銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

白皙の人、湊宏(そのお葬式)

2009-05-31 16:04:38 | Weblog
 私が『特に不思議だと思っている』または、『これは、真実だと内々に感じている』ことは、人と人は、別に上位の人間のみが、影響を与えるわけではないという事です。下位の人間もまた、上位の人間に影響を与えるのだという事です。今、どうしてか、湊先生の本が見当たらず、正式な年表をあげることが出来ませんが、

 先生は1968年に、35才のときに、母校をお去りになり、都立大学へ転職をなさいました。その件で、「あなたが原因でしょう」と誰かから、いわれたことはありません。むしろ、あんな事があったのに、仲良しでした。卒業時には先生から、「人生にはロングスパンで計画を立てる事が必要です。五年、十年と言う風に決めて、計画を立てなさい」と言う言葉を、デスクの傍で、他の誰も一緒ではない形で、いただきました。だけど、今思うと先生はまだ、そのときに32才でいらっしゃいました。

 信じられないくらいの若さです。そして、私の方は、卒業後、都立大学へ(?)、二回ほど電話を掛けていますが、居留守を使われたことは無く、先生は結婚式に大変上等なスピーチさえくださったのです。そのときに先生が35才でした。

 でも、私は心の中で、『もしかしたら、先生の転職は私に関係がある。申し訳ないなあ』と考えていました。すべて時効だから申し上げますが、推薦してくださった先生と、湊先生との間には、隠された緊張関係があったのです。

 そちらは物理化学の専門家で、湊先生は有機化学の専門家です。あらゆる分野にシゴトの難易度と言うのがあって、物理化学の方が、有機化学より頭を使うとみなされています。理論の方が現場の作業より難しいとみなされています。ですから物理化学の先生は、ご自分が、頭をより多く使う、難しいことをやっているのだという信念と誇りがあったと感じます。

 しかし、社会の上での成功と言う意味では、繰り返しますが、湊先生は大成功者でした。企業や、文部省からの助成金も多く出ていたと思いますし、著訳書も多かったのです。エネルギッシュで、寮の指導者もなさっていたし、あらゆる意味で存在感の大きな方でした。

 だから、物理化学の先生の方が圧迫感を受けておられたと思います。そういうものを消化する作業としての、両者合意の上での、私の助手就任の予定でした。しかし、予定が狂ってしまいました。そして、二人の先生の間には、それ以前より、もっと大きな緊張関係が生まれたのではないかと、私は考えています。

 大学教授なんて、元々、とても誇りが高い、しかも個性の強い人が就業する職種です。で、お互いの緊張関係がありがちな職業ですが、同じ科に大勢の教授がいれば、その緊張関係は薄まります。でも、国際基督教大学は、規模が小さいです。だから、肌合いがあわない人が近所で仕事を一緒にやることの緊張感が、より強まります。

 湊先生は仕事に関しては、エネルギッシュで怖い方ですが、『人間関係にあれこれ、エネルギーを割くなどもったいない』とお考えだったであろう、さっぱりした性格の方でした。これは理工系のシゴト師として、成功するためにも重要なファクターです。しかもスターだから、引く手あまたです。

 だから、さっと転職をなさってしまいました。この事ですが、私は、先生が既に、国際基督教大学のごく近所に家を建てていらっしゃったので、人生の予定外のことだと感じて、非常に、申し訳ないと思いました。その上、スター教授を母校から去らせてしまったことにも、責任を感じました。また先生の転職当時、助手をしていた人たちにも申し訳ないと感じました。

 ただ、それはそれとして、私自身は湊先生の生き方に大きな影響を受け、人間関係がごたごたすると、どんなに損でも、『その場からさっと身を引く』という形を取るようになったのです。場所にしがみつくことは無いのです。仕事(内容)には結構しがみついてもね。それが公募団体展を去った理由でもあります。

 これは日本では実は損な形です。
 ともかく、私は秘かに今でも、先生の転職は自分にも原因があったと考えていて、申し訳ないと、身を縮めているのです。ただ、主人はこれを読めば笑うと思います。「お前はそれほど、大物ではない。すべての事を自分に引き寄せるな」と。

 湊先生は思いがけない早い時期、すなわち、47歳のときに事故(お嬢様のバドミントンの羽を取ろうとして、脚立が倒れた)で亡くなりました。あまりにも突然で(いや、病院で寝たきりの日数もあったことはあったのですが)自殺ではないかと考えた人もあったのです。それは、湊先生ががんばりぬくかただから、急に枝が折れたような状態になったかもしれないと考えたからです。私もその一人ですが、・・・・・正真正銘の事故です。

 でもね。いろいろな意味で心にかかるので、お葬式に行きました。立派なもので参列者も二千人近くと多かったのに、どうしてか、スピーチがどれもよくないのです。私はICUチャペルの左側一般席の三列目に座っていましたが、「マイクをください。私にも一言しゃべらせてください」と言うのを抑えるのに、必死でした。関係者は私が助手・就任を断った事を知っているので、まさか、私がそれほど、心の中で敬愛しているなどと夢にも思っていないでしょうから、それを申し出でても無理だと納得をしていましたし。

 だけど、どうして、こんなに、形ばかり立派で、内容の伴わないスピーチが捧げられたのだろうと不思議で、それは、考え込みました。そこで、分かったことは、湊先生は先取りする形で、極端にアメリカナイズをされており、それが、一般人に受け入れられなかったということだったのでしょう。

 成果主義でした。とことんに、働く方でした。でも、それは周りの人には一種の迷惑でもありました。あおる形になるからです。そのひとの怠け者振りを、責め立てられる形になるからです。

 だから、極言すれば・・・・・嫌われてもいらっしゃった。それで、そんなに、心の伴わないスピーチが連続したのです。

 でもね。湊先生も時代の申し子でした。少年期には、軍国少年で、それは最後の日まで姿勢のよさに現れていました。戦後、方向転換をされて、化学の道に進まれて、日本が右肩上がりの経済成長を遂げる、その礎を築かれました。そういう形で戦死した先輩たちと同じく、滅私・奉公をされたのです。
 
 そして、私に人生のメンターの一人として、行動パターンにおいて大きな影響をもたらされました。私が体の弱さを乗り越えて、あらゆる意味でがんばりぬき、「躁病ではないの?」と大勢の人から言われてしまうような生き方をしているのは、湊先生の影響です。

 私も「どこか、日本人離れをしている」をしていると、よく言われていたのですが、先生と早めに別れたからこそ、そして、その別れが切なかったからこそ

(そうです。実験の結果がまともだったら、先生の助手をやっていたでしょうから)

 先生の印象が、自分の中に深く残っていて、先生の生き様そっくりに、生きているのです。

 分野は違う世界であるものの、生きる手法はそっくりなのです。そして、私も、一種の嫌われ者である・・・・・点・・・・・もそっくりです。陰口をまわされているのも知っています。が、それに、対抗措置をとらない、だから、仕事上の効率は悪くなる面もある。それも、そっくりです。

 ここ、数日、中央大学・教授・殺害犯・逮捕の報道に接して、突然湊先生との関係が思い出さされ、数編のエッセイが書けてしまいました。今日のが、最後です。ただ、これを書くに当たって、グーグルも検索をしましたが、湊先生は著書の形でしか、事跡が残っておらず、しかも、その著書類はすべて入手困難でした。

 これは、化学者としては仕方がない事です。常に新しい業績が前を覆うからです。そして物理学関係と違って、理論でもないので、『ここまでは、湊先生の業績である』と言うような、庶民がわかりやすいような、単純にして明快な一線も、引けないからです。ニュートンや、アインシュタインとは、違うからです。

 でも、私自身は、この数本の拙文によって、湊先生と天国でお会いできる準備が出来ました。もし、天国の中の小道で出会えば、正面から「こんにちは、先生は、お元気でしたか」と大きな声でいえると思います。    

2009年5月29日    雨宮 舜
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逆境からの復活、私の就職活動

2009-05-30 15:27:36 | Weblog
 私の学んだ母校は、特別に英語教育が盛んで、その結果、他の教科が押せ押せになってしまうので、留年した人は多いのですが、私の場合は、最初社会科学科(他大学では、法学部とか経済学部と呼ばれているところ)に入学したくせに、自然科学科(他大学では、理工学部とか、工学部とよばれているところ)へ途中で転科したので、さらにきついことになっていました。

 でも、ここで、脇にそれますが、日本の場合は、大学はシャングリラ(桃源郷)の一つですから、そこで、静かな生活を送るためには、自然科学科で勉強した方が、当時(学生運動・華やかなりしころ)には良い選択の一つだったのです。もし政治学などを学んだら、私の性格から言って、当然のごとく、運動に首を突っ込むことになり、今ではとっくに死んでいるでしょう。

 そして、後年でも、原発の問題を考えるときなど、半減期などに関する基本的な知識(最外郭のイオンがどう動くのか等)が役に立ちますので、明瞭に問題点が見えますから、それも良い部分です。それが人生の仕事として向いていない事がわかった今でも、『あの時代の勉強は、無駄ではなかった』と考えます。

 でね、卒業が四年以内では、無理だと思っていました。だから、当時の最適な就職活動時期に何も動かなかったのです。どういう未来を思い描いていたかと言うと、記憶は定かではないのですが、ともかく、一種のあまちゃんと言っても良い人間だったと思います。一年のときのクラスに他大学から転入してきた年上の人がいて、クラス雑誌を発行して「自立と言う言葉の、意味さえ判っていない人がいる」と文句を言っていましたが、それは、私の事を指していたのかもしれません。今では苦笑をしながらそれを思い出しますが・・・・・
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 でもね、四年生の秋に、すさまじい事が二つあって、すっかり考えが変りました。その一つはあの出来ない実験に苦労をした事。特に床を這いずり回ることで、後で、実家近辺の日吉に引っ越してきた化学科卒のひとなどにも、相当なレベルで、馬鹿にされましたので、あれは、本当にきつい体験だったのです。

 もう一つは痴漢に襲われて、命さえ狙われた事です。後ろから襲われたのですが、その首の絞め方は半端では無かったです。今では痴漢ではなかったかもしれないとさえ思っています。一種の暗殺だったかも? ともかく不思議な体験でしたが、命を狙われたということは確かです。それも偶然に救われましたので、自分には神様がついていると信じるようになったのですが、・・・・・

 しかし、世の中とは危険な事が一杯であり、予想外の出来事に出くわす可能性さえあるとは、気がつきました。それゆえに、ぼんやりした時間を送ってはいけないと、思い始めました。特に『身体髪膚これ親にうく』と言うことにも気がついて、せっかく生まれてきたのだから、自分を大切にして、生きぬかなければならないと考えました。

 だから、留年は止めようと考えました。特に入学以前に、浪人していますので、時間は大切でした。その頃の女性は、結婚の適齢期が25歳であるといわれていて、私は、自分を充分に知っていましたので、『変わり者の一人だけれど、一生を独身ではやっていけないだろう』と考えていたので、社会人としての経験を積むためにも、早く大学を出る必要はあったのです。

 でもね、春に就活をしていないわけですから、行き先のあてがありません。そんな時期に、化学科の別の教授が推薦してくださって、湊先生の助手になると言う事が決まったのですから、これは神の恩寵の一つです。それなのに、断ってしまったわけです。その行為の影に、あの痴漢・事件の影響はあったでしょう。自分は湊先生に比べれば人間として、一万分の一ぐらいの力しかないわけですが、お断りをしたという行為では対等です。急にそれほど、力強くなったのは、『命を失うかもしれない』と、いったんは思った事が大きいのです。
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 さて、時は、晩秋です。で、仕方がないので親戚を頼って、商社に就職できないかと思いました。父が一緒に面接に行ってくれたのですが、「何分にも時期として遅すぎる。私の力をもってしても、特別待遇はできません。しかも、希望が中国貿易ですか。駄目ですよ。・・・・・あの国は、普通に育ったお嬢さんの、手に負える国ではない」といわれました。

