銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

【こころよい静けさが=モーツァルト】を30日に聞いて、27日の夜、大苦難を乗り越えたばかりの私は、大いに共感した

2021-06-29 15:58:57 | 政治

  このブログは、総タイトルを、【荻生田大臣の記者会見が気になるのだ。ところで、息子を対私への攻撃用武器として、敵さん達が使っているというジレンマ】として公開し、14時間、そのタイトルで、置いて置きました。しかし、30日の、午後零時ごろ、TVの録画番組を見たのです。BSP21-6-29日放映の、クラシック倶楽部です。モイツァ・エルトマンという若い美形のソプラノが、紀尾井ホールで、2018年7月3日に歌ったものの、放映。真ん中ごろで、彼女は、K152 の【こころよい静けさが】という短い歌曲を歌いました。

 ケッヘル番号から推察すると、たぶん、モーツァルトが若い時の作曲でしょう。しかも、歌詞の作者名が、付記されていません。と言う事はモーツァルト自身の、つぶやきが、曲になったと、推察されるほど、単純にして、美しい曲です。

 その歌詞をテレビ画面で、見ているうちに、『ああ、ここで、歌われていることは、この27日の夜に私が考えたことと同じだわ』と、考えました。その日、私は、息子からひどい電話を受け取っていました。たぶん、彼の後ろに敵方の誰かがいて、そういう電話を掛けるように誘導したのだと、思うのですが、ブログを書く人としては手足をもぎ取られ、自由を失う様な提案でした。息子は、いい子です。ただし、「かれが、愛情深いむすこだから、あんたの老後は、大丈夫よ」と、母が死ぬ間際に言ってくれたことをブログで、書いているために、彼が、敵方の最終兵器として、使われることがあるのです。すでに、それを何回も発見していて、ものすごい苦しみを味わっています。しかし、息子に真実を理解させれば、息子に、今以上の苦難が押し寄せるでしょう。だから、真実を教えられません。

 ただし、その日の息子は、いつもとは違って、悲哀に満ちていて、静かな話っぷりだったので、彼の理解力を信じた私は、「今の様な行動をとらないと、私はご近所様から精神病院へ入れられてしまうのですよ」というと、彼は、「いいじゃあないの。精神病院へ入っても」と言いました。私は思わず、最も気にしている事、を語りました。「駄目よ。それは。だって、あなたの子供の就活や、婚活の時に、大いにマイナスになりますよ」と言いました。続けて「あなただけではない。妹(私の娘)の方の、子供たちの将来にもマイナスです」と言いました。すると彼は、また、間髪を入れず、「大丈夫、俺は、気にしないから、そんなこと」と言いました。そして、さらに「子供だって、そんなことを気にしない様に、強く育てる」とも言いました。私は追い詰められました。で、彼を含めて、自分以外の人間を大切にするいつもの習慣をかなぐり捨てて、自分を大切にすることにしました。「あのね、お母さんは、今の様な態勢を保持しないと、自殺に追い込まれるのよ」と言いました。すると彼は、「いいじゃあないの、もう死んでも。十分に、生きたよ」と言いました。もう、私は二の句が継げず、「そう、じゃあ、ともかく、お母さんと縁を切ってね」と言いました。「今度のパーティにも、私は参加しないから」とも言いました。娘がニューヨークへ行くのでお別れパーティを開く予定です。

 それに、弟が欠席を、すると知らせてきました。娘にではなくて、私の方に。しかも、留守中に主人への伝言として、知らせてきたのです。瞬間的に、裏に、妹の連れ合いがいると感じました。その連れ合いが、私のブログを読んで、弟へ、私との縁切りを迫ったのだと、私は考えています。

 ここらあたりは、一回すでに書いていますが、将来、きちんとまとめて書き表すつもりです。妹の連れ合いが、実は敵であるというのは、15年以上前から気が付いていました。むしろ三十五年前の、父の死の時に気が付いていたと、言っていいでしょう。しかし、弟の方は、善人で、一緒に車で、私たち夫婦を旅行に連れて行ってくれていたので、縁が切れることは、非常に残念でした。しかし、弟までは、縁が切れてもいいのです。覚悟の上です。ところが、息子とか、娘との縁がズタズタにされている不幸は、はかり知れません。

 私は、27日の夜、息子から電話をもらった夜の七時から、十時まで、ほとんど、茫然自失の体でした。

 しかし、・・・・・この様に、究極の苦難の時ほど、自分の信仰心が試されているのだ・・・・・と、も、考えました。『どうしたの。お前、神様を信じていないの?』と、自問自答しました。答えは、「たぶん、これからも信じるべきでしょう」でした。突然に目の前が、すかーっと開けました。『ああ、この手があったのだ。これが、主人がよく言う、もっと強くなれっと言う事と同義ですね』と思い当たりました。自分を丸投げにする。自分一人で、あれこれしようと考えない。すべては、神様のいのっままに動いていくのだと、考える。そして、実際の行動としては、今まで道理、今、自分ができることをする……でした。ブログは続ける。日常生活は、主人のためにお料理を丁寧に作る。昼間、その準備と後片付けで、ほとんどの時間を費やしています。1998年から料理作りが好きな主人にほぼ任せていたのです。主人は脂っこいものが好きです。豚肉のみそ漬けのソテーでも、付け合わせは、ホウレンソウぐらいです。私の方は、背脂の部分は、箸で、取り除いて食べるという様な工夫をしていたので、大丈夫だったのです。しかし、主人は、一か月に一回ほど、鶏の皮を、ポテトチップス状に揚げたものを、大皿いっぱい食べていました。「ああ、まずかった。彼には、栄養学の知識がなかったのだ。私が料理を作っていた時期には誰も病気にならなかったのに。これは、大失敗』と、主人が心筋梗塞を患った後で、反省をいたしました。だから、今では、昼間は、6~8時間ほど、お料理の準備、後片付け、調理に使い、余った時間を園芸に当てています。ブログを書くのは、大体、夜です。昔と優先順位が変わってきています。

だから、今のところあと、一か月強で、80歳になる夫婦二人が、誰のお世話も受けずに、二人だけで、暮らしています。NHKテレビ内で、親の介護のために離職をして故郷へ帰ったのだが、親が死んだ後で、生活費がなくて困っていると、言う話を聞きます。親世代は、年功序列制度が、生きていた時代に、一部上場企業で、課長以上の役職についていたと仮定をすると、高額な年金をもらっているでしょう。子供の方は、大学を出ているが、結婚をしていないと仮定します。そうすると、移動が自由なので、割と簡単に離職をしてしまいます。しかし、親が死んでみると、年金は、子供には入りません。よく遺体を隠していて、お葬式を出さない子供が発見されます。親の年金を引き続いてもらいたいのだと、思います。特に独身だと、そういう秘密を守ることができます。

 ここで、息子の言う事を聞いて、ブログを書く生活を放棄すると、私への敵の攻撃はいや増しに増して、私の心身は、ずたずたになり、それと連動して、主人の生活も乱れて、二人は、入院だのなんだのと、言う生活に入り、NHKが報道するところの、親の生活に苦しめられている子供たちという未来が、押し寄せてきます。息子の提言は、敵の意思の表れですから、そういう風になります。

 でも、自分のそういう選択の結果、息子に大いなる不幸が押し寄せてくるかもしれません。しかし、27日の夜に、私が決意したことは、そのポイントを悩まないと、言う事だったのです。で、その日は、ブログを更新すべき日だと、知っていました。が、やらないで、寝ました。

