昨日の部分には、誤変換が五つぐらい残っていたのをお詫び申し上げます。
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さて、貧乏そうに見えるご老人が粗末に扱われていて、しかも最終一本前の東戸塚駅のことですから、私が降りるわけにも行かないのです。どうなるのかと心配のみぎりでしたが、私も鎌倉まで帰らなければならないし、最近電車の遅延が多いので、もし、ここで降りて遅延がおき、最終電車がなくなったりしたら、自分がアウトになりますね。だから、何もできず、ただ、発車する電車内から、心配しつつ、よろよろと右肩をガードマンに引っ張られて、ベンチへ向かうご老人を見送ったわけです。
でもね、その顔の高貴さが限りが無く、それゆえに、かえって悲しかったのです。あまりに何かの修行に励んでいて、それゆえに、孫とか子供のいない人ではないかと考えたからです。
彼は酔ってはいませんでした。でも、こういう風に立ちくらみとか、貧血で危ない状態では、本当は一人で出歩いてはいけない人なのです。特に深夜は。もしかしたら、老人ホームに入るべき人なのかもしれません。そのくらいのレベルの体力でしょう。
でも死までの一人暮らしを望んでいる人です。誇りがひどく高い人です。もしかしたら、結婚をされていたかもしれないが、奥様には先立たれているような気がします。孤独の感じを与えられました。
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私たちは小説で宮本武蔵の生涯を知っています。そして英雄として、尊敬をしていますね。また、手紙の集大成としてのゴッホの生涯を知っています。また、日曜美術館などからゴーギャンの生涯なども学んでいます。
それから、ノンフィクションの世界で田中一村の事跡などにも触れています。そして、宮本賢治の作品は、今では非常に高く評価をされています。
しかし、これらの天才と呼ばれる人たちは、すべて、同時代の人には知られずに、この世を去った人なのです。しかも孤独なまま。
私はふとですが、あの骨がつぶれそうになった、気品に満ちた、でも、孤独の陰のあるやせたご老人は、そういう類の人ではないかと思ったのです。
非常に大きな仕事をなしている、天才的な人ではないかと・・・・・だけど、実生活上は、偏屈なひとだとか、変わり者だと思われていて、人がまわりに集まりません。だから、華やかさにかけます。そして、お金をもうけるということは一種、人たらしの精神が必要で、それが、無い人にはお金も集まりません。
普通の人って、大昔の天才には、ほれますが、身近にいる、貧しい人には眉をひそめるものなのです。そして、本当は大金持ちかもしれませんが、孤独な人って、身奇麗にしていられないものなのです。娘とか、妻がいると、「あなた、そんな服を着ていては駄目ですよ」と、注意します。
だけど、孤独な人は、注意を向けてくれる人がいないので、ついかまわなくなるのです。サラリーマンで一生を終わった人は、蓄財があります。それは、物心両面でいえますので、友達もいますし、生活のパターンが決まっています。
でも、詩人であるとか、有名になれなかった学者って、人付き合いが少ないものです。そして、集中する能力が、内に向かう心を生むので「偏屈だ」と他人に思われやすいでしょう。
なんだか、すごく気の毒でした。その場面を見たときに、ふと昔読んだ、樹門こうさいというひとの、姓名判断書のなかに、あった、『私が規定する幸せとは、普通のレベルのお金があり、子供も、孫もいる事を指します』というのを、目の当たりにしたような気がしました。
私はそれを読んだときには、「えっ」と思ってつまらない解釈だなあ・・・・・とさえ思ったものです。でも、実際には、年をとるということはハンディを背負うことなので、誰かに助けてもらうことが必要になります。
だけど、人生で、心とか、頭脳の働きを優先したいと考える人も当然いて、そういう人は、現実の社会生活としては弱いのです。
私はそのご老人を心から尊敬しているし、(それは、援助を乞おうとしなかった潔さがすばらしいし、あの顔の気品のレベルは、普通の生活では生まれないものだからです)、深い同情も寄せていますが、ガードマンに大切にされていなかったのも事実なのです。他人(ひと)事ながら本当に悲しかったですよ。
でも、それだからこそ、瞬間的に気がついて、そのご老人を、助けようとした三人の男性のすばらしさもにも、感応をしたのです。『人間って、捨てたものでもないなあ』と思いましたよ。すばらしい人間性を持っている人も、この世にはまだまだいるのです。そこに救いがありました。では、