 紅衛兵が跳梁跋扈していた時代で、道路でも、突然の吊るし上げが起きていた時代ですから、日本人としては普通のおしゃれだって、通用しなかったと思います。贅沢な反革命分子として、拉致されて、下放をされて、死んでしまったはずです。商社にはすでに、正しい情報が入っていた模様です。新聞等では、毛沢東の誤謬は、まだ全く報道をされていませんでしたが。

 そういうわけで、行き先がありません。で、ぼんやりと大学のアルバイト向けの掲示板を眺めていたら、「東大で助手を求めている」というのが見つかり、あまり期待をしないで出かけました。そして、すぐ採用が決まりました。理由は臨時雇いだったからです。雇う方に責任が無い方式の就職口でした。でも、私には行き先が無いわけですから、それでも、御の字で受け入れました。

 さて、実際に仕事に入ってみると、教授は別のお嬢様をえこひいきなさるし、翻って自分には結構、能力があると言うことも、ほかの人と比較すると分かってきたので、『今の自分は、残念な立場に置かれているなあ』と思いました。それで、秘かに転職さえ企てました。もちろん秘密裡です。しかし、転職に失敗しました。出版社を狙いましたが、小さいけれど内容的に、良い会社だったので、新卒で、しかも成績優秀でないと無理だったのです。だから、覚悟を決めて、東大の臨時雇いの仕事に取り組みました。

 こういう内実を今日、明らかにするのは、あの例の教授殺しの犯人が、あまりにも安易だから比較をするためです。私は辞めないで、次の職場を探しました。そして、『転職できないのなら、覚悟を決めて、今の職場でがんばろう』と考えました。彼の方は、外車(ベンツかな?)で、母親が学校へ送り迎えをしていたらしくて、働くということにしっかりとした覚悟が無かったのでしょう。金持ちであると言うことは、時に、大きなマイナスを生みます。こんな殺人事件まで起こしてしまったら、取り返しがつかないでしょう。

 また、私自身に返ります。海外からのお客様との対応などにも一生懸命でしたし、翻訳等も通り一遍でのシゴトではなくて、誠意を尽くしました。一種の会議を開いてもらい、検討を、実験者、教授、私の三者で、終始やりました。その過程で、教授に『すごく、頭が良い』と認めていただいたのです。その教科の専門を勉強していないのに、正しく中身を理解していると言うことで、認められ始め、公務員として、正式な定員内・採用を推薦され、学部で決定していただけました。特に、事務職ではなく、教務員・職として採用されました。だから、将来教授にさえなれる可能性が出てきたのです。
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 今、思うと、母校の関係者には誤解を与えたかもしれません。つまり、私が母校・国際基督教大学を蹴って、より長い伝統があり、名前の大きな東大の方を選んだとの。・・・・・それは、全く違います。外部に出す言葉は湊先生をかばって、化学が向いていなかったとか、よく言っていますが、もし、卒業・実験の課題が適切であり、終点の可能性が確かなものだったら、進路は全く異なっていたかもしれないのです。がんばりやだから、湊先生とのコンビで、最終的には猿橋賞(?)を狙うぐらい(?)がんばったかもしれないのです。

 だけど、運命は不思議です。そして、東大では、英語を使う役割だから、それは、私には出来る仕事であり、時間を掛ければ終点が見えるシゴトでした。それゆえ、がんばる事ができたのです。そこがシャングリラだったわけではありません。
 
 四十歳代のポスドク(博士号をとった後の助手職)の男性たちの苦悩も傍見したし、自分だって結婚をしなければ、職場の花みたいな弱い立場だから、次の教授に疎まれれば、勤め続けられないわけです。暗く考えれば、悲惨な職場でした。ただ、『努力をして、最善を尽くせば、道が開ける』という事が、そこでわかったわけです。すべては偶然から発しました。

 人生において、「最悪だな」と思う境地に立たされたことは、何度もありますが、それなりに乗り切ることができたのは、偶然とはいえ、人生の最初の就職が、困難な立ち位置から始まったのが、原因かもしれません。諦めることはないのです。生きている限り、希望は残っている。
   2009年5月29日                雨宮 舜
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墓にまで持っていく秘密(化学反応の、ありえる限界)

2009-05-29 11:06:46 | Weblog
 もしかして、二回前の、『ポスドクとアカハラ』というのを、アップの時間を間違えて、皆様にはお読みいただけなかったかもしれません。もし、そうであると、今回のものは、その続きとなりますので、二回前の、部分を再度ご検討をいただけますと助かります。ただ両方とも大変長くて恐れ入ります。ブログの世界は、こういうことを書くべきではないのかもしれませんが、AOLの閉鎖されているメルマガで、ずっと、こういう調子でやってきたので、つい、地が出てしまい、恐れ入ります。

 実はどうして、湊先生との約束を破ったかをお話をさせて頂きたいのです。一見すると驚天動地の失礼な事をしたように感じられるし、先報では、歯にものが挟まったように、書いたので、私がとんでもない、あまい、わがままな人間であるかのごとき、印象を皆様に与えたでしょう。しかし、中央大学教授殺しで、始まったこの文章です。最後に、本当の事まで、とことん申し上げさせてください。私ももうスグ天国(?)で湊先生にお会いするからです。

 学者と言うものは、新しいテーマに取り組まなければなりません。この地球上で、今まで存在をしていない物質を合成で作り出す、・・・・・それが化学者たる湊先生の望みでした。だから、先生の方に問題はありません。

 ただ、先生が命令なさった課題が不可能なことだったのです。終点が無い、つまり、どんなに時間を掛けても、そして、誰がやっても失敗する実験だったのです。それが問題の本質でした。

 今あれから、45年間経っていますが、だれも、先生が提案したベンゼン核を含む石油類(ベンゼン、トルエン、ナフサ)から重合物(いわゆるプラスチック)を作り出したということを聞きません。もし、これらの物質に、酸素、チッソ、硫黄等や金属などを加えて、枝をたくさんつけ、錯体をつくり、その上で重合すれば出来るかもしれませんが、それは、課題も物質も違うものが出来上がることになります。工業生産段階に入れば、製造費も抜群に違うものになり、この1965年に先生がお考えになっていた物質とはまるで違うものとなります。そして、先生がこの年に私に命令された物質は、45年後の今でも、まだ製造されていません。


 ベンゼン、トルエン、ナフサ等の物質には、亀の甲と言う構造があって、二重結合が6角形のうちの三本もあるのですが、それは、切れることが無いのです。しかし、先生のもくろみはそれを切り、隣の水素と炭素を結びつけ、プラスチックを作ることでしたが、カメの甲がもし、楽に切れるとしても、最終的な生成物は、エチレン、スチレンと同じ性質が生まれるはずで、それがプラスチック化したものは、既にスチロールと言う名前で、発明をされていた後だったと思います。

 そういうわけで、亀の甲を持っている原材料は、アルミナを加えて、40度ぐらいに熱しただけでは、どうしても、無反応で、空気中に蒸発しきってしまい、フラスコのあとには、痕跡程度の燃えカス、特に触媒が残るのでした。

 しかも一番悲しいことは、突然の沸騰(とっぷつと発音する)が起きることなのです。それが、起きると、水銀があたり一面に飛び散ります。有機水銀ではないので、毒性は低いのですが、それを床から拾い上げる姿勢が惨めなのです。

 化学実験室の床とは、厚手の木で出来ていて、薬品との反応で、がたがたになっていて、小さなもの、大きなもの、穴がたくさん空いているのです。そこへ水銀は、ころころっと、小は一ミリ、大は七ミリぐらいの粒として、しかも数十を越える数として、入り込んでしまうのです。それをいちいち、丁寧に床にかがみこみながら、拾って行くのですが、同僚に「あの人は、失敗をしているよ」とみなされる屈辱のほどは、言うに言われませんでした。

 今にして思えば、湊先生は実験器具の組み立て方にも無理があったのです。フラスコは、パイレックス(当時としては超がつくほど高いもので、日本製に比べれば、厚みが6倍ぐらいあるしっかりした器具)を使っているので、傍目には、無理がないようにも見えましたが、一番の問題はふたのことでした。

 内圧がすさまじく高いので、ふたをぶっ飛ばすのです。そのふたが水銀シールと言う方式で、水銀はベンゼンなどの溶剤に比べれば質量が圧倒的に高いので、そこを泡となって、ベンゼンが通り抜けることができず、突沸が起きるわけです。ところで、水銀シールをなぜ使うかと言うと、下においたフラスコの中にある物質を攪拌して、反応を早めるためです。

 あまりに専門的な事が続くのは恐れいりますが、水銀シールの入れ物は、お寺の鐘をさかさまにしたような、丸いガラスです。その中に水銀をいれ、水銀の表面張力の強い性質を利用して、真ん中、特に底にアナをあけたものなのです。水や油などの、普通の物質ですと、穴があれば下に落ちてしまいますが、水銀だけは、その表面張力が強いので、穴から落ちずに、そのガラス容器内に、とどまり、まとまります。

 そのアナに、上から、スターラーと言う下向きの、かざ車をつけて、下のフラスコ内の液体を攪拌するのです。反応が早く進むように願ってです。

 先生にしてみれば、水銀を蹴破って、内圧の高くなったガスは出てくるはず、または、そのガスが出る前に、重合が起きるはずだ・・・・・、だから、これは一時間以内に終わる無理の無い実験だという予想をもっていらしたと思います。しかし、5時間掛けても化学反応は何も起こらず、内圧の高さに負けた、突沸が5分おきに起きるということに、実際には、なりました。

 夕食を早めに取り、ずっと、観察を続けていて、ちょっとでも、内圧が高そうだなと思えば、三首フラスコの、ほかの二つの首にはめてあるふたをはずして、内圧を逃がすのですが、その時に、触媒から出る塩酸ガス、と、原料のトルエンも大量に私は肉体内に、吸い込みました。キュリー夫人の時代からではないが、理工系の学生には、誰にも大なり小なり、そういうリスクはあります。

 実を言うと、カラダがぼろぼろになっています。スタミナは無く、すぐ、眠くなります。ハンストをしても、一番早くドクターストップがかかるほど、弱いからだとなってしまっています。『スト破りか』と誤解されるので、それも恥ずかしいのですが、そのストップが掛かった血圧の値から30ぐらい下がると、蘇生困難になるみたいです。

 立ちくらみが原因で、四時間もイスタンブールで、気絶をしていたこともあり、ホテル側が呼んだお医者さんに蘇生措置を施してもらったこともあります。やっと生き返った後の血圧が、40から60でした。外からはそれは、見えませんが、極端にカラダが弱い人間です。

 八年前に頚椎内神経を痛めたときに、レントゲンを見ながら、「あなたの骨は90歳ぐらいの人の骨になっています。だから鋭角にとんがりすぎているので、内側の神経を痛めるのでしょう」とお医者さんが仰ったのですが、骨が悪い事をはじめとして、全身の血管にある弁がうまく作動をしないようで、心臓が悪い時期もあって、ニトログリセリンを帯同していた時期もありました。

 でも、それは、45年後の今わかることで、当時は、ただ、尊敬する先生の実験をうまくできないと言うことで、自分を責めました。突沸を避けるタイミングを見逃して、こぼれると、収量が変ってしまうので、化学実験としては、正しい結果とならないので、毎晩、ただただ、フラスコを見つけ続けているのですが、時には見逃してしまって、真っ白な保温器(ガラス繊維で出来ている)を触媒の色で茶色に染めてしまった日もあります。

