銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

遅れて届いたクリスマス・ケーキ

2008-12-31 23:58:46 | Weblog
不況を乗り越えるのは、やはり、結婚と言う安全弁かもしれない。

 このグーブログと言うのは、大昔はホーム頁と言っていたものを改良した方式だと私は想像するのです。それで、昔は、地色やボタンを自分で選んだり作ったりしたものですが、今は、goo側が、用意してくださったものを使います。先日までクリスマスのよいものがあって、ずっと使いたいぐらいでした。でも、お正月を迎えますので、昨日まで使っていたもみの木の上に、星が光っているのを、変えようと今日、いろいろ、トライをしたところです。

 このクリスマスとか、お正月と言うのは、よい習慣なのでしょう。私はお手紙大好き、年賀状大好き人間でしたが、今は、本を作り、それを、人様に届ける、手仕事に負われていて、年賀状をすっかり、ご無沙汰しております。

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 でも、こんな甘い前書きを、添えて、語りたいことは、女性が結婚をすべきか、そうではないかと言う問題なのです。シゴトが一生続けられるのなら、恋愛だけで過してもよい。だけど、女性の仕事が一生続けられない、タイプのシゴト、誰か、ほかの人に代わっても大丈夫な仕事だった場合、結婚はやはり、安全弁です。

 どんなに、古いといわれようとそうなのです。私は、今度、書いた『黄色いさくらんぼ』(ただし、本屋では売っておりません)の中で、ニューヨークでひたすらアーチストとしてがんばっているサユリさん(仮名)を最も美しい心根を持つ、主人公の独りとして書きました。

 よい人なのです。だから、まだ、結婚をしておられません。だから、やや、生活が危うい。アーチストの生活なんて、全世界的に危ういものです。親掛かりだった時代もあった日本ですが、急に不況になると、どうでしょうか?

 それがアメリカで、独りで住む。彼女にとって、すでに、日本で言う健康保険を獲得しているかどうかも、私は知りません。アメリカ人と結婚している人に比べて、独り暮らしでは、どういう制度の中に組み込まれるのだろうか? それを、考えると、誠に出すぎたことなのですが、『ああ、あなたはもう、アメリカ、特にニューヨークでがんばらないでもいいのに、早く、日本に帰っていらっしゃい。日本では、結婚適齢期と言うのが、なくなりました。

 もちろん、結婚は難しいことで、結婚活動というのが、あって、婚活と省略をされて呼ばれております。でも、本当にするつもりだったら、誰かと出会うことはあります』といいたくなってしまうのです。

 女性にとっても、世界史、と、日本史は関係があります。抑圧を、解放する手段としてアメリカにわたって、新しい夢のある生活を目指す時期もあったと思います。それを、長続きさせるコツはやはり、外国人と、アメリカで、結婚することだと思います。

 もちろん、しっかりした、技術力のある仕事を持っている人にとっては、女性でも、ニューヨークでの独り暮らしはとても似合います。女性が年をとったことを、問題にしない風土があるからです。しかし、日本も随分変りました。この不況です。ふにゃっとしていた男性がしっかりし始める好機かもしれない。

 貧しいとか、お金が充分にないということは人間を非常にしっかりさせます。そして、わがままも少し抑えさせます。結婚とは簡単に言うと自分を、ひざづかせることです。そして、その結果、経済的な安定を得ることです。『よく、独りぶちは食えないが、二人扶持は食える』と、言います。日本も日本人の考え方もだいぶ変ってくるのではないでしょうか? そして、貧しくなるかもしれないという予想は、人々の安全策としての結婚への思考を高めるでしょう。

 今日のタイトルは、私と同世代の優秀な女性が、アメリカで大学院等の勉学をしているうちに、お見合いに向かなくなったという昔話を語るときに、年上の、おば様がたとえた話として語られているものです。本のタイトルも知っているのですが、著者が知っている人なので、敢えて、そのエピソードだけを抜き出してお話をしました。

 男性は特に、蓄財を、結婚をしないとしないそうです。女性も将来のために、蓄財をしなければならないのですが、結婚なしの生活設計だけを考えていると、世の中の急変に立った一人で対応しなければならなくなります。変な話ですが、gooブログの台紙、テンプレートの選択の問題から、女性にとって大切なことをお話しました。

 私は一回しか結婚をした事が無いけれど、決して、大満足と言うわけでもない。だけど、結婚をしていた事が、自分が生きていくうえで、重要だったと考えている人間で、そして、それも、今度の本を、まとめる機縁になりました。

 このグーブログの『読者の中には結婚をしておられない方もおられるでしょう。どうか、おせっかいをしているとはお考えにならないでください。でしゃばっているともお考えにならないでください。

 人はすべて、個性的です。何かしっかりした収入とシゴトがあればよいのです。特にアーチストは特別です。アート関係者は、自分のしていることが二十四時間頭から離れない特別な仕事で、普通でないほうが、普通です。でも、ニューヨークでアーチストとして生きていくことは厳しいのです。日本でも厳しいですけれど、・・・・・

 でもね。本当にひょいとですが、テンプレートと言う台紙、一つ、選択することから、こんなことまで考えてしまいました。

                     川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
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ブルックリン美術館の思い出

2008-12-30 00:24:47 | Weblog
 今日は昨日までの、やや、政治的な意味合いも入っていた<特にジュリアーニ市長を取り上げた>文章から変化して、純粋にセンセーション展を楽しんだ頃を思い出し、その舞台となったブルックリン美術館の思い出へと入っていきます。

 ブルックリン美術館は、相当古い建物です。で、常設展示部分と、企画展示部分に分かれております。常設展示部屋は、やや、小部屋で、ヨーロッパのプラド美術館やパリのルーブルと比べれば、そりゃあ、落ちますが、思いがけない作品が展示されてあって、驚きました。それは、ワシントン大統領の肖像画です。レプリカなのでしょうか? それとも、作家が何点も作ったのでしょうか。それは、世界史の教科書に載っている絵、そのままの絵でした。

 企画展示部分、の部屋は天井高も高くて、切り取られて、それぞれに、アクリルの、容器に入れられているダミアン・ハーストのイルカの像、始め、すべての作品は現代アートのものとしては、完成度が高く、制作費を充分にかけたもので、大量に押しかけた、人々を、満足をさせて帰らせたと私は思います。
美大・PRATT INSTITUTEの先生・・・・Dr.Prof.  R.C.Morganが・・・・・・「現代アートが、これほど、大衆に訴える日が来るとはゆめのようだ」と仰ったのですが、その言葉を待つまでも無く、大勢を引き寄せて、その人々を、ウエストチェルシーなどの新作を展示している、新しい傾向の画廊街へ足を運ばせたのでした。

私はそれらの、作品にご他聞にもれず、惹かれたので、ブルックリン美術館には何度も足を運びました。そしてね。もちろん、食堂も利用をしました。ブルックリン美術館は、この『センセーション展』の開催中以外は、そう、お客さんを集める美術館ではないようです。それで、食堂は一つしかありません。細長い形式で、庭には面していますが、ガスの火を熱くしてクッキングをする形式ではなく、冷凍されたガラスケースの中においてある半調理品を選んで、買う形式になっています。

外に出ても、周辺においしいレストランがあるかどうかが不明でしたので、そこで、大き目のサラダパックを選び、食べました。簡単なお料理が供されているし、その細い部屋には、交互に、四人がけのピンクのテーブルかけのかけられた、テーブルが並んでいるぐらいの幅なので、独りで食べるのが、不満でもありません。ただ、つかれきったおなかには、冷たいサラダは向きませんね。我慢して飲み込むという感じ。暖かいポタージュぐらい欲しいなあと思います。

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 さて、別の日のことでした。この丸いテーブルのピンクの布が掛かっているものが、全部、入り口ホールに集まられておりました。サザビーか、クリスティーズか、どちらかの大型、オークション会社が、その日、センセーション展に出品をされている作品を、すべて、オークションにかけるのだそうです。

 それは、私などは参加できず、ご招待状のある人だけなのです。その時に、アメリカの富の偉大さと言うものを感じましたよ。作品によっては、一部屋全部を占めるものがあり、それは、展示する場所も選ぶし、その作品のお値段も高いものでしょう。それを、買っていく人がいる。ちょっと、目を回しそうな、光景だったでしょう。もし、そのオークションに参列できれば。

 しかし、私が本当に好きなことは、静かに物を作ることなのです。後学のために、特にライターとして、経験を増やすために、一度ぐらいは、顔を出してみたいとは思いますが、毎週、毎週、参加をしたいなどとは思いません。

 でも、その1999年に見た、MOMAや、グッゲンハイム、そして、メトロポリタン美術館よりも、そのどれよりもブルックリン美術館が、私にとって、面白かったのは確かです。グッゲンハイムやMOMAは、同じような現代アートの名品を集めているわけですが、その年の大話題を集めているわけでは有りませんでした。そして、一つ、一つは、それほど、大作でもなかったのです。つまり、新鮮度と言う意味と、大作であると言う意味で、ブルックリン美術館で開かれた、1999年度の、センセーション展ほどの、大きなそして、充実している現代アートの展覧会は、早々ないのでした。特に一日で見ることの出来る量と言う意味でぴったりだったのです。

   2008年12月28日         川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
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マリア様を擁護するつもりが反対になって。ジュリアーニ市長の3

2008-12-28 21:29:49 | Weblog
 ジュリアーニ市長がミソを付けたのは、「あれでしょう」と言う明快なきっかけがあります。それは、ブルックリン美術館で開かれたセンセーションと言う展覧会(1999年)に出品されたオフィーリと言う作家の、マリア像を、貶したことだったのです。断言してもよい確かでしょう。

 マリア像と言うのは、バチカンにある有名なピエタを始め、肌の色が白いということになっています。ところが1999年にブルックリン美術館に提出されたマリア像は、肌の色がこげ茶色です。そして、乳房が象の糞で出来ています。象の糞はぽとっと落ちたときに、釣鐘型になっております。もし色が、白だったら、誠に格好のよい乳房の形となりましょう。アーチストとは想像力の塊です。もしかしたら、オフィーリは、まず、その乳房を出発点とし、乳房が象徴するもっとも女性的な女性として、マリア様を選んだのかもしれません。ここらあたりは、私の単なる想像ですが。

 このマリア像は、高さが2メートルを越えるもので、板の上に整形されていて、象の糞でできた乳房は、プラスチックの型に入れられ、そして、着物にあたる部分には、黄色やブルーの各種のサイズと形のビーズなどがちりばめられ、ある種クリムトの衣装、それは、今回篤姫の最初のタイトルシーンにも用いられたものでしたが、を思わせる装飾がなされていて、思いがけず、前衛っぽくなくて、完成度の高いものでした。ただ、一点、肌の色が茶色だったということです。