2009年、10月7日。 雨宮舜(川崎 千恵子)
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さて、貧乏そうに見えるご老人が粗末に扱われていて、しかも最終一本前の東戸塚駅のことですから、私が降りるわけにも行かないのです。どうなるのかと心配のみぎりでしたが、私も鎌倉まで帰らなければならないし、最近電車の遅延が多いので、もし、ここで降りて遅延がおき、最終電車がなくなったりしたら、自分がアウトになりますね。だから、何もできず、ただ、発車する電車内から、心配しつつ、よろよろと右肩をガードマンに引っ張られて、ベンチへ向かうご老人を見送ったわけです。
でもね、その顔の高貴さが限りが無く、それゆえに、かえって悲しかったのです。あまりに何かの修行に励んでいて、それゆえに、孫とか子供のいない人ではないかと考えたからです。
彼は酔ってはいませんでした。でも、こういう風に立ちくらみとか、貧血で危ない状態では、本当は一人で出歩いてはいけない人なのです。特に深夜は。もしかしたら、老人ホームに入るべき人なのかもしれません。そのくらいのレベルの体力でしょう。
でも死までの一人暮らしを望んでいる人です。誇りがひどく高い人です。もしかしたら、結婚をされていたかもしれないが、奥様には先立たれているような気がします。孤独の感じを与えられました。
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私たちは小説で宮本武蔵の生涯を知っています。そして英雄として、尊敬をしていますね。また、手紙の集大成としてのゴッホの生涯を知っています。また、日曜美術館などからゴーギャンの生涯なども学んでいます。
それから、ノンフィクションの世界で田中一村の事跡などにも触れています。そして、宮本賢治の作品は、今では非常に高く評価をされています。
しかし、これらの天才と呼ばれる人たちは、すべて、同時代の人には知られずに、この世を去った人なのです。しかも孤独なまま。
私はふとですが、あの骨がつぶれそうになった、気品に満ちた、でも、孤独の陰のあるやせたご老人は、そういう類の人ではないかと思ったのです。
非常に大きな仕事をなしている、天才的な人ではないかと・・・・・だけど、実生活上は、偏屈なひとだとか、変わり者だと思われていて、人がまわりに集まりません。だから、華やかさにかけます。そして、お金をもうけるということは一種、人たらしの精神が必要で、それが、無い人にはお金も集まりません。
普通の人って、大昔の天才には、ほれますが、身近にいる、貧しい人には眉をひそめるものなのです。そして、本当は大金持ちかもしれませんが、孤独な人って、身奇麗にしていられないものなのです。娘とか、妻がいると、「あなた、そんな服を着ていては駄目ですよ」と、注意します。
だけど、孤独な人は、注意を向けてくれる人がいないので、ついかまわなくなるのです。サラリーマンで一生を終わった人は、蓄財があります。それは、物心両面でいえますので、友達もいますし、生活のパターンが決まっています。
でも、詩人であるとか、有名になれなかった学者って、人付き合いが少ないものです。そして、集中する能力が、内に向かう心を生むので「偏屈だ」と他人に思われやすいでしょう。
なんだか、すごく気の毒でした。その場面を見たときに、ふと昔読んだ、樹門こうさいというひとの、姓名判断書のなかに、あった、『私が規定する幸せとは、普通のレベルのお金があり、子供も、孫もいる事を指します』というのを、目の当たりにしたような気がしました。
私はそれを読んだときには、「えっ」と思ってつまらない解釈だなあ・・・・・とさえ思ったものです。でも、実際には、年をとるということはハンディを背負うことなので、誰かに助けてもらうことが必要になります。
だけど、人生で、心とか、頭脳の働きを優先したいと考える人も当然いて、そういう人は、現実の社会生活としては弱いのです。
私はそのご老人を心から尊敬しているし、(それは、援助を乞おうとしなかった潔さがすばらしいし、あの顔の気品のレベルは、普通の生活では生まれないものだからです)、深い同情も寄せていますが、ガードマンに大切にされていなかったのも事実なのです。他人(ひと)事ながら本当に悲しかったですよ。
でも、それだからこそ、瞬間的に気がついて、そのご老人を、助けようとした三人の男性のすばらしさもにも、感応をしたのです。『人間って、捨てたものでもないなあ』と思いましたよ。すばらしい人間性を持っている人も、この世にはまだまだいるのです。そこに救いがありました。では、
2009年、10月7日。 雨宮舜(川崎 千恵子)