銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

猫ががん死して、初めて分かった、ヘレンさんの過去と苦しみ

2009-08-31 20:11:29 | Weblog
 ヘレンさんの家を辞して、私とベッティさんは、駅の方に向かっていました。私はその頃は、ものをはっきり言えない人でした。でも、この件だけはヘレンさんを批判をしたいと思っていました。

 ヘレンさんは殺虫剤を、猫本人にかけてしまうのです。ヘレンさんの家へ遊びに行ったときに、それを目撃した私は、『これだけは、困った事だなあ。どうして、猫好きなヘレンさんは、猫が毛づくろいという事をして、体をなめる事に気がつかないのだろう。殺虫剤は毒薬でもあるのに』と長らく思っていました。『猫ノミぐらいどっちでもいいじゃあない。それよりも殺虫剤の方がよほど怖いわよ』と思っていました。

 私たちはテレビや新聞からの情報に左右されやすいのですが、じっくり考えてみると、意外な真実も見えてきます。戦前の日本では人糞を肥料にしました。それで、回虫の卵なども空気中にたくさんあって、寄生虫を体内に抱えている人も大勢いたのです。しかし、その頃は、ガンもそれほど多くなく、ましてやアトピーとアレルギーなどもいまほど多くはありませんでした。

 どこかの学会で、清潔すぎる生活が、アトピーやアレルギーを引き起こすと発表をされたそうです。ある程度の不潔さが有った方が、免疫力が増すというか、・・・・・

 ノミやシラミと言う生き物のもたらすドクと化学薬品のもたらす毒とでは人間にとっては、化学薬品の方が怖いような気がします。「ノミやシラミが平気」と言うと、皆様が誤解をなさるでしょうが、先週、一週間以内に、ムカデにかまれて初日はものすごく痛くて、次の日から4日か、5日間かゆくてかゆくてたまらなかった私は、ともかく、その毒が去れば、後は、ちょっとしたかさぶたができているだけなので、虫毒の方が軽いと思うのです。しかも、次にムカデにかまれたときは免疫があるはずで軽くなるのです。かくいう私も、今回が二回目でした。だから、以前のときより軽かった気がします。

 大学で化学を専攻しただけに、余計にそう思っているのです。

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 で、三十年前の当時は、人生経験も少なく、自信も少なかった私は、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、ベッティさんに向かってだけ、「ヘレンさんがあの粉を振り掛けるから、ショウグンは死んだのよね」といったのです。

 するとベッティさんが例のごとくの、ざっくばらんではっきりした物言いで、「あら、ヘレンさんって、DDTに麻痺しているのよ。だって、アウシュビッツの生き残りなんですもの」といったのです。

 びっくりしました。あらゆることにね。まず、そんな大それた秘密をあっさりと明かしてしまうベッティさんに。だってベッティさんは純粋な日本人なのです。ふっとした拍子に、つつしみとか、恥じらいと言うものも見える人なのです。それがそんな大きな秘密を軽く言ってしまうということに。

 でも、今ではベッティさんに感謝しています。今の私は相当に図太くなっています。平家物語の中の「見るべきほどの事は見つ(見果てた)」ではないが、人間のいろいろな側面を知ってしまい、かつ、人間が、『どんな人も、隠された不幸のたねと言うか芽を持っている』ということも知り始めました。

 経済的にも社会的な身分と言う意味でも大変に恵まれたヘレンさんには、幼い頃に、
 普通の人には、経験のしようもないほどの大きな不幸に直面していたのでした。

 ・・・・・・『そんな過去があるのに、今あんなに平静で平和でいられる。日本文化を愛し、理解し、そして、猫を可愛がる。珍しい短尾の猫をアメリカに持って帰ることに今は情熱を注いでいる、中流の上といえる階級の婦人である。たたずまいも志も美しい。それなのに、普通の人にはわかりそうな、簡単な事である、DDTの毒性を軽んじて、毎日数度、猫の体にふりかけてしまう。

 それは、彼女が子どもの頃、体に大量のDDTをふりかけられていて、DDTの毒性に麻痺していて、気がつかないのだ。でも、猫は体重は少なく、許容量が人間より少ない。それで、ショウグンはあっという間にガンで死んでしまった。タイから持ってきたという、前からいた大人の猫、二匹も痩せている。

 でも、『この殺虫剤の毒のことは、今は、アウシュビッツのことをしってしまったからこそ、注意できないなあ』と感じた私でした。

 「ヘレンさん、そんなに、たくさん粉をかけては駄目よ。だから、ガンになっちゃうのよ」なんていったら、大変失礼と言うか、残酷な事を、私がしている事になります。

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 私は映画やテレビで、若い頃に見たアウシュビッツの捕囚の人々の映像を思い出しました。うつろな目をしながら裸にされて、「清潔のために、これからシャワーを浴びます」と言う嘘をつかれて、ガス室に送られた人々の映像です。

 そんな事は遠い遠いヨーロッパの事で、自分の日常生活とは全く関係がないと思っていました。

 このことは、猫好きなヘレンさんが可愛がっていた短尾の猫が、彼女の留守中に急死するという事件が無ければ知らなかったでしょう。特に預かった人が、責任を感じて解剖をしなければヘレンさんは、あの内臓入りのガラス瓶を私に見せなかったでしょうし・・・・・

 すべては偶然ですが、人間が歴史の中に生きている事を知らせてもらった貴重な経験でした。そして、人は見かけによらぬもの・・・・・と言う事も・・・・・

 普通に見える人にも、影に大きな事が隠されて場合があるのです。三人と言う形の会合は、秘密を打ち明けるのには、ふさわしくありません。社交に傾きます。だから、三人であい続ける限り、私はこのことを永遠に知らなかったでしょう。

 そして、ベッティさんが、坊ちゃんへの愛ゆえに、小学校のPTAから姿を消したときから、私はヘレンさんに会うのを遠慮しています。そのまま、三十年以上が過ぎました。でも、京浜急行のバスが、NAVYと後ろに小さく書いてあるワゴンに追突をされた途端に、私はタイムスリップをして、こういう事をすべて思い出したのでした。 2009年8月31日    雨宮 舜(川崎 千恵子)
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平原綾香の『誰も寝てはならぬ』(緊急割り込み)

2009-08-30 20:35:11 | Weblog
 今日は緊急割り込みで、歌劇トゥランドットの中の有名なアリア『誰も寝てはならぬ』について述べたいと思います。この歌を2000年にメトロポリタンオペラで、見たときから大好きになっていました。その日は三ヶ月のNY滞在の最後の方で、版画の制作で、疲労困憊、『一階の席なのに、もったいないなあ』と思いながらも目が開けていられないのです。ほとんどの場面で寝ていたのに、このアリアが始まった途端にはっきりと目が覚めました。

 主人公のカラフ王子はひざを屈する形でこれを歌っています。それが座席の間から見えました。そして、衣装は後日、荒川静香が使ったように、青と白が身体の中心で、色分けされているものです。ただし、王子ですからビーズやスパンコールの飾りは無し。

 そのときから私は一人で歌っていましたが、荒川静香がトリノ・オリンピックでこれをテーマとしたことから、人前で歌うようにもなりました。銀座の画廊でも三回ぐらいはこれを既に歌っています。普通の場合は、クラシックを歌うと、そのメロディを知らない人が多いので、受けないのです。ところが、琵琶湖周航(?)歌のようによく知られている歌(私の世代での話しですが)だと、馬鹿に受けます。その歌のメロディが単純でも、誰もが知っている歌を歌うと受けます。

 しかし、素人歌手にとって、単純な、しかも誰もが知っている歌を歌うのは非常に難しいのです。ぼろが出やすいのです。美空ひばりのように玄人で、しかも表現力のある人だと、『酒は涙か、ため息か・・・・・』のような、楽譜に直せば非常に単純な歌でも、人を感動させられます。

 だから、私はメロディがやや複雑なセミクラシックを歌うのが好きです。が、受けない事も覚悟をしなければなりません。ただ、それに日本語の歌詞をつけたらよいのだろうなあ・・・・・と考えていました。ソルヴェーグの歌については既に、自分の歌いやすいように歌詞をつけました。

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 ところが今日、驚いた事に、このトゥランドットの『誰も寝てはならぬ』が鶴岡八幡宮から聞こえてきたのです。午後一時から三回ぐらい、女声で歌われました。この時点では、距離にして40メートル、高低差にして40メートル離れていますし、間に重層的に葉っぱがあるので、声がくぐもっていて誰が歌っているかは分からなかったのです。

 私は鎌倉市内で治療院を開いている主人へ電話を掛けて、「誰が歌っているか見てきてください」と頼みました。普通の場合は、私はあまり、物見高い方ではなくて、ミーハーチックではないのです。それで、音が聞こえてもほとんど、見に行きません。今回トゥランドットの『誰も寝てはならない』を歌っていたので、特別に興味が沸いたわけです。

 主人の方は朝な夕なに、八幡宮を通るし、大きなパフォーマンスがあるときは、帰宅を一時間ぐらい遅らせて、みて帰ってくるので、頼みやすかったのでした。

 主人はケータイにメモをしてきてくれました。渡辺美里と、平原綾香が、主な女性歌手です。『誰も寝てはならぬ』は元歌は、男声(テノール)ですが、山の下から上がってきたのは女声ですから、どちらかが歌っているのだと、信じて、それを見に行きたくて、夜の七時に、投票をかねて、山の下へ降りていきました。

 司会は葉加瀬太郎です。彼が思いがけないほど、司会者としてもさばけた(かつ、くだけた)人であることには、初めて接して驚かされました。

 ただ、残念ながら、七時以降には、私の目的とする曲目は演奏されませんでした。で、私は、隣に立っている奥さんに聞いたのです。すると、「ああ、それは平原綾香です」とすぐ教えてくれました。で、私が「少し、ヴァリエーションを加えていましたね。最高音部は低くしていて・・・・・(これもポップスへ近づけて誰もが歌いやすくするための、工夫だと思いますけれど)・・・・・」と言うと、

 その奥さんも「ええ、そうですね」と応えた後で、お互いに音楽好きな事が共感を呼んだのか、もっと大切な事を教えてくれました。「ところで、それは、9月7日にリリースされるようですよ」と。

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 私はびっくりしました。この曲は大好きです。でも、人前で歌った限り、『まだ大衆的には受けないだろう』と考えていたのです。でも、平原綾香が歌うのならぴったりです。彼女はジュピター(原曲はホルストの『惑星』から)を既にヒットさせています。

 クラシックを、自分のものにして、一種の和製ポップスとして歌っています。それなりにファンがいるから、CDを買う人は多いでしょう。そこから輪が広がっていき、大ヒットになる可能性があります。

 それは、私には非常に嬉しい事でした。西欧音楽のダイレクトな咀嚼に当たるからです。

 日本は目の国と言うか、美術の優れている国です。
 だけど、音楽と言う意味では、メロディラインがずっと長い間、単純でした。邦楽のメロディと言うのは劇的ではありません。民謡もそれほど、メロディラインが複雑ではありません。

