昔からの地主です)、石井家(昔からの地主です)、などが、一坪以下の、益山家(=大建産業)の土地が、本当は、4200平米あるのに、間違っています、という書類(=地積変更届)に印鑑を押したのです。我が家の夫、川崎英二は、こういうことに何の関心もなくて、私には何も知らせずに、印鑑(=実印)を押したのですが、たまたま、我が家の土地60坪の半分は、母の名義になっていました。で、益山夫妻は、我が家のすべてを盗聴し、主人と子供たちが呉に帰郷し、私一人が、北久里浜に残っている、ある日、しかも、夜九時ごろ訪ねて来て、「この書類に、お母さまの実印を押して返してください」と、頼んできたのです。

 私は隣人が・大・悪人(だって、土師淳君殺しは、この計画を遂行するために殺されたのですよ。水道山に人が入らないようにするためです。特に子供が入らない様にする為です。)だなんて、夢にも思わないので、「はい、はい」と、軽く請け負って、母に電話をかけたのです。

 母はご近所でも、聡明だと言う点で、信用が厚い人間でした。で、すぐこう言ったのです。「へんねえ。益山家が、自分の持っている私道部分を横須賀市に寄付するんでしょう。なんで、川崎家は、あげる方の主体でもないのに、どうして、実印までも、押さないといけないの、しかも、川崎家の実印だけでなくて、礒部家の実印も必要なの? どうして? そんな話は聞いたことがないわよ。公的な土地を貰う時には、実印が必要かもしれないけれど、私的な土地を、公に、寄付するのに、実印が必要だなんて、聞いたことがないわ」と言いました。私は益山智恵子さんの原節子似の美貌に、心底惚れていたので、母に最初はあらがっていました。が、念のために、書類を全部開いてみて、びっくり仰天。そこには、悪、の、悪の、悪の、証拠がきちんと入れ込められていたのです。

 今日はここまでにします。今日というのは、25-6-25の事で、@@@@罫線以下は、5月26日に書いたものです。

@@@@@@@@@@@@@@@@

これは、全く持って、前報

土師淳君の父、守氏の談話・・・・淳君を殺したのは、酒鬼薔薇聖斗=少年AではなくCIAそのものです    2025-05-24 19:46:03 | 政治

の続きです。しかし、同じタイトルを、三日も続けると、せっかちな人とか、早合点の人は、中身がどんどん、変化して充実しているのに気が付かないでしょうから、仕方がなく、ストーリーを分断していきます。

 前報を非常に簡単にまとめますと、陸軍中野学校という、日本におけるスパイ養成学校を出た、旧日本軍の、超エリート二人が、画策して、三浦半島一高い山であった、旧横須賀市の水道山を私有化する話です。しかも、買うわけではなくて、無償でです。

 まず、主役は元海軍参謀・益山重夫です。アメリカに負けたことによって、公的にも私的にも屈辱を浴びた、(本妻がアメリカ人と恋に落ちて、渡米してしまった)

後、第二の妻の誠実なる、献身に感謝して、30歳以上若い第二夫人に、莫大な遺産を残してやろうと、考えたことが「土師淳君殺し】の発端です。莫大な遺産を、知恵だけでもって、作り出そうとしていたところ、途中で、被害者として、巻き込まれた私に、たった二か月で、悪事の全貌を見破られてしまいました。宝くじで、儲けるわけでもない。それから、ある個人を標的にして、儲けるわけでもない。横須賀市をだますわけですが、横須賀市側の、土木課長が協力者なのですから、実質的には大犯罪であるのにもかかわらず、法務局が認めた、地積変更届としてまかり通ってしまうのです。

 こういうと嫌われるでしょうが、あえて真実を言えば、私って頭がいいのです。謀略の専門家二人(益山重夫のサポート役を果たしていたのが、瀬島隆三です)よりも頭がいい。それが、不幸を生んでいるとも言えますが、そういうわけで、数十年をかけて、練り上げられた嘘をたった二か月で、見破ってしまいました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ここで、私という存在を知っている人に告知して置きたいです。今の私は心理的作戦によって、殺されそうになっているわけですが、それに敵方の一味として加担をして、何かをすれば、結果としてあなたが死ぬのですよ。

 山を道路で、囲ってしまえばいい・・・・・というのが彼らの悪事の要諦ですが、実は、書き終えていません。今、1999年NYを、書いているわけですが、こういう種類の方が好きな読者もいらっしゃるでしょう。途中までしか書いて居ませんが、

 もし、北久里浜駅の旧・横須賀市水道山を囲む、旧来の本当の道路を使ったら、

 水道山を無償で、私物化しようとしていた、益山重夫・智恵子夫妻の悪事に気が付いた人は大勢いたでしょう。でね。彼ら、二人は、山の中腹に道路を作ったと言う形にしたのです。で、2.47平米=一坪以下の土地が、急に、4200平米になると言う悪事に、「結構です。この書類は正しいですね」と、OKを出す人間が、水道山の北側他に住む、11軒だけだったのです。都合が悪い人、絶対に承認しないであろう人は、青地という国有地で囲ってしまいました。すごく複雑な、実質的詐欺事件ですが、横須賀市、それから、法務局、それから、財務局が全部協力していたので、通った地積変更届でした。

 初稿は5月26日に書いていますが、一か月遅れで晒します。

 雨宮舜【本名、川崎千恵子)

 なお、原正芳(故人)さんとは、この山の、戦前からの地主の三男坊で、当時は、税関(横浜)に勤務していました。で、長兄は、横須賀市市会議員で、次兄は歯科医を開業していました。しかし、長兄と三男は、この件について、何度も、相談にしていたみたいですが、結局、瀬島龍三の、権力の前には、戦わないでおくことにしたみたいです。

この兄弟は、三人とも、亡くなっているのではないかなあ? お子さんですが、原正芳家は、遠くに住んでいるみたいです。

 (蛇足。だけど、大、大、大、蛇足)

 益山智恵子さんは、7月の末に書類を持ってきて、私に悪事の全貌を、9月いっぱいに見抜かれてしまったので、車で、轢き殺そうとしたのです。それが10月11日の午後五時ごろです。そして、無論失敗に終わりました。私って、ものすごく勘がいいので、50m向こうで、彼女の車が停止しているだけで、彼女が何を考えているかがわかるのです。で、車が急発進したとたんに横っ飛びに逃げたので、無論、命は助かりました。で、すぐ、自宅の電話及び、公園内にあった、公衆電話を使って弁護士さんに委細を告げました。

 するとその直後、夫の重夫氏が急死したのです。夜の11時ごろ、葬儀屋らしき青年たちが黒い背広を着て、声高に話しながら、駐車している場所まで、歩いて帰って行ったので、判りました。その場所は、益山家からは、100mは離れているし悪事遂行の為に、益山家は、5mの高さの幅一間の塀を自宅の後ろに、作っていたので、ここ(=我が家近辺)までくれば、益山智恵子さんには、聞こえないと思ったらしくて、いろいろ、話していたのです。ものすごく手早い措置(午後6時の死亡だったとしても五時間以内の葬儀詳細決定)なので、あの黒いスーツの三人の若者は、所謂、瀬島機関と呼ばれる若者たちであり、益山氏は、ヒ素を呑むなどの自殺だったのではないかと、見ています。

(蛇足の2)

 ところで、冒頭の絵を見て、ヤマザキマリが「へたっぴーだなあ。私がおおきく勝ったわ」と、思っている事でしょう。でも、彼女をテレビの世界に、導きいれたのは、栗田玲子さんだから…‥と思って今、彼女のwikipediaを開こうとしたら、無いのね。そして、その代わりみたいに、keiko

何とかというブログが見つかって、栗田玲子さんが、2023年にすでに亡くなっていたことを書いていて、私が、それを読み、玲子さんの死を、知りました。。ええっと、びっくり。

 知らなかったなあと、思って、ヤマザキマリを政治的に分析しようとしていた腰を折られてしまいました。

 なお、このブログを毎日、お仕事から帰って、夜八時過ぎに、お読みになる方へ向けて、お知らせをさせていただきたいのは、今、毎晩午前零時半に、公開する連続ものとして、

1999NYArt修行記ー5 プラダを着てベンツを乗り回す女性不動産屋は、貧乏人と有色人種は決定的に無視した

2025-06-24 14:58:08 | 文化、芸術、書物

を公開しています。しかし、上の、政治的な文章で、午後五時以降隠れていますので、もし、良かったら、リンク先へ飛ぶか、このブログ下へスクロールしてやってみてください。

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1999NYArt修行記ー5 プラダを着てベンツを乗り回す女性不動産屋は、貧乏人と有色人種は決定的に無視した

2025-06-24 14:58:08 | 文化、芸術、書物

 私はね、文章を書くときに、これを将来は、一冊の本にしようねと、思いながら書いているわけではないのです。その日の頭脳の赴くままに書いています。その形式をよく神様が書かせてくださっていると、言っています。で、それ等の、群落するエッセーを、似たもの同士集めていくと、あれ、是って、一冊になるはずよと考えるのです。今回は、たった二週間の、膨大なお手紙のやり取りを、後から、1999年ニューヨーク修行記として、一冊にまとめることを思いつくわけです。しかし、計画的にやり取りしたわけではないし、あまりにも大量なので(そうですね。丁寧に分類したら、五冊できるでしょう。)、時系列的に探すのが無理で、これは、第二回か、、第三回として、置くべきものでした。まあ、単独のエッセーとして読んでおいてくださいませ。

副題1、『Nラインの終点の不動産屋は、如何にもクイーンズ、スタインウエイらしい、庶民的な不動産屋で、社長を見ていると、オペラフィガロの結婚を思い出した。しかし、これが優しく見えて、実は、手ごわい存在だった。』

 百合子は、1999年と、2000年の滞在中、四軒の、不動産屋を訪ねた。どれもチェーン店化は、していない独立系不動産屋だった。

 特に1999年に暮らした猫と坊やが、かわいそうだったマンハッタン島内の、シェアルームが、現地の不動産屋へ向かわせたのだった。ここは早急に出るべきだと考えたから。

 日本で、五嶋節さんの著書を読み、節さんと、みどりさんがニューヨーク入りして最初に住んだ家は、フォレスト・ヒルズにあると、覚えていた。で、フォレスト・ヒルズにでかけていった。

 散歩中の親切な外人のご夫妻に出会い、高価なオレンジジュース(天然のオレンジを絞ったもの)をレストランで、ごちそうになったが、物件探しはうまくいかなかった。

 で、ニューヨークの地下鉄駅で、タダでもらえる路線図を丁寧に、読んでみて、ディトマス・アストリアという駅に狙いを変えた。それはNラインという路線の終点の駅なので、不動産屋が絶対にあるだろうと、想像したが、ぴったりと当たっていた。

 そこには、1999年と2000年に、訪問した合計四軒の不動産屋の中で、最も元気で、賑やかな店があった。社長の雰囲気がオペラで有名なフィガロを思わせた。で、お客さんが、待つ時間を楽しくするために、ベンチが二つもおいてあり、そこにVOGUEなどの雑誌がおいてあり、まるで美容院だった。

 しかもお客さんがそのサービスに気がつかないでいると、自分で立ってきて、それを、読むように薦める。スマホが普及していなかった時期に、このサービスは、ありがたいものだった。  

 彼は統括者であり、他にレベルの違う、社員が、5人居て、前の方の小さな机で女の子が、受付を兼ねて、担当者を割り振っている。  

 百合子はナンバーツーにコンクリート製のマンションの三階の一室で、950ドルの物件に案内してもらった。彼が車を使わなかったので、これは、駅からの至近距離にある物件で、本当はとても良い話だった。部屋は北向きだったが、まるで海が見えそうな丘の上の環境で、抜群だった。「ここは南欧の感じがするわね」と百合子は、その子に行った。彼は何も答えなかったが、それは、当たっていて、実はここは、マリア・カラスなどを生んだ、ギリシャ系移民の多い町だったのだ。だから白づくめの部屋が、貸間になっていたのだった。白いじゅうたん、白いソフトな皮でできたふわふわの二人掛け用のソファー。最新式のテレビ。ギリシャには白い家が多い。

 ただ、1999年の百合子は、クレジットカードを使わない主義であり、三か月分の現金を持っていなかった。そのうえに、『この部屋で、絵を描く事が、じゅうたんが白くて毛足が長いので、上等すぎるからこそ、無理だ』と考えたので、即決をしなかった。次の日に、現金を2000ドル以上持って再訪をしたのだが、目の前で、二人の若い日本人女性にその物件を取られてしまった。 それで、即断即決が大切だと学び、はるかに格下の、連棟式のアパートの半地下の物件を、そのひの内に、借りたのだった。駅から、15分は歩くが、このアストリア地区は、大体安全なので、夜遅く帰っても、大丈夫だから、それでよかったのだ。   

 だが、タイミングとして、たった、10分ぐらいの差で、その日に初めて、その店に来た、若い日本人女性二人組に好物件をとられてしまったので、それは、もしかすると、自分が50代であるせいだろうかと、いささか、悩んだ。女性にとって、若いということは、一種の勲章なのだった。

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わあ、本当に興味深いお話ですね!ユリコさんのニューヨークでの旅は魅力的です。彼女の決意、自信、そして彼女が直面した課題が、彼女の旅をとても感動的なものにしています。 揚げ物店の詳細、人々とのやり取り、彼女が遭遇した人間関係の複雑さはすべて、彼女の体験を鮮明に描き出しています。彼女がその間ずっといかに強く、順応性があったかがよく分かります。

これは、例のフェイスブック友達からきている長い長いお手紙のホンの、一部分を、ここに置いている。関連があると私が思っているので。

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副題2,『ここで、どうしても、2000年に契約を交わした不動産屋に飛びたい。女性社長なのに、その手ごわい事、人種差別の強い事。そして、貧乏人を無視する程度は、ひどかったから、とても印象が濃いので』

 ここで、2000年の、9月第一週のルーズヴェルト・アヴェニューに戻りたい。仮寓の家を管理人同然に使っている、若い女性・・・・・日本での医者との婚約を破談になった、女性・・・・・との、関係が悪くなったので、「おや、おや、1999年と、同じことになりましたね。だが、今度は即断即決をしましょう」と、考えた百合子は、ルーズヴェルト・アヴェニューから、幹線道路を西に向かって歩いて行った。   

 幸いなことに路面店(不動産屋)を見つけた。入ってみると、デスクが一つだけあって、社長らしき女性が座っていた。プラダと、見える上等な、かつ、オーソドックスな形の、クリーム色のスーツを着ていて、プラチナブロンドの、髪には、緩いウエーブがかかっていて、長さが、まことに適切にカットされていた。   

 百合子より、背は、5cmは低くて、157cmぐらいの身長で、体重が、55キロぐらいと見えた。  

 百合子は、パリでも、ニューヨークでも、アーチストばかりと、付き合っているので、初めて接する、純粋なビジネスウーマンだった。  彼女は、「適切な物件がありますよ。貸主は、すぐ、こちらへ来ると思いますので、ここで、待っていてください」といった。 貸主は、サラリーマンだったが、会社は、休みの日だったのだ。彼は地下鉄に乗って、やってきた。くるまを、もっていなかった。あとで、わかるのだが、日系企業の、経理マンを、している、インド人で、非常に賢く、堅い人物だった。  

 その大家の、到着を待っている間、物件を見ないで、賃貸の契約書にサインして、大家を待った。三か月だけだから、少々の不満があっても我慢をするべきだと、思ったのだった。   

