銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

恐れを知ること・・・・・鳩山夫人の占い好み

2009-10-02 13:39:15 | Weblog
 私は09-9-30日、に 久しぶりに、週刊文春を買いました。有楽町から鎌倉まで、こ一時間かかります。もっと元気ならまともなことを考えます。前向きな時間をすごします。そして、もっと疲労困憊なら、ただ、うつらうつらしながら一時間を過ごします。中途半端に疲れているときが一番困ります。

 何か気を紛らわすものがないと、脳が無理なのに、思考回路に入ってしまい、結局、家へ帰ってからお風呂にも入りたくないし、ご飯も食べたくないというほど疲労してしまうことになるからです。しかし、硬い読書ができるほどの力もない。こういうときは、私世代なら、やはり、週刊誌です。ケータイはiphoneを持っているのですが、外では持ち歩かない主義なので、ほかの若い人みたいに、ケータイでゲームをやる技術もないし。

 で、朝新聞を読んで広告を確かめていないので、週刊文春がより扇情的なのか、週刊新潮がよりすごいのかは判らなくて、迷いましたが、だいたい、週刊文春のほうがコラムが慣れているので、文春の方を買いました。表紙は今週は新潮の方が、素敵でしたが。

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 さあて、今週も鳩山夫人です。鳩山夫人がアメリカへ行って、老人ホームで「さくら。さくらー」と歌った映像を見て、主人が気恥ずかしそうにしていたので、「私は、いいと思うけれど」といっておきました。それは主人という個体が、日本人の典型的な反応だと思うわけで、それに対して、よくどこでも歌を歌う私は、より、鳩山夫人に近いでしょうから、援護したわけです。

 ただ、全般的にはそのパフォーマンスに賛成ですが、部分的には、個人として、『自分は、・・・特にこのごろでは、・・・違ってきたなあ』と感じています。それは、必ず即興で、歌うということで、事前に設定されている場所で歌うことが、・・・特に最近では、・・・ないからです。私の場合はこころが特別に、動いた場所でしか、最近は歌わないのです。

 ただ、以前は、PTAの宴会とか、個展や、大グループ展(国展)の初日でさえ、歌いましたから、他人の批判はできません。だけど、最近の歌は、とても、幸せな感じの経験として、非常に小さな舞台で歌っています。

 だから、あのさくらは、・・・・・総じて、『がんばられましたね』と、好意的に感じています。とくに宝塚出身とのことですから、あれができる人なので、おやりになったのは結構です。

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 ただし、それ以前の報道、私生活、および結婚のいきさつについては、ここでは、触れません。それも『有名税というか、大変なことですね』というしかないし、そういう批判を受けても仕方がない部分も、もっていらっしゃるのかもしれません。が、それについては、ここでは、関与しません。

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 それよりも今週の週刊文春に出ていた<占いに凝っておられる話>が重要です。それについて、週刊文春はそれほど性急に、からかうとか、批判するという意味で、立場を鮮明にしていないで、部下の批判として、「それに振り回されるので、困る」と言う程度にとどめています。

 それを読んだ後で、帰宅してNHK夜九時のニュースを見ていたら、ちょうど、コペンハーゲンに向けて飛行機に乗る鳩山夫妻がに出てきて、そのネクタイが、週刊文春の記事に出ていたとおりの金色が入ったものでした。

 「あれ、あれ」と説明をしようとすると、主人がすでに知っていました。世間ではすでに有名な話となっているのかしら? 私は今日の今日まで知りませんでしたが・・・・・

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 これについて、どう考えるかですが、とてもよいことなのではないかしら。というのも、そういう占いに凝る影に、『自分が、普通の人ではない』と言う認識があるからです。そうですね。宰相というのは、その肩に、一億人の命運がかかっているわけです。その一億人の代表として、なるべく、大きな幸運を、自らに引き寄せなくてはなりませんね。

 それが、自分の力だけでできると思ったら、占いに凝ったりしないでしょう。自分の力だけでは、その重い任務がこなせないと思うからこそ、占いにでもすがって、よい方向を目指したいと感じておられるのなら、それは、ある種のまじめさとつながるものです。一種の謙虚さを、感じさせられます。

 今までの報道では、上昇志向の強い目立ちたがり屋、だと言う側面のみ報道されていました。だけど、もし、この占いに凝るというのが、レーガン元大統領夫人の西洋星占い信奉と同じ路線で、行われているのなら、ちょっと見直さなければならないと思いました。

 ただし、これは、政治的なひいきではありません、あくまでも一個人の心理学的な力量の問題で、『自分の力量が少ない』というか、『自分の力量を過信していない』という人のほうが、私は好きだし、信じられるから、の論点です。

 『自分のことをえらい』などと思っている人は、私は本当は、馬鹿なのだと思っています。うえには上がありますから、人間の修行には、永遠に終点はない。だから、修行のひとつの形として、自分には、采配しきれない課題については、そういう修行をした人、この場合は・・・・・占い師ですね・・・・・に教えを乞うという姿勢は、過信の人よりも謙虚な気がします。

 時々、私はヨブ記<<<ヨブは聖書の中に出てくる、現在で言う、成功したビジネスマン。だけど、あるときから、さまざまな不幸に見舞われる。で「私はこんなに、努力をしているのに、なぜ、これほどの試練をお与えになるのですか?」と神をなじると、「信仰が足りない・・・・・特に信仰における謙虚さが足りない」といわれる・・・・・>>>を思い出すのです。

 宰相とは、一国一城の主の、人臣・位階を極めた存在です。もっとも上の存在です。その夫人が、占いに凝るというのは、馬鹿にした話でもなくて、一種の謙虚さの表れだから、やや、安心しました。逆説的ですが、夫人の『派手に見える言動の裏側の、繊細な謙虚さ』に触れた思いがします。なんか、ほっとする思いがいたしました。『幸・多かれ』と祈ります。それが国民の幸せに通じますので・・・・・
                       09-9-30   雨宮 舜 (川崎 千恵子)
コメント
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