 メロディの複雑さをマスターしようとすれば、どうしても西欧音楽の影響を受けないと駄目だと感じます。その影響を受けて、普通の人へ伝達をする存在として、平原綾香はぴったりです。聞くところによると、彼女は音楽一家に生まれたそうです。そして、私の観察によれば、食事も正しく豊かなものを食べて育ちあがったと思われるお嬢さんです。その人が、西欧のメロディを、100%自分のもののして歌う、・・・・・それが素敵です。しかもジャストと言ってよいほど、適宜な存在だと思われました。これがもし、佐藤しのぶが、「男声の歌ですが、挑戦してみました」と言ってCDを出しても、ヒットしないでしょう。意外性がないし、大衆的な、分かり易い仕上がりとは、ならないでしょうから。

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 私は、その情報を人づてに得たわけです。そして、家ヘ帰ってきて、パソコンを開き、グーグルの検索で、平原綾香の頁を開き、そのCDが「ミオ・アモーレ」と言うタイトル(・・・・・アルバムは、my Classicsというタイトルですが・・・・・)で、8月26日に発売をされている事を知りました。

 そして、それを試聴したりしながら、詳細に検討したら、同時に『カタリ・カタリ』も収録されている事がわかりました。彼女の言葉で、「両方とも男性の歌ですが・・・・・」と書いてあります。

 だけど、だけど、これをいっちゃうと、皆様に、またまた、嫌われるでしょうが、『カタリ・カタリ』も、私が三十代から四十代に掛けて、大好きだった歌なのです。偶然ですが、中年期に好きだった曲と、老年期に好きになった曲の二つが入っているCDとなりました。これは、買わざるを得ません。

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 私は『預言者は世に容れられず』と言っていただいた事があります。で、ちょっと先んじすぎていて、大勢の人の賛同を受けられないという思いをした事は多いのです。で、最近の私は、務めて、過去の事だけを話そうと思っているのです。しかし、心配して・いる事は多いのですよ。あれを言いたい、これを言いたいということは、たくさんあります。特に今回の選挙に関して言えば、『小選挙区制の弊害が、今回ほど、現れた事はないなあ』と思っています。怒涛のごとき、一党独裁へ入っていった。

 これで、日本の政治は大丈夫だろうか?・・・・・と、心配しています。でも、このみの歌の曲目で、世間(または世間をこれから誘導するであろう、平原綾香)に先んじていたのは、嬉しかったです。単純な事であり、誰にも迷惑を掛けない事ですから・・・・・
     2009年8月30日   雨宮 舜(川崎 千恵子)
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ショウグン(短尾の猫)は、ガンで死んだのですが・・・・・

2009-08-29 22:59:02 | Weblog
 30年前のその頃にはペットホテルなどありませんでした。ヘレンさんはしょっちゅう日本国内に旅行に行くわけです。猫、三匹をどうするか? その点ですが感心をしたのは、ご近所様に預けていく事ができることでした。ヘレンさんは非常に謙虚な人で、それゆえに、嫌われていなくて、猫を預けて旅行に行く事ができるのです。

 しかし、猫好きの私などが、2週間の海外旅行をしたときに、実家に預けたわけですが、猫は環境が変ると逃げ出したりして、大変です。それを予測した私が、スポーツ用品の専門店で、上等な綿ロープを買ってきて、「必ず、これを首輪に付けておいてね。反対側をどこかに結ぶ必要な無いのよ。だけど、このロープが重いから、逃げても必ずつかまえられるからね」と言っておいたのに、一回その忠告を無視してロープを首輪からはずしてみたようです。未だに母がそのときのことを、興奮して話すほどです。大騒ぎになった模様です。

 直径が一センチぐらいの綿ロープを三メートル後ろにたらすと、それは相当に重いので、猫がよたよた歩く感じになります。それを見た、祖母と娘は善意からですが、「かわいそうだから。はずそう」と合意して、はずしました。

 その途端、待ち構えていたかのように、猫は逃げてしまいました。夏ですから、ひょいと、はき出し窓から逃げたのです。昔はクーラーなど無くて、夏は窓は開けっ放しだったのです。私たち夫婦が出発後の、三日目ぐらいで、「すっかり慣れたわね」と祖母と娘が安心していたのに、猫はさっといなくなってしまいました。

 娘は泣いたそうです。「あんなにお母さんが、『ロープを首に結んでおいてね。重いから逃げても必ず、つかまえられるから』と言っていたのに、はずしたら行方不明になっちゃった。猫って、本当のおうちに帰るんだって。でも、途中で交通事故にあったり、飢え死にしたりするんだって」と泣いたそうです。

 でもね。その頃の猫、チビちゃんは相当賢い猫で、天井か、床下で娘が泣いているのを聞いていたのでしょう。何時間かたった後で、ひょいと顔を出したそうです。あわてて、二人が捕まえて、(男の子は主人の実家に預けていました。猫と娘だけを、私の実家に預けたのです)それ以降は、3メートルのロープをつけたまま、自由に放したそうですよ。どこかの柱に結わえ付けるのではないのです。行動としては自由にさせてあげるのですが、ロープの重さで、猫特有の敏捷さが失われるので、人間が追いつくのです。どこかへ逃げそうになったら、抱きしめて窓を閉めれば済む事なのです。

 これは、私が1980年代に夫婦で、一緒に海外旅行をするときに、思いついたというか、実験を重ねた方法で、猫をよそのお宅に預ける際には相当有効な方法です。ペットホテルなどに預ければ、ケージ(駕籠ではあるが、猫にとっては牢獄みたいなものです)に入れっぱなしになりますので、この綿ロープをつけて、普通に放しておく方が、ずっと猫には快適なはずです。ただ、今でもこの重い綿ロープを売っているかどうかが分かりませんが。

 白い木綿糸がたくさん撚り合わされてできているもので、昔は大縄跳び(クラス中が参加して冬は遊んだものですが)に使っていたものです。

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 ヘレンさんは猫好きだから猫に甘くて、そんな制限みたいな事は思いつくはずも無く、ただ、「お願いします」と言ってご近所様(日本人の普通の主婦)に預けたわけです。ただ、謙虚で静かなヘレンさんとお友達になっているぐらいですから、それは、できた奥様でしょう。

 ただね、『ご近所とは言え、他人の猫を三匹も預かるのは大変だろうなあ。その逃げ出す事も含むから。特にやんちゃなショウグンは元野良猫だから、外へ出たがるだろうに。それを逃げ出さないように管理するのは本当に大変でしょう』と私は推察していました。その推察どおりだったのです。

 ヘレンさんの旅行中にショウグンが一才にもならない若さで死んでしまいました。預かった奥さんは相当な責任を感じたのでしょうね。それで、『自分が虐待をした』と、誤解をされるのをおそれて、獣医さんに解剖をしてもらいました。その結果として、ショウグンがガンに罹っていたことを突き止め、その内臓を、ホルマリン漬けにしてもらって、ヘレンさんの帰宅を迎えました。

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 ヘレンさんは、その話を私たち二人にするときには、別に怒ってはいませんでした。本当はものすごく悲しかったらしいのですが、それも見せませんでした。そのときには、私はまだヘレンさんがアウシュビッツの生き残りである事を知りませんでした。

 でね、その落ち着きは不思議に思いました。実は文脈上は、この最大のポイントは、私の当時のときの経過どおり、秘めておきたいと考えていました。その方が問題点が明確になります。しかし、このブログ内で、米軍横須賀基地の高官の奥様と交流する話など書いても、読者の皆様が、何の興味をも、おもちにならないのではないかと感じて、『ヘレンさんがアウシュビッツの生き残りであること』を最初に明かしているわけですが、

 私自身は当時はそれを知らないわけです。

 それで、大学の医学部にあるようなふたつきのガラス瓶に入った、ガンが、はびこった猫の内臓を見ながら、私は二つのことを考えました。まず、『ご近所づきあいと言うのも難しいなあ。ペットをご近所に預けては駄目だ』と言う気付きです。どんなに友好的な関係を築いていても、ペットを預けては駄目だという事です。

 私もベッティさん(100%の日本人)もヘレンさんの地域の人ではないので、その預かった人を知りません。だけど、もしその奥様に「本音で語ってください」とお願いしたら「本当に大変だった。もう、ヘレンさんの猫は預かりたくないわ」と言うに決まっています。だからこそ、検死解剖みたいなことをしてもらって、内蔵を保存をしておいたわけです。「私の落ち度ではないのよ。ショウグンはガンだったのだから、自然死だったの」と言いたかったわけです。

 猫好きな私が推察するのには、ショウグンはガンだったかもしれませんが、死への引き金はあったでしょう。たとえばこれも視てきたような嘘をいいの類ですが、預かったお隣さんで、一部屋に三匹の猫を夜は、閉じ込めて寝かせたとしましょう。ショウグンは、元野良猫です。ただでさえ、閉鎖的な窮屈な部屋に押し込められたらいやがるはずです。が、そこに輪をかけて、先輩であるタイから来た二匹の猫と軋轢があったりしたら、プレッシャーを感じて、それが大きなストレスになり、死へ至ったかもしれないのです。
 ヘレンさんは楽しみが目的の旅行に行ったわけです。しかし、猫とはいえ、死は重大な事で、取り返しがつきません。ヘレンさんだって、内心ではどんなに悲しんでいるか、それも充分に推察できます。こういう重大な結果が現れると、ご近所の友好関係の中で、ペットを預けるのは・・・・・・止めた方がよい事がわかります。


 でも、駐留米軍の高官の奥様であるヘレンさんには、実家と言うものとか、姉妹とか、従妹と言うものの家が、日本にはありません。だから、ご近所様を頼る事になるけれど、結果がこれほど、重大だと、預かった人も大きく、傷ついているはずです。

 しかし、もちろんのこと、礼儀上、私はそんな分析をヘレンさんにぶつけるような事は致しません。

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 それよりももっと、もっと重大な、ヘレンさん側の過失に気がついていました。それは、ヘレンさんが殺虫剤を多用する事です。しかし、これについても、私はヘレンさんご自身に向かっては、何も言えませんでした。この殺虫剤の多用については、また、後日、日を改めて、詳細な分析を述べさせてくださいませ。そここそ、この一連の文章の主たる眼目なのです。もっとも大きなポイントであります。

では、今日はこれで、・・・・・・6冊目の本ができたので、その諸手当で、毎日毎日、疲労困憊しており、今日のひと日のうちに、クライマックスまで入れなかったのを、おわびします。2009年8月29日 雨宮舜(川崎 千恵子)
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ヘレンさんの料理と、ユダヤ人としての特徴