 そういう心境と、その60時間後に聞いたモーツァルトの歌曲、K152は、全く同じだったのです。で、ずっと先にさらすはずだった、息子からの、2021年6月27日夜の電話をさらしました。

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 もう一つ、語らないといけないことが出てきました。読者の皆様は、このブログをお読みになって、私が大変に荒れ果てた心境にあると、お思いになっておられませんか?違うんですよ。 明鏡止水の境地にあります。後51日経つと80歳になる人間です。それが、これほど長い文章を書ける。その秘密は、常に、心平らかに保っているからです。しかし、創作をしていない人間には、それはわからないと思います。翻訳ではだめですよ。編集者でも駄目です。創作をする人と、編集や、翻訳をする人とは、頭の使い方が全く違うと思います。最近、土曜日の朝日新聞be 版(付録と言っていいか、エンタメの色彩が、濃いもの)に、小池真理子さんが、夫、藤田宣永を失った後の心境を、月夜の森の梟】と題して、寄せています。すっごくいいです。で、逆説的ですが、彼女が、一人になったので、こんなにいいものが生まれた。やっぱり、ある意味で、創作者には、孤独がいいのだと、感じました。猫と一緒に、樹木の間の空を見上げている彼女。創作者の日常が、本当によく描かれています。私の方は、文章のテーマと内容は、今のところは、全く違いますが、東と南の窓からは、一切他人が見えない家(こんなのは、関東圏で、しかも東京駅から、一時間以内では、全く珍しい環境です)で、静かに暮らしているのですよ。夫はいる。けれど、孤独の時間を作り出す様に、工夫をして、創作をしています。私の生活は、荒れてはいません。2021年6月27日夜とか、2020年11月18日の夜とかは、相当に苦しめられましたが、やがて回復して、常に、平静な、日常を取り戻しています。

 という二番目の前置きを、午後、五時に入れて、一応、この文章を終わりといたします。この前置きは、音楽による、急な、回心に基づいて書いていますので、&&&&&&&&罫線から始まる初稿と矛盾すところも出てくると思います。例えば、息子からの電話の内容をさらさないと、言っているところとか(実際には前置きの中で、曝していますね)が生じていますが直さないで、置きます。そこを直すと、自分の消耗が激しくなりすぎますので・・・・・・

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 荻生田文部科学大臣の記者会見が、たて続けにNHKニュースに出てきた。私は、それを気にしている。そこからさまざまな問題点を感じているが、それを徐々に、本日は、書いていこう。30日の、朝、8時に、副題9を加筆した。朝9時に副題10を書き足しました。

副題1、『まず、日本国内で、種々の語彙変換が起きている事。それは、日本が被植民地国家であることのまるだしの、証明です』

 皆様は、文部科学省というと、小さいほう、低位の方の、役所だと、お考えになっておられませんか? そうですね。昔は、大蔵省、通産省、建設省、などのトップを大物政治家が占めました。ところで、これら、三つの省は、名称変更がなされています。財務省、経産省、国土交通省です。昔の名前の方が、シンプルで分かりやすいです。どうして、こういう風に変えられてしまったかというと、日本が、被植民地国家だからです。

 今、私は、理不尽な損害を被っていて、それをミステリーを解くと称して、分析していっているのですが、そういう私にとって、非常に重要な謀略事件が、数多く起こされてきました。私を脅かして、このブログを書かせないがためです。

 直近のものはアウンサンスー・チー女子と、一緒の映像が、事件後すぐ、NHKテレビに登場した若い外交官が殺された登戸駅、カリタス学園への通学用シャトルバス、襲撃事件です。これが、二年もたたないうちに、名前が、川崎殺傷事件と変更になってしまいました。どうしてかというと、まだ、全部を書いていないのですが、これは、私の実妹が他殺であるのに、自殺という形で、周辺にばらまかれていることと、関係があるので、こういう風に名称変更になったのです。日吉の実家の近所に塩野義製薬に勤務していた人S家と、カリタスにお嬢さんがふたり通学していたT家があるので、「その両方ほかに、大迷惑がかかるのだよ。だから、真実を書くな」という脅かし用の謀略事件でした。他という部分で、水沢勉葉山に美術館館長も関係している可能性があるので、いまだに、100%は、開示できない話ですが(後注1)・・・・・

 犯人は、学生服を着てくる様に命令をされていたそうです。現場は大混乱で、阿鼻叫喚のさなかですが、すぐ、既成線が敷かれて、一般人は入れないこととなったと推察しています。で、正確で、不偏不党な目撃者がいないのです。もし、NHK記者がたまたま現場にいたとなると、ますます。謀略性が強くなります。

 その現場に、複数の警察の特殊部隊の、人間が同じ様に、学生服を着て乱入し生徒たちを傷つけて、そして、顔をしっかりと、知っている、外務省吏員を殺したのでした。その上で、犯人と称されている、51歳のマージャン店店員を殺したのです。自殺だと、言われていますが、嘘です。それ以前の謀略事件では、犯人に、いろいろな、特徴をかぶせていて、それで、謀略の意味を強めていたのですが、すべて、私が嘘を見破ったので、この事件では、本人は、即死という形で、殺されています。

 現場には、覆面警察車両が、多く来ていたでしょうから、そこにすぐさま犯人の遺体を詰め込んでしまえば、消防署の職員などが、傷を、見ることがなかったので、嘘がばれないと、考えられていました。

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副題2,『この殺人用特殊部隊の人間には、私は、合計四回か、な、実物と出会っている』

 一回目は、日時は不明です。ただ、場所は、はっきりしています。渋谷センター街で、夜12時ごろ。本のデータ編集が自宅だと、システム妨害が多すぎて、できないので、上品なネットカフェと、キンコーズが、集中している、渋谷、新宿、池袋を、使って、徹夜10回程度で、一冊の本(その印刷用データ)を作り上げるのでした。

 私の本というのは、そういう無理な準備段階も加算をされている実質的に一冊、5000円は、かかっている書物でした。それで、あるところで、仕事を始めるわけですが、一時間半もたつと自宅を同じ状況になってしまうのです。インターネットは、むろん使っていないのですが、自宅で、パソコンで、インターネットを開いているときに、そういう書物用のデータに、隠しファイルと、言うのが入れられる模様で、それがあると、どこにいても、把握をされて、錦糸町の野菜専門の、ビュッフェで、二時間分の仕事が、画面が急に、まっさらになって消えてしまったときは、本当に、本当に苦しかったです。

 渋谷には、BAGUSという内部が、女性向けで、上品なネットカフェが二軒あります。それで、最初は、駅に近い方で、仕事を始めます。次に、「ワードが、おかしくなったなあ」と、感じると、東急本店BUNKAMURAに近いところにある別の支店に河岸を変えます。

 私は、実際に工業的出版(印刷と製本を、機械がするもの)を6種類完成させているのですが、それだけではなくて、次の本用の、準備として、11冊目、か、12冊目、までは、データを作りましたので、

 徹夜で渋谷、新宿、池袋を逍遥する、事は多かったのです。で、その順路は、尾行等で、はっきりと、敵方に把握をされていたと、感じています。

 午後四時ごろ、鎌倉の家を出ます。銀座の画廊巡りを、半分程度して、母の老人ホーム(東上線ときわ台)へ向かいます。母は、人生の最終場面では、私にすがってきていました。それは、精神的なものですが、大変ありがたかったです。親子の最終場面としては、心が休まる景色でした。で、その訪問が、終わって、渋谷まで帰って来て、仕事を始めます。そして、インターネットをつなげていなくても、一時間半後には、おかしくなるのですが、それが、ちょうど、真夜中の12時ごろでした。で、駅に近い支店から、センター街を通って、東急【文化村】近辺にある別の支店へ、移動をするのですが、その時、上の方から、5,6人の青年の集団が下りてきたのです。

