銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

歯科医師会会長選挙で参謀をする小田先生 + 短大保育科卒の吉家夫人が30代で日本pen club会員に推挙された裏側?

2022-01-31 23:37:04 | 政治

  さて、今は、2月2日の午前二時です。以下の文章の途中に、相当の字数を挿入いたします。そこは、副題A と、名付けておきます。

副題1、『わたくしは蚊が飛んでいるぐらいの小さな出版社を営んでいる。その為には、ISBN番号をもらうために、また、バーコードをもらうために、数年に一度、書類を提出して、資格を更新しないといけない』

 あれは、2021年だったと思うのですが、今、書類を確認している暇がないので、2020年の事だったかもしれません。何をするにしても、いじめられる私は、その更新手続きで、散々苦しめられます。オフィスの所在ビルが、変化していたからです。

 しかし、タクシーが変なところで、私を下ろしたので仕方がなくて、カナダ大使館の周囲をぐるっと、初めて回って、ひどく広い事や、青山ツィンビルが、初期のタワービルであるからこそ、ものすごく材料が、豪華で、堅牢であることなどを知りました。三菱地所設計・施行ですって。これが、バーコード更新の方で、ISBN番号更新は、お茶の水で、行います。これも、一期前は、神楽坂だったはずで、例の、神楽坂女声合唱団の、練習場だったと、覚えていたら御茶ノ水へ、引っ越していたので、本当に面喰いました。

 で、だいたい徹夜する私は、行動を起こすのが、遅くなるし、主人の夕食を準備してから外出するので、お茶の水を歩いている時が、夜の九時ごろでした。で、コロナ禍が、始まっていたせいか。それとも、ショッピングタウンがないせいか、人通りは、ほとんどないという環境下で、道を歩いていたのです。で、お茶の水で降りたのですが、帰りは、どうしてか、水道橋駅に出るという事になりました。夜だから、よくわからなかったのだと思います。

 目の前に、ドーンと大変美しいビルが現れました。どこが、美しいかというと道路に面して、ギリシャ式の円柱が六本ぐらい、立って居て、それが、白い石でできていて、かつ、ピカピカに磨き上げられていたからでした。

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副題2、『ギリシャ式円柱のあるビルは、私としては、4つ目として見るのだったが、このビルを最も美しいと感じた』

 1960年代の事です。日吉の慶応高校が使っているビルの北玄関に、ギリシャ式円柱が立って居ました。しかし、戦時中の空襲を逃れるために、黒で、迷彩が、施されていて、かつ、コンクリート製だったので、美しいとは、感じませんでした。

 1997年にギリシャを訪ねて、アテネのアクロポリスの神殿を見ます。これは、ものすごいもので、本当は大理石でできているはずですが、風化していて、不透明な乳白色になっています。まあ、美しいです。しかし、ここの文章は、その神殿を、模倣した建築物を語る場です。 

 1999年と2000年にの秋三か月ほど、ニューヨークにいて、郵便局を多用します。すると、中央郵便局に、30本ぐらいギリシャ式円柱が立って居るのを発見しました。その前に石段が10段ぐらいある形で、見事なビルですが、えんちゅうはコンクリート製だったと、覚えています。

 その次にいつだったか、青山を歩いていたら、突然に、伊藤忠ビルに出くわします。その入り口に太いギリシャ式円柱が四本ぐらいたっています。赤い色だったので、庵治石という御影石のはずで、非常に高価なものです。しかし、私は、『うーん、そうですか。お金持ちなんですね。瀬島隆三が、特権をひらめかせられるのも、このビルのおかげなのですか?』と、感じただけで、美を、感じたわけではありません。

 しかし、これらの体験を経たうえで、水道橋駅そばのビルを見て、驚嘆をしました。6本程度のギリシャ式円柱で、飾られているのですが、それが、真新しい感じで、ピカピカなのです。磨き上げられている石が使われています。大理石を使うのが、ギリシャの本物に近いという形になりますが、大理石は弱いです。だから、地震のある日本で、使われているのは、しろ御影石ではないかなあ?

 ともかく、建築物として、お金がかかっています。そしてきれいです。でね。私は外資系の金融会社だと、思い込んで、どこかに何かが書いていないかと、思いました。ビル本体にな、何のロゴも刻まれていません。で、きょろきょろしていると、隅に角柱が立っていて、東京歯科大学とありました。ところで、ここで、ちょっとお断わりですが、私が、それだけを見て、通り過ぎてしまったらしくてどうも、これは、病院らしいです。特にgoogle mapを見ると、そこは、病院となっています。まあ、病院だと学生を吸い込むビルよりも豪華になる・・・・という形なのかもしれませんが、

 まあ、驚きました。主人が手術を受けた、徳洲会の、湘南鎌倉総合病院は、棟によっては内装が、非常にモダンで美しいです。しかし、外観が、こんなに豪華だと、言うわけではありません。夜だったので、周辺に人間が一人もいないということと、照明が煌々と輝いていたのも、美しさをさらに際立たせていたのでしょう。

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副題3、『ここで、話は、一つ飛ぶが、私は名古屋駅構内で、30人程度の、30代の青年がたむろしているのに出会った。ブロガーとして好奇心旺盛だから、どういう集団なのだろうと、疑問に思って、中の一人に問い合わせた。どうして疑問に思ったかというと、みんな美形で、かつ上品で、かつ、衣服や、カバン類が、上等だったからだ。すると青年は、答えて、「歯医者です」といった』

 これは、学会があったのだと、思います。そこに、300人から、500人が参加したとして、同じ大学を出た、しかも、上下、5年以内の学生が、集まって、これから、一緒に東京へ帰りましょうというところだったでしょう。

 ああ、受験勉強をした人たちなのだろうなあと、思ったのです。それは、突出して背が高い人はいないし、突出して肥満体の人もいなかったことで、わかりました。ただね。歯医者さんというのが、医学部の中でも、お金持ち集団であることはわかりました。もう全員そろって美形なので、お母さんも美女だと推察されるからです。二代目もいるだろうし、三代目もいるだろうと、思いました。そういう形で、美が煮詰まってくるのでしょう。

 美術系の大学の学部で、建築学科が、お金も儲かる学部です。デザインもそうかもしれないけれど、建築家の方が安定していると思います。歯学部は、医学系の中でも、突出して、お金持ちなのだと、感じました。名古屋駅構内での、五分間の観察によってです。それが、時制的には、古くて、その次に、水道橋の東京歯科大学病院の、豪華で、美しい建物を見たわけです。で、歯医者さんが、とても、お金持ちだと、言うことは認識しました。

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副題4、『ここで、話は、二つ目として飛ぶが、歯医者さんだったら、女性でも、超、お金持ちになるケースもある』

 昔、私のお友達(マダム吉家)の従姉妹日隈(ひぐま)さんが、歯医者さんで、そのご自宅にお招きを受けたことがあります。すると、広い玄関(患者用ではない玄関・・・8畳ぐらい)に、金塊の御用聞きが来ていて、女医さんは、無造作に、「二枚ね」と、注文を出していました。金塊の売買は、二キロが普通なので、現在の貨幣価値に直すと、2000万円になります。しかし、その時は私は、金塊のお値段を知りませんでした。当時は、四キロで、100万円だった可能性もあります。だから、女医さんが『自分がどれほどに、えらい人であるかを、デモンストレーションをしているのだ』とは、まったく、気が付きませんでした。

 その時、未就学児童だった、我が子二人もお招きを受けていて、その広い玄関に、我が子のサンダルが、二つ並んでいました。そして、お兄ちゃんの方のサンダルを、歯医者ではない、私の直接の友達の方が見とがめて「どうして、女の子用のサンダルをはかせているの?」と、質問をされました。

 私は内心で、『あれ、子供用のサンダルに、男の子用、サンダルと、女の子用サンダルの区別があるのかしら?』と、思いました。でも、そういわれてみると、ひもが細くて、六本ぐらい重なっている上に、かかとが高いデザインなので、確かに、女の子用だったかもしれません。

 で、そのころの私は、自分が貧乏だとは、思っていませんでした。それに、今の様に弾圧を受けているわけでもないので、まったく無防備で自分の発言が、どういう効果を発するかということを、顧慮するということがありませんでした。で、こう答えました。「あのね、下の子に使えるから、女の子用を買ったのよ」と。二人は、1歳七か月の差で、生まれているからです。

 これは、旧神奈川県立近代美術館本館の職員用玄関前で、現在では【鎌倉殿の13人】特別展が開かれる、鶴岡八幡宮文華館・付属カフェが建って居る場所です。中央が私で、左右が子供です。右の男の子には、白い男の子用の靴を履かせているし、左の女の子は、赤い女の子用の靴を履かせています。

 歯医者さんの私邸で、サンダルについて質問を受けたのは、この写真より半年前か、または、半年後の夏だったと思います。

 で、倹約の思想から、おさがりを使いたいと、思って、両方の子に、女の子用サンダルをはかせていたわけですが、私の友達と、その従姉妹の女医さんは、顔を見合わせて、「ありえない」と言いました。

 私はこの時は別にダメージは受けませんでした。だって、女医さん(特に歯医者さん)と張り合っても仕方がないですから。尚、女医さんの名誉のために言うと、2000万円というのは、今の金の高さが反映しているので、1970年代は、十分の一のお値段だったと思います。だから御用聞きにひょ、ひょいと、注文を出す、そういう軽い買い物だったはずです。

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 これ以降、副題Cまでは、2日目に入れる挿入です。

副題A、『これは、差別的発言ではない。政治的発言なのだ。つまり、1980年ごろには、すでに、私と関係がある人を大出世させ、私の方を取り残していくという手法がすでに始まっていたのだった。

 というのも、鶴見の短大の保育科を出ていて、母であること、とか、主婦であることの意義を説いていたマダム吉家が、35歳ぐらいにして突然に同人誌に、作品(小説? または、評論)を、発表して、日本ペンクラブの会員になったと聞いて、私は、キツネに鼻をつままれた様な気分に陥った』という挿入を入れて、初稿に戻ろう。一部繰り返しになるが、それは、言いにくいことだから、逡巡があったので、そうなってしまう。お許しいただきたい。

 ところで、これは、言いたくなかったことですが、このマダム吉家が、ヒロシマに引っ越して、そこで、30代のうちに日本ペンクラブの会員になっています。彼女は、鶴見の短大の、保育科を出た人で、専業主婦の大切さを説いていたので、文筆業へ入ったということが不思議でした。

 鴨居の東本郷住宅時代のママ友ですが、ご主人が外語大卒なので、国際基督教大学の優秀さ(特に、1960年代)を知っていて、私を立ててくれていました。圧倒的に、上においてくれました。しかし、内実を言うと、彼女に私は支配をされていたのです。

 ::::::::ここが、この鎌倉雪の下における、安野夫人と前田夫人との関係の分析に役立った経験です。表に見えることと、内実は、違うケースがあるのです。::::::::

 しかし、ヒロシマから、「日本ペンクラブの会員になったのよ」と、言う電話をもらったときに、

 CIAエージェントたちのやり方を知ったのです。私と知り合いである限り、出世できる。そして、私を置いてけぼりにすることで、私を悲しませ。早くノイローゼにさせて、つぶしていこうとする、そういうCIAの黒い仕組みに気が付き始めます。マダム吉家は、その最初の例だったかもしれないのです。

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副題B、『経験が、その後の、生き方を決める。私が、鎌倉雪の下に引っ越してきたときに、絶対に、ご近所づきあいをしないと決めたのも、その15年ぐらい前に、‥‥リアルな世界での、行動様式においては、・・・・・吉家夫人に、支配をされていた・・・・・ことが大きい。毎日、5時間以上、我が家で、一緒に過ごしていた。

 彼女は、その後、お子さんを二人とも医者にした。坊ちゃんの方は、脳外科か、心臓外科のはずで、花形中の花形ドクターになった。外科はもともと体力がいるが、そのうえ、神経を使いぬく科目の医者になったわけだから、坊ちゃんも、すこぶる付きで体力があり、それは、母親譲りだと、思う。

 二人だけで、毎日午後、一緒に過ごした。で、子供たちが、全部我が家に集まった。吉家家の、子供と我が家だけというよりも、そのグループ、全員の子供が、何時間かは、我が家にいた。子供は好きな方だ。だが、子供たちだって、団地の庭だけで、5時間を過ごすことはできない飽きてしまう。したがって、ときどきは家に戻ってくる。そうすると、子供を見守りながら…‥ときどきは注意をする必要も出てきた。そして、非常に内容の濃い会話を、吉家夫人とかわすのだ。それは、からだが特別弱い私にとっては、疲労困憊する、毎日だった。この生活の40年後ぐらいに、主人が私に、「お前は、人をあしらうことができないから駄目なんだ。だから、疲れるのだ」といった。

 1970年代初めのあの頃、もし、吉家夫人に、「お茶会は、週に二回にしましょうよ」とか、「週に二階は、お宅で、遊ぶのでいい?」とか、定案出来たらよかった。私は、自分の事はバカではないと思っている。しかしそれ故にこそ、相手の立場とか、相手の心理状態を考えてしまう。

 結局他人とは、本当に理解しあうのは、難しい。したがって、離合集散が、自由な、遠くの人以外は、仲良くしない方がいい。ともっく、他人というのは、なかなか、相いれないところがあるのだ。というのも、しかし、生きていくために、他人と、強い結びつきがあった方が、いい境遇もあり、または、そういう時期もあるという事、そこのすり合わせができるかどうかなのだけれど、私は、7歳まで、一人っ子として育っているし、小学校に、入学するまで、ご近所というものがなかった。船橋市の塚田と、言うところに、東京の人が疎開用住宅を建てている地域だったので、すべての家が、広い敷地を持っていて、しかも、三軒しか家がなかったのだから。で、子供時代、友達と喧嘩をしたことも、兄弟げんかをしたこともなかった。それで、自己主張ができない子ども、から、そのまま、自己主張ができない大人になってしまっていたのだった。

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副題C、『1960年代の分譲マンションとは、まだ、そこでの、暮らしにすべての人が慣れない時代だった。総戸数200戸というのは、グループとか派閥とかができやすい。そして、引っ越してくる前の、生活ぶりをみんなお互いに知らないわけだから、ここで、頭一つ抜け出して、エリートとして、他者に君臨をしたいと、思う人も出てくるわけで、私だけが、苦しんでいるわけではなくて、ほかにも苦しんでいた人は、多かったと思う。5~8歳ぐらい、年上の主婦で、お世話好きで、いいとこ育ちだと、一目で、わかる奥様が、ノイローゼになったとも聞いた。あの頃のマンション暮らしでは、無理もないと、思う。

 で、私も、ここで、暮らしていく限り、吉家夫人と絶交をしたら、絶対にダメだと、わかっていながら、吉家夫人が、時間、体力、そのほかで、私を全面支配をしていることについては、疲れ切っていて、早くここを抜け出したいと思っていて、実家に愚痴を言いに行った。すると、実家が助けてくれて、北久里浜に、30代のサラリーマン家庭だと、絶対に建てられない程度の、すてきな注文住宅を、建てて引っ越すことになった。

 この家が、すてきすぎたので、北久里浜の、同じ高さの住宅団地(池田分譲地)に住んでいた、10歳ぐらい年上の、幼稚園の先生に、娘がいじめられることとなって、本当に往生をした。2月生まれなので、まだ、三歳の時から、担任にいじめられたこととなる。

 恵まれた育ちであるということが、時にはマイナスになる。茨城県で、美しいお顔で、うつくしいドレスを着て、ピアノを弾いていたお嬢さんが自殺をした。地元の教育委員会に、調査を依頼しても真相がわからなかったので、両親は、文部科学省に、上訴(直訴)した。それで、ニュース化して、ご両親と、お嬢さんの動画が、NHKテレビ画面に出てきた。それで、私はすぐ納得をした。これでは、受け持ちの先生が、この母親に嫉妬するでしょう」と。この、子供の親の学歴や、職種、収入に対して、受け持ちの先生が嫉妬して、子供をいじめる例は、あまた見てきた。ところが、教育員会ほかの組織が、真相を明らかにしないので、世に出てこないだけだ。ところで、娘のケースだけれど、先生の方には、やがて、一般人が、声高に、噂をする恥をかくこととなった。それが、二うも、先生を襲った。それで、私は、勧善懲悪という・・なた・・を神様が振るうのを知ったのだ。

 しかし、当時は、十分に高かったマンションを買ってのち、たった、四年以内に、一戸建ての注文住宅を60坪の敷地に建てたので、鴨居の周辺の人たちをひどく驚かせた。

 で、今思うと、吉家さんが、自分の従姉妹・日隈先生(女性だが、歯医者さんである)の、自宅へ一緒に行きましょうと誘ってくれて、日隈先生が、患者用とは別の、6畳程度の広さのある、内玄関で御用聞きとして訪ねてきた、金塊業者に「二枚ね」と軽く言って金塊二キロを二枚買うのをわざと、見せつけられたのかもしれない。偶然だったかもしれないし、策略だったかもしれない。

 私は、自分が、経済的に、恵まれていると、他人の嫉妬を浴びてしまうということには、1999年とか、2000年ににゅーよーくへ行って、自分より若い、日本人女性に嫉妬されるまでは、ほとんど、気が付いていなかった。ニューヨークに住むと、元日本人でも、表現がとても派手になるので、見事にその流れに気が付いた。

 この日隈医院訪問の、三年後ぐらいに、吉家夫人が、日本ペンクラブ会員になったと聞くと、その後ろに、すでに、CIAエージェントがうごめいていたかもしれないのだ。だって、彼女は、毎朝げんかんで、キスをしてからご主人を送り出すと、言っていた。

 彼女は、世の中の風潮に逆らって、主婦として、母親として、何が必要なのかを私に力説していたのだった。マスコミの風潮としては、短大卒よりも、四年制大学卒が上で、保育科よりも、英文科に入る方が偏差値がたかいはずで、上であるし、専業主婦よりも、子供を保育所に預けて、仕事をしている女性の方が上だと、言う考えが主流だった時代だ。それが、上位の女性の、信条となっていた時期に、全く違うことを、吉家夫人は、主張をしていた。

 そして、彼女が小さいころ、手塩にかけて育てた、お子様二人は、健康で、お父さんが、医者ではないのに、医者になった。坊やの方は医者の中でもエリートであろう、脳外科医になったと聞いている。

 なお、私が、子供は絶対に自分の手で育てるべきだと、主張するのは、吉家夫人の影響ではない。自分自身の体験から言っている。今、世の中に、蔓延している、引きこもり、そして、無職である男性は、未就学児期に、母親に育てられてはおらず、保育所で、育っているはずだ。

  保育所がなぜいけないかというと、いわゆる経験値が、足りなくなるからだ。ドラゴンクエストで、経験値がたまっていく。あれを、実生活上でも、同じだと、考えてほしい。別にパンダを見せに上野に、連れて行ったり、カイル君のピアノ演奏会に、言って、はつらつとした作曲行動を見せる必要はない。または、ライオンキングを見せに連れて行きなさいと、言っているわけではない。そうじゃあなくて、毎日の、普通の生活の中で、学ぶことがあるのだ。「幼稚園で、英語を教えたりするのを、いいことだ。それをあなたも、やらせなさい」と、言っているわけでもない。幼稚園なんてお友達を作るのが、第一の仕事であって、何も教え込んで、くれない場所だと、考えた方がいい.それで、いいのだ。帰ってからの自由遊びが大切なのだから。

 その自由遊びの中で、子供の本当の姿が現れる。さてそれをどうするか。そこから先が、親子の、真実に必要な時間なのだ。どういう風に叱るか、どういう風に抑えるか、または、抑えないのか? 試行錯誤を続けながら、自由遊びを続けさせる。

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 そして、どうして、ここで、これを記載するかというと、小田歯科医院の院長先生が、たった、二つしか椅子の無い、六畳程度の、小さな、診察室で、待合室が、四畳半程度の、小さな規模で(しかし、花に満ち溢れた、美しいクリニックですが)、赤ひげ先生として、お金儲けもせず、慕われていらしたのに、突然に、歯科医師会会長選挙の参謀という要職に就き、どうも、それとバーター取引で、私を、隠微にいじめる様になったのではないかと、推察されるところがあるからです。

 そして、そういう流れは、1965年の秋、ICUキャンパス内で、後ろから首を絞められて殺されそうになったことに端を発しているのでした。誰がやったかというと金髪碧眼のエール大学からの、交換留学生、ベイカーさんです。

 なぜ、そんなことをされたかというと、ベイカーさんが「僕は、三鷹警察署の署長と親しいから、なんとか、棺とか、と、日本語で、言ったので、どうして、純粋アメリカ人エリートが、三鷹警察署所長と親しいのだろうと、思って、その疑問が顔に出たらしいのです。それで、ベイカーさんは、自分の本当の姿を知ってしまった、私を殺そうとして、何度も失敗をしているので、心理的作戦に変更していると思われます。そういう事です。

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副題5、『ここで、話は、三つ目として飛ぶが、私は、歯科医師会会長選挙について調べる必要が出てきた。しかし、その内情については、一般人には公開をされていない。それで、どうしようかなあと、考えあぐねて、歴代歯科医師会会長と、言う項目をグーグルで、探し当てた。

 その結果、目的を達成したのだけれど、その、歴代会長を、並べたエクセルの表の次に、添え書きがあった。

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これまでの歴代会長は、東京歯科大学日本歯科大学大阪歯科大学日本大学歯学部の、いわゆる伝統校(旧制歯科医学専門学校)からのみ輩出されている。

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 あ、そうか、うちの父も、秋田鉱専(石油科卒)と言って、石油元売り会社に入ると、ホワイトカラーとして、技術指導に当たる立場なのだけれど、なるほど、戦前から設立されている歯科大卒でないと、歯科医師会会長にはなれないのですか。そうか、そうかと、納得をする思いがあった。あの例の金塊の女医さんは、戦後設立された歯科大の出身だと、思う。神奈川県でも、二つ歯科大が、戦後できているが、全国廿浦浦に、多数の歯科大が、設立されたと思う。だけど、歯科医師会会長を選出できるのは、上の四校だけで、小田先生は、東京歯科大の出身だ。だから、エリート中のエリートだった。

 ここで、やっと、今シリーズとして書いている、カリタス小通学バス襲撃事件に戻ってくる。それは、私に言わせると、水沢勉、現葉山近代美術館館長と、小田歯科医院の院長先生と、沢野夫人を守るために起こされたのだが、

 特に小田先生が、心理的にえぐるという形でいじめてこられたのは、そして、それを書くことが、非常にヘヴィーで、つらかったのだが、歯科医師会会長選挙を、一般人が、読める範囲で、グーグルで調べるだけで、小田先生に、関するミステリーが、さらに解けてくるのだった。

 あるときに小田先生に、出身大学を聞いてしまったことがある。私は東大に勤務していた時に、地下鉄丸ノ内線で、すぐ隣の駅に在る、医科歯科大学に治療に通ったことがある。国立大学で、入学の偏差値は高い。ただ、技術は、だめだった。まだ、大学院だからかもしれないが、幅3ミリぐらいの、金属の輪で、歯茎を挟んだまま、一時間以上、治療を続けられたので、その痛さに、仰天して、二度と行かない。痛い、痛いと、言ったのだが、その輪は、ゴム膜を、歯の周りにモモンガの被膜みたいに、張り付ける作業をするためのもので、先生には、私の、歯茎が見えなかったのだ。ゴム膜をはずすと、金属の輪で削り取られてしまった歯茎が現れたので、先生は、謝罪をしてくださったが、あの痛さは、忘れられない。だけど、お品は、よい。本当に上品な方だった。

 小田先生は、その医科歯科大学の大学院生と、比較すると、上品さと、技術力の高さと、インフォームドコンセントの丁寧さで、バランスが取れていて、群を抜いて上にいる歯医者さんだった。

 で、東京歯科大の卒業だから、歯科医師会会長選挙の参謀を務められたのだ。だけど、そこを私は誤解をしていた部分があって、しかも、それをブログ化しているので、ここで、訂正をしておきたい。

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副題6、『小田歯科医院は、院長先生が2022年現在、80歳を超えておられるし、大腸がんを患っておられるので、最近では、診療時間が非常に短かった。週に三日、しかも、午前7時から、午前11時までだけ。でも、去年まで、グーグル検索で、情報が大量に出てきていたのに、本日は、70本のうち、三本だけだ。それも、住所と電話番号だけである。また、予約はラインで、と、あった。ちょっと、心配をしている。おやめになったのではないかと思って。だけど、書きたいと思っていたことは、書いておこう。

 ある時期の診療中、外部から、頻繁に電話がかかってきて、しかも先生本人が対応をされる。普通の患者からの電話、または、技工士などからの、電話だったら、衛生士か、同じく資格のある奥様が対応される。で、どうして院長先生が、電話に出るのだろうと思って、けげんな顔をしていると、「今、歯科医師会会長選挙の最中で、僕は参謀をしているのです」とおっしゃった。そのワンクールの治療中の別の日に、「僕が推していた候補は、だめだったのです」と、おっしゃった。

 私はその時に、先生が推していらっした候補は、医科歯科大学などを卒業した、清貧の人で、あかひげ先生と、言ってよい小田先生が、押す方だけに、金権候補には、負けたのでしょうねと、考えた。

 しかし、ここ、2,3日、この選挙について小田先生が、お話にならなかったことがわかるかもしれないと、思って、グーグル検索をしているうちに、自分が考えていたことが間違っていた子かもしれないと思いなおした。というのも、

 歯科医師会会長は、

これまでの歴代会長は、東京歯科大学日本歯科大学大阪歯科大学日本大学歯学部の、いわゆる伝統校(旧制歯科医学専門学校)からのみ輩出されている。

 しかも、小田先生は、東京歯科大学卒である。学歴不詳の、二人を除くと、23名残る・歴代会長のうち、東京歯科大卒は、8名で、断然トップの回数、任命されている。しかも、1991年以来、会長についていない。それでは、東京歯科大卒の、小田先生が、母校の名誉を守るために、戦いに挑んだのだろうか? うーん、わからなくなった。

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副題7、『小田先生の行動には、二重性があったかな?』

 つまり、歯科医師会の悪弊を、改革するために、身を挺されたのだったら、普段の小田先生と整合性がある。しかし、・・・・・本当に、まさかとは思うが、・・・・・

 どこかから、頼まれておられないだろうか? ここで、ちょっとひと働きしてください。ご褒美は、東京歯科大学の教授の椅子です。(なお、小田先生は、教授職にふさわしい人材ではある。立派な方だ)しかし、その代わりに、やっていただきたいことがあります。それは、川崎千恵子に、お宅のお孫さんの、中学受験の話をしていただきたいのです。特に鎌倉学園の部分を強調して、伝えてください」と、頼まれて、おられないだろうか?

 人口肛門にしたうえで、それを、普通の大腸を使う方向に、直すべき、再、手術ができるものだろうか?

 まさか、まさかと思うが、待合室での、いじめ方とか(患者として、治療室へ入れる、方式が全く異なってきた)、トイレの、コンセントを、ガムテープでふさいであった日々(これは、東京都の図書館が、やっていた時期がある、対・私用、いじめだったが)

口内炎ができても、以前のようにケナログという軟膏の処方を出してくださらない。抗生物質が、耐性菌を作るから駄目だそうだ。だけど、それは、私から見ると、対わたくしいじめの薬事法改正だった。

 そして、これが、最も重要なことなのだが、「仕方がない。自宅にある古いケナログの、使いかけのチューブを絞り出して使おうと、思い直して、自宅の薬箱を探すと、一本もなかった。ここで、CIAエージェントたちと小田先生が、連結してしまった。

 其れゆえに、あのしつこく、繰り返された、お孫さんの、私立中学受験成功の話は、私の心の中を無残にもえぐる攻撃だったということとなる。

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副題8,『今は、大分に、隠棲してるという吉家夫人と電話を交わす機会があった。彼女は、日田の山林地主のお嬢さんなので、広い敷地に、立派な家を建てて、楽しくご主人と、田舎暮らしをしていると見えた。ただ、田舎暮らしといっても、そこは、高級住宅街であって、彼女は、ご近所から、今では、おお奥様と、呼ばれているそうである。「奥様ではないのよ。おお奥様なのよ。ほ、ほ、ほ」という感じだった。

 その理由だが、お子様を二人とも、医者にしたからだそうだ。その件だけど、これは、裏口入学ではないと、思う。実力だと、思う。しかし、もし、うちの子が、私立中学受験時に、わざと、裏から、不合格とされなかったら、

 今の職業的立場よりも出世していると思う。というか、給料が高くもらえていただろう。

 ここで、小田先生が、お孫さんの、中学受験の成功をしつこく、しつこく何度も、繰り返されたことに意味が出てくる。

 そして、それは、やがて、ゾフルーザ問題へと発展をし、さらに、カリタス小、通学バス襲撃事件へと発展をしていくのだった。

 すみませんが、ここで、本日は、お別れとさせてくださいませ。大切なもの(実印、マイナンバーカード、証券会社の、現金出納ができるカード三社分、貸金庫の鍵、三つ、貸金庫に出入りできるカードが三枚 えい)が一週間、行方不明だったこの一週間は、私は、ストレスで、疲れ切ってます。

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歯医者さんが、謎かけをしてくる言葉から、息子の中学受験は、裏側から不合格にされた事を知った

2022-01-28 22:32:12 | 政治

 今は、22-1-29の夜11時半です。以下の文章に加筆を始めます。初稿の途中で、加筆した部分には、アンダーラインを敷いておきます。

副題1、『子供時代の、隣家のおじさま、増田忠さんとの、やり取りは、私に、ほぼ、一生、消えない苦しさを与えた。そう、言ってよい。彼は、純粋な日本人なのだけれど、ニュアンスとしては、ショパンみたいな外貌の美しい男性で、内面は繊細で、高度なインテリ紳士だった。1950年代には、深い敬愛の対象だった。そして、私にとっては、20~25歳は年上で、親にあたる世代の人だった。が、1997年に、二人が、突然に再開し、急にお付き合いを始めたのだが、その、当時、彼が同居している(?❓?❓?)息子さん一家とは、話も交わさず、ご飯も一緒に食べない生活を、送っていたらしい。

 そこから来る寂しさのあまり、隣の娘だった私に過剰に甘えすぎて、暗喩的だけれど、「寝ましょう」と誘われたので、しかも、私にとっては、非常に、大切な仕事である、油絵をけなされたので、しかも、早朝5時半から一時間も続く長電話をもらったので「もう、お電話をくださらないで、」と言ったのだが、後日の、寺沢夫人との電話による短いお話から、増田さんが、相当深く傷ついたのもわかった。

 増田忠さんは、私が、偏差値的に優秀な子供だったと言う事は知っていた。しかし、1997年には、私がひどく、成長し、「彼は、昔の彼ならず」の典型で、頭がさらに良くなっていると言う事には、気が付かなかった。私の方は、考えることが大好きで、毎日、毎日、思考を続ける。それで、驚くべき深さで、哲学的、心理学的、熟成度を、重ねていたのだが、増田さんは、女性というものをステレオタイプ化して、考える人だったのだろう。態度が、優雅で、静かだったら、とても、おとなしくて弱いと、彼は、私をみなし、私が、ちょっとしたことで、違和感を感じると、そこから、100倍ぐらいの、情報をつかみ取ってしまうほど、深く、考え及んでいく人間だと言う事までは、気が付かなかった。

 いや、気が付いていたのだけれど、「大丈夫。セックスへのお誘いに、きっと、乗ってくるだろう」と、思ったのか?、または、久しぶりに芽生えた男としての自分を優先してしまったのか? 増田さんとしては、私に甘えることが、快適な湯温のお風呂に入っているみたいに快適だったのだが、小さな策略を弄してしまったのだ。暗喩的言葉で、セックスに誘うという小さな、しかし、私としては、絶対にうなずけない罠を仕掛けてきたのだった。

 私は、最近では、このブログで、「こざかしい仕掛けは大っ嫌いだ」と、書いている。雪の下のご近所様が、次から次へと、ばかげた仕掛けをもって、何を考えているかを探ってきたり、ノイローゼにさせようと、わなを仕掛けてきているので、「そんなことをしていると、いずれ、実名で、あなたを分析して行きますよ。特にその醜い姿を」と、警告するつもりで、その宣言をしているのだが、1997年とは、まだ、メルマガも、ブログもしておらず、かつ、ニューヨークでの、複雑で、大量の心理的成長をもたらした体験もなかったので、ぶっちゃけた会話をする能力もまだ獲得しておらず、ただ、お茶や、食事を一緒にして、普通の会話を交わしている限り、私は、とても、おとなしくて弱い人間に見えたのだろう。

 散らかったベッドの写真を見せて、「ちえこちゃん、かたづけに来て、」と言ったことで、思いがけず、乗ってこないので、「自分がセックスに誘ったと言う事を、あの子は、わかっていて、断ったのか、そうではなくて、ただ、ただ、単純に、「そこまでのお世話はできません」と、断ったのかが、気になって、気になって仕方がないから、眠られなくなって、徹夜することになってしまった。

 それで、とんでもない早朝、五時か五時半から、一時間も続く長電話をかけてくることになってしまった。私は、彼の電話の内容やら狙いはむろんわかっていた。しかし、背後に、二人の20代の子供がいる。かつ、一階に主人がいる。一階に寝ていたわたくしが、二階においてある受話器を取り上げるまで、10通話は鳴らしたほどだから、三人は、むろん、目が覚めている。ただ、こういう時間帯の電話だから誰かが死んだのだろうと、思っているみたいだった。私の方は背後の三人が気にかかるから、「増田さん、本当に、ああいういい方はやめてくださいね。〇〇ちゃん(娘さんの名前)が、知ったらどうするつもりですか?」などとは言えない。ただ、ああ、といったり、無言で返答をするだけだ。すると、増田忠さんは、話題をそらして、別の事を言って、同情を得ようとする。「おお、なんとこずるいのだ。はっきりせーよ。ポイントに入って、謝罪せよ」と言いたくなるが、昔は、ジャンコクトーについて、うんちくを傾けて語ってくれたオジサマだ。こっちはあくまで、ああとかフーンとか、言うだけだ。とうとう息子が起きてきた。彼は、7時に家を出る。後10分で、朝食を作らないといけない。で、「増田さん、こういう電話はもうよこさないで、ください」といった。それに<<<<お付き合いそのものもやめたいです>>>>というニュアンスも込めた。

 もう、取り返しは付かないことだが、増田さんが、真実安心できる方法がほかに、あっただろうか? 少し考えてみよう。

 そこでは、どんなに心配でも、ともかく寝て、昼間、鎌倉の我が家を訪問をしてくれる方がよかった。しかし、腰が悪くて、痛いという状態では、この雪の下の石段を上るのは無理だったのか? 彼には悪気は無かったと思う。それにこれは、政治とは、1997年の時点では無関係だった。しかし、やがて、歯医者さんの態度が変わってきて、それによって、大きな政治問題へと化してくる。

 1997年当時は、単純な話だった。だが、彼は、軽はずみに過ぎた。で、そのいきさつは、消えない印象を私に残した。今、増田家の両親も亡くなり、我が家の両親も亡くなり、当時日吉の実家の近隣で、もっとも、誠実で賢い人だった寺沢夫人も亡くなった。水沢家の両親がどういう風になっているかを知らないが。・・・・・フロイトの論理は、ここでも正しかった。

 増田さんと、実の子供である息子さんの間には、真実の愛情というものが通じていなかった。同性の親子は、仲が悪いというのが、そこに現れていたのだった。そして、二人とも、それを認めておらず、かつ、重要な問題だとは、考えていなかった。それでも、同居直後はよかったのだ。無事だった。どうしてかというと父親の方に、大金があり、かつクラシック音楽という忠さんの趣味の世界が華やかで、それで、父が満足をしていると、息子さんは、考えたのだろう。同じビルに住みながら、一切の交流がない生活を送っていた。増田さんは、将来は非常階段として使う予定であっただろう、鉄製の、ビルの外についている階段を利用して、トボトボと、暗い三階の家(スペースは、14坪=40平米から、16坪=50平米)の、冷たい部屋に帰る。壁一つ隔てて、三階の一部を使っている三人のお孫さんの声が聞こえるだろう。しかし、交流することができない。彼らはビルの内側の階段を使うので、普段顔を合わせることもないのだった。それは、お嫁さんが、武蔵野美大卒の才媛で、自分の仕事にとっては、舅の世話や、介護が、邪魔になると考えたからだった。

 ところが、父親の忠さんは、裕福な子供時代を送ったために、かつ、サラリーマンとして、高給をとっていたために、倹約とか、計画性というものがなかった。で、10年のうちに、7000万円近くが消えてしまっており、それと、血のつながりに、あまりに依存をしてしまったのが、増田忠さんの悲劇だ。増田忠さんは、本当は、ご長女様と、同居するべきだった。しかし、彼女とは、姪という間柄だったので、増田忠さんは、遠慮してしまったのだ。で、100%の親子関係がある、坊ちゃんと同居(?❓?)したのが、悲劇の始まりだった。なおここで、次の日に書き添えるが増田忠さんは、お嬢さんがお嫁入する直前に、本当のことを話したそうだ。カムカムエヴィりボディの雉真家と同じく、増田忠さんは兄のお嫁さんと、結婚したのだった。すでに小さい姪が、生まれている兄嫁と再婚したのだった。忠さんの方が初婚として。

 しかし、誰も、それを指摘していないが、最近では、特に親の方が、苦しい。増田忠さんのケースもその一例だ。ただ、心理的に言えば、太古から、親と子では、親の方が損をする様になっているのだが、儒教が、強く支配した江戸時代とその影響が残っていた時期には、親の方が強かった。

 しかし、今でも、親の方が強くて、良いのだと、考えているのが、虐待をする親である』

 今週木曜日販売の、週刊誌の広告(いわゆる中づり)を見ると、新潮でも、文春でも、埼玉県で、中三の男の子が、変死した、事件の、内幕を取り上げている。第一報が出た時に、私が、想像した通り、中三の男の子が変死したのは、家庭内暴力だった。やったのは誰だったのだろう。ともかく、79歳の身では、読むのが恐ろしくて、買う気にもなれない。

 そんな事件に比べれば、日吉町(旧1番地)に住んでいた、60軒の人たちは、上等も上等だった。それでも、その人たちがなした、失敗やら悪を、私が見破ったと、推察した鎌倉エージェント(CIAエージェント)が、カリタス小通学バス襲撃事件を起こしたのだ。そのいきさつは、複雑極まりないが、絶対に書かないといけない。

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副題2、『カリタス小通学バス襲撃事件が、どうして起こされたかというと、小田歯科医院(小田先生夫妻)をまもるためだった。小田先生の、後ろに、悪人がいて、私を苦しめる様に命令をしていると言う事が判ったのは、先生が、お孫さんの優秀さを、披露した時だった。私は、それを、つい、昨日のことのように聞いた。しかし、先生が、その話題を出した時期の、10年近く前の出来事だった。

 増田忠さんも、お孫さんの自慢をした。こちらは政治的な裏はない。ただ、私は、それを聞いた時、つい昨日の話だと、思ったのだが、正確に指を折って数えると、こちらも、その話を聞いた時点より、10年は前の話だった。その時制の隔たりから、増田さんは、大変苦しくかつ寂しい、毎日を送っていたことを知った。それも10年近くの長きにわたって。増田さんは、日吉の家を売らない方がよかった。息子さんは、住まいとオフィスを別に持つという形で、父が亡くなるまで、自社ビル建設を待てばよかったのだ。

 増田さんの思い出話は、こうである。ある時、お孫さんが、喧嘩をしたそうである。長子が、7歳で、次子が5歳ぐらい、末っ子が、3歳ぐらいの時、上の二人が喧嘩をしたそうである。そうしたら、両親が、お兄ちゃんの方を叱った。すると、お兄ちゃんが、下を向いて、小さな声で、「さは、さりながら」と言ったのだった。そこにいる大人たちは、みんな仰天をしたそうだ。聞いている私も仰天をした。

 7歳の子供が武士言葉を身に着けており、しかも、それを、概念として、まことに適切に使ったからだ。(なお、蛇足ながら、私は、鎌倉殿の13人で、役者たちが、口語体で、セリフを語るのは嫌いだ。いやなのだ。が、三谷脚本には、大量のセリフがあるので、仕方がないということになっているのだろう)私も仰天しているが、秘密は解いている。ママは武蔵野美大卒だ。で、お子様が学校とか、幼稚園に行っている間に、必死に美術の仕事をする。

 で、お子様が帰宅してから、楽なことをする。兄弟が3人なので、「遊んで、いてね」と言ってお出かけをする。お買い物程度だと、思うけれど、2時間ぐらい外にいると仮定すると、お子様方はその間、自由に、テレビを見るのだ。午後に時代劇の再放送があったのだろう。1980年代の事だ。勝新太郎、中村錦之助(初代)、吉右衛門、中村敦夫、藤田まこと、加藤剛、高橋英樹などが、主演したシリーズものがあり、それを見る。それは、大人向けなのだけれど、賢いお子さんだったら、十分に理解できる。したがって、江戸時代の武士の表現を、7歳にして、適切なタイミングで、再現できた。

 ただ、こういうケースはまだ、良い。リヴェンジポルノで有名な被害者は、家が吉祥寺にあった。繁華街である。レンタルビデオ屋さんもあっただろう。お母さんが、しょっちゅう外出して家にいない人なので、お嬢さんが、アダルトビデオを見たりしていたと、思う。それが、16歳にして、とんでもない結果をもたらした。

 しかし、「さは、さりながら」という名言以降の、孫に関するエピソードが、忠さんから出なかった。同じビル内で、息子さん一家は、うち階段で、上下し、増田さんだけ、鉄製の外階段で、3階に上下し、お正月でも、懇談することが無かったと、推察される。それでは、寂しいであろう。特に日吉に住んで、増田さんが、男やもめ時代は、よかった。同居がかえってけなかったのだ。至近距離中の至近距離に住んでいて、お孫さんの声も、ビルの内側から聞こえてくるのに、会えないというのは、本当につらかったと思う。息子さん一家は、残酷なことをした。

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副題3,『小田先生には、4人のお孫さんがいる。カナダにいるお孫さんの話をされるときには、何の問題もなかった。そうですか。そうですかと、驚いたり感心をしたりして聞いていた。

 このカナダのお孫さんは、いくばくかは、私の孫と関係がある。自閉症だという話なので。しかし、本日、紀平カイル君のピアノ演奏を聴いてきたが、自閉症とは、ある部分が、特に、集中して発達したお子さんだと思う。

 私の四人目に生まれた孫にも、それが出た。小田先生のお孫さんは、非常に良い指導者に出会い、美術の方面に進まれ、才能を開花させているらしい。「おめでとう御ざいます。よかったですね」と、言いたい。

 私の息子は、その子を大変かわいがっている。紀平君と似ていて、本当にお人形さんみたいな、(または、有職びなみたいな、古風な美形の)顔をしている。ただ、紀平君は、ピアノ、特に作曲や編曲の道を見つけたみたいで、周辺の人を感心させている存在だが、私の孫が、何に向いているかは、まだ、息子一家は、発見していない模様だ。ばーばとしては、やきもきしてしまうが、息子は、私がでしゃばるのは、非常に嫌がるので、手も口も出せない。

 しかし、小田先生には、日吉に住んでいるお孫さんもある。そちらは、スープの冷めない距離に一戸建てを建てて住んでいるご長女様のお子さんだ。このお孫さんが、野球が好きで、小6の時、野球ができる学校を選び、受験し、すべて合格をされたのだが、それを先生は、一つの学校ごとに、大変、長時間をかけてお話をされるのだった。ひとつの中学受験から、次の学校のえぴそーどに至るまで、非常に時間を空けてお話になったのだった。ほぼ、2年か3年にわたって、私は、ちびちびと、それを、聞いていった。

 最初は、鎌倉学園、次に立教中学、最後に、慶応普通部が出てきて、お孫さんは、慶応に進学をされ、慶応・高校か、慶応・大学在学中の時点で、野球をおやめになったそうである。

 つまり、自分が普通部に入学した時点より3年後に、高校から、入学する優秀な選手が入ってきたので、やめたとなる。慶応という名声にあやかろうとして、プロになるレベルの、才能高き子供が大勢、入学してくるので、「自分は違う。プロになるレベルではない」と感じたそうだった。

 しかし、ほぼ、2年にわたって、それが、語られたために、私は、・・・・・これは、先生が、違う事を目的として、話している・・・・と、感じ始めた。つまり、私を心理的に追い詰め、悲しませ、ノイローゼにさせるために、この私立中学受験成功譚を語っておられると、気が付いて来た。

 私が1980年代に、小田先生に通い始めたころ、すべての歯にすでに、虫歯があって、刺し歯もすでにできている状態だったが、先生は、できるだけ、生かそうとしてくださって、根幹治療というのをしてくださった。

 で、昔は、一本の調子が悪い歯が出てくると10~12回小田先生に通った。しかし、最近では、ワンクール、5~6回である。ただし、私は入れ歯を盗まれたりするので、小田先生に通う機会が多かった。それは、半年か、1年開けて、また、別のところを治療してもらうという形。で、本当に多数回小田歯科医院には、通った。

 ところが、その間、先生は、鎌倉学園を受験した話を、合計4回はなさったと思う。そのついでに、北鎌倉から、江ノ島まで、歩いたとおっしゃる。後で、ここでも、時制のまやかしがあって、先生が、北鎌倉から、江ノ島まで歩いたのは、1990~2005年ごろまでの話であって、先生が、大腸がんを患う前の、話だったと、理解をしてくるのだけれど、治療台に乗って、治療を受けながら、先生のお話を聞いている真っ最中には、そこまでの、解析はできず、思わず、「我が家に寄ってください。その道の途中にあります」と言った。

 ところが先生は、上の空で、乗ってこられない。で、そんな小さな違和感が、大きな真実を見破っていくことになる。大きな真実とは、カリタス小通学バス襲撃事件が、NHK他が報道するのとは、全く違った、裏側があるということだ。それが私の常なのだ。

 でも、私が治療台に乗って、先生の、鎌倉・長距離・徒歩旅行の話を聞いていたころ、すでに、大腸がんを患って、人工肛門だったはずだ。しかし、再度手術をなさって、人工肛門が、取れたという話なので、・・・・・もしかすると、人工肛門の時代というのは嘘? 