2009-08-28 07:58:39 | Weblog
 ヘレンさんの料理は大変丁寧に作ってありました。後年私はニューヨークに行きます。町のアメリカ料理を出すところで、15ドル(日本円で当時は1700円ぐらい)程度のステーキですと、つきあせはフライドポテトだけで、にんじんのグラッセも無く、ほうれん草の炒め物もついていません。青い葉っぱ類(イタリアンパセリか、せりなど)が飾りとして付いていればよい方です。

 それらはおいしいともいえないのです。見かけも派手ではない。で、庶民は何を食べているかと言うと町にたくさんあるお惣菜やサンのバットから選んで5ドルから8ドル程度おかずを買ってパンと一緒にオフィスで食べている模様です。それ以外の、自分で食べられる場所を持っていない観光客などは、インテリアが派手で、野菜中心のバイキング風(プラススパゲッティやピザを置いてある)お店などで食べています。大ぶりにカットされた野菜はカラフルです。見かけはきれいだけどおいしいものでもない。

 ユダヤ人のお料理には、さまざまな材料上、または調理法の規則があります。詳しい説明を聞いているうちに、ふとですが、アラブの世界の事も思い出します。『砂漠に生きた人々は、物が気温の高さのために早く腐るので、これらの規則を作ったのではないだろうか』と、私は考えますが、フランス料理などには見られない規則がたくさんあります。ただ、日本だって江戸時代までは四足を食べないという規則があったわけですから、別に奇異な事ではないです。が、料理を作るに当たって、普通の材料を使えないので、それなりに、お金が余計にかかるということになります。

 私のユダヤ人に関する知識はヘレンさんに会う前と、あった後の書物からの知識といろいろ段階があります。ヘレンさんに会う前は、私の友人がAFS時代にアメリカの(ホスト)両親がユダヤ人で(だから、きっと大金持ちで、)その支援により、ブラウン大学へ留学できたという知識があるのみでした。

 ブラウン大学とは名門女子大だそうです。後年クローズアップ現代で活躍している国谷さんが、卒業をしたとされている大学です。友人はユダヤ人と言うだけで、私たちが『その両親のことを大金持ちである』と想像をすると思っていたのかなあ?

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 またヘレンさんとは別れてから、広瀬隆の赤い楯、など、や、他の著者のフリーメーソン物などを読み、・・・・・現代社会のグローバリズムとは、ユダヤ人が大きな力となって機能をしている模様だ。だから、パレスチナ問題などがなかなか解決しないのだ・・・・と、マッスというか、マクロに物を考えるようになります。

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 だけど、それは、私の晩年の話であって、三十代の頃は、ヘレンさんと言う魅力的な存在を通じてのみユダヤ人問題を考えるので、私の心の中には、ユダヤ人を憎んだり怖れたりする気持ちは芽生えませんでした。

 そのヘレンさんは大変な猫好きでした。ベッティさんはわりとはっきりした悪く言えばがさつなところもあって、「子どもがいないから、あれほど、猫好きなのね」とヘレンさんを評していました。

 そんな言葉を聞くと、彼女が、あれほど、先生に憎まれたのは、本心が現れやすいからだったと言う事も分かってきます。『嫌いだわ』とか、『馬鹿な教え方をしているわ』と言う彼女の本心が、ひょいひょいと、顔に出るのは、授業参観のときから始まっており、余裕のない先生は、授業参観が終わった途端に、ベッティさんの坊ちゃんのひざのところを後ろから蹴ったりしてしまい、その上ミーティング内で、普通の親なら絶対に言わないであろう『坊ちゃんが、女の子のアクセサリーを盗んだ』などと、発言してしまうことに繋がったのでしょう。先生とはより大きなノブレスオブリッジを求められる立場ですから聞いている人はみんな震え上がってしまいます。

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 ヘレンさんは前の赴任地から、二匹の猫を既に帯同していました。そこへ新しい猫が庭に出入りするようになって、その猫が短尾だったので、狂喜雀躍をしてしまいました。短尾の猫は日本にしかいない事に、その頃はなっていたからです。

 そちらはまだ、3ヶ月ぐらいの月齢の太ったふてぶてしいオス猫で、その性格を愛するヘレンさんは、ショウグンと名づけて可愛がっていました。白毛なのに、薄汚れているので、『きっと野良猫だわ。飼い猫にしてやりたい。アメリカに連れて帰りたい』と強く願っていて、彼をなれさせるのに一生懸命で、行くたびにどれほど、その問題が進歩したかを私たちは聞かされました。

 ここで、猫に詳しくない方のために、または猫がすきでも、短尾の猫を飼ったことのない方のために補足説明をしますと、あれはただ、普通の尻尾が丸まっているだけなのですよ。生まれたとき、それが、伸びなかっただけで、あのぽんぽんの中には普通の骨格が隠されているのです。だけど、海外では、あれを、日本人が切ると誤解をされています。そしてよく日本人の残酷さの表れだと象徴的に使われています。それはとても残念な事ですから、ヘレンさんがショウグンを持ってアメリカへ帰国をしてくれるのを私は望みました。

 ところが、そのショウグン(当時アメリカで大人気だったテレビドラマから名前をとっているオス猫)が死んでしまったのです。それがどんなに深くヘレンさんを傷つけたか、そのエピソードがあるからこそ、私はヘレンさんがアウシュビッツが襟である事を知ったのです。そのお話はまた明日にでも・・・・・
     2009年8月27日  雨宮舜(川崎 千恵子)

 なお、日本時間の朝か、午前中にお読みいただく方には、今日は、4時間程度早めに更新をしておりますので、どうか、下のものもご覧を頂きたいと感じます。よろしく。
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ヘレンさんは、日本の奇祭(男根信仰など)も知っている

2009-08-27 10:08:29 | Weblog
 ヘレンさんの家で何を主に話したかといえば、日本の文化について、彼女がどれほど深く理解をしているかと言うことでした。今日のタイトルはあざといですが、彼女が日本文化に対して、もっとも、特徴とするところは、侘びと、さびであると言う認識を示したときは、私は相当嬉しかったです。

 彼女はそこまでの認識に至る前に、経験を積んでいます。30年以上前には今のような日本文化ブームはまだ無くて、外国からの観光客はあまりいませんでした。しかし、トップレベルの外人向けにさまざまな趣向を凝らしたバスツアーは、数々行われていて、ヘレンさんはそれに参加していたのです。

 そこも、私が彼女がお金持ちだと思う由縁です。それらのバスツアーに参加できたのは、東京在住の外交官やら、マスコミ関係者だったと思われますが、彼女は横須賀から電車に乗って出発点まで行き、それから、日本全国をほぼ、2週間に一度、または、3週間に一度訪ねていました。

 男根がご神体になっている神社にも行った事もあるそうです。それは紀伊半島だったそうです。でも、ヘレンさんが主に話題にしたのは、奇怪であることではなく、日本の美の特質でした。先ほどもいったように、派手ではない、華やかではない美・・・・・そこに特徴がある事を真実理解をしていました。陶器でもマイセンでもないし、ウエッジウッドでもない美、ちょっと泥臭いが、そこに静かな美がある事を理解していました。

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 そこがある時点まで三人がすごくうまく行った理由でした。ヘレンさんとベッティさんは私の家にも来てくれました。それは、私が、女としては何の特徴もない人間だけど、美と言うことをよくわかるタイプで、それが、へレンさんと共感できるところだからです。


 ところで、これは、挿入に当たりますが、この楽しい会合は突然に終わります。ただ、ヘレンさんについてはさらに記述が深まりますが、ここで、ベッティさんについて再び深めた解釈をいたしましょう。

 ベッティさんは坊ちゃんの担任の先生と、うまく行かない程度が煮詰まりすぎてしまって、坊ちゃんのために夏休みか春休みの間に、転校をさせたのです。引越しもなさったのではないかな? それは当たり前でしょう。そして、非常に嫌な思い出のある地に関しては、私も含めて一切を捨て去ったのでした。

 ここで、もう一度ベッティさんがどうして、坊ちゃんの担任の先生とうまく行かなくなったかを、深く検証すると、実はベッティさんも先生だったからです。だけど、ベッティさんの方は学校ではなくて、塾でした。そして、中学生や高校生を相手にして人気のある教師だったのです。

 若い人を相手にします。そして、塾の生徒と言うものはお金を出しているので、真剣です。先生に対する要求も大きいし、自分の方の動機も大きいです。
 成績がよくなりたいと思うから課題に真剣に取り組みます。先生も教えやすいですね。そして、先生にとっても技術の高さやら、人気の高低が、すぐ収入の大小に結びつくから一時間あたりの集中度が高いです。
 ベッティさんが高収入だったというのは、彼女の人気が高くてコマ数を多く持つ教師だったからです。並みのサラリーマンをはるかに越える収入がありました。それで、彼女は自信満々で光り輝いていたわけです。

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 一方で担任の先生はこう考えていらっしゃったでしょう。『あなた、私はね。365日、朝の八時半から五時半まで束縛をされるのですよ。午前中寝ている事ができる塾の先生とは、労働量と責任の重さが違います。

 あなたみたいな人気取り主義を採りたくないし、とれないわ。それにね。社会的な身分と評価だってまるで違うのよ。あなたが50や、60になって御覧なさい。私には勝てませんよ』と思っていらっしゃったでしょう。

 これは本当に難しい問題でした。実力はあるが、社会的な身分の低いとみなされる女性と、社会的な身分としては高いが、実力のない女性の戦いだったのです。ここに性の差、たとえば担任が男性の先生だったりしたらまるっきり違った展開になったとは思います。しかし女性同士、しかも先生の方が、器が小さいこの場合、にっちもさっちも行かなくなっていたのです。

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 ヘレンさんは、今の言葉で言う草食系で、実は担任の先生と似たタイプでした。でも、ベッティさんとうまくいっていたのは、ひとえに、ヘレンさんの過去の経験が役に立っていたのです。ベッティさんはその時に既に知っていましたが、ヘレンさんはアウシュビッツの生き残りだったのでした。

 だから、人間的な深みがあったのです。小さな事にはこだわらない。その人の長所を生かそうというスタイルと、意志がありました。100%の日本人でありながら、100%のアメリカ人である自分より派手な言動をとるベッティさんを可愛いと思っていらしたでしょう。

 そして、私の事も、それなりに尊敬してくださったと思います。そういう謙虚な姿勢が日本文化に対する深い理解へと繋がっていったのです。

 そうですね。こここそ、ヘレンさんのもっとも素敵なところでした。敗戦国日本の文化に対して、戦勝国アメリカの高級将校の奥さんが、深い理解と尊敬を示してくれる事・・・・・それが大きく深く、かつユニークな事であるとと私には思われたのです。

 ヘレンさんは、ヴィヴィアン・リーが描く、また、オードリー・ヘップバーンや、マリリン・モンローが描くアメリカ女性とは全く違っていました。私はアメリカ人女性で、こういう風に深いものの考え方をする人たちを、それ以降も見つける機会が増えるのですが、その原点はへレンさんにありました。ヘレンさんを知っているからこそ、ニューヨークでの、ポーラ(五冊目の本に登場する)や、葉山の美術館を訪れていた、基地内の学校の先生らしい二人の女性たち(6冊目の本に登場する)への深い理解を得られたのです。

