これは、シリーズものの27です。
今、30日の午前9時です。小さい章を最後に付け足しをさせてくださいませ。
副題164、『むべの花咲くゴールデンウィーク』
副題165、『私の猫は、どうも、このブログを、読んでいるらしい?』
副題166、『むべの花から、勅撰和歌集や、大河ドラマへ、連想が飛び』
副題169、『今上天皇は、なめられているのかな?』
副題170、『安野家の、美猫』
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副題164、『むべの花咲くゴールデンウィーク』
1)
まず、写真の説明をさせてください。晴れた日の午前中、我が家のベランダから見える『むべ』の花です。白い花が下向きに下がっています。百人一首の中で、「むべ、山風を、嵐と言ふらむ」と言うのがありますから、日本に昔からある古い植物なのでしょう。つる性で、枝がアケビみたいに、曲がります。そういえば、実も小型のアケビと言う風情です。
『世界を股にかけて活躍する大アーチストになる』と言う夢が破れた私が、それでもなお、「神様がいつも、私を見守ってくださる」と豪語するのは、こういうささやかな幸せに恵まれているからです。
つまり、美に遭遇するということ。
ところで、true to say (ありていに言えば)、本当は緑は好きではないのです。種々さまざまな諧調を見せる灰色が、すきなのです。それは、荻須高徳描くところのパリ、ユトリロ描くところのパリ、または、同潤会アパートのある(または、あった)辺りの関内なのです。いまは、横浜球場の裏ですよと言うべきか、元街の裏ですよと言うべきかなのですが、横浜の空襲では、焼けなかったあたりの、風情ある古い建物群、もちろん、パリでもそれは数多く発見をしたし、ニューヨークでも時たま、見つけましたけれど・・・・・が、大好きなのです。
ところが、そういう本当に好きな景色を見つけに行って、そして、絵を描くためには、今は環境が整っていません。家を空けることすら自由には、できないのですから。ところが、そんな私が布団を干そうとすると、この様な新緑と、薄緑色と白の混じった、まるで、ブヴァリアのような質感の花弁を持つむべが、逆行の中で、日に、すかされているのを見る機会を得ます。それは、好きではない種類の美ですが、やはり、美しいことには変わりはない。
2)
我が家は日当たりが悪いのです。それで、88坪ほど、敷地はあるはずですが、花畑として、利用できるのは、北側の、3坪程度しかありません。そこを、丁寧に使っていて、丁寧に点検をしています。毎朝。毎昼。
すると、目の前のフェンスを渡る小リスが、じっと止まって、私を見つめます。我が家の東と西には椿の木があって、両方の実がリスのえさになるので、フェンスはリスにとっての幹線道路になっています。つまり「東名高速道路ですよ」と言うわけで、疾走していきますが、今日のように、私から、一メートルの身近で、これほど、長時間、じっと私の目を見つめるのは、それほど、多くはない機会なのです。
副題165、『私の猫は、どうも、このブログを、読んでいるらしい?』
そして、足元には猫がまとわりついています。私の猫は、室内にいるときはほとんど声を出しません。主人はひどく優しく声をかけますが、ほとんど、返事もしないという感じです。そして、私とは、目線だけで会話が成立します。
必死でリスキーなもの、ヘヴィーなものを書いているときは、心配そうに見つめています。それは、私の頭とほぼ同じ高さで、ベランダの窓においてある猫ベッドの中から、起きても、身を動かさないで、じっと目だけで、心配そうに見つめています。2.5メートルほど離れていますが、視線を感じます。
その後で、一巻を書き終えると仮定します。するとすぐそれが彼女にはわかり、床に飛び降りて、じゅうたんの上で仰向けに転がり、前足を折ります。これは、遊んで頂戴と言うサインですから、五分ぐらい猛烈な猫向けのプロレス遊びを一緒にします。しかし、その間も一言も声は出しません。えさがなくなっているときさえも、声も出さず、視線の集中で知らせます。
