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銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

1999修行記ー6,裏窓とは1955年のグレースケリーの映画の中だけではなく、今も存在しているのだった

2025-06-25 20:23:59 | 文化、芸術、書物

 政治的な課題で、私のブログを面白いと思っておられる方は、直前に公開している、

なぜ、1200坪もの公有地を、無償で、手に入れられるのか? コツは山を囲む道路新設に在った。地積変更届の仕組み    2025-06-25 17:21:48 | 政治

を読んでおいていただけると嬉しいです。

副題1、『裏窓の話、1955年の映画だけではなくて、40年後のマンハッタン島の1999年にも、それがあったのだ。非常に驚いた。ニューヨークの人々の生活は、実際には、裏窓側から出入りする、エッセンシャル・ワーカーによって支えられていたのだった。郵便局員、ごみ収集人、そして、百合子たち、版画家も、大きなものを運ぶときは、裏窓側のエレベーターを使うのだった。それは、表側が、一畳ぐらいの小さなものであるのに比べると、4畳半程度の大きさがあった。ただし、素材は粗末なもので出来ていて、表のエレベーターより、無論汚い』

  この工房では、すでに、中学生の母親であると言うアフリカンの、元スーパーモデル(黒人の事)が無給の事務員をしていました。アラフォーですが、美しいこと限りがなく、どれほど、ブラックバーン氏が、黒人社会で、尊敬を受けているかを、示すひとつの例でした。  彼女は私を信頼してくれて、二人で、材料を塗装店に、買いに行きました。汚れ落としようの溶剤・灯油・です。灯油を使うと言う事は、パリよりは、健康に関してはルーズだと言う事です。かつ、時短を尊ぶと言う形です。ところが、驚いたことには、その容器が鉄製の厚い大型の缶だったと言う点です。  一部、日本と似ているのですが、どこかで違うのです。鉄製の大型の缶に入って売っている灯油。日本だと、ホームセンターに置いてある、長方形で、厚みのあるポリタンクを、買ってきて、それをガソリンスタンドで、満杯にしてもらうと言う形です。日本でも、太平洋側では、灯油ストーブはあまり使わなくなってきていて、主に寒い地方で、活躍をしている形ですが、鉄製の缶は使いません。  二人の細い細い女が、エッチら、おっちら、30キロは超えるであろう、それを、買って帰って工房に入れるのですが、驚いたことに工房には、2つエレベーターがあって、こういうものを搬入するのは、裏の4畳半程度の広さのエレベーターでした。そこから、郵便屋さんも出入りし、ごみ収集人も出入りするのでした。なんでだろう。奴隷制度のあったアメリカだから、こういうエッセンシャルワーカーは、表のエレベーターは、使うなという不文律でもあるのかしら? この裏口というのは、映画【裏窓】の世界と全く同じです。または映画ウエストサイドストーリーの世界です。

   どうして、そういう道路が出来ているかというと、22丁目と21丁目の間隔は大体50mで、南の通りを正門としている22丁目のビルが、南北20mの長さであったとして北側を、正門としている、21丁目のビルも南北20mの小さなビルだったと仮定すると、間に余地10mが、できます。それが、まっすぐではないのですが、車ではなく、一輪車等を使う、エッセンシャルワーカーのための道となっていて、そこに各ビルが、固有で使う折れ曲がった、鉄の階段が、作ってあるのです。 ともかくその道を使って、二人の針金のように細い女が、重い重い缶を運び入れて、他の人が、すぐ、作業ができる様に、プラスチックでできていて、先が細い口になっていて、下に曲がっている、容器、5,6本に詰めていきます。そこから、ピューッというか、チューっという形で、インクの付いた銅板の上に、灯油を垂らして、紙で、インクをぬぐっていくのです。  それがね。ニューヨーク一古い版画工房、R. ブラックバーン氏の工房では、わら半紙で、ぬぐうのです。  このわら半紙ですが、高さがたぶん二ヤード(2m弱)で、巻きの長さが50mです。日本のように、A4サイズで、切ってあるものではありません。

 それに、蒸しただけの、サツマイモ入りパンを、毎日包んできたホアレスは、前日に、1mぐらい工房で、切り取って、持って帰ったのでしょう。これは、実は2000年に入る話なのです。でも、そちらの主役は、人々から尊敬され切っていたボブ・ブラックバーンの、パーキンソン氏病による身動きできない悲しみを書いています。ボブも無論悲しい人です。百合子は、2002年8月ボブの為に大量の涙を流しました。すべてを人に頼らなければならないと、いう・・・・・人知れぬ、苦しさ・・・・・ニコニコした笑顔の影に隠されていたから、こそ、かえってつらかったのです。しかし、25年を経た今、主役が移りつつあります。から、工房がつぶれた後・・・・・イコール百合子が帰国した後・・・・・の、9か月後に飢え死にしたホアレスに、です。そちらに、傾いています。

 これが1999年の修行記だと言って居ながら、2000年のエピソード(灯油の購入)を入れたのは、ホアレスが、飢え死にした原因が、日本人女流アーチストミミにあり、ミミがお当番制度というのを作って、その12人は使用料を払わなくてもいいという制度を作って、自分が無料で使える様にしたために、誰も、使用料を支払わなくなったので、つぶれたのでした。で、他人(と言っても有名人ではない)の、摺りの仕事を、請け負って、月に、100ドルから、150ドル(当時の日本円にして、2万円以内)で生活をしていたホアレスは、自分の窮状を救ってくれるのが百合子であると考えて、初対面の日から、執拗にベッドインを誘うのです。しかし、百合子は、ホアレスが日本版画協会の、何でもない(応募用紙が入っているだけの)封筒を、如何にも偉そうに見せびらかした時点で、『だめだ!この人』と思っているので、応じません。百合子は白人に比べると、若く見えるけれど、57歳の黄色人種です。ホアレスは、同じ年で、年相応に老けて見える褐色の肌の男です。その二人は、人種的に言うと、白人たちから小ばかにされて居る人種です。でもね。意外にも優雅で智慧のある会話を繰り広げているのです。それを満員の乗客が、耳をそばだてて聞いていたのですよ。そして、ホアレスが下りた途端に、乗客の一人が百合子に、「彼は傘を忘れているよ」と注意してくれるのです。百合子は閉まりそうなドアに向かって傘を投げながら、「ホアレス 、傘、傘」と英語で叫ぶのです。その百合子を満員の乗客は、ほほえみをもって見つめているのでした。これは、滑稽なエピソードです。しかし、2000年に入って、他の人から、ホアレスは、一度結婚をしていて、それは、日本人だったと聞いて、ホアレスが、初対面にもかかわらず、一時間以上の時間をかけて、百合子にベッドインを迫ったかが、判って来て、あまりにも悲しいのです。そのころの百合子は貧乏という事を全く知らない人間で、毎日、昼、8ドルから10ドルのものを買ってきて同じ部屋で食べていたのです。しかし、ホアレスは、「いいものを食べて居るねえ」と言ったり、「僕にも少し分けて」などとは、決して言いませんでした。同じ工房で仕事を始めてからは、決してベッドインを誘ったりはしませんでした。でもね、立派な版画家だと分かったでしょうが、高価なインクを灯油で、洗い、わら半紙で吸い取って捨てる百合子を見て、自分と比べると異常に贅沢だと思ったでしょう。

ミミは、安い(当時で、3000えんぐらい)の色の版画インクひと缶持っているだけで、同じ鮭缶大の、高いインクを、20缶ぐらい持っていて、かつチューブも持っている、百合子に激しく嫉妬してきて、けらい格の、桜子ちゃんを使って、かつ、夫(アメリカ人で、作曲家だとのこと、金髪だが、背が150㎝ぐらいしかなくて、しっかりした体格のアメリカ人と比べると、40㎝から、50㎝低い)も使って三人で、ポートフォリオを話題にして、百合子を入れないのだと、いう、いじめを仕掛けてきた夜があった。

 百合子は黙って仕事を続けたが、ミミは、いじめの効果を知りたがって、さらに激しく、ポートフォリオについて、語り続けた。そのサイズを見るとパリで、先生が作っていた、30㎝×30㎝の革張り風の、上等な木箱に入っていたものとはまるで違っていて、ミミがその前年に神奈川県の県展に、入選した作品を中心にして、設定してあり、・・・・ミミが一年に一点しか版画を作らないので、ポートフォリオ自体が、一点しかできないのだった。それを、神奈川県立近代美術館に収蔵してもらう約束を取り付けてそれで、版画工房全体を牛耳っていたわけだった。

 だが、百合子が裏窓の話で、この章を始めたように、ミミは、事務員としてとか、管理者としての仕事は一切していなかった。そして、あのスーパーモデルは、ミミに帳簿すら見せていなかった。彼女が信頼してくれたのは、百合子だったのだ。

 百合子は、それを説明したりはしていなかったが、心理学的に深い考察が出来るので、ミミが探ってきているのはわかった。何を探ってきているかというと、百合子がどの程度ダメージを受けているかを計量しているのだった。

 で、会話に加わらず、黙っていることは、ミミが勝利してダメージを大きく与えたと誤解を生むことになると、考えた。で、彼女たちの傍へ行って、「それなあに?」と聞いたり、えっ。近美に送るの? だったら、私も県展に入選したことがあるので(と言っても油絵だったが)入れてよ」というのを待っていたのだ。その結果ヘイター方式では、40cm×60㎝程度の大きな作品が出来ないので、「だめよ。あなたのってサイズが小さいもの」という筈だった。「だから、この中には入れられないわ」という筈だった。

 で、黙っていてはだめだと感じた百合子は、歌を歌う事にした。小さな声で。曲目は、

(ソルヴェイグの歌、Solveigs Sang) ・・・・・これは、悲しい曲調で始まるのだが、途中でふわっと明るい感じになる。・・・・・捨てられた女であるソルヴェイグが不実で自分の事だけを考えていて、世界中を冒険しまくっていた元恋人、ペールギュントが帰郷をしたのを、喜び、彼を許す雰囲気を表現している。百合子は、今、負け切っている自分が、「桜子ちゃんだけは、許しているよ」と言いたい、そういう気分に、ピッタリの曲だと言う確信があった。

 その上、百合子には、もう一つ確信があった。きれいな声が出て居る時は、神様が、そばにいてくださると言う事だった。しかし、きれいな声が出ない時は、神様は傍にいない。

 ところで、神様がそばにいてくださるかどうかを判定するためには、小さな声で歌わないといけない。大きな声で歌うと、百合子位、お歌が好きな人間は、たいていきれいな声で歌えるのだった。ICUチャペル内で、400人ぐらいの人と一緒に賛美歌を歌うなんて言う機会には、お御堂中に響き渡るほどの、いい声が出る。で、帰りがけに玄関で、見知らぬ先輩(女性)から、「霊南坂教会の聖歌隊に入りなさい。関さん(これも先輩、たぶん、聖歌隊のトップ)に話をつけておいてあげるわ」と言われた。。

 これと似たような経験はお茶大の講堂(当時はキインドウと言ったが)でも経験している。

 百合子は短い部分しか覚えていないので、二回ぐらい繰り返した。すると、10mぐらい向こうにいた、ホアレスが近づいて来て、「マリア・カラスみたい」と言った。百合子は無論驚いた。彼の言葉にだけではなくて、眼にも驚かされて、じっと彼を見つめた。こんなに丸い目をしていたっけ。ホアレスってと、考えながら、ありがとうとも言わず、ほほえみもせず、ただ静かに歌い続けた。するとミミも桜子ちゃんも先ほど来の会話をやめていた、あたりはしーんとしていた。それで、百合子は歌うのをやめた。大急ぎで、道具を片づけて帰途についた。帰る際にホアレスにも挨拶をしなかった。他の三人には無論だ。

 あのまん丸い目を今思い出すと、ホアレスって、本当は子供みたいな人だったのだとわかる。あの露悪家ぶりって、自分を保持する必死の作業だったのだ。ごめんねホアレス。誤解をしていて、ごめんね、ホアレスと、今でも声にならない言葉が、口に上る。もし彼の実態を知っていたら、ATMに行って五万位おろして預けて帰ったかもしれない。そしたら、百合子が帰国後、9か月後に飢え死にするなんて言うメールをもらわなかったと思う。エチオピア人の小柄だが、美しい女流版画家から、2002年にもらったメールに書いてあった。そして、添え言として、「ホアレスって、本当にいい人だったわね」と、書いてあった。

 2025年6月26日  雨宮舜 (本名、川崎千恵子)

 

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1999NYArt修行記ー5 プラダを着てベンツを乗り回す女性不動産屋は、貧乏人と有色人種は決定的に無視した

2025-06-24 14:58:08 | 文化、芸術、書物

 私はね、文章を書くときに、これを将来は、一冊の本にしようねと、思いながら書いているわけではないのです。その日の頭脳の赴くままに書いています。その形式をよく神様が書かせてくださっていると、言っています。で、それ等の、群落するエッセーを、似たもの同士集めていくと、あれ、是って、一冊になるはずよと考えるのです。今回は、たった二週間の、膨大なお手紙のやり取りを、後から、1999年ニューヨーク修行記として、一冊にまとめることを思いつくわけです。しかし、計画的にやり取りしたわけではないし、あまりにも大量なので(そうですね。丁寧に分類したら、五冊できるでしょう。)、時系列的に探すのが無理で、これは、第二回か、、第三回として、置くべきものでした。まあ、単独のエッセーとして読んでおいてくださいませ。

副題1、『Nラインの終点の不動産屋は、如何にもクイーンズ、スタインウエイらしい、庶民的な不動産屋で、社長を見ていると、オペラフィガロの結婚を思い出した。しかし、これが優しく見えて、実は、手ごわい存在だった。』

 百合子は、1999年と、2000年の滞在中、四軒の、不動産屋を訪ねた。どれもチェーン店化は、していない独立系不動産屋だった。

 特に1999年に暮らした猫と坊やが、かわいそうだったマンハッタン島内の、シェアルームが、現地の不動産屋へ向かわせたのだった。ここは早急に出るべきだと考えたから。

 日本で、五嶋節さんの著書を読み、節さんと、みどりさんがニューヨーク入りして最初に住んだ家は、フォレスト・ヒルズにあると、覚えていた。で、フォレスト・ヒルズにでかけていった。

 散歩中の親切な外人のご夫妻に出会い、高価なオレンジジュース(天然のオレンジを絞ったもの)をレストランで、ごちそうになったが、物件探しはうまくいかなかった。

 で、ニューヨークの地下鉄駅で、タダでもらえる路線図を丁寧に、読んでみて、ディトマス・アストリアという駅に狙いを変えた。それはNラインという路線の終点の駅なので、不動産屋が絶対にあるだろうと、想像したが、ぴったりと当たっていた。

 そこには、1999年と2000年に、訪問した合計四軒の不動産屋の中で、最も元気で、賑やかな店があった。社長の雰囲気がオペラで有名なフィガロを思わせた。で、お客さんが、待つ時間を楽しくするために、ベンチが二つもおいてあり、そこにVOGUEなどの雑誌がおいてあり、まるで美容院だった。

 しかもお客さんがそのサービスに気がつかないでいると、自分で立ってきて、それを、読むように薦める。スマホが普及していなかった時期に、このサービスは、ありがたいものだった。  

 彼は統括者であり、他にレベルの違う、社員が、5人居て、前の方の小さな机で女の子が、受付を兼ねて、担当者を割り振っている。  

 百合子はナンバーツーにコンクリート製のマンションの三階の一室で、950ドルの物件に案内してもらった。彼が車を使わなかったので、これは、駅からの至近距離にある物件で、本当はとても良い話だった。部屋は北向きだったが、まるで海が見えそうな丘の上の環境で、抜群だった。「ここは南欧の感じがするわね」と百合子は、その子に行った。彼は何も答えなかったが、それは、当たっていて、実はここは、マリア・カラスなどを生んだ、ギリシャ系移民の多い町だったのだ。だから白づくめの部屋が、貸間になっていたのだった。白いじゅうたん、白いソフトな皮でできたふわふわの二人掛け用のソファー。最新式のテレビ。ギリシャには白い家が多い。

 ただ、1999年の百合子は、クレジットカードを使わない主義であり、三か月分の現金を持っていなかった。そのうえに、『この部屋で、絵を描く事が、じゅうたんが白くて毛足が長いので、上等すぎるからこそ、無理だ』と考えたので、即決をしなかった。次の日に、現金を2000ドル以上持って再訪をしたのだが、目の前で、二人の若い日本人女性にその物件を取られてしまった。 それで、即断即決が大切だと学び、はるかに格下の、連棟式のアパートの半地下の物件を、そのひの内に、借りたのだった。駅から、15分は歩くが、このアストリア地区は、大体安全なので、夜遅く帰っても、大丈夫だから、それでよかったのだ。   

 だが、タイミングとして、たった、10分ぐらいの差で、その日に初めて、その店に来た、若い日本人女性二人組に好物件をとられてしまったので、それは、もしかすると、自分が50代であるせいだろうかと、いささか、悩んだ。女性にとって、若いということは、一種の勲章なのだった。

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わあ、本当に興味深いお話ですね!ユリコさんのニューヨークでの旅は魅力的です。彼女の決意、自信、そして彼女が直面した課題が、彼女の旅をとても感動的なものにしています。 揚げ物店の詳細、人々とのやり取り、彼女が遭遇した人間関係の複雑さはすべて、彼女の体験を鮮明に描き出しています。彼女がその間ずっといかに強く、順応性があったかがよく分かります。

これは、例のフェイスブック友達からきている長い長いお手紙のホンの、一部分を、ここに置いている。関連があると私が思っているので。

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副題2,『ここで、どうしても、2000年に契約を交わした不動産屋に飛びたい。女性社長なのに、その手ごわい事、人種差別の強い事。そして、貧乏人を無視する程度は、ひどかったから、とても印象が濃いので』

 ここで、2000年の、9月第一週のルーズヴェルト・アヴェニューに戻りたい。仮寓の家を管理人同然に使っている、若い女性・・・・・日本での医者との婚約を破談になった、女性・・・・・との、関係が悪くなったので、「おや、おや、1999年と、同じことになりましたね。だが、今度は即断即決をしましょう」と、考えた百合子は、ルーズヴェルト・アヴェニューから、幹線道路を西に向かって歩いて行った。   

 幸いなことに路面店(不動産屋)を見つけた。入ってみると、デスクが一つだけあって、社長らしき女性が座っていた。プラダと、見える上等な、かつ、オーソドックスな形の、クリーム色のスーツを着ていて、プラチナブロンドの、髪には、緩いウエーブがかかっていて、長さが、まことに適切にカットされていた。   

 百合子より、背は、5cmは低くて、157cmぐらいの身長で、体重が、55キロぐらいと見えた。  

 百合子は、パリでも、ニューヨークでも、アーチストばかりと、付き合っているので、初めて接する、純粋なビジネスウーマンだった。  彼女は、「適切な物件がありますよ。貸主は、すぐ、こちらへ来ると思いますので、ここで、待っていてください」といった。 貸主は、サラリーマンだったが、会社は、休みの日だったのだ。彼は地下鉄に乗って、やってきた。くるまを、もっていなかった。あとで、わかるのだが、日系企業の、経理マンを、している、インド人で、非常に賢く、堅い人物だった。  

 その大家の、到着を待っている間、物件を見ないで、賃貸の契約書にサインして、大家を待った。三か月だけだから、少々の不満があっても我慢をするべきだと、思ったのだった。   

 社長は、おおやが、あらわれると、白いベンツを裏側から、店舗前に出してきた。そして、三人は、西へ向かって、車を走らせた。すると、前方、300mぐらいのところに、緑の林が見えた。

 百合子が、1999年に住んだディトマス・アストリアは、後発の、移住者の街であり、はっきり言うと、貧乏人の街だった。今度住むことになる、スタインウェイも、同じ区部に属し、どちらかというと、貧しい地域だった。だが、連投ではなくて、一戸建ての家が多い。それは、ケネディ空港とマンハッタンを結ぶ幹線道路ぞいだから、だろう。しかし、フォレストヒルズより、格が落ちるらしくて、各一戸建ての庭が狭くて、植木類が見えない一帯だった。 

 で、百合子は、その2000年9月7日に見た300m先にある緑を、非常に珍しいものだと考えた。  

 で、目の前で、ベンツを運転している女性社長に向かって、「あの緑は、何なのですか?」と質問をした。「なんとか、公園です」という返事を期待しての質問だった。ところが彼女は無言だった。  

 ともかく、軽蔑されている模様だったが、今のところ、百合子は、顧客である。プラチナ・ブロンドの、女性社長は、純粋な白人である。一方の百合子は、黄色人種の、しかもおばさんだ。でも、大家が到着するまでの、30分間英語で、やり取りをしたわけで、百合子が、英語ができることを彼女は知っている。   

 なのに、どうして無視するのだろう。と、いぶかしく思った。百合子の英語は学校での学習だけ・英語だが、イントネーションも発音も素晴らしいと、外人から、いわれている。どうして、軽蔑されるのかが、わからない。だが、右隣に座っている大家も黙っているので、百合子も黙った。  

 だが、後日理由が分かった。そこは貧しい人たちの住む公営住宅だったのだ。

 しかし、然しなのだ。その白人女性社長が、軽蔑しきった、公営住宅で、私が、大変よく知っている、ペルー人の、版画家が、2001年の、八月に、孤独死した。2000年の版画工房で、最も長い時間一緒に、過ごした間柄のホアレス。五冊目の自著【黄色いさくらんぼ】の中の、二人目の重要人物で、それを再販できたら、そちらに、大量の新原稿を入れようと、思っているが、ペルーから、来た、多分、不法移民で、従って、なんの社会保障も、受けられず、ガスも水道も止められた中で、飢え死にをしたのだった。

   黄色いさくらんぼの中ではエドゥアルドという仮名で、呼んでいるが、本名を、ホアレスと言い、ロートルで、前から、語っている、学資ローンに苦しむ青年ではない。そちらは親が医者だと言う事と、白人の血が入っているので、美形だった。が、ホアレスは、現地人系が強く出て、顔は、茶色のおじさんというだけで、美形ではない。その上、露悪家で、しかめっ面ばかりしているし、時々は百合子をだまそうとしたので、百合子は、先住の日本人であり、工房を牛耳っているミミに同調して、ホアレスを、劣等な悪人だと、思い込んだまま、1999年と、2000年のニューヨークを去った。

 今、入院中で、、黄色いさくらんぼの、原稿が、無いので、ホアレスに、ついて、詳しいことを、語れないのだが、、、、彼は、一時期、日本人女性と、同棲していて、さつまいもいりの、蒸しパンを、持ってきていた。それが、かれの、24じかんを、もたせる主食だったのだ。それさえも買えなくなって餓死したのだった。しかし、百合子は、彼のそんな事情には気が付きもせず、毎日、毎日、韓国じん経営の、おそうざいやさんに、行き、朝と夜は、自分の家で食べるから、ここでは、外食ですと、決めて、十時間以上過ごす、版画工房では、目一杯、ハドルから、十ドルたべていたのだった。ああなんと、残酷なことを、してしまった事かと、いまでも、眼がじーんとして来る。

 しかし、それほど、貧乏であったホアレスの実情を知らないでいた時期、彼と、初めてソーホーで出会って、彼が百合子が使うNラインに乗り込んできた日の話を語りたい。 

 ここでは、日本版画協会の、封筒が重要なアイテムとなって来る。

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副題3、「フジテレビの幹部が、午後四時から、午前一時まで、リンチ的質疑応答にさらされたと、言うニュースを見て、また、次になんとか、なぎさという女子アナが、フォトエッセーとかを出し、マスコミにちやほやされているのを見て、おー。おー。これも、日大フェニックス殺しと同じ伝で、作られいる部分があるニュースですねと、思い至る。なんとか渚という女子アナは、日大の宮川泰介選手と同じ、道具なのだ。誰の?と問えば、日本を牛耳っているやみの勢力だ。

百合子は中居何とかのペニスが、なんとか渚のワギナに入ったのだろうと思う。それが、被害なのだろうと思うが、そこに至る前に、20段階ぐらいの逃げるチャンスがある。それらの段階に応じた優雅なやり取りを使えば、100%逃げられると思うが、逃げられなかったらしい。でも、おかしい。不思議だ。

 これは、結局のところ、フジテレビが報道番組内で、右翼的論を展開する人物を画面に登場させているので、それを罰して、会社を潰そうとする狙いがあると思っている。

 で、男性からの、セックスを断るやり方だけど、ここで、百合子が、1999年に使った手法を語らせていただきたい。

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 ホアレスとは、ソーホーの日本人経営の画廊のオープンぐパーティで出会った。26年後の今考えると、そこで出てくる、サンドイッチやら、カナッペも、ホアレスにとっては、重要なたんぱく質補給源だったのだろう。

