銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

加藤和彦氏の、死の、私なりの分析ー2

2009-10-19 10:35:23 | Weblog
 実は、たった、三時間ほど前にあげた文章で、北山修氏との比較対照が、加藤和彦氏の自殺の引き金になったのではないかと仮定して、石川啄木のある歌を上げています。それが、記憶が不確かでしたので、しかも、歌集を本箱から探すのが厄介だったので(徹夜明けなので余計、だるいのです)、グーグルで検索をすると、石川啄木の、『一握の砂』が、パソコンで読めるのにはびっくりしました。その中で前報、『加藤和彦氏の、死の、1』とぴったり合致する歌があるので、ここで、追記させてくださいませ。

・・・・・実務には役に立たざる うた人(びと)と 我を見る人に
                   金を借りにけり・・・・・
~~~~~~~~~~~

 共同作業による創作品が、大衆的に人気を得た場合に、どちらの貢献が大きかったかは、過去に争われたケースがあります。中里介山の大菩薩峠が新聞に連載されたときに、その大衆的人気は挿絵から来るものか、それとも文章からくるものかが世間をにぎわわせたのでした。挿絵画家であり、後に芸大教授となる石井鶴三と文書の書き手・中里介山の間で起きたことです。今ではグーグルの検索にも載っていませんが、私の父なんかは非常に興味のある話題として(絵が好きで実際に描いていたからこそ、石井鶴三びいきだったのでしょう)、いつも茶の間で語っていました。

 北山修氏は、加藤氏を天才だとおっしゃっていますが、同時に「二人は生活上のライバルであった」ともお書きになっておられます。

 ここで、また、中断をさせてくださいませ。完全徹夜明けなので、石川啄木の短歌を確認するにとどめて、次の3をお待ちいただきたいと思います。1はたった、三時間で更新しましたので、夜これをお開きになる方は、まだ、ご覧になっていないと思います。下にありますので、それもよろしく。2009年10月19日
       雨宮舜(川崎 千恵子)
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加藤和彦氏の、死の、私なりの分析-1

2009-10-19 09:23:47 | Weblog
 今朝、09-10-18の朝日新聞・朝刊に北山修氏の加藤和彦氏の死に関する、追悼の言葉が出ています。それを読まなければよかったと思いながら、昨日から、ずっと寝ないで考えている、加藤和彦(氏)分析をここにアップロードさせてくださいませ。それは、今連載で取り組んでいる大学の質と変化の問題とは別になります。そして、10時間だけアップロードした、プリンストン大学の文章は一回引き上げて、後日改めて、さらしましょう。

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 まず、最初に、『久しぶりに、天才的、生き方に接したなあ』という感慨に打たれています。『日本にも、こういう人もいたのか』という悲嘆とともに、『ある種のうれしさも感じた』と申し上げたいと思います。

 これから、一種の奇想天外な論を展開するとしても、私の尊敬の気持ちには変わりは無く、ただ、人間として、自分たちの生き方の一種の指針となっていただくために、その人生を分析するのをお許しいただきたく。・・・・・

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 奇想天外だというのは、加藤氏の自殺(ほぼ、そのようにみなされている)の引き金になったのは、結構のところで、北山修氏との人生の比較に在るかもしれないと思うからです。

 同じ朝日の、17日の夕刊に載っていた写真によれば、北山氏は顔の骨格がしっかりしていて、やや、スポーツマンタイプであり、若き日の加藤氏は、優しい面立ちです。それが何を意味するかというと、北山氏は、人生の総括的な計算ができる人であり、

 医師となった(これは、医師免許が必要なので、国家試験も受けないといけません)ということは理性の人であることをも証明しています。つまり、はっきり言えば、大きな規模で計算ができる人です。

 ここで、今朝の新聞を読んで残念だったというのは、その北山氏が、加藤氏の自殺を、「すべて計算づくだったと」・・・思う・・・と4行目に書いていることです。

 つまり、私が、<<<加藤氏に比べれば、より計算ができる人である>>>と、これから、書いて行こうと思っていた北山氏が、「加藤は、計算ができる人間だった」といっているわけですから、私の論理が、ちょっと成り立たなくなると思います。が、めげないで書き進めましょう。

 加藤和彦氏は、相当前から、自殺することを考えていたと私は思います。それを、計算というのならそうでしょう。そして、ワイド・ショーの無い、週末を選んだというのもそうでしょう。でも、私が最も重きを置くポイントは、北山氏の文章の、14行目に『人生のライバルだった』という言葉にあります。そうですね。同僚として、出発した若き日の仲間との、差がついてしまった。それに愕然とする日はあると思います。

 石川啄木の、「人がみな、われよりえらく見ゆる日よ、花を買い来て妻としたしむ」という歌があります。みんな身近な人の出世というか、差がつくことには、愕然とする日が来るのです。

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 真に芸術家として生きることは、結婚・生活を難しくします。発想がわいているときには、話しかけられるのもいやなもので、「あっちへ、行け。うるさい」というような発言をしたり、または、発声をしなくても態度に拒否する感じが現れると思います。

 私は、自分が天才でもないし、有名でもないが、56歳でパリに研修滞在をできたときから、『あ、自分は世界に通用する。がんばりたい』と思って当時もっていて、2400万円を軍資金として、アトリエ一人暮らしをはじめたのです。

 家族と一緒に暮らしながら創作をすると、お互いに欲求不満となるのです。で、その間にさらに、ニュ-ヨークへ二回も行くこともできたし、今、このように、毎日一本のエッセイを書く、修練もできたので、それは、それで、無駄ではなかったのですが、人生最後の日までは、その一人暮らしは続けられないと感じて、

 家へ戻った人間で、と、同時に、芸術家で在ることをあきらめた人間なのです。だから、67歳まで行き続けられているわけですが、あの生活を続けていたら、必ず孤独死へいたったでしょう。

 その間の、深い思いと、どうして、家へ帰ることになったかのいきさつは、私の五冊目の本、『黄色いさくらんぼ』に詳しく書いておりますから、ここでは、詳述をしませんが、加藤和彦氏も、自分の将来の姿のひとつとして、孤独氏は想定なさっておられたでしょう。

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 最近、『おくりびと』という映画がヒットして、孤独死をしたあとの、部屋の始末をする場面が、鼻を押さえるという表現で、示されていました。私は、一人暮らしの間に、二回ほど大病をしたのですが、その一回目のときの肺炎のときに、三日間ほど、四六時中、大型(16畳用)ガス・ファンヒーターをつけっぱなしにしたのです。その間に、医者から、「あなたは、このままだと死にますよ」と言われたのがショックで、買ってきたキャベツを冷蔵庫に入れるのを忘れていたのです。すると、キャベツが猛然と、におい始めたのでした。悪臭です。

 びっくりしました。野菜です。たんぱく質が入っていない野菜がこれほど、におうのですから、人間の体が腐ったら、硫黄や燐が入っているので大変な腐臭がすると思い至ってね。しかも、24度ぐらいに温度設定をしていると、たった、三日ほどで、ものは腐り始めるのです。キャベツより、人間の体の方が早く腐ると思いますし。

 強烈な恐怖に教われました。私も絵描きでしたから、おしゃれで、その予想には参りました。だけど、それだけで一人暮らしを止めて、家へ帰ったわけでもなくて、二回目の大病、イタイイタイものを主人が東洋医学で治してくれたので、(ただし、三ヶ月間の間に、50回程度、二日に一回は通いましたが)、『ああ、自分はこの人の軍門に下るべきだ。普通の主婦として生きよう』と、絶対的な覚悟を決めたのです。

 よく、「どうして、絵を描かないの?」と人に聞かれますが、私の場合は、時間を区切って美術の創作・仕事はできません。文章のほうは、エッセイを主に書いているので、『一日に創作は一本、後は、整理とか、校正にあてる』と決めているので、時間が、管理できるのです。つまり、文章には才能が無い。それは、はっきり知っています。

 才能のある分野は、時間も管理できないし、エネルギーも管理できないし、お金も管理できません。それは、直感で動く世界です。

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 加藤和彦氏は、天才だったと思いますので、まったく、計算外の生活を送ってこられたのですが、晩年になって、それでは、若い日と同じ暮らしができないことに気がつかれたのです。それをどうするかですが、次第に弱っていき、衰えていき、最後には、孤独死にいたる将来が予測できたからこそ、そこまで無残になる前に、決着をつけようという、判断があったでしょう。

 もし、未来へ希望があれば、当座をしのげればよいのです。借金があったとか、ウエブ上で報道されていますが、それなら、北山氏に借りに行けばよい、生き抜くつもりなら、人間は恥をしのぶことなど、簡単なことです。

 私が三冊目か、四冊目の本を作ったときですが、あまりにも、忙しく、(それは、パソコンに妨害を受けたので、神経を使いきってしまって)実印まで含む全財産を入れた、ポーチ(化粧袋)をコンビニに忘れてきてしまったのです。

 朝早く五時ごろ、その新しい本への添え状のコピーをとりに行く必要があったのですが、普断使っているお財布を、二階の居間で捜すと、音が響き渡って家族を起こすことになるので、一階の誰もいない客間の引き出しにあった、そのポーチを持って、コピーをとりに行きました。

 そして、コピーを持って帰ることに懸命で、大切な全財産を忘れてしまったのでした。コンビニのほうは、他人のものだから、あけても見ないでおられたので、・・・・・無論、私のほうには知らせが無くて、・・・・・私は二、三日、真っ青になりながらあちこち探しましたが、見つからないので、仕方がなくて、本を郵送するお金だけを、人に借りました。

 家族が、『お母さんは、贅沢でわがままだ』と思っていた時期でしたから、家族に郵便切手代を借りるわけにも行かないし、実印までなくすとカードの再発行なども簡単にはできないのです。

 でも、芸術家の端くれだから大切な創作品である本を、新鮮なうちに、配りたい・・・・・特に実名で美術評論をした本だったので、登場人物には、早く配りたい・・・・・わけです。その切手代三万円が無い。・・・・というわけで、それを知人に借りました。それは、恥でもなんでもないです。

 その次の希望があるので、本当の、当座のしのぎだから、大丈夫なのです。実際に、ポーチが見つかればお金は返せるし、本も次から次へと、五冊目、六冊目を作りましたしね。

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 だけど、明日への希望が無いときには、借金は、知人にはできません。それは直接の恥になるし、また、返す見込みも無いなら、信用を大きく、そぐなうからです。だから、誰も知らない形で折り合いをつけたくて、カードローンなどをしてしまうとします。そうしたら、定期収入の無い芸術家には、命取りです。日本にはサラリーマンが、数の上で多いです。サラリーマンなら、次の月の収入が見込めるから、カードローンが、大丈夫で、したがって、世にそれが蔓延しているけれど、芸術家が、借金をするのは、危ないのです。

