銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

連休初日、覚園寺(新・建造物に桃源郷を見る)

2010-04-30 19:10:05 | Weblog
 本日(書いたのは昨日29日で、送るのは、本日、30日ですが)

 2010年4月29日、覚園寺さまに、樋口恵子さんの講演を聴きに行って来ました。連休初日、「今年のゴールデン・ウィークはこれで、結構です。ほかになにもしないでよい」と思うほど、美しい建物と環境に接してきました。講演の内容については後日とさせていただいて、今日は覚園寺さまが持っておられる、講堂(またはナオライ殿=接待所)を描写させてくださいませ。

 事前には、境内にある、神奈川県内から移築をされた旧・庄屋宅で、講演が行われると予測をしていました。で、その家には土間があり、その次に板の間があり、その次に、畳の部屋がある構造だったと思います。だから、お座布団が供されて、正座してお話を聞くのだと予想をしていたのです。

 しかし、実際には初めて見る新しい講堂で、椅子着席形式で行われたのです。それが、建造されたのは、いつかは知りませんが、ともかく、何度も訪れている覚園寺さまで、今日初めてそこに入りました。

 鎌倉のたいそうな建築としては、我が家の東側に、鶯吟亭と言うのがあります。これは、八幡宮様がもっておられる接待所ですが、私は駅に向かう日には必ず前を通るのに、ほとんど、人気が無いので、エリザベス女王とか、天皇・皇后がいらっしゃったときにだけ使われる邸宅だと感じています。地境を接しているので、元の持ち主の白井さん(川口元外相のご親戚)が我が家を訪れられた事があるのですが、瀟洒な数奇屋風、平屋建てです。
 また、もうひとつ、すごい建築は旧華頂の宮邸です。あと、個人の建物で豪華なものはあるとは思いますが、本日拝見した建物も、
 ロココ調の豪華さはないが、日本の木造建築のよさを十分以上に伝えるものでした。

 覚園寺さまは、講演後のレセプションパーティのことでお忙しいみたいだったので、その建物が富山から移築をされたとだけ聞いて、後は、グーグルで検索をしようと思って帰ってきたのです。しかし、WIKIPEDIAでも、一切記述がないのです。と言う事は、そこを一般公開されるおつもりがないということで、今日の経験は僥倖であって、私にとっては、二度とないことですので、本日それの描写をさせていただきたいと思います。

 と言うのも、講演会の主催者は、鎌倉ロータリークラブで、私はその会員ではないので、二度と、この講堂を拝見する事ができないからです。鎌倉の通が、案内するとしたら、「今現在の第一の名所は、覚園寺だ」とみなさんが言っていますが、その講堂(または接待所)を、鎌倉ロータリークラブがつかうとは、覚園寺さまの立場や人気を十分に現していると感じました。でも、WIKIPEDIA等を丁寧にご覧になると出ていますが、覚園寺様には明治以降大変な時期があった(足利尊氏の支援を受けた過去をとがめられた)のです。それを思えば、感慨ひとしおです。
 
 明治政府が、急に建立したであろう、大塔の宮(鎌倉宮)を20年ぶりぐらいに、帰途、きちんと拝殿まで入る形で訪れましたが、衰退しているのには、びっくりしました。官製のお宮でサラリーマンが守っているところと、家族が守っている場所との違いが明瞭です。信念を持って生きることの大切さを覚園寺さまの故事は教えてくれます。

 鎌倉ロータリークラブが使う場所としては、ほかにもスペースが大きい場所はいくらでもあるはずです。でも、希少価値があり、きれいだと言う点で、ここが選ばれたのでしょう。

 建物は三階建てです。昔は農家(豪農)だったのではないかしら。白川郷の合掌造りみたいに、最上階が蚕室だったと想像をされます。古いものを、換骨堕胎(いえ、骨組みだけ残して、新しい上等な素材で、補強)してありますが、黒光りする梁と、腰より下にある窓が、その想像を裏付けます。でも、100以上のしっかりした椅子を置き、かつグランドピアノがあり、演台があり、金屏風(年代ものの美しいもの。ホテルによくあるキンキラキンのものではない)が備え付けられていて、さらに余裕があるので、相当に広い部屋です。このお屋敷はここに移築をされて幸せでした。元の持ち主の子孫さんは、持ちこたえられなかったと想像されます。

 皆さんは松本城にいらっしゃった事がありますか? あそこは五層(五階建て)だったと思います。こちらは三階建てですが、窓が下向きなので、庭がちょうど見下ろせる形です。松本城からは、観光客が歩いている広場が見えるわけですが、こちらでは、新緑だけが見えます。今年の寒さゆえに、今日あたり、新芽が芽吹く美しさにあふれています。人間の姿はまったく見えません。それが、桃源郷に遊ぶと言う感覚を与えてくれました。
 私は大体にして、西欧的なもの、しかもデザインがモダンなものが好きなのに、和風の美に、今日は打たれました。
 さて、講演を聴いたら、すぐ帰るつもりでしたが、ロータリークラブの会員らしい美しい奥様に引き止められたので、15分程度、お茶をいただいて帰りました。皆さんは、これから懇談後、その美しいお庭を、拝見して帰られるそうです。

 私は、その後、二階堂のこれも、静かな喫茶店で、休憩を取り、山すそを縫って、こ一時間ほどかけて我が家に帰りました。我が家の近辺は、鎌倉街道に接しているので、駅には近いものの、二階堂の静けさと空気のきれいさには、負けます。木々も排気ガスで、傷んでいるような感じです。今日の、鎌倉・二階堂は、本当に美しかったです。そして、得がたい眼福もえました。あの講堂は、すばらしい建物です。江戸時代の文化的・かつ経済的蓄積を伝えるものです。

 鎌倉にはほかにも、講堂(または、接待所)のすばらしいお寺がいっぱいあります。が、たいていは、ふすまを払うと四つの部屋が大広間に変化する形式の、畳敷きのお部屋ですので、今日の建物は、ひときわ異色でした。そして、庭と合体した独特の美に満ちていました。
 
 ところで、これは、自分でもびっくりですが、私は鎌倉ロータリークラブの人たちに、まったく劣等感を抱かずに、淡々と、接して帰ってきました。それも、年の功と言うものでしょう。このごろでは、不思議なくらい、落ち着きを得てきています。

 ただ、樋口恵子さんの講演が、高齢化社会の話で、平均寿命が、女性は、86歳と聞くと、『そこまで後、20年も、さらに長く生きなければ、ならないのか。億劫だし、大変だなあ。大活躍ができなくても、ただ淡々とでも、生きて行かなければならないと言う事は、本当に大変だ』と思いました。火事場の馬鹿力ではないが、人間は短期的に、かつ高い目標を掲げると、生きがいとなり、生き生きとします。だけど、何かをするのには軍資金が必要ですので、あれこれ、自由に行動するわけにも行きません。
・・・・・講演の内容については、また、別の日に詳しくお話をさせてくださいませ。では。
2010年4月30日  雨宮 舜
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京都烏丸の読み方(司馬遼太郎ー7)

2010-04-29 22:56:31 | Weblog
 延々と、司馬遼太郎の一冊の文庫本にこだわって申し訳ございません。だけど、それが、19年前の観察でありながら、ほとんど、色あせておらず、しかも、そのあとで、新聞がフォローしたようなこと・・・・・コロンビア大学に、おける日本文庫(角田先生という方のコレクションが元になっている)のことなど、この文章が初出であることもたくさんあります。

 でも、前にも言ったように、逐一、それを、解説していたのでは、このブログの読者にもうしわけないので、本日で終わりますが、私が、全頁中、もっとも、ほほえましいと感じたエピソードはバーバラ・ルーシュ教授に関するエピソードです。

 その方は、ドナルド・キーン教授の後を引き継ぐ、日本語科の教授のようですが、その研究中(修行中)のエピソードがすばらしいのです。彼女の専攻は日本中世の物語のようですが、その原本を、プロの間では、奈良絵本というそうです。この言葉は私は知りませんでした。

 そのコレクション先として、ダブリンに、チェスター・ビーティという図書館があるそうです。その私立・図書館の存在については、名前も知らない、英国の商人(日本の骨董を扱う人)と京都市内の喫茶店で、会話を交わす機会に情報を得たそうです。これは、私もよく通りがかりで出会った、一期一会の人と会話を交わすようになっていて、そういう人と、すばらしい心の交流があるので、わかるのですが、特に京都の喫茶店で、外人が二人だけだったら、どうしても、会話を交わさざるを得ず、そういう機会に、一生を通じて大切になる、情報を与えられるというのも、天というか、神の存在を証明しているように思われます。

 もちろんのこと、司馬さんはそういう宗教が絡んだ形でのまとめ方はなさっておられませんよ。だけど、私は、そういうものだと思っているのです。

 とても、大切なものが偉い人、から、与えられるものでもないと。そうです。コロンビア大学の教授に関するエピソードに触れながら、上のようにいうのは一種の矛盾ですが、大学院へ行ったから、最高のものを得られるわけでもない。ただし、そのたびで、司馬遼太郎さんが接したアメリカ人たちは、現在のアメリカに存在する、もっとも良質な人たちだったのも確かです。
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 その女性教授とのエピソードに入るきっかけとなっているのが、京都烏丸どおりの読み方にあったのです。

 司馬遼太郎さんは、関西の人ですから、もちろんのこと、京都には詳しくて、この読み方が、カラスマと読み、最後の「ル」を発音をしないことはご存知です。

 しかし、コロンビア大学で、講演をするときに、ふとですが、カラスマルと、「ル」を入れた方がよいような気がして、ルを入れた発音で、その地名を講演されました。

 すると、終わったあとで、ルーシュ教授が、それを、すぐ指摘されたそうです。これは、日本通としては、看過できなかったポイントであり、しかも、きつい指摘というよりは、お互いに、知識の豊富な間柄としての、親しみを込めての指摘でした。

 いえ、私も、今の日本の地名変更がばかげていると思っているし、京都には昔からの、地名が残っていて、北へ向かうのを、あがるといい、南へむかうのを、さがるというのもすばらしいことだとんがえているのです。

 そういえば、ニューヨークでも、北をアップタウンといい、南をダウンタウンといいますね。この感覚が共通します。
 ところで、司馬さんが、ふと、そのときに、カラスマルと読んでしまったのは、外人の日本通に、音便がわかるかなあ?という戸惑いが浮かんだのだと感じます。

 普通のレベルの日本通だったら、漢字が読めることだけでも、すばらしい達成ですよね。そういうレベルの人に、『最後のるを発音をしないのだ』ということを求めても、それは、求めすぎだとお考えになったのでしょう。ここらあたりの、心ばえの見事さを、私は素敵だと思うのです。