 いや、先生が悪意を持っておられたと、言うのが、今では、確実にわかってしまったので、そういうところまで、あれは、本当の話だったのだろうかと、疑ってしまう。

・・・・・ともかく、人口肛門の身で、北鎌倉から、江の島まで、そんなに、長距離を歩くのは無理だ。しかも、その旅行に関する奥様の感想が全く出てこない。先生は、一人で、歩かれたのだろうか。非常に仲が良いご夫婦なのに? しかもがんを患っていることがわかっている夫を、一人で、そんなに長距離徒歩旅行に、奥様が出した? 不思議である。

 で、私は、先生の体を心配して、次に、「欧林洞という喫茶店があります」と言ってみた。+++(なお、このカフェは、今は、閉鎖になっている。高級な材料と、高級な食器を使っていて、大体のメニューがお高かったうえに、駅から遠いので、コロナ禍で、老人の観光客が減ったのが痛かったと思う。若い人は、こういう高級な喫茶店に入るほど、食事には、お金をかけないのだ。で、お客が少なくなったのだろう。ただし、二子玉川に、支店があるとのこと。そちらは、どうなっているかなあ? ともかく、小田先生と鎌倉長距離徒歩旅行について、話し合ったのは、2021年よりは、前で、そこがまだ開いていた時期だ)しかし、是にも乗ってこられない。

 そうか、なるほどと、私は腑に落ちてくる。

 前から、それは、感じていたのだけれど、私の長男が、私立中学を受験して、2校とも不合格だったのは、裏があるのだ。わざと、不合格にされたのだ。そして、息子もひどく、傷ついたし、その後も、繰り返し、息子に損失や、攻撃があった。

 西原理恵子を利用して、三国屋善五郎の社長自らが、息子が辞めざるを得ない様にした話は、何度も書いてきている。大前勇介、大前研一氏なども関与している。「それ以外にもいっぱいある。なぜ、そんなことをされるのか? (明日か? または、将来、リンク先を明示します。後注として)

答えはこうだ。

 北久里浜において、横須賀市所有の水道山が、地籍変更届、(2.75平米しか、私のとちが無いのは、間違っています。実際には、4200平米あるはずなのです。修正してください)を、関東法務局横須賀支所に、提出するだけで、市民には、まったく知らされることがないままに、無償で、水道山1200坪が、ある個人(=益山重夫、智恵子夫妻)の手にわたってしまった。しかし、二人とも死んでいるので、智恵子夫人の実弟、仲野通巳吉が、相続をしていて三人の娘のうちの一人に益山姓を継がせている。

 益山重夫というのは、戦時中は海軍参謀だった。で、この悪事には、横須賀市の当時の土木課長、杉本俊一も絡んでいるし、京急の幹部も絡んでいるはずだ。何よりも、大きな被害を、私に、もたらしているのが、瀬島隆三で、陸軍参謀として、益山重夫とは、親友だそうで、この件について、真実を見破っている私を殺そうとしている最中である。

 瀬島は、戦後最大のCIAエージェント化していて、死んだのちも、伊藤玄二郎とか警察庁、それから、鶴岡八幡宮様を使って、すさまじい攻撃を私に対して、向けてきている。旧名酒鬼薔薇聖斗、芸罪名少年Aが神戸で土師淳君の頭を校門の扉の上に置き、首から下の遺体を水道山に遺棄したという事件(中学生が、小学生の遺体を一人で、運べるはずがないでしょう)とか、都筑区の傾きマンション事件など、また、赤木俊夫の自殺なども、すべて、この地籍変更届と関連している。

 1月26日の水曜日だったかな? 前々報(後注3)を書いている最中に、鶴岡八幡宮様は、9時15分から、10時、11時、12時、1時と、五回ほど、異様な形で、太鼓をたたいた。しかし、私が、・・・・・増田忠さんが、セックスしようと持ち掛けてきたので、彼を切ったのだ・・・・・と、書いたら、急に静かになった。それを書く前までは、私の方が冷たい人間だと、このブログの読者がみなすだろうと、井上ひさしたちが、考えていたので、それが、起きた。

 自分たちが勝てると思っているときはさらに重層的な攻撃を仕掛けてくる。それが、井上ひさしの行動の、典型で、彼から、伊藤玄二郎、鎌倉警察署、龍村さんという経路で、ああいう異常な太鼓音が流されたと思う。

 しかし、私には増田忠さんの本心も読めるし、小田歯科医院の院長先生の本心も読めるし、鎌倉警察署を経由して、八幡宮を支配している、今だ、実際には生きている井上ひさしの心も読めるので、一派、全部をひっくるめて、なんて幼稚なんだろうと、あざ笑うしかない。

 という最近の鎌倉雪の下の事情を書いて、そののち、小田先生が、孫の私立中学受験の、島のされたところに戻ります。上の⇔のところから、続きます。

だから、鎌倉学園についてしつこくお孫さんが、合格をした話をなさるのだ。そこは、我が家からバス停にして、2つ目の学園なので、近い。歩いて行かれる場所にある。それで、井上ひさしあたりが、「そこを受けたのだろう」と、誤解をしているので、こういう風に、小田先生は、何度も取り上げるのだ

 しかし、息子が、中学受験をしたのは、1982年で、ここに引っ越してくる前だった。(ここですが、いつも年度を間違えて書いています。真実は、1983年の二月の事でした。小六でも、次の年度で、入試がありますので、1983年だったのです。何度も書いてきていますが、過去の時制は、間違っています)

 したがって、京急北久里浜駅から、通学可能な私学を選んだので、鎌倉学園は、受験をしていない。しかし、小田先生は、間を十分に開けたうえで、四回もお孫さんが、鎌倉学園を、受験し合格したと、おっしゃるのだった。とても上品に、しかし、深い深いとげをさすために。立教については一回だけだったし、慶応普通部について、合格の話も一回だけだった。これは、徹底的に悪意ある攻撃だった。それで、

 なるほど、わかった。私は、これから、小田先生が、わなを仕掛けてきたことを、てこにして、それについて戦うぞ。しかし、やり方は、なんと難しいことだろうと、考えた。

 そして決定的なことが起きた。先生は、カーテンが下がった診察室の窓から、50mぐらい東に見える私の実家を、眼で、さして「今、あの家、どうなっているの」とおっしゃった。

 その時に、突然、・・・・・妹が他殺なのに、自殺とされている事、そして、それを小田先生も聞かされているのだ。そして、先生は、それを正しいことだと、信じ込まされている。・・・・・と、思い当たった。これは、本当に大変なことだった。

 しかし、寺沢夫人は、亡くなっている。彼女は、「裏に回っている・うわさ・は、こうですよ」と、本当のことを、増田忠さんについて、言ってくれて、しかも理性も情愛もある人だった。そういう人間だった寺沢夫人は、もういない。私は大河ドラマ篤姫を見ていて、篤姫が、常に、「片方聞いて沙汰するな」とおっしゃっていたことを知った。つまり、コンフリクトがあるときに一方だけの言い分を聞いて、審判を下してはだめだと言う事。さて、どうするか?

 この時の戦いに対して、敵が防衛路線として使ったのが、カリタス小通学バス襲撃事件だったのだ。・・・・・あいつなら、それが、自分狙いだと、わかるはずだ。だから、脅かしと成りえる。あいつをを脅かして、小田先生や、水沢勉先生、もしくは、その後ろにいる酒井忠康氏に関する真実を書くのをやめさせるのだ。…‥

 と、伊藤玄二郎たちが考えたために、その事件=カリタス小通学バス襲撃事件が、起こされた。そして、「俺たち、鎌倉エージェントが、警察に命じて、行わせたのだ」と、高笑いをしている、いまだ、実際には生きている、井上ひさしの哄笑が、聞こえる様だった。そう言う真実が、音もなく、日吉、1丁目24-12(実家付近)の四つ角に、漂った。

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 紀平カイル君のピアノを聞きに出かけるので、金曜日の深夜は、ここまでとさせてくださいませ。浜離宮ホールの切符も買っていたのに、当日午前10時ごろ外部からメヌエル氏病状態を生起させられて、たちあがることもできなかったからです。で、一回ミスっているので、今度は聴きに行きたいです。

 尚、とうじつ(土曜日)の朝、激しいけいれんで、十分な睡眠がとれない時間帯に目覚めさせられた。これも外部からの攻撃だと思う。しかし、非常によく効く薬を処方していただいているので、痛みが消えて、二度寝をすることができた。したがって、気分良く、紀平カイル君の、演奏を聴くことができた。

*********************

 ここまでの、加筆推敲だけで、4時間かかってしまって、すでに午前三時だ。就眠しないと体がもたない。だけど、これだけは、蛇足として、書いておきたい。それは、どうして、あれを書いたかの本当の理由だ。あれとは、

 ・・・・・安野家の次男が、お成績がとても悪いのに、国立大学付属高校にご入学あそばされて、かつ、海上保安庁に、就職なさいました・・・・・と、いう文章。それを書き続けてきたかの、本当の理由だ。安野家の次男は、男成中学で、通信簿に1と、2しかないということで、有名のお子さんだった。それは、おいちに、おいちにの、あひるさんという呼び名でも明らかだった。

 そして、私が、1984年に、ここに引っ越してきたときに、安野夫人が、直々に、音声で、私に、「うちの子は、成績が悪くて」と、言ったほどだった。しかし、1984年の二学期に、私の息子(安野家の次男と、同学年)の、通信簿から、すべての教科で、一ランク成績が下がるという現象が起きた。これは、親としては抗議はできない。しかし、奇妙だった。今では、すべての、五段階評価分が、安野家の次男に回ったのだと思っている。しかし、それでも、2と3になるだけだ。だから、当然のごとく、国立大学の付属高校へのご入学には足りない。だから、ほかの子供からも、少しずつ安野家の次男に、高い評価が移ったのだろう。

 ところで、国立大学の付属高校、特に男子の募集は、非常に数が少ないはずだ。お茶大付属高校だけは、中学期まで、男女共学で、男子がごそっと抜けるので、36人合格するという、数値だが、学芸大学付属高校、筑波大学付属・駒場、筑波大学付属・茗荷谷の三校とも、非常に少ないはずだ。

 しかし、安野家の次男みたいに、政治的工作がなかったら、1と、2しか、通信簿にないというお子さんが、どれほど頑張っても、入学できないはずなのだった。しかし、タイミングを見事に図って、+++(外出して、安野家の門前を通る)+++、私に、わざと、聞こえる様に、石川和子さんが、はっきりと、「国立大学付属高校ご入学おめでとうございます」といったのだった。

 あとから思えば、私が国立大学付属高校出身だから、それをからかっていると、言うことも言える。また、私が安野夫人が井戸端会議に誘い込むために、「お砂糖を貸してください」といったのを断っていて、しかも、それ以降、一種の村八分状態に陥ったので、それを嘆く電話を大学時代の、友人にかけている。したがってあの当時から、電話が盗聴をされていたと考えると、

 敵の敵は、味方だということになり、安野家の次男に、ご褒美が与えられるという形で、国立大学付属高校へご入学ということとなったのだろう。

 しかし、どうしても不思議極まりなかったので、私は、その後、ずっと、耳を澄ましていた。私にもそれなりの情報網があるからだ。国際基督教大学の1966年度卒業生だということは、北久里浜では何の効力も発揮しない資格だったが、鎌倉には、その大学名と、その実力のほどを知る人が多かった。したがって、丁寧な扱いを受けていたのだった。しかし御成中学がシーンとしている。公立の中学から、国立大学の付属高校に入学するのは、一種の大事件だから、噂が、ハチの巣をつついた様に広がるはずだった。

 この謎は、卒業式の日に溶けた。進路表は、一番上が、湘南高校で、何人進学したと、書いてあった。そして、一番下に、海上保安学校という記載があった。海上保安学校は舞鶴に在る。そして、海上保安大学校は、呉に在る。両方とも、学費と生活費は国から出る。だから、国立とはいえる。しかし、国立大学の付属高校と言えば、普通は、80%が大学に進学する高校である。しかし、海上保安学校から、80%が呉に進学するとは思えなかった。

 それに、高校の段階で、都落ちするとは? 呉の保安大学校なら、鎌倉から進学することはありだった。しかし、舞鶴の学校からは、保母、自動的に海上保安庁に就職できて、生涯賃金二億か、三億かは貰えるのだから、通信簿に、1と、2しかないお子様に取っては、上々の選択だった。

 しかし、私は、石川和子さんと、安野智紗夫人の教養の無さには、あぜんとしたのだった。私の実の祖父は柳井商業の校長を40年間務めた。その人は、日吉の家にも訪ねてきているし、母の兄とは、ちゃんとした記念写真を旧制中学時代に撮影をしている。ただ、養父母(八木家)とは合わなかったらしい。小糠三合あれば、養子に行くなという風情で、気骨のある人間だったので、養子を好まなかったのだが、明治時代・高商(現在の大学経済学部と、商学部を兼任している学校)を出ている人間は、非常に少なかったので、秋山家から望まれて再度用紙にはいり、そちらで、七人の子をなした。また、父の兄は、旧制萩中学の校長だったし、父の実の姉、または、兄嫁も、旧制師範学校を出ている。

 それから、ほかにも学校の先生になった人は大勢いるので、学校制度とか、学校の評判とか、その学校が持っている特徴とかは、自明の理だった。国立大学の付属高校とは、大学進学率が、80~90%の学校で、高校では男子を、募集しないというのが表向きの、概念である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 しかし、この様なことを書いていると、私の方が意地悪だと、思った読者は、いっぱいいると思う。それは、理解していたが、私としては鎌倉エージェントに読ませるためにこれを書いていた。特に、私の息子の私立中学受験の失敗は、わざと裏から手配をされた結果だと、確信をし始めてから、このケースを書き始め、幾度となく、書いている。彼らに、伝えたい本当の事は、うちの息子の、人生をめちゃくちゃにしましたね。という話なのだ。ある時期、ファンを名乗る女性が近づいてきた。二人いて、安藤てる子さんの方は女性刑事だと、わかっている。

 しかし、もう一人の方は、上流社会のマダムである。産休補助、高校教員をしていて、お子様は三人とも御三家と呼ばれる私立の中高一貫校に入学し、一人はお医者様になっている。その人が或るとき、「ねえ、川崎さん、日本で上流階級になっていくのは、有名私立中学に入学させる事なのですね」といった。彼女に悪気はなかったと思う。ただ、地方の出身で、しかも、先生という職業が、一部上場企業の社員よりも低くみなされていた時期の、先生(ただし校長先生だが)のお子様なので、どこか、自信がないのだった。彼女は頭がよくて、教養も高いので、客観性がありすぎるのだった。それは、安野智紗夫人とか、石川和子さんとは、正反対の、性格表現だった。

 私は内心で、ひどく傷ついていたし、彼女が歌舞伎座の一階で、ご主人と一緒の写真を送ってきたときには、抗議をして、絶交状態に陥った。というのも彼女とのデート中の話題は、カルチュアーサークルで、いじめられるということとご主人とは合わないと、言う話だったから。

 いじめられる方は、助言ができたと思う。彼女がいじめられる原因は、本当は、上流階級なのに、それを自覚していないので、その態度が、嫌みに見えるから、いじめられるのだった。上流階級なら、威張っていいというわけではないが、へりくだって、接触し始めたら、途中で、真実の姿(例えば、高価な洋服を着て居たり、和服を着ていたりする)が見えて、サークルの仲間が、裏切られたと感じるからいじめられるのだった。

 しかし、彼女から、「ねえ、川崎さん、日本で上流階級になっていくのは、有名私立中学に入学させる事なのですね」と言われたときは、本当につらかった。というのも、すでに、私が北久里浜の、実質的詐欺事件の全貌を知っているからこそ、私を死亡させるために、まず、精神病院へ入院させてしまおうと、言う動きがあるからだった。そこに入院させてしまえば、あとは薬で、緩慢に殺していくことができる。

 小田先生が、お孫さんが、鎌倉学園を受験して、合格をしたことを数年にわたって、四度もおっしゃったのは、まさしく、その一環だったが、あの、津田塾卒の女性も、そういう目的で、近づいてきた人だったのだろうか? そういえば、彼女の同僚に、国際基督教大学を出た人がいると、言っていた?

 ともかく、私は、相当に深い苦難を抱えているので、息子の不幸を語る前に、安野家の圧倒的な得を書いた。読者から、誤解をされることを恐れずに。

 なお、これは、ご本人の実力だとは思うが、前田家のお嬢さんが、東京女子大卒なのに、明治大学の教授になっていく、ことができる、と、言うのも、これも、CIAエージェントたちが、特権を利用して、あっせんしている席だと、思う。

 そして、前田家のご長男が、新卒時は、違う就職先だったはずなのに、いつの間にか朝日新聞社の正社員になっているのも同じことだろうと思う。

 そして、最近は、安野家に奉仕をしている、平木家の、ご長男が、前年(=2010年)の秋に、「来年の四月から、坊やは、東大へ入学できます」というお知らせを受けている。

コメント
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老いた単身親を、理解し大切にしてあげよう・・・そうでないと関係がない他人(=私)がsexまで誘われてしまう

2022-01-27 21:48:51 | 政治

副題0、『ものすごいものを盗まれちゃいました。全財産を2度目として・・・・・でも、平静に』

 我が家には、泥棒がしょっちゅう入るので、非常に気を付けています。ところが、前報を書いた時、疲れ切ってしまって油断をしました。すると、全財産に近いものが盗まれました。常用のバッグが盗まれたのです。ただ、2回目です。いや、大切なものが盗まれたのは、5回目です。そのうち、1回だけ京葉線の終点に近い処の全館ガラス張りの美しい美しい警察署から返してもらいました。しかし、4回は、帰ってきません。これは、ちょっと、大変で、ブログを書くのに、相当に足を引っ張られる出来事です。ただ、だからこそ、平静に、いつもの通り、ブログを書かないといけません。

 でも、税務申告用の元帳が盗まれたので、領収書類を、全部記載しなおさないとならず。本日は、2021年1月分だけ、行いました。そして、夜の10時から、前報(後注)の後半のさらに続きを書き始めます。

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副題1、『実家の北隣のパパから、「一緒に寝ようね」というお誘いを暗喩的に受けたことは、本当に衝撃だった。しかし、このことは、墓場まで、持っていく秘密にしようと考えていた。しかし、異様なことが起き始めて、うーん? それじゃあ、だめかなと、思い始める』

 ここでいうパパとは、最近、NHK ETVの、【ねほりんぱほりん】で、出てきた、パパ活のパパではありません。1950年代(今から、70年ぐらい前)の、幼いお子さんが両親を呼ぶときの呼び方で、一般家庭では、無く、とてもモダンなお宅で、使われていた用語です。

 しかし、もっと、上流階級用の語彙があって、のちにフライブルグ大学(ドイツ、特に音楽で有名)の教授になった新堀真知子さんは、おとうちゃま、おかあちゃまと、両親を呼んでいました。中学生になっても、同じ呼び方を続けるのです。新堀さんは、曾祖父の段階で、明治期の外務大臣だったそうですから、仕方がない家風です。

 私の北隣のお宅は、神戸の出身だと思います。パパは、ストラディヴァリウスかグヮルネリの名器を戦前(少年時代から)、自分のものとして、持っていて、演奏も上手でした。今から、30年前の、土地が高い時に、たぶんですが、2億円ぐらいで、売ったのではないかなあ? で、真田宏之、手塚理美夫妻が、買いました。林真理子さんが、「将来、慶応に入れたくて、日吉に家を建てる芸能人が居る」と言っていたのはこの夫妻を指すと思います。ただ、そういう計算高い目的ではないのですよ。林真理子さんは、誤解をしている。真田さんは、東横線沿線で、少年時代を過ごしたので、日吉が好きだったのです。この家を選んだのは真田さんの方でしょう。

 ところで、母が言うのには、真田夫妻は、本当にきれいでオーラがあったそうです。そして、七五三の飴などをもらっても、見たことのないハイレベルの<あめ>だったと、母が言っていました。母は、子供か、孫の様にかわいいと思っていた模様です。最近私は、田園調布や麻布を中心に、Nationl Azabというスーパーがあることを知りました。そういうところで買ってきたものかなあ?

 でも、手塚さんって、林真理子さんが、からかうのは、間違っていますよ。とても、しとやかで、つつましくて、ご近所の気風に合わせようと努力していた模様です。下手に出ていて、芸能人だから、お高いなどと言う事は全くなかったそうです。町内会のお餅つき大会なども、積極的に参加していたそうです。しかし、夫の真田さんにも参加してもらいたいと、願ったりするのが、真田さんには向いていなかったのでしょう。煩わしいと思ったのね。手塚さんにしてみれば、現代日本で、もっとも階級の高いのは、大手企業の部長クラスであって、お子さんをそういう方向へ、育て上げたかったのだと思います。そして、それは、長い目で見れば真田さんへの愛の成就ですから、決して悪いことをしているわけではないのですが、あのときわ台町内会という地域の雰囲気が真田さんには合わなかったのだと思います。

 前の持ち主は、増田忠さんと言いました。忠さんのご長男が早稲田の建築科を卒業したので、最初の、木造平屋建ての家を、壊して、コンクリートの家になっていたので、売った後で、クレーン車が、来て、長い鎖の先に、大きな鉄の玉をつけてぐわーん、ぐわーんと、庭木と建物を破壊していきました。たまたま、その家のご近所の、小田歯科医院と、言うところに、私は、ずっと通って居て、その破壊工事を、治療を受ける日に、見たので、それには、ショックを受けて、一度、このブログの中で、真田さんの離婚は、あれらの、樹木を、殺したことが災いしたのではないか?と、書きました。変な言い方ですが、そういうことはあり得ます。

 なお、ここらあたりで、実名表記になっているのは、この増田さんの家と、そのご近所の沢野さん、寺沢さん、小田歯科医院、そして、少し離れたところにある、水沢勉・現葉山美術館館長のご実家が関連して、複雑な経緯をたどったうえで、カリタス小通学バス襲撃事件が起きたと、私が判断をしているから、こういう風に書いていきます。実名表記をしないと、私が凄まじい損害を後で、受けるからです。書いている途中で、すでに受けていますね。上記の盗難では、すごい内容物を盗まれていますから。

 なお、あの事件は、51歳の引きこもりの男がやったうえで、自殺をしたと言う事となっていますが、違うでしょう。ほかの事件と同じく、警察の特殊部隊が行いました。そして、事件のアイデアは、公的には、自分を死んだことにしているが、実際には、まだ生きている井上ひさしが出したと、思います。あの事件を、大マスコミの報道通りだと、信じた、農水省の、事務次官が、ご自分のお子さんを殺しました。それに、私が、2017年7月10日に妹を殺されたこと、2010年1月17日に、京橋の有名画廊のオーナー、山口みつ子さんが殺されたこと、

 三浦春馬、竹内結子、神田沙也加、京アニの36人、大阪心療内科の、26人など、高槻市の、中一2児童、新潟市のおおももたまき、ちゃん殺し、そして、周南市で、保美死刑囚に殺されたとされている5人の老人、すべて、同じ流れだと、思います。だから、登場人物は、実名で、書きます。

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副題2,『今まで、3回に分けて、増田忠さんについて書いて居る。ここで、簡単に繰り返してまとめておこう』

 増田忠さんは、慶応工学部の前身である、

  • 1939年(昭和14年) - 藤原銀次郎により藤原工業大学(機械工学科・電気工学科・応用化学科)が開校。
  • 1944年(昭和19年) - 藤原工業大学が慶應義塾に寄付され慶應義塾大学工学部となる。を卒業後、中島飛行機 👉 プリンス自動車、👉 日産自動車と、言う経歴を歩んだ方です。
  •  

その文章に、書いて居ることで、重要な部分を、したの、%%%%%%罫線以下に抜き出してそこに、再度コピペで、あらわします。

 しかし、この節では、それ以降を、語りたいです。

私は小田歯科医院にずっと通い続けていて、良い先生だと、考えていた。20年間は、それで、無事に済んだ。しかし、ある時期から、先生がおかしくなった。非常に上手にふるまっておられるが、以前と違うと考えた。何が原因だろうか? 例の鎌倉エージェント(=CIAエージェントからの弾圧だろうか?)と、一応それを心配して、ある日の夕方、ご自宅のお玄関に、奥様(衛生士として、診療を手伝ってあげている)を、呼び出して、いろいろ、説明をし、よろしくとお願いをした。

 しかし、どんどん、悪くなる様な気がする。で、考えに考えて、もしかすると、増田忠さんが、原因かなと、思い始めた。%%%%罫線以下に、詳細に書いて居る通り、私の方が、20歳も年上の忠さんを切ったと、言う形で、お別れしている。しかし、それを恨まれている可能性があった。

 増田忠さんとは、ずっと、別れていた。1968年に私は、結婚をしたが、その前から、下宿をしたりして、増田さんのおじちゃんとは、会う事もなかった。ので、1958年から、1960年ごろ、もっともかわいがってもらったのだと、記憶をしている。いろいろなことを教えてもらって、それは、感謝している。ところが、ほぼ40年後の1997年の初夏、本当に偶然に、再会した。歯医者に向かう私が、ときわ台バス停から、丘の上に登っていく途中で、再会した。腰が悪いそうで、しかも、痛いそうで、その日の増田さんは、上半身を、90度近く、前に倒す状態だったので、心配になって、自分も、一緒にゆっくりと、普通の5倍ぐらいの、時間をかけて話しながら、一緒に上がっていった。それで、すっかり、30年前に戻り、かわいいお隣の女の子、and 教養が高くて、ヨーロッパ文化についてあれこれ教えてくれる素敵なお隣の、おじさんと、言う関係が復活し、電話番号(固定電話の時代だけど)を、交換した。

 それで、何度かデートを繰り返したのだけれど、その間、増田さんが語ったことから、息子さんが、父親を粗末に扱っている事が判った。

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副題3、『増田さんの、ご長男が、父親を粗末に扱っているのは、忠さんが、<自分の家です>と、言って、コンクリートのビルの横にある鉄の外階段を写した1枚を見せてくれた時に、すぐわかった』

 息子さんは、京浜東北線、石川町駅を最寄りとする、土地を買って、3階建てのビルを建てていた。これから先は私が、例のごとく、見てきた様な嘘を言いで、語っていく。日吉の家は、南道路で、樹木の一杯育っている家だった。非常に環境が良い。しかし今度は、北斜面の様だった。しかも、問題は、ワンフロアー、24坪(78平米)ぐらいのビルで、1階は、坊ちゃんのオフィス、そして、お嫁さんのアトリエ、または、工房もあり、それ+ビル内に、個人宅の玄関と、階段がある。そういう、設計になっていると、思われる。2階はメゾネット形式のマンションになっており、ワンべッドルームと、リビングと、台所とか風呂とか、洗面所がある形式で、ビル内階段で、3階にあがるけいしきになっている。3階には、3人のお孫さんの個室(例えば4畳半か、6畳の洋間が3つとトイレと階段があり、10~12坪は使っていたと、考えられる。

 そうなると、増田忠さんの使えるスペースは、12坪~14坪、(40平米から50平米)しかない木造賃貸アパートで、鉄製の階段で上り、家賃6万円から、12万円ぐらいの貸間と、同じ様な間取りしか取れない。しかも、いつか、将来は、パパは死ぬのだから、パパが今使っている鉄製の階段は、非常階段となし、子供部屋と、忠さんの部屋の、仕切りを取っ払い、3階は6畳程度の個室を3つと、4畳半を2つ作り、夫婦それぞれの書斎と、子供部屋にする。さらに、将来は、3人の子供の内の一人が結婚をしたら、その家族に、24坪(80平米)の2LKにでも、リフォームして与えれば、ほぼ、70年は、使えるビルとなる。

 そういう設計だと思われた。何よりもきついというか、つらいであろうことは、うち階段を使えないことだ。それと、3階の隔壁は、後で壊すことが予定をされている限り、木製だろうから、お孫さんの声などは、聞こえると思う。だが、会話を持ち掛けられる、ドアが無い。すごく切ないと思う。

 そして、何よりも痛ましいのは鉄製の階段だった。冬など吹き曝しで、上がるのがつらいだろう。内側にコンクリートの壁で囲まれた階段がある。3階まで。それを使いたいなあと、忠さんが考えたことは、察するに余りある。

 私は、それに対して、口をはさんだのだろうか? 今ではしかと、覚えていないが、忠さんが、こういったのは確かに覚えている。

 「お嫁さんはね。武蔵野美大卒でね。自分の仕事が有るんですよ」と。富裕なご家庭に生まれたお嬢さんで、武蔵野美大を出て居れば、それは、仕事をしたいであろう。すでに、3人子育てをしましたしと、思っていると、考えられるし。もし、うち階段で、忠さんが上がる形式だったら、90度ぐらい、前に身をかがめて歩くお父さんとか、おじいさんを見て、お嫁さんも、お孫さんも、そして、おぼっちゃま自身が、「これは、ひどい。1階に寝室を、急遽作るか?」と、言う風に考えたと思う。「腰が痛くてたまらない」と言う事をも言うチャンスもあっただろう。しかし、父親と、息子一家は、お正月さえ、一緒に食事をとらない形になっていた模様で、何も気が付かなかったのだった。

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副題4、『増田さんは、息子側の3人のお孫さんについてあるエピソードを語ってくれた。7歳にして、大人顔負けの、ものすごく頭がいいお子様だと、わかるエピソードだった。私はこのブログで、増田家のお孫さんであるという実名は伏せて、そのエピソードを語っている。ここでは、再現しない。しかし、そのエピソードを聞いて、それが、生起したのは、1997年のお正月の事であろうと、考えた。

 で、1997年のお正月に、増田さんは、7歳、5歳3歳の孫と、一緒におせち料理を食べたのだと、考えた。しかし、今、丁寧に、各・登場人物の年齢を考えると、増田忠さんが、72~80歳、私が56歳、坊ちゃんが、47歳だから、一番上のお孫さんは、17歳から、20歳の間だと、考えられた。

 そうか、ビルが完成し、同居開始にパーティがあったのだ。それ以外、お正月だって、一緒ではないらしい。それは、気の毒ですなあ』と考えた。それで、「上の方(お嬢さん)は❓ どうしているの?」と、聞いてみた。

 すると、現在の話ではなくて、1960年代、お嬢さんが結婚するときの話が出てきた。

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副題5、『お嬢さんが、本当の子ではないという話を聞いた。増田忠さんの兄と、今の奥様との間の子供であって、‥…所謂カムカムエヴリバディと、同じケースだった。そして、話は発展をして、水沢家のご長女様の離婚まで、そして、親が、工作をした話まで出てきた。私は、そういうことを聞かせられるのは、苦手だった。しかし、増田忠さんの、お嬢さん(遺伝学的に言うと姪)との間柄がとても良いことは分かった。お嬢さんは、結婚前夜、初めてそれを知り、滂沱の涙を流し、「お父さん、ありがとうございました。これからも、お父さんと、娘ですよね」と、言ったそうだ。しかし、その娘さんは、同居しているわけではないし、忠さんは、その娘に、世話になるつもりはなかった模様だ。それは、本当は娘ではなくて、姪だから、迷惑をかけたくないと、言う誇りがあったからだと思う。

 坊やは遺伝的に100%自分の子である。しかし、その坊やとの同居生活は、坊やに、日吉の家を売ったお金を取り上げられてしまったという形で終わっていて、坊やからは、愛情のこもった措置を受けていなかった。私は、母の寸言としての、ご近所主婦たちの、評価を思い出した。「寺沢夫人と、東隣に、やって来たお嫁さんの、人柄がよい」と、言う事。「沢野さんは食えないわ」と言う事。しかし、ミセス増田については、一言も語らなかった。なるほどと、今では、思う。

 ミセス増田は、原節子に似ていて、しかも、原節子より小顔で、背が高くて、非常に美しい人だった。しかし、鈴木紗綾ちゃんの母、一ノ瀬智恵子さんと、似ていて、地味なこと、縁の下の力持ち、に相当することはやらない人だった。お正月のおせちも作らないのだと、言う事は、両方の家に出入りしていたお手伝いさんが言っていた。まあ、神戸育ちで、洋風なシステムの家だから、それで、いいのだろう。しかし、母は嫌っていて、沢野夫人よりも低い評価を与えていて、したがって、寸評も出さなかったと、考えられるのだった。

 そして、これも、急に、最近になって気が付いたのだけれど、増田忠さんが、何時も、工場最寄り駅の、傍の居酒屋で、夜9時ごろまで、飲んでいて、その後、夜の11時過ぎに帰宅し、家では、お食事をとらず、ただ、ヴァイオリンを弾くのは、言わず、語らずのうちに奥さんを避けたかったのではないだろうか? 奥さんは手芸とか編み物は、上手だ。ご主人のセーターなども手編みで、作っている。だけど、所謂愛情の何たるかを知らなかった人である可能性は、今にして思うとあり得るだった。

 坊ちゃんは、小さい時から、お顔が、ママに似ていた。お嬢さんの方が、実子ではないのに、パパに似ていた。つまり、パパのお兄さんの方の血をひいていたのだろう。同居初期は良かった。増田さんがお金を、7000万円から、1億円近く持っていたからだ。華やかなクラシック音楽の世界に没頭をしていて、人間関係も豊富だったからだ。しかし、増田さんは、裕福な家のお子さんだったので、倹約という考え方を知らない人だった。しょくじも ほとんどが外食で済ませていたはずだ。で、「年金はあるのだし、退職金もあるのだから』と、思っているお子さん方は、増田さんの、実情を知らず、彼が、私に、「千恵子ちゃん、おごって頂戴。僕、退職金使い切っちゃったのですよ」と言うbeggingをしたことを知らなかった。しかも、私が内心で激怒する様なジョークを放った直後にである。

 私は内心を抑えて、お料理をごちそうした。しかし、その席で、暗喩的だけれど、ベッドインを誘われた。つまり、一緒に寝ませんか?と、言われたのだ。それでも、喧嘩をせずに別れて帰ってきたのだけれど、増田さんは、優しい人の真実の姿を知らなかった。やさしい人とは、強い人と同義語なのだ。だから、もう駄目だわ。この人は、と、判断をすると、それは、転覆できないことなのだ。

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副題6、『急に私が何を考えているかが心配になった忠さんはあれこれ、考えだしたので、眠れなくなった。そして、結論として、私が、完璧に自分を嫌いになったと判断をした。そうとなると、今度は、私の口を封じないといけない。自分がお隣の娘に、セックスしようと、もちかけたおと=こんなことを外に出されると大変だ。で、増田さんは日吉の、沢野夫人+寺沢夫人の、二人に、自分の心配と屈辱感と、悲哀と、川崎千恵子の悪口を言った可能性がある・・・・・と、私の方が、気が付いた。

 そういえば、1997年、ときわ台バス停傍の差かで、出会ったときも沢野家を訪問するところだったのだ。もう、増田家はないのだし、奥様も長らく入院をしていたと、聞いている、井田病院で、すでに亡くなっているからだ。でも、教養が高い高い、増田忠さんが、沢野夫人みたいな庶民的な感覚の人の家に、愚痴を言いに来るとは意外だった。ただそれだけ、息子さんとの、愛のない、ほったらかしの生活がつらかったのだと、思う。で、今度は、愚痴の対象が私に変化した・・・・・そういうわけだった。で、寺沢夫人に、直接に電話をかけてみた。私の方はスパッと、本題に入る。増田さんが、私の悪口を言っていませんでしたか?」と。ここから、前報の、副題6に続いていく

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副題6、『カリタス小襲撃事件が、起きたのは、寺沢夫人という実家の近所に住む奥様が、増田忠さんについて、或る重要なことを教えてくれたことが、カリタス小が狙われた原因となっている。寺沢夫人も増田忠さんも故人だが、重要な存在だ。寺沢家のお嬢さん二人がカリタスに昔、通学していたことが原因だった』

 寺沢夫人について、ちゃんと書きたくて、母についてまず、書こうと思っている。というのも母は、あの【ときわ台】住宅街60戸の中で、寺沢夫人を一番、大切で、誠実な人だと、考えていたからだ。

 そして最後の、電話の内容を考えても、その通りだと、思っている。寺沢夫人は、こういった。「確かに増田さんは、あなたとのトラブルを話しに来ました。でね。私たちは、〇〇〇さん(お坊ちゃんの幼名)が悪いと考えたのですよ」と。私はその時に、よほど、詳細にいきさつを語ろうかと思った。ベッドインを求められたのは、本当に嫌だったのだと。それから、その前の3つに、語り口も徹底的に嫌だった。私はバカではないし、弱い人間でもない。ただ、ただ、しつけがいいというかなんというか、人間を大切にしてきた母の影響下で、丁寧に他人に接するだけで。限界を超えれば相手を切る。それは当たり前の権利だ。

 しかし、あえて、それを言わなかった。それで、私一人が悪者になっているのだった。そしてそれから、さらに、二転三転、そして、加わってくる人が増えて来て、カリタス小通学バス襲撃事件へ向かうのだった。ただし、この青字の部分から先は、本日は、語らないで起きた。そして、それを、読者の皆様には、お許しいただきたい。とても、とても複雑なので体力を消耗するからだ。

 私は、今まで、ブログの中で、増田忠さんについて、少しずつ書いている。後で、リンク先をさらそう。ストラディヴァリウス級の名器を、自分のものとして、戦前から持っている人で、演奏も上手だった。

 自宅は、敷地85坪ぐらいの土地に、有名な設計家に設計をしてもらった筈の、木造平屋で、建坪25坪ぐらいだったが、リヴィングの前に、長さ4畳か、または、長5畳、または、4畳半、または、6畳の、ウッドデッキがあった。これは、金曜日の妻たちが、大流行をした40年以上前の設計だから、どれほどにモダンなおうちだったかがわかる。この家か、次の家の、東南の個室にお招きを受けて入ったことがあるが、リヴィングとか、ウッドデッキには、入ったことがない。しかし、北隣だから、ウッドデッキは、最初の10年ぐらいは、植木が、細かったので、見る事が可能だった。そこで、奥様が、刺繍とか、編み物の、お教室を開いていた。今でいうシロガネーゼだ。ただ、1950年代だから、ミセス増田は、お金は取っておらず、お茶菓子(上等なケーキ)を当番制にするなどという、形だったと思う。神戸の出身で、原節子似の美女だった。

 それで、読者モデルなどは、公募しない婦人之友の、口絵写真として、お子様二人が、お洋服のモデルとなった。今は、家庭画報とか、婦人画報とかが、女性雑誌の一番だと思う。または、ハルメクなど、宅配専門の雑誌? しかし、1970年代までは、女性誌の、一番上位のモノは、婦人之友だったと、思う。その口絵写真に、お子様が、採用されるのはセレブのあかしだった。その上、お嬢様が、学芸大学の付属小学校に、五年生の四月から、転校をした。

 こういう募集は、ほとんど公開されないと思う。たとえ、一部の生徒が、海外へ、駐在する親と一緒に、行ってしまったとしても、新しい編入生は、募集はしない筈だ。それでも、転入できた。どれだけ、セレブなのだ? 破天荒な程度で、偉い人だったのだろうか?

 で、そういうわけで、上流社会の風を吹き付け続けた人だから、周辺の人はあおられた人が多かったと、思う。母は黙って、40年間、増田家から道路に、落ちてくる落ち葉を、掃き続けた。増田家では、白樺とかケヤキとか、縦にすくっと伸びる樹木が好きで、しかも植木屋を入れないので、落ち葉は、いつも激しかった。道路には、我が家の落ち葉はなかった。そちらは、北側なので、家屋が、塀のそばまで、占領していたからだ。でも、母は黙って掃除をつづけた。特に速攻を掃除した。

 母は、一日に二時間ぐらいは、株式投資に時間を割いていて、配当金で、パンパンにしたお財布をもって、日本橋に出かけて、そのシーズンで、私が、好む洋服をセットとして買ってくれた。ただ、お針仕事も好きで、毎晩、一本程度、和服用のひもを作っていた。ただし、増田夫人のような、きれいなものを新しく作ることはしなかった。増田夫人は、絶対に、自分の方が我が家よりも上だと、考えていたのだけれど、我が家がどんどん、お金持ちになっていくのと、子供三人が、学業的に優秀だという事は、ひそかに気に入らなかったと、思う。したがって、増田夫人にかわいがられたという記憶はない。

 しかし、ご主人の方、忠さんには、結婚する前は、相当にかわいがられていた。日吉発の、電車がたまたま、同じ時間に乗る事になると渋谷までの、30分間、いろいろなことを教えてもらった。しかし、子供時代を過ぎると、ずっと、別れていて、会うこともなかった。

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副題7、『ある時、日吉のときわ台バス停から、坂を上る、坂道で、偶然に出会った。それも、普通だったら、話が盛り上がらない筈だったのだが、増田さんの、腰が、90度、前に曲がっていたので、不思議に思って、「増田さん、こし、どうしたのですか?」と聞いた。私は、意地悪な人ではない。本性としては、他愛的、特にアガペーの意味も解り、実践をしている人間だった。短い質問だったが、増田さんは、それがわかって、相当に私を信頼し、打ち解けてくれた。

 「腰を痛めて、痛くて、痛くてしょうがない」で、「千恵子ちゃん、もっと話したいね。やっぱり、楽しい話をしていると、気がまぎれるから。今度、どこかで会いませんか?」と言われて、電話番号を交換した。1996年か、1997年だったと、思う。だから、無論、固定電話の時代だった。何回かデートをしたと思う。増田さんは、山下町の近所に住んでいると、言うので、神奈川県民ホールに呼び出した。それまでは、まあ、まあ、関係は、大丈夫だった。しかし、その展示室での、デートの時に、増田さんが私に甘えすぎているのを感じて不快だった。

 その前の事もここで、記載をしておかないと、いけない。

増田さんは、非常に打ち解けてくれて、NHKにクラシックの演奏会を、録画するにあたって、どれをえらびなさいと、指導の電話を掛けたりしているとか、自由が丘か田園調布で、クラシック音楽の、お教室(楽器の演奏方法を教えるのではなくて、音楽理論他、音楽を、哲学的に教える)を開いていたと、言っていた。

 しかし、腰が痛いし、前に、90度曲がってしまって、スタイルが衰えたので、シロガネーゼというか、講師は、辞めてしまった模様だった。そう言う昨今を話してくれる際に、同時に、ご自分の結婚にまつわる秘密とか、水沢家の、悦ちゃん(妹と、小学校時代の同級生で、弟さんが、現在葉山の美術館の館長である)の、結婚と離婚にまつわる秘密などを聞いた。

 その時は、偶像が落ちたと、言う感じだった。我が家では、父も母もご近所の噂など、話さなかった。たまたま、下関の路上で、三菱重工の元ニューヨーク支店長をしていたという事を母が知っている、東大卒のご近所様の奥様とばったり出会った。日吉で、すれ違ったら、そういう流れには、絶対にならないのだけれど、下の関で出会ったので、「我が家によっていらっしゃい」と、言われたそうだ。そして上がって、庭を見て本当に驚いたそうだ。家屋は、古い数寄屋造りで、平屋建てだが、何室あるかが、数えられないくらい、ひろい家で、その広縁の前に、広い芝生の庭が、広がっていて、その先には、眼下に、関門海峡のすべてが見える形だったそうだ。

 私はいつか愛新覚羅溥傑さんが、来日した時の、次女さんの家ではないかと思った。ただ、三菱重工が、下の関に工場を持っているとも思えなかったので、その方は,旧八幡製鉄の、工場長だったのではないかしら? 車が朝迎えに来て、関門海峡トンネルを、ひとっ走りで、走り抜ける。その時期だけ、技術的なことで、一種の、短期的な合弁が起きた?