 そんな日は、夜の十時過ぎに、電話帳で調べた、荻窪か阿佐ヶ谷の製造所を訪ねて、「同じ型の新品を売ってください」というつもりでしたが、その場所への到着は夜の十一時過ぎていて、どこの家も真っ暗で、道を聞くわけにも行かず、見つかりませんでした。家内工業で作っているらしくて、工場もありませんし。その夜は、ほとんど、泣きながら歩きました。阿佐ヶ谷の暗闇でも、泣きましたし、三鷹近辺の暗闇でも泣きました。つらくて、つらくてなりませんでした。

 次の日に、「かくかくしかじかで」、と申し上げたら、湊先生は、今まで見たことのないような優しい顔で、「そこまでする必要はありません」と仰ったのですけれど、「この実験は無理ですね。止めましょう」とまでは、仰らなくて、それ以降も、私は絶対に出来ない物質を求めて、いつも床を這いずり回り、水銀を集めていたのでした。周りの人に軽蔑をされながら。

 私の大学はマスプロではないので、湊先生の下の学生が三人、他の先生の学生が、二人しかおらず、実験のために、夜までそこにいる人は、9時ごろまで二人、それ以降は一人ですが、誰にも理解をされず、ただ、『あの人は実験がもろ、下手な、劣等生だ』と、みなされていたと思います。1965年の秋はすさまじいまでに不運な年でした。

 でも、ね、それを全く気にしなかったのは、世の中が学生運動で騒然としていて、私は、『自分が静かな実験室にいられるだけで、幸せだ』と感じていたのです。夜、誰もいない実験室でさびしくて、しかも目だけを動かす実験で手は何も動かさないので、よく歌を歌って、無聊を慰めました。セロ引きのゴーシュと違って、ねこは現れなかったのですが・・・・・唄が好きになったのは、あの実験のせいかもしれない。

 しかも残念な選択へ向けての、決定的な瞬間があったのです。途中で先生と実験について、懇談するのですが、あるときに、大かみなりが落ちたのです。その時に、『この先生には、ついていけない』と感じたのでした。先生も見通しが間違っていたとお気づきになったからこそ、潜在意識の中で辛くて、いらいらなさったとは思いますが、私にしてみれば、『今は学生だから甘やかされていて、この程度なのだ。もし、就職して、お給料でももらったら、先生の命令には100%逆らえず、こういう苦境が永遠に続くのであろう。それには耐えられない』と感じたのでした。

 これは当たり前の話です。人間は無理なことをやり続けることは出来ません。そして、自分で決断をして、そこから、逃げたからこそ、先生を恨んではおりません。ぐずぐずすることは無いのです。次のステージに移らなければなりません。

 でも、化学者としては、新しい物質を追い求めるのは、その本質的な・さが・ですから、私は、その当時も今でも、湊先生を責めるつもりはなく、この《ベンゼン核を持った溶剤を、プラスチックへ仕上げる》と言う卒業実験が、化学・反応としては、無理な課題だった事実を、墓まで、秘密のまま、持っていくつもりでした。

 ただ、中央大学教授殺しを分析しているうちに、チラッとですが、これに触れてしまったので、それは、最後まで書かないと、私が甘ちゃんで怠け者だったがごとく、皆様がお考えになるでしょう。だから、書きました。が、卒業後、他の学生は推薦された日本化学会へ、私は入れませんでしたし、思い返せば、本当に、運が悪い時期でした。そこから、どういう風に抜け出したか、そして、生き続けるということ・・・・・つまり、自殺もせず、他人を殺害もせず、普通に、行き続けるということは、・・・・・どういうことなのかは、次に、書きたいと存じます。
                2009年5月28日           雨宮舜
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映画グラントリノの紹介文(竹中正治著)のお勧め、他

2009-05-27 23:53:30 | Weblog
・・・・・思いはやはり、中央大学教授殺しへと向かう・・・・・

 今朝、27(水)にパソコンを開けると、日経ビジネスオンラインの記事として、映画グラントリノの紹介があり、珍しくも、私は全文を一気に読みました。見事なアメリカ文化解説になっています。または、アメリカ現代史の要約になっています。

 著者は、竹中正治と言う人で、現在龍谷大学教授ですが、一時期銀行マンだった人。この文章は「ニュースを切る」という連載の中の一章らしいのですが、読みやすいし、深さがあります。

 つまり、哲学的に深い境地にクリント・イーストウッドが立っているということを書きながら、・・・・・報復の連鎖が生み出す、困難を、アメリカでも、非常にレベルの高い人が、気がつき始めたと・・・・・いう点が指摘されています。良い文章です。どうか、お勧めしますので、よかったら、下記のURLをコピーアンドペーストして開いてみてくださいませ。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090525/195655/

 で、一応毎日やることにしている、ウエブサーフィンをしていたら、OCNニュースで原初は読売新聞の記事として、同期の学生たちの証言では、例の中央大学教授殺し事件の容疑者は、実は大学院への進学を望んでいたとありました。

 しかし、教授が拒否をなさったので、就職をしたのですが、その際に、感情的に、不満を抱いた可能性はあります。不満があるので、心打ち解けられないから、教授の斡旋で就職をしないで、自分で探したかもしれません。それが、推薦状も無かったとすれば、割の悪い就職となって容疑者が、「僕の人生が失敗となったのは、教授があのとき、大学院への進学を認めてくれなかったからだ」となるでしょう。

 私が卒業をした時代はともかくとして、その後、日本経済が豊かになるに連れ、大学院へ進学するのが、理工系では普通のこととなりました。修士課程までは、それが、普通のこととなったのです。で、そこを拒否されたのは、相当にショックだったとは思われます。

 教授がなぜ、拒否をなさったのかですが、定員が決まっていて、たとえば、三人しか受け入れられないとか、決まっていたら、教授としては、気に入っていた学生から選抜なさるから、彼が落ちこぼれたという可能性はあります。教授としては、『将来性も考えれば、この人間は能力が足りない。特に学者となるほどの能力はない』と判断なさったのでしょうが、それが、教授にとっては誠実さの表れでも、否定された方の彼にとっては大ショックであった?、?、?

 教授は上智大学の出身だとありますので、大体の日常では、優しい人だったと思います。そして、人間の深い奥の部分についても理解がある方だったでしょう。つまり、心理学とか哲学も充分に理解をされていた人だと思います。全体がそうであっても、個別の問題、特にこの容疑者の進路選択の問題に関しては、ご自分は深入りしたくないという、好き嫌いの感情も、もしかしたらですが、あったのでしょうね。

 「大人しくて、消極的だから、論文の発表が出来ないだろう」と教授は判断をなさったと読売新聞の記事にはありますが、大学に残って学問をする人なんて、大体そういう傾向を持っているものです。

40年前の若い時代の私に向かって、就職先の東大の方の教授が「あんたは、この分野の勉強はしていない人だけれど、結婚をしないのなら、結構将来伸びるよ。ここで教授にまでなれる可能性がある」と仰ったのは、私の中にはおとなしい内省的な部分と、後日、平気で人前で唄を歌っていくような、陽性な派手な部分の両方があって、それは、一日に、9時間近く、みっしりと接触のある人間同士では、わかってもらえる部分なのです。

実は、東大の教授は、偏愛の人でもありました。私は、最初期には、大切にされる存在ではなかったのです。同時に雇った短大出身のお嬢さんを、自分が最も気に入っていた、若手・博士と結婚をさせる夢をお持ちであり、そのお嬢さんに比べると、私は、疎まれている方でした。そのお嬢さんは教授の親友の娘でもあり、美人であり、しつけはできているし、何もかも完全な人であり、私は偏愛の対象としては、疎まれている方でした。

でも、そんなことを気にしないで、シゴト(雑用が主で、しかし、当時は会話を出来る人が少なかった英語を、会話を込めて使う側面)を一生懸命やっているうちにとても、可愛がられるようになってきて、それこそ、臥薪嘗胆を地で行ったような按配です。私を含めて戦争の被害にあった世代は、忍耐強いのです。

 でもね、時間的な接触と言う意味では、ずっと少ない母校の学部時代の先生に、そこまで分かってもらえていたかなあ? だから中央大学教授と容疑者との間にも、本当の理解が無かったと推察するのです。強者であり、上の存在である教授の方にとっては、そんな事は、さしたることではない。が、下のものであり、弱者である山本某にとっては、すさまじい重さを持っていたのでしょうか?

 私の例に戻れば、学部学生として、授業や、卒業論文でお世話を頂いた時期には、指導教授(湊宏先生)には自分を正しくご理解してもらっているとは考えませんでした。で、本当は学部内の同意事項として、湊先生の助手になる予定だったのですが、それを、お断りしてしまったのです。あのね、命令された義務については遂行します。とても真面目です。だから、推薦をされます。でも、結構本質を見抜く目を持っていて、自分が向いている分野が、そこではないということは、既に知っていたのでしょう。湊先生とのコンビも、同じ部屋で仕事をするとして、気持ちの上で楽ではないと思ったし、成功するとも思えませんでした。

 就職後の肩書きとして言えば、女性としては最高ランクの仕事です。しかも当時の湊先生は輝かしい業績を上げている方でした。若くして亡くなったのでノーベル賞も無く、事跡もそれほど残っていませんが、当時は飛ぶ鳥を落とす勢いのある方でした。NHKの化学の時間で教えていらしたし。日本化学会の若手スターの一人でした。

 ただ、『一生を、化学実験をやりながら地味に送る生活は、楽しくないなあ』と本能が言いました。地味すぎて、夢や冒険が見込め無いのです。後年、絵や、文章に打ち込むのですから、これは、結局のところ、正しい選択だったのです。お金や名誉よりも常に内実を重視する私の選択は、その頃から発揮されていたのでした。


いや、いや、お断りですが、実際に入れば、芸術の世界も、ユメも、チボウ(希望)もない苦しいところもあるのですよ。世の中甘いことなど無いのです。すべて、考えようによっては苦しいことの連続です。でも、好きであると言うことは強いです。上の写真ですが、小さな花の写真にフォトショップと言うソフトでいたずら描きを加えただけですが、こういうことをやっていると楽しくて仕方がありません。それこそ、文字通りの意味で、時間のたつのを忘れます。

・・・・・さて、また、元に戻らせていただくと、

 社会人として経験を積んだあとで思えば、本当にもったいない、しかも間違った選択だったと思います。が、それはそれで、自分の意思を通したので、それなりに明快で、後日結婚式のときには、湊先生にもご出席を仰ぎ、きちんと来て頂くことができました。そういう形で、人間関係を修復していく、能力(?)は私にはあります。

 人間関係に『これは、ちょっと失敗したかな?』と思っているときにもあっけらかんとして、相手を信頼しぬけば、それは、それで、昔の「あれはちょっとね」と言うようなことも氷解します。その手の、人を信頼する能力の事ですが、今にして思えば、父に際限ないほどに可愛がられたのも、影響をしていると思います。

 山本容疑者に戻れば、彼には、親子関係のなかに、何らかの問題が隠されている可能性があります。心理的な成長が不十分であり、教授が拒否したり、疎んじたりしたのも、その点が大きかったとしたら、山本容疑者にとって、潜在意識の中の最大の弱点をうがったことになり、それが、恨みを深めたのかもしれません。

 容疑者・発覚後の、最初の半日ぐらい、顔写真も出なかったので、何か心理学的な問題が隠されていると想像をしたのですが、・・・・・まあそれはあるとしても、「高枝切りはさみ」を分解して、殺害用・刃物を用意することなど、理性的な準備ともいえますので、責任能力はあるのでしょう。ただ、「精神鑑定は必要だ」と弁護士辺りから、後日、出てくるかもしれません。

 普通の人だったら、どんなに、恨んでも、ここまでの事はやらないでしょうから。特に中央大学理工学部の学生といったら、偏差値的にはエリートのはずです。だから殺人事件をおこすなど、予測のほかのことで、予防が出来なかったともいえますけれど・・・・・