 そして、そういうルーシュ教授とのやり取りでも見つけられた微妙なこころのやり取りを、数ヵ月後の、文章化の際まで、忘れないでいられるほど、奥様がすばらしい秘書役をしておられるということも感心しました。いつも、一緒に行動をとられている(特に、ニューヨークまで行くというような日には)模様ですが、ご主人の感性が発揮されるのに、邪魔にならない奥様なのです。

 長い年月を付き合ってこられたからだといえば、それまでですが、夫婦って外国へ一緒に行くと、旅そのものに疲れるので、結構夫婦喧嘩をしやすいのです。ともかく、足手まといになる夫婦関係が多い中で、その姿さえ、文章には一切登場しない奥様は、立派です。

 ところで、日本語には、音便という美しい柔らかな表現があったのに、それが、どんどん、失われている模様で、それが、残念です。

 江戸時代まで、文明の中心地は、京都で、京都から、言葉は、同心円を描いて、日本中に広まりました。音便が最も発達したのは、京都だったと思います。

 ひとつだけ、今でも私がこだわっている、発音の言葉があります。

 確執です。カクシュウと、読むのが私の習慣でしたが、このごろ、カクシツと読むのが普通のようです。残念です。では、今日はこれで。2010年4月29日   雨宮舜
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ハロウィンデーの解釈、それぞれ、(司馬遼太郎-5)

2010-04-29 00:55:58 | Weblog
 司馬遼太郎氏のニューヨーク散歩(街道を行くー39、朝日文庫)は、構成力とかアイデアには、驚嘆するほど、注意が行き届いている文章です。ただ、服部剛丈君が銃で撃たれたのは、ハロウィンデーではなかったし、ご両親の集めた署名も今では、80万人ではなくて、70万人といわれています。前者は、多分2週前の普通の日だったということが正しくて、後者は、データが改竄される可能性があるので、司馬遼太郎氏のおっしゃる80万人という方が正しいでしょう。

 この二点は書物の傷としては、たいしたことではありません。

 私は司馬遼太郎氏の『これこそ、現地における、観察ゆえの記述だ』と感じたのは、ハロウィンに対して、そのお祭りの起源、および現状にまで、触れられていることです。特にハロウィンの日がとても危険な日であることを、教えてくださっているのには驚きました。これは、司馬遼太郎さんが、ご自分に自信がある方だからいえたことかもしれないし、そういう点にぴんと来られた感性もさすがです、
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 さて、ここから先は、その著作から離れて、私自身の経験へと入ります。というのも文庫本一冊分を逐一ご紹介するのも、文章としては、芸がなさすぎますので。

 まず、私は1999年のお昼にクイーンズ(アメリカでは、中流の下と思われる、新参の移民が入っている地帯、ただし、ヨーロッパからの入居者が多くて、まだ、荒れておらず、すみやすい地域である。五嶋節さんも最初は、ここを頼って、お住まいになったはず)で

 お昼に出かけたところ、(新聞も読まず、テレビも見ないし、大学院の同僚は忙しくてハロウィンなんかに関心がまったくないので)突然、街に子供たちがあふれかえっているのに気がつきました。

 午後一時半ごろですから、安全です。大通りにはかわいい子供たちがいっぱいいます。このお祭りがキリスト教とどう関係があるかまで、司馬氏は、ヨーロッパでの起源への推察もこめて、深い分析をなさっておられますが、私が感じたのは、『あ、家にヴィデオカメラを置いて来てしまった。残念だ。来年はこの子達をフィルムに収めよう』でした。

 そして、アパートから、駅までの歩き、15分間にいろいろな子供たちを観察したのです。その中に6歳ぐらいの妹にはお姫様の格好をさせて、8才ぐらいのお姉ちゃんには魔女の格好をさせているお母さんがいました。その魔女の方ですが、なんと、こわいこわいメーキャップまでしてあるのですよ。それがなければ、きっとかわいい小さな子が、まるで、魔女に見えます。

 ふと、『このお母さんって、偏愛の人なのではないかしら?』と感じました。長女より次女をひたすらかわいがる。路傍の人のほんの小さなサインにも、ある種の象徴を見る私です。地べたを這うような観察から、心理学的な問題やら、哲学的な問題へ、移行をします。特にそこは、男性ではなくて、女性だから気がつくことでもあります。といっても、ここではさらっと次の現象へ向かいます。
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 で、次の年、2000年に早めに用意しておこうと思ったのに、やはり、テレビも見ないし、新聞も読まないので、また、気がつかず、なんと、工房で午後の作業中に、「今日がハロウィンだ」と同僚の若い子から知らされます。『また、ヴィデオカメラを、アパートにおいてきてしまった。残念だなあ。だけど、何か、このマンハッタンで、見つけられないかしら。面白いことを』と思います。
 工房のあるところは、アパートのあるクイーンズ(郊外)ではなくて、都心も都心、ウエスト9番地です。真ん中が、東西一番地なので。

 「なにか、面白いものを見たいなあ。ここマンハッタンで」というと、ジョン(仮名)という若手の男の子が、「3rd Ave.で夜七時からパレードがあるはずだよ」と教えてくれます。で、『あ、よかった』と大喜びします。こういうことこそ、必ず工房に所属をして毎日出かけているから手に入る情報だと思って。

 が、スザンナ(仮名)という奥様アーチスト(70歳ぐらいで、余裕のある生活をしている上品な人。週に二.三回、版画を作りにくる。マンハッタン島のアッパーサイドで、コンドミニアムにでも住んでいる人。アメリカのもっともよい雰囲気を伝えている人)から、
「だめよ。あんなところに行っちゃあ。危険だから」と注意されてびっくり仰天。

 そのときには、この『街道を行く、文庫、39番』など、まだ、読んでいないのでハロウィンが危険な日だなどということは一切知らず、びっくりしましたが、スザンナという女性を尊敬していたので、彼女の言うことを信じました。

 日本で商業的に、導入されているハロウィンのお祭りがニューヨークでは、その日、やりたい放題の、悪さをする日と変化してしまっていることを、彼女から生涯で初めて知らされます。で、「そうなの?」とびっくりして、七時に3rd Aveに行くことはせず、いつものとおり、夜の十時半ごろまで、版画を作ってから、工房を出ました。すると、マディソンスクエアー(公園)そばの、23stの駅を降りてきたらしい、仮装(コスプレとは言えない)の背の高い若い男女が楽しそうに、話し合っています。ここらあたりで、お酒を飲む場所に入っていくつもりでしょう。この23stと、24stあたりは、アーチスト向けのクラブというか、バーがある感じです。

 西に行くと、ミートマーケット(現在はウエスト・チェルシーの画廊街になっている)だから、どうも、それ関係の若い人が、来易い場所なのです。が、中心街のここでは、画廊はなくて、立派なオフィスビルと、小さなふるいビルに入っている、クラブ(ただし、男女同伴で行く場所で、女性が待っているわけではない)がある辺りでした。それらの男女はスリムで背が高いです。いかにもニューヨーク住まいの白人の若者という感じで、しかもそれほど、悪くはなさそうです。そうすると、スザンナが言うほど、今では、怖くはないのかな?
 
 とは、思うものの、郊外のクイーンズで見た、こども中心の穏やかなお祭りでもなさそうです。そして、それが、2000年のことで、今、その10年後に、1992年に滞在し、1993年に文章化した司馬遼太郎さんの、ハロウィンに対する分析を読んでいるわけです。

 比較すると、司馬さんの滞在した1992年当時よりも、2000年の方が、落ちついて来ている感じがします。若者たちの荒れようというのが、落ち着いて来ているのです。まだ、リーマンショックやサブプライムローンの影が存在するときでもなく、かつ、9.11も経験していないニューヨークです。

 どうして、司馬さんの滞在時より落ち着いているかですが、ふとですが、ジュリアーニ市長の功績ではないかと思いました。彼は、ちょうど、司馬さんが訪れたそのあたりから、私が滞在していたころまで市長だったはずです。そしてニューヨークの美化に努めました。地下鉄のいたずら描きを消したことだけでも、犯罪が減ったといわれています。

 これは、ものすごく大切なことでしょう。最初から汚れているところは、汚しやすいです。でも、きれいなところは汚しにくいです。Nラインが、クイーンズからマンハッタン島へ入る直前のトンネルあたりは、レンガやコンクリートの壁に、まだ、いたずら描きが残ってましいたが、車両そのものはきれいでした。プラスチックでできている椅子も駅の壁も。

 政治家が立派であることは大切です。ジュリアーニ市長は、自己顕示欲が強いし、妻を、取り替えた(がんで入院中に看護をしてくれたナースに、ぞっこんになってしまった)ことやらで、大統領の目は消えたみたいですが、政治家としては、大型の人間だと感じました。

 日本でも同じようですが、『真実をいって、あの人に首長をしてほしい』と思う人が、トップをうかがうことができるわけでもありません。国民にできることといえば、「あの人は困るなあ」という発言ができるぐらいです。国民ひとり、ひとりの力は小さいですね。だけど、無視されたら、もしかしたら、それは、大きな力となります。きっとそうですよ。「あ、は、は」と、ここは豪快に笑っておきましょう。それが庶民の力というものです。

 なお、下(前報)は、乱れがあり、「よくわからなかった」とお思いの方が多かったでしょう。ごめんなさい。今、すべて直しました。意味が通るようになっていると思います。よかったら、下もご覧ください。カレンダーでは28日のしたとなります。

 なお、もうひとつのお断りです。この文章の事実上のアップから、24時間後もう一度下を点検したら、直っていませんでした。不思議ですが? 今、29日の午後、1時、もう一度直しておきます。
                    では、2010年4月28日深夜 雨宮 舜
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侮米と言う新・造語に、とまどう司馬遼太郎氏、ー(その4)

2010-04-28 12:53:37 | Weblog
昨日の記事をあげて、一晩たったところ、読んでくださった人数は少ないものの、文章を何度も読み返してくださった方は多いという現象に気がつきました。それで、タイトルが悪かったと思い直し、タイトルを書き直し、以下の追加を入れました。アメリカがチョウリャクの国であると言うことは、普通の人には受け入れがたいことなのでしょう。
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その侮米という、アメリカにおきた新・造語にいろいろないやな裏側があり、日本人はそういう風に他者をあつかう国民ではないとお考えになっても、とっさのこと(たった一週間の滞在であり、自分はアメリカ一般市民にとっては無名の存在であると言うことこと)ですから、

司馬遼太郎氏は、事前に用意していった、原稿が、誤解を招くと判断をされたのです。

そちらの内容が、日本語の、優越性を語っているとの誤解です。
司馬さんの本旨は、明治政府以降の社会・変革、もしくは、改革がすべて、日本語を通じて行われたということです。つまり、それだけ、江戸時代から、文明が発達をしていて、
法体系や、文学、自然科学等、すべて、日本語で、理解をすることが可能であったというところになりました。