 ヘレンさんの項については、さらに続きます。2009年8月27日
   雨宮舜(川崎千恵子)
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旧・日本海軍・官舎に住む、アウシュビッツ経験者

2009-08-26 09:18:37 | Weblog
 さて、べッティさん(100%の日本人である、きれいな、かつ可哀想なお母さん)とのあつい友情にくるまれて、私はヘレンさんの家を訪ねました。ヘレンさんの家は海からは、100メートルぐらい内側へ入ったところですが、埋め立ての発達していなかった戦前には、海から30メートルぐらいの近さに建っていたであろう、環境の良い場所にあり、生垣に囲まれていました。

 敷地は百坪ぐらいで、建坪は三十坪ぐらいの平屋です。私は庭木の成長具合とか、その間取りで、『これは、旧日本海軍の将校用・官舎であろう。または、地元の地主が、それように建てた貸家であろうと直感しました。玄関が広くて、ほぼ、4畳半程度ありましたし。

 戦前の住宅であると考えると、豪華なつくりであり、洋間と、立派な二間床がついた和室がありました。その次の間を、元は和室であったでしょうが、ヘレンさんは洋風のダイニングに作り変えていて、お台所もペンキが塗ってあり、そこは、アメリカ人が暮らしているおうちだなあと思いましたが、洗面所やお風呂の入り口にかけてある暖簾風のカーテンなどは、日本の旅館を模していて、ヘレンさんの、日本趣味と、その理解度の深さを先ず、そこで味わいました。

 ヘレンさんはスリムな人で、そして、はにかみ家で、一般的なアメリカ人とは、随分違っていました。横須賀海軍のひとらしい、大男やら、その家族の大女たちに出会っている私からすれば、本当に華奢な方で、彼女の精神が繊細な事をうかがわせて、この住宅に彼女が住んでいるわけも推察ができました。つまり、米軍・横須賀基地内に住んでいる普通のアメリカ人とは、合わないのではないだろうか? と言う推察を得ましたが、お客として招かれているわけですから、そんな事は口には出しません。

 この、アメリカ人としては、質素な家に住んでいながら、・・・・・彼女は、相当なお金持ちである事は、その床の間に置いてある飾りなどで分かりました。床の間には、びっしりと言う形で、銅のおなべが釣り下がっていたのです。ビルマかタイに駐留していたときにコレクションをしたのだそうです。そちらの国では銅製品が安いのだそうです。

 ぴかぴかに磨き上げられている数も形もさまざまな銅のおなべ類。今の日本では、レストラン等においてあるのが目につきますし、一般の人でもデパートで買う事ができますが、30年前の当時としては、とても珍しいものでした。

 アメリカ人は、映画の中などでも朝食はシリアル(コーンフレーク)などで済ませるのですが、ヘレンさんはどちらかと言うとヨーロッパ人の風情を残している人で、お料理は丁寧に作るようでした。だから、おなべの収集となった模様です。そのほかに各国の民芸品がたくさん収集品として、床の間やその他に飾ってありました。

 ヘレンさん夫婦には子どもがいなくて、それも、ヘレンさんのたたずまいを、静かなものにしていました。子供がいると、どうしても肝っ玉母さんと言うか、腰が据わるというか、です。女は弱し、去れど母はつよしとも言うでしょう。だから、ヘレンさんは、驚くべきレベルで、一般的なアメリカ人と言う範疇からはずれていて、静かそのものの人でした。

 ヘレンさんのご主人は海軍の経理担当将校で、今は、この横須賀基地内で、トップファイブを形成する立場だそうです。・・・・なるほど、なるほど、・・・・・体格の大きな、普通の兵隊たちとは違う立場なのです。

  今日は申し訳ございませんが、外出の予定があり、ここで、短いながら、いったん終わらせていただきます。ヘレンさんについては、もっと、語るべき事が一杯ありますので。

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ベッティさん(100%の日本人)の悲しみと、私の同情

2009-08-25 08:41:15 | Weblog
 前回で、ヘレン(仮名)さんと言うアウシュビッツ経験者で、かつ在日・駐留・米軍のトップクラスの人の奥様と、いろいろな思い出があると申しました。

 ところで、ヘレンさんとの交流に入る前に、どうして、知り合ったかを述べないと駄目でしょう。ヘレンさんは先ず、ベッティ(同じく仮名であり、かつ、私が勝手につけた愛称でもある)さんと友達であり、私は、ベッティさんと知り合って、その後で、彼女からヘレンさんを紹介してもらいました。それで三人で付き合うようになったのです。主にホームパーティと言う形式で。

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 ところで、ヘレンさんは金髪の外人ですが、ベッティさんは完璧な日本人です。ただ、色が白いのと、目が大きいのと、ちょっと、芳醇な感じの美人なので、私が勝手に、アメリカの有名なキャラクター・・・・・ベッティ・ブープからとって、
ベッティさんと呼んでいるだけなのです。

 これから、ベッティさんの悲しみについて語るので、この愛称のまま通させてくださいませ。

 ベッティさんと私はお互いの子どもが同い年で、小学校に入学後同じクラスになったので、知り合いました。ベッティさんは100%の日本人ですが、坊ちゃんも色が白くて可愛いので、・・・・・ふとした機会に、明治時代に日本で活躍したお雇い外国人の血が入っているかなあ・・・・・と、感じるときもあります。

 お互いが使用する最寄り駅が全く違うので、それ以前には一切交流がなかったのですが、『父兄会で一気に親しくなった』と言ってよいほど急速に親しくなりました。それは、ベッティさんが先生にいじめられていて、それは、それは、気の毒であり、私はたまらなくて、連絡網を利用して、ベッティさんに同情の電話を掛けたのです。そこから、交流が始まりました。

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 ここから先は、既に三十年以上が経過しているので、時効が成立すると思うので、名前だけは伏せて、真実をいろいろ語らせてくださいませ。

 ある日の父兄会で、担任の教師が、「ベッティさんの子どもが、女の子のアクセサリーを盗んだ」と発言をしたのです。ベッティさんは猛烈に抗議をしました。「子どものささいないたずらを決定的な欠点であるかのごとく、仰って、しかも、それを、こんな公開の席で仰るのは、子どもに対する愛情がない。ひどいです。先生として、ひどいです」と。私はそのとおりだと思いました。他のお母さんもみんな同じ気持ちだったでしょう。

 でも、みんな黙っていました。それ以前の連絡帳への記入の仕方などで、その先生が大変意地悪で、かつ感情的な女性である事は父兄の誰もが知っており、『逆らったら損だ。そうしたら、今度は自分の番となり、自分の子どもが損しちゃうもの』と思っているわけです。

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 だけど、私は自分が少しだけ、ベッティさんに似ている事を発見しました。英語が得意。だから、一般的な日本人と比べれば、論理のヒトである。それと、どうも、経済的に豊かに育った人のようで、他者とか世間に対して無防備である・・・・・そういう点でそっくりでした。

 だから、ふかーく同情しました。ベッティさんは同じ父兄会で、「先生はさっき、うちの子を後ろから蹴ったみたいですね。しかも階段の途中で。転んだら本当に、危ないでしょう。私見ていましたよ。本当にひどい」といいました。それも多分ですが、本当です。恐ろしい事でした。

 ここで、なぜベッティさんが、かくも無残にいじめられるかですが、先生よりあらゆる点で、優れているからだと思われます。それが先生には気に食わない。先生は父兄より10歳ぐらい上ですが、先生という一国一城の主として、ずっと過して来たせいか、社会的な訓練が足りなくて、『それはそれ、これはこれ』と割り切る事ができないのでした。10歳ぐらい年上で、分別もあるはずなのに、ベッティさんの、むんむんした女の色気が、先ず、気に食わないのです。

 先生自身には女の色気はない方です。私だってありません。だけど、私はベッティさんに嫉妬などしません。ひとは人、自分は自分で、変えられませんもの。

 それともう一つ先生が気に食わないのは、自分を尊敬してくれないように見えることでしょう。同じクラスには、もう一人一流大学出身のお母さんがいて、そちらはあらゆる点で、ひいきをされていました。それは、舅が校長先生だから、担任の先生より目上でもあります・また、国文学の出身だから、お母さん自身のマナーが古くて、年上を敬い、事を荒立てないという雰囲気があります。

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 ところが、ベッティさんはまるで違います。英語文化圏で育っているので、すべてのヒトを対等に扱います。悪気は全くありません。私は自分も英語が好きだから、ベッティさんと似ているので、傍で見ていると、ただ、天真爛漫なだけで、悪意が全く無いのを信じる事ができます。しかし、残念なことに、このケースでは先生には、それが、通じないのです。

 しかもあらゆる点で先生より勝っている彼女にも、ただ一点、不利なところがあって、それは、既に離婚をしていてシングルマザーだという点です。先生の方は、ご主人は、ある大学の助教授だそうです。で、ダブル・インカムだから豪華な戸建を既にお持ちなのでしょう。が、ベッティさんの方は高収入はあるものの、住まいは当時は賃貸マンションでした。もし、当時、離婚したてだったら、これは、仕方のない事です。

 ただ、そういう部分に依拠して、先生は、彼女を低く見なしたいのです。が、彼女はそんな計略に乗せられて、急にびびり始めるようなタイプではありません。シングルマザーになっているのも、普段の収入が高いからで、そこに強い自信もある人です。だから視ていて切ないほどの混乱を、父兄会がきたしました。でも誰もベッティさんを助けて上げられません。

 これは、小学校、中学校、高校の生徒間に見られるいじめと構造が同じです。だけど、子どもが人質にとられているから、誰にも彼女を応援してあげる自由が無くて、ただ、傍観しているしかないのです。

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 切ない事でした。だから、私は帰宅後、慰めるための電話を掛けました。それで、ベッティさんは急に私になついてきて(それは、私の方が年上だったからなのですが)「こんど、ご一緒にお茶しましょう。それもただ、喫茶店に行くのではつまらないから、私の外人の友達、ヘレンさんのところへ一緒に行かない? スケヂュールを組んでおくわ」といってくれました。

 今思うと、ベッティさんが、どれほど、私の電話に感謝してくれたかが分かります。だって、ベッティさんがヘレンさんと親しくなるのだって、自動的に事が運んだわけではなくて、ベッティさんの高い英語能力とか、親しみをかもし出す性格のよさが寄与しているわけです。単にご近所だからと言って、優れた外人と、肝胆相照らす仲へと、望めばすぐに、直行できるわけでもないからです。