 これは、1999年のことです。そして、2008年の今、オバマ大統領が選出されました。オバマ大統領は、昔奴隷として、アメリカに来た人ではありません。でも、一見すると、肌の色が同じです。

その肌の色を問題とする差別がどれほど、長い間あったか、を如実に示す問題が、このブルックリン・ミュージアムの大問題でした。

そして、その偏見が、ジュリアーニ市長を、掻き立てたのです。・・・・・・・『これは、問題にすべきだ。だって、カソリックを冒涜するふらちな作品だから、そんなものを公立の美術館で展示をさせるべきではない』・・・・・と、奮起をさせました。そして、それを、展示させないように諸所に手を、事前に打ったもようです。そして、メディアも大騒ぎとなりました。しかし、それゆえに、この展覧会は大人気となり、大勢の一般の人が訪れることとなったのです。

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 ここで、ジュリアーニ市長から離れて、このセンセーションテント言うものについて、少し述べましょう。イギリスのメディア王、○○氏が、11人の前衛芸術家に、生活支援をして、よい作品を制作させる環境を要しました。ダミアン・ハーストなどが含まれますが、その11人が自分の研究成果を発表したのが、このセンセーション展で、もっともショッキングなものといえば、自分の血を冷凍保存をしていて、自分の頭部の鋳型の中に、血を注入して凍らせ、それを、アクリル(または、ガラス)の冷凍庫の中において展示をするのなど、一つとして数えられるでしょう。

 普通なら、こういう展覧会は大衆の興味を引きません。ところが、ジュリアーニ市長と、主催者側の、大論争のお陰で、この展覧会は入場者が、十重二十重に、美術館を囲むという大騒ぎになりました。そして、実際に作品を見た人々は、『おかしくない。きれいだわ。美術品として、適当よ。カソリックを冒涜しているとまではいえないわ』と、感じました。

 大衆とは声高には叫びません。だけど、本質を掴みます。そして、新聞にも意見を発表しません。でも社会の風として、「ジュリアーニ市長はおかしかったわね」と言うのは当然伝わります。

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 ここで、ジュリアーニ市長はとても賢かったといえるでしょう。コロンバスディに、新しいパートナーと先頭を切って、パレードに参加した頃は、どちらにしようかと迷っていたぐらいだと思いますが、この風向きの変化を捉えて、引退することへ致しました。非常に賢いです。

 私は日本の知事(市長や区長は日本の場合、これほどの顕現を持っていないように感じますので、県知事が当たると思います)が、これほど、勇敢ではなくて、何とか、諮問委員会などを作って、その隠れ蓑の中で、実際には、自分の独裁的な考え、たとえば神奈川県の松沢知事が躍起となって、禁煙条例を作ろうとしていますが、人類が何百年、と培ってきた文化を、急に、文化史的な側面の勉強もなしに(その結果、一部の民が困ることを)、決定しようとしていますが、・・・・・決めようとしているのを見ることがありますが、・・・・・・日本では、マスコミが素直でないので、ジュリアーニ市長のケースほど、ぴたっと、推移が明らかにはなりませんが、でもね、他山の石として学んで欲しいと思いますよ。威張っていて、独裁的な権力を行使しているうちに、悪代官として、次の選挙に落選することになるかもしれませんよ。大衆は何も意見を出しませんが、きちんと見ております。
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松沢県知事が、自らの進退を賭けて、この政策を遂行するのならよいのだけど、単なる風評(健康問題)だけで、こんなことに血道をあげているうちに、経済の失墜によって、税金が全く入ってこないことすら起こりうるのです。県、そして、国の根幹が揺らいでくるでしょう。

一方、このジュリアーニ氏は、「え、象の糞で、乳房を作る、そんなけしからん事を」と言う風評を聞いたうえで、実物を見ることなく、判断をしたわけでしょうが・・・・・

 なにか、闘争を挑むときは、本当に勉強をした上でないと、駄目なのです。もし、ジュリアーニ市長が現代アートと言うことに対して、深い理解と勉強をしたうえで、しかもご自分自身の目を持っていたら、この『オフィーリ像を、攻撃するなど』と言う的外れなことはやらなかったでしょう。これが、彼の勇み足でした。英雄も勇み足をする。しかし、勇み足があったと気がついたときに、静かに舞台を去った。・・・・・賢い人です。本当に優れたアメリカ人の一人でしょう。ギャングの世界で先ず、名を売ったイタリア系の人の中から、うまく行けば、大統領にまでなれたかもしれない逸物だったのですけれど。引くという形で自らの美しさと英雄振りを、人々の記憶に残していったのです。余生、美しからんことをお祈りしておきます。

 特にたった美術のこと一つで、といえば言える、問題でした。嫌な人はブルックリン美術館に行かなければよいことです。

 でも、松沢知事や、JRが今取り組んでいる、禁煙、運動、全面喫煙禁止は、そこへ行かなければ住むという問題ではないので、非常に残酷な制度だと思います。ヒステリーの一つのような気がします。


 なお、ここで、松沢知事、および、ジュリアーニ市長の名を出して、批判的に書いたことによって、明日、または、将来、グーグルやヤフーの検索にこのブログが乗らないようになったとすれば、これは、言論の弾圧の一つの見本となると思います。こんな小さなことで、日本は自由を失いつつあります。変な国になろうとしています。海外の方が、自主責任で自由です。どうして、こんなに、子ども扱いを受けなければならないのかが不思議です。

 私は自分のブログについてですが、かねがね、例文として、とても、つまらないものばかり、検索に挙げられていて、しかも、そこをクリックすると、実際には文章が開かれない現象があるのに気がついていて、それが、一種の言論弾圧に繋がっているのではないかと想像しております。皆様はいかがお考えでしょうか。

 こういうことの責任者にお問い合わせを是非してみたいと思っております。どこへ、連絡したらよいのでしょう。ご存知の方はおしえてください。

 e-mail AteliereCK@aol.com
topuhilllily@yahoo.co.jp
atelier-shun@beach.ocn.com
amesyun-goo@gmail.com

の四つをよく開きます。他にもありますが、この4つをよく開くので、この件について、ご存知の方はお知らせをくださいませ。

   2008年12月28日       川崎 千恵子 (筆名 雨宮 舜)
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スプレーいたずら描きを消す。ジュリアーニ市長―2

2008-12-26 15:07:03 | Weblog
 Nラインと言う路線の地下鉄はやや設備費をかけていないらしくて、地上を走るのです。それが、マンハッタン島へ入るトンネルの周辺に・・・・・ジュリアーニ市長が消したはずのいたずら描きが1999年にはまだ、残っていました。しかし、そこは降りていく道もなさそうな場所で、人が簡単には入れるところではなく、・・・・・・ここが、残っているのは仕方がないと、私は考えました。

 それ以外のあらゆる場所のいたずら描きを消したとしたら、ジュリアーニ市長は、素晴しい実行者です。まず、その労働へ、参加する人間は、多分、市電の従業員が中心であり、それは、アフリカンの中年男性が多いのです。その人たちに就労のチャンスを与えました。

アフリカンの女性特に若い人には、店員さんほか、働き口が多くあるのですが、中年を過ぎた男性たちには、なかなか、よい職場がなく、スパイク・リー監督の描く世界であって、昼間っから何もやることがなく、ぐうたら、ぐうたら、道路の端っこでうんこ座りをして、日がな一日を過し、したがって、子どもの養育能力も無く、家族に当り散らして、結果、離婚に繋がる等の、悪循環のきわみだったでしょう。

 ブルックリン・はイツ下の、クリントン元大統領の別邸らしいところから、ずっと下がった街では、女性だけが道路っぱたで遊んでいました。男性(つまり、一家の主人)が収入を得る生活は、基本を支えて、次の世代を優秀にします。ニューヨーク州一つだけでも、ジュリアーニ市長は、立派な事をしました。

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 ところで、ここで、話は急に変りますが、アメリカ西海岸発の心理学の実際的な訓練の一つで、親業訓練と言うのがあります。これは、男女が出会い、セックスをして、女性が受胎をして、胎児を育て、その後、出産をして、ベービーの保護、をして、なにやら、かにやら、連続的に子育ての仕事をしても、それだけでは、母親になる事ができないという発想で、もっともっと、親の方が真理的に成熟をしなければならないという、視点をもっとも大切にした訓練で、ロールプレイング、ゲームをしたり、パソコン上ではなくて、実際の劇でですね。・・・・・さまざまなアンケートに答えたりして、親の方がどれほど、子どもを理解しておらず、間違った接触方法、をとっているかを戒める方法です。

 つまり、昔はアメリカでも、ターシャチューダーのようなおばあさんが居て、子どもの様子を見ながら、こつこつと、家事をこなしていく生活があったわけですが、アメリカでも日本でも、電化製品の発達とともに、消費社会が到来して、その結果、家事が簡単になったために、核家族化が推進し、伝統的な子育てマナーが引き継がれなくなってしまったのです。それとともに、未熟なおかあさんと、子どもだけで、家庭内で向き合って、息が詰まり、母親が育児ノイローゼになるなどと言う現象が起こってきていて、親子心中とか、それに反して、一方的に抑圧して、子どものストレスが外部への犯罪として向かってしまうケースなどが多々あります。

 それを防ぐためにできた親行訓練の中で、大切な項目としていっているのが、環境を整えるということです。子どもの周りをきれいにしておく。これは、きっと大切なことです。よく、事件が起こります。子どもや家族に関して。子どもを虐待したとか、老いた親を、放置して死なせてしまったとか、すると、・・・・・その事件の現場がテレビ画面に映りますが、汚いです。古いのは仕方がないです。でも、ものの於き方ほか、が、汚いです。

 だから、きれいであると言うことはとても大切です。親業訓練の事をを、ジュリアーニ市長知っておられたかどうかは、私は、知りません。ただ、後ろ向きのシゴトをするのは普通は嫌なことです。スプレーいたずら描きは、自分が遣ったことでもない。他人です。犯人の特定できない人間の遣ったことです。その後始末を、彼ジュリアーニ市長が遣りました。

 都市として、ニューヨークがきれいになった・・・・・これは、そこに住む人々に、とって、非常に大切なことなのです。パリはきれいです。東京もきれい(?)なのでしょう。東京圏に見られるスプレーいたずらがきについては、数日後に書きます。シャッター商店街等と関係があるので、こちらの問題はやや複雑ですから。