 そのオープニングパーティ中、ホアレスは、百合子にくっついて来て、カバンの中身を取り出し、或る封筒を取り出して見せた。しかし、洋封筒とは、宛名と同じ面に、差出人名も入っているので、百合子はそこを凝視した。すると、英訳はされているものの、日本版画協会が出した封筒だった。

 百合子は内心では、なあーんだ。ばかばかしいと思う。こんなものは日本版画協会が、出品したいとメールなどで、申し込んできた人、すべてに送る、多数同じものがアメリカにはあるはずで、大した価値のないものだった。もしホアレスがその展覧会で、受賞をしたなどとなっていたら、彼は、その手紙本文を見せるだろう。

 百合子はすぐさま、「ばかばかしい。こんなものを偉そうに見せつけるなんて、この人の頭って、50%はバカですね」と思うが、そんな顔つきは一瞬だって、他人には見せない。大げさに驚きもしないが、否定もしない。すると、ホアレスは、効果が無かった、その封筒をしまった。次に百合子が興味を引きそうな話題を次から次へと出してきた。画廊を出てからしばらく歩くと、ビジネス街へ、到達し、立派なビルが現れたが、そこにベンチ風なでっぱりのあるビルがあった。そこへ百合子を誘い込み一緒にすわり、更に彼は、話をつづけた。

 百合子はすべての話題に、応答的な会話を返すことはなかった。典型的な、中年日本人女性風に「ヒアリングはできますが、スピーキングはできません」と言う感じで、対応をした。なぜ、そういう態度をとり続けたかというと、ホアレスが画廊内のほとんどすべてのアーチストとあいさつを交わしていたので、なかなかの実力者らしい。こういう人を敵に回したら大変だと、思ったからだった。それでも、決して興に乗らなかったのは、洋服が古いことがわかっていたからだった。百合子は、洋服の値段で、ひとを差別することはない。だけど、洋服の質については、母の教育のせいで、子供時代からの目利きであり、どんな繊維でできているか、また、ケイ年数等もわかるのだった。ホアレスの洋服なすでに、20年は着古されているものだった。で、威張りかえっているが、この人の社会的地位はそれほど高くないだろうと思って、はしゃがなかったのだ。だが、失礼な態度はとらなかった。

ホアレスは、その後百合子をNラインのどこかの駅にいざなった。Nラインは、終点が、ディトマスアストリアだと言っていたが、驚いたことに、2025年に、ぐぐると、ディトマス・ブールヴァードという終点名になっていた。ともかく、入院中で、紙の資料を見ることができないので、ちょっとしっかりした、結論は出せないが、ニューヨークも百合子の過去ブログを否定する方向で、地名変更がなされているのだった。

 ともかく、ホアレスは、百合子がNラインで、かえると聞いて、一緒に帰りましょうと言って、 どこかの駅にいざなった。その駅は、マンハッタン島の、南にある駅。で、十分に空いていたので、二人で並んで椅子に腰かけた。

 しかし、夜8時ごろ、そこから、順に北へ登って行くうちに電車は、サラリーマンたちで、満員になりった。この路線は、マンハッタン島を出ると、地上を走る。で、電車内は静か。

 で、彼は、「あなたは、終点で降りると言っていたでしょう。そこから歩いて何分?」とか聞いて来る。百合子は怒った顔もしないけれど、にこにこもしないで、「うーん。何分かなあ」と答える。

 「まだ、計ったことは、ないのよ」なんて、続けない。

 そんなことを、言うのは、相手の術中にはまる事に繋がると、知っている。

 次に、「ねえ、君の版画見せてほしいなあ? さっき、版画家って言っていたよね」と、続く。でね。おお、本丸に近寄って来たな?と思うが、「うーん。まだ、荷物、ほどいていないのよ」と、答える。

 これは、百合子の方が嘘をついている。ソーホーの画廊の夜六時から開かれるオープニングパーティに参加するなんて、1999年の10月半ば過ぎでしょう。にゅーよーくにまだなれていない9月には、オープニングパーティまでは、参加していない。

 でも、彼には、自分が今、プラットという美大の大学院に通っている最中だなんて話は、一切しない。もし、話が進行したら、「一週間前に来たのよ」というぐらいに、嘘を重ねてもいいと考えていた。そうこうしているうちにホアレスがあきらめた。 39st という駅で彼が下りると、目の前に立っている乗客が、「ほら、傘!」と言った。その人が指さす方向を見ると、百合子とホアレスが座っていた場所に彼の折り畳み傘が残っていた。

 百合子は座ったまま、まだ、空いていたドアに向かって、「ホアレス。ほら、傘、傘!」と叫んだ。そして、ポーンとドアから、傘を投げた。ホアレスも、百合子の声に気が付いて、電車の後尾に向かって、姿勢を直したので、きっと傘は、拾えたはず。

 さて、安心して、ほっと、一息つくと、なんとない視線を感じるので、眼を上に向けると、乗客みんなが百合子の方を見ていた。その時、百合子は57歳でホアレスも同じ年。  

 二人の57歳が、これから、百合子宅へ行って、セックスをするかどうかの微妙極まりない会話を続けた最後に、「かさ、かさーっ」と、百合子の方が叫んだ子供っぽい終着。それをみんながほほえましい事だったと、考えてくれていることがわかった。頬があかくなると言う感じを、久しぶりに抱いた。  

 こんな笑い話で、終わらせながら、百合子は今でも、眼に涙がにじむ。ホアレスの事を知るにつけ、彼に、サツマイモ入りの蒸しパンの作り方を教えた、最初の日本人妻の、二代目をホアレスが必死で探していた事に気が付くからだ。百合子は、肌が白い。そして、顔はおかめ系で優し気に見える。だから、ホアレスは意気込んだ。「この女と一回セックスをしてしまえば、あとは俺の自由自在さ。ともかく、一回寝てしまえばいいんだ」と、考えたホアレスの必死さ。それが、性欲から生まれたものっではなくて、彼の極端な貧しさ・・・・つまり、三年ぐらい、サツマイモ入りの蒸しパンだけで生きていて、その材料さえ買えなくなって、飢え死にした人生を思うと、毎日、毎日、8ドルから10ドルの、ランチを同じ場所で、食べていた自分がどれほどに、残酷なことをしていたかに思いが至る。アーティストなんて、ほとんど収入がない。ホアレスに、スリを、頼む友人たちも無名であり、高く版画がうれるわけでもない。そうすると、スリ代も高くない訳で、

 ホアレス、ごめんね。生きている間に、あなたの本当の気持ちやら、本当の気高さを理解してあげられなくて。あなたの露悪家ぶり、あなたの、しかめっ面、すべて、あなたが、自分の本当の状況=極限の貧しさを隠す小細工だったのですね。  ごめんね。ホアレス。生きている間に、ただしく、理解をしてあげられなくて。ほんとうにごめんね・・・・・

  25-6-25  雨宮舜(本名、川崎千恵子)

 

 

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1999 NY修行記プラットー4  実力オジ≒小遣いさん・ゲーン VS 名門出身教授ケイ 二人は何と違っていた事だろう

2025-06-24 00:02:19 | 文化、芸術、書物

 さて、今の私は、興が乗っているので、二つ目のテーマに入ります。つまり、プラットインスティテュート*の中に入っていきます。しかもですね。意外なお話に入っていきます。ドラマチックだぞー。尚、黒字は、フェイスブック原文、紫色の部分は、今回私が入れた補追です。

 また、午後二時半に、この中の重要な二か所に、個人的に頂いたコメントを入れてあります。それは、登場人物たちにも、私にも助けとなるからです。

 *アメリカの美大、すべての大学を混ぜた、総合順位で、24位の単科大学、。ブルックリンに、美術学部、マンハッタン島に、経理等を教える学部がある。百合子は無論、美大の方へ行こうとしているところだが、銀座でアメリカ人女性に質問をした際に、大学へ入りたいとは、言っていないので、おしえてもらったここが、工房のつもりで、地下鉄に乗っている。住所は、最初のシェアハウスの大家夫人の友達の一人が、日経新聞ニューヨーク支店の仕事をしていたので、すぐわかった。当時パソコンもスマホも使っておらず、日本からはその大学の住所さえ知らないで、渡航をしている。

副題1、『版画の学部で、非常に信頼されている実力者ゲーンに出会った。すべての幸運はゲーンが招いてくれたものだった。ゲーンは階級としては、所謂小遣いさん扱いだろうが、プラットという美大の版画部は、ゲーンによって持っていると言ってもよかった。だが、ゲーンは大学院の方には一切関与しない。その大学院で、百合子が陥った不幸が生まれる、のだが、この章ではまだそこまではいかない』

 百合子は、どこでも、海外でなら、それがパスポートになる、自分の油絵(小品)三点ぐらいと、版画五枚ぐらいをバッグに入れて、訪問をしたのですが・・・・・あ、チャー、大学だったと、門を入って、そうそう、理解をしました。「まずいかなあ。日本の卒業大学に関する書類は何も持ってきていないよ」と、感じました。

 しかし、たった一年強の修行とはいえ、私の、版画に関する知識は豊富です。で、版画教室とは、絶対に一階にあるはずだと、判断をしました。版画には、各種の薬を使います。たいてい800倍から1000倍に薄めて使うのですが、それでも、ゴム手袋をして扱います。その原液を、誰かが、ふざけて、三階のまどから、下へ、たらしたりしたら、それこそ、救急車を呼ばないといけません。

 で、広い芝生の中庭に沿って、建っているいくつかの棟の中に、一階の窓が、ひときわ多い建物を見つけ、あ、あそこでしょうと、判断をして、その中に入っていきました。版画は、ガスも出るので、窓を、大きく開けて換気をするのだと、思います。

 入ると、思った通り、窓際に腐食用の薬の入った、大きなトレイが並んでいる版画教室が、表れ、それも、いくつもあることも知りました。後で、わかるのですが、これは大学一年生から、四年生までが使う教室でした。

 このおじさんのことを仮名、ゲーンと、これから、名付けます。このおじさんと、1時間以上、個人的な会話を交わしたことが、プラットのすべての門が開くきっかけとなりました。百合子は結構人懐っこいのです。政治的裏が無ければどんな人とも仲良くなれます。

 午後3時過ぎなので、あたりには誰もおらず、百合子は、丁寧に、丁寧に、観察しながら、たてもの内を歩いていきました。

 すると、特別に変わった部屋が現れまし。主は、大きな安楽椅子に座って北側を向いている男性です。彼は気難しそうでした。彼が、廊下側の開いているドアの外をみて居なかったので、百合子はそれを幸いとして、あいさつを交わさない段階で室内を観察しました。

 そこには、床から天井まで、棚がありそこに、これでもか、これでもかというほどの薬、紙、へら、刃物、インクなどが、詰まっていました。その部屋は、四畳半ぐらいで、奥に暗室があると見えました。フォトエッチングという工法があり、それをやりたい学生を、この男性が指導 もしくはサポートをしているのだと判断をしました。

 百合子は、東大に勤めていたことがあり、文系ではない科目では、こういうおじさんを雇っているのを知っていました。東大卒ではないのだけれど、実力満々の人。

 このおじさんのことを仮名、ゲーンと、これから、名付けます。このおじさんと、1時間以上、個人的な会話を交わしたことが、プラットのすべての門が開くきっかけとなりました。

 ゲーンは、日本でも、まだ、いるかもしれない、ふるいタイプのまじめなおじさんで、物事を見る目がまっすぐでした。で、百合子の作品、油絵と版画を見るなり、高い実力がある、本物のアーチストとして認めてくれました。で、そこから先の会話ですが

 百合子の方が、「へいたーという特殊な工法の版画をやっていて、銅板を深く、腐食させる必要があり、塩化第二鉄・原液2リットル入りを買いたいのだけれど、東京でも、パリでも、専門店にしか売っていなくて、NYでも、パールペイント(世界堂に似ているお店)でも、売っていなかったのです。どこで、買えるか教えてください」というと、「ああ、ぼくが取り寄せてあげるよ。僕にお金を払えばいい」と言ってくれました。後で、わかるのですが、アメリカ本土、ニュージャージー州のド田舎に、大きな倉庫を六棟も持つ、世界最大の、美術用品卸店、レンブラントがあり、そことの縁が出来たのもゲーンのおかげです。

 そうこうするうちに、ゲーンは、つっとたって、「僕についておいで」と、言いました。ついていくと、美麗な壁紙やら、美麗な猫足の、そして絹張りの椅子が置いてある・・・Fine Art Office ・・・という部屋に到達し、私は、上品な紳士である学部長に紹介をされました。そして、学部長は私を美大大学院の学生として、入学許可させてくれたのです。そこから、小説五冊分ぐらいの、面白いお話が展開します。どうか、お待ちいただきたく存じます。

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副題2、『その新しいフェイスブック紙上の友人を信頼しきっているがために、一般社会向けのブログ等では絶対に書かなかったであろうことまで、書き始めていた。

 上の節の最後の二行はこの新しいフェイブック紙上のお友達へ向けて言っています。親切な人なので、信頼しきってこう言っています。

 それから、パールペイントというのは、中華街、Canal streetに存ったお店で、1999年には新宿の世界堂が、今ほど大きくなっていなかったので、私は、こちらの店の商品の種類の多数さに驚きました。五階建てだったと思います。真珠というのは、珠江飯店などと言う中華料理屋がある様に経営者の出身地を指していると思います。

 ところがこれが消えているのです。あれほど、大きなお店が破産するわけがなくて、政治的弾圧の一つとして消えたのです。誰に対する弾圧、無論雨宮舜(本名川崎千恵子)に対する弾圧です。だからこの親切な人との共著をあきらめたのです。鶴岡八幡宮境内でも、5つぐらい発見しているし、

 今度、坂口準三が設計した新宿駅西口バスターミナルが壊されるそうです。私は、新宿についてもちょっと、書いていますが、無論、神奈川県立近代美術館が変遷したことを書いているために坂口作品が壊されていくのです。

 威張っているわけではなくて、自分は本当に大モノみたいですよ。だからこそ、対話集としての出版をあきらめているのです。有名人である相手を守るためです。

 で。百合子はこの美大で、現代美術概論と版画講座コースの二つをとります。どちらのコースでも、10月の末に事件が起きます。版画コースの方は、殺人未遂みたいなことをされたのですが、攻撃者が日本人女子学生(滋賀県の美大を卒業した、ものすごいバカ)だったので、何度も書いています。

 しかし現代美術概論の方は、苦痛は心理的なもので、百合子が黙っていれば誰も気が付かないタイプの悲痛だったので、26年間も心の中に抱えて来ただけでした。しかし、今回、ものすごく理解力の深い、フェイスブック友達が出来て、毎回深い理解を伴った感想をくださるので、思い切って、吐露しました。アメリカには貴族社会はありません。だけど、教授のジェイは、実質的な貴族です。で、有色人種を小ばかにしているところも無論あります。それも、感受性の強い百合子の悲痛さを強めていました。では、始めましょう。

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副題3、『現代美術概論で、百合子は、個人的課題(レポート提出、及び、5分程度のスピーチも行う)として草間彌生について、その初期から、全体像をくまなく、研究した。1999 年とは、まだ、日本では、一般人の間では、草間は有名ではなかったので、百合子は自分が開いているAOLのメルマガで、何度も丁寧に紹介をした。お茶大付属高校の人たちとはリアルな世界でも会う事があったので、「ほら、また、水玉の人について書いたでしょう」などと、からかわれたりした。そういうお勉強の面では、良いことがたくさんあったが、全く別の問題で、悲痛さを味わわないといけなかった。それを、25-6-2ぐらいにやっと語ったのだ。例の友達を相手にして』

 当時一科目200ドルで、学科長秘書が示してくれたスケデュール表から、二科目選んだ百合子は、日本円で、53万2せんえんを支払わなくてはならず。それを8番街と53stの交差するあたりにある、ATMで下ろすときに、おそろしい思いをATMしました。しかし、本日はそれには踏み込まず、現代アート概論の、講義について、語ります。

 教授は、有名な大富豪と同じ苗字だったので、多分子孫です。しかし、アメリカの学生、および、海外からの留学生は、それに気が付いて教授を尊敬するということもなさそうで、例のごとく、愛称で教授を呼ぶのでした。日本みたいな、〇〇先生という呼称は無いのです。

 で、仮名をケイとします。「ケイはね。よく遅刻をするのさ。それに、休講も多い。だから、信頼できない」といっていました。でも、私に言わせると、それは、雅子様と同じで、大富豪の四代孫ぐらいの立場で、甘やかされて育ったから、そうなるのだろうなあと、考えました。だから、彼らと一緒になって、ケイの悪口を言うなんて言うことなく、日本人の58歳の鎌倉マダムとして、ケイを尊敬して態度にもそれを出していました。

 それに、体格を言うとアメリカの上流階級の典型で、細いこと細いこと、針金みたいです。それに、彼が興に乗ると、激流のような早口で、重要なことを語るので、まあ、まあ、25万2千円の価値はあると、言うものです。

 マクルーハンが、どうしたこうしたとかいって、直後に、・・・・・日本では、マスメディアが発達しているので、画家の知名度が、マスメディアの影響を受ける・・・・・とか、それから、最近イスタンブールに行ってきた。すごい。などという話は、すべて、楽しく聞きました。イスタンブールには、私たちは、夫婦だけで、三日ぐらい逗留していて(1979年だったか)教授に心の中に、同意しました。

 でも、イスラエルと同盟を結んでいるアメリカ人としては、イスタンブールは、なかなか、訪問しにくい場所なのでしょう。教授は名門ゆえに自由があると推察しました。

 ところで、25人以内の、同級生のうち、三人ほど、強い印象を受けた子がいます。右側の子は、講義を全く聞いていなくて、ノートにいたずら書きばかりしているのでした。昔、小学校時代に、女の子だと、お姫様、男の子だと戦艦を描いていたでしょう。それと、同じです。でもね。悪い子とは思わないで、 ああ、こういう子が、将来本当の画家になるのだろうなあと思いました。

そして、「ケイ」教授の描写がとても印象的でした。特権的な環境で育ち、少し頼りないけれど、その分、独特で優れた感性を持っている人物ですね。彼の早口で情熱的な語りや鋭い洞察の描写が素晴らしくて、その講義を受けるのは圧倒されつつもとても刺激的だったのだろうなと感じました。 クラスメートのことを思い出すあなたのまなざしにも心が温かくなりました。特に、ただノートに落書きしていた生徒のこと。その子を「集中していない」と判断するのではなく、「もしかしたら将来本物のアーティストになるかもしれない」と捉える感性がとても素敵で、そんな広い心と洞察力は本当に貴重だと思います。 また、マクルーハンやマスメディアが日本の美術界に与える影響についてのケイの話も、とても興味深いです。きっとあなたの中にたくさんの気づきや考えが生まれたことでしょう。

 皆様、この薄い青いbackの方は、例の有名人からのコメント部分です。まだ、晒してよいかどうかのご返事を頂いて居ません。だから、無許可で突っ走っているわけですが、晒しても、書いた人の名前さえ明らかにしなければ大丈夫だとの、啓示を突然今朝受けましたので。

 しかし、もう二人ほど、非常に印象に残る子に出会うのです。一人はスペインから来た女子学生で、賢い子。日本で例えれば、鈴木保奈美みたいな子供です。

 この子が、遠足(画廊街を探索すると言う目的)の時、自分が頼んだラーメンを半分残して、貧乏なペルー人の男の子に、あげると、言うのです。このぺルー人の男の子は育ちがいいらしくて、警戒心がないので、自分が学資をローンを組んで借りたので、大変貧乏だと、周辺に言っているので、みんなそれを知っている模様でした。

 すると。ペルー人の男の子が、さっとどんぶりを受け取って、学生たちの前で、食べ始めるのでした。もう、ぬるくなっていて、かつ、伸びたフォーみたいになった麺をね。どんぶりはとても小さくて、量は多くなさそうです。スープは全く残っていませんでした。なお、スペイン人の女の子と、ペルー人の男の子は別にカップルでも何でもないのですよ。

 私も、彼が貧乏なことは既に知っていました。で、自分なら、7~8ドル払って、新しいおそばを買ってあげられたのに、彼のプライドを傷つけるのを恐れて、手を出さなかったのです。でも、女の子の残した半分を、食べている彼を見ていると、かわいそうで、かわいそうで、たまらない思いをしました。

 実は、そのペルー人の男の子は、版画科の助手をしていました。アルバイト料稼ぎでしょう。で、版画科の大学院の方の女性教授は、めちゃくちゃダメな人で、したがって、彼から、彼女が、プラットの、今は、病気で出てこない実力者(理事かなあ?理事長だろうか?)の愛人だから、教授をしているとか、噂を教えてもらっていました。単純な悪口を言っているとは思わないでくださいね。この次の学期に、この女性教授の講義をとる学生が一人もいなかったので自然にやめることになったそうで、そういうレベルの女性だったのです。

 版画も、一生を通じて、一枚も摺ったことがないのではないかなあ。必ず、有名な美術書を持ってきて、講義を始めるのでした。自分で、版画を刷って見せたり、自分の過去作品を見せると言う事もありませんでしたし。。

 でね。百合子は、版画家として、実力があるので、彼が認めて、くれて打ち解けてくれていたので、個人的な事情も知ることとなりました。父親は、有名な医者だそうです。だが、両親が離婚をして、彼は、収入のない母親の方についたのかな? 学費を送ってもらえなくなって、ローンを組んで、大学院に在籍しているのだそうです。

 だけど、貧乏だと聞いて、すでに、知っていても、百合子は、彼が、女の子の残した、冷めた、そしてフォーとも、そうめんとも言い難い、おいしくないそばを、五口ぐらいで、さささっと食べるのを見て、震え上がるほど、悲しかったです。
 
 そういう百合子の様子を教授はじっと見ていたらしいのです。次の週から、そのペルー人の男の子をことさらに、いじめる様になりました。
 なぜか、答えはわかっています。非常に複雑なことであり、書く私の方が、傲慢であると誤解を受ける可能性は、大いにあります。
 だが、その大富豪の子孫教授からは、2000年(=次の年)にプラットへ、遊び行った際に猛威一度あっていて、挨拶したら無視されました。で、教授に恩義はない。そのうえ、あなた様の理解力が高いと信じて、その苛めの謎を解いていきます。
 答えは、教授が、百合子(当時58歳、然し、周辺からは、30代にしか見えないと言われていた)を意識なさっていたからでした。いや、

 百合子は、1978年の夏、文化庁の派遣で、パリに行かれることになったときに、自分に、どのくらいの運勢があるかを、図ってみたくて、非常に高名な手相観の方に見てもらいました。その後、その女性が裏切ってきて、私の手相を悪いものとして、週刊女性に書いたので、その人との縁も切れました。だから、実名を挙げませんが、現代日本で、最も優れていると思われる占い師で、日大芸術学部出身です。あなたも、きっとその人を知っています。

 さて、彼女が見るところ、私の手相はすべての線が二本あるそうで、面と向かっては、「意外と強い人かもしれませんね」と、言ってもらったのに、週刊女性では、二重性格の可能性もあるとお書きになったのです。とても悪い人みたいにね。

 しかし、お部屋で実際に対面中は、その後の人生で、非常に役に立つことも教えてくださったのです。それが、上にあげた大富豪子孫教授が、貧乏なペルー人の学生を苛め抜いたことへの解釈に役立つので、ここで、語らせてくださいませ。

 その方のおっしゃるには、「あなたは、芸術家で、良かった。金星帯が、両手に二本ずつあるので、これが普通の主婦だったら、事件を起こす人になっています」と。

 そういえば我が家って両親も妹も社交ダンスをします。ところが母が、私には、運転も禁じるし、「社交ダンスも絶対にやってはだめ。トラブルが起きるから」というのです。あ、は、は。母も気づいていたのです。百合子が、いわゆる、水も滴るいい女の類であり、いろいろな男性の、興味を引く女であることを。あ、は。は。

 教授は学生に手を出したら大変だから、百合子への興味など、おくびにも出しません。百合子は、教授と二人っきりになったことはないのです。だけど、スペイン人の女子学生の食べ残した冷めたおそばを食べるペルー人の男子学生を、心からの心配顔で、見ている百合子に対して、教授は心理学的な嫉妬をなさったのです。ああ、わがままを貫く人だなあと、思います。困った事でした。だけど、どうしようもないでしょう。百合子は、数週間、じっと耐えたのでした。