 ベッティさんにとっては宝物みたいに大事なお友達を、惜しげもなく、私に紹介してもらったので、それが、分かりました。

 さて、冒頭に申したとおり、ベッティさんは100%の日本人です。ただ、その華やかな美貌が、ベッティさんと言う愛称(ただし、私が心の中でつけただけですよ)にふさわしいだけです。彼女が、こちらは100%の外人であるヘレンさんと作っていた輪の中に、100%の日本人である私が混ざり合ったら、どんなパーティになるでしょう。それを語るのは、次のお楽しみとさせてくださいませ。

 ところで、最後に蛇足も蛇足ですが、前日の文章はタイトルが悪かった模様です。読者数が少なかった。多分、誤解を受けました。メルマガの方では、『バスがNAVYに追突をされて』としています。美しく平和な朝、JR横須賀駅近辺で、京急のバスが後ろから追突をされたのですが、その相手の車がなんと、横須賀米軍のワゴンだったのです。そこから、私は突然に、30年前の思い出に入っていく事になります。

 ただし、タイトルが横須賀・米軍・・・・・・将校クラブとなっていると、私が米軍の駐留に賛成していると誤解をなさったヒトが多いのでしょう。違うのです。まことに文学的(?)な表現であり、そのものずばりを指さないでいるためのタイトルでした。そのもの図張りを言えば、女性である事の悲しみを指すといってもよいでしょう。30台の前半にして、私はさまざまなタイプの典型的な女性と出会うオのですが、アウシュビッツの経験者のヘレンさんもそうであり、日本人で英語が堪能な、最先端の才媛、ベッティさんもその一人でした。もし、今日の文章を面白いとお感じになって、どうして、こんな昔の事を思い出したかにご興味のある方は、一日前の文章をご覧頂きたいと存じます。

   2009年8月25日   雨宮舜(川崎 千恵子)
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京急バスが、NAVYに衝突されて、私はタイムスリップへ

2009-08-23 16:07:16 | Weblog
 私はエア・ポケットのような時間ができると花のタネを買いに行きます。横浜には『サカタのタネ』と言う大きな園芸店があるが、我が家はそこへ行くほどお庭が広いわけでもありません。で、近所のホームセンターへよく行きます。大船にコウナンと言うのがあり、横須賀に二つ、より大きいのがあります。大船のそれが近いように見えて意外に遠いので、私はよく横須賀方面に向かいます。

 今は集中していた六冊目のエッセイ集ができたところで、ほっとしていますので、例のごとく、花を買いに横須賀へ向かいました。

 JR横須賀駅は最近まで開通120周年のお祭りをしていたのですが、それも終わってひっそりとしています。目の前の高架下の駐車場が、『15,000円に値下げをする』という看板を出しています。10年ぐらい前にうちが鎌倉で借りていたときには不便な場所で18、000円でした。こちらは駅前ですから、高いのだろうか?、やすいのだろうか?・・・・・・と、解決できない疑問を持ちながらさらに歩いていくと、ひっそりとした駅前広場に出ます。

 観音崎行きと言うバスが、停車中で運転手さんは外でメールをチェックしています。『やはり、若い人だなあ』と思いながら、ともかく乗って待っていると、そこへもっと年上の運転手さんが掃除用具を持って通りかかりました。すると若い運転手さんはさっとケータイから目をあげ、自分の方から挨拶を交わしました。そして、二人で、「さいか屋(横須賀にあるデパート)には今日何か催しがあるんでしょうか?」とか、「そうでしょう。誰か有名人が来るのでしょう。それから、夕方にはデモがあるはずですよ」と情報交換をしたりしています。

 海沿いの風が来る朝、ほとんど、誰もいない場所で、二人の運転手さんは和気あいあいです。平和な光景。『二人とも仕事を好きなんだろうなあ』と感じます。普通の人たち、・・・・・日常を淡々とこなし、平和に生きる人たち。

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 ターミナルを出発する時間になってやっとバスは走り出しました。そして、一つ目のバス停に停まろうとしたところ、前方にいかにも迷惑な形でワゴンが停まりました。そのために、そのバス停付近にいた数台のバスは、迷惑をして、バス停に入選もできず、出る事もできず、なかなか、時間が掛かりました。『どうして、クラクションを鳴らして追い出さないんだろう。本当に優しい運転手さんだなあ。落ち着き払っている』と思っているまもなく、

 運転手さんが「このバスは追突を受けましたので、しばらくお待ちください」といいました。

 そういえば、『さっき、何かが、がたんとしたわね』と思いあたりましたが、私はいつも文章のタネを考えているので、それが、追突だという認識は無く、運転手さんの放送によってやっと、事態が正しく飲み込めました。

 私のバスの運転手さんが車外に出ると、前方の車からも男性が出てきて、二人が話し合っているので、そのワゴンが、あながち、迷惑をかけようとして停まったわけでもなく、ちゃんと話し合うために、停まった事は分かりました。

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 運転手さんはバスに戻ってきて、「このバスはこの事故のために、これから先は運転を中止します。お客様にはあいすみませんが、次のバスをご利用くださいませ」と放送しました。それで、次のバスは15分後に来るということです。

 私はその日の朝こそ、のんびりした気分ではありましたが、たいていの時間には非常に忙しい人間で、15分もただ、バス停で待つのは好のまず、このまま歩いてよこすかの旧市街(特に繁華街)へ出てみようと感じました。ものすごく暑い日ですが、ほぼ三十年ぶりぐらいに歩く道には、楽しい発見があるはずです。

 それでそのまま道を進むと、さきほどの追突車まで追いついたのですが、何と後ろに、US NAVY と書いてあります。横から見上げるとサングラスの外人が乗っています。『うわ、そうなの。だから、あの事故車はケータイで上司に説明するときに、怒鳴る感じだったのね。相手は外人なのだ。だから、自己主張をしないとだめなのだ』と感じました。それからさらに進んで、ひょいと何かを感じて後ろを振り返ると、先ほどの運転手が、私の後を歩いてついてきます。

 で、私は、『そうだわ。ココ辺りに米軍基地の門があるのでしょう。彼は歩いてそこまで来て、上司に説明をするのだわ』と思った途端、私は基地のゲートに到着していました。

 中に将校クラブがあって、そこにヘレン(仮名)さんと言う女性に招かれた記憶がよみがえりました。ヘレンさんは基地のトップファイブの将校の奥様です。ただ、本当の事を言うと、ヘレンさんはユダヤ人であるがゆえに、戦時中はすさまじい苦労をした女性です。それを、ここで書いてしまうと、明日の面白みがないのですが、実はアウシュビッツ経験者なのです。彼女が私に詳しくそれを語ったわけではないのですが、『ああ、そうだったのか』と思い当たる日もあって、いろいろものを考えました。それを、明日から書いていきましょう。お待ちくださいませ。
      2009年8月23日    雨宮 舜 (川崎 千恵子)
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フウテンの寅さん・・・・・と、・・・・・神社仏閣

2009-08-22 14:18:55 | Weblog
 暑いです。本当に暑いです。こういうときに硬い話題では申し訳ないと思いながら、一つ言い残したことがあって、今日の文章を書いています。

 私が鎌倉鶴岡八幡宮境内の植え込みの中に、ひっそりと隠れるようにして在った、奉納された水道の蛇口に、なぜ、あれほど感動したかが、もしかするとお若い方にはご理解できないかもしれないと思って、今、この追伸を書いております。

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 フウテンの寅さんが主役である映画があります。『男はつらいよ』と言うタイトルで、ほぼ、50本近い作品が公開されました。あれの第一作が公開された年にちょうど私は結婚する予定があり、出身大学の教授を訪ねました。そこは、化学の世界で白衣を着た人々が往来しています。

 教授には美しい女性の助手が二人いて、お一人が、こういったのです。「私の主人はね、フウテンの寅さんが大好きなのよ」と。私は驚きました。彼女自身も彼女のご主人も大学の先輩に当たることは知っていました。

 私の出身大学には、のちに、大竹しのぶのご主人になる服部さん(しかし既に亡くなっている)や、『釣り馬鹿日誌(第一作)』を監督した栗山さんが卒業生の中にいますが、
 白い腹巻とステテコ姿のフウテンの寅さんが好きだと明言する人がいるとは、その時点では信じられませんでした。そのときまで、私はフウテンの寅さんの実像には一切接した事が無かったのです。

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 しかし、ここが今日の文章のミソです。フウテンの寅さんとは全国の神社仏閣のお祭りをまわるテキやとか、やし(香具師)と呼ばれている人たちで、ある意味でアウトローの一種なのです。アウトローといっちゃうと格好が良いのですが、かたぎではないというと、格好が悪くなり、差別の対象となります。

 今、NHKの朝ドラで、急に深刻な展開が、2週続き、主人公のつばさ(一種の天使と言う概念を持つ清純なおとめ)の父が、もと、やくざの鉄砲玉だったという設定が展開し(これについては別の機会に詳細に述べたいのですが)

 家族全員が傷ついて、そこから、やっとの思いで回復をするのですが、同時に、ドラマではないこの現実世界では、酒井のり子と言う有名なタレントが、覚せい剤の件で大騒ぎにもなっていて、週刊誌の中吊り広告だけを読む限り、お父さんがやくざだったと出ています。(こちらについては、私はテレビも見ないし、新聞も読まないので、詳しい事を述べるのは将来ともないでしょう。批判もするつもりもないし、責めるつもりもないし、何も語らないと思いますが・・・・・)

 たまたま、ですが、親族にやくざとか、てきやとか、やし(香具師)と呼ばれる人を抱えている、人たちの苦しみを連続して見たので、今まで言わなかった部分を語る勇気が出たのです。

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 それは、八幡宮の境内に集まる出店の人たちもそういう種族の人たちなので、実は心理的な差別の、対象になる人たちだという事です。私は自分の二冊目の本『れすとらん・ろしなんて』の中で・・・・・鎌倉には文化人が多い。それゆえに、やはり、カーストは存在する・・・・・と書いています。そういう日本の中に現在もあるカーストからいえば、低い存在が、八幡宮境内の出店の人たちなのです。

 ただね。フウテンの寅さんみたいな元気なヒトはいませんよ。静かなものです。
五年ぐらい前までは日本経済が活発だったので、老いも若きも、外出用の(=遊び)のためのお小遣いが多かったのでしょう。鶴岡八幡宮の大晦日から、元旦にかけてはすさまじい人出で、警察のマイクが、「ロープが上がりまーす。石段に向かってくださーい」とか、「ロープが下がりまーす。進むのをやめてくださーい」とがなっていました。今はそれが真夜中には、ほとんど聞こえないので、却ってさびしいぐらいです。

 で、大晦日には、八幡宮様経営の駐車場には、この出店の人たちの大型車がひしめくように停まっていて、道路のあちこちに、この出店組合の人たちが、設置したゴミ箱が置かれ、善男善女たちが買って立ち食いをしたやきそばの空き箱や、ホットドッグの棒などが、一杯詰め込まれていて、活気に満ち溢れていました。