 そうなった日に、もし、自分との対照・比較・例として、安定した家庭を営んでいる北山修氏(私は氏の方の実情は知りません。でも、お医者様というのは現代日本でも、数少ない、エリートとしていまだに認められている階層です。安定した立場であり、社会的な尊敬も、見事に受ける立場です)を、思い浮かべたら、惨めさはいや増すでしょう。

 医者に比較すれば、芸術家は、知らない人

(いえ、彼の顔を知らない人間も、今では、多いでしょう)

から見たら、その服装でのみ、階層を分別され、

時には、この前の横須賀線のドアーにはさまれそうになったご老人(10月、6日から8日まで三日間連続してアップロードした話)みたいに、公的な人、(つまり、JRが雇っているガードマン)にさえ、粗末に扱われるのです。

 もし、そんな目に出会ったら、加藤和彦氏みたいに、過去の栄光があり、プライドの高い人には、大きな、ダメージとなったはずです。

 そうなると、ここで、樹門こうさいという人が「姓名判断の本」の中で言った、『私の規定する幸せとは、普通のレベルの財産があり、子供があり、孫がいることです』というのがあたってしまいます。

 天才であることが、何の役にも立たない世界となってしまいます。

 ここで、後ろから主人に呼ばれました。芸術家で生きていくことをあきらめた私には、家族の仕事があります。それが義務でしょうね。私が孤独死しないためには。
 特に、徹夜みたいにして、ものを考えているのは、それなりに家族には迷惑なので、ここで、途中ですが、いったん終わり、後篇をお待ちくださいませ。でも、加藤和彦氏の自殺(?)は、徹夜でものを考えさせるに足る重要なデキゴトでした。

 なお、一回、8時間弱・真夜中に、あげた、プリンストン大学に関する文章は引っ込めまして、別の日に、再度・あげます。2009年10月19日、雨宮舜(川崎 千恵子)
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教育大学から筑波大学へ、(政治と大学)・・・・・後篇

2009-10-17 17:39:20 | Weblog
 さて、問題を有名人の卒業生如何という、小さなフィールドから、『大学そのものの変質』というより大きな問題へ、戻しましょう。

 教育大学は昔は『文科系統にもとても強い』大学でした。しかし、筑波大学へと変化をしてから、大学の知名度は、理学部、もしくは理工学部系統で、有名な大学というニュアンスが強まっています。または、運動学部系統で、有名である。

 これは『つくば学園都市』という地域開発と、同時進行的に、筑波大学の移転が行われたために、余計そう感じるのです。たとえば、現代で言えば、茂木健一郎さんとか、姜尚中氏クラスの有名な教授、または、助(準)教授が現れても、まったくおかしくない雰囲気の大学でした。だけど、今、「私は筑波大学の教授です」とか、「準教授です」と名乗るタレント学者はあまりいません。

 理工学部のスタッフとは、もともと、テレビや新聞にあまり登場されません。研究とは、それこそ、一種の引きこもりに近い生活が必要で、しかも発表の場が、大衆的ではない学会が主だからです。だけど、文科系のスタッフは、著書を通じたりして、一般社会に名前が通りやすく、結果として、タレントとして、テレビや新聞への登場を期待されたりします。

 私は学生アルバイトという意味でも、つくば学園都市では、求人数やら、職場の数で、限定をされると思っていますが、さらに問題を感じるのは教授等のスタッフのほうです。

教授やら、準教授のアルバイト∞∞∞∞∞∞∞∞

(語弊があるが、一般庶民への露出という意味で、ある意味でオピニオンリーダーの役目をすることは、悪いことではないのでしょう。

でないと、茂木さんの多すぎる露出頻度も、抗議や、抵抗を受けないといけなくなります。『あれで、ちゃんと、東大の先生ができるかしら?』と思うほどの、大活躍ですから)

∞∞∞∞∞∞∞∞にもやむをえない制限が加わってしまっていて、それで、登場が少なく、それゆえに、筑波大学の文学部系統の、部門・教授の一般大衆・社会への露出(または、貢献)が、教育大学時代に比べれば、少なくなっていると感じるのです。

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 さて、さて、その結果、移転そのものが、∞∞∞∞∞∞∞∞教育大学のオピニオンリーダー輩出という意味での、活発さと勢い∞∞∞∞∞∞∞∞を抑える目的で行われた∞∞∞∞∞∞∞∞のではないかとさえ、私は推察をするのです。高度な意味での政治的な配慮が裏にあったのではないかと感じるのです。

 しかし、当時の移転賛成者に、それが見えていたかどうかを知りませんし、移転反対運動があったかどうかも知りません。そして、旧キャンパスを訪問したこともないし、新・筑波大学キャンパスを訪問したこともないのです。教育大学も筑波大学も私にとっては、知識の少ない大学です。

 しかし、政治と学問の関係という意味で、教育大学の名称改変と、移転は、非常に大きな問題を提示していると、考える人間が、私です。それはすでに行われきったことだから、どうしようもないと考えるべきかなあ? 

 だけど、同じようなことが、自らが所属している組織に起きたら、どうするかの先例にはなると思うのです。そして、自らがどう考え、どう行動したらよいかの先例には、なると思うのです。09-10-16
                 雨宮 舜(川崎 千恵子)
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教育大学から筑波大学へ(政治と大学)・・・・前篇

2009-10-17 11:09:38 | Weblog
 このブログ内で、最近は、ずっと、大学の名前を挙げております。大学のブランドにこだわっている古いタイプの人間だとみなされているでしょう。しかし、私が申し上げたいことは、人間とか、現代社会の分析であり、たまたま、大学のキャンパスの立地条件により、さまざまな隆盛が見られる現象について語りながら、三分の二以上は、派遣社員のことなどへ、入り、そこを大問題にしたいのが、・・・・・ありていに言った真実です。

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 しかし、ブログという世界は限定があります。グーブログは人気を気にしないでよい世界なので、好きだったのに、このごろ、順位が出てきて、結構よくなってきているので、かえって、書き方に、『こうすれば、読者数としては、増えるな』などという欲目が出てきそうになります。で、人気を気にしないように、身を引き締めているところです。

 自分の独自性を貫く。100%は無理にしても、40%までは、自分独自の方針を貫くことを、自己へ命令をしています。

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 さて、今日の項目、教育大学、の名前を知らない、若い方もあるでしょう。戦前は高等師範学校といい、広島と、東京の二つだけに設立された大学でした。戦後の学制改革で、広島の方は、広島大学の教育学部(?)となって、ずっと長い間、付属高等学校のあるのが特徴です。東京にもあって、付属、高校が茗荷谷と駒場の二つの場所にあります。そして、似た存在として、女高師というのが東京と奈良にあり、東京は御茶ノ水女子大と言う名前になり、高等学校がありますが、奈良女子大の付属高校に関しては、あるかないかを寡聞にして知りません。
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 ところで、教育大学となった後では、戦前の特徴を少し減らして、地味ながら(というのは、東大に比較すればということですが)実力のある人材を輩出するという、相当有名な大学でした。特に文学部系統、(広範囲の総称として使います)が、強い大学だったと記憶しています。マスコミに登場する有名教授も多かったのです。

 調査ではなく、記憶によって書きますが、家永三郎博士、そして、文化人が政治に関与する初めての例としての、美濃部さん・・・・・そして、理学部(または、普通の大学では工学部と総称されたりするところ)には、朝永しん一郎博士がいらっしゃった。

 卒業生は比較的、地味で、マスコミ有名人を輩出し続けているというわけでもありません。早稲田大学とは違います。だけど、昔は、『早稲田より上だよね』という感覚を受けておりました。そして、広く日本の教育界に入り、高等学校の分野で、先生として活躍する人が多いのです。県立、都立、府立高校の校長先生を、ある時期までみると、多数が教育大学の出身者だと思います。

 中には、税金で運営される学園の、規制を嫌って、私立を起こした人もいるはずで、私は・・・・・現在、進学率の上でも野球の上でも神奈川県の名門となっている桐蔭学園は桐の名前を使っていることから、教育大学の卒業生たちが、使命感を持ち、創設した学園ではないかと思っています。徹底した効率主義で、成果主義であることは、真の理想と合致するかどうかは別として、これほどの名門を作り上げる実力者が多いことは真実です。

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 ここで、余談ですが、御茶ノ水女子大の卒業生が、作り上げたのが、桜蔭学園だと思いますが、こちらも、成果主義というか、受験用効率主義を採用されているところがあり、母校の付属高校を上回る東大合格者を出しているでしょう。ただ、これは今日の項目とはまったく離れた話なので、元に戻ります。

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 しいて華やかなる有名人の卒業生を探せば、池田理代子さんです。「ベル薔薇」を創作し、オペラ・アリアを歌い、官僚(私たちの世代では、もっともエリートとみなされる人)と結婚をして、ある種のスター性をお見せになっている人です。クリエーターとして美しいものを提供するが、一方で、ご自身もお姫様である。
 もう一人、私が、気がついた華やかなる卒業生は、ガレリア・グラフィカという銀座の画廊のオーナー栗田女史です。イタリアに強い方で、山本容子を自社に擁することで有名ですが、この方が教育大学の史学科卒、なるほど・・・・・・

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 しかし、今日の文章の真意がそこにあるわけではありません。本当のところは、政治と学問の関係を問いたいのです。教育大学のつくば大学への名称改変と、移転は、非常に大きな問題を提示していると、考える人間が、私です。それについては明日語らせてくださいませ。09-10-16
                 雨宮 舜(川崎 千恵子)
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青山と上智の上昇(バイトと派遣)

2009-10-16 01:57:27 | Weblog
 私は日吉に住んでいたので、青山学院は身近でした。が、それほど、高い評価を与えていなかったのです。日吉に住んでいるからこそ、小学校から大学まであるエスカレーター式の学校という意味で、青山と慶応が似ているので、慶応びいきの感情が勝るのです。ところがその青山学院の勢いが凄いです。

 同じように、その上昇度に驚くのが上智大学です。私は大学の経営者でもどこかの中小企業の社長でもないのですが、一種の参謀的な性格もあって、ある組織の盛衰に関しては、大きな興味を持っています。もちろん、運営マインドが良い事、卒業生に有名人が出た事ほかさまざまな要因があるとは思っています。