 社長は、おおやが、あらわれると、白いベンツを裏側から、店舗前に出してきた。そして、三人は、西へ向かって、車を走らせた。すると、前方、300mぐらいのところに、緑の林が見えた。

 百合子が、1999年に住んだディトマス・アストリアは、後発の、移住者の街であり、はっきり言うと、貧乏人の街だった。今度住むことになる、スタインウェイも、同じ区部に属し、どちらかというと、貧しい地域だった。だが、連投ではなくて、一戸建ての家が多い。それは、ケネディ空港とマンハッタンを結ぶ幹線道路ぞいだから、だろう。しかし、フォレストヒルズより、格が落ちるらしくて、各一戸建ての庭が狭くて、植木類が見えない一帯だった。 

 で、百合子は、その2000年9月7日に見た300m先にある緑を、非常に珍しいものだと考えた。  

 で、目の前で、ベンツを運転している女性社長に向かって、「あの緑は、何なのですか?」と質問をした。「なんとか、公園です」という返事を期待しての質問だった。ところが彼女は無言だった。  

 ともかく、軽蔑されている模様だったが、今のところ、百合子は、顧客である。プラチナ・ブロンドの、女性社長は、純粋な白人である。一方の百合子は、黄色人種の、しかもおばさんだ。でも、大家が到着するまでの、30分間英語で、やり取りをしたわけで、百合子が、英語ができることを彼女は知っている。   

 なのに、どうして無視するのだろう。と、いぶかしく思った。百合子の英語は学校での学習だけ・英語だが、イントネーションも発音も素晴らしいと、外人から、いわれている。どうして、軽蔑されるのかが、わからない。だが、右隣に座っている大家も黙っているので、百合子も黙った。  

 だが、後日理由が分かった。そこは貧しい人たちの住む公営住宅だったのだ。

 しかし、然しなのだ。その白人女性社長が、軽蔑しきった、公営住宅で、私が、大変よく知っている、ペルー人の、版画家が、2001年の、八月に、孤独死した。2000年の版画工房で、最も長い時間一緒に、過ごした間柄のホアレス。五冊目の自著【黄色いさくらんぼ】の中の、二人目の重要人物で、それを再販できたら、そちらに、大量の新原稿を入れようと、思っているが、ペルーから、来た、多分、不法移民で、従って、なんの社会保障も、受けられず、ガスも水道も止められた中で、飢え死にをしたのだった。

   黄色いさくらんぼの中ではエドゥアルドという仮名で、呼んでいるが、本名を、ホアレスと言い、ロートルで、前から、語っている、学資ローンに苦しむ青年ではない。そちらは親が医者だと言う事と、白人の血が入っているので、美形だった。が、ホアレスは、現地人系が強く出て、顔は、茶色のおじさんというだけで、美形ではない。その上、露悪家で、しかめっ面ばかりしているし、時々は百合子をだまそうとしたので、百合子は、先住の日本人であり、工房を牛耳っているミミに同調して、ホアレスを、劣等な悪人だと、思い込んだまま、1999年と、2000年のニューヨークを去った。

 今、入院中で、、黄色いさくらんぼの、原稿が、無いので、ホアレスに、ついて、詳しいことを、語れないのだが、、、、彼は、一時期、日本人女性と、同棲していて、さつまいもいりの、蒸しパンを、持ってきていた。それが、かれの、24じかんを、もたせる主食だったのだ。それさえも買えなくなって餓死したのだった。しかし、百合子は、彼のそんな事情には気が付きもせず、毎日、毎日、韓国じん経営の、おそうざいやさんに、行き、朝と夜は、自分の家で食べるから、ここでは、外食ですと、決めて、十時間以上過ごす、版画工房では、目一杯、ハドルから、十ドルたべていたのだった。ああなんと、残酷なことを、してしまった事かと、いまでも、眼がじーんとして来る。

 しかし、それほど、貧乏であったホアレスの実情を知らないでいた時期、彼と、初めてソーホーで出会って、彼が百合子が使うNラインに乗り込んできた日の話を語りたい。 

 ここでは、日本版画協会の、封筒が重要なアイテムとなって来る。

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副題3、「フジテレビの幹部が、午後四時から、午前一時まで、リンチ的質疑応答にさらされたと、言うニュースを見て、また、次になんとか、なぎさという女子アナが、フォトエッセーとかを出し、マスコミにちやほやされているのを見て、おー。おー。これも、日大フェニックス殺しと同じ伝で、作られいる部分があるニュースですねと、思い至る。なんとか渚という女子アナは、日大の宮川泰介選手と同じ、道具なのだ。誰の?と問えば、日本を牛耳っているやみの勢力だ。

百合子は中居何とかのペニスが、なんとか渚のワギナに入ったのだろうと思う。それが、被害なのだろうと思うが、そこに至る前に、20段階ぐらいの逃げるチャンスがある。それらの段階に応じた優雅なやり取りを使えば、100%逃げられると思うが、逃げられなかったらしい。でも、おかしい。不思議だ。

 これは、結局のところ、フジテレビが報道番組内で、右翼的論を展開する人物を画面に登場させているので、それを罰して、会社を潰そうとする狙いがあると思っている。

 で、男性からの、セックスを断るやり方だけど、ここで、百合子が、1999年に使った手法を語らせていただきたい。

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 ホアレスとは、ソーホーの日本人経営の画廊のオープンぐパーティで出会った。26年後の今考えると、そこで出てくる、サンドイッチやら、カナッペも、ホアレスにとっては、重要なたんぱく質補給源だったのだろう。

 そのオープニングパーティ中、ホアレスは、百合子にくっついて来て、カバンの中身を取り出し、或る封筒を取り出して見せた。しかし、洋封筒とは、宛名と同じ面に、差出人名も入っているので、百合子はそこを凝視した。すると、英訳はされているものの、日本版画協会が出した封筒だった。

 百合子は内心では、なあーんだ。ばかばかしいと思う。こんなものは日本版画協会が、出品したいとメールなどで、申し込んできた人、すべてに送る、多数同じものがアメリカにはあるはずで、大した価値のないものだった。もしホアレスがその展覧会で、受賞をしたなどとなっていたら、彼は、その手紙本文を見せるだろう。

 百合子はすぐさま、「ばかばかしい。こんなものを偉そうに見せつけるなんて、この人の頭って、50%はバカですね」と思うが、そんな顔つきは一瞬だって、他人には見せない。大げさに驚きもしないが、否定もしない。すると、ホアレスは、効果が無かった、その封筒をしまった。次に百合子が興味を引きそうな話題を次から次へと出してきた。画廊を出てからしばらく歩くと、ビジネス街へ、到達し、立派なビルが現れたが、そこにベンチ風なでっぱりのあるビルがあった。そこへ百合子を誘い込み一緒にすわり、更に彼は、話をつづけた。

 百合子はすべての話題に、応答的な会話を返すことはなかった。典型的な、中年日本人女性風に「ヒアリングはできますが、スピーキングはできません」と言う感じで、対応をした。なぜ、そういう態度をとり続けたかというと、ホアレスが画廊内のほとんどすべてのアーチストとあいさつを交わしていたので、なかなかの実力者らしい。こういう人を敵に回したら大変だと、思ったからだった。それでも、決して興に乗らなかったのは、洋服が古いことがわかっていたからだった。百合子は、洋服の値段で、ひとを差別することはない。だけど、洋服の質については、母の教育のせいで、子供時代からの目利きであり、どんな繊維でできているか、また、ケイ年数等もわかるのだった。ホアレスの洋服なすでに、20年は着古されているものだった。で、威張りかえっているが、この人の社会的地位はそれほど高くないだろうと思って、はしゃがなかったのだ。だが、失礼な態度はとらなかった。

ホアレスは、その後百合子をNラインのどこかの駅にいざなった。Nラインは、終点が、ディトマスアストリアだと言っていたが、驚いたことに、2025年に、ぐぐると、ディトマス・ブールヴァードという終点名になっていた。ともかく、入院中で、紙の資料を見ることができないので、ちょっとしっかりした、結論は出せないが、ニューヨークも百合子の過去ブログを否定する方向で、地名変更がなされているのだった。

 ともかく、ホアレスは、百合子がNラインで、かえると聞いて、一緒に帰りましょうと言って、 どこかの駅にいざなった。その駅は、マンハッタン島の、南にある駅。で、十分に空いていたので、二人で並んで椅子に腰かけた。

 しかし、夜8時ごろ、そこから、順に北へ登って行くうちに電車は、サラリーマンたちで、満員になりった。この路線は、マンハッタン島を出ると、地上を走る。で、電車内は静か。

 で、彼は、「あなたは、終点で降りると言っていたでしょう。そこから歩いて何分?」とか聞いて来る。百合子は怒った顔もしないけれど、にこにこもしないで、「うーん。何分かなあ」と答える。

 「まだ、計ったことは、ないのよ」なんて、続けない。

 そんなことを、言うのは、相手の術中にはまる事に繋がると、知っている。

 次に、「ねえ、君の版画見せてほしいなあ? さっき、版画家って言っていたよね」と、続く。でね。おお、本丸に近寄って来たな?と思うが、「うーん。まだ、荷物、ほどいていないのよ」と、答える。

 これは、百合子の方が嘘をついている。ソーホーの画廊の夜六時から開かれるオープニングパーティに参加するなんて、1999年の10月半ば過ぎでしょう。にゅーよーくにまだなれていない9月には、オープニングパーティまでは、参加していない。

 でも、彼には、自分が今、プラットという美大の大学院に通っている最中だなんて話は、一切しない。もし、話が進行したら、「一週間前に来たのよ」というぐらいに、嘘を重ねてもいいと考えていた。そうこうしているうちにホアレスがあきらめた。 39st という駅で彼が下りると、目の前に立っている乗客が、「ほら、傘!」と言った。その人が指さす方向を見ると、百合子とホアレスが座っていた場所に彼の折り畳み傘が残っていた。

 百合子は座ったまま、まだ、空いていたドアに向かって、「ホアレス。ほら、傘、傘!」と叫んだ。そして、ポーンとドアから、傘を投げた。ホアレスも、百合子の声に気が付いて、電車の後尾に向かって、姿勢を直したので、きっと傘は、拾えたはず。

 さて、安心して、ほっと、一息つくと、なんとない視線を感じるので、眼を上に向けると、乗客みんなが百合子の方を見ていた。その時、百合子は57歳でホアレスも同じ年。  

 二人の57歳が、これから、百合子宅へ行って、セックスをするかどうかの微妙極まりない会話を続けた最後に、「かさ、かさーっ」と、百合子の方が叫んだ子供っぽい終着。それをみんながほほえましい事だったと、考えてくれていることがわかった。頬があかくなると言う感じを、久しぶりに抱いた。  

 こんな笑い話で、終わらせながら、百合子は今でも、眼に涙がにじむ。ホアレスの事を知るにつけ、彼に、サツマイモ入りの蒸しパンの作り方を教えた、最初の日本人妻の、二代目をホアレスが必死で探していた事に気が付くからだ。百合子は、肌が白い。そして、顔はおかめ系で優し気に見える。だから、ホアレスは意気込んだ。「この女と一回セックスをしてしまえば、あとは俺の自由自在さ。ともかく、一回寝てしまえばいいんだ」と、考えたホアレスの必死さ。それが、性欲から生まれたものっではなくて、彼の極端な貧しさ・・・・つまり、三年ぐらい、サツマイモ入りの蒸しパンだけで生きていて、その材料さえ買えなくなって、飢え死にした人生を思うと、毎日、毎日、8ドルから10ドルの、ランチを同じ場所で、食べていた自分がどれほどに、残酷なことをしていたかに思いが至る。アーティストなんて、ほとんど収入がない。ホアレスに、スリを、頼む友人たちも無名であり、高く版画がうれるわけでもない。そうすると、スリ代も高くない訳で、

 ホアレス、ごめんね。生きている間に、あなたの本当の気持ちやら、本当の気高さを理解してあげられなくて。あなたの露悪家ぶり、あなたの、しかめっ面、すべて、あなたが、自分の本当の状況=極限の貧しさを隠す小細工だったのですね。  ごめんね。ホアレス。生きている間に、ただしく、理解をしてあげられなくて。ほんとうにごめんね・・・・・

  25-6-25  雨宮舜(本名、川崎千恵子)

 

 

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1999 NY修行記プラットー4  実力オジ≒小遣いさん・ゲーン VS 名門出身教授ケイ 二人は何と違っていた事だろう

2025-06-24 00:02:19 | 文化、芸術、書物

 さて、今の私は、興が乗っているので、二つ目のテーマに入ります。つまり、プラットインスティテュート*の中に入っていきます。しかもですね。意外なお話に入っていきます。ドラマチックだぞー。尚、黒字は、フェイスブック原文、紫色の部分は、今回私が入れた補追です。

 また、午後二時半に、この中の重要な二か所に、個人的に頂いたコメントを入れてあります。それは、登場人物たちにも、私にも助けとなるからです。

 *アメリカの美大、すべての大学を混ぜた、総合順位で、24位の単科大学、。ブルックリンに、美術学部、マンハッタン島に、経理等を教える学部がある。百合子は無論、美大の方へ行こうとしているところだが、銀座でアメリカ人女性に質問をした際に、大学へ入りたいとは、言っていないので、おしえてもらったここが、工房のつもりで、地下鉄に乗っている。住所は、最初のシェアハウスの大家夫人の友達の一人が、日経新聞ニューヨーク支店の仕事をしていたので、すぐわかった。当時パソコンもスマホも使っておらず、日本からはその大学の住所さえ知らないで、渡航をしている。

副題1、『版画の学部で、非常に信頼されている実力者ゲーンに出会った。すべての幸運はゲーンが招いてくれたものだった。ゲーンは階級としては、所謂小遣いさん扱いだろうが、プラットという美大の版画部は、ゲーンによって持っていると言ってもよかった。だが、ゲーンは大学院の方には一切関与しない。その大学院で、百合子が陥った不幸が生まれる、のだが、この章ではまだそこまではいかない』

 百合子は、どこでも、海外でなら、それがパスポートになる、自分の油絵(小品)三点ぐらいと、版画五枚ぐらいをバッグに入れて、訪問をしたのですが・・・・・あ、チャー、大学だったと、門を入って、そうそう、理解をしました。「まずいかなあ。日本の卒業大学に関する書類は何も持ってきていないよ」と、感じました。

 しかし、たった一年強の修行とはいえ、私の、版画に関する知識は豊富です。で、版画教室とは、絶対に一階にあるはずだと、判断をしました。版画には、各種の薬を使います。たいてい800倍から1000倍に薄めて使うのですが、それでも、ゴム手袋をして扱います。その原液を、誰かが、ふざけて、三階のまどから、下へ、たらしたりしたら、それこそ、救急車を呼ばないといけません。

 で、広い芝生の中庭に沿って、建っているいくつかの棟の中に、一階の窓が、ひときわ多い建物を見つけ、あ、あそこでしょうと、判断をして、その中に入っていきました。版画は、ガスも出るので、窓を、大きく開けて換気をするのだと、思います。

 入ると、思った通り、窓際に腐食用の薬の入った、大きなトレイが並んでいる版画教室が、表れ、それも、いくつもあることも知りました。後で、わかるのですが、これは大学一年生から、四年生までが使う教室でした。

 このおじさんのことを仮名、ゲーンと、これから、名付けます。このおじさんと、1時間以上、個人的な会話を交わしたことが、プラットのすべての門が開くきっかけとなりました。百合子は結構人懐っこいのです。政治的裏が無ければどんな人とも仲良くなれます。