 最近ではそれもあまり見られない風景で、なんだか、悲しいですが、1990年代当時の出店の人たちの活気もすさまじい勢いでした。いまはね。みなさん、軽・発電気を使用しています。アセチレン灯ではありません。明るいライト。

 そして、大型のプロパンガスボンベを持ち込んで、家族とか親族総出で、大きな鉄板で焼きそばを焼いていたりします。だから、一種の中小企業であり、寅さんのような小さな規模ではありません。

 そして、その人たち自身には、ご自分が差別をされている方だなどと言う感覚はないでしょう。すごくあかるくなりました。

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 ここで、挿入ですが、例のNHK朝ドラのつばさには、斉藤興業社長と言う面白い人物が登場します。西条秀樹がぶっ飛んだ演技で挑戦している、役柄ですが、多分そういうあかるい系統の(やくざ?)として、今では認知されている職種でしょう。しかし、50年前は、絶対にそうではなかったはずです。

 フウテンの寅さんの中でも(実はテレビ放映で、私も四、五本既に見ていますが)、おいちゃんとおばちゃん、そして、妹さくら(実は異母妹と言う設定なんですって、昨日まで知りませんでした。寅さんは父がゲイシャに生ませて子で、妹は本妻の子なんですって、全然知りませんでした。それほど、妹は兄思いです)と、そのだんな、または、その夫婦の息子が住む、柴又帝釈天傍のおだんごやに帰ってくると、『ああ、また、寅が失敗をしやがって』とみんなが心配をするのです。

 でも、人気のある映画ですから、すごくうまく出来ていて、寅さんは愛嬌たっぷりな好人物として描かれていて、また、主演の渥美清がうまいこと、うまいこと。

 このお茶の間での寅さんの、その日より前の、半年間の旅の報告は、スタッフとキャストたちから『寅さんのアリア』と呼ばれるほど、尊敬をされていたそうです。つまり、単なる・て・き・や・としての稼業の報告ではなくて、必ず誰か美しいヒト(マドンナと称されて、時の旬の女優さんが選ばれる)に惚れてしまうのですが、恋は最後までは到達しないのです。振られてしまうか、自分から引くかのどちらかで、マドンナは、他のヒト、つまり、普通の勤めをやっているヒトと結婚をする事になります。

 その模様を聞きながら、寅さんがかわいそうでもあるし、滑稽でもあるし、・・・・・ひやひや、はらはらして聞いている。

 『この仕事をやめて、落ち着いてくれたらいいなあ』と、みんなが思っています。『その近辺の工場にでも勤めてくれたらいいなあ』と思っていながら、『それが、寅さんには似合わない事』をみんなが知っているお茶の間の場面。

 あかるいです。おもしろいです。そして、ほろっときます。だけど、映画だから(イコール)虚構の世界だからいいんですが、もし、普通のサラリーマンの家庭で、こういう子どもが生まれたら、絶対に家族の中には悶着が起こります。

 また、元に戻りますが、NHKのつばさ内ではお家元の息子が、ミュージシャンになって勘当をされているという設定も現れました。皆さんの中には、「まさか、そんな大げさな事、現代には、起こりえないでしょう」と仰る方もあるかもしれませんが、わたくしなんぞ、同期の友達(女性)が、学生運動にのめりこんで、親(大学教授)から勘当をされて、経済的に行き詰まって、早死になさったと、言う噂を聞いているので、あり得る発想だと思っています。

 繰り返しますが、映画やドラマの中なら、何が起きても良いのです。でも、現実の社会の中には、差別感はあり、現実の生活は大変です。

 特に50年ほど前までは。そういう差別感の中で、堂々と、鶴岡八幡宮様へ「新しい水道の蛇口を作ってください」とお願いした、50年前の、当時の出店組合の人たちは本当に勇気があるし、考え深いし、偉いです。

 八幡宮様も一種の流しの役目をしている鉄板が既に、さびて穴が空いているので、あれは、取り替えてあげたら、八幡宮様の度量の深さと、『やはり、神様は違う。偉いなあ』と言う庶民の尊敬を仰げるでしょう。

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 ところで、また、映画の方に戻ります。フウテンの寅さんは本当によくできていて、フウテンの寅さんの人懐っこさが、あらゆる場面で人々の心を溶かし、暖かな人間関係を生みますが、なんと、柴又帝釈天の御前様(いわゆるトップの方)とも仲良しと言う設定になっています。こういう設定も・・・いわゆる・・・ユメを売る・・・映画となっているところで、ファンが大勢いる映画となって行った理由の一つでしょう。

 今日の文章はとても長いです。しかも一種のあと説明となっています。ただ、私たちの心は、普段はここまで深くはものを見ないです。せっかくものを見つめた機会なので、それを、公開をさせて頂きました。宜しくお願いします。

               09-8-22   雨宮舜(川崎 千恵子)
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水は大切です。特に夏は。

2009-08-21 00:09:54 | Weblog
 今朝(09-8-19)早く、散歩に出ました。すると、八幡宮の境内に、軽ワゴンが停まっていて、二人の男性が「やかんが、なんとかかんとか」と話し合っていました。八幡宮の境内にべっこう飴とか、りんご飴の屋台が出ています。そういう人たちだろうけれど、随分と早い出勤だなあと感嘆しました。

 でも、「やかんが、なんとか・・・・・」と言う言葉に刺激されたのか、傍の植え込みの中に蛇口が二つあるのに、67歳(明日なりますが)の生涯で、初めて気がつきました。「ホー。八幡宮様も粋なことをなさる。これは、あの人達用の蛇口でしょう」と思いました。

 蛇口に興味が沸いたので、表参道沿いの、駐車場も注意してみましたが、蛇口がきちんと設置されてある方が少ないのです。一つだけ、あるものがありました。それは鎌倉彫のお店の、お客様専用の駐車場でした。なるほど、ここは、お金儲け主義ではないのだと、感じました。今は自動販売機がどこにでもあるから、水を蛇口から汲む必要がほとんどないのですが、この駐車場を最初に作った頃は、それが、とても大切なものだったでしょう。

 さて、帰途です。先ほどのワゴンはどこかに消えており、ただ単に忘れ物をとりに来ただけだと分かりました。やかんが忘れ物だった模様です。朝の七時ごろ屋台を出しても観光客はいませんから・・・・・

 でも、誰もいない参道ですので、ゆっくりと先ほどの蛇口に近づいていってみました。足場等がどうなっているかを確かめたかったのです。流しとして使いやすいかどうかも。

 すると、蛇口の陰に『奉献』と書いてありました。びっくりして丁寧に読むと、
出店『鳩の会』会長、何の何がし、昭和30年とありました。その事実を知った方が、かえってびっくりし感動を深めました。昭和30年とは、1955年であり、戦後民主主義社会の絶頂期でした。

 出店の人たちが、自分たちの生活改善のために、自分たちお互いの間でお金を集めて、自分たちから八幡宮様へお願いをした蛇口だったのです。リンカーン大統領の「人民のための、人民による政治」と言う言葉を思い出しました。

 これは、出店の人たちにとって、「自分たちのための、自分たちによる蛇口だったのです」
今現在は、八幡宮の境内に、立派でしかも大型の、公衆トイレがあります。お水だけなら、そこから取る事ができます。でも、観光客が見ている中で、やかんの水を、トイレの洗面所から汲むのは、なんとなく、嫌なことかもしれません。

 それよりも、自分たち独自の、自分たち専用の蛇口から水を汲む方が、たとえ、流しが無くて、腰をかがめなくてはならなくても、気持ちが楽でしょう。

 こんな些細な発見でも、気持ちが高揚しました。『みんながんばっているのだ。私もがんばらなくてはならない』と感じました。勇気付けられました。  

 明日、なぜ、この事がそれほど、大事(というか大切)に感じられるかについて書きましょう。
                 では、2009年8月19日  雨宮舜
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稀代の悪人は、どうして生まれたか?-2

2009-08-17 05:53:44 | Weblog
 前回では麻原彰晃の親が、簡単な気持ちで彼を盲学校へ入学させたところまで書きました。弱視と言っても、全盲の人に比べればあっとうてきに優位に立てるので、それが彼を人を操作する人間に仕立てたというのは、既にどなたかが、発表をされているコンセプトだそうです。

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 もちろん、それを発表するしないに関わらず、盲学校の先生などはすぐ、察する事のできる真理だと思います。で、私もそれを踏襲するわけですが、ちょっとだけ変っているのは、例の私特有の見てきたような嘘を言いで、

 現場をドラマのごとく再現してみせましょう。子ども時代の麻原彰晃のとなりにA君と言う子が座っていたとしましょう。A君のところに親元から小包が届きました。新しい下着とか、前より大き目のセーターとかが入っているのですが、A君の母は優しい人で、その小包の中に、板チョコレートとかキャラメルを入れておいたとします。昔は今のようなポットチップス類は無かったのでこれらのお菓子は人気のあるものでした。

 A君は、板チョコの、ふたかけらだけを食べて、残りはもっと後の時間に食べようと思い、しまったとします。ロッカーか引き出しに。それを、弱視の麻原彰晃(ただし、子ども時代です)がじっと見ていたとしましょう。A君がトイレ、またはお風呂に入っている間に、A君の板チョコを出してきて、そっと、ひとかけだけ食べてしまい、後は元通りにしまっておいたと仮定します。

 A君は次の日の放課後、楽しみにしていた板チョコを取り出して食べてみる。そのときに残りの全部を食べないで、そのまた、次の日用に残しておいたら、減っているのに気がつきません。ちょっとだけ変だと思っても、目が見えない彼には、この手の高度な悪さは、自分にはできません。

 人は自分を尺度として考えるから、ほかの人が何か、自分に対して、損失を与えているなどとは・・・・・普通の善人には考えも及びません。

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 ここで、麻原彰晃の頭のよさが出てきます。先生には、気が付かれない程度のいたずらしかしないと言う形で、行う。もし、彼が本能的な誘惑に負けて、チョコレートの残りを全部食べてしまったら、すぐ大騒ぎになって泥棒は誰だという事になります。だから、ある程度の我慢をして、少しずつ得をする忍耐強い形で、事を進行させたとしましょう。

 すると、このいたずらは完成し、成功します。

 彼はこの経験に味をしめたと仮定しましょう。その喜びは次から次へと新しい・いたずらのアイデアを生みます。そのうちにそれはいたずらではなくなって、計画的な行為となったとも仮定しましょう。