 しかし、私はバイトとの関連で、両校の立地条件が良かった事に、その上昇の原因があると考えています。青山学院から渋谷まで、徒歩で、15分以内で行かれます。上智から新宿まで、電車で、15分です。そして、もし、レジ打ちとかウエーターで良いのなら、引く手あまたでしょう。いまどきの大学生は美形です。そして、もし、育ちが良くてしつけがきちんとできているのなら、即戦力として、お店は雇うはずです。

 どんなに両親が経済的に豊かでも、大学生ってバイトをするものです。というのも彼、彼女らは今では、タレントもかくやというほどのお洋服を着ていて、お化粧もばっちりなのです。日吉で、小顔であまりにもかわいい女性たちとエレベーターで乗り合わせたので、念のために「慶応の学生さん?」と質問をするとイエスでした。青山や上智の校門前で観察したことはないけれど、同じことでしょう。流行のスニーカーを買う。ヨットやサーフィンをするお金を稼ぐ・・・・・という形でバイトをするのなら、渋谷や、新宿に近いのは便利です。
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 もちろん、バイトにもいろいろあります。賢い学生は、放送局やら、出版社、または、広告会社で、バイトをして先輩と顔つなぎをしたりします。だけど、本当にしっかりと勉強するつもりだったら、あまり頭を使うバイトをやっている暇はないのです。だから、ウエーター程度の方が、実質的で、楽だとも言えますね。その際、大繁華街に近い両校は有利である。

 もちろん、男子学生が在籍しているかどうかも重要なファクターです。お茶の水女子大は、池袋まで歩きと電車を含めて20分ですが、お茶大の学生がウエーターで、働きまくっている図は想像ができません。東京女子大も新宿まで、30分以内で行かれると思いますが、こちらもカラーが同じです。したがって、急に評価が上昇するという事もなく、昔と同じポジションに存在していると思います。

 だけど、男子学生の含まれている、青山と上智は、受験生が、そこらあたりも、潜在意識の中で、計算して、選んでいるような気がします。これは計量をされえない要素であるから、学者等はまだ、そのポイントで発言をしていません。

 しかし、横浜国立大学やら、教育大学(現在の筑波大学)のカラーや評価が、昔と変わってしまったのを感じる私には、このポイントは大きな要素なのです。では、今日はとても短いですが、ここで、終らせていただきます。

 本当は、派遣について語りたいのです。それこそ、大切で切実な問題で、しかも大学生のバイトと大きな関連があると思います。しかし、そこに踏み込むと、大きくて長い文章になります。だから、大学の人気の上昇いかんというポイントでのみ、今日は、語らせていただきましょう。
             09-10-15  雨宮 舜(川崎千恵子)
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明大・駿河台校舎と、共立・一ツ橋校舎

2009-10-14 22:15:10 | Weblog
 週刊誌では、ときどき、政治家の財政の特集を組みます。鳩山さんが大金持ちだと言うことがよく出ます。昔、薫子夫人という方が、よくテレビに登場なさいました。現在の鳩山首相の祖母君です。

 ご主人が鳩山一郎氏だったのですが、薫子夫人の美しくて、きちんとなさっていること。美智子様(およびその母君)のテレビへの出現以前は、文字通りの意味で日本のトップレディだったでしょう。で、そのころの情報として、鳩山家は、共立学園(当時は、女子大として有名だった。付属高校と中学があった。今は共学だろうか? 詳細を私は知らない)の理事長一家だと言うことでした。

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 これは、ちょっと下品な言い方となりますが、日本のお金持ちのうちで、もっとも安定したお金持ちの、種族でしょう。
 なりあがりものといったら、申し訳ないが、一代で、財を成した家でも、何かをきっかけに傾くということがありますが、学園は、丁寧に誠実に経営していけば、傾くということが無い(失礼な言い方ではありますが、本当のことを言って)ビジネスです。

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 ところで、私は一ツ橋の共立学園の前を、頻繁に通るというような用事が無いのです。で、まったくの、偶然として、しかも、ほぼ、10年ぶり、または、15年ぶりとして、2008年の3月1日、その前を通ったのですが、いつの間にか、大高層ビル化しているので、驚嘆しました。『あらあ、この中で、大学生が学ぶのは、わかるけれど、中学生やら、高校生も学んでいるのかしら?』と、驚き入ってしまったのです。

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 でもね、それを、長らく書かなかったのに、どうして、今日書いてアップロードをするかというと、実は、先週に、カンブリア宮殿というテレビ東京の番組に、モード学園のトップという谷さんという人が登場して、大ターミナルステーション駅のそばに、学園を建設することの意義をいろいろ述べたのです。新宿にコックーン(繭)ビルというのを建設した方です。

 その建設地・選択の理由について、一部ですが、賛成できるところがあり、それを主に、文章を書こうかなと思ったのですが、あまりにも知らない人なので、ちょっと、ウエブサイトで調べたのです。すると、意外に、若い人の中で、教え方について、評判が悪いところがあります。で、今はそちらについては触れないで、もっと以前から設立されている学園であり、

 しかも新宿駅のそばとはいえないものの、便利なところにある、共立学園と、明大を取り上げたいと感じます。

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 明治大学の前も、数年ぶりに通ったのです。私は、神田すずらんどおりの、文房堂は、小学校時代から父によく連れて行ってもらったお店のひとつであり、駿河台一帯は、結構、なじみのある町ですが、最近は、東京駅から丸の内線にのって、淡路町で、降りるコースで行くことが多く、明大の前を通ったことが無かったのです。

 道路から見ると、高層ビルであるかどうかは、わかりません。でも、エントランス部分が豪華極まりないのです。昔のイメージの学園ではありません。ビジネス用のビルとしても、最高ランクでしょう。

 ふっと、そこへ入って、(ただし、自動ドアの外ですが)お弁当を食べている人に、「明大の学生さんですか?」と聞くと、「いいえ、違います」という答えをもらったので、明大が寛容であることを知り、心和みました。『わが校の学生でないものは、あっちへいけ、しっし、しっし』と追い払うような学園では、その将来性が、タカが知れています。でも、それ以上内部へ入ると、セキュリティが厳重で『なんだ。大学というものの、最近のビルだわ』と感じましたけれど・・・・・

 でもね、『都心にある大学は、財政が豊かなのだなあ』と感じます。それについて、『どうの、こうの』と、いろいろ述べたいのですが、それは、明日アップロードをさせてくださいませ。09-10-14 雨宮舜(川崎千恵子)
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竹内浩一先生のユーモア(NHK趣味悠々)

2009-10-13 16:19:27 | Weblog
 今、NHKの趣味悠々で、竹内浩一指導、『動物を描く』と言う番組を放映しています。教育チャンネルで、月曜日の夜10時から・・・・・

 私自身は、こういう類の絵を描こうと思っていないので、習うという意味で見ているのではないのですが、主人がこういう風に描くのを好きなので、楽しんでみています。それを、一緒に見ていると、とても、楽しい番組であることに気がつきました。

 別に笑いが目的の番組ではないんですよ。だけど、楽しいんです。一番笑ったのは、動物園に行ってクロッキーとか、写生をするときに、ダチョウがいた時のことでした。

 そのときに、「だちょう倶楽部がなんとか、かんとか、(*後述)」というやり取りが、生徒の南光さんとの間に交わされたのです。詳細は覚えていませんが、生徒の南光さんより、先生のほうにほんわかとしたユーモアを解するすばらしい能力(?)、・・・・・いえ、センスですね・・・・・が、あることに気がつきました。

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 竹内先生は、大変絵が上手な方です。動物を描く、すばらしい絵で、『ふと、竹内栖鳳の末裔ではないかなあ。京都だし』と思ったりしました。

 ここで、京都だしといっているのは、言葉遣いでそう感じたのです。京都に、住んだことは無いけれど、京都に住んでいる人やら、京都に住んでいた人は、その言葉遣いを変えないからすぐわかるのです。

 その後で調べると、京都市立芸大を、2006年に退官(退任?)なさった方だとわかり、なるほど、京都に関係のあった方だと思いました。

 ところで、京都画壇(特に京都市立芸大関係)の日本画家の係累は錚々たるものです。まず、竹内栖鳳、西村五雲、山口華陽、竹内浩一と、続くのです。

 ただ、それらの間に別の教授が挟まっていた可能性は、ありますが、京都芸大のホーム頁に過去の教授のランが見つからず、ともかく、芸術家の方向から探ると以上のようなことがわかりました。

 そして、竹内栖鳳は、班猫の絵で有名だし、山口華陽さんはきつねの絵で有名です。そういう伝統を踏まえて、ここに、竹内浩一さんが、出現し、さまざまな種類の身近なペットでもない動物(たとえば、象を主題にしたりして)、大きなサイズと格の絵を描いている方です。

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 上のようなすばらしい伝統を踏まえた上での気さくさがあるのです。決して品が悪いというのではないのですよ。非常に品がよく、おわらいの方の南光さんだって、ほとんど、つっこみとか、をいれないのです。ぼけたりしません。

 だけど、番組が、スムーズに進み視聴者としては、気持ちがよいのです。

 悪い例で比較をすると、まず、一番すわり心地が悪かったのは、はながサブ司会者であったころの、新日曜美術館でした。メイン司会者とのコンビネーションが悪くて、見ていて参りました。タレントとは個性が強いものですから、一見すると、静かなメイン司会者を起用していますが、人間は外に現れるものだけではないので、佐藤忠良の『帽子の女』のモデルにさえ、なった、メイン司会者は、『おや、おや、』というまなざしで、『はな』を見ていて、本心では、私は我慢をするだけよ』という気持ちをもっていらっしゃるのが、びんびんこちらに伝わってきて、見るのがつらかったのですよ。

 もう、ひとつあります。この絵画指導の番組では、普通は、生徒さんが三人程度の有名人が参加します。それも、実は番組作りとしてはよくないのです。先生が三人に気を使うという側面が見えてしまいます。こんな文化的な番組なのに、よくある、失敗しているヴァラィエティ番組が内包している、気恥ずかしさと、同じものを、こちらに示唆してしまいます。つまり視聴者の存在を忘れて、身内同士でなめあってなめあう事で終わってしまうというポイントです。それが往々にして見られます。

 しかし、この南光さんと、竹内先生のコンビは、ともかく、弟子の南光さんの絵がうまいです。先生の方が気を使う必要がありません。つまり、むやみやたらに褒める必要が無いのです。視聴者だって、ただ単純にみていれば『南光さんの絵がいいね』と、感じますので、言葉で過剰な付け加えをする必要が無いのです。そこがこの番組の一大利点だと思いますが、生徒が一人だと言う、案を練ったディレクターやら、プロデューサーのセンスのよさも光ります。

この番組は一種のレアーもので、視聴率も低いでしょうが、心慰む優良番組です。
~~~~~~~~~~~