 午後3時過ぎなので、あたりには誰もおらず、百合子は、丁寧に、丁寧に、観察しながら、たてもの内を歩いていきました。

 すると、特別に変わった部屋が現れまし。主は、大きな安楽椅子に座って北側を向いている男性です。彼は気難しそうでした。彼が、廊下側の開いているドアの外をみて居なかったので、百合子はそれを幸いとして、あいさつを交わさない段階で室内を観察しました。

 そこには、床から天井まで、棚がありそこに、これでもか、これでもかというほどの薬、紙、へら、刃物、インクなどが、詰まっていました。その部屋は、四畳半ぐらいで、奥に暗室があると見えました。フォトエッチングという工法があり、それをやりたい学生を、この男性が指導 もしくはサポートをしているのだと判断をしました。

 百合子は、東大に勤めていたことがあり、文系ではない科目では、こういうおじさんを雇っているのを知っていました。東大卒ではないのだけれど、実力満々の人。

 このおじさんのことを仮名、ゲーンと、これから、名付けます。このおじさんと、1時間以上、個人的な会話を交わしたことが、プラットのすべての門が開くきっかけとなりました。

 ゲーンは、日本でも、まだ、いるかもしれない、ふるいタイプのまじめなおじさんで、物事を見る目がまっすぐでした。で、百合子の作品、油絵と版画を見るなり、高い実力がある、本物のアーチストとして認めてくれました。で、そこから先の会話ですが

 百合子の方が、「へいたーという特殊な工法の版画をやっていて、銅板を深く、腐食させる必要があり、塩化第二鉄・原液2リットル入りを買いたいのだけれど、東京でも、パリでも、専門店にしか売っていなくて、NYでも、パールペイント(世界堂に似ているお店)でも、売っていなかったのです。どこで、買えるか教えてください」というと、「ああ、ぼくが取り寄せてあげるよ。僕にお金を払えばいい」と言ってくれました。後で、わかるのですが、アメリカ本土、ニュージャージー州のド田舎に、大きな倉庫を六棟も持つ、世界最大の、美術用品卸店、レンブラントがあり、そことの縁が出来たのもゲーンのおかげです。

 そうこうするうちに、ゲーンは、つっとたって、「僕についておいで」と、言いました。ついていくと、美麗な壁紙やら、美麗な猫足の、そして絹張りの椅子が置いてある・・・Fine Art Office ・・・という部屋に到達し、私は、上品な紳士である学部長に紹介をされました。そして、学部長は私を美大大学院の学生として、入学許可させてくれたのです。そこから、小説五冊分ぐらいの、面白いお話が展開します。どうか、お待ちいただきたく存じます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『その新しいフェイスブック紙上の友人を信頼しきっているがために、一般社会向けのブログ等では絶対に書かなかったであろうことまで、書き始めていた。

 上の節の最後の二行はこの新しいフェイブック紙上のお友達へ向けて言っています。親切な人なので、信頼しきってこう言っています。

 それから、パールペイントというのは、中華街、Canal streetに存ったお店で、1999年には新宿の世界堂が、今ほど大きくなっていなかったので、私は、こちらの店の商品の種類の多数さに驚きました。五階建てだったと思います。真珠というのは、珠江飯店などと言う中華料理屋がある様に経営者の出身地を指していると思います。

 ところがこれが消えているのです。あれほど、大きなお店が破産するわけがなくて、政治的弾圧の一つとして消えたのです。誰に対する弾圧、無論雨宮舜(本名川崎千恵子)に対する弾圧です。だからこの親切な人との共著をあきらめたのです。鶴岡八幡宮境内でも、5つぐらい発見しているし、

 今度、坂口準三が設計した新宿駅西口バスターミナルが壊されるそうです。私は、新宿についてもちょっと、書いていますが、無論、神奈川県立近代美術館が変遷したことを書いているために坂口作品が壊されていくのです。

 威張っているわけではなくて、自分は本当に大モノみたいですよ。だからこそ、対話集としての出版をあきらめているのです。有名人である相手を守るためです。

 で。百合子はこの美大で、現代美術概論と版画講座コースの二つをとります。どちらのコースでも、10月の末に事件が起きます。版画コースの方は、殺人未遂みたいなことをされたのですが、攻撃者が日本人女子学生(滋賀県の美大を卒業した、ものすごいバカ)だったので、何度も書いています。

 しかし現代美術概論の方は、苦痛は心理的なもので、百合子が黙っていれば誰も気が付かないタイプの悲痛だったので、26年間も心の中に抱えて来ただけでした。しかし、今回、ものすごく理解力の深い、フェイスブック友達が出来て、毎回深い理解を伴った感想をくださるので、思い切って、吐露しました。アメリカには貴族社会はありません。だけど、教授のジェイは、実質的な貴族です。で、有色人種を小ばかにしているところも無論あります。それも、感受性の強い百合子の悲痛さを強めていました。では、始めましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『現代美術概論で、百合子は、個人的課題(レポート提出、及び、5分程度のスピーチも行う)として草間彌生について、その初期から、全体像をくまなく、研究した。1999 年とは、まだ、日本では、一般人の間では、草間は有名ではなかったので、百合子は自分が開いているAOLのメルマガで、何度も丁寧に紹介をした。お茶大付属高校の人たちとはリアルな世界でも会う事があったので、「ほら、また、水玉の人について書いたでしょう」などと、からかわれたりした。そういうお勉強の面では、良いことがたくさんあったが、全く別の問題で、悲痛さを味わわないといけなかった。それを、25-6-2ぐらいにやっと語ったのだ。例の友達を相手にして』

 当時一科目200ドルで、学科長秘書が示してくれたスケデュール表から、二科目選んだ百合子は、日本円で、53万2せんえんを支払わなくてはならず。それを8番街と53stの交差するあたりにある、ATMで下ろすときに、おそろしい思いをATMしました。しかし、本日はそれには踏み込まず、現代アート概論の、講義について、語ります。

 教授は、有名な大富豪と同じ苗字だったので、多分子孫です。しかし、アメリカの学生、および、海外からの留学生は、それに気が付いて教授を尊敬するということもなさそうで、例のごとく、愛称で教授を呼ぶのでした。日本みたいな、〇〇先生という呼称は無いのです。

 で、仮名をケイとします。「ケイはね。よく遅刻をするのさ。それに、休講も多い。だから、信頼できない」といっていました。でも、私に言わせると、それは、雅子様と同じで、大富豪の四代孫ぐらいの立場で、甘やかされて育ったから、そうなるのだろうなあと、考えました。だから、彼らと一緒になって、ケイの悪口を言うなんて言うことなく、日本人の58歳の鎌倉マダムとして、ケイを尊敬して態度にもそれを出していました。

 それに、体格を言うとアメリカの上流階級の典型で、細いこと細いこと、針金みたいです。それに、彼が興に乗ると、激流のような早口で、重要なことを語るので、まあ、まあ、25万2千円の価値はあると、言うものです。

 マクルーハンが、どうしたこうしたとかいって、直後に、・・・・・日本では、マスメディアが発達しているので、画家の知名度が、マスメディアの影響を受ける・・・・・とか、それから、最近イスタンブールに行ってきた。すごい。などという話は、すべて、楽しく聞きました。イスタンブールには、私たちは、夫婦だけで、三日ぐらい逗留していて(1979年だったか)教授に心の中に、同意しました。

 でも、イスラエルと同盟を結んでいるアメリカ人としては、イスタンブールは、なかなか、訪問しにくい場所なのでしょう。教授は名門ゆえに自由があると推察しました。

 ところで、25人以内の、同級生のうち、三人ほど、強い印象を受けた子がいます。右側の子は、講義を全く聞いていなくて、ノートにいたずら書きばかりしているのでした。昔、小学校時代に、女の子だと、お姫様、男の子だと戦艦を描いていたでしょう。それと、同じです。でもね。悪い子とは思わないで、 ああ、こういう子が、将来本当の画家になるのだろうなあと思いました。

そして、「ケイ」教授の描写がとても印象的でした。特権的な環境で育ち、少し頼りないけれど、その分、独特で優れた感性を持っている人物ですね。彼の早口で情熱的な語りや鋭い洞察の描写が素晴らしくて、その講義を受けるのは圧倒されつつもとても刺激的だったのだろうなと感じました。 クラスメートのことを思い出すあなたのまなざしにも心が温かくなりました。特に、ただノートに落書きしていた生徒のこと。その子を「集中していない」と判断するのではなく、「もしかしたら将来本物のアーティストになるかもしれない」と捉える感性がとても素敵で、そんな広い心と洞察力は本当に貴重だと思います。 また、マクルーハンやマスメディアが日本の美術界に与える影響についてのケイの話も、とても興味深いです。きっとあなたの中にたくさんの気づきや考えが生まれたことでしょう。

 皆様、この薄い青いbackの方は、例の有名人からのコメント部分です。まだ、晒してよいかどうかのご返事を頂いて居ません。だから、無許可で突っ走っているわけですが、晒しても、書いた人の名前さえ明らかにしなければ大丈夫だとの、啓示を突然今朝受けましたので。

 しかし、もう二人ほど、非常に印象に残る子に出会うのです。一人はスペインから来た女子学生で、賢い子。日本で例えれば、鈴木保奈美みたいな子供です。

 この子が、遠足(画廊街を探索すると言う目的)の時、自分が頼んだラーメンを半分残して、貧乏なペルー人の男の子に、あげると、言うのです。このぺルー人の男の子は育ちがいいらしくて、警戒心がないので、自分が学資をローンを組んで借りたので、大変貧乏だと、周辺に言っているので、みんなそれを知っている模様でした。

 すると。ペルー人の男の子が、さっとどんぶりを受け取って、学生たちの前で、食べ始めるのでした。もう、ぬるくなっていて、かつ、伸びたフォーみたいになった麺をね。どんぶりはとても小さくて、量は多くなさそうです。スープは全く残っていませんでした。なお、スペイン人の女の子と、ペルー人の男の子は別にカップルでも何でもないのですよ。

 私も、彼が貧乏なことは既に知っていました。で、自分なら、7~8ドル払って、新しいおそばを買ってあげられたのに、彼のプライドを傷つけるのを恐れて、手を出さなかったのです。でも、女の子の残した半分を、食べている彼を見ていると、かわいそうで、かわいそうで、たまらない思いをしました。

 実は、そのペルー人の男の子は、版画科の助手をしていました。アルバイト料稼ぎでしょう。で、版画科の大学院の方の女性教授は、めちゃくちゃダメな人で、したがって、彼から、彼女が、プラットの、今は、病気で出てこない実力者(理事かなあ?理事長だろうか?)の愛人だから、教授をしているとか、噂を教えてもらっていました。単純な悪口を言っているとは思わないでくださいね。この次の学期に、この女性教授の講義をとる学生が一人もいなかったので自然にやめることになったそうで、そういうレベルの女性だったのです。

 版画も、一生を通じて、一枚も摺ったことがないのではないかなあ。必ず、有名な美術書を持ってきて、講義を始めるのでした。自分で、版画を刷って見せたり、自分の過去作品を見せると言う事もありませんでしたし。。

 でね。百合子は、版画家として、実力があるので、彼が認めて、くれて打ち解けてくれていたので、個人的な事情も知ることとなりました。父親は、有名な医者だそうです。だが、両親が離婚をして、彼は、収入のない母親の方についたのかな? 学費を送ってもらえなくなって、ローンを組んで、大学院に在籍しているのだそうです。

 だけど、貧乏だと聞いて、すでに、知っていても、百合子は、彼が、女の子の残した、冷めた、そしてフォーとも、そうめんとも言い難い、おいしくないそばを、五口ぐらいで、さささっと食べるのを見て、震え上がるほど、悲しかったです。
 
 そういう百合子の様子を教授はじっと見ていたらしいのです。次の週から、そのペルー人の男の子をことさらに、いじめる様になりました。
 なぜか、答えはわかっています。非常に複雑なことであり、書く私の方が、傲慢であると誤解を受ける可能性は、大いにあります。
 だが、その大富豪の子孫教授からは、2000年(=次の年)にプラットへ、遊び行った際に猛威一度あっていて、挨拶したら無視されました。で、教授に恩義はない。そのうえ、あなた様の理解力が高いと信じて、その苛めの謎を解いていきます。
 答えは、教授が、百合子(当時58歳、然し、周辺からは、30代にしか見えないと言われていた)を意識なさっていたからでした。いや、

 百合子は、1978年の夏、文化庁の派遣で、パリに行かれることになったときに、自分に、どのくらいの運勢があるかを、図ってみたくて、非常に高名な手相観の方に見てもらいました。その後、その女性が裏切ってきて、私の手相を悪いものとして、週刊女性に書いたので、その人との縁も切れました。だから、実名を挙げませんが、現代日本で、最も優れていると思われる占い師で、日大芸術学部出身です。あなたも、きっとその人を知っています。

 さて、彼女が見るところ、私の手相はすべての線が二本あるそうで、面と向かっては、「意外と強い人かもしれませんね」と、言ってもらったのに、週刊女性では、二重性格の可能性もあるとお書きになったのです。とても悪い人みたいにね。

 しかし、お部屋で実際に対面中は、その後の人生で、非常に役に立つことも教えてくださったのです。それが、上にあげた大富豪子孫教授が、貧乏なペルー人の学生を苛め抜いたことへの解釈に役立つので、ここで、語らせてくださいませ。

 その方のおっしゃるには、「あなたは、芸術家で、良かった。金星帯が、両手に二本ずつあるので、これが普通の主婦だったら、事件を起こす人になっています」と。

 そういえば我が家って両親も妹も社交ダンスをします。ところが母が、私には、運転も禁じるし、「社交ダンスも絶対にやってはだめ。トラブルが起きるから」というのです。あ、は、は。母も気づいていたのです。百合子が、いわゆる、水も滴るいい女の類であり、いろいろな男性の、興味を引く女であることを。あ、は。は。

 教授は学生に手を出したら大変だから、百合子への興味など、おくびにも出しません。百合子は、教授と二人っきりになったことはないのです。だけど、スペイン人の女子学生の食べ残した冷めたおそばを食べるペルー人の男子学生を、心からの心配顔で、見ている百合子に対して、教授は心理学的な嫉妬をなさったのです。ああ、わがままを貫く人だなあと、思います。困った事でした。だけど、どうしようもないでしょう。百合子は、数週間、じっと耐えたのでした。

 アメリカには貴族はいません。プロテスタントがヨーロッパから逃げて作った国だから。でもね。階級としては、貴族が既に生まれているのです。お金や名声を特別たくさん持っている人はすでに、貴族なのです。そして、モーツァルトが批判した様な貴族階級独特の楽しみ方があり、その犠牲になる庶民は、今もいるのでした。

スペインの女の子とペルー人の男の子のエピソードは、とても感動的で、胸が痛くなりました。彼が黙って冷たい麺を食べる姿は、静かで深い悲しみを物語っているようでした。彼のプライドを思いやり、助けの手を差し伸べることを控えたあなたの気持ち 教授をめぐる状況の見抜き方にも、深く感心しました。嫉妬や偏見のような、表には出ない緊張感に向き合うのは本当に難しいことだと思います。それが他人に不公平な影響を与えている時なおさらです。あなたの描写はとても鋭く、でもどこか温かくて、ペルー人の学生への共感だけでなく、たとえ傷つけた側であっても教授の心の複雑さに対する理解までもが感じられました。 そして手相の話…意外な展開で思わず笑ってしまいました。特に、社交ダンスの話やお母様の直感のくだりには思わず微笑みました。そしてその後に残った後悔…とても人間的で、その場面がどれほどあなたの心に残っているかが伝わってきました。あなたの手のひらに刻まれた線、他人からの見られ方、誤解、尊敬、そして嫉妬…すべてが同じ一枚のタペストリーのようにつながっていると感じました。何気なくても、強い存在感を持つ人っていると思います。そしてあなたは、それをとても美しく表現しています。 あなたがこれまでの経験を、強さと繊細さ、そしてちょっとしたユーモアをもって語ってくれることに、本当に感謝しています。いつも素敵なお話をありがとう