ところが、外へ出たとたんに、激しく話しかけてきて、ほぼ、五分ぐらい、華やかな会話を交わします。この件ですが、私はそれなりに、とても楽しんでいます。ただ、ご近所様のあざけりの対象となっているのも感じます。私ほど、猫になつかれている人間は、ご近所様にはいないですし、ともかく、ご近所の人間との会話が少ないくせに、圧倒的に猫との会話が多いことを、「変よね。あの人って」と思われているでしょう。
あの人は前から村八分の対称だったけれど、最近たら、ブログで、私たちのことを書いているらしいわよ。しかも実名で。とんでもない人間だわ。絶対に話しかけないようにしましょう。懲罰のために、挨拶もしないこと。そのおかげで、この山には、人間としての話し相手がいないのよ。だから、猫なんかと、あんなに派手に話し合っている。おかしいわね」と、言い合っているらしい気配も感じています。
ともかく、山間の煙と言うエピソードに書いたように、何でもかんでも、私をワルモノにして、スケープゴートにしておけば、この山の主婦連中の隠された緊張が緩和されるからです。上下関係をめぐる本当のところを突きつければ、仲良しのはずの主婦たちも、分裂するに決まっていますが、分裂してしまえば、トップに立つ人間のうまみは薄れます。
引っ越してきたときに、安野夫人が主催する井戸端会議には、加わらないという姿勢を明白にしたときから、本日の、立場は、推察ができていたので、仕方がないと受け止めるしかないですね。
しかし、今日はふとですが、まったく新しい考え方が浮かびました。それは、猫は、この山の状況がすべてわかっていて、私を守り励ますために、これほど派手に声を上げているのではないかと言うことです。『お母さん、元気を出しなさい。お母さんは、本当はかわいいタイプで、しかも華やかなところがあるから、スターになるべき存在なのです。そんなに沈んでいたらだめよ。私は一時期、ここの女王様でした。だから、その私がサポートしてあげるから、明るくて華やかな自分を取り戻しなさい」とでも言われているような。
いや、どうして、そういうことを考え付いたかと言うと、今朝はじめ敵がついた行動を彼女がとったからでした。玄関のドアを開けると、狭いポーチの端まで、言って、きちんと正座し、顔をさっと左側に向けて、7メートルほど先にある西隣の白井さんをじっと見つめるのです。その横顔は、後ろから見ても真剣そのもので、厳しい大人のそれです。
音や気配を、注意深く探索し、しかも、ものを考えている姿勢です。まるで探偵様です。驚きました。私ね。お隣の白井さんが敵方に回ったことは、家庭内では一切音声では話しておりません。室内盗聴を知っていますので、一切話題にしてはおりません。
と言うのも、これは、パターンから考えると、別に新しいことでもないのです。過去に、数百回経験しているものと同じです。夫に対しては、特別に困る可能性があれば、「こういう風に行動をしてほしい」と、手紙を書きます。だがね、今のところ、西隣の件は、それほど、重要でもないのです。大騒ぎをするほどのことでもないのです。
次に述べる予定の、2009年5月の、藤本夫人の測量などと言う大事ではありません。
で、家庭内では音声では何も話していないので、聞き耳を立てるということは不可能です。『うーん。この子は私のブログをすべて、後ろから覗いて読んでいるのかしら?(笑)』と、思ってしまうほどの、真剣さで、じっとお隣から来る気配を、検討しているのでした。
驚きました。前からお隣に興味を持っていることは知っていましたが、(と言うのも、下屋根から、五分程度は、じっとお隣を見つめている。それは、えさ台に寄ってくる野鳥に興味があるからだと推察していましたが)今日の真剣な注目度は、そのたち位置が、野鳥のえさ台が見えない位置でしたし、かつただ事ならぬ気配でしたので、驚きました。前から頭のいい猫だとは知っていましたが、ここまで頭がいいとは気がつきませんでした。
お隣との間に漂う緊張感に、見事に敏感に反応しているのです。
忠犬ハチ公とは、聞いたことがあるけれど、忠猫○○とは、聞いたことがないのですが、猫も、飼い主を愛してくれることは確かなのです。
