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銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

ミミが、渡米前に日本で働いていた会社って、結構、マガジンハウス社あたりだったりして????

2025-06-11 00:04:13 | 心理学

ポートフォリオの話

 これは、長い小説の一部です。『黄色いさくらんぼ』で描いたエピソードを更に、深く、深く、追及している話の一つです。で、よくわからないなあと、お考えの方は、読むのを抜かしてください。

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 百合子は、美大出ではないので、美術家同士で、お茶のみをしたり、お酒を呑んだりしない。で、美術用語で、知らない語彙がたくさんある。その一つにポートフォリオというのがある。簡単に言ってしまうと版画集だ。パリでは、ヨーロッパじゅうの有名版画家13人を集めて、黒い箱入りの美麗な版画集を、工房長が、おつくりになった。日本だと、高価な日本画は、桐の箱に入っている。で、箱書きとういうのが重要だ。だけど、どうも、パリでは桐というものは使われておらず、したがって、樹木の木目などを隠す為に、黒い紙【ただし、皮革風な物】を張って、そこに金色の留め金や、蝶番をつけた、30cmX30cmx1.5cmぐらいの箱に、有名版画家13人の、28cmx28cmぐらいの版画を収めたものだった。

 一人の作家が、7万円位で、20人ぐらいの顧客に売る。すると、ヨーロッパから集まった13人の版画家は、一人が、100万円は、かせげる事となる。

 この値段設定は百合子特有の見て来たような嘘を言いの一つだが、大体は、当たっていると考えている。五万円の定価をつけるとしても、一人が、30人の顧客に売れば、150万円で、材料費や、集まる為の旅費などを徐いても、一人100万円の収入になる。ただ、一人ひとりの作家が、同じ版画を、300枚から400枚は、摺らないとならない。

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 百合子がニューヨークへ来た目的は、ヘイター方式というカラフルな銅版画の世界最高峰の、作家や作品を見たい、そして、自分も同じレベルの物を作りたいと言うものだった。ところが、このヘイター方式というのは莫大な材料費を消耗するので、本当のことを言えば、パリでも、東京でも、ニューヨークでも、制作している人がいなかった。日本では、ユマニテという画廊で、一版多色摺りと、言う方式の版画を発表している有名作家がいるが、それは、ヘイター方式ではない。

 というわけで、三回も大金をかけて、版画修業に出かけたのに、ヘイター方式を学ぶと言う意味では、無駄だったかもしれない。

 しかし、百合子は、全く後悔をしていない。1998年のパリ、1999年の美大・プラットインスティテュート、2000年の、ロバートブラックバーン氏の工房の三つの体験は、百合子の生きる力を増幅させ、本人自体、そこまで生きることはできないであろうと思っていた、82歳を超えさせ、

 股関節骨折(=大腿骨骨頭骨折)という大けがをしたのにも関わらず、生きていまの病院を退院するつもりになっている。

 そして、子供たちは、エレベーター付きのマンションに引っ越ししなさいと言うのだが、家賃を支払うのを嫌がって、あの、自室までは、石段+階段を、190段上がらないと到達できない、雪の下2-3-7の家に帰るつもりになっている。

 この骨折だけど単純に転んだわけではなくて、渡辺マキ夫人という女性の、小さな、だけど、残酷ないじめが原因であるし、それをすでにちゃんと書いているので、帰ったら、半障碍者となったその弱い体を、笑いのめされて、ご近所人間たちから、いろいろ、また、また意地悪をされる可能性がある。実動15軒、動く大人、26人だから、ある一人の女性(=ボス)の支配によって、結束しやすい世界なのである。

 百合子は、自分からは他人に近寄って行かない。どうしてかというと、この鎌倉に引っ越してきた時期(=1984年)には、すでに、子供が成長をしていたので、子供のために、ご近所付き合いをする必要がない。で、一直線に、創作の世界に入ろうと思ったからだ。専業主婦でありながら、同時に創作者であると言う生活は無理なのだ。他人が自由自在に訪問をしてくるからだった。で、15軒の住民の中に、友達というものがいない。これが弱みになっている。

 しかし、なぜ、パリの版画工房で制作されていた超・高級な版画集の話から、急に鎌倉雪ノ下へ飛んだかというと、

 ニューヨークの1999年と2000年の体験こそ、百合子をものすごく強くしたという自覚があるからだ。その上、今回の骨折という、死ぬと、思うほどの痛みの体験、子供たちが実際に、百合子を死ぬだろうと判断した体験、そういうものがさらに強さを増したのだった。

 そのニューヨークに知人も住まいもないのに、ぐ、ぐーんと一人で出かけたのはパリの体験による、自信があったからだ。一人で、十分外国で暮らせるという自信を、1998年のパリで得た。フランス語より、英語の方が自由に使える人間だから、ニューヨークなんて、軽いものだと、思って出かけている。

 しかし、是だけは、予想外だったのは、最初に日本人と知り合う時に、常に、お互いに自己紹介をする仕組みがあり、その際に、正直に自分の条件を言ってしまう事で、相手からの嫉妬を招き、いじめられ始めることだった。白人は百合子にさしたる関心を示さない。アメリカは、多民族国家であり、日本人だからと言って、パールハーバー時代ほど、いじめられるわけでもない。特に現代アート系・版画家なんて、教養が高い方だから、外人からは、さしていじめられない。

 ただ、日本での、1997年までの、経験とは全く違っていたのは、三か月しかビザがないと言う形だったことだ。

 で、自分の仕事の邪魔をする、日本人女性とは喧嘩をして、常に勝ってしまう事だった。言葉で、現在の相手と、自分が置かれている状況を説明するだけで、圧倒的に勝ってしまうのだった。

 驚いた。本当に驚いた。子供のころから喧嘩などしたことが無かった。妹との間が、8歳離れているので、兄弟げんかなどしたことが無かったし、学校では、一年の時から、とびぬけて勉強の上で一番だったので、喧嘩を売られたことなどなかった。そして、10歳から住んだ日吉という街の、まあ、上品さ、当時は、一流校とみなされていた横浜国立大学附属中学校の同級生の上品さ、次に進学したお茶大付属高校の同級生の上品さ、その次に進学した国際キリスト教大学の友人たちの上品さ、そういうものに囲まれてきていたので、喧嘩などする必要が無かったのだ。

 ところが、1999年とか、2000年までに、ニューヨークに来ていた日本人女性たちは、非常に勝気だった。中に一部上場企業(今でいうプライム企業)の社長のお嬢様がいて、その人だけは、勝気ではなく、百合子に嫉妬もしなかったが、他の日本人女性たちは、みんな勝ち気で、百合子に嫉妬をした。そうなのだ。身の上話など、しなければよかったのだ。だが、百合子は、そのころまでは、全くの・ねんね・さん・で・あり、性善説の人であり、他人を警戒する意識がなかった。で、正直に全部を言うのだった。