 彼らの目的は「ここに、テロリストがいるぞー」と大声で叫んで、周りの普通の人が怖がって逃げる中で、一人から、三人で、私を羽交い絞めにして、クロロフォルムを嗅がせて、気絶をさせて、即座に、覆面警察車両が、やってきて、乗せられて、どこかで、殺されるのでしょう。

 この件の顛末が、実際には、どうなったかを、ここでは、書いていませんが、実は、私が、気が付いたので、彼らは襲ってきませんでした。私は気が付くと全速力で逃げて、後日委細をブログに書きます。パリバスティーユ駅での、ヨーロッパのCIA集団からの逃走が、それです。

 だから、私が、気が付かないうちにクロロフォルムを嗅がせないといけないのですが、その日は、かれらには、それが、できなかったのです。これは、東京=警視庁所属の、そういう連中ですが、顔は、普通ですよ。整っていてきれいでした。一方で、2016年6月13日、保土ヶ谷のネットカフェ、げらげらに現れた、神奈川県警のそういう部門の人間は、リーダーが、恐ろしい鬼のような顔をした大男でした。

 渋谷の連中に戻ります。顔は、普通でした。ただし、服装が渋谷を歩いている人間のそれではないです。白い開襟シャツと、グレーのサマーウールのおズボン、それが、五、六人、みんな同じ服装です。すぐさま、「普通の通行人とは違う!特殊な人たちだ」と、感じますよ。私は何度か、こういう手合いに出会っているので、すぐわかって、顔色を変えました。何が起こるか予想ができるからです。そして、顔色を変えただけで、向こう側のリーダーも気が付いて、襲撃をやめさせたのでした。

 で、過激派アラブの、乱暴狼藉事件は、こういう風に、して私を拉致するために、頻繁に起こされたのです。これを書いてから、パタッと静かになりました。ところが、18日(日)曜日の、旧子供ニュースの時間に、急にアフリカで、復活している、IS国と、言う話題が出ました。それは、最近、私が書いている・・・・・・妹が他殺なのに、自殺と、言われていて、それが、大変困るのだ・・・・・と、言う文章が、敵にとって、それこそ、困るから、彼らは、手持ちの札をもう一回、使おうとなったわけでしょう。

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副題3、『私は、ミレニアムの時に、銀座和光下に、親戚の女性を誘い出して、カウントダウンに参加している』

 私は1998年、パリへ、文化庁の在外研修生の、資格を利用していったわけですが、その際に、アーチストとしても、普通の一個人としても、徹底的に外国の方があっていると、思いました。しかし、私の家族は、三島喜美代の夫ではない。外国になど、自由にはいかせてくれませんでした。で、逗子のアトリエを作って、そこで、夜も寝て、一人暮らしをして、ずっと、海外行きを貫くつもりだったのです。

 ただね。いろいろ、思惑違いがありました。その時、2400万円を持っていたのですが、お金の使い方にシヴィアさが、足りなかったのです。もっと、しっかりと、倹約すれば、母からの遺産が、入るときまで、お金が、もっていたかもしれないのですが、パリだって、国費とは別に、200万円を使ってしまっていたし、2003年時に、すでに、1500万円を使ってしまっていました。

 ただし、お金が無くなったから、かまくらの、家に帰ってきたわけではなくて、二度ほど大病をしたからです。一度目は、肺炎で、死にますよと、お医者さんから言われていました。その時に、たまたまですが、レジ袋に入れていた、キャベツを冷蔵庫にしまうのを忘れていたら、それが、腐って、猛臭を放ったのです。アトリエは、合計24畳あるのですが、温風暖房機を、24時間つけっぱなしで、お料理を作らなかったのが災いをして、そういう結果になりました。直径、18㎝ぐらいの小さなキャベツの外側の皮、二枚程度が、真っ黒になっていました。それで、そんな激しい臭気を発するのですから、孤独死したら、どうなるでしょう。

 それは、反省しました。家族に大迷惑をかける」と言う事を、はっきりと、感じ取りました。しかし、それで、鎌倉へ帰ったわけではないのですよ。

 左の背中に、書痙から始まったであろう激痛が走って、それが、24時間消えないのです。無論整形外科にもかかっていました。が、治らない。しかし、主人に治してもらったのです。

 主人は、機械や兼、化学やで、日産自動車で、排気ガス(NOXガスの除去)を達成した人ですが、1984年からか、それこそ、北久里浜の瀬島龍三の背後からの悪い手回しの結果、松坂のセントラル硝子(日産自動車の、関連企業)に、出向を命じられたのです。👉へ、続く

 ここですが、私は脳の働きに応じて、自由自在に動くので、急に別の問題が入ってくることがあるのをお許しください。それが、私が、22年間も、飽きずに、また、テーマが枯渇せずに書き続けている理由なので、お許しくださいね。

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副題4,『6月19日に、富沢夫人が嫌な形で、動いたので、主人が松坂へ行き、鎌倉には、いなかった時期に起きた恐ろしい暴力、リンチ事件について触れないといけなくなった』

 鎌倉の家では、母子三人暮らしになりました。そこで、弱体化したと、みなされて、私道部分(アジサイ畑)が盗まれるとか、東北の崖部分が、山一つ削られる(後者の方は、一切の許可を与えておらず、完璧なるだまし討ちだった)などという恐ろしいことが、北久里浜の大詐欺事件と連動をして起こされたのです。

 なお最近、井上さん(岸田淳平)が、本夛隆彦さんの取材を受けたという話を書いています(後注2)。その中で、岸田淳平の経歴を見たら、彼は、1984年にシロタ画廊で、個展をしていました。その前年か、その年の、春の、版画協会展で、シロタ画廊が出す賞を受賞していたわけです。シロタさんが、岸田淳平の画家としてのブレイクを、導いたのだと、初めて知って、ひどく驚きました。何かヒット作が出て、7000万円の一時金が入ったという話は、wikipediaには出ていないし、ご近所様は、歌だったと、言っていますので、

 そういう苦しい時に、私は何にも知らなかったが、息子が、ご近所坊や、三人(二人+この山以外の住民である少年一人)から、暴力的リンチを受けると、言う形で、大けがをしたのです。ところが、さすが、鎌倉育ちですね。頭がいい子たちだから、(9月だったらしいが)、半そでの、制服の下に隠れているところを狙って、けがを負わせたそうです。私は、今泉台というところにある塾の講師をしていたので、通勤時間が大量にかかるために、夜遅く帰宅するので、何にも知らなかった。かまくらは、山に囲まれている。地図上は近くても、行くのが大変な場所が多い。今泉台に行くためには、いったん大船に出て、バスで、登っていく山の上なので、交通所要時間が多大にかかるのです。したがって、この件を一切知りませんでした。

 ただし、当時のおなり中学の、特に男の子だったら、それを納得したかもしれませんね。富沢君は、親の偏愛の、自分だけ、非対象になっていると考えている・ひがみと・悲しみの強い・複雑な性格の子だったのです。うちの子は、彼が、内心では憎んでいるものの、それを表に出せないでいた、あそこの長男と三男にそっくりなのです。背が高くて美形、明るい性格。だから、兄の代理人として、ぶっ叩かれたのでしょう。

 富沢家の次男に問題があることは、私は、西隣の遠藤夫人から聞かされていました。「川崎さん、大変、大変、富沢家の坊やって、石段で、たばこを吸っていたわよ」と。でも、それに対して、「あ、そうお」という感じで、乗りもせず、彼女をたしなめもせず、ぼんやりとした感じで、やり過ごしました。