 最後になりました。昔、山口華陽さんのアトリエへカメラが入り、その制作風景(特に大作を制作する場合)を映し出しましたが、あれほど
厳粛な画面を見たことは無いというほど、すごいものでした。

 バックグラウンド・ミュージックも無かったと思いますし、ナレーションも最少限度に抑えられていたと思います。世間と、世代が変わったので、ああいう番組を作っても、見る人がいないと、NHK内部の人は考えているでしょう。

 ですから、アーカイブとしてでも、あれを再放送してくださるとよいですね。日本人の礼儀正しさの最高の見本です。絵を描く際にもかがみこみ、ひざより下にある絵に筆を入れるという肉体的な苦痛など、一切を我慢なさるという姿は神々しいものでした。

(後注1)だちょう倶楽部、三人で登場するお笑いタレントです。私は子供たちがこの家で、テレビを見ていたころに、彼らをよく見かけました。動物園で、本物のだちょうをに対面したときに、ふっと、竹内先生の方だったと思いますが『だちょう倶楽部ではない・・・の、うんうん、の・・・」という言葉がでて、こちらは、上品に笑わせてもらえました。では、2009年10月13日    雨宮 舜(川崎 千恵子)
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三浦皇成騎手の母から、お手紙が来た。

2009-10-12 14:41:00 | Weblog
 私が、09-9-18にこの世界にアップロードした、『ニッポンの少年、三浦皇成騎手』という一文に関して、昨日、お母さんの美智子さんから、コメントという形で、お手紙をいただきました。

 それは、左側にあるカレンダーの前月、18日(薄い青い字になっていて、まるで、記事が無いみたいですが、そちらが記事のある日で)、そこにコメントとして載っていますが、母としての真情があふれている、美しいお手紙なので、ここに、再録をさせていただきます。ペレリマン博士のことはちょっと中断。

~~~~~~~~~~~~~~

 始めまして、余りにも嬉しい内容のブログの記事を見つけコメントさせて頂きます。

どんな新聞の記事を見るより親として涙が出るほど嬉しく読ませて頂きました。

ギャンブルという世界なので心無いヤジを言う方の方が多く、息子が自分はヤジられても仕事なので我慢出来るけど、そのヤジを私には聞かせたく無いから競馬場には来ない様に言われてからは、どんな大きいレースでもこの一年テレビの前で怪我をしない様に手を合わせています。

息子の夢と思い一心でここまできましたが、
毎週末ただただ心配で心配で、なんでこんな危険な騎手にしたんだろうっと後悔の日々でした。

そんな中このブログを見て、騎手という職業を超えて、息子をこんな風に見て下さる方が居る事を知り、
無我夢中で子育てだけを生きがいにしてきた私にとって嬉しくて有り難くて涙が出ました。

いきなり失礼とは思いましたが、お礼を伝えたくコメントをさせて頂きました。
                                 母 美智子

~~~~~~~~~~~~

 このコメントをいただいた文章を、もし、お読みにならなかった方があればいけないと思って、再録をさせていただきたいと感じます。

~~~~~~~~~~~~
 まず、前半部分を簡単にまとめますと、自分が、人生の途上でひたすら我慢をしていた時代があってそのころは、競馬をテレビで見るのが楽しみだったと書いています。1980年代は、オグリキャップや、ヤエノムテキの時代でした。しかし、自分が割と自由に仕事ができるようになって、競馬から離れたのです。

 その間、吉田牧場系列が強くなりすぎて、小説『優駿』の世界も遠ざかりましたし・・・・・景気も悪くなったわけで、一般紙や、一般のニュースとして競馬のことが載ることも少なくなりました。

~~~~~~~~~~~

 さて、次行から、その当時の記事に入っていきます。

 しかし、メルマガやブログの手当てをするために、パソコンは開くわけです。そこで、ウエブ・ニュースと言うのを自然に見る形になります。4種ぐらい見ていますが、その結果、2008年度中に、三浦皇成と言う旗手が大きな話題となっているのを知りました。
 それで、09-1-24日に放映されたNHKトップランナー『三浦皇成』編を、録画をしておいたのです。なんとそれを、本日、9月17日に再生をして見たのですが、彼に対して、相当に感心をしました。

 それを、どうか、本日語らせてくださいませ。今、現在の三浦皇成騎手の成績も知りませんが、普遍性を持った話題として語らせていただきたいのです。

 それには、『彼は、顔立ちからすると、ニッポンの少年の典型である』と言うポイントから入ります。週刊文春はどうしてか、ジャニーズ事務所を目の敵にしています。私はそれについてはどちらにも与しません。が、現在の美形タレントと言うのが、男の子も女の子も、昔の日本人の顔とは、相当違ってきている事は、感じています。彫りが深くて、目がパッチリしています。昔だと女の顔なら、おかめか、般若として、分類をされたのでしょうが、今の言葉で言えば、しょうゆ顔・ソース顔という分類となります。

 三浦皇成騎手は、どちらかといえば、しょうゆ顔の典型ですが、久しぶりに、・・・・・よき時代の、日本の少年に出会った・・・・・・という感覚を得ました。また、たまたま、ですが、映画『トウキョウ・ソナタ』の主演の少年、それから、映画『ブタがいた教室』の中で、重要な発言者となる少年なども、こういう顔立ちの子どもなのです。