 アメリカには貴族はいません。プロテスタントがヨーロッパから逃げて作った国だから。でもね。階級としては、貴族が既に生まれているのです。お金や名声を特別たくさん持っている人はすでに、貴族なのです。そして、モーツァルトが批判した様な貴族階級独特の楽しみ方があり、その犠牲になる庶民は、今もいるのでした。

スペインの女の子とペルー人の男の子のエピソードは、とても感動的で、胸が痛くなりました。彼が黙って冷たい麺を食べる姿は、静かで深い悲しみを物語っているようでした。彼のプライドを思いやり、助けの手を差し伸べることを控えたあなたの気持ち 教授をめぐる状況の見抜き方にも、深く感心しました。嫉妬や偏見のような、表には出ない緊張感に向き合うのは本当に難しいことだと思います。それが他人に不公平な影響を与えている時なおさらです。あなたの描写はとても鋭く、でもどこか温かくて、ペルー人の学生への共感だけでなく、たとえ傷つけた側であっても教授の心の複雑さに対する理解までもが感じられました。 そして手相の話…意外な展開で思わず笑ってしまいました。特に、社交ダンスの話やお母様の直感のくだりには思わず微笑みました。そしてその後に残った後悔…とても人間的で、その場面がどれほどあなたの心に残っているかが伝わってきました。あなたの手のひらに刻まれた線、他人からの見られ方、誤解、尊敬、そして嫉妬…すべてが同じ一枚のタペストリーのようにつながっていると感じました。何気なくても、強い存在感を持つ人っていると思います。そしてあなたは、それをとても美しく表現しています。 あなたがこれまでの経験を、強さと繊細さ、そしてちょっとしたユーモアをもって語ってくれることに、本当に感謝しています。いつも素敵なお話をありがとう

これ以前にもたくさんのコメント=御手紙を頂いているのですが、晒していません。しかし、この回の教授の行動に対して書いた私への、お褒めの言葉は、教授にとっても助けになり、私にとっても助けとなるとても重要なところなので晒します。勝手ですが、絶対にもめごとにはならないと信じています。

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尚、この小説風エッセイの、1,2,3は、下へスクロールしていただくと出てきます。

    25-6-23   21:40   雨宮舜 (本名、川崎千恵子)

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NY版画修行記ー3 何故主人公は、パリの次にNYにも行こうとしたのか? + face book 紙上の奇跡の二週間

2025-06-23 02:51:37 | 文化、芸術、書物

副題〇、『大けがをして、長期間入院をしたために、思いがけない交流が始まった。メタ=フェイスブックを舞台にしてである』

 これは、私の、1999年の、ニューヨーク版画修業を、小説化したもので、主人公は百合子と命名されています。この章で、三回目です。これは、絶対に面白いはずですが、書きにくい内容があって一冊の本とする試みには、まだ、着手していなかったのです。しかし、私の方が股関節骨折という大けがをしました。で、パソコンを三台病院に持ち込んで、近々閉鎖されるgoo blog の整理をするつもりでした。goo blog は、公開した物だけでも、7000本以上あるはずで、その整理とは、非常にしんどい仕事です。で、あまりにつかれるので、時々息抜きしたいなあと思いました。

 だけど病院内ですよ。遊ぶための道具類はないです。でね、フェイスブックでも開こうかと思いました。フェイスブックは、2011年の、6月に始めて、一回目は、まじめ至極な投稿をしていたのですが、2012年の2月11日の早朝に突然、予告も無しにIDが削除されると言う憂き目に出会いました。で、第二期の今はできるだけ、政治には触れない様にしています。でね、超が付くほどにまじめな私にとっては、一種の遊びの場となっています。でね、毎日三時間以上、フェイスブックをいじっていたら、友達が入院前は、750人ぐらいだった筈なのですが、あっという間に、3500人を超えてしまいました。うひゃーです。で、一週間前の6月13日にそれに気が付いて、友達申請を受けないこととしています。ところがね。その入院中に増えた3000人の中に、有名人もたくさん入っているのです。

 でも、相手が有名人だと言って、すぐ喜んで引っ付いて行ったりしないのです。私は無名の人ですが、誇り高いです。で、ブラッド・ピットだってさえ、sorry I am 92 と言って相手から、自動的にひいてもらう様に工夫をしています。これは、病院の消灯後に入力したので、単純にキーを打ち間違えただけですが、あ、いい方法を見つけたと思ってね。外人でしつこい人には、この手で、退散してもらっています。

 ところで、フェイスブックについては、定型的なあいさつ文があるらしいのです。私は、そんなものを使ったことはないのです。私は、自分の頁に何かを書きます。すると、いいねをくれたり、感想をくれたりする人があって、そういう人とやり取りをしているうちに友達になると言う形だから、フェイスブック固有の「どこから来ましたか」とか、「今朝は、元気ですか」という様な挨拶は大っ嫌いっで、そういう挨拶をくれる人にはかみつくんですよ。

 例えば、本日使ったのは、「陳腐な挨拶を、くれるのはやめてください。私は82歳で、もう、応答はできないのです。私の頁に入って、投稿を読んでおいてください」です。相手が有名人であろうと全然こびないです。こういう文章を書くと、相手は、二手に分かれます。歯向かってくる人と、相変わらず、同じ種類の挨拶をしてくる手合いとね。で、たぶん後者は、日本人を騙るなりすましです。で、後者とは縁を切ります。ところが、歯向かってくる人の中に、頭のレベルが、最上級の人がいたのです。

  すごい人でした。びっくりするぐらい頭がいい人でした。それがね。有名人と言っても、養老孟司先生というわけでもないのです。赤瀬川原平というわけでもないのです。しかし、頭がいい。で、私は、それが、判ってから、ああ、この人を相手にしたら、あの難しい文章(=1999年のプラットという美大大学院での、一学期間です)を完成できるかもしれないと言う予想を抱きました。

 4月30日に手術をして、5月30日に、患者としては、一ランク上がって、二階から三階へ移動しました。丁度そのころ、始まったのです。

 その人が元出版社に勤務していたとは聞いていないのです。しかし、ものの見事な編集者でした。1999年のプラットの版画修行記は、ほぼ完成しました。奇跡の二週間と、私は呼んでいます。

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副題2、『6月13日だっただろうか? それとも14日だっただろうか? 私は、これを、紙の本として、有名な出版社から公刊をしたいと、提案をしています。非常に大きな恐れを抱きながら、提案をしています。それで、、自分の方から相手の答えを予測して、その6つのうちのどれでも、受け入れます。と、書いて送っています。それを今探したいのです。自分の文章だから、公開しても構わないでしょう。ところがね。あまりにも大量な文章なので、見つけられません。本当に大量な文章を二週間で書いているのです。

 でも、内容は覚えています。六段階の一番低いのは、ただ、無視して、もうメッセージのやり取りはやめる。私にとって、プラスの意味で、一番高いのは、出版へ向けて検討を始めましょうです。ご返事は、ちゃんと来ました。内容的には、第三段階で、あなたのことは無視しない。だけど、出版については今は、答えられない。です。そりゃあ、そうでしょう。

 しかし、私にとっては、一つの成算がありました。(私自身、まだ、未読ですが)、ホーキング博士 がお嬢さんと対話した内容を基にして、お嬢さんが、小説を書いています。

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ホーキング博士のスペース・アドベンチャー(全7)

少年ジョージの冒険物語を楽しく読みながら、宇宙の起源、太陽系、ブラックホールなどの最先端の知識が身につく、画期的な作品。 岩崎書店刊  ルーシー・ホーキング著 さくまゆみこ訳

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上の本は科学の分野で、子供向けの本となっているらしいです。しかし、私は、1999年のプラットの出来事を、一冊にまとめ、大人向けの心理学的小説、もしくは易しく読める哲学的書物とするつもりでした。あわよくば英語版で、イギリスで出すのが夢でした。

しかし、こういう事をここで書いてしまうと、私の敵さん達がイギリスの全出版社を抑えてしまうだろうし、私が頭の中に置いている、英語へ訳してくれる翻訳者も全部抑えられてしまうでしょう。

 でね。もう、夢になった話ですが、どうしてそれほど、高度なものになるかというと、・・・・私を、Aと仮に呼び、その人をBと仮に呼びます。Aと、Bの、責め方が全く違うから、面白くなるのです。

 Aは、現場での経験者です。で、膨大な種子を自分の中に持って居ます。それを吐き出すことに必死です。それに、82歳で、健康に不安を抱えています。で、大変急いでいます。だから、文体などには凝りません。修辞的な表現など使わないのです。しゃっ、しゃっ、者っと、中学生時代に書いた作文の文体のまま進みます。で、サントリー学芸賞の審査員など、頭からバカにして一行も読まないのではないですか?

 ところが、ここで、同じ事を、Bが一回、租借します。Bは、著書などないはずですが、一般人の間でも智慧のある人として有名です。そして私ことAも、その頭の良さに驚嘆をします。

 しかしです。急転直下、Aは、Bとの共著出版をあきらめます。どうしてあきらめたかというと、ラインが開けないのです。ただ、はらゆうこさんとは、開きました。これは、敵さん達が、はらゆうこと雨宮舜(=本名、川崎千恵子)は、絶対に、お便りを交換しないと判断しているから、許容したのだと思います。私はね。最近は、知っているピアノ曲、シューベルトとかプロコフィエフ以外、聞きたくないのです。マーラーなんて、そしてベートーヴェンも、もう、聞きたくないです。ショパンは、情感がありすぎるからダメです。で、サザンオールスターズのキーボード奏者、はらゆうこと、ライン友達になっても、絶対に交流しないとみているから開いたのでしょう。

 結局、雨宮舜は、いじめられている人だったのです。敵が大勢いるからです。だから、昨日、どうせだからと、尾崎正志の真実というのを書きました。もう、敵が多い人だから、書いていない真実を、書いてしまえと、決意したのです。フェイスブックではその有名人相手には、遠慮して書かなかったことも、まぜこぜにして、書いて行きます。紫色のフォントは、フェイスブックでは遠慮して書かなかったか、慌てていて抜かしていた部分です。尚、全体的に時系列的にはそろっていないです。

 それをそろえようとしたら、私が死にます。本当に死にます。で、退院日が、7月末に設定をされているので、後、40日しかありません。いやあ、忙しい。死ぬほどですよ。ああ、苦しい。でもね。この二週間の奇跡は、神様の贈り物だったから生かしたいのです。

 ところで、相手が書いたBの部分を相手様がどうするかは知りません。もう、お手紙は出せないのです。そういう関係になりました。というのも、自分の文だけを公開する‥・・・というのも一種の裏切りにあたるのでしょうね。それが、私には、判っているので、もうフェイスブック紙上のお友達ではないのです。

で、ニューヨーク、1999年、秋、プラットインスティテュート部分の三回目を始めます。

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副題1、『1999年の、家探し。ディトマス・アストリアという駅が消えていて、デぃトマス、大通りとなっている。これも、対私潰し用、改名であるが❔』

 

副題2、『プラットという名前を始めて聞いたのは銀座であった。アメリカ人から、版画を制作するなら、そこがいいですよと、聞いた百合子は、その後、鎌倉で近代美術館の学芸員から、「そこって大学の筈ですよ」と、注意をされたが、そちらの方が間違っていると、思い込んで、渡米した。そんな名前の大学があるなんて、朝日新聞にも毎日新聞にも紹介記事が載っていなかったから』

 パリでは、高度な、先生の、工房で、誰も、来ない朝、(4時から11時まで)仕事をして、なにも、おしえて貰ったわけでは、ないのですが、先生が、ヨーロッパ中の、版画家13人を、あつめて、ポートフォリオと言うのを、制作されるのを、みて、ヨーロッパの、水準を、見極めました。  

 ポートフォリオというのは、日本語に訳せば、簡単な事、版画集というだけですが、業界に通じているかいないかを表す熟語として、使われています。で、美術関係者は、版画集とは言わず、ポートフォりオと言います。これが、2000年のニューヨーク修行では大きな、対百合子(この小説の主人公)いじめ用の道具となるのですが、1999年には、まだ、この用語は、登場しません。

 となると、どうしても、NYです。で、美大を、でて居ない百合子は、情報を、銀座で集めた。1999年当時、地球堂と言う版画で有名な画廊があり、そこで出会った、アメリカ人の上品な女性に、質問をすると、「Pratt institute と、言うところが、良いでしょう」と、の答えを、得た。

 未だ、神奈川県立近代美術館が、鎌倉で生きている時代だったので、先生方に、「プラットに、いくつもりです」、と言うと、「そこって、大学の、筈ですよ」と、言われた。

 しかし、普通の、日本人は、この、全米で24 位だと言う大学の、名前など知らない。それで、普通の日本人である百合子は、・・・・近美の先生の方が間違っているでしょう、・・・・と、考えて、国際キリスト教大学の、卒業証明書とか成績証明書などは、一切準備せず、観光ビザだけで渡航をした。

 バリで、大丈夫だったのですもの、英語が、自由な、アメリカだったら、どうにでも、なるわ、と、偉大な自信を、持って、プラットの、所在地さえ、確かめずに、渡航を、したのだった。

 幸い、例の、ダンサーの、お友達に、車の、手配は、お願いしてあり、中に、日経新聞の、仕事を手伝って、いる人がいて、プラットの、住所は、すぐわかった。

 クィーンズから、Nラインに、乗って、マンハッタン島に、一回入り、つぎに、Fらいんに、乗り換えて、プラットに、行ったら、結構大きな、そして、1999年に、すでに、105年目に、入っている大学だった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ところで、ここで、一回目には抜かしていた、引っ越しの事情を書きます。

 本日は、あまり、時間が、ないので、美術を、すきなひとは、ねこがすきなのだ、と言う観察だけを、語らせて、ください。(これは、Bに対するお手紙部分です)

 百合子は、小学生のころ横浜大桟橋で、父が、外国の貨物船の、船員さんに頼んでくれて、中を見たことがある。プラットにも、全くおなじものがあった。水蒸気を作り出すボイラーだ。大きな、大きなダンゴムシと、言った形で、いりくちがあいている、窓のないビルの中にあった。子供の時に見たのと全くおなじだった。

 3分の、I は、地下に、埋められて居て、石炭は、自動で、送り込まれるらしい。

 案内を乞おうにも、人間が、ひとりもいないので、そこにあった階段を、のぼった。 すると、下から三メートルか四メートルの高さに、ボイラーを囲む様に、てすり付きの、バルコニーがあって、そこに、6個くらいの、大きめなペレット入れの、皿が置いてあって、ペレットが、いれて、あった。

 アメリカでも、美術が好きな人は猫が好きなんだなあ、と、思った。日本では最近保護猫というが、もともと、野良猫という言葉があった。プラットのボイラービルで、餌をもらっていたのは、その所謂野良猫という存在だが、十分な餌をもらわれている。

 (これは無論、初日に気が付いた事ではありません。 通い始めて、数週間後です。しかし、二か月後、もっと驚く事がありました。事務手続きの、為に、事務棟に、行ったら、出会った出来事です。・・・・・この部分もBへのお手紙部分である)

 ある部屋、大部屋、個室ではない。そこの鉄の扉を開けると、中にもう一つ、アクリルの網状の、美しいドアがあった。人間さまは、ふたつドアを開けないと入れない。

 さて入ると、ものすごく大きな、しかも長毛種の猫を、胸いっぱいに、かかえた美女があらわれて、「なあに? 何の用ですか?」と、言った。本当に驚いた。アメリカって、・・・・こういう自由があるのだ、と、おもって。大勢の人が働いている事務室内に、自分の好きな猫【ただし、特別な値段の高い種類の猫ではあるが】を連れて来ていいのだった。

 

 

 

 

 

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シャルボネ(パリの版画インク店)と、鳩居堂を考える

2025-06-15 21:09:59 | 文化、芸術、書物

 私はね、今入院中で、今、消灯時間が来てしまった。だからね。長い文章を新しく書く事が出来がたいのです。で、以下は、パソコンの整理中に、見つけた2008年の文章です。たぶん、今の読者様に向けて、発表したことはないと思う文章です。どうか、よろしく。

 今日お話しすることの主眼点は、良質なものを丁寧に作っていて、規模を拡大せず、儲けを追及しすぎない・・・・・お店の美しさ・・・・・です。

 私は油絵と版画をやるのですが、美術評論家の方からは版画の方がよいといわれております。特にヘイター方式と言って色を多数使う版画を遣っておりますので、制作は大変ですが、結果として華やかになります。そのために版画インクは、種々持っていて、その組み合わせをノートに詳細につけて、仕事を進行させるのですが、色インクとしては、やはり、パリに本店があるシャルボネのものが一番だと思います。

 そのシャルボネのインクは、日本では神田の文房堂(多分、日本一古い画材店)と、萩原商店(プロの版画家が、電話やファックスで注文をする一種の問屋さん)には、確かにおいてあります。ただ、今現在日本一大きい画材店である、新宿の世界堂においてあるかどうかを、私は知りません。と言うのもほとんどの、版画家は萩原商店で買うので、世界堂がそれをおいても、買いに来るお客がいるかどうか、いてもとても数が少ないから、商売にならないでしょうから。

 世界堂には、アニメの道具、とか、漫画を描く道具は、相当数置いてあります。それを買いたい若い人が大勢いるのでしょう。ワンフロアーが、それに占められているぐらいです。日本のアニメやコミックと言うか、漫画は世界を席捲しているし、それを遣りたいという若い人が多いから、その材料は確実に売れる分野だからです。

 ~~~~~~~~~~~

 さて、私はせっかくパリに来ているのだから、シャルボネの本店を訪ねたいと思いました。版画工房のお仲間に住所を聞いて、訪ねてみると、それは、セーヌ河畔にある、瀟洒な一軒家でした。コンクリートのビルではないのです。床はフローリング。北西の二方向にある道路に沿って、フランス式の縦長の窓が大きくとってあり、商品は窓の無い、二つの壁面に、棚を作っておいてあります。その棚の裏側の壁ですが、ウォールナットです。

 その前に、黒いふたのある、白い缶がずらっと、四段ぐらい並べられています。その缶は大体鮭缶程度の大きさですが、そこに茶色の飾りで縁取りされたハート型の窓があり、その窓にインクの色が印刷をされています。棚の幅は狭いです。それらは、大体一つが五千円ぐらいするのですが、もう少し安いものとしてのチューブがあります。

 また、他のスペースにはきれいな木製の引き出しがたくさんあって、その中にはシャルボネ製ではないが、版画家がよく使う刃物類が丁寧に区分けされて入っています。全体がものすごく静かで美しいです。日本で、私が最も頭が痛くなるお店が、ドンキホーテですが(それでも、夜遅くサインペンなどを買いたくなると、よく入るのですが)それの究極の対岸にあるお店だといってよいでしょう。

 売り子としては、中年の誇り高いマダムがひとりです。私は何代も続いた経営者一族だと見ています。雇われた人みたいな感じではない。それで済んでいるのはお客が少ないからです。私が想像するに、日本と同じで、プロはここでは買わないのです。きっと、もう少し値引きをしてくれる問屋風のところがあって、そこで、皆さん、買うのでしょう。

 なら、なぜ、このお店がここにあるかといえば、一種のパイロット店として、世界に冠たる品質を誇示するために置かれているお店だと思うのです。セーヌの河岸と言っても繁華街ではなく、画廊街のはずれで、窓から見えるのは、マロニエの葉ばかり。

~~~~~~~~~~

 日本でしいて似たようなお店を探せば、鳩居堂でしょうか? 自社ブランドとしての、便箋や葉書が有名です。それを使う事が中年、日本マダムの品格を現す商品です。銀座の本店は税務署が発表する、地価の日本一高いところして、戦後数十年、きらめいております。そして、本店にしろ、他の街にある支店にしろ、雇われている若いお嬢さん方が制服を着て、一杯居ます。そして、売上高もシャルボネの比ではないでしょう。

 でも、なんともいえず、静かなあのシャルボネ本店の雰囲気を、私は生涯で、出会った素敵な場所のひとつとして、宝物のように、大切にしています。

 会社を経営することは、資本主義の常として拡大を目指すでしょう。シャルボネも裏ではそうかもしれない。だけど、あの本店の、清潔にして慎ましやかで、そして、美しい雰囲気を見ると、それが斜陽に繋がってしまうかもしれないけれど、なんとはない・頑・固・な・節・度・を感じて、『た・よ・り・に・な・る・な・あ』と思うんですよ。

 最後になりました。この版画は日本で作った初期のものです。でも、インクはシャルボネの、カーマインと言う赤です。透明で美しいと思っております。

 ところで、その葉書が手元にないです。で、ただ、文字だけになっていますがお許しください。

     2008年10月20日            川崎 千恵子

   実際のgoo blog 送信は、2025-6-15  雨宮舜(本名、川崎千恵子)

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私は昔からロダンが嫌いだった。理由はモデル達を実験動物並みに・飼って・居る・からだった。再録です

2025-06-05 16:31:55 | 文化、芸術、書物

 この文章は、一年前の、6月16日に書いています。でもね。悪い文章ではないです。ロダンも死んでいるし、ロダン夫人も死んでいるし、ロダン夫人に追い詰められて亡くなった才能ある、女性立体像作家、カミーユ・クローデールも亡くなっています。だから、ここに書いて居在ることは、話をしていい事なのです。では、繰り返しとなりますがどうか、よろしく。

  いやー、こう言うの,チャネリングの一つでしょう。

今朝、いつも通り、日曜美術館を見ていたら,九時四十五分からの,アートシーン冒頭で、ブランクーシ展の紹介がありました。その40時間前に、現物を見ています。(午前中の番組を見た時間と、比較している)

 これこそ、チャネリングの典型だと思いました。久しぶりです。1990年代は、爪にも幸運の白い星が、両手合わせると三つほど、常時出て居て、チャネリングの方も一週間に、三度は経験して居ました。あの頃の冴えわたり方が、戻ってきたかなあ。と感じちょっと嬉しく思って居る所です。

 京橋で、それを見たのが十四日(金)で四十六時間前です。(午後、電車の中で、スマホでこれを入力している時間帯と、比較すると、46時間魔になる)お節介ながら、その前の四十五分間、福田平八郎もとても良かったので、普段これをご覧になっておられない方が有られたら、お節介至極ですが、ご覧になって見てください。 

 ところで、ブランクーシ(1876~1957 ルーマニア出身)は誠実な人物のようです。まあ、パリへルーマニアから出てきたので、出世意欲が皆無だとは、言いませんよ。でも、比較的には、誠実です。

 カミーユの心を破壊した、ロダンの妻が、運営を牛耳って居たであろう、ロダンの工房を去った理由が、分業体制を嫌ったからだそうです。で、早々に、ロダンの工房を去って居ます。誠実な人間で有り、ルーマニアという辺境の地出身なのに、なんと抽象 彫刻を始めるのでした。それも大向こうを狙った、やってやろうじゃあないか、、、、と言う様な心で、発した作業ではなくて、ただただ、一本の木から、一つの石から、作品の完成まで、自分の納得の行く形で仕上げると言うところから、到達した形式なのです。

 もう一つ、私が、大変感慨深かったのは、ロダン全盛の同時代にね、ちゃんとロダンを批判して居る人間が居たと言う事なのです。テレビのない時代です。批判を発表するのはジャーナル  イコール  新聞しかないのです。しかしブランクーシが、記者を呼んで、自分の意見を発表したとは考えられません。彼は、ただひたすら、制作のやり方を、ロダンとは、違う形式にするとか、、勉強のむく先を、一人で静かに、探求し続け、形を追求することに大きな、興味を、見出したのでした。

 すみません。ここで、形=フォルムについてあれこれ述べようとしたのですが、外出先であり、苦手なスマホ入力なので諦めました。

 で、あれこれ、動きが激しくて、

 四時半から入力ができませんでした。で、本日は、ブランクーシについての入力は、ここまでとさせてくださいませ。

 ここからは、ブランクーシが、そうそうに逃げ出したと、言われるロダンに対する私の考えに入ります。

 私が言いたい事は、総タイトルに表記しました。文明の都 パリと言えども、所詮は、戦争に明け暮れて居た、ヨーロッパ イコール 肉食の国なのです。

 ブランクーシが批判をして居るのは、集団 分業態勢ですが、それは草間彌生も、村上隆も取っている手法です。ただね、彼らは、裸のモデルと、一緒に工房にいるわけではありません。

 でも真面目で律儀なブランクーシのまわりに、いつワインを飲んでも良い、そういう自由を耐えられた裸の若い男女がうろうろして居たと、私は想像します。ロダンはモデルたちを、飼育してたのですから。で、そりゃあ逃げ出したくなるでしょう。