 で、日本在住の友人だと、それほど、嫉妬しない。自分は東大卒で、主人も東大卒です。子供も東大卒です。なんていう人だと、「へえー。百合子ちゃんって、版画家になったんですって。でも、それって、司法試験を通らなくても、なれるわよね」というぐらいだ。

 ところが、ニューヨークに来ている二十代から、四十代までの、日本人女性というのは、激しい嫉妬を示す。どうしてかというと彼女たちは、日本で何らかの挫折を経験しているのだった。で、ニューヨークという輝く都会を舞台にして、一発逆転の出世をして、日本にいる、昔自分を軽蔑した人間を見返してやろうと言う強い意志を持って居るのだった。

 挫折の内、もっとも大きいのは、失恋だろうと思う。

 で、一発逆転で、勝利するためには、日本で、自分を捨てた男より、上等な男と、ニューヨークで結婚することだ。白人で、背が高くて、収入も多い、パイロットをしている男性などと、結婚を出来たら、それが、終点である。

 アメリカには、パーティ文化があって、男女交際が自由だと、推察してやって来る。だけど、それが、実際にはそうでもない。パーティだって、優秀な男性が、出席する同じパーティに出席するためには、それなりの階層に入っていないとだめなのだ。招かれないし、出席できない。比較すると、日本で就活で一流企業に入り、社内恋愛で、優秀な男性を捕まえる方が容易だと、思うほどだった。

 もう一つの出世の道があって、それが、草間彌生とか、オノヨーコになる事だった。

 しかし、彼女たちは、草間を全く知らないで、ニューヨークに来ている。

 まず、オノヨーコは、明治期に、華族になった家の出身である。草間は実家が大金持ちだと言う点だ。戦後食糧難時代に、カボチャの種を売って、大儲けをした種苗家が実家にあたる。彼女は、自分は強迫神経症で、精神病院で暮らしているなどとテレビ特番内で言っているが、実際に長電話を交わした、百合子に言わせると、冷静も冷静な普通人で、かつ、大勢の使用人を自由自在に使い切る、ビジネスウーマンでもある。

 また、基本的には、美的才能が有って、それを京都芸大時代に、自覚していて、自信満々だったと言う点もある。

 それに比較して、百合子が、知り合った1999年の美大在学中や、下宿の日本人女性たちも、2000年のNY一古い版画工房で、しりあった日本人女性たちも、実家がオノヨーコや、草間彌生ほど、裕福だとは見えなかった。

 ただ、一人だけ、40代だけど、お顔もきれいで、性格もよくて、日本で美大も卒業をしている筈だと言う女性、仮名・桜子さんがいた。

 しかし白人とは結婚をして居らず、貧乏暮らしをしていた。

 百合子は彼女を見ながら、「あなたねえ。時代の流行に毒されましたね。日本にいてサラリーマンと結婚をして夫の給料で画家をすることを、恥だと思う、20代を送ったのでしょう。‥…ちなみに2024年の現在、この人、桜子さんは、67歳である。

 この2000年にはまだ、その死を百合子の方が、知らなかったが、有名画廊のオーナー、山口みつ子さん(2010年1月死去)も、瓜南直子さん(日本画家、2012年6月死去)も、時代のメディアがもてはやす風潮に毒された人の一人だった。経済的に自立しないといけない。結婚もお見合い結婚などもってのほかです‥・・・というそういう風潮に毒されて、貧乏になった人たちだった。

 さて、この桜子さんだが、日本での、失恋等の挫折があったかどうかを知らない。だけど、純真で不器用で、見ていると、かわいそうで、かわいそうで、いたたまれなかった。

 ところで、この桜子さんを常に家来として使っていた図太い女性、ミミ【仮名】がいた。ここで、やっとこの章の冒頭に戻る。

 いや、長い挿入が入っていて、申し訳なかったが、

 2000年の10月に、ロバート・ブラックバーン氏のアトリエで、突然、ミミが、「ポートフォリオ、ポートフォリオ」と言い出し、大騒ぎを始めたのだった。

 その語彙は、百合子をいじめる為の語彙だった。版画集を作りたいと突然言い出した。それに百合子を入れないことが、効果的ないじめにあたると思って、言い始めた計画だった。

 だが、ミミは、版画工房に来ている時間が短いので、百合子の制作態度も知らず、百合子の作品も見ていないので、百合子の実態を、全く知らないまま、ただ、ただ、遺産で三か月ニューヨークへ版画修業に来ている事。子供は二人いて、すでに、大学を卒業し、社会人である事、夫は日本社会の繁栄を築いていた、自動車会社の研究員である事などを、聞いて、激しく嫉妬をして、自分の方が上であることを示したいと思っていて、

 「ポートフォリオ」という語彙を出してきたのだった。

 この2000年にはまだそれを知らなかったが、ミミは、貧しいペルー人の版画家ホアレスを死に至らしめた、恐ろしい女性である。これは、小説として書いているニューヨーク物の一部分なので、ミミがホアレスを飢え死にに、至らしめた、すごい女性であることはすでに書いている。

わら半紙でお弁当を包む、貧しい版画家・・・・26年前の彼を今思い出している

2025-06-07 10:36:14 | 心理学

 さて、本日は、ミミがどうしてあれほど、勝気なのかの分析に入りたい。これから先は、例の百合子特有の見てきた様な嘘を言いの一つだが当たらずとも言えず、遠からずだと思っている。

 ミミの父親は、あまり高収入を得られなかったそうである。(つまり、大卒ではない可能性が高い)。しかし、母親が賢明な人で、良く働いたので・・・・・ミミは、四年制大学を卒業している。でも、絶対に卒業大学名を言わないので、関東圏の国立大学である可能性が高い。栃木大学、埼玉大学、群馬大学、茨城大学の順で、入学し卒業した可能性が高い。学部は、教育学部(または、学芸学部で・・・・・美術教師を養成する学部)である可能性もあるし、他の学部である可能性もある。高校卒までは、偏差値的に優等生だった可能性がある。

 で、時代の風潮が桜子さんに、不利な人生を強いていると言っているが、ミミも当然、時代の風潮の影響を受けている。

 1970年代から、1980年代にかけて、日本は、好景気に沸き、私企業が、強い利益を上げており、一部上場企業に勤務することが、勝ち組になったという証明だった。で、教師という職業が、嫌われていた時代だった。で、・で・も・し・か・先生という言葉が社会を泳いでいた。先生に・で・・もなるか。または、先生に・し・か・なれなかったと言う自嘲を込めた、語彙である。