 彼は、20年間も破られなかった武豊騎手の新人最多勝記録、69勝をはるかに上回る91勝をあげました。それなのに、それほどの大物とも思えない、あどけない顔をしています。そのギャップが、私の注意を引きました。

**********

 さて、これから、先は三浦皇成騎手の発言とか、生活、および人生(その放映時でも、たった19歳ですが)について、語らせてくださいませ。と言うのも、おせっかいながら申せば、このメルマガの読者は、ほとんどが競馬など無関心であり、三浦皇成騎手の事も知らない方だと思うからです。でも、彼は一流中の一流の人間でした。単に騎手内で一流(と言っても、これから、それを目指す、プロ二年目の騎手ですが)と言うに、とどまらず、他の分野の人間に比べても、一流といえる人間でした。

 こういう人間が現れた社会と言う日本も、相当に、良い社会であると感じました。時々現状について、絶望をしますが、その一人の少年の存在が、気持ちの救いになったのです。

彼は、競馬とは無関係な家庭に育ちました。ただ、一家で、大井競馬場に遊びに行った事を機縁として、5歳にして既に「騎手になりたい」と考えたそうです。それ以降は家庭の協力もあって、将来騎手になるために役立つ、お稽古事(8種類かなあ、またはそれ以上)をやらせてもらったそうです。

 乗馬や剣道(勝負強さとか、勝負勘を養うためであろう)は分かるけれど、生徒会(副会長だった)が、お稽古事の一つとして紹介をされたのには、会場につめている人と一緒に、笑いました。
「JRAの競馬学校(それは、入試が厳しいらしい)への内申書をよくするためでもあった。もちろん、学校を良くしたいという思いもあったのですよ」と、これも会場を笑わせる発言をしましたが、この経験は、大試合で、大観客を相手にしても、平静でいられるスケールを彼に与えたでしょう。度胸をも獲得できたと思います。

 この日(09-1-14)のトップランナーは、人間としてよく生きるための、指針や希望を与えてくれる番組でした。NHKのオンデマンド放送は、過去の全番組に該当するのではないらしいので、それは、残念ですね。皆様にもお勧めをしたい番組でした。

                 09-9-17 それを、10月12日に再び、部分的に、あげる     雨宮 舜(川崎 千恵子)
 
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秋葉原で、ロシアの天才を、語り合う喜び

2009-10-11 14:24:13 | Weblog
 最初にお断り申し上げます。今日はいつもより、10時間程度更新を早くしております。いつも夜お開きになる方は、したが、この文章の前の章です。長いので恐れ入りますが、どうか、よろしくお願いをいたします。

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 実は秋葉原には、推奨すべきよいネットカフェは無いのです。ネットカフェほど、経営者のビジネスマインドによって、レベルの差が激しい商売は無いと思うほど、ブランドによって雰囲気が違うのです。たとえば映画館ですと、今では大体ソファーがきれいになっていて、500席ぐらいなのが普通です。で、映画館という共通語で語れます。ところが、ネットカフェは千差万別で、やはり、経験者の導きが必要です。

 でも、よいものがなくても、ともかく、どういうものかを知らせたいと願いました。というのも、数学者とは、思考をする人間です。思考をする人は、ある程度の段落で、まとまったものを紙に書く必要が生じるのです。もちろん、パソコンでもよいが、B5程度の大きさの紙に、やわらかい鉛筆で、メモ書きをしていくことの自由さは言うに言われません。

 私なんかでも、しょっちゅうメモは落としますし、外でも、そういう場所が欲しいなあと思うほうなので、『彼もそうなのだ、だから、喫茶店の開店閉店の時間を聞いていたのだ』と推察するからです。

 それにネットカフェというのは、外からでは中がわかりません。で、案内を一応したかったのです。純粋に親切心からです。しかし、昔ですと、意外に警戒をされました。アメリカなど、相当オープンマインドの国だと思いますが、アメリカ人だと思う人からも警戒をされました。

 だんだん、わかってきたことは、諸外国では、人をなかなか信じにくい環境もあること。それと、そういう経験から・・・・・人を見ると泥棒と思えでは無いが、いわゆる金儲けの対象のカモとして、利用されるのではないかという・・・・・警戒心が、日本人よりも強いのです。

 だから、その件も必ず、口ぞえをします。今回は、「あなたはお金を払わなくてよいのよ。私が借りますから、

(本当は私こそ、今日だけはネットカフェを使わずに、そのくだんのオープンカフェで仕事をしようと思っていたのです。自分のパソコンを持っていましたので、電源だけ使えればよいからです)、

 あなたはただ、雰囲気と使用方法だけ、見ておけばよいのです」といいました。

 そのときに彼の携帯がちりちりとなり、彼は取り上げましたが、ちょっとタイミングがずれて、応答できませんでした。

 私はすぐ、「誰からなの?」と聞きました。たった、一ヶ月しか滞在していないのに、日本でのケイタイ相手が、すでにできていることに驚いたのです。アメリカとは時差があり、こちらの午後7時は、あちらの朝の五時ですから、絶対にアメリカからではないし。

 「友達です」と彼は答えます。私はすぐ、「それは、he なの, それともshe?」と質問を重ねました。彼の私生活に踏み込むためではなくて、かれが、ネットカフェに対して、どれほどの、心を配れるかを知りたかったからです。

 もし、その携帯の相手が急に恋に落ちた日本人の女の子だったりしたら、その子に心が奪われていて、まったくこの件には、気持ちを割けないだろうと思いました。それなら、こちらは、自分のおせっかいを、すぐ中断しなければなりません。

 「男性です」と彼は答え、さらに、「夕飯を一緒にとる予定なのです」と続けました。

 私はびっくりして、足を止めました。後、五分も歩けばネットカフェに着きますが、そういう約束があるのなら、たとえ、五分であろうが、10分であろうが、かれは、迷惑に感じるでしょうから、ここでは、私の希望は抑えないといけません。

 二人が止まった場所が、ある新築ビルの前で、歩道が広くて、あまり人がおらず、落ち着いている場所でした。で、私は「友達に電話して。私のほうは今日はいいから」といって、彼を促し、自分はしゃがんで、バックパックからメモ用紙をだし、推奨すべきブランドを、三種類選び出し、山手線内なら、どの駅にそれらが、存在をしているかを簡単なメモとしてまとめました。

 それを書き終わったころに、彼の電話も終わっていました。で、それを渡しながら「よいお仕事をしてくださいね。私は数学者を尊敬しているのですよ。特に、ほら、ロシアに天才がいるでしょう」といいました。

 これが、老人性健忘症の悲しさで、名前が出てこないのです。でも、人物像とか、事跡はNHKの特集をしっかり覚えているのですが、・・・・・

 相手が、ちょっと怪訝な戸惑った顔をしたものですから、なんでも、チャネリングを信じる私は、さきほどの山手線内の、Japan Times にあった、物理学賞のことを瞬間的に思い出して、それからの連想で、

 「ほら、フィールズ賞をもらったのに、辞退をした人ですよ」といいました。
つまり、授賞式に出るとか、年金をもらうことをわずらわしいこととして、辞退をした天才なのです。ずっと引きこもっている人です。

 すると相手が「ああ、ペレリマンね」といいました。「そう、そう」と私は答えて、思わず握手用の手を差し出していました。

 秋葉原の路上という予期せぬ場所で、しかも数分前までは、一切を知らなかった相手と、私が崇敬してやまない、しかもある程度以上の悲しみをもって思い出す、ペレリマン博士のことを語ることが、できるなど、夢にも想像していなかったことだからです。その意外性が喜びをもたらし、それを感謝したくて、握手の手を差し出したのでした。

 彼も瞬間的に、右手を差し出しました。たまたま、私は荷物のせいで、左手を差し出しました。だから、実際には握手までいたりませんでした。無理なのです。でも、それが、かえってよかったのです。その人が、非常に控えめなひとなので、ちょっと、手が触れるぐらいが適当でした。

 私はそのささやかな、ささやかな、でも純粋な喜びに満たされて、『あ、もう、今日は帰ろう』と翻意して、駅に向かいました。

 『ああ、今日は本当に数学づいていたなあ』と、同時並行的に、思いながら・・・・・  
2009年10月11日 雨宮舜(川崎 千恵子)
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秋葉原で、数学者(外人)を、助けようとする

2009-10-10 23:06:33 | Weblog
 その喫茶店は、いわゆるメード喫茶というものではありません。オープン・テラスもある、健全なものです。が、スタッフはそのとき一人しかいなくて、かわいいお嬢さんです。メイドのような帽子はかぶっていないが、かわいくて上品です。

 ただし、どうも、そこにいる外人とうまくコミュニケーションが取れていません。秋葉原の電気店にいる男の子は、英語とか、中国語、フランス語、スペイン語、etcができる人が配置されています。しかし、彼女は、長く勤めるわけでもないので、覚悟が足りないのでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~

 その外人を見ると、自信がなさそうなおとなしい人です。私は、この人を助けてあげるべきだと直感をしました。それは、まず、海外でたくさん助けてもらった思い出があるからです。ともかく、お返しをしたいと思っています。

 ここで、挿入ですが、ものすごく自信ありげな外人、というのにもいっぱい出会っています。たとえば、東横線の切符売り場で、大声で独り言を言いながら切符を買っている、恰幅のよい外人がいました。普通なら『変な人』に堕してしまうところですが、彼は小型のテープレコーダーを左手に持っていて、