 で、明日は、何が、ジュリアーニ氏の勇み足だったかについて述べましょう。

 すごく立派な人だったのに、なぜ、上院議員(つまり、将来は大統領になっていく可能性があった)に立候補しなかったのか? その間、の勇み足について述べましょう。 

     2008年12月26日   川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
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ジュリアーニニューヨーク市長を、一種のヒーローとして書けば

2008-12-24 12:37:42 | Weblog
 『いや、アメリカ人にも偉い人はいる。その筆頭はジュリアーニ元ニューヨーク市長でしょう』と、私は思っております。ワシントン大統領、リンカーン大統領などの偉さは、喧伝されております。しかし、メディアが発達していなかった時代ですから大衆が知らない部分で、ほころびもあったかもしれません。

 そういう意味で現代では、相当の裏側がさらけ出されています。ケネディ王朝とさえ言われた、たくさんの子どものいた、ケネディ大統領の父に関しても、
文芸春秋社から『汝の父を見よ』又は、『汝の父の罪』のどちらかが邦題である、ケネディ大統領の父とその一家の分析の本が出ています。私がニューヨークで買った本のうち、随一、素晴しい著作です。
 それは、たまたま、疲労困憊していて、エンターテインメントの一種のつもりで、53rd st. の紀ノ国屋書店で買いました。ただ、アメリカで版画を作っていると、エンターテインメントと言っても、日本の週刊誌を買う気にはならず、やはり、真面目一方にはなりますよ。エンタメと言っても、上記の本は考えさせられるところ一杯の本です。アメリカを考える、または、投資を考えるときに、基本的に役に立ちます。

 今、私の本箱にどうしてか、見当たらないのですが、それを、読むと、サブ・プライム・ローンなんか、ちょろい、ちょろい、・・・・・ケネディ大統領の父の頭の中にあったアイデアの数々など・・・・・、社員にも家族にも誰にもわからない、複雑な工夫(しかし、著者はほのめかしていますが、大衆を騙す手法ではあるのです)を重ねて、複数の大衆から、少しずつ(まあ、現代のお金に換算して数万円から、数百万円でしょう)集めて、やがて、シカゴに大モール(商店街)を作って、そこから、表向きの資産を形成して行くわけですが(つまり、一種のマネーロンダリングをして行って)、・・・・・すごい、すごい、物ですよ。禁酒法時代に儲けたとよく言われていますが、こちらの投資勧誘の方が、利益が多かったはずです。
 ただし、ケネディ大統領はそれを、何も知りません。かれは、そういう金儲けの手段には、関係がなく、汚染をされていないのです。ただ、父親に頭が上がらなかったというところはあるのですけれどね。

 ところで、金融関係商品のことですが、私の友人にも「大損をしたわよ。数百万円」と言う方もあります。私の方は、現代アートの修行、制作、発表に莫大なお金が掛かるので、今では、動産としては、すっからかんであり、却って、時流が自分に及ぼす悩みと言うものから、開放をされております。不幸中の幸いといったところでしょうか?

 ケネディ大統領は、ご本人は演説はともかくとして、大実行力があったとは言えない人物である事が、上記の本を読むとわかります。

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 私はジュリアーニ市長の伝記と言うのを読んでおりません。ただ、彼が、ニューヨークにおけるスプレー缶を利用した大量のいたずら書きを消し去ったということは知っています。これだけでも、すさまじい業績です。このスプレー缶による、いたずら書きへの考察をあれこれ、明日、アートに関連させて頂きますが、

 これほどの、大実行力のある、大物なのに、選挙と言う大衆相手の作戦に、ご自分で『あれは、大統領になるためには、間違った選択だったかもしれない』と言う行動を二つとってしまいました。

 一つは大衆迎合のために、現代アート作品をけなしたことです。肌がこげ茶色のマリアを、「これは、カソリックへの冒涜であり、美術館を閉鎖するのなんの」とメディアを通じてわめいたこと・・・・・これも、明日詳報を書きます。

 そして、入院中に恋に陥り、その人との新たな生活を始め、それを、コロンバスディ(アメリカの大祝日で、パレードがある)の先頭切って二人で歩くという形で、お披露目をしてしまったことです。しかし、前夫人が離婚に、納得をせず、「市長公舎を明け渡さない」などと、これまた、メディア(私が目にしたのは、例のキオスク風なお店においてあるタブロイド型の大衆向け新聞の、トップかそれとも、中の方だったかですが)に発表を繰り返した。・・・・・

 この二つの選択が、大衆を離反させたのです。こげ茶色の肌のマリアは、芸術作品として美しく、別にカソリックを冒涜するというような、特殊なメッセージを放っているわけでもありませんでした。<保守層を、味方にするつもりが、思いがけずも、却って、知的なレベルが低いとみなして、馬鹿にしてしまった>という結果になったわけです。読み間違えの典型です。自分がイタリア系なので、カソリック社会へ強いという思い込みがあったのでしょう。そして、それは、ブーメランのように、新夫人との結婚を、刺激をしたゆえにカソリック層から、奇異の目で見られるという現象も起こったのでしょう。

 それから離反をしたのは、カソリックではないが同じ保守層を形成している、中年期を含むすべてのニューヨーク市民かな? ジュリアーニ市長の新たなパートナーの選択を、嫌がったのでしょう。もし、市民が、70%賛成だと市長が見れば、上院議員選に出馬したと思います。

 で、彼は、彼本人の意思として、共和党の上院議員選への出馬を辞退して、大統領候補へなる道も自ら閉ざしました。理由は『前立腺がんの進行があるので』と言うことです。政治家としては残念でしょうが、こういう選択をすすめたのこそ、現婦人であれば、彼女の愛は確かであり、人間としては、元・ニューヨーク市長と言う肩書きだけで終わっても、人生はすばらしく、充実したものであり、尊敬すべき、アメリカ人の一人といえると思います。中年期は、苦みばしったいい男の顔だったと思いますが、主人に言わせるヒポクラテス顔貌(おもだちに痩せてきたのが目立つこと)が少し現れていたので、休養をなさるのも必要だったと思います。

    2008年12月24日      川崎 千恵子(筆名雨宮 瞬)
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『朗読者』新潮社、と、欧州の学校制度の中に在るカースト

2008-12-20 15:05:15 | Weblog
 実はこの12月14日にお送りした童話「私の猫 カモフラージュ」の翻訳者から「あの童話は、著者の実体験が反映しているというよりも創作の要素が強いでしょう。彼女の父親は、ケンブリッジ大学の教授であり、彼女自身もケンブリッジを卒業しています」という連絡が入りました。「ほう、そうですか」と頷くのみですが、それを、聞いても、別に<私があの童話を面白いと思った、観点>は微塵も揺らぎません。むしろ、創作であの主人公を作り出し、その周辺の人々(特にお母さん)の描写をしたのなら、ますます著者を尊敬します。ただ、翻訳者によると、この童話は著者のほかの作品に比べると地味で、増刷の回数が少ないからか(?) 本屋で、手に入らないケースが多くてそれは、残念だそうです。

 その地味だというポイントですが、もう一度、お母さんに戻ると、お母さんは引越し後の転校先として、<大学へは進学の出来ないコースである>、モダーンスクールを選びます。その理由を主人公が『お母さんは、きっと、グラマースクール<そちらに進学すると将来大学まで進むことができる>の校長(お母さんは一時期お父さんと別居したので、そこに務めている)と、けんかをしたからよ』などと想像するのですが、そこら辺りがとても、厳しく、しかも地味だと読者が、感じるところでしょう。と言うのも日本人には、欧州の学校制度が、きちんとは、理解をされていないからです。

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 日本では、建前としては、・・・・・誰でも、どんな学校でも選べることになっていて、・・・・・誰でも出世の手がかりとなり、より上位のカーストへ、上がる事のできる大学へ進学できることになっています。しかし、現実には、居住している地域の問題やら、親の経済力、等で、実際には、差が出てきています。

それでも、その現実を直視しえない家庭で、問題が頻発します。少年が事件を起こすときに、その影には、中学、高校時代、お尻を引っぱたいて、よい進学先へ進ませようと、躍起になる、教育ママが存在しています。西鉄バスハイジャック事件もそうでしたし、酒鬼薔薇聖斗事件も、最近の秋葉原通り魔事件(これは、大人なので、親は出てきませんが、中学時代から、高校にかけて、勉強が出来たと評判だったそうで)、同じ種類の両親だと思います。母親だけがママゴンでも、それを、見逃す父親がいるわけで、両親そろっての責任です。

日本の学校制度とは、その種のネガティヴなプレッシャーを親子双方に与えていますが、方で、まあ、最新の制度といえば、いえるので、欧州の文学に触れたときに、ちょっとした違和感を持つことがあります。

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 今日のタイトルとなっている、本は、私が結婚後、新たに読了した小説のうち、最も感銘を与えられた本ですが、これも最初のうちは、『あれ、感じが悪いなあ。だけど、書評がよいから我慢をして読もう』と思ったポイントがあって、それがドイツにおける実質的なカーストの問題でした。

 主人公は今では、法史学者となっている中年の男性で、かれが15歳のギムナジウム(これもドイツのエリートコース)の生徒だったときに、三十六歳の市電の運転手だった女性と偶然の機会に結ばれることの回想から始まります。小説はとてもよい構成になっていて、彼が重症の黄疸にかかり、道路で吐いてしまったときに助けてくれた女性が、ハンナでした。この奇跡的な偶然が、普通なら、出遭わないであろう、階層の違う二人を引き合わせます。そして、ハンナと言う、文盲である女性の、個人史にドイツの現代史(特にナチズムの残渣・・・・・日本で言えば、ハンナはBC級戦犯に当たることになるのだろうか?)が重ねあわされ、非常に重厚な構成を持ち始めます。

 でも、文体は繊細で優しく、私は逗子のアトリエから上野の美術館へ行こうと思っている車中でほとんどを、読み終わり、新橋で、横須賀線から乗り換えようとして、一駅だけ乗ったのですが、その1,2分の間に、クライマックスが来てしまい、滂沱と涙が溢れ、『これでは、電車に乗っていられないわね』と考えて、一応、有楽町で京浜東北線を降りたのです。
 その場所は、階段のそばでした。私は階段を構成している壁の傍にしゃがみこみ、誰からもみとがめられないようにして、ぽろぽろっと涙を流し続けました。その涙の粒の大きかったこと。70センチの落差で、落ちるのに、1.5センチ以上の黒い円を描くのですよ。私はその時に既に60歳に近く、『見るべきほどのことは、見つ(はたす)』と言う感じで、すれっからしに近いと、自分では自覚をしていたのに、まったく、少女のように泣かされてしまいました。

 今、それが、どこだったのだろうと、本の頁を、めくり返しておりますが、多分、190頁以降でしょう。ともかく、今、再読している時間がありませんが、著者は、ベルンハルト・シュミッツで、私の本は新潮社から出ていますが、今はどういう形で手に入るかは知りません。

 ううーん、今は落ち着いて読書をしている時間さえない。でも、四十代から、五十六歳まで、ほとんどの時間を家事と読書に費やして、一日に一冊は読んだのは、今でも心の財産には、なっています。

   2008年12月20日     雨宮舜(川崎 千恵子)
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『ジャン・クリストフ』は、どこへ消えてしまったのだろう?