 ミミは社会の風潮に敏感だから、先生は好まない。で、東京の一流企業に努めたい。で、四年制大卒の女性の勤務先職種として、出版社に勤務するのが最も勝ち組とされている。今は、紙の出版が不況なので、変わったかもしれないが、長らくそうだったのだ。で、ミミは出版社を目指したと推察される。

 その会社名だが、マガジンハウス社あたりではないだろうか? これも見てきた様な嘘を言いの一つで、ミミの口から、日本での就職先が漏れ出たことはない。

 でも、どうしてそう考えるかというと、マガジンハウス社って、ものすごく商売が上手だと、百合子の方が、判断をしているからだ。戦後出発した出版社としては、もうけ額、一番ではないだろうか? 最初は、男性向け雑誌平凡が当たっていたのだが、それの人気が衰えると、アンアンという女性向け雑誌を出した。これは大ヒットをした模様である。

 ところで、女性向け雑誌というのは、女性たちに、流行の服や靴、などを買わせることを目的としている。アンアンは、文章が充実している方だと思うけれど、

 社会全体の、女性たちを指導する役目を持って居る。それは、家庭画報とか婦人画報という高額商品を宣伝する雑誌と、同じである。どういう方向でと言えば、ものを売る企業が勝つ様に、誘導すると言う役目を持って居る。発行部数を詳細に調べると婦人公論もすでに負けているのではないだろうか?

 ともかく、商売上手である。

 で、ミミの日本での就職先が、マガジンハウス社ではないかと、なぜ、考えるかというと、彼女が、大変、商売上手だと言えるからだ。

 どういうことかというと、2000年の事だが、パリの骨董市で、買ってきた古いタイプの鍵、200個を、そのまま版画用画題としているのだった。

 まず、最初に、3cm×6cmぐらいのサイズに切った亜鉛版を数十枚、用意する。その上には、腐食液・硝酸薄溶液に抵抗する被膜がすでに塗ってあり、かつ、乾かしてある。その上にそっと実物のカギを置いて、鉄筆で、周辺をなぞる。頭の部分のデザインは、鉄筆で、手書きで、実物を真似しながら加える。

 百合子はそれを見ながら、内心でおかしくてならなかった。「あら、いやだ。幼稚園でやっている学習と同じですね」と思って。または、認知症、や、脳溢血を患ったご老人が、リハビリの一つとして、熱心に取り組んでいる塗り絵学習と似ていた。

 しかし、ミミは目ざとく百合子の疑惑と嘲笑の表情を見つけたらしくて、突然に大演説を始めるのだった。「鍵というものは、こういう概念を持って居て、どういう風に重要であり、人間社会の中で、こういう役目を果たしており‥・・・」などと、ずっと、演説が続くのだった。

 百合子は内心で、おかしくてたまらないながら、こういう風に考えた。「あら、いやだ。あなたの言っている事って、女性向け雑誌の編集者の根底にあるものと全く同じですね。もしかして、あなたって、日本にいる時に、アンアンの編集者だったりして」と。

 東京で働いている女性だって、毎週渋谷や、銀座でショッピングをするわけでもない。ウィンドーショッピングをする余裕もない人も多いだろう。

 そういう人たちに向けて、「今のあなたなら、こういう服を買ったらいいのですよ」と、指導をして行く。そういう風に読者を一段と低く見る姿勢。

 それが、ミミには横溢しており、ミミは、版画工房を、牛耳っていたのだった。自分以外の人間を桜子さんを含めて、目下とみていた。それが、版画工房がつぶれた原因であり、ホアレスの死を招いた本当の原因だった。

 これは、小説のほんの一部です。だが、【黄色いさくらんぼ】をすでにお読みになっている方だと、マガジンハウス社に、ミミが務めていた可能性があるなどと言う話は、初耳の話でしょう。だけど、これは、全く、主人公、百合子の推察の範囲を出て居ません。だから、真実かどうかはわかりません。ただ、ミミが自分以外の、版画工房の会員たちを、バカに仕切っていたのは事実です。

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わら半紙でお弁当を包む、貧しい版画家・・・・26年前の彼を今思い出している

2025-06-07 10:36:14 | 心理学

 この一文ですが、7日の午前10時半に書き始めています。9時間半後の、夜8時にやっと、終点に達しました。どうか、よろしくお願いをいたします。ニューヨークで餓死した、同い年の、カラードの版画家の話です。強がる男の、裏に隠されていた、実に深い悲しさの話です。久しぶりにライブで、しかも、病院で文章を書きました。力と時間が、大いにかかってしまいました。

 

 私は、今、82歳です。で、中学校卒業までは、学校で、わら半紙というものを使いました。高校で、どうだっただろう? 今わら半紙を知らない方も、おおいでしょうから、AIが、まとめた記事を、##########罫線に挟んで、ここに置きます。

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AI による概要
 
わら半紙は、1980年代以降にデジタル印刷機(リソグラフ)やコピー機の普及に伴い、小学校での使用が減り、現在ではほとんど使われなくなりましたしかし、今でもレトロな雰囲気やデザイン、ペットショップの巣材など、一部の用途では使われています.
 
わら半紙の歴史
  • わら半紙は、かつて安価で大量に印刷できたため、学校でよく使われていました.
     
  • 1889年頃には、原料がわらから木材パルプに切り替えられていますが、その名前は残りました.
     
  • 1980年代以降、デジタル印刷機(リソグラフ)やコピー機が普及すると、わら半紙の使用は減少しました.
     
現在も使われている用途
  • レトロな雰囲気のデザイン:わら半紙は、独特の質感や色合いがあり、レトロな印刷物を求めるデザイナーに人気があります.
     
  • ペットショップの敷物:わら半紙は、ペットが噛んでも安全で、吸収性も良いことから、ペットショップで敷物や巣材として使われています。
     
  • その他:包装紙、作品素材など、様々な用途で使われています.