                 2009年5月27日       雨宮舜
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ポスドクとアカハラ(学者の世界の苦悩)

2009-05-26 22:31:02 | Weblog
 私は前回と、前々回二本続けて、中央大学教授殺しについて書いたわけですが、主人に感想を求めたところ、『この程度の事を書いても構わないが、ともかく、犯人の未熟さには腹が立つほどだ。社会は慈善事業をしているわけではない』とメモ書きを残してくれました。

 ただ、私は次の日の睡眠中に、ポスドク問題(博士号をとった後での、就職が難しい問題)と、アカハラ(学者の世界にあるいじめの問題)について触れるつもりでした。教授殺しは容疑者が大学院へ通学したわけではなくて、学者の世界の話ではないのですが、教授を激しく恨んでいたという側面が詳しく報道されるにつけ、(不思議なことに、週刊朝日のニュースが早すぎるぐらいですが)就職の際に、不満が起きたのではないかとも想像をするからです。

 大学教授と言うものは、企業にコネを持っているものです。私が卒業した1960年代は学生運動が盛んで、産学協同が、激しく、糾弾をされていた時代ですので、それが無いがごとく、みなされていたと思いますが、実際には(特に、理工学部では)、教授が学生に就職口を斡旋するケースは多いのです。その際、教授側にも判断があって、やはり、優秀であり、好きなタイプには、手持ちの企業のうちの、社風もよく、給料も高いところを紹介するでしょう。普通のことです。

 山本某と言う犯人は、勉強した専門の分野(電機関係またはIT産業)ではなくて、食品会社に入社して、しかも販売部門に配置されたので、一ヶ月で、退社したと報道をされています。となると、五年前の就職の際から教授には、疎まれていた可能性もあります。留年もしているそうです。学生運動華やかなりし頃は、留年が多かったのですが、今は時代が違うので、留年は個人の責任となり、優秀ではないとみなされる可能性はありますね。何のお世話もしてもらえなくて、自分で探した勤め口に、就職したのかもしれません。
 内省型で大人しい人間は、活発に絡みついてくる人間よりは一見すると扱いが楽に見えます。しかし、人間とはだいたいが同量の感情と同量のエネルギーを持っているものなので、軽く扱っては、駄目だったのかもしれないのですが、教授はまだお若くて、そこに注意が到らなかったのかもしれません。

 だから、この件は電話で居留守をする程度の問題ではなかったのかもしれません。ただ、殺人、しかもこれほど、大量の血が流れるほどのケースに至らないで済む方法は、やはりあったような気がするのです。

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 で、学者の世界に入って行きましょう。その世界は外から見ると、お医者や、弁護士などと同じく、若い人の憧れの対象でしょう。しかし、四十年以上も前の若い頃、東大に勤めた私の経験からすると、思いがけない陥穽も控えている恐ろしい世界でもあります。

 特に博士号をとった後での、就職の際の困難です。大学院生と言うのは、教授にとっては一種の私兵です。論文は発表の際連名で出されるケースが多いので、優秀な院生が数多くいればいるほど、教授もまた業績が上がるということになるからです。で、教授は大学院に入りたいという学生がいたら、学業が優秀なら引き受けるでしょう。しかし、毎年、一人から三人ぐらいの院生を引き受けるとして、そのうち、何人が就職できるかは大問題なのです。
学者として成功をするためには、組織、特に大学に就職をしなければなりません。在野で塾講師などをやりながら、研究を続けることなど、実際問題としては、至難のわざですから。

 しかし、東大の教授職は、数年間一人の人が続けるので、あぶれる人が大勢出てきます。そのうちの何人かは地方の大学へ転出して行って、教授になる事ができますが、そうではなくて定年まで講師とか、助手のままで年をとっていく人もその当時は大勢いたのです。しかもその選別の基準が教授の胸一つに掛かっています。
 教授の方には、数人の院正がいれば、自分と性格があう可愛い人と言うのが出来るし、その人が家柄が良かったりすると、そういう人を後継者として選びます。臥薪嘗胆の挙句、教授職になっていく人もいるでしょうが、1960年代当時は、留学や書籍代、フィールド調査の費用、実験の器具代等で、やはり、お金持ちの子女の方が伸びると考えられていたのです。

 でね、ご自身で気がついているかどうかは別として、教授と言うものが莫大な権力を握ることとなります。お教室とは、一つの城であり、教授はそこのお殿様です。研究テーマの割り振りから始まって、研究費用の割り振り、使う実験室の割り振り、あらゆる側面で、気に入っている存在と気に入らない存在の差が出てきます。
 労働だって文句だって一手に引き受ける、シンデレラみたいな人も出てきます。結構年の行った男性なのに、小間使いみたいにしてあれこれを、命令される人も出てきます。企業人とは違って、社内ローテーションもないし、その場から、転職と言う形で逃げ出すわけにも行かないのです。

 その教授の下をはなれるのは、学問の世界との縁を切ることと同じなので、それが好き出し、博士号まで何年間かの人生を掛けた選択だったら、そこから逃げるのは自分を否定することになるからです。で、悪くすると、絶望的な状態になり、さらに息苦しくなります。最近、論文を放っておかれたので院生が自殺をしてしまった事件はそういう環境を明示しています。

 その手のいじめ、いじめられの問題が、今では、アカデミックハラスメント、略称アカハラといわれ、それを研究する組織さえ出来たそうです。だけど、中途半端な形で、そういうところに相談しても解決がつかないでしょうから、学者をして、一生を過すのも大変だということです。
傍目に美しく見える世界ほど、入ってしまえば大変な事が数多くあります。
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 結論としてまとめれば、人の上に立つ人ほど、相手の立場に考慮して、相手が人間存在の根本では、自らと対等であることを銘記して、いろいろなことを取り計らわなければいけないということだと思います。相手が自分と同じ土俵にいない人間にこそ、配慮してあげなければならないということです。

うちの主人などビジネス社会に生きてきたので、もっと厳しくて、「甘やかすな。こんな人間」と言う考えのようですが、これほどの事件を引き寄せてしまったのは、学者の世界の上下関係をわきまえていない人間には、それ相応の対処が、必要だということで、また、学問の世界が、その手の苦しみの集積で出来上がっている側面もあることは、だんだん改良をされなければならないということでしょう。  2009年5月26日      雨宮舜
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(山ジャスミン)の下で・・・・・続、中央大学教授殺し事件考察

2009-05-25 23:57:58 | Weblog
「定家かづら(山ジャスミン)の香りの下で」
・・・・・続、中央大学・教授殺し事件・考察・・・・・

 我が家の東北の隅に、スダジイ(細いどんぐりができる)の大木があり、その上に絡まっていて、美しい香りがでる、定家かづら(山ジャスミン)があります。この植物は、この山の石段の途中にも生息をしていて、今の季節は芳香を振りまきます。

 特に夕方に芳香が強いように感じます。夕方は、木戸周辺の片づけをしなければなりません。今は、ひみず(もぐらの一種で美しい毛皮と、見事な体臭=芳香を持つ)が出る季節で、それを追って猫が外へ出てしまうからです。

 あまりに賢くて、人懐っこいわが家の猫は、相手のお宅に取り込まれるという形でトラブルを引き起こすので、残念ながら、木戸を作って行動の制限をしているのに、もぐら(ひみず)が立てるかさかさと言う落ち葉の音に、誘惑されて、木戸を自分の手で開けてしまうので、いちいち植木鉢で、頑丈に防衛しているのです。その木戸傍で、昼間なら、書留を運んできた郵便やさんが大声で、私を呼びますし、夕方は主人のために、そこを開けておかなければなりません。

 で、毎日、夕方外へ出ますが、今は山ジャスミンの香りに驚かされる毎日です。

 人生の途次で、諦めたことは一杯あります。でも、諦めて静かな範囲での生活をしているからこそ、落ち着いて、この香りを味わう日々も訪れたわけです。

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 若い日々と言うのは、さまざまな選択の可能性が残されているので、それだけ、悩みも深いのです。悩みがあるときに、人はメンター(賢者)と言って、自分より優れた人の忠告を仰ぎます。私は人生の途次において、それには恵まれてきた方だと考えています。それに対してお返しをしたいと思うのが文章を書く事なのです。

 ところが、最近では疲れがひどくなりました。さきほどの、中大教授殺しについて一文を書いた後でも、送信する前に、パソコンをつけたまま、二時間ほど、昼寝をしたほどです。布団に入ってから、「あれ、パソコンのスイッチを落としたかしら?」と疑問が起こりましたが、点検にいかれないほど、あれを書くのに疲れました。

 そんなに、エネルギーを掛けてもまだ、書き足りない思いがあります。

 それは、T教授が亡くなったことがやはり「とても、残念だった」という思いが強いからです。学校の評判が悪くなると言う側面でも気の毒ですが、ともかく、教授とその周辺の人々が気の毒だからです。

 今のところ、報道をされている限りでは、恨みによる犯行となっています。でも、そうなると、教授がひどい事をしたような感覚を受けます。そうじゃあなくて、教授はとても良い人だったのです。良い人だから、相手から、心理的に、とりすがられたのです。が、その最後の部分で、教授は芥川龍之介描くところの『蜘蛛の糸』のカンダダ状態に(少しですが)なってしまったのです。100%の善人にはなれなかった。

 『彼に会えば、一時間では済まない。面倒くさい。僕にはその義務はない』と教授は考えたでしょう。でも、犯人山本某にとっては、大学時代がシャングリラ(桃源郷)だったはずで、そこが、ざらついた外の社会と同じ事になってしまうわけで、それが、耐えられなかった・だけ・なのだと思います。

 人は誰でも、安心してその場にいられる居場所が欲しいです。私みたいに年をとれば、過去の経験があるので、『現況では不満だけれど、それなりに、未来に希望を見出して生きて行こう』とか、柔軟に思うことが出来ます。それなりに諦観も持っていますしね。しかし、二十代だと悩む季節です。

 血の海になるほど背中を刺したと報道されていますが、それほど、ひどい事を山本某に対して、やったという意識は教授の方には無かったはずです。

 そして、山本某自身も、自分の真意(犯意)を他者に説明できないでしょう。それは、彼に理性が残っていれば、やはり、他者が、自分の思いを不審に思うだろう、理解できないだろうという判断はできるはずで、それゆえに、真実を話すのを、ためらっているのでしょう。

 ノートや日記の類が出てきて、日常生活への反省の言葉が連ねてあったそうです。主人が「内省的な人間なんだなあ」といいました。今の日本はそういうタイプを、からかって、普通以下とみなすムードがあります。お笑い芸人などがもてはやされていて、その芸はほとんど、他者をからかいぬく、運びになっています。

 『めちゃ、めちゃいけてる』と言うお笑い番組があって、子供が家にいる時代は、チャンネルをそこに合わせていました。面白い週もありました。で、最近のことですが、その番組が開港150周年で沸く横浜を訪ねるという新聞の案内があって、数年ぶりにチャンネルをそこに合わせたのです。横浜市民ではなくなって、40年近くが経ちますが、未だに横浜市の市歌を歌えますし。

 だから、結構楽しみにして見始めたのに、すぐ、ぞっとしました。ある一人の女性芸人をいじめるのに、すべての出演者が集中して徹していました。そのいじめられる芸人は、英語が出来るみたいなのです。自分の身を守るために、とっさに出てくる言葉が日本語ではなくて、英語だから、帰国子女かもしれないのです。

 そこが、少しでしょうが、普通の日本人とずれている・・・・・それだけで、つねったり、馬鹿にしたり、騙したりする・・・・・いじめの対象となっています。『何と嫌な設定だろう、ちっとも面白くない』と私は思いますが、広告がついている、公共の番組として、そういう演出がなされています。「もちろん、その設定をいじめられる女性芸人・本人は事前に納得をして受け入れているはずだ」と主人は言います。でも、それにしても、いやな感じの映像です。下品すぎます。