 明治が好きな斯波氏らしい、演目です。それは、後進国では珍しいことで、それを、同じ立場にあった別の国の人々には理解ができないことと、言われて、日本人としても初めて気がついたとおっしゃっています。

 最初はコロンビア大学のドナルド・キーン博士に招かれたのですから、日本語の力・・・・・と言うことだったのですが、他のテーマに変えられたのです。

  ここでは、大変短く終わります。すぐ次の章を書きましょう。2010年4月28日   雨宮 舜
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司馬遼太郎のNY-2、それは、服部君で終わっていた

2010-04-26 23:23:25 | Weblog
 司馬遼太郎の『街道を行く(ニューヨーク篇)』文庫として39番を、今夜電車の中で読み終わりました。本日は遅く帰ってきて疲れきっていて、もっと、違う話題を取り上げるつもりでしたが、なんというチャネリングだろうと驚いたことには、朝日新聞の夕刊で沈寿官氏が、司馬遼太郎氏の思い出を語っていることです。

 私はタイトルにある文庫本を、2週前に池袋のサンシャインビル内の、古本フェアーで買いました。雑誌太陽がたくさん出ていて、それを、買い求めるついでに買ったのです。出品者は阿佐ヶ谷の書店。

 私はそもそも、司馬遼太郎氏の単行本は今まで一冊も読んだことのない人間です。だいたいがノンフィクションと、ドキュメンタリー、およびエッセイが好きで、大学卒業以降は、もっぱらそういう分野だけを読んできた人間で、小説を読むなら、海外ものと、決めていて、日本の現代小説はほとんど、読んだことのない人間です。特に司馬遼太郎氏は、有名で読者も多そうだから別に私が読んでも、物の数にも入らないだろうと思っているから、子供がすきで、薦められても、感化もされませんでした。

「街道が行く」については、1980年代と90年代は東京へ行くたびに週刊誌を買っていたから、(元気なときには週に四冊、電車の中で読みました)週刊誌で読みましたが、ほとんど印象に残っていないのです。挿絵画家が、変わったのを意識しているぐらいです。
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 まとまったものを読んだのは、今回の文庫本が初めてです。その『ニューヨーク散歩』という原稿用紙換算、300枚の掌編には、圧倒されるほどの面白さを感じています。

 特に最後が、服部剛丈(よしひろ)君の両親で結ばれています。特にその行動・・・・・80万人の署名を集めて、「アメリカ社会での銃をなくすこと」を求めておられることで、終わっています。こちらこそチャネリングと、感じるゆえんです。それは、ごく最近に私がマイケル・ムーア監督の、ボウリング・フォー・コロンバインという映画を見て、マイケル・ムーア監督という、一種の天才というか、預言者に強く、共感したということと、このエッセイ集(文庫)の最後が、銃反対で結ばれていることを、さします。

 この文章がはじめて世に出たのは、中扉裏の記述によると、1993年6月25日号の週刊朝日となっています。服部君が、「フリーズ」と言う言葉を理解できず、相手を信じて進んだがために射殺をされてしまったのは、きっと1992年だったのでしょう。それが、ハロウィンデーだったと、この本には書いてありますから。ハロウィンデーは秋です。から、次年度にこの文章ができたわけです。それが、文庫化されたのが、1997年で、私が買った古本が、1998年発行の第六刷です。それを、12年後の今読むことにもチャネリングを感じています。

 この本では、最後にそれ(服部君の事件)が、置かれていて、それがひそかなメッセージ性を帯びています。しかし、声高なプロパガンダではありません。司馬遼太郎氏は、連想に次ぐ連想で、まったくintimate(親密)な、人付き合いの結果として、そこへ導入をされるように書いておられるのです。

 しかも時は日米関係が悪くて、(アメリカのほうが神経質になっている時であり、悔米という言葉が大騒ぎで、報道をされていたと書いてあります)、司馬氏は自らの講演の内容でさえ、変更を余儀なくされています。相手側から要請をされたというより、ご自分から気を使っておられるのです。
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 このアメリカ側が神経過敏である、という現象は、私がニューヨーク滞在中にも肌身に感じました。私はあきだけですが、1999年と2000年に滞在していて、ポケモンが子供に悪影響を与えるというキャンペーン、対抗するかのごとく、パールハーバーという映画が製作され、それが、公開されるころに、愛媛丸事件(日本の高校生が乗っている海洋実習船にアメリカの原潜が乗り上げた)が起こりました。人としては基礎医学の研究をしているひとが、研究材料を持ち出したという点で、大犯罪人扱いを受けました。東芝が高額のなんとか、保障金を払わなければなりませんでした。

 踏んだりけったりの扱いを日本、および日本人が受けていると感じていました。ニューヨークにいながら、切なくて、切なくて、どうしてこうなるのかを考え込みました。特に2000年の方が、授業がない形で、しかも夜は2DKぐらいの広さの中で一人暮らしなので、十分にものを考える時間があり、考えに考え込みました。
 すると、日本人は、非常におとなしくて、何もやっていないことに気がつきます。アメリカにたてつくなど、そんなことは何もやっていません。

 しかも在米の特に戦後、渡米をした(元?)日本人は非常に元気ではっきりものを言いますが(その典型が村上春樹しでしたが)、日本に暮らしている、普通の日本人は、超がつくほどおとなしいばかりです。

 それなのに、過剰に攻め立てられ、責めたてられます。

 それが、なぜかということに考えが及んだときに、日本は、被植民地国家であり、アメリカは何か、そのことで、良心のやましさを感じているのだと、気がついてきたのです。アメリカというよりも軍産共同体なのですが、彼らは国民(市民と呼ばれる)を味方にしていますので、アメリカ総体となります。特に東京裁判に、大きなジレンマがあることを、知り始めます。それゆえに、靖国参拝が、忌避されるのでしょう。それと、もうひとつあって、それは、お金の問題でしょう。やはり、大量のお金がアメリカへ流れる仕組みはできていると感じています。

 服部君事件は切ないこと、極まりないですが、どうも、ハロウィンと、結びつけて報道をされている模様ですが、それは、期日が違うようです。その二週前、で、単なる御呼ばれにお応えしようとした日に、番地を間違えただけで、射殺をされたのです。

 この事件については、マイケル・ムーア監督は賢明(?)にも触れていません。

それは、創作の秘密として理解ができます。映画とは、観客に見てもらわなければなりません。アメリカの普通のレベルの国民(市民)に見てもらいたいとすれば、愛国心が邪魔して、誤解を受けやすいこの事件を、導入するわけには行かなかったと推定されます。でも、ムーア監督の説を丁寧に理解すれば、監督の創作動機のひとつとして、裏にこの服部君事件はあったと考えられます。
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 ところで、服部君事件はあまりにも大きいので、ここで、論をそこから離します。
そして、司馬遼太郎氏ご自身の創作の秘密へと入って行きたいと感じます。

 司馬氏は、ご招待によって、一週間程度奥様(秘書を兼ねる)と一緒に滞在をされたわけですが、それが二回目の訪米(ニューヨークに関しては)だそうです。その間に頭をよぎったことが、実際の文章となるには、三ヶ月を要しています。もちろん、さっと書けたのかもしれませんが、文字数制限が連載の誌面のほうにあって、それで完成まで三ヶ月を要したのかもしれません。が、いずれにしろ、博識多彩で、連想につぐ、連想で、文章は進んで行きます

 私は自分の文章作法において、誰かから学んだという意識はないのですが、「あ、そうか。私もよく、横へそれてしまうが、元に戻ればそれは、許されるのだ」と考えた次第です。

 そして、穏やかなことを間に含めて、ちらっと、メッセージを発する、そういう手法も、期せずしてというか、知らず知らずのうちに、同じ手法をとっていました。恐る恐る始まった、政治的なメッセージの発信ですが、ちら、ちら、ちらっと、袖の下からのぞかせるぐらいが、好ましいことだと直感的に悟りもして、そうやっております。それが、この文庫本を読んでいて、正しかったことが、よくわかりました。
         2010年4月27日、早朝も早朝、午前一時に、雨宮舜      
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司馬遼太郎のニューヨーク、残間里江子ー4

2010-04-25 15:40:55 | Weblog
 残間里江子さんについて、ある種の残念さというか、寂しさをこめて書いたのは、日本の文壇というか、評論界が、薄っぺらになってきていると感じていて、それに対してテレビの影響は大きく、そこに出る人たちが主流派であるがごとき、風潮が生まれていて、それに抗議したいのが本筋です。

 その文壇の、学者たちを残間さんが管理(?)して、売り出すわけですが、その会社が出来る前に平行して、というか、ほとんど、同じ時期にご自分で、ご自分を売り出した人々も居るわけです。

 そんな中で突出した存在であるのが、糸井重里氏と、林真理子さんです。糸井重里氏は、軽さがあるのかな? テレビへの露出も嫌がらない人のようですが、林真理子さんは、テレビは『ご自分にとっては、損だ』と考えておられるでしょう。しかし、「彼女に頼めば何でも何とかなる」と重宝がられておられるようで、抜群の露出度です。

 私が、たぶんですが、1999年(もしかしたら2000年)ニューヨークで版画をひたすら作っているときでした。時々、気分転換をしたくて、よく、53ストリートあたりを東西に歩いて横断したものですが、そこに、紀伊国屋書店があり、もっと歩くと、旭屋書店があります。時々、日本語の本を立ち読み(そして、ちゃんと買ったりもしましたよ)に寄るのですが、紀伊国屋のカフェ部分に、パネル風の広報が出ていて、『林真理子さんが講演に来る』と出ていました。後ろ盾はあのころですから、文芸春秋社(?)または、朝日新聞社です。

 で、その講演自体は聴きませんでしたが、あとで、週刊誌を読みました。すると、満足が出来ません。『そういうことか、有名人であるということは、こういう仕事をすることで、世の中の人を納得させられることなのだ。だけど、尊敬はできない。彼女を有名にしている、そのシステムそのものが相当いかがわしい』と感じました。しかし、それを、外に出したことはなくて、ごく、一般の人と同じようにずっと、褒めてきたのです。ごく最近のことです。

 そのきっかけこそ、2007年の四月に発見した、私のパソコンへのさまざまな異常現象でした。それを、分析をし始めると、タイミングから考えて、ある特定の論理を開示した途端にそれが、起きることを発見しました。それと、銀座でのいろいろやら、途中でのいろいろも含めてですが。