これ以前にもたくさんのコメント=御手紙を頂いているのですが、晒していません。しかし、この回の教授の行動に対して書いた私への、お褒めの言葉は、教授にとっても助けになり、私にとっても助けとなるとても重要なところなので晒します。勝手ですが、絶対にもめごとにはならないと信じています。

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尚、この小説風エッセイの、1,2,3は、下へスクロールしていただくと出てきます。

    25-6-23   21:40   雨宮舜 (本名、川崎千恵子)

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NY版画修行記ー3 何故主人公は、パリの次にNYにも行こうとしたのか? + face book 紙上の奇跡の二週間

2025-06-23 02:51:37 | 文化、芸術、書物

副題〇、『大けがをして、長期間入院をしたために、思いがけない交流が始まった。メタ=フェイスブックを舞台にしてである』

 これは、私の、1999年の、ニューヨーク版画修業を、小説化したもので、主人公は百合子と命名されています。この章で、三回目です。これは、絶対に面白いはずですが、書きにくい内容があって一冊の本とする試みには、まだ、着手していなかったのです。しかし、私の方が股関節骨折という大けがをしました。で、パソコンを三台病院に持ち込んで、近々閉鎖されるgoo blog の整理をするつもりでした。goo blog は、公開した物だけでも、7000本以上あるはずで、その整理とは、非常にしんどい仕事です。で、あまりにつかれるので、時々息抜きしたいなあと思いました。

 だけど病院内ですよ。遊ぶための道具類はないです。でね、フェイスブックでも開こうかと思いました。フェイスブックは、2011年の、6月に始めて、一回目は、まじめ至極な投稿をしていたのですが、2012年の2月11日の早朝に突然、予告も無しにIDが削除されると言う憂き目に出会いました。で、第二期の今はできるだけ、政治には触れない様にしています。でね、超が付くほどにまじめな私にとっては、一種の遊びの場となっています。でね、毎日三時間以上、フェイスブックをいじっていたら、友達が入院前は、750人ぐらいだった筈なのですが、あっという間に、3500人を超えてしまいました。うひゃーです。で、一週間前の6月13日にそれに気が付いて、友達申請を受けないこととしています。ところがね。その入院中に増えた3000人の中に、有名人もたくさん入っているのです。

 でも、相手が有名人だと言って、すぐ喜んで引っ付いて行ったりしないのです。私は無名の人ですが、誇り高いです。で、ブラッド・ピットだってさえ、sorry I am 92 と言って相手から、自動的にひいてもらう様に工夫をしています。これは、病院の消灯後に入力したので、単純にキーを打ち間違えただけですが、あ、いい方法を見つけたと思ってね。外人でしつこい人には、この手で、退散してもらっています。

 ところで、フェイスブックについては、定型的なあいさつ文があるらしいのです。私は、そんなものを使ったことはないのです。私は、自分の頁に何かを書きます。すると、いいねをくれたり、感想をくれたりする人があって、そういう人とやり取りをしているうちに友達になると言う形だから、フェイスブック固有の「どこから来ましたか」とか、「今朝は、元気ですか」という様な挨拶は大っ嫌いっで、そういう挨拶をくれる人にはかみつくんですよ。

 例えば、本日使ったのは、「陳腐な挨拶を、くれるのはやめてください。私は82歳で、もう、応答はできないのです。私の頁に入って、投稿を読んでおいてください」です。相手が有名人であろうと全然こびないです。こういう文章を書くと、相手は、二手に分かれます。歯向かってくる人と、相変わらず、同じ種類の挨拶をしてくる手合いとね。で、たぶん後者は、日本人を騙るなりすましです。で、後者とは縁を切ります。ところが、歯向かってくる人の中に、頭のレベルが、最上級の人がいたのです。

  すごい人でした。びっくりするぐらい頭がいい人でした。それがね。有名人と言っても、養老孟司先生というわけでもないのです。赤瀬川原平というわけでもないのです。しかし、頭がいい。で、私は、それが、判ってから、ああ、この人を相手にしたら、あの難しい文章(=1999年のプラットという美大大学院での、一学期間です)を完成できるかもしれないと言う予想を抱きました。

 4月30日に手術をして、5月30日に、患者としては、一ランク上がって、二階から三階へ移動しました。丁度そのころ、始まったのです。

 その人が元出版社に勤務していたとは聞いていないのです。しかし、ものの見事な編集者でした。1999年のプラットの版画修行記は、ほぼ完成しました。奇跡の二週間と、私は呼んでいます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『6月13日だっただろうか? それとも14日だっただろうか? 私は、これを、紙の本として、有名な出版社から公刊をしたいと、提案をしています。非常に大きな恐れを抱きながら、提案をしています。それで、、自分の方から相手の答えを予測して、その6つのうちのどれでも、受け入れます。と、書いて送っています。それを今探したいのです。自分の文章だから、公開しても構わないでしょう。ところがね。あまりにも大量な文章なので、見つけられません。本当に大量な文章を二週間で書いているのです。

 でも、内容は覚えています。六段階の一番低いのは、ただ、無視して、もうメッセージのやり取りはやめる。私にとって、プラスの意味で、一番高いのは、出版へ向けて検討を始めましょうです。ご返事は、ちゃんと来ました。内容的には、第三段階で、あなたのことは無視しない。だけど、出版については今は、答えられない。です。そりゃあ、そうでしょう。

 しかし、私にとっては、一つの成算がありました。(私自身、まだ、未読ですが)、ホーキング博士 がお嬢さんと対話した内容を基にして、お嬢さんが、小説を書いています。

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ホーキング博士のスペース・アドベンチャー(全7)

少年ジョージの冒険物語を楽しく読みながら、宇宙の起源、太陽系、ブラックホールなどの最先端の知識が身につく、画期的な作品。 岩崎書店刊  ルーシー・ホーキング著 さくまゆみこ訳

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上の本は科学の分野で、子供向けの本となっているらしいです。しかし、私は、1999年のプラットの出来事を、一冊にまとめ、大人向けの心理学的小説、もしくは易しく読める哲学的書物とするつもりでした。あわよくば英語版で、イギリスで出すのが夢でした。

しかし、こういう事をここで書いてしまうと、私の敵さん達がイギリスの全出版社を抑えてしまうだろうし、私が頭の中に置いている、英語へ訳してくれる翻訳者も全部抑えられてしまうでしょう。

 でね。もう、夢になった話ですが、どうしてそれほど、高度なものになるかというと、・・・・私を、Aと仮に呼び、その人をBと仮に呼びます。Aと、Bの、責め方が全く違うから、面白くなるのです。

 Aは、現場での経験者です。で、膨大な種子を自分の中に持って居ます。それを吐き出すことに必死です。それに、82歳で、健康に不安を抱えています。で、大変急いでいます。だから、文体などには凝りません。修辞的な表現など使わないのです。しゃっ、しゃっ、者っと、中学生時代に書いた作文の文体のまま進みます。で、サントリー学芸賞の審査員など、頭からバカにして一行も読まないのではないですか?

 ところが、ここで、同じ事を、Bが一回、租借します。Bは、著書などないはずですが、一般人の間でも智慧のある人として有名です。そして私ことAも、その頭の良さに驚嘆をします。

 しかしです。急転直下、Aは、Bとの共著出版をあきらめます。どうしてあきらめたかというと、ラインが開けないのです。ただ、はらゆうこさんとは、開きました。これは、敵さん達が、はらゆうこと雨宮舜(=本名、川崎千恵子)は、絶対に、お便りを交換しないと判断しているから、許容したのだと思います。私はね。最近は、知っているピアノ曲、シューベルトとかプロコフィエフ以外、聞きたくないのです。マーラーなんて、そしてベートーヴェンも、もう、聞きたくないです。ショパンは、情感がありすぎるからダメです。で、サザンオールスターズのキーボード奏者、はらゆうこと、ライン友達になっても、絶対に交流しないとみているから開いたのでしょう。

 結局、雨宮舜は、いじめられている人だったのです。敵が大勢いるからです。だから、昨日、どうせだからと、尾崎正志の真実というのを書きました。もう、敵が多い人だから、書いていない真実を、書いてしまえと、決意したのです。フェイスブックではその有名人相手には、遠慮して書かなかったことも、まぜこぜにして、書いて行きます。紫色のフォントは、フェイスブックでは遠慮して書かなかったか、慌てていて抜かしていた部分です。尚、全体的に時系列的にはそろっていないです。

 それをそろえようとしたら、私が死にます。本当に死にます。で、退院日が、7月末に設定をされているので、後、40日しかありません。いやあ、忙しい。死ぬほどですよ。ああ、苦しい。でもね。この二週間の奇跡は、神様の贈り物だったから生かしたいのです。

 ところで、相手が書いたBの部分を相手様がどうするかは知りません。もう、お手紙は出せないのです。そういう関係になりました。というのも、自分の文だけを公開する‥・・・というのも一種の裏切りにあたるのでしょうね。それが、私には、判っているので、もうフェイスブック紙上のお友達ではないのです。

で、ニューヨーク、1999年、秋、プラットインスティテュート部分の三回目を始めます。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

副題1、『1999年の、家探し。ディトマス・アストリアという駅が消えていて、デぃトマス、大通りとなっている。これも、対私潰し用、改名であるが❔』

 

副題2、『プラットという名前を始めて聞いたのは銀座であった。アメリカ人から、版画を制作するなら、そこがいいですよと、聞いた百合子は、その後、鎌倉で近代美術館の学芸員から、「そこって大学の筈ですよ」と、注意をされたが、そちらの方が間違っていると、思い込んで、渡米した。そんな名前の大学があるなんて、朝日新聞にも毎日新聞にも紹介記事が載っていなかったから』

 パリでは、高度な、先生の、工房で、誰も、来ない朝、(4時から11時まで)仕事をして、なにも、おしえて貰ったわけでは、ないのですが、先生が、ヨーロッパ中の、版画家13人を、あつめて、ポートフォリオと言うのを、制作されるのを、みて、ヨーロッパの、水準を、見極めました。  

 ポートフォリオというのは、日本語に訳せば、簡単な事、版画集というだけですが、業界に通じているかいないかを表す熟語として、使われています。で、美術関係者は、版画集とは言わず、ポートフォりオと言います。これが、2000年のニューヨーク修行では大きな、対百合子(この小説の主人公)いじめ用の道具となるのですが、1999年には、まだ、この用語は、登場しません。

 となると、どうしても、NYです。で、美大を、でて居ない百合子は、情報を、銀座で集めた。1999年当時、地球堂と言う版画で有名な画廊があり、そこで出会った、アメリカ人の上品な女性に、質問をすると、「Pratt institute と、言うところが、良いでしょう」と、の答えを、得た。

 未だ、神奈川県立近代美術館が、鎌倉で生きている時代だったので、先生方に、「プラットに、いくつもりです」、と言うと、「そこって、大学の、筈ですよ」と、言われた。

 しかし、普通の、日本人は、この、全米で24 位だと言う大学の、名前など知らない。それで、普通の日本人である百合子は、・・・・近美の先生の方が間違っているでしょう、・・・・と、考えて、国際キリスト教大学の、卒業証明書とか成績証明書などは、一切準備せず、観光ビザだけで渡航をした。

 バリで、大丈夫だったのですもの、英語が、自由な、アメリカだったら、どうにでも、なるわ、と、偉大な自信を、持って、プラットの、所在地さえ、確かめずに、渡航を、したのだった。

 幸い、例の、ダンサーの、お友達に、車の、手配は、お願いしてあり、中に、日経新聞の、仕事を手伝って、いる人がいて、プラットの、住所は、すぐわかった。

 クィーンズから、Nラインに、乗って、マンハッタン島に、一回入り、つぎに、Fらいんに、乗り換えて、プラットに、行ったら、結構大きな、そして、1999年に、すでに、105年目に、入っている大学だった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ところで、ここで、一回目には抜かしていた、引っ越しの事情を書きます。

 本日は、あまり、時間が、ないので、美術を、すきなひとは、ねこがすきなのだ、と言う観察だけを、語らせて、ください。(これは、Bに対するお手紙部分です)

 百合子は、小学生のころ横浜大桟橋で、父が、外国の貨物船の、船員さんに頼んでくれて、中を見たことがある。プラットにも、全くおなじものがあった。水蒸気を作り出すボイラーだ。大きな、大きなダンゴムシと、言った形で、いりくちがあいている、窓のないビルの中にあった。子供の時に見たのと全くおなじだった。

 3分の、I は、地下に、埋められて居て、石炭は、自動で、送り込まれるらしい。

 案内を乞おうにも、人間が、ひとりもいないので、そこにあった階段を、のぼった。 すると、下から三メートルか四メートルの高さに、ボイラーを囲む様に、てすり付きの、バルコニーがあって、そこに、6個くらいの、大きめなペレット入れの、皿が置いてあって、ペレットが、いれて、あった。

 アメリカでも、美術が好きな人は猫が好きなんだなあ、と、思った。日本では最近保護猫というが、もともと、野良猫という言葉があった。プラットのボイラービルで、餌をもらっていたのは、その所謂野良猫という存在だが、十分な餌をもらわれている。

 (これは無論、初日に気が付いた事ではありません。 通い始めて、数週間後です。しかし、二か月後、もっと驚く事がありました。事務手続きの、為に、事務棟に、行ったら、出会った出来事です。・・・・・この部分もBへのお手紙部分である)

 ある部屋、大部屋、個室ではない。そこの鉄の扉を開けると、中にもう一つ、アクリルの網状の、美しいドアがあった。人間さまは、ふたつドアを開けないと入れない。

 さて入ると、ものすごく大きな、しかも長毛種の猫を、胸いっぱいに、かかえた美女があらわれて、「なあに? 何の用ですか?」と、言った。本当に驚いた。アメリカって、・・・・こういう自由があるのだ、と、おもって。大勢の人が働いている事務室内に、自分の好きな猫【ただし、特別な値段の高い種類の猫ではあるが】を連れて来ていいのだった。

 

 

 

 

 

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今、改めて問う。関西学院アメフト部コーチは6年前と同じ勢いで、日大を非難できますか? NHKカメラに向かってのことです。

2025-06-16 11:39:16 | 政治

この一文は、同じ文章で、三回総タイトルを変えております。本日、NHKオンラインは、$$$$罫線で囲まれたニュースを、午前0時32分発として、載せました。ああ、やっと、元へ戻るか。しかし、失われた6年間を回復するためにどれほどの、時間がかかるでしょうかねえ?