 そんな番組に比べたら、NHKの『コンカツ、リカツ』など、一万倍ぐらいに上等なできでした。でも、視聴率としてどうなんだろう。それが、現在の日本です。今現在の若者は、地域社会とか、親世代から、大切なことを学ぶということが少ないです。テレビやゲーム、コミックから社会について刺激を受け、それを基準として学んでいくのに、そのテレビが未だに低俗極まりないです。

 若者は、今現在六十歳以上の世代とは、まるで違った環境で育ちあがっています。だから、極く基本的なこと、『会社を一ヶ月で退社したら、将来の自分が困るのだ』と言うことすら知りません。立花隆や、沢木耕太郎などの、後日有名人になっていく人が、「会社を一日で辞めた」などと言う話が喧伝をされていますが、彼らは特別な根性と才能がある人たちで、それなりに見通しを持っていたのです。飛びぬけた才能がない人間が、初手から成功者のまねをしては駄目です。

 山本某を囲んでいる両親(出てこないけれど、いるみたいですね)他の誰もが、『お前が悪い』と思っていて、彼には救い手とはなりません。そんな中、唯一の希望と言うか、神のごとき立派な人としてのT教授に、彼は相当な期待をしていたのでしょう。

 でも、彼なりにわきまえている部分もあって、・・・・・つまり、自分が社会人としては、平均以下の落ちこぼれであると言う意識もあって、・・・・・普通の卒業生のように、フラッと先生を訪ねるわけにも行かなかったのです。だから事前にアポの電話を掛けた。それも一度や二度ではないはずです。

 しかし、教授は三度目辺りから居留守を使い始めたと、私は想像します。助手や秘書、大学院生、または事務棟のスタッフなどに、彼の名前を告げて「取り次がないように」と、頼んでいたはずです。

 『遠慮をして遠慮をして気を使っているのに、それでも、教授がそれに乗ってこない。僕をそれほど嫌っていて、認めてくれていない』と言う事が、山本某を絶望させ、それが、深い恨みに繋がったのでしょう。たとえば勤務先の上司が同じ事をしても、この青年は事件を起こさなかったはずです。T教授を慕いぬき、尊敬しぬいているからこそ、反動としての絶望が深かったのです。

 高村薫さんが、『照柿』のなかで、熱さ(融鉄の熱さと、夏の暑さの重合)が人間を狂わせると描いていますが、こちらでは、絶望が青年を狂わせました。やるせないことです。世田谷一家殺害事件ほど、闇が濃くは無いけれど、切ないこと限りがない事件で、それゆえに、私は考えるのにも書くのにも、疲労困憊をしたのでした。むしろ、犯人が現れない方が良かったかなあと報道から一日経った今では思うほど、切ないです。

 でも、書かないでは。おられません。山ジャスミンのつるの下に住んでいて、勤務と言う形では働かないで、生きていかれる私の使命は、『人間とは何か?』を追求することにあるのですから・・・・・スダジイの大木の下で、誰にも覗き込まれない食堂で、随意の時間パソコンを打つことの出来る私の、それが現在の使命なのです。・・・・・まあ、この際は、以上の様な大口を叩かせて置いてくださいませ。T教授への哀悼の意味があるからです。                       では、2009年5月25日   雨宮舜
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中央大学・教授・殺しでの、新型調停機関の提案

2009-05-24 17:01:34 | Weblog
・・・・・猫がトイレで、ひざの上に乗ってきて、そこから考えたこと・・・・・

これも「見てきたような嘘をいい」の一種ですが、中央大学教授殺しについて、分析をした上で、一種の新機関・調停専門裁判所の開設を提案をしたいと、今日の私は思います。

 その殺人事件は、2009年の1月14日に起こったのですが、その次の15日に前から決まっていたクラス会があって、そこへ、元・中央大学理工学部長でもある、私の卒業した大学の同期の男性が出席をされたのです。

 スピーチは三分と言う制限があったのですが、彼は、「いろいろな点で、悩む」という形でお話をされました。で、八分を過ぎた辺りで、誰かが、「止めろ」といったので、すべてのお気持ちを聞くことは出来なかったのですが、そのとき、既に「学生(または、卒業生)であろう。だから、現代の学生を指導するのがいかに難しいか? その点で悩む」とおっしゃっていました。

 でも、そんな当事者のお話を聞いても、信じられませんでした。私にすれば中央線沿線、しかも山手線の内側と言う地の利の良い場所にある学び舎は、人気の高い大学のはずで、エリートが通学するはずだから、殺人事件など起こるはずがなく、

 これが、一種の因果関係を持つ話だとは信じられず、例の世田谷一家殺人事件・等の不条理極まりない事件のひとつではないかと感じて、ずっと、震えていたのです。

 別の事件として、猫好きの奥さんと、猫と息子が殺された事件があって、2チャンネルと言うところでは、親族だろうという書き込みが相当数あった模様ですが、あれも不思議極まりないです。猫って異常を速やかに察するから、逃げるはずで、殺されるまで誰かにつかまっているはずがないのです。引っかいたり噛み付いたりして逃げるはずなのです。

 だから猫が殺されたという側面では、親族かもしれないと思いながら、一方で、警察が「犯人らしき人間を取り逃がした」と発表をしたので、親族ではなかった模様です。だから、因果関係がわからないから余計怖い。

 今日、また、別の事件で、老女三人家族の家に、若い男が入り込み、次から次へと虐待の挙句、全部殺して行ったらしい事件も発覚をしました。ただし、これは、以前に似たような事件がありました。だから、犠牲者は、悪人に取り込まれないように用心する必要があったのに、それを忘れていたわけで、それなりに、奇妙でも不思議でもないのです。

 多分性愛が絡んでいます。だから、一見すると、異常に見えるけれど、分析が、理性の段階でできるケースです。

 異常な事件が起きるのは、社会が悪くなっている証拠だから、怖いのです。自分が犠牲者になるとは思わないけれど、社会全体が悪くなって行くのが恐ろしいのです。私は、別に、右翼ではないのですが、でも、『日本はもっと良い国のはずです。昔のことを思って御覧なさい。原三渓などの立派な人が出ているではないの』と思うので、現状について震撼するのです。

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 ところで、私は、今日は原三渓か、W.M.ヴォーリーズについて、美しいことを書くつもりでした。その原案をトイレでふと考え込んでいたら、猫がひざの上にぴょんと飛び乗ったのです。
昼間、他の人間がいないとき、そして、彼女が起きている時間帯は、ほとんどまとわりついています。そして見事に私の心とか、行動を観察・分析していて、『今は大丈夫よ。お母さんは、真剣にシゴトをしているわけではない』と思えば、すかさずひざに飛び乗ってきます。

 洗濯物をたたむ、アイロンをかける。新聞を読む。これらの行動のすべてにおいて、私のひざは、瞬間的に彼女に占拠されてしまいます。しかも頭がいいので、トイレの上でも、『お母さんはきっと長考するわ』と思ったらしくて、偽のいびきをかき始めました。それで、私が彼女を下に下ろすのを阻止できるとでも考えているのでしょう。

 でも、尻尾の方は、下ろされることへの警戒心を示していて、ぴっぴ、ぴっぴと左右にせわしなく振られています。

 『もう、本当にしょうがない子ね』と思いながら、その「頭隠して、尻(尾)隠さず」の中途半端な賢さが、可愛くてなりません。だってトイレ以外では、いびきをかくなどと言う高度な擬態は示さないからです。洗濯物をたたむときは、五分以内でひざから下ろされることを学習しているので、偽のいびきをかいたりしないわけです。が、『トイレの中での、《案練り》なら、もしかすると、5分以上は続くでしょう』と、考えている彼女の魂胆が、いとしいです。

 それは、絶対的な、かつ傍若無人なレベルでの甘えだから、そこまで信頼をされている事が嬉しいからです。だけど、人間を相手ではこれは、かなえられない望みです。私も他人をそこまでのレベルでは引き受けられないし、また、私の事を誰か、他人が、ここまでとことん、甘えさせてくれる望みもありません。

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 中央大学、教授殺しは、この甘えの問題が大きな要素だったと、確信しました。T教授はよい方なのでしょう。世話好きで親切だという評判は当たっていると思います。別の大学の話ですが、論文審査を滞らせて、指導対象の学生が、自殺した事件が最近に発覚をして報道されました。ああいうのは、強者の恣意の発露で、ものすごく悪人です。または、主人に言わせれば、「教授が、人間が極端に小さい」ケースです。

 しかし、T教授は違う。立派な指導をなさり、加害者の山本某に好印象を残したのでしょう。山本某は、人生で初めてといってよいぐらい、信頼できる人を見つけたのです。甘えられる対象を見つけたのです。しかし、T教授だって、『この親切は、授業料の範囲内での、任務だ』というお気持ちはあったでしょう。だから、山本某から依頼をされた、卒業後の接触を拒否されたのだと想像します。

 山本某にとっては、それは、《教授は、急に不親切になり、自分を拒否している》と見えたのでしょう。教授に対しての愛と言うか、信頼が過剰だっただけに、それが冷静にも拒絶をされたときに、一気に、愛が憎悪へ変ったのでした。その彼の気持ちは、電話のやり取りだけでも教授には伝わっていて、教授はいささか、怖がっていらした。が、殺人は防げなかったのです。

 で、私が述べたいことは、こういう心の発達に、連動した事件が多いので、心理学的に調停をする裁判所を新たに作るという案です。今の事件は、心の闇を反映したものが多いです。こういう犯人を生み出さないためには、親のあり方が第一に大切です。が、その段階で、うまく育ちあがらなかった人間が、こういう憎しみを抱くとき、彼を「ノイローゼだ」とか、「思い込みの激しい人間だ」として、疎外し、拒否するだけでは予防できないからです。

 そういう流れにしないで、山本某の気持ちを汲んであげれば、防げたのです。教授が一度面談に応じ、冷静にしかも愛を持って、「自分は、既にその任務からは、離れている人間だから、自分を頼らないように」と諭す事ができたら、殺人・事件は起きなかったでしょう。だけど、教授は一回電話で断った後で、居留守を使ったのだと、それこそ、冒頭に帰って、《みてきたような嘘》を言ってみます。

 居留守とは、相手が、山本某ではなかったら、通用する人間関係上のテクニックの一つにしか過ぎないわけですが、ここでは違ったのです。こういう影に、もし山本某の恨みを丁寧に聞いてあげて、調停をする機関と言うか施設があったら、防げるのです。彼は、自分が凝り固まっているということについて、それが異常なレベルだという自己判断が出来ない段階になっているのですが、それを突き放した形でも、両者は救えないのです。愛情のある賢者の介在が必要です。

 日本のように高度に文明が発達した国では、心の問題が引き起こす犯罪が多くなっています。離婚に関しては調停裁判の制度が既にあると思います。でも、新たな犯罪ケースを予防するためには、こういう青年を「未熟だ」と、切り捨てないで、丁寧に不満を聞いてあげて、それを、T教授側に告げて、一回だけでも、面談の上、「実は就職先を紹介するのは、今の僕には出来ないことなのですよ」と、優しく丁寧に接遇をしてあげるよう・・・・・調停官が忠告をしておいてあげたなら、ここまでの現象にはならなかったはずです。それでも、駄目だったら、調停官が乗り出して、山本某を叱るという措置をとる。

 この事件は、わかって見れば、単純なことだったのかもしれません。居留守がいけなかったのです。大体、教授と言うものは、一日中、大学内にいるものですから、居留守を使われるのは、山本某には、明らかに悪意と取られたことでしょう。その『拒絶された感じ』に逆上したのですが、犯罪予防の見地から言えば、ともかく山本某の心を開放しない限り、犯罪を抑止する事ができないからです。