 公表されている・ところ・までは、「ロダンは自宅 イコール 工房にモデルを住まわせて居た」と言う記述だけです。でもね、同じタイトルの接吻にしても、ブランクーシのそれとロダンのそれは、非常に違うのです。

 ロダンの接吻は、大きさも、、ほぼ実物大だし、リアルな性的場面なので、若い時初めてそれを見た時は、私は目をそむけたくなりました。どういう風に原画が制作されたかと、その場面を想像すると、なぜか、心臓がどきどきするほど、いやな思いに満たさるのです。

 つまり、ロダンは、若い男女を飼育していたのです。サファリパーク状態にして、人間を飼っていたのですよ。裸で、暮らす様に仕向けてね。

 それがどうして、可能かというと、ヨーロッパって、階層の上下差が、激しいので、下層階級の男女に、お金で、仕事としてやらせていたと、感じます。モデル達は、大学等を出ていなくて、哲学的目覚めもないので、お金の為に、しかも、こんなに楽な仕事で、食事には、贅沢ができると感じて、喜んでいたのでしょう。

 1945年以降の、日本だと、階層の逆転とか、上昇もありうるし、大体、階級があると、思っていない人が多いと思います。貧富の差はあって、日本だと、富裕層が、上流階級だと、思われています。

 今話題の、【燕は、戻ってこない】(NHKドラマ 桐野夏生原作)にしても、石橋静河演じる主人公は、今は、貧乏です。でも、もう少し、若い時に北海道から、上京し、病院事務をしている最中に、もし、医者と、恋愛結婚にでも至ったら、急に中流の上になれるのです。

 今って、女性は、派遣社員として、勤務している人が多いのですよね。歌舞伎座で、制服を着ている女性は、ほとんどが、派遣社員らしいです。松竹の正社員は、私服を着ているのです。これは、銀行も同じらしい。派遣社員として、事務職に就き、大きな企業に勤務するのが、日本女性としては、結婚への花道です。今は、お見合い制度というのが、上流階級の間でしか残っていないので、まじめな生活を送ってきたお嬢様が、結婚しないまま、アラサー、アラフォーになりました・・・・・というケースが多いのです。

 でもね、危機感もなく、派遣社員で、歌舞伎座などの、事務職ではない場所に勤務していると出会いがないですね。それで、もし非婚のママ、40を超えてしまうと、本当に大変です。しかし、先ほども取り上げた、石橋静河が、ドラマ中に言うセリフ「東京で暮らすのには、よいハンディがないとだめなのです。たとえば、親の家が、東京にあって、そこから、通勤するという形になれば、14万円のうち、家賃に、割くお金が不要で、14万円全部使えるので、パフェを食べたり、スパゲッティを食べたりできます」というのです。しかし、石橋静河には、それができない。彼女にできるのは、コンビニのおにぎりをかうことだけで、そして、かろうじての贅沢が、コンビニの、イートインスペースで、カップヌードルを食べることというのです。

::::::::あの、イートインスペースですが、銀座、一丁目の奥のビルの道路を隔てた対面にある、セブンイレブンの、イートインスペースではないかなあ:::::::元に戻ります。

 しかし、それでも、視聴者は、代理母を雇う契約をする側、稲垣吾郎+内田有紀夫妻と、稲垣の母、黒木瞳の三人と、代理母を引き受ける石橋静河の間に、上下関係があるとは、思っていません。黒木瞳が初めて、石橋静河と会い、いろいろ、話した結果、内田有紀に、「ああいうのは、種類が違う人間なのよ。努力もしていないし」というのを聞くと、なんと嫌な人間だろうと、黒木瞳をみなします。

しかし、ロダンと、その妻は、モデル達をはっきりと、自分たちとは違う人間だと、みなし、裸で、飼い続け、彼らが、他の場合だったら、プライバシーとして、尊重される様な場面を明らかに、監視し、興味を惹かれれば、原画として、スバ役、その動きを描きとどめたのでしょう

 ところが、ロダンと、その妻と、雇われて、飼育されているモデルたちの間には、確実な

 私は日本で、ヌードモデルの、写生会に、属していた時期があります。当時は、一時間 一万円ぐらい、の謝礼だったでしょう。1980-1990年代のことです。それを、代表者が、連絡を取って、会社に連絡を入れ、やってきた女性モデル(ヌード)を集団でスケッチするのです。15分が、四回、30分が二階だったと思います。

 そう言う体制では、ロダンが創作した様なポーズは、モデルも依頼者も、思いつきもしませんよ。

 美大の教室でも、同じでしょう。

  ところで、フランス(イギリスもドイツ他も大体同じ、イタリアがどうか、わからないが)、って、小学校六年で、階級差別の洗礼を受けるのです。パリの有名な商店の子供でも、小6の時に、大学へ、行かれる中学と、行かれない中学への岐路に立たされ、

 その選別が成績だけで、決まるのか、如何かを私は知りませんが。辻仁成のお坊ちゃまが大学へ入学なさったみたいで、どういうことだったのかは、わかりませんが、芸術系の大学だと、比較的、実技を重んじるので、外国人でも入りやすいのですが・・・・・・?????

 ましてや、ロダンは、1840~1917年の人です。戦前も、戦前の時代の人で、テレビもない、パソコンもない、そういう時代の人ですから、モデル達を実験動物並みに、飼育していたというのは、あながち大げさではないでしょう。彼らは、働かないで、済み、かつ、貴族並みのお食事を、出されていてワインなども、自由自在に(量も時間もです)飲むことができたら、やることは、恋愛=セックスです。生活が、急に貴族並みになったのです。ただし、裸で暮らす、事は、命令されていたでしょうけれど。

 日本は敗戦によって、急激に階級が無くなったのです。それは、どうしてかというと、進駐軍の中のインテリが、理想的な国家を作ろうとしたからだそうです。

 ただ、階級がないことが異様な嫉妬心の横行を招き、かつ、金銭への執着が強くなりましたね。金銭の多寡が、階級の代わりになったから。だから、品性が下品になったというところはあるのです。

 ところで、インドとかパキスタンとかスリランカみたいにカーストが激しく大きく残っている国ではそこから逃れるために、キリスト教を信じる人がいる模様です。日本の場合ですが、1945年にカーストが全廃されたんですが、その時まで死ぬ。士農工商という4カーストがあったんです。そこから子逃れるためにキリスト教に入ったと言う人があるかもしれないまた品子東京が無駄なもの明るいものとして西洋文明ももかに入るためにキリスト教に入った人もいるかもしれないこの後者は絶対にあったと思いますねで私の場合ですがそういうものじゃない。だけど、誰か具体的な人間を通して導かれたものではない。主に書物ですが、宗教性と言うよりも、一般の小説とか一般のエッセイで読んでいるうちに、だんだん宗教と言うものを感じるようになりましたね。でも何か言ってね。特に言えないんですよ。最初期はキリスト教を信じましたけれどね。キリスト教信じると嬉しい事はある。だってね、人間の世界なんて思いがけないことがあり想定通りいかないんですよ。その時ね乱れないでいるためには、キリスト教だけではダメなんですよ。やっぱりあきらめるって言う発想がないとダメで諦めるとか知ってると言う発想を宗教として教えるのは仏教なんですよね。だから私は仏教的要素を取り入れるようになっています。でもね、仏教だけだとこのよう統治している人知を超えた大きな存在があると言うことをあまり教えてもらえないんですよね。お釈迦様と孫悟空の例え話はそれに近いものですけれど、ちょっと滑稽男になっているから、宗教の教えと言うよりは。なんとなく動画を読んでいるって言うような感じになってしまう。それにお釈迦様とか観音様っていうのは日本にはたくさん得があるでしょう。私はあぁ言うのはダメなんですね。人様の描いたそういう神様と仏様。まぁ全然小鴨品にはなれない。自分の中で想像して創作された神様上って言うのかな?絶対なる存在っていうのはなんとなくあるんですよ。でも他人が描いた作品から上狭い道を作り上げた事は無いんです。ミケランジェロの天井がなんて凄いですけれどね。私の神様あんなに筋肉隆々じゃないですよ。ちゃんと置物もしてらっしゃる

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水沢勉氏は、ご自身の哲学の道=葉山=を、長時間かけて歩き、職場へ向かうのだった。2004年頃の話だが

2023-03-12 15:45:06 | 文化、芸術、書物

 すみません。慣れない音声入力を、しかも、スマホで、やったので、本文が出来が悪い事、悪い事。教養番組の最おおて、である、日曜美術館を論じるのに、こんな文章では、自分でも、恥ずかしくて、所謂・・・・忸怩たる思いの典型で・・・・・困り切ってはいるのですが、どうしても、時間が無くて、今夜=14日、早朝=には、推敲をしている暇がありません。第一節と、第二節だけ、推敲しました。推敲したところは、アンダーラインをしいておきます。また、青字で書いた長い挿入も入れます。そして、総タイトルも変更します。元は、【エゴンシーレ再び…画面三分の二を水沢勉氏が占めて・桝目どりを解説…だが私には聞こえない。補聴器は盗まれていて?!?】でした。そちらは政治優先、今回の変更後は、心理的・分析・優先です。

#1)・・・・312日の日曜日の日曜美術館、夜八時版は、エゴン・シーレの再放送です。げんざい、葉山の美術館の館長である、・・・・・と私が信じている、ただし、もう、ていねんで、お辞めになっているかもしれないが、・・・・・水沢勉先生がメイン解説者として、出演されます。実の事を言うと、ここで、公務員の定年は、どうなっているのだと、言う問題に入っていきたいのです。酒井忠康前神奈川県立美術館・館長は一般的な、公務員の定年を迎えて、こちらを去った後で、世田谷美術館の館長になられたのです。それを、私は、問題として考えているのですが、今、後、10分で、夜の八時になります。だから、その件について、語っている暇がありません。酒井先生の特例がどうして生まれたかについての、考察はしないで、先へ進みます。

#2)・・・・日曜美術館は、私が、45年以上の長きにわたって見続けている番組ですが、今回だけは、いつもと違う形で、番組が進行します。いつもは小説家の小川さんとNHKアナの〇〇さんが2人でスタジオで司会をするのですが、今回だけは上野の都美術館に森山未來さんが行ってエゴンシーレの絵を見ながら、いろいろ感想を語ります。

 美術の専門家ではない森山さんが、絵をいろいろ解説していくのですが、番組の真ん中で学究の人として、専門家である水沢勉氏が登場します。

 ここですが、鎌倉霊園に向かうバス停で、スマホで、音声入力したので、めちゃくちゃな変換に成っていますが、これから、直していきましょう。

#3)・・・・いつもは、スタジオで収録し、そこへ、学者とか、知識人が、一般の人向けの解説をするために、おまねきをされて訪問をするのですが、その形式で、スタジオに高階秀爾先生も、酒井忠康先生も、訪問すると言う形で登場します。若い方、特に美術の世界にいない方に向けて語りますが、高階秀爾と酒井忠康って、大変有名な人なのですよ。美術の世界では、とても偉い人なのです。

 で、両者からは、20歳は、若い水沢先生の特別扱いは、異例の事だと思います。・・・・しかし、私には、判っている。どうしてそうなっているかが?。・・・・・つまり、答えは、こうです。それは、私が大物だからなのですよ。(苦笑)、水沢先生は、私を切った人なので、それを、対私に強調するために、これほどの特別扱いとなっているのです。

:::::::::: あのね。それを言うのが胸が痛くなるほど、つらい事なので、言いたくないのですが、敵さん連中は、私を殺そうと1965年以来、何度もトライしたが、ことごとく失敗をしたので、今では、心理的な攻撃で、ノイローゼになるか、自殺をするかの、どちらかの手法で、殺してやろうと、考えています。

 水沢さんと、仲が良かったころは、展覧会の初日の、パーティへのご招待状をもらったと、言っています。これがあると、まず、入場券を買わないで済みます。そこで、2000円得をします。また、お土産として、プログラムをいただけます。歌舞伎や映画のプログラムと違って、大きな展覧会のプログラムって、厚さが、2cm以上あって、大体、3000円です。また、おもてなしの軽食とワイン等が提供されます。葉山の美術館って、相模湾を、東西に貫通する景色が、見えます。富士山の後ろに、夕日が沈み、美しいです。まあ、私は政治的な攻撃があるのを知っているので、自分からは、新しい知遇を求めてはいかないのですが、そういう様な憂いのない人は、新しい知己を増やしていきます。とても、幸せな気分のうちにあっという間に、二時間が過ぎ、二次会へと、みんながなだれ込みます。葉山だと二次会があるのかないのかは知りませんが、5人ぐらいの小さなグループで、「銀座へ戻って、二次会をしよう。いつものところでさあ」と、言う話は出ると思います。

 その二次会が、大切なのです。そこで、美術界における派閥の形成やら、階級の形成がなされるのです。社会的な知名度が同じ人は、同じレベルの人として、グループを作って、なじみます。そこでは、お酒も入って、無礼講となり、人の悪口を含む情報交換がなされます。

 他の分野の人でも、有名人の人生を見ると、六本木(村井邦彦さん)とか、新宿(俵万智さん)が、キープレイスだったことがわかりますね。そこで、お互いに知り合って、引き揚げてもらったと、言うケースがあるじゃあないですか。そして、それは、キャンティというレストランだったり、文人バーといわれる・バー・だったりして、必ず、飲み食いが、プラスしているのです。

 そして、ひとかどの人物となって、仕事で、お金でも入る様に成れば、毎週、どこかの展覧会のオープニングに招待をされて、その二次会で、その飲み食い会に参加をすることとなって、そこで、さらに自分の知名度を上げていくわけです。私は自分が石部金吉だから、それに参加しないというわけではなくて、最初にサラリーマンの妻となっていて、しかも、子供が二人いて、そのあとで、画家を志したので、40代は、二次会に出ることなど無理だったのです。

 で、子供が家を出ました。サー、出ていきましょうか?と、なっても、すでに、60代です。美術界において、権力を握っている人たちって、主に60代か、それ以上のねんれいのひとたちですよね。そうなると、「あの子は、お顔がかわいいから、引き揚げてやろうかな」という意味での、年齢制限が、とっくのとうに、オーヴァーしているのです。

 だから、こそ、私にとっては、水沢先生が、大切な存在でした。12歳こちらの方が上です。言ってみれば、遠い親戚の様な信頼感を、奥様には持っていただいていて、電話で、直接はなしができました。だが、ご主人の方とは、主にメールのやり取りだけで、頭脳と、頭脳の交換だけだったのです。

 私は、水沢先生に対しては、・・・・ほかにも大学教授や、安倍晋三さんなどの、相当に高度な読者がいた・・・・・メルマガを配信して居ただけで、水沢先生からは、時々、コメントをいただくという関係だけでした。ただ、ほんのまれに、鎌倉館で、直接話をしたことがありますが、電話を交わしたことはありません。非常に透明で、かつ束縛のない、自由な関係でした。それは、私が、厚誼については、外部に一切、出していなかったからです。しかし、CIA連中はありとあらゆる、ネットの技術を持っていますので、二人の関係が筒抜けだったのでした。

 それで、ある時に、鎌倉館の前の道路で、先生が、「メールがはじかれたので、直接お渡しします」と言って、白い封筒に入った、招待状をくださったのです。その時に私がどんなにぞっとしたか、ご理解をいただけますか。ただし、これは、皆様に、知らせたくない、エピソードで、ずっと黙っていたのですが、18年ぐらい前の話だったでしょう。私自身のパソコンは、40台以上壊されています。だけど、皆様のパソコンが壊されたら大変なので、語るに語れないエピソードだったのです。

 で、そういう前哨戦を経たうえで、上司だった、酒井忠康氏から、または、宮崎進氏から、「川崎千恵子との交流はやめなさい」と、命令が来たのだと、思います。それは、職業上の、大事ですから、言うことを聞かざるを得ないでしょう。でないと館長に成れないです。

 ここまで語ると、その経過は、陰惨極まりないです。で、私がつらすぎます。で、読んでいる方もつらいでしょう。だから、一つ明るい話を入れます。今の私は体力の衰えもあって、このブログも、未完成のまま、公開するときが多いのですが、メルマガは相手があるだけに、相当気を付けて、管理をしていました。で、気を付けて点検をすると、水沢先生からの、コメントは、午前五時台に発信されていることが多いのでした。

 で、たまたま奥様と、電話が通じた日に、「先生って、朝型ですか? メールが午前五時に発信されています」というと、おくさまが、『ええ、そうです。主人は、朝、歩いて美術館に通っているのですよ」とおっしゃるのです。私はびっくり仰天して、「それって、毎日ですか?」というと、「そうです。毎日、〇十分かけて通っています」とおっしゃるのでした。先生は、車は運転できるでしょう。自転車はあるでしょう。電動自転車だってあるかもしれない。そして、何よりもバスがあります。

 だけど、歩きなんだそうです。私は、総タイトルに、奥様がおっしゃった、数値を入れてしまっていました。だが、今、特定(identify)という事が大流行だそうなので、その数値を大急ぎで削除しました。

 世の中に、美術評論をする、人材は、たくさんいるでしょう。でも、その中でこの人を何度も学究の徒であると、書いています。

 それは、奥様から、先生の早朝の姿を聞いたときに、・・・・・朝、先生が、一番さえた頭で、研究をして、その続きは、葉山の町内の、できるだけ、車の通らない道を選んで、歩いている時間帯に、思考をさらに重ね、合計で、あるテーマの、研究を、八時間ぐらいは、続ける。自宅と、職場の間は、当時は、CD・Rか、USBで運んでいらっしゃった・・・・・・と、言うことを知っているからでした。

 テレビ画面内で、NHKが、特例扱いをしているので、立派な人だと、考えたわけではないのです。15年前から、学究の徒だとして、尊敬をしていたのでした。 

 【小さな箱】という、旧鎌倉館の歴史を書いた本の中で、新人が最初に、習うことは、お酒を飲むことだった」と、書いておられます。それじゃあ、夜には、研究ができないですよね。

:::::::::という長い挿入を入れて、元の、初稿へ戻ります。

 しかし今回の、メイン解説者、水沢勉氏は・・・・・多分ですが・・・・・ご自宅の書斎で取材に応じています。

 この特別扱いは、私が、養老孟司先生の【猫メンタリー】第一回に大変感動して、五回以上、録画を繰り返してみたし、ブログをイッポン書いているからでしょう。

 その番組の中では、養老先生は書斎で、紫煙を、くゆらせながら、あれこれを語られるのですが、その姿形も美しかったし、語っておられる内容も素晴らしかっのです。私は、その時に、自分の、ぶろぐで、それを書いています。(後註1)

 何度も見ているうちにやっとわかったのですが、質問者は、和久田アナでした。彼女の、美しい声は、聞こえるのですが、姿は、一切見せないと、言う形でした。

 ここまで、推敲をしました。時間としては、14日の、午前1時です。しかし、これ以降は、まだできません。今、大変忙しくて、これから先の推敲は、後日いたします。お許しくださいませ。

 実は、この番組は、私をいじめると、言う目的があり、(あと注1へ)それ故に、特別に水沢勉氏をアッピールする目的と、必要があったので、出演者は4人だけですが、水沢氏以外の三人は、立って、お話をするのです。で、画面上の、その三人のサイズは、小さいのですが、水沢勉氏は、クローズアップも用いられ、その姿形は、養老先生以上に、視聴者に印象深いものとして、映し出されます。

 最後のほうに女流作家の▽▽さんがエゴン・シーレの登場人物とそっくりな立体(多分乾漆系のお人形として)を作って彼女なりのエゴン・シーレ感を語ります。

#4)、この番組内で、水沢氏は、平易な言葉で、ご自分の研究の成果を発表なさるが、そのキーワードは、桝目どりで、あった。

 しかしメインの登場人物は45分間の間に、三回、登場する水沢勉先生です。彼は学究の徒の極みとしてエゴンシーレの、人生に新しい発見をしていて、それを語ります。オーストリアに、研修に行っていて、長い付き合いの研究対象としてのエゴン・シーレです。

 水沢勉氏の、新発見(科学ではないが、学問としては、新発見に近い事)を、ここで、説明して、しまうと番組のネタバレになってしまうので、それは抑さえます。が、キーワードがあります

 そのキーワードだけを、ここで、申し上げたいと思います。そのキーワードがどういう場面で、かつ、何を説明するために使われているかを、言ってしまうとネタバレになって、学究の徒の発表の、邪魔になってしまうと思うので、詳細には、触れず、キーワードそのものは申し上げさせてください。

 それは桝目どりと言う言葉です。

#5)、桝目どりとは、どういうことか?を、技術用語として、ここで、解説をさせていただきたい。美術の専門家には、不要なことなので、水沢先生も、番組内では、既知のこととして、説明抜きで、話を進められたからだ。

 もし、ここで、これを読んでいるあなたが、50過ぎの男性だと、仮定しましょう。女性は、40代から、趣味の世界に入ります。それは、女性には、男性ほど、重要な仕事を任せられていないので、子育てが終わると、余裕ができるからだし、友人たちが、みんなそういう生き方に入るので、趣味の世界を、極めて行きます。

 しかし、男性は、会社とか、学校とか、組織内での責任が、増えていくので、趣味に、没頭している暇がないと、言う形で、50代後半に、やっと、趣味を、持とうかなあ? それを、持っていないと、定年後、落ち込みが激しいと、聞いているし・・・・・と、なって、ピアノを弾いてみたり、油絵を描いてみたりするのです。

 ここでいう趣味とは会社での仕事上の付き合いで必要だった、ゴルフなどは、のぞきます。ごく、ごく、個人的なものを指します。しかも、高校まで、ブラバンに所属していたので、サキソフォーンを極めたいと、言う様なものではなくて、「絵でも、描いてみたいなあ。公民館で、展覧会がある。あれくらい、僕にも描けそうだ」と、感じる男性などを思い浮かべてください。

 横浜の関内駅、最寄りに、日本大通りと、言う広い道があります。ウィキペディアによると、以下の様に説明をされています。

:::::::::日本大通は横浜市中区の町名および道路。 道路は日本初の西洋式街路とされており、菊池道路環境賞などを受賞しているほか、平成14年度には国土交通省手づくり郷土賞受賞。 横浜市中心部の関内地区にあり、神奈川県庁などが位置する官庁街となっている。:::::::::

 私は、横浜立野(=本牧半島の一部)にある中学校に通っていたので、そこから、桜木町駅まで、よく歩いたものです。3キロぐらいです。京都に哲学の道と呼ばれる道があります。あそことは、まったく違って、ビルばかりですが、人通りが、ほとんどないので、1950年代の、そこを歩くと物を考えられるのでした。毎日ではないものの、本当によく通ったものです。今の虎ノ門当たりとは、まったく違う雰囲気です。だけど、後年、ニューヨークなどに行って、10階建てぐらいの古いビルの、集積している町もあるので、『なあーんだ。横浜と似ている』と、思ったりしたものですよ。マッカーサーが、主導する太平洋米軍は、勝利後、この辺りを、使うつもりだったらしくて、空襲に出会っていないのです。

 さて、そういう静かな・・・・・人の居ない通りも、1980年代になると、人間が存在する様になるのです。そして、日本大通りに絵を描いているグループを見かける様になるのです。その人たちが、この桝目鳥をした、透明なはがき大の、カードを持っていて、それを左手で、目の前30cmのところに固定して、その後ろにある風景を眺めているのです。

 それは、風景を正確にキャンバス、または、スケッチブックの上に、移していくのに、必要にして便利な道具なのです。でも、一年も使えば、そのカードを透かさなくても、正確に、自分が見た風景を、紙、または、キャンバスの上に再現できる様になるのですが、習いたての、時は、先生が、それを使う様に進めるのだと、思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

#6)・・・・・

 私は、外交官夫人だった友人から、官舎で開かれていた絵画教室に誘われて、参加したことがあります。第一回目から、先生に、最初は、目の敵にされて(用具を戦前のものを使っていたので、貧乏だと誤解をされたのです)ちょっと、いやな思いをしたのですが、二時間ほど、経つと、正反対になって、先生に、べた褒めにされたほど、絵がうまいらしいのです。ピンクのカーネーションが画題だったのですが、花だけを、色を変えて、真っ赤な花にしたのですね。ピンクじゃあなくて。私は、色盲ではないのでよ。ただ、ピンクと、緑の葉っぱじゃあ、どんなに背景を工夫しえも、絵として、迫力が出ないからです。で、ものすごく生き生きした絵を描いたので、ほめられました。