 遠藤夫人は、自分の子供がまだ、幼稚園時代だったので、中学生の時期が、頭の良い子にとっては、とても大変な時期だと、言う事には気が付かなかったのです。

 しかも、これは、ひどい矛盾ですが、遠藤夫人って、他人には、一顧だの愛情も持っていないのに、我が家に毎日、庭ごみを掃き入れていたと、言うそれだけで、娘を妙本寺に嫁入りさせることができたのでした。それですが、【養老先生とまる】の二回目のバリエーションで、妙本寺が出てきたので、養老先生が、仲人であったという事実が分かりました。伊藤玄二郎が、采配したのでしょう。遠藤家側の仲人は、川合良一氏でした。

 でもねえ。その件を富沢夫人が、私に教える役目を果たしたのですよ。自分の次男に対して、ひどく単純な解釈で、ダメな子、悪い子と、1985年ごろには、規定した、遠藤夫人の、その後の階級を上昇させた姿を、それを知らなかった私に、教える役目を富沢夫人は果たしたのでした。なんという矛盾、なんという恥ずかしいこと。そして、なんという屈辱でしょうねえ。そういう風に使われる人なのですよ。慶応大学卒跡、思われるのに、たぶん高卒である、教養はみじんもない安野夫人の支配下に立っているのです。

 どうして、主体性がないのだろう。もっと、しゃんとして、いて、安野夫人や、前田夫人の命令をはねのけるべきですが、それが、できないほど、人生経験が、少ないレディなのです。

@@@@@@ここが推敲後の最先端です。以下は初稿だけです。

 ところで、富沢家の、問題点は、三男のリトルリーグの応援に、ご夫婦そろって夢中だったと、言うことです。

::::::::これから先は、私が得意とする、見てきたような嘘を言いの類ですが、当たらずとも遠からずでしょう。何を語るかというと、富沢家の、日曜日の朝の、様子です。お父さんは、今日子供たちを指導する練習内容を個別に考えています。お母さんは、戦前生まれなので、自分の作業にお父さんを手伝わせるなどいたしません。で、三男は、もうおなり小学校へ出かけているので、お母さんは、次男に向かって、「あなた、ちょっと、これをあおいで」と、ご飯をさますためのうちわを渡します。次男は、おうちではいい子なので、逆らいません。それで、お母さんは、大小二つ(?)の炊飯器で炊いた、大量のご飯(?)で、お結びとか、海苔巻きを作ります。チームの連帯感を強めるために、みんなが、少量でも、同じものを、食べるのは、とても大切な、奉仕ですから。それに大型ジャーに入れた、麦茶も作って。1980年代って、自販機は、おなり小学校のそばには、立っていなかったと、思いますし。

さて、お父さんと、お母さんは、夕方疲れ切って帰宅します。次男さんは、何かを、お母さんに語り掛けます。お父さんは、今のところ、長男の大学選びとか、進路とかと、三男の野球のことしか頭にないので、お父さんには、取り付く島もないと考えています。で、お母さんの方が好きだし、自分を見てくれているはずだと、考えています。で、語りかけたのに、お母さんは、疲れ切っています。それで、ごく簡単に、「疲れているので、後にして」といいます。しかし、その時が、次男にとって、大切な時だったのです。次の日には、彼としては、紀文が向いていないと、言う形で、お母さんに、話しかけようとも思わないでしょう。これが、毎週繰り返されることだったと、思います。三年間ぐらい。

ご夫妻は、自分たちが悪いことをしている親だと、言う認識は毛頭なかったと、思います。そして、この文章をお読みになるあなた様も、「どこが悪かったの?」と、疑問にお思いになるかもしれません。

でも、人間というものを考察の対象としていて、いつも、それについて考えている私から見ると、次男殿の、悲しみや、苦しみは、手に取る様にわかります。

そして、うちの子もそれが、わかるタイプだったのではないかなあ。妹に、「僕は三人をやっつけて帰ってきた。だから、これから先、いじめはない。で、おかんには、絶対に言うなよ。心配するからね」と、命令したそうです。地が付いた制服は、妹が手洗いをした模様です。そして、洗濯機に入れて、息子はスペアを次の日に着て登校したのです。

ために、私は全く知りませんでした。娘が、結婚式の前日に、家での思い出をあれこれ、とつとつと、話してくれた中で、やっとこの件が出て来て、それで、知ったのでした。

 富沢夫人は、6月19日、ひどい攻撃をしてきました。その内容は、この36年間の、安野夫妻、前田夫妻、中谷知二氏の悪が、全部重なって出て来ている問題なので、ここでは、内容を語りません。関本夫人の高枝切りと関連して、語ります。将来にね。

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副題5、『富沢夫人の、この2021年6月19日の行動は、奇妙この上ないものだった。私は、あの夫妻は、両方とも慶応大学卒だと、考えている。ミスターの父君が慶応の教授だったので、奥さんは、その学部の教え子で、父君が、気に入って、息子に紹介をしたのだと、考えている。だから、頭がいいはずなのに、19日は、バカそのものだと、思われる行動を彼女はとった。

 で。その日以来、私は、ずっと考えているのだけれど、これもまた、・・・・・ご近所人間が、妹は、他殺なのに、自殺だと、説明を受けており、それを信じている。

・・・・・そういう現状は、表向きは、隠されている・・・・・・しかし、実際には、そうであるのだ・・・・・・という、証拠が現れた一件だ・・・・・と考えた。

 で、今、私が最高に、集中している問題がそれなので、富沢夫人の、19日の行動が、重要になってくる。だって、副題4に書いた様なことを、私が繰り返し書くことは、想定内のことなのに、あえて、そこに踏み込んでいる。そこまで、彼女はバカになっているが、内心で、<<<<<別にー。何を書かれても、大丈夫よ。私は、川崎千恵子なんて、歯牙にもひっかけませんからね>>>>>と、思っていると言う事と同義だ。そこまで、私を小ばかにしていると言う事だ。なるほど、なるほどと、覚悟がさらに決まってくる』

 副題5の、二重がっこないは、大変、長くなっています。ともかく、富沢夫人の、実行行為は、一段も、二段も、敵さんの攻撃意欲が、高くなっていることを証明し、それは、私が今書いていることが真実と言う事をも証明をするので、やはり、妹は他殺だ。この件は、ぜったいに丁寧に、そして、最後まで、書かないといけないと思うのです。

 しかし、ちょっと迷いました。敵さんは、そこまで、シビアには、出てきておらず、富沢家のご主人の方を、癒す方向で、書いた文章(後注3)を、分析して、ここまで深く、富沢さん一家に同情をしているのだったら、もう、あのリンチ事件のことは、繰り返すまいと、敵さんたちが考えて、それゆえに富沢夫人を使ってきたのか❓とも考えました。

 ミスター富沢に同情しているというのは、原発産業の立ち上げ時、三菱重工が、別名で、核燃料棒製造工場を、久里浜に作って、そこに、勤務していた可能性があり、それゆえに、障碍者手帳、一級を持っている人なのです。お金持ちですが、交通費や医療費は唯となっているでしょう。私なんて、トルエンの影響で、ほぼ同じ程度、体を壊しているのに、どうしていいのかがわからないので、障碍者手帳など、持っていません。いいですね。