 それらを分析した結果、この日本とは、被・植民地国家であり、莫大な利益が国際コングロマリットを形成している大資本家に流れているのであろうが、国民がそれに気がつかないように、さまざまな装置が施されていて、そのために、大マスコミは上手に利用をされており、そこに登壇する人たちは、安全パイとみなされているが、実際には毒にも薬にもならないことを発言する人たちだ・・・・・

  と、上のようなことを思い至ってしまったわけです。
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 林真理子さんは、独自路線で、売り出した可能性があり、『残間さんにお世話になりました』とは思っていらっしゃらないにしても、仕事を依頼されたりするときに、その注文主が、新しい接触者だと、残間さんの会社あたりを通す可能性もありますね。

 また、まったく無関係であったりしても、飲む、とかお茶するという仲間としては、糸井重里、残間里江子の二人と、林真理子さんが無接点だとは、考えられないです。これらの人はいわゆるお仲間内として、つるんでいると考えられます。これも、見てきたようなうそを言いの類のひとつですが、山本容子さん(版画家)も、そのグループ内の人でしょう。
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 さて、人名がたくさん出てしまいましたが、私がこの文章で言いたいことは、林真理子さんの文章がこと、ニューヨークに関しては抜群につまらなかったということです。たった、一週間ぐらいここにやってきて、あれこれ、お膳立てが済んでいることを経験してもそこには深いものの発見はないです。
 これは、TBSがタレントを派遣して、いろいろな修行をさせる番組でも感じました。事前のお膳立てが出来ている形では真実の修行にはならないです。でも、それらの番組が悪いわけではありません。良質といえるほうです。

 それを、真似して(?)NHKが同じような番組を作っていますが、時間をかけているので、より充実していて見やすい部分があります。ただ、オリジナリティの問題が微妙ですが・・・・・
 が、タレントさんには後で、文章を書くことが求められていないので、それは、それで、終わりで結構ですが、林真理子さんは、小説家ですから、文章を求められているわけです。

 はっきり言って「これは、ごめんなさい。つまらない」でした。
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 さてね。今文庫で、司馬遼太郎の『街道をゆく』(39)ニューヨーク散歩を読んでいます。

 やはり、短い滞在です。一週間か、長くても二週間以内でしょう。専任の車を用意してもらって、週刊朝日の人が通訳として、付き、別の日(または、別の時間)に安野光雅氏がスケッチのために、出歩くという設定です。

 司馬遼太郎氏には現地でのすごいお客が待っています。そして、同じく講演会をかねるのですが、場所は、書店ではなくて、コロンビア大学のしかも、ドナルド・キーン氏の退官記念関連のもよおしです。だから、レベルが違うといえば違う。
 また、その前の滞在もあって、記憶が確かだし、学識が深いわけです。一種のコーオーディネーターとして、協力する人たちも、単にお金をいただくから協力しますという姿勢ではない。
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 だけど、それを差し引いても余りある、面白さです。たとえば最初が、ブルックリン橋の架橋のエピソードから始まっています。
 ご自分が現地でであった人々との交流ではなくて、一般の人々が、誰もが対等な人間として、文章に引き込まれるような工夫がそこに見えます。

 久しぶりに古い文章を読んで堪能しました。だけど、自分は自分である。と感じています。つまり、現場にいて、人々と交流していて『喧嘩(?)があって、人が死ぬ』 『それは、別に殴られたから死んだわけではなくて、別の人のずる(?)賢さが、死んだ人への足かせとなって、一種の孤独死へいたってしまうのです。が、そうい複雑極まりない深層でさえ、現地に三ヶ月居るだけで、(といっても毎日そこへ出かけますが)感じ取ることが出来る、私は、私で、ものを書く意義があるのだ』と、改めて感じます。

 つまり、お膳立てをしてもらっていないものの強みです。これは、沢木耕太郎さんの最初の手法でした。同じですが、彼はライターになる見込みの元の行動ですが、私の場合は違っていて、主たる目的は、版画修行で一点に滞在です。その傍ら、目に付いてしまうことがあるので、自然発生的に文章ができるという感じです。

 ここまで言ってしまうと前半の批判部分が、ひがみっぽく見えてしまいますね。それは、いけませんが、あえて削除をせずおいておきます。上の自分に対する七行は、『あの大家・司馬遼太郎さんのニューヨーク紀行が、抜群にレベルは高いが、それでも、現地で暮らした人ではないなあ』という小さな呟きであって、本論とは関係がないと言わせてくださいませ。では、2004年4月25日   雨宮舜

 なお、本日は、6時間早くアップしています。いつも夜ご覧になる方は、昨日のものが下にあります。
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残間里江子の3 海外ではどうか? 司馬遼太郎から推察する

2010-04-25 12:17:58 | Weblog
 昨日残間里江子の2を書いた後で、相当推敲しなおしました。日本時間の午後十一時前にお読みいただいた方は、下の文章が相当に改良をされているので、再び目を通していただければ幸いです。さて、昨夜は午前3時まで、パソコンを開けていましたが、あのような真実、=====CIA(もしくは国際的軍産共同体======が困るであろう真実======を書いたときには、よく、エロチックなコメントが引っ付いてきています。いつもは、気がついた時にすぐ削除するのですが、今回は残しておきます。これが何を狙っているかですが、私の文章の品格を落とし、コメントを書くつもりであった読者の気をそいでしまうことが目的でしょう。

 こういうのも、言論弾圧のひとつの形です。最初のころなど、もっとえげつないホーム頁・・・・・(警察庁は悪質なホーム頁を取り除くはずでしたが、言うに言われない悪質でエロチックなもので、URLを入れても実際にはそんざいしないもの)・・・・・が、トラックバックとして、が引っ付いてきました。それも削除をしましたが、そういう機能があることはわかって、今度は自分がそれを利用しようとしました。その、トラックバック機能が、私の場合には、利きません。自分のほかのブログに今度新しく書いたこの記事は似ているから、トラックバックとして、お互いに関連をさせようとして、トラックバック欄に入れるとしても、結果として、画面に出てこないのです。

 これって、グーブログ(会費を払っている段階だ)のビジネス上の、契約違反ですよね。????? もし、急にそういう条項が規約に盛り込まれたのだとしたら、その条項はまったく日本的ではないと言うしかないです。そして、言論弾圧がそういう形でも行われているというしかないし、それがまた、ひとつの証拠となります。つまり、トラックバック機能が利かないことが、言論弾圧のひとつの証拠となるわけです。来週までにグーブログの管理者に、問い合わせるつもりです。

 『この会社そのものが、CIAもしくは国際的、コングロマリットの支配を受けているわけですか?』ともね。

 が、そんな損失を与えられれば、与えられるほど、きりっとしてくる私です。意欲が高まりしっかりしてくる私です。

 ところで、一年前ぐらいは、私もナイーブでした。びっくりして、どうして、この民主主義の日本で、こういうことが起きるのだとも考えましたが、今では、それを、やる組織の、心理的な幼稚さにあきれているという次第です。「人材不足よのー」と、陰ながら微笑んでいますが、次から次へと発案して来ますが、問題はそのタイミングです。小沢幹事長がテレビに登場する日と登場しない日とに、密接に関連して居ることもすでに検証が済んでいます。日にちは少しずれます。というのも目も段階で、把握をされるからです。だから、未推敲の段階でもアップしてしまうことが多いのはそのためです。一応論旨を確定しておきたいと思う気持ちがあるわけです。

 この私の固有(?)の現象を見ているだけでも、<<<<<小沢幹事長が、国際的な軍産共同体のもっとも、かわい子ちゃんである>>>>>と、信じるしだいです。面白い現象です。つまり、私が文章を書いたものの、公開しない段階・・・・・それは、ブログにアップしたり、メルマガで公開する数日前ですが・・・・・・

 この日本社会を取り巻く環境、および、政治が悪すぎる現象が起きるわけで、したがって、昨日のような(残間里江子さんの特殊な役割に関するもののような)文案が、3,4日前に出来るわけです。
 ハッキングがされていますので・・・・・といっても、あなたも、すべてのパソコン成形文章はハッキングをされていますのですよ・・・・・・手書きでない限りね。そのことをあなた自身が、知らされるか知らされないかの違いです・・・・・・それだけの違いです。
 日本弁護士会等に、言論弾圧の実例として、被疑者不詳で、訴えることさえ考えているほどです
日本ペンクラブがそれをやったようにね。
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 ま、元へ戻って、本論に入ると・・・・・残間里江子さんやら、高野孟氏が、戦後日本の論壇を、実質的に、牽引してきた・・・・・、というのは確かでしょう。このエロチックコメントがついたことによってさらに、確証を与えられました。目にはさほど、大きな存在とは映りません。しかし、人脈のフル活用で、大きな存在となっているのです。発言自体がショッキングであったりご本人の著作が大当たりしたというわけではないが、大きな存在であるというわけです。

 これが海外では、どうなっているのか? そのことに興味が移ります。で、この文章の数時間後で、司馬遼太郎のニューヨーク紀行文、および、私のパリ滞在時の思い出を語りましょう。お待ちくださいませ
 では。2010年4月25日                雨宮舜
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残間里江子さんと、メディア貴族と、現代社会の言論誘導

2010-04-24 20:48:18 | Weblog
 昨日、残間里江子さんが、テレビに学者が出ることのシステムを作り上げたと、書きました。グーグル等で検索をすると、確かに彼女は、会社を持っています。

 私は以前から、現代の論壇というか、メディアに登場する人々についてはある一定の、お友達の輪があって、その輪は、数十年前、つまり、1960年代から、六本木とか、原宿等の付き合いが裏にあるであろうと、推察していて、書いています。その付き合いは、形は飲み屋であろうと、クラブであろうと喫茶店であろうと、付き合うこと自体が、現代の、洗濯舟(パリで、ピカソなどの優秀な画家たちが、集った共同アトリエ)となっていると感じていました。

 それらの付き合いが起きたし、また、その中で現在のメディア貴族が生まれているのは、学生運動と関係があるとも考えていました。学生運動に加わらなかった人たち、または、加わったが、上手に生き残った人たち、または、または、うんぬん、と、その規定はいろいろ続きますが、
 ともかく、都心に居て、夜遅くまで、お茶したり、お酒を飲んだり出来る人々の間で、その登壇のシステムが、構築されていると、感じていました。つまり、仲良し同士で、引き上げあうと推定していましたが、まさに、それが、現実のこととして、顔を現したのが、残間里江子さんの会社でした。
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 で、最初のうちは、『残間里江子さんは、うまくやったわね。非常なる美人だから、自信が生まれて、こういう風にプロデュースが出来るのかした?』と考えていました。そして、『自分は、比較すると自信がないほうだなあ?』とも考えていました。ただ、ひとつ、性格(能力も含むが)の差であろうと考えていました。その性格の強さは、彼女の美貌がもたらしたものだとも。