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 さて、私が書く、多方面の話題の内、ニューヨーク物は、面白いと言われています。本日は、3年間(と言っても、毎年秋の三か月間だけだったが)の海外修行のうち(そうです。何万個もあるエピソードのうち)、わら半紙に特化して、語りたいです。

 1998年の秋は、パリ修行でした。目的地は、コントルポアンという版画工房に設定をしました。現代アートをビジネスとして、行っている分野は、総じて、儲かるものではありません。版画工房も同じです。で、パリのコントルポアンの経営者は、自分たちが生活していく為に、日本人留学生(特に費用を国家とか、出身大学とか、フランス政府に出してもらう人間たち)を、引き受けることで、たくさんの、会員を作り出し、会費で、経営を賄うと言う手法をとっていました。

 ところで、そこに行って、最初のお勉強が、版画用刃物ビュランを研ぐ、または、磨くことで、それで、一週間は、過ごすのだと聞いて仰天しました。

 私は美大を卒業していません。無論、日本では美大の大学院も卒業をしていません。だけど、これが、好きとか、これが、必要だとなると、激しい集中勉強をするので、たちまち、専門家の域に達します。ただし、版画の種類とは、一千種類ぐらいあって、そのうちの銅板を使うヘイター方式というのだけの専門家です。ここで、一時間休みます。リハビリから帰って来たので、再開します。

 目の前に班長ともいうべき指導者がいるので、部屋中を見回すわけにもいかないなあとは、思ったものの、30畳(60平米)ぐらいの部屋に、人間が、20人居るのですが、機械が二台しか見えません。ひとつは、確かにプレスという、銅板画用の機械ですが、もう一つが、リト用(石版画用)か、シルクスクリーン(昔の謄写版をおおきくしたもの)か、判りません。私は、てだけはビュランを研ぐ仕事をしながらも、これから先を想像しました。二か月間は基礎訓練で、済まされてしまうだろう。で、最後の一か月が四週間あるとして、週に一回程度、自分が擦らせて貰える可能性がある。しかし、ヘイター方式というのは始めたら、8時間は、作業場とプレスを占有しないと、材料費が、もったいない方式である。しかし、このコントルポアンでは、絶対にヘイターなど、やらせてくれない…‥という見込みをつけました。

 でね、ありとあらゆるコネを総動員して、このコントルポアンに比較すると、四倍ぐらい上の版画工房を見つけ、早朝4時から午前11時まで、貸してもらう事を、決めました。

 さて、このパリでの、上等工房の働き方ですが、片付けに、キッチンペーパーを使い、溶剤としては、アルコールだけを使うのでした。これは、片付けがはかどらない様式です。

 日本では、木綿の下着類(メリヤス製品)を、きちんと洗って、乾燥させ、がっちりとした、30cmかける30cm立方体に固めたものを、30年前の当時、一キロ、300円から500円で、版画専門店から、宅急便で、送ってもらっていた記憶があります。しかも、溶剤は灯油を使います。比較して、パリの様式だと、なかなか、落ちないので、困りました。

 しかし、人間にとって大切なものは、要領だけではありません。時短だけでもないのです。パリが、いかに、人間の健康を大切にするかは、理解しました。その後、ドイツが、原発を全撤廃しました。フランスは、まだ、原発推進国です。しかし、版画の後片付け一つをとってみても、パリの健康・堅守主義には、驚きました。古いアパルトマンを大量にキープしているあの国に、最新の科学知識が、浸透をしているのです。溶剤に、石油製品を使う事は、私自身が、芳香族炭化水素(亀の甲を含むもの)で、体を、弱くしている様に、燃やすのなら、ともかく、鼻や口から吸ってしまうと、人間の体を害するものなのです。

 さて、1999年のブルックリンの美大、プラットにおける、吸収用素材はキッチンペーパーだった記憶があり、溶剤は、灯油を使っていたでしょう。

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 本日語りたいのは、2000年に修行をしていた、ロバート・ブラックバーン氏の、経営するニューヨーク一古い版画工房での話です。しかも、わら半紙だけに特化して、語ります。

 私は2000年の、9月から11月まで、毎月500ドルを払って、滞在をしていました。この版画工房の所長は、パリ留学をしたなどと言う、、黒人界では、もっとも先端の文化人でしたが、それゆえにこそ、適切な女性が、見つからず、ホテルチェルシー(滞在型も許すホテル。有名な文化人たちが、安いお値段で、泊まり、宿賃替わりに、作品を残していったことで有名)で、ずっと一人暮らしを続けていた人ですが、このころは、パーキンソン氏病を患っており、体を動かすことは無論の事、外出もできない状況でした。

 ここで、実は、ホテルチェルシーを森ビルが買ってしまい、周辺も大きく、再開発してしまったので、私が自著、黄色いさくらんぼで、書いている、ヨーロッパ風の食料品店も無くなってしまっています。今、ホテル代を調べてびっくり仰天、97000円ですって。☆4.7ですが、是では、アメリカ人であっても、芸術家は宿泊できません。日本人富裕層向けのホテルになってしまっている?。

 こういう事も、対私への言論弾圧の一種です。尚、黄色いさくらんぼは、本屋では売っておらず、銀座の画廊街で、500冊程度、献呈しまくった本ですが、2009年から10年以上、アマゾンで、1万8千円で流通していました。普通サイズで、紙の表紙の廉価本(買ってもらえないけれど、最初の値付けは、1460円だった)ですが、内容の面白さで、1万数千円で、流通すると言う現象が、10年以上続きました。・・・・・・ここらあたり、語りたいことは、山ほど、ありますが、先へ進みます。

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 この工房では、すでに、中学生の母親であると言うアフリカンの、元スーパーモデル(黒人という事)が無給の事務員をしていました。アラフォーですが、美しいこと限りがなく、どれほど、ブラックバーン氏が、黒人社会で、尊敬を受けているかを、語る、ひとつの例でした。

 彼女は私を信頼してくれて、二人で、材料を塗装店に、買いに行きました。汚れ落としようの溶剤・灯油・です。灯油を使うと言う事は、パリよりは、健康に関してはルーズだと言う事です。かつ、時短を尊ぶと言う形です。ところが、驚いたことには、その容器が鉄製の厚い大型の缶だったと言う点です。

 一部、日本と似ているのですが、どこかで違うのです。鉄製の大型の缶に入って売っている灯油。日本だと、ホームセンターに置いてある、長方形で、厚みのあるポリタンクを、買ってきて、それをガソリンスタンドで、満杯にしてもらうと言う形です。日本でも、太平洋側では、灯油ストーブはあまり使わなくなってきていて、主に寒い地方で、活躍をしている形ですが、鉄製の缶は使いません。

 エッチら、おっちら、30キロは超えるであろう、それを、買って帰って工房に入れるのですが、驚いたことに工房には、2つエレベーターがあって、こういうものを搬入するのは、裏の4畳半程度の広さのエレベーターでした。そこから、郵便屋さんも出入りし、ごみ収集人も出入りするのでした。なんでだろう。奴隷制度のあったアメリカだから、こういうエッセンシャルワーカーは、表のエレベーターは、使うなという不文律でもあるのかしら? この裏口というのは、映画【裏窓】の世界と全く同じです。22丁目と21丁目の間隔は大体50mで、南の通りを正門としている22丁目のビルが、南北20mの長さであったとして北側を、正門としている、21丁目のビルも南北20mの小さなビルだったと仮定すると、間の余地10mが、こういうエッセンシャルワーカーのための道となっていて、そこに各ビルが、固有で使う折れ曲がった、鉄の階段が、作ってあるのです。