 フランス語で何かを吹き込んでいます。私はフランス語はしゃべることはできないが、それが、フランス語であることぐらいは単語でわかりますので、『あ、フランス人なのだ。多分、物書きなのだ』と推察しました。

 テレビ関係者なら一人では歩かないでしょう。でも、準備段階のプロデューサーかもしれません。着ているものの質が非常によかったので。
 今、NHKで、海外の都市を、カメラを頭に載せた人が写しながら、日本語の質問を一切、録音しないで、ナレーションで済ます番組がありますが、あれも、先行していく、プロデューサーが下調べを十分にするそうですからね。

 で、そちらは服も上等で自信に満ちている人ですから助けは何も要りません。でも、秋葉原の青年の方は木綿の、パーカーで、寒そうだったし、上品で静か過ぎる青年で、女の子がまばゆ過ぎるのか、質問さえ、はっきりとは、できないほどだったのです。彼の質問は、この喫茶店が朝、何時に始まり、夜何時に終わるかでした。で、それは、応答が終わったのですが、彼は「今は注文をしない」というのです。

~~~~~~~~~~~

 そこで、私は誤解をしてしまいました。つまり、『彼は貧乏なのだ』と。これは彼を軽蔑して言っているわけではなくて、物価が違うのです。日本の物価高についていかれる外人は、日本での仕事上の駐在員です。これは、土地柄に適応した、給料がでるので、大丈夫ですが、母国で稼いで貯金をして、それで、日本で、何かを勉強しようとしている人にとっては、この落差は大変なのです。

 でね、私は彼にネットカフェの利用法と、どういうブランドが安心で、使いやすいかを教えてあげようとしました。

 彼は、まだ、到着して一ヶ月で、しかも三年ほど滞在する予定だそうです。仕事は研究員で、専門は数学とのこと。『これは、お金を倹約しなければならないだろう』と、私はますます、思いました。で、彼にネットカフェというシステムを、教えてあげようと思ったのです。

 彼は、今、秋葉原は、相当調査しぬいたらしくて、隣の駅の「御徒町に住みたい」と、言います。私は、ますます、『まだ、何にも知らないのだ』と心配になります。山手線沿線、は、賃貸料が高いし、御徒町に貸しマンションがあるとも、思えません。それは、上野と銀座の間であり、商業都市中の商業都市ですから・・・・・7万円前後で借りられるアパートなど絶対にないはずなのです。

 彼はアメリカ人とのことですが、アメリカなら、単身者用なら、500ドルが相場らしいですから・・・・・

 ここの読者の皆さんは、ネットカフェなど知らないと思いますが、私は自分のパソコンに変調をきたしたた、2007年からものすごいレベルで、あちこちの、ネットカフェを使い、あらゆることに熟知いたしました。この変調ですが、日々、違うワームが入れられて、しかも、調べぬいたが、ウィルスではありませんでした。

 だから、意図的、故意的なもので、自分でも防衛できますが、防衛や回復に、時間がかかるので、そういうワームが入れられていないパソコンを使うほうが、仕事の能率が上がるからです。

 ネットカフェは、普通の喫茶店より、休息には役立ちます。二時間800円ですが、まったく、自由な姿勢で、誰にも見咎められることなく、個室で、雑誌を読みながら無料のドリンクを飲むわけで、上等なネットカフェに出入りしているのは、ほとんどが、サラリーマンです。昔なら居酒屋で、疲労回復を図ったであろう、若手ビジネスマンが、ここで、疲労回復を、図っているのだと感じています。

 もちろん、安いラヴホテルとして使う若いカップルにも出会います。そういうお店をこの若い数学者に紹介するつもりはありません。品のよいところを紹介するつもりでした。

  ここで、大変申し訳ありませんが、文章が長くなったので、ここで、いったん切らせていただきます。結論まで入れないで、申し訳ございません。続きは明日にアップロードをいたしましょう。ただ、この日、山手線内で、目の前15センチぐらいの近さに貼り付けたジャパンタイムズを、熱心に読んでいるインドの人を見かけたときから、『お、今日は数学に縁があるかも』と思ったのは正しかったもようです。

     2009年10月10日、  雨宮 舜(川崎 千恵子)
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お、今日は、数学漬けだぞ(山手線内から)

2009-10-09 22:22:30 | Weblog
 新橋駅で、山手線に乗ったときのことです。夕方で、ラッシュアワー。それなのに、ガラス窓にぺったりと新聞を張って、熱心に読んでいる人がいます。普通新聞って手に持って読むでしょう。電車の中では、八分の一に小さくたたんで読むのがマナーらしくて、そうしている人も見かけます。そして、ラッシュアワーではいすに座れるか、いすの直前に立つ場合以外は、新聞も本も日本人なら読みません。だから、その人の熱心さは私の目を引きました。しかも英字新聞です。Japan Times。

 『ふむ、ふむ、若い人なのだなあ。熱心に勉強をしている。だけど、ちょっと見せびらかしのタイプかしら。英語が読めることを回りに知らせたいのかしら? それにしても何を読んでいるの?』 と興味を引かれて、内容を見ると、「物理学の賞が、どうしたこうした」という結構まじめなパラグラフで、「おや、おや、見せびらかしではないですね」と納得をして、どんな人が読んでいるのかしらと、興味を、今度は人物に対して、さらに強く、持ちました。それでね、後姿ではなく、ちょっと首をひねって、横顔を見たのです。だって、後姿は黒髪の普通の青年ですから。

 横顔を見ると、そのひとは、なんとインドの人でした。彫りが深くて、黒い肌。正真正銘のインド人でした。

 すぐIT産業に従事している、人材だとわかりました。見せびらかしでもなんでもなくて、彼の専門について、非常に興味のあるニュースを読んでいたのです。そして、今のインド人って、小さいころから、英才教育で、こういう分野の人は、最高のレベルで、訓練を受けているし、まじめなのですよね。

 そうです。物理学って、電気にも関連しているし、したがって、IT産業にも関係していますから。
~~~~~~~~~~~

 さて、その後で、秋葉原に向かいました。私は相当熱心にパソコンを使っている人ですが、本を作り始めると、それを、邪魔するような動きがパソコンに起こります。これはウィルスではありません。面白い形のからかいとして、常に起こります。
 
 つい一週間前も、マイクロソフト社が、「スペルチェックをインストールしますか?」と聞いてきたのです。私の場合は、たいていの場合はNOと答えておいた方が正解なのですが、『その機能は、すでに、入っているはずだけれど、新しいヴァージョンでもできたのかなあ』と思って、珍しくですが、YESと答えてインストールいたしました。

 すると、AOLのメルマガを送ろうとしたら、大変たくさんの赤字(パラグラフ=段落)が出てきます。『こんなに、間違えているかなあ。いつも丁寧に見直しているのに。でも、ありがたい、これで、誤変換が消えるわね』と思ったのです。

 だけど、だけど、これも引っ掛けのからかいでした。よく見ると、『NHKがスペル間違いで正しいのは、NHRです』といった類の命令なのです。つまり、正しいものを誤変換に持ち込む類の、バグ(またはワームと私が呼んでいるもの)でした。

 いつものとおりのからかいと、おちょくりの、お邪魔虫です。もう、慣れっこになっちゃって、ほとんど、引っかかりません。そして、毎日、毎日、こういう戦いをしているので、ものすごくパソコンの技術が上がって、『いわゆるシステムエンジニアーというものが、自分にはできるのではないか』と思うほどの技術力になりました。

 私は、肩書きは、普通の主婦なのですよ。それに、絵描きだし、パソコンを使い始めたのは、2000年からで、57歳のときからです。絵描きは、デザイナーと違って、パソコンを・・・たいていの場合は・・・・嫌います。

 しかも母です。家族は<お母さんがインテリであること>を好みません。

 で、遅く始めて、しかも、最初の7年間ぐらいは、文書を書くだけだったのです。ワープロ機能しか使いませんでした。しかし、今では、相当な仕事をしています。Adobe関連ソフトまで、駆使して、本のデータ作りまで。

 それでね。特別なハードが必要になるときもあるのです。一般的でないものを買いたいときは、秋葉原に買いに行きます。

~~~~~~~~~~~

 で、今日の用事が終わって、時計を見るとまだ、7時半です。『これは、ちょっとどこかによって、先ほどのインド人について、すぐエッセイを書いたほうがよいなあ。どこかで、パソコンを使おう』と考えました。皆様もご存知かもしれませんが、コンセントを利用できる喫茶店があるのです。

 さあ、そこで、なんと、私は数学者(外人)に出会ったのでした。

 その時に納得をしました。・・・・・・お、そうか。・・・・・・さきほど、山手線内で、新橋から秋葉原まで、ドアのガラスにぺったりを新聞を張って、熱心に物理学賞の英語情報を読んでいた、インド人を見かけたときから、・・・・・・なんとなく、・・・・・・『今日は数学づいているぞ、数学が今日の注目ポイントになるだろう』・・・・・・・と感じました。

 その前に、葉山の美術館に行って、自分の専門分野の、版画の展覧会(アンリ・リヴィエールというフランス人で、木版をなしたひと)を見たのですが、それについて、エッセイを書くのではなく、数学について書くことになるだろうとの予感を得たのです。それが秋葉原にて、まさしく、顕現をしました。

 とても、静かな雰囲気の数学者に出会うことによって。
        2009年10月9日 雨宮舜 (川崎 千恵子)

 その人とのエピソードについては、どうか、明日語らせてくださいませ。
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慶喜公のそう孫の、すばらしい・ご老人・生活

2009-10-08 17:35:14 | Weblog
 以下の文の中の二節は、一種の繰り返しであります。それは、申し訳ないのですが、貧乏だからぞんざいな措置を受けていたということはなかなか言いにくいことで、言い足りないところがいっぱい残ってしまいます。

本当にため息が出ることなのですが、芸術とか、学問に殉じると、純粋であればあるほど、お金がもうけられません。ビジネスマンとして、ちゃんとした給料をもらっていて、「休日は、ゴルフをしましょう」というような生活をしていると、洋服も余裕があり、体格にも余裕があり、こういうやせすぎた体格にはならないでしょう。

・・・・・なんとなく、退職後のサラリーマンではないと思われる。芸術とか、学問の修行の果ての、孤独の影がする。となると、私には非常に身近な問題となります。私も痩せている方だし。これから、お洋服は、新しげで、布地の厚いのを着るべきだな・・・・・とか、考え込んじゃいました。