 そんな日常を繰り返しているうちに、彼が『人間なんてちょろいものさ。自分以外はみんな馬鹿なのさ』と思い込むようになったと、仮定しましょう。

 後は一直線です。彼は一段階ずつ、その作業を進めていっただけかもしれません。でも、それは、他人から視ると許せないことで、彼は稀代の悪党となっていくのです。

 『鶏口となるも、牛後になるなかれ』と言う言葉があります。普通の場合にはこの言葉は人間の成長を促す良い言葉とされています。

 だけど、回りから一頭地を抜いて優越している事が、悪者を生むこともあるのです。それは麻原彰晃が、利口だったかとか、優越していたという事ではなくて、ただただ、ハンディの大小が原因でした。今日は、恐れ入りますが、この・・・・・いわゆる見てきたような嘘をいいの類・・・・・・だけで、短く終わらせてくださいませ。2009年8月19日 雨宮舜
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稀代の悪人は、どうして生まれたか?-1

2009-08-17 01:01:49 | Weblog
 私が突然に盲学校での体験を書き始めたりしたのは、自分の目が悪くなってきて、それで目とか視力について、いろいろ、考察を始めたからです。特に六冊目の本(それは、川崎千恵子の本名で出しますが)を編集・制作する過程で、いつもと同じく、無理に無理を重ねるので、13時間ぐらい連続でパソコンを見つめていたりします。時には食事時間やお風呂に入る時間を別にすれば、徹夜でシゴトをしたりするから、いつも目はしょぼしょぼです。もちろん、感染症がなくても、定期的に、目医者さんには、いっています。

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 あ、ここで、突然の挿入ですが、視力を回復するためにレーザーで、水晶体を焼くなどと言う手術が最近行われている模様ですが、私のように目を酷使する人間から考えると、信じられない事です。目は大切です。自然に授かったものをいじるのはよくないと、私は考えますが・・・・・

 もちろん、盲学校の生徒さんたちも、「そんなもったいない事をして」といわれるでしょう。

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 さて、すぐ近くにある液晶画面を見つめるために、私は眼鏡をすぐはずします。近眼だったのです。ながらく・・・・・だけど、老人(悲しい言葉ですが、67歳とはその範疇に入るでしょうね)になると、目を囲む筋肉が弱まってきて、普通の視力の人は老眼になり、あらたにめがねを掛けないといけなくなり、私のように昔から近眼だった人は、眼鏡をはずすようになります。

 13時間も液晶画面を見つめているような生活ですと、他の時間もつい眼鏡をはずしたまま、過してしまいます。すると近眼ですから、すべてはある程度のレベルでぼんやりしているわけです。しかし、家の中なら洗濯物を干すだの、お茶碗を洗うくらいのシゴトだけですからそれなら別に視力がわるくても構わない事にきがつきました。、

 東京に出かけたときも同じような状態で、電車の中で、眼鏡をはずす仕事をした直後に街を歩くときも、眼鏡を、はずして歩いたりしても、別に構わないのです。特によく知っている街ならぜんぜんと言ってよいほど不都合がないのです。

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 こういう体験を重ねているうちに、突然ある事が明瞭になりました。なぜ、麻原彰晃と言う人物が生成したのかについての秘密です。彼には実は親の愛が少なかったのです。兄弟が多くて、しかも年齢から考えると、当時はすべての人が貧しくて、七人(?)の子どもを抱えた彼の両親は経済的に大変だったはずで、一種の口減らし(昔の言葉ですが、小学校だけを卒業した段階で、子どもを他家に奉公に出したりする事を指します)として、盲学校の寮に入れたのではないかと言う事です。

 親とは、現代では、自分の子どもに少しぐらいハンディがあっても、普通学級に通わせようとするものです。よく新聞やテレビに、難病を抱えながら普通の学校へ通学するお子さんが登場します。

 これは親も大変ですが、学校も大変です。常に授業参観状態になるので、先生も気が抜けません。それでも親の熱意に応じて、受け入れる学校があるのです。それほど、親とは普通の場合にはハンディに対して戦うのです。ハンディをそのまま認めてしまうのではなくて、できるだけ、普通の子どもたちと同じ経験をさせたいと願うのが、普通の親です。

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 しかし、麻原彰晃の両親は弱視の息子を簡単に盲学校へ入れました。もし、盲学校の学費に援助が出るのなら、これは、上の推定が正しい事となります。普通の場合はきょうだいが多くて、あまり面倒を見てもらえないのは、たくましい子どもに育ちあがるという良い面が現れることが多いのですが、

 一種の捨て子みたいにして寮に入れられてしまったら、子どもは直感として親の愛が自分には注がれていない事を感じ取ってしまいます。

 人間が自分に道徳的な縛りをかけて、善人であろうとするのは親を悲しませたくないからです。私程度の年齢の人間ですと親は経済的に苦労をした時期があって、それゆえに、尊敬をしていて、『金銭的な苦労以上の、苦労をかけてはならないよね』と自覚をします。また親の方も戦前の教育を受けていて、道徳的な規範が高いです。だから手本にもなります。

 でも、親の愛を信じられない場合には、その道徳的縛りが自分に掛かってきません。この項は続くとさせてくださいませ。書いたのは17日アップするのは18日
     雨宮舜
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辻井伸行君について、考えているうちに・・・・・

2009-08-17 00:11:38 | Weblog
 辻井伸行君が都立文京盲学校ではなくて、上野学園に進学なさった模様であるとは、前章で書きました。googleの検索では、辻井伸行・母と言う項目があるほど、テレビ映像内のお母様は素敵なひとで、また、お父様もお医者さんで、しかも辻井君は一人っ子です。

 ヴァン・クライバーンコンクールの前には、ショパンコンクールにも挑戦された模様で、その際、お母様が付きっ切りであり、それゆえに、辻井君ご本人は、ヴァンクライバーンコンクール優勝の直後、「早く結婚をして自立をしてお母さんを楽にさせてあげたい」と仰っているようです。

 海外へ行くときに母親がついていくのは誰にも分かる事ですが、日本国内においても、寮に入らないで、通学するためには、相当にご両親が力を貸してお育てになったと推察されます。つまり、ピアノのレッスン以外の部分でも、車での送迎ほか、電車でも、送迎するなどの、手塩にかけた養育が影にあったと推察されます。

 私はあるときから、愛情とはエネルギーなのだと気がつきました。つまりBさんと言う人間のために、Aさんが心を砕いておもいやり、作業と言う形で奉仕したり、時間を割いて何かを奉仕してあげる事だと気がついたのです。

 いや、軽い恋愛小説だけを読んでいると、愛情とはキスしたりハグしたりする事、そして最後にはベッドインする事かと思いますが、違うのです。誰かの事を深く考えてあげるという事も・・・心だけの問題であっても・・・愛情なのです。

 辻井君の体には、小さい頃から注ぎ込まれた愛情がパンパンに溢れていて、それが演奏のエネルギーと化して聴衆を感動させるわけです。辻井君の両親とは、単に遺伝上のことだけではなく、生まれた後でも、文字通り、育てる事に必死になって大きなエネルギーを注がれました。

 それは、少年であるご本人も気がついていて、あの年で、「早く結婚をして母を楽にさせてあげたい」と言う発言が出たほどです。これには驚きましたが、辻井君も本能的に分かっていて、母との別離が必要だという事でしょう。

 自分には奉仕が今まで必要であったが、精神的には、そろそろ自立のときであり、母親と四六時中一緒の生活は、そろそろ終わりにしたいと言うか、するべきだという考えがご本人に芽生えたのです。

 これは数回前に書いたやなぎみわさんの母としての覚悟の程が、目の前で展開したような、場面でした。辻井君の母君は、まだ、『辻井君にとって、ご自分が必要である』との感覚を持っておられるでしょう。でも、辻井君が芸術家としてさらに大きくなるためには、そろそろ、辻井君の方が、解散を宣言するべきときなのだと感じます。

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 でも、今日私が問題にしたいのは、そちらの未来の事ではなくて、過去の事です。母君はこれまで、よくなさったというか尽くされたと思います。もし、辻井君を都立文京盲学校の寮にいれたら、ピアノの練習時間は圧倒的に少なくなったでしょう。都立盲学校にもピアノは複数台あると思います。教科の方の音楽室や、寮にも数台あるでしょう。でも、ピアノを弾きたい生徒も数多いでしょうから、一日に、10時間近い練習をする事はできません。特に夜の練習は控えないとだめでしょうから。

 そして、そういうお母様の行動力を支えたお父様の経済力と、寛容さも大きいです。

 ただ、私がこの文章を書いているのは、それとは正反対のケースを考察したいからです。私は辻井君本人に関しては、自分がブログで詳しい事とか、個性的なことをかけるほど知りません。ただ、そちらの全く正反対のケースについて考察したくて、それゆえに、辻井君をも考察しました。ただ、別ケース、つまり、親の愛が少ないがために、稀代の悪人が生まれてきた話は、別の章を立てて書きましょう。
      2009年8月16日          雨宮 舜
 
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盲学校における、ピアノと音楽の才能

2009-08-16 21:42:41 | Weblog
 さて、昨日の暗い話(それは午後一時ごろの話でした)から、数時間後のその夕方の、都立文京盲学校の正門傍で、陸上の練習をしている少女に惚れこんで、ずっと眺めていた日に戻りましょう。

 少女が五本ぐらい短距離走を繰り返したころ、先生は私に気がつかれた模様でした。先生は少女に「今日はこれまでにしよう」と仰って、私の方に歩いてこられ、どうしてここにいるのですか?」と仰いました。私は「あんまり美しいので、思わず見とれていました」といいました。

 それは嘘偽りのない、気持ちでした。もちろん、その中には、精神的な部分への感動も含まれていました。先生はずっと少女の走る様子をご覧になっていて、「少し前傾を深めてご覧」とかそのほか、小さな、・・・・・つまり、すぐ実践できる・・・・・注意を与え、少女はそれをこれまた、すぐ飲み込み、改良を加えた走りをトライしていました。何と言う美しい情景だったでしょう。

 ご本人二人にとって、それは、日常的な当たり前の風景でも、部外者、特に、その日・・・信じていた目上の人に思いがけない形で裏切られた・・・と思っている17才の少女にとっては、ありえないほど美しく思われた光景・・・

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 先生は渡り廊下風のところへ入りながら、「盲学校には寮があるのですよ。通いにくいので寮生活をしている子どもが多いのです」と仰いました。そうです。今は駅のホームには突起した鋲が打ってあり、そこがホームの端である事が、盲人にもわかるようになっています。その鋲を頼りに歩けばホームから落ちないので一応危険を避けられるわけです。でも、50年前の当時にはそういう施設は、まだ、なくて、毎朝遠方から、満員電車に乗って通学するのは大変でしょう。

 しかも盲学校そのものの数が少ないはずですので、生徒は遠くからここへ通わなければなりません。だから、寮があるのです。

 この日から4年後、私は大学の寮に入るのですが、そこでは、ベッドがあり、机とロッカーがある形です。しかし、当時の盲学校の寮は、その形式ではなくて、畳の部屋でした。

 私は自分も放課後に、丘の上から下ってきて、ここに歩いてたどり着いたわけですから、生徒さんが寮にいる事には想像ができて、先生の後ろについていき、その畳の部屋に入ったわけです。その部屋には隅にピアノが置いてありました。先生は、◎◎を呼びなさい」と仰いました。