 さて、ミスター富沢の体の具合が悪いことへ同情した一件で、猛少年リンチ事件については、書かないだろうと思われて富沢夫人が利用をされたのかと、思いましたが、違うみたいです。最近二年間、前田家に土曜日訪問をしていて、その二人の会話が、誇示的に聞こえるので、彼女は前田夫人の影響は、強く受けていて、それを、真正面から、私に見せつけていると、感じていますので、背後にいる、伊藤玄二郎(+いまだ生きている井上ひさし)、もしくは、山田さん、もしくは、鎌倉警察署の生活安全課の課長の命令で、19日の行動を起こしたと考えました。

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副題6,『しかし、2021-6-28に息子が、突然に、敵さんたちに使われた。その内容は、衝撃的だったけれど、ここでは、簡単にその事実だけを語っておいて、内容は語らないで、置きたい。これは最高の、利益と効果を敵方が得る、敵方の核弾頭だった

 副題4,5,6は、最近わが身に起きた、大変なことを語っているわけですが、このブログは、ある意味で、公のものです。「政治を語るものですよ」と言っていて、現代日本において秘匿されている真実を語ることを目的としているブログです。ですから、社会の公の部分における政治の秘密も語りたいところです。それで、副題3の、👉のところへ戻ります。

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副題7,『主人は、松坂のセントラル硝子において、リストラ用の首切りをさせられた。決して、愚痴を言わないが、嫌な仕事だったと思う』

 👉 私は、セントラル硝子って、日産自動車よりはるかに社員を大切にしてくれる会社だと思います。で、二週間に一度、土日に、松坂を訪問をして、(子供は二人だけで置いていった)夫婦二人で、観光を楽しみました。鎌倉の家は、山の上の家で、車庫がないのですが、松坂の部課長用・社宅は、平屋の、4dkで、庭も車庫もあるのでした。それに、子供がいないので、ビデオなども、自由に借りることができて(受験期の子供の前で、親がレンタルビデオなど、見てはいられませんのでね)楽しい生活を送りました。しかも松坂ってそれなりに、狭い範囲に、文化ホールとか、美術ホールとか、夫々、そろっていて、東京だと、往復3時間はかけて、音楽を聴きに行くという形ですが、松坂だと、車で、20分も走れば、クラシックの演奏会会場に到達できるのでした。ものすごく便利です。田舎です。しかし、鎌倉に住んでいるときよりも却って、便利だと、思う事もありました。

 しかし、主人が日産自動車に帰ってのちに、「そこをやめる。早期退職をする」と、言いだしたときに、ちらっとですが、松坂で、首切り担当だったと、聞いて、「苦しかったんだなあ。それも、もしかすると、瀬島龍三の采配ですね」と考えました。今では、それは、確実なことだったと、思っています。CIAエージェントというのは、本当に悪辣で、残酷です。主人は、「僕は将来、日産の社長になれる」と言っていました。それはですね。現代の、偏差値・優秀大学を卒業した男性というのは、ひとを叱ることができないのですって。だから、指導力がないという形になるのだそうです。しかし、主人は男だけ四人兄弟の三番目なので、他人をバシバシ叱ることができるそうです。しかも、他人には、上品に接して、冗談も言えるので、ひとには恨まれません。だけど、そういう会話も室内盗聴をされていたのでしょう。突然に、1984年の夏から、松坂へ出向となったのでした。

 で。嫌気がさして、社長になるつもりだったのに早期退職という形になりました。そして、主人は、三年ほど勉強して、国家資格も取り、鍼灸医になりました。大町の三橋ビルというところで、開業しました。が、知る人ぞ知る名医だと、ある人が言ってくれました。私もそうお思います。というのもあの苛烈極まりない痛みが消えたのですから。

 ただし、東洋医学も私の場合は、週三回通ってもただなので、(夫は妻からは、お金をとらなかった)経済的に、大丈夫なのですが、時間がかかるので、普通のお医者さんだと、治療代が、大変かもしれません。ともかく三か月通いました。だんだんと、良くなるというよりも、<<<<ある日突然に、痛みが消えているのに気が付いた>>>という形で、完治していました。それ以来、世界的なアーチストになると、言う野心は捨てています。こちら、鎌倉雪の下の家で、夫と暮らすという人生を送っています。覚悟を決めて、腹を据えてです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題8、『しかし、この文章は、マトリューシュカみたいに入れ子状態になっている。それで、一つ上の入れ物(または、レイヤー)に戻りたい。ミレニアムの時の銀座和光前の、カウントダウンの話だ』

 しかし、覚悟が決まったのは、2002年の夏で、それ以来、アトリエに昼間通勤し、夜は、雪の下の家で寝るという態勢に入り、2007年だったか、昼間そこへ通っていたアトリエも、返却すると、言う形になりました。で版画を摺る機械(プレス)というもの他、大量のものを捨てたりあげたりして鎌倉へ、帰参をしたのです。

 さて、それは、2000年の一月の、いまから、元旦になるという時の話です。私は、パリへ行く前からアトリエを作っていたのですが、1998年の末に、今度はニューヨークへ修行に行きたいと、主人に言ったら<<<だめだ>>>と、言ったので、1998年の末から、逗子のアトリエで、夜も寝る様になって、鎌倉へ、帰らない様になりました。ただ、どこにいるかは、主人には、教えていました。アトリエに、彼が、来たこともあります。で、1998年の暮れはまだ大丈夫だったのです。一人暮らしを始めたばかりで、緊張感に満ちていました。テレビは、ビデオの編集用に持ってはいました。が、見ることもなく、ひたすらに修行するだけで、大満足をしていたのです。ここでの、三年半の、100%の、一人暮らしこそ、私を脱皮成長させたものです。もし、鎌倉雪の下の暮らしだけだったら、今の様な人生を送る事は、できなかったでしょう。単にブロガーという役割しかやっていないと言っても、PC入力をしている時間と、そのほかの生きていくための作業(例えば、料理作り)の配分とか、夫の「かまってほしい」という意向をかいくぐる術(苦笑)とか、たくさんの事をマスターしないと、今の様なブログは書けません。

 あの三年半は、金銭的には、無駄も産んだが、心理的には、報酬の多い三年半だったと、思っています。若い女性に申し上げたい。あなたが、何らかの分野での、特別な才能を持っていて、それを仕事にすることを望んでいるのなら、60ぐらいまでは、結婚をしない方がよいと思います。☞

  ところで、ここで、一晩寝ました。その結果、続きよりも、さらに、緊急な文章を、思い付き、それをまず、入れます。そして、上の、の続きは、次のその印のところから、始めます。

 息子から、それを「書かないで」と、頼まれているから書けないと、言うこともあるのですが、私が、その苦難を書けば、敵がますます、息子を攻撃するのも目に見えているからです。

 例えば、長男は、小学校六年生の時に、私立中学二校を不合格にされました。それを書き始めてから、一年半は、過ぎているのですが、井上ひさしから、手ひどいコメントをその件に関して、最近、もらっています。「結局、それは、あんたの、息子が頭が悪かったと、言う事でしょう?」と。

 違うのですよ。丁寧な傍証付けをすれば、読者の皆様にも、わかっていただけるでしょう。ところで、弟から、最近、切られた(後注4)と、書いています。それは、大損失ではあります。しかし、弟に、くわえられていた攻撃を、書くことができる様になりました。それは、ありがたいことです。弟に、くわえられた攻撃は、私の長男に加えられた、それと、ほぼ同等ですから。