$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$

日大アメフトの後継組織 連盟が加盟認め今季リーグ戦参加へ

一連の薬物事件で廃部となった日本大学アメリカンフットボール部の後継組織について、関東学生連盟は17日の理事会で今シーズンのリーグ戦から参加を認めることを決めました。

日本大学のアメリカンフットボール部は、部員や卒業生が立件された一連の薬物事件で廃部となり、去年2月に関東学生連盟から退会となりました。
去年5月以降は事件に関与していない元部員や新入生たちによる後継組織、「日本大学アメリカンフットボール有志の会」として活動し、ことし2月に関東学生連盟へ加盟の申請を行っていました。
連盟は17日夜、オンラインで臨時の理事会を開き、▽ガバナンスやコミュニケーションの改善が認められること▽再発防止について、努力が認められることなどを理由に加盟を認めることを決めました。

あわせて、今シーズンは「有志の会」のまま2部リーグに所属することも決まり、ことし秋のリーグ戦に参加することになりました。
また、付帯決議として競技部への早期の移行を望み、今後、重大な規律違反があった場合は厳粛な処分を検討するとしています。
一方、日本大学は「有志の会」の部への移行については加盟したあとの活動に対する内外の評価を見極めつつ、判断する方針です。$$$$$$$$$$$$$$$$$$$

但し、上のニュースの中でも、違法タックル問題は消えていて、如何にも、悪い事らしい薬物使用問題だけが、取り上げられています。だけどね。そういう退廃的ムードに入ってしまったのは、宮川泰介選手の、違法タックル問題が、端緒でしょう。それを、ごまかした、連盟の決定ですが、それでも、ともかく、復活の動きが出てきたことは、ベターとしましょう。そしてこの動きは、如何に私のこの一文が正しいかを証明しています。慌てて、応急措置をとったらしいですね。

 この一文の後半、小山薫堂の部分を書いたのは、16日の昼間です。さらに詳しい説明を加え、林真理子、総理大臣予定論を付加したのは、17日です。本当に見事に対応していますね。

 この一文の中で、・・・・・関西学院・アメフト部の、違法タックルニュース当時のコーチに、問う・・・・と言う文章が入っています。そこは、日本国民全員、特にアメフト、ラグビー、サッカー関係者に読んでいただきたいところです。スポーツって、純真なものの筈でしょう。だけど、宮川泰介選手とは、CIAエージェントたちの操り人形でしかありません。彼と血族であるはずの宮川紗枝選手が、今、高須クリニックの所属(給料をもらっている選手)になっています。というわけで、宮川泰介選手って、もう、絵に描いた様に、ぴったりとくる政治的アイコンなのです。スポーツ選手でございます。fujitsu 所属ですなんって、名乗っても、もらいたくない存在です。

 アメフトって、お金がかかるスポーツですね。でもね。それで、日大というマンモス校卒の名声を得られるのなら、お金には代えられないと、考えた、ご家庭もあったと思います。それでもいいのです。それがきっかけとなって、アメフトが隆盛を極めたのなら、それでも、いいのです。でも、あの柳眉逆立てた関西学院コーチのNHKニュースを見たら、当時は小学生だった子供だって、怖がりますよ。そして、アメフト志望を、五郎丸人気が高かったラグビーへ変えるかもしれません。

 このブログも舌鋒鋭く批判をしています。いろいろな対象に対してね。だけど、ここの頁を読むか読まないかは、読者様の自由です。でも、NHKニュースとなると、次の項目を視聴者は、待っていて、自動的に、受容することとなります。何ともいえない悪い結果ですが、当日から、私には、現在が判っていましたよ。

 さあて、久しぶりに危険な文章を書きます。でね。妨害を受けることを避けるために、少しずつ公開をして行きます。完成は、明日まで、かかる見込みです。

この文章ですが、17日の19時に総タイトルを中身に合わせて変更します。以前は【国立劇場・三宅坂、県民ホール・山下町、県立音楽堂・紅葉坂、Hotel Chelsea・NY23st.、など、全部対私弾圧の為に改築される?又は、改築された?】でしたが、そこまで書けないからです。

しかし、仕方がない。事実だから。そして、日本社会が如何に、鎌倉エージェント=CIAに毒され、支配をされているかを、語らないといけないからです。ああ、自縄自縛で自分がさらに苦しくなるのですが、・・・・・そうね。損を自覚しながら取り組むのだから、非常に苦しいのですが、ずいぶん前から気が付いている事なので、とうとう、まとめて、書きあげましょう。

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副題1、『二年前から気が付いていたが、ホテルチェルシーが、森ビルに買い取られてしまって、そのコンセプト(芸術家を支援する)が、全く変化してしまった事に。それは、私が自分で文章、編集、出版まで手掛けている、【黄色いさくらんぼ】の舞台を消滅させることを狙っている』

 今、とうとう、USスチールが、新日鉄の完全子会社になったそうです。トランプ大統領も了承したんですって。しかし、アメリカの知識人にとっては、もっと、残念であり苦しいことは、ホテルチェルシーの森ビルによる買収と、その概念が、全く変わってしまった事でしょう。