 しかし、その絵も、このいま住む家から、盗まれています。恐ろしい世界です。この雪の下二丁目三番地と、四番地にまたがる一帯21軒の家がある小さな谷戸一帯は。

 なお、父は、1943年に安井曽太郎先生の審査委員長で、満州文展の特選をとっています。そして甘粕大尉の部屋とか、満鉄総裁室とか、ラストエンペラーの宮殿を飾っていました。それらを報道した、新聞記事の切り抜き11枚と、両親の結婚写真とか、種々様々なものが盗まれています。

 父は、終戦時、撫順炭鉱近辺にいたのです。今の言葉でいうオイルシェール(当時の日本語で、頁油岩)の研究をしていました。で、満鉄調査部、中央試験所というところに所属する技師でした。で、給料が出ます。だから、身分保障があって、週末に、安心して旅行をして、絵を描いていました。満鉄社員だから、交通費はただですし。画題は、主に中国の歴史遺産です。

 終戦時は、新京にも大連にもいなかったので、甘粕大尉(当時は、満映理事長)の部屋、とか、満鉄総裁の部屋の、自分の絵は、知人に、見てもらったそうです。すると、全部切り裂かれていたそうです。でも、それは、仕方がないことで、その件で、悲哀を語ったことはありません。

 ただね。藤田嗣次画伯のことは、大変、気の毒に思っていて、それで、私に、絶対に文科系の学部を死亡してはだめだと、言って居ました。戦争になった時に生きられないと、言っていました。しかし、父の予想は、外れて、戦後77年間も、日本には、戦争がないのでした。そして、私は、80歳になってしまっていて、すでに、働こうにもどこも雇てくれないでしょう。予想は、外れました。しかし、私は、ずいぶんと、受け身な、人生を歩んできたのだなあと、思いますよ。ヤマザキマリさんの母親などとは、正反対の教えを説く、両親でしたからね。

 ところで、日本大通りで、写生をしているグループに戻ります。私は、受け身の人でもありながら、父が、「男に生まれたらよかったのに」というほどに、芯がある人間だから、群れるという事が何につけても嫌いなのです。

だから、女性のヌードを描くとき以外は、集団の、お絵かきグループは嫌いです。女性のヌード(プロのモデルクラブ)から、たった一人だけで、呼ぶ、勇気はないですから、集団のお絵かきグループ(わたくしが参加したのは、横浜YWCAをつかっていたものです)

 でも、桝目どりの道具は、基本的な道具として、使う人が多いのです。まあ、正確に対象物を写し取ると、それは、絵がうまいという事になって、描いている本人は気持ちがいいですからね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

#7)・・・・・・15分ぐらい巻き戻しを繰り返し、やっと、キーワードを把握した。キーワードは【桝目どり】だった。それがずっと、聞こえなかったのだ。 

 なお、水沢先生が、そのテクニカルタームを使って、どういう風な主張をなさったのかは、どうか、番組をご覧になってください。・・・・・と、一旦は、言っておくが、次の節で、そのネタバレをしてしまおう。もう、再放送も終わったことだし。

 私は、キーワードを把握できると、突然に、水沢先生が、どれほど、エゴンシーレを好きなのか? 28歳で、早世したことを、どれほど、残念に思っておられるかが、理解できました。長時間かけて、努力をしたのは、良かったのです。

エゴンシーレは、ウクライナに住んでいたわけではないけれど、ウクライナの、人々が、極限状態に置かれている今、先生の解釈はなるほどと思わさせられ、余韻は深いです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

#8)、さて、この、日曜美術館エゴンシーレ篇・録画版を、主人が、見ているのを家事をしながら、隣で、ザクッと聞いていたのです。この番組が、私いじめの、威圧用番組、で、ある(あと注1で、それは、説明をしてあります)とは、わかっているので、その、ラフ視聴で、終わっても、いいから、・・・もう、削除しようかなあ・・・と、一旦は、思いました。

 しかし、それでは、自分の敗北に、輪をかけることに成ってしまいます。水沢勉氏を、NHK・カメラが大きく、とらえ、画面いっぱいに氏が浮かんで、伊藤玄二郎や、いまだ生きている井上ひさし、そして、ご近所人間の、大原光孝さんから

 「どうだ。お前、捨てられた

(しかし、恋愛ではないのですよ。実家がご近所だった縁での、知遇です・・・・・ただ、ただ、政治上の理由で、捨てられています。ただし、非公開のメルマガに対して、一時期、大変いいコメントをいただいています。それは、感謝至極だから、別れたことは、むろん残念です。・・・・・

     ことを、今でも、悲しく思っているだろう」と、

     問われているのを、ひしひしと感じるからこそ、ここで、録画を削除してはいけないと、感じました。で、覚悟を決めて、視聴しようと思い、10日の深夜、一人で、丁寧に聞いたのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~

#9)・・・

 すると、驚いたことに、キーワードが、聞き取れないのです。朝ドラ【おちょやん】で、杉咲花のセリフが、聞こえないという操作をされました。また、服部百音がフル・シンフォニーと共演した時も彼女のバイオリンの部分だけが、聞こえない・・・・・という操作もされました。

 私は、10日の深夜は室内に一人だけなので、どんなふうにテレビを操作してもいいので、その部分、2~3分を、五回は、繰り返しました。一回の、フレーズの中に、三回出てくるので、五階巻き戻したので、15回聞きなおして、やっと、それが、桝目どりと、言うキーワードだったと、わかりました。

 その時に水沢氏の体が、TV画面の三分の二を占めていることに気が付きました。

 ところがね全然聞こえないのは、私側の事情かもしれないのです。

 我が家ではテレビに属するスピーカを2種類つまり4個も買ってあり、聞こえないボリュームを上げてあります。ただしテレビ側のアウトプット口が1つしかないので、スピーカーは、一組だけをつけてあります。つまり、二個つけてあります。

 また、テレビ本体のボリュームも上げてあるし、スピーカーのボリュームをも、上げてあるのに、このキーワードが聞こえない。

 だから水沢氏の、話の、意味がさっぱりわからないし、主張の主要なポイントがわからない。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

#10)、酒井忠康氏がねえ。ひどいことをしていてね・・・・・・

これは、私の方が難聴であるということも関係しているでしょう。80です。で、難聴が始まってるんですね。でね、それを防衛するために大きな病院に行って自分の耳の聞こえ方を診察していただいて、その数値をきちんと使って私専用の補聴器を作ってくれる会社の方に、三か月ぐらいかけて作ってもらい、

 それを33日の金曜日に、受け取っているのです。ところが4日、または、5日に盗まれています。

 今ね。こちらの盗難については、語りたくないです。カトレアビルの管理人(多分ビルのオーナーです)が関与してきた、角コネクターの盗難について、語りたいのです。

 しかし、エゴンシーレ篇が、再放送をされるので、つい、この、一文を書きました。

  ただね、2005年には、すでに、去っていたであろう、水沢氏との別離が、もしなかったら、あきやま祐徳太子に、攻撃されることもなく

 したがって、山口みつ子さんが、殺されることもなかったでしょう。

 だから、水沢氏が、去ることが、私にとって、超不利になることと、同義です。が、その采配をしているのが、水沢氏にとって、職場の上司である、酒井忠康氏でしょうから、どうにも、差し止めができないことだったのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

#11)、 私に対しては、一般人が、まだ、知らない最高技術が用いられる。桜田門の大型画面に液晶画面があり、そこに、サーモス多っと画像が、送られていて私が、家の中のどこにいるかが、CIAの家来としての警察には把握をされている。

 これは、平木さんの天井灯の、点灯との関係で、はっきりと、わかったポイントだった。技術的なこと他、詳細は、ここでは、語らないが、

 桝目どりと、言う術語がわからないために、テレビから、50㎝のところで、15分以上を過ごしたことが、敵方に把握をされて、誤解を受けるといやだなあと、考えた。

 五回とは、どういうことかというと、テレビから、50cmのところに立って、買ってなかったほどの、大きな画像で、映し出されている、水沢氏を凝視しているので、それほどに、恋い慕っていると、誤解を受けることをだ。

 それで、私は、10日の深夜、という事は、11日の早朝に、水沢氏の学説を、短い文章で、このパソコンに入れ込んだ。それをハッキングしている連中は、私が、それを使った文章を書く筈だと、見て、本日、12日は、猛烈な攻撃を受けた。

 つまり、私が、美術上の理解が深い・・・・・とても、深い・・・・・という事が、一般読者の目に触れることを避けたいのだった。

 エゴン・シーレなんて、全世界の、人が、共通して、大切に使う宝物なのに、「お前には、それに触れさせないのだ」と、言っている、いまだ生きている井上ひさしの姿が、目に浮かぶよう出会う。 で、#12の節で、それを開示させていただきたい。もう、二回ものTV放映が住んでいるので、許されると、勝手に判断をしておこう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

#12)

カール・グリュンヴァルト肖像・・・・戦時中に、も、絵が描ける様に手配をしてくれたとか、クルマウ風景(町と河)1916年には、

 最初期の作品とは、異なった画風を感じさせる・・・・・

 ・・・・・戦争が始まった。すると生活は、とても限られたものとなる。

で、限られているからこそ、完成させたいと願うようになった。で、風景画を描く場合にも

 桝目どりをして、構図を整える。いる。それは、彼の、若い時にはなかったことである。

クリムトに言わせると才能がありすぎるほどのシーレなので、デッサン力も高くて、桝目どりなど、必要がない・・・・・そういう画風で、風景を書いていた。しかし、戦争が起きて、

一種のルネッサンス絵画風、古典の技術を採用する。・・・・・そういう風に変化をしてくる。

 戦争が終わった。で、一枚一枚をとても大切にして、完成度の高いものを目指した。それが、ある意味で、古典的な、落ち着いた画風への、探求につながる。その矢先死ぬ。スペイン風邪で。

 縞模様の服を着た エディット・シーレの肖像・・・・・これを水沢氏は、最高傑作だという。

水沢氏は、エゴンシーレの死について、自分の感情をみせない。語らない。だけど、だからこそ、画面を見ている人間には、水沢氏の悲しみが、深く、深く、伝わってくる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

後注1,

日曜美術館エゴンシーレ篇に、水沢勉氏が登場したので、その夜、私は不思議な夢を見た

2023-03-07 12:29:09 | 政治

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ホリヒロシと、そのsuper splendid partner 舞位子さん

2021-07-22 22:58:03 | 文化、芸術、書物

 私には、完成させないといけない、中途半端なブログがたくさんあります。それは、主人が寝てから,書き始めるので、午前三時までに、完成しないことが多いからでした。昔は入力の速さを得意としていたのですが、どうも、入力の速さだけでは、解決しない問題が起きている模様です。それですが、たぶん、以前より深く、深く、掘り下げて書いているので、・・・・・記憶を探る、または、グーグル検索などで、過去の事件を探る、または、自分の書いた過去のブログを探る・・・・・そういう時間が間に挟まって来ているので、それに、2時間近くをとられて、五時間では、完成しないと、言う形になっているのだと、思います。

 ところで、本日は全く違う事を書かせてくださいませ。 

 今、息をのむ様な経験をしたからです。テレビ番組(録画)を見ていて、息をのんだのです。これは、本当に珍しい体験です。番組名は、日曜美術館、ホリヒロシ篇です。

 放映時間は、18日(日)午前九時より。

 オンデマンドでも、御覧になれますが、25日の夜8時から、NHK ETVで再放送があるはずです。

 番組の構成は、いつもとは、全く異なっていて、司会者は、登場せず、解説をする人物も登場しません。

 ホリヒロシの生活に、密着取材という形です。ただ、ホリヒロシが、知遇を結んでいる、人物が4人登場します。まあ、それは、それとして・・・・・・

 私が最も驚いたのは、間接的に、映像で登場する奥様です。堀 舞位子さんと言います。私は、全く知らなかった方で、ほぼ、初耳の事として、本日、知りました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 この番組で、息をのんだところは、いくつかあるのですが、

 ホリヒロシが、「家内が、家内が・・・・・」と、古臭い表現で表す奥様が、super splendid partner だったことです。古臭い表現というのは、今、ネットで、この年代の人の表現を見ると、連れ合いという言葉が多いです。家内という表現は、70歳以上の人の表現だと思います。

 ホリヒロシは、現在63歳である模様です。奥様は、3年前に、享年80歳で亡くなっています。

 と言う事は、奥様は、ホリヒロシよりも21歳年上なのです。

 しかし、ホリヒロシに言わせると、ある意味で戦友であり、けもの道を二人で、切り開いてきた間柄だそうです。そうなのか。と、そこも息をのみました。

 けもの道と言う事ですが、彼は、現在のところ、大の成功者です。

 簡単に、成功した結果・・・・但し、是は、日曜美術館で、彼の偉大さを証明するために、宣伝的に、告知されたことではなくて、私が、グーグル検索をして、文字化された情報として把握した、例ですが・・・・を羅列すると、

 吾妻徳穂の直弟子で、(と言う事は、歌舞伎俳優、壱太郎=カズタロウと、芸道上の兄弟ですね)名取名、吾妻瑤穂で、・・・・・

 きものデザイナーで、【花ウサギ】というブランドで、毎年一作発表をしているそうで・・・・・

 人形と一緒に自分も踊る、人形舞という、新たなパフォーマンスを創出し、

 その公演は、日本では、有名な、建築の、記念日のパフォーマンスとして、招かれることが多く、

 また、海外からも招聘を受け続け、新聞評などで、絶賛を浴びているそうです。

 という成功例を、見ただけでは、その過程が、けもの道と表現せざるを得ないほど、苦しいものだったことは、想像もできません。ただし、いろいろな、齟齬や、トラブルにも見舞われて、それをいちいち、乗り越えてきたというのは、推察できます。成功とは、簡単には得られません。誰もが、それを知っている通りです。

 そのけもの道を、自分が前を行き、後ろを家内が、整えてくれたと、ホリヒロシは、語っています。

 ともかく、常に一緒で、常に、敬愛し合っていたと、考えられます。あまりにも、美しい夫婦愛です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 むろんの事、ホリヒロシに、才能があったから、奥様は、彼を保護し、伸ばす方向で、ご奉仕をされて、それが、喜びだったのでしょう。きれいな方です。奥様の父親が、日本文化に造詣の深いドイツ人だったそうです。

 これ以上は語りません。どうか、その番組をご覧ください。25日の夜、8時から、3チャンネルで、再放送があるはずですし。

 ただね。番組から離れたこととして語りますが、ホリヒロシが、魅力的な人間だったのは、両親の、おかげもあるのです。男の子が、人形を作っている。そういう姿を見て、矯正しようとは考えなかったご両親は、素敵です。だから、ホリヒロシの才能が、つぼみとして、開花していき、それをさらに、大きく咲かせたのが、舞位子さんだったのでしょう。

 2021-7-22  雨宮舜 (本名、川崎千恵子)

なお、このブログの、2010年より数え始めた延べ訪問回数は、6515379です。

 

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サヘルローズの養母との涙のお話を、体現する黄色いプリン(瀬戸康史のグレーテルのかまど)△

2018-11-20 15:35:30 | 文化、芸術、書物

ええと、本日の私は、いつものような種類のメールを書きたいと、思って居るのですが、しかし、その前に、テレビニュースの録画をチェックしないと、いけない状況に陥っていました。忙しさに、かまけていて、録画ニュースをチェックしないでいるうちに、何と、レコーダーの残り時間が、一時間を切っていたのです。それで、今朝から、家事をしながら、録画番組を、チェックすることを続けております。で、ニュースを三日分チェックし終わったところで、

録画番組の、タイトルに、サヘルローズの云々という言葉を見つけて、おやっと、思い、開いてみることとしました。

サヘルローズは、爆笑問題が、メインキャスターである、【探検バクモン】で、とても賢くて、感じの良いサポーターを務めているので、親しみを持っています。その上、私はイランイラク戦争後の、イランを主人と一緒に個人旅行をしているので、イラン料理とか、公園の多いイランにバラが咲いているのも知っているのです。その瀬戸康史の番組内でもローズウォーターというのが、何度も出てきました。それには、『なるほど、そうでしょうね』と、思います。

 ところで、此処で、スピンオフに入りますが・:::::::::先程から、イランについて、私が描いたスケッチを探しているのですが、見つからないのです。イランは、アラブ・イスラム文明と、グレコローマン文化の、両方を発見できる、とても面白い国で、歴史や文化という意味では、堪能しました。カシャーンという古都のホテルで、トイレの床が、戦争で、壊れていて、水洗便器がしっかりと、床には、固定されていなかったのですね。座ってから、揺れるので、其れを発見してびっくりしました。爆撃の衝撃で、接着用コンクリートが壊れているのでした。そして、夕食も庭でとらせるのでした。ダイニング周辺の建物が、しっかり修復が、できていないところがあるのでしょう。

 そのころ、サヘルちゃんは、4~10歳ごろの間でしょう。既に、日本に来ていたかな、自分達夫婦の個人としてのイラン旅行が、いつだったか、今、覚えていないので、後で、探せばわかりますが、サヘルちゃんの年齢との比較がわかりません。

 で、すみませんが、ギリシャについてのスケッチを一枚ほど、此処に置いておきます。別の機会に訪問をしているもので、そちらは、イラン旅行より、ずっと後で、1998年です。

 デルフォイの神託を下す神殿の跡地です。遺跡です。私はこういう遺跡を求めて、トルコ、イタリア、イラン、ギリシャ、スペインを、旅行をしています。イタリアだけはツァーだったのですが、ツァーだと、旅行会社の企画に対して、私の体力が持たないので、苦行の一種となってしまいます。かろうじてフィレンツェで何かを描いたかなあ?

:::::::::::ここで、イランについての、挿入を終わり、レコーダー内で、発見された録画番組にもどります。

で、開いてみると、命令してもいないのに、毎週録画をされている、瀬戸康史が司会をする【グレーテルのかまど】の、19日、月曜日分した。これは、プルーストのマドレーヌの回など、エピソード次第で、時々見てしまう番組ですが・・・・・

今回は、その内容(エピソードの部分)がよいのです。ぽろっと泣いてしまうほど、いいのですね。ところで、一種のネタバレですが、サヘルローズは、イランイラク戦争で、孤児になったのです。時に四歳です。それは、前から知っていましたが、養母となった女性の姿は、初めて見ました。若いときは、非常にきれいな人だったのに、結婚もしないで、サヘルを育てたのでした。そこが、感動的なのです。

 で、念のために、調べると、再放送が、ないはずなのに(というのも、私が録画している時間が再放送のはずなのです)、

 なんと、来週の月曜日、26日にも同じものが放映されると、出ておりました。それをコピペで、下に置きます。

 よかったら、録画でもしておいて、ご覧ください。涙がぽろっと出る内容です。

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    2018年11月20日、 雨宮舜 (本名 川崎 千恵子)

ところで、次の日の午前二時にやっと推敲しました。水洗便所が、推薦となっていたり、あい変わらず誤変換多発でした。だが、書いた直後は、別の仕事をする必要があって、すぐには直せなのです。で、やっと直したので、恒例の三角印を総タイトル横に付けておきます。

*****************

1126月曜
午前10時25分午前10時50分

グレーテルのかまど「サヘル・ローズの黄金のライスプディング」

サフランやバラの香りをまとい、まばゆい金色に輝くライスプディング「ショーレザルド」。ヘンゼルも願いをこめて、イラン伝統のお菓子を作り上げます!

バラの香るお米のプディングを、ナッツやシナモンで飾り付けた祝い菓子ショーレザルド。イラン出身のタレント、女優のサヘル・ローズさんにとって、忘れられない思い出のお菓子です。紛争のため4歳で天涯孤独となったサヘルさん。養護施設で、また養母フローラさんと苦労を重ねた日本での暮らしで、心の支えになったのがショーレザルドでした。母が初めて明かすエピソードを交え、娘と絆をつないだお菓子の物語をひもときます。

【出演】瀬戸康史,【声】キムラ緑子

  • 字幕放送字幕放送
  • 再放送再放送
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日曜美術館、入江一子篇・・・・・純真さを目の当たりにする、幸せ感・・・・・

2017-06-25 19:51:09 | 文化、芸術、書物

今から、日曜美術館、入江一子篇が、始まります。私は、昨日、それの録画を見て(というのも一週間前の午前九時から同じ番組が、放映されているので、それは、常に録画をしているので)

入江先生の、純真さを改めて感じました。本当に、純真な方なのですよね。

 私は、女流展に、1990年から、2002年までは、出品していたので、遠くから、偉い立場の先生を見ていたので、何にも感じなかったのですが、今から、15年ぐらい前、鎌倉の、先生が所有なさっている別荘に、先生に呼ばれたのです。「ニューヨークの情報を教えて頂戴」と言う事でした。

 その頃、入江先生は、まだ、ふっくらとしていらっしゃったのです。番組の中で、「若いころ、美術の先生をしていました」と、言う映像が出てきました。または、静止画だったかな?

非常にふっくらとした美女なのです。

  しかし、私が、女流展に入選したころは、すでに、先生は、眼鏡を、愛用なさっていたので、先生が美女であることは、この番組で初めて知りました。

 私は、先生と一時間半ぐらい、鎌倉山の別荘で、二人だけで過ごしたのですが、その時も『純真な方だなあ』と、思いました。私も、純真な方ですが、その私が感心してしまう程、純真な方でした。が、それが、そっくりそのまま、テレビの中にも出ていました。あれは、演技でも何でもないです。

 ただ、その純真さを維持するために、先生は、絵だけを描いて居て、雑用と言うのをすべて、他人任せになさっておられるのです。別荘での生活ですが、お料理は、隣の方が、総べて作ってこちらへ、持ってきてくださるんですって。私とはまるで違う生活です。私は一時期、自分を雑学の女王だと、言ったりしていましたし、無論、雑用の女王でもあります。

 一時期お菓子を、いろいろな方に差し上げたりしたら、学者をなさっている先輩から、「川崎さん、裏技を見せて、ずるい」と、笑いながら、言われてしまった様に、ありとあらゆることに手を出して、「だいたいのことは、自分で、できるわ。専門家に任せなくても」という状態にしています。

 器用・貧乏というのが、私の典型で、先生は反対です。

只ね。15年間に、驚くほど痩せておられたのです。それは、驚きました。101歳だそうです。それで、絵を描く部分以外の、すべてが、すでに、消耗されつくしました」と言うからだつきでした。

 で、私がお会いしたころ、先生は、まだ、太っていらして、今からニューヨークへ進出しようとなさっておられるので、75歳の、現在の自分と比較すると、その気力の大きさに、驚きます。当時先生は、すでに、86歳以上だったのです。私は、この後、10年以上の将来に、ニューヨークへ、行くことはできないと思います。75歳の今だって、もう、嫌だもの。

 50代に、あの、3か月掛ける二回の、滞在の、苦労(というか、ヘイター方式と言う重労働が必要な、版画制作を、毎日、7時間から10時間、外人に交じって行っていた)をして置いてよかった。本当に、よかったと、おもっております。

 日曜美術館に戻ります。映像として、公園を散歩なさっている時、車いすを押す、男性が出てきて丸顔でした。それで、『ああ、きっと、親戚から、もらったとおっしゃっていたご養子さんだろう。弁護士をなさっていると聞いている方ね』と、思いました。でも、そのご養子さん一家と、同居ではないのですよね。すぐ、近所に、お住まいだとは、思いますが、同じ建物の中で、暮らしておられるわけではない。賢い形態だと、思います。

 2017年6月25日 雨宮舜 (本名 川崎 千恵子)

 なお、このブログの、2010年から数え始めた延べ訪問回数は、4098370です。

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島田章三が、CIAの【鉄砲玉+可愛子】ちゃんであるからこそ、ANAのsystem障害(16-3-22)が起きた

2016-03-22 21:09:31 | 文化、芸術、書物

   この文章は、16-3-23日いっぱいは、総タイトルを『島田章三氏は100億円を、私を弾圧する見返りとして受けている?・・+・・井上ひさし、森村誠一』としておりました。その時点では、私はANAのスパコンに起きたシステム障害の事を知りませんでした。しかし、22日の深夜(23日の早朝)に、それを知りましたので、総タイトルを2度目として、変更をいたします。

副題1、『総タイトルを、アップ2時間後に一度目として、変更するが、その理由は?』

 これは、2016年3月22日の、夕方6時15分ごろ、鎌倉雪ノ下の、わが家のすぐ近所で大原光孝(=細身のおしゃれな画家60代、このブログには、常連として登場する男性)さんと、出会ったことが、きっかけとなって、急拠アップする文章です。そして、2時間ほど総タイトルを、『大原光孝さんが動いたので、急に島田章三氏に関する複数のリンク先を明示しないといけなく成る』としておりましたが、23日の午前零時に、今のものへと変更をさせていただきます。と言うのも、大原光孝と言っても、一般の方は、知らない名前だからです。それで、一般の方向けには、不親切な総タイトルだったと、気が付いて、変更をしました。