 確かに面倒くさいです。『既に28歳にもなっているのに、それほど、面倒を見なくてはいけないのかな?』と言う疑問が澎湃として起こるのは、覚悟します。

 ただ、こういう風に社会の片隅で日常的に、起きている小さな不満や疑問を丁寧に救い上げ、それを、その発言者内だけでとどめず、関係者すべてに連絡を取り、教育心理学的な(カウンセラー的)対応をして置けば、殺人事件となることは、防げたでしょうから・・・・・こう言う分野での、国家からの資金供出を望みます。

 たとえば、命の電話風のものでもよいですね。誰が掛けても、絶対にその人間が初期には訴追をされないという形で、ガス抜きをさせる場所を作るべきです。どうしてかと言うと、T教授が大変よい方だったからの悲劇だと、今、確信を持つからです。悲劇を再び繰り返さないための措置です。

                               2009年5月24日   雨宮 舜
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コンカツ、リカツ(NHK)の出きは良かったですね

2009-05-23 10:55:08 | Weblog
 NHK総合チャンネルの『コンカツ、リカツ』が、終わりました。思いがけないほど、よい出来で、各世代をひきつけたと思います。私自身はすでに、親世代であり、あの松坂慶子さんが演じる、母より実年齢は上ですが、思いは同じです。幸いにして、自分の子は、自分で見つけた相手と、無事に結婚生活を始めていますので、リラックスをしてみる事ができましたが、

 一番リアリティにとんでいたと思われるのは、最後の回でしたね。思いがけない展開でしたが、そういうものです。現実は、こちらが乗りかかったときに、グッドタイミングで、相手が盛り上がってくれるわけでもないし、100%条件がぴったりの相手と、出会えるわけでもない。

 原作本があるらしいけれど、その著者が、このコンカツ時代を書くことができたのは、実際の結婚に至らなかったからだと、最後に、理解ができました。

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 ちょろっと告白をしてしまうと、私はお見合いをしたのですよね。その相手は条件としては、当時の、最上級の人でした。東大卒、大手企業の技術系サラリーマン、出世コースに乗っている。

 だけど、自分から断りに行ったのです。ご本人にではなくて、妹さんを呼び出して、
 (ご本人は当時東京にいなかったので、そうしたのですが、もちろん、ご本人には会いにくくてね。だって、その方には欠点は何もないのですから)「このお話を進められません」といったのです。それは、自分が、一流の男性の妻となる生活に向いていないと感じたからです。

 素晴しい家庭と言うのはあるでしょう。夫の収入が高くて、世間からハイソだとみなされる生活・・・・・だけど、それが、本当に始まるとして、自分に本当に向いているかを考えると、向いていないと感じました。素晴しい家庭を営む妻には、それだけの義務もあり、束縛もあります。

 一種のお人形さんになると言うことでもあります。いや、それは、言い過ぎかもしれないけれど、ある型にはまるのも確かです。だから、このドラマの主役(桜井幸子さん演じる)がエリートサラリーマンに「ニューヨークには一緒に行かれません」と言うところは身にしみて、リアリティーを感じました。
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 原作があるそうです。それをやや心配もしていました。リアリティに飛んだ展開があって、『これは、どうしても、現実が反映しているでしょうから、モデルとの関係が大丈夫かなあ?』と、心配をしていたのです。特に結婚が成立してしまったら、現在の夫が、その手の内をさらすのを喜ぶはずもないと思っていました。それが、最後の結末を見て、『なるほど』と思わせるところがあって、納得です。

 コンカツ中のどの相手とも、実際の結婚生活に入らなかったのなら、あの展開を文章化する事が可能だったでしょう。

 文章を書く生活は、嫌われる元ともなります。他人に警戒をされます。ブログの世界はペンネームらしいのですが、だけど、書く事に変わりはないので、タネをどこで拾うかの問題は、残ります。し。・・・・・

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 親世代の描き方は、著者の愛情に満ちていました。でも、そういう物心両面において豊かな親がいたからこそ、今アラフォーとか、アラサー言われる女性たちが結婚をまだしていないのです。特に豊かな時期の日本で、四年制大学を出た女性たちは、キャリアーウーマンになってしまい、男性に対する夢を失い、目も越えてしまっていて、それゆえに、希望ラインが高くなっていて、なかなか、結婚を決断できない、相手を絞り込めない、そういう時代だったのです。

 だけど、こういう豊かな親世代が消えてしまう将来を、考えると、今、の若い世代が、独身でご自分の五十代、六十代を迎えるのはとても、気の毒なことであり、無残なことでもありますよね。そして、今では、昔のやり手ばあばあと言うか、ご近所のおせっかいおばさんの紹介による、お見合い活動が、死滅している時代ですから、・・・・・ともかく、コンカツと言う形式ででも、新しいルートが開かれるのは良いことなのです。

 このドラマでは、二十代の女性と言うものは出てこなかったのですが、二十代の女性にも言いたいのですが、結婚は条件至上主義ではできないということ。・・・・・でも、結婚に向いている環境と言うのはあって、やはり、大きな会社に勤めていた方が、合コンなどに誘われる機会が多いと言うことです。

 特殊な分野に入って、男性と出会えない職業を選ぶのなら、なおさら、気をつけて、考えておかないと、軽く、独身にいたる人生になってしまうという点です。独身でも良いのですが、でも、社会全体が、「結婚、結婚」と騒ぐのは、不倫を勧めている時代よりは、ずっと好ましい(ただし、それだけ、社会的な危機が迫っていることかもしれませんが)と、私は思います。

 まあ、ともかく、ドラマとしても良い出来で、面白かったし、その伝えるメッセージも爽やかだったと思います。上出来、上出来、

 ところで、役者さんたちについて、ちょっと;
 主役の桜井幸子さんは、その胸の薄い感じ、それがもたらす純情可憐な感じが、アラフォー世代になっても残っている、・・・・・主役を、たどたどしく、だけど、かわいらしく演じていました。
 出色はお父さんを演じている若林豪さんです。私は昔のさむらい(または、浪人)役しか知らないので、『え、こういうさばけた可愛い男性を演じる事ができるんだ』と思いがけなくて、・・・・・対する松坂慶子さんも『こういうお母さんがいたら、一家は本当にあかるいだろうな』と思わせる優しさで・・・・・

 そこに転がり込む、清水美沙さんですがうまいです。弾むような演技でうまいです。
 そして、国生さゆりさん。おニャン子クラブで、出発したのに、堂々の演技派となっていますね。このドラマの中では唯一の女性陣での(しかも、一種の)悪役(?)、ですが、もっと素顔の自分(つまり、惑い悲しむ部分)が出る脚本だったら、ご自分にとってうまみのさらに出る役だったでしょう。が・・・・・

 清水美沙さんから、夫を奪う役をする、有森也美さん。私の薄い記憶によれば昔、高橋恵子さん演じる妻から夫、古屋一行を奪う役をやっていませんでしたか?(金曜日の妻たちの何番目かヴァージョンです) 昔の妖精チックな雰囲気を残したままのアラフォー女性を演じて・・・・・

 若手男優陣は、女性側に比べて脚本が甘かったので、充分に良さが出せないところがありましたが、それなりに、印象は残りましたね。特に草食系男子を演じた俳優さんが、姜尚中氏に似ていると思いましたけれど・・・・・また、NHKへ寄せられたブログ類を読みますと、若いアーチストを演じた人は人気があるようです。

 この文章ですが、昨土曜日、載せて、12時間近く、推敲をする時間が無くて、一部ダブっていたりして、失礼を致しました。恐れ入ります。
  では、2009年5月23日                 雨宮 舜
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梁 石 範=ヤンソギル(NHK ハイビジョン)

2009-05-22 09:52:32 | Weblog
 今日の文章を始める前に、中央大学教授殺害事件が、一応ですが、解決を見たようで、それにはほっとしています。社会的に名望のある人が、『安全だ』と普通ならみなされている場所で殺害をされて、もし犯人が永遠に現れなかったら、社会・不安は、昂進します。良かった、一応実在の犯人がいて、その人が教え子と言う関係で、過去に接点のある人であって。

 さて、昨日21日NHKハイビジョンで、梁 石 範=ヤンソギル氏の特集がありました。これは、『久しぶりに見ごたえのある番組を見た』と言う感想を私は心の中に持ち、主人は、「う、我々は、大物にはなれないなあ」と、言葉に出して言いました。つまり、『苦労をどれだけしたかと言う意味で、我々は甘い』と言うことですが。

 私は氏のものは、『タクシードライバー日記(文庫本)』を大昔に読み、映画『月はどっちに出ている』を映画館で見ただけですが、その一冊だけでファンになっています。その後のものを読んでいないのは、常にいうように時間が無いから・だけ・です。読みたいけれど、時間が無い。

 さて、すさまじい貧乏時代を、その住まいを映像として見せながら、どうしてそうなったかを相当素直に語られています。それは、経験の豊富さがあって、多少のことにはたじろがない精神が既に、構築をされているからでしょう。