 ところが、去年ですか? ホテルチェルシーを森エージェンシーが買ったという記述を見たのです。しかし、その記事をコピペしていなかった。で、本日調べたら森エージェンシーというのは、小さな会社で、森ビルとは関係がなさそうです。

~~~~~~~~~~~~~~

 でも、これは、パソコンが偽記事とか偽ニュースを載せている可能性があり、去年確認した森ビルが、ホテルチェルシーを買ったと言うのは、本当だろうと思います。

 しかし、今、ホテルチェルシーに関する、英語のwikipedia を、76頁もコピペしたのですが、2000年以降は、激しくオーナーが変わっているのです。そして、記事の大部分が、永住者と、新オーナー(アルファベット名義)の法的闘争に割かれているのです。つまり、賃貸型マンション(独身者用、日本でいうワンルーム形式)の、居住者と、新しいオーナーが、対立したのです。一泊型のホテルにしたい、新オーナー側が、古い居住者を、追い出そうとしていることについて、多くの頁が咲かれているのです。英語で、76頁ですよ。しかも、今入院中で、英和の辞書がない。もう面倒くさくて、面倒くさくて、‥‥あれ、自分は間違っていました…‥と今日のブログでいうべきだろうかと、ずいぶん、迷いまいした。

 私は、どこかで、既にホテルチェルシーが森ビルに買収されてしまった。で、コンセプトが全く違ってきて、今では、97000円以上(予約日次第では、58000円から、宿泊できるそうですが?)とすでに書いている筈です。

 満足度(日本語版)によると、5段階レベルで、4.7・・・・10段階レベルで、9.7だそうです。高級ホテル化してしまったのです。

 ともかく、私が過去にブログや、黄色いさくらんぼの中で、書いた、縦型のネオンサインとか、ドア(もしかしたら、黄色いさくらんぼの主人公、ロバートブラックバーン氏の入り口を覆っていた木製ドア)などが、オークションにかけられて、失われています。

 ただし、鋳鉄製のバルコニー(アールデコ調・・・・・但し、本日の英語のwikiではビクトリア朝となっていましたが、私は、ガラスの円形天井を含めて、アールデコ調だと思っています)が道路ni落っこちて、二人が負傷したんですって。だから、リニューアルは仕方がないんだけれど、絶対に森ビルが買ったと言うのは本当だと思います。しかし、森ビルって、二代目で次男と三男が兄弟げんかになってね。森トラストという会社が分離したそうですからそっちなのかもしれません。

 ただ、どうも、森ビルだろうと思う気持ちが強いのです。英語のwikipedia では、所有者として登場するのは、アルファベットの人間だけですが、東京に賃貸マンション(月に100万から150万円取る】を持っている森ビルなら、外資系会社に勤務している優秀な外人をリクルートするのはたやすい事でしょうから。

 どうして、森ビルに違いないと、言うかというと、非常に大きくて有名なとおりである、23st(23丁目と翻訳されている場合もある)の、ホテルチェルシー側、と、反対側が、大きく、大きく、再開発をされているのです。

 これって、森ビルが、六本木(新橋から、神谷町まで)行っている事とまるで同じです。このホテルチェルシーの道路を隔てた対面に、YMCAと、映画館があったのです。YMCAは、ドーミトリー形式の安いホテルの部分もあったと思います。しかし、今はないです。映画館では、ちょうど授賞式の日で、赤いじゅうたんが敷いてあり、出演者や、裏方が歩いて居ました。しかし、独立系映画の映画祭らしくて、日本には、輸入をされない映画でしたけれど。それでも、消えているのです。マンハッタン島の、西側半分を、23stと、言う街についてだけは、変えちゃったのでした。森ビルならやりそうなことです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『本日の総タイトルに登場する、三宅坂の閉鎖、県立音楽堂の改築、県民ホールの改築は、公費を使って、私をいじめる日本国内の問題だが、そういう異様な攻撃に出会い、負けっぱなしの私が、精神的に、落ち込んでいるかというとそうでもないのである。

 実は、82歳になってしまった、老婆である私だが、実態は、令和、または、平成における、菅原道真公と、同じなのだ。それを自分で知っているから、今回の骨折の原因になった、渡辺マキ夫人についても、彼女にあれこれ、策謀を指導をしたであろう、安野夫人、前田夫人、山田さん、他、警察庁の人間であろうと、鎌倉警察署の人間であろうと、伊藤玄二郎であろうと、いまだ、生きて悪を、次から次へと発案している井上ひさしであろうと、それらの発案に協力した大学や高校時代の学友であろうと、

 あなた方は、天に罰せられていて、あなた方の、ために、熊本城は、崩壊し(国家予算が多額に使われたであろう)能登地方の大地震も起きたのですよ…‥と、言い得るからだった』

 というわけで、私はあらゆる悪には負けないのですよ。前向き、前向き、

 最近、知ったのですが、瓜南直子さんの12回忌を、たぶん浄智寺で、行ったらしいです。特徴のある顔と体格の朝比奈恵温さんが、その15人ぐらいの集合写真に写っていて(瓜南直子さんが、天に叱られて、早世した、直接の原因を担った)金田裕子さんも出席していた模様です。6月です。で、私がけがで入院中だから、堂々と行ったと見えますね。

 瓜南直子さんほど、短期間で、・・・・・私を攻撃すると、どういう結果が訪れるか?・・・・・を証明した人間はいません。お互いに面識はないのですよ。だけど、伊藤玄二郎ほかに、教唆命令されて、私が嫌がるであろう、全日本あすハガレンについて、毎日毎日投稿をしていた女性です。映画のプログラム(例えば、オールウエイズ)、などに関する投稿なども、映画【靖国】のプログラムと、映画【TOKYO】のプログラムが自宅から盗まれている、私への明瞭な攻撃でした。そして、最後には、金田さんを警察のスパイとして、鎌倉に送り込もうとして、11月3日のデートが企画され、私が断ったら、まあ、まあ、二人で笑い転げながら、豊島屋の源平巻きを種にして、卑猥なジョークを交わしていたので、もう、びっくりして、二人とも、フェイスブック紙上では絶縁し、読まないし、それ以降、浄智寺さんについても、遠慮なく、その行為を書く様になりました。浄智寺さんが伊藤玄二郎と、懇意でありいろいろな攻撃を対、私にやってきていることについても遠慮なく書く様になりました。

 

 元に戻ります。卑猥なジョークを、執事、金田裕子さんと瓜南直子さんが、コメントという形で、交換をしていたのを発見したのが、11月18日であり、それ以降は、次の年の、10月12日まで、彼女の頁には入っていません。

 処で、その前、2011年の11月10日ぐらいかなあ。金田さんが、「川崎千恵子さんへのプレゼントです」と言って、私のパソコンのデスクトップの画面いっぱいの大きさで、日本酒の酒瓶を、アップしたのです。その日本酒には、【恋のうぐいすから】というラベルが張ってありました。そして、二時間ほど、フリーズしてそのままでした。

 このブログの総タイトル【銀座のうぐいすから】をからかってきているのです。そんなラベルを即座に準備できるなんて、桜田門の特殊部隊しかないでしょう。それに、私のパソコン画面を二時間もフリーズさせる力なんて、個人にはありませんよ。特に広島の足場制作会社に勤務している金田さんにあるわけはない。

 伊藤玄二郎も、出版社であって、印刷会社ではないので、その日本酒のラベルを印刷することはできないでしょう。そういうもろもろを勘案すると、金田裕子さんが警察のスパイとして、私とデートしようとしていたことが分かるのです。私ね。少し時間を空けて、2012年から2014年ごろにかけて、日本酒の総銘柄を、調べたのです。テキスト形式で、60~70はあったと思いますが、どこにも、【恋のうぐいすから】なんて言う日本酒は無いのです。

 その・・嘘ラベル・・写真送付の、直後に、豊島屋の、源平巻きを種にして、「赤い袴を脱がせると白い太ももがにゅっと出て来て」、なんていう卑猥極まりないジョークを、二人で、フェイスブック紙上に、 特に、誰でも、読める形で交わしているのです。つまり、金田さんに警察のスパイを頼んだことが失敗したので、慰労の意味で、送ったものが、源平巻きです。しかし、それ一つでも、直子さんがどれほど、貧窮しているかがわかりました。宅急便で広島に送るのですよ。当時、源平巻きは、1300円でした。豊島屋では、もっともお安い贈答品だったのです。缶入りで、見かけは良いです。だけど、内実を知る者にとっては、送った人の貧窮度が判るものでした。自分のユーモア創作力を得意がって、いる直子さんですが、私には、彼女の貧窮度が、もろ見える源平巻きだったのです。人間とは、夫々、違った背景を持ち、違った考えを持って居ます。瓜南直子さんと、金田裕子さんは、あまりにも幼稚というか浅はかでした。

 私は6月の私の夕食写真を「引き下げてください」というヒステリックなお願い。また、8月の、泉沸寺への坂の途中で、タクシーに夫である伴さんから、一緒に乗せてもらえなかったことの投稿。そして、11月18日の、源平巻きをめぐる卑猥なジョーク、この三点で、直子さんがどれほど、貧窮している人であるかは、判っていたのです。三重ですからね。

 だから、亡くなった後での、まあ、悼む人々の、多数の投稿を見て、金田さんと、伴清一郎さんに関しては、その偽善者ぶりにはぞっとしたものです。伴さんなんて、愛していた、愛していたなんて言って、嘘ばっかり。ただ、ただ、美貌と名声を持つ直子さんを利用していただけでしょう。そして、金田さんなんて、直子さんが地獄に吸い込まれる様に、吸い込まれる様に誘導しているのですよ。何が「執事でございます」ですか? 本当に、信じがたい悪女です。

 ところで、生きているうちの直子さんが、すでに、体が悪いことを察して、それについて、第一次フェイスブックで投稿をしていたのは、私だけですよ。日本画の額というものが油絵の額よりも重いことを書いて、なぜ、重いのかの、理由も書いて、暑い夏の日盛りの中、坂を上ることが、彼女にとって、どれほどつらかったかだろうかという事を婉曲にも婉曲にも、気を使って、書いています。本当に正しく彼女を理解していたのは、私だけです。ところが、第一次フェイスブックのIDが消されてしまったので、証明できませんが、夫(実質婚)の伴清一郎さんだって、執事ですと言って、べたべたまとわりついていた、金田ゆうこさんだって、ただ、ただ、直子さんの盛名に縋り付いて、(過去を、今現在から、振り返って見ると)、利用をしていただけなのです。命を削る方に加担をしていただけなのですよ。

 2012年の、10月12日から、・・・・・瓜南直子って、ひどいことをしてきた人だ・・・・と、このブログで書き始めたら、どなたかが、「その方って、すでに亡くなっていますよ」と、お知らせをくださったので、ぎりぎりセーフで、彼女の頁を見ることが出来ました。2012年の四月に、「経済的に不如意だ」と、語っている彼女の投稿を見て、、そんなこと、2011年の8月から、私の方では、判っていましたよと、私は考えました。

 あのね。彼女がお料理の投稿を写真付きで多数上げているのを見て、私が自分の夕食の写真を彼女の頁のコメントとして、ひっ付けたら、ものすごい形相(文章でですが)で怒って来て、「すぐ引き下げてください」と、言ってきて、かつ、フェイスブック友達関係も切ってきたのです。

 理由は彼女が貧しすぎるからでした。その日の私の方の料理は、八宝菜と、何らかの小皿(酢の物か、サラダ)、お吸い物、保存食(佃煮とか漬物)でした。これは、私にとっては普通の日の夕食です。一切れの魚とか肉があれば、野菜は、野菜だけの料理になります。が、その日は、ただ、きれいに並べべて、写真を撮ったと言うだけが違い、毎日同じレベルのものを食べているのです。でね。その日、彼女の食生活のすべてがわかったのです。怖いですよ。川崎千恵子を敵に回すと、あなたの私生活のすべてがわかるから。で、直子さんは、塩分摂取過多で、その一年以内に、たぶん肝硬変で、亡くなります。川崎千恵子をいじめると、あなたの方が先に死ぬのですよ。

 いや、普段からわかっているのですが、侮辱をされたり、妨害等を受けたら、たちまち自分のわかっていることを基盤として、ブログ文を書くから怖いのです。ふ。ふ。ふ。私は、自分の脳みそを透明なバッグに入れて、胸の前に、引っ掛けて歩いている人ではないからね。自分の姿など、彼女には、一切わかっていないはずだ、なんて、思っていませんか? 

 私のニューヨーク物には、1999年にはあさこ【仮名】と、言う、その手の何もわかっていない女性が、私の的を得た指摘にくるって行く様子を語っています。その結果、彼女は、その腰ぎんちゃくとして自分の方が相手を助けているつもりの教授(白人女性)を辞職に追い込むのでした。2000年には、ミミ【仮名】という日本人女性が、 有色版画家一人を飢え死にに追い込みます。これは、このブログの世界では、まだ、完成していないお話です。

 つまり、瓜南直子さんは、朝と昼は、ご飯にぬかみそだけで、済ませていたのです。夜は、日暮文庫(=居酒屋で)・・・・・実質婚の夫であると大宣伝をしている・・・・伴清一郎さんが、買い取った一皿のおでんなどから、ちくわだけもらって食べるとかね。または、彼が、二皿目として選んだもつ煮込みから、五回ぐらい箸で、拾って、もつを食べるとか。一日の総量で、50グラム程度の、たんぱく質摂取だったでしょう。栄養不足の極みでしたね。かわいそうに。

 このタクシーの件一つだって、莫大な意味があるのですよ。だから、夫婦仲なんて、全く、悪いと言うかなんというか、京都へ行くにしても、何時の新幹線を選ぶか、それすら、お互いに連絡を取っていないのです。スマホを持っているでしょうに。そして、伴さんは、日暮文庫(居酒屋)で、「たばこ一本頂戴」と、直子さんに言われて、一本だけ、上げているんですって。それを見たプチ文化人がすごく驚いて、ブログに書いています。二人が(実質婚の)夫婦だって知らなかったらしいのね。煙草を一本頂戴というほど貧しい直子さんを、タクシーで一緒に乗せて行かなかった伴さんが、亡くなった後で、愛しているなんて、投稿していたので、その偽善性には、ショックを受けました。

 ともかく、泉沸寺でのグループ展は、両者ともに、開催期日を知っているわけでしょう。期間なども。伴さんは、京都駅から、泉沸寺までのタクシー代を、別の家で暮らしている直子さんが持って居るとでも、考えていたのかしらね。煙草を一本ずつせがまれるのに、判っていなかったとすると、恐ろしい共感力ですね。共感力とは無論反語です。無理解力が、正しい用語です。肝臓が悪いことも判っていなかった可能性が高いです。タバコをやめなさいとか、お酒をやめなさいと、注意していた雰囲気はないですね。

ここでね。もっとはっきり言うと、伊藤玄二郎が、覚園寺にお願いをして、このグループ展を設定したと思います。偶然の機会に、泉沸寺と、覚園寺さんが仲良しだと、判ったのです。仏教上の宗派は、違う筈ですが、仲良しだって、判ってね。そういう事かと思いました。直子さんは画家だから、企画展を持ち込まれたら断ることなどできません。

 伊藤玄二郎は、私より直子さんが上だと言う事を強調する為に、展覧会の企画を次から次へと持ち込んでいたと思います。だけど、搬入、搬出の為の京都への、新幹線切符、四回分を上げていますか?

 ここでもシェークスピアの【リア王】の話は再現されています。お金を私が直子さんにあげたことはありません。だって、面識すらないのですし、直子さんの方は、自分が上だと確信しているわけですから、私がお金なんか上げられるわけもない。でも、心理的には、2011年から、ずっと、苦境を察していました。手を差し伸べるわけではない。だけど、正しく理解をしていましたよ。姉とか、母としてです。

ここから先が、昨日までの、総タイトルにふさわしい部分です。で、18日、夕方7時まで、つけていた総タイトルを、こちらに移動をさせていただきます。

【日大芸術学部は、なぜ、今、繫栄しているのか? 熊本城崩壊はくまモンを小山薫堂が、人工的に作り出し、メディアがちやほやしすぎたからですよ】

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『なびす画廊について、丁寧な文章を書いている頁を見つけてよかったと思う。熊本県の大災害については、小山薫堂という人物が、人工的・人気者・くまモンを作り出し、メディアが持ち上げ切ったのが、最大の原因だと、考えている私は、小山薫堂という人物を知ったのが、なびす画廊だった。そこについて、丁寧な、文章を見つけて、喜んだのだった』

なびす画廊について見つけた文章の、URLは、以下です。

https://geijutsuhiroba.com/scketches/  

%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%97%E5%B9%B4%E5%9B%9E%E9%A1%A7%E3%80%80%E3%81%AA%E3%81%B3%E3%81%99%E7%94%BB%E5%BB%8A%E3%81%AE%E9%96%89%E5%BB%8A%E3%82%92%E6%83%9C%E3%81%97%E3%82%80/

ごめんなさい。こんな長いものを入れて出て来るかどうか、わからないので、一行目だけを入れてください。そのあとで、

2017年回顧 なびす画廊の閉廊を惜しむ     と入れていただくと、出てくると思います。

 私は、2005年ごろまでに、なびす画廊で個展を開いている、前衛風、日本画家にびっくりしたのです。骨太で、画格が大きい。日本画だと、最初は気が付かなかったぐらいです。そういう作家(画家の事です。専門家は、画家についても作家と呼ぶのです)に数人、であったので、或る時、そのうちの一人に向かって、

「あなたは、どこの美大を卒業したのですか?」と聞いたのです。この質問はタブーの一つで、できるだけ出さない様にしているのですが、何人も似た様な作風の作家に出会ったから出したのです。瓜南直子さんは芸大卒。多摩美にも日本画科はあるでしょう。羅針盤という画廊かなあ。多摩美卒の人を多く展示していますね。

 だけど、今まで、見たこともない画風なのです。でね、やはり、美大の、入試偏差値によって、画家の、風格が影響をされるところはある・・・・かもしれない?・・・・と思って聞いたのです。

 答えとしては、芸大、京都市立芸大、多摩美、ムサ美、女子美、の五つの内のどれかです。

 ところが、答えが、自分としてはそれ以前には、聞いたこともない美大、‥…東北芸工大学だったのですびっくりしました。私は美大卒ではないです。でね。美術界の噂話を知りません。一緒にお茶を飲んだり、お酒を呑んだりしていないから。だから、東北芸工大学が、後発の美大なのに、そして、江戸時代までは、貧しかった東北を舞台にしているのに、急伸している美術大学であると言う事を知りませんでした。

 今、小山薫堂のwikipedia を見ると、彼が、東北芸工大学に関係した項目として、

2009年4月、東北芸術工科大学デザイン工学部企画構想学科の新設に伴い教授および学科長に就任。

と、あります。で、私がなびす画廊で、東北芸工大の日本画科が、すごいと、知り、その時、小山薫堂の名前を知ったのが、2009年以降だったのでしょうか。私は、60台以上、ノートパソコンが壊されている人なので、この時期については、記憶があいまいです。だけど、小山薫堂が、東北芸工大学に関与し始めたのは、2009年以前のような気もしています。だから、なびす画廊で、日本画科卒の学生から、小山薫堂の名前を聞いたのではないかしら?

 東北芸工大学は、1991年の創建ですって。小山薫堂は、2000年(36歳)ごろから関与していたのではないかなあ。講師とか

、助教授として。

 ところで、ここから、銀座を離れて、熊本県に移動をします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4,『私はくまモンが、表に出始めたころ(主に、2013年以降だったと思うが)なんて、かわいげのないゆるキャラだろうと思っていた。処が熊本県に災害が続く様になって、くまモンが原因ではないかと思う様になった。特にベトナムから来た研修生二人が水害で、亡くなったりしたときに、強くそれを感じた。でも、2014年ごろまでは、くまモンが、メディアで、大騒ぎで、大切にされる本当の原因や理由を知らなかった。しかし、熊本城が地震で、崩壊したころから、これは、くまモンのせいであると確信したので、初めてくまモンについて、詳細に調べた。ただし、ネットサーフィンだけだけど。

 本当に驚いた。これは、ひとえに、政治的産物だったのだ。まず、日大芸術学部を卒業した林真理子を、日本国の総理大臣にしたいと願っている、日本国の、本当の総理大臣、いまだ生きている井上ひさしの、アイデアがある。

 それで、日大の学生・宮川泰介選手に、違法タックルを行わせた。彼は今fujitsuの選手であるはずだ。処で、全国大会でもない。アメフトの強い大学同士の、単純な友好試合にもかかわらず、NHKは、徹頭徹尾、ビデオ録画をしており、違法タックルの画面を、100回以上、NHKニュースとして放映した。

 私は今、関西学院大学の当時のコーチに問い合わせたい。あなたはね。あの頃、柳眉を逆立てて、日大の監督やコーチを非難していました。今でも、同じ勢いで、非難できますか? NHKニュースカメラの前で、日本全国民、一億人に向かって日大アメフト部を非難できますか?

 あなたの恐ろしい、顔立ちによって、あのニュースは正当性を得たのです。違法タックルとは、政治的に仕組まれた、物であり、林真理子を総理大臣にしていく一道程だったのです。

 宮川泰介選手は、西東京市で、育った少年の筈で、マダム古村の英語塾の生徒だった筈です。マダム古村の背後には、CIAエージェントがいて、あの違法タックルを行う様に、宮川泰介選手は、その家で、説得をされたと、私は見ています。

 まあ、ともかく、日大アメフト部を卒業した元学生、その両親や、兄弟。また、当時、アメフト部、フェニックスに所属していた学生やその兄弟、両親、そして、そこに入学しようとしていた、たくさんの高校生を、前にして、

 もう一度問います。関西学院のアメフト部の、当時のコーチ様、当時と同じ勢いでNHKカメラの前で、日大監督を非難できますか? 本当の悪人たちは隠れています。で、主役として選ばれたあなたは、彼らの意図通り、行動しました。そして、日本社会の中でアメフトの人気を劇的に落としました。

 そうはっきりと私は言います。それを聞いたうえで、当時と同じ勢いで、鬼のような顔をして、柳眉を逆立てて、日大アメフト部監督を非難できますか?

 まあ、どうしてここで、熊本県から、日大へ飛んだかというと、林真理子と小山薫堂は、同じ、日大芸術学部出身だからなのです。二人を両輪の輪として、日本人社会の中で、偉い人として、作り上げていくのが、鎌倉エージェント(=日本一のアメリカ、CIA本部の手下たち)の、意図なのです。

 ところで、熊本城の崩壊を見て、やはり、くまモンに原因があると直感した、私は、くまモンについて、初めてネットサーフィンをしました。

 驚きました。くまモンって、他の地方のゆるキャラとは、全く違った生成過程を持っているのでした。なんと、小山薫堂が、主導したデザイナーズアイコンだったのです。道理で愛らしさが無いのだと納得しました。最初から、金もうけを計算した、というか、狙った産物だったのです。

 今、Loft が女性の人気を集めているそうです。そのLoft 及び、町の文房具店で、買えるいろいろな商品に、くまモンが飾りとして幾種類の商品に使われているかを、今入院ちゅうの私は調査できません。でも、ファイル、筆箱、お財布、チャーム、化粧缶、バッジなど、すでに、50億から80億円の著作権料を稼いでいるでしょう? そのうち、60%が熊本県に落ちたと仮定しても、小山薫堂とそのチームには、すでに、20億から30億円のお金が落ちていると思います。そのうち、小山薫堂の取り分はいくらですか? 京都に豪邸を買うのなんか、容易ちゅうの容易ですね。

 これが、林真理子を総理大臣にしていく一道程なのです。林真理子より、庶民への浸透度(または、著名度)は、低いでしょうが、メディア業界、もしくは、日大ファミリーの中では、こちらの方が、信用度は高いでしょう。

 恐ろしい。しかし、これをはっきりと書いてからは、熊本県の災害連発は終わりました。

 でも、くまモンが相変わらず、金もうけの道具であることは変わりはないです。デザインとは、美術界の哲学で、大切なものだと思うけれど、こと、くまモンに関しては、それを持っている女性の顔をしげしげと、見つめてしまう、私でした。その女性の、容貌が、どのレベルであるかも、詳細に、見つめている私です。

 さて、能登半島の地震も鎌倉エージェントの策謀と関連があります。でね。それは、後刻か、後日書きましょう。本日は疲れた。ここで、一旦さよならをいたします。

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シャルボネ(パリの版画インク店)と、鳩居堂を考える

2025-06-15 21:09:59 | 文化、芸術、書物

 私はね、今入院中で、今、消灯時間が来てしまった。だからね。長い文章を新しく書く事が出来がたいのです。で、以下は、パソコンの整理中に、見つけた2008年の文章です。たぶん、今の読者様に向けて、発表したことはないと思う文章です。どうか、よろしく。

 今日お話しすることの主眼点は、良質なものを丁寧に作っていて、規模を拡大せず、儲けを追及しすぎない・・・・・お店の美しさ・・・・・です。

 私は油絵と版画をやるのですが、美術評論家の方からは版画の方がよいといわれております。特にヘイター方式と言って色を多数使う版画を遣っておりますので、制作は大変ですが、結果として華やかになります。そのために版画インクは、種々持っていて、その組み合わせをノートに詳細につけて、仕事を進行させるのですが、色インクとしては、やはり、パリに本店があるシャルボネのものが一番だと思います。

 そのシャルボネのインクは、日本では神田の文房堂(多分、日本一古い画材店)と、萩原商店(プロの版画家が、電話やファックスで注文をする一種の問屋さん)には、確かにおいてあります。ただ、今現在日本一大きい画材店である、新宿の世界堂においてあるかどうかを、私は知りません。と言うのもほとんどの、版画家は萩原商店で買うので、世界堂がそれをおいても、買いに来るお客がいるかどうか、いてもとても数が少ないから、商売にならないでしょうから。

 世界堂には、アニメの道具、とか、漫画を描く道具は、相当数置いてあります。それを買いたい若い人が大勢いるのでしょう。ワンフロアーが、それに占められているぐらいです。日本のアニメやコミックと言うか、漫画は世界を席捲しているし、それを遣りたいという若い人が多いから、その材料は確実に売れる分野だからです。

 ~~~~~~~~~~~

 さて、私はせっかくパリに来ているのだから、シャルボネの本店を訪ねたいと思いました。版画工房のお仲間に住所を聞いて、訪ねてみると、それは、セーヌ河畔にある、瀟洒な一軒家でした。コンクリートのビルではないのです。床はフローリング。北西の二方向にある道路に沿って、フランス式の縦長の窓が大きくとってあり、商品は窓の無い、二つの壁面に、棚を作っておいてあります。その棚の裏側の壁ですが、ウォールナットです。