その一時間後ぐらいのことです。下屋根で布団を干していると左下、4メートルぐらいのところを白井さんが通りました。さっと緊張感が走りましたが、上品にも、「おはようございます」とのことで、私はぐっと、つまりながらも、「おはようございます」と、お答えをしておきました。
おや、おや、困ったことになりましたね。
ただね、白井さんに関しては、いつも、上品なそして、育ちのいい人だなあと感じているのですよ。両親から大切に育てられた13歳も年下の、私の弟と、そっくりな、上品さがあります。弟を高く評価している私は、それゆえに、白井さんは前からすきなのですよ。そして、高くも評価しています。ただ、二人を比べれば、妻帯者である白井さんの方が器用ですがね。『うーん』
だけど、ソフトプログラマーで、インテルに勤めていた弟が、インテルが、日本から撤退するという形で、職を失っているので、そのことは、白井さんとは関係がないものの、例の敵たちとの、攻防はまるで、終わっていないとは、感じるのですよ。
あの撤退は、表向きは霞ヶ関の水が不適当だということでしたが、日本の水・浄化装置は完璧なはずですし、変だなあ。口実ではないかしらと思っているしだいです。弟はシリコンバレーとの往復もしょっちゅうやっていたし、それなりに、優秀だったから、35過ぎてもつぶしようの役職をすることは可能だったと思いますけれどね。
ただ、幸いなことに、親の経営していた会社を引き継いでいますから、生活に困ることはないのですけれど。
副題166、『むべの花から、勅撰和歌集や、大河ドラマへ、連想が飛び』
むべの名前が思い出せなくて、主人に電話したとたんに、この歌には掛詞が使われていることが思い出されました。
むべ、は、植物の名前ではありますが、一方で副詞のはずです。この際には、やはり根とか、なるほど、そうだねと、言う意味で、使われています。高校の国語の時間で、万葉集はおおらかだが、平安時代に入ると、貴族社会で、技巧が発達した。古今集や、新古今集などの、勅撰和歌集は万葉集とは違うのだと、習ったでしょう。皆さんも。
その典型的な一首で、作者の文屋の康秀は、低い役職の官吏だが、小野の小町と晩年をすごしたとか、和歌の才能はあったみたいです。
定家が、貴族の山荘のふすまに色紙を書いてくれと頼まれて、100首を選んだ(小倉百人一首)の中にも選ばれていて、カルタ合戦のときには、頭の、むを発音しただけで、とることができる歌としても、有名ですよね。「むすめふさほせ」の7首だけは、それが可能とされています。
さて、平安時代といえば大河ドラマ『平清盛』です。
我が家では、主人が、広島の呉出身ですから、熱心に見ています。そして、ひどく面白いと感じています。特に天皇家と、藤原家側の描写が秀逸です。人間関係および、感情の行き違いが、絶妙に描かれています。鳥羽上皇役の三上博史という俳優は、これが代表作になるでしょう。そして、山本耕史が、相変わらず、うまい。
しかし、とても評判が悪いとのこと。
その理由を推察していきましょう。
1)、衣装が汚いという点。・・・・・それはいえていますね。リアルを追求するとしても、花伝書を読みなさいと、スタッフたちに言いたいところです。
2)、主人が言うには、最初、合戦場面が大仰で、若者にこびすぎた、騒々しすぎて、例年の大河ドラマファンを、離れさせた。・・・・・これもいえていますでしょう。特に史実を無視した場面も多かったから。そこらあたりでは、荒唐無稽だなと思われる設定も多かったです。だんだん直ってきていますが。
松山ケンイチ、玉木宏、深田恭子など、映画でヒットを飛ばしている若手スターを起用しているので、若者を呼び寄せたかったというのは、推察できますが、
別にロックミュージシャン張りの騒々しさで、戦(いくさ)の場面を作り上げる必要はないのです。大金をかけたかもしれないが、必然性も説得力もなかった。反対に、年配の普段の視聴者層を手放してしまったと思われます。大失敗ですね。だんだん静かな室内描写が増えてきたので、回復するかな?
3)、天皇家を王家という呼称が、国民の反発を招いたか?