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副題9, 『私は、井上ひさしからのコメントにより、敵の真意を探っている。今、このブログにコメントをよこすのは、自らを天皇より上だと、規定している、大特権家にしてCIAエージェントたる、井上ひさししかいないからだ。だって、2010年京橋の有名画廊ギャラリー山口のオーナーみつ子さんが「他殺なのに、自殺だ」と、喧伝をされているのは、「保坂涼子さんのことを彼女が、それって、きちがいですね」と、言ったことが、盗聴された結果だと、書いているからだ。私は、保坂涼子の作品をほめる美しい文章(一種の美術評論)を書き、月刊ギャラリ-2006年2月号にそれを載せた。そのお礼の件を、彼女が、みつ子さんの前で、秋山祐徳太子に相談をした結果、「彼の誘導で、そうなったのでしょう」と、みつこさんが、教えてくれたから、殺されたのだった。保坂さんは、36行の残酷にして恐ろしい個人メールを書きわたくしに送ってきた。それが101回も繰り返されていたのだった。この繰り返しの方は、古村浩三君など、ハッキングをしているシステムエンジニアのせいかもしれないが、受け取る方は、保坂涼子がやったのだと、信じるほかはない。それを書くのに、7年はかかっているが、11年が過ぎた最近では、「みつ子さんは、私に味方をしたから、殺されたのでしょう」とはっきり書いている。そういう世界となってしまっているこのブログに、だれがコメントなど、よこすだろう。井上ひさし以外ありえない。それで、私は、そういうコメントをすべて、外には、見えない処理を施しては、いる。が、その反面、それを、彼が本当はまだ生きていて、地下潜航をしている証拠だと、とらえている。井上ひさしは、最近別のコメントで、「あんたは、それでも、息子のことは愛しているのですね」といってきた。ここで、それっと、言うのは、

 わたくしのブログに書いてあることが、すべて、誹謗中傷で、私の方が、非常識で、残酷な人間であると、規定したい部分を指す。しかし、私の方では、彼のにやにや笑いの裏に、そうだったのだ。やはり。だから、息子を締め上げれば、彼女の息は耐える」と、結論付けているのがわかるので、ただ、ただ、戦慄をするのみである。

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副題10、『一方で、安野家の次男は、1986年から、平木家の長男は、2020年から、すさまじいまでの、果報と、余得を得ている。両方とも、税金で、費用が賄われる(国立大学の付属高校)と、東京大学へ、ご入学だった。特に平木家は、前年度の秋に、すでに、お知らせが届いていたと判断をしている。推薦入学という形で。それを書くのは、誹謗中傷だと、言われている模様だ。この山の住民が結託をしているのは、その二軒が、優位に立っているからだと、言う向きもあるだろう。そして、誹謗中傷だと、大声を上げるために、木村花、三浦春馬、竹内結子の三人が殺された。それが、三人とも、自殺だと、言う形で、喧伝をされている。それは、山口みつ子さんと、妹のが、殺されたのにもかかわらず、自殺だと、伝えられているケースと、相似形をなしている』

 

 

そして、ここから三時間程度、PC離れる予定です。12時ごろ、再開をします。こういう種類の文章を書くと、疲労困憊するからです。薄板を踏むというか、命を懸けて書くという形なので、疲労困憊をします。

後注1

小田歯科医院、 日吉・ときわ台・町内会、 カリタス通学バス・殺人事件、 ゾフルーザ問題・・・・私の苦悩と悲しみ

2021-05-12 23:25:36 | 政治

後注2,ここには、差し当たって、四本だけおきたい。時制的には、逆順になっている。それは、後になるほど、ミステリーの謎が解けてきて、真実を語っているからだった。全部お読みにはならなくても、いいですよ。だけど、こういうことがありましたと、言うのは真実です。

高枝切りを16-10-5時点で考察し、強者が税金を使って、自分たちの悪を隠す典型である事と絶体絶命の私が助かる三すくみ理論について。

2016-10-05 23:05:15 | 政治

鎌倉市職員、S氏こそが、御成中学校に多大な不名誉を招いたのだった。雪ノ下少年リンチ事件ー3△

2016-10-04 00:23:11 | 政治

鎌倉市立・御成中・生徒が、路上喫煙をしていた場所・将にここ雪ノ下で、禁煙ファッショが始まり、大口病院事件も起こされた  2016-10-03 03:04:34 | 政治

 高枝切と言う大攻撃があったが故に、超・肥満体である隣の奥様について、思い出が溢れ返ってしまうのだった  2016-10-01 00:58:46 | 政治

後注3,

Global Nuclear Fuel Japan に勤務していたと私が推察しているご近所紳士=栄光→慶応→三菱重工=が、今重篤だと、奥様は言う△

2021-05-08 13:39:05 | 政治

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突然、ひらめいたのですが、倉悠貴と、伊藤健太郎って、そっくりですね。

2021-06-28 23:08:18 | 政治

ちょっと、話題は、変わりますが、くらゆうきって、伊藤健太郎っとそっくりですね。

ちょっとではなくて、全然と、言ってよいほど、一連の文章とは、違う話題ですが。

今、私は前報の続きを書こうとしてはいます。ただ、そのためには、リンク先を多数探さなくてはならなくて、大変で、迷っていました。それは、普通の場合でも大変ですが、昨日は、一時間半しか寝ていないので、余計大変です。おっくうです。それで、ブログの新規文章に、取り組もうか?、それとも寝ようか?と、どっちにしようかなあと、迷いつつパソコンの単純なゲーム、Free Cell をやっていたら、突然にひらめいたのです。一行目のことがです。パソコンゲームをしていると、突然に、深い真実に気が付くことがあるのですよ。まったく違う分野の脳みそを使っているので、脳が、新鮮になるのかしら?

ここから、また、いろいろ、語りたいこともあるが、口にチャックといたしましょう。ただ、二人とも、何の苦労もなく、上昇しています。そこに、伊藤玄二郎の政治的な影を、感じてしまいました。今、システム異常も、起きたし・・・・・ただし、これは、傍証付けは、一切ありません

私は若手俳優も、中堅俳優もほとんど知らないからです。ひとえに、注目していたのは、ドラマ【半径五メートル】の、最終回だけであって、そこに、出てきた男の子が、どことなく、伊藤健太郎を思わせて、「あれ、彼は、もう、復活しましたか?」と、考えて、キャスト表を見たら、おちょやんの、弟もやっていた倉悠貴 と、言う少年(または、青年?)でした。

きっと違うのでしょう。二人には、血縁関係はないのでしょう。ただ、ちらっと、きょうだいか、いとこかなあと、思っただけです。

ところで、人間の脳の不思議さですが、行動の選択に迷っていた時は、free cell 第三段階の難易度のゲームを、ひとつかんせいするのに一時間以上かかってしまったのです。でも、「本日は、ブログをやりません」と、決意したら、突然に、4分台で、解ける様になりました。脳って、学者ではなくても、いろいろ気づきを与えられる臓器です。自分の体についての、気づきですが、脳って、おもしろい。

  2021-6-28   雨宮舜(本名 川崎 千恵子)

   

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本多隆彦氏の、渡辺幸子、岸田淳平両氏への取材は、私に多大な苦しみを与えた。しかし、本多夫人にはまだ微笑が残っていて

2021-06-27 03:20:55 | 政治

 今は、28日の午前8時ですが、一応閉めといたします。

副題1、『前報で書き残したこと』

 前報は、いささか、面白かったと思います。と、言うのも登場人物がいつもの、鎌倉・雪の下の人たちと比較をすると、より、有名な人だからです。全国的に有名な、立花隆というわけではないが、美術界で、活動している人なら、「あ、その人は知っている」というだろう人物が大勢出てきました。