  ともかくその道を使って、二人の針金のように細い女が、重い重い缶を運び入れて、他の人が、すぐ、作業ができる様に、プラスチックでできていて、先が細い口になっていて、下に曲がっている、容器、5,6本に詰めていきます。そこから、ピューッというか、チューっという形で、インクの付いた銅板の上に、灯油を垂らして、紙で、インクをぬぐっていくのです。

 それがね。ニューヨーク一古い版画工房、R. ブラックバーン氏の工房では、わら半紙で、ぬぐうのです。

 このわら半紙ですが、高さがたぶん二ヤード(2m弱)で、巻きの長さが50mです。日本のように、A4サイズで、切ってあるものではありません。

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 ここに、ホアレスという、1940年生まれの、老いた【ただし、私と同年齢です)ペルー人の版画家が登場します。

 私は、ソーホーの有名画廊のオープニングパーティで、1999年にホアレスに出会い、次の年2000年に、ほぼ、毎日、同時間(=8時間)、版画工房で、過ごすのですが、この男性が、私が去った、2000年11月の、10か月後、スタインウエイの、公営住宅内で、孤独死するのです。

 事実上の飢え死にです。その彼が、一時期日本女性と暮らしていたのです。その日本女性は、非常に安くできる料理として、サツマイモ入りの蒸しパンを作っていたらしいのです。この料理ですが、楽しく遊びで、作るのなら、小麦粉を、まず、ふるいにかける。その時、フクラシ粉も、一緒にふるいにかける。そして、水を入れるのだが、卵一個位も一緒に入れる。お砂糖も、大カップ一個の小麦粉に対して、大匙いっぱいぐらい入れる。そこへ、1cm³ぐらいの大きさに切った、一本のサツマイモも入れる。

 と、丁寧に作れば、今、山崎製パンが、売り出しているくらいの、おいしいパンが出来るでしょう。しかし、ホアレスが、2000年、毎日作って、版画工房にもってきていたのは、卵もお砂糖も入っていない素朴極まりない原型だったでしょう。 しかも、彼は毎日の主食兼おかずとしてそれを食べていたのでした。

 私はホアレスが、それを彼なりのお友達に、わけているのを垣間見て、わら半紙で、包んで、来ているのを知り驚きました。わら半紙が、日本のようなサイズで、切って売っていたら、パンは包めません。ともかく、高さ2m、幅は、自由自在に切り取れるから、わら半紙を使うのは、可能なことです。だが、日本人からしてみると、食料品を包むなら、まず、キッチンペーパーが最初で、次にお弁当として、持って外出するのなら、バンダナで包むのが普通でしょう。

 バンダナなんて、我が家には、五枚以上あります。ところが、今、思うと、ホアレスには、バンダナを買う、500円ほどのお金さえ、なくて、無論紳士用ハンカチ、1500円を買う余裕もなくて、わら半紙しかなかったのでした。

 私が最近、とてもつらいと思っているのは、ホアレスのそんな状況には一切気が付かず、毎日毎日、23丁目、東150番地程度にあった、韓国人経営の惣菜店で、6~8種類のおかずを選び、クロワッサンを一つ選び、グッと近くに帰って来てから、一杯一ドルのコーフィーを買い、それらをレジ袋に入れて、工房に持ち帰り、裏窓、裏階段のある場所の、近くで、食べていたのです。毎日、8~10ドル使って。

 当時の私にとって、それは、悪い事でも何でもなかったのです。当たり前の、かつ、普通の事でした。三か月しかニューヨークにいられないのです。ヘイター方式というのは、直径20cm金属芯が、入ったゴムローラー2本を、一日200回ぐらい回転させます。大変な重労働作業です。だから、お昼に、がっつり食べたいのでした。

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 ところで、ここから先、すごいお話に入っていきます。ホアレスが死んだ陰に、明瞭な原因があります。それの最重要人物は、日本人女流版画家、ミミ【仮名】です。ミミは、自分が使用料を払わないで、工房を使うために、モニター制度(いわゆる、お当番制度)を作ったのです。

 月曜日から、土曜日までを、午前午後、12個に分けて、12人の若手有望な版画家を選び、勝手に任命してしまいました。

 ところで、私が在籍していた、三か月は、12週間になりますね。最初とか最後の二週間は、工房に行って居なかった可能性もありますが、10回は、行っています。そのうちで、木曜日の夕方からお当番であるはずの、ミミに出会ったのは、五回もありません。しかも、いつも7時か、8時に来るのです。すごくずるいです。お当番なんて、口実だけで、只で使うのを、みんなに認めさせただけの話でした。

 ああ、ミミについては、いろいろ、書きたいことが山ほどあります。しかし、時間がかかりすぎるので、ホアレスが死んだ原因がどうして、ミミにあると私が断定するかだけ、語ります。

 この工房の事務室に、黒人系スーパーモデルが、無報酬で、事務手伝いに来ていたと、前に申し上げました。彼女は、ミミに、帳簿など一切渡していません。ミミは、お掃除さえ、やっていないのでした。ところがね。そのスーパーモデルは、帳簿の内容を教えてくれました。家賃は、1100ドルだと言っていました。当時の日本円で、13万円です。

 私が、500ドル、6万円を支払っているのですから、後7万円イコール14人が会費を払えば、継続できるのです。

 中には、白人で、裕福な人も何人もいたのです。学校の先生をしている健康そのものの、マドモアゼルとか、マンハッタンの、高価なコンドミニアムに住んでいるマダムとか? 日本人でも、しっかりした会社に、勤務していて、経済状況は安定していて、ただ、高級な趣味として、版画を制作しに来ている人(彼女なんか、個展を開くつもりだったでしょうね)とか。

 ああ、日本のメディアの女性有名人が、単にラブアフェアを、構築するために鍵のかかる個室式工房で、版画を制作している白人芸術家に逢いに来ていたりしていて・・・・・ああ、ああ、月に50ドルから、100ドル払える、人材は大勢いたのです。しかし、すべての人の道徳心をミミは、粉砕してしまい、版画工房は、私が去った直後につぶれたのでした。

 使用料を払っていない人間は、他にもいました。だが、こっそりと、払っていないと言う形でした。だが、ミミは、大宣言の上で支払わない人となったのです。

 所長のロバートブラックバーン氏は、ホテルチェルシーのオーナー、・・・アメリカ人です。・・・が、教養の高い人だったので、社会保障が下りる様に手配をしてあげていたのでしょう。でね。夕方には、毎日お手伝いさんが来ていて、昼間には、看護師さんも来ていました。