 ところがあるときに日経新聞に一頁を使った、彼女の特集が出ました。
 これは、文化面にある『私の履歴書』みたいなヴォリュームのある記事ではなくて、一回(一頁)だけです。しかも聞き書きの模様ですので、軽いものですが、そこに『あっ』と、驚く記述がありました。
 
 彼女の自信の源泉が、美人であること以外にもあったことを初めて知ったのです。それは環境がサポートをした側面でした。

 『なるほど、これだったのか』と納得をしましたが、重要な点は、彼女の父上が、共産党員だったということです。その父上に対して、どうも、批判的にお育ちになったらしい。これこそ、大いなるポイントだと感じます。つまり、現代の主流派、にかわいがられていて、それに結果として役立っておられる。つまり、いつのまにやら、日本が実質的な被・植民地国家となり、言論が微妙にも統制されていて、少数派が弾圧されている構造を、彼女の会社が作り出し安定をさせていると感じるのです。

 つまり、表に出ていない、真実の支配者が好ましい人材だと考えるのには、一種の踏み絵があって、昔からの左翼を、抜け出している、そちらに言うに言われない批判を持っている人を尊重する姿勢があり、それに、残間里江子さんは、見事に当てはまっているというわけです。

 これは、高野孟氏(父上が同盟の議長だった)なども同じなのですが、敗戦後すぐ訪れた、民主主義の洗礼を受けて、左翼活動が盛んになり、やがて、それも弾圧をされて、消えていった過程で、まったく消滅をしたわけでもない、メタモルファーズをさせて残したわけですが、その中で、左翼から生まれて、左翼を批判する人たちはもっとも、信頼を置ける人たちだと、例の日本を支配している、コングロマリットの上部の人々が戦略的に考えたら、残間里江子さんのケースは最も信頼の置けるタイプの才女となります。

 そこをうまくついて、彼女は力量をためて行ったと考えると、すべて、OKです。
彼女ご自身がそういう社会構造に気がついておられるかどうかは、知りません。こんなことをここで書いても、『え、違うわよ、何言っているのよ』と仰るかも知れませんが、これは、例の私固有の、見てきたようなうそを言いの一つとして、ここに、書き置かせてくださいませ。

 まあ、上に書いたことは、日本の論壇を、間接的に支配をするのに、役立っているわけです。だけど、そういうシステムに任せてきた結果、日本人がどんどん、堕落をしていって、おり、しかも国民一人一人が、自分は不幸せだという感じを強く持っている現状が生まれました。

 そこが問題なのです。日本が凋落傾向にあるという論調が盛んです。そして、まっすぐに生きようとしていて、そういう意欲を外に示す人間は、KYとして、いじめられたりします。なんとも改革の仕様がない、腐った国であります。いえ、そこまでいいたくないのですが、そういわざるを得ないほど今の日本って、残念な状況ではありますよね。

 そういえば、テレビに出ることが、お金持ちになる早道なので、男性なのに、美容整形手術をしている学者が居ます。この人が、残間里江子さんの会社の顧客かどうかは知りませんが、あまりにもはっきりとわかる二重まぶたに突っ張った、輝かしい皮膚(しわ取りをしたのでしょう)・・・・・その人が理化学系で、見なくてもすむ番組に重用される人なので、助かっていますが、社会のすべての人が関心を寄せる番組にあの学者がコメンテーターとして出たら困るなあと思ったりします。

 言論界の有名人なんて、立派な人で構成をされているのかと思ったのですが、そうではなくて、たまたま手づるがあることで、成り立っているのは、今は、わかりました。

 ところで、私は右翼でも、左翼でもないです。誰ともつるんではいないし、誰に影響を受けているわけでもないです。テレビや新聞で報道をされる、一つ一つ、の現象を、分析して統合して心配な点をあげておくだけです。
 本当は、良寛さんか、一休さんとか、宮沢賢治みたいに静かにひそやかに老後を過ごしたかったけれど、世の中にはびこっている悪について気がついてしまったので、それに対して、『皆さんも気がついてくださいませ』と、小言こうべえ(または、意地悪ばあさん)みたいなことを言う羽目になってしまっているだけです。残念ながら、そうなっています。平和と平安が、日々訪れることを願っていますが、そうでもないので、こういう姿勢になります。では、今日はつまらないおはなしでしたが・・・・・

 と、ここで、終わらせるつもりでしたが、それでも、もうひとつ気がついたことがあって、それは、残間里江子さんの今日(こんにち)があるのは、やはり、山口百恵チャンの自伝の大成功が大きかったと思います。そのときはたまたまのアイデアだったでしょう。でも、そこから始まって、結局は、この世の中を大きく動かす存在へとなったわけです。ご自分は、著作があるわけでもないが、実質的には、大きく動かしている存在と言えるでしょう。

 最後にもうひとつ、小さなお断りですが、本日は書きにくくて、三時間ほど、未熟なままほうりだして置きました。お許しくださいませ。午後11時にやっと正しく完成しました。
   2010年4月24日             雨宮舜
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山口百恵に、自伝を書かせた残間里江子の技と力量

2010-04-23 10:44:16 | Weblog
 百恵ちゃんがデビューしたころです。彼女を車に乗せて駅だか、中学校に連れて行ってあげるという人が主人の同僚に居ました。主人は当時日産自動車の材料研究所というところに勤めていて、その同僚ですから、車が好きで、そして、品の良い人だと推定します。
 そういう運転手任務を果たしてあげるのは、百恵ちゃんが非常に忙しくて、疲れてしまうわけですが、それと同時に、彼女の一家が、そのサラリーマンの人と仲良しであることも推定され、したがって、お母さんは、近所づきあいの上手な人であろうと、推定していました。

 一度美空ひばりさんを高く評価した文章を書きましたが、中村錦之助ご一族が、錦ちゃんが東映に入ったことで、大変苦労をされたとの文章(インターネットの中にあった)を読み、それは、美空ひばりさんの導入で、映画界へ、入ったのでそうなったとも読み、『うーむ。興行の側面で、やくざの世界の保護を受けていたということが関連しているのか。そのとばっちりで、中村家(萬屋一族)が損をしたのか?』と思ったりします。が、その時代のタレントとは違って、百恵ちゃんのお母さんは控えめで普通の人なんだ。ご近所様に好かれて、それだけ、奉仕をしてもらえるのだから・・・・・ずいぶん違うわね。テレビが発達して、プロダクションも会社となり、近代化したという時代の雰囲気もも違うが、百恵ちゃんの方は、欠落感がひばりさんに比べれば圧倒的に、少ないのでしょう。幸せでのんびりした人なのでしょう・・・・・と、考えていました。

 ところが、その百恵ちゃんが一種の自叙伝(蒼い時)を出し、それが大評判になりました。すべて、過去のことだから絶版になっていると思うし、ご本人もそれに触れてほしくないかもしれないのですが、そこには、やはり、小さいころの苦労というものが書かれていたそうです。

 つまり、成功を求めるということの影には、それ以前の欠落感とか、不幸な感覚というのが、絶対にあるわけで、それが、埋め合わせられると、人間はがんばる必要がないのです。で、百恵ちゃんはすっぱりと、引退をしました。パッチワークが好きだとか、キルトに凝っておられるとか聞きますが、それはごく普通の中流の上の妻と母としての形であり、ご本人およびご家族(夫や子供たち)もそれが、一番順当で幸せなことでしょう。

 スターであるということはご本人にもメリットがあるでしょうが、それだけ、過重な労働が必要なので、ほかの人の生活を支えるために、働くという側面もあるからです。<<<伴奏者やマネージャー等一族郎党を養わなければなりません。ピンクレディがどれほど、当時過剰な労働をさせられていたかということはご本人たちから、広言をされていますそれよりは愛する家族のためだけに働いた方が、良い>>>という覚悟が座った生き方です。