2008-12-19 23:53:31 | Weblog
 いや、『カラマーゾフの兄弟』が大ヒットだということはよいことだと思います。KYだとか・・・・・その他の、今流行のトレンドは、軽いこと、あっさりしている事が、よいことでありましたが、不況とか、そのほか、生活の根源が、揺らいでくると、しっかりした信念とか、スタンスがどうしても、各人に必要になり、それは、ゲームをすることとか、漫画を読むことよりも、やはり、苦闘をし続けた人間の記録を小説で、特に若いときに読んでおく事が、その後の力になると思うのです。

 ところが、私が若い頃に世間の風潮から勧められた小説のうち、『チボー家の人々』とか、『魅せられたる魂』などの、長編小説については、とんと、その評判を聞きません。源氏物語が大流行で、瀬戸内寂聴さんが、でづっぱりですが、たとえば、石川達三なんて、聞いたこともありません。もちろん、私は石川達三(社会派のはず)が、好きだといっているわけではありませんが、彼の全盛期もあったと思います。
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 私が思春期に読んで、人生で最も感動をして、ほとんど、そこから得た価値観で生きているような、大作、『ジャン、クリストフ』についても、ほとんど、何も世間から聞こえてきません。それを、残念に思う私の心に、自由が丘駅で、偶然に出会わせた友達との会話がよみがえってきます。

 東横線の自由が丘と言う駅は、『急行』の待ち合わせをするので、『普通』に乗って渋谷から来ると、日吉に住んでいる私などは、降りて、数分待つ習慣になっておりました。ふと、気がつくと、八年ぶりに出遭う小学校時代の友達が居ます。彼女は、私を見つけると、堰を切ったように激しく、「今、通っている大学が面白くない」と言うことを語り始めました。あんまりおしゃべりな人ではなくて、昔は私に、こういう内面を打ち明けることなどなかった人なので、驚いて、「どうしてなの?」と聞くと、「私、受験勉強なんて、馬鹿らしいと思って、やらなかったけれど、同級生と話が合わない。もっと、受験勉強をして、哲学科でもある大学へ行きたかった」と、言います。

 もっと、野生的な人だったら、親を説得して、別の大学を受けなおしたりしています。そういう人も知っています。親から費用が出たり、または、自分がアルバイトをして受験しなおすなんていうケースもあります。大勢の人が悩むのは、分野のことです。好きな道、文学とか、芸術の道、と、実学、経済とか、医学と言う道のどちらに入るか、それで、悩んでいろいろ、決められないモラトリアムの時期もあるのです。その間、思考し、実行するなら、進路変更もある。また、それを許す社会の経済状態の動向もある。

 しかし、自由が丘のプラットホームから日吉駅まで一緒に熱心な会話をした、友人は、女性でもあるから、(1960年代は、結婚適齢期が25歳だといわれていた時代です)大学を受験しなおすほどの、冒険家ではなくて、『親には、学費のことでは、もうこれ以上は、頼めない』と思っているし、『自分でアルバイトをして、学費を稼ぐ力も無いと思っている』人でした。

 でもね、彼女が感じていることとか、考えていることは、私には、非常によく判りました。今、居る場所が自分に合わないと思っている時期、そして、それが、青春真っ只中の時期、と言うことはつらいことです。『もっと、ほかに自分にふさわしい居場所があるんではないか』と言うのは、ほとんどの人がいつも、内面で思っていることです。普段はそれが、外へ出ないのですが、こういう風に大学を選ぶなどと、言う、選択肢が多い場合に、間違ったのではないかと思えば、特に、後悔が大きいのでしょう。

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 私は実は、小さい頃から悩みの多い人でした。ですから、現在も書く人であるわけですが、小さい頃は、自分の思いを人に書いて知らせる・・・・・そして、そういう形で、カタルシスを得る・・・・・など思いもよらず、ただ、読書によって、最上の慰めを得ていたのです。

 そういう私は、十九歳のときまでに、上記の『ジャン・クリストフ』を読み終えています。ただ、総計二年は掛かりました。

 そして、ジャン・クリストフが味わった数々の、苦労に勇気を与えられていました。で、その自由が丘駅で偶然出会った友達にも、彼女が苦労を、乗り越えて新しい、視座に立つことを願って、この本を読む事を薦めました。しかし、彼女は途中まで読んだけれど、読みやめていると、いいます。それで、私が「どうして?」と質問をしますと・・・・・

 「あれって、くどいんだもの。自分には合わないわ』と、彼女が言います。私はびっくりして「アントワネット(第五巻*)まで読んだ?」と質問をしました。「ううん、読んでいない」と彼女は言います。

 この五巻まで来ると、突然、読者は涙が滂沱となります。そして、ロマン・ローランが、美しい世界を好きな人である事が判ってきます。しかし、四巻までは、「喧嘩ばっかりじゃん。なにさ、これ。うざったい」と、現代の若者から言われてしまいかねないほど、主人公は世間とぶつかってばかりいるのです。解説書によると、ベートーヴェンをモデルにしていると、言われたりします。

 その主人公に対して、友人として現れるおとなしい、・・・・・将来は学者になろうとしえいる青年・・・・・の、お姉さんがアントワネットです。ただ、ただ、・・・・・弟を学者(もしくは著述家)にするために、・・・・・奉仕の人として生きる女性です。
 世間的な意味での幸せは何も味わうことなく、人生を終える女性です。

 でも、彼女の姿を見ていると、「人生には、成功しなくても、いい生き方もあるんだよ」といわれているようで、本当に安心して、次の日を迎かえる事ができるのです。人生の最初期にこの本とであったことは、私にとってはとても、よいことでした。そして、老いを迎えている今も、ジャン・クリストフの苦闘の人生と、老いに向かって穏やかになっていき、若い人を、大切にする・・・・・・愛に溢れながら死んでいく姿を思い出すと・・・・・それ(老いや、死について)も、安心をするのです。

 『自由が丘で、出遭った友達(既に亡くなっている、若いうちに)が、この五巻まで、我慢して読んでくれたらよかったなあ』と、私は、今でも残念に思っているのです。人生は難しい。生き抜くのも大変です。しかし、ジャン・クリストフは確かな力を与えてくれます。彼女もジャンクリストフを、読了していたら、もっと、たくましく生き抜いたのではないかと、思っているほどです。

 なぜ、現代、だれも、この本を問題にしないのかが不思議です。

*・・・・ただし、岩波文庫は原作の巻数とは、異なった数で出版されていると思うけれど・・・・・私のものは、押入れの奥の奥にしまってあるので、今は確かめられません。

      2008年12月19日     川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
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小説『闘』と、幸田文の弟

2008-12-18 14:48:30 | Weblog
 さて、前報で「結婚前に読んだ大人向けの小説のうち、三冊の大切な本がある」と、申しました。その二番目が、往時は『婦人之友』に連載をされた幸田文の『闘』です。これは、箱入りの初版を買ったほど、連載時から入れ込みました。

 今、現在は新潮文庫で、手に入ると思います。

 一種のグランド・ホテル形式でたくさんの登場人物が出て来ます。舞台は結核病棟です。今はほとんど、結核そのものが無くなってしまったけれど、昔は今の癌にあたるほど、ポピュラーな病気で、しかも、なかなか、治りにくい病として、大勢の人が、知っている病でした。

 今、大流行の『篤姫』の最終回で、その場面が出てくるかなあと、期待をしたのですが、出てこなかった場面として、篤姫が和の宮の死後、宮の療養の地であった箱根を訪れ、懐旧の情にひたされて和歌を詠まれたという史実があるそうです。和の宮も結核をわずらい、箱根で療養をなさったのです。

 日本でもっとも有名な患者は正岡子規ですが、日経新聞の『私の履歴書』などを読むと、若い頃、特に戦前、戦中、戦後に、結核をわずらった人は多いことに気がつきます。

 海外では、トーマス・マンがスイスの結核病棟で、実際に療養をした事があって、その経験から『魔の山』が生まれました。私は実際にそれを読むまでは、一種の<中世の、サド侯爵ものみたいな話>かと、タイトルから誤解をしておりましたが(ふ、ふ、ふ)、なんと、結核の治りにくさを『魔(の山)』と、たとえているのでした。

 『魔の山』の方はちゃんと読みましたよ。赤いカバーのついた、これも、筑摩(?)の世界文学全集を、図書館から借りてきて。しかし、その詳細を一切覚えておりません。ところが、『闘』の方は、非常によく覚えております。

 連載時の何回目かに、・・・・・世の中には要領のよい人間もいて、結核に掛かった間を勉強の好機と捉え、しっかりと勉強をして、難しい試験(たとえば、東大入試とか、司法試験)に通って行くやつも、いる・・・・・と、主人公が述懐する場面です。

 私の想像するに、そちらは、まだ若くて、色白で、紅顔の美少年(または美青年)といったところでしょうか? 私はふと、ちょうどその頃、話題になっていた、島津久永氏の面影を重ねました。これは、島津久永氏が結核を病んだということではなくて、非常に上品な面立ちの方だと、言うことをさしています。

 一方で、主人公は既に中年であり、<治ること、および社会復帰することは、不可能だ>と医者からみなされています。彼の闘いとは、生きること、生き抜くことそのものです。非常に原初的な闘いですが、それだけに、それを、闘い抜く彼は、雄々しく、大変魅力的な人物として描かれています。現代の若者はもっと軽い人物を、好むようですが、これから、社会が暗くなると言うか、生活そのものがきつくなると、このような、精神力の強い人間と言うのも、また、見直されるのではないでしょうか? 彼にはお金も社会的な名誉もないが、一種の英雄として描かれています。

これから先は、大変うがった見方でありますが、天上の幸田文さんは、にっこりされるだろうと思う、私の想像があります。ずっと、秘めてまいりましたが、『幸田文さんの離婚の原因は、この人との精神的な出遭いが、原因だったのではないだろうか?』と言う想像です。幸田文さんご自身は、「父露伴にきびしく、家事のしつけを受けた自分には嫁ぎ先の商家風の家風が合わなかった」と仰っています。