 すると誰かが、別室にいた男の子、坊主頭で学生服を着ていた子を呼んできました。さっきの少女に比べれば太った子で、体育が専門ではない事は明らかでした。
先生はその男の子に向かって、「この人に何か弾いてあげなさい」と仰って、私には「僕は用事があるから、ここで、・・・・・どうか、楽しんで行ってください」とおっしゃって向こうへ行かれました。

 彼は何かクラシックを、弾き始めました。楽曲は私が知っているものではありませんでしたが、相当に複雑な難しい曲である事は察しられ、私はその技量や表現力・他にも驚嘆しました。

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 彼のピアノ曲を聴き、また、先ほどのカモシカのように美しい肢体を持つ少女に出会った事が、私を絶望から救い、立ち直らせました。感動に口も利けないほどでした。目の前にいる、この人たちにはハンディがある。だけど、残された能力を全開して生きている。

 特にピアノを弾く少年を見ていると、目の部分が駄目なかわりに、耳が発達していて、素晴しい音感があり、直観力が優れている事がわかりました。

 私はその日、すべての人が万全な条件の下で生きているわけではないのだという事を学びました。ただ、盲学校の二人の生徒さんは、その人なりにスロットル全開にして生きている。その事が、私をして、あの悲しい事件に接した後でも、登校拒否も起こさせず、通学を続ける気力を生んだのです。きっと、立ち直らせたのです。が、部活だけは中止してしまいました。残念でしたが・・・・・

 まあ、いいです。別に都代表になるほど、優れた運動神経を持っているわけでもないから、そちらは、友達の信用を失ったという事が残念でも、才能の方からいえば、どうと言う事もないのです。

 最近、辻井伸行君という少年が、ヴァン・クライバーンコンクールで優勝しました。私は彼が都立文京盲学校へ在学したのかと思い、Wikipedia で調べたところ、音楽優先で、私立上野学園に進まれたようです。私立の方が単位取得等に自由度が高いでしょう。だから、辻井君はピアノに対して大きな時間とエネルギーを割く事ができるのですが、

 辻井君の姿をまのあたりにする人々は、自分が晴眼者として生まれた事にハッと気がつき、自分の恵まれている事に気がつき、そして、最後には、自分の能力を、まだ、全部は使い切っていないことにも気がつくでしょう。

 それは、私が50年前に、都立文京盲学校を訪問して(それは、全くの偶然でしたが)カモシカのように美しい肢体の少女に出遭った日と同じ感動を、多数の人に与えている事となります。

 私は本当に突っ走る人です。「あなたは、行き急ぎ過ぎている」とよく言われます。私の人生には、足踏みをしたり、待たなければならないときももちろんありました。だけど、基本的には、何事にも全力で取り組みたいと考えている人間です。

 それは、この日の偶然の出会いからもたらされた知恵などの、習得の結果です。

        では、2009年8月16日   雨宮 舜
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盲学校を、偶然、訪問して救われるー2

2009-08-15 23:11:56 | Weblog
 これから先に書く文章は、前日の続きです。

 その都立文京盲学校を訪問した日の、数時間前まで、私は何の屈託もない高2の女性でした。それで、数学の授業が始まる前に、隣の好きな友達に、「アメリカへ行ったら、こうするつもりなの。ああするつもりなの」とユメを語っていました。すると、後ろからぽんと背中をたたかれ、「しろちゃん(それは、当時の私のあだ名です)、何言っているのよ。それ、もう終わっているわよ。私は落ちたけれど」と言われました。

 ここで、それとは、AFSの留学試験の事です。9月ごろ友達と二人で申し込みに行って、その

 『既に終わっている』と言う青天の霹靂の情報を得たのは、十一月ごろだったでしょう。窓の外でイチョウがまっ黄色だったという記憶があります。事実は、《先生が応募書類をくださらなかったのだ》」ということだけは推察ができました。

 私は頭は鋭く回転をするけれど、口が活発な方ではありません。で、そのとき、何も騒がなかったのです。これはいけませんでしたね。すぐ、「あれ、どうしたのかしら。私、先生に受験を申し込みに行ったわよ」といえば、もっと、早く、苦しみが解決をしていたでしょう。

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 今、わかっていることは、私の方が先生(男性)を嫌っていて、先生もそれを知っておられていて、『お前のような生意気な生徒には、この受験用紙をやらないよ』と一方で思われ、一方で、『お前が受験すると、合格してしまうかもしれない。そうするともっと、お家柄のよいお嬢様が、本校の代表としてアメリカへ、行けないではないか。それは、困る』と言う事だったと思います。

 だけど、先生は東大卒であり、見かけ上は恰幅のよい50歳代の紳士だったから、偉い人がそういう考えを持っておられるなどと夢にも思えず、ショックは大きかったのです。

 もうちょっと具体的に申しますと、私の中学校には、既に1950年代にフルブライトの交換留学生として、アメリカ人の女性教師が滞在していました。で、私はこどものころから、sとthの区別とか、r と、l の違いとか、f、や、vで、唇が噛める子どもとなって育ちあがりました。

 先生の方は、大正生まれだと思いますので、戦前、戦時中の英文学専攻ですから、たとえ東大卒といえども、会話に関する訓練を受ける機会がなかったのでしょう。ほら、英語は戦時中は敵性外国語でしたし・・・・・

 しかも授業内容はすこぶるつまらなかったのです。私は前から二番目の最も窓際の席に座っていました。でも、ときどき、先生がこちらを注視なさる事があって、『それは、不思議だなあ』と思っていました。だって、私は隠れて小説本を読むような勇敢な少女でもなかったし、私語するわけでもないし、美人でもないし、どうして、先生がこちらをご覧になるのだろうと、不思議でならなかったのです。

 あのとき、先生は、私の心の中を探っておられたのでした。先生を馬鹿にしているこちらの気持ちが顔に出ていたのです。私は発語は活発ではありません。でも、作文は既に中学時代から先生に褒められていたし、心の中の動きはとても活発な子でした。私は先生を馬鹿にしていたけれど、先生はさすがに文学専攻で、私の心の中などとっくに読んでいらっしゃったのです。

いや、もしかしたらですが、あの強烈な視線を感じた日々は、先生の方は、疎外した私が、先生を恨んでいるかどうかを探りたかったのかもしれません。私の方は、試験から除外された事も、試験が終わっている事も、何にも知らないので、天真爛漫なままでしたけれど、・・・・・真相はすべて、今では闇の中ですが・・・・・

 今、思えば、あ、は、は・・・・・で笑って済ませられるし、何か、得をしよう(この場合はアメリカ留学に挑戦する事)と思ったら、慎重に行動すべきであり、『上の人には、逆らってはいけないのだ』という教訓を得るのみですが、当時の私は、特にその日には、打ちのめされてしまいました。

 それから40年経った、2000年(ミレニアム)に入ってから、友達とは誤解が解けます。少女の頃は、『一緒に申込書を貰いに行った友達は、どうして試験が終わった事を、教えてくれなかったのだろう』と、友達に不信感さえ抱いていたのです。が、パリに研修に行ったり、ニューヨークへ二度も研修に行ったりした後で、やっと、少し自信ができて、その疑問を、友達に述べる事ができるようになったのです。

 そうしたら、「あら、あの試験って、自宅近辺の会場で受けるのよ。だから、私は東京の○○区で受けたし、しろちゃんも横浜で受験をしていると思っていたわよ」と言われて、初めて、心が大きく晴れたのです。

 その試験は、12人ぐらいの申込者が、すべて、一人ひとり別の会場で受けた事となり、お互いに合否をあまり明らかにしないシステムと習慣だった模様です。合格した人も、二次試験とか三次試験があるので、一次試験のことは秘密だった模様で、だから、こそ、私がつんぼ桟敷に置かれていて、受験ができなかったことも、本人も知らないし、ほかの人も知らなかったので、なんら、問題にならず、時だけが過ぎていったわけです。

 私自身も、これを、一つの恥と考えて、その後、40年間も秘密にしていたのです。ただ、20歳の頃、その母校でもっとも尊敬をされていた化学の先生に打ち明けに行きました。私は別に化学は得意では無かったです。英語(デモ、文法ではない別の先生)とか、国語の先生とか、世界史の先生とか、数学(=数Iのじだいだけど)の先生にはクラスで全員の目の前で、ほめられた事があるけれど、化学の先生からは褒められた事はありません。

 だけど、その先生が大変な人格者である事は知っていました。それで、話に行ったのです。先生(木村都=みやこと読む)は大変適切に慰めたくださいました。が、みやこ先生もこの事実を外部に出される事はなく、すべては、秘匿された闇の中です。し、その間に、当の意地悪をした方の男の先生は亡くなってしまわれました。

 ただ、私は大きな傷を受けたために、二年の秋に部活を止めてしまい、それで、信用を失ったでしょう。他の友達は、私が受験勉強をするために中止したと考えておられたみたいですが、それは、全くの誤解です。勉強なんか一時期手につかないほどでしたし、あらゆることに気力を失いました。だから、部活もできなかったわけです。

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 普通なら、登校拒否に陥ってもおかしくないほどの傷を受けたのに、それが、回復したのは、その夕方、経験した都立文京盲学校での感動が、支えてくれたからでした。

 あれは、全くの偶然だったのですが、いわゆる神の配慮と言うものの一種だったでしょう。私はその日、友達の誰とも話をしたくなくて、いつも使う駅である『茗荷谷』を避けたのです。その脇から小道をたどって、別の電車に乗ろうと考えました。

 文京区とは北部に丘があって、中央線に沿って、平地がある形になっています。私はその日だけ、地下鉄丸の内線を使わないで、中央線を使いたいと考えたのです。それで、結果として、偶然にも、都立文京盲学校の前を通ったのでした。

 この項続く。  2009年、8月15日に描く、送るのはあとで。

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 ところで、ここで、突然ですが、挿入的追伸を書きます。本日、の夜の10時(22時)ごろ帰宅したら、テレビがついていて、その中で、この私の母校が出てきました。廊下側のガラス窓に特徴があり、丸いのです。

 本当に不思議なことに、私はいろいろな事を引き寄せます。その番組は衛星第二放送で、放映された過去の良質な番組の再放送『あの夏、60年目の恋文』だったのですが、主人が感心してみていました。

 上の文章で、私はあるマイナスの現象を書いております。でも、今となってはそのマイナスさえ、プラスに転化しうると考えております。私はそういう悲しみが無ければ、経済的に、あまりに、過保護で、スムーズな人生を送り、感動の薄い、酷薄な人間になっていたかもしれません。でも、いろいろ、精神的な苦しみがあったればこそ、思いがけずも、思考の深さを与えられ、今、書く事が好きになってきているわけです。

 それは、天の配剤と言うものでしょう。では、これは、15日の深夜に送ります。
                      雨宮 舜
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