 そこまでに到達するためにも、その『蒼い時』と題された自伝をお書きになることが役立った模様です。それを書く過程でいろいろ物事をお考えになったこと、それが、後年の生き方につながっていきます。
~~~~~~~~~~~~~
 ところで、私自身は、それを読んではいないのです。しかし、その内容が、思い切って深かった(というか、甘くなかった)ので、どうして、ここまでのことを書いたのかが、人々の関心の的となり、やがて、裏側に居て、この本の企画を立て、百恵ちゃんを励まして完成までこぎつけたプロデューサーの存在がクローズアップされることとなりました。

 その人の名を残間里江子といいます。で、その人も表舞台に出てくるようになりました。

 今の私にとっては、残間里江子さんに大いなる関心があります。今回の個展で得た、一番大きな情報は、テレビの世界へ大学教授等を送り込む体制(システム)を作り上げたのが、彼女だと聞いたことだったと思うほどです。

                    この項は続きます。2010年4月23日  雨宮舜
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さきがけの武村氏の09-11月(NHKスペシャル内で)の発言

2010-04-22 21:11:29 | Weblog
 私は、個展などあって、社会問題に目を向ける暇がありませんでした。しかし、その間、基地の移転問題がごたごたしていましたが、それは、予想通りですので、別に自分が何も言う必要がないと感じていました。

 鳩山政権は、不思議な形でアメリカから甘やかされていると考えていますが、(まあ、もっとも、被・植民地国家日本の、実情を明らかにしている政府ですが)

 問題は、もっとも危険な小沢氏が総理になるよりは、次善の方として、民主党の政府になるのなら鳩山さんしか居ないとは、考えていたのです。
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 でも、この政府が国民を大切にする政府とはまったく思えないのですが、それでも、09年の秋の、大騒ぎが収まって、ほっとはしていたのです。

 そのころ、小沢氏を持ち上げるマスメディアの論調がものすごく大きくて、そのヒステリックな方向性は目に余るという危機感を抱きました。天皇の利用問題、今、中国の首脳訪問のことは静まっていますが、大人数で中国訪問をした小沢氏がすぐ、その足で、チルドレンを置き去りにして単独で、韓国を訪問したことで、

 中国訪問は隠れ蓑であり、韓国訪問の方が主たる目的ではなかったかと思っているのです。

 今、日本と韓国は、非常に微妙です。国民の間には好意があふれているのに、政治的な諜略行為(それが、韓国発か、国際的軍産共同体発かはわからないものの)は繰り返されています。そういうことの裏側に、小沢氏の動きがあるのではないかと推察します。
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 小沢氏を、持ち上げる、番組がNHKスペシャルとして、同じ〇九年の十一月ごろ放映をされました。その番組は、それこそ、サブリミナル効果以上の効果を持って、小沢氏を持ち上げていたのですが、

 豪腕小沢氏の、恐ろしさを丁寧に説明したのが武村氏だったのです。ご覧にならなかったかたのために簡単に繰り返すと、当時ごたごたしていた問題解決のために、わざわざ小沢私宅を訪問した武村正義氏を、問答無用という形で、追い返したという証言です。小沢氏は当時から、まったく聞く耳を持たない人物だったのです。

 その番組には、表現の仕方に、ほかにもいろいろ大きな難点というか、大問題があって、『日本人はこんな番組で丸め込まれるほど、馬鹿ではありませんよ。この番組を作ることを提案したのは誰ですか?』と憤慨した覚えがあるのですが・・・・・

 本日日経新聞でたまたま、さきがけの時代を検証した記事が出て、タイミングが良いと感じました。武村氏のような大きな志をもつ、本当の政治家を粗末にする小沢氏は、危険な人物です。

 その上、また、政府をめちゃくちゃに引っ掻き回す、高速道路の通行税について、まるで、自分の影響力を測るかのような、ひっくり返しを持ち出しています。

 気分が暗くなるようですが、国民は選挙という形で、しっかりと自分の意見を述べないとだめでしょう。               では、短いですが、2010年4月22日   雨宮舜
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銀座で小人症の人と出会って(私の小さな国際交流)

2010-04-22 08:10:54 | Weblog
 今日のお話はまとまりがつかないものです。淡々と進みます。しかも長いです。それは、ごめんなさい。以前から書いていることの続きがいっぱいあるのに、それを抑えて、急に街頭観察を入れますが、それは、私なりに、『元気に生きるということ』を実践した一日だったので、それをご披露をさせていただきたいからなのです。しかもその元気は、タイトルに書いたように、小人症の女性に出会ったことから生まれました。
 この年になって、いろいろなことを抱えていると、元気に生きること自体が大変なことなので、元気に生きることができた感謝の意味を込めて、その二時間をご披露させていただきたいと思うのです。
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 新橋からいつものとおり銀座へ入ろうとしていた時のことです。駅構内で、若い女性に出会いました。その人は上半身はしっかりしていましたが、下半身が発達していなかったのです。だから、背が一メートルぐらいしかありませんでした。でも、薄化粧で、元気で素敵な女性でした。あまりにも陳腐な言い方ですが、彼女に出会ったことで、心が洗われ、突然に存在の根源に立ち返り、自然そのものの元気をもらいました。

 少し歩くと、70歳以上だと思われる、おしゃれな女性と出会いました。キャノチエという形の帽子をかぶり、全体を白っぽい色合いでまとめた、主婦か? ライターなどの自由業かはわからないものの、最高にセンスの良い女性です。『うむ、うむ』と私は考え込みます。『アートになんかこだわらなかったり、本作りになんかこだわらなかったら、あのくらいのおしゃれな女性として、私もこの年(67歳)を迎えられたかもしれないなあ? だけど、今の私はお金も時間も別方向へ、かけているから、ずいぶん違っちゃったけれど、でも、おしゃれを出来ないことに対して、劣等感は持っていないわよね』と、自問自答をします。人間とはいろいろな方向へ自分の欲望を発展させるものです。わきまえを持って生きて、劣等感を抱かないようにすることは大切です。
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 さて、タクシー乗り場に、背の高い40歳ぐらいの紳士と、顔は見えないが、衰えきった女性が待っていました。麻と絹の混紡らしいパンツスーツを着た、しかるべき階級(上流?)の女性ですが、上半身を90度以上に曲げて、今にも死にそうなほどの、衰えようです。『どうしたのだろう。病院から退院してきたばかりなのだろうか? それとも、慈恵医大等へ、これから、入院するところなのだろうか?』と思います。紳士の母君でしょう。彼女の顔は見えないのですが、『人間とはなかなか、死ねないものだ』と思い、つらかったですよ。昔、鎌倉の耳鼻科で、お嬢さんかお嫁さんかに付き添ってもらってきていた老婦人も、口内炎が痛いそうで、何も食べられないそうで、本当にやせ衰えていて、上品なお顔が魔女みたいに見えて、一種の死相が浮かんでいると思えるのですが、別に救急車に乗って来院したわけでもなく、支えながらでも歩いていらっしゃるのです。だけど、こういう段階で、出歩くのはますます体力の消耗だと思いました。見ていてとてもつらかったです。こういう段階の家族を抱えている介護者は大変でしょう。母は幸いに老人ホームに居るので、安心です。しかし、自分の老後については、私はほとんど、何も用意をしていないのです。でも何とかなると、信じている。『空の鳥を見よ。野の花を見よ』で。
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 さて、銀座の四丁目に差し掛かって、外人のご夫婦が、『オペラが』といっているのが耳に入りました。銀座の四丁目には大スクリーンが二つあって、三愛ビルの方からは、誰かの(多分、パヴァロッティの声)で、アリア『誰も寝てはならぬ』が響いているのです。そのご夫婦を見た途端、鎌倉駅で切符を買うのに戸惑っていた、フランス人老夫婦のことを思い出しました。とても、善良な人たちです。最近の券売機は、パソコンそのものみたいで、日本人だって戸惑っているのですから、フランス人の老夫婦が戸惑うのは当然で、教えてあげた後で「飛行機は大丈夫ですか?」と聞いても英語が通じない。私はフランス語はだめだから、「オーヴァア(さよなら)」といって別れました。

 その銀座四丁目で、夜の蝶(ふるい言葉です)が、出勤前で、お客さんを待っているらしい姿に出会いました。六時七時にはきれいな女性が歩いています。この間なんて、異常にスリムで金髪の若い女性がピシッとした付け下げ姿で歩いていたので、「アメリカ人なの?」と聞くと「ロシア人よ」と答えられてびっくり仰天です。
 が、今日の女性にことさら目を引かれたのは、彼女が真っ白な着物を着ていて、帯も生成りの白だったことです。後ろを向くと、紋だけに色がついています。刺繍か染かはわからないものの、紋だけが大きくて(私の若いころは、二センチぐらいだったそれが、今は五センチ以上がはやりなのですね)カラフルです。非常に個性的な装いです。
 ただし、着物が結構わかる(母がたくさん持っていたので)私は、『これは、新しいしろい反物で仕立てたのではない着物だ』と直感をしました。つまり、昔は、色がついていた生地を、色抜きした白です。その方が汚れても、今度は捨てるだけ(?)でいいから、贅沢なこと、限りがない真っ白な着物として仕立てても、気が楽なのです。彼女はこれを、総計、20回ぐらい着たら捨てるのでしょう。地紋も複雑なよい生地ですが、意地悪ではなくて、女性の工夫の限りを好ましいこととして、受け止めました。
 それなりに、みんな工夫をしています。湯水のようにお金があれば、工夫は要りません。そして、スパイラルで、金持ちはさらに金もちに、なって行き質素な人間はいつまでも貧乏なのかな? だけど、お金だけが人生でもない。こういうことにまで気がつく、今日の自分は非常に調子が良いと感じます。

 さて、銀座の画廊街で、いろいろ現代アートの作品を見た挙句、帰りとして伊東屋の前を通ったときです。ひときわ好人物そうな、白人の男性が、じっと、小さな子を見つめています。2歳ぐらいの黒髪の女の子が、大きなニコンのカメラを振り回していて、それが、かわいいからなのでしょう。
 私もその小さな生意気さんを、思わず見つめたら、乳母車の傍でお父さんが付き添っているのに気がつきました。とても、やさしそうな顔をした人です。お母さんがきっと、伊東屋内で買い物をしているのです。便箋とか封筒とか、絵葉書の類の美しいものがいっぱいありますので・・・・・
 ふと、何かがひらめいて「あなたは日本人ではないのでしょう?」 と、英語で言ったら「そう。コリアンです」といっていました。本当に優しそうなお父さんです。そのときに、竹島(ドッポ島)領有問題で、争うのは、日韓双方の、国民の望みではないと改めて感じました。

 そして、そのあとです。英国屋か松屋前あたりで、また、小人症の女性に出会ったのです。さっきとは別の人で、もっと小柄で年上の人です。

 だけど、私はそこに、意味を見出し、これらのエピソードを書くべきだと感じました。一日に二度も、小人症の女性に出会うなどと言うことは、天の啓示であるはずです。
~~~~~~~~~~~~~
 その後で私は、東京駅に入りました。地下駅構内で、まるで双子かと思うほどの二人の若い男性が話しています。私は『あなた方はフランス人ね(これも英語で)』と話しかけると、「そうだ」とのこと。私は彼らを見ただけでそういったことで、自分の勘が当たったのだけで満足をして、彼らとは何も意味のある会話を交わさないまま、そこを去り、エレベーターに向かいます。

 一組の母子が、大きなスーツケースをもってのり、成田に向かうのと出会います。服装からとてもお金もちだとわかりますが、その人たちが、黒髪であっても日本人でないのがわかります。エレヴェーターは総計30秒ぐらいですが、その間に、10歳ぐらいの男の子に向かって、「日本人ではないでしょう?」とこれも英語でいうと、『中国人で成田へ帰るところだ』といいます。かわいくて賢そうで、元気な子です。お母さんも彼が英語で応答が出来ることが得意そうでした。お姉さんは日本語がわかり、お母さんはわからないが、中国の富裕層です。子供たちはかわいくて元気。ここでも、日本人と中国人が普通なら仲良くできるのを確信します。

 気持ちがすっかり洗われています。今日であった人たちはみんな心根は優しくて。、元気な人ばかりでした。
 こういう会話が生まれたのは、
最初に出会った小人症の若い女性のおかげです。彼女に出会ったおかげで、私の方が素直そのものになっていたからでしょう。だから相手の皆さんもみんな素直に対応してくれました。ありがたいことです。すべてが祝福をされた日でした。       2010年4月22日   雨宮舜
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桜田淳子ー2、その人生から、私たちが学び取れること

2010-04-21 12:51:52 | Weblog
 前報で、桜田淳子さんの結婚には驚いたし、文鮮明氏(師)に、あいて選びをゆだねるのには反対だと書きました。が、実際には、彼女は幸せな生活を送られている模様です。とても賢いです。中流の上の人間というのは、マスコミになど出ないのが普通です。そういう道を選び取っておられる。だから、結果よければすべてよしとなるわけです。