 で、母はこの話をしながら、「ああ、現代の殿様って、大企業の工場長を指すのよ。しみじみ、そう感じた」といった。母の友人が、呉造船所の、所長の、妻になっていて、そこを母と一緒に訪問をしたことがある。同じく、眼下に、呉市街を一望する家だったが、関門海峡を下関の丘の上から、見下ろす、その大邸宅の、広々とした、勘次は、本当に、初めて出会うものだった。

 しかし、この話題は、その工場長・一家の隠された秘密が話題になっているわけではない。 

 悦ちゃんの離婚にまつわる秘密を聞いたあたりから、増田忠さんに対する落ちた偶像化が始まっていたのだけれど、それがさらに、拡張したのは、神奈川県民ホールの画廊(展示室)での、事だった。腰が悪い増田忠さんにとって、そこなら、現在の住まいと近い筈だった。だから、気を使ったつもりで、そこを指定したのだけれど、大失敗だった。

 増田さんは先に来ていて、私の絵の前のソファーに座っていた。それは、神奈川県展といって、入選するのは、なかなか、難しい展覧会だったが、私は、非常に勉強家で、根を詰める人だったので、どこに出品しても落選をしたことがないという時期だった。ただし、上野の都美館の女流展に、入選し始めて、7年目、国展に入選し始めて、6年目だったので、勉強優先の時代だった。

 最初は灰色を研究していた。このことなのだけれど、国画会入選、四年目にして、銀座のギャラリーセンターポイントという画廊で、個展をした、そこは、シロタ画廊とか、望月画廊と同じく、上野の公募団体展に、入選する人が個展を開いている画廊だった。正方形の展示室で、結構広い。

 私は1981年にすでに銀座で、個展を開いていた。(こんぱる画廊)。それに父が満州文展で、1943年に、特選を取って、たくさんの新聞記事として、取り上げてもらっていたので、美術作品の制作に置いて、つよい自負と、自信を持っていた。ところが、国画会の人たちにとって、たった入選四回目で、銀座の広くて、有名な画廊で、個展をするという事は、とんでもない、はねっかえりだ(苦笑)と、なるらしかった。

 こういう経験が、反田恭平君のTV画面内の発言を、心配することにつながっている。

 国画会が、それほど、古い体質を持っていて、上下関係が厳しい組織だとはまるで知らなかった。

 しかし、この個展そのものは大盛況だった。国画会以外の、お客様が、大勢来てくださったからだ。ところが渡辺幸子さんとは、まだ、知り合いではなくて、彼女は来ていなかった。

 この個展で、後日裏切ってくる渡辺豊重さんが、「こんなに華やかなオープニングは、久しぶりです」と言ってくれた、赤塚侃さんなどの、オープニングパーティの当時の授連だった人もちゃんと写真に写っている。

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副題8, 『私は絵を、発表する際に入選はどうか?、賞がとれるかどうか? という事は考えていない。自分なりの筋道があって、それにのっとって、研究を続けていく。1990年から、1996年までは、灰色の研究をしていた。1997年の春から、緑色の研究を始めていて、増田忠さんに、神奈川県民ホールで、見せた絵は、研究途上だから、たしかに成功しているとはいえなかった。ただし、「千恵子ちゃん、こんな汚い絵を描いていてはだめよ」と言われては、心がすっと離れていく。それは、当たり前の、話だった。増田忠さんは、どうしてあそこまで、私に甘えたのだろうか?』

 そして、別の日、G.Center Pointのオーナーの新田さんが、「川崎さんの絵って、川崎さんの絵だけを集めると、とてもきれいなのですね」といってくれた。それは事実だと思う。灰色を研究していた時代で、灰色の濃淡の中に、ちょっとだけ、黄色を、さすなどという時代だから、上野の都美館で、森本草平とか、馬越陽子と比較すれば、それは絶対に目立たない。

 ところで、ここで、心配ごとを挿入しないといけない。こんぱる画廊のオーナーも新田さんも、その後、零落した可能性があるのだ。それが、とても心配だ。

 さて、新田さんと、こんぱる画廊のオーナーについては、今は、触れないでおきたい。灰色の研究は、1997年の春以降やめた。五月120号を毎日展に出して、入選した。それの出来が良いことは、自分でもわかっていたし、

 星兼雄さんが、シニカルな反語として、褒めてくれたのをきっかけとして、灰色の研究を終わらせることとした。

 星兼雄さんという方は、文化学院出身だっただろうか? したがって、国画会主流派ではない。でも、文化学院の教授でもあり、国画会内部の悪弊(いろいろ、あらーな)を改革しようと努力をしている人だった。事務局長(名目上のトップ)も引き受けている方だった。神奈川県在住で、せめて神奈川県在住の人だけでも、まともにしていこうと努力をなさっていたが、島田章三さんのいじめには勝てない方だった。国画会・神奈川支部展を開こうとすると国という字を使うなと、島田さんに言われたらしい。鵠沼に使われている、【鵠】という字を使えと島田さんから言われたらしい。で、星さんは、「鮎子さんの絵を章三さんは、使っているのに」、と、既に会員になっている人に話していた。私も、1991年から、それに気が付いていたし、1982年島田さんの、実妹から、いろいろなエピソードを、PTA広報委員会の平会員と、委員長といて、聞いていて、彼女の話から、それ=島田さんが、狭量で、実は,自信がない人であるという事は、はすでに、しっているつもりになって、国展出品を決めたのだけれど、聞きしに勝るものだった。

私は星さんとは、関内の教育センターとか裏手にあった中華料理店の二階で、20人ぐらいで打ち上げをしているので、お互いに顔を知り合っていた。1997年の五月のある日に上野の都美館内で、すれ違った。その時、星さんは、低い声で、「川崎さん、あっちにいいのを出したね」といって、顔も見ずに通り過ぎて行った。

 星さんは、国画会内部を改革しようとしていて、私なんかをその担い手の一人として、考えていてくださったからこそ、怒ったのだった。だけど、私はうれしかった。星さんは、ちゃんと勉強している人だった。国展と同時期に開かれている、毎日現代展をご覧になっていたのだ。国画会の中には、他の展覧会なんて、見る必要がないというほどに不勉強な人もいた。イタリアの作家(具象系なので、マスメディアに乗らない人)の絵を毎年剽窃して、国展に出して居た人もいた。芸大卒で、愛知県在住。もう絵にかいた様に、島田章三派閥の人だった。だから、国展も、都美館も、なめ切って生きている人だった。

 星さんは、1938年生まれで、2020年9月10日に亡くなっている。で、もう間に合わないけれど、言っておきたい。「星さん、私は、毎日展を上に置いたわけではありません。サイズの問題だったのです。毎日展の作品は、120号だから、国画会のサイズ制限を超えていて、出せなかっただけなのですよ」と。

 このあたりについては、三田晴夫さんの事、今関一馬さんの事、大久保忠春さんの事、山口みつ子さんのこと。十束さんと金成さんの事、島田省三さんの実妹・大沼嘉津江さんの事、嘉津江さんのお取り巻き、杉本正子さんの事、いろいろ書きたいことへつながっていく。しかし、ここでは増田忠さんに、引き続き,糊付けをすることを、お許しいただきたい。私も必死なのだから。

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副題9、『緑色を研究中の、ごく初期の絵を汚いと言われた。言い返す、言葉もない。黙っていた。というのも、これが、二つ目としての驚かされ事項だったから、一つ目の、水沢悦ちゃんの離婚のいきさつを知らされた時で、いささかの免疫もできていた。

 で、黙って下を向いている私に向かって、増田さんはあくまでも無邪気にこういった。「千恵子ちゃん、お昼をごちそうしてくれない。僕ね、退職金、みんな使っちゃったのよ。ほら、音楽会に行くでしょう」と、言う。それは、その通りだと思う。

 音楽会って、たいてい、7000円の入場料を取る。交通費、それから一緒に行く人がいたとして、その人と、しかるべきレストランで、終わった後、お食事を一緒にする。これで、月に、10万円か15万円は、費やす。もし、メトロポリタンオペラでも,やって来ようものなら、一回で、6万円は飛ぶ。だから、増田さんが、旧、中島飛行機☛ プリンス自動車 ☛ 日産自動車で、勤務し、あがなってきたお金は、それが7千万円だとしても、アッと、言う間に消えるはずだった。

 私はないしんの嫌悪感を抑えながら、「増田さん、あたくしは、そばは嫌いなので、お店を知りません。お隣に東天紅があります。そこへ行きましょう。と、誘った。東天紅横浜は、今は、桜木町のワシントンホテルに移動をしているらしい。しかし、1997年は、産業貿易ビル(または、センター)の八階か、10階に、存在した。このビルの二階で、パスポートを発行してもらうビルだけど、アクセスが悪いせいか、お客が全然いなかった。

 お料理は量は少ないが、上品でおいしい。それは、私にとっては、満足だったが、増田さんはなんと、四個目の爆弾を落としたのだった。

 白いテーブルクロスの上に、彼の部屋のベッドの、写真を置いた。ベッドの上に、ポールが渡されていてそこに何着もの洋服がぶら下がっていた。『あれ、息子さんは早稲田の建築科卒なのに、お父さんのために、クローゼットを作らなかったのかしら? まあ、増田さんは、お金持ちの家の子供で、奥さんもそうだったから、整理整頓は、嫌いでしょうね。お掃除も嫌いでしょうね。だけど、家政婦まで、させられるのは、まっぴらごめんですよと、思いながら、どういう風に断ろうかと思って、ふと、増田さんの顔を見た。

 すると、彼が目を見開いて、じっと、こっちを見ているのだが、その眼の中に、小さいが、確実に、探るという気配を感じ取った。その途端に、気が付いた。整理をしに来てというのは、口実で、「千恵子ちゃん、一緒に寝ない?」と、問いかけられているのだった。

 増田さんは、「写真を準備してきたぐらいだったから、産業貿易ホールの一階、または、県民ホールの一階に、待機しているタクシーを、ひろって、本日中に、彼の家に誘い込むつもりかしら」と、思った。

 私は、「増田さん。私、忙しいので、それは、できません」といって、その日は別れた。

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副題10,『その数日後だった。早朝、五時か、五時半に電話が鳴った。電話は二階にあり、そこに、サラリーマンの息子がいた。娘も、いた。彼は午前7時に出るし、娘は午前8時に出る。

 私は、増田さんが、午前五時か、五時半に電話をかけてくるなどという非常識な人であるとは、夢にも思わず、

 ・・・・・増田さんの、例のお誘いも、そういう事なのか? 彼が開いていた、音楽教室のマダムの中に誰か、彼と寝た人間がいますね。一盗二卑と、言って、人妻とセックスするのが、もっとも、楽しいそうですよ。でもね。ジャンコクトーについての、素晴らしい解説を、高校時代に東横線の車内で、聞いて感嘆した間柄です。一夜のアヴァンチュールといえども、ありえないです。

 ああ、あなた、奥さんが、ガンで、長い入院・闘病をしていたけれど、その頃からですか? どこか、ねじが外れて、狂ってしまいましたね。増田さんが過去に誘い掛けた女性は、みんな物分かりよく、応じたのかしら?・・・・などと、思った。

・・・・・増田さんは、私が鎌倉に住んでいるというだけで、そういう種類の有閑マダムと同じだと思ったのかしら?

 この早朝の電話だけど、私の家族は、誰か、知人が死んだのだと、思ったみたいで、差し止めをしなかった。しかし、午前6時半になったので、「増田さん、私ね。出勤する子供たちのご飯を作らないといけません。それからね。こういうお電話は困りますので、もう、電話をよこさないでくださいね」といった。それには、「電話がくる時間帯が問題なのです」というニュアンスよりも、「もう、絶交をしたい。二度と会いたくない」と、言うニュアンスがこもっていた。

 受話器の向こうで、増田さんの、息をのむ気配がした。だけど、こっちにしてみると、じっと、我慢をしているうちに、爆弾が、六発も、落下したのだった。仏の顔も三度とよく、いう。今回は、その二倍だった。で、自分の正当性を疑わず、例のごとく、神様がどうにかしてくださるだろうと、思って、慰撫の電話は、かけなかった。そして、増田さんからも二度と電話が来なかった。

 しかし、これが、カリタス小通学バス襲撃事件を引き起こした。だから、今、これを書かないといけない。ところで、私は、すでに、30時間、連続して起きている。このことが、どうして、カリタス小襲撃事件に、結び付いていくかについては、また、長時間がかかります。ので、本日は、ここまでで。

 

 

後注1,

保美死刑囚が今はwikiでHと呼ばれる。私が大物である証拠だ。だが今問題にすべきは、カリタス小襲撃事件の方である

2022-01-26 01:50:41 | 政治

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保美死刑囚が今はwikiでHと呼ばれる。私が大物である証拠だ。だが今問題にすべきは、カリタス小襲撃事件の方である

2022-01-26 01:50:41 | 政治

 本日は、非常に重要なことを多数書きます。

副題1、「前報は、まとまっていなかったと思います。何を書こうとしているのかが、皆様には、ご理解不可能だったと思います。しかし、私としては、カリタス小通学バス襲撃事件の裏側を書くつもりでした。それは、最初期には、カリタス小通学バス殺傷事件とか、言うタイトルで、報道をされていましたが、いつの間にか、登戸殺傷事件と、改名され、さらに川崎殺傷事件と改名されて行きました。

 その事件は、51歳の引きこもりの男が、ミャンマー語に堪能な若い外交官(お嬢さんをカリタスに通学させていたお父さん)を殺し、優秀な6年生をも殺し、数人の生徒を傷つけて、自分も自殺をしたという事になっていますが、違うのですよ。彼は、何らかの形で、リクルートをされた作られた犯人です。で、学生服を着てくる様に言われていました。ご褒美をもらえるので、とても明るい気分となっていて、珍しく、自宅=====しかし、叔父の家だと、言われている。本当だろうか、実の両親の家だったのではないだろうか?=====の、ご近所様に、朝早くの挨拶を自らしてから、電車に乗っていったそうです。

 これから先は見てきた様なウソを言いの類ですが、当たらずとも言えず。遠からずでしょう。

 現場につくと、他にも学生服を着た大人の男が数人いて、それらが、実際の殺人行為をします。で、最初の殺人とか傷害事件が起きると、警察はすぐ規制線を張ったので、一般人が、事件現場を、見る事がありませんでした。しかも、もし見ていた人がいたと仮定しても、マスコミに対しては、すぐさま、ミャンマー語の堪能な外交官の動画が、配信されたので、大手マスコミは、現場について、丁寧な取材をすることはやらなかったと思います。ともかく、朝の8時から9時にかけて現座取材は、行われず、しかも、現場取材が、始まったころには、規制線が張られたうえに、被害者と、犯人と、みなされている男の遺体、ともども、現場からは、運び出されていたのです。

 しかも、あのミャンマー語に堪能な外交官が、アウンサンスーチー氏の後ろを歩いている動画が、午前11時の、短いNHKニュースにはすでに出てきたので、NHKは、午前10時にはそれを手に入れていたと、考えられますので、現場取材は、ヘリコプターの映像程度でした。(もしかしたら、午前10時には、すでに、NHKの画面に登場していたのかもしれませんが、私は、その時間帯には、ニュースを見てはいません。

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副題2、『ここで、数多く、生起した、この種の謀略事件(大量殺人事件といわれるものも含む)の犯人をどう処理するかは、すべて、私が、ひとつ前の事件を、どういう風にブログで、解析したかに、依って変わってくる。いかにも犯人らしく整えていくか❓(山田浩二のケース)できるだけ秘匿しておくが、鎌倉雪ノ下と関連があると書かれると、慌てて、表に出してきて、裁判も二審まで行う(保美死刑囚の場合)、しかし、事件が、特に私を脅かすために、私を直に狙って、いるケースだと、犯人は、事件現場で、殺される(カリタス小通学バス襲撃事件の、51歳の引きこもりの男性)+(大阪雑居ビルで、西澤弘太郎さんと、言う大変評判の高い、医者を、焼き殺し、患者さんもついでに、焼き殺した、谷本守雄は、病院へ収容をされたのち、何らかの方法で殺された)とか、そのひとつ前の京都アニメーション放火事件は、菊之助と宮崎俊を守るために起こされたものなので、私に対する攻撃としては、やや、間接的なものであるので、犯人青葉真司は、現場では、殺されていない』

 さて、私は今、カリタス小通学バス襲撃事件に特化して、語っています。

 この事件は、例の連中(CIAエージェント)のうちの誰かが計画をして、警察の特殊部隊にやらせたと思います。で、やまゆり園事件の時の失敗を、よく検討していて、犯人役は現場で、殺してしまうと、言う脚本が、事前に練られていたでしょう。

 今回の大阪雑居ビル放火犯、谷本守雄も、同じですが、この手の、謀略事件のうち、私がブログで、分析していることとは、できるだけ反対の、脚本が練られます。やまゆり園事件の時は、植松聖を生かしました。だが、一審死刑で、上告をさせないという形で、隠匿しました。また、その前(または、後だったか?)の、寝屋川のアーケード街を真夜中にさまよっていて中1の児童二人の殺害事件の時も、山田浩二を生かしておいて、一審で、死刑にして、上告をさせないという措置を取りました。

 しかし、周南市の限界集落で起きた、最初期は、平成の八墓村事件と呼ばれた事件で、保美死刑囚は、一審と、二審ともに死刑という判決を下したのですが、一審判決の夜も、二審判決の夜も、NHK ニュースウォッチは、報道をしませんでした。なぜか?

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副題3、『平成の八墓村事件は、今では、改名をされている。wikipedia では、山口連続殺人放火事件と、呼ばれている。しかも、保美死刑囚は、Hと、呼ばれている。これは、私のブログを、目立たせない措置である。保美死刑囚は、広島に収監だそうだが、事実上隠匿されており、だれも、訪問をせず、インタビューを行うものもいない。しかも、

必ず、録画をしているNHKニュースウォッチでは、一審判決、死刑を報道をしなかった。事件は、参議院選挙の選挙速報が、大報道をされている2013年7月21日に起こされ、その夜は、一切報道をされなかったが、

すみません。私は、この事件が起きた日付として、このブログ内で、時々、2014年と記載をしておりました。しかし、実際は2013年でした。

第23回

平成25年7月21日

平成25年7月29日

令和元年7月28日

私は、この事件後8本のブログを書いています。それを以下に、現在の書き方による解説付きで、まとめていきます。当時は、相当に抑えております。 

そして、敵さんたちに特に強い影響を与えた文章を太字で、表記しておきましょう。

*0)副題7で、ちらっと触れている。

参議院選を終えて、一旦は平和な日本だと思ったが、・・・・・・

2013-07-22 21:34:51 | 政治

*1)副題4と6で触れています。63歳の男(周南市)の遺体は見つからない筈。もし出てきたらそれは、偽モノのだろう。

*2)これは、非常にシンプルである  周南市の、重要参考人が、身柄を確保・・・・・・ドラマ激流(NHK)と、日本の天才の悲劇

*3)これは、実際には、23日に書いた。それを書いた日には公開をしなかった。だが、25日に公開したので、保美は、26日に身柄確保となったのだった。どうしてかというと、この章の、副題6で、事件直後の月曜日安野夫人がおおよろこびをしているとかいたからだった。

保見被告(替え玉?)が、精神鑑定でおかしいという事になったら、永遠に真実が封印されるだろう

2013-07-25 21:11:41 | 政治

*4)ここでは、割と、穏やかな、書き方で、わざと外している問題がある。それは、自分の文章*3)が正しかったがゆえに、保美が、発見されることとなったと、言う喜びがあったからである。保美は、5人も惨殺したはずなのに、真っ白な、アンダーシャツを着ていて、しかも、山の小高い場所で、樹木が切り払われている場所で、ヘリコプターによって、見つかったこととなっている。

保見容疑者と、神田日勝との違い・・・・・(メンターの有る無し)△

2013-07-27 12:08:03 | 政治

*5)   保見容疑者ー5・・・・・彼は、ロマンローラン言うところの、ピラミッド内部の石だった△

*6)  保見容疑者の6・・・・・カラヴァッジョだって、殺人を犯していたのだったが?

*7)  毒入り餃子事件の裁判がなぜ、今(=発生・五年後)に、行われたか?

2015年7月28日に開かれた第一審判決公判で山口地裁(大寄淳裁判長)は山口地検側の求刑通りHに死刑判決を言い渡した[37]

 この日の夕方前田祝一の喜んだこと、喜んだこと、後で、リンク先を探しておこう。ともかく、本日は先を急ぎたい。

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副題4、『実は、この事件の際、平木夫人も子供を使って、CIA連中に協力している。私は内心では、非常に怒っているが、お子さんがまだ、小学生だったので、我慢をして、ブログに取り上げなかった。だが、下書きの段階で、書いたはずで、したがって、保美が発見されると、言う方向に事件が動いた。23日までは、連中は、切り抜けられると思っていて、警官たちが、600名も出ているが、見つからないという話だった。それを伝えるNHKのニュースの画面を写真に撮っておけばよかった。今、ウィキペディアを見ると、170名動員したと出ている。600名が嘘なのか、170名が嘘なのか?

 ところで、平木夫人の実名を伏せて、我慢我慢の歳月が、7年と9か月を過ぎた時、突然に、あそこのおぼっちゃまが、一種の裏口入学(表向きは、秘密中の秘密という形)として、東大へお入りになったことを語り始めた。というのも、2020年のに、「あなたは、来年の4月から、東大へ入れますよ」というお知らせを受けて、坊ちゃんは、喜びのあまり、それ以前は、1回も音を出して引いたことのない、電子ピアノを、その時だけ、音を出して、ジャンじゃか、ジャンじゃか、英雄ポロネーズを弾いたのだった。

 しかも、東大の入学式は、次の年の4月12日に行われるのに、それを私に察知されない様にするために、前日の午後、一家は、最上級のおしゃれをして、外出していった。

 で、私は、数本のブログを書いているが、それに困った連中は、2021年12月20日にセールスマンとしては、極めて優秀な青年を我が家に、わざわざ訪問をさせて、NTTから、JCOMへネットの乗り換えを提案した。テレビが自動的に二台見られるそうで、危うく乗りそうになった。しかし、たまたま、26日の夜に、その契約は一種のだまし討ちであり、

 それに乗ると、このブログが、自動的に消滅してしまい復活が不可能なことに気が付いた。それで、危機一髪で、契約を破棄した。解除したというのかな?

 で、困った伊藤玄二郎と、井上ひさし(まだ実際には生きていますよ)は、新たな脚本を練り上げ、それを、松尾崇市長から、れくちゅあーし、その通りに、発言する様に、2022年1月14~16日の間に教え込んだ。この松尾市長というところは、別の人間が入ったと仮定してもいいだろう。

 しかし、ばかげた嘘の連続だった。まず、坊やが引いていたのは、英雄ではなくて、革命だそうだ。そのうち、改名されるかもしれない。しかし、リヒテルとかホロビッツ、及びブレンデルのレコードまたは、CDのラベルには英雄と、記載をされていると、思う。なお、それは、シューベルトの即興曲でも同じ。Op90と Op142と、記載をされている筈だ。

 それが、一つ目だったが、2つ目は、2021年4月11日の午後出かけたのは、次男の三浦学苑入学式だったそうだ。ネットで、調べると、その学苑の入学式は、特に、2021年度は、4月5日だった。そうだ。その通り。小学校、中学校、高校の入学式は、だいたい、4月5日~7日の間に行われる。大学だけは、遅いケースもあるが、慶応だって、7日だったはずだ。東大だけが、異様に遅かった。2021年度だけだったかもしれないが?????

 この「次男が、三浦学苑に、入学しました」というセンテンスにも嘘が含まれている可能性がある。三浦学苑に関しては、昔私が、一本ブログを書いている。そこの卒業生が、大変、元気で、優秀だと書いたのだ。不動産屋の社員として、であった人だと思う。仕事もよくできるし、若いのに、すでに、お子さんが3人いて、自分の家も建てたそうだ。総タイトルに三浦学苑とは、つけていない筈なので、今の私が、見つけ出すことが困難だけど、毎日私のブログを点検している井上ひさしが、そのブログから、取った名前かもしれない。井上ひさしは、それが、自分特有のユーモアの発露だと、思っているのだろう。彼は、常に私のブログから、私への攻撃用の種を探す人でもある。公的には、自分を死んだことにしているが、いまだ、生きている。

 ともかく、それほど、大人数の生徒を入学させる学校ではないので、武道館での、入学式もないし、5日に、入学式が行われたことは、確実だ。だが、平木家の次男が、2019年度入学だったらどうだろう。その可能性もある。

 2022年の1月17日に平木夫人から、直接聞いたのだが、あのご夫婦は、お子様がうまれる前に、ここに引っ越してきたそうだ。そうなると、ミスター平木は、30代で、鎌倉駅徒歩圏内(公称8分)の中古の物件を手に入れた事になる。退職金で、大きな家を建て直し、一部を、2DKの、アパート2軒に、直しておけば、子供たち二人ともと、一緒に住むことができるし、将来の、遺産相続が、面倒だと思えば、他人に貸したらいい。

 というのも我が家は公簿上は89坪なのだけれど、がけや私道部分で、取られていて、実際に使えるのは、40坪程度である。ただし、大金をかけて新築し直しをすれば、基礎の、土木工事如何で、我が家も、2LK三戸の住まいに建て直せる。ただし、宝くじが当たった場合だけである。

 平木家も、公簿上は75坪はあるはずで、我が家よりも平地感が強いので、総2階なら、56坪程度の家を建てられると、思う。で、子育てが終わったら、無理なく、不動産収入が、現在の貨幣価値に直すと、20万円以上手に入る老後となる。めでたし、めでたしだ。あそこは現役のサラリーマンで、しかも土木建築会社だそうだ。月給も高いであろうし、退職金も高いであろう。楽々建て直しが利く。

 坊ちゃんたちは、上は東大卒で、年収1000万円は固い職場に、就職できるだろう。もし、医学部入学であって、卒業後、成功した個人病院でも立ち上げたら、億万長者になれる。

 下のお子さんだって、東大へは進学しないかもしれないが、お母さんが、上手に子育てをしているし、CIAえーじぇんとの支援があるので、良いところに就職できるはずだ。

 安野家の、次男なんて、おなり中学時代は、通信簿に、1と、2しかないと、言うことで、有名なお子さんだった。おいちに、おいちに、の、アヒルさんと呼ばれていた。しかし、国立大学の付属高校にご入学あそばされたそうで、海上保安庁にご就職あそばされた。CIAのお気に入りになれば何でも、自由に手に入る。

 尖閣諸島問題は、すべて、私が安野智紗夫人について、その悪辣さを書いた後で、起きている。中国、艦船の200日、連続、周辺海域への出動も同じ。

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副題5,『保美死刑囚が起こした事件は、村八分になっている人間は殺人事件まで起こすのだと、することで、警察の特殊部隊が起こした。保美は、以前、読売新聞に、Uターンの代表として、取材をされたそうなので、その記者にリクルートをされたのだと、思う。で、私が、当時、村八分状態だったので・・・・・

 それは、安野智紗夫人がお砂糖を借りに来たので、「そういうお付き合いは致しません」と断ったからだったが、そういう風に村八分になっている人間は、将来、殺人事件でも起こしかねないのだ・・・・・という事にして、私を悪人として、決めつけていくことが目的だった。

 しかし、カリタス小学校通学バス襲撃事件は、少し違う。

 その真相を丁寧に、分析していこう。

 カリタス小襲撃事件の前に、やまゆり園事件というのが起こされた。

これは、私を、周辺の人間がそろって、「あの人は精神病である」と、決めつけて、周囲の人間が、私を精神病院に入れてしまおうと、言うたくらみの実践だった。

 植松聖というのは、やまゆり園の園長がとった、措置入院の仕組みで、二週間程度、精神病院へはいっていたそうである。で、日本国中に、その語彙を、広めるために、起こされた派手な派手な事件で、尾野一矢さんだけは、喉あたりを切られた模様だが、殺された人間は、一人もいない筈だ。

 この措置入院の根拠だが、睡眠導入剤アモバンを、半年に一回、28錠ほど処方してもらっているのが、その根拠になっているらしい。それは、JR東日本が、横須賀線車内に貼っているポスターとか、横須賀中央駅そばの、中央内科の、すぐそばに、工事車両が、「緊急工事用」という張り紙をつけて止まっていて、運転台で、運転手が居眠りをしていたのを見たりして、察知した。したがって、アモバンは、もう、もらわないことにした。最近は、たんぱく質で、眠れますという広告が盛ん(五個ぐらい発見をしている)なので、それを試しの段階だけで(最初は安い。継続して買うと高い)申し込みは、しているが、指定通り飲んだら、2時間ぐらいで、目が覚めるので、何も飲まないで、過ごしている。・・・・・次の日に国会へ登院しないといけません・・・・・という、早稲田ゆきさんとは違うので、眠れなかった日は、眠れないままで、自然に任せている。

 ところで、中央内科で、特に受付事務員にひどい事をされた。それを書いているので、駅そばの雑居ビル4階という共通項がある大阪の心療内科が、狙われた。これも、対私脅かし用だが、この1月13日、新橋演舞場に行っている間に、西澤弘太郎先生に関する大量の情報が出て、それもなるほどだと、思う。私は之も、カリタス小襲撃事件と同じく、谷本守雄という人間は、何らかの餌を与えられて『こういう風にしなさいと、言われていた通りに行動をしただけで、

 この医院には、通院した過去もないだろうし、先生への恨みも持っていなかっただろうし、拡大自殺への願望もなかったと、思う。でも、今は、こちらには踏み込まず、カリタス小、襲撃事件に取り組みたい。

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副題6、『カリタス小襲撃事件が、起きたのは、寺沢夫人という実家の近所に住む奥様が、増田忠さんについて、或る重要なことを教えてくれたことが、カリタス小が狙われた原因となっている。寺沢夫人も増田忠さんも故人だが、重要な存在だ。寺沢家のお嬢さん二人がカリタスに昔、通学していたことが原因だった』

 寺沢夫人について、ちゃんと書きたくて、母についてまず、書こうと思っている。というのも母は、あの【ときわ台】住宅街60戸の中で、寺沢夫人を一番、大切で、誠実な人だと、考えていたからだ。

 そして最後の、電話の内容を考えても、その通りだと、思っている。

 私は、今まで、ブログの中で、増田忠さんについて、少しずつ書いている。後で、リンク先をさらそう。ストラディヴァリうす級の名器を、自分のものとして、戦前から持っている人で、演奏も上手だった。

 自宅は、敷地85坪ぐらいの土地に、有名な設計家に設計をしてもらった筈の、木造平屋で、建坪25坪ぐらいだったが、リヴィングの前に、長さ4畳か、または、長5畳、または、4畳半、または、6畳の、ウッドデッキがあった。これは、金曜日の妻たちが、大流行をした40年以上前の設計だから、どれほどにモダンなおうちだったかがわかる。この家か、次の家の、東南の個室にお招きを受けて入ったことがあるが、リヴィングとか、ウッドデッキには、入ったことがない。しかし、北隣だから、ウッドデッキは、最初の10年ぐらいは、植木が、細かったので、見る事が可能だった。そこで、奥様が、刺繍とか、編み物の、お教室を開いていた。今でいうシロガネーゼだ。ただ、1950年代だから、ミセス増田は、お金は取っておらず、お茶菓子(上等なケーキ)を当番制にするなどという、形だったと思う。神戸の出身で、原節子似の美女だった。

 それで、読者モデルなどは、公募しない婦人之友の、口絵写真として、お子様二人が、お洋服のモデルとなった。今は、家庭画報とか、婦人画報とかが、女性雑誌の一番だと思う。または、ハルメクなど、宅配専門の雑誌? しかし、1970年代までは、女性誌の、一番上位のモノは、婦人之友だったと、思う。その口絵写真に、お子様が、採用されるのはセレブのあかしだった。その上、お嬢様が、学芸大学の付属小学校に、五年生の四月から、転校をした。

 こういう募集は、ほとんど公開されないと思う。たとえ、一部の生徒が、海外へ、駐在する親と一緒に、行ってしまったとしても、新しい編入生は、募集はしない筈だ。それでも、転入できた。どれだけ、セレブなのだ? 破天荒な程度で、偉い人だったのだろうか?

 で、そういうわけで、上流社会の風を吹き付け続けた人だから、周辺の人はあおられた人が多かったと、思う。母は黙って、40年間、増田家から道路に、落ちてくる落ち葉を、掃き続けた。増田家では、白樺とかケヤキとか、縦にすくっと伸びる樹木が好きで、しかも植木屋を入れないので、落ち葉は、いつも激しかった。道路には、我が家の落ち葉はなかった。そちらは、北側なので、家屋が、塀のそばまで、占領していたからだ。でも、母は黙って掃除をつづけた。特に速攻を掃除した。

 母は、一日に二時間ぐらいは、株式投資に時間を割いていて、配当金で、パンパンにしたお財布をもって、日本橋に出かけて、そのシーズンで、私が、好む洋服をセットとして買ってくれた。ただ、お針仕事も好きで、毎晩、一本程度、和服用のひもを作っていた。ただし、増田夫人のような、きれいなものを新しく作ることはしなかった。増田夫人は、絶対に、自分の方が我が家よりも上だと、考えていたのだけれど、我が家がどんどん、お金持ちになっていくのと、子供三人が、学業的に優秀だという事は、ひそかに気に入らなかったと、思う。したがって、増田夫人にかわいがられたという記憶はない。

 しかし、ご主人の方、忠さんには、結婚する前は、相当にかわいがられていた。日吉発の、電車がたまたま、同じ時間に乗る事になると渋谷までの、30分間、いろいろなことを教えてもらった。しかし、子供時代を過ぎると、ずっと、別れていて、会うこともなかった。

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副題7、『ある時、日吉のときわ台バス停から、坂を上る、坂道で、偶然に出会った。それも、普通だったら、話が盛り上がらない筈だったのだが、増田さんの、腰が、90度、前に曲がっていたので、不思議に思って、「増田さん、こし、どうしたのですか?」と聞いた。私は、意地悪な人ではない。本性としては、他愛的、特にアガペーの意味も解り、実践をしている人間だった。短い質問だったが、増田さんは、それがわかって、相当に私を信頼し、打ち解けてくれた。

 「腰を痛めて、痛くて、痛くてしょうがない」で、「千恵子ちゃん、もっと話したいね。やっぱり、楽しい話をしていると、気がまぎれるから。今度、どこかで会いませんか?」と言われて、電話番号を交換した。1996年か、1997年だったと、思う。だから、無論、固定電話の時代だった。何回かデートをしたと思う。増田さんは、山下町の近所に住んでいると、言うので、神奈川県民ホールに呼び出した。それまでは、まあ、まあ、関係は、大丈夫だった。しかし、その展示室での、デートの時に、増田さんが私に甘えすぎているのを感じて不快だった。

 その前の事もここで、記載をしておかないと、いけない。

増田さんは、非常に打ち解けてくれて、NHKにクラシックの演奏会を、録画するにあたって、どれをえらびなさいと、指導の電話を掛けたりしているとか、自由が丘か田園調布で、クラシック音楽の、お教室(楽器の演奏方法を教えるのではなくて、音楽理論他、音楽を、哲学的に教える)を開いていたと、言っていた。

 しかし、腰が痛いし、前に、90度曲がってしまって、スタイルが衰えたので、シロガネーゼというか、講師は、辞めてしまった模様だった。そう言う昨今を話してくれる際に、同時に、ご自分の結婚にまつわる秘密とか、水沢家の、悦ちゃん(妹と、小学校時代の同級生で、弟さんが、現在葉山の美術館の館長である)の、結婚と離婚にまつわる秘密などを聞いた。

 その時は、偶像が落ちたと、言う感じだった。我が家では、父も母もご近所の噂など、話さなかった。たまたま、下関の路上で、三菱重工の元ニューヨーク支店長をしていたという事を母が知っている、東大卒のご近所様の奥様とばったり出会った。日吉で、すれ違ったら、そういう流れには、絶対にならないのだけれど、下の関で出会ったので、「我が家によっていらっしゃい」と、言われたそうだ。そして上がって、庭を見て本当に驚いたそうだ。家屋は、古い数寄屋造りで、平屋建てだが、何室あるかが、数えられないくらい、ひろい家で、その広縁の前に、広い芝生の庭が、広がっていて、その先には、眼下に、関門海峡のすべてが見える形だったそうだ。

 私はいつか愛新覚羅溥傑さんが、来日した時の、次女さんの家ではないかと思った。ただ、三菱重工が、下の関に工場を持っているとも思えなかったので、その方は,旧八幡製鉄の、工場長だったのではないかしら? 車が朝迎えに来て、関門海峡トンネルを、ひとっ走りで、走り抜ける。その時期だけ、技術的なことで、一種の、短期的な合弁が起きた?

 で、母はこの話をしながら、「ああ、現代の殿様って、大企業の工場長を指すのよ。しみじみ、そう感じた」といった。母の友人が、呉造船所の、所長の、妻になっていて、そこを母と一緒に訪問をしたことがある。同じく、眼下に、呉市街を一望する家だったが、関門海峡を下関の丘の上から、見下ろす、その大邸宅の、広々とした、勘次は、本当に、初めて出会うものだった。

 しかし、この話題は、その工場長・一家の隠された秘密が話題になっているわけではない。 

 悦ちゃんの離婚にまつわる秘密を聞いたあたりから、増田忠さんに対する落ちた偶像化が始まっていたのだけれど、それがさらに、拡張したのは、神奈川県民ホールの画廊(展示室)での、事だった。腰が悪い増田忠さんにとって、そこなら、現在の住まいと近い筈だった。だから、気を使ったつもりで、そこを指定したのだけれど、大失敗だった。

 増田さんは先に来ていて、私の絵の前のソファーに座っていた。それは、神奈川県展といって、入選するのは、なかなか、難しい展覧会だったが、私は、非常に勉強家で、根を詰める人だったので、どこに出品しても落選をしたことがないという時期だった。ただし、上野の都美館の女流展に、入選し始めて、7年目、国展に入選し始めて、6年目だったので、勉強優先の時代だった。

 最初は灰色を研究していた。このことなのだけれど、国画会入選、四年目にして、銀座のギャラリーセンターポイントという画廊で、個展をした、そこは、シロタ画廊とか、望月画廊と同じく、上野の公募団体展に、入選する人が個展を開いている画廊だった。正方形の展示室で、結構広い。

 私は1981年にすでに銀座で、個展を開いていた。(こんぱる画廊)。それに父が満州文展で、1943年に、特選を取って、たくさんの新聞記事として、取り上げてもらっていたので、美術作品の制作に置いて、つよい自負と、自信を持っていた。ところが、国画会の人たちにとって、たった入選四回目で、銀座の広くて、有名な画廊で、個展をするという事は、とんでもない、はねっかえりだ(苦笑)と、なるらしかった。

 こういう経験が、反田恭平君のTV画面内の発言を、心配することにつながっている。

 国画会が、それほど、古い体質を持っていて、上下関係が厳しい組織だとはまるで知らなかった。

 しかし、この個展そのものは大盛況だった。国画会以外の、お客様が、大勢来てくださったからだ。ところが渡辺幸子さんとは、まだ、知り合いではなくて、彼女は来ていなかった。

 この個展で、後日裏切ってくる渡辺豊重さんが、「こんなに華やかなオープニングは、久しぶりです」と言ってくれた、赤塚侃さんなどの、オープニングパーティの当時の授連だった人もちゃんと写真に写っている。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題8, 『私は絵を、発表する際に入選はどうか?、賞がとれるかどうか? という事は考えていない。自分なりの筋道があって、それにのっとって、研究を続けていく。1990年から、1996年までは、灰色の研究をしていた。1997年の春から、緑色の研究を始めていて、増田忠さんに、神奈川県民ホールで、見せた絵は、研究途上だから、たしかに成功しているとはいえなかった。ただし、「千恵子ちゃん、こんな汚い絵を描いていてはだめよ」と言われては、心がすっと離れていく。それは、当たり前の、話だった。増田忠さんは、どうしてあそこまで、私に甘えたのだろうか?』

 そして、別の日、G.Center Pointのオーナーの新田さんが、「川崎さんの絵って、川崎さんの絵だけを集めると、とてもきれいなのですね」といってくれた。それは事実だと思う。灰色を研究していた時代で、灰色の濃淡の中に、ちょっとだけ、黄色を、さすなどという時代だから、上野の都美館で、森本草平とか、馬越陽子と比較すれば、それは絶対に目立たない。

 ところで、ここで、心配ごとを挿入しないといけない。こんぱる画廊のオーナーも新田さんも、その後、零落した可能性があるのだ。それが、とても心配だ。

 さて、新田さんと、こんぱる画廊のオーナーについては、今は、触れないでおきたい。灰色の研究は、1997年の春以降やめた。五月120号を毎日展に出して、入選した。それの出来が良いことは、自分でもわかっていたし、

 星兼雄さんが、シニカルな反語として、褒めてくれたのをきっかけとして、灰色の研究を終わらせることとした。

 星兼雄さんという方は、文化学院出身だっただろうか? したがって、国画会主流派ではない。でも、文化学院の教授でもあり、国画会内部の悪弊(いろいろ、あらーな)を改革しようと努力をしている人だった。事務局長(名目上のトップ)も引き受けている方だった。神奈川県在住で、せめて神奈川県在住の人だけでも、まともにしていこうと努力をなさっていたが、島田章三さんのいじめには勝てない方だった。国画会・神奈川支部展を開こうとすると国という字を使うなと、島田さんに言われたらしい。鵠沼に使われている、【鵠】という字を使えと島田さんから言われたらしい。で、星さんは、「鮎子さんの絵を章三さんは、使っているのに」、と、既に会員になっている人に話していた。私も、1991年から、それに気が付いていたし、1982年島田さんの、実妹から、いろいろなエピソードを、PTA広報委員会の平会員と、委員長といて、聞いていて、彼女の話から、それ=島田さんが、狭量で、実は,自信がない人であるという事は、はすでに、しっているつもりになって、国展出品を決めたのだけれど、聞きしに勝るものだった。

私は星さんとは、関内の教育センターとか裏手にあった中華料理店の二階で、20人ぐらいで打ち上げをしているので、お互いに顔を知り合っていた。1997年の五月のある日に上野の都美館内で、すれ違った。その時、星さんは、低い声で、「川崎さん、あっちにいいのを出したね」といって、顔も見ずに通り過ぎて行った。

 星さんは、国画会内部を改革しようとしていて、私なんかをその担い手の一人として、考えていてくださったからこそ、怒ったのだった。だけど、私はうれしかった。星さんは、ちゃんと勉強している人だった。国展と同時期に開かれている、毎日現代展をご覧になっていたのだ。国画会の中には、他の展覧会なんて、見る必要がないというほどに不勉強な人もいた。イタリアの作家(具象系なので、マスメディアに乗らない人)の絵を毎年剽窃して、国展に出して居た人もいた。芸大卒で、愛知県在住。もう絵にかいた様に、島田章三派閥の人だった。だから、国展も、都美館も、なめ切って生きている人だった。

 星さんは、1938年生まれで、2020年9月10日に亡くなっている。で、もう間に合わないけれど、言っておきたい。「星さん、私は、毎日展を上に置いたわけではありません。サイズの問題だったのです。毎日展の作品は、120号だから、国画会のサイズ制限を超えていて、出せなかっただけなのですよ」と。

 このあたりについては、三田晴夫さんの事、今関一馬さんの事、大久保忠春さんの事、山口みつ子さんのこと。十束さんと金成さんの事、島田省三さんの実妹・大沼嘉津江さんの事、嘉津江さんのお取り巻き、杉本正子さんの事、いろいろ書きたいことへつながっていく。しかし、ここでは増田忠さんに、引き続き,糊付けをすることを、お許しいただきたい。私も必死なのだから。

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副題9、『緑色を研究中の、ごく初期の絵を汚いと言われた。言い返す、言葉もない。黙っていた。というのも、これが、二つ目としての驚かされ事項だったから、一つ目の、水沢悦ちゃんの離婚のいきさつを知らされた時で、いささかの免疫もできていた。

 で、黙って下を向いている私に向かって、増田さんはあくまでも無邪気にこういった。「千恵子ちゃん、お昼をごちそうしてくれない。僕ね、退職金、みんな使っちゃったのよ。ほら、音楽会に行くでしょう」と、言う。それは、その通りだと思う。

 音楽会って、たいてい、7000円の入場料を取る。交通費、それから一緒に行く人がいたとして、その人と、しかるべきレストランで、終わった後、お食事を一緒にする。これで、月に、10万円か15万円は、費やす。もし、メトロポリタンオペラでも,やって来ようものなら、一回で、6万円は飛ぶ。だから、増田さんが、旧、中島飛行機☛ プリンス自動車 ☛ 日産自動車で、勤務し、あがなってきたお金は、それが7千万円だとしても、アッと、言う間に消えるはずだった。

 私はないしんの嫌悪感を抑えながら、「増田さん、あたくしは、そばは嫌いなので、お店を知りません。お隣に東天紅があります。そこへ行きましょう。と、誘った。東天紅横浜は、今は、桜木町のワシントンホテルに移動をしているらしい。しかし、1997年は、産業貿易ビル(または、センター)の八階か、10階に、存在した。このビルの二階で、パスポートを発行してもらうビルだけど、アクセスが悪いせいか、お客が全然いなかった。

 お料理は量は少ないが、上品でおいしい。それは、私にとっては、満足だったが、増田さんはなんと、四個目の爆弾を落としたのだった。

 白いテーブルクロスの上に、彼の部屋のベッドの、写真を置いた。ベッドの上に、ポールが渡されていてそこに何着もの洋服がぶら下がっていた。『あれ、息子さんは早稲田の建築科卒なのに、お父さんのために、クローゼットを作らなかったのかしら? まあ、増田さんは、お金持ちの家の子供で、奥さんもそうだったから、整理整頓は、嫌いでしょうね。お掃除も嫌いでしょうね。だけど、家政婦まで、させられるのは、まっぴらごめんですよと、思いながら、どういう風に断ろうかと思って、ふと、増田さんの顔を見た。

 すると、彼が目を見開いて、じっと、こっちを見ているのだが、その眼の中に、小さいが、確実に、探るという気配を感じ取った。その途端に、気が付いた。整理をしに来てというのは、口実で、「千恵子ちゃん、一緒に寝ない?」と、問いかけられているのだった。

 増田さんは、「写真を準備してきたぐらいだったから、産業貿易ホールの一階、または、県民ホールの一階に、待機しているタクシーを、ひろって、本日中に、彼の家に誘い込むつもりかしら」と、思った。

 私は、「増田さん。私、忙しいので、それは、できません」といって、その日は別れた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題10,『その数日後だった。早朝、五時か、五時半に電話が鳴った。電話は二階にあり、そこに、サラリーマンの息子がいた。娘も、いた。彼は午前7時に出るし、娘は午前8時に出る。

 私は、増田さんが、午前五時か、五時半に電話をかけてくるなどという非常識な人であるとは、夢にも思わず、

 ・・・・・増田さんの、例のお誘いも、そういう事なのか? 彼が開いていた、音楽教室のマダムの中に誰か、彼と寝た人間がいますね。一盗二卑と、言って、人妻とセックスするのが、もっとも、楽しいそうですよ。でもね。ジャンコクトーについての、素晴らしい解説を、高校時代に東横線の車内で、聞いて感嘆した間柄です。一夜のアヴァンチュールといえども、ありえないです。

 ああ、あなた、奥さんが、ガンで、長い入院・闘病をしていたけれど、その頃からですか? どこか、ねじが外れて、狂ってしまいましたね。増田さんが過去に誘い掛けた女性は、みんな物分かりよく、応じたのかしら?・・・・などと、思った。

・・・・・増田さんは、私が鎌倉に住んでいるというだけで、そういう種類の有閑マダムと同じだと思ったのかしら?