 その後は再現ドラマ等ではなくて、映画を利用したり、普通の旅行像(特ニューヨークのそれなど)を利用されたりして、その間に書斎で語る氏の言葉が挿入されます。『闇の子どもたち』の映像の後で、「弱いものの立場に立って、そこに寄り添って書きたい」と言う氏の言葉が流れると、説得性が大きいです。

~~~~~~~~~~~

 さて、番組を見た結果、二つ、三つの事が印象に残りました。その一つは、氏がクラブと言う場所で、編集者と知り合い、編集者の勧めで小説を書き始めたということです。それが、氏の幸運ではありました。もともと、文学の素養があり、ストーリーテリングの才能が有った人が、よき導き手を得て、その世界へ入って行ったわけです。それが、若い日の浪費(借金漬け)の日々の経験ゆえに、捨てられない習慣だったというのは、皮肉ですが。

 それから、氏の書くものが、(特に最近のものは)テーマが大きいという点も感心しました。上に上げた「弱いものの立場に寄り添って書きたい」と言う言葉は、成功した人が、次に抱える心情(または、信条)としては、すばらしいものです。

 私は最近の氏のものを知らないのですが、映画『月はどっちに出ている』で、有薗さんと言う俳優が演じた、友人(ドライバー仲間に)は、演技者のうまさをとことん、感じさせられました。この人はのちに、NHK大河ドラマ(風林火山)でも、主役の内野聖陽(山本勘助)の一番の手下として、ガクト演じる上杉謙信邸に乗り込む役をやっていましたが、相変わらずうまいです。

 それと、この人(と言っても、演技者ではなくて、モデルとなった磯さんと言う人の方)に対して、梁 石 範=ヤンソギル氏が、「非常に人が良い人物だが、ただ、一点、民族差別をする点があった」といい、それについて、余裕のある解釈をなさっているのにも感心しました。

 そして、磯さんを、ユーモアたっぷりに造型してあります。そこが、作家としてその後、大人気を後に博していく由縁なのでしょう。では。
2009年5月22日                    雨宮 舜
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才能と経営(見城徹氏の場合)

2009-05-21 10:39:06 | Weblog
 昨日お送りしました、才能と経営(篠田氏の場合)の文章を書こうとしていた朝、もう一つ面白いニュースをウエブ上で見つけました。

 幻冬舎と言う出版社の社員が着服行為をしていて、10億円に近い損失を会社に与えていたのだけれど、それについて経営責任を問うために、社長(+一人の役員)へ減給・措置を課したというニュースです。

 「おおーっ」と驚きました。この会社の社長さん・見城徹氏は、一種のタレント的な要素さえある人で、独立して企業をして、大きな広告を新聞に出すことで、有名だと思います。でも、大成功している会社を運営しているわけだから、総合力があるのだと思っていました。実際にあるのだと思います。

 でも、経営の特に経費のあれこれについて、目配りをなさっている暇がなかったというのも真実です。

 そこから、私は自らのことへ、また、繋がってくるのですが、まあ、それは、ここでは、抑えて、

 幻冬舎の出版物で、最近、大きく話題を呼びそうな、YOSHIKI 自伝を、買わないけれど(と言うのも私はすでに、そういう世代ではない)、それが、話題になりそうな時期なので、このニュースはあながち、この会社にとって、悪いニュースとまではいえないことかもしれませんね。
では、2009年5月21日       雨宮 舜

 ただ、目配りをその金銭の部分には、注げなかったということだと思います。そこに《人間としての限界は、誰にでもあるのだ》という真実に突き当たります。

 だから、規模は小さいながら、私にも私なりの限界はあるわけです。その壁を破ることに挑戦はしたいと考えています。でも、すべてを自分ひとりでこなすので、圧倒的に、時間が足りません。それが、ネックです。なお、この章は、『胡蝶蘭を、花屋で写生をする』へと、続かせてくださいませ。
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才能と経営(篠田傳氏、プラズマテレビの発明者)

2009-05-20 12:30:45 | Weblog
 昨、19日の金曜日、テレビ東京、『ガイアの夜明け』で、プラズマテレビの生産からの撤退を知りました。質としては抜群に良いのだそうですが、価格が高いそうで、最後に残っていたパイオニアーまで、製造を中止したそうです。主人は技術系のサラリーマンだったので、残念がっていますし、私もそういう決定をしなければならない人々の苦衷は察しました。

 ところで、そのプラズマテレビを発明した人、篠田傳氏は、さらに別会社を起こし、今、超薄型・液晶画面の開発をしておられるそうです。番組はドラマチックに構成をされており、その高機能が、富士通で、商品としての再開発へ向けて、取り組まれるところまで到達した、過程が900日にわたるロング、取材によって示されました。

 富士通とは、篠田氏が、そのプラズマテレビからの撤退を決めたときに、退職をしなければならなかった古巣だったのです。だから、一種の凱旋でもあり、そこが劇的だったわけです。これからの用途は、オペラ劇場での翻訳機への応用など、その軽さと、可変性(一枚の板ガラスでできているわけではないので、湾曲さえ出来る)を生かした分野が多数ある見込みのようです。

 脇の筋として、ベトナムからのボート・ピープル(難民)であるエンジニアーが登場しました。彼は、電通大を出ていて、こういう部門の専門家として働いているわけです。私は弟がそういうタイプの人間なので、その人に感情移入をして、その会社が発展をする事を願いました。

しかし、その会社は最初の注文、三千万円を受けるまで、ずっと無収入だったそうです。社員の給料や、設備投資の費用は、ヴェンチャー起業への投資家からの支援等を仰いでいるそうです。

私にとってはその点こそ、もっとも、興味を引かれるというか、考え込んだポイントでした。
今、六冊目に取り組んでいます。4月1日を公式なはじめの日として、ずっと奮闘しているのですが、テーマそのものも、変更したり、(つまり、パリ物語を後回しにしようかと思ったり)、

あらゆる可能性を探りながら、こつこつ、編集やら、制作の部分をこなしているのですが、今まで頂いた数々の批評は生かしながら、進みたいとも考えているのです。

 その一つが、「もう、自分ひとりでやらないで、公的な出版社にお願いをしなさい」と言うもので、それについて、調査はしているのですが、私費出版の会社ですと、自分が支払う総額が、どうしても、200万円を越えるのです。

でも、以前よりは、扱いが違ってきて、ちゃんとしたキャリアー・ウーマンとして、扱われるようになってきております。たとえ、スニーカーでお会いしても、用意している資料とか、こちらの話す内容が、しっかりしているのが、ご理解をいただけるようで、もう、『ぼられる』心配はないでしょう。

 しかし、自分ですべてを今までと同じ手法でやれば、本を郵便で送る費用も含めて、だいたい一冊が100万円以内で納まるでしょう。そして、それも、一年間ぐらいかけてなし崩しに使っていくので、小遣いから、割り出したりするので、つじつまがあって、無収入でもこなして生きていけるわけです。

つまり、私は、専業主婦です。だから、時間があり余っているわけですから、自分の時間を使う限り、その部分はただなのです。だけど、他人様の時間を使えば、それは、お金に換算されます。だから、200万円で出版していただけるのなら、それでも、安いかもしれません。

ただ、そういう忠告があっても、自分で作るのにこだわるのは、それが、自分の本ですから、もしかしたら、専門家よりも、愛着を持って集中しているから、時間の総量がきっと五倍くらいかけてあるので、

 たとえ、・・・・・(一人だけの作業の必然的な弱みとして)・・・・・誤変換が残っていても、内容の面白さと言う点で現れてきて、書評をいただけるわけだと思うからです。

 でも、時々、メセナを仰ごうかなあと思ったりすることもあるので、その番組に特別な興味が沸いたわけです。

 つまり、創作・発明のために、時間を割く人が、同時にお金儲けをするのは至難の業だと感じているから、その典型としての、この篠田傳氏の姿でした。


                    よろしく。2009年5月20日       雨宮 舜
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表参道、バーバッコアのある夜

2009-05-19 08:58:40 | Weblog
 以下は、5年ほど前に出した本の一節です。私が自分の本を表参道辺りで配っている際のお話です。と言っても、路上で通行人に配るわけではなくて、そこに住んでいる知り合いに配って歩く話なのです。原文はとても長い章なので、一部分だけを抜き出して今日ここへ、載せて見ましょう。その日の夜七時半ごろのことです。私は根津美術館の方から、交差点をわたったところでした。そこから、舞台が始まると、皆様はお考えをください。


 さて、表参道の交差点を渡って、ブラジル料理のバーバッコアを訪ねました。これは、広いお店で、お昼はシュラスコランチで有名です。ブラジル風焼肉を八回ぐらいウエーターがサービスしてくれます。サラダバーも豪華。中年の主婦が一杯います。

 その何回目かに訪ねたときは、夜なので、入り口に店長ががんばっていました。彼はスキンヘッドの若く見える中年男性ですが、ある種の怖さも見せる人でした。だって、私はおズボンにリュックサック(バックパック)と言うスタイルで、
豪華な夜の表参道のレストランに、しかも一人で入る事を歓迎すべきお客ではないからです。

 彼が私の『入場を阻止してやろう』と内心で考えているのが、こちらにはわかりました。それで、私はバックから本を出して、バーバッコアに付いて記述している頁を開け、「あのね、この本は別にお宅の宣伝のためのものではないのよ。でも、お宅が舞台になっている章があるから、献呈をしたいのよ」と言いました。すると、彼は本を覗き込んで、数行読むと突然、頬をほころばせ少年のような顔に変化しました。それから先、どんな恐ろしい話が展開するか(ふ、ふ、ふ、本当は原発に付いて語るのですが)彼は知らないわけで、ただ、レストランに付いての記述が、とても的を得ていたので、喜んでくれたのです。ここら辺は創作をするものの、醍醐味です。

 そして名刺をくれました。私は日本に他にこの系列のお店があるかどうかを聞きましたら、ブラジルには他の店舗があるけれど、日本ではここだけだそうです。彼の名前には、スペイン風のファーストネームが付いていました。

~~~~~~~~~~

 さて、なぜ、原発について語るかと言うと、そこで、外人の素敵なビジネスマン(奥様はお医者様だそうですが)が、隣で一人でランチを取っているときに、私も結構狭いテーブルですぐ隣だったので、話しかけたのです。

 もちろん、マナーについては気をつけて、先ず、メモを書きました。自分がどういう人間であるかとか、そのほか、私は手書き字体がきれいみたいで、先ず、それに外人は驚いてくれます。それで、心が開いて、彼が、ヨーロッパから来た人で、結構、日本に長いこと、白金に住んでいること、会社は青山と言うか、このバーバッコアの近辺にあることなどを、聞いたり、母国での両親の話などを聞いた上で、ヨーロッパでは既に原発廃棄の方向へ向かっているという話を聞いたのです。

 素敵なビジネスマンが、そういうという形で、自分の秘かな信条をさらけ出したというのがその章でした。青山、神宮前、表参道は、(決して、スノッブだからと言うわけでもなく)、いろいろなお話の種を拾える場所でもあります。そして、休日となると若者も多い街だと感じます。では、2009年5月19日  雨宮 舜
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人が踏ん張るとき(YOSHIKI 他)

2009-05-17 23:11:05 | Weblog
 先日、NHK衛星第二放送で開局二十周年記念番組として過去の放映番組から、人気の高いものを、再放送する企画があり、七番目として、ガクトをマダカスガル島まで追跡した密着取材番組が放映されました。私はこの手の密着取材番組は本人にはマイナスであると思っている方ですが、ガクトは、スポーツマンではないし、取材意図が、当時のNHKの女性プロデューサーが『今、裸にしたい男たち』と言うくくりで四人の男性を選び、密着取材を開始しており、それも、ご本人が納得済みであるから、これは良いのだと思ってみていました。

 結果として判ったことは、NHKの大河ドラマで、ガクトが上杉謙信役を振り当てられたのは、この取材番組を見た人のキャスティングであろうと感じ、彼にとって、新しい側面の才能が開いたことが判り、それは、視聴者にとっては、ありがたいことであり、かつ、ご本人にとっては、どちらかは、わからないことでもあると感じています。噂によるとガクトは、秘密主義が崩れ、収入が減ったなどといわれていますので、そちらは、彼にとってはマイナスかもしれません。と言うのもこういう存在は一国一城のあるじであり、家の子郎党を抱えているので、私が「お金がありません」と言うのとはわけが違うからです。

*****

 さて、その次に今日、公開された(サンケイスポーツ、発、YAHOO NEWS および、AOL NEWS などに、載ったもの)で、同じく秘密主義のミュージシャン『Xの』YOSHIKIが、小松成美と言うノンフィクション・ライターが提唱した、100回を越すインタビューに応じ、自伝を出すということでした。それが、どうして、特別に大きなニュースになるかと言うと、本のできが良いのだと思いますが、YOSHIKI ご本人が相当な覚悟を持って、これまでの歳月を明かしているらしいのでそれが、ニュースになっているのです。

 二歳のころの穏やかな感じの、父との日の写真があるそうですが、その父君は自殺をなさったそうです。

 私はね。主人と時々話し合います。有名になることとか、成功することはどういうことなのかと言う点で。そして、「お前は社会的に、有名になってはいけない。繊細すぎるから」と何度も言われています。でね。それはいいのですが、出版の費用と言う意味で、やはり、自分ひとりですべてをまかなっていくのは相当に大変なことですから、そのポイントで、階段を上がって行きたいという思いもあり、(そして、実はそういう風に勧めてくださる友達もある)ますから、その点で、もう少し、世の中にでしゃばって行きたいと考えるときがあるのです。しかし、主人は反対です。「社会的な訓練が足りない」ともいいます。そういうことをずっと考えている段階で、この出版を知り、『なるほど。覚悟が座っていたのだ。このYOSHIKI と言う人は』と、納得をしました。

 私も相当、精神的には苦労を重ねておりますが、それでも、生活の基本では、主人の言うとおり過保護に育っているかもしれません。

 ところで、この自伝に戻れば、この取材は、1999年1月から始まっているそうですが、それと、並行して映像として、ご自分の自宅を撮影させた事があって、それを、見た事があります。そのときに、ブルー系統でインテリアを構成し、かつものがほとんど置いていない広い部屋を見て、何か内面の整理されきった、ポイントを感じたのです。そこには肉親がいる温かみとか、そのほかの・きょう・雑物が全く感じ取れない部屋でした。その時点では彼は、既に小松成美さんに、このいきさつを語りきっていたのでしょう。それで、ああいう部屋の撮影を許可したのだと思います。