しかし、この『闘』の主人公に出会って、彼を、小説に書きたいと思われたときに、普通の主婦の世界から、小説家への転進の動機が生まれたと想像するのです。直後にこの小説を完成なさったわけではないでしょう。これは、当時は大人気雑誌の一つだった、婦人之友に連載をされたのですから、すでに、名声確立した小説家としての、幸田文さんだったわけですが、その前に、幸田さんは、『自分は書く人間なのだ。表現者として生きるべきだ』と思わせた、題材が、この主人公だったような気がするのです。もちろん、お父さんのことも書きたかったし、その他のことも書きたかったでしょうし、お嬢さんの玉さんが、結婚をなさるまで、待つという姿勢も有ったでしょう。

 ただ、離婚の頃の時代の風潮が、大きな酒屋(造り酒屋?)の主婦である文さんに書く、時間を与えなかったので、文さんは、ひとまず自由になりたかったと、私は想像するのです。主婦として生きている人が、趣味を、深めて行くというのは、本当に大変なことで、それに関する話題は、現在でも、この私が、身近にも、多数聞きますし、私自身も、ある意味で最も活動的な四十代と、五十代を、何もせずに過したようなものです。そして、今は大変自由になりましたが、しかし、100%自由だというわけでもありません。そして、自由と引き換えに年をとってしまっているということもあります。あ、は、は。

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 実の事を言うと、この小説に関しては、もう一つ大きな疑問がありました。『しっかりしていて、病気などよりつかないように見える文さんが、どうして、この小説の舞台となった、結核病棟の事を、ここまで詳しく、知っておられるのだろう』と、ながらく不思議でならなかったのですが、なんと、弟さんが結核にかかっておられたそうです。だから、弟さんを見舞いにいらっしゃったのです。それを、娘の玉さんの随想として、読みました。『なるほど、なるほど』と深く納得をした次第です。なお、画像は本文と関係がありませんが、多分、今まで使っていないものなので、ここに置くのをお許しください。

  2008年12月18日    川崎 千恵子 (筆名 雨宮 舜)
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『堤婆達多』(中勘助)で、シッタルダを、想像する

2008-12-17 00:03:43 | Weblog
 前々回で、「子どものとき、ドッと涙を流した、童話が二篇あります」と申し上げました。そのころ、同じく、ドッと涙を流した大人向けの小説が、三篇あります。今日はその三つのうち、一番最初に心に触れた、『堤婆達多』について、あれこれを、語りたいのです。

 まず、この小説には、触れようと思って触れたわけではなく、<全く偶然に出会っただけに、感動がひとしおだった>ことをお話しておかなければなりません。中勘助は最近ではほとんど話題になることは無いのですが、戦後すぐには、上質な文学者として、相当な話題の対象でありました。『山月記』で有名な中島敦と、同じくらいのビッグ・ネームだったのです。

 中勘助の代表作は『銀の匙』だといわれていました。ところが、当時中学生だった私にはそれは、何も判らない世界でした。つまり、簡単にあらすじを言うと、青年が兄嫁に慕情を寄せる話なのです。普通の恋愛さえ何もしていない私が、そんな、複雑な心情が判るわけはない。それで、『変な小説だなあ』と思っただけなのですが、『評価の高い文学者が、こんなものだけを書いたのだろうか?』と、それも不思議で、次に登場する(この場合は、筑摩の日本文学全集と言う本だったと思いますが)『堤婆達多』を、読み始めたのです。学校へ通いながら、つまり、夜だけを読書に使って、それでも、一週間以内に読めたと思いますが、最後にドッと涙が出たのを鮮烈に覚えており、『こういうものを書く人なら、評価が高い文学者だというのは当然だろう』と、心から納得をしました。

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 今、『カラマーゾフの兄弟』が、リヴァイバルの大ブームだそうです。上質な文学って大体構成が似ていて、ある主役が登場する場合に、その敵役、と言うか、反面教師みたいな登場人物も出てきます。カラマーゾフの兄弟では、三男が主役らしいのですが、彼が、本当の活躍を始める前に、著者のドフトエフスキーが亡くなってしまったために、長男が、強い印象を与えますが、実は次男のスメルジャコフが、これまた、非常に強い印象を残すのですよね。私は、こちらでは、その未完ゆえか、ドッと涙を流すところが無くて、この『カラマーゾフの兄弟』を若い頃の三大、作品とは、数えいれていないのですが、

 『堤婆達多』の方も同じ構成をとっていて、彼のいとこか、はとこに当たる、王子シッタルダ(これは、原作では漢字を使ってあったと思いますが、その表記に今は自信が無いので、カタカナ表記をする事をお許しください)が、善良のきわみの主人公であり、オーラを放つ人であるとすれば、こちらは、影の存在であり、嫉妬とか、憎しみとか、競争心とか言う、マイナスの感情をコントロールできない存在です。

 だけど読者、特に私が、感情移入が出来たのは、立派過ぎる王子シッタルダ(後のお釈迦様)ではなくて、『堤婆達多』の方なのです。もちろん著者の中勘助も、『堤婆達多』の方を、文章上の主役として設定し、彼の目から見た、世界の状況と、シッタルダを描いています。

 今は、その読了時から、五十年が過ぎており、この小説も、『図書館で読めるかどうか』と言う状況でしょう。

 ただ、私は感動しきって『一生、この本のことは、忘れられない』と思っておりますし、この読書体験により、仏教と言うものが、大体、判った気がしました。そして、人生の途上で、諦めなければいけない時もあり、捨て去らなければいけない時もあると、言うことは判っているつもりです。それは、断腸の苦しみを伴いがちですが、人間としては、それを、しなければならない時もあるのです。特別な人間だけの話ではなく、誰にでも訪れる問題として、諦観とか、別離とか、廃棄とか、言うことは、あるのですね。

 そして、お釈迦様についても、どんな、仏像を見るよりも、どんな涅槃図を見るよりも、この小説を読んだこと、一個の体験で、よくわかった気がしました。それほど、すごいことを中勘助と言う文学者はしたのです。なるほど、名・文筆家と、言われる由縁があったと、納得をしたわけでした。

  2008年12月17日、書く、送るのは後で。川崎 千恵子(筆名、雨宮舜)
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「私のねこ カモフラージュ」(岩波書店)

2008-12-14 19:52:31 | Weblog
 クリスマスが近づきました。今年天から、与えられたクリスマス・プレゼントは、いろいろあるのですが、これもその一つだったかもしれないと思うのが、上記の童話を、読んだことです。奥付には、小学上級以上とありますが、どうしてどうして、今、現在66歳の私が読んでも、『なんと、意味深いのだろう。そして、次の頁を読むのが、どうしてこんなに待ち遠しいのだろう』と思いました。

その前日、私は完全徹夜でした。「徹夜は、もう・年・だから出来ない」とよく、表向きには言いながら、実はしょっちゅう徹夜をしております。そして、徹夜明けの次の日は、何をするにも億劫です。しかし、その何をするにも億劫な朝の・六時から読み始め、家事をしながらですが、お昼までには読み終えてしまいました。

 本当に、息をもつかせず、読ませる本です。そして、心を柔らかにしてもらいました。途中では、厳しい心理描写があって、『結構、重苦しいところで終わるのかなあ』と思っておりましたが、最後は、なんとも、穏やかで美しく、『すべての読者が、ほっとするだろう』というところで終わり、心理的なカタルシスを、充分に与えられます。

 そして、私は、9章まで(約半分)を一時間で読み終わり、午前七時から、すぐ、八枚の礼状を書き始めました。礼状などスグに書かなければならないのですが、今の私は自分の本を郵送することで、てんてこまいであり、ともかく、前向きの事を先にやろうと決意しているものですから、礼状を書くのが遅れるのです。それを、書こうという気にさせたのでした。

 どうしてそんな勇気を与えられたかと言うと、その章で、この本の第二の主人公であるミス・バーナビー(老婦人)と言う、メンター(賢者)が発言する言葉によって、主人公の悩める12歳の少女が、深く慰められるから、それに、共鳴したのでしょう。単純な言葉ではなく、思いがけない言葉の数々で。父と母が離婚をしそうなことへの心配とか、母がヒステリックに怒ることへの悲しみとか、さまざまな事が、相当なレベルで、消化(または解消)され始めます。そこで、先ずほっとするし、そのミス・バーナビーと言う人物像が、私には特別魅力的に映ったからです。

 彼女は村中の人から「変わり者だ」と言われている人ですが、世界中をめぐってきた賢者で、しかもチェロを上手に弾く音楽家です。

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 ここにおいてこの童話が、私が過去に、好きになっている、二つの童話と共通する構図を持っていることに気がつきました。言わずもがなのことですが、剽窃とか、コピーと言うわけではありません。・・・・・ただ、親だけでは、子どもはうまく育たないという一面があることも確かなのです。そして、感性が鋭く、後年、クリエーターとか、芸術家になっていくような人ほど、親と自分との間柄に悩むものなのです。そこへ、適切なメンターが現れ、状況をクリアーにしてくれる。・・・・・その構図が似ているのでした。

 過去の愛読書とは、エーリッヒ・ケストナーの『飛ぶ教室』と、北畠八穂の『悪たれわらしポコ』です。飛ぶ教室の主人公は、エリート校の寄宿舎に入っています。彼なりの悩みのある少年ですが、村のはずれに住む、哲学を知るおじさんに救われます。『悪たれわらしポコ』の主人公は、もっと低年齢であり、状況は、もっとすさまじく、苦しいものです。貧しくて担任の先生からも差別をされます。しかも自分が作った詩の曲が、合唱コンクールの主題歌になっているのに、その練習にさえ、加えてもらえません。
 『どういうことに、なっているのだろう』とポコは深く悲しみますが、村のはずれに住む賢者のおじさんが、「それは、お前の名前、ポコを、畝戸(うねべ)と、漢字に直して、お母さんが東京へ応募してくれたんだよ」と、謎解きをしてくれることを機縁に、すっかり、心が落ち着くのでした。青森三沢基地、周辺の貧しい農村が舞台で、父親が戦死したポコの家では、お母さんは、遠くへ働きに行っています。が、その職業が基地に関係したもの(つまり、米兵相手の仕事)なので、もう、村には帰って来られないのです。捨てられたと思っているポコの周辺で、「お母さんは遠くからでも、いつも、ポコを見つめていた」と、判ったポコの喜び。ちゃんと愛されていることを知った喜び。