 その中で、特にフォーカス・オンしたのが、本夛隆彦・睦美夫妻です。私は、結局のところ、隆彦さんの方に、2007年の4月以降は、ひどい形で、捨てられる(私の、彼の雑誌上の連載を、何の断りもなく没にされる)と言う事になるのですが、それでも、あの夫婦に、恨みの感情は、持っていません。そしてそれで無くても「お母さんみたい」と、銀座に出入りする画家たちに言われていた、私は、それこそ、本夛夫妻に対して、お母さんみたいな感情を、今も持っているのです。年齢が、12~15歳程度しか違わないから、お姉さんと言っていいか。(苦笑)

 ここで、いくつか書き残したことを付け加えましょう。もしかして、浜田知明のドタキャンは、私に連載の頁を与えていたから、いじめられたのではないかと、言う事は、もしかしてではなくて、ほとんど確かな事でしょう。それで、本夛隆彦さんを、気の毒に思っています。浜田知明は、その2007年時点で、90歳を超えていました。だから、具合が、悪くなる恐れは十分にありました。ただ、そんな健康状態だったら。「わざわざ、東京からくることはないですよ」と、最初から取材を断ってくれればよかったのです。これは、本当に狙いに狙ったいじめです。浜田知明は、【初年兵哀歌】という名作版画を作った人ですが、鎌倉エージェント(=CIAエージェント)が、間に入ると、人間性を失うのでした。「なんというひどいロボットだ、悪魔に近いですね」と、言う形になってしまうのです。

 私が、ミステリーを解い4ていると、常に言っているのは、浜田知明に、これほどの、意地悪をさせた、人物が、だれであるか?を、ここでも、突き止めたいからです。今のところ、傍証付けがないので、個人名を特定できないのですが、大体の事を言って、あの人であろうと、感じる人物はいます。

 私は、戦後最大の、CIAエージェント=瀬島龍三の悪事を北久里浜で、はっきりと、知ってしまったために、シベリア抑留者には、したたかにいじめられていて、鎌倉でも、いろいろあるのですよ。宮崎進さん発で。

 ただ、これこそ、言い残したエピソードですが、本夛さんが、その嫌な思い、せつない思いを味わっている最中に、なぜ、私に個人メールをよこして、(まあ、極言すればですが)甘えてきたかですが、ちゃんと、理由があるのです。

 私は、二度本夛さんと、会って会話を交わしていると、言っています。銀座のカフェ【パウリスタ】でのことだったのですが、2度目だったので、私は、すっかりリラックスしていました。そして、NHKの、【有吉のお金発見】は、きっと、私のメルマガか、ブログを発想の源泉として、NHKが、制作しているのだろうと、感じているほどなのですが、お金をはっきりと持ち出して、その金額を、推定で計算して、そこから、世の中の諸現象を、分析するということを、ずいぶん昔から、やっていました。

 それは、結局のところ、私を裏切ってきてしまう経済の専門家、野々村君(日経新聞の海外特派員をやっていたICU同期)にさえ、同期会で、「(君のメルマガは)結構面白いね」と言ってもらえるほど、当時の、特に、女性としては、ユニークな考え方でした。

 野々村君は、2005年ごろまでは、ほめてくれていたのです。しかし、2007年以降、野々村君は、激変します。それは、私が、書物を四冊も、自分で、出版したから、・・・・・・それでは、力をつけすぎてきた。これは、つぶしておかないといけない・・・・・・と、CIAが考え始めたからです。

 私が切り開いた話題は、ほかにもあるのです。女同士のマウンティングの問題。主婦同士の競争やら、いじめの問題です。こういう様な、・・・・・専業主婦の生活とは、心理的に言うと、結構大変である。お勤めに出た方が、ずっと楽である・・・・・などと、いう話題なども、朝日新聞の記者をしていた、これもICU同期卒の、渡辺君に「テーマとして取り上げてください」と、1980年代に、電話で言ったら、「あんた、俺に、朝日を、やめさせるつもりか?」大声で、どなられてしまいました。国民を啓もうする役目を持っている、大朝日新聞としては、いじめの問題とか、少年の、リンチ事件などは、触れてもいけない時代だったらしいです。今から、40年以上前のお話です。ただ、今では、AERAではそれらを取り上げていますね。

 ここで、大学同期だった日経や朝日の記者から、本夛さんに戻ります。私は、学生時代の同窓でもないくせに、本夛さんが、いわゆるインディーズの人である、事を、非常に高く買っていて、会話をするのが楽しくて仕方がなくて、リラックスの極致にありました。それでね。「ねえ、本夛さん、本夛さんの会社って、ひとつき、何〇万円で、回転しているでしょう?」と言ったのです。尚、〇のところは、一桁では、無論ないのですよ。株式欄と同じで、百万円単位です。すると、本夛さんは、できるだけ、表情を変えない様にしながら、でも、相当に驚いた様で、「ええ、そうですよ。ピタリです」と答えました。お互いに、本当に正直な会話でした。

 本夛さんは、そんな金額のことは、外へは、一切出していないと、思います。会社の中でも、奥様と、本夛さんしか知らない数値だと、思います。でも、どうしてぴたりとあてたかというと、私の方が、自分で、本を出版し始めたからです。

 本夛さんと、その会話を交わした時点で、二種類出版をしていました。最初の本が400部、二種類目が、600部です。3種類目までは、画家の本、と、言う事で、本当に美麗な本を作ったので、出版の裏側をよく知っている人からは、一万円の、お祝い金を頂きました。確かに、一冊につき、5000円はかかっています。それは、特に自宅だと、システム異常が起こされ続けて、仕事にならなかったので、ノマド生活に入ったからです。システム異常は、本の印刷用データを作るのに必要な、すべてのソフトに入ったのでした。ワードとフォトショップとイラストレーターに、です。だから、喫茶店とか、ネットカフェとか、バイキング(ホテルのビュッフェ)とかで、仕事をしたので、そういうことになったのでした。

 しかし、私が作ったのは、雑誌ではなくて、単行本(文章の本)です。だからこそ、なおさらに、本夛さんは、びっくりしてしまったのです。そして、私は、TB企画という極小・出版社の人間としては、社長から小遣いまで、または、一般の書店員の役目まで、すべてを一人で、こなすのですが、本夛さんの方は、ビルを借りているし、多数の、社員がいるし、車はあるしで、経費や、人件費がかかりますね。だから、全く違う形態なのに、あまりにもぴったりと、彼の方の、運転資金というか、回転資金を当てたので、彼は舌を巻いたのだと、思います。で、その時に、一目も二目も置いてくれたので、苦境の時に、苦しみを訴える、メールをくれたのでした。もちろん、私は誰かに探りを入れたり、盗聴をしたりして、その数値を割り出したたわけではないのですよ。ただ、ただ、一つだけ、方法があったのです。それは、雑誌を隅から隅まで、丁寧にみると言う事、どういう欄があって、それの取材費がいくらいくらでと、計算をしていくと、そこまで、わかるのが、私なのでした。

 そして、こういうところは、本当にシロタ画廊のオーナーに読んでもらいたかったと、思っているのです。両方を知っているシロタさんにとっては、とても面白い文章と、して、受け取れるでしょうから。しかし、もう、間に合わなかったですね。亡くなってしまって、本当に残念です。

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副題2、『本夛さんの雑誌は、美術の雑誌として、珍しく、批評相手の作家から、お金をとらなかった。そこも私が、非常に高く評価した由縁だった。彼本人は、「月刊ギャラリーは、情報誌(広告用媒体)だ」と言っていたが、日本の美誌雑誌って、全体的に、お金をもらって、作家の提灯記事を書き、宣伝をして歩く雑誌が、主流派であるので、きわめて、珍しい存在だった。だから、・・・・・・一か月の運転資金が、少なくても、別にそれを軽蔑することには当たらない・・・・・・と、私は思う。ただし、むろんの事だが、500万円以上ではある。』