 この早朝の電話だけど、私の家族は、誰か、知人が死んだのだと、思ったみたいで、差し止めをしなかった。しかし、午前6時半になったので、「増田さん、私ね。出勤する子供たちのご飯を作らないといけません。それからね。こういうお電話は困りますので、もう、電話をよこさないでくださいね」といった。それには、「電話がくる時間帯が問題なのです」というニュアンスよりも、「もう、絶交をしたい。二度と会いたくない」と、言うニュアンスがこもっていた。

 受話器の向こうで、増田さんの、息をのむ気配がした。だけど、こっちにしてみると、じっと、我慢をしているうちに、爆弾が、六発も、落下したのだった。仏の顔も三度とよく、いう。今回は、その二倍だった。で、自分の正当性を疑わず、例のごとく、神様がどうにかしてくださるだろうと、思って、慰撫の電話は、かけなかった。そして、増田さんからも二度と電話が来なかった。

 しかし、これが、カリタス小通学バス襲撃事件を引き起こした。だから、今、これを書かないといけない。ところで、私は、すでに、30時間、連続して起きている。このことが、どうして、カリタス小襲撃事件に、結び付いていくかについては、また、長時間がかかります。ので、本日は、ここまでで。

 

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大河での、宮沢エマの役は【従姉妹ベット】の換骨堕胎か? 北畠八穂・深田久弥・ケストナー 【日本100名山】田中陽希・起用の影にあるもの

2022-01-24 04:41:30 | 政治

  さて、今は、24日の午後4時ですが、下の文章の続きを書き始めます。

副題1、『私はおちょやんに出た宮沢エマに惹かれて、鎌倉殿の13人を、見ることにした。ただし、この番組の裏に例の鎌倉エージェントがいることは確かなので、途中で、やめるかもしれない』

 で、鎌倉エージェントはテレビ遣いを、自分たちの力の源泉としているので、この大河ドラマが始まるずっと前から、これを宣伝する番組が作られていた。で、その中で、宮沢エマは、「スパイみたいに、北条家の中を、周囲が自分に隠していることがないかを、嗅ぎまわるのです。絶対に自分が外される事は、許容できないのです。しかし、教えてもらえないことがあるので、自ら嗅ぎまわるのです」と、自らの役柄を説明した。それは、おちょやんの義母役とは、相当違う設定で使われる模様だ。

 しかし、その短い説明だけで、私は、『あれ、それって、従姉妹ベットに似ている』と考えた。何か似ているところがあるというのは、美術の世界、特に現代アートの世界では、ご法度だ。だから、何かと何かが似ていると、言う事は、言う方も慎重でないといけない。

 しかし、私が見ているところ、テレビドラマにおいては、本歌取り(元の作品があって、それを換骨堕胎して使うという形を和歌の世界の用語で、たとえてみた)は、多い模様なので、ここで、それを言いたい。三谷幸喜は、バルザックの従姉妹ベットを換骨堕胎して、宮沢エマの、役どころを作ったのだろうと。

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副題2、『私は、結婚する前には、古典と呼ばれる小説群は、読んだ。だが、結婚後は、エッセーとノンフィクションものを好んでいるので、現在の作家が書いて居るものは、ほとんど読んでいない・・・・ところで、ここで、失礼ながら、長いうんちくを、北畠八穂について披露をさせて、いただきたい』

  結婚する前、は、中学生頃から、よく本を読んだ。自分の心に深く残ったものとしては、

欧米モノでは、ロマンローランの【ジャンクリストフ】と、バルザックの【従姉妹ベット】

日本語の物では、北畠八穂の【悪たれわらし、ポコ】

 (これは児童向けですが、非常に気高い内容です。大人の読書に耐えると思う。それと、今、田中陽希君の、日本300名山踏破(NHK BSP)で、とても有名になっている深田久弥の元奥様で、深田久弥が、作家として、有名になるのを手助けしたというか、ほとんど代筆をしていたのです。

 ただ、北畠八穂は、その時代に、今のデルタ株と同じくらい、人々を苦しめていた結核を患っています。特に脊椎カリエスと、言う病を経ています。だから、最近、この欄で、主役を張っている平木夫人みたいにすらっとした、八頭身スタイルというわけではありません。だから、深田久弥は、愛人を作って、離婚に至りました。北畠八穂の方がはるかに才能があるのに、たまたま、登山ブームであると言う事と、田中陽希君という、タレント的、登山家が出てきたので、深田久弥の名前がテレビに頻出しています。ちょっとした不条理です。北畠八穂は、昔の作家なので、映像とは、関係がなく、角野栄子さんほど、お金を儲けたわけではなくて、ひっそりと、鎌倉に住み、ひっそりと、亡くなっていきました。

 ところで、ここで、三千字ぐらいが敵さんに消されてしまったので、再び、書き直しましょう。

 この小説の舞台は、青森県三沢基地をほうふつとさせ、所謂、パンパンという存在も、そっと、におわせる形で出てきます。しかし、社会派小説ではありません。主人公の父親は、たぶん戦死しています。これは、1953年に出版をされていますので、そういう母子家庭を取り上げています。しかし、お母さんは、或る事情から家出をしないといけなくなります。そこは、この小説の、キーなので、どういう事情かは伏せますが、主人公は、貧乏な上に、お母さんのせいで、差別される側になってしまいます。

 そこに、合唱コンクールが出てきます。NHKが主催する、中学校、高校の合唱コンクールが今、盛んですが、この小説で出てくるのは、小学校段階の、コンクールです。三沢市内で、一番になるか?、青森県内で、一番になるか? そういう競争のあるコンクールです。で、教師は、その成功とか勝利を目指して、貧しい子供とか、障害のある子どもを切り捨てます。主人公は、そういう風に差別をされて切り捨てられた方の子供4,5人のリーダーです。で、大人から見ると、とんがっているので悪たれと、言われています。だが、いくら頑張っても、実際には、悲惨な方の立場です。今だと、富裕層がもてはやされる時期でもあり、私立中学受験が、堂々と、有名雑誌の、人気記事になる時代なので、読者からは、受けない主人公だと、思います。ファンが付かない主人公かもしれないです。

 しかし、この小説は、素晴らしい救いが訪れるところで終わります。それは、アメリカ式ハッピーエンドではありません。お母さんが、大金持ちになって帰ってきたと、言う風なハッピーエンドではありません。だけど、心理的に言えば、圧倒的な、そして、とても、静かな勝利で終わります。その救いには、三つのキーワードが絡んできます。ひとつは、詩(poem)です。次にメンターによる、より上位な解釈が、主人公に与えられ、心が、広くなります。許しと喜びが主人公の心に、生まれてきます。それから、主人公に、宗教心が、宿ったことが示唆されます。

 その宗教ですが、自分で、洞窟に祭壇を作って、ろうそくをともすという形だけで、示唆されており、宗派は、公示されていません。しかし、・・・・そうですよね。これが、神様です。良かったね。神様に出会えて・・・・・と、思います。

 この最後の救いに、メンター(おじさん)が現れてきます。それが、エーリッヒケストナーの飛ぶ教室と同じです。

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副題3、『私は長い間、北畠八穂が、エーリッヒケストナーの飛ぶ教室を読んだのちに、この【あくたれ童子 ポコ】を書いたのかどうかに、ついて、疑問を持っていた。まだ、答えを得るに至っていない』

 この童話は、1953年に出版をされていて、私は、1957年に、・・・・父君はじめ一族が、有名な病院を経営する・・・・お友達の家の、ひどく立派な図書室(しかも子供専用)で、この本を見つけて、借りて来て、感動仕切りで読みました。中三か、中二の時だったでしょう。エーリッヒケストナーの飛ぶ教室を読んだのと、時期的に比較して、どっちが早かったかを、覚えていないのです。そして、二つの書物を、連続して読んだわけではないので、そのこと(主要な構想が似ている)には、長い間、気が付かなかったのだけれど、

 両方とも、中年のおじさん(親戚ではない他人)が現れて、主人公の悩みに対して、別の、筋道で、考える様に教え、主人公は、スパッと、目の前が開かれる気分になるのです。このメンターが登場するというところが、両者の共通点で、その件に関して、私は最近の20年間、悩まされることとなります。それは、現代アートを制作するものとして、オリジナリティに、ついて、特別に厳しく考えているからです。最近では、ウィキペディア等ができたので、便利ですから、調べてみると、エーリッヒ・ケストナーが【飛ぶ教室】を出版したのが、1933年で、北畠八穂が、【あくたれ童子 ポコ】を出版したのが、1953年です。20年の差があります。

 本日は、別の項目から調べようとして、日本語訳が、出版されたのが、何時か? を調べてみて、もっとも古いものが、高橋健二訳で、1962年とあります。そこで、あ、うれしいと、一瞬、ぬか喜びをしたのですが、その数行後に、

  • 池田香代子訳、岩波少年文庫 2006年 
  •  
  • と、言う記述を見つけて、だめだ。こりゃあと、思いました。岩波少年文庫は、高橋健二訳で、【飛ぶ教室】を私が子供時代から、出版しているはずです。で、この資料に依拠すると、間違ったことを書くことになる、として、利用をしないことと決めました。こんなところにも、私をひっかける仕組みが潜んでいたのです。

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副題4、『・・・・・そうか、田中陽希君は、私、及び、私のブログ潰しのために、発掘されて、長期間番組制作の、サポートをNHKから、受けていたのだ・・・・・と、納得をした。』

 私の実家では、できるだけテレビを見ない様にしておこうという主義でした。でも、主人がテレビを見る主義の人なので、我が家では、一日中、テレビがついています。ただ、二人とも、ほとんどの時間、BSPに、チャンネルを合わせています。で、田中陽希君のグレートトラヴァース【日本100名山】は、見ていたし、それが、200名山とか、300名山に、発展していったのも、見ています。

 で、ずっと、そのことには、気が付かなかったのですが、本日、初めて、『ああ、そうか、田中君は、深田久弥を、大宣伝し、深田久弥を嫌っている私を、弾圧するために、起用されたのだ』と気が付いたのです。

 どうして、そういうかというと、私が、最初に、このブログで、北畠八穂について、書こうとしていたころ、突然に、北畠八穂に関するデーターが、グーグル検索上消えてしまったのです。私は、それを私に対するいじめであると、実感をしました。私が、最近、平木夫人の嘘を、詳細に書いて居るのは、(後注1)、この時のwikipediaみたいに、誰が、やっているのか、やっている人間が、見えない形でも、書くこと、及び、調べたい事へ対する、膨大な、いじめと弾圧があるからです。それは、一万回か十万回に及ぶでしょう。でも、それを書いても、人々に共感をさせることが難しいです。しかし、平木夫人という、私を、2014年から、正面切って弾圧してきた人が、その弾圧の、論功行賞として、ご長男が、東大へ、入学できますよと、入試の前の年の秋には、知らされてきているわけですが、

 それをうれしいことと思ったご長男が、そのころだけ、電子ピアノの、音を出して、英雄ポロネーズをジャンじゃか、ジャンじゃか弾いていたわけですが、そのいきさつを書かれてしまったことが、平木さん一家にとっても、苦しいことだし、そういう流れを作った伊藤玄二郎ほかの、鎌倉エージェントにとっても苦しいことなので、復讐をしてきたのです。攻撃としては、数度目の事として、次の年、2022年1月17日に、平木夫人を使ってリアルな嫌がらせ、===禁煙運動の、ゴムプレートを新しく、この山の入り口に貼る===を、やらせた上に、彼女に、「うちの息子が弾いていたのは英雄ではなくて、革命です」と言わせたのです。

これは、とんでもないウソです。で、私は平木夫人の陰にいる、何十万回となく、いじめて来た、人間たちに対する、叱責の無知として、平木夫人の嘘を大々的に取り上げました。小ばかにするんでないと、言っておきたいと、はっきり、言い放っています。四年制の大学を出ているはずで、しかも、英雄だと、坊ちゃん自身が私に請け合ったのに、平気で、後日、こういう嘘を言う。その頭の中は、どうなっているのでしょうか?

 私をいじめ、弾圧するために、遠くにいる一見、関係がまるでない様に見える人物を利用するのは、小澤征爾にも表れている現象です。

 江戸京子さんが、お茶大付属高校の出身なので、私の先輩に、苦杯をなめさせたこととなる、小澤征爾に対して、私は、従来から、批判的です。だからこそ、小澤征爾は、持ち上げに持ち上げられています。小澤征爾の演奏会に、今時、行っている人たちは、庶民中の庶民で、スノッブの典型でもあり、本当の音楽好きではないと思っています。テレビで、頻出する、有名人が演奏すると、素晴らしいのだと、感じこむ人たちでしょう。

 ともかく、私は、北畠八穂が、好きで、深田久弥が、嫌いです。だからこそ、田中陽希君という頑張り屋さんを発掘し、利用をして、あの長期間連続した番組を作ったのでしょう。日本100名山というのが、非常に有名になり、したがって、深田久弥の株も上がりましたから。

 ところで、こういう記述が、正しいと、信じる論拠がもう一つあります。それは、この番組が、とうとう終了となった時に、特別番組が作られたのです。その時、出席者の一人が、「陽希君、是から、どうするつもりですか?」と質問をしたのです。すると、「彼は、僕は、もともと、プロの、アドヴェンチュアー・レーサーで、チームにも所属しています。そこに戻ります」と言ったのです。 

 その時に、彼は何と、地味な、目標を持っているのだろうと、驚嘆をしました。

 私は、この独特な番組は、彼本人が企画したもので、彼の方がNHKに、売り込みに行ったのだろうと、考えていました。しかし、その発言を聞いたとたんに、『違うわ。この人は、とても地味で、シャイな人で、自分から、自己宣伝用の、番組を企画するタイプではない。NHK側が、リクルートをしたのだわ。何のためにと言えば、深田久弥を持ち上げて、彼のゴーストライターをしていた北畠八穂を、好きな私を、へこませるためでしょう』と、考え直したのです。

 まあ、グレートトラヴァースは、大変な労力がかけられている番組ですが、北畠八穂が、文学の世界の人なので、日本ペンクラブ会長である、井上ひさしとか、鎌倉ペンクラブ会長である、伊藤玄二郎の二人は、「お前、俺たちの、なわばりに入ってくるつもりか、しばいたろうか」という感情を抱いて、この長寿番組を、企画したのだと、推察しています。

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副題5、『中勘助の【提婆達多】と、幸田文の、【闘】は、構想というか、骨格が大きいと思う。底流に、人間とは何かを、突き詰めようとする哲学が、流れている作品で、私は二つとも大好きである』

 中勘助には、【銀の匙】という評判の高い小説があります。夏目漱石に認められて、第二作目であるのにもかかわらず朝日新聞に連載をされます。で、筑摩書房の、黄色い表紙の、日本文学全集、中勘助編を借りて来て、まず、そちらを読みました。が、「別にー」という感じを、受けました。それに、こういう感情を持っていて、一族内に、滞留して居たら、一族内不倫になるのではないですか? などと思って、共感できなかったのです。まだ、中学生だったので、自分自身の経験が少ないわけですから、そういう風に見なしました。

 ところが、同じ全集内にある、『提婆達多】を、読んで、圧倒されました。こちらの小説に関しては、感想を、書いて居る良いブログを何本か見つけました。お読みいただくことをお勧めいたします。ともかく構想が大きく、かつ、人間とは何かという追及も大きく、そして、仏教とは何だ・・・・と言う事を、知識としてではなく、その根本にあるものを、教えてくれる、という、そういうところもあり、これは、世界に、翻訳されていくべき小説だと、感じています。世界で、流通し・シェアしてもらいたい小説です。

 そして、上は、シッタルダと提婆達多と、二人が主な登場人物ですが、幸田文の【闘】の方も、要領が良く、割り切りも早くて、結核を患いながらも、スキルアップして退院していく男性と、対照的に、凝り性で、心理的に、うまく、変節できない不器用な男性と、二人現れます。舞台は、結核病棟です。提婆達多も、闘の方も、第一の、主人公は、ひねくれているのです。非常に深い劣等感というか敗者意識というか、何とも言えない、複雑さを持っているのですが、『人間って、こういうところがある。絶対にある。ここに描かれているのは、真実だ』と、思わせるところがあるのです。

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副題6、『さて、やっと、今期の大河ドラマ【鎌倉殿の13人】に登場する宮沢エマの、役どころが、バルザックの【従姉妹ベット】に出てくる主人公と、相似形になっているのではないかと、言う問題に入ります』

               上で、いろいろ取り上げた小説は、従姉妹ベット以外は、涙が、あふれ、心が洗浄化される作品です。読後、カタルシスが与えられる作品です。

 しかし、従姉妹ベットだけは、一瞬、困惑させられ、最初は、嫌いだと、考えた小説です。しかし、年を取り、経験を重ねるにつれ、バルザックは正しい。ああ言う存在は、この世に確かに、いる筈だと、考える様になって、それは、最初に読んだ時から、50年間、強まりこそすれ、消えることはありません。

 従姉妹ベットは、宮沢エマとは、違って、さえない女性で、すでに、50を過ぎて独身です。ただ、富裕な家の、大家族の中に埋没して生きていて、食事とか、最低限の衣装代とかは、なんとなく生み出せるし、親の遺産は、持っている方でしょう。しかし、ただでさえ、さえない風貌の上、当時は、負け組中の負け組だった、結婚できなかった、女なので、きわめて、身を低くして生きています。

 ところが、裏側では、一家、一族の全体を支配している存在です。その力は、すべての家族の性格とか、考え方を正確に察知しているところにあります。行動も察知しています。行動の裏に隠されている動機なども、正確に把握をしています。特に若い人をもてあそんで、恋愛に関する忠告を求められると、最初は、それが、見えないが、最後には、不幸になる様な、助言を与えます。それが、真実の姿ですが、周囲は、彼女が、表の顔として、使う・・・・よく訓練され、よくできた人間で、性格美人であり、信頼すべきカウンセラー像・・・・が、彼女の本当の姿だと、思い込んでいるのでした。

 バルザックから、大河ドラマの方に移ります。このドラマでは、男性の方では、小栗旬が、主役です。しかし、今のところ、忍耐する場面ばかりです。光が当たっているのは、坂東弥十郎、片岡愛之助あたりです。しかし、結局は、小栗旬が、この一族、及び武士集団の支配者になっていくのでしょう。しかも、とても地味な形で、グループ指導をしながら。

 一方で、女性陣の中では、小池栄子、宮沢りえ、新垣結衣などが、今のところの主役です。意味のあるセリフもあり、見せ場もあり、しどころもあります。ところが、宮沢エマには、それらがありません。ただ、あっちこっち、動いていて、視聴者は、TVの画面内で、何度も彼女を見かけることとなっています。私は、これは、彼女が、情報収集をしているところだと、見ています。いっしゅの伏線であり、将来、彼女は、視聴者を、「そうだったのか」と、納得させる方向で、動くはずです。

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副題7、『何か、事をなす場合に、情報収集が大切だと、言う事は、私が住んでいるこの山でも、目の当たりにすることが出来る。私が引っ越してきてからすぐ、この山で、人間関係が難しいのは、安野智紗夫人に原因があり、

 彼女が、自分がボスになるために、情報収集をしようとして、毎日午後開く、井戸端会議が原因であると、判断をしました。宮沢エマとバルザックの小説について、長い前置きを書いたのも、その情報収集という件を語りたかったからです。

 私は、平木家の南側の家が、1984年に、売りに出されたとき、見に来ています。その家は、なんと、四回も住民が変わっている家なのですが最初の住民(建築した人)が、身分が高いがゆえに、正直で、警戒心のない人で、いろいろ、教えてくれたので、その二年後に、別の家が、売り出されたときには、絶対に近所付き合いをしないで、暮らそうと、決意して、引っ越してきました。子供がすでに、中学生だったので、親が手助けして、友達を作るという時期でもないので、親は、子供のために、動く必要はないのです。それに私は、横須賀時代、すでに、PTA会長をしてきて、450人(幼稚園だが、通園している子供は、470人)程度の女性と、接してきているわけです。だから、専業主婦というものがどういう風に動く、かも、熟知しています。鎌倉では、絵描きになり、かつ、昔から好きだった文章や、詩を書くという、行動様式をとろうと思っていました。そうするためには、ご近所づきあいは、絶対にご法度でした。

 ところがある日、、玄関のベルを押す人が居て、出てみると安野智紗夫人でした。彼女は、「子供の友達が遊びに来たので、お紅茶を出したいのです。でも、お砂糖が無かったので、お砂糖を貸してください」というのでした。その瞬間、「きたー」っと思いました。私はバカではないです。で、その瞬間、私が考えたことを言いましょう。

 その1)、安野夫人の、お砂糖がないというのは、口実に過ぎなくて、ただ、ただ、私を井戸端会議に誘い出したいだけであると。本当に子供を愛していて、ご近所迷惑を避ける方向で考えるのだったら、お菓子と緑茶を出すので、十分である。どうして、中二にもなっている男の子をそこまで甘やかすのだ。しかし、口実をはがして裏側の真実を語れば、彼女は、井戸端会議を強化するために、我が家にお砂糖を借りに来たのだった。井戸端会議は、情報収集の場でもあるが、そこで、ヒエラーキーを作り、村八分を作り出し(当時は、藤本昭氏夫人悌子さんが、いじめられていた最中だった)、それによって、22人の生きている主婦の中で、自分がボスと、なるための、作業場所だったのだ。ただ、世代が、二世代ぐらい上の主婦もいてそれらは、参加を免除されていた。また、9時から、5時までの、勤務が、有るという主婦もいて、それらの人も、参加は免除されていたので、彼女が参加させたいと願っているのは、11人だけだった。が、その中で、私の主人の日産自動車・研究所の仲間が、10人も手伝いに来てくれた我が家の引っ越しは、非常に派手なものだったので、彼女は、私を意識せざるを得なかったのだろう。当時は引っ越し業者というのは、トラックを運転するぐらいが、せいぜいの仕事で、物を運ぶのは、引っ越す方の、人間の義務だった。その上、彼女は誤解をした。私がその井戸端会議に参加をしないのは、ビビっているからだと。だから、親切にこっちから、手を差し伸べてあげましょうと、言う感じで、「お砂糖を貸してください」という口実をもって、やって来たわけです。

その2)、ひそかにそうではないかと、以前から思っていたが、これで、推察が、100%、正確だと分かった。彼女は、略奪婚の人であって、ここに引っ越してくる前までは、子育ても、したことがないし、専業主婦として、暮らしたこともない・・・・・と。子供を自分の手で育てると、様々なトラブルにも直面するが、それで、女性は賢くなる。彼女は、ご近所主婦の時間をdisturb してでも、自分の子供の方を上にしているがそんなことが通らないことは、未就学時代までに、嫌というほどに、自覚をさせられる。彼女の子供は、既に中学生とか、高校生になっているのにそれが、わかっていないとは、変です。

その3)、現代・・・・・1960年代以降の、ブランド住宅街の、不文律として、秘められた競争社会でもあるので、お砂糖を貸してくださいとか、お醤油を貸してくださいとは、自分が主婦としてだめな女であると、告白する様なものだから、普通の人なら、絶対にやらない。それに、15分も歩けば、大きなスーパーがあるので、自分の努力で、他人を煩わせないでも、解決できる。彼女は、よっぽどの下町で、木賃アパートで育ったのか、それとも母親がいなかったかのどちらかだ。ともかく、橋田寿賀子のドラマを見ていると、想像できる。そこでは、そういう形が、展開しているのだろう。

 しかし、そういう主婦は、現実には、すでにどこにもいない。橋田寿賀子さん自身、熱海の豪邸に住んでいて、ご近所付き合いなど、していないのだし、それ以前だって、脚本家としてプロになるために、ご近所付き合いなどしていたら、成れっこないのだから、彼女の描き出す主婦像とは、架空の物であり、現代日本のどこにも存在していないものなのだ。

 で、私は、「私はそういうお付き合いは致しません」と言ってお砂糖を貸すのを断りました。

 橋田寿賀子さんのドラマの中で、お風呂屋さんが、舞台になっているものがあったらしい。ところで、我が家には、本当の、元、お風呂屋さんのおかみがお手伝いに来ていた。だから、余計、安野智紗夫人の思い込みが間違っていると、わかる。

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副題8、『このブログの世界で、・・・・静岡県から、ひとの紹介で、来てもらった、元バレーボール実業団、ユニチカの選手が、女中さんとして住み込みで働いていたことがある・・・・と、すでに書いて居る。彼女は、静岡に子供も置いて来て離婚をしてきたそうで、世慣れていたし、セックスアッピールも強いし、金銭に関する欲望も強い女性だった。で、父を相手に略奪婚をしそうだったので、当時中一だった私が父に「あの人には、やめてもらってちょうだい」と言って父が私の言う事を聞いてくれたので、危うくセーフだった。危機一髪だった。もし、日曜日に、二人がラブホとか、シティホテルで、セックスを交わすほどに進展をしていたら、私の方が、母と妹と一緒に追い出されたであろう。弟の事は、明治生まれの父が、長男として大事にしていたので、彼女は、引き取るつもりになっていて、7時ごろ母が帰ってきても返さなかった。私は、母が悲しそうな顔をしているのを見て、たまらなくなって、父に現状を訴え、抗議したのだった』

 つまり、私は、13歳のころから、略奪婚を目指す女性を身近にみてきたわけです。30年後の、1984年に、こちら、鎌倉雪の下で、安野夫人を見たときに、その小太りな感じ、セックスアッピールの強さなどなど、で、あの元ユニチカの選手だった、40代の女中さんと、そっくりだから、そこからも、彼女が略奪婚の人であることを理解をしたことでした。

 父は、木曽ヒノキで、日吉の家を作りたいと考えていて、静岡県の営林署に出入りしていて、静岡県に、知己ができていたのです。で、父が引っ張ってきた女中さんが、大失敗だったので、母が自分で探すことにしました。それは、だんだん上手になって、女医さんに紹介してもらうなどという形で、高齢の、上品な人に、5~10年務めてもらうという形になったのだけれど、そういう風に定着する前に、ご近所に住んでいた、元、お風呂屋のおかみさんという人に来てもらう時期があった。

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副題9、『元お風呂屋さんのおかみさんは、増田忠さんが、インテリ中のインテリであることを理解できなかった』

 このご近所様だけれど、東急が開発した分譲地に住んでいるわけではなくて、そこのインフラを利用して付属みたいに、開発された、より小さな、区画の土地を二つ買って、二つの家を建てて、一家眷属という、大家族が一緒に住んでいる、そういう家の奥さんだった。東京の蒲田とか、横浜の鶴見とか、昔は、小さな町工場がいっぱいあった下町で、お風呂屋さんを、経営していたのだけれど、空襲で、焼け出されたので、日吉に引っ越してきたと、言う一家だった。

 お風呂屋が立っていた土地が借地だったのだろうか? それとも、すでにお風呂屋さんは斜陽な職種であると判断をして、子供さん方を大卒サラリーマンにしていこうという趣旨だったのか? どちらかは知らないが、昔は、派手な暮らしをしていたわけだし、子供も、もう中学生以上で、大きいのでそれだけ手がかからないから、お手伝いさんでもいいから、働いて、収入を増やそうと言う事だったと思う。

 そのお手伝いさんは、最近、急に実名が登場してきた、増田忠さんの家に、週に三日、我が家に週に三日来ると言う事だった。それは、お互いのプライヴァシーを守るという意味では、危うい選択だったが、そのお手伝いさんも、戦前は、一国一城の主だったわけだから、バカではなかろうと、判断をしてお願いをしていた。そして、母は、住み込みの女中さんに懲りていたので、父の会社に出勤をすると言う形を避けて、自宅で、父の会社の経理を行う事になった。自宅で行っているからこそ、ご近所様にも、分担してもらう事となった。そのお願いしている家のお嬢さんが、カリタスに、進学した。これも、カリタス小通学バス、襲撃事件が起きた、理由の一つだけど、ここでは、そこには踏み込まないで置きたい。ただ、この奥様を寺沢夫人という。そのお名前は、ここらあたりで晒した方がいいかもしれない。ただし、カリタス小通学バス襲撃事件が起きた時には、すでに、寺沢夫人は、亡くなっていた。

 そのお手伝いさんは、確かに増田さんの家で、どういう種類の、どういいうランクの、牛肉を買っているかとか、言う部分のプライバシーには、触れなかった。ある程度は賢い人だった。しかし、彼女にとって、これは、面白い。笑っちゃうわと、思う出来事は我が家で、話をせざるを得なかったみたいだった。

 これから、そのエピソードを語りたい。「ねえ、奥さん、増田さんちって、小さな掲示板があるんですよ。そこにね。パパが、<<< ママ、靴下に穴が開いているから直して置いてください >>>と、書いた紙が貼ってあるのよ。ぐわっ、は、は」と。

 その時の笑い方って、本当に豪快だった。だが、母は、すぐさま、それを嫌がって、彼女の妹さんに、彼女の代わりを、お願いをして、週に、六日来てもらう様にして、おかみさんを、傷つけずに、上手に出入りを断った。

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副題10,『増田家の、お子さん方は、婦人之友の口絵写真に、子供服のモデルとして載っていた。私の母は、ずっと、婦人之友をとっていたので、私は、小学生時代に、すでにそれを見て知っていた。ずっと後で、大学時代の、友人の一人が、これまた、親、または、お子さんが洋服のモデルになって、口絵写真に載っていた。

 私の母は、結婚して以来、ずっと婦人之友をとっていたが会員登録はしていなかった。だけど、もし、会員登録をしていたとしても、私や、私の兄弟が、婦人之友の口絵写真のモデルとして、採用されることはなかったと思う。それから、もし私が、母に引き続いて、婦人之友をとっていて、会員登録をしていたとしても、私の子供が口絵写真のモデルになることはなかっただろう。だから、増田さん夫妻は、神戸育ちで、朝ドラ、【べっぴんさん】のモデル級、または、須賀敦子の実家クラスのお金持ちだったと、推察している。で、そこからも、忠さんのバイオリンが、ストラディヴァリウスか、グヮルネリだったと、推察するのだった』

 これは、本当に象徴的な出来事だった。1945年に、士農工商の、カーストは、廃止になった。しかし、依然として、階級が残っていることを証明する出来事だった。こういう部分を文化資産というらしい。増田さんは、文化資産が高い家のお坊ちゃまであり、ママもその手のお嬢ちゃまだった。その上、ご長女様が、小学校五年生の時に学芸大学付属小学校へ転校した。これも、とても不思議なことだった。小学校一年の時に、試験を受けて入るという形が普通で、中一の時にも再び募集があって、入学の機会が訪れる。しかし、小学校4年生か5年生の時の編入は、普通はない。あれ、変だなとは思った。ともかく、この時点で、編入が可能なのだから、増田家は、ものすごい上流階級だとなる。そのころ、私は、むろん、CIAエージェントたちに目をつけられてはいない。だから、これは、平木家とは違う。昭和天皇の御料車を、設計したという点で、天皇家? または、宮内庁が動いた? うーん、よくわからない。

 ともかく、増田忠さんは、日産自動車・村山工場を引退した後で、自由が丘か、田園調布で、どこかの富裕なお宅の応接室で、サロンを開いて、上流マダムを相手に、クラシック音楽の口座を開くほど、クラシック音楽に関する知識は、豊富で、ヴァイオリンも、上手で、かつ、ディレッタントといいって良いほど、博学な人だった。

 それで、雰囲気はショパン風で、本当に上品だった。私は、増田さんのパパ=忠さんには、とてもかわいがられていたので、忠さんが、毎晩、居酒屋で、飲んでから家に帰るのを知っていた。「千恵子ちゃん、僕、大きなストレスがあるのよ。だから、毎晩飲んでから帰る。僕ね、工員さんと一緒に飲むのは好きなの。とても解放される」と、言っていた。だから、夜11時から、バイオリンを弾くというわけだった。だけど、ものすごくいい音だったので、ご近所は誰も文句を言わなかったのだ。でも、ママとは、毎晩会わないで、過ごすという形だ。だから、メモ用紙に、「ママ、靴下直しておいてくださいね」と、パパが書いていたとしても、私は、それは、別に変わっているとも思わなかった。しかし、元、お風呂やのおかみさんだったある時期の我が家のお手伝いさんにとっては、奇妙極まりない事だった。こういう風にして、文化遺産というものが影響して、言わず、語らず、階層ができているのだった。私は、小学生にして、そのことに気が付いていた。

 私は、小学生の時から忠さんには、かわいがってもらっていた。日吉の街中でだ。そして、中学時代は、東横線では、反対方向に進むので、邂逅は無いのだが、高校大学、そして、東大勤務時代は、私は北へ向かって進むので、よく日吉発の電車の中で、隣に座って、いろいろなことを教わっていた。だから、増田さんが、奥さんへメモで、連絡をするのは、全く、受容出来ることで、笑うべきことでもなかった。

 しかし、鎌倉雪の下に引っ越して来てみたら、安野智紗夫人が、橋田寿賀子ドラマを真似していて、

 驚くほど、文化資産が、低い生活を送っていた。で、略奪婚の人だから、前の奥さんを追い出した時点で、道徳という、バリアーを破ってしまったので、普通に、専業主婦を送ってきた主婦だったら、絶対にしないことを彼女はやるのだった。それで、私は、鎌倉へ引っ越してきてから、予想外の生活を余儀なくしなくては、いけないこととなった。

コメント
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うーん、たった21戸しか家がないのに、言い様の無い程、ごたごたしている、この雪の下二丁目の山なのだった。不倫、嘘、だまし討ちなど・・・・・

2022-01-22 22:25:09 | 政治

 この一章は、【私の愛していた、スタインウェイを、主人に捨てられてしまった】という総タイトルにしていました。しかし、本日中にそこまで、到達できなかったので、総タイトルを変更します。

 なお、スタインウェイというのは、日本では、グランドピアノしか売っていないと思います。世界中でも、現在は、そうでしょう。が、中古のスタインウェイを、ピアノの事がよくわかっている人が買って、アクション部分だけを、取り出して、外装の木部だけを日本で作って、縦型ピアノに改装し、FLORAといブランドで、売っていたのです。私は、1970年代北久里浜で、ピアノを習っていました。先生のピアノは、河合でした。当時は、ヤマハより、河合の方が音がいいと私は、思っていました。で、先生が、河合を選んでいらっしゃることには、納得でした。しかし、家に帰ると、自宅のピアノが、先生の河合より音がいいのではないかと、思う時がありました。

 あるときに、先生に調律師を紹介してもらいました。遠くから来た人で、YODAさんと言い、コンサートホールのピアノを調律する人だと、言う事でした。で、その人が大改造をしてくれて、「これは、アクション部分だけは、スタインウェイなのですよ」と、教えてくれたのです。そういうピアノを北久里浜では、毎日弾いていたのです。ただし、クラシックの曲を弾くのではなくて、お歌の伴奏としてです。それも楽譜に、きちんと伴奏まで、書いてあるものでも、その通りにひくのではなくて、左手は分散和音だし、右手は、単純にメロディだけなので、楽です。

 私は、もともと、プロの音楽家になろうとしているわけではなく、ただ、ただ、音楽が好きだから、弾いて歌っているわけで、自分に、時間や頭脳的な負担がかかっては楽しめませんから。人に勝つための音楽ではないのです。「他人より、自分の方が、優れていますよ」と、証明するための音楽ではないからです。絵や、版画もそうですよ。だから、渡辺幸子さんとは、全く正反対です。

 楽譜は、幅が50cmぐらいになるほど、買いました。何冊も何冊も買いました。その40年前のころは、上巻一冊だけ、出版されていて、お値段は2000円だった、全音の赤い表紙の本と青い表紙の本が、今では、両方とも、上下二巻になっていて、全部買うと、16,000円になっていました。歳月がたっているのです。

 ところが、鎌倉に来たら、時間を使う先が、絵の方に行ってしまいます。それで、毎日弾くと言う事をやめてしまった上に、YODAさんは、北久里浜の先生を通して頼む方だったので、北久里浜から、引っ越してしまうと頼みにくくて、鎌倉の調律師さんに頼んだら、全然、気合が入っていない人で、だんだん傷んで、来ちゃったのです。それでも、私は、50万円かければ治る(または、直る)と思っていて、廃棄する気分は全くなかったのです。

 でも、主人はピアノを弾く人ではないので、しかも私が、現に弾いていないので、捨てようと言って聞かなったのでした。でも、あれは、五万円で、持って帰った業者が、フェルトの張替えなどの、再生作業をしたのち、音大の練習室なんか用に納入したのではないですか。だってスタインウエイを、新品で買うと、1000万円以上ですよ。だから、70万円で売っても、音のわかる人は喜んで買ったと思います。縦型の方が置く場所が、自由だし。で、行き先は、他にも、ありえますね。真に音が判る教師がいる中学校や、高校でも、いいです。だって、音は抜群によかったですよ。

 こういうことにこだわるのは、前報で言っている通り、平木夫人(または、その裏にいる、井上ひさし)に、ショパンの英雄ポロネーズのことを、「革命という曲を弾いていたのです」などという、あまりにもばかげた嘘をつかれて、有名な曲の名前を、改名をされたからです。あのね、・・・・・私はショパンに詳しくないので、英雄ポロネーズの名前を知らず・・・・・という風に書いて居る、過去ブログはあります。

 それにね。平木家の坊やに道路で、「あなたが今、弾いている曲はなあに、題名を教えて」と頼んで、「英雄です」と答えてもらったとも書いて居ます。ただ、その応答があった、とたんに、音なしで、弾くようになったのですよ。

 それが、狙いではなかったが、後で、考えると、両親のどちらかが、・・・・・音を出して、英雄を弾いては、「東大へ、入れますよ」というお知らせを、6か月も前に、受けていることが、川崎さんにばれてしまう。だから、もう、音を出さないで、弾きなさい・・・・・と、言ったからでしょう。だから、坊やに聞いた方がよかったのです。そういう政治的な部分が、明瞭に外に出てきましたからね。

 私は楽譜が読めるので、山野楽器店に行って、立ち読みで、楽譜を読めば、あれが英雄ポロネーズだとは、簡単に、わかります。本当に頭が悪いですね。平木夫人も、井上ひさしも。いや、立ち読みしなくても、YU TUBEを、チェックしたら、すぐわかります。

 「その、謙遜をしているセンテンスに悪乗りしなさんな。お調子者目!。バカじゃあないの」と、二人を、叱り飛ばしたい気分です。

 こう言っちゃあなんですが、真実、満たされている上流階級の人って、威張らないのですよ。へりくだるのです。それに悪乗りして威張るのは、素性とか、育ちが、わかる田舎者というわけです。または、貧乏な実家で育ったので、音楽の事が、まるっきりわからない人です。

 という添えごとを、総タイトルを変えたお詫びのために、、二日目に入れて、初稿の冒頭に戻ります。

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副題1、『本日も総タイトルを音楽に限定しています。(というのは、23日の午前二時まで、スタインウェイという総タイトルにしていたからエスが)しかし、むろんの事、政治の話です』

 最近、平木夫人について、連続して書いて居るのですが、平木さん一家とは、2014年か、それ前から、敵方の弾丸として動いている一家です。しかし、当時は、お子さんがまだ小学生だったので、取り上げないで、いてあげました。特に実名をさらすことはなかったのです。

 しかし、私の敵さん達(伊藤玄二郎、井上ひさし<まだ生きているのですよ>山田某<警察のホワイトカラーとしての傭員、毎朝5時前後まで、私が、PCを開いている限り、彼も電灯をつけて起きている>は、すぐ増長をするのですね。

 だから、平木さん一家は、すこぶる付きで、利用をされてきています。(後注1)

 ほかの連中がやったことも重要ですが、書かれたことで、最も困っているのは平木家でしょう。どうして、引っ越して行かないのか? 不思議です。でね。こっちを殺すか、精神病院へ入れてしまうか? そういう方策で、平木家を救うつもりになっていると、井上ひさしからのコメントで、察したので、急に平木家のご主人の下の名前伸明さんも晒す様になりました。さっさと、引っ越して行けばよかったのです。お子さんが、彼ら悪人に利用をされたのだけれど、私のブログを実際に読んで、これは、だめだと判断をして引っ越して行った人もあるので、その真似をすればよかったのでした。尚、その引っ越して行った人も、東大以外の、国立大学の出身者だと、思いますが、平木さんも、東大以外の、国立大学の出身者でしょう。奥さんの方は、名古屋以西の、私立女子大の出身者ではないかなあ? 社内での恋愛結婚だと、推察しています。

奥さんは、このブログを読んでいないそうです。だから、早々の引っ越しをしないで、私を見くびっていたのでしょう。

この2022年の1月17日に彼女は、上から、教えられたとおりの、5つぐらいの嘘を言いました。その中に、ショパンの英雄ポロネーズを使った嘘があって、私はそれを・梃子・にして、一文を書いて居ます。(後注2)

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副題2、『前報(後注2)の、副題2の中で、ご近所人間、大原光孝さんが、実際はコキュ(=妻を寝取られてしまった男)であるのに、偉そうにして、私に対して、面と向かって、「ご近所様が、川崎さんは、離婚をするよ(つまり、家庭崩壊で、失敗した家庭を運営した女である・・・・と軽蔑してきたわけです)と、噂しているよ」と言ってきたり、隠れて、あれこれの悪事を行っていて困る人物なのですが、実際は、自分の方が、コキュであり、妻は、美術界の、某おおものと、下半身の関係に入っているでしょう・・・・・と、書き始めています。それについて、相手の男性がだれであるかについても、言及をしています。実名は晒していませんが、わかる人にはわかる書き方をしています。だから、鎌倉エージェントは、今、上へ下への大騒ぎでしょう。そこについて、実名を書かれたら大変だと、言う事でね。それで、ここで、どうしてそこまで、私に、わかっているかの裏事情を少し、説明を加えておきたいと、思います』

 「安野夫妻が、隠していることについても、彼女の言動で、すべてわかるのですよ」と、常々、言っています。大原家に関しても同じです。上に書いたことは、70%は、光孝さんのセリフ(特に、私を小ばかにして、ののしってくること)で分かりました。30%は恵美子さんのセリフ(丁寧です。だが、内心では、私を小ばかにしていて、かつ、いじめることを目的とするセリフです)から、理解をしたことでした。それと、相手の男性が、超が付くほど、女好きであることを、具体的に私が知っている事も、プラスになっています。一夜のアヴァンチュールをしょっちゅうやっている人である・・・・ことを私が知っていることもプラスになっています。

 こういうことは最近わかった事ではなくて、ずいぶん前から、わかっていたことです。私は、このブログで、何度も警告をしているはずです。

 都会の一戸建て住宅街に住むにあたっては、不文律がある。相手との間を必ず、対等にしておく。表現としては、少し相手を上に置いて置く。内心は、ともかくとして、自分の方が下手に出ておくこと。どうしてそうしないとだめなのかというと、現在の東京圏とは、移動が自由です。だから、隣に住む人がどういう人だか、良くわかりません。で、用心をしないといけないのです。悪い人が隣に住むという意味ではなくて、ものすごく、頭の良い人が隣に住んでいるかもしれないのですよ。だから、大変丁寧に、気を付けて生きるべきなのです。

 ところが、この山には、転入以前に、主婦体験のない人が、大勢住んでいます。特に安野智紗夫人というのは、略奪婚の人なので、ここに引っ越してくる前は、主婦体験もないし、子育て体験もないでしょう。それから、母親も早死にしていていなかったか? それとも、母親が、働いていて、家では、専業主婦ではなかった可能性があります。そういう土台の上で、テレビドラマで、橋田寿賀子が、描く、主婦像を、見本として、動いているので、こういうブランド住宅街では・困ったちゃん・なのです。それで、この山は、建物が、21軒しかないのに、引っ越しが、14回あったというわけです。私が知る限りであって、それ以前にも、有ったかもしれません。彼女は、略奪婚が成功したうまみを忘れられないらしくて、勝気で、女性に対しては、目に見える範囲で勝ちたいと思っています。それで、知略を駆使して、自分がトップに立つように、細工を弄しています。この山の21軒の建物の内、お仕事が定期的にある女性(朝7時から、夜7時まで、この山には、いない)を除くと、10人の主婦がいて、それが、彼女のターゲットです。しかし、そのうちの4人は、高齢なので、除外されていて、彼女が支配したいと願っている女性は、数として8~10人の間でした。そのうちの、石川和子さん(陶芸教室を経営していて、月収が、200万円だと私に面と向かって豪語していた)と、前田清子さん(都立大学の大学院を出ているので、学歴的には高卒だと、推察される安野夫人より2段階上である)を、上手におだてながら、実際には、自分の支配下に置きます。となると、10人の内、コアができてしまうので、派閥が生まれ、上下関係ができます。そうすると村八分機能も発生してしまい、自分が事実上のボスとして君臨できます。その手段として、毎日午後、自宅前で、井戸端会議を開いています。

 これが、高三の子供を育てている本当のお母さんだったら、いけないことだと、わかっているはずなのです。地域社会をだめにする、いけないことだと、経験上判っていて、幼稚園が終わると、井戸端会議は、やらないと、言うのが、普通なのに、むき出しに、支配欲を出してくるので、略奪婚だと、見事にわかってくるのでした。

 この安野夫人がボスとして、機能しているこの山では、一般的な、東京圏のブランド住宅街の、規律はありません。で、その派閥に従属して、自分が村八分にはならない様にしようという強い同調圧力が生まれ、まるで、中学生の番長が、機能する様ないじめ行為が、活発に生起し、人々が、みんな馬鹿化します。低劣化します。それを嫌がり、かつ、お金がある人は、ひっこして行きました。で、大原光孝さんも、その影響力下にあり、かつ、柄沢斉を通じて、あれこれ、固有のいじめ任務を与えられているので、活発にいろいろな、いじめ行為をやってくるのです。それを阻止するために、ブログで、東京圏の、ブランド住宅街に、住む人間は、こうあるべきだと、言う事を繰り返し書いて居るのにもかかわらず、彼は、このブログを読んでいないので、チャンスがあれば、いじめようとして、手ぐすね引いていいます。で、彼は、そのいじめ行為が、成功しているつもりになっています。しかし、市井の哲学者たる私は、物事にはフィフティフィフティの側面があって、彼が、勝っているつもりになっている裏側で、彼が、言うに言われないジレンマに陥っているのにも気が付いてきているのです。

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副題3、『私は、19歳の時に知り合った現在の夫と25歳の時に、結婚をした。彼と結婚をしたら、きっと、自分に合った生活ができると、思っていた。彼が、19歳の時、初めて二人だけで、喫茶店で話し合った。その時「僕は刑事になるつもりだ。僕はヒットラーの【我が闘争】を読んで共感した」と、言ったので、仰天して、「あなたってエンジニア風な感じがするけれど」と応答した。すると、彼は、その後、大学を受けなおして、横浜国立大学の工学部へ、入りなおした。私が彼と、我が闘争の会話を交わしたのが、8月か9月だったと思うので、たった5か月で、受験勉強をやり直して、当時は東大との、併願校として、とても、人気が高かった、横浜国立大学の工学部へ入りなおしたので、大いに見直したし、私の言う事を聞いてくれる、この人と結婚をしたら、夫婦が平等の関係を築けると、考えた。

 ところが、そうでもなかったのだ。形として、二浪となったので、当時の女性の適齢期である、25歳には、彼の方に、結婚の、形をとる余裕がなかった。それで、「お見合いがある」と、におわせても、プロポーズしてくれないので、お見合いを2回行った。お見合い相手との関係なのだけれど、実際には、断られたわけではない。そして、夫と、キスも交わしたことが無いので、自分は、純潔だと思っていた。

 ところが、東大卒のエリートさんと結婚をすると、それなりの義務と縛りが、自分にかかってくる・・・・・と言う事に気が付いた。で、今の夫の方が結婚相手として、自分に向いていると考えた。彼は三男で、実家から特に期待をされているとも思えないので、核家庭を作り、自分は、相当に自由な生活ができるだろうと、推察した。ところで、結婚してみて、事実は正反対であることを知ったのだった。実際には、お嬢様気質な私は、同棲等は、しておらず、セックスもしたことがない形で、披露宴に臨んだのだけれど、新婚生活が始まってから、びっくりした、想定外の事に出くわした。

 それは、彼が家父長主義、男性優位主義で、絶対に平等な男女関係を持っていない人だったのだ。実家に比較すると、100年は、昔帰りしたみたいな、男女関係だった。それに、披露宴以来、50年間悩まされっぱなしだったが、2016年の4月に突然、雲が晴れた様な、感じで、展開が訪れた。

 それは、主人が心筋梗塞で、入院して、命が危ないと、言う経験をした時に、主人側の長兄が病院にお見舞いに来てくれて、私に、こう言ったのだった。「千恵子さんも大変でしょう。Eiji は、思い込みが激しいからね。でもね、この間、うわごとみたいな感じで、こう言っていましたよ。<<<<千恵子が心配だ。だから死ぬわけにはいかないって>>>>」

 その時に、50年間の苦労が、一気に氷解した。・・・・・なあんだ。兄弟だって、私の主人が変わり者で、とても扱いにくいと言う事を知っていたのだ。だけど、内弁慶の典型で、外面はいいので、普通の場合は、誰もそれに気が付いていない。私の母だって、それには気が付いていないし、ご近所様など、なおさらのことだった。だから、私は、50年以上、それについては、悩みに悩んでいたのだった。そして、家父長主義なのだけれど、甘えんぼなところもあって、私は、非常に混乱させられていたのだった。

 しかし、「千恵子さんも大変でしょう」という主人の長兄の言葉を聞いてから、すっかり、考えを変えた。『今まで、悩んでいたことは、私一人が悪かったわけではない。彼にも、異様さがあったのだ。これは、彼を教育すべきだったのだ』と、思い当たり、その後の、私は、自分の力で、家庭内で、自分の居場所を確保し、自分の言い分を通そうと、考えた。それは、2016年の4月の事で、1968年5月に結婚して以来、48年目の事だった。

 だから、今では、二日に一回は、大げんかをしている。口喧嘩だが、昔は紳士だった彼も、今では、怒鳴るので、とても大変だ。これは、やっぱり相対性があって、私がひたすら我慢をしていて、しとやかに付き従っていた時期は、彼は、どなることなどなかった。ともかく、今の彼は、どなるので、室内盗聴がなされているから、敵方に、夫婦関係はもろいと、思われている可能性はある。

 石川和子さんが、私の猫を返さないで自分の猫にしてしまおうと、突然に決意して彼女の春秋窯の住居部分に、隠していた日、猫の方が、あの家を逃げ出してきて、私の方を選び、「お母さん、早く帰ろう。おうちに」と猫語で言ったときに、彼女は恥ずかしさと悔しさのあまり、パニックに陥って、警官を呼び、夫婦で、「あそこのご主人に、あそこの奥さんを叱ってもらう様に頼んでください」と警官たちに、言った。

 ここで、政治がもろ登場する。猫は私の猫で、私の事も大好きなのだけれど、春秋窯にはお弟子さんが来ていて、大勢の人にちやほやされるので、それも好きなのだった。そして、本当の、事を言うと、石川和子さんは、わがままいっぱいで、猫を返さないので、夜、迎えに行くのだが、その時、夫婦で、私をいじめては、二人のセックスへの高揚感に役立てていたのだった。それが、2005年の1月ごろ、しゃがんだ、石川和子さんの股の間から立ち上る匂いで、私に、わかってしまったので、それ以来、家族も以前から、そうする様に言っていた、猫を外へ出さないと、言う決意をした。問題が起きたのは、7月で、空いていた二階の窓から、屋根伝いに行ってしまったの。一軒、間に白井達雄邸があるだけの、近さであり、すべての屋根の間隔が、1mいないだから、猫にとっては楽々の、お散歩コースだった。

 で、7か月ぶりに訪れた猫であり、1月以来、川崎家では、家から、出していないから、これは、チャンスだ。これから先、返さないでおこうと彼女は考えたのだった。雑種なのに、非常に、頭が良くて、一緒にいると楽しい猫だったからだろう。

 しかし、全く車が入ってこない、140段程度の石段を上がらないといけない我が家の玄関に、交通警ら隊の警官二人が現れて、二つある玄関のうち、全く使っていない玄関の方のドアノブをガチャガチャやって、すさまじい騒音を建てたので、二階の居間にいる私も気が付いて降りて行ったのです。で、「何をやっているのですか?」と質問をすると、「あんたには、用事はない。あんたの夫に用事があるんだ」というのです。でね。その玄関は、内側に猫トイレやら、大型キャンバスの、巻いてあるものが何本も立てかけてあって、全くで入りがない玄関なのです。しかし、石川和子さんや、安野智紗さんにしてみると、・・・・・あの二人は、サーモスタット機能を使った警察の探索の結果、私たち二人がセックスレスなのを知っていて、・・・・・セックスレスだと、夫婦仲が悪いと言う事になるのでしょうね。猫を呼びに行く時間は、夜の六時だったのに、すでに、彼女の股の間から、饐えた、しかし、甘いというかなんというか、・・・・・昔公衆トイレの壁に、栗の花の匂いだと、書いて居る人が居ましたけれど、・・・・・そういうワギナ特有の強烈なにおいを発していた石川和子さんを知っている私にしてみると、警官が使っていないドアをガチャガチャさせたこと自体が、・・・・・は、ハーン、セックスレスイコール夫婦仲が悪いという判断になるのですか?