 そこで、私はドッと涙を流すのですが、この上記の童話「私のねこ カモフラージュ」でも、最後に、ドッと涙が出る場面が用意されています。上質のエンディングです。しかし、途中の描写は、まったく甘くないのですよ。大人はこれを読むと、ある種、背筋が寒くなるかもしれない。子どもって、これほど、正確に親の姿を見ているものかと思って。だから、大人の鑑賞に堪えるのです。それに両親の関係とともに、学校社会での、そういう感性の鋭い子の、生きる場所の確保の問題にも触れています。いわゆる無視されるという種類のいじめを、どう克服するかを、美しく示唆しております。

 著者は、コーディリア・ジョーンズと言って、後ほど、イギリス木口木版画の第一人者となる人ですが、この童話に書かれている頃、両親が一度別居しているし、そのために転校した先で、友達が出来ません。ので、自然を観察に出かけます。一人でスケッチをする。そういう孤独の時間が、創作者としては、非常に大切だったのでしょう。そして、内省的ですから、両親に対しても、大いに気配りをするのです。それは、かわいそうなくらいです。そしてそのベースになっている母への観察等が、とても、鋭いのです。そこあたりも並みの童話ではありません。
 なお、イギリス木口木版画については、この「私のねこ カモフラージュ」を訳された山内玲子さんほかが、主宰しているアリスという団体があって、そのホーム頁をご覧になると、イギリス木口木版画が、たくさん出てきます。そのURLは、以下に
http://www5a.biglobe.ne.jp/~alis/index.html  です。
  2008年12月14日   川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)

なお、今日は、昨日より、6時間早く更新していますので、良かったら、下も覗いてやってくださいませ。
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歓迎、『工藤進英』医師・の時間・再放送・他最近のNHKについて

2008-12-14 00:23:53 | Weblog
 この12月16日、NHKプロフェッショナルで、内視鏡で、大腸の手術をなさる工藤進英医師の時間が再放送されるそうです。それはとても、歓迎すべき現象です。

 NHKは、このごろ、民法で言ういわゆるコマーシャルみたいなものを、遣り始めました。術語では、番宣と言うらしいもので、短い隙間の時間を使って、今後、放映予定の番組を、視聴者に知らせます。最近の我が家では、NHKハイビジョン、または、NHK衛星、第一か、第二、を見ているのですが、火曜日だけは、昔からの一チャンネルの夜が面白いと思っております。

 でもね、番宣で、『面白そうだなあ』と思っても、実際に見ると、そうでもなかったり、『いや、わかりきったことだと思っていたのに、思いがけず、面白かったなあ』と思うケースもあります。
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 最近で思いがけなかったのが、『その時、歴史は動いた』の『マザー・テレサ』篇でした。立派な人の業績や、生涯に接するのは、凡人には、苦手なことですよね。結構、自戒とか、自責の念が起こってしまうからです。マザー・テレサとは、現代の奇跡と言っても良いほどの立派な人です。でも、その原点に、父が暗殺(?)をされた(独立運動他のために)事があったらしく、それを知らなかったので、それを、知らされて、ありがたく思いました。『あれほどの、苦難に満ちた行動を、一生を通じて、やり続ける、信念の基礎に、その父の死があった』と判っただけでもすばらしいことでした。深い覚悟のうえでの行動だったのです。『父が、暗殺まではされていない私が、この程度の人生しか送れなかったのは、普通のことだ・・・・・特に怠け者だったわけではない』と、思えましたので。

 ただ、ほんの小さなことで、その番組製作者へ文句を言えば、再現ドラマで、出演をした少女は、きよらかな姿と顔のまったき適役だったのですが、その着ていたジャンパースカートが、どうも、バーバリー社製のものに、見え、当時のバルカン半島に、それが、売っていたかどうかを、疑問に思い始めましたけれど。ふ、ふ、ふ。ほんとうにちいさいことですが。
それから、彼女がノーベル賞を貰う前までの活動資金は、彼女の所属していた、カソリックの団体から出ていたのでしょうか? 途中から寄付もあった事を聞きましたが、それ以前はどうだったのだろう。まあ、それは、本当に小さいことで、番組全体を見通せば、すばらしい事実を、数々、教えてもらいました。

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 しかし、番宣では、面白そうだなあと思っても、私の琴線に訴えないケースもあるのです。たとえば、岩田守弘さんという、ボリショイ・バレー団、第一ソリストのケースとか、武豊騎手のケースです。海外取材もあり、事前には、すごい感動を与えられると思っていましたが、それほどでもなかったのです。不思議です。

 ただ、出演者が悪いということでは全くありません。岩田守弘さんは、長らく、日本を離れているのに、非常にきれいな日本語を話す人で、それは、影に美しい心構えがあることを示しています。背がロシア人に比較して、低く、しかも、ボリショイに、外国人を出したくない(はっきりとは仰らないが)、差別があって、ご苦労のきわみなのですが、それを、たんたんと、美しい日本語でお話しになる、岩田さんは、まだ、30代なのに、非常に立派な人です。

 また、武豊騎手も日本では、恵まれすぎるほど、恵まれている人ですが、それを、打ち破るために敢えて、海外のG1(凱旋門賞)他に挑戦して、やはり、一種の人種差別風のものを受ける苦労を仰っている。

 この二つとも、登場人物には、文句の付けようが無い。

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 しかし、番組としては、その16日に再放送をされる、内視鏡医、工藤進英先生の時間ほど、私に面白いと思わせ、こころ震わせたものは、まだ、この番組では、他に見当たりません。特に先生がものを、自宅でお書きになるときの、姿・・・・・これが、最高でした。これこそ、砂岩の中に、オパールと化した、恐竜の化石を見つけた場合のようなものです。期待をしていなかった、宝石が、ひょいと、見つかった場面と言うようなものです。

 その場面の前までは、<こんなに、立派な人っているかしら? やっぱり、身近な人には、「いやあ、あの人はねえ」なんて、いわれているんじゃあないかしら?>なんて、いくばくかの懐疑があったのに、あの場面でそれは、吹っ飛びました。

 工藤先生は、本当の善人です。そして、番組も宝石のように成功しております。関係者ご一同、再放送、おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。病める人にも健康な人にも、工藤先生の、美しい人生やら、業績が伝わるのは、すばらしいと思います。
  2008-12-16  川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
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『蛙の大騒動―2、解剖実習』

2008-12-12 14:19:23 | Weblog
 うわーんと泣き出したら、奥から、父が飛んできました。そして委細を飲み込むと、寝巻きのまま、飛び出していきました。父は和服党で、普段着(室内着)は大島紬でしたが、その下着として古い浴衣を着ていて、それを、寝巻きとしていました。そのまま、着替えないで飛んで出て行ったのです。

 そして、15分ぐらいで、蛙を八匹ぐらい取ってきてくれました。次男坊で昔からやんちゃだったことで有名だったそうで、蛙を取るぐらい文字通り、朝飯前だったのです。確かに父は、そのとき、まだ、寝起き直後で朝ごはんを食べていませんでした。

 でも、その姿が丘の上に住んでいる、数十軒(いや、二百軒ぐらいからかも)見えたかもしれないということは、後で、考えてみると本当に申し訳ないことでした。実は、父は、晩年になるまで相当おしゃれな人だったのです。(上の写真は24歳のときのものです)

 晩年になって、既に何もかも洋服がそろって、どんなところへも出て行かれる、出席できるとなってから、安心して、やや、おしゃれではなくなったそうですが、若いときは、いつ何時、TPOに合わないという事ができても、すぐには、買えないわけですから、相当、考えて、揃えていたそうです。そんな父にとんでもない姿を、人目にさらさせてしまって、本当に申し訳なく思います。見ている人は蛙の解剖の事を知らないので、あの男性は何を遣っているのだろうと思ったでしょうし、知っている人が見たら、『ナンだったのかなあ。あれは』といぶかしく思ったでしょう。
 で、この一連の父母への感謝の文章は終わります。

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 ただ、昨日、ここまで書かなかったのは、実際の蛙の解剖実験について、これまた、記憶がよみがえり、いろいろな、事を考えて、今度はそれについて、お話をさせて頂きたくなったからでした。

 そんなに、おお苦労をしたのに、友達は理科が始まる前まで、「うわーっ。気持ち悪い」と言うし、なんと、理科室に入ると大きなガラスのふたつきガラスの容器に、蛙が既に何十匹と言うほど入っておりました。

 『先生が、二日ぐらいかけてお取りになったのかなあ』とも思いましたが、でも、ふと、『これって、いわゆる業者と言うのが、居るのではないかしら』とも思いました。子どもながら、理科の実験用教材を斡旋する会社があって、その中に、『生き物の配給と言うか、生き物を売る場合もあるのではないかしら』と思いました。だって、先生もおしゃれな方でした。だから、父や私みたいに、あんなみっともない格好をして、蛙をとっていらっしゃる姿を想像できなかったのです。

 先生は理科と言っても大学では、生物を専攻なさったから、生き物の分野に強い方で、だからこそ、化学ほかより、生物の実験には力をお入れになり、予算も充分あって、蛙ぐらいお買いになったのではないかしら。『なあんだ。そんなことだったのか、アンナに苦労をする必要は無かったのだ』と思って、ものすごくがっかりしました。一応先生に蛙を差し上げましたが、私の取ってきたサイズのものは胴体が、大体5センチから7センチまででした。『それはどうも小さすぎる』と、先生はお考えになったらしくて、私の蛙は、実際には使われませんでした。

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 先生は私たちの班に胴体が10センチ以上の殿様蛙を渡して、「これを使うように」と仰いました。それの四肢を、解剖台に打ち付けるのです。キリストの磔刑みたいに。蛙は麻酔が掛かっているのだそうです。この時点で友達は女の子も、男の子さえ、「うわあ、嫌だなあー」と口々に言い始めました。その時に私は、入学以来初めて、友達に、不満を持ちました。それまでは、みんなの事がこちらからは、大好きでした。なのに、昨日来、大変な苦労をしたものですから、蛙の解剖に意義を感じていて、非常に乗り気だったのです。

 誰が、腹を掻っ捌いたか覚えておりませんが、ともかく、腹膜が裂けて、内臓が出てくると、私は、その美しさにうたれ、相当な長時間かけて、それを、丁寧に写生を致しました。友達が、奇妙なものを見るような目で、私を見ていましたが、それは、気にせずに、ミニ・レオナルド・ダビンチになったつもりで、きれいに色鉛筆で色を挿して、仕上げました。ともかく、生きている内臓って、すばらしくきれいです。

 肺は赤くて、胆嚢は緑色、何か脂肪らしいものは、まっ黄色です。肝臓は肉屋に売っている色ではなくて、もっと、きれいだった記憶があります。蛙って、人間とは相当違う特徴を持つ、生き物ですが、脊椎動物ではあるので、内蔵の構成は同じなのです。

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 さて、しかし、ここで、思考はまた、変遷します。これは、私がAOLのメルマガ内ではよく取る方法ですが、このグーブログでは初めてだと思います。が、一度言ったことへ懐疑を持ち込みます。そして恐れ入りますが、またそれをひっくり返します。

 つまり、あれは、サイズが小さい蛙だから、冷静に解剖ができた。だけど、もしサイズが大きいもの、たとえばラット(大きなサイズのねずみ)とか、猫を、業者が持ち込んだらどうでしょう。それを、生きたまま、腹を裂くのです。それは、中学生が、きゃあ、きゃあ、言うのが普通かもしれません。

 でも、最近『豚が居た教室』と言う映画ができたそうです。それはまだ見ていませんので、詳しいことは何もいえませんが、横浜トリエンナーレでも、人間の肉体を、掻っ捌いた作品が、四点ぐらいありました。これの意義ですが、作者が何を狙っているか?