 しかし、ホアレスの事を考えてあげる人は誰もいなかったのです。

 ホアレスは、毎日、版画工房に来ていました。ラジオをクラシック音楽のチャンネルに合わせて、誰かから、頼まれた摺り師の仕事をしていたのです。ホアレス自身が、自分の個展を開くほどの知名度はなく、他人の仕事を引き受けるだけでした。

 相手が、自分の版画を画廊で、売れる人だったら、一枚20ドルと値をつけても、実際に売れるのは、良くて、20枚程度でしょうから、400ドルの収入で、その中から20ドルをもらうと、日本円で、2500円です。それが月に二人ほどもいたら、5000円になり、三人ほどもいたら、7500円になります。水道は、使う。でも電気はほとんど使わない。ガスも蒸しパンを作るだけしか使わない。

 小麦粉とサツマイモは、備蓄できないものだから、一週間に一度買う。たまにでしょうが、一か月に、一万五千円程度の収入が有ったら、カバンの中に、自分を証明するものを一杯入れて・・・・・例えば、日本の版画協会が、応募用紙を送ってくれた。アルファベットで、ホアレス、何がしと、打ってある封筒などの事です。私なんか、それに価値がないことを一目で、見破ってしまいますが、それは、口には出しません。・・・・・で、堂々と画廊のオープニングに乗り込んで、おいしいハムや、チーズを食べて、ワインを飲む。そういう彼にとって、余裕のある日に私は初めて彼と出会ったのです。で、画廊内での、会話だけで、彼は、十分に、私の尊敬を勝ち得たと思ったらしくて、帰りの地下鉄を、Nラインで、一緒に帰ろうと言うのでした。

 彼は、Fラインを利用する人でした。しかしアメリカの地下鉄って、当時は、一週17ドルのスイカ風のもので、どこでも乗り放題でした。日本のスイカとかスマホと違って、消費した金額を反映しないので、一週間は、安心して使えるものです。

 ここで、フジテレビ問題に入りたいと思います。中居正広と、フジテレビの女子アナ、〇辺渚さんですか?、の、問題です。私は女子アナの方を激しく批判をしていて、本当に嫌だったら、逃げられるはずですよ。これは、右翼的な政治評論家に場を与えているフジテレビを潰す為の政治問題に、あなたが、利用をされているだけです。それなのに、英雄気取りで、なんて、嫌な女性だろう。と、繰り返し言っています。でね。このホアレスからの、1999年秋のお誘いを、どういう風に逃げたかをかたらせてくださいませ。逃げられるのです。心構えさえ、逃げるつもりで、ちゃんとして居れば。

 ホアレスは、私をNラインのどの駅にいざなったのでしょうか? Nラインは、終点が、ディトマスアストリアだと言っていましたが、驚いたことに、ディトマス・ブールヴァードという終点名になっていて、ソーホー近辺に駅が無いのです。これは、2025年6月7日に病院内パソコンで発見したことですが、ちょっと、変です。ともかく、入院中で、紙の資料を見ることができないので、ちょっとしっかりした、結論は出さないで置きましょう。

 ともかく、ホアレスは、私がNラインで、かえると聞いて、一緒に帰りましょうと言って、

どこかの駅にいざないました。その駅は、マンハッタン島の、南の方にある駅です。ほら、9.11の被害のあった地域に近いところです。で、十分に空いていたので、二人で並んで椅子に腰かけました。しかし、夜8時ごろ、そこから、順に北へ登って行くうちに電車は、サラリーマンたちで、満員になりました。

 この路線は、マンハッタン島を出ると、地上を走ります。で、電車内は、静かです。

 で、彼は、「あなたは、終点で降りると言っていたでしょう。そこから歩いて何分?」とか聞いてきます。で、私は怒った顔もしないけれど、にこにこもしないで、「うーん。何分かなあ」と答えます。「まだ、計ったことないのよ」なんて、続けません。そんなことを、言うのは、相手の術中にはまる事に繋がります。

 次に、「ねえ、君の版画見せてほしいなあ? さっき、版画家って言っていたよね」と、続きます。でね。おお、本丸に近寄って来たな?と思いますが、「うーん。まだ、荷物、ほどいていないのよ」と、答えます。これは、私の方が嘘をついています。ソーホーの画廊の夜六時から開かれるオープニングパーティに参加するなんて、1999年の10月半ば過ぎでしょう。私のニューヨークライフにも余裕のできてきたころです。

 でも、彼には、自分が今、プラットという美大の大学院に通っている最中だなんて話は、一切していません。ので、彼がその荷物の件で、さらに話を進行させたら、「一週間前に来たのよ」というぐらいに、嘘を重ねてもいいと考えていました。そうこうしているうちにホアレスがあきらめました。

  39st という駅で彼が下りると、目の前に立っている乗客が、「ほら、傘!」と言いました。その人が指さす方向を見ると、私とホアレスが座っていた場所に彼の折り畳み傘が残っていました。私は座ったまま、空いているドアに向かって、「ホアレス。ほら、傘、傘!」と叫びました。そして、ポーンと開いているドアから、傘を投げました。ホアレスも、私の声に気が付いて、電車の後尾に向かって、姿勢を向け直したので、きっと傘は、拾えたはずです。

 さて、一息つくと、なんとない視線を感じるので、眼を上に向けると、乗客みんなが私の方を見ていました。その時、私は57歳でした。ホアレスも同じ年。顔から火が出るとはまさにこのことでした。

 二人の57歳が、セックスをするかどうかの微妙極まりない会話を続けた最後に、かさ、かさーっと、私が叫んだ子供っぽい終着。それをみんながほほえましい事だったと、考えてくれていることがわかりました。

 こんな笑い話で、終わらせながら、私は今でも、眼に涙がにじんでしまいます。

 ホアレス、ごめんね。生きている間に、あなたの本当の気持ちやら、本当の貧しさ、そして、それを隠そうとする気強さとか、気高さ・・・・・それらをまったく理解してあげられなくて。しかも、毎日、あなたの12m先で、豪華な食事をして。

 あなたの露悪家ぶり、あなたの、しかめっ面、すべて、あなたが、自分の本当の状況=極限の貧しさを隠す小細工だったのですね。毎月、7500円程度で暮らす、サツマイモ入り蒸しパンだけの食事。それさえも工房がなくなったらできなくなったのです。

 ごめんね。ホアレス。生きている間に、ただしく、理解をしてあげられなくて。ほんとうにごめんね・・・・・

 

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ポルノ校長から喚起されたたくさんの思い出=2  横須賀大津小学校1978~9、担任が心理的矛盾を抱えていると、ママ達は苦しめられる