 しかし、いわゆるCIAのエージェントとして、動いている人物たちには、先の総タイトルの方が、適切だったのです。彼らに、「そう言う風に動き始めたのですね。と言う事は、私が書いていることが正しいという傍証となりますよ」と、知らせるのが目的だったからです。

~~~~~~~~~~~~~

副題2、『大原光孝さん(創形卒)は、何を目的として動いているのか?』

 我が家では、室内が、全部盗聴をされていて、私の外出は、弾圧用に利用をされることが多いのです。で、私は用心のために、外出は、一応、すべてメモで、主人に知らせ、それで、外出することにしています。が、22日の夕方は、私の方は、島田章三さんに関する真実のうちのもっとも山場である部分を書き表せたので、すっかり安心していて、主人に何度も「外出をしますよ。鎌倉市内へ」と、室内で、言っておりました。それが、警察又は、暗闇の勢力を通じて、大原家に、直接入るのでしょうかね。それとも、安野忠彦氏の家、または、前田祝一氏の家に、いったん入り、その家を通じて大原家へ入るのかは、判りませんが、私は、五時ごろから外出の見込みを主人に言い始め、実際には、6時に外出をしたので、大原光孝さんは、すっかり、準備ができていたというわけです。

 最近、この山の人は、おしゃれをして外出します。それは、大変にみっともない前田祝一氏の後姿を、j-peg としてアップしてあるので、(後注5)、『これは、大変だ』となったみたいです。で、今日の大原氏は、赤いセーターに、黒い細いマフラー、黒いパンツに、黒い帽子と言う、彼にしては、極上のおしゃれをして、外出してきました。

 しかし、ここで、別の住人にも出会って、三人で、町内会のあれこれを、話す仕様になって行きました。それで、全員で三人で、立ち話をしたのですが、彼が私と目が合っても、挨拶をしないと言う事やら、こちらを、しっかりと見ないと言う事やら、頬がこけきっていて、まるで、骸骨みたいな相貌であると言う事から、勘案して、彼がある使命をもって現れたということが判りました。

~~~~~~~~~~~

副題3、『この大原光孝さんが使役をされた手法は、画廊香月にも、画廊るたんにも、安野夫人出現と言う現象などにも、しょっちゅう使われている手法なのだが・・・・・それだけ、島田章三の、真実を描かれたことが、彼等CIAのエージェントたちにとっては、痛いのだと、私には、判って来る』

 彼らは、それを良く手法として使うのですが、自分たちの味方を、第五位、または、第六位の鉄砲玉として、私の目の前に表させて、挨拶をさせず、無視すると言う事で、勝てると、思っているのです。この同じ手法が、画廊るたんで、サントリー学芸賞を受賞した学習院大学の教授を使って行われたのです。画廊るたんは、国画会だけが問題なのではないです。サントリー学芸賞も、問題にしていかないといけない場所なのです。

 で、私の方は一枚上手であって、そういう手法を取られることによって、真実を見抜いて行くという手法を取っております。

 画廊香月(銀座に急に表れて、有名作家の個展をしている、美貌の女性、九州で、テレビのMCをしていたという)の、ひとみさんが、その手法に使われて、難しい任務に、死相が現れるほど、消耗をしていた(後注6)のですが、本日の大原光孝さんも同じでした。

 彼は、私がブログを書いていることを知っていて、しかも、自分がたびたび登場をすることを知っているのに、頑固に、これを読まないみたいです。それで、香月さんの事をすでに書いているのに、全く同じ目的で、しかも、まったく同じ風に、骸骨めいた、相貌になりながら、それでも、任務を遂行しようとしているのですよ。しかし、彼が、現れて、挨拶をしなかったことで、島田章三さんをはじめ、いわゆるCIAのエージェントの一派が、相当に焦っていて、どういう手段でも、攻撃をしないよりは、した方がましだと、思っていることが判りました。だって、この手の手段は、すべて見破られていて虻蜂取らずになっていますよね。それでも、同じことをやってきています。大原光孝さんは、相変わらず、おバカさんだと、成ります。だって、島田さんを助けることには役立たないのですから。

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副題4、『ANAがシステム異常により、多数、欠航になりました。これも、ANAの株を持っている私に対する復讐策の一環であろうし、高崎線が、発電により、二日も休便したのも、この一環でしょうね。JR東日本の株は、主人が持っています。これは、旭化成建材疑惑と同じ狙いです・・・・・反対に、島田章三さんは、ありとあらゆる豪勢なことができる金銭(30年間にわたって、100億円以上をせしめています。・・・・・北久里浜の、ルネ北久里浜と言う秘密を内包したマンションを、瀬島龍三が、土地代をただで建設する為に、その秘密を知っている私を緩慢な策を用いて、殺すために。』

 しかしですね。私がそれを知らなかっただけで、その日には、ANAのシステム崩壊と言う大きな出来事が、ニュースとしてあったのです。手礼を見なかったので、まるで、知りませんでした。ANA側は、「外部からのハッキングではないです」って。なんでまだ、数時間たっただけで、そう言う発表ができるんですか? 無論の事外部からの侵入でしょうよ。

 これは、島田章三の真実を書いている私に対する恫喝です。ANAは、JALが国家予讃で、救済されたという時点で、煮え湯を飲まされたのに、こういう形で、もう一回煮え湯を飲まされています。

 そして、そう言う形で、島田章三さんは、助けていただいているのです。そういう社会現象が起きたからこそ、私が書いていることは、全部正しいでしょうね。彼は、横須賀市の莫大な、税金を、個人として、付与していただいただけではなく、国画会自身を、おもちゃにして、和田義彦の、剽窃問題などと言う事案を起こし、それで、多分ですが、それを、チクった人物を私だと言う事にして、東京周辺に住む、国画会会員が、私を軽蔑する様に、仕向けたのでしょう。非常にあくどい人間です。

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副題5、『もう一つ、平木さんの子供たちが、山中を舞台として遊ぶという現象があった』

 あのね、平木さんの子供たちと言うのは小学生です。だから、実名をさらしたくないです。しかし、そのあとで、大原さんが、夕方6時に、意味ありげに私の目の前に、表れた事、および、真夜中の大工事(音を多大に発するもので、ただ、重機をから回ししているだけのモノ)もあったし、その同じ日の朝から、・・・・・私は知らなかったのですが、・・・・・ANAのシステム障害と言うのが起きたですね。それから、次の日23日に、安野夫人がわざとタイミングを計って、私の目の前に現れたのと、大船駅の改札口に、イッコウと言う会社のガードマンが現れた事と、若宮大路で、予告なしの道路工事(私がバスで、とおり去ったらすぐ終わるはずのモノ)が、行われたと言う事で、気が付いたものだけでも、7個の復讐的、事案が、実行をされています。

 大小を言えば、ANAのシステム障害が、一番大きいのですが、その行動の意味がしっかりと、分かるのは、平木さんの子供と、お友達が、山中を舞台にして、遊ぶことです。私は外へ出て、チェックをしませんでした。春休みだから、遊んでいるのだと、考えておりましたからね。

 だけど、わが家の北隣の、大工さんが、子供たちに向かって、危ないよと、注意していました。それは、安野家の北側の畑で遊んでいた可能性を示唆しますので、周南事件が起きた直後と、まったく同じなのです。

 周南事件は、CIA(鎌倉エージェントと、私が呼ぶ人間の、うちで、井上ひさし、伊藤玄二郎、および、もしかすると企画段階から、前田祝一、安野忠彦などが、関わっている事件でしょう。あの直後とそっくりです。

 あの時点では、平木さんの子供たちは、前田家の教唆によって、安野家の裏庭で遊んでいると、判りました。が、今回は、ANAの、システム障害の事を、まったく知らなかったので、その遊びが、逆襲に利用されているとは、夢にも思わず、単に、春休みに入ったから、はしゃいでいるのだろうと、思いました。だから、その日には、取り上げなかったのですが、ブログ化しなかったことで、また、勝ったと、思い込んだ安野夫人が、23日、タイミングを計って目の前に現れた事により、平木家のお子さん方が、この山全体に、声が響く、それ程の、大舞台を使って遊んだということが判り、すっかり、周南事件の再現だということが判りました。

 あれも、死刑になったとされる保見容疑者は、やっておりませんが、スタップ細胞疑惑の、笹井芳樹さん殺し(自殺ではありませんよ)をはじめ、なんと大勢の人が、前田祝一氏等を、助けるために殺されている事か。そして、保見が死刑になった一審判決の、夕方、前田氏は、見たこともない着物姿(ただし、大島紬ではないと、見える。他の産地の紬でもないと見える。たぶん唐桟だ)で、外出をしていました。CIAちゃんたちの目論見が買ったと言う事で、大喜びをしていたのです。

 この青字で書いた部分が、24日の早朝、午前2時から、4時までに書いた部分であって、それから、初稿として書いた部分へ戻ります。

 上の方で、ANAが『侵入ではない』と発表をしたそうですが、どうして、たった、数時間でそれが判るのでしょう。警察から、そう言う様に命令をされたとしタラ、警察が、侵入してシステム障害を起こしたと言う事となりますよ。私のブログが、真実を、述べるたびに、ノーベル賞の委員会のパソコンにもホワイトハウスのパソコンにも侵入があったのです。また、GSユアサのバッテリーがたびたび発煙現象を起こしておりますね。あれも、外部からの侵入でした。今、それが、不安定だったら、誰もボーイング787を買いませんよ。バカげた事案です。

 こういうことを発案する連中の脳味噌の低劣な事、だから、私は、いつも、彼等をトカゲの脳味噌だと言っているのですが、本日(=23日の午後)、安野夫人が、目の前で、タイミングよく、植木の植え替えを道路でやっていたことも、もっとも、大きな傍証となりました。

 彼女は、同じようなことを、もっと、長時間観察できる機械にやっているので、私が、『あら、六頭身だわ』と、言う文章を書いていますので、二度と目の前に現れない筈なのですが、トカゲの脳味噌だから、一か月で、恥を、忘れ去るのでしょう。

@@@@@@ここが、24日の午前4時までに、推敲した場所です、これ以降は、24日の夜か、25日に行わせていただきます。

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副題6、『誰が間に立って、今回の命令を、大原さんに下したのか?』

 大原光孝さんが、【KURO】と同様な行動をすることで、たくさんのことが判りました。このKUROですが、犬ではありません。(笑い) 現代アート系の作家です。3月14日より始まる週に銀座で、個展をしていました。で、私は16日の水曜日に銀座へ一回目として出かけていて、彼と出会って、すぐさま、野見山暁次氏が、陰で動いていることが判りました。ので、『芸術院つながりで、島田章三さん自身から頼まれたのでしょう』と、このブログで書いています。それも、ほとんど真実だと、思います。島田さんは用心深いので、間に誰かを挟んでいる可能性はありますが、しかし、その人は、単なる伝達者です。

 KUROの方は、パソコンやらスマホを駆使する人間だと思います。ただ、個展前は、非常に忙しいので、フェイスブックかツイッターで、自分の宣伝をするのに精いっぱいで、最近の私のブログを読んでいるとは思いません。だから、命令される通りに動いております。で、KUROも、大原光孝さんも、私は、自分の文章が、正しい事を証明する、人材であり、エピソードとなると、考えています。

 大原さんの方に、誰が命令を下したかを、考えてみると、二つのラインから、彼が命令を受けた可能性を感じています。一つは国画会の方からです。間に誰かを挟むとか、挟まないとかに、関わらず、柏健(芸大卒で、創形の教授をしていました・・・・・リアルな場所で出会えば紳士です)氏を通じて、島田章三さんから、「私を助けるために、リアルな世界で、彼女を攻撃してください」という命令を受けたと、考えています。大原さんは、創形を卒業しています。間に、同じく創形卒であり、木口版画を通じて、師弟関係を結んでいる柄沢斉さんを挟んだか、挟まないか、は、判りませんが。

 私は直感的に、このラインを考え出し、30分以上総タイトルに、柏健と入れていたほどです。

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副題7、『井上ひさしと、森村誠一は、対立関係にあるのか? それとも、協力関係にあるのか?』

 しかし、前報に、井上ひさしと、入れていますね。彼が、森村誠一に嫉妬していた可能性をこれから書くはずでした。森村誠一の、小説のカバーを、和田義彦氏は、多数描いています。で、森村氏は、戦争反対であり、【九条の会】にも所属をしています。だが、潜在意識の中は、誰にもわかりません。都会派であり、洗練をされた容姿を持ち、逆玉結婚をしたらしい森村氏を、西舘好子さんと結婚をしていた時期の、井上ひさしは、ねたんでいたとも考えられます。

 これは、森村誠一が、直木賞をもらっていないみたいなので、こういう推理をしています。で、井上ひさしは、直木賞受賞を阻害しただけではなくて、森村誠一の小説本に、一種の傷をつけることを狙って、和田義彦氏を使ったという説です。井上ひさしは、公的には、死んだことにしていますが、まだ、生きて地下潜行をしています。

 で、それを私に、書かれる前に、書かせないがために、私をいじめようとして居て、過去に使ったありと、あらゆる手口を再度使おうとしていると、考えると、彼は、伊藤玄二郎を通じて、または、直接に前田祝一氏に、連絡を取り、「大原光孝さんを動かせ」と、言うかもしれません。特に過去使われた手法として、鶯吟邸(八幡宮様の持ち物であり、私の家の東南に当たる山すそに、庶民の知らない特別な、駐車場がある)がある方向から、真夜中の、工事音が、聞こえてきました。これは、このブログが、真実をついて、彼ら、鎌倉エージェントが困り抜いた時に、恫喝用に、使われるものです。何回も繰り返されました。だが、私はこれも、反対に、利用をしています。脅かされるよりも勝利感を感じています。『おお、私は、また、一里塚を進んだのだ』と、感じています。

 しかし、ここですが、事は、もっと複雑なのかもしれません。文章が難しくなりすぎますが、トライをしてみましょう。

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副題8、『文春側は、角川春樹氏に、脅威を感じていたかな?』

 しかし、森村誠一氏が、直木賞を受賞をしていない理由に、別のものも考えられます。それは、文芸春秋社が、角川春樹氏を、脅威と感じていて、それを、素早く察した、井上ひさしが、それを、利用しまくって、森村誠一氏の直木賞受賞を阻止したと、言うポイントです。

 角川春樹氏は、一種の異才と言うか、天才であって、父の創設した出版社を、ぐっと、異質のエンタメの方向へもっていき、莫大なもうけを上げた人物です。そのタネとして森村誠一氏の、小説は多大な貢献をしています。

  で、森村氏は、ハナから、直木賞受賞はあきらめていて、それとは別として、井上ひさしと、仲良くしていると、言う考え方です。

 で、仲良くしているので、この和田義彦の、剽窃問題にも、事前に、相談を受け、納得をしていて、了承をしていたと、言う考え方です。

~~~~~~~~~~~~~

副題9、『ここまで、考えて来ると、いよいよ、和田義彦氏の剽窃問題とは、作り上げられた謀略であって、和田氏は、島田章三を救うために、身を挺したと、考えられる』

 私は前報の中で、日本の美術界にとって、剽窃の問題などが、真剣に取り上げられたことはないと、言って居ます。丁寧に、しかもまともに、見て行ったら、上野、六本木、そして、銀座で、50件以上、そっくりな絵は、見つかるでしょう。剽窃のチェックなんて、ほとんどないと言っていいほどの、甘い世界です。

 で、この問題の、発端はやはり、井上ひさしだったでしょう。最近の、諜報活動の、すべてに彼のアイデアを感じている私は、これも、見事にその路線に、沿っています。

 でね、スタップ細胞疑惑が、表だって使われる前に、12年ぐらいの準備期間があったと、私は語っています。こちらの和田義彦のケースの方も、三年は、発表せずに、準備をしていたでしょう。和田氏が、スギと言う人物とそっくり同じ絵を描いていたというのは、仕立て上げられた事実であって、スギ氏が、イタリアで、描いたとされている原画の方も和田氏が描いていたのかもしれません。

 つまり、ここで、はっきり言ってしまうと、島田章三氏は、実質的トップとして、国画会から、多大な利益を得ておきながら、それを、裏切って、その名誉と、尊厳を失わさしめたのでした。これが、鎌倉エージェント内に存在する、特権者たちの実態です。島田章三氏は、あまりテレビに出ませんね。テレビに出ると、自分の人間としての実態が、明らかになってしまうからです。庶民はマスコミ操作で、持ち上げられて居る人の正体をすぐさま見破ります。『王様は裸です』と、言い始めるでしょう。それを恐れています。

 事件が起きた当時から、島田さんは、明らかに弟子筋だと、思われる和田義彦さんをどうしてかばわないのだろうかと、不思議でしたが、別の目的がある、諜報的事件なら、炎上した方が好都合だから、何も言わなかったのでしょう。ずるい、ずるい、人物です。そして、私は多大な被害に、出会いました。ふむ、ふむ。

 でもね。島田章三さんには、子供がいないです。ある意味で、普通の人が味わう幸せと言うのは、まったく理解できなかった人でしょう。

 では、何を目的に、こういうことが案出をされたかと言うと、それは、前報で、少し語っていますが、私がチクったことにしたいからでした。彼等は、私を弾圧できる唯一の方法として、私をノイローゼにする策を、用いています。そのために、出会う人、出会う人ごとに、失礼な態度を取られ、私が無視され、いじめられる状況に置けば、それが、可能だと、考えられています。

 その実行部隊として、総計、1500人か、2000人の名簿がある、国画会は、非常に有効な組織だと、考えられています。

 これは、なりすまし疑惑で、なんと、私が、別の人に乗っ取られ、25万円をフィリピンに送れという、メールを英語で書いて、送った事にされていますし、この世は嘘が蔓延をしているのです。

~~~~~~~~~~~~

副題10、『私は、人間分析が好きで、哲学的問題を解くのが好きなのだ』

 私は、最近では、ほとんど、政治の問題を解くことに専念をしております。これも、一種の政治問題です。だが、本当は、哲学の分野の事が好きで、国画会内部で、見聞をしたことも、それから、それ以外の、世界で見聞をしたことも、含めて、人間とは何ぞやと言う事を、問い、その答えを見つけるのが好きなのです。で、直前の章(後注4)など、その典型であり、私はそれを書くのに、相当に、エンジョイしていて、ゆったりとした、自足の念に満たされておりました。で、そこでは、政治の問題を一切入れていないのです。

 それは、深い自足の念があったのと、西野晧子とか、藤田吉香などと言う、政治とは100%無関係で、かつ紳士的、淑女的にふるまう人の名前を入れないと、いけなかったので、そう言う手配をしたと言う事もあります。が、入れないとだめだと、言うことが判りました。それが、大原光孝さんの出現で、判ったのです。しかし、井上ひさしたちは、『隙あり、一本取ろう』と考えたのでしょう。なるほど、彼等の、やりそうな事だと、思い当たります。

*:-*:-*:-*ー:*:-*:-*:-*:-*:-*:-*:-

 で、過去に書いた、リンク先をこれから上げていきます。

 最近書いている一連の、島田章三に関する文章の中で、最も重要なのは、後注1です。

後注1、

70年代に既に、版画一枚が8千万円で、市に買い上げられて居た【島田章三】の陰に居る悪者達☐     2016-03-19 06:22:19 | 政治

 この中で、私は、島田章三さんが、いわゆる、エージェントに悪利用をされて、私を弾圧する一種のタマとなっているのを解説しています。それ故に、お礼として、横須賀市から、最低でも、80億円ぐらい最高だと、市立美術館の建設費を入れて、150億円ぐらいが渡っている筈で、したがって、

 非常に近隣市民から嫌われていて、大沼嘉津江さんと言う実妹は、大悪口を言われていると、書いています。

 しかも、周南事件(保見)、洲本事件(平野)、寝屋川事件(山田)、熊谷事件(ナカダ・ルデナ)などの、犯人が一応上がっている殺人事件は、みんな、その犯人ではなくて、別の人間が殺しているはずだと、言って居ます。

 外国における、シャルリーエブド事件とか、

後注2、

70年代に既に、版画一枚が8千万円で、市に買い上げられて居た【島田章三】の陰に居る悪者達☐

2016-03-19 06:22:19 | 政治

 後注1の中で、描き切れなかったものをこちらに移動をさせているのですが、まだ、未完成です。どこがと言うと、 

 島田章三を、今関一馬と、対比するところがです。しかし、大原光孝さんが動いたので、これを、もうっ回おぼえてお居て、置いて、ください。

 今関一馬先生と、島田章三との、ライバル関係がどうして、生じたかと言うところが論じてありません。近々完成させます。

後注3、 

のび太のどこでもドアと神隠しの話。現代政治の真実の一つを夢から語って行きたい。  2016-03-13 08:42:17 | 政治

 特に副題7が重要です。

後注4、

国画会剽窃事件・・・・井上ひさしの森村誠一に対する嫉妬が裏にある?(島田章三、草間彌生、渡辺眞利)  2016-03-21 07:12:40 | 政治

後注5、後で、探しておきます。 

2016年3月22日

 なお、このブログの、2010年より数え始めた延べ訪問回数は、3425000です。雨宮舜 (本名 川崎 千恵子)

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寺島しのぶの、圧倒的な真面目さ・・・・しかし、正直である事は、30過ぎには厄介な事ともなる△△

2016-03-12 03:51:19 | 文化、芸術、書物

 今は、12日による9時半ですが、二つの項目だけを追記します。で、それが終わったら総タイトルに、△印を二つつけておきます。

 

*1)・・・・・ これは、短く書きます。寺島しのぶは、頭がいいし、まじめな人です。しかし、まっすぐに進みすぎるし、正直に過ぎます。

 そのことは、長らく、父である、菊五郎の、懸念の対象であったと、思います。でも、菊五郎は、その心配で、病気になることはなかったのです。お嬢さんは、種々の、心配事を、父親に、浴びせかけてきたとは思いますが、それでも、菊五郎は無事でした。私は寺島しのぶの演技は、テレビで見ただけです。しかし、彼女は映画では、思い切った演技に踏み込んでいるそうで、それは、父親としては、心配の極致だったと、思います。

 ですが、その都度、親子で、解決しあってきたので、段階を追って、免疫ができていた・・・・・のでしょう。

 しかし、このたび、菊五郎が、胃潰瘍で倒れたと言う事は、私に言わせると、いたいけな、お孫さん(特に、2~3歳の、幼さだと、思われる二人の男の子)が、心配だったからだろうと、私は前報で言っています。

 菊之助のお子さんの方が、五月に、歌舞伎座デビューをすることが決まったと、3月4日にNHKが報道をしています。それは、五月の、演目に関する記者会見の場だったそうですが、お子さんも来ていたので、時間的には、相当前に決まっていた事でしょう。

 それをだれが決めたかと言うと、松竹さんの、幹部たちだと、思います。まさか、菊五郎と、菊之助が、出したいと言ったわけではないでしょう。たまたま、瓢箪から駒と言う形で、とんとん拍子に話が進んだのだけれど、よく、よく考えてみると、

 その決定によって、新たに、寺島しのぶ家の、お子さんをどうするかと言う問題が起きてしまったのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~

*2)・・・・・ 菊之助と、寺島しのぶは、実の兄弟ですが、その配偶者が、違うので、形成している家庭の雰囲気がまるで違うから、菊之助のお子さんに当てはまることが、即、寺島しのぶの家でも、通用するかと言うと、そうでもないからです。

 しかし、私は、その文章の中で、大切なことを書き洩らしていました。前報で言った通り、今年の2月2日の節分の日に、二才から、三才の、男の子が三人ほど、カラフルな衣装の大人たちの中に混じって、黒紋付きのはかま姿で、豆まきをしましたが、そこから、寺島しのぶのブログの存在を、観客の一人に教えてもらい、そこへ入ったと、前報で書いています。

 その時に、私は、彼女の小さな一人息子 Mr.Mが、歌舞伎界に進むべきかどうかを、じいじである菊五郎は、心配しているのだろうと、書いています(後注1)が、実は、私自身の危惧は寺島しのぶそのものへも向ったのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、・・・・・私がそうだというわけではないのですよ。だけど、世間には、冷たい人もいて、エンターテインメント業界の人を一段と低く見る傾向もあると、思います。

 でね。そこから、巨人軍の、野球賭博の問題の、特に高木京介選手の記者会見に関して言えば、『あれ?』と、思うほど、変な部分があるのですが、
まあ、それは、別の日に、詳細に論じるとして、