 私自身は洗練をされた、美しいものがすきですよ。だから、先に入った主人が「この部屋には入らないほうが良いよ」と言ったぐらいです。でもね、この根本的な衝動と言うか、なんと言うか、残忍なところも持っている人間と言うものを正面から見るための、暴力の研究であるような気がします。そこから、人間の精神のコントロールも出来るし、それゆえに品性の高さというものも、はっきり身につくことではないでしょうか?

 だから、あの、<腹の裂かれた蛙を、真正面から見据えたあの二時間強>は、私の一生にとって、とても、大切なものだったのです。蛙の肌は透き通っているような、薄い白で、フランスでは、蛙を食べる(ただし、殿様蛙ではなく、食用蛙ですね。それは、ものすごい大きな声でもうもうと鳴く蛙です)というのを納得しました。そして、先ほども言ったように、病気になっていない内臓とは、非常にきれいなものでした。

 ありがとう、蛙さん、そして、あの経験をさせてくださった先生や、田んぼの持ち主。そして、小さな男の子たち、そして、私のお父さん。・・・・・ありがとう。
2008年12月12日、    川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)

 なお、今日はいつもより、12時間ほど早めに更新をしております。もし、あなた様が、日本時間の夕方から夜にかけて、この頁をお開きになる方でしたら、下にどうして、私が大泣きをしたかが書いてありますので、良かったら、それも覗いてやってくださいませ。
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蛙の大騒動ー1

2008-12-12 00:30:55 | Weblog
 親に関する思い出は、こちらの、気分によって、美しいことを思い出したり、つらいことを思い出したりいろいろです。しかし、先週からの流れに沿って、もうひとつ、<これは感謝しなければならない・・・・・だけど、まだ感謝していない。しかも感謝しないうちに、親は死んでしまった>という話があり、それを、昨日から思い出しています。

 これは、五十年前の話で、中学二年のときの解剖用の蛙にまつわる話です。先生が「来週は蛙の解剖だから、必ず蛙を取ってきなさい」と仰いました。私はその時『嫌だなあ。この命令。蛙なんか、自分に取れるかしら』と内心では思いました。女の子だし、小さいときに外遊びをした事が無くて、蛙なんか、手で触ったことすらないのです。ともかく、小学校に入学するまで同い年の友達と遊んだ事が無い人間で、兄弟もいない一人っ子(7歳まで)でしたから、まったく、室内だけで、過した人間です。

 これは、父が一時期満鉄に勤めていて、満鉄の社宅には小さい子が居なかったということと、危険だったり寒かったりして、室内だけで過したことと、引き上げてからは親戚の家に逗留していて、そこにも小さい子はおらず、その後は、ご近所がほとんどいない場所(となりのトトロの家みたいなところ)に住んでいたからです。

 この蛙の解剖の頃は既に、家が一杯ある日吉に越していました。で、駅傍の金物屋で、竹の棒付きの網を買ってきました。学校から帰って、先ず、おやつを食べて、制服を脱ぎ、<同じ日吉に一人だけいる学友が、別のクラスなので、彼女を誘えないので、それも嫌だなあ>と思いながら、でも、超がつくほど、真面目なので、ともかく、田んぼに向かいました。

 横浜の五十年前と言うのは、丘の上は、住宅街に既になっていましたが、低地は田んぼだったのです。季節は五月の末。田んぼは田植え前で、あぜ道をきれいに塗り終わったところで、それが、まだ、固まっていないときでした。でも、田んぼの方には、既に水が貼ってありました。

 私は水の中に入ることは、予想もしていなくて、運動靴だったので、あぜ道を歩きました。すると、靴あとがくっきりとつきました。『まずいなあ。ごめんなさい。お百姓さん』と、心の中で思い、辺りを見回しましたが、誰も居ないので、安心して網を田んぼの水の中に突っ込んで引っ掻き回しました。

 蛙は居ました。でも、私には全然取れません。蛙なんか取った事が無いので、コツがわからないのです。三十分ぐらい奮闘して、あぜ道に点々と、靴あとを付けて回っていたら、どこからか、小学校三年生以下だと思う男の子が、三人ぐらい現れて、「何をやっているの?」と聞くので「かくかくしかじか」と申しますと、「僕たちがとってあげるよ」と言います。さすが男の子、しかも三人もいるので、たちまち、十匹ぐらい取れて、私はそれを、持ってきたバケツの中に入れて、さっきの棒付き網で蓋をして、逃げないようにしました。

 ところが、突然田んぼの持ち主が現れて、「何を遣っているんだ」大音声で叱られてしまいました。これは、丘の上に誰か知り合いが居て、電話でも掛けたのだと思います。だって、もう夕方だったから。夕方に農作業をするお百姓さんなんて、日吉には居ません。お百姓さんは、すなわち地主で、大金持ちで、趣味みたいにして田んぼを作っていたので、そんなに、大面積を持っているわけでもなかったのです。<ちょこちょこっと働けば、それで終わり>と言うような日々の作業形態だったでしょう。

 男の子たちは、その声で蜘蛛の子を散らすように逃げてしまい、私は独り、散々叱られました。「蛙の解剖を、しなければならないのです」と言っても、どうも、その人はやった事が無いらしくて、イメージがわかないらしく、ただ、ただ、私を「もう、大人なのに(既に背は高かった)、とんでもないことをする」と怒って、許してくれませんでした。でも、私は、蛙だけは必死でキープしたまま、丘の上にある我が家に逃げ帰りました。

 そして、井戸端にある、小さなコンクリート打ちの土間スペースで、網をはずし、台所用の別の金網でふたをして、その上に重りを置いて、蛙が充分に息が出来るようにしました。母に、「餌をどうしよう」と相談すると、「大丈夫でしょう。一日ぐらいえさを遣らないでも」と言ってくれたので、その晩は安心して寝ました。

 次の朝、早めに起きて、バケツの中から、ふたに釘で穴を開けたミルクの缶に移そうとしたのです。その頃は年がはなれた弟が小さかったので、ミルクの缶はたくさん家にあったのです。

 ところが、その途端、すべての蛙は、ぴょん、ぴょん、ぴょ、ぴょ、ぴょーんと、逃げてしまいました。私は蛙が、万一逃げる場合も予想して、広くてつかまえにくいと思っていた庭の方ではなく、四隅を囲まれた一坪以下の狭い土間においていて、そこなら、捕まえられるだろうと思っていたのに、予想外のすばやい動きで、さっと逃げ出し、エンの下というか、塀と家の間というか、どこかにすべてが、逃げ込んでしまい、一匹も手元には残りませんでした。

 蛙の身になって考えてみると、前日の夕方はショック状態で、身動きが鈍かったのでしょう。が、一日、静かにバケツの中で過してみて、「絶対に逃げてやるぞ」とでも、お互いに相談しておいたのでしょう。一瞬とでも言うようなすばやさで、一匹もいなくなってしまったのです。

 私は「うわーーん」と声を挙げて泣き出しました。だって、どう考えても、一人ではこれだけの数の蛙は捕まえられません。

 実は、前日あれほど、必死になったのは、横浜の中心街に住んでいる友達の家の付近には、田んぼが無いのを(遊びに行った事があるので、既に知っていて)自分がとっていかなければ、誰も解剖が出来ないと、思っていたのです。蛙がいなくては、自分も困るし、友達も先生も困ると思っていたのです。イラン映画の『友達の家はどこ』ではないが、自分も困るし、友達も困ることは二重に悲しいことでした。

 そして、一匹か二匹、捕まえるのだって、これから、やったら、学校に遅れてしまいます。だから、本当に悲しくて、しかも切羽詰ってしまって、声を上げて泣き出したのでした。

 この後は明日お知らせをさせてくださいませ。文章が長くなりすぎます。          2008年12月11日    川崎 千恵子(筆名 雨宮 舜)
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母が、弁護士を頼むほど、泣いた日

2008-12-10 23:18:43 | Weblog
 
大変、申し訳ございませんが、今日は昨日より、二時間程度早く更新しております。父に関する昨日の文章が下にあり、それの、続きとしての今日の文章でございます。良かったら、下もご覧をいただきたく。

 母は父に愛されておりました。それほど、強い実行力のある人で、本質的には弱いところのある男性を支える、ある種の意味で、理想の、ゴッドマザーでした。だけど、私が家にいた、25歳ごろまで、そうですね。父が、病気を発症しない前までは、母が明瞭な発言として、それ<すなわち、父を大切だと思っている>を、言ったことはありません。

 父が一時の気迷いとして、愛人みたいな存在が出来たころは、母はじっと耐えてギターの練習だけをしていたのですが、その後、その問題が解決してからは、ちょっと、安心しすぎて君臨するというぐらいに、威張っていたと、私は思います。

 愛するものと愛されるものは、愛するものの方が弱く、愛されるほうが、相手に強く出られると、若い頃に聞いた事がありますが、父が強く出られず、一方の母が、とても、自信のある強い人だったのは、母が父の愛を確信していたからだと、私は当時から知っておりました。だからこそ、気持ちを無視されることもある父が、かわいそうだと思っておりました。
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 ところが、私が自分自身のことで、本当に忙しくしているうちに、いつの間にか、父はパーキンソン氏病(治る見込みが当時はなく、必ず数年のうちに死ぬ事が予知されていた難病)にかかっており、そのことをどう自分で昇華するか、相当悩んだらしいのです。その上で、社交ダンスをリハビリとして始め、一週間に、5日ほど、別の会場でダンスのレッスンを受けるようになっておりました。