 いやあ、違うのですね。と、考えましたよ。あのね、ドーパミンという快楽をつかさどるホルモンは、頭脳的作業でも、生まれるのですよ。だから、独身の女流画家、入江一子さんみたいな明るい人が居るわけですね。ともかく、私はその時、柳沢昇と、石川和子さんの夫婦、‥‥そして、安野忠彦・智紗夫妻が、どれほどに、セックス優先の生活をしているかを知りましたね。

 それから、日本の警察が、CIAの家来であると言う事も、リアルな現実として知りました。この日が、2005年7月26日か27日の日曜日で、その11年後の、2016年7月18日(月)に、石井秀樹・あずさ邸の新築工事を、題材にした、【489日の難工事】という二時間番組が、夜、TV東京で放映をされます。その中では、どんなにたくさんの石段を上らないといけないかが、繰り返し、映像で、見せつけられます。そういう場所に交通警ら隊の警官が二人やってきて、猫泥棒の、味方をして、私をいじめに来る。特に若い方(小太りで、白豚みたいな顔をした青年でしたが、)なんと、私を悪人扱いをして、交通事故の調書を書き始めたのですよ。

 石川和子さんは、警官を呼ぶときに、自分は、伊藤玄二郎の愛人で(とまでは、言わなかったかな? でも、かまくら春秋という名前をもらっている、とても、強い関係を持っている人間で)と、言ったから、警官は、ばかげた任務を遂行したわけでしょう?

 そういうわけで、彼ら、CIAの子分たちは、警察を家来として使っていますので、例の、いまだ庶民には、公開されていない特殊な技術、高度なサーモスタット機能(この山のどこかから、桜田門の、大型画面に、送信されているだろうもの)を利用して、私と主人が今どこにいるかも把握をしているので、セックスレスだと、言う事も、知っていて、伊藤玄二郎を通じて、この山の、安野家他に、伝わっている可能性は、感じています。で、安野夫妻とか、石川和子・柳沢昇夫妻の考えでは、私達夫婦は、風前の灯だと、いう感じで、受け取られている筈。だから、「あそこは家庭内別居夫婦だから、手前の玄関を使ってくださいね。彼女の気が付かない様にして旦那だけにこれを頼んでください」と、石川和子さんと、柳沢昇は、警官に命令し、それを聞いて来た警官は、普通の方の玄関(そこにしか、ベルは、設置していない)の方は、接触せず、全く使っていない方の玄関だけで、主人を呼び出そうとしたのでした。

 ここで、これも、付記しないといけないのですが、柳沢昇って、今のオイシックスかな、当時の有機野菜の販売員をしていたのですよ。それで、石川和子さん宅にも配達に来て、「上がって行かない」というお誘いを受けて、上がって、セックスをしたので、結婚に至ったのでしょう。それから、石川和子さんが亡くなった後で、ある日の早朝、あの家から、知らない女の人が出て来て、道路に生えている三つ葉を摘んでさっと帰ったので、『ああら、いやだ。100%、石川和子さんが作った家に、数年前に、婿入りしただけの身なのに、彼女が死んだら、もう、別の女を入れているんだわ。せめてビジネスホテルで、やってください』と私は考えたものです。

 その、セックスレスとか、家庭内別居だという(内実とは、相当に離れた)話を、誰かから、教えられていて、その知識を受けて、おちょこちょいな、大原光孝が、からかってきたのだった。私に、面と向かって、「みんなが、川崎さんは離婚をするよと、噂しているよ」と。音声に出して。

 他にも【植木鉢の怪】という謀略とか、合いかぎを持っていて我が家に進入している話とか、多大な損害を与えられているので、ここで、はっきりと言いたい。「彼こそ、コキュなのですよ。10年以上の長さにわたって」と。

 ただ、イサムノグチと、某有名建築家・夫人との不思議な三角関係の様に、彼は、すでに、奥様の、その有名人との、下半身関係を知っていて、許容をしているのかもしれない。「50歳を過ぎると、恵美子の、ワギナの味も、十分に堪能していて、もう、飽きたから、他の人が使ってもいいですよ」と、考えているのかもしれない。

 でも、こういうことは、すべて探偵などを雇って分かった事ではない。彼本人の言動と、恵美子夫人の言動と、当該の相手の性格や、行動様式を知っているからこそ、わかる事なのだ。  

 と、言うわけで、東京圏のブランド住宅街に、住んでいると「能ある鷹は、爪を隠す」を実践している存在が、四方八方にいるわけで、よほど、気を付けて、暮らさないといけない。・・・・・と、言う不文律がある。それを繰り返して、ここで、書いて居るのにもかかわらず、それが、自分あての、文章だとは、気が付かないらしいのが、彼である。このブログを毎日は、読んでいないらしいので、そういう風になる。

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副題4、『不倫とか、下半身の話と言えば、これも大原光孝さんに聞いたのだが、前田清子さんが今、住んでいる家の前の住民は、不倫騒動を起こして、慌てて、逃げて行ったそうだ。奥さんの方が』

 いつだったか、25年以上前の話でしょう。他人の言動なので、紙や、パソコンにメモるなどと言う事をしていない、話ですが、記憶に確かに残っているのは、真夜中12時過ぎに男性の異様な叫び声が、10分近く続いたのです。誰の声であるかは、わかりました。どこの家で、発せられている声なのかもわかりました。しかし、内容は、わかりませんでした。叫び声だったし、酔っていたので呂律も回らないという感じだったので。

 その当時は、全く忌憚ない形で、大原光孝さんと、仲良しでした。で、数日後、偶然という形で、道路ですれ違ったので、「ねえ、大原さん、あの、真夜中の大騒ぎってなあに? 〇△◇さんの声だったと思うけれど?」と質問をしました。特に大原さんの家は、その叫び声の家には、我が家よりは近いからです。すると、大原さんが、「ああ、あれね、締め出しを食っちゃったのですよ」と、答えました。

 私は、実は、その一家に、大変親切にしてもらっていました。というのも、〇△◇ さんは、アジサイ畑欺罔事件の原案を出した人で、その件で我が家の東北の崖が、崩壊させられてしまったことを、申し訳ないと、思っていたからです。それで、奥様が、お茶を教えてくれることになって、習っていました。「きっと、徳川家の直臣でしょう?」というほどの、品の良い方でした。ただ、お茶のおけいこの日には、別のお弟子さんも来ていたので、私的な会話はありませんでした。

 しかし、ご主人は、とても人懐っこい人で、道端の立ち話で、いろいろなことを話されるのでした。

 なんと、ご主人は、私の日吉の実家のお隣(東側)さんと、同じ会社に勤務している人でした。飛行機用の素材・ジュラルミン・を作る会社です。わが実家のお隣さんは、その会社の重役で、個人用の住宅でも、竹中工務店が施行する様なお金持ちでした。1960年代に建坪50坪以上の大邸宅でした。で、実名で会話をするわけで、そういう重役さんの隣に住んでいるわけですから、私の実家が、相当なお金持ちだと、言う事は理解した人で、渡辺賢司とか、平木伸明さんみたいなひどい扱いは、全くされませんでした。あの二人は誰から、どういう話を聞いているのだろう?

 そして、さらに、いろいろ、話が進みました。何回も一緒に立ち話をしたのです。 

 で、主人の次兄と、そちらのご長男が、同じ会社、(まあ、結構、有名な、建設会社)に、勤務していると、言う事で、さらに丁寧になってきて、気持ちの良い関係が続きました。主人の次兄は、その会社が都市対抗野球で、優勝した時の主将です。だから、その会社では、大変な人気者で、社内恋愛で、結婚した奥様は、篠ひろ子と、どっちが美人だろうか?というほどの美人です。

 そして、さらに、奥様が後妻であって、先妻の妹さんだと、言う事も聞きました。それで、ご長男は、先妻のお子様で、次男が、現在の奥様の子供だという話。実は前報で、突然に実名で登場した、私有物として、古楽器、ストラディヴァリウスか、グヮルネリを、持っているはずの富裕層のお子様、増田忠さんのご家庭もそうだったのです。増田さんから、直接聞いたのですが、お嬢さんは兄の子、おぼっちゃまが、自分の子供だそうです。

 実は、日吉で知り合った(しかも、横浜国立大学付属中学でも同級生だった)新堀真知子さん(フライブルク大学の教授に成って行った)も、そういうご両親の間に生まれたお嬢さんだったのです。新堀さんの個室で、「母からもらったの?」と言って、大きなルビーの石(戦時中の、金属供出で、台は、無くなったと思われる)を、見せてもらいました。その時は、彼女が小声だったので、なんだか秘密みたいで、どうしたんだろうと、思っていました。彼女にしてみたら、今のお母さん(実際は、実母の妹さん)に、少し遠慮があって、小さな声だったのですが、「亡くなった実母の形見です」という言葉は出なかったので、ずっと後まで、そのことは知らなかったのです。

 でも、後で、考えてみると、井口基成、秋子、愛子さんの誰かについていた彼女が、桐朋学園高校音楽部から、芸大に入ろうとしたときに、とても大変で(当時は、桐朋と、芸大は仲が悪かったのですよ)、三浪をしてしまいました。意地悪をされたのです。お母さまが、亡き姉に託された子供だから、絶対に、大モノ(または、有名な演奏家)にしないといけないと考えておられたので、芸大にこだわったのだと、今では、わかります。その三年間は、母にとっても、真知子さんにとっても、大変な時期でした。

 朝ドラ【カムカムエヴリバディ】では、やすこさん(上白石萌音)は、戦死した夫の弟さんとの結婚を義父から、強く勧められます。だが、彼女は、そういう再婚は、しなかったわけですが、戦争を挟んで、そういう結婚をした人は、多かったのです。

 この芸大と、桐朋との確執に懲りた、新堀家では、実子である妹さんの方は、日本の音大に行かせず、直接、ヨーロッパの音大で、勉強させ、こちらも有名な音大の、教授になりました。新堀家のママは、偉大でした。パパも東大卒で、NTTのエンジニアだったと、思います。最先端の、技術を、研究している人でした。

 で、大原光孝さんが、「あの騒ぎは、ご主人が締め出されたからですよ」と言ったときに、なるほどと、心中で納得をしました。つまり、Mr.〇△◇ は、奥様には頭が上がらないわけです。奥様は、姉が健康だった時には、あの人と結婚をしようと、思い定めていた、男の子が、いたかもしれません。それを両家の親が、説得をして、姉の子供を育てるために、Mr.〇△◇ の、元へ嫁いできたわけだから、申し訳ないと、言う気持ちはあるでしょう。もし、姉が死ななかったら、現在の奥様は、甥を育てる、必要がなかったわけですから。それに既にお茶を習っていたので、奥様が、とても賢くて、しっかりした方だと、言うのも知っていましたし。

 しかし、そういう私の納得を乗り越えるすさまじいことを大原光孝さんは、付け加えました。

 「あのね。(川崎さんは、知らないでしょうが)〇△◇ さんはね。お隣の奥さんと不倫をしちゃったのですよ。で、引っ越して行ったのです。女性の方は」と。私は目を丸くして、息をのみました。そんな過去があったなんて、こんな狭い場所で・・・・・

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『私は、上の節の最後の2行は、もし、大原さんが【植木鉢の怪】のような異様なこと(まだ、説明をしていません。直近の事なので、後で、文章化します。】が、無ければ、さらさなかったと思う』

 そうです。二重がっこないに書いた通りです。しかし、物事には、すべて、フィフティフィフティの、側面があり、このエピソードは、今、前田達之さんの、シェアハウス問題が起きている時に、とても重要なものとなるので、利用をさせていただきます。

 前田祝一・清子夫妻は、慌てて逃げだした人の家を買ったので、普通の人よりも安く今の住居を買った可能性があります。というのも、〇△◇ 三の家というのは、南と西が、道路です。北は、深い崖で、隣の家との交流はありません。となると、隣の家とは東に地境を接している、前田家だけだとなります。それに、その家が、建築基準法に違反した、宅地造成(私道部分の拠出をしていない)をしている家であり、自分自身も、新築ができないし、それより奥の家も新築ができない家なので(それを、不動産会社が、正しく知っていたら、教えているはずなので、)とても、、安く手に入れたはずなのです。

 そして、新築ができない、奥の中谷家を買って、今度、前田達之さんが、そこをリフォームして、シェアハウス五部屋となし、年収300万円は得るのです。

上野地図は、鎌倉市役所が公開しているものです。特に2021年4月7日にこれをスマホで、写し取ったので、その日までは完ぺきに公開をされていたものです。ところで、赤い色鉛筆で、書いてある部分に、鎌倉市が、税金を援助しているという形です。しかし、嘘が記載をされています。それで、堂々と使わせていただきます。

 なお、これから先は、明日、書きます。本日は、ここまでに致します。

 

 

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英雄ポロネーズは革命へと将来そのtitleを変更される? 即興曲Op90と Op142がCIAにより強制的に D899と D935と呼ばれる様になった様に

2022-01-20 00:10:35 | 政治

 この一文は、総タイトルが、音楽オンリーなので、最近のシリーズと、関係がない様に見えるかもしれません。だが、続きです。17日の午後、三時前後に、驚くべき深さで、おどかされたことについて、書いていることの続きです。それについては、第一報、(後注1)と、第二報(後注2)を書いていますが、これは、第三弾です。そして、22日の午前4時に推敲加筆を終わりました。22日にかひつした部分は、紫色のフォントで示します。その時で、初稿の3倍となっています。どうかよろしく。

副題1、『私はあらゆるクラシック曲の中で、シューベルトの、即興曲、Op142(D935)の第三番が、最も好きなのです。アンダンテと指定されていますが、演奏家によって、テンポが相当違っていて、レオンスカヤのテンポを、もっとも好んでいます。ただ、66年も前の、1955年13歳の時のラジオで、響いていたレコードの演奏者は、わかりません。でも、その時から、この曲を大好きだと、言うことは、始まっています

 私がその曲を発見したのはラジオでです。夏休みの宿題として、「古典派の作曲家の作品から、一つを選んで、感想を書いてきなさい」と、言うのが出たのですが、私は、その古典派(ハイドンや、ヘンデルの時代を指す)という部分を聞き漏らしてしまい、全フィールドを聴いたうえで、これが、一番好きだと、感じました。しかし、あまりにも、単純に、見える曲で、かつ、深い精神性をも感じるので、感想文を書くのが難しいと判断をして、レポート用の題材は、プロコフィエフの、ピアノ協奏曲を選びました。つまり、間違えたリポートを提出したわけですが、雲居佐和子先生は、「OKです」と言って受け取ってくださいました。

 私は今でも、目立たない静かな人間ですが、当時はさらに恥ずかしがり屋で、特に音楽の授業では、独唱しないといけないのが試験だったので、その時、いつも声が出ないのです。しかし、集団の中では、大変いい声が出るので、それには、友達も気が付いていてくれたし、むろん、先生も気が付いていてくださって、ひそかにかわいがっていただいていました。それは、高校に進学しても、主婦として、コーラスに参加しても同じでした。どうしてそんなに恥ずかしがり屋だったかというと、父が、一種の夢見る夢子さんタイプで、いっつも歌を歌っているのですが、(油絵は、新聞記事になるほど、上手なのに、歌は下手で)叔父から、「千晴(ちはる)の歌は、変タ調だね」と、いつもからかわれていたと、母から聞いていたからです。ここでいう変は、フラットの事で、叔父は、数学を専門としていて、戦前戦中から、萩中学の校長でした。が、音楽も教えられるほど、音楽が好きだったのです。しかも、父よりは、11歳も上なので、からかうのは当然の事でした。

 さて、私の音楽体験としては、ラジオが、主でした。が、後年松田聖子を売り出して、その結果、ソニーエンタテインメントの、重役になった母の従姉妹から、彼が、ビクターに勤務していた時期に、試聴版(白いレーベルのもので、だれが、歌っているかは、想像しないとわからないが、ロジャームーア楽団である数枚は、わかっていた)などをもらっていて、アメリカ系の、歌は、そのレコードの影響で、歌う様になりました。

 北隣のおじさんが、グヮルネリか、ストラディヴァリウスを持っていて、夜の11時ごろから、G線上のアリアなどの、優しい曲を弾くのです。今だと、近隣騒音とか何とかいう事となって、だめなのでしょうが、昔は、緩やかだったし、何よりも、その音がきれいなので、だれも文句を言う人がいなかったのです。これは、ご本人が持っているものですが、息子さんが、ご自分のホーム頁(むすこさんは音楽家ではなくて建築家。父親も、本業は、車のデザイナーで、昭和天皇の御料車を、設計した人)に飾っていたので、きっと、古楽器の名器です。1920年代ごろ、手に入れたものでしょう。お父さんの実家は神戸に在って、須賀敦子級のお金持ちだったと、推察していますから、きっと、そのクラスのものだったと、思います。貿易商だったら、簡単にイタリアから、取り寄せられますので。

 私は、毎夜、12時までは、勉強をしていたので、しかも、勉強部屋が、北側にあったので、常に、それを、11時過ぎに聞いていて、心を澄ませていました。

 私は、音楽の専門家ではありません。しかし、音楽に関しては、相当に深い知識と、教養を蓄積していると、ひそかに自負しています。そういう私に、17日の午後、平木夫人は、「あの子の弾いていた曲は、英雄ではなくて、革命です」と、言ったのです。

 これは、大きな・嘘・でした。それで、ひどい、窮地を脱したのです。しかし、ショパンは、革命などというタイトルの曲は作っていないということを、グーグル検索で、一応確かめたのは、17日の夜9時頃でした。だから、午後3時から、9時まで、6時間は、ひやひやさせられていたのです。で、ミステリーですから、最初期の時間に戻して、これからの話を進めます。

 17日の午後2時45分から50分までの、5分間についての、詳細は、あと注2をご覧頂きたく存じます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『22-1-17 14:50 ごろ、平木夫人は、「うちの子は、東大には、行っていません。そんなに頭がよくないです」といった。それで、私は、びっくりして、窮地に陥った。しかし、自分が書いたもの(=思考の経過)には、大きな自信があったので、戦うという形ではなくて、疑問を解くために、次から、次へと、質問を繰り出した。中には、準備されていて、芝居とも嘘とも思えない発言もあったが、ポロリと出てきた本音もあって、それも、私が窮地を脱出する、大きな武器ともなった』

 「お坊ちゃまは、理 I 理 II 理 III?」という質問は、私の方では罠ではない。ただ、ずっと、興味のある課題だった。2021年の4月11日から、ずっと研究すべきテーマだった。というのもピアノが、上手なお子さんをほかに知っているが、みんな理工系に進んでいる。

 平木さん一家は、(この日初めて、彼女から、それを聞いて、知ったのだが)、お子さんが生まれる前に、ここに引っ越してきたという話だった。つまり、20年以上前だったということとなる。しかし、私の方は、そのころ、パリへ行ったり(これは、国費)ニューヨークへ行ったり(これは、私費)、一年に三か月は、日本にいなかった。そして、そういうことを許さない家族から離れて、そういう自由を確保するために、逗子で、一人暮らしをしていたので、この転入には気が付かなかった。

 しかも、今では、奥さんが家出を仕切っていて(10年以上)、自分こそ、捨てられた男なのに、

 おっちょこチョイ極まりない男性(大原光孝氏)が、2003年か2005年の間に、「<<<川崎さんは、離婚をするよ>>>とみんながうわさをしているよ」と、わざわざ、私に面と向かって言うぐらいだから、我が家は、・・・・・失敗した気の毒な家・・・・・という風な、劣等な扱いを受けていて、平木さん一家は、転入のあいさつに来なかった可能性すらある。:::::::ところで、大原光孝さんには、非常に多数回、嫌がらせ行為を受けているので、

 私も「奥様は、どうして、家にいないのですか?」と、質問をしたことがある。すると、彼は、「マンションの方が好きなんだそうです」と答えた。私は、夫が、『専業主婦である、お前が、海外に行くなんて、贅沢だ』と、言う考えだから、家出をしていたのだけれど、(特に夫のお金を使うわけではないので、どうしても行きたかったので行ったのだった)・・・・・比較して、恵美子夫人の方は、女子美卒なのだけれど、作家活動はしていないので、創作のために、別居をする必要はない。・・・・・恵美子夫人は、白井達雄さんの転入によって、『自分の夫が、男性としては、収入の面では、エリートではなかった。自分をだまして来たのだ』と、考えるに至ったのだろう・・・・・と、推察して一文を書いているが、もう一つ理由があるだろう。それは、別の男性に、惹かれたからという・・・・・一般の例でもよくあるケースだ。相手の名前も大体わかっている。美術界の大物のあの人であるはず。その男性が、お金持ち(実家の病院で、理事待遇などを受けていて、実家からお給料が出ているはず)の恵美子夫人に、独立別居を促したと、推察している。ここには、その詳細は、併記しないが、本当にひどいことを彼からやられているので、ここまで、書く。

 ただ、平木さん一家に関しては、いろいろな情報が、泥棒によってもたらされている。私たち夫婦が、二人とも留守をしているときに、泥棒が、いろいろな資料を置いて帰るのだ。まず、お子さん方の、通っている音楽教室の領収書、それで、二人の名前がわかったが、それを使うのが罠だと思ったので、捨てていて、覚えていない。

 その次に問題の、東大へ、前年の秋から、「あなたは、来年の四月から、東大へ入学できますよ」とお知らせを受けているご長男の方の、名前がわかる、ファイル「数学」の背表紙、縦がB5サイズのものも、寝室に入れ込められていた。それは、たぶん、今でも持っていて、名前も記憶しているが、もちろん使っていない。

 その次に、夫婦二人の名前が併記されている何かが、入っていた。で、そのころ、奥様は、優美に挨拶をしてくれる人だという認識があり、ご主人の方が、ひどい攻撃を一手にしてくる段階だったので、ご主人の名前が、伸明さんだと、言うこと・だけ・を記憶して、その紙は捨ててしまった。

 私は美形好きなカワサキさんと、ひとからからかわれるほど、人間でも、ものでも、自然でも、作品でも、美しいものが好きなのだ。しかし、スタイルが、全般的に見て、美しく、優美で、態度もしとやかな、平木夫人が、うそつきであるということは、去年の、四月10日(土曜日)には、悟ってしまい、一文をすでに書いている。(後注3)その9か月後の今般、さらに大きな嘘を、五つぐらい重ねてついている平木夫人に接して、『おやまあ、この人は、一種の悪女だったのですね。というか、したたかさが、極まりないと、言うタイプだったのですね。驚きました』と、言う風に考えを改めた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3,『この小さな谷戸には、21の軒の家がある。ただし、人間関係が非常に難しい地域(これは、私の言葉ではなくて、1982年に家を売ろうとしていた人の言葉であるが)なので、私が知る限り、14回の引っ越しがあった。で、34家族を見てきたのだけれど、そのうち、27家族ぐらいは、子育てをしていた家族だ。ただし、6家族ぐらいは、主婦が、仕事をする家なので保育所でお子様が育った。残りの21家族は、子供が未就学児期には、母親が専業主婦として、子供を育てていた。尚、おばあちゃんが育てている場合も、それは、保育所で育てたわけではないと、私はみなしていて、それも入れると、数値として、21軒の家の主婦が、子育ての経験があることとなる。しかし、亡くなったり、転居したり、家出をしたりして、なんと、今では、たった三軒しか、残って居ないのだ。自分で子育てを経験した家の主婦がいる家の事だが。

 で、その三軒のうち、二軒は、すでに、子供が独立した80代の主婦のいる家なので、未就学児期の、子供を自分で育てましたと、言う主婦は、平木夫人だけなのだ。しかも、子供が、同居していて、まだ学生ですと、言う年齢構成の家で、きちんとした子育て経験をしているのは平木夫人だけだ。

 私は、・・・・時代に逆行している・・・・といわれるだろうが、保育所で育てると、親にも子にもマイナスが残ると、思っている。50万人を超すといわれる引きこもり男性なのだが、調査してごらんなさい。必ず、保育所に預けて、育てていますよ。保育所だと、どうしても、お子さんの行動に制限がかかる。したがって、小さいときに経験しておくべき、ことを経験しないで、育ちあがるので、社会に出たときに、対処できないケースも出てきて、ひきこもる様になるのだ。引きこもりが、大卒後始まる会社勤めによって始まったケースよりも、ずっと前の、より、小さい時期に始まるケースもあるだろう。それは、頭の良いお子さんが、いじめに出会うケースから、引きこもることもあるだろう。

 専業主婦として、子育てをするのは意外と大変なのだ。近隣との付き合い、学校や幼稚園の担任との付き合い。特に嫉妬が大問題で、お母さんが担任教師に嫉妬されると、子供がいじめられて大変だ。だから、有名大学を出ていて、専業主婦で、そして、夫が高給取りで、かつ本人が美人だったりしたら、もう大変。私は、自分もそういうタイプだったが、私よりももっと美人で、しかも離婚を経験している人が教師の嫉妬のターゲットになってしまって、お子さんが苛め抜かれているのを目の当たりにしたので、これは、真実である。こういうのは、解決不可能で、ひたすら我慢をするしかない。苦しい苦しい経験だ。そういう不条理を経験するのが子育てである。だから、人間が鍛えられる。

 よく同調圧力と言われるが、専業主婦で、母親だったりしたら、同調圧力と言われるもの以上の、へりくだりと、目立たない生き方が、求められる。そういう・・・・言葉で説明できない類の・・・・苦労をしているので、専業主婦として、子育てをした女性は、当然に、成熟する。心理的に成熟する。

 で、平木夫人は、心理的に成熟している。しかも、この山にかつては、27人もいた、同種類の主婦は、亡くなったり、転居したりして、既にいないのだから、平木夫人はとても目立つという形であり、私は、ひそかに、敬愛をしていて、好意を持って居たが、『そうか、川崎千恵子が好意を持っている人間=この場合は、平木夫人=に、彼女を攻撃させれば、効果は抜群に高く上がるぜ』と、伊藤玄二郎たち、=CIAエージェントたちは考えたのである。で、平木夫人には、平成の、八墓村事件が起きた2014年7月23日(事件後、二日目の火曜日から、始まって、私がブログで、それを書く、木曜日まで続いた大きな攻撃を受けたのにもかかわらず、実名表記をしなかったので、・・・・・そうか、平木一家を使えば、彼女=私の事=を、最も効果的に攻撃できるぞ、と、みなされていて、最近では、この山で、もっとも、華々しい、活躍をしている一家だった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『ここで、重要な種明かしをしてしまおう。自分としては、ミステリー小説の出来が悪くなるので、残念だけれど、重要な伏線だから、それは、読者にも知らせておいた方がいい。

 あれは、14日の夜の事だった。私は、ひらめきを受けて、西隣の白井さん宅を久しぶりに、二階の窓から、のぞいてみた。白井達雄・小野寺夫人(夫婦別姓である)宅は、開口部が、全部、東(我が家の方)を向いているので、のぞこうと思えば、ほとんどの部屋が、我が家から、見えるのだった。

 ただし、エチケットの問題があり、私は、心理的に成熟し、とても、できている人なので、ほとんど、のぞいたことはない。ところが、二年前まで、そこに寝室を置いていたので、そちらの気配は、電気の光具合で、ひたひたと、押し寄せてきてわかるのだった。で、伊藤玄二郎に呼び出されて、会議を行っている夜は、そちらから、押し寄せてくる気配が、暗い。それで、すぐわかった。

 これは、本当は、書きたくなかったことだ。これから、用心されて、会議のある日も、全館、煌々と電気をつけて外出するだろうし、もし夏で、彼女が家を出るときは、まだあたりが明るかったとしても、警察が、その家のでんきを自由に点灯できるのだった。反対に勝手に消灯もできる。我が家は、消灯の方の、被害を何度も被っている。台所の天井灯とかお風呂の天井灯が突然に消されてしまうという形で。

 私が探偵を用いないのに、彼らの考えをつぶさに理解し、分析できるのは、ひとえに、白井達雄(小野寺)夫妻が、伊藤玄二郎に呼び出される日と、自分のブログとの関連を考えるので、的確に判断ができるからだった。私が、以前には、書いていなかった、新しい真実に触れると、彼らは対抗するべき、策を練り、それに実行者として使役する、白井夫妻を、会議へ呼び出して教育するのだった。

 数年前は、前田祝一・清子夫妻も招かれていた。こちらも電灯の、点灯具合で、わかった。これらの会議が始まったのは、2007年ごろだと、推察している。最初は、安野夫妻とか、柳沢昇も、招かれていた可能性があるが、あの二つの家は、ご本人は、自分を賢いと、思っているらしいが、わたくしにいわせると、レベルが三段階ぐらい下で、おバカさんなので、この二軒を招くとかえって、失敗に向かい、いろいろなことが、彼女にばれてしまうと、伊藤玄二郎たちにはわかった模様で、今では、招かれていないと思う。しかし、はずしたことで、恨まれたりひがんだりされても、困るので、重篤な手当てをしてあげていると思う。たとえば、かまくら春秋窯を、じゃらんで、紹介してもらうとか(だから、お客さんが、ひっきりなしに来た、時期もあったが、定着していない)、安野家が、屋根をふき替えたけれど、それを、半額、鎌倉市からの援助で、まかなうという形にして、請求書を二倍の額を作らせて、半額(実際には、全額)を鎌倉市から援助するなどという慰撫の、仕組みがあるだろう。

 しかし、最近では、その伊藤玄二郎主宰の会議への出席者は、変っている可能性が高い。

 その2022-1-14の会議について、メモを書き、下書きボックスに入れておいたのだけれど、それを引っ張り出してきて、公開するために、以下に置こう。

ところが、書いたはずの文章がない。仕方がないのでもう一回書き直そう。++++罫線以下、は、14日に書いたメモである。

+++++++久しぶりに閃いて、白井さん宅を見てみた。誰もいないので、例の会議が開かれたと推察する。出席者だが、こちら、山側は、白井夫妻、山田さん、平木伸明さんは、出ている。大原光孝さんと、平木夫人がどっちかな?という程度で、わからない。

 伊藤玄二郎側は、彼、中谷家の次男、鶴岡八幡宮の、龍村さん、鎌倉警察署生活安全課の課長は、出ていたと、思われる。

 しかし、17日の、私が本人から、直接に聞いてしまった平木夫人の数々の嘘を、誰が考案し、だれが、平木夫人に教え込んだかを考えると、例の環境施設課の、吏員と、平木夫人が、会議があった金曜日の夜ではなくて、次の日の土曜日か、日曜日の昼間、または、月曜日の午前中に、伊藤玄二郎に呼ばれて、その禁煙ゴムプレートを貼る際に、私への対応をどうするかについて事細かに、れくちゅあーを受けていた可能性はある。

 どうして・・別の日に、分けた?か・・・の理由は、白井夫妻は、非常に深く、あれこれを知っているので、そこに、最近五年間、急に浮上している、平木夫妻を、同席させると、CIAエージェントが過去に行ってきた悪の数々が、駄々洩れに外へ出てしまい、秘密がすべて、明らかになって、外へ出てしまう可能性があるからだ。だから、ここで上げている名前のうち、

 平木夫人と、鶴岡八幡宮の龍村さんと、生活安全課の課長は、来ていなかった可能性がある。山田さんが、課長よりも、警察内・階級としては、上の人間だろうから、山田さんが、出席している限り、二重の出席はないと、思われる。ともかく、6人程度の少人数の方が、伝達が、しっかりするので・・・・・

 ここ(=2022年1月14日)で、会議が行われるタイミングについては、思い当たることがあった。彼らにしてみると、・・・・・12月20日に始まったJCOMへの乗り換えを利用してだまし討ちみたいにして、このブログを消滅させる予定だったのに、それは、すっかり狂っている。しかも、すぐさま、それを、彼女に、例のブログで、書かれている。その前は、日吉における、我々の工作(カリタス小通学バス襲撃事件の事)をすっかり明らかにされており、

 彼女が、それには、触れるはずもないと思っていた・・・・水沢勉氏(現在は、葉山の美術館・館長。日吉の、我が実家の近所に氏の実家もある)が、こちら側の人間として動いたこと、及び、小田歯科医院でのあれこれ・・・・・も書かれてしまった。ここは、戦略を新しく練り直さないといけない・・・・・と、そういう会議であろうと、推察していました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題5,『平木夫人が、態度としては、かわいらしく、かつ優雅に、しゃべった中で、重要なウソを、ついていることは、立ち話の、最初から、感じ取っていて、・・・・・もし、その時の私の本心を言えば、・・・・・平木夫人は、ふてぶてしすぎる。2021年の4月10日に、圧倒的に嘘だとわかることをシャーシャーといったが、今回は、さらにひどい。嘘の数が、多すぎる。これは、彼女の性格上、自然に、できることなのだろうか? 彼女は結婚する前の、実家で育つ過程で、何か、苦労をしましたか?・・・・・

 などと考え込んだが、重要な三つ目の嘘【革命】が、出てきたときに、ああ、これは、彼女一人の発案ではないですね。後ろに、井上ひさしがいて、アイデアを練り、彼女は、教唆され、教えられたとおりに、動いていますね・・・・・と、わかってきた。なるほど、これが、14日の金曜日の夜の会議で・・・・・または、次の日に・・・・平木夫人に伝えられたことなのですねと、納得をした。しかし、リアルな世界では、喧嘩をしない主義の私は、その17日の午後でも、だいたいに、おいて、質問をするという形で終始し、途中で気が付いた彼女の、嘘へ、その場で、即座に、突っ込みを入れるという形は、取らなかった』

 彼女は、坊や自身が、私に、そのタイトルは「英雄です」と教えてくれたのに、私が、それを平木夫人に、言うと、「いいえ、違います。革命です」と言い、その後も、二度ぐらい、革命という語彙を繰り返した。

 平木夫人は、「息子は、ピアノの発表会があって、練習をしていました。別れの曲です」という。坊やは、別れの曲なんって、一切、弾いていなかった。その上、一月後、統一試験(東大の入試の第一関門)がある男の子が、ピアノの発表会に、11月か、12月に、出るだろうか? それは、あり得ない。で、「嘘も、休み休み、言いなさい」と、思った私は、ここでも内心では、激怒した。

 別れの曲って、悲しみを表現する静かな曲だ。そして、実際には、ショパンの、音楽を知りもしない、井上ひさしが、唯一、メロディを知っていた曲だと、思われる。それで、平木夫人に「別れの曲を弾いていたと、突っぱねなさい」と、教唆したと、思われる。

 これは、平木家のご長男が、前年の秋に、一種の推薦入学という形で、東大へ、入学できることを知らされていたと、言う、私が書いていることが、真実であることを余計、確実に証明している。それ以前は、消音とヘッドフォンの方式で、弾いていた平木家で、その時だけ勝ち誇った様に、英雄ポロネーズを、坊やは大音響で弾いていたのだった。それがキーセンテンスである。だから、そこを否定すれば、こちらが勝つと、鎌倉エージェントが考えて、平木夫人に「革命を弾いていたと、言いなさい」と、命令をしたと、思われる。

 ただ、2020年の秋に戻れば、そのジャンじゃか、ジャンじゃか、派手に英雄ポロネーズが、響いていたその時点では、私は、東大とその勝ち誇った演奏が、関係があるとは、知らなかった。

 しかし、2021年の、四月11日の午後、平木さん一家が、最上級のおしゃれをして、しかも、全員が別々に、ひそかに山を下りて行ったので、『ああ、入学式に出るんですね』と、感じたのだった。

 『午後出て、東京のシティホテル=例えば、パレスホテルに泊まって、早朝、ヘアメイクと、着付けをホテルでしてもらって、午前10時に始まる、入学式にでるのでしょう。ところで、4月12日に、入学式を行う大学って、どこだろう?』と、ググってみたら、東大だけだったのだ。2021年4月11日の午後、平木夫人の、ゴールド色(令和天皇が即位の礼でお召しになった・コウロホウのゴゼンとそっくりな、色だったが)のおべべを、見た途端、明朝の着付けを行うホテルとして、直感で、パレスホテルをイメージしたのだが、東大の入学式とは、武道館で、行われるそうで、もっとも、近いホテルとは、パレスホテルだった。なんと、勘がいい私であろうか? しかし、平木さん一家が、パレスホテルを使ったかどうかは知らない。帝国ホテルだったかもしれないし、皇居周辺に、ばたばた設立された新しいタイプの、シティホテルだったかもしれない。ともかく、すべてを合わせて、20万円を平木さん一家は、ご長男の入学式だけで、支払うことになったと、推察される。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題6、『わたくしの父方の実家は、毛利家の重臣で、一時期は萩の御三家の一つと言われていた。父の兄のお嫁さんは、長州藩ではない別の藩の出身だが、ご家老様の娘である。自身は、お殿様の家来だが、自分の家にも家来がいる身分だった。

 で、上流階級特有の・・・威張らない・・・という、マナーを持っている。人の上に立とうとしない。へりくだっている。私の日吉の北隣の、増田忠さん(昭和天皇の御料車のデザイナー)が、子供時代から、グヮルネリか、ストラディヴァリウスを持っていて、彼が亡くなった後で、息子の増田奏(すすむと読む)=書物を数冊出版している独立系建築家=さんが、15年ぐらい前まで、ご自分のホーム頁に、そのヴァイオリンを、自分のかたわらに下げていた。というアマチュアながら、音楽通だったが、

 私の実家(父方)も、アマチュアながら、クラシック音楽通だったのだ。それが、1920年代の事だから、2022年の今、ショパンが【革命】という曲を作曲し、「息子が、2020年の秋、弾いていたのは、英雄ではなくて、そちらの方です」などと、平木夫人が言えば、内心で、激怒するのは当たり前の話だ。

 例えば、副題1で、父が、11歳年上の叔父から、「変タ調だね」と、からかわれていたと、書いている。これは、1925年ごろの話だけれど、これが、ジョークとなるためには、クラシック音楽の楽典、特に、調号についての知識がきちんとある人々の間でないと、ジョークにもならない。

 今、念のために、♭の付いた調号がいくつあるかを、グーグルで、きちんとチェックしてみた。するとシャープの付いた調号は、日本語では、嬰という冠言葉で表され、♭の付いた調号は、日本語では、変という冠言葉で表され、両方とも、7つまで、ついた調号があり、それぞれ、長調と短調があるので、全28の調号があるのだが、変タ調は、長調も短調もないのだ。

ヘ長調・ニ短調 F dur / d moll ・・・変ロ長調・ト短調 B dur / g moll 

変ホ長調・ハ短調 Es dur / c moll・・・変イ長調・ヘ短調 As dur / f moll

変ニ長調・変ロ短調 Des dur / b moll・・・変ト長調・変ホ短調 Ges dur / es moll

変ハ長調・変イ短調 Ces dur / as moll・・・

何度チェックしても、変タ長調も、変タ短調もない。でも、あたかもありそうだなあと、思わせるところに、このジョークのすごさがある。母は、女学校時代は、お琴をやっていて生田流の楽譜を読む人だったが、NHKが、ギター教室を始めた時に、自分もギターを始めたので、五線譜を読める女性だった。したがって、「千寿(ちひろ)さんが、千晴(ちはる)は、変タ調だねと、いつも言っていたのよ」と楽しそうに、このジョークを繰り返していた。しかし、その母の言葉こそが、私が、人前で、歌うことができないという原因だったのだけれど。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題7、『平木夫人が、息子が弾いていたのは、英雄ではなくて、革命ですと、言う嘘の楽曲名を出したときに、私の怒りは、最高潮に達していた。顔には出さないが、内心では、激怒状態だった』

 その変タ調というジョークは、1950年代から、繰り返し聞かされた話だった。そう、それから、70年間、クラシック音楽に対して、知識や、教養を深めてきた私に向かって、下の写真の青の矢印のところで、

 「2020年の秋に、息子が引いていたのは、英雄ではなくて、革命です」と、平木夫人は言明したのだ。ここで挿入となるが、娘が、中学生の時に、「お母さんが切れたら怖い」と、私に向かって言っていたのか、お兄ちゃんに向かって言っていたか、だれに向かって言っていたのかは、忘れたが、確かにそういっていた。私は、自分の二人の子どもをぶったこともないし、つねったこともない。怒鳴ったこともないが、心理学的なレベルで、ものすごいレベルの怖さを、子供に、感じさせるところがあるのだと思う。

 そうだった。この2022年1月17日の午後、最上級の激怒状態に、陥っていたのだ。つまり、怖い人状態に陥っていたのだ。

 その上、この禁煙ゴムプレートを貼りに来たこと自体が、最高ランクの、攻撃に当たるのだから、天の視座から見れば、今度は、私の方が攻撃をしていい。ただ、私は、上に言っている様に都会育ちで、かつ上流階級風に育っているので、急に怒りの顔へ、変化するわけではない。ただ、いろいろ、質問をしていい権利を得たと、思った。

 特にゴムプレートの、次に、自分から、平木ですと名乗ったこと(マスクで、顔が、三分の二は、隠れていたので、名乗らなければ、気が付かなかった。わざと名乗る様に伊藤玄二郎達から命令を受けていたと、今では考えている)が、次の段階の攻撃だった。その上、名乗った彼女は、男性吏員に向かって、話しかけている私の会話を横取りして、「川崎さんが、ブログをやっているのですか? それは、全然知りませんでした」といった。(ここから、蛇足1というところへ飛びます)

 ここで、JCOMへのインターネットオプション乗り換えで、自動的に、このブログが、消滅の危機に瀕したことを、しっかりと思い出す私だった。彼女が、読んでいないことはあり得る。特に夫婦ともに、全文は、読んではいない。したがって、的外れな行動をしてくることが多い。

 ただし、前田夫人とか、前田夫人より上に立っている山田さんは、読んでいるわけで、そこから、三段階経由にしても、私がブログで、何を書いているかは、知っている筈なのだ。それを、もう一人の人間=鎌倉市の環境施設課の、吏員が、いる前で、堂々と、「川崎さんが、ブログを書いているなんて、知らなかった」と明言するのは、近々、また、だまし討ちに出会って、このブログが消える可能性を、さらに強く、示唆した。

 次に、いったんは二人から離れた私が、戻ってきて、最初の質問を発したときに、彼女は、きょトンとしていた。で、私は、1960年代は、東大に勤めていたので、入試が,理科系、三、文科系、4に分かれていて、通称として、理 I II  IIIと、呼ぶことを知っていたが、

 彼女があまりにもきょとんとしているので、ふと、東大の、入試の仕組みが変わったのかと、思い直して、こう付け足した。「あのね、今の東大の、入試の仕組みは知りませんけれどね」と。すると、彼女は間髪を入れず、「うちの子は、東大へは行ってません。そんなに頭がよくありません」といった。その上、「うちの子は今高3です」とも言った。だが、いくつもの質問を続けるうちに湘南高校に、通学していたと、言うことはわかり、とても頭がいい方だった。

 そして、上で、何度も言っている、革命というタイトルが出てきた。これが勿論、嘘なのだけれど、後半に行って、もう一つすさまじいウソが出て来て、『ああ、こうなると、今まで、答えてもらった項目のうち、重要なポイントでは、すべて、嘘をついていますね』と、言う結論に到達した。

 「英雄ではなくて、革命です」と彼女が主張した楽曲名は、無論、彼女が考案した語彙ではなくて、井上ひさしが考案したものだと思う。

 したがって、井上ひさしが、どれほどに、音楽に関する教養やら、知識がないのかを、さらしている、好個の例だと言える。

 しかし、白井達雄(+小野寺夫人)夫妻が、東大卒なのに、その嘘が通用すると考えたと仮定すると二人の、教養のレベルも相当に怪しくなる。伊藤玄二郎の、それも怪しくなる。で、ここは、こういう風に考えよう。14日の夜の会議には、平木夫妻(特に細君の方)は、招かれておらず、15日か、16日に、ふたりだけが、招かれて、伊藤玄二郎から、詳細に、17日の行動予定について、れくちゅあーを受けた・・・・と。

 英雄ではなくて、革命ですって、井上ひさしは、私がショパンは好きではなくて、ショパンについては、詳しくないと、書いているので、それに悪乗りをして【革命】などと、言う英雄と似ているタイトルを持ち出して来て、私を煙に巻き、私が一年にわたって書いてきた、文章を全部、自分で、削除する様に仕向けてきたのだった。

 驚いた。いろいろな意味で。息子が東大に入ったほどの、栄誉に服しているのに、そのお母さんが、見え透いた嘘を連発する。それも驚きの極致だったが、彼女の演技のうまさにも脱帽だ。

 私は、2022年1月17日の、夜九時までは、不安に満たされていた。これは、大量の時間をかけないと修正できないと、思って。しかし、夜九時にショパンの、曲名全部をさらって、革命などないことを確かめて、すっかり落ち着いた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題8,『シューベルトが作曲した曲には、整理番号として、Opが長らく使われてきた。しかし、私が、NHKBSPで、クンウーパイクが演奏する、シューベルトのピアノ即興曲の、クラシック倶楽部を聴いて、感想文を、書いた時以来、Op ではなくてD[=どいちゅ番号】を使う様に、強制的に、変更されてきた。その私に対するいじめが、始まって以来、10年以上が過ぎているので、すっかり、どいちゅ番号が、正式なものとして使われている。アンドラーシュシフが、ザルツブルグ音楽祭でのアンコール曲として、

後注1,

画廊のオーナー増田きよみさんは、私の禁煙運動批判エッセーを褒めたので大出世をした

2022-01-17 14:58:33 | 政治

後注2,

私はぞっとした。一年分の文章を訂正せねばならないかと一瞬は思って。しかし大丈夫だったので一安心

2022-01-18 21:57:10 | 政治

 

(蛇足1) 平木さん一家が、伸明さん、奥さん、(そして、子供たちは無論の事ですが、一家の構成員の誰)も、私のブログを読んでいないと、言うのは、彼女の言い分を待たないでも、わかっていました。ちょっと、ピント外れだなあと、思う攻撃を数多く、やられてきていますのでね。

 だけど、それは、伊藤玄二郎、もしくは、安野夫人、もしくは、前田夫人、(もしくは、奥さんが、私の想像通り、市長秘書をしていると仮定して)、松尾崇市長からの命令で、読まないと、決めているのか?、

 それとも、敵さんが、平木家のパソコンに、工作を施して、このブログが、自然に迷惑メールとか、 危険なサイトという事になってしまっていて、読めないのか?