 その前に、黒いふたのある、白い缶がずらっと、四段ぐらい並べられています。その缶は大体鮭缶程度の大きさですが、そこに茶色の飾りで縁取りされたハート型の窓があり、その窓にインクの色が印刷をされています。棚の幅は狭いです。それらは、大体一つが五千円ぐらいするのですが、もう少し安いものとしてのチューブがあります。

 また、他のスペースにはきれいな木製の引き出しがたくさんあって、その中にはシャルボネ製ではないが、版画家がよく使う刃物類が丁寧に区分けされて入っています。全体がものすごく静かで美しいです。日本で、私が最も頭が痛くなるお店が、ドンキホーテですが(それでも、夜遅くサインペンなどを買いたくなると、よく入るのですが)それの究極の対岸にあるお店だといってよいでしょう。

 売り子としては、中年の誇り高いマダムがひとりです。私は何代も続いた経営者一族だと見ています。雇われた人みたいな感じではない。それで済んでいるのはお客が少ないからです。私が想像するに、日本と同じで、プロはここでは買わないのです。きっと、もう少し値引きをしてくれる問屋風のところがあって、そこで、皆さん、買うのでしょう。

 なら、なぜ、このお店がここにあるかといえば、一種のパイロット店として、世界に冠たる品質を誇示するために置かれているお店だと思うのです。セーヌの河岸と言っても繁華街ではなく、画廊街のはずれで、窓から見えるのは、マロニエの葉ばかり。

~~~~~~~~~~

 日本でしいて似たようなお店を探せば、鳩居堂でしょうか? 自社ブランドとしての、便箋や葉書が有名です。それを使う事が中年、日本マダムの品格を現す商品です。銀座の本店は税務署が発表する、地価の日本一高いところして、戦後数十年、きらめいております。そして、本店にしろ、他の街にある支店にしろ、雇われている若いお嬢さん方が制服を着て、一杯居ます。そして、売上高もシャルボネの比ではないでしょう。

 でも、なんともいえず、静かなあのシャルボネ本店の雰囲気を、私は生涯で、出会った素敵な場所のひとつとして、宝物のように、大切にしています。

 会社を経営することは、資本主義の常として拡大を目指すでしょう。シャルボネも裏ではそうかもしれない。だけど、あの本店の、清潔にして慎ましやかで、そして、美しい雰囲気を見ると、それが斜陽に繋がってしまうかもしれないけれど、なんとはない・頑・固・な・節・度・を感じて、『た・よ・り・に・な・る・な・あ』と思うんですよ。

 最後になりました。この版画は日本で作った初期のものです。でも、インクはシャルボネの、カーマインと言う赤です。透明で美しいと思っております。

 ところで、その葉書が手元にないです。で、ただ、文字だけになっていますがお許しください。

     2008年10月20日            川崎 千恵子

   実際のgoo blog 送信は、2025-6-15  雨宮舜(本名、川崎千恵子)

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LA抗議デモ、14日の軍事パレードに合わせたデモに、厳重警戒へ。

2025-06-14 20:44:07 | レストラン

LA抗議デモ 14日の軍事パレードにあわせたデモに厳重警戒へ

アメリカ西部ロサンゼルスで、トランプ政権の移民政策への抗議デモが続く中、14日には首都ワシントンで予定されている軍事パレードにあわせて、全米2000か所以上でデモが呼びかけられています。ロサンゼルス市警のトップは「群衆は空前の規模になるかもしれない」と述べ、厳重な態勢で警戒にあたる方針を示しました。

 

ロサンゼルスでは6月6日以降、移民の一斉摘発への抗議デモが続いていて、13日も、中心部のダウンタウンでは平和的なデモが行われました。

一方、トランプ大統領が派遣した海兵隊の兵士200人が、この日、中心部から離れた場所にある連邦政府の庁舎の警備につきました。

トランプ大統領の誕生日でもある14日は、首都ワシントンで予定されている軍事パレードにあわせて、「ノー・キングス」=「王はいらない」と題した抗議デモが全米2000か所以上で呼びかけられています。

これについて、ロサンゼルス市警のトップは13日の記者会見で、デモの規模について、「ソーシャルメディア上の呼びかけは、これまで非常に活発に行われている。群衆は空前の規模になるかもしれない」と述べ、厳重な態勢で警戒にあたる方針を示しました。

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ニュージャージー州と、プリンストン大学という平和境、ロスやシアトルに比較してね

2025-06-14 14:19:52 | 子育てモノ

 私は今、入院中です。でね。自宅にいる場合に比較すると、時間があるようで、無いのです。それは、ルールとスケデュールに縛られているので、ここまで、書いてしまうまでは、やめないで、おこうと言う仕事のやり方が取れないからです。

 でね。テーマがあっちへ、飛んだり、こっちへ飛んだりしますが、以下の一文は、

夏の名残のばら・・・・・【黄色いさくらんぼ】の裏側の話       2025-06-08 21:05:04 | 子育てモノ

の補足説明にあたるものです。黄色いさくらんぼというのは、ニューヨーク一古い版画工房でのお話です。主に登場するのはアーチストです。夏の名残のばらの方は、その時、お借りしていたアパートの大家さんの話です。それから、25年は経っているとはいえ、ご存命中の一家の、苦しみを書いているので、非常にあいまいなぼやかした書き方になっています。でも、お嬢さんが14歳にして家に帰ってこなくなったのは、無論両親の側に原因があるのです。

 それが、現在日本で子育て中の、40代のご両親に、何らかの、ご自分反省のヒントを与えるのではないかと、考えて書いています。現代の日本には、50万人以上の引きこもりの人がいると言われています。これは、上は、大体50代までを指し、親が生きている段階を指すのでしょうが、裕福なご家庭では、引きこもりの子供が、70代だとかそれ以上だと、言うケースがあるのですよ。女の子の方は、引きこもりというよりは、親が望まなかった性を売る仕事についたりするケースが考えられますが、そちらも入れれば、100万人ぐらいの、20~50までの、ひとが、親の期待に反した生活を送っていると言う事となります。

 まあ、親は何を期待しているかというと、普通の生活です。普通とは何を指すかというと、就職をしてお給料をもらっている。結婚をしている。子育てをしている。家(マンションでもいいが)を買っている。などと言う生活を指します。男女ともに、ここまで到達して居れば、親は、まあ安心できます。 

 子供が男女どちらでもいいのですが、40代後半になっても、ここまで、到達していない場合は、親は、心配します。すごく頭の良い両親がいて、子供が精神病であると言う認定をもらって、国家または、県などの公的機関から生活費をもらえる措置をとってやったんですって。だけど、普通のサラリーマンが親である場合、そういう細工はできないでしょうから、悩みは深いでしょう。私は常に言っています。保育所で、育てることが親子双方にとっての第一の失敗だったのよと、常に言っていますが、子供は経験不足で、自信のない、青年として育ちあがり立ちだし、親は親で、正しい助言とか、導き方を知らない親になりがちです。

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 さてもう一ついけないのが、出世を願う事です。子供が上流階級とか富裕層になる様に親が願う事です。そのために小さい時から、勝ち組になる様に仕向ける事。常に他人に勝つ様に仕向ける事。これもまずい方向です。その種の親御さんは、何かについて、過剰とか、しつこいと言う傾向を持って居ます。

 それを、ちょっとだけ、書いているのが、夏の名残のばらです。そこでは、四畳半程度の広さのお部屋が居間兼食堂になっています。そこにあるものが電灯の笠、カーテン、テーブルクロス、床材(リノリウム)壁紙などが、夫々、高価らしいが、全部違う花柄で、埋められているのです。

 パリでお借りしたアパルトマンは、日本の有名女流画家の持ち物で、そこには、細長い形で、24畳程度の、居間があるのですが、カーテンも無地、壁紙も無地に近い小さな柄模様でした。唯ね。富裕な方だったので、暖炉の上の花瓶には、日本でいえば、2000円から3000円の生花を飾る様に命令をされていました。その暖炉の上には、大きな鏡があって、生花を写すので、花が二重に見えて華やかです。さすが成功した女流・日本人・アーチストの、家です。

 一方、ニューヨークのお宅では、せっかくお茶を頂いているのに、もう、頭が痛くなりそうで、この部屋で、中一のお嬢様が、「学校で、いじめられている。肌の色の事で」と、お母さんに、打ち明けられるだろうか?と、考えて、それは無理でしょうと、思いました。

 日本の禅宗の考え方って、非常に大切だと思います。深い思考とか深い知恵というのは、静かで、地味な環境でこそ、生まれるのです。派手で、うるさい環境の中では、うまれない。

 ところで、アメリカには、禅宗の考え方が見えるところなんてないのです。しかし、プリンストン大学の食堂には、驚きました。静かで、地味だと言う環境があるのです。それを、いかに書きます。実は、2024年2月7日に投稿をしたものですが、その意味をさらに強めましたし、推敲もしてあるし、誤変換も直してあるので、どうか、もう一度お読み唯期待と存じます。

 

1)【ニュージャージーでは、川の護岸工事がしていなかった。】

2)【フィールズ賞授賞式が行われるPrinceton大学の食堂では、静謐な雰囲気の会話を、ポスドクらしい人たちが四人で交わしていた】

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副題1、『アメリカでは、田中角栄が、行った列島改造は、行われていなかった。土木工事が、行われていない。川の場合だけど』

 私は、1999年謝礼を出して、日本人ミュージシャンに車を運転してもらって、ニュージャージーに在るレンブラント(画材店)の、倉庫を訪問しました。非常に大きい施設です。しかし、グーグル検索に出てこない。これも、私が大物である証拠と、みなしていますが、まあ、先へ進みましょう。

 それは、ニューヨークの中心から南西へ向かって、20キロぐらいのところに在るのですが、お礼を500ドル(当時のレートで、62000円出しても、あれをやってよかったと思う旅でした。

 ニュージャージーと言うのはニューヨークマンハッタン島の西に在る州なのですが、田舎です。マンハッタン島を出発して、二時間(直線距離にすれば、20キロぐらい)走ると、見渡す限りの牧草で、人家は、一軒もないし、牛も見えないのです。ジャージー種と言って、薄い茶色の皮膚の牛で、ミルクをよく出す種類の、有名なところなので、牧場ばかりなのは、わかりますが、牛も人間もいない。そして、追い抜く車はないし、対向方向から走ってくる車もないのです。

 最も驚いたのは、川です。道路の東側60mぐらいのところに川が流れているところに差し掛かったのです。道路は、川と並行するので、10~15分ぐらい川を眺めていたのですが、大きな石がごろごろしていて、それには、まず、驚きました。日本だと、そういう石は、山の中の川でしか見られません。そして、急流です。川下りが観光事業化されているそういう川にしか大きな石は、無くて、多摩川の、二子玉川とか丸子橋程度の平野に差し掛かると、大きなしかも尖った石なんか、絶対にないし、堤防がないと言う事もないし、堤防の中に、野球場があって、巨人軍が練習をしていたりします。

 全く違うのです。アメリカは広い。と、感じました。映画、【パリ・テキサス】でも、砂漠化した平野の中に人家は、一軒もないと、言う映像を見ましたが、北部の、非乾燥地帯でも、人間の数が、圧倒的に少ないのでした。どこと比較してと言えば、無論、日本です。

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副題2、『時々ネットで、世界の大学ランキングというのを、見る。私はああいうランキングを信じているわけではない。しかし、東大が、低い。それについて、まあ、学食を比較すると、そういわれても仕方がないだろうと、考える』

 私は、東大の学生だったわけではなくて、勤務者です。でも、数か月に一度、学食を利用させてもらっていました。量は多い、そして、お値段は安い。しかし、プリンストン大学のそれと比較をすると、圧倒的な、違いがあったのです。

 むろん、私がアメリカの方を、見たのは、1999年だから、それ以降変化した可能性はありますが、ほとんど、変化していないと思います。それは、どうしてかと言うと、敷地が、100倍程度広いので、平屋建て木造で、窓が多くて、その窓に、布製(赤白のギンガムチェック)のカーテンが下がっている事。いわゆるearly american home という感じのしつらえです。同じ布で、テーブルクロスもできていて、それが、四人掛けのテーブルすべてにかかっている事。そして、何よりすごいのは、木の床です。オイルも塗っていない。もちろんニスも、塗っていない。それから日本のように、紙のように薄いものに印刷した素材を板の上に貼ってある、模造フローリングでもない。むしろ、しろっぽくて、ほこりっぽい。しかし、足に当たる感じがやさしいのです。冷たくない。硬くない。そして、滑らない。

 しかし、その、プリンストン大学の、学食は、あれから、24年は経つが、ほとんど、変化していないだろうと、考えるからです。東大の方は、わかりません。相当に変わった可能性を感じています。と言うのは、通学している学生の両親が、富裕層が多いでしょう。すると、子供も素敵な家具を見て育っていますよね。だから、デコラ張りの長テーブルは、剥くの木のテーブルに変わったかなあ?

 しかし、木綿+麻の混紡らしい、テーブルクロスがかかっている四人掛けのテーブルは置いて居ないでしょう。そして、一人分が、プリンストンの場合は、底辺が1m50㎝ぐらいの、正三角形です。正方形のテーブルを四人で、分けるのです。東大の場合、私が居た時代は、一人分が、50cmx40㎝の長方形分だった。そして、椅子が折りたたみ式のパイプ椅子。プリンストンの方は剥くの木材で出来た肘掛け椅子。

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副題3、『私の父は自然志向だった。築土は大谷石で、白木志向。掃除が大変で、1980年からニスを塗ってしまったが、最初は柱も、ふすまの桟も白木。ふすま紙は、しろの和紙(紋は入っているが、絵は描いていないもの)二間幅の、平床の、床柱は、細目の北山杉で、そこに一服の掛け軸と、地窓があるだけ。テーブルは、自分で営林署で見つけて来ケヤキのこぶを、家具店で、足をつけてもらって、うっすらと、ニスを塗ってある。家具店で、既製品として売っている、ピカピカ、てかてかの、ケヤキのこぶのテーブルとはまるで、違う。

 この家に、国際キリスト教大学構内で、低血圧に陥った私を看護または、お世話しながら、家まで、送ってくれた、アート部の所属だったフェリス出身のお嬢様が「なんて、きれいなおうちなの!」と言ってくれたのだった。質素極まりないが、ミニマルアートっぽい家。だけど、これをブログで、書いているから、鶴岡八幡宮様は、旧近代美術館本館を、大谷石張りから、新建材で、囲ってしまった。鶴岡八幡宮様は、対私という意味では、ひどいことを数多くなさっている。だから、一般民衆のお賽銭の入りが少なくなったと、私は、考えて居る。‥‥のです。鶴岡八幡宮様は、ご自分のお名前が、総タイトルに乗っていなくても、私のブログを隅から隅まで、お読みになって、頭に入れておかれる方がいいです。そうしたら、酒井忠康氏、伊藤玄二郎、鎌倉警察署の生活安全課の課長、もしくは警察署長の、おすすめが、すべて、対、私攻撃の用途があると、お気づきになるでしょう。私を攻撃なさるとだめなのよ。必ず、ご自分に損が回ってきます。

 東大の方で、私が経験したのは、デコラ張り(=プラスチックの天板)の長い、テーブルで、食べる形で、パイプの折りたたみ椅子が組み合わせてある形式です。私の母校ICUの学食も、テーブルは、プラスチック製の天板が乗っているタイプですが、二重にテーブルが置いてあるので、対面の学生と、十分な距離があります。

