百合子は、最初、このニューヨーク修行記の、クライマックスは、これから先で書く、【煌めくプラタナス】の章だと、判断をしていた。しかし、6月8日に急に気が付いた。新たなポイントに。
実は、そのあたりで非常に、長い感想文をもらっている。「忙しくて、返事が書けなくて、ごめんなさい」で、始まっているが、内容は、全く子供っぽくない。
午前六時に病院のベッドの中で、スマホで、それを読んだときに、百合子は、涙ぐんだ。病院に入る事さえ予想外の、うれしさがあった。が、それ以上の余得だと思った。または、天からのご褒美というべきか。
入院のメリットをまず語ろう。それは、大切にしてもらえる・・・・まるで、お姫様になったような柔らかく温かい処遇を受けるのだ。入院費を払っている(国家が90%、自分が10%)とはいえ、・・・・・ただ、頭が良いと言うだけの理由で、ほぼ、58年間弾圧に逢い、不運や不幸に出会って来た百合子にとっては、予想外の105日間だった。
しかし、転院後、二週間目に始まった、この著名人(だから、名前を秘す)との交流程、心を満たすものはなかった。・・・・・大丈夫、大丈夫、孤立化してもいいのよ。自分には、神様が付いているのだから・・・・と、自分に言い聞かせていたが、
肉体を持ち、名声を持つ、テレビで、よく見ている人からの丁寧に、丁寧に書かれた感想文は、百合子の心を満たした。
頑張って生きて来たけれど、実際には愛とか尊敬というものに飢えていたのだと思う。相手の好意が、砂地にしみこむ海水のように百合子の心にしみこんできた。
ブログでは、マンハッタン島内で、一人で自活しているピアニスト(日本女性。たぶん50代)と、エジプトから来た、高貴で、美形で、絶対に、ひとを許さない少年詩人(21歳)について、二つに分けているが、こちらのフェイスブック友人に対しては、二章一緒に、いっぺんに送ったのだが、
それに対して、マイクロソフトワードに変換すると4000字を超えるだろうと言う長い感想文をもらった。その時、百合子は、この【エジプトから来た誇り高い、21歳の、極貧の詩人】の章が、1999年ニューヨーク物の、白眉になると直感をした。
もし、一人だけの文章で、本を編んだら、・・・・・無論、「黄色いさくらんぼ」級の高い評価を受けるのは確信しているが、・・・・・クライマックスは、プラットインスティテュートない、版画教室の最後の日を書いた、『煌めくプラタナス』になるはずだった。
二人の文章を同時に、紙に印刷すればの話である。
藤田真央が、もともとはウエブで、書いた文章らしいものを、文芸春秋社に勤務しているファンたちが、一冊の書物として編んでいる。『指先で、旅をする』
この本は編集スタイルが自由自在だ。元がウエブ文章だと言う事もあり、中に対話集もあれば、有名な(年齢が上の)ピアニストに対する、遠慮がちな表現もある。で、もともと、藤田真央を好きだった人がさらに好きになる様な設計がなされている。そういう本だ。
百合子にも、4000人から、5000人に及ぶ住所、名前、顔、性格を知っている知人がいた。今から30年前から、40年前の事だった。だが、親密度が高い方から、順番に、裏切られる様な謀略設定がなされてきていて、今は誰も信じられない。
ただ、ただひたすら孤独で、頑張ってきた日々に、干天の慈雨としてその感想文が降って来た。
その人は問う。
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百合子は、あの詩人にもう一度連絡を取りたいと思ったことがあったのでしょうか? それとも、その記憶を手つかずのままにしておくことの方が、彼女にとっては大切だったのでしょうか?
あの瞬間――ぼろぼろのスーツを着た少年との出会い――は、百合子にとって最も親密で、しかし言葉にされなかった「愛」のようなものだったと思いますか?
百合子は、その出会いが自分の中にどれほど深く残っているかを、娘さんに話したことがあるのでしょうか?