2023-09-15 00:34:38 | 心理学

副題1、『文章が、二万字ぐらい消えてしまったので、それを復活させるよりも、今は、違う方向に進んで書きたい。これから書く事は、政治よりも心理学分野の問題である。したがって、登場人物を仮名で書く。記憶しているが、わざと仮名で書く。』

 娘の方が幼稚園時に、担任に悩まされたと、前報で、言っています。当時、その幼稚園は、470人の園児が居て、その地域で、一番大きく、池田分譲地内の、幼児は、ほとんど、そこに通って居ました。小さい子って、地域社会で、生きるしかないので、転園させることが出来ず、非常になやみ抜きました。で、毎週30個の上等なお菓子が入っている菓子折りを担任に持参をしたのです。いわゆる服従とおべっか遣いです。それでも、いじめて来る先生が、娘の頭を大混乱にさせたのではないかと、思っていたのですが、割と大丈夫だったと、言うのが前報で、それが、わかったのが、上滝家の令嬢とのエピソードだったと、いうのが、消えてしまった部分です。

 娘が中学生ぐらいになって、「お母さんは切れたら怖い」と、私の目の前で、お兄ちゃんに言っていたので、びっくりしました。そこで、東日本銀行と、横浜銀行の合併とか、養老孟司先生が、取り持った妙本寺のお見合いなどが出て来て、120%政治の問題へ移行をしていくのです。が、娘が、4歳から、8歳までは、、あまり、表情には出さなかったので、担任からのいじめをどう考えて居るのかはさっぱりわかりませんでした。ただ、内心で、心配をしていました。

 ところで、彼女より一学年上(ただし実際の差は19か月の長男の方は自分が考えて居ることを、すぐ顔に出すので、彼の苦悩は、小さくてもよくわかって、それだけに悩みました。ただね、満六歳は、四歳とは違います。それと、社交的で、地域社会の方で、年上、年下の男の子を含んだ遊び仲間が、がっしりといたので、それは、安心できる一つのよすがでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『長男が、一、二年時、担任だった女性は、私達、並みの母親よりは、10歳年上で、夫は大学助教授だった。たぶん、横浜国大の助教副。助手時代の夫と知り合って、結婚をしたのか? それとも、同級生だったのかは知らないが、こういう結婚は、一つの勝利ではある。自分の眼中にある同期生(40人の)中で、輝いている男性を、仕留める。それは、他の女性に対する勝利宣言でもあるのだ。

 ここで、笠松敦子さんが、年賀欠礼のはがきの件で、引っ掛けて来た・・・・・と、私が推察している、差出人名義だったR子さんのことへ入っていきたい。彼女は、1965年のICUで、上下500人ぐらい知り合っている中で、もっとも格の高い男性と結婚をした。それは、一つの勝利である。私なんか、共通の友人は一人もいない相手と結婚をしているので、その結婚で、誰かに向かって勝利宣言をする・・・・・そして、見せびらかしたい・・・・という傾向は無い。19歳のころ、ひそかにお互いが、ひかれあって、それを、25歳まで、キープしたというわけだ。

 結婚をした後で、愛されているか?とか、愛しているか?と、言う事は大問題となる。「意外と、この結婚って、間違っていたかしら?」と思う事はある。だけど、私は、「離婚はできるだけ、しない方がいい」という主義だ。これから、語る事でも『へー。そうなんだ。離婚後に、そういう苦しみを、子供の担任から与えられるのだ。知らなかったなあ』と、若い方には思っていただきたい。

 長男が、一、二年時に、担任だったW女史は夫に関しては、プライドがある。学者だ。しかも、教授になる可能性は保証されている。しかし、そういう立派な夫を持った自分が、働かなくてはならないと言う事には、不満がある。1970年代には、先生は、あまり、尊敬されている職業ではなかった。日本経済が、右肩上がりで、発展をしている時期で、民間企業、特に、業績が上がっている企業に勤務していて、高給を家に運んでくる夫を持った妻(または、ヤングママ)は、ほぼ、専業主婦をしていた時代で、W女史は、その手のママ達よりも自分の方が上だとは、思っていた。が、専業主婦ではないことが彼女たちに軽蔑をされているのではないかと、言う、ひそかな、不安を抱えていた。

 厄介なことに、クラスに三人ぐらい、自分が卒業した当時の横浜国大学芸学部よりも、入試偏差値が高い大学を出たママが居た。早稲田卒のママ、津田塾卒のママ、そして、ICU卒の私。1960年代、特に、1966年までのICUって、東大の学生新聞が「東大に入るよりもICUに入る方が難しい」と書いたほど、高い評価を得ていた。入試が全部英語で、短い質問に応じる四択なのだけれど、一分で、一問解かないといけないので、英語理解力と、頭の回転の速さを問われる。で、W女史は、ICUの高い評判を知っていた。1970年代の横須賀で、ICUについて正しい知識を持って居る人は、100人に一人以下だったと思うが、W女史はその一人で、当然のごとく、私を注目していた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『W先生は、ママたちを支配するために、スパイを放っていた。そのスパイ役とは、愛嬌のある女性だったが、結婚前の職業が居酒屋に勤めていたかバーに勤めた居たかだと、言う事が広く知られていた。当時の横須賀の戸建の住宅街では、それは、一ランク下に見られる経歴だったが、私は、むろん、気にしなかった。ただ、W先生は、それを知っていたと、思われる。そして、私の学年の数年上の、お姉ちゃんを担任した時に、このままと、特別な秘密契約を結んだのではないかしら。家庭訪問の時などを利用する。後は電話だけでいい。自分がいつ、どの学年を担当するかは、ご自分で、わかっていると思う。で、その子も、わが子も、1976年に一年に上がるので、池田分譲地内での、母親たちの評判をそのスパイママから、取得していたと、思われる。

 で、W先生は、勝気な女性は外した。地域社会で、威張っている女性も外した。だから杉本正子夫人も、稲田恭子夫人も、W先生の担任からは外れた。そして山の下に住んでいる武蔵野音大卒のママの男の子も外したし、明治大学卒のママの子供も外した。二人はとても美しかったからだ。W先生は、自分が誰よりも上だと、感じないと安心できないタイプだから、あまりに、立派な姿のママが、何人もクラスにいては、落ち着かないのだ。

 なぜ、私を自分のクラスに入れたかというと、当時横須賀・いち・通園児の多い幼稚園の、PTA会長というのは、一種のスターだから、自分が、次の年、二年時の、PTA役員として使おうと、言う思惑があったと思う。

 その次に、私を操作することが可能だと言うのは、私の南隣の、ターちゃんのママという女性と、私がトラブっているというのを知っていて、ターちゃんを、自分のクラスに入れておけば、その女性を武器にして私を支配することが出来ると先生が考えて居たのだった。