 は、私は、知りませんが、読まないで、いることが、結果として、見事に、伊藤玄二郎一派を裏切ることになっているのです。誠実とか、忠実を尽くしているつもりになっていても、結果としては、まったく反対の行動をとっているのです。それが、奇怪だというか、滑稽だというか、天理のあかしだというか・・・・・・ひそかに笑ってしまっているほどです。非常に悪辣なことをやられていても、笑っていて、看過してきました。しかし、時々、天が裂ける様にして、こちらにも、光が当たるのでした。それで、平木家のおかげで、こちらにも、いいことがあるのです。

 この章でも、如何に、いまだ生きている井上ひさしが悪辣であり、かつ、無教養であるかを、証明するに、あの一家、特に17日の奥様が、役立っているわけです。したがって、こっちは、それなりに助かるというわけです。ほっとして、一息つける、というわけです。

 平木夫人に、ここで言っておこう。読まないと思いますが、天に向かって、語る言葉としてです。「あなたは、賢いつもりになって、お芝居していらっしゃるみたいですが、後ろに、井上ひさしと、書いてある、しっぽがひらひらしていますよ。それが見えるから、本当にうれしくなっちゃいます。あんがと」と。

 「あなたの家から、100mも、離れていない川合良一さんの門をたたいて、ショパンが革命という曲を作ったかどうか、問い合わせてごらんなさい。彼は、芸大出身ですよ。そして、理科大オーケストラの指揮者です」とも。

コメント
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私はぞっとした。一年分の文章を訂正せねばならないかと一瞬は思って。しかし大丈夫だったので一安心

2022-01-18 21:57:10 | 政治

最初に置いた写真を説明をさせてくださいませ。

これは、鶴岡八幡宮の中に在る、文華館(旧 神奈川県立近代美術館・本館)方向から見た我が家への進入路です。右の白い金網の中も、左側の茶色のフェンスの中も、鶴岡八幡宮の駐車場です。そして、左側の駐車場の20m上に我が家があります。この写真の道路は、長さが30mぐらいですが、突き当たりにうっすらと、石段が見えますね。それを50段ぐらい登ると、志一稲荷という小さなお社があります。本当は、違う場所にあった、小さなお社だったらしいのですが、ここの住宅地開発で、人身事故が多発したので、測量士だった、一家が、ここに新しい建物と鳥居を立てて、移動をさせました。そしてメインテナンスを行っています。

 次に挙げた地図ですが、これは、鎌倉市役所が常時公開しているもので、かつ、重大な嘘が記載をされています。記載をした担当者は、阪中英夫という人物で、松尾崇市長の命令で、行ったことでしょう。2021年の四月に、別の部署に転属になっている彼を何度も訪ねて、その嘘の部分への、質問をしました。が、逃げ回っていて、答えをもらっていません。答えとしては、松尾崇市長に命じられて、そう書いていますと、言うほかはないので、逃げ回っているのです。松尾崇市長の後ろにはむろん、伊藤玄二郎がいます。

しかし、時間が足りないので、ここでも、簡略に、メモ書きをいたします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題1、『禁煙プレートを新しく張りなおしている、二人の、鎌倉市のスタッフと、私との、最初の会話、あれこれ』

 上の最初の写真の中に、青のやじるしで、示した、白いゴムプレートがあります。それが、今回貼りなおされた新しい、禁煙プレートです。黄色い矢印で、示した残渣は、大昔、日本一早く、ここに貼られた、ゴムプレートで、4炭に特別に強い接着剤が、用いられたらしくて、四隅だけ、白いゴムが、残っているというわけです。

*1、 ゴムプレートを貼っている鎌倉市・環境施設課の職員とは、鶴岡八幡宮の上級神官龍村さんと、比較すると、1000分の一以下の存在だ。これは、行っていることの小ささと、これから先の私との、かかわりの深さ如何と、その程度を比較して言っている。

*2、 私は、もとより、ゴムプレートを貼るなという、権利はない。だが、「これは、復讐行為だし、鎌倉市の、禁煙区域は、鉄の井(くろがねのいど)より、南側だけのはずですよ」と、言うと、「これは、禁煙をお願いしている、「注意です」と、青年は言う。

*3、 私は、彼が、龍村さんより、小さな存在なので、龍村さんと、会話を交わした時よりも踏み込んだ会話にもっていくことを、瞬時に決意した。

 2020年4月27日は、龍村さんの、言葉を、聞いて、言質を取ったと思っただけで、踵を返して、帰ってきた。ただ、青年には、一種の喧嘩腰で、向かいながら、女性の方は、完全無視だった。青年の補助だと、考えていたし、しゃがんでいたので、さらに、そういう傾向を感じたからだった。

*4、 青年が、したたかなので、「まあ、いいでしょう。ブログに書きます。あなたは、私のブログを知っているのでしょう。ブログで、最近、重要なことを書いているので、こういう復讐行為をしましたね」と、言うと、青年は、「え、そうですか。僕、知りません。そんなの」という。で、それは無いとは、思ったが、一応、彼の言葉を、真に受けて「ああ、これからは、読んでくださいね。銀座のうぐいすからと、言うのです」と、私は、答えた。

 しかし、黙って踵を返して去った、2020年の、龍村さんとの会話時よりは、進歩していると、考えた。彼は、当然、私の言葉を上司に告げるだろうし、‥…もし告げなかったとしても、警察が、彼のスマホを傍受していて、私が何を言っているかを把握してるのも確かだったから。そこから、鎌倉エージェントたち(=CIAエージェントたち、この場合は、伊藤玄二郎や、山田さん)に伝わるのは、確かだったから。

*5、私が、「銀行へ行きますよ」と主人に告げていたのは、午前中からだったし、私がしょっちゅう銀行に行くのは、預金カードの利用、および、金庫室開閉のためのカード利用で、敵さん方は、明白に把握していた。

 我が家には、泥棒が頻繁に入る。それで、私は、貸金庫を三つ借りている。浜銀に二つ、みずほ銀行に、一つ借りていて、頻繁に出し入れしている。浜銀は、五時まで、使用可能で、みずほは、午後三時まで、使用可能だ。したがって、午後二時半ごろ家を出るか? 午後、4時半ごろ、家を出るかの、二つがあって、その種の行動を、週に二回は、必ず、行う。この日は、月曜日なので、必ず、どちらかに向かって外出するはずだと、推察されていた。

*6、私の行動は、家の中でも、監視をされている。一時期、テレビが盗撮の可能性があるかもしれないと、考えたが、スマホとか、パソコンのカメラ機能も利用されるかもしれないと、考え至った。スマホのカメラアイには、テープを貼ってはいないが、パソコンのカメラアイには、テープを貼っている。

 しかし、我が家の門の外の、街灯が、道路に向かって、90度ではなくて、45度に傾いていたことを発見して以来、そうだったのか?と腑に落ちる、仕組みを解明した。それは、上の地図の、我が家の南側は、富沢家という家の持ち物で、富裕な富沢家が、三つの区画を買ったので、広い自然林をなしている。そこに、高性能の、把握銃、もしくは攻撃用銃を置いておけばいい。

 攻撃用銃は、レーザー光線などを発して、私の肉体に損傷を与える。

 第一次安倍内閣が、首相の、体調不良、(難病の一種の大腸炎)で、辞任をせざるを得なかったが、それと同じことが、私の肉体にも起きている。寝ている間に、頻繁に起きる足の痙攣(こむら返りというもの)、股関節や、膝関節の、間歇的痛み、メヌエル氏病状態、頭の片頭痛、足の指のリュウマチ状態などを、間歇的に起こすのだった。それは、桜田門の大型画面で命令されるのだが、

 上の地図の、かまくら春秋ガマの、西側に、警察が占領している家があって、そこにおいてある大型ルーターを通して、桜田門の、大型画面に、映し出される、私の全身像(サーモスタット機能などを利用すれば可能である)に、ピンポイントの攻撃をなすという形で、行われる。

 12月、20から、JCOMのセールスマンに自宅に乗り込まれて、ネットの乗り換えを迫られたのだが、それは、一種のだまし討ちで、このブログが消滅することであると、気が付いて、それをキャンセルにもっていったとき以来、10日間ぐらい、膝関節に力が入らなかった。

 このことは、2011年5月~2012年2月11日と、2014年の6月4日の二つの時期に分けて、合計6回ぐらい、長時間デートを重ねた安藤てる子さんが言っていたので、警察の特殊部隊・内部と、CIA内部では、公然の技術となっていて、すでに、使われている、一種の殺人用兵器である。

 安藤てる子さんとは、自称・元・三菱商事勤務で、司法書士などの国家資格を、すでに何個も持っていて、月に50万円の収入はあるし、先生(上司)から認められているので、時間の自由があるとのことだが、「川崎さんが、語っているのと、同じ様な被害がパソコン内にあって、今、仕事ができなくなっている」と、言って、近づいてきた、ファンなのだけれど、実際は、女性刑事であり、嘘八百を並べ立てているのだけれど、

 彼女が、おズボン(今では、パンツとか、ボトムという洋服)の裾をまくって、むこうずねを見せてくれたことがあって、もしかしたら、本当だと、思い至った。そのむこうずねには、かさぶたがいっぱいできていたからだ。痛痒いので、かきむしるから、そのかさぶたができたそうだ。

 こういうことは、攻撃者の顔が見えず、実名もわからないので、書いても、ブログの読者は、信じないと、思うので、書かないのだが、肉体への攻撃は、ブログで真実を書いたときと連動をしているので、すでに、確立されている技術だと、思う。だから、北朝鮮のミサイルが発射されている時期には、私は、肉体の、痛みを感じていると、ご推察いただきたい。で、大きな被害を受けているからこそ、実名がわかっている人の攻撃は、きちんと書く、それが、今は、平木さんに集中しているというわけだ。

後注1へ

*7、

 この病気や、痛みを私の肉体に、与える仕組みは、彼らが、私の行動を把握したいときには、痛みを与えない形で、発信され、利用をされる。今般の様に、禁煙用ゴムプレートを新しく張りなおすのは、明瞭に私へに攻撃策だから、私が、そこを通るときに行う必要がある。

 彼らは、長年の私の行動を尾行し、研究しぬいているので、予測はつけているが、それでも、当てが外れると、復讐が無効になるので、室内盗聴と、プロファイルのほかに、二つの、保障も、準備している。

 その一つが、これまた、私の肉体の、動きを、サーモスタット機能を利用して、正確に把握をすることで、私は外出の前に、二階と、一階を何回も、往復する。洋服を着替え、時計や、マスクを装備し、バッグの中も、毎回点検する。で、寒い冬なので、普通だと、テーブルに座っているだけなのに、二階と、一階を頻繁に往復するときは、その後、30分以内に、必ず、外出すると、みなしているのだった。

 禁煙プレートを貼る、役目の市役所所員は、この道路の両側に在る、八幡宮の駐車場に、車を止めて、中で、待機していたのだけれど、いよいよ、私が外出するとなると、車から出て、当該の場所に移動をして、仕事を始めていた。そして、乾きやすい接着剤を貼ることだけは、安野家からの、目視による連絡を待っていたと推察できる。

 これで、三度目として、安野家の、警察への、ご奉仕の仕組みを発見したといってよいだろう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『私と平木夫人との間の、当日、一回目の会話』

*8、

 私が男性スタッフとほぼ喧嘩口調で、話をしていると、今まで、しゃがんでいた女性の方が、突然、左側にすっくと、立ち上がり、私の顔から、40cmぐらいの近さで、「川崎さんが、ブログをやっているのは、知りませんでした」と、言った。

 私は、ひどく驚いた。だが、内心で、ニンマリした。だって、この見知らぬ女性が、「川崎さん!」と、私に向かっていうぐらいだから、鎌倉市役所内で、私の事は有名なはずで、それは、すなわち、この作業が、わたくし狙いの復讐であることを、証拠づけていたからだった。

*9、

 その女性は、割と小さな目をまん丸く、見開いて、「川崎さんが、ブログをやっていることは知りませんでした」と、言う。その時に、野見山暁次さんの目とそっくりだと、思った。

 野見山さんは、カメラ目線で、話をすることはなく、いつも斜めに構えてTVカメラに映るのだけれど、その眼は、半眼に近い開き方で、普通の人は、野見山さんの黒目と、白目を見たことがないと思う。

 ただ、その日だけ野見山さんが、私を初めて見て、非常に驚いたので、目を見開いたのだと、思う。ひどい讒言を聞かされていたので、モンスターもどきの、夜叉風女、または、くち裂け女風な、女性だと、私の事を考えていたのだけれど、全くの予想外だったので、驚いたのだと、思う。当時は、まだ、若さが残っていたので、スリムで、背が高くて、上品なタイプだったと思う。

 上は、結婚式での私の写真です。普段は目の周りも、そのほかも全く化粧をしないので、職場の上司がびっくりしてくれました。本当は、きれいだったんだねと、言って。
 
 野見山さんは、私の顔が、彼の予測とは、全く違ったのにもかかわらず、反省は、してくれなかった。そこは、瀬木さんとは大違いだった。(後注1)瀬木さんは、善良で、野見山さんは、腹黒いのだと、判断をしている。
 平木夫人へ、戻ろう。

 最近では、マスクが外せない。で、顔の三分の一が隠れているので判断が不可能だったのだが、もう一つ、彼女が、非常に硬い風情で、攻撃的だったことも、判断を狂わせた。

 平木夫人は、その日、自分から、平木ですと名乗った。後から思うと、これも伊藤玄二郎一派の計画で、自分たちの、復讐行為に、平木夫人がかかわっていると、言う風に私が知れば、私が、まいると、考えていたらしい。

*10,

 私は、あぜんとして、黙って、平木夫人を眺めていたが、彼女は、「川崎さんが、ブログをやっているなんて、知りませんでした」という。で、私は、辛うじて、自分を立て直し、「あなたは、どこの部署に、所属しているのですか?と、質問をした。すると、福祉社会科だそうだ。彼女は何度も繰り返した。「川崎さんが、ブログをやっていたなんて知りませんでした」と。

 確かに、これは、私をなえさせた。平木夫人に、向かって、特に見知らぬ鎌倉市職員に向かってけんか腰で、言葉を吐くわけにもいかなかった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『平木夫人と私の間の、当日、二回目の会話』

・・・・・ここまでの、いきさつで、彼らは、勝ったとかんがえていただろう。しかし、神の視座から、ものを考える私は、物事は、フィフティフィフティであり、平木夫人が敵側に立ったからこそ、こちらにも、勝負をかける牌が残っていると考えた。

 平木夫人は、すべて正しいことを書いている私をつぶすために、その日も動いたのだった。そして、上等な成果を上げて、二人は、にこにこしている処だろう。

 しかし、私は、自分の手の内に残っている牌を使おうと考えた。それで、二人から、離れて、5mも歩かないうちに引き返した。銀行には別の日に行けばいい。

 で、簡単な仕事(すでに、ぬってあった、接着剤の上に、ゴムプレートを貼る)を終えて、立っている平木夫人の、真横に立って、「ねえ、お宅の坊ちゃん、理 I  、理 II 、理 III?」と、聞いてみた? それは、意地悪でもなんでもなく、英雄ポロネーズをジャンじゃか、弾ける彼は、理系であろうと考えていたからだった。理科一類は、将来、会社勤めをする、工学系に進む。理科二類は、将来学者は、先生になる方向で自然科学を学問として研究する。理Ⅲは医学部に進む。

 

 ここから先ですが、私が、質問をし、平木夫人がそれに答えるという禅問答みたいなものが、7分間続きます。

 平木夫人は、美しく繊細な容貌にもかかわらず、したたかな態度で、嘘をつき続けるのでした。しかし、あまりにも、上手なやり方で、嘘をつき続けるので、私は、相当に迷わされてしまい、自分が、2021年4月14日以来、書き続けてきたことは、間違っていたのではないかと、その後、4時間は、不安にさらされます。

 何がいけなかったかというと、「そちらの坊ちゃんが、東大へ入学している。しかも、両親がCIA集団・・・・特に奥さんが安野智紗夫人に・・・・・協力していることへのご褒美として、前年の秋には、入学許可を、ひそかにもらっていた」と、言うのを書き続けています。が、それを、「違います。うちの子は、まだ、高3です」といわれたからです。

 あっちこっちで、安野夫人のあくどさの証拠として、これを書いているので、莫大な量の、時間をかけてそれを削除しないと、いけません。

 ぞっとする話でした。しかし、夜の10時には、平木夫人が付いている嘘が、いくつか見つかったので、私は、「今は、高3である」というのも一種のウソであると、判断をしています。

 で、心が落ち着きました。

 すみませんが、午前五時になったので、ここで、就眠します。続きは、19日の夜に書きます。

 

%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%

令和3年(2021年)3月吉日 

令和3年度入学生保護者様 

M学苑高等学校 

校長 〇田 〇〇

令和3年度入学式について(ご案内) 

拝啓 早春の候、保護者の皆様におかれましては、ますますご清栄のこととお慶び申し上 げます。そして、お子様のご入学、誠におめでとうございます。私ども教職員にとりまし て新入生を迎えますことは、大きな喜びとするところでございます 

さて、令和3年度入学式を、新型コロナウイルス感染防止対策を講じた上で、次のとおり 挙行いたします。ご出席いただける場合は、新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点か ら、各ご家庭1名の参加でお願いします。なお、市内の発生状況に応じて変更する場合が あります。その際のご連絡は、ホームページで行います。誠に申し訳ありませんが、ご理 解とご協力を宜しくお願い致します。 敬具 

記 

1 日 時 令和3年4月6日(火) 午前10時00分開式 

※受付時に健康チェックシートのご提示をお願いします。 

・新入生は9時00分から9時20分までに自分の教室に入ってください。 ・保護者の方は9時10分から9時40分までに受付を済ませてください。

&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

後注1,

凄まじい肉体への攻撃を2時間受け続け紀平カイル演奏会へ行けなくなった・・・角野栄子特番と、ご近所泥棒の連動を書いて居る最中の6:30AMから

2021-10-16 09:57:12 | 政治

後注2、

瀬木慎一氏が、私に対して訴訟を起こすのですって。馬鹿げた事だが、そこから笹井芳樹氏他殺説が生まれる△

2015-05-27 09:59:13 | 政治

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画廊のオーナー増田きよみさんは、私の禁煙運動批判エッセーを褒めたので大出世をした

2022-01-17 14:58:33 | 政治

 この一文は、24時間ほど、総タイトルを【Mrs平木は社会福祉課所属なのに禁煙プレートを貼る単純な労働を、なぜ担う? + 醍醐イサム、増田きよみ】としておりました。しかし、2022-1-18 22:00の時点で、上のものへと変更しました。

実は、2022年1月17日の午後2時45分ごろ、私は追い詰められ切っていました。ぎょっとする出来事があったからです。テレビニュースでも、復讐され切っています。過去に書いた文章を否定するニュースにあふれています。
 
しかし、その時間に私が、鶴岡八幡宮の文華館前の道で、見たものはリアルな攻撃だったので、ぞっとしたのです。もし、その場所で、平木夫人が語ったことが、正しければ、平木家のご長男が、東大に、入学し、それは、前年の秋から、お知らせがあったと、言う事象が間違っていたこととなり、それで、過去一年分の、自分のブログを訂正しないといけないかと、思って、その重労働に、予測だけで参ってしまって、追い詰められていたのでした。非常に時間がないという切迫した気分だったので、メモの形で、書き始めました。
 
しかし、夜の10時ごろ、横須賀線、衣笠駅を最寄りとする、或る高校の行事を、記す、ホーム頁に入ったところ、令和三年度の入学式が、2021年4月6日に行われたことが記載をされていたので、すっかり落ち着いたのです。
 
で、いつもと同じ様に、根本的な、部分に戻って、政治論文として、体裁を整えながら、行間を埋めていきました。
 
禁煙運動、が、私が書いたエッセーを、つぶすために起こされたこと、および、そのエッセーを褒めてくれた増田清美さんを、敵方は、私の、石垣ではない形にするために、大出世をさせて行ったこと、彼女は、その間、裏から、私への讒言を聞き、すっかり、寝返ってしまって、
 
醍醐いさむが、無礼なことをしたときに、彼を、私より上に立てて、「だって、仕方がないじゃーアン」と、のたまわったのでした。
 
その時に、『ああ、この人は、高卒なのだわ』と、感じました。高卒を馬鹿にして言っているわけではないのですが、それでも、銀座で、画廊を経営するということは、彼女にとっては、それだけ、背伸びをしていて、生きていると、言うことを、示しているのでした。彼女は、生きる事、お金を儲けることに必死なのでした。どうして、そういうことを言えるかというと、銀座で、画廊を経営するということは、女性の仕事としては、最高ランクのものだからです。会社に勤務して事務職についている普通の女性よりは、勝ったという証拠になるのです。それだけにその地位を保持するのは、とても大変でしょう。
 
だから、私は、あきらめました。うらぎられていることをあきらめたのです。
ずっと、心理的に支援し続けてきましたが、ひどい形で、裏切られました。しかし、それが、CIAエージェントのやり口なのです。
 
私は、彼女が、後発の画廊オーナーとして、銀座の貸し画廊オーナー・グループの中で、ひそかに、かつ下手に出て、生きているころ、「色のセンスがいい」ということは、繰り返し、彼女に告げていました。
 
それで、或る意味で、仲良しだったのに、野見山暁次さんが、乗り出してきて、彼女の心を奪っていったのでした。17日ですが、夜の10時ごろには、落ち着いてきて、そういう部分にも触れることができました。ところで、画廊のオーナーの性格やら、人格の問題として、彼女と、比較して、余裕があるなあと、見ている人物は、大勢いるのですが、実名を挙げるのはやめておきます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
という挿入を次の日に入れて、原文に戻ります。そして、後半を、別章に移します。

本日は、メモの形で書きます。

 なお、18日の、午前3時まで、総タイトルを【あたらしい禁煙plate・・・Mrs平木の嘘の数々・・・14日のCIA会議でそういう取り決めになった?】としておりました。が、その時点で、上のモノへと変更しました。それは、今まで、書けている部分を、正当に反映しているタイトルは、今、つけて、いる方だからです。

*1)

2022-1-17 14:40に、私は、家を出た。

 すると、山ノ下の、道路で、新しい禁煙プレートを貼っているのに出くわしてしまった。

(この禁煙プレートがどういう意味を持っているかについては、本日の人々の動きだけを、まずメモリ、後で、詳しく、説明をします)

 貼りに来たのは、鎌倉市環境整備課の男性吏員と、社会福祉課(に勤務していると、彼女自身が言う)、平木夫人だった。だが、私は、その女性が平木夫人だとは、彼女が自分から名乗るまでは、気が付かなかった。マスクをしていたから。その上、彼女は、市長秘書をしていると、ずっと前から、推察していたので、こんな仕事(道路にしゃがみ込む労働)をするとは思わなかったからだ。

 一時期、禁煙区域は、梶田さんよりも南だと、言うことで、しっかりした看板が、鉄の井(くろがねの井戸と読む、説明の、石碑がっている場所)の、右側、駅に向かう方向で、よく見える様に、たっていた。

 たまたま、、ここのプレートは、古すぎて、自然にはがれたままになっていたが、そのままで、新しいのを張らないで、放っておかれたのだった。

 しかし、最近書いているものが、あまりにも真実をついているので、ともかく、そういうものを書かせないがために、と、私が行っていることが、無になる様にするために、私への脅かし行為、兼、復讐行為として、この張り直し行為が、本日の、二時40分ごろから、始まっていたと、考えられる。

 私が銀行の金庫室を使う予定だという事で、その時間帯を狙ったのだと思われる。あまりにも頻繁に泥棒が入り、多くのものが盗まれているので、銀行の、金庫(特に浜銀のそれは、警察によって、色位r、悪さをされているのだが、それは、浜銀の瑕疵だとかけるので浜銀に二つ、みずほ銀行に、一つ、合計三つ借りている。

 そこに行くだろうと、見透かされて、損時間帯を選び、府アリは、そこに、待機していて、安野夫人などが、「今、川崎さんが、我が家のそばを、降りていったわよ」と、合図を送ったら、ピッタリの時間帯に作業をすることという仕組みになっていたのだと、瞬時に分かった。

 安野夫人の合図が来る前に、テープで、貼る予定の場所の、目印をつけて、場所を決めておいたが、接着剤を塗り始めたのは、安野夫人から、「今、川崎さんは、我が家の下を通ったわよ」と、言う電話か、メールの合図で、始めた事だろう。私が通りかかった時、接着剤はまだ濡れていた。濡れに濡れていて、光っていた。

*2)

 私は、女性の方が平木夫人であるとは、夢にも思わなかったので、はっきりと、抗議の意味を込めて、こういった。「このプレートは、梶田さんより南側だけ、有効だと、看板が出ていましたよ」

 このプレートの、裏側を少し(というのは、10%だけ)説明をすると、このプレートは全国いち早くこの場所に貼られていた。むろん、鎌倉市内でも、一番早く張られたものだった。が、あまりに古くなって、ゴムが、傷み、接着剤もはがれて、道路上をあっちこっち、さまよっていた。

 そして、誰かが、捨てたらしくて、小さな接着跡が残るのみだったのだ。そして、そのままで、2年間、放っておかれたのだった。

*3)

 実は、禁煙運動、及び、受動喫煙運動というのは、私のメルマガエッセー【一本の煙草が落ちていて】の出来が良かったので、急に始まったことだった。

 それの出来が良いというのは、自分でもわかっていたが、増田きよみさん(銀座の画廊、K’sgallery のオーナー)が褒めてくれたので、井上ひさしが『これは、大変だ。禁煙運動をもっと大大的に、起こすべきだ』と、CIAエージェントたちが、集う会議で、提案したのだと思う。

 私が、その文章を書いたときは、まだ、受動喫煙運動は起きていなかった。

 そして、増田きよみさんは、それ以降、私との仲を、引っ剥がすために、大出世していく。

https://hattenba.tokyo/2021/08/22/intvw-3-masuda/ を参照していただきたい。彼女の顔写真、他が見られます。

彼女は、色のセンスは、高い人で、私は、その点で高く評価をしていた。それで、2005年ごろまでは、魚心あれば、水心ありの典型で、二人は、仲が良かったのだった。

 しかし、2012年の、12月、醍醐イサムが、K’s galleryの、ロビーで、大変失礼な態度を取ったので、きよみさんを、鉄のどっしりした扉の外の、エレベーターホールに呼び出して、「醍醐イサムの今の態度は、ひどいわ」と私が、言った。

 すると、きよみさんが「だって、仕方がないじゃアーん」いった。

 ここで、鎌倉雪ノ下二丁目から、急に銀座、及び、美術界に入っていく。これが、美術9条の会とか、鈴木紗彩ちゃんが殺されたリヴェンジ・ポルノ問題(=三鷹ストーカー事件)にまで、つながっているので、そうさせていただきたい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

*4)

 醍醐イサムは美術9条の会に入っていたか、または、片岡昌(その背後に、ひょっこりひょうたんじまで、協力をしあった井上ひさしがいる)から、私の讒言を聞き、私を、その2012年の12月から、急に、非人間扱いをしたのだった。これは、無論、政治的なもので、CIAエージェントが絡んでいる。

 ただ、上のアンダーラインを敷いた、セリフを聞いたときに、「あれ、増田きよみさんって、大学を出ていませんね。そして、実家も、富裕ではない」と、思った。K’s 電気という大型家電店がある。そこと関係があるので、親戚からの援助を利用して、画廊を経営しているのかと、最初は、思っていたが、kiyomi's gallery と、言う意味で、K’s 電気とは関係がないのだった。・・・・・鎌倉の画廊、ジアースは、パチンコ店、ジアースと、関係があると思う。多分、5億円ぐらいの金銭的援助をもらっているので、画廊ジアースが、運営できるのだと、私は見ている。

 増田きよみさんには、そういう親戚パトロンはない。しかし、野見山暁次さんが、サポートを受けあってくれたので、個展をする作家の格が上がって、急速に、出世していった。後発なのに、そこにお客さんが集う様子は、一流画廊の、風格が出てきた。しかし、私が、引き続き、彼女を高く評価していると見抜いている、CIAえ-じぇんとたちは、私が、銀座に出向くたびに、そこにわなを仕掛けるので、

 やがて、私の好意も、泉が枯れきって来ており、これからは、増田きよみさんについても、あれこれの真実を書いて行くこととなるだろう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

*5)

 私は、醍醐イサムとは、2012年をさかのぼること、8年ぐらい前に、上野の都美館の、自由美術展の時、展示室内の、ソファと、テーブルをはさんで、真剣な美術談義を繰り広げていた。で、お互いに、知的レベルが高いと、尊敬しあっていたのに、その7,8年後に、態度が激変していることが納得ができなかった。

 今では、そこからまた、10年は過ぎているので、井上ひさしと、伊藤玄二郎が、つてを、使って、私を、殺そうとしている、作業の一環として、醍醐イサムを使って、失礼な態度を取らせ始めたというのが、わかっているのだけれど、2012年は、まだ、そこまでの、悟りには、至っておらず、

 この謎を解くためには、醍醐イサムを、研究しないといけないと感じ始めた。で、ともかく、彼の作品を記録して置いて、そののち、ゆっくり考察しようと思った。というのも、彼は、抽象絵画系の作家だが、明らかに手抜きをした作品群で、お客を小ばかにした小品を作り、それを、10万円前後で、売るのだった。紙に描いたなぐりがきに近いものを、高い値段で、売っているので、人格的に言うと、そうとうに怪しい人間であることが確かだった。ウィキペディア等でも、自分の学生時代とか、育ちは、一切公開しておらず、生まれた場所も、年代も、公開していない。醍醐イサムという名前そのものもペンネームだと、思う。今の画像を見ると、相当に、おじいちゃんっぽくなってしまっているが、

 2012年ごろまでは、まだ若くていわゆるショパン系の美形として、自分を公開し、女性たちを煙に巻いてカモにしている作家だった。

 と、私が文章を書いているので、今、ググった結果出てくる作品は、いろいろな色を使った、相当手の込んだ作品だ。それらが、画面に、浮かぶ様に、工夫をしている。が、2012年までは、無彩色の作品で、手抜き作品をも、数多く展示し、30代から、60代の富裕な女性たちに、生活を支えてもらっていたのだった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

*6)

 私は、2012年には、すでに、スマホ、i-phone 4か、6を使って、自分の猫の写真を撮っていたが、スマホを持ち歩くと、そのGPS機能を利用されて、非常に嫌な目に出会うので、

 醍醐イサムの作品群は、ヴィデオカメラで、撮ることにした。だが、敵もさるものひっかくもので、K’sgalleryに、醍醐イサムを、待機させていたのだった。普通、醍醐イサムくらいのレベルの作家は、月曜日しか来ない。その日は、水曜日だったので、それを知らない私が、展示室(これは、一回前の画廊。きよみさんは、今まで、二回転居している)で、醍醐イサムの作品を撮影し始めると、突然、彼が、壁で、隠されているロビーから現れて、私の作業を中止させようとした。それで作品だけを撮るつもりだったのに、醍醐イサムという人間も撮ることになってしまった。おびえていて、卑怯さを丸出しにした、一人の、・まやかし・もの・の真実の姿を。

 しかし、忙しかったのと、動画編集技術を知らなかったので、放っておいた間に、2013年6月がやってきて、金沢と、大阪、倉敷の三都市を巡る旅に出た。その間に、大阪城北詰口駅の、切符売り場に、一瞬置き忘れたのだが、尾行者に、ビデオカメラが盗まれてしまった。

 それで、醍醐イサムという人間が、どれほどに、小心者であるか、そして、卑怯な二面性を持っているという事を世間に、公開できないのだが、それも、また、いい事なのだろう。自分の身を結果として、守ることとなるのだろうと、考えている。フィフティ、フィフティの原則を考えると、私が、自分の目で、彼の真実の姿を見たことが重要だ。そして、それを神様への捧げものとして、ここに文章として、記録しておく。それ以上は、いわゆる過剰に当たるのだと、考えている。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

*7)

 なお、一ノ瀬智恵子さん、(鈴木紗綾ちゃん)、渡辺豊重さんの、三者の間に、見られるものも、上と、相似形なのだが、ここでは、その詳細は、語らない。昔語っているから。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

*8)

 その様に、銀座で、辱めを受けている私が、文章力があって、ありと、あらゆることを正しく、表現する力があるので、悪人たちは困り切っている。それで、私の文章【一本の煙草が落ちていて】から、受動喫煙防止条例を、当時の県知事、松沢茂文氏に作らせ、日本で一番最初の、『ここは禁煙場所です』というゴムプレートを、私が、鎌倉街道から、自宅へと、入る道に貼らせた。ところが、それが、あまりにも昔の事だったので、二年前ぐらいには、擦り切れて、接着剤も、効果を失い、道路上をふらふらと、さ迷い歩いていたのだが、とうとう、誰かが、それを捨てた。

 そして、鉄の井(くろがねの井戸と読む)を最北端として、小町通りを、駅から、北端までを、禁煙区域と新たに定めた。だから、我が家(実動15軒の、小さな町内会)への進入路、入り口にあった、禁煙を示すゴムプレートは、二年強、そこからきえていたのだった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

*9)

 しかし、私が最近、書くものがあまりにも、真実なので、これ以上書き続けられると、自分たちの社会的名誉が壊滅してしまうと、考えている伊藤玄二郎達、CIAエージェントたちは、やまゆり園事件を起こして、措置入院という語彙を、日本全国に広め、その手法で、私を精神病院に入れて、廃人にしようとしたり、

 NTTドコモとの、インターネット(Wi-Fi)契約を<JCOM>に、乗り換える様に、勧めて、その結果、ブログが、自然消滅する様に、計らったり、いろいろ、わなを、準備したのだが、すべてから、するっと、上手に逃げだして、自分を防衛しぬく、私に、業を煮やして、一大復讐作戦に出てきたのが、2021-1-13日からだった。その日は、10個以上の復讐行為があったのだが、もっとも、すさまじいのは、谷本守雄が、放火犯だと、言うアイテムだった。

 17日に入ると、南アルプス激突バス旅行の裁判が、行われた。私が、過去に皆様に伝えたいと、思っていたコンセプトとは、反対の方向で、審理が進んでいるらしい。それから、かわいそうな、4歳の虐待死女児、こころちゃんの両親の裁判が始まったそうで、これも、私が嫌がるニュースなので、復讐の、一つだと考える。

 で、遠くで、起きていることをNHKニュースとして、伝えてくると、言う脅かしの上に、新しい禁煙プレートを貼るというのは、これも、一つの重要な復讐だった。だから、目くじらを立てないといけない。

これ以降は、次の章へ回します。

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八幡宮内近代美術館は誰のせいで消滅したか? 文華館に変更したのは損失だった、と私は思うが?

2022-01-16 22:25:27 | 政治

 この章は、最初の総タイトルを、【角野英子さんのいちご色の壁の家に、ご主人は住んだのであろうか? 否だろうと思う私である】としておりました。だが、17日の午前三時に上のものへと変更しました。

副題1、『鶴岡八幡宮境内には、吉田茂穂宮司様になってから、いくつもの変革が起きている。すべて、わたくしいじめのものである。ブログに書いている部分を消し去ろうとする、動きである』

  2022年1月16日は夜10時には、大川小学校裁判について述べるつもりでした。しかし、新しい文章を書く前に、前報内で、お約束していた海老蔵の、源氏物語についての批判を書いている初期のブログのリンク先を探さないといけないと、考えていて、その仕事にとりかかっているのに、見つかりません。芝居を見た直後には、文章を書かなかったのだと、思います。だから、本日は、それを探し出すことが無理になりました。すみません。約束を破って。

 しかし、探しているうちに思いがけない写真が見つかりました。これは、1970年代の私と子供たちで、主人が撮影したものです。場所は、今の鶴岡八幡宮・文華館・喫茶室になっているあたりで、喫茶室内に、倒壊した大イチョウの、幹の一部が、置いてあるあたりです。今から、40年前の写真です。

 後ろに見える四角い建造物は、旧神奈川県立美術館の収蔵庫です。今はそれがどうなっているか、高い塀に囲まれているので、わかりません。と、2018年には書いているのですが、上で言っている通り、この場所は大変革を遂げています。ただ、それも、この場所について、何本ものブログを私が書いているので、その文章に出て来る場所をなくしていこうとする、動きの一環です。

 吉田茂穂宮司様は京都の吉田家(神道の、有名なお家)のでだろうと思います。それは、前報で述べた松王丸が出てくる、菅原伝授手習鑑に出てくる神社でもあります。そして、最近、・・・・・その言質を取ったので、これで、20年間はブログを書き続けられる・・・・・と、言っている龍村さん(上級神官)は、京都、の、帯の制作で、有名な【龍村】の出だと、思います。だから、お二人は、肝胆相照らす間柄で、いずれ、龍村さんが、こちらの、宮司職を務めるのだと、思っています。間に、数人は入るでしょうが、いずれ龍村さんが、鶴岡八幡宮のトップになるでしょう。

 その龍村さんは、こっち側なんだよと、伊藤玄二郎たち、CIAエージェントは、言いたかったらしくて、宮沢エマに、龍村製作らしいと、想像できる立派な帯をあつらえて、それを着て、彼女は、お正月冒頭の、知恵泉に出てきました。

 鶴岡八幡宮様からは、夜七時から始まる音楽会に、ことよせて、朝の九時から、異様な音量で、マイクの試験中という放送が繰り返されること、および、一日中、不規則な時間帯に、異様な長さで、大太鼓が連打されることを含めて、合計、200回ぐらいいじめられてきています。それは、吉田茂穂宮司の裁量で行われているのだと、ずっと、判断をしていました。ところが、

 2020年4月27日に、社務所に、「工務所・所長・藤間さんとお話をしたい」とお願いをしたら、突然に、龍村さんが、藤間さんと一緒に現れて、龍村さんが、主に、あれこれを、しゃべったのですが、なんと、私より安野智紗夫人を上に置いたのでした。

 安野智紗夫人というのは、私が嫌っているので、敵の敵は、味方だという戦略の上から、CIAに、押しに押されている、存在です。で、日本では、CIAの実動部隊は、警察なので、警察にも押しに押されている存在です。

 しかし、ものすごく深いレベルで、悪女様です。で、彼女が、行っていることを正しく書くたびに、謀略的殺人事件が起きます。そして、遠くに住んでいる無辜の人が殺されます。大坂の、西澤弘太郎先生が、院長を務めていた、雑居ビル内の、心療内科が、放火されたのも、その次の日に札幌のホテルから、神田沙也加ちゃんが突き落とされて、自殺らしいと、言われているのも、すべて、安野智紗夫人を助けるための、謀略行為です。

 ただし、私が言っていることが、NHKニュースとか朝日新聞に、肯定される日は、将来にわたって、来ないでしょう。でも、それでも、いいから、主張を続けます。

 龍村さんは、私が、その日、内心で、言質を取ったと、考えて何も言わずに踵を返したので、誤解をなさったでしょうね。自分たちが勝ったと。そして、そういう風に伊藤玄二郎か、または、鎌倉警察署の生活安全課の課長か、警察署所長に、ご報告をなさったのでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『ところで、吉田宮司が、まだ、正式に宮司になっておられない段階で、実行なさったであろうことが、神奈川近代美術館への土地の貸借契約の破棄で、それで、旧本館が、2016年に消えてしまい、2018年に、文華館という施設に変化してしまったことだった。そして、神奈川県立近代美術館は、独立法人化したらしい。そして、旧・宮家(秩父の宮家?)の別荘を、買い取って、葉山の、近代美術館として、開業した。これは酒井忠康氏も絡んでいることだったと、推察している』

 私は、北久里浜に、住んでいました。結構いい家を建てて、60坪の日当たりのいい庭もあり、駐車場もある家でした。しかし、自宅から、50mの位置に、横須賀市の水道山があり、それが、知恵の仕組みを利用して、ある個人の私有物へと、手わたってしまったのです。それは、籠池氏に、払い下げになった有名な事件よりはるかに悪辣です。だって誰も、知らないうちに、360度眺望が聞く、丘の上の一等地(駅へもエレベーターができているので公称五分だと、宣伝をされてるだろう土地)を、益山重夫・智恵子夫妻、智恵子さんの実弟、仲野通巳吉、益山重夫の、親友、瀬島隆三、当時の、横須賀市土木課長、杉本俊一氏、京急側の誰か、などが、関与して私有化してしまった、実質的には大詐欺事件です。

 しかも、それを、準備中に、連中は、神戸の水道山で、土師淳君の、首から下の遺体を捨てました。人々が怖がって、水道山に近づかない仕組みを作り上げるためでした。それは、横須賀市の水道山を、勝手に開墾して、「自分の果樹園です。その面積が間違っていますので、変更してください」と益山夫妻が、名乗り出る、ことを遂行させるためだったのです。その時に犯人と擬せられたのが、酒鬼薔薇聖斗という名前で、声明文を発表した中学生でした。この男の子は、のちに少年Aと名前を変えて、【絶歌】という書物を出版します。その絶歌は、たぶんですが、ゴーストライターとしての井上ひさしが、原文を書いた?か、少年Aに、書き方を指導したと、私は、推察しています。

 少年A=酒鬼薔薇聖斗が、こういう謀略的殺人事件の犯人を納得して引き受けた最初の人間ですが、latestの谷本守雄に至るまで、

 どういう風にリクルートをされていくかについては、ご近所の画家、大原光孝さんを見ていると、しみじみと理解ができるのでした。

 彼と、私は、1995年までは、仲良しだったのです。普通のご近所づきあい、プラス美術への関心の高さと理解力の高さという意味で、道路上で、そういう上品話題で、立ち話をしていたものです。しかし、私が紙でできた本を工業的に印刷し、製本をも、ちゃんとしてもらう様になると、突然に激変します。その陰に、柄沢斉、中島千波、酒井忠康などの有名人のサポートと持ち上げがある模様なので、態度も性格も激変してしまいました。そして、我が家の合いかぎも持っていると、推察しています。我が家内に、侵入して、『これは!』と思う絵を盗んでいく人物です。そこまでできるのは陰で、名誉とお金と洗脳があるからです。(後注1)へ

 というわけで、保美死刑囚、カラーギャング、山田浩二、小林遼、51歳の引きこもりの人間、植松聖、新幹線焼身自殺男、青葉真司、谷本守雄などは、犯人像を引き受ける様に、洗脳をされていった人間たちなのです。

 彼ら、CIAエージェントたちは、心理学も駆使します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『建物が、21軒しかなくて、夜は、ここで、寝て、昼間、道を歩いている、家は、現在では、15軒しかない、この雪の下二丁目の山に導入することを瀬島隆三は、思い付き、実行をした。それで、たこつぼ状態の中で、中谷共二氏にいじめ役を命じ、女性陣の弾圧役としては、ボス的気質の安野夫人を、使役したのだった』

 上の二重ガッコ内に書いた通りです。私はありとあらゆる意味で、自分がまきこまれたがゆえに、北久里浜の水道山の、地籍変更届という、実質的には、詐欺寺家電であるものを、調べて、書類等を法務局で、印紙を払って手に入れています。しかし、旅行中ほかで、盗まれています。これは、瀬島隆三が雇ったプロ化、警察が盗んでいるでしょう。しかし、彼らの悪事とは、本物中の本物なので、それが、世に出てくるのを阻止するためには、殺すしかないと、1980年代から、彼らは、計画を持っていたのでした。

上野地図は、鎌倉市が、公開していたもので、しかも嘘が含まれています。阪中英雄(または、夫)という吏員が、嘘を書き込んだと、見ています。もちろん、その嘘は、伊藤玄二郎か、井上ひさし発で、松尾崇市長が肯定して、市長が、部下の、阪中に命令したものです。

 右下に、7という赤い小さな字があるのが我が家です。その地境から右側(=東側)、まるに3と書いてある地所は、八幡宮様の持ち物で、個人用自動車向けの、駐車場の西側の山となります。

 ここに引っ越してきて以来、さっそく、中谷さんに、赤い小さな7という文字が見える部分の山を、崩壊させられてしまいました。その続きを担ったのが、龍村さんなのです。すごいです。7本もの大木を、志一稲荷の、南側で、伐採されたのですよ。ものすごい攻撃です。恐ろしいことをなさる、八幡宮様です。何を考えておられるのだろうと、思いますが、CIAエージェントの言うなりに動いておられて、しかも自分たちは悪くないと、思っておられるのでしょう。

しかし、私の方は、2017年の7月10日に妹が他殺(それは、山口みつ子さん、オリックスの若手投手、神田沙也加ちゃんと、全く同じ手法で、殺されたらしいのですが、自殺と喧伝をされています。他殺なのに、自殺と喧伝をされていることが,この4つの事件の相似性です。彼らは、バカみたいなところがあって、私が何を書いても、同じことを繰り返します。一般の人が、私の方が間違っていると、考えるだろうと、安寧に考えているのでしょう。

 ところで、文華館の壁は旧近代美術館時代は、大谷石で、できていました。実家の崖も、それで、できていました。それをブログで書いたら、「それだと、改築とか、新築ができない」と、言う横浜市条例が、急にできて、それを嫌がった弟が、実家を売ってしまいました。それはむろんの事、私には痛い事でした。

 しかし、弟が売ったとたんに、買った業者は、自由に三軒の家を建てています。一戸、7800万円で売ったらしいです。ふどうさん会社への謝礼や税金を込めると、一戸が、8000万円のおうちです。横浜市の条例なんて、ご都合主義で、どうにでもなるらしいです。国の法律もそうです。焚火をしてはいけないなどという法律なんて、私を、いじめるためだけにできた法律です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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副題3、『角野英子さんの、おしゃれとは、お金がある人で、他人を支配できる人のおしゃれであり、私のおしゃれとは、サラリーマンの妻としての、倹約を実行をしたものだった。私は、自分で、お洋服を縫うのだった』

 私は、時間があったら、スーツ程度は縫えます。上の写真ですが、コートはフランス製のスエードです。しかし、中に着ているスーツは、私が、縫っています。ところが最近、ミシンがだめにされました。ラジカセも壊され、ミシンも壊されています。IT的要素が含まれているものは、すべて外部操作で、壊されます。

 でね、相当に悲惨な運命の人なのだけれど、神様のご援助を発見したといっていますね。

 角野英子さんが、最近、したたかといってよいほどに、敵さんの意向をテレビ番組の中で、示しているのですが、角野英子さんにも災禍が下っていると、私は考えているのです。ここでいう災禍とは、2018年度内に、ご主人が無くなっているだろうと、言うことですl。もし彼女が善人なら、そんなことは、やってはいけないのですよと、言うことを数多くやっている人だからです。

 角野さんが、テレビで、何度も紹介をした、いちご色の壁の家ですが、塗料は、ご主人がデザインされた、生地の染料と同じで、塗料の配合比率は、ご主人が、考え出したものでしょう。

 普通のひとだったら、・・・・・・あの、有名人ぶりに比較すると、小さな家だけれど、ご主人は、二階に個室があるのでしょうね・・・・・・と、考えるでしょう。でもね、美術関係の人が、あの家に住んだら、気が狂うと思います。でね、前々報(後注2)でも、ちらっと言っていますが、あの家には、ご主人は住んだことがないだろうと。

 ご主人は、岩波書店勤務のデザイナーだということは、公開をされています。だから、あの家には住めません。

 角野英子さんは、1935年生まれなので、たとえ恋愛結婚だとしても、夫の方が年上である可能性が高いです。時代の風潮として、そうなのです。すると、ご主人が今健在なら、90歳近いと成ります。85歳を過ぎると、病気がない人でも、介護が必要になり、老人ホームに入るケースも出てきます。でも、もし、ガンとか、パーキンソン氏病とか、認知症を患うと、もっと、早期に老人ホームに入る必要が出てきます。

 で、鎌倉高校前駅最寄りの老人ホームにご主人が入っていて、そこへのお見舞いに便利だから、あの家を、二番目の家として、建てたのでしょう。で、鎌倉の温暖さは気に入って、東京(文京区あたりでは、ないかかなあ。昔は、都電か、都バス、今は南北線で、岩波書店に通勤できますから)の家には帰らないという結論になったのではないですか?