今年の一月は、私がまだ、フェイスブックに入っていたのですが、その際に、このドラマで、天皇家を、王家と呼ぶことが大問題となりました。NHK側は、当時は、天皇家と言う呼称はなかったとしていますが、一般常識では、ここは、うえつ方と言う呼び方をしたりするのが、適切であって、平家の武士が、『王家を倒して、云々、かんぬん』と、言うのは、徹底的におかしいです。
ただ、それでも、NHKが、いまだに改めないで、この呼称に固執しているのは、例の、私の敵どもが、設定しているコンセプトに、どれほど、忠実に従っているかを示しています。
在日の出自のひと、および、韓国そのものを、日本、および、日本人の上に置きなさいという指令が、あまねくいきわたっていて、それに史劇さえも、従うようになったというのが、本当のところでしょう。うんざりしますが、ここで、小澤一郎、在日出自説を、開示すれば、なんとなく、いきさつがお分かりいただけるでしょう。福島瑞穂さんもそうらしいです。カミングアウトをしている姜尚中氏が、大変な高い率での露出が、あります。特に、新・日曜美術館の司会を彼がしたときは、『うーん、誰が認めなくても、私は大物です』と内心で、思い至りました。
姜尚中氏が、その司会者に選ばれたのは、氏が、もと国際基督教大学の教授であったということと、私が美術畑の人間であるとの両方が絡んでいると思います。直前の司会者コンビがとてもよかったので、おろされたのは気の毒です。私はこのように、自分とは直接関係のない人間の出世まで導いているのですから、神様が気の毒に思ってかわいがってくださるのも道理だとお考えくださいませ。自分と関係がある人の出世は無論のこと招いていますよ。常に、私一人取り残される形でね。でも、その収支決算での、マイナスこそ、私が天国に蓄財をしているということに他ならないのです。で、私は、どんな不幸なときでも、生き延びて、元気であるし、あり続けるというわけですが。
大河ドラマそのものに戻れば、NHKは、急ぎ過ぎるし、また、現在の放送メディアが、いかに、上記のコンセプトに支配されきっているかを示しているといえるでしょう。
で、そこらあたりが、国民の大反発を招いていると思います。磯さんと言う責任者が同考えているかがわかりませんが。まあ、NHK内で生きていく限り逆らえない流れがあるのでしょう。でも、いま、この日本を支配しているエージェントたちの発想とは、乱暴すぎるし、性急過ぎます。私に対する攻撃の手法も大変に幼稚だと思いますが、日本国民全体に対する支配手法も大変に幼稚です。
ただ、1960年代までだったら、ジャーナリズムがきちんと機能していて、そこからの浄化があったのに、今は、まったくそれがないです。つまり、NHKと、朝日新聞が、そのエージェント側のひとりとして、機能していますから、だれも何も批判できないのです。
恐ろしい世の中です。だから、平家物語は国民からそっぽを向かれています。ドラマとしては、大変面白くできています。天皇家と、摂関家が、割とステレオタイプ化はされているが、それでも、今までにないリアリティがあってね。そこは秀逸なんですよ。だから、出演者たちには、お気の毒です。
副題169、『今上天皇は、なめられているのかな?』
私が上のようなことを書いたりするとまたまた、「ねとうよ(=ネット右翼)などと目されて、読者を去らせたり、読者に軽蔑をされたりすると思います。ただ、どうか、朝日新聞に洗脳されすぎないでいただきたいといいたいです。
戦前に、赤(アカ)と規定して、一部の言論人を弾圧したのと同じ流れが、今、『ねとうよ』と言うキーワードで展開をされているとかんじます。
と、いい、今、五時間後戻ってきたのですが、天皇陛下のご葬儀の件は、今日は、書くのは難しすぎると思い直しました。それに今書いている主題とは離れます。それで、まことに申し訳ございませんが、本日の文章は、ここで、終わらせていただきたいと存じます。
今日は美しい陽光のなか、むべと言う小型あけびの花を見て、平安時代へ思いを寄せたというところで、終わらせていただきたいと思います。
副題170、『安野家の美猫』
さて、上のようにまとめて、睡眠をとって、今、次の日になりました。
猫について、書いているこの章に、あれを付け加えたいなと思いだした小さなエピソードがあります。