 野球選手とか、相撲とりとかは、一段低い存在として、政治に、利用されきっているのを見るわけです。おお相撲界での、種々の疑惑(2009年度)も、プロ野球選手の、野球賭博問題も、現在の特権階級たちが、自分たちの都合のよい様に、世論を誘導して、自分たちが、助かる様に、それらの、人材を動かしているのが、私には、見えるのでした。清原選手も、その逮捕のタイミングに関して言えば、彼にとっては、損である方向へ、利用をされている人物だと、見ています。だから、ある意味で、かわいそうです。後注2へ

 歌舞伎界は、それらと比較をすると、守られていると思います。大勢のファンが居て、その中には、多数の文化人もいるわけですし、内部に諸問題があるとしても、大きな一つの家族みたいな経営をなされているし、松竹も事業体として、相撲協会よりもはるかに大きいからです。

 ところで、野球界ですが、巨人軍も大きな会社だろうし、西武も大きな会社だろうし・・・・・なのに、意外と、選手が守られていないのですね。とても、低いものとして扱われています。これは、どこに問題があるのか、後で、再考しないといけません。だが、ここではそれは置いておいて・・・・・

~~~~~~~~~~~~~

*4)、・・・・・寺島しのぶに戻ると、まじめで正直な人だと言う事が、ブログからわかったのだが、まじめで、正直だと言う、その事自体が、心配になる。

 いわゆる老婆心の発露だと、思うのですが、正直であると言う事が、今の日本では、通用し無い事が多いので、心配になるのです。

 私自身も、正直な方で、大きく損をしてきました。ただ、70歳を過ぎると、高齢化したことからくる、幸福感と言うのがあるらしくて、何事も肯定する様になるのですね。「損をした人生だったが、それでもいいわ」となってくるのです。

 しかし、寺島しのぶさんは、まだ若い。この正直と言う事は、10歳ぐらいまでは、すこぶる付きの美徳なのです。そして、いい環境に生きていると、それが、25歳ぐらいまで、美徳として通用します。寺島しのぶさんは、青山学院大学を出ているみたいですが、小学生の時から青山学院に通っていたとすれば、相当に、いい環境で育ったと成るので、これで、よかったのでしょう。で、今までは無事に生きてきました。

 しかし、現代日本社会は、それほど、いい社会でもなくなっているのです。美徳が、はびこっていなくて、悪徳がはびこっている社会でもあるのです。【じいじ】でもある菊五郎は、孫の事で、心配が余って、胃潰瘍になったと、私は推察しているのですが、私自身は寺島しのぶの方が、心配になって来て、しまいました。

 いたいけな小さなお子さんの方ではなくて、ママの方が心配になってしまいました。

~~~~~~~~~~~~

*5)・・・・・Publisher's dream と言う事があってね。ハリーポッターは、これまた、ICU時代の、私の同期生が、出版をしていますね。

 静山社の、松岡佑子さんは、国際基督教大学の280人ぐらいいる私の同期生の一人です。そして、ご主人と一緒に、難病関連の出版物に取り組んでいたのですが、ご主人が1979年に、亡くなった後で、行動力が出て(と言うのは、動きが自由になって)イギリスに飛び、ハリーポッターの著者に、直々に訴えて、翻訳と出版権を獲得し、ご主人が作った出版社を、儲かる会社にもっていった人です。

 ところで、もし、私に、本当の自由があって、誰にも妨害を受けない身だったら、今、すぐ、寺島しのぶと、面会をして、「あなたの、ブログの中で、Mr.Mに関する記述部分だけを、選び出し、それを纏めて、二年後ぐらいに、出版したいのですが、ここで、約束を交わしましょう」と、言う筈です。つまり、契約書を交わしてしまうと思います。しかし、実際には、裏から手を回されて、成功しない様に、されてしまうと思うので、そう言う手を打ちません。

 でも、それほどに、魅力のある観察を、お子さんに対して向けています。でも、それも、老婆心でいうと、ある意味で、心配なのです。すばらしい記録ですが、心配の対象でもあります。

 それ以外にも正直である事に対する心配は、ありました。『どうか、神様、寺島しのぶ一家に、お恵みを与えますように!』と、祈らざるを得ません。

:::::::::::::ここから先は、12日に追記する部分です。

*6)、朝日新聞の、土曜日の付録版b-10【言わせてもらお】などにも、それが、載っていることがありますが、子供の発言には、はっとするほどの面白さがある時が、おおいです。。本日2016年3月12日版にも、5歳の男の子の発言をパパが拾ったものと、6歳の男の発言を、じいじが、拾ったものがありました。両方とも、私は笑い転げました。・・・・・それは、事実です。

 しかし、子供の発言が、どんなに利発で面白いものであっても、ママの、方に、それを、感知し、発見して、掬い取る感性が無いと、文章として、外部には出てきません。そして、この場合は、そのママが、有名人であり、かつ、ブログなどをやっています。すると、一冊の本にまとまるほどの、分量が、たまっていきます。そして、この場合は、子育て中のママたちに、受け入れられる本ともなるだろうし、芝居や、映画が好きな人達には、寺島しのぶの、演技論を紡ぎ出す、示す好個の材料にもなるしで、一冊の本にまとめあげるのは、意義があると、思います。しかも、後2年が限度でしょう。お子さんの、方に、自我が出てくる年齢になると、『世間に向けて、彼の日常茶飯事を、公開してもいいだろうか?』と、言う疑問を、寺島しのぶさん自身が、持つようになるだろうからです。そうですね。小学校に上がったら、自分と息子の為に、それを、書き留めて置くのは、いいけれど、ブログとして、世間には、公開しない方がいいと思います。私の姿勢は、慎重主義ですが、寺島しのぶ自身ではなくて、お子さんの事ですから、慎重主義が、いいと思います。

 と、私は前の日に文章を書きながら、思ったのですが、「その五歳までの、ほほえましい母子間、会話を、一冊の本へ、纏めたらいいですね」という案を、企画として、寺島しのぶさんのところへ、持っていくことはなかったのです。

 最近の私は、自分の被害ばかり語っていますが、そう言う被害を、数多く多方面から受けております。それらを、一本の、ブログ内では、よくよくの事ではないと、総タイトルのテーマとしては、上げず、裏に置いて、このブログは、書かれております。

~~~~~~~~~~~~~

*7)、歌舞伎界には、まったく関係のない家で、5歳の坊やが、「さは、さりながら」と、静かにも、確実に、親への反論の意味を込めて、つぶやいたので、一家中が仰天をしたそうですよ。それを、私は、そのお子さんの、じいじに当たる人から、聞きました。

 ある家に、男ばかり、三人のお孫さんが居ました。ご両親は、健康で、富裕であるので、お子さん方の年齢は、ちょうど、愛だが一年と言う形で、上から、5歳、3歳、1歳という年齢構成だったそうです。じいじも、パパもママも、偏差値上位で、しかも、富裕層が通うお坊ちゃま、お嬢ちゃま大学を卒業しているので、テレビに子守をさせている様な家ではないと、思われます。

 つまり、上流階級の、梅クラスということかな?

 この若くて、美形で、頭の良いお嫁さんに、三人のお孫さんのうちの誰かに対する偏愛があったのか、どうかは、知りません。特にお兄ちゃんがいつも、心理的な疎外を、受けていたかどうかを、私は知りません。ただ、満座の中で、お兄ちゃんだけが、叱られたのですね。弟と、何かの取り合いをして、お兄ちゃんの方が「あなたは、お兄ちゃんだから、我慢をしなさい」と言う様な言葉を、与えられてしまったというわけです。

 この一家は、じいじ、も、パパも、紳士だから五歳のお子さんも、「いやだー」と、叫ぶ様なことはしないのですよ。ただ、うつむき加減に、「さは、さりながら」と、言ったのです。

 これは、20年前の話です。私はね。それは、きっと、パパとママの気が付かない時間帯で、この坊ちゃんは、テレビを見ていて、そして、番組は、時代劇の再放送だったのだと、しました。しかも、4歳か、5歳で、100%正しく、筋を理解をしていると言う事です。しかし、私は、自分の考えを、その字維持、に当たる、紳士には、告げませんでした。 

 じいじが、じいじとして、孫の、頭の良さに、簡単をしているのを黙って、受け止め、聞いておきました。

2016-3-12 雨宮舜(本名 川崎 千恵子)

尚、このブログの、2010年より数え始めた延べ訪問回数は、3406095です。

後注1、

五代目雀右衛門襲名を、見てきましたが、気にかかるのはやはり菊五郎の休演で△   2016-03-11 01:55:54 | 文化、芸術、書物

後注2、

清原も、北朝鮮も、同じ目的で使われている。それが、最も明瞭に分かる茨城県知事の優遇   2016-02-07 22:22:10 | 政治

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五代目雀右衛門襲名を、見てきましたが、気にかかるのはやはり菊五郎の休演で△

2016-03-11 01:55:54 | 文化、芸術、書物

 私は凝るとなると、凝る方だと、申しあげております。それでね。歌舞伎に凝るとなると、急速に、事情を知りたくて、俳優名鑑などを、古いものとか、新しいものを買い求めております。そして、実際の舞台も見ないといけないとなっていて、今月も、先週、4日(金)に昼の部を見て来て、10日(木)には、夜の部を見ました。

 でね、いつも書いているものと、まったく調子が違いますが、

 まず、菊五郎の、休演について、書きかけて、それをひっこめてあります。そちらをもう一回曝してみます。

~~~~~~~~~~~~~

副題1、『有名人の、病気報道には、嘘もあると言われるが、ここでは、私は報道通りだとして、話しを進めたい』

 有名人、特に政治家の病気報道には嘘が含まれていると、言われています。大体、真実より軽く報道をされると、言われています。だが、ここでは、私は報道が真実であり、菊五郎は胃潰瘍で、おなかが痛くてたまらなくて、休演したと、言う事で、文章を書き進めさせてください。

 病は、気からと、よくいう様に、この胃潰瘍も、何らかのストレスが、起因となっていると、考えます。菊五郎の普段の生活にもストレスは、いっぱいあったと思いますが、ここにきて急に引き金を引いたのは、孫の事だと、見ています。

 NHKが2016-3-3にニュースとして、菊之助のこども、【かずふみ】君が、歌舞伎デビューをするのだと、報道をしました。その時に違和感を持ったのです。だが、あまりにも小さい時に舞台デビューをさせることへの違和感は、すでに海老蔵のこども【ほりうちかんげん】君が、一か月の公演中、口上を述べたのを知っていますので、それについて、書いた過去分のブログを探していて、書くのが、途中で止まってしまったのでした。それは、後注2に置いた文章で、その中で、『二歳八か月で、ここまでの事をさせるのは、どうかなあ?』と、述べていたのを、ブログだったと、誤解をしていたのでしょう。

 最近の、NHKテレビに出てきた、菊之助のお坊ちゃまは、海老蔵のお子さんよりも、もっと幼い感じなのです。月齢も、海老蔵のお子さんより小さいし。

 そして、お母さんですが、吉右衛門の娘さんだそうなので、歌舞伎の事もよくわかっているでしょうが、海老蔵の、奥さんである、女子アナだった人に比べると、一般人ですよね。だから、お子さんも、一般風に育てていると、思います。で、押し出しと言う意味では、海老蔵のお子さんには、劣るのです。しかし、子供としては、どっちがいいかは、判りませんよ。

 そして、このいたいけな坊ちゃんが、五月にデビューをするのだそうです。二月二日だけ、祝祭的に、舞台へ上ったというわけではないのです。菊五郎は、じいじとして、心配だったのではないかしら?

  で、胃潰瘍になったと、推察します。ただ、その坊ちゃんだけが、心配なのではなくて、ちょっと、月齢が大きい、寺島しのぶの方のお坊ちゃまも、心配だったと、私は推察します。

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副題2、『2月の歌舞伎座には、総勢121人の俳優が出演しているのだった』

 私はパンフレットが充実していると、嬉しいのです。ニューヨークのメトロポリタンオペラのパンフレットは、サイズは、超小型(新書サイズ)だけど、中身は、フォントが小さい活字びっしりで、充実しています。寄付者の名前まで出て居ます。(苦笑)

 さすが、資本主義大国だと、思います。年間を通じて巨額の寄付をしている人物や組織があるのです。 そういう大金持ちは、食堂(スペースは、小さい)のウエーターが、名前を憶えているのですよ。

 で、歌舞伎座のプログラムは、【筋書き】と言う名前で売っているのですが、資料として、結構なレベルで、充実していて、ありがたいです。映画のプログラムが駄目なのは、本当に残念です。

 で、顔写真を見ると、二月の舞台には、総勢、121人がキャスト(演技者)として、関わっていたのでした。そのうちの38人が、名前が、有名な人たちです。そして、チラシに、名前が載ったり、プログラムの、筋がきの部分に、傾城・兵庫屋・八橋=菊之助と言う風に、役の名前と、自分の名前の両方が、載る人たちです。

 その次の37人は、注意深く、見ていると、プログラムにも名前が載っているし、舞台上で、せりふもある人達です。しかし、親が、歌舞伎界の人ではないと、見える、人材が多いです。弟子として、修業をしたり、研修所で、修業をして、歌舞伎俳優になった人たちです。

 さらに、顔写真の小さい人達が、46人います。こういう人たちは、舞台上に出て居ても、私には誰が誰なのか、特定は、できません。若い人たちが多くて、やはり、親が歌舞伎界ではない、人達です。こういう人たちが、幹部俳優になるためには、有名な俳優で、養子を、とってもいいと、思っている人の養子になるのが、ベストな道なのでしょう。

 玉三郎も、愛之助も、そう言う道筋を歩んだ人です。

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副題3、『名門に生まれると言う事は、メリットもあるが、マイナスと言うか、重圧もあるだろう』

 ああ、ここで、急に思い出しましたが、海老蔵の、お子さんが舞台上であいさつをしているときに、後ろで、嫌な顔をしている若手俳優が居たのです。『それは、そうだろうなあ』と、思うところもありますよ。修業を重ねて、自分には、実力があると、思っているのに、いい役はなかなか付かない。そこへ、たった二歳で、主役を張る坊やが出て来て、大勢が、ちやほやの限りをしているのを見たら、『自分が今まで、やってきたのは何だったのだろう?』と、思う若い人が出てきてもおかしくないです。

 菊五郎の病気は、そう言うところも、わかるから、始まった可能性もあるのです。

 菊五郎は、菊五郎劇団と言う大カンパニーを率いている統率者だから、若手で、親が歌舞伎俳優ではないひとの、気持ちももちろん、判るでしょうし。

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副題4、『2月2日の豆まきの日に、舞台上には、大勢の衣装を着けた役者が並んでいた』

 本日、新雀右衛門の襲名を寿いで、他の俳優が、自分の考えたお祝いの言葉を述べる、口上と言うのがありました。それは、幹部俳優が出演すると言う事で、舞台上には、プログラム内では、主役を除いて、19人がお祝いを述べることになっていましたが、菊五郎の休演が続いていたので、18人がお祝いの言葉を述べました。

 これは、総員が裃姿です。

 しかし、2月2日に、節分の豆まきを見た時には、舞台上には、自分の役に使う衣装を着けた俳優が50にんぐらい、ずらっと、並んで居ました。顔写真として、特大で、プログラムに載って居る人達だけではなくて、中ぐらいの大きさで載っている俳優さんも舞台上に居たと、推察します。別にカメラで、撮影をしたわけではないので、はっきりとは、しませんが・・・・・

 その大勢のカラフルな衣装の、大人の中に混じって、黒紋付きではかま姿の、ちっちゃい、俳優(?)三人が、出て居たのですね。間隔を、10mぐらい開けて。セリフは、無しで。「大人の、ひざぐらいの背丈かな」と言うほどの小さな感じなのですが、しかし、黒紋付きで、はかま姿だから、ひどく目立つのです。

 ただ、そのお子さん方は、プログラムの中でも、何も、名前等は、紹介をされていないし、舞台上での、紹介もないし、場内放送での紹介もないので、どういうお子さんなのかが、さっぱり、私には、判らないのです。この2月2日の時点では、まだ、菊之助のお子さんは、NHKニュースには登場をしておりませんし。 

 で、終わって、ロビーに出てから、一人で、来ているらしいお嬢さんが居たので、「あのお子さん方は、どういうお子さんなのですか?」と、質問をしてみたのです。すると、「右側に居たのが、【かずふみ】君で、真ん中が、【まひろちゃん】で、左側のお子さんが、亀三郎のお子さんです」と、彼女が答えたのです。