 うーん、三時になってしまった。未完だけど、ここで、中断をします。

後注1,

カラフルな魔女 21-10-11版と、ご近所人間二人が合い鍵を持ち我が家へ侵入している事の連動性、現在推敲加筆中

2021-10-13 14:19:25 | 政治

後注2,

樋口恵子さんは二階堂で罠を仕掛けてきた。その結果、私は彼女に警察に売り飛ばされた。茶大附高の先輩なのに!?!

2022-01-13 21:48:38 | 政治

@@@@@ここが書きかけ中の最先端です。以下はメモです。

 鶴岡八幡宮境内では、もう一つ大変革があります。それは、露天商組合の、水道の蛇口です。今から、70年ぐらいに設置されたもので、素朴なコンクリートでできているものだったのですが、

 ここから先、鶴岡八幡宮様が、実際に行った、攻撃事項を上げていきたいのですが、時間がかかりすぎるので、それは、飛ばします。

 また、旧近代美術館本館は、大谷石で、壁面ができていました。それを、ブログで書いたら、日吉の実家が、大谷石の崖を作っているので、

 

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海老蔵stnding ovation=99% & curtain call 10回(時間にして20分)で、私は脱帽です

2022-01-16 00:42:12 | 政治

副題1、『本日の私は、新橋演舞場で、海老蔵の、プぺルを、見てきました』

 ご報告をさせていただくと、大変な熱狂でした。歌舞伎で、カーテンコール10回、時間にして、20分間は、初めての経験です。スタンディングオベーションも、カーテンコール、6回目ごろから始まって、8回目からは、劇場で、一階では、99%が総立ちとなり(2階と3階の下手では、まだ座っている人が見えたが、一階は、ほぼ、100%が立っていて)、前から15列目の18番というほぼ、真ん中の、私の席では、座っている方が、目立ちすぎで、ただ、一人で孤立化するという感じになります。

 そして、それでは、まるで、私が悪意を示している様になりますから、私も立ち上がりました。でもね。いやいや、立ったわけではありません。海老蔵の、父性愛には、強く打たれましたから、ほかの人と同じぐらいの、『いいものを見せてもらった』という、感謝の気持ちは持ちました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『海老蔵の、父性愛に、歌舞伎の舞台上で、接するのは、四回目だが、堀越勸玄 君の【外郎売】には、涙が止まらなかった(後注1)。今回は、それほど、泣かされたわけではないが・・・・・それでも、総合的に感銘が深いものだった。芝居全体に、父性愛が、満ちていて、それに感動する観客の愛情をも感じて、それは、相当に感じの良い出来事だった。市川牡丹を、二年前だったか、踊りで、重要な役と時間を与えた時は、あざとさというか、父性愛が、わがままに感じられるところがあったが、今回は、すなおに、共感できる、父性愛だった』

 私が、海老蔵の父性愛に接したのは、宙乗りに、白狐役の息子 堀越勸玄 を抱いて、挑んだ時からです。2017年7月のその時には、海老蔵の、父性愛は、感じましたが、涙するほどの、ものではなかったです。

 しかし、次に、(2019年7月だったか?)堀越かんげん君を【外郎売】の、貴甘坊役で出演させ、二人で、共演したときには、涙が止まりませんでした。お母さんが亡くなった後、まだ、余韻が残っていたのか、または、お子さん自身に、その魂が、乗り移って、背後から助けていたのではないかと思うほどの熱演でした。

 当時6歳だそうですが、けなげなこと、けなげなこと。でもね。お父さんとしては、相当に気を使ったと思いますので、二日間、休演しています。倒れたのでしょう。若いけれど、疲労困憊だったのだと思います。

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 ええと、また、午前三時になってしまいました。それで、以下はメモとして書きます。

*1)

 しかし、その次に新橋演舞場で、麗華ちゃんに、牡丹の精の役を与えて、主役として、15分ぐらい時間を与えた時は、相当に批判を浴びていました。

 これですが、その時に、主に語られていた、

「女性なのに、歌舞伎の舞台に出すとは?」という言葉は、建前というか、カモフラージュであって、名門の子供として、生まれただけで、圧倒的な優遇を受けることへの反発だったと、思われます。で、その月のカンパニーの、盛り上がりも、今回よりは、低かったです。今月は全体が、見事にまとまっていました。

*2)

 児太郎が、ちょっと、手を抜いていましたね。それは、仕方がないです。今回は、色事がない。恋愛がないので、児太郎としては見せ場がない。だけど、声が、男性のトーンになっていたのは、気が緩んでいた証拠でしょう。でもね。これだけのカーテンコールとスタンディングオベーションを浴びる機会は、歌舞伎座では、絶対に無いのだから、協力してあげてください。表情やしぐさは、十分ですが、声だけが、男の声になっていましたよ。

 若い女性で、いっぱいの演舞場でも、私の様なシヴィアな、おばあさん観客もいるので、手を抜かないで、くださいね。大人の女性、しかも、若い女性の役は、彼女(❓)だけなのだから、手を抜かないで、ください。声のトーンが低いのが、あまりも、気になったので。

*3)

 海老蔵が、最近、歌舞伎座で、何回も、取り組んでいる、早変わりは、今回も、ありました。ただ、それも、二つの役柄の間だけだったし、そのシンプルさは、かえって、舞台への、観客の集中度を高めました。宙乗りがなかったのも、良かったです。いわゆる・けれん・が、あまりないことも、良かったです。プログラムを見ると、悪役(田沼意次)にも、白いきれいな衣装を着せることを提案したとあります。なるほど、それは、良い提案でしたね。まあ、一方が襤褸の衣装だから、もう一方はきれいで、豪華な衣装で出たほうが、観客は満足します。スターですから。

 ただ、ぼろも、今は芸術品としてバカ高いのですよ。

 ともかく、演劇として、完成度が、高かったです。筋は、シンプルでしたけれど。

*4)

 しかし、シンプルといっても、現代のアラサー、アラフォーの女性には、これは、わかりやすい、いい芝居だと、言えるのではないでしょうか? 例えば、江戸時代に、脚本が生まれた、菅原伝授手習鑑という芝居があります。これは、義経千本桜とか、仮名手本忠臣蔵と、並ぶ三大名作と言えるもので、どれにも、忠義ということが、重要なコンセプトとなっています。

 その菅原伝授手習鑑は、全13シーンがある大作ですが、最後の方に出てくる、【寺子屋】という段(シーン)がもっとも有名です。そこでの主役、松王丸は、最近では、吉右衛門(人間国宝、2021年に亡くなった)の、持ち芸だったらしいのですが、2016年五月には、海老蔵が松王丸を演じました。その時は、団菊祭と言って、普段は組み合わない役者が組んだ見事な舞台だったと思います。ふた組の、夫婦が悲嘆にくれる芝居ですが、松王丸の妻が、菊之助で、寺子屋の主人が松緑で、その妻が梅枝でした。吉右衛門が組む際の役者とは、三世代若い人たちのカンパニーだったけれど、若くて、きれいで、演技が上手な四人組だったので、大変見ごたえがありました。

 これは、菅原道真の、九州遠流を題材にとった芝居で、松王丸は、道真の敵、藤原時平の家来です。で、主人から道真の子供の、首を持って帰れと、命令をされています。道真の子供は、田舎で、塾(=寺子屋)を経営する源蔵と、戸浪夫婦にひそかにかくまわれています。源蔵と戸浪は、今でいう社内恋愛を起こして結婚をしたのでした。しかし、江戸時代には、そういう自由恋愛は許されておらず、不義の罪という点で、京都での、サラリーマン稼業を、辞めさせられて、失業し、地方で、塾を開いているという設定です。コンセプトとしてですが、江戸時代は、そうだったのです。舞台上の時代設定は、平安時代ですが、道徳観念としては、江戸時代に通用していたものが、使われています。

 いかにもわかりやすいですね。大手企業の丸の内のサラリーマンだった、男が、収入の道を断たれたので、夫婦そろって田舎暮らしを始め、知的人間が開く個人事業主として、塾を開きましたという設定です。で、生徒は、田舎の子で、顔が悪い子ばかりです。その中で、道真の子供は、ひときわ品がいいという設定です。

 そこへ菊之助(女形で、最初は秘められているが、実際には松王丸の妻、美女だから、子供も顔がいい)が、幼い男の子を連れてきて、「この子をお宅で、生徒として、教えていただきたい」と、言って置いて帰っていきます。すごく品がいい子供です。それで、源蔵は、苦しみながら、その子を身代わりとして、殺して、首を、桶に入れて、敵方の死者としてやってきた松王丸に見せます。その時の松緑(=源蔵)のセリフが「せまじき物は宮仕え」と、言って、特に有名なセリフです。海老蔵(松王丸)は、自分の子供の首を見るわけですが、絶対に動揺せずに、「これは、道真の子供である」と、うなづくのです。どうしてそうしないといけないのかは、時平の家来である別の侍が傍にいるからでした。

 ここから先の詳しい流れは、wikipedia 菅秀才、もしくは、菅原伝授手習鑑をご覧いただきたいと思います。

 ともかく、大変な悲劇ですが、これが、2022年1月15日、新橋演舞場で、総立ちをしていた、若い女性たちに、共感をされるかというと、そうも言えないと思います。だから、海老蔵は、これから、歌舞伎を見る人たちのために、ぷぺるという、一つの鉱脈を掘り当てたといえるでしょう。大きな成功でした。

*5)

 海老蔵には、源氏物語(2018年7月版)では、激しく、裏切られました。あれは、完成度低すぎでしょう。政治的に利用をされていますしね。

 あの時、プログラムに名前が載っていなかったオペラ歌手って、鶴岡八幡宮の、【ジャパン・オルフェオ】に出てきた歌手と同じ人でしょう? プログラムには、曲の題名も載っていなかったのですが、それは、ジャパンオルフェオと、同じ曲を使ったので、それがばれるとまずかったからでしょう。それに・能・をミックスしたのも、完成度を低くしていました。なんの感銘も与えられない舞台でした。

 あの舞台には、鎌倉エージェント(=CIAエージェントたち、特にいまだ生きている井上ひさしと、伊藤玄二郎)の影響力を感じて、非常に嫌な思いを受けました。が、今回は、そういう雑音が入っていなくて、ほっとしました。(後注2)

*6)

 気がかりなのは、かんげん君の、体が小さい事。

 海老蔵は、お子様が、成人して、恋愛を始めるぐらいまでは、このままで、再婚しない方がいいです。海老蔵が、セックスの快楽を、誰かを相手に、求めたとしても、周囲は、(一般人を含めて)気が付かないふりをした方がいい。

 しかし、家庭に、主婦の目がないと、安定した、食事(特に栄養バランスの良いもの)、清潔な室内、清潔な衣服などの、管理ができません。で、かんげん君の、体が細いことが、気にかかりました。それと、まだ、背が伸びていないことも。お父さんが背が高いのだから、もうそろそろ、背が伸び始めても、いいでしょう。背が高いことは、立ち役としては、宝物だから、かんげん君も、栄養をバランスよく、きちんと取って、成長しないといけません。

 ネットで、海老蔵が批判をされていましたが、それは、お子様を学校に通わせていないことだったと思います。芝居で、主役を張っている今月などは、学校側は休むこと、または、早退する事へ、おお目に見てくれていると思います。ただ、友達関係が問題です。人間って、老人から、子供を含めて、嫉妬心があるので、それのターゲットになると、大変だからです。留守の間に、あいつをいじめてやれっというような流れができたら大変だからです。

 そういうときに支える存在としての、心理的に安定した女性の存在を含めて、家庭に、大黒柱があるかどうか? これは、なかなか、大変な問題です。お正月元旦に、弥十郎が、出てきました。そして、奥さんが、とても出来が良い人であることを語っていました。

 海老蔵の亡くなった奥様は、短期間でしたが、素晴らしい細君だったと思います。で、それに代わる安全パイとしての海老蔵の、実母さん、または、亡妻の母君との関係は、どうなっているのかしら。

 私は、・・・・・絶対に身元が確かで、しかも年齢が、50代を超えている専業主婦(しかも、裕福だが、働き者である。子育てを経験しているが、自分の子供は、今は、巣立っていて、今は、もう、家にいない)・・・・・を二人ぐらい選んで、一日おきに、5時間ぐらい主婦役として、来てもらって、援助をしてもらうことを提案します。知人の紹介で、見つけること。ファンはだめですよ。

 海老蔵の、父性愛が、深いことは、わかりました。満場が、それに感動したと思います。ただね、海老蔵の父性愛だけで、お子様が、ちゃんと育つかどうかは、心配です。

 昔だと、大家族制度の下に育ったので、こういうことが自然に、解決できていましたが、今は、核家族なので、心配です。何らかの、良い解決方法が見つかることを祈っています。

 お子様方が、心身ともに、大型の、人間に育つための、目立たない部分、イコール、地味な、地味な、基礎の部分が、心配です。海老蔵+二人のお子様に幸多かれと、祈ってはおりますが・・・・・

 後刻、リンク先を探しておきます。

 2022-1-15~16にかけて、これを書く、   雨宮舜(本名、川崎 千恵子)

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樋口恵子さんは二階堂で罠を仕掛けてきた。その結果、私は彼女に警察に売り飛ばされた。茶大附高の先輩なのに!?!

2022-01-13 21:48:38 | 政治

副題1,『2022-1-13 16:20 ごろ、有楽町線、永田町駅のホームに向かうエスカレーターが、左右両方とも、ホームから見たら、上りという形になっていて、ホームに入りたい、私は、エスカレーターを利用できなかった。これは、私に、たぶん、尾行が付いていて、それが、駅に連絡を入れ嫌がらせをしていると、考えている。のっけから、いやな話で、申し訳ないが、それほどに、私の書くものが真実を穿っていると、言う、証拠でもある。そういう意味で、私は、それらの嫌がらせに屈するどころか、大きくて高いほこりを抱いて、首をまっすぐに上げて歩いている・・・・・というのは、象徴的な意味で言っていて、やまゆり園事件以来、激しい弾圧が続いていて、いつも、体に無理をかけながら、午前五時ごろまで、パソコンに向かっているので、猫背がひどくなっていて、首はまっすぐに前を向かない様に、今は、なっている(苦笑)残念だが、老化が急速に進んでいると、自分でも認めている。

 私がパソコンを使って、しかも、ネットを使って、文章を外部へ発表をする様になって、22年が経ちました。最初期には、実名表記などしていませんでした。どこに分類できるかというと、芸術とか、心理学という、いわゆる人文科学系の文章を書いていたのです。エッセーとしてです。

 その時点から、既に弾圧は始まっていたのですが、それらのエッセーをまとめて、紙の本(ただし、工業的に印刷姿勢本をしたもの、)を自分で、作って配本をする様になると、その弾圧はすさまじいものとなって自分も命を狙われるけれど、自分の支援者となりうる人が、殺される様になりました。しかも他殺なのに、自殺だなどといわれるし、

 遠くに住む、まったく無縁の人、(大阪駅そばの雑居ビルで、人気の高い心療内科を、開いていた医師と、そこの患者さんなど、無辜の人が大勢、殺される様になりました。

 しかし、もし、ここで、方向転換をして、昔に戻ると、さらに、敵さんの悪業が増すでしょう。だから、差し当たっては方向転換ができません。本日、国立劇場(三宅坂)へ行きました。が、その往復に当たって、10個以上の嫌がらせを受けました。

 一番明瞭な嫌がらせ行為は、永田町駅で、みやけ坂方面から、地下通路へ入り、有楽町線に、乗ろうとするときに、(25段ぐらいの階段があるのですが、その両側にある、)

 エスカレーターが、両方とも上りになっていたことです。私は、外から、地下鉄に入るわけですが、永田町は、旧国会議事堂前駅(丸の内線)部分を除けば、とても深い場所を通っています。で、膝が悪い私は、階段を使いたくないのです。で、エレベーターとか、エスカレーターを使うわけですが、

 私がどれほどに、いじめられているかというと、横須賀線の東京駅と、新橋駅では、鎌倉へ向かうホームでは、最後の段階で、下りエスカレーターが無いのです。

 横須賀線の新橋駅の場合、急に総武線と合体する様になったので、地下深く駅がもぐりました。東京駅も同じですが、東京駅の場合は、見事に明瞭に一本も下りエスカレーターが、最後の一階分は、無いのです。東京駅で、折り返す電車があるので、四路線用、レールがあって、島が二つあるので、それが、見事に明瞭に表れて居ます。千葉方向へ向かうホームに降りる、エスカレーターは、あるのに、かまくら方向に向かうエスカレーターは、最後の段階(分)になると無いのです。

 まさか、まさかですが、私が使っているとき以外は、一本ぐらい、下りになるのでしょうか?

 しかし、新橋駅には、しまが一つしかなくて、レールも、千葉方向へ、一本、かまくら方向に一本しかありません。だから、私狙いを通すと、千葉方面に向かう、有名人から、文句が出る可能性がありますね。市川には、東山魁夷さんが、住んでいたでしょう。鎌倉住まいの、平山郁夫さんは、電車を利用する人でした。当然、東山魁夷さんも、その年齢から考えて、電車を利用する人でしょう。そういうご老人に、新橋駅には、一本も、(最後の段階になると)、下りエスカレーターがない、・・・・・という事になると、サービスを基本とする、JR東日本という会社は変だと、言うことになりませんか?

 なりますよね。したがって、新橋駅には、先頭(南側)に、一本だけ、下りエスカレーターがあります。

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副題2、『高校の先輩、樋口恵子さん(都知事候補)さえも、私をいじめるための道具として、使われるのだった』

 本日、【歴史探偵】というNHKの番組内で、鎌倉の山の中の人口が五万人だという事を、初めて、知りました。山の外も入れると、17万人ですが。

 で、その五万人に占める老人の割合が全国一だそうです。都市部においてでしょう。山間の限界集落では、80%が老人だと、言うところが多いので、都市としては、老人の比率がとても高くて、全国一だそうです。樋口恵子さんとは、都知事候補にもなった方ですが、覚園寺に講演にいらしたときにそう、言っていました。彼女は、私にしてみると、高校の先輩です。だから、親切な手書き文字の入った招待状をいただいたので、勇んで、覚園寺に向かいました。ただし、手書きの、お添え書きのあった、親切な招待状は、ひっかけだったのでした。

 帰りに狭い道を通って帰ったのですが、後ろから、音もなく、追いかけてくる、警察の、灰色の、機動隊用バス(ただし、超小型)に付け狙われました。たまたま、カラタチの垣根があって、カラタチのとげが、機動隊用バスに当たって、ぱちぱちと跳ねる音が、聞こえたので、なんだろうと、思って後ろを振り返ると、幅2mの、道を、エンジン音を立てない小型バスが、私の歩く速度と同じ速度で、追いかけてくるのでした。あれって、後ろから、人間が押していたのでしょうかねえ。エンジン音を出さないで、車が、200mぐらい進むことができますか?

 この道は、清泉小学校の南側の塀に沿っている細い道で、グーグルの地図を開いて、拡大をなさると、出てきます。朝比奈峠に向かうバス道路の、北側にそれに沿って、昔の道が残っているのです。

 このカラタチは最近無くなっています。

まあ、いいでしょう。都知事候補になる様な人が、CIAエージェントと、仲良しであるのは、自明のことです。例えば、警視総監とは、仲良しでしょう。私は、三原橋交差点際で、交通事故に出会った時以来、それから、それ以外でも、築地警察署には、いじめられ切っていますから。樋口さんが、私を警察に売り飛ばしたのも、理解ができますよ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3,『二階堂(鎌倉市内)とは怖いところどすなあ』

 以下メモ、として文体を会話体ではないもので書きます。

 【鎌倉殿の13人サミット】内で、井上章一さんが「鎌倉とは怖いところどすなあ」といった。それをもじって言えば、二階堂とは怖いところだとなる。

 酒井忠康氏が住んでいて、中谷共二氏の次男が住んでいるところだからだ。中谷家のご長男は、東大名誉教授で、私は二階であったことがあるが、温厚な紳士だ。だが、次男は、恐ろしい。慶応卒で、三井物産勤務だ。彼は、幅が1mしかない細い道(川合邸前)を私が、歩いている時に、例のごとくタイミングを計ってだろうが、対抗方向からやってきて、私を、にらみつけた。私が、この山に引っ越してきたころ、彼は、既に家を出て、(二階堂の家を作っていたのだろうか? ともかく)、一度もあったことがない人だったが、顔がお父さんにそっくりなので、中谷家の、次男だと、言うことが分かった。長男の方は、それ以前にすでに出会っていて、顔を知っていた。長男は、お母さんに似ていて、次男は、お父さんにそっくりだ。

 向こうが私の顔を知っているのは、何度も言っている通り、恵友印刷という会社のホーム頁、トップに「その会社が、優秀です」と、言う推薦文を書いている私の顔写真がでかでかと出てくるので、伊藤玄二郎から、「そこをご覧いただきたい」と、言われれば、わかるのだった。

 私は、その顔写真が、そういう事に利用をされるのは、十分に推察していたのだけれど、そこで、引き続き、本を、印刷製本してもらうつもりがあったので、逆らえなかったのだ。6冊、そこで、作ってもらっていて、五冊目の【黄色いさくらんぼ】は、長い間、アマゾンで、10000円以上の値段で、取引されていた。

 ここで、樋口さんから、少し離れて、中谷家の、次男に、ついて、あれこれ、記載をしたい。

 かどや製油に、三井物産から、ひとが乗り込んできて、息子の上司となり、ひどいいじめを行った。それと、今は、10歳を超え、親であるむすこもとてもかわいがっている彼の子供が、生まれたばかりで、ひどく泣くので育てにくくて悩んでいた。佐野雅明専務から、いじめぬかれていたちょうどそのころ、「自閉症スペクトラムの気がありますよ」と、言う診断も、受けたので、両方からのストレスで、まいっていたのだった。

 その孫だけれど、大変にかわいくなった。両親、特に私の息子は、非常にかわいがっている。この前、我が家に来て、外の石段を掃除してくれた、アルバイトで。小学五年生だけど、ちゃんとそういう意味が分かる子だ。

 かどやをやめないといけなくなったほどの、ひどいいじめも、中谷さんの次男の指示だと、思っている。ひどい事だ。我が家の東北の崖を無断で壊したうえに、白井達雄さんが、同じことを、この山の若い男性を動員して、行ったり(後注1)、さらに、鶴岡八幡宮が、2020年4月15日から、27日までさらに大規模に、我が家の東北の崖を崩すために、7本もの大木を伐採された。(後注2)とてもひどい事だ。だから、昔、昔の中谷共二氏がやったことを書き始めると、彼の次男が、私の息子と娘に対して、ひどいひどい妨害を行ってきている。

 息子は、何も言わない。佐野雅明専務の名前さえ言わない。けれど、私はかどや製油の株を買って、株主へのレポートを読んでみた。すると三井物産からきている重役は、佐野雅明という名前だった。それが、わかって以降、私は、そちらの件には触れないが、次に息子に起きた、ひどい話を、順次書き始めた。

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副題4,『息子がかどや製油を、自主退職した後で、長慶飯店に就職が決まったと、よろこんだ気持ちの電話を我が家にかけてきた。ところが、電話が、盗聴されている。そして、私をいじめるために、長慶飯店への就職がだめになった。と、同時に、かどや製油を息子と同時期に辞めた人が、同じ業種の竹本油脂に、転職したそうだ。竹本油脂は、非上場だが、ゴマ油以外に、界面活性ザイを作っている、化学メーカーなので、その男の子は、事実上、規模が、五倍程度大きな会社へ、転職をしたと言う事となる。

 ところで、竹本油脂は、非上場だが、その社長兼会長だったのが館野・兄弟の特に、私が知っている方は、ひろおちゃんと、言う弟の方です。私は彼の肉声として、「僕は竹本のCEOを、やっているのだが、すでに13時間がつらくてね」と、2005年ごろの、クラス会で、聞いています。13時間とは、アメリカに行くにしても、ヨーロッパに行くにしても、ジェット機の飛行時間を指します。

 館野君は成城学園の出身で、大金持ちですから、正田家(上皇后、美智子様の実家)ととても親しいのです。軽井沢では、同じテニスクラブのメンバーでしょう。でね、国際キリスト教大学への通学手段として、車高の低い、しかもオープンカータイプの車(多分外車でしょう。ヨーロッパ系の)を使っていました。その館野君が私に関して誤解をしてしまったのです。私が彼に惚れているとね。どうして、そういう事になったかというと、私と彼、それから三輪喜久代さん(今は、ロンドンで、大CIAエージェントとして活動をしている。スタップ細胞疑惑は、彼女が大活躍をしたはずだ)の三人が、湊宏先生と、言う、当時は、化学界における輝けるスターだった先生についていて、毎日午後、三人だけで、一緒に過ごしたからです。尚、宏先生の奥様、晶子さんは、宏先生が亡くなったのち、東京女子大の学長になりました。

 私が、本当に書きたかったことは、息子の苦境と、それに便乗して、かどやをやめた子を採用した竹本の裏に、石塚雅彦さんや、古村浩三君がいて、そういう風にやりなさいと、そそのかしていたと、言う事を書きたいのです。しかし、やまゆり園事件が起きる前までは、私には、そこまでの事を書く、肝っ玉がありませんでした。書くことは書けます。しかし、書くことは両刃の剣です。で、そういう本来の目的に沿った文章ではなくて、エンタメに近い文章を書くことにいたしました。

 それが館野君の、三輪喜久代さんとの、恋愛遊戯の話です。私の実験は、夜10時ごろまでかかったので、午後四時には、終わってしまう、二人が窓の外5mのところで、イチャイチャしながら、車に乗り込むのを、見続けることとなりました。遠くの駐車場においてある、車を館野君が持ってくるのです。そして、そこに三輪喜久代さんが乗り込むのです。とても派手な騒ぎをしながら。

 喜久代さんって、そーぴーというあだ名でしたが、AFS経験者なので、如何にもよ慣れていて、セックスなんか、経験済みで、今でも、毎日やっているわよと、言うムードのある人でした。二人がキャッキャ言いながら、ぶわーんと発射していくと、「ああ、あの二人って、三輪さんの吉祥寺の、下宿で、あれを、やっちゃうのではないかしら?」と、想像させるところがあり、それが、実は館野君の狙いだったのです。

 しかし、私は、今も、そうですが、当時から頭は抜群によかったのです。普通じゃあないほどに。で、今もそうですが、誰かが、策略を発すると、、すぐ、裏側もわかるし、目的もわかります。私は、下の写真に乗っている現在も、結婚をしている主人と、1961年にすでに知り合っていました。そして、セックスなんかしていないけれど、半年に一度ぐらい喫茶店で、彼が、自分自身の事を、語り、それを私が、聞いていて、解釈したり、助言をしたりする間柄でした。館野君が派手に、私を拒否していた時期のたった三年後に、結婚式を挙げるぐらいですから、心の中では、主人は、大きな存在であり、館野君の誤解(=私が彼と結婚を従っているなどという部分)を恥ずかしいこととして、穴があったら入りたいぐらいでした。でも、私は、館野君にも、そのほかの誰にも、主人のことは話しませんでした。だって、恋愛とか、結婚って、とても、もろいことでしょう。それに不確かなことでしょう。誰かに自慢をするなんて、そんなことはあり得ないです。

 ただ、全学中で、ただ、一人、入江多喜男君という男の子だけは、三鷹駅でとまっていたバスの中で、私と主人が、一緒の姿を、1962年にすでに見つけていて、わざと目をそらしたので、知っていました。しかし、びっくりしたのでしょうね。真面目だけが取り柄で、無粋な子だと、思っていた私が、主人と一緒だと、非常に華やかになるので。入江君は、運転席傍のポールに背中を寄せて、それ以上、中には入ってきませんでした。

 ・・・・・上は、1968年のお正月です。五月に結婚をすることとなる主人と、主人のおばの家を訪問した時のスナップ。・・・・・

 私がこのブログの中で、前田清子さんを批判するのは、彼女が藤本夫人と大きな争いをして、それが、きっかけで、我が家の東北の崖を中谷さんから、無断で、削り取られたからですが、もう一つあって、彼女が大声で、話す内容があまりにもくだらないからでした。例えば、「うちの、〇〇こがさあー、湘南高校の子と付き合っているのよー。それが、結構、イケメンなの。だから、早く決めなさいって、言っているのだけれど、あれが、どうしただの、これが、どうしただのと言って、なかなか決めないのよー」と、しゃべっているからです。私は上で言っている通り、恋愛とか結婚て、とてもフラジャイルなものだから、自分のそれも友達には一切を伏せていたし、子供たちのそれも、結婚が決まるまでは、どういう人を選んだのかを知りませんでした。

 特に我が家よりももっと近い場所で、それらを聞かないといけない藤本悌子さんが、どれほどに、嫌な思いを、しているかは、十分すぎるほどに、よくわかりました。で、ここで、中谷共二さんが、登場します。中谷さんの藤本悌子さんを説明する悪口が、子供の結婚に関するものだったからです。中谷さんは、カリフォルニア大学の卒業なので、戦時中は、日本語英語の両方が判る人として、対日宣伝政策にかかわっていたのではないかなあ? だから、こうもり、みたいな人なのです。引っ越してきたばかりの私には、藤本悌子さんの悪口を言う。しかし、藤本夫人と面と向かうと、彼女の言う事には逆らわない。

 私に、中谷さんが何を言ったかというと、「藤本さんは、他の人に嫉妬しているのですよ。だってあそこのお嬢さんは、結婚をしていないでしょう。ほかの家では、お嬢さん方は、みんな結婚をしてお孫さんができている。あそこは、息子さんの方にも孫がいないでしょう。だから、気が変になっちゃっているのですよ。だから、もう、コントロールできないのです。

 だから、たった幅一メートルしかない、道路の真ん中にフェンスを作ると言って、電動のこぎりで、切り始めているでしょう。どうか、川崎さん助けてください。それからね。角も、普通は落としているのに、彼女はわざととんがらせていますね。あれも彼女が自分で、工事をしたのですよ。だから、フェンスもきっと自分で作ります。それから、この山の道路は、全部、4mの幅はないのです。だけど、彼女は、自分宅のフェンスから、2mのところに勝手に地境石を入れていますね。どうか、助けてください。お宅のアジサイ畑をつぶして、そこにコンクリートを打ち、手すりを入れます。そうすれば、藤本夫人の提案をつぶせます」と。

 で、藤本夫人に向かっては、「あなたが主張する、地境石は生かします。この山の、特に藤本家の前は、建築基準法の、決めている道路幅4mがないです。だから、今回の工事で、あなたが、いれた、地境石が正当に見える様に、川崎家の、東北の崖を削ります」と、約束をしたのでした。そして、私を見くびって、かつ、私を苦しめることは、同じ仲間である瀬島龍三から、秘密裏に頼まれている事でもあるから、自然な崖を崩したのです。そして、実は前だけが、最も激しく、建築基準法に違反した造成を特に家を建てる前に勝ってに、行っているのです。だから、他にも狭い道はあるのです。だが、前田夫人の迷惑行為があまりにも顕著だし、ふるまいも、まるで、中学生の、番長スタイルで、上下関係を構築し、弱いものをいじめぬくスタイルなので、藤本夫人の気に入らない人の典型でした。で、彼女の、復讐用ターゲットになったのでした。

 前田清子さんがもっと穏やかな性格で、かつ、ブランド住宅街に、住むための暗黙のルールを熟知している人だったら、今、起きている様な問題は、より小さい段階で、収まっていたと思いますよ。うーん、午前三時になりました。これから、不二子さんに戻り、館野君が施設に入っている話へ入り、

不二子さんのスタイル全般から、似ている、角野栄子さんを思い出し、

角野さんのご主人って、きっと、2018年に亡くなっているはずだと、言う話をしたり、その前は、ご主人は、きっと、七里ガ浜の、老人ホームに入っていらして、そのお見舞いに便利だから、角野さんは、今の家を鎌倉に、作ったのだけれど、私をいじめぬく、伊藤玄二郎に協力したせいで、ご主人は、無くなったのでしょう。と、書くつもりでした。しかし、午前三時半になったので、今から、家事をすると、午前五時です。ここで、途中ですが、寝ます。

 

@@@@@@ここが、書きかけ中の最先端です。

三国屋善五郎での、ひどい罠について書き始めた。どうしてそういう事をしたかというと、娘の結婚相手が、三井物産勤務なのだ。それで、足かせをはめられている。ると、かどやの株主レポートから、佐野雅明重役の名前が消えた。用心して、三井物産に引き上げたのだと、思う。大変な人生を送ることになった私であり、すべては、瀬島隆三が、CIA-じぇんとのトップであることから、起きている。不条理極まりなくて、普通なら、悩みぬいてしまうところだろうが、

 二階堂の、覚園寺で、樋口恵子さんの講演があった日には、もう一つ嫌なことがあった。が、それは、煩雑になるので、語らないが、私が、その道を歩いたのは、講演が終わって、喫茶店で、パソコンの仕事をした後だったので、二時間ぐらい後だった。その二時間を、その小さな灰色のバスは、待機していたのだから、これは、相当にしつこいいじめではある。ただし、その頃、私が取り上げていたのは、この雪の下で、起きる異常であって、主に安野夫人の、悪女っぷりを書いているところだった。したがって、樋口恵子さんは、都知事候補であるのにもかかわらず、

 神様が、ご支援くださっていることを知ってから、相当に落ち着いた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『さて、新橋駅の、エスカレーターと、エレベーターが15両の長いホームの南橋に、降りる方向で設置されていることに気が付いたのは、012ン二校だと思う。長い間、気が付かなかった。で、樋口恵子さんも、言う通り、

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中島千波、大原光孝、栗田玲子、酒井忠康、渡辺幸子、島田章三・・・苦界を抜け出す為の行動が、新たないじめを幸子さんから招いた

2022-01-12 19:36:10 | 政治

 この章は、最初の総タイトルを、【京都龍村、宮沢エマの帯、鶴岡八幡宮の次期or次々期のtopは、そこの出身でしょう】としておりました。だが、13日の、午後零時に変えました。

 ここで言わんとする最も大切なことは、CIAエージェントが利用しようとする手下、または私兵は、どれほどに、持ち上げられ、洗脳をされているかということなのです。それが谷本守男、51歳の引きこもり男、青葉真司、植松聖、小林遼、山田浩二、保美死刑囚 を、動かした原理です。それが、わかったのは、ご近所の画家、大原光孝さんの態度の激変を経験したからでした。それは、20年前に発生し、その後の20年間を思うと、どれだけ、多数の人間が、しかも、この雪の下の山の住人、のために殺されていったかなのです。だから、鶴岡八幡宮の上級神官さん龍村さんが、私より、安野智紗夫人を上に置くことが問題なのですよ。その説明には、時間が大量にかかります。だけど、説明をし抜くでしょう。

  なお、もう一つ言うべきことが残っていました。この章も、ある種の狙いとして、反田君への忠告第五弾となっています。反田君に言いたいのですが、弾く人として、優れていればいるほどに、自動的に嫉妬を浴びます。嫉妬心を表面に出すことは恥ずかしい事なので、面と向かって言われることはないでしょう。だが、嫉妬している存在は、大勢いるのです。そういう人たちが、もう一つのマイナスの感情に見舞われたとしたら、どうなるでしょう。非常に不利になります。ここでいうもう一つの感情とは、「あいつは、生意気だ。27歳でしかなくて、これから、私たちが引き上げてあげる立場でしかないのに、大きなことを言っている」と、思われることを指します。

 ショパンコンクールの発表が真夜中の、午前二時まで、かかったというのも、そして、反田恭平が二位だったというところにも、まさしく、そういう現象が反映しているのです。

 私と渡辺幸子さんとの確執も、まさしく、幸子さんが、まず、私を裏切り者だと、誤解をして、その次に、私の才能に嫉妬したので、大きくいじめてきたことが初因です。私は計算高くはない人間です。だから、個展の招待状を、知っている人間からもらったら、それが銀座ではなくて、行きにくい場所でもほとんど行きます。しかし、渡辺幸子さんは、計算高い人間なので、日本航空の空港勤務だった、平野和子さんは、会社員としての同窓生なので、その画廊で、私が開いた版画の個展には、来てくれました。しかし、油絵の個展には、来てくれたことがなかったのです。で、私が、油絵の絵かきとして、力量が高いことを、知りませんでした。国画会においては、まだ、会員ではないので、えらくないのだと、考えていたのでしょう。

 ところで、私は、1979年ごろ、小学校のPTA広報委員として、島田章三さんの実妹、大沼嘉津恵さんと知り合いました。で、島田章三さんの、性格が悪いことは知っていたのですが、国画会内部で、いじめてくるとは、想像だにしていませんでした。愛知芸大の学長だから、まさか、そこまでの事をするとは思わなかったのです。

 島田章三さんがいじめてきた陰には、横須賀市の水道山が、ただで、益山重夫、智恵子夫妻、および、智恵子夫人の実弟・仲野通巳吉に、てわたっていった、実質的詐欺事件があって、地境地主としてその詳細を知っていると、言うことが関連してきます。横須賀市側の代表、杉本俊一氏とは、その奥さん、雅子さんが、大沼嘉津江さんと、三羽烏を組むほどの、PTA仲間だったので、女同士のつてで、島田章三さんが、私をいじめてきたのでした。

 益山重夫という人物は、元海軍参謀であり、瀬島隆三・元伊藤忠会長(元陸軍参謀)とは、親友とのことでした。瀬島隆三とは、隠れた、超特権者で、何でもできるので、島田章三を通じて、国画会内部で、私はいじめられていきます。で、1994ねんには、すでに、その仕組みには、気が付いていました。初出品が、1991年ですから、たった4年で、気が付いたと、言うこととなります。しかし、それからが大変です。日本の公募団体展というのは、お上品に表現すると家元制度を取り入れていて、上下関係のある古い組織だと、言うことになりますが、下品に、表現すると、やくざの組織に似ていて、足抜けがしにくいのです。

 で、1994年から、実際に、出品をやめた、2002年までは、悶々として悩むこととなりました。しかも、美大でではないわたくしが、公募団体展を離れて、個展などしても、お客が来ないこともわかっていたので、どうしていいのかわからないというほどの苦境に陥っていました。が、まず、版画をはじめ、版画で、海外留学をすることを経験して、と、同時にパソコンを利用して、文章を書き、それを人に読んでもらう生活を初めて、やっと苦界から逃げ出しえる筋道が見えてきました。しかし、これは、絶対に、口外できないことだったのです。それに、抜けられない時のことをも考えて、100号の大作は、作り続けてはいました。

 たまたま、2002年の二月に、望月画廊で、大学同窓会展が、開かれることとなっていました。そこでは、渡辺幸子さんと一緒であり、結構、仲良しのつもりでした。電話で田沢先生が与える苦しみとか、新制作展内部で、出世できない苦しみとかを、訴えられていました。私の方ですが、彼女の言う苦しみは、すべて、100%理解ができました。しかし、音声を出す言葉によって、同調することはありませんでした。というのも、私の方は、画家としての出世なんかとっくにあきらめていて、文章を書くことに活路を見出し、公募団体展は、やめようとしていたので、問題点が、すでに、変わってきていて、同調できなかったのです。で、ただ、はあ、はあと、気のない返事をしているだけでした。

 というのも、もし、渡辺幸子さんに、「国画会へは、もう出品しないつもりです」などと言ったら、湘南地方で、ひとかどの地位を持っている女流画家の間に、電光石火で、それが、広まってしまい、「国画会はやめられないは、しかも内部では、それまで以上に冷遇されるは」という悲惨な状態に陥ることは、火を見るよりも明らかだったからです。

 でも、非常に運が悪い事には、そういう電話のついでに、彼女の予定を聞いてしまったことでした。彼女にしてみると、大学同窓会展は負担以外の何物でもないので、「鎌倉(美術家協会展)に出した8号を望月画廊にも出すわ」と、言う計画だそうです。で、それは、言葉として言えば、使いまわしで、一見すると、大学同窓会展を、粗末に扱っているみたいに見えます。でも、渡辺幸子さんほどの、ランクになると、そういう風に言うことは、別に悪い事でもないです。大学同窓会展というのは、親睦を目指すもので、美術的に高度なものを発表することは求められていません。で、私は、それも、「はあ、はあ」と聞いておきました。

 しかし、私の手元には、四月締め切りの国画会ように準備した100号がありました。・・・・・ラッキー望月画廊に回してそこで、日の目を見せてあげれば、国展に出品しなくても、この子(絵の事)への愛情は、示せるわ。それで、いい。・・・・・と、考えて、プロの、搬入業者に頼んで、銀座に運んでもらいました。上野より高いのよ。鎌倉に近いが、上野は、ほかの人も一緒に運べるが、銀座へ、100号を運び込む人は少ないからでした。

 ああ、それからの、一週間、どれほどの、苦労を味わったでしょうか? 彼女は誤解しました。「自分は、8号の、すでに、発表した作品を出すと、予定を語っていたので、彼女は裏切ってきた。未発表の、100号を出すなんって、ひどい裏切りだ」と。そして、潜在意識の中では、私の作品が良すぎたので、嫉妬心が舞い上がってしまったのにもかかわらず、裏切りという、方向で、責めると、ほかの人が、すべて、乗ってきて、

 「そうだ、そうだ、あなたは正しい。彼女はひどい人間だ」と、電話内で、ヒロインとなり、同窓会展の、全フィールドを、占拠できたのですから、快感も、たっぷりと味わえたでしょう。

 私の方が、傷を負ったかですが、私は、自分で本を出版するという目標に移行をして、それを、必死で、実行をしていくことになります。それで、悲しみをいやすことができました。

 しかし、その途次で、システム異常に見舞われます。特に、ADOBEがひどくて、一晩で、50回ぐらいシステム異常を起こしてしまって、自宅で、仕事ができないと、言う始末になります。インデザインCSIIも、買ってあるにシリアル番号が違いますと、言われたりして・・・・・そのシリアル番号は、6枚組のCDケースに張り付いているのですよ。しかし、違うと言われる。

 私の、1965年以降はいじめ、いじめの、55年間だったのです。

 しかし、すごいいい事にも気が付いています。それは、神様が、慈愛を示してくださると、言う法則です。私をいじめた人には、何らかの災禍が、下るのです。特に、その人が善人であると、災禍が、下ります。

 死、病気、経済的失墜など。

 私が何らかの、工作をするから、そうなるのではないですよ。だって、鶴岡八幡宮の参拝客が毎年減りつづけているなどという事は、私が支配してできることではないですし。

 

 という挿入を入れて、元へ戻ります。初稿の冒頭へ戻ります。

本日は、いろいろ、書くつもりです。ところが明日、国立劇場に、歌舞伎を見に行く予定があるので、短い話題で、終わらせるつもりです。

副題1、『書くことはいっぱいあります。本日は、本当は、宮沢エマが、知恵泉【占い】の章で、着てきた帯について、触れて、そこから、鶴岡八幡宮の上級神官、龍村さんに、触れるつもりでした。

 その時の着物本体もすごいものでしたが、帯もすごくて、西陣の、もので、模様は、【銅鏡裏】というものでした。ところで、NHKアナ(司会者?)は、わざと、帯について触れてほめ、それが、銅鏡裏という昔からの、名前のついている由緒ある模様であることを視聴者に知らせました。その時、瞬時に、それが、京都、龍村製のものだと、推察され、宮沢エマという、朝ドラ【おちょやん】以来、私が、ファンになった女優を、伊藤玄二郎たちが、「自分たちのものだよ」と、宣言をしたことを知りました。

 それ以前には、まったく知らなかった彼女に、私が、惹かれたのは、おちょやんで継母として、現れ、最初は意地悪なじょせいだったが、最終場面では、視聴者を画面に、くぎ付けにしたからです。しとやかで愛情豊かな女性の典型でした。ので、急に惹かれて、彼女を、見たくて、久しぶりに大河ドラマも、見るつもりになっています。本当は大泉洋も、三谷幸喜も嫌いで、見たくなかったのです。人物として、嫌っています。

それから、鎌倉が舞台です。ということ、そのドラマものが、伊藤玄二郎たちが、いろいろ、利用しようという意図が丸見えです。

 ところで、ここで、大・CIAエージェントである伊藤玄二郎がらみで、中島千波さんに飛びます。その中島さんが、どうして、このブログに登場するかというと、大原光孝さんの、行動ゆえなのです。

 ご近所の画家、大原光孝さんという男性が敵方に、リクルートをされてしまい、美術評論家としての私を、貶めるために、自分が卒業した創形美術学校の、後輩の、画像、テーマ、模様とそっくりな絵を描き、それを、三越で、開かれる、春季院展に、わざと入選をさせた…‥そういうあたりから、「あんたの方が、川崎千恵子より上なんだよ」と、持ち上げられ切って、態度が激変しました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2,『中島千波さんは、芸大教授なのに、ずいぶん軽い態度で、CIAエージェントに協力なさいましたね?』

 で、彼=大原光孝がいけないひと=悪人だと、わかるのは、種々理由があるのですが、ここでは、一点だけ取り上げます。

 その後輩の作品の模倣が、質的には、似ても似つかぬもので、たいへん出来が悪いものなのに、伊藤玄二郎や、酒井忠康氏が、中島千波さんに、頼んで、絶対に、春季院展(三越)に入選させましょうと、画策していたことが、大問題なのです。その二人は、鶴岡八幡宮のぼんぼり祭りの、常連だから、鎌倉で、一緒に飲みましょうという形の中で、事が運んだと思っています。ただね、宮田亮平さんが絡んでいるかもしれません。その論功行賞で文化庁の、長官になったり、国立劇場の支配人になったりしたのかなあ? 芸術家にしては、極端なほど、政治的に動いていて、個性的な学生をつぶしたらしいですよ。恐ろしい人でもある。

 元の、大原光孝さんの、模倣作品の方へ戻ります。

 オリジナルの作品の方は、3号か、4号の小さなキャンバスに、ものすごく細い筆で、詳細な、模様(学校の校庭を俯瞰的に見下ろした図)を描き、稠密で、複雑な画肌を、構築しているものです。

 比較して大原光孝さんの絵の方は、ベニヤ板に描き(もしかしたら、材料費が出なかったかもしれませんね。いや、政治的に作業代として、5万~10万円は出たかもしれないけれど、光孝さんは、その全部は、材料費として使わなかったのでしょう。ベニヤ板に、アクリルで、描いていました。ただ、ただ、模様が、同じ形だったと、言うだけです。俯瞰的に見下ろした、小学校の校庭であると、言うところだけが同じで、剽窃そのものの絵でした。

 中島千波さんは、「芸大教授なのに、こういうことに手をお貸しになって、どうしたのですか? 道徳的に?」と、言いたいです。

 ただ、もし、中島さんは、三越では、なにも動いていなくて、大原さんの模倣作品が、すらりと審査に通ったのだったら、その期の院展審査員って、どういう眼力だったのでしょうか? べニア板に、アクリル絵の具で、描いた作品何って、院展では、かつて、見たことがありませんが?