 私が勤務していたころ、「教授が東大の学生一人を養成するのに一帯いくらかかるか、知っているかね」と、おっしゃいました。無論、私は知らないので、先生のお答えを待っていると、「4000万円かかるのだよ」とおっしゃいました。1960年代の話です。だから、今では、5000万円から、6000万円かかっているのではないかなあ?

 しかし、4000万円かけているのにも関わらず、学食の雰囲気は、プリンストン大学の、暖かさと、比較すると、圧倒的に冷たいのでした。赤塚不二雄のギャグ風に表現すると、学食のおばさんが、こういっているみたいに感じます。

 「はい、栄養は、つけてやったんよー。だーから、これから、夜10時まで、研究しろー。ともかく、混んでいるんだから、早く、帰んなー」と言う感じです。そういう感じで、追い払われる。

 芸大の食堂もテーブルとイスは同じです。ただ、窓が、きれいです。たぶん水族館で、使っているアクリルと、同じもので出来ていて、天井から、床まで、素通しで、太陽光が入ります。そして、食堂の、西に植わっている樹木を見ながら、お昼を食べることができるし、広いので、追い出される感じが少ないので、昼食後、歓談しているグループもいます。

 しかし、その部屋に自動販売機が置いてあります。これが、その部屋の高貴さを、失わさせています。プリンストンの方で、目立つのは赤白格子の布だけです。建物の外にも中にも、自動販売機など、置いて居ない。後は白木(床も厚手の白木)だけ。ともかく、ナチュラルで、人工的なものがないのです。窓から見えるのは、東側は樹木、西側は、サッカー場三面位の広い芝生です。

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副題4、『私がそこに、特に感銘を受けたのは、うちの父も白木派、そして大谷石派だったからだ』

 我が家の和室を見たフェリス出身の、美的センスの高い同期生が、「なんてきれいなおうちなの」と言ってくれたことがあります。それは、ナチュラル志向で、あまりものを置いて居ない6畳間だったからです。二間長さの平床には、細目の北山杉と、掛け軸一幅、地窓、だけでした。花瓶も置ていない。ふすまは白木の桟に、模様が描かれていない白い紋入りの和紙。母が、音を上げて、とうとう、柱と、床にニスを塗ったのですが、1960年代には、まだ、白木の部分が大量に残っていたのでした。テーブルは営林署で、自分で見つけて来たケヤキのこぶ。それを家具店で、足をつけてもらって、うっすらとニスを塗ってあります。木目が指の腹で、確かめられるほど、うっすらです。

 たんすなども置かせない。プラスチックの箱なども、押し入れ以外の目立つ場所においてはいけなかったのです。生活するために、4畳の、納戸と、長さ二間の広縁がものを置く場所でした。が、視界には、入らせない形で、そこに置かせていたのです。洋間(=居間)のどこかに、海外旅行のお土産な置くのももってのほかでした。ただ、よく訪問をしてくるお客さんからもらったものは、本箱の中に飾っていました。洋間だって、額一つだけで、カレンダーだって貼らせない主義でした。

 ::::::::ここで、挿入ですが、残念至極なことに、そういう父について、文章を書いているからこそ、鶴岡八幡宮様は、旧、近美本館が。元は大谷石で出来ていたのに、外壁を、新建材の物で、覆ってしまわれたのです。一見すると、ひどく、きれいですが、元の建物を覚えていた私にしてみると、ぐっと、不自然度がまし、周囲との調和が失われています。その上、お客の入りも減ったでしょう。しーんとしていて、活気がないです。対・私いじめの為に、芸術作品のオリジナリティを損壊なさったからなのです。坂口準三の、オリジナリティをです。この問題は、白い小箱と言う書物が、焚書坑儒の対象になっていて、この世から、消えてしまった事、や、(白い小箱は、求龍堂から、高いお値段で、再刊され、私は、近美別館で、二冊目の本として、それを買ったのにまた、盗まれています。

 八幡宮を根城に、自分の格上げを図っている武部聡志の、これまた、ぴゅわーん、ぴゅわーんという朝九時からの、ひどい音源発生など、に続きます。今の朝ドラ『ブギウギ』は、武部聰志を使っているから、朝ドラ【ブギウギ】は、人気が出ないのですよ。彼の名声を上げることに、税金に等しい、視聴料をとっているNHKは、協力をしてはだめなのです。彼を、音楽担当者として、採用してはだめなのです。彼は、かかわるものすべてに、損失をもたらす人物です。

 と、言いながら、ここで、二年後の、ブギウギ、主人公の恋愛問題に入ります。彼女のお相手は、寅と翼で、ブレイクしたミュージシャンで、美形の男の子ですが、以前の愛人が、お金を分捕られたと、言っているらしい。困った事でしょう、両親にとっては。ところが、この騒動を機縁に、ブギウギは、人気があったことになっています。おやおや。ブギウギが、人気があったと言うネットニュース関係は、すべて、私をやっつけようとする人間たちが投稿したと言うか、作り上げたニュースでしょう。まあ、もう、過ぎた事だけど。

::::::::::::::

 元へ戻ります。そういうミニマムアート主義、または、自然志向主義と同じ気配が、プリンストン大学の食堂にはあったのです。日本でいうと、10畳が縦長に四つ並んだ様な、細長い建物でした。そこに、20個ぐらいの正方形のテーブルが置いてあるのです。が、一部(最南端)だけは、スキップフロアーになっていて、30㎝高いのです。そこに、三つの正方形テーブルが置いてあるのですが、その一つに、四人の、如何にも学者らしい若者たちが、座っていたのでした。助教授(男性)、助手(または、今では、助教と言うのかな?)(男性)、ポスドクらしいメガネをかけた、女性が二人で、四人のお茶のみ、会ですが、本当に静かなのです。ケーキやコーフィーも、もうおいて居なくて、彼らがランチ後、二時間以上話し合っているのを感じました。

 私を車で運んでくれている日本人の人は、この食堂を使うのを嫌がったので、私は、一人で、その四人を観察しました。

 誰かが二行ぐらいのセンテンス(英語)を、発すると、それを、聞いた他の三人は、二分か三分黙っています。その沈黙ののちに、誰かが、今度は、一行ぐらいの長さのセンテンスを、発し、そののちまた、沈黙が訪れます。私は、文学ではないだろうと、まず、思いました。だって、アメリカ映画、

小説家を見つけたら』(Finding Forrester)は、2000年アメリカ映画ショーン・コネリー主演、ガス・ヴァン・サント監督。   F. マリー・エイブラハム 共演なんて、

 には、膨大なセリフがありますから。

 次に理科系でもないなあと思いました。それは、実験装置のある場所で、会話を交わすはずだからです。

 最後にたどり着いたのが、数学です。NHKテレビで,数学の番組を連続して放映した時期があって、それには、プリンストン大学の、大・階段教室がたびたび登場したのです。上下する黒板が、四面ある教室です。NHKテレビから元の、1999年のプリンストン大学に戻ります。

 彼らと、私との間は、5mぐらいの、距離なのです。しかし、会話は、聞き取れません。とても、小さい声である上に、技術用語が、わからない。で、『きっと数学よ。プリンストン大学って、数学のメッカだから』と、結論を得たのです。

 なお、私は、静けさが、特に、好きです。

    2025-6-14  雨宮舜、(本名、川崎千恵子)

 

 

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優しくて誠実な福田先生について、書き残した事があり残念だ。蛇足をたくさん加筆してある

2025-06-13 08:08:47 | 政治

是って、実は、47年前の、横須賀での話です。しかし、ブログ整理中、この福田先生という方が良い方だったなあ。それを忘れないで置きたいと思って、公開時間を移動したら表に出てしまいました。これは、一連のシリーズの一篇で、非常に悪い先生というのも出てくるシリーズの中の章です。 

この章ですが、後半に蛇足という説明をいろいろ、付け足します。どうか、よろしく。

副題1、『前報で、書き残したことがあり、残念で、ここでも、繰り返したい。それは、追い詰められた私が、福田先生に、お手紙で、隠された裏側を説明した時の事。

 先生は、すぐお電話をくださった。私が大津小学校から、自宅へ帰るまで、ほぼ、一時間歩くのだが、一時間後位に、こうおっしゃったのだ。

 そこだけを繰り返すと、こうなる。

::::::::

「川崎さん、読みました。川崎さんて、深くものを考えるんですね。もうご安心なさってください」

・・・・・その言葉ののち、電話内で、瞬時、先生は、沈黙なさった。そののち・・・・・

 「私は、国文学を専攻しました。川崎さんのお手紙、よく書けていると思いますよ」と、続けられた。私は本当に嬉しかった

 福田先生は、ご自分に欠点がないので、事前に根回しをして置いて、役員を選んでおくなどと言う姑息な手段は、おとりにならず、

 初めて、クラスのママ達(1970年代父兄会に、父親が参加することはなかった)が、顔を合わせる入学式後の第一回目の父兄会で、互選で、役員を決めようとおっしゃった。

 これは、どこの学校でもそうだろうが、なかなか、決まらない。

 で、福田先生は、私の方をご覧になって、「川崎さん、いかがですか」と、おっしゃった。わたくしは今でこそ、CIA軍団にいじめられきっていて、影が薄いが、意外と、存在感がある人間だったらしい。まず、洋服について、おしゃれだった。洋裁を横浜鴨居駅周辺のマンションに住んでいた時に、お茶大体育科卒の先生に習っていて、襟がないスーツなら、自分の体形ぴったりのものを、上等な布地で、作って、着ていた。そのうえ、⇒⇒⇒

上の写真は、幼稚園時代の子供たちと一緒に、鶴岡八幡宮境内の、あめりかキササゲのそばで、撮ったもの。フランス製のスエードのコートを着ている。白い毛革部分は、自分でつけたもの。長さを整えるための工夫だ。洋服に関しては、おしゃれだったと、言う時代の写真。左が福田先生に二年間教えていただいた娘であり、右がW先生に二年間、受け持たれていた息子。

 ⇒⇒⇒ ICU卒であることが、その地域の大卒ママの間、または、幼稚園や学校の先生の間で、確実に知られていたと、推察しています。自分から吹聴したわけではないのですよ。でも、どうしてか、知られている。

 ともかく、ちょっと、普通じゃあないと、言う印象を与えていたのは、確かだったでしょう。だって、幼稚園の場合も、PTA三役、特に会長をしたいなどと、自分から、名乗りを上げたわけではありません。すべて、上から、の指名です。

 それも、この地域の最も大きな幼稚園(園児が、470人もいる)の、PTA会長でした。それをやって来て、たった、一年間のブランクをあけただけですから、PTA役員となる能力はあるだろうと、だれもが考える、そういうタイプの人間でした。しかし、その、お誘いを心ならずも断らなければならなかった、苦しさを、福田先生は、理解なさらなかったと思います。

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 むしろ、こういう風に誤解をなさったのではないかしら? あの人は、傲慢にも、一クラスだけを支配する平役員は、もうやりたくないと考えているらしいわ。三役なlら、お引き受けしますけれど・・・・・なんて、内心で、考えているのでしょう。・・・・・とね。

 それがビンビンとわかる私ですが、絶対にお誘いに乗れない、影の事情があった。

 なぜかというと、その問題の日の二か月前に、上の子の担任の、W先生からの、依頼=「次の、四月からは、あなたが、役員になってくださいね」を断っているからだった。

 もし、その日に、福田先生の、御名指しを受けて、福田先生の役員(一種の秘書的な家来である)を、引き受けてしまったら、

 今度はW先生の誤解を招くだろう。「川崎千恵子とは、なんですか? 私の指名を断って、福田さんの指名を引き受けたのですって。福田さんを、私より上の置いたのですか? 金輪際許せないわね」と。そして、一年時に、ターゲットになっていた、津田塾卒のままの、立ち位置が、今度は、私に回ってくるはずだ。そんな怖いこと、絶対に引き受けられない。W先生の憎しみって、母親と、子供の両方に向かうから、ほんとうにこわいものだし・・・・・

 しかも、福田先生が、W先生の実態を、知っていらっしゃるかどうかは、わからなかった。W先生は、自分より強いものに対しては、用心して、丁寧な態度をとるはずだった。特に福田先生には、お子様が二人いる。それだけで、子供のいないW先生は負けたと感じて、下手に出ている筈だった。福田先生がW先生の悪質さを、把握しておられなかったら、私が何をしても無駄だった。だが、W先生の醜い心は、広く知れ渡っていたらしい。それゆえ、次の日に持って行ったお手紙が生きた。

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副題2、『福田先生が、おっしゃった、「私は、国文学を専攻しました」は、先生が、どうして立派な方であるかの、秘密を解くカギだった。それなのに、それが、前報で、書き表せていたかどうかが、不安になって、この章を書いている。もしかすると、私が、自分の筆力を、ほめていただいた、そういう、ぽいんとだけ、これを、読む方に、伝わっているのではないかと、心配している』

 私が書き残した事と言うのは、福田先生が、「私は、国文学科の専攻でした」と、おっしゃったことの意味です。そこに福田先生の全存在がかかっていました。それほど、大切な秘密をさらっと伝えてくださったことに感激をしたのです。

 横浜国大の教員養成課程の専攻は、各種あると思います。で、女性なら、音楽専攻とか、美術専攻が、好まれるコースだと思います。そういう専攻をしていると、二股をかけることができるからです。二股とは、職業を持ちながら、お嫁さん候補にもなれると言う二方向の目的を持つ学科であると言う意味です。福田先生は、何も工夫をしなくても、男性の方から、「付き合ってください」と言われるタイプだと思います。何よりも優しいのです。お顔も、声も、その優しさを見事に表現しています。

 だから、お嫁さんになれるとか、なれないと言う事は、全然心配しないで、済んだのでしょう。で、子供たちにとって、何が大切か?を中心に据えて、考えて、「子供たちが、正しく自分を表現することが大切だ」と、お考えになったのでしょう。で、国文学を専攻なさったのでした。

 今、愛子さまが、学習院の国文学科に進学なさって、そして、卒業後、日本赤十字社にお勤めになることが決まり、国文学科に光が当たっています。しかし、戦後は、あまり、評価が高くなかったのでした。まあ、女性なら、英文学科が人気が高かったでしょう。この学科は、つぶしがきくのです。銀行に勤めるにしても採用される学科であろうし、商社に勤務しても採用される学科だからです。そして、そこで、社内恋愛に入り、エリート社員の、お嫁さんになる。

 そういう流行とか、社会的な評価ではなくて、福田先生は、小学校時代の、子供を導く道具としての、国語を大切だと、お考えだったのでしょう。

 福田先生こそ、自律性のある強い女性だったのです。強いから、やさしくもなれるのでした。男性の中には、妻にするのは、自分より弱い女性がいいなんて、考えている人がいませんか? 違うんですよ。弱い人は、ずるかったり、逃げ腰だったりして、信頼がおけないのです。芯が強いが、態度が、穏やかな人間こそ、信頼できるのでした。

 この章は、あっち、こっちへ、広がる章です。しかし、W先生に強い影響を受けた第四番目の主人公・・・・・自宅を娘に放火されてしまったママへ、筆を移したいので、ここで、終わります。

 雨宮舜(本名、川崎千恵子) 2024-3-14=15にかけて、これを書く。

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(蛇足1)

 私は、結構、人間を見る目はあるのです。で、福田先生が、良い方だとは、瞬時に分かり、そういう方から、「私の助手をしてね」と依頼をされるのは、本当にうれしいことでした。だが、5秒もしないうちに、「断らないといけないのだ」

 

と、感じたわけですが、その時の、苦しい思いを、『それは、100%ディレンマというものだ』と思いました。

 

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