 例のごとく、お金を倹約する人ですから、そのうちの、4つぐらいは、公民館のもので県とか、市とか、区のクラブに行っていたと思います。一つだけ民間のダンス教室に、母を連れて行っていて、そこでは、「ものすごく仲がいい、おじいちゃんとおばあちゃんのカップルとして、有名だった」と、ずっと後の、ホテルでの大会のときに、母の後輩から聞きました。母はその時の同僚たちに、ずっと大切にされたので、父が亡くなった後も、その同じダンス教室に通っていました。タンゴを父と踊る時に、母がぐっと胸をそらせている写真もあります。

 しかし、そんな、ゴッドマザーたる母が子どものように、ぽろぽろと涙を流して、私の発言に抗議をしたときがあって、その時に、母もまた、父をどれほど、愛していたかを知りました。

 母は何でも丁寧にきちんとする人で、父の介護も完璧でした。そのために、胸全体の骨に、微細なひびがはいっているそうです。もちろん、父の体重が自分の2倍くらいあるので、すべてを自分でこなすのは無理で、介護の制度が整っていなかった25年以上前に、元看護婦だった若い奥さんに、一日に、二時間から、三時間来てもらい、一緒に体を清拭することとか、シーツ交換を遣ることにしておりました。

 で、ある日、銀行の用事か何かで、その人が来ている間に、母は、外出しました。その間に、入浴サービスの会社が来ていたのですが、母が帰宅する前に、その会社は、帰ってしまいました。父の体が重くて、お風呂場などへは運べないので、簡易クレーンみたいなものを利用して、簡易なバスタブへ入れるのです。

 だから、普通なら、とても、時間がかかるものだそうです。それが、いつもより、時間が少なくて終わったみたいで、それも、不思議だったそうですが、その謎は後で解けました。と言うのも、その留守番役、兼介護補助役の奥様が、気の毒そうに、「ご主人様を、ビデオに撮っておりましたよ」と教えてくれたそうです。

 母はびっくりして、すぐ、その入浴サービスの会社へ、電話を掛けました。「何の目的でビデオを撮ったのですか?」と。でも、相手は、「いえ、別にたいした目的はありません」と答えたそうです。しかし、その元看護婦である奥様が、「きっと、勧誘のための、宣伝に使うのでしょう」と、母に教えてくれたそうです。

 それで、母は弁護士にお願いをして、すぐ、そういう利用の仕方をしないで欲しいと、差し止めをしたそうです。それは、母、独りで、子どもにも相談もしないで決断をし、行動したことのようでした。

 後日遊びに行った私が、顛末を聞かされて「ええ、そんなことで、弁護士さんまで頼んだの?」とちょっと驚いた顔をしたら、母は、突然、涙をぽろぽろ流して、「だって、こどものようになっている人を、守るのは、当然でしょう」と、私に強く抗議をしました。その時に、母が、純粋な愛情、いわゆるアガペー(神の無償の愛と言うもの)に近いレベルで、父を愛していることを、私は知りました。

 「お父さんの裸を他人に見せるのが、それほど、嫌なの?」ともう一度聞くと、「そんな、ことは当たり前でしょう」と、またも、涙を流しながら、抗議しました。

 私は、床ずれ、一つ無い形で介護していて、決して、やみ衰えているという体でもなく、未だに、鍛えぬいた筋肉の残っている父が

 (もちろん、股間などを、映しているはずは無いので、・・・・・・それほど、あくどい事をしたら、誰もその会社へ、入浴サービスを頼まないでしょうから)

 変な形ですが、モデルとして選ばれたことは・・・・・一種の・・・・・母自身の誇りとしても良いのではないか・・・・・、と言うぐらいに、簡単に考えていたのですが、母の心情はまったく違っていて、口の利けない父の名誉を守りたいと、切に願っているのでした。父のことを、大切に大切に、扱(思)っているのでした。

 もう、働けない、お金も儲けてくれない、一種の無用の人となった父なのに、大切に、大切に扱っている母でした。

 あの母の涙を見たことも、今、私がどんなに、忙しくても、また、どんなに疲れていても、毎週一回は老人ホームへ母を訪ねる気力を、生んでくれています。あの母の涙は、それこそ、わが家版『我が母の、教えたまいし唄』です。

 2008年12月10日、             雨宮舜(川崎 千恵子)
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我が父の、教えたまいし唄

2008-12-09 23:45:25 | Weblog
 昨日まで、私は、建築が主要なテーマだった夢に専念しておりました。それを、他者へどう伝えようかと腐心をしておりました。それで、この私としては珍しく、人間の写った写真を使いました。これでも、一種の資料調べと言うわけです。普段はほとんど、それを遣らない人間なのに。

 そのとき、古いアルバムを紐解いていると、昨日選んで、このグーブログへ載せた、写真とは別のものも見つかり、さまざまなことを考え始めました。今日、上にのせたのは、34年前の私とその家族ですが、昨日の写真を見ているうちに、この小さな家族を、父がどれほど、愛してくれていたかが判りました。

 昨日の写真では、父は、こちら、すなわちレンズを覗いている私の方は見ておらず、むしろ、子どもたちに目を注いでいます。父はシャイな人だったらしいのです。それは、主人が、私に言います。「あの人は、僕に一度も直接の電話を掛けてきた事が無い。お母さんは掛けてきたけれどね。本当は、相当シャイな人だったんだ」と。だけど、シャイだから、娘から目をそらしただけでもなく、孫も可愛かったんだと思います。

 NHKの人気の大河ドラマ『篤姫』ではないけれど、家族というものと、それを結びつける愛というものに今日は触れたいのです。特に、当事者はなかなか、それに、気がつかないということを、お話をさせて頂きたいのです。

 父は、この子たちが初孫だったから可愛かったわけですが、母のことも相当大切に思っていたし、娘の私のことも、相当大切にしてくれたのだったと、今ではつくづく判ります。が、当時、「お父さん、ありがとう」といった覚えが無いのです。どことなく、娘の本能としては、父がシャイだったことを知っていて、そこを刺激したくないと思っていたのでしょう。
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 しかし、もうひとつ、私にのみ、判っていた事がありました。それは、父が『報われていない』ということでした。父は母を愛し、子どもたちのことも親戚の人間も、そして、自分が使っていた人たちのことも(母が老人ホームへ入る前までは、その当時の従業員たちから、りんごが毎年送られてきていたのを、私は知っております)過剰なほどに愛していましたが、相手から尊敬を得たりするよりも、むしろ、今の言葉で言えば『うざったい』と言うくらいに、軽くあしらわれていました? 特に母に。

 そして、そのこと自身を父は知っていました。それゆえに、彼は、図体が大きく、また、お金儲けも上手で、ご近所のおじ様が、私に「お宅のお父さんは立派なもんですよ。お金で生まれる自由(たとえば海外旅行のこと)と言うのを、家族に与えるのだって、男としては立派なものです」と言ってくださるほどの側面もありましたが、自分では、自信を持てず、『あれじゃあ、男じゃないよ』と、私が思うくらい、控えめなところがありました。

 知識を生かすとか、特技を生かすことには熱心で、それゆえに、設計図も描けば、自分のうちだって、材木屋は、「木曽ヒノキが手に入りやすいから」と言って、わざわざ静岡の業者を選び、大工もそこから紹介された人を、隣の駅である綱島の旅館に滞在させるなどしました。日吉の1949年に建てた家はそういう風にしてできあがりました。

 小さかったけれど、新築当時は濡れ縁もあって、本格木造建築の風情が充分ありました。<中間業者に、利潤を取られると言う事を、できるだけ、避ける>という形で、何もかも自分で遣るから、お金を残せた人なのです。

 何か、特別な手法をとったわけでもなく、すべてのことに対して、一般の人が払うお金の3分の2ぐらいで済むような、努力と工夫をした人なのです。

 そして、絵を描く事と、街を渉猟することと、将棋をクラブで打つことと、仏教の研究をする事で、健康な時代を過しました。対社会的には○○会の会長とか、理事長と言うような事を一切引き受けず、非常に静かに過したひとです。

 その後で、パーキンソン氏病を発症し、特にそれが、原因で転んで脳挫傷を患い、言葉が話せないようになり、寝たきりにもなりましたが、その前に残してくれた言葉が、今ではいちいち、その通りかもしれないと思われ、とても懐かしいです。

 たとえば、上の写真に写っている孫たちですが、私はこの子たちが、小学校に上がるまでは、100%のお母さんだったのですが、小学校へ上がると急に絵を描き始め、それゆえに、ある意味で子供を放ったらかしにしていたのです。それは、いけないことだった(口には出さなかったが、実は、とても、寂しがっていた)のが、後でわかりましたが、父は当時から、「あんなに、出歩いていて、いいのかなあ」と、母に心配げに話していたそうです。

 そして、そんなに活発に外で活動をする私を、戒めるためにでしょうが、「平凡に生きる事が一番難しくて、一番大切なことなんだよ」と言っていました。

 創作活動のもたらす魔術的な魅力とか、芸術活動、特に発表の際に起きるいろいろな問題の、厳しさを知っていたからこそ、子供を生んでしまった私が、その両立が出来るかどうかを危ぶんで、心配してくれていたのです。もう一つ、こちらは、小さい戒めの一つですが、「人生の要諦とは、人の嫉妬を招かないことだ」とも。

 その両方とも未だに、私は、マスターできていませんし、上の写真のままに、成熟したらきちんとした奥様タイプになっていたでしょうが、今では、年齢不詳のおしゃれでないおばさんとして、銀座に出入りしています。あまりにも本作りにエネルギーとお金がかかるので・・・・・時間の面でも買い物の面でも、全くおしゃれをしている余裕が無いのです。そして、それ以前の数十年もまた、現代アートの作品制作と発表にかかりっきりだったので、それも、また、エネルギーとお金を使う世界だったからです。

 でもね、この話は続きます。父と母の愛情の交換が、本当のところはどうだったのか、そして、母もまた、晩年にすさまじい成長を遂げます。それを、語りたいのです。小さな家族の話ですが・・・・・有名な人は誰も出てこない話ですが・・・・・

 なお、今日のタイトルは、有名な歌、(私もいつも、口ずさんでいる歌)「我が母の教えたまいし唄」をもじりました。ちょっと、かっこつけておりますが、お許しください。せめて、タイトルでも気取らないと、「中身が小さかったね」と読者がお思いになるでしょうから。

    2008年12月9日       川崎 千恵子 (筆名 雨宮 舜)
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