そして、奥野ビル他で、何度も、個展を繰り返して居て、油絵としては、画料も高くなっているオリジナルの作品に関して、一切の知識がないのでしょうか? え? そうですか? 美術界では、相当に話題になっている作品だと思いますが、日本画、以外は、脳内に取り込まないことにしていらっしゃるのかしら?

 そして伊藤玄二郎など、中心にいる人間は、自分からは動くことがなく(だって、真実が世に出たら大変ですから)手下を使うわけですが、この時は、大原光孝さんだったのです。

 ところで、この案件で、中島千波さんに、フォーカスして、書き始めたのは、ここ4,5年です。で、そうし始めたら、急に中島千波さんが、目の前に現れる様になりました。美術家連盟の事務室だったり、鶴岡八幡宮の境内だったり、本当にすぐそばに中島千波さんがいると、言う経験を何度もしました。

 もしかしたら、皆様は、「なんで、関連付けるのよ。偶然だったでしょう?」とおっしゃるかしら? いいえ違います。ある日、ガレリアグラフィカの二階の、絵を見に行ったのです。一階は、主に貸し画廊として使われていますが、二回は、画商としての栗田玲子さんが売りたい絵が、飾られています。

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副題3,『渡辺幸子さんと、栗田玲子さんと、酒井忠康氏は、三人つるんで、大量ないじめを行ってきた。その三人の中で、幸子さんが、一番善人なのだろう。彼女は、今、不思議な形で腰が曲がってしまった。で、私は、神様は、存在すると、言う定義に、まさしく幸子さんは当てはまると、考えている。私をいじめると、その量に応じて、死、病、経済的損失などが、その人に襲ってくる。ただし、その人が善人の場合のみである。その三人のうち、ほかの二人の、隠れて行っている、悪逆行為っといったら、驚くほどの事なのだ。まだ、全部は、書いていないけれど』

 ガレリアグラフィカの二階で、私は栗田玲子さんと、酒井忠康氏から、激しいいじめを受けたのでした。その件を、説明すると、中島千波さんが、目の前に現れたのは、決して偶然ではないと、言うことをご理解いただけるでしょう。納得してもらえるでしょう。しかし、私がいじめられている一方で、特別に大事にされている人間もいて、それが渡辺幸子さんでした。幸子さんが大切にされるのは、昔、ひどい形で、私を、いじめたことがあるからです。でもね。彼女は不思議な角度で、腰が曲がってしまいました。あれiじゃあ、車の運転ができないでしょう。彼女は、鎌倉駅を利用する人ですが、家からは、車で出てきて、駅徒歩圏内の実家に、車を、おいて、電車で動く人です。

 彼女が、ガレリアグラフィカの一階で、お客様を接待しているときに、私は、ちゃんと入ってきちんと挨拶を交わしましたよ。幸子さんも、昔よりは、私の存在を認めていると、言う形に変化しています。しかし、総ガラスの壁の外、道路から、彼女を見ていた時間帯には、こういう風に考えていたのでした。「あれって、まるで、カマキリが、鎌首を右や左に、揺らしている様だわ」と。

 渡辺幸子さんは、最初期の、日本航空スチュワーデスなのです。それで、背が高くてやせています。その、右前、水平角30度、足から見上げた仰角、120度ぐらいで、曲がってしまった体で、お客様に対して、華やかな応対をしていると、象徴的な特徴として、カマキリを思わせるのでした

 なお、スチュワーデスという言葉は消えキャビンアテンダントと、ことばがえをされています。それも、私は、自分が、大物であるがゆえにそうなると、言う風に考えています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『清泉の小学生に、追い抜きざま、「逮捕するぞ」と脅かしの、言葉を浴びせられたエピソードとか、ファミリーマート、二の鳥居そば店で、コピーを取った後で、店を出たら、目の前をパカパカとお馬に乗って、洋服姿の、鶴岡八幡宮トップの、吉田茂穂宮司が、一の鳥居向かって、進んでいった、エピソードなどを考えわせると、次の三つの方法で、私が今、どこにいるかが、正確に把握できるのだろう。それで、タイミングよく渡辺幸子佐野、がれるアグラフィカ二階へ、誘導し、恥をかかせようとした事案の経過や、裏側が、理解できるのだった』

私がどこにいるかを探り、正確に狙っていいじめるやり方は、皆様ご存じのもの、まだ、知らなかった方法を含めて、5、6っこ在ります。

まことに住みませんが、本日は、ここまでで、終わりとさせてくださいませ。

@@@@@@@ここが、書きかけ中の最先端です。

副題3、『アド街ック天国で、新聞のラテ欄には、その週の、個別タイトルは、鎌倉砂岩となっているが、実際には、石も岩も出てこなかった時がある・・・・・これは、大原光孝さんを助けるための、重要な、ポイントであり、CIAエージェントが、鎌倉市や国家のお金を、自由自在に使えるということを、示した、最初の例だった』

が、宮沢エマが、北条政子の、妹を演じると、言う点で、二人の対比が、相当、描き分けられると、見ています。女性として、二つの典型を描き分けるでしょう。

しかし、あまりにもあくどい泥棒を発見したので、ちょっと、話題を変えます。というのも、龍村さんの問題点は、私よりも、ご近所主婦、安野智紗さんを上に置いた点にあり、それが、どういう問題を含むかを、20年かかって、分析して行くつもりであると、2020年の5月から言っています。

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B.LiuとA.タヴェルナと、N饗との友好的な関係・・・タヴェルナって本当に凄いです△

2022-01-11 01:51:37 | 政治

 今は、12日の午前一時です。そこまでで、以下の文章の、文体の、統合とか、語尾の整えを終わりました。これは、事実上、反田恭平君への、忠告の第四弾と、言う形になっています。で、一応完成したしるしとしての恒例の△印を総タイトル右横につけておきます。

副題1、『私はクラシック音楽が好きな方だと、思うけれど、時間やお金は、主に美術方面に注いでいるので、音楽会は、時々しか行かないし、N饗の会員でもない。だが、昔は、N響アワー(NHK ETV)はよく聞いた』

 私が、N饗アワー(一時間だった)を熱心に聞いたのは、30代で、主に北久里浜にいた時代です。1974年から1984年までの、10年間でした。思い出としては、京急、新大津を最寄りとする、野島稔さんが、ベートーヴェンの、協奏曲を汗を両側に飛び散らせながら弾いていたのを、覚えています。音も、表現もいいなあと、思いました。横須賀のヒーローです。今は、東京音大の学長です。

 N響アワーについては、池辺晋一郎さんの、ジョークが肌寒くて、それで、聞くのをやめてしまったのです。で、今は、朝五時から、NHKBSPで、放映をしている、【クラシック倶楽部】を録画して置いて、それを楽しみにする方へ、方向転換をしてしまいました。

 そういうもろもろがあって、N響アワーを、聞かないでいるうちに、いつの間にか二時間になっていて、タイトルも、【クラシック音楽館】へと、変更になっていました。その長さも、負担だし、交響曲というのは、メロディが複雑で、聞くのにエネルギーを必要とするので、視聴するのをやめてしまいました。

 ところで、おせっかいを承知で、ご紹介すると、クラシック倶楽部とは、NHK BSPで、朝五時から、ウィークデイは毎日===主に、ソロ、または、室内楽など、小編成のメンバーで、演奏する音楽会を録画して放映してくれるものです。私は、反田恭平には、この番組で、出会いました。そのソロ演奏を聞いて、仰天をしました。美しい演奏だと、思っています。だからこそ、彼が日本語で、しゃべるあれこれを、・・・・・もったいない言動だ。どうか、口にチャックを・・・・・と、思っているわけです。好きな人ですよ。カティーンよりむろん好きですよ。だから、小言を言うのです。

 クラシック倶楽部の方ですが、最近では、アンドラーシュ・シフが、柿の木で、できた赤いラッカー塗装をしたベーゼンドルファーを演奏するザルツブルグ音楽祭での、一晩を二回に分けて、放映をしました。柿って成長が遅いので、とても高い材木です。しかし、木目に特徴があるので、すぐわかります。ものすごい美麗なピアノでした。が、そこで、シフが、聴衆から、アンコールを望まれて、即興曲、Op90  D899の第三楽章を弾きました。観客も大熱狂で、私も大いに満足をしました。で、シフは続けて、小品を二曲サービスしました。合計三曲、15分程度の、アンコールです。どれだけ、聴衆が喜んでいたかがわかります。

 N響アワーに戻ります。一時期、黒崎めぐみアナが、司会をしていました。この人は、主人が松坂に単身赴任中に見つけて、良いアナだと、言っていましたが、いつの間にか、東京勤務になっていて、主に、芸能や、芸術の番組を担当した人です。私が、特に、教養が深いなあとか、考え方が見事だなあと、思ったのは、この黒崎めぐみアナと、【100分で名著】を担当していた島津有里子アナです。

 【100分で名著】を担当する、女子アナは、総じて、魅力がいっぱいで、能力が高い人が多いです。島津有里子アナ以外にも、素晴らしいアナがいっぱいいますが、中で、発言が、誠実極まりないが、ちょっと、愛想が良くないと、思っていた、島津アナは、その愛想がないという点で、珍しくて、特に私の気を引きました。だが、何とNHKをやめて、医者になるお勉強を再開したそうです。それを知ってから、ウィキを調べたら、東大卒でした。ついでに、黒崎アナも調べたら、東大卒でした。ただし、嫌な感じが皆無な二人です。

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副題2,『私は反田恭平には、音楽家として大成してもらいたいと思っている。しかし、あさイチで、・・・・40もの番組からお呼びがかかって、中には、ヴァライエティに近いものもあった・・・・と、言う発言があったが、そういう生き方をしていると、大成しないと、思っている。その現在の生き方は、海老蔵が、抱えている問題点と、通底するものがあり、・・・・・まずいぞ。才能が大成しないうちに荒れ果てるだろう・・・・・と、思ってしまう。

 海老蔵が、仁左衛門ほどの成長を見せることを願っています。が、今は、そういう方向へは、進んでいないです。海老蔵を利用して、自分の盛名を上げようとか、海老蔵を利用して、お金儲けをしようとする人々に囲まれ過ぎです。「団十郎襲名は、全く良くない。早すぎる」と、主張していましたが、幸か、不幸か、新コロナウィルス騒動で、自動的に延期になりました。それは、良い事だったのですが、それが延期になった間、きちんとした座組で、お芝居を組み立てるのではなくて、少人数で、まだ、芝居には、なっていないレベルのものを高い切符代で、全国展開をしている模様です。

 それは、まずいですよ。お顔が美形でも、演劇として、完成していないとやがて、飽きられて、お客から捨てられるでしょう。若い人の大勢が、まだ、歌舞伎には向いていないのですから、慎重に気を付けて、行動をしないとだめですよ。今、歌舞伎座に通っている70代の人は、やがて死んでいくのですから。

 歌舞伎俳優はファンとの関係他があり、かつ子孫を残さないといけないと、言う宿命もあって、結婚は、やむを得ないという部分があります。だが、反田恭平の場合、結婚は、・・・・・非常に難しいでしょう。

 彼が、最近連続して発言をしている様に、若い音楽家のための学校を作りたいと、言う夢を実現するためには、良き伴侶がいた方がいいです。本当に良き伴侶だったら、(そうです。上に取り上げた、二人のNHK・女子アナみたいな、誠実で、芸術に対して深い理解を示す、女性が現れたら)いいが、そういう女性は、いいご家庭で育っている可能性が高いので、自分の自己実現も求めるだろうから、彼が、大音楽家として、成長していく妨げになる可能性もあるのです。

 江戸京子さんと、小澤征爾の離婚は、京子さんの実家がお金持ちに過ぎたという部分も大きなパーセンテージを占めているはずだ。江戸京子さんは、高校の先輩だから、どうしても、京子さん側に、私は立ちます。そこに例のごとく、敵の敵は、味方だと、言うCIAエージェントたちの、戦略的見方が加わって、小澤征爾は、利用すべきだと、言う事になったのでしょう。

 それが原因で、小澤征爾は、過剰に持ち上げられています。最近十年間の、事実上は、破綻している肉体による、演奏への持ち上げ方は、異様です。

 特に、入江美樹さんとの、間の息子さんが、桑子アナと、結婚をしました。私は、かねてから桑子アナを批判しています。というのも、ニュースウォッチ時代、<<<<嘘がたくさん含まれている謀略的ニュースを>>>>感情移入激しく、報道する桑子さんは、日本国民を馬鹿化する洗脳の旗手だったからです。困った存在だと、批判をしています。それは、人間的魅力とは、別問題で、桑子さん程度の、政治的解釈しか、一般的な、日本人はできないのだと、言う点の証明でもあり、かつ、「それで十分で、それが、ベストなのだ」と、言う真実の支配者側の考え方もあるからでしょう。しかし、私にとっては、それでは困るのです。特にNHK は、税金に等しい、視聴料を取っているのですから。

 それで、桑子アナと、小澤征爾の息子を結婚させると、両方のファンが、私から離れると、考えて、この結婚を推進したとも、考えられます。恋愛だと、報道されていますが、<<<<その恋愛が始まったこと自体が、偶然かなあ?>>>>と、疑問を持っています。妙本寺のお見合いと同じで、実質的な、お見合いだったのではないですか? 

 小澤征爾家側に、まず、桑子さんをどう思うかを問い合わせ、結婚まで至ってもよいと言う事になったら、小沢征悦君に、徹底的に攻めなさい。そうすれば、桑子さんは、陥落するでしょうと、教えるのです。そういう種類のお見合い(=政略結婚)では、無かったかなあ。それって、眞子様と、小室圭君も同じで、その3組の結婚は、似たようなものです。

 反田恭平に戻ります。彼が、人間として成長していく過程で、立ちはだかる、二つ目の門は、結婚の成否です。で、そこでのマイナスを経験することを避けるために、恋愛だけで、やっていくという手もあります。ベートーヴェンもそうだったし。

 しかし、ベートーヴェンの時代には、テレビはなかったし、SNSもなかったのでした。今は、違う。したがって、プライバシーを守るのは、不可能ですね。特に有名人にとっては・・・・・という時代だ。

 音楽家の世界って、性に関しては、紊乱と言ってよいほどにフリーなのよと、聞いたことがあります。だけど、反田恭平みたいに、「今回、僕は、40もの番組に呼ばれて、出演しました」、という風に一般社会に知名度が上がってしまうと、一般大衆の観点というのが、彼の足かせになる可能性が高いです。

 あのダイアナ妃を追いかけたパパラッチは、一般人の、希望に沿って動いたわけで、ダイアナ妃自身も、それを熟知していて、利用をしていたと、今では、報道をされています。ダイアナ妃は、政治的手腕を持っていた女性でした。彼女の、見かけと、中身は、違います。

 一般大衆というのは、メディアに踊らされているものだから、ショパンコンクールというわかりやすい勲章を得た人として、反田恭平をちやほやするでしょう。だが、ちょっと、時節が変われば、風向きが変わる可能性があります。仮定の話ですが、「たくさんの女性と関係を持っているんですって」などといううわさが広まったりしたら、圧倒的に風向きが変わります。

 そういうわけで、生きることは、どこへ行っても、どんな場面でも、難しいのです。したがって、反田恭平には、ほかの演奏家みたいに、静かな発言者であってほしいのです。謙虚である方が安全なのですから。内心で何を思ってもいいが、公的な場では今の様な発言内容は、良くないですよ。

 内田光子さんは、ロンドン在住で、日本の一般庶民からは、距離を置いてしまいました。内田光子さんが「死ぬときは、シューベルトを聞いて死にたい」とどこかでおっしゃっていたのを、忘れていない私ですが、私がレオンスカヤの、即興曲を逗子の一人暮らしの中、毎日、一回、一時間ほど聞いて、他にテレビはあったが見ないし、新聞はとらないし、ご近所づきあいは、9か月間はないし、で、全くの孤独だったのに、不幸だと、感じたことはなかったのですが、そういう生きぬくための、強い力を与えてくれた、レオンスカヤの演奏でした。CDでも、伝わりました。そういう生活を送っていたころ、すでに、内田光子の、発言を聞いていたか、どうかなのですが、聞いていなかったと、思います。

 わたくしが、シューベルトの即興曲を世界一、美しい・・・・・特に、Op142, D935 の第三楽章が、これが、一番ですね・・・・・と、感じたのは、1955年の夏、13歳の時でした。その時に、内田光子は、まだ五歳です。だから、内田光子という有名人の、影響で、シューベルトを好きになったわけではありません。

 私がショパンに関心がないのは、一種の近親憎悪だと、思います。あの繊細さと、情感の豊かさは、私を、いらだたせ、落ち着かなくさせ、かえって、満足が出来ないのです。音楽を聴きました。心が洗浄化されました・・・・・という結果が得られないのです。

 シューベルトは、リストとか、ショパンに比べると、より単純です。そこも、最高にいい点だと思っています。何らかの意味での、バランスが見事なのです。しかし、シューマンが、シューベルトの即興曲は、「事実上、大ソナタである」と言ったらしいです。そうなのです。単純だと、言っても、全8曲で、一時間です。だから、シューベルトのお歌【アベマリア】みたいに、しんぷるな感じだと、実際に聞いていないうちから、把握されてしまうと、困ります。

 すべてのメロディラインを私は、覚えているのに、歌うことはできないです。ただ935番の方の第三楽章は、アンダンテだし、相当に、シンプルですが、でも、他人が聴いている可能性のある時に歌うメロディではありません。全8曲のうち、ほかの7章は、結構、複雑です。

 ベートーヴェンの第九など(人間が歌うことが出来る交響曲)とは、全く違う複雑さは、持っています。私はしょっちゅう、ベートーヴェンの田園のモチーフを口で歌いますが、シューベルトの即興曲を、口で歌うことはできないです。

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副題3、『内田光子は、ロンドンに行きっぱなしだ。野島稔も、もし、東京音大の学長へと、選挙でえらばれることが無かったら、アメリカへ行きっぱなしだったはずだ。

 内田光子の結婚に関する、或るブロガーの記事を読んでいたら、

 内田光子は、英国籍もすでに取っていて、結婚相手は、英国人の元外交官だと書いてありました。そのブロガーが言うのには、内田光子は日本で、嫌なことがあったはずだと。

 その件なのだけれど、私は、野島稔にも同じことが言えたのではないかと、思っています。前から、それを感じていて、【野島稔がショパンに見えた日】というエッセーをすでに、一本書いて居ます。私は、野島稔の演奏を、横須賀市の(上町にある)公会堂で、3回ぐらい、‥‥相当後で、汐入の芸術劇場で一回ほど、合計四回ほど、聞いていますが、1980年代の野島稔は、まだ太っていました。肥満体というのではないが、痩せてはいなかったです。

 :::::::::ところで、ここで、一つ挿入を入れます。

 私がひどく驚いたのは、上町の公会堂での演奏会は、横須賀市が支援したものだったので、入場料が安くて、夏休み中など、小学生や、それ以下の、お子さん方もたくさん来ていて、ある一人がジュースの空き缶を、階段で、転がしてしまったのです。演奏中に、からから、ころんころんと、大きな音がして、私は、びっくりして、後ろを振り返ったほどでした。が、野島稔は、全く動じなかったし、一曲が終わって、次の演奏に入る合間にも、決して、怒った顔を見せることが無かったのです。

 その日、ロビーで、横須賀市へお礼を言うために、観客へ、あいさつをしているご白髪の両親の様子を含めて、優しい人が構成する一家で、育ったのだと、判断をしました。権高い心情はない実家で、育てられている人です。::::::::挿入から元へ戻ります。

 で、内田光子、野島稔の、二人とも、国内外で、高い評価を受けたのですけれど、芸大卒ではないです。これは、美術の世界でも、不利になる事なのだけれど、音楽の世界も、きっと、似た様な条件が存在しているでしょう。狭い世界で、いろいろ、嫌なことがあったはずです。

 1990年ごろだったと思うのだけれど、野島稔が、鎌倉の旧中央公民館で、演奏会をすることを知り、行ってみました。決して、悪い会場ではないです。立派なホールです。ただ、客席数は、500程度。で、きっと彼と、同じ鎌倉の教室で、幼いころ、一緒に、学んだ人たちが、計画をしてあげたのだと思うけれど、500の席が、300程度しか、埋まっていなかったのです。

 野島稔って、マスコミ的に有名な人ではないからでしょう。特に東京音大の学長になる前は、そうでした。中村紘子とは、違います。したがって空席が目立ちました。すると、館内放送が、こういうのです。「プログラムの変更があります」と。

 私はその時は友達と一緒でした。で、友達には、それを言わないのですが、内心では、・・・・・今までは、非常にいい人だと考えていた、野島稔ほどの人でも、手抜きをするんだ。お客の数と、演奏効果を計算するのだ・・・・・と、思い至ってしまいました。

 だって、プログラムがすべて、有名な曲へと変更になったからです。大衆がよく知っているクラシックのピアノ曲へと、変更になったからです。

 ところが、演奏が始まると、決して手抜きではなかったのでした。大変美しく、かつ情熱のこもった演奏でした。1500人は集めていた横須賀の公会堂の時より、彼は、真剣かもしれないと思いました。その上、プログラムが変更になって、わかりやすい曲ばかりだったので、余計、聞き取りやすく、感動しました。あの会場に吉田秀和さんが、本日は、いないと言う事が判って、ああいう変更になったのかもしれないです。だけど、それが、(はっきり言ってしまうと)場末の小さな会場だという事で、NHKが録画放映するわけでもなかったのは、とても、もったいないことでした。

 それが、1990年代初頭の事でしたが、2000年を過ぎてから、埼玉県の、ホール(多分、彩のホールだった)で、名演奏があったそうです。どこかの新聞で読んだのですが、「これをNHKが放映しないし、CDにもならないのは、もったいないことだ」と、誰かが詠嘆をしていました。

 当時の日本では、中村紘子、中道郁代、小山実稚恵、館野泉などが全盛期であり、メディアの扱いにおいて、野島稔は、弱いのでした。

 で、鎌倉の中央公民館での演奏会での、野島稔に戻ります。当時の、野島稔は、40歳前後だったわけですけれど、とても、やせていて、長髪で、「うわ、顔そのものが、ショパンになっている」と、思ったほどでした。それは、今から、30年は、前の事だったけれど、「ああ、野島稔にも何らかの日本特有の苦しみがあるのだわ。芸大派閥から、漂ってくるものでしょう」と、思い至ったのでした。そして、学長に選ばれる前は、アメリカに行きっぱなしだったはずです。

 ところで、私は、好みが、シビアで、その大衆的知名度で、心が、揺るがされることが無いのだけれど、NHKの【クラシック倶楽部】では2021年の秋から、ピアノ月間だと言う事で、クンウーパイク、清水和音、レオンスカヤと、私が、好きな演奏家の、いい演奏がつづきました。

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副題4,『私は、どこかで見たのです。ごく最近NHKで、放映をされたのですが、N饗が、尾高忠明指揮で、 Bruce (Xiaoyu) Liu, Canada(2021年度の、ショパンコンクール第一位受賞者)と、何かを共演する場面をちらっと。非常に印象的だったのは、指揮者、尾高が、Liuを、愛おしそうに、そして、大切に扱っていたことだった。』

 これは、ショパンコンクールの結果が出る前の事だったと、思うのです。Liuがそこで、一位をとる前の、録画だろうと思うのです。・・・・・そう、想像をしました。が、違いました。クラシック音楽館の方に、どうしてか、その情報がなかったので、そう考えたのですが、

今、苦労をして、正しい情報を、見つけました。N饗の定期演奏会、プログラム(というサイト)から、見つけました。

NHK音楽祭2021 ~未来へ~:NHK交響楽団公演

2021年11月8日(月) 開演 7:00pm

Bunkamuraオーチャードホール 

指揮:尾高忠明
ピアノ:ブルース・リウ(第18回ショパン国際ピアノコンクール 第1位)

  • ショパン/ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11
  • ショスタコーヴィチ/交響曲 第5番 ニ短調 作品47

ショパンコンクールは、10月23日が、最終結果発表らしいのです。だから、これは、Liuにとっての凱旋公演に等しかったのでした。だが、プログラムは、一年以上前に組まれていると、見ます。すると、Liuは、ショパンコンクール第一位をとる以前から、N饗側が、共演をしたいと、願っていたピアニストだと、なります。N饗の眼力が高かったと、なります。

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副題5、『そして、圧巻が、アレッサンドロ・タヴェルナのリストの、ピアノ協奏曲、第二番だったのだ。指揮は、沼尻竜典で、実際の演奏は、11月14日、東京芸術劇場だった。これが、クラシック音楽館、1月9日放映分として、出てきたのだった。この録画・放映・演奏会で、私は、大きく感動したうえに、いろいろ、考えさせられた』

第1942回 定期公演 池袋Aプログラム

2021年11月14日(日)開演 2:00pm

東京芸術劇場 コンサートホール 

指揮:沼尻竜典※
ピアノ:アレッサンドロ・タヴェルナ

※当初出演予定のファビオ・ルイージ(指揮)から変更いたします。

  • ウェーバー/歌劇「魔弾の射手」序曲
  • リスト/ピアノ協奏曲 第2番 イ長調
  • フランツ・シュミット/交響曲 第2番 変ホ長調

 最初に指揮者、沼尻さんの、ピアニスト紹介が、有り、曲目の紹介もありました。沼尻さんの解説によると、このプログラムは、ファビオ・ルイージが選んだ曲目ですが、新コロナ感染拡大の、影響で、来日できなくなったために、急遽、沼尻さんが、代役で、指揮を執ったと、言う形らしいのです。

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ここで、ファビオ・ルイージについて、ニュースというのを見つけました。。で、コピペをさせていただきます。JAPAN ARTSというサイトからです。

2021/4/9

ニュース

ファビオ・ルイージ NHK交響楽団 首席指揮者に就任

ファビオ・ルイージが2022年9月より3年間、NHK交響楽団の首席指揮者に就任することになりました。
ルイージは、2001年より定期的にNHK交響楽団との共演を重ねつつ、ドレスデン国立歌劇場管、ウィーン交響楽団、メトロポリタン歌劇場など、自らが率いる数々のオーケストラやオペラハウスとの来日を重ねてきました。
オペラを知り尽くす世界でも屈指の手腕とともに、ドイツ・レパートリーを中心とした明晰かつ美しく情熱的な指揮ぶりは、多くのファンを魅了してきました。
長年、ルイージが尊敬するサヴァリッシュやスウィトナーの音楽を感じるオーケストラとして、 敬意をもって音楽を共にしてきたNHK交響楽団との関係が成熟し、新たな時代の幕開けとなります。

ファビオ・ルイージ Fabio Luisi (指揮者,Conductor)
ジェノヴァ出身。ダラス交響楽団音楽監督、チューリッヒ歌劇場音楽総監督(2020-21シーズンにて退任予定)、デンマーク国立交響楽団(DNSO)首席指揮者を務める。
2022年9月よりNHK交響楽団首席指揮者に就任予定。:::::::::::

 9月から、正式なプログラムが始まるわけですが、そのお披露目として、昨年の、11月13日と、14日に、東京芸術劇場で、演奏会が組まれる予定でした。しかし、ファビオ・ルイージが、来られなくなったのです。

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副題6、『主席指揮者に、9月から、就任するファビオ・ルイージは、イタリア出身なのだ。それで、名誉あるお披露目に、イタリア出身の、ピアニストを選んだと、思われる。それが、アレッサンドロ・タヴェルナだった。

 ところで、11月13日と、14日に、池袋の芸術劇場に行った人、および、N饗のライブ配信を見た人、および、1月9日の、クラシック音楽館を見た人が、みんな、「あれっ。アレッサンドロタヴェルナって、どういう人物だろう?」と、思ったらしくて、急にCDの広告がたくさん、アップされる様になっていました。で、画像検索という頁もできていたのですが、古い写真ばかりでした。

 中に一枚だけ、当日の写真らしいものがありました。撮影者は、テレビ画面からとったものだと思われる画像ですが、最近のタヴェルナの姿に、思いを及ばせる、ある種のイメージが、正確に反映をされている。著作権があるし、私は、ツィッターの利用に詳しくないので、ここに、リンク先を示したり、共有したりすることができないのですが、

 撮影者は、N饗のフルート奏者、梶川真歩さんで、@kajikawamahoの、2021年11月13日篇を読むと、好意的で、読むに楽しいツィートが出てくる。御覧を頂きたい。

 彼女は言います。「弱音部が繊細で、美しく、お姿は、リストそのものだ」と。

 清塚信也さんによると「リストは、当時の大スターだった」そうですが、まさしく、今の、タヴェルナは、音楽家としては、凄絶といってよいほどに、ムードがありました。もし、梶川さんが、言う通り、タヴェルナが、リストをほうふつさせるのだと仮定すると、リスト、そのものも、すごい姿ではありますね。

 美形というか、精霊というか、魔物というか? ともかく、人間離れした容貌なのだけれど、とても、美しいと感じるし、何よりも・・・・・音楽家ですね・・・・と、感じるのでした。

 そして、演奏そのものが、ものすごくよかったです。指揮者の沼尻さんも、番組冒頭での、解説でも、褒めていましたし、会場でも、とても、好意的でした。その上、N饗も、長時間のアンコール、【リゴレットによる、演奏会用パラフレーズ】を、座って、じっと見守っていたのです。10分以上の長さだったと思うのですが・・・・・

 アレッサンドロ・タヴェルナは、コンクールの受賞履歴としては、リーズ国際ピアノコンクール第三位しかない模様です。浜松国際で、日本人作曲家の曲を演奏する、奏者として、賞を受けているらしいが、ショパンコンクールとか、チャイコフスキーコンクールの第一位、受賞者というほどに、輝かしい履歴がないです。

 昔、クンウーパイクが、コンクールに出ないことの良さを、説明をしていました。私は、彼の言うとおりだと、思っています。パイクは、顔は、美形ではないです。若さも、もうない。しかし、演奏は、美しいです。

 反田恭平も、自身、・・・・・コンクール優勝が、自動的に、良き音楽家を作るものではない・・・・・と、知っていますよね。だが、将来、新しい音学大学を、作るためにも大金が必要で、そのためにもショパンコンクールで受賞することが、必要だと、考えたと、なんとはない形で、言っていますよね。

 反田恭平君にどうしても言いたい。「今、あなたが、発言している様なことは、もう、発言するのはおやめなさい。内心で考えるのは自由です。そして、着々と、その方向に向かって、進むのも結構です。しかし、外へ向けて、日本語で、発言するのはやめなさい。瞬時に世界に広がり、パソコン画面上では、英語に翻訳されるのだから」と。「心根が、美しくないと、見えるから」とも。

 ところで、反田君と、N饗、原田慶太郎指揮の、放映が、もうすぐあるらしいです。見逃さない様に、注意していて、丁寧に、聴きましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 あの赤いピアノは、日本の販売店では、木地特別仕様品として、3810万円とありました。あのピアノって、たぶんシフ自身の所有ではないかなあ? 二本の販売店の値段票は、エクセルの表だけで、写真がなかったので、もし、赤いラッカー(または、漆仕様)だとさらに高いのかもしれません。

コメント
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珍しく音楽に関するコメントが来た。しかし、隠れファンというのは嘘の筈で、まだ実際には生きている井上ひさしが書いたと私は考えている

2022-01-10 01:39:33 | 政治

 これは、内々に、書く文章内のメモです。しかし、公開をした方がいいと判断をしました。で、その、文節を以下にコピペします。

::::::::

珍しく、普通の人からだと、思われるコメントが来た。ただし、如何にも、喜ばせてくれる内容だけれど、本当の隠れファンが書いたものではなくて、井上ひさしが書いたものだと、思われる。彼は、以前と比較すると、方針転換をしたと言う事であろう。それだけ、今、書いて居るものが、彼ら、鎌倉エージェントにとって、困ると言う事だ。それで、音楽の話題へ、転換をさせようと言う事だと、思う。こういう風に判断をしたのは、「演劇についての、批評が欲しい」と、言うポイントと、「水谷八重子を知っているはず」という文言で、そう判断をした。

::::::::

 で、このポイントを、正確に分析するために、そのコメント群を、ここに、コピペしておきたい・

コメント日が  古い順  |   新しい順

おっしゃる通りです (隠れフアン)
2022-01-09 02:40:45
 はじめまして。時々拝見している者です。私も反田氏のインタビューを聞いておりましたが、私が漠然と感じていた違和感を完璧に文章化されているのを見まして思わず投稿いたしました。「今の若者の語りってこういうものなのかなあ、私が古いのかな」と思っておりましたがやっぱりおかしいですよね。うぐいす様の音楽・文学・演劇に関するコメントはたいへんおもしろく、共感できることが多いので自分の膝を打ちまくります。またこの人(事柄)はこういうことだったのだ、と教えていただくこともしばしばです。これらは生半可な教養で書けるものではありませんね。わたしがこれから特にお願いしたいのは演劇に関するコメントです。たとえば先代の水谷八重子氏のようにうぐいす様の世代が最後の舞台観客という俳優はたくさんいます。この方たちについて深い洞察力を持ったコメントをお書き願えればたいへん嬉しいです。と、虫のいいお願いをしてしまい申し訳ありません。
 
御礼 (uguisudesu.)
2022-01-09 22:46:06
有難うございます。先ほど来、
 
続き (Unknown)
2022-01-09 22:51:07
NHK クラシック音楽館で、アレッサンドロ・タヴェルナの、リスト、ピアノ協奏曲、第二番と、あんコール曲リゴレットによる、演奏会用パラフレーズを聞いて、久しぶりに、ピアノを堪能しました。
普通の日には、この番組をあまり聞かないのです。だけど、本日は、他の番組がないと、感じたし、録画番組も、たまたま、なかったので、ここにチャンネルを合わせました。大変幸せな時間を過ごしました。プレミアムシアターが演劇だったのも、この番組を聞いた、理由でした。
アレッサンドロ・タヴェルナとは、日本には、まったくしられていないピアニストだそうです。この続きは、ブログとして書きます。野で、それをお読みいただきたいと、思います。どうかよろしく。
 
続き…こちらが、正です。 (うぐいすちゃんです。)
2022-01-09 23:01:03
NHK クラシック音楽館で、アレッサンドロ・タヴェルナの、リスト、ピアノ協奏曲、第二番と、あんコール曲リゴレットによる、演奏会用パラフレーズを聞いて、久しぶりに、ピアノを堪能しました。
普通の日には、この番組をあまり聴かないのです。79歳なので、交響曲を聞くのが苦痛になってきているからです。だけど、本日は、他の番組がないと、感じたし、録画番組も、たまたま、レコーダーを取り換えたために、貯蓄が無かったので、ここにチャンネルを合わせました。

大変幸せな時間を過ごしました。プレミアムシアターが演劇だったのも、この番組を聞いた、理由でした。すみません。演劇は、時々、NHK BSPの、プレミアムシアターを録画してみるだけですが、最近では、時間が無くて、ほどんどみられません。私が覚えているリアルな世界(舞台)での、俳優は杉村春子と、太地喜和子、佐藤オリエ程度です。しかし、それらの舞台でも、主役よりわき役に目が行きました。ただし、今では、それらは、結婚前の体験であり、プログラムが無いので、わき役が、どういう名前だったかをしっかりとは憶えておりません。恐れ入ります。

ピアニスト、アレッサンドロ・タヴェルナとは、日本には、まったくしられていないピアニストだそうです。

ただ、素晴らしかったです。池袋に、聞きに来ていた聴衆は、皆さん、それを理解なさったと、思います。大変な拍手でした。アンコール曲は、10分以上の長さだったと思いますが、N饗のメンバーは、時ッと付き合ってあげていました。この続きは、ブログとして書きます。ので、それをお読みいただきたいと、思います。どうかよろしく。22-1-10の、午後という日付けで書きます。
 
ショパンコンクール審査員 (うぐいすです。)
2022-01-09 23:23:55
上の
章の、原文を今、推敲・加筆をいたしました。で、次の節を加えております。良かったら、是も、お読みいただきたいです。

この文章に二週間後に加筆をします。ホールで、午前二時過ぎに結果発表がありました。その時、ホール固有の構内放送として、「ツィンマーマンが何とか・・・・・」というのがうっすらと、聞こえました。で、それは、NHKがしゃべっている事ではないので、うっすらと、聞こえただけですが、有名なツィンマーマンが、今回の審査委員長だった、可能性があります。

 NHKテレビは、ショパンコンクールで、特番を作るのだったら、そういうところをきちんと日本語で放映してほしいです。日本人が審査員だと、教えてくれるのでしょうが、日本人が審査員として含まれていなくても、17人全部の名前を教えてほしいです。
 
 

 一番目のコメントですが、隠れファンと書いてあります。これが、本当だったら、うれしいことですね。そして、例の通り、私は性善説の人なので、三時間ぐらい、この人が本当の隠れファンだと、考え続けました。しかし、お風呂に入っている間に、ああ、やはり、違うでしょうね。あれは、公的には、自分を死んだことにしているが、実際には、生きていて、大きな謀略を考案している、井上ひさしが書いて居ることでしょうと、思い当たるのでした。で、彼が、増長するのを抑えるために、「裏側は、わかっていますよ」という、この一文を書きました。

 どうして、そういう風に判断をしたかというと、

 まず、一番目と二番目の間に、説明文を入れようとしましたが、入れられません。で、

 そこで起きたこと=システム異常を書くと、こうなります。実は、返事が入力できないのです。これは、しょっちゅう起きることで、慣れている妨害ですが、そういう妨害が起きる時は、裏に、警察庁か? 古村浩三君が隠れています。

 で、なぜ、返事を書くのを妨害されるかというと、私にファンが居ると、言う事実===実際は、誤解ですよ。だけど、一般的な人は、そういう風に真っ正直に取るでしょう。と言う事となって、それが、原因で読者が関心を深めるのを恐れているのです。

 しかし、私はシステム異常を突破する技術はすでに持っています。何千、何枚回も、それに遭遇し苦しめられているからです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 次に演劇についての、文章を書いてくださいと、在ります。これこそ、井上ひさしの独壇場という分野です。その上、赤木俊夫の妻、正子さんというのが、首から下を、、絶対に、NHKの、カメラに映させないです。以下の文章の中で、この女性は、井上ひさしが主宰する劇団、こまつ座の女優だろうと、推察しています。

石井秀樹氏は最近ちょろちょろし過ぎ。赤木俊夫とは架空の存在だ。青地が1978年に突然に我が家に設定をされた事が諸悪の根源だ△

2022-01-06 22:32:08 | 政治

 見事にそれが当たっているのでしょう。それで、一応防衛上、コメントで、脅かしておこうと、言う内容だったと、思います。

 井上ひさしにとっては、これが、ばれても、ばれなくても、どっちでもいいのさと言う事でしょう。ばれて、これが、井上ひさしが書いたものです」と言えば、一般人が、彼女の妄想は、ひどすぎると、考えるだろうし、

 ばれないで、彼女がのっかってきて、鎌倉雪の下二丁目の、小さなや都内の出来事を書かないで、音楽について、テーマを移動させれば、それは、それで、こっちが勝ちさと、うそぶいている事でしょう。

 で、私も両面作戦で、こういうブログを書いて居ます。実は、真実を書きたいというのが、常に、自分を支配している、モチベーションです。もう、結果が、特になるか、損になるかは、考えておりません。

 この際に、最も大切なことは、JCOMへの乗り換えを利用して、このブログを自然消滅させてしまおうと、言う大きな罠に比較すると、この、隠れファンからのコメントというのは、相当に、小さいけれど、どんな罠でも、引っ掛かりはしませんよと、宣言をしておくことが大切なのです。

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 最後に今、私が考えていることを語りたいと思います。それは、蒸気のコメント群からは、離れますが、・・・・・井上ひさしが、また、暇になったのでしょうね・・・・・と言う事です。

 かれは、NHKテレビの編成とか、朝ドラの筋、大河ドラマの、配役など、庶民を洗脳する仕事を、やっていて、相当に忙しかったのでしょうが、それが、ひと段落したのでしょう。

 朝ドラ、【カムカムエヴリバディ】の、最初の主人公、上白石萌音、の役名が、やすこ・・・・・だったこと。

 これは、1998年当時、京都にあったセイアントいと、言う美大を卒業して、PRATT INSTITUTE の大学院に、入学してきた当時、25歳だった、きわめて強いヒステリーを持っていて、私の仕事の邪魔をした上に、塩化第二鉄、原液という、強アルカリ性の、毒液を教室の床にぶちまけてしまった、女の子の実名です。この一件が、大きな寮(1000人ぐらい収容できる二棟のダイビル)を通じて、全学生に広まり、

 結局女性教授の、クラスを受講する、ひとがだれもいなくなり、女性教授は、大学をやめないといけなくなったと、言う結果に終わっています。やすこは、女性教授が私に対して、激しい嫉妬心を抱いていることを見抜いて、女性教授の受けが良くなるだろうと推察して、私をいじめぬいてきたのでした。

 有名な美大の、教授でさえ、激しい嫉妬心を抱くのですから、ショパンコンクールの審査員が、反田恭平を生意気だと、見たのはありなのです。彼らとか、指揮者各位でも、反田は、生意気だ。勘違いしすぎだと、考えている有名な音楽家は、いっぱいいるでしょう。

 反田恭平は、北海道育ちだそうです。現在27歳で、しかも、子供の時から、各種コンクールで、優秀な成績を収めているそうです。都会だと、それでもいじめられるのですよ。有名中学の担任教師から。

 東京圏で育つと、今の反田恭平のような言動は生まれないでしょう。しかし、田舎で育つと、長瀬いうみとか、保坂航子(本名は涼子です。しかし、山口画廊の、オーナーだった、山愚日みつ子さんが殺される原因を作った彫刻家なので、私が、その委細を詳細に書いて居るがために、改名した模様です。この人は、福島県育ちで、長製海は、秋田県現住です。田舎の人を小ばかにするために、こういうことを言っているわけではなくて、田舎にいると、ちやほやされやすく、お金も自治体から、ぐんぐん、入ると言う事を言っています。だから、自己肥大をして傲慢になりやすいのです。東京圏だと、相当有名でも、ちょっと、目立つことをすると叩かれます。吉祥寺のだんだら、紅白屋敷など、結局は、押しとおしたらしいのですが、子供や、孫の代になって、苦労をするのではないかなあ。いないのかしら?

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 反田恭平は、おしゃれの仕方もだめなのですよ。ご本人は「侍を、イメージしている」と、語っています。しかし、アメリカのカトゥーン(昔の時代の漫画)で、描かれる、中国人とか、日本人のカリカチュアと、そっくりです。

 駄目ですよ。あんな格好をしていたら。彼は、日本の大学は、どこを出ていますか? 教授が注意してあげないと。それから、ヨーロッパの方を向いているので、アメリカの人種差別の鋭さと、深さを知らない様ですね。インテルのソフトプログラマーをしていて、シリコンバレーと、日本を行き来していた弟が、アメリカ人って、結構建前と本音が違うからねと、言っていたが、その通りなのです。アメリカ人から見ると反田君のひげと、髪型は、昔の漫画に出てくる東洋人そのものなのです。イエローと言って軽蔑される種族の事です。

 プロダクションには所属していないのでしょうね。梶本とか、所属名が書いて居ないので。で、マネージャーからの注意というものもない。18歳過ぎると親も注意ができないです。・・・・・ただし、先達はあらまほしきものかは、と言って、絶対に尊敬すべき人を作って置き、態度を、含めて、常に指導を仰ぐべきなのです。

 角田君というのはIT技術の熟練度を持っている模様です。だから、私が言っている、・・・・・日本語で言っても、それが、英語には、簡単に翻訳ができるのだ。パソコン画面上で。だから誰でも、それを把握できてしまう。よほど注意して発言をしないといけないと、言う事を知っています。しかし、反田君は、ピアノ一筋で、生きて、来ているので、そういうネットの世界の高度な技術を、知らないのでしょう。かわいそうにと思います。

 あさイチに出たときに、同じ北海道出身の、大泉洋が、出ていたので、彼が、「反田君、こういうことを言うのは、まだ早い。上位の人の、反感を買うよ」と、後から電話ででも、言ってあげたらよかった。

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 もう一度、井上ひさしに戻ります。隠れファンと称する、コメントの中で、彼は、こう言っています。

:::::::::うぐいす様の音楽・文学・演劇に関するコメントはたいへんおもしろく、共感できることが多いので自分の膝を打ちまくります。またこの人(事柄)はこういうことだったのだ、と教えていただくこともしばしばです。これらは生半可な教養で書けるものではありませんね。わたしがこれから特にお願いしたいのは演劇に関するコメントです。たとえば先代の水谷八重子氏のようにうぐいす様の世代が最後の舞台観客という俳優はたくさんいます。この方たちについて深い洞察力を持ったコメントをお書き願えればたいへん嬉しいです。と、虫のいいお願いをしてしまい申し訳ありません。:::::::::

 今、慌てて、初代水谷八重子について、ウィキペディアを調べました。すると、初代は、1905年生まれだそうです。私は三鷹の大学に通学していて、授業がみっちりあって、芝居など、新宿の、紀伊国屋劇場で、民芸とか、文学座を見るだけでした。その後、60を過ぎてからベニサンピットへ誘われたりしましたが、新派は、絶対に見ない人なのです。その上、私が60代になって、余裕ができた時には、水谷八重子は、95歳以上です。どうして現役の舞台を見ることが出来るでしょうか? こういう絶対にできないことで、・か・ら・か・ってくるところが、井上ひさしの特徴なのです。それで、すぐ彼が書いた文章だとわかります。

 そういえば、テレビドラマ、舞台、ありとあらゆるところで、宮沢りえが、出没し、いい役をもらっています。これも、井上ひさしが、いまだ、実際には、生きていると、言う証拠のひとつです。

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