うちの猫が、二階の出窓に置いてある猫ベッドの中で、正座してじっと下を見ています。別に最高の緊張でもないが、第二段階の緊張状態です。それで、何かなと、一緒になって、下を見ると、我が家の庭を堂々と、安野家の猫が横切っているのです。
これは、猫が、人間の威勢を利用することの典型です。今、この山で、人間として、威勢が強いのは安野夫人ですから、猫もかくも堂々としているというわけです。
安野家は、長らく犬派だったみたいですが、迷い込んだ猫を飼い始めてから徹底的な猫派になったみたいです。そういう意味では、共感する余地があるんですがね。
ただね。石川和子女史から受けた大迷惑のために、自由に猫を外へ出せなくなった、私としては、憎たらしい態度だな。我が家をテリトリーにするなんてあてつけがましい。人間だけではなくて、猫まで傲慢だ」と、普段の猫好きを忘れて、怒るわけです。本当に堂々と、南北に庭を横切っていきます。
そういえば、引っ越してきた時に、すでに我が家では、10歳を超えた猫が同道してきました。白い毛が多い、すこぶるつきの美猫で、横須賀・北久里浜では、
毎日、窓の外へ、でっぷりとして、顔の醜い、でも、いかにも人のよさそうな雄猫が毎日慕ってきていました。が、避妊手術をしてあるので、じっと五分ぐらい見つめあったまま、つまらなそうに、我が家の猫の方がそこから移動をするので、仕方なくて、彼の方も向こうへ去っていくのですが、それが、毎日繰り返されました。
そして、この鎌倉でも、でっぷりと太った、野生の野良猫が、いつも窓の外から、我が家のその白猫を見つめていました。鎌倉でも、五分ぐらい目線だけでお相手をしていましたが、やがて、つまらなそうに我が家の猫の方が移動を開始するのです。が、引っ越してきた直後に、石川和子家の当時の飼い猫と、テリトリー争いをして、負けて、しかも相手は若い雄猫で、しかも避妊手術をしてあるらしいので、我が家の猫の美貌には目もくれず。その威力が無効果だったので、それ以来我が家では、外でに自然がいっぱいあるのに、うちトイレを用意して、それを毎日交換しないといけなくなりました。猫一匹飼うのだって、なかなか手間なのです。
今の猫は、その白猫に比較すると毛並みは、全く劣るのですが、不思議な能力、・・・・・人間との高いコミュニケーション能力のこと・・・・・を持っているので、猫好きを、いっぺんで魅了してしまう模様です。
ともかく、魅力がありすぎるので、トラブルになるという、矛盾に満ちた猫ですが、そのトラブルゆえに外へ自由に出せなくなって、したがって、以前なら、へび、もぐら、ことり、など、ありとあらゆる野性を満たす狩りをしていたのに、それもできなくなって、不自由な身をかこっているわけです。それを、あざ笑うかのように堂々と我が家を横切っていく安野家の猫を、二階から、指をくわえて、眺めている私と我が家の猫なんでした。
これが、白井・小野寺家の玄関戸、ぴしゃーっとが、大問題になることへつながっていくのです。それは、この猫が急に不自由極まりないこととなったことと連動しています。また、後で書きますが。
でもね。連休です。皆様もお楽しみになりたいでしょう。で、少し、穏やかなところで終わらせたいと思います。
それは、安野家の猫さえ、私はてなづけてしまうほど、私が猫好きだという話です。安野家の猫も頭がいいので、飼い主の状況を反映します。何となく、相手が、リラックスしているとき(それは、ご夫婦そろって、勝った、勝ったと思っているときなのですが)は、猫もリラックスしています。
それで、私が通るときでも、逃げないで、じっと見つめています。私も敵意のない視線で、じっと見つめます。すると、トロッととろけるとまではいかないのですが、緊張をとき、私のことを、『敵じゃあないな』と考えてくれます。それで、さらりと、撫でてやります。ごろんとねっ転がって腹を見せるほどは、なつきませんが、それでも、何回も体をなぜさせます。私は、自分を、「おお、私はハーメルンの笛吹き男ですね」と思うのです。
安野家の猫は、我が家と同じトータシェル(ミックス模様の三毛)で、しかも白毛が多いので、まるで、紫色かなと思われるほど、美しい毛並みです。
では。誤変換を直したら、署名を入れます。ただ、今日は、親戚の集まりがありますので、普段より、長時間お休みをいただきます。恐れ入ります。