 ターちゃんと、ターちゃんのママが、どういう人だったかを次の章で語りたい。ここはスパイママの章だ。彼女が自殺をしてしまったことを書いて置かないといけない。今は絶対に伏せられていて、同じ人が同じ、証言をするとも思われないが、スパイママは、トイレで、自殺をしたとの話だった。お子様から、呼ばれたママ友Cさんが、そちらに行って、真っ赤な血で、染まったトイレを見たと、言っていた。そのママ友が遺体を抱き起して、居間か、日本間に運んだのだろうか? お子様二人に、それを見られてしまったのは、大惨事だ。別の場所で、ロープぐらい使うべきだったと思う。で、そのCさんは、大変しっかりした方なので、私には、それは、なかなか、伝わらなかった。ただし、一か月後ぐらいには、それこそ、稲田恭子さんから、教えられたと思う。

 それは、1978年の、五月以降の話だった。しかし、私は、その半年ぐらい前から、このスパイママが、精神的におかしくなっているというのには気が付いていた。それも、先生とのスパイ問題での悩みだとわかっていた。だけど、10歳ぐらい年上だし、彼女から、「一緒にお茶でも、どうお?」って誘われたこともないし、ほとんどの人が差別意識から軽蔑している彼女と、わざわざ深入りする必要もないと思っていた。で、「ねえ、悩んでいるのではないの?」と、質問するわけにもいかなかった。

 道路ですれ違ったのは、冬だった。彼女は黒いオーヴァーコートを着ていた。今でいうモフモフのコートでフェイクファーか? いや、もしかすると、本物の毛皮のコートだったか?。1970年代は、まだ、毛皮をダメだと、言う社会風潮は無かった。だけど、驚いたことに、その前・身ごろに、点々とご飯粒が付いていたのだった。あまりに驚いたが、注意はできなかった。どうして、こうなったのかを考えると、注意することが彼女の恥になるとわかっていたからだ。

 冬だけど、暖房をつけていない? それは変だ。だって、彼女が、貧乏だとは思わない。旦那さんは、彼女を愛していて、しっかりと働いてくれるとてもいい人だ。

 ただただ、何かに、うつろになっていて、コート下に、いいお洋服を準備できなくて、パジャマか、パジャマ代わりの古いセーターを着ているので、ぼろ隠しの意味で、毛皮のコートを家の中で、すでに、朝から着ていたと、考えられる。でも、それにしても、当時の定番だった石油ストーヴをつければ、毛皮のコートは着ていられない。暑いよ。暑い。

 もしかすると石油ストーブの灯油が切れていて、彼女は、それを入れるのが億劫だった?

 でも、それでも、普通に、めしじゃわんを使って、ご飯を食べれば、これほどの粒のご飯粒が、こぼれる筈はない。もしかすると、電気がまから、小型のおしゃもじ、または、大型のスプーンを使って、直接、食べましたか?と思う。テーブルの上に、小型タッパーウエアに入れた、柴漬けなどを置き、それを、左手で、ひと切れつまんでは、口の中に入れ、右手で、小型おしゃもじで、救ったご飯を食べましたか?と、思った。そして体は悪くないのだから、外出はできるのだった。ご飯を食べている途中で『柴漬けだけでは栄養が足りない。下に行って、とんかつでも買ってこよう』と考えたのではないかしら?

 彼女が自殺をしたと、聞いたのは、五月過ぎだったが、すぐ理由は分かった。それは、ぼっちゃんが、また、W先生の受け持ちになったからだった。今までの、二年間も超大変だった。が、是から、また、それが、二年続くと思うと絶望にかられたのだと思う。

 また、私の生き方と、自分のそれとを比較して、自分が間違っていたとも考えて、それも絶望に繋がったと思う。

 私は、見かけは、利口そうには見えないと思う。だけどバカではないし、おとなしそうに見えても、スケルトンがある人だ。W先生の行動様式や、人格を見て、絶対にこの人と、共同作業はできないと思っていた。やってはいけないとも思っていた。父兄会の中でも、いじめられながらも、「次の年度の役員をしなさいね」と、期待をされているのを、ひしひしと感じた。それは思い過ごしではなくて、一年次の役員さんから電話で、直接の打診があった。1月ごろだった。だが断った。長男が、いじめられる可能性は、大いにあったが、もし、あの先生とタッグマッチを組んだら、私は、人格崩壊をするだろう。絶対に役員をしてはならないと、それだけは、固く決意をしていた。それと何度も言う様に、長男が娘より、年が上で身長も高かったことも、それを支えた。より大きいのだから、きっと、自分で、道を切り開くはずだと、信頼していた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『役員を二年、連続して引き受けたママのお嬢さんが、自宅に放火をしたと、鎌倉へ引っ越し後、28年ののちに知る』

::::::::::::::一年次、及び二年次の役員をしていた、女性の家で火事があったと、ずっと後、そうだ、鎌倉に引っ越してきてから、28年後に聞いた。お嬢さんが、親を嫌がって、親を懲らしめるために、自宅に、放火をしたんだと、聞いた。聞いたのが、28年後だったので、実際の火事がいつ起きたかは知らない。普通、親への反抗期は、高校受験期、大学受験時、就活時、婚活時に、親に反対されると起きるものだ。だけど、自宅に放火するほど、親との関係が悪いのだと、結婚や、就職はとても無理だから、高校時代から、引きこもっていて、それを焦った、あのお母さんが、あれこれ、注意をしたものだから、それに絶望をしたお嬢さんが、お母さんを殺したくて、放火をしたとも考えられる。そこまで、想像はしたが、そういう事を音声では他人には語らない私であり、それを教えてくれた人も、同じく、語らない主義だった。賢い人とは、時には口にチャックをするものだ。

 ここで、一年と、二年時に、役員を連投した女性の体格について述べたい。1940年ごろか、それ以前の生まれだろうが、それにしては、異様に背が高くて、170㎝を超えていた。つまり、スパイママと同じく、平均よりは高年齢なママだったと言う事。男性が、自分より背の高い女性を嫌うために、結婚が、なかなか、できず、子供を産んだ年齢が高いと言う事。体重はあって、65キロ以上。だから、威圧感がある。

 すみませんが、午前3時半になったので、もう寝ます。

 と書いたのですが、私が意地悪な人だと誤解を受けそうなので、W女史とターちゃんの本当の関係を、かたらせてください、ある日、北久里浜斧駅に降りていくと、ターちゃんが一人で、ススキを二三本、手に持ち、それで、線路の、手すりを叩いて居ました。彼は、線路を向いていたので、後ろを通る私には気が付かず、私は,、時計を見ました;昼11時半

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