 だけど、あのころの驚きを、もう一回再現すれば、どうして、彼女がそのような結婚を選び取ったのかについては、山口百恵さんとの比較があったと考えられます。
 桜田淳子さんは、少女期にさして、劣等感がない育ちだったのではないかなあ? それで、まじめです。多分、十分すぎるぐらいに誠実でもある。ということは、芸能界の男の子との恋愛がなかったと考えられます。みなさん忙しくて、いつも他人に囲まれています。そういう中で、相手を見つけるのはもともと容易ではない上に、彼女のひたむきさが、・・・・・恋愛、即、結婚でなければならない・・・・・という、強迫観念を男の子たちに与えてしまっていて、芸能界では、彼女の格や、収入にふさわしい男の子が、名乗りを出るチャンスがなかったと推定されます。
 だから、一気に相手選びを、他者(教祖様)にゆだねてしまった。その影に、輝かしい成功例としての百恵さんの結婚が、影響をしていたかもしれません。ここからは、例の私固有の見てきたようなうそを言いの類で、真相はわかりません。が、ご自分のお色気の部分の百恵さんに比べればの少なさとかは、自認しておられたと私は推定します。

 ただ、その後は(偶然なる結果ですが)、かえって幸いしたともいえます。結婚なんて、ひざをかがめないと出来ないものです。ある種の諦めとか、劣等感があったほうが、安定して妻として生きていくことが出来ます。才能と収入に恵まれた女性が、よく離婚に至るのは、ご自分に自信があって、ひざをかがめたくないからでしょう。しかも長い歳月が続くものですから、お色気だけが勝負の世界でもないのです。
~~~~~~~~~~~~
 さて、今回、まったくの偶然で、桜田淳子という項目でインターネットサーフィンをしていて、彼女が東京へ拠点を移したことを知りました。ご主人は、安定した収入の道を確保した上で、都心へ引越しをされたと出ています。

 <<<なあるほど。マンションかビルをお建てになって貸しておられるのでしょう>>>。などと、想像をします。この世の中には、忙しい立場と、忙しくない立場があって、貸しビルを持つという仕事は、やや楽な仕事です。ただし、元手がなくてはできませんが。
ただし、これも見てきたようなうそを言いの類です。ご主人の収入源について正確に知っているわけではありません。

 これが、桜田淳子さんの女優復帰へつながるのか、それとも、ただ、お子さんのチャンスを広げるためなのかさえも、今はわかりません。
~~~~~~~~~~

 だけど、彼女がもし女優復帰をされるのだとしたら、逼塞の20年間に彼女が何を獲得されたのかは見たい思いもあります。
 ただ、女優業に復帰することが、彼女と周辺に幸いをもたらすかどうかはわかりません。

 女優業というのは、時間が無制限で、束縛をされる仕事です。撮影現場以外では切り替えて素顔に戻る・・・・・などという器用なタイプでもなさそうだし、また、それでは、立派な仕事は出来ないとも考えられます。
 私なんかもその振り分けはひどく難しいのですが、50代の後半で、三年間一人暮らしで引きこもったことが、現在の生活スタイルの確立に役立っていて、やや落ち着いているし、共同生活者が、夫だけなので、もっている向きもあるのです。こどもが独立しちゃってそばに居ません。それも、このスタイルを、保持しやすいことにつながっています。

 桜田淳子さんが、もし、女優業を再開するのでしたら、彼女は、家族四人のものではなくなって、日本人の数百万人のものとなるのだと、家族は、ご認識なさらないとだめでしょう。彼女の達成感を、確立してあげるために、その方向へ流れていくのか、それとも、そうではないのか? いろいろあるが、ご主人の力量にもかかってきます。

 才能があり、個性がある女性のこれからの生き方の見本としても、どうなさるのかに興味はあります。有馬稲子さんの私の履歴書でも、本日21日の部分で、二回目の結婚(相手はビジネス社会の人だから情報は明らかにされていない)が危機に瀕していたころに、当たり役の提示がなされたと、書いてありました。

 有馬稲子さんは、たまたま、ご結婚相手との間に、実子が居ないです。これは、動きが自由になるひとつの、利点です。だけど、すでに三人ものお子様がいる桜田淳子さんが、どうこれから、行動なさるのかについては、興味が深いです。
 この件は、山口百恵さんの生き方にもつながっていきますが、

 人間は、だいたい無欲であるほうが幸せにつながります。女優業で、成功するのも良いことですが、人気とお金が、若いころに莫大に降り注いだ身に、これ以上は望まないというのも、子孫を残す(お子様や、孫の世代が幸せになるため)には、必要なことかもしれないのです。人間としての摂理の問題です。

 山口百恵さんのことに関しては、これから書く文章の中では、残間里恵子さんが、大きく前面に出てきます。それを、書けばいつもの私の文章らしくなっていくでしょう。決してエンタメだけが、主題ではないのです。この社会を覆っている問題は、どの分野にも顔を出します。
     2010年4月21日               雨宮舜
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桜田淳子という情熱家・・・・・『病院坂の首縊りの家』

2010-04-20 19:54:49 | Weblog
 この前テレビを見ていたら、ちらっとですが映画『天河殺人事件』をこれから放映するという予告が出ました。実は本日月曜日のよる、デジタルジャパンであります。別にお勧めはいたしません。実は自分だって見ないかもしれません。

 どうしてかというとタイミングが、あざとすぎる思うからです。企画をしたのは、故人である市川昆監督の遺族か、テレビ局かは知りませんが。ところで、どうして、あざといというのかは、ここでは、理由を明かしません。わかる人はわかるということで抑えさせてくださいませ。

 市川昆監督という方は、政治については発言をせず、かつ社会問題を扱った映画は作らなかった方の模様です。『泥の河』の小栗こう平監督とか、『異母兄弟』の家城巳代治監督とか、新藤兼人監督とか、内田吐夢監督とは違います。ビルマの竪琴はあるが、あれも、原作そのものがフィクションなので、フィクションに含めれば、ずっと、生涯を通じて、エンターテインメントに終始した方です。だから、どんなに映画の批評が良くても、映画館までいってみようとは思いません。もっぱらテレビ鑑賞です。

 でも、インターネットで調べてみましたところ、『病院坂の首縊りの家』と言うのも監督しておつくりになったことに気がつきました。それだけはやや面白かったと考えています。後で、『何かを学んだ』という感想を得ることはないけれど、見ている間中は画面に引き込まれました。
 で、その原因のひとつとして、主演の桜田淳子さんの熱演があったと思います。

 彼女は、歌手としてデビューした人だと思いますが、歌については、同じ中三トリオのなかで、『調子が、外れるところがあるなあ』とは、感じていました。あの三人の中で、歌が一番上手なのは、森昌子さんでしょう。山口百恵さんも最初はちょっと調子が外れると感じました。でも、表現力があり、上品だったので、演技と歌の両方で、大人気を得ましたね。大映ドラマの赤いシリーズは中国でも大人気だったとか。

 だけど、演技者として、三人の中で一番、格と質において、高かったのは、桜田淳子さんでしょう。特にこの映画内では、魅力的でした。
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 この人はどういう風に成長をしていくのだろうと思っていたのに、突然に、引退してしまいました。それも結婚による・・・・・その結婚が、普通の人にはなかなか理解しにくい形でした。

 芸能界をすっぱりと、引退する形での結婚でしたが、相手の選び方が、統一教会の教祖・文鮮明氏に任せたというところが、特殊だったのです。
 
 今、インターネットで調べると、もう一回芸能界へ、復帰しようと言う試みもある模様です。市原悦子さんのような演技派へ、成長をなさると、面白いですね。待っています。

 私は、統一教会には、反対です。そここそ、韓国人に日本を支配させると言う仕組みの橋頭堡といってよいかなあ? あれよ、あれよという間にその荒い荒い作業が進んで市民権を得てしまいました。
 だけど、芸能界にさまざまな矛盾を、桜田淳子さんが、感じていたとしたら、止むを得ないことだったかもしれません。彼女はとてもまじめな人であるという感じを受けますから。
    2010年4月20日          雨宮 舜
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加藤唐九郎さんの言葉から、山口さんの死を再考する

2010-04-19 12:00:16 | Weblog
 朝日新聞の週末付録にbeというのがあります。朝日新聞を激しく批判をしているのに、都合のよいときには引用をして申し訳ありませんが、その中で礒田さんという方が、有名人の言葉を引いて、ある分析やら解説を加えながら、人生論を語っておられるコラムがあって、一ヶ月ぐらい前に、加藤唐九郎さんの言葉が引用されていました。

 強く印象に残っています。それを、礒田さんの部分、および加藤唐九郎さんの部分両方を、私の言葉で言いなおさせていただくと、

 人間は誰でも生きていくために、他者の領分を侵しながら生きている。だから、成功をするということは、他者を虐げている(たとえば、豚や牛の命を奪っても居るわけですが、社長をすれば、社員の労働の上澄みを取っているわけですね)ことになる。
 これは前半の言葉として、一種の導入として用いられていますが真実です。この面から考えれば、私もあなたも、悪人である、その程度が大きいか、小さいかの違いしかありません。この問題を突き詰めて考え、できるだけ、心が安定する生活を提案したのが、仏陀とか、イエス・キリストだと思います。清貧の生活こそ、好ましいという発想です。

 さて、これを前置きとして、もっとも大切な言葉が出てきます。
それは、
 ・・・・・しかし、ひとつだけ、そういうくびきから離れているしごとがあって、どんなに、欲張って上昇しても、他者を傷つけない。それは芸術の分野なのである。・・・・・と続きます。

 まあ、すばらしい言葉です。

 ただし、これは、一種の本質論というか理想論です。実際には美術の世界も人間関係があって、すっきりとはしておらず、過剰に得をする人もいれば、過剰に損をする人も居るので、本質論だけで、切り取れないのです。が、美術とか、芸術のすばらしいところは、まさにそこでもあります。が、また、それが弱点でもあるのです。『あなたが、個展をするですって。ふん、それって、あなただけのことでしょう。私に関係ないわよ』と言われちゃうのも、それが、ごく個人的なことで、他者を動かさないからです。他者の生活に影響を与えません。

 ア、ところで、いらっしてくださった方に、礼状をまだ書いていません。ごめんなさい。お待ちくださいませ。何事も丁寧にやろうと思っているので、時間がかかります。ごめんなさい。
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 ところで、個展をすると、銀座に一週間出かけるわけなので、ある種の噂話も耳に入ります。それが、ギャラリー山口のオーナーについてでした。
 今は、彼女の急逝から、ほぼ、三ヶ月が過ぎて、人のうわさも七十五日を過ぎたわけですが、私は彼女を忘れられず、一種のおんぶお化けとして背負って歩こうとさえ、思っているほどです。心も体も美しい人だったと感じていて、『一緒に、忙しかったあなたが、楽しめなかったことを、楽しみましょうね』とも思っていて、二度ほど、一人で、ビュッフェスタイルのレストランに入りました。
 