~~~~~~~~~~~

 今、松前澄子先生の『ピカピカな八十歳』(鎌倉春秋社刊)という本を読了したところです。松前先生は、元来は徳川家の一族・・・・・

(ご本人はそれを自らはおっしゃらないし、本の帯にも書いてありませんが、慶喜公のひい孫さんでいらっしゃるのは、知る人ぞ知る話です。短い期間ですがお歌を教えていただいたので、知っています。先生のエッセイ集は三冊、私は、すでに読みました。多分、テレビで、慶喜公がいろいろな、ご一族にとっては、納得のいかない解釈で料理されることをいやなことだと考えていらっしゃって、そのことをおっしゃらないのだと感じています)

・・・・・で、心構えもすばらしいが、非常に恵まれた人生を送っておられて、明るい顔をしておられて、きれいなお洋服を着ておられて、そして、背中も、もちろん曲がっておられず、・・・・・・輝くような特別な存在ですが・・・・・・

 本は、最終章が特にすばらしいものですが、その真ん中あたりに、・・・・・・「77歳ごろに、今までとは、まったく違う種族=老人・・・・・というものに・・・・・入った」ということを自覚しました・・・・・という記述があるのです。

 その東戸塚駅で、倒れたご老人は、老人としての心構えがなかったといえば言えます。私もそうですね。夜遅く外出してはいけないかもしれません。

 ただ、私はまだね、よく人に助けてもらえます。若い人や中年の人にさえ、助けてもらいます。まあ、どこか、弱々しげに見えるが、汚いとか貧相に見える、老人には、まだ、なっていないのでしょう。

 席を譲られると、すぐ単純に座らせていただいて、「ああ、ありがとうございます。私、67歳なので本当にうれしい。座らせていただきます」といいます。そういうと、え、もうそんな年なのと、皆さん、驚きますが・・・・・元巨人二塁の土井さんも私と同じ年ですが、今日訃報が報道されました。

 まあ、老人なら、外出には連れがいたほうがよいのですよね。だけど、大家族主義を捨てた日本では、孤独なご老人は多いでしょう。社会が、人助けをする方向で、全体に心構えを、築いて行きたいものです。今日の若い男性たち、三人(二人は、40代と見えましたが・・・・・)のやさしさはすばらしくて、車掌さんの、無神経な、無反省ぶりは、残念でした。

 私は老人も若者も、優しくて責任感がある人になってほしいと思います。助けた人たちは、満点でした。助けられたご老人は、とても、気の毒な感じがして、・・・・・でも、わが身を振り返る鏡となってくれた人です。その存在とその顕現に感謝します。
               2009年9月26日深夜、これを書く、送るのは、10月7日送る。          雨宮舜(川崎千恵子)
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宮本武蔵か?、田中一村か?

2009-10-07 15:31:19 | Weblog
 昨日の部分には、誤変換が五つぐらい残っていたのをお詫び申し上げます。

~~~~~~~~~~~~~

 さて、貧乏そうに見えるご老人が粗末に扱われていて、しかも最終一本前の東戸塚駅のことですから、私が降りるわけにも行かないのです。どうなるのかと心配のみぎりでしたが、私も鎌倉まで帰らなければならないし、最近電車の遅延が多いので、もし、ここで降りて遅延がおき、最終電車がなくなったりしたら、自分がアウトになりますね。だから、何もできず、ただ、発車する電車内から、心配しつつ、よろよろと右肩をガードマンに引っ張られて、ベンチへ向かうご老人を見送ったわけです。

 でもね、その顔の高貴さが限りが無く、それゆえに、かえって悲しかったのです。あまりに何かの修行に励んでいて、それゆえに、孫とか子供のいない人ではないかと考えたからです。

 彼は酔ってはいませんでした。でも、こういう風に立ちくらみとか、貧血で危ない状態では、本当は一人で出歩いてはいけない人なのです。特に深夜は。もしかしたら、老人ホームに入るべき人なのかもしれません。そのくらいのレベルの体力でしょう。

 でも死までの一人暮らしを望んでいる人です。誇りがひどく高い人です。もしかしたら、結婚をされていたかもしれないが、奥様には先立たれているような気がします。孤独の感じを与えられました。

~~~~~~~~~~~

 私たちは小説で宮本武蔵の生涯を知っています。そして英雄として、尊敬をしていますね。また、手紙の集大成としてのゴッホの生涯を知っています。また、日曜美術館などからゴーギャンの生涯なども学んでいます。

 それから、ノンフィクションの世界で田中一村の事跡などにも触れています。そして、宮本賢治の作品は、今では非常に高く評価をされています。

 しかし、これらの天才と呼ばれる人たちは、すべて、同時代の人には知られずに、この世を去った人なのです。しかも孤独なまま。

 私はふとですが、あの骨がつぶれそうになった、気品に満ちた、でも、孤独の陰のあるやせたご老人は、そういう類の人ではないかと思ったのです。

 非常に大きな仕事をなしている、天才的な人ではないかと・・・・・だけど、実生活上は、偏屈なひとだとか、変わり者だと思われていて、人がまわりに集まりません。だから、華やかさにかけます。そして、お金をもうけるということは一種、人たらしの精神が必要で、それが、無い人にはお金も集まりません。

 普通の人って、大昔の天才には、ほれますが、身近にいる、貧しい人には眉をひそめるものなのです。そして、本当は大金持ちかもしれませんが、孤独な人って、身奇麗にしていられないものなのです。娘とか、妻がいると、「あなた、そんな服を着ていては駄目ですよ」と、注意します。

 だけど、孤独な人は、注意を向けてくれる人がいないので、ついかまわなくなるのです。サラリーマンで一生を終わった人は、蓄財があります。それは、物心両面でいえますので、友達もいますし、生活のパターンが決まっています。

 でも、詩人であるとか、有名になれなかった学者って、人付き合いが少ないものです。そして、集中する能力が、内に向かう心を生むので「偏屈だ」と他人に思われやすいでしょう。

 なんだか、すごく気の毒でした。その場面を見たときに、ふと昔読んだ、樹門こうさいというひとの、姓名判断書のなかに、あった、『私が規定する幸せとは、普通のレベルのお金があり、子供も、孫もいる事を指します』というのを、目の当たりにしたような気がしました。

 私はそれを読んだときには、「えっ」と思ってつまらない解釈だなあ・・・・・とさえ思ったものです。でも、実際には、年をとるということはハンディを背負うことなので、誰かに助けてもらうことが必要になります。

 だけど、人生で、心とか、頭脳の働きを優先したいと考える人も当然いて、そういう人は、現実の社会生活としては弱いのです。

 私はそのご老人を心から尊敬しているし、(それは、援助を乞おうとしなかった潔さがすばらしいし、あの顔の気品のレベルは、普通の生活では生まれないものだからです)、深い同情も寄せていますが、ガードマンに大切にされていなかったのも事実なのです。他人(ひと)事ながら本当に悲しかったですよ。

 でも、それだからこそ、瞬間的に気がついて、そのご老人を、助けようとした三人の男性のすばらしさもにも、感応をしたのです。『人間って、捨てたものでもないなあ』と思いましたよ。すばらしい人間性を持っている人も、この世にはまだまだいるのです。そこに救いがありました。では、

     2009年、10月7日。   雨宮舜(川崎 千恵子)
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貧しい病(老)人を、ぞんざいに扱うガードマン

2009-10-06 15:54:03 | Weblog
 昨日のブログの冒頭で、これから、暗い話をします。といっています。昨日内では暗い話まで到達していません。

 私はね。いささか、躊躇もしています。このブログは結構ヒット数も多いのです。ブログとしての人気を上げるのなら、明るい話、とくに有名人の話とか、猫の話とか、海外の話をするのが好ましいでしょう。

 だけど、私が文章を書く、本当の目的は、自らの気づきを、他者と共有したいと言うところにあります。『ここが変だぞ』と思ったり、『これは美しい現象だ』と思うことについて、お話をする。それを、気に入ってくださった方は次回も覗いてくださるでしょう。