 彼本人にとって、統一が取れています。それから、彼がだれか、大物女優さんと、デートをした(つまり、国際的な恋愛に入りそうだ)と言うニュースも、ちらとウエブ上に乗りましたが、そりゃあ、これほどの覚悟をしていたら、それもありでしょうと、そちらも納得です。



 ただ、ご自分のマイナスをさらけ出すのは、それだけ、自信があると言うことの裏返しでもあります。先ず、「名声とお金の側面では既に、大勝利した」と言う自信があるので、こういう自伝を出すことになったのだと思います。なお、今日の図版は、今度の本の挿絵と言うかカットとして用意したものです。YOSHIKIの幼い日の写真と連想が繋がっています。また、テンプレートを変更しました。よろしく。

  では、2009年5月17日     雨宮舜
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イラン(カシャーンの話)

2009-05-17 14:07:28 | Weblog
 今年の文学界新人賞にイラン人の若い女性が受賞しました。非常に喜ばしいことです。私は画家なので、海外旅行をするときは、文明が発達しているところが好きですが、トルコから、イランまでは、イスラム文明の前の文明遺跡も残っていて旅行をした結果、おいしい思いをする地帯だと思います。

 でも、そのイランに対してでも、日本人は一時期、偏見を持っていました。あれがどういう事が源泉として起きるかが不思議でしたが、『代々木公園に集まっているからけしからん』などと言う風潮があって、よくないなあと思っておりました。イランとのハーフである、ダルビッシュ君の大活躍等もあって、だいぶ偏見が薄れてきているのは好ましいことだと思っています。

 日本社会が右肩上がりの経済的な発展下にあるときは、まあ、自信があるといってみればそれもよいのでしょう。でも、それで、発展途上国を見下げるような発想をもってはいけないと思っています。品が悪いです。上等な国の国民であると辞任するなら絶対にとってはならないマナーです・・・・・だから、ずっと両国のために心配していましたが、今では、文学界新人賞を、イラン出身の(そしてハーフでもない)女性が取る時代です。よかった。よかった。

 ところで、そのイランで油田を開発するために長期にわたって技術を提供した日本の会社があったはずですが、どうしてか、その契約を、取り下げなければならないことになった模様で、それは、不条理だったと思います。日本が真の独立国なら、アメリカにとって、イランが都合が悪い時期に当たっても、その油田の方は別問題だと思っていましたが、あれは、復活が出来ないことなのでしょうか?

 まあ、その手の話題から離れて、純粋に文化の方へ向かいましょう。
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 先ず、テヘランについて、2、3日遊んだ後、B.C.5000年以上前の、それこそ本当に旧石器時代の、(捏造では有りません)遺跡が、発掘されている、カシャーンと言う町に向かいました。ちょうどこの文章の原文を書いたときに、日本で旧石器時代の発掘を捏造した問題が発覚して、本当に恥ずかしいことになっていました。ので、上記のような言い方になっております。

 途中のバスの中で、大学生たちと仲良くなり、ご馳走を彼らの、家で、してもらったのですが、この時代は文化的には雪解けにあたり、彼らは自由でした。ある一軒家を借りて、個室と、共同部分を利用して、その応接間に男子学生等も招いて、私たち夫婦も一緒に招かれて、お昼を丁寧に作ってご馳走してくれました。工学部系統の学生さんたちのようでした。私たち夫婦はバックパッカーと言うほど自由ではないが、それでも、地元の路線バス(ただし、主に長距離路線)を利用して現地の人たちと触れ合うのを楽しみにしているのです。

 湾岸戦争の、爪あとは、凄まじく、大きなホテルは、一階と、二階を辛うじて、使っていて、幽霊屋敷みたいでしたが、トイレに入ってびっくり、ゆらりと揺れるのです。よく点検をしてみると、爆撃の振動で、トイレの便器を、床に接着させているコンクリートが、こなごなに成っているのでした。そんなトイレをお客に使わせるのも、まあ、この町に、飛行場が、ないせいで、復興が後回しになっているようです。でも、この程度のクラシックな爆撃で済んでよかった。核兵器を使われると、劣化ウラン弾と言う名前でも、奇形児の多発があるそうですから、イランの普通の人々のために、その程度ですんでよかったと思っています。それで、夏だったせいか、外で食事を取るシステムになっていました。これは、気候がよいからだとは思いますが、そのほかに戦禍の結果、常に逃げられる体制を取って生活をすると言うマナーが身についたのではないでしょうか?


 カシャーンの大遺跡ですが、発掘跡地は、まるで、昭和新山を思わせるほどの、巨大な、残土が、あるのに、タクシーの運転手は、場所を知りませんでした。彼は、英語もできるインテリなのに、と思うと、戦争のセイで、国民の、教育とか情報伝達が、とても拙い事になっているのに、気がつきました。日本ですと、わが町の、名所を知らないような、タクシー運転手は居ないでしょう。鎌倉より、小さい町の、規模ですから。

 まあ、この町で、もう一つ感激をしたのは、復興途中の、イスラム建築の美しさです。15センチ、平方ぐらいの、モチーフが何千と、縦横に、連なる、浮き彫りが、出来た段階だったのですが、まだ、彩色がされていなかったのです。それで、乾燥した、肌色の、漆喰(またはつちの)の、色だけで、その浮き彫りを眺めると、世界の全ての、民族の、人間の心の、琴線に訴えるような、美が、そこに、表現をされているのでした。もし、彩色後ですと、それは、イスラム固有の文化になってしまいますが。・・・・・・・・特に、夕方の光が、斜めに指して、浮き彫りが、一色だけなのに、複雑極まりない、ニュアンスを表現していたのは、忘れられない思い出です。

 文化の成熟した国は、ぜひ、尊敬したいものです。今、その国が貧しかろうがどうしようが、尊敬したいものです。
    2009年5月17日            雨宮 舜
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『おばさん、お釣りを忘れているよ』

2009-05-16 10:05:26 | Weblog
 あれはあかるい陽射しのあたる午後、金沢八景駅のホームでのことでした。本当に久しぶりに屈託のない、元気な男の子に出会いました。鎌倉には清泉小学校というのがあって、下校時のこどもたちとはよく出会いますが、私立小学校の子どもたちは、親から、知らない大人と接触を持たないようにと教えられているせいか、外部に対して無関心なのです。
でも、その日、ホームにいたこどもたちは、制服を着ていなかったので公立・小学校のこどもでしょう。何も背中に背負っていなかったので、課外授業の帰りだったはずで、遠足ほど疲れてはおらず、元気一杯だったのです。

 私はお昼を食べないで墓参りをしたので、ホームでは、ミルク入りの紅茶の缶を自動販売機で買いました。百二十円を入れたつもりですが、今、本作りで頭を使いきっていて疲労困憊していたらしくて、十円一枚と間違えて百円硬貨を二枚入れたらしいのです。おつりがじゃらじゃらと音を立てて落ちてきました。つまり、九回も十円硬貨が落ちてくる音がしたのです。
~~~~~~~~~~
 私にはその音はもちろん聞こえました。しかし、今の私の脳は、シナプスが特別に複雑に動くようになっていて、その音の解釈にたいして、普通ではない複雑さを示しました。

 (これは多分ですが、十年以上前のパリでの情景を思い出しながら書き下ろしで文章を書いているせいなのでしょう。)

 一番最初に思い出したのは、上野の国立西洋美術館のロッカー前での光景です。ラトゥーヤ展という、大衆的に大人気を博した美術展の最終日近く、しかも五月の連休の中の一日で、お客さんが一杯でした。私は、A4のパソコンをいつも持ち歩いているので、(モバイル・ノートは、当時は高かったのです)ロッカーのあるところでは、常にロッカーを頼ります。

 こう言う国立のロッカーは、かぎ閉めの際に、一応百円を取ります。しかし、解錠をすると、その硬貨が戻ってくる仕組みになっています。私自身も何年間もその仕組みに気がつかず、百円玉を残したまま帰宅をしていたのですが、何時のときか、気がついて、その百円を自分で持って帰ることに、し始めました。
 しかし、その日は、何らかの強い視線を感じて、そちらを眺めると二十メートルくらいの遠い位置から立派な制服を来たガードマンが、こちらを凝視しているのです。そのとき、瞬間的に、『あ、残して行くコインを狙っている』と判ったのです。
 で、『私は、彼にあげるつもりはないわ』と思って、開錠し始めたら、私の隣の列のロッカーを開錠した紳士がいて、その人が予想通り、百円玉を残して去ったのです。私の荷物はバックパックをはじめ、とても多いので、その紳士ほど手早く、身支度が出来ず、ちょっと立つのが遅れたのですね。すると、さっきのガードマンが、まだ私がロッカーの前にいるにもかかわらず、私の手から三十センチほども離れていないその穴から、百円玉を回収していったのです。三十センチも体が離れていない位置でそれを、やって向こうへすっと行きました。その全体の様子や雰囲気から、美術館のための仕事をしているとは思えず、彼が、自分のポケットマネーにするために、急いでいたと見えました。

 すごい衝撃を受けました。今から五年ぐらい前で、社会全体が逼迫を、いまほどは、していなかった時代です。しかも彼の立場が立場ですからね。立派な制服を着ていて、・こ・そ・泥・(または美術品を盗む大泥棒)を取り締まるほうの立場の人間が、そういう惨めな姿を、人目(私の目のこと)をはばからずやるということに。・・・・・
 それ以来、私は、あの・・・・・縦が五センチ、横が四センチぐらいで、入り口にプラスチックのドアがついている・・・・・小さな箱、に、指を突っ込むのを特別にためらうようになってしまったのです。
 この金沢八景駅でも、自分では百二十円を入れたつもりですから、音で、『何らかの異変が起きたなあ』とも思いましたが、指を突っ込むのが嫌で、

・・・・・特に、そこにお金がなかったときに、回りの人が、あの上野での、私みたいに『さもしいなあ』と思う事が嫌で、黙ってそこを立ち去りました。・・・・・

 『多分、この機械は、缶ジュースが出た後で、私が入れたコインが落ちる仕組みになっているのよ』と自分を納得させながら。・・・・・

 五メートルも歩かないうちに、突然後ろから元気な男の子の声で、「おばさん、お釣りを忘れているよ」と呼び止められました。振り返ると、男の子が小さな右手にコインを溢れさせんばかりに握っているので、私が思わず手を差し出すと、手のひらに九枚の十円硬貨が落ちました。
 私は瞬間的に、これが間違いなく自分のお釣りであり、私が間違えて二百十円を入れたことを悟り、それをありがたく受け取り、「ありがとう。あなたって、偉いのね」といいました。

 すると、その周りにいた、八十歳ぐらいの、立派な体格の、ネクタイをつけた紳士が、「本当に君は偉いね」とフォローをしてくれました。誰もが、感心する活発さと、屈託の無さと、気働きをその男の子は示しました。

 私は感動しきってしまいました。金沢八景の駅は西側にこんもりした樹木が茂っていて、そこを乗り越えた輝く陽射しにホームは明るく照らされていて、黄色いお帽子をかぶった小学生たち数十人も輝いていましたが、その男の子の輝きは特別なものを発していました。みんなも彼に、注目していました。

 まっとうに、暖かく、育てられているこどものすばらしさとは、格別なものです。素敵なものです。美しいものです。誰も知らない場所で輝いているものこそ、すばらしいです。『日本は、マダマダ、大丈夫かな』とも思いました。
          では、今日はこれで。     二〇〇九年四月二十五日 

        初稿をその日に描き、ブログでは、五月十六日に載せる
                                雨宮 舜                   
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