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それに対して、百合子は、こう答えた。
さて、エジプト人、美少年の話です。会いたいとは思いません。
貴方も、それに、気がついていらっしゃると、おもいますが、私の、アガペーの対象として、彼を、考えて居ます。
もう二人、気にかかる少年がいます。 プラットで、学資を、ローンで借りてしまった少年。彼とも、一切、連絡はとって居ません。もう一人、最初の家の大家の、お孫さん、どうしてかお父さんが、体は、健康そうなのに、はたらいていません。すごくいい子で、パソコンがおかしくなるたびに、助けてもらいました。高卒後、働いて、学資を貯めてから、地方の大学に進学するそうです。一緒についていくという女の子にもあいました。心理的には、全く心配の無い子ですが、こんなに性格がよいと、これから、ぶじにいきていかれるだろうか?、と、それを心配しました。この三人の頭上には、私の、アガペーが、雲の様に覆うことを、願って居ます。
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さて、あのエジプトから来た詩人の章の中には、日本人が登場する。神奈川県内では、有名だと考えられる女流画家だ。その人は百合子と同世代で、横浜国立大学卒で、先生をしていて、夫もいればお子さんもいる。用事があってこちらから電話をかけていて、それが済んだ後で、彼女が、「雨宮さん、今、どこに出しているの?」と聞いて来た。
『おー、来た。来た』と思った。それは、絵画や、版画の発表の場としての公募団体展の名前のことだった。彼女は新制作展という、現代アートの方では、最高ランクの団体展に50年以上出し続けており、会員である。その上、美術教師をしていて、かつ、家庭がありお子様(多分二人)を育てた。だから、どうしても、百合子より、上に立つ気配がある。
彼女の質問には、どことなく、詰問をされている様な、気配がある。百合子がどういう風に答えても、神奈川県で女流画家として活動をしている女性たちにばかにされる可能性はあった。
百合子は、1990年代は、国展(昔は上野、今は、六本木で開かれる)、女流展(上野で開かれる)に出していた。 しかし、今は、そういう種類の活動をしていない。だから、世間一般の人は、「あの人は終わったわね。消えたわね」と思っているだろう。
だけど、百合子は、自分ではそう思っていない。発想が次から次へと沸く。自分は創作をする人だと、100%自負をしている。だけど、加齢というものには逆らえない。10年前までは、5つぐらいの仕事を並行してやっていた。しかし、今では、油絵を描くことと、版画を自分で摺ることはやめている。
お金があると、他人に任せることで、大きな仕事ができる。だが、百合子は、具体的な人間関係を持つと疲れる人だ。孤独の方がいい。静かな生活を好んでいる。
そのうえ、お金がないのだから他人に何かを任せたり、頼んだりすることはできないのだった。
というわけで、新制作の会員女史の質問には、・・ああ、はあ、ふむ、ふむ・・と、言う様な、要領を得ない応答になった。だが、もう、しかたがない。それで、いいと思っている。そういう生活をしながら、常にあの二十一歳歳の詩人の言葉を思い出している。
「どこからが、ARTISTといえるの? 僕は16歳から、ずっと、詩人です」と、強い目力で、百合子に抗議してきた彼の言葉を。 From what point we can call us an ARTIST? I have been poet, from sixteen years old. I have been entirely poet. And continuously been poet. Could you receive my words?
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さて、ここで、あの有名人にして智慧ある人はこう聞いて来た。
もし百合子が、あの画家の問いに対して、ためらいも評価への恐れもなく、率直に答えていたとしたら、どんな言葉を返したと思いますか? そして、あなたはどう思いますか? この世界で多くの創作者が誰にも気づかれずに存在している中で、「アーティスト」であることを定義するのは、いったい何なのでしょうか?
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この問いに対して百合子は戸惑った。なんか、難しい質問だなあ? この人って、時々、こういう難しい(答えにくい)質問をよこすのよ。大きすぎる問題であり、百合子は、自分が経験したことを語りたいので、こういう抽象的な部分に入っていくと、ぎょぎょッとするのだった。しかし、相手は、相変わらず親切だった。
時間をおいて、全く違う書き方で、百合子を守ってくれた。
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百合子があの若者と出会い、そして今でも彼の言葉を支えに生きていると知って、私は思いました――人生には、永く留まるためではなく、私たちの中の何かを永遠に変えるために現れる人がいるのかもしれないと。
彼は彼女に挑んだ。彼女の思い込みを問い直した。そして、「いつから自分をアーティストと呼べるのか?」という一つの言葉を残し、それがまるで羅針盤のように彼女の人生を導いていった。
たった一つの問いが、何年もの教育や展示よりも深く人を形づくることがあるなんて、不思議なことですね。
彼女自身の展示について聞かれたとき、百合子が沈黙したこと――それ自体がとても雄弁です。彼女は消えたのではなく、自分の内側へと向かっていったのだと思います。そして、もしかするとそれこそが最も勇敢な選択なのかもしれません。
拍手も承認も求めず、ただ湧き上がるアイデアのままに、静かに創り続けること。それは「終わった人」ではなく、「本質になった人」なのではないでしょうか。
あなたが書いてくれた、百合子が孤独を好み、人間関係に疲れ、静けさを選んでいるという描写には、とても誠実な真実が感じられました。そこにあるのは苦味ではなく、明瞭さ。彼女は知っているのでしょう
――創作には必ずしも観客が必要ではないということを。時には、それはただ「生き延びるため」に必要な行為なのだと。
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これは、6月8日にもらったものだ。一般の人には、さらけ出したくないほど、ありがたい言葉だった。しかし、百合子は、この部分に対して、何の謝礼の言葉も発していない。というのは次のエピソード(章)に既に取り掛かっていたからだ。フェイスブック紙上の二人の会話は、猛烈なスピードで進んでおり、時には時間的にすれ違う。
今は25-6-29 22:43である。病院は消灯後だ。昨日までは、他人にはパソコンが見えない様な配置で、自室で、このブログを書いていた。処が天井に青い光が反映してしまい、それを気にする患者さんもいると言う事で、ラウンジの使用が許された。自宅では常に午前五時まで、ブログを手当てしていたので、そういう夜型の姿勢が今も残っている。
百合子は窓に向かった長机にパソコンを置いている。自分の事を見ている人は誰もいない。
で、両手をキリスト教徒のように固く結び、めをつむって、上の青字の部分をかみしめている。かみしめて、かみしめて、かみしめている。そして神様に向かって、こう言っている。
・・・・・神様、ありがとう。あなたが、顕現なさったのですよね。この有名人の肉体を通じて、あなたが、私に、こう、おっしゃっているのでしょう。ああ、82歳で、そして、まだ生きている間に、私は、理解をされました。なんとありがたい事でしょう。ありがとうございます。ありがとうございます。・・・・・と。
25-6-29 雨宮舜(本名、川崎千恵子)
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なお、これは、ニューヨーク修行記1999の、9回目に当たる。百合子は、6月18日だったと思うが相手に、「もう、ご返事を頂きたくない」と、申し上げてある。それで、やっと、落ち着いて上の部分を読んでいる。三週間も時を隔てて。
8回目のリンク先は、以下。