 そういう目的のもとに書いています。

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 さて、前回では、東戸塚駅、の最終に近い電車から降りたご老人が、ホームに足をかけたとたんに、後ろ向きにひっくり返ってしまって(つまり、強度の貧血による、これまた、強度の立ちくらみを起こした・・・・・というわけらしいのです)

 上半身が電車の中に残っているのに、ドアーが閉まろうとして、(私は座るために後ろのほうに座っていますので、絶対に車掌に見えたはずなのに、ドアーがなかなか、開かず、したがって)、ご老人の骨はクラッシュしそうだったのですが、三人の健康そうな男性が、必死で助けたので、ご老人は助かったのです。

 彼はドアそばの、階段の手すりにつかまって、背中を丸めながら、必死でなにかに耐えるように、自分の体力やら、気力が回復するのを待っていました。何もしゃべらず、ただ、一人必死で・・・・・・

 本当に数十秒たった後だと思いますが、やっと、前方から三人の制服のガードマンがやってきて、彼を介抱しようとしますが、その手つきとか、態度に、まったく誠意が感じられず、JR東日本のガードマン教育がおかしいと感じました。

 だってね。今の日本は老人大国ですから、こういうケースは頻繁に起きると思います。それに対して、十分な教育が行われていないと感じました。車掌がドアーをなかなか、開けなかったことひとつにも現れています。

 前報で、いったように、東横線の車掌、生方某に非常に残酷なことをされた私は、彼はどういう人間なのだろうと、急行の渋谷駅から、菊名駅までずっと、観察を続けましたが、ドアが半ドアになったら、絶対に車掌室には、知らせが届くはずなのです。

 今は車掌向けの計器類もあって、異常はそこに表出するはずなのです。だから、すぐドアーを開けないといけないのです。それは本当にいけないことでした。しかも車掌は照れ隠しかな? 発車後の放送でうそをついたわけです。ホームに、機械的、または、物理的な異常など、まったくありませんでした。人間一人が、彼の怠慢によって、殺人事件に会うところだったのです。

 それは、異常、という言葉では、表してはいけない範疇のデキゴトです。

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 しかも、駆けつけたガードマンが、不親切ですね。どうしてか、二人が消えてしまって、(それは、救急車を呼ぶために、事務所に出かけたのかもしれませんが、それぐらい、一人でできますよね。後、二人残って介抱すればよいのに、一人しか残らないで)、しかもその一人は何にもしてあげないで、ただ、腕を引っ張って、ベンチの方へいざなっていました。

 もし、二人のガードマンは、ただ、電車のために、部署に戻り、ひとりのガードマンが付き添って、ベンチでそのご老人を休息させるだけだったら、これは本当に対処が悪いと感じました。

 もちろん、何が本当かは、電車が発車してしまったので、わかりません。
ただね、昔、エレベーターやら、エスカレーターがなかった時代の鎌倉駅で車いすに乗った太った老女を駅員三人がかりで、大名行列のように、大切にして、持ち上げていた現場をしっかりと覚えている、私にとって、今回の御老人の方が助けをより必要としている人だと感じましたので、

 ガードマンたちのそっけなさには、驚いたのです。

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ご老人は、非常に知的なよい顔をした人で、我慢強く、ただ、ひたすら、手すりにつかまって、人の援助を乞おうとしない人でした。顔はすごく立派です。音楽ばたなら吉田秀和氏に似ているし、美術ばたなら渡辺豊重さんに似ています。渋みのある知的な顔。こういう顔には、早々出会えません。特に最近では出会えません。

 デモね、もっとはっきりいいましょう。そのご老人は、貧乏そうに見えたのです。

 非常にやせておられて洋服がたぷたぷしていて、中の骨が、外にも感じられるほどです。しかも背中がすこし、曲がっておられます。別に拒食症というわけではなくて、もしかするとガンがすでに体内にある人なのかもしれません。

 決してホームレスとか、そういう人ではないのですよ。ものすごく品はよい人です。ただ、ちょっと暗い感じがあるのです。もちろん、気分が悪いせいでしょうが・・・・・

 吉田秀和氏も、渡辺豊重さんもやせておられますが、背中が曲がっていません。そして、どことなく、主役オーラがあるので、惨めに見えません。今日の現場のご老人は、気骨のある人らしくて、しかも品がいいので、ガードマンたちに、に、ジョークを言いながら甘えるなどという感じではないのです。がさつな庶民性を持っていない。

 孤高の影というか、不幸そうな影が見えて、それゆえに、ガードマンや車掌さんが、馬鹿にしたのではないかと感じるのです。

 比較すると、車椅子の鎌倉の老女性は、お付きの人もいて、太っていて金持ちそうでした。下にもおかぬ手当てを受けていると感じて、・・・・・かえっていやみだなあ。感謝の気持ちひとつ現れていないもの、顔に。・・・・・と、私はその日、メルマガに書いたほどなのです。

 しかし、今日は夜です。しかもご老人には付き添いがいない。そして、決してホームレスというわけではないのですが、やせているために洋服がよれよれに見えるのです。私はさまざまに感じるものがあり、考え込みました。

 ここから先はまた、明日続くとさせてくださいませ。
     2009年10月6日    雨宮舜(川崎 千恵子)
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骨がドアでつぶれそうだったご老人と、助けた若者たち

2009-10-05 15:13:20 | Weblog
今日のお話の持って行き方はちょっと暗いかなあ。だけど、助けた勇気ある男性たち三人には、励まされました。そちらの存在はめっぽう明るかったのですよ。ただ、申し訳ありませんが、またまた、考え込んでしまって、長くなっているので、お疲れ気味の方は、これは抜かしてくださいませ。
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 本日の土曜日(これを書いたのは、26日)はさすがに、終電近くはすいています。今は土曜日が休みの会社が多いのでしょう。

 東戸塚駅に近づいて、ドアが閉まろうとしたときに、さっと異常な気配が車内に漂って、数人の男性が血相を変えて、ドアそばにより、ドアを押さえて閉まらないようにしています。私はそのドアが、自分側なので、一番近いドアなのに、かえって見えないので、ちょっと立ってみました。

 するとドアそばに、非常に顔色の悪い男性(ご老人)がしゃがみこんでいるのです。上半身が異常に小さい。これはあとでわかったのですが、下半身がすでに車外に出ていて、急に倒れたので、ドアに腰あたりが、挟まれていたのでした。

 だから、三人の男性が血相を変えて床にケータイを落としたまま、ドアそばに近寄り、ドアを押さえていたのです。

 助けるほうの男性の一人が、降りて歩いている人々に向かって、「非常ベルを押してください」と、叫びました。その叫んだ人はあとで、職業がガードマンだとわかるので、彼は本職として、どうしたら一番よいかがわかったわけです。

 で、抑えている方の人ではなくて、ホームを歩いている人が、非常ベルを押しました。でも、車掌さんは、ドアを開けないのです。二人の人がドアーを抑えて、一人の人が、ご老人を外に押し出したのかな。そうしたら、もう不必要なのに、やっとドアーが開きました。

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 これは、車掌さんが悪いです。だって、その車両は後ろのほうであり、車掌さんから十分に目視できる距離でした。私は最近、東横線の生方某氏と言う車掌さんにひどい残酷なことをされたので、その後で、ずっと彼の仕事を見ていましたが、ドアの窓越し、または、ドアを開けて、発車前の車掌というものは、ずっとホームの前の方を注目しているものなのです。

 だから、足が外へ出ているのは、見えたはずなのです。それなのに、ドアーを開けなかったのは車掌の不注意でしょう。

 横浜駅23時36分発の横須賀線です。東横線は発車前に、車掌と、運転手の名前を発表しますが、横須賀線はそれがないので、個人名は特定できませんが、その車掌さんは、職務とその本分がわかっていない人です。責任能力が低い人物です。

 しかも四分遅れで発車したあとで、「ただいま、ホームに不整備があり、四分電車が遅れました」とだけいったのです。これではお客さんは不安になってしまいます。戸塚駅で東海道線と連絡ができるかどうかがわかりません。

 ほかの車掌さんですが、「連絡ができるとか、できない」とか、ちゃんと教えてくれるものです。そうじゃないとサービスが悪すぎます。実際には、車掌とか、運転手同士の連絡か、または自動運行装置からの把握で、戸塚駅で、東海道線は待ってくれていました。だから、簡単にでも、「乗り継ぎは、大丈夫です」といってくれなくては駄目です。

 それに現場を見ていた私にしてみれば、ホームの不整備なんかではありません。危うく、人間一人が、腰付近を、自動ドアに、クラッシュされてしまって、ホームも車内も凄惨な血の海になったかもしれないのです。それは六本木ヒルズの、例の回転ドア事件と同じことになり、本当に大変なことになったでしょう。

 いまでは、そのご老人が助かったから、よいものの、車掌さんは事態を正しく、「今、ご気分の悪い方が出ましたので、電車は遅れます」といったほうがよいでしょう。そのほうがみんなが納得をするし、安心をします。

 それにそういう言い方はほかの電車内で、過去に聞いたことがあります。

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 でもね、もうひとつ、印象に残ったことがあります。それは駆けつけた青い制服の三人のガードマンたちが、そのご老人をぞんざいに扱っているように見えたことです。どうして、ぞんざいに扱うのか、これは、本当に疑問です。この項目続きます。
   2009念10月5日 雨宮 舜 (川崎 千恵子)
 
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