 その彼女の借金の実態に触れる機会があって、もし、それが、本当なら、余計に気の毒だなあと感じ入るしだいです。それは、絵を買ってあげた故の借金だそうです。本当かどうかはわかりませんが、今まで、『借金があって追い詰められていた』と聞いても、『嘘でしょう、それって』と思っていたのですが、もし、彼女が、ご自分が支援する画家たちの絵を買ってあげていたのなら、それは、ありうる財政破綻でしょう。しかもとても高い値段だったらしい。『それで、やっとわかった』という感じです。

 だけど、ほかの数人の人みたいに、『それって、自己責任でしょう』などとは決して思えません。そうではなくて、そう聞けば聞くほど、気の毒な感じが勝ります。というのも彼女は最後の段階で、野見山さんや篠原さん程度には、窮状を訴えていたと思われますから。その際に、きちんと同情を持って聞いてあげたかどうかです。もし、訴えていなかったとしたら、前に言ったように、野見山さんが、秘書さんまで雇って、それを、エッセイに何度も書いていらっしゃることへの、悲しみを込めた抗議の意味もあって、何も仰らなかったと考えられます。

 私は画廊の使用料をただにしてあげたぐらいの、支援だと、考えていました。だけど、山口さんは志があるから、現代美術を支援したいと思っていて、個展のたびに大作を買ってあげていたらしいのです。そうだとしたら、それは、大変です。お金がなくなってしまうのも道理です。『なるほどなあ』と思います。

 今まで、画廊の運営費用をひそかに計算していて、『絶対に破綻を示すはずがない。だから、そのうわさはためにする失礼な噂だ』と感じていました。多い月で240万円、少ない月で、120万円ぐらいの収入があるはずなので、十分にやっていかれるはずなのです。が、大作の絵を、買ってあげていたら、これは、大変です。大きなサイズですので、軽く、一点でも、数百万円になるでしょう。馬越さんが三越で個展をなさったときの売値は、一点で、軽く一千万円を超えていました。だから、有名な画家の大作を買い続けたら、画廊は、火の車になります。もちろん転売して、美術館に収められれば画商としての、機能が果たせますが、今は税金が絞られていて、美術館は絵を買いません。だから、出費ばかり重なります。

 そうだったのか。そうだったのか。と、うなずくばかりです。こうなると、加藤唐九郎さんの言葉も勢いを失ってしまいます。加藤唐九郎さんご自身は修羅場を潜り抜けた方なので、その売り買いのことも含めての言葉だと感じますが・・・・・陶芸は、値がつくものですが、現代アートはそうそうは、値がつかないものです。

 山口さんはお嬢様育ちだそうです。それは、どことなく、私にもわかっていました。だから、一旦始めた行動を軌道修正して、「企画展もやりません。絵も買いません」という主張が出来なかったとも推察されます。気の毒でなりません。山口さんの地味な支援があったからこそ、野見山さんも牛ちゃんも、メディアで取り上げられる華やかな日が訪れたのだと感じます。ふと、私に向かって、「秘書の千里さんをあなたは知っているの。どういう人だか、教えて」と仰った日やら、京橋の路上で出会って、小さなレジ袋を持っていらっしゃって、それを私に見られたことを、そよ風の気配のように、恥ずかしそうになさった日のことも、忘れられません。
 私はすぐに、両方とも山口さんの本音を察し、気がつかない振りをするのに、懸命の努力をしました。前者は、『私があれほど、尽くして、こちらは破産しているのに、お若い秘書さんなどお雇いになって』という悲しみが込められていたのでしょう。後者は、レストランでお昼を取ることが出来ないのを見られて(その小さなレジぶくろには、お弁当が入っているものだと感じましたから)『恥ずかしいなあ』とお感じになったのです。それほど、プライドが高い職業です。

 私は、山口さんが未婚で、独身であることを知っていましたが、ご親戚と同居であろうと考えていたのです。彼女は賢い人だから老後は、姪や甥にかこまれて生きる予定を立てていらっしゃるだろうと思い込んでいたのです。だけど、都心のマンションで一人暮らしだったと聞いて、それも気の毒でたまりません。もし、本当に自殺だったら、その間、どんなに、絶望が深かったでしょう。
 そして、1月31日に行われるはずだった、自発的な、お別れ会もキャンセルになったと聞いては、なおさら、お気の毒です。騒がないほうが故人のためだという考えもあるでしょう。でも、生きているものが胸に、その記憶をとどめてあげることは、彼女が黙したまま去った人だけに、大切なことだと感じています。本当に美しい、かつ覚悟のきまったひとでした。高潔という言葉は、彼女のためにある。

 でもなお、何パーセントかは、他殺だったのではないかしら? と思ったりする私です。今はピッキングの技術など高度に発達していますので、待ち伏せされて殺されて、その後で、自殺を偽装をされたりして・・・・・とも思ったりするのです。ともかく、切ない。切ない。・・・・・です。

 特に読売新聞が、23日だか、という早い時期に、村松画廊のオーナー川島さんの談として、画廊の経営が大変だという記事を載せ、本文では一切山口さんに触れていないのに、写真のキャプションでのみ、自殺と触れているのは、ゴッホの自殺の新説に共通する趣さえ感じさせられます。数百万人が読む可能性のある読売紙上で、こんな失礼な感じで、自殺と明かされたのは、言うにいわれない、悲しみです。彼女自身はこれを目にすることがなくて良かった。だけど、本筋をいえば、彼女みたいな人こそ、顕彰されるべき人なのです。
                  2010年4月19日  雨宮舜
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上田泰巳(生命科学者)と、緒方道彦(麗しい、師弟愛)

2010-04-18 15:41:05 | Weblog
 久しぶりにお天気のよい、五月晴れの一日、山の下から、鶴岡八幡宮の流鏑馬の司会者の声が響いてきます。ちょっと、ごたごたしたことを抱えていたのですが、主人の見事な手綱さばきで、その悩みも後ろへ流れ去り、ほっとした心境で、あらゆることを洗い流すために、脳トレゲームをパソコンでやって居たところです。馬鹿みたいな時間ですが、頭がすっきりします。それを、やっている間に、アイデアが低層というか、深層で練られてくる模様です。大体布団の中に入ってもアイデアが出るし、掃除などしているときも出てくるわけですが、気分転換をさらにはっきりさせるために、珍しくテレビをつけました。

 不思議なことに、皐月賞の中継でした。私は昼間はほとんど、テレビを見ないのです。しかし、つけたとたんに、皐月賞の中継であったという現象、これが何回も繰り返されているのです。この季節は緑が美しいし、気候も暖かくなるので、家族が外出していることが多くて、一人しかいない部屋で、ふと、テレビをつけると『皐月賞だった』ということが本当に何度もあるのです。これだけは不思議です。

 特に忘れられないのが、ヤエノムテキと西浦騎手が征した年度。その瞬間にサラブレッドの美しさに目覚め、映画『優駿』の出来の悪さに憤慨する日まで、ずっと、7,8年、競馬を、雑誌『優駿(当時は中身が充実していた)』とテレビで追いかけていたのでした。馬券は一切買いません。ただ、美の対象としてみるだけですが、・・・・・
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 さて、今日の話は、NHK『プロフェッショナル、仕事の流儀』で、2月16日放映された上田泰巳(ひろき)氏とその恩師、緒方道彦さんについてです。この日の番組は、最初は面白くないがごとく思えました。主人公は、1975年生まれ、私の子供たちより若いひとで、大変なエリートです。研究は生命科学、特に現在は体内時計について、遺伝子を研究している段階です。美形で頭もよい人・・・・・

 ああ、私も、もしかすると25歳までの道をぐんぐん追いかければ(当時は、東大に勤めていて、教授にかわいがられていて、「あんたは東大卒ではないが、このまま、やめなければ、いずれ教授になれる。分析の能力とともに、統合する力があるからね。それに、いくばくかの政治力もあるし」などと、いっていただいた日からはるかに遠くへきてしまっているから、ことさらに、この美形で天才的な頭脳の持ち主が、遠くの人に思えるわけです。が、

 番組の途中で、驚くべきエピソードが出てきて、それを、繰り返し見るために、4回ぐらい見てしまいました。そして、全般的に、なんと、清潔で、まっすぐな人もこの世に居るのだろうか?と感動したわけです。それは上田泰巳(ひろき)氏そのものにも当てはまるが、その先生格であった、緒方道彦さんのすばらしさにも、接したからです。
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 上田さんは、久留米大学付設高校に高校から入学したみたいですが、それでも、生徒会長をやりました。これは、すごいことです。エスカレーター式の学校では、高校入学者は一種、肩身が狭いものです。『あの人って、勉強できるわ。だけど、私たちとはカラーが違うのよ』とみなされるので、溶け込んだり慣れるだけでも精一杯ですが、そこを押して、生徒会長をなさったそうです。別にバンからというタイプでもないし、政治力や、支配力に魅力を感じているタイプとも見えないのにです。

 で、当時の校長先生であった、緒方道彦さんと、何度も会話を交わす関係となりました。
 この緒方先生という方は、WIKIPEDIAを検索すると医者であり、登山家である方ですが、政治家・緒方竹虎氏の甥ごさんである模様です。肝っ玉が太い方のようです。名校長だったのでしょう。

 さて、2005年ごろ、上田さんは、生き方に疑問を感じ始めます。研究は抜群に成果を挙げているように見える(論文をたくさん書き、発表する)が、幸せではないという感じ。

 その悩みの最中に「緒方先生が、具合が悪い」という知らせが友人から入り、九州へかえり、先生とレストランで、面会します。そのときにお互いが医学部出身なので、(現在の、実業は医者ではなかったが)余命いくばくもないことがお互いにわかったそうです。

 先生は、このデートの前に、あるプレゼントを、ご用意なさっておられたそうです。それは、半世紀前のノーベル賞受賞者、セント・ジェルジ氏の著作『生命の本質』でした。

 緒方先生は、非常に粋な方(これは、上田さんの表現です)で、「あげる」とは、いわないで、「貸してあげる」と仰ったそうです。返せない、ことがお互いにはっきりわかっているのに、そう仰ったのです。そのときの発止と自分を見つめた緒方先生の目を上田さんは、忘れられないそうです。
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 そして、その本の中にあった、「皆さんは、驚かれるかもしれませんが、いつか、まったく何もないところから、ウサギを作ってお見せしましょう」と書いてある部分を、読んだとたんに、上田さんは長いくびきから解放されたそうです。

 もっと、気楽に明るいスタンスで、研究に取り組もう。『成果をあげなくてはならない』と、息せき切って走ってきた道を、少し、歩み方を変えようと、<成功への一種の強迫観念を捨てて>歩もうと思いなおすことが出来たそうです。よかった。よかった。

 すばらしいお話でした。素敵なお話でした。では、2010年4月18日  雨宮 舜
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