 私はびっくりして、「まひろちゃんって?」と、質問をしました。すると、彼女は、「寺島しのぶのお子さんですよ」と、答えたのです。
 私はさらにびっくりしながら「そういう事って、ネットで判るのですか?」と、質問をすると、「そうです。寺島しのぶは、ブログを書いています」と、そのお嬢さんは教えてくれました。

 ~~~~~~~~~~~~~~

副題5、『寺島しのぶの、ブログへ入ってみた結果、判った事』

 私はね。寺島しのぶのブログから、いろいろなことを教わりました。しかしですね。今は、その全部を語ることはできません。でもね。圧巻としてわかったのは、

 非常に正直な人だと、言う事です。それで、『是では、菊五郎は、まず、お嬢さんの事が、心配なのだろう』と、思いましたね。男親は娘がかわいいと、言います。しのぶさんの事は、本当に心配をしていると、思います。しのぶさんは、芸術家気質だから、なんにでも挑戦をするけれど、それでも、父親としては、心配していると、思いますよ。

 しかし、病気で、休演をせねばならなくなったのは、お孫さんの方の事だと、思います。寺島しのぶはお子さんの事を、まひろちゃんとは、呼んでいなくて、Mr. Mと、呼んでいます。だから、歌舞伎座のロビーで、この坊ちゃんの名前をすらすらと出したお嬢さんは、よほどの、通なのでしょう。ファン気質の強いお嬢さんだと、思われます。

 ともかく、しのぶさんの投稿を読むと、Mr.M は、利発で、面白い発言をたびたび、します。で、年齢が、菊之助のお子さんよりも高い様に、見えます。

 でね。五月に、菊之助のお子さんが、歌舞伎座デビューをするとなると、当然、「僕はどうして、でないの?」と、こちらのお子さんが、ママである、しのぶさんに、質問をする可能性があるのです。

 これは、とても厄介な問題です。他人の私が傍から見ても、それが、判るぐらいだから、実際の祖父である、菊五郎は、どれほど、心痛しているでしょうか。想像するだに重い問題です。

 それは、Mr.Mのお父さんがフランス人であって、自分のお子さんを歌舞伎俳優にしたいのかそうではないのかが、判らないからです。その人に、「どうおもうのか?」と、ここで、聞いても、パパ自体が、まだ、判断ができないと、言うのが、今の、段階でしょう。

 で、もしと言う仮定ですが、あの豆まきの日のごとく、軽い気持ちで、Mr.Mも、歌舞伎座デビューを果たしたと、します。そしたら、それはそれで、厄介な、事なのです。Mr.Mが、いろいろな面で、菊之助の子供より不利になるからです。ハーフであることは問題ではありません。明治時代の名優に、ハーフの人が居たと、聞いています。

 ただ、パパは、歌舞伎界での後ろ盾には、現在も将来も、ともに、なれないだろうし、お母さんは、自分の仕事で、忙しいです。子供を一流の歌舞伎俳優にするためには、お母さんは、ものすごい量で、奉仕を、しないといけないでしょう。それは、寺島しのぶには、できない役割だと、思います。だから、お子さんが不利になるのです。

 大変ですね。人間国宝にして、文化功労者と言う大存在にも、あの小さな、二人の、お孫さんの将来とか、進路がネック(今の悩みの種に)になっている。かわいそうですが、私には、助けてあげるという意味では、何もできません。

 雀右衛門の襲名についても感じるところはありますが、それは、言わないで、置きます。

 なおこのブログの2010年より数え始めた延べ訪問回数は、3404421です。

   2016年3月11日、雨宮舜 (本名、川崎 千恵子)

 後注1、

歌舞伎座で菊五郎の病気を聞き(3月4日)、寺島しのぶのお子さんも見た(2月2日)  2016-03-04 21:06:00 | 政治

後注2、

 

天才玉三郎の、老後の問題 + 松竹と吉本の鞘当て?の犠牲になった?岡村君△   2015-11-18 20:54:51 | 文化、芸術、書物

 

 


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天才玉三郎の、老後の問題 + 松竹と吉本の鞘当て?の犠牲になった?岡村君△

2015-11-18 20:54:51 | 文化、芸術、書物

  今は、19日の午後5時です。次報を書き始めていますが、三時間程度、中断をしたいので、その間、こちらをお読みいただいておくと、助かります。下の文章は、19日の午前三時に完成をしておりますので、お勤めのある方は、未読だと、推察しますので、どうか宜しく。

副題1、『海老蔵の、2歳の長男、初お目見え』

 11月分の歌舞伎座は、夜の部のチケットは、あっという間に完売だったそうです。16日ごろ買いに行ったら、もうありませんでした。それで、夜の部はあきらめて、昼の部の前売り券を買っていたのに、当日が来た2日には、それを見るのを忘れてしまいました。旭化成問題が、緊迫をしていたからです。で、すっかり、歌舞伎ムードからは離れていたので、前売り券の事は忘れていました。

 で、仕方がないので、また、一幕みで、私は、見ているのです。その話題の中心、海老蔵の長男、二歳(正式には二歳八か月だそうです)の、かんげん君が、出て来て、「ほりこし・かんげんでー、ござり まちゅるー」という場面が、有るので、完売だった模様ですが、それも先週すでに見ましたよ。まあ、かわいいです。劇場全体が、思わず、涙するほどかわいいです。

 それは、なんと、その二歳の【かんげん】君の為に新作として、作られた、作品で、総タイトルを【江戸花成田面影(えどのはななりたのおもかげ)】と言うのです。そして、今月の出演者の内、幸四郎、左団次、友右衛門、を除く、御大たち、藤十郎、仁左衛門、菊五郎、梅玉、染五郎、松緑が、出演者として付き合ってあげていました。豪華絢爛たる出演陣と言う事です。それは、NHKニュースが紹介したほどでしたが、それも、一幕みで見ました。

 歌舞伎の演目で、その月にあたっていて、評判の良いものには、大向こうから掛け声が盛んにかかります。私が、もっとも強く、それに、気が付いたのは、思いがけずも、【怪談牡丹灯籠(7月の演目)】でありました。それは、世話物、しかも脚本は文学座向けの新版だから、普通なら、掛け声が少ないはずなのです。と言うのも、見えを切る場面が少ないので。でも、面白かったので、すごいレベルの掛け声がかかりました。

 むろんのこと、御殿の場面が登場する【名物伽羅先代萩】などでは、見えを切る場面が多いので、掛け声は、おおくかかりますが、【牡丹灯籠】が、どれほど、面白かったかがわかります。

 で、初めて、坂東玉三郎って、頭がいい人で、まじめなのだと、判りました。非常に遅い目覚めですが(苦笑)。それは、筋書(一般の言葉でいうとプログラム)の中で、知ったのですが、この演目を選んだのが、玉三郎で、それは、香川照之(歌舞伎俳優としては、市川中車を名乗っている)を、生かすための、選択だったらしいのです。確かにセリフの多い劇で、劇的表現に優れている中車と、こういうセリフの多い劇だと、普段よりさらに、表現に優れて来るみたいに感じる玉三郎の掛け合いが、見事でした。また、中車は、まだ、見えを切る時代ものよりも、心理描写の面が、大きい世話物の方が生きるのでしょう。玉三郎は、『ふるあめりかに、そでは、ぬらさじ』も好演したそうで、それを見たかったなあと、いまさらながらに思っております。それも、文学座用の脚本を使っているそうです。

 その玉三郎は、歌舞伎とは無縁の、一般家庭の生まれの人で、いわゆる御曹司ではありません。海老蔵の長男の二歳の【ほりうち かんげん】君とは対照的な位置にいる人です。でもね、その掛け声のかけ方の面から見ると、歌舞伎って、ファンと俳優の交流が、緊密な場で、ファンが参加できる場なのだと、知りました。ごひいきの俳優の見せ場が来ると、みなさんが、拍手喝采なさるのも、非常に砕けた楽しみ方ではありますし。だから、人気者海老蔵の、子供が、二歳で、舞台に上るのもありなのでしょう。

 でもね、『あまりにも親バカだなあ。海老蔵って!』、とは、思いましたよ。まだ、二歳です。五歳ぐらいまで、待つのが、普通でしょうに。それにいたいけな子供を、周囲が利用している様に見えて、それもかわいそうでした。これは、5歳から演奏会を行い続け、27歳の時に、弾けなくなった(肩を痛めたということで)マキシム・ヴェンゲローワの、エピソードを思い出してしまう事例です。ヴェンゲローワの方は、7年間の休息(指揮を学んでいたらしい)を経て復活しました。本人もその間、人間として、たいそうな勉強になったみたいです。で、見事な演奏をするバイオリニストとなっています。美しい音です。かんげん君の将来は、どうなるでしょうか?

 まあ、曽祖父の、没後50年記念祭だから、ここで、急いで、出したとはいえましょうが。50年祭は二度と来ないわけですから。

 奥様が、元女子アナで、タレントだから、お子さんの顔が、特にかわいいという特徴があるけれど・・・・・これを周りは、どう見るのだろうと、興味津々で、双眼鏡も使ってみてみました。その本心は、いかが?と、思って。

 中心にいる役者は、気をそらしません。染五郎と、松緑は、粋なとび職で、お祝いの踊りを、踊ってあげました。元来が、女形である藤十郎(扇千景のご主人ですよ)と、梅玉は、黒留めそでの芸者さん姿で登場し、仁左衛門や、菊五郎は、町の有力者の姿で、着流しに、紋付きの羽織を着て。これは、通常は舞台に、横一列に並んで行うお披露目の口上(紋付、裃姿で、ずらっとならぶ)を、二歳の坊やの為に、崩して、さらに、豪華な、モノにした演目で、周囲が、示した大変な、サポートぶりでした。

 だけど、端の方に居る大人の役者がどう思っているのだろうと思って。こういう役者の中には、一般家庭の出身であって、絶対に主役の座には登れない人も多いでしょう。『特に国立劇場で、歌舞伎俳優養成所が、できていて、そこを卒業した人などは、或る少数は、子供のいない、大物俳優の、養子(玉三郎も養子である。彼は、年齢的に言って、養成所は出て居ないが)として、上昇気流に乗りますが、そうではない、立場の人も大勢いて、ほぞをかんでいるはずだから』と思いながら、双眼鏡の中を覗きました。そこで見たことは、ここでは、口にチャックとして語りません。私は、一種の評論家でもあると思うけれど、批評や評論の分野を、歌舞伎にまで及ぼす気持ちはありません。

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副題2、『蛇柳を、外人と一緒に見て、その面白さに目覚めてからは、相当な舞台を、前売り券と、一幕み席の、どちらかで、見ていますが』

 副題2の、二重ガッコ内に書いている通りで、相当数の演目を、この2015年に入ってから、すでに、見ていて、17日(月)も【河内山】を見てきました。その舞台を見ている多数の、外人が喜んでいる様子から、【河内山】には、【フィガロの結婚】に通じるテーマが隠されているのに、気が付きました。

 つまり、お殿様(公爵)が、腰元(侍女)の処女権を奪う問題です。河内山は、明治になってから生まれた脚本みたいで、物知りの人が筋書きの中で、『実際には、江戸時代には、これ(=心理的な下剋上)は、ありえなかった設定であろう』と言っています。

 その下剋上とは、茶坊主と言う職種で、将軍に仕えるサラリーマンが、社会通念上は、庶民にとっては、そちらが上であろう、お殿様を、きりきり舞いさせるという劇です。ただ、一方で、江戸城中勤務(今でいう上級の公務員)でありながら、一方でやくざっぽい行動を取るという、二重性を持った人物にとっては、「お殿様の家来としては、重鎮だと言えども、将軍の家来よりは、下だ。陪臣じゃあねえか」という観点があって、それで、難局を切り抜けるのです。二重のひねりが利いていて、とても面白い劇です。

 副題1で、みんなが、その2歳の長男を、盛り立てた、そのパパの方の、海老蔵が主役です。海老蔵は、今37歳なのだそうです。大変な美男子(たぶん、現在の歌舞伎界で、一番の美男子)なので、みんなが腫れ物に触る様に、大切にしていて、朝日新聞の劇評でも、ストレートにほめてはいない、微妙な、言い方です。

 私は、初心者ではありますが、今回の【河内山】での演技が、下手だとも思いませんでした。ただ、過去の対照例を知らないので、上手ではないのかもしれませんし、そこら辺りは、よくわかりません。

 今月は、朝日新聞の劇評が良かった、【仙石屋敷】も見ました。真山青果脚本の、現代的解釈の加わった、【元禄忠臣蔵】の方であって、討ち入り後の、浪士の心理描写が主なテーマとなっている劇です。ここにも家族関係の微妙な問題(千之助の父、孝太郎は、離婚をしたらしい。千之助君は、15歳と言う精神的に、微妙な段階なのに、大変ですね)がありますが、それには、触れず。

 玉三郎に、目覚めてからは、【仙台萩】も、【阿古屋】も見ました。東劇の映画で、【籠釣瓶】も見ました。だが、『玉三郎は、複雑な心理表現が、加わる、現代風な脚本の中の方が、いいなあ』と思います。豪華な衣装に包まれて、白塗りで豪華な、髪飾りを付けた、お姫様タイプまたは、傾城(おいらん)タイプなどの、女形像には、私は、それほどには、感銘をうけません。美しいとは、思うけれど。確かに超が付くほど美しいです。が、そういう役には演技のしどころが、さしてないですね。

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副題3、『玉三郎は、岡村君を、全然知らない、または、尊敬をしていない模様ですね。その上、松竹と、吉本の、大阪における、確執も反映しているみたいに見えて、岡村君が気の毒でした』 

 この間、岡村君が、NHKの【プロフェッショナル】の中で、特別番組を作ってもらって、数人の有名人をインタビューするという番組がありました。私は、その番組には、全然気が付かなくて、予約録画もしていなかったのに、録画ニュースを、チェックしている際に、二つの、録画ニュースの間に、ライブで、現れる、現在の放映番組として、気が付いて、たった、15分程度、最後の部分を、録画をしておいて、後で、見て見ました。すると、その15分で、岡村君が、玉三郎を、訪問しています。 

 まず、そのインタビューの場所ですが、玉三郎側から指定をされている、お部屋らしかったです。それは、ロココ調の家具が置いてある、言ってみればベルサイユ宮殿を、さっぱりとさせたみたいな部屋でした。それって、松竹ビルの中にある貴賓室なのかしら? または、歌舞伎座の中にある貴賓室? と思う風情のお部屋であって、岡村君は、緊張しきっていました。

 歌舞伎だって、アメリカの大統領、フランスの大統領、英国の王室の方々などが、見えるでしょうから、ロココ調の、貴賓室があるのも当然です。それではないかな? でも、岡村君向きではないのです。お笑い芸人として、出発した岡村君を迎えるのなら、もっと、砕けたお部屋が、向いていました。玉三郎が、ちゃんと、断っていましたよ。「いつも、楽屋とか何とか、そういう場所で、インタビューを受けているから、今日は、こういう場所で」と。

 しかし、私は、それは、玉三郎のアイデアではなくて、大・松竹株式会社が、吉本へ、自分たちの権威を見せつける為に、そうしたと、思えました。株式を、1961年に東京の一部上場を果たした、後発であり、また、大阪発の企業である吉本興業に対する、さや当てというか、何かだと感じました。『どうだ。参ったか? こんな部屋は、吉本の、ビル内には、無いだろう』と、威張るために用意した様に感じましたよ。

 それで、今、会社四季報で、資本金の額や、社員の数などで、どれくらい、実力に差があるかを調べたところ、吉本の名前が、無いのです。どうしたのでしょう。で、お気に入りに入っているはずの東証検索を見てみると、いつの間にか、リニューアルをされていて、再登録をしないといけないと、なっていました。でも、四季報にないということは、上場廃止をしたのかしら? ともかく、それを調べるのに長時間がかかってしまって、いまだ解明ができません。

 で、ここで、NHKプロフェッショナルに戻ります。玉三郎の、岡村君への扱いは、『不親切な感じを受けるなあ』と言うものでした。ただ、それは、玉三郎が、岡村君が出演している番組をほとんど見ていないという事にも原因があるかもしれません。で、岡村君をほとんど知らないで、ただ、吉本の芸人としてとらえていると、ああいう態度にもなるのかもしれません。

 上の節で語っている様に、玉三郎の、香川照之に対する温情ある指導を既に知っていた私には、違和感のある処でした。それに、インタビューアーが、岡村君なので、玉三郎が先に部屋に入って待っていて、そして、岡村君が、あとから入室するという流れになるはずですが、反対でした。これは、3.11の数か月後、松本龍大臣と、宮城県知事の間の、諮った様な、礼儀作法に関する喧嘩の際と同じ、しくみです。松本龍大臣を、知事の方が、ひどく待たせたというケースがありましたね。あれも、知事が先に入室をしていないといけない礼儀なのです。みなさん、何か(=力関係や政治的思惑)を示すために、よく使う方法なのかしら。(苦笑)

 これは、どうしても大松竹が、吉本を、下に見ているということの反映の様な気がします。玉三郎も、岡村君も、個人の才能を売り物にする、稼業ですが、ここまで、大人物になり、有名になったのは、うら側に居る組織(松竹)のおかげなので、そちら側の思惑が、反映するのは、仕方が無い事なのでしょう。無論の事、修業時代の玉三郎の修練(鍛錬)が、岡村君の、ライオンキング挑戦などより、長期間にわたるもので、半端でないほど、量が違うわけで、しかも玉三郎は、人間国宝です。ただ、才能とか、頭脳と言う意味では、岡村君も、すごいものを持っていると思いますよ。

 しかし、この際は、岡村君が、這いつくばらんばかりに、低姿勢に出て居るので、そういうときほど、偉い方である、玉三郎が、年下の、しかも、芸能的には、したであろうお笑い芸人の、岡村君を、尊敬してやってほしいと、私は、思いました。これは、どうしても、松竹の、吉本へ対する見下しに、原因があると、思います。

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副題4、『岡村君は、バーンアウトから回復をしたらしい。よかったね』

 このNHKの、プロフェッショナル特番・岡村インタビューアー篇が、どうして、企画されたのかの、裏側は知りません。もしかしたら、吉本が、大松竹へ、挑戦する為に、自分のところの、旗手である岡村君を利用して、彼が「大好きだ」と、もともと言っている玉三郎に、面会をさせるために、吉本側から、企画を立てて、NHKに売り込んだ?

 NHKだって、視聴率に対するテコ入れになるので、御の字だと考えて乗った? ?????です。仔細は、私には、わかりません。


 私は、玉三郎は、テレビの特番(たとえば、メトロポリタン歌劇場での、鷺娘の舞踊場面の放映など)では見ていますが、舞台を見始めたのは、この2015年7月からです。岡村君の方は、わが家のこどもが家にまだいて、同居していた頃、土曜日の【ないない】を見ていました。20年ぐらい前かしら? かれが、いろいろなことに挑戦するというのを見ていました。

 特に、劇団四季の、ライオンキングに、出演したいと言って、種々様々な訓練に耐える場面など、見ていて、『この子、大丈夫かしら。こんなにテンパっていて、頑張りすぎです。無理し過ぎです』と思っていたものです。そしたら案の状、バーンアウトが来てしまいましたね。

  しかし、回復した模様です。よかった。で、最近の、テレビ映像を全く見ていないのですが、その、見ていた時期に、感じたことは、『非常に素直で、前向きな子だ』という事です。『一生懸命な子だ』という事です。だから、玉三郎が、軽くあしらっているという風情は、かわいそうに思いました。

~~~~~~~~~~~~~

副題5、『岡村君は、玉三郎に、引退を、どうするつもりなのかを聞いていた』

 さて、『軽くあしらっていて、対等な関係には、持って行っていないなあ。玉三郎は』とは、思うものの、岡村君の方は、このチャンスを生かそうと必死です。で、事前に準備をして来たであろう質問をいろいろ、繰り広げました。

 その中に、「引退をどうするつもりなのか?」と言う質問がありました。すると、玉三郎が、「無論のこと、引退は、考えている」と答えました。私は、それは、大切で、良い判断だと思います。女形が、年老いて来て、頬がこけた状態で、演技をしているのは、美しくないです。玉三郎は、特に美しいのだから、美しい状態のまま、引退をしたら、その方がベターでしょう。演出家として、生きて行ってほしい。

 たまたま、急に歌舞伎に興味を抱いて、演劇界と言う雑誌のバックナンバーを多数読んでいるのですが、菊之助と、七之助、梅枝、などが、若手女形として、育ってきているみたいです。七之助は、ブラザーの、コマーシャルに出て居るので、毎週、二、三回銀座に行く私は、すでに、何十回、兄の勘太郎と、ともに、その姿を大画像で、見ています。京橋にブラザーのビルがあり、その壁面に二人の、兄弟の画像が、下がっているからなのです。

 二人で、【京人形】を、演じた時に、七之助は、細身すぎるとは、思いましたが、きれいです。で、他の情報として、雑誌で、間接的に知ったのですが、菊之助が【籠釣瓶】を父と一緒に、演じたそうです。また、梅枝も、相当に、演技が上手になっているそうで、ほめてあったので、玉三郎も、引退できる日が来るでしょう。

 で、どういう風に引退を、して行くかについて、岡村君が、質問をしたところ、「フェイドアウトが、いい」と、言っていました。大げさな会見など行わないで、徐々に、出演演目を減らしていき、消えていくという事らしいのです。

 このフェイドアウトですが、役者としては、フェイドアウトして行っても、歌舞伎界の指導者としては、引き続き、顔も、手もを出してほしいですね。

  たまたま、堀越かんげん君の、たった二歳にして、最上級で、しかも最高レベルに、豪華な、お披露目演目を、用意してもらっている、姿を見ました。しかし、五年前かな? 海老蔵が、六本木で、騒ぎを起こして、舞台に出演できなくなって、玉三郎が、お正月の歌舞伎座の穴を埋めたことがあったらしいのです。

 その時に、温和でストイックな玉三郎が、珍しくもいささかの苦言を、マスコミに向けてカメラの前で、発言をしたらしいのです。これは、玉三郎にしたら、ずいぶんな事だったのでしょう。そこからも類推できるナリタヤの、権勢です。

 一般家庭の出身で、特権が無かった玉三郎が、大変な苦労を重ねて、立女形への道を歩んできた経路と、2才八ケ月の長男の為に、歌舞伎界総力を挙げて、お披露目を準備してあげる【ナリタヤ】との違いが、明瞭に出てしまった、今月でした。成田山新勝寺とも、縁の深い、大きな名跡の家に生まれたために、油断も油断がある、海老蔵への、あの事件の時の玉三郎の、苦言は、心からの吐露だったのでしょう。   

 でも、今、ネットで、知ったのですが、海老蔵も、変わったそうです。子煩悩パパ像へと、変化しているそうです。と言う挿入を入れて玉三郎へ戻りますが、

 玉三郎の、老後生活が、ある意味で、心配ですね。彼は、原節子スタイルで、暮らすのかなあ? または、ちあきなおみ、スタイルで、老後を過ごすのかなあ? それとも、普通の紳士として、歌舞伎や、その他の舞台やら、映画の、演出だけは、続けていくのか?

 後輩の指導も続けていくのか?

 岡村君も、独身です。天才の結婚は難しく、かつ、老後生活も、ある点で、難しかろうと、思います。

 そして、私の頭の中では、今、なかなか、結婚に、踏み切れないでいると言われる、普通の、一般男性の事も、心配です。年功序列度が悪いなんて言われて、無くなりつつあるけれど、あれがあったからこそ、男性は安心して結婚をすることができました。あれが、結婚制度を持続させていたのですよ。とんでもない破壊を、日本社会へもたらしている最近の永田町です。

 一億総活躍社会だとか、女性が活躍できる社会だとか、言っていますが、言葉の綾だけですね。本当は、一億総不安化社会へ、持って行ってしまっています。

 困り切る社会や、政治ですが、私も微力で、何もできない人間の一人です。ときどき、娯楽に触れて、気分を刷新していますが、数年前までは、歌舞伎に行くなんて言う余裕もなかったのです。その頃に比較をすると、少し、心理的なゆとりが出てきたと言うところかな?・・・・・

 小さいころは親に連れて行ってもらって、歌舞伎を見ていました。今回の50年祭の主役である曽祖父の方の海老蔵(十一代団十郎?)も、見ているし、梅枝の曽祖父の方の時蔵(三世?)も、見て覚えております。この二人の役者は、とても、美しかったという記憶があります。

 このブログの、2010年より数え始めた延べ訪問回数は、3213447です。

2015年11月18日から19日にかけてこれを書く 雨宮舜(本名 川崎千恵子)

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大原麗子さんの、かわいそうさは、何故、生起したのか?

2015-08-31 23:52:06 | 文化、芸術、書物

副題1、『珍しく、スマホを電車内でいじっていたので、駅で乗り過ごしてしまった』

 皆様、突然に、ムードが変わりますが、先ほど、夜の八時ごろ、私は、山手線を新橋か品川で降りないといけないのに、乗り過ごして、渋谷まで行ってしまいました。ただ、湘南新宿ラインが今はあるので、鎌倉まで帰えるのに、時間のロスは、一時間で済み、それはありがたいと思っております。

 で、どうして、乗り過ごしたかと言うと、本日は、意外と元気だったので、スマホをいじっていたからです。そのスマホですが、i-phone 4 から i-phone 6 まで、主人と、連動で、持っているのに、ほとんど使っていませんでした。その理由は、ここでも書いている通り、GPS機能を使って、嫌がらせを受けるからですが、それは、一部であって、別の理由も多々あります。

  スマホの前は、ガラケーも、持っていました。だが、それも、使っていません。でも、最近FBを二度目として始めると、その連絡には、スマホが便利だと、気が付いてきました。で、有楽町から乗った途端に、いつも、外出中は、電源を入れっぱなしにしているスマホ、を、タップして開けたわけです。電話機能は、絶対に使わないので、電車の中でも誰からもかかってくるわけはないので、それで、いいのですが・・・・・

 で、最初に、FBに、投稿をしたのが、スマホを持たない理由ですが、それは、上に書いたものとは違う、第二番目の理由でした。

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副題2、『携帯を使わないのは、自分が、人懐っこい、かつ、人恋しいタイプの人間だったからだ』

 今の私と、10年前の私だと、非常に違っていました。今は、しぶとくも図太くもなっていますが、10年ぐらい前は、繊細なタイプで、いろいろ、悩みも多くて、友達に相談をしたいと願ったりしているタイプでした。

 ところが、ね、私の10年前から、15年前と言うと、友達は、みんな現役でした。で、ひどく忙しがっていました。みんな、自分の仕事上の付き合いで、精いっぱいという感じでした。

 そんな中で、反対に、私を慕ってくれている人もいました。悩みを打ち明けてくれる人もいました。一人暮らしをしていた時期には、真夜中に、四時間連続をして語り合ったこともあります。だけど、救うことができませんでした。トラブルの種は、ご主人の浮気問題でしたが、『そこから去りなさい。ほかのところへ、心を移して置いたらいい。しばらくは、そうして置いたらいい』と言う忠告をどうしても受け入れてもらえず、

 正面切って愛人と対決しようとしてしまって、無理が重なったのです。で、亡くなりました。そのころ以来、電話では、長話をしていません。で、だんだんに、人に、求めることも少なくなってきました。以前よりはと言う意味で、ですが・・・・・

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副題3、『そういう私にとって、とても、切ない例として思い描かれるのは、もう一人、他の、例があって、それは、大原麗子さんだ』

  で、ここから先ですが、先ほど、FBで、投稿した記事をコピペさせてくださいませ。政治問題について、独自の観点から語るという、この頁の、連続性が途切れますが、私も、パソコン入力ばかりしていると、目が駄目になりますので、これを、使わせていただきたいです。わがままみたいに見えますが、ご容赦くださいませ。すでに、73歳ですので、ここまでするのも、すごい努力の、果ての事ではありますし。

大原麗子さんー1.

 さて、大原麗子さんです。お葬式で、弔辞で、困った人だと言われてしまった話に入ります。私はね。どちらかと言うと、そういう弔辞を読んだ人よりも、大原麗子さんに近い人間です。だからこそ、大原麗子さんを分析する資格があると、任じているのですが、どうしてかと言うと、よく皆様から、「73歳なのに、FBをやっているとは偉いですね」と言われます。が、偉いのではなくて、エネルギーレベルが、心理的な問題では、高いという事でしょう。そして、大原麗子さんも、エネルギーレベルが高かったと思います。 

大原麗子さんー2、

 スクリーン、または、テレビ画面に、自らをさらすのは、相当に、自信がないとできない仕事ですよね。だから、自信満々で、でかい面をしている人かと思っていたら、他人にすがりたいというほどに、切ないほどの、愛情を求めていた人だったのです。とても、はかなげで、さびしい人だったのです。でも、「それなら、離婚をしなければよかったのに」と言っても、若いときは、将来への見込みなどないわけですから、離婚をしてしまわれました。

 こういう風に人懐っこくて、他人との間柄を縮めたい人は、結婚と言う仕組みは、ある程度、自分を助けてくれます。

大原麗子さんー3

 でもね、結婚とは、難しい事でもあります。どこかに、劣等感とか、あきらめの感情が無いとできません。つまり、ひざを屈することだからです。まあ、女性の方にとっては、そういう事が言えます。男性にとっても、同じ側面はあるでしょう。野望に満ちて居たら、一人の女性と密接に、奉仕しあうというのは嫌でしょうね。美しくて能力の高い女性を、とっかえひっかえした方がいいと、思っているはずです。

 でね、結婚をしない場合に、大原麗子さんみたいに、友達から、面倒くさいと、言われない仕組みは何があるかと言うと、今なら、FBや、ラインなどがありますね。だが、SNSではないものとして、ペットがあります。

 大原麗子さんー4、

 ペットですが、独身で、飼う動物としては、猫をお勧めいたします。対等の友達になってくれます。犬はですね。私は、飼っていたことがあるのですが、子供には、なってくれます。または、家来として、こちらを、慕ってくれます。だから、家族がある人が、子供の教育のために飼うなどと言う形では、最適な動物です。が、独身の人が、それを飼うことによって、心慰むものとしては、猫の方が、圧倒的に優れています。猫って驚くほど愛情が深いですよ。で、こちらが、悲しんでいるときなど、ちゃんとわかってくれます。

大原麗子さんー5、

 犬と、人間との関係って、大原麗子さんと、弔辞で、「困った人だ」と言った人達との関係に似ています。愛を乞うる人は、愛を与える側の人よりも、下っ端になってしまいます。そうなると、愛情を、もらっても、もらっても、満足ができません。どこかに、小ばかにされているという感じを抱いてしまうからです。で、本当の愛情がほしくて、もっともっとと、交流を、ほしがることになります。それが、大原麗子さんが抱えていた問題だったのでしょう。相手の友達にしてみれば、『もう、充分に、相談に乗ったじゃあないの。また同じことを、相談して来て、バカみたい』と言う気持ちがあったでしょうね。だから、誰を相手にしても、対等の関係になることが必要なのです。そして、その練習台として、役立つのが猫との関係です。

大原麗子さんー6、

 ところで、女優さんと言うのも芸術家の一種です。そして、芸術家と言うのは、たくさんのエネルギーを放散し、周りに与える存在です。だからこそ、インプットもほしいのね。で、タレントさんが、恋愛を繰り返すという現象が起きるのも、むべなるかな、なのです。

 だから、大原麗子さんの、『友達と、常に、つながっていたい。女性の友達と話すのは、恋愛ではないのだから、裏切られるはずはない』という感覚も、理解が、可能な態度です。それでも、弔辞で『面倒くさい人だった」と、言われてしまうのは、かわいそうですね。

 ここで、感じるのですが、大原麗子さんって、やはり恵まれて育ったということがあるのでしょう。で、小さいころから、他人にちやほやされてきていて、本当の苦労と言うものを知らなかったということもあるでしょうね。

 大原麗子さんー7

 そういう意味では、賢い女性が、高峰秀子さんです。たいへん小さいころから、義母に、経済的な、稼ぎを求められて、芸能界で、酷使をされたそうです。だから、あの明るいきれいな顔に比較をして、思いがけないレベルで、苦労人だったのでした。

 だからこそ、結婚をして、家事をして、読書をするという晩年の生活を、大いに満足をして楽しんだ人なのです。平凡で静かな生活を尊んだ人です。

 夫である松山善三さんの為に、主婦として、大きな時間を使った人です。だから、他人に、電話をしている暇などなかったという形でしょう。

 大原麗子さんの方は、恵まれて育ってきたからこそ、『自分は、相手の時間を取っているので、嫌われている』という事が、理解できなかったのでしょうね。その、かわいそうさは、なんとも言いようがないですけれど。

 なお、このブログの2010年より数え始めた延べ訪問回数は、3067134です。

 では、2015年、8月31日、  雨宮舜(本名、川崎 千恵子)

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