 芸術、特に美術を論じる雑誌として、みづゑ、芸術新調、などは、すでに、廃刊となっています。それらは、雑誌の売り上げで、成り立っている経営状態の模様でした。が、インターネットの、発達により、若い人が、紙の本を読まなくなったので、自然に、売り上げ部数が減ったと、思います。

 ここで、【美術手帖】と、【月刊美術】については、ちょっと、自分の方の読書量不足だと、言う事で、言を及ばさないことをお許しください。

 それ以外の、美術系雑誌(主要な本屋においてあるもの)として、【美術の窓】とか、【一枚の絵】とかがあります。これらは、自らを、宣伝媒体としては、規定をしていないと、思います。しかし、紙面に登場する作家たちからは、謝礼をとっているはずです。または、雑誌の多部数・購買が、暗黙の了解になっているでしょう。

 これらの、ビジネスを、半分だましに近い形で、行っている単発系の雑誌があります。それらは、雑誌の判型は、美術の窓とそっくりで、カラー図版が多いことも同じですが、アマチュアから、プロへと、上昇していく過程の作家を、カモにしていく雑誌です。「フランスで、グループ展をします。その結果を、美麗な、雑誌として、編集します。参加費用は50万円です。ご参加の、ご希望が、ありますか?」と、言う勧誘の電話が、非常に頻繁にかかってきました。鎌倉エージェントと、その実行部隊としての、警察が、私が、家にいるか、いないかを探るために、この種の電話をかけてきていますねと、思うケースも非常に多かったです。というのは、出先の銀座で、以下の様なガードマンを準備する必要があるからでした。

 2008年2月8日に始まった、鎌倉小町通りの御影石の舗装を、取り去って、アスファルト舗装へ、取りかえる工事(これは、確実に、2018年ごろまで、続きました。あっちこっち、掘り返すという形で。特に、夜に。したがって、こういうガードマンで、脅かされたケースは、何千回とあるほどです。元へ戻ります。

 個展の会場で、芳名帳のそばに、その週の作家の特集記事(一頁の三分の一ぐらい)が、載っていると、大体4万円支払うべきものだと、聞いたことがあります(2005年ごろの相場)それは、【美術の窓】のケースであって、【一枚の絵】の場合は、一頁、20万円ぐらいではないでしょうか? または、「これは、あなたのためになる書物です。これから、個展の会場で、あなたを格上げすることに役立つので、200部、購買してくださいね。」などと、言われることに成って行くのでしょう。

 上野の都美館で、開かれていた(最近は、一部が六本木に移っているが、都美館の重要性に、気が付いてきた団体が、多い模様であり、会員展などで、都美館でも、催しを開催する公募団体展が、増えてきた。二重に展覧会を開くという形である。不動産物件と同じで、都美館は、主要な駅であるJRの上野駅から歩いて、五分の位置にある。六本木の新国立美術館は、建築物としては、より壮麗であって、しかも抽選で、選ばれるのだと言われて、そちらに移転する方が羨望の対象になっていたのだが、私は、抽選とは名ばかりで、力が強い団体が、移転をしたと、考えている。国家による一種のだまし討ちだった。日展、二科展、国展、独立などが、移転をしていったが、独立は、それが、かえって損失だったと、すでに判断をしている模様である。公募団体展をファンとして、見に来る人は高齢の人が多いので、新しい場所(しかも地下鉄である)には、慣れないのだった。しかも、六本木よりも、上野の方が彼らにとって、同時に見るべき場所(国立博物館とか、芸大美術館とか)が多いので、上野の方が、楽しいのである。

 これは、国家(または、国税をつかっての、)秘匿されていた悪が、天罰を受けたという典型だと、見ている。もしかしたら、この新国立美術館の建設そのものが、例の、瀬島龍三たち・鎌倉エージェントの、企画だったかもしれない。彼らが、一枚かむと、必ず、その一件が衰退に、向かうの典型だと、思っている。

 ところで、コレラ、公募団体展の、一般入選者が、売文で、売っている美術評論家にとっては、得難いカモであるのだった。売文系、美術評論家が、一般入選者の絵のそばで、録音機を使って、簡単な美術評論(のちに、提灯記事となっていく、文章)を、録音している、姿を、見たことがあるので、これは、確かなことである。これと、団体側が、発行する、プログラム(入選者の、住所が載っている)を使って、後日の、あの単発系美術雑誌の、勧誘が行われると、私は、考えている。10人の、新規入選者がいたと仮定して、最近の、10年で、合計50人から、100人の、一般入選者がいると、仮定すると、その一般入選者、100人について、簡単な、美術評論を録音していくのだった。初年度は、その募集に応募しなくても、二年、三年とたつうちに、出世欲が目覚めるので、こういう儲け主義の、単発系美術誌に引っかかるのだった。

 で、元へ戻ろう。本夛隆彦さんが、編集長をしている雑誌、月刊ギャラリーだけは、巻頭、2人から、3人の作家に対する、紹介記事を、載せていたが、それにかんしては、謝礼金をとっていないと、聞いている。そして、私は、その巻頭特集作家について、思いを及ぼすのだけれど、それらの作家が、金銭的謝礼を出しているとは、考えられないのだ。

 例えば、前報に、そのいきさつの詳細を書いた、渡辺幸子さんの、ケース一つでも、それは言えると、思う。それをつかえば、私を、悲しませることが、確実だと、CIAエージェントが、考えて、そこをえぐってやろうとして、渡辺幸子さんを、本夛隆彦さんに、取材をさせ、そこから、バター払底のニュースを、農林水産省を使って発表をさせた件だが、それは、2002年から、始まった、渡辺幸子さんの、私に対するいじめから、源泉をたどることができる、問題だった。バター払底とは、2008年と、2015年に、二回繰り返された、実態とは、程遠いウソニュースだったのだ。

 そこのケースだけれど、鎌倉育ちのお嬢様で、フェリス出身であって、1950年代には、日本の上流階級にだけしか、その情報が出回っていなかった国際基督教大学へ進学し、父君の破産によって、そこを中退をして、日本航空の、スチュワーデスとなった、モダンな思想の持ち主の、渡辺幸子さんが、本夛さんに、謝礼金を支払うと、言う発想に向かうとは、思えないのだった。

 渡辺幸子さんは、国際基督教大学同窓会出身の、有名人として、同サイトで、長いインタビューを受けている、渡辺真理さんと、男性卒業生の二人からの、インタビューだった。

https://www.icualumni.com/interview/guest029

 それは、むろん、好意の反映の世界であって、金銭での謝礼金は、・・・・・同窓会から渡辺真理さんに、仕事として出た・・・・・とは、考えるけれど、幸子さんが、個人的に支払ったとは、考えにくい。そんな立派な、しかも宣伝力の高いインタビューを、謝礼金なしで、受けている渡辺幸子さんが、本夛さんに謝礼金を支払ったなどとは、考えにくいのだった。

 ただ、本夛さんに、「渡辺幸子さんのところへ、取材に行ったら、どうお?」と提案したのが、銀座の有名画廊、ガレリアグラフィカのオーナー、栗田玲子さんだったら、美術界の、諸相をよく知っている栗田さんが、幸子さんに、「本夛さんに、(5万円から)、10万円の謝礼金を渡した方がいいわよ」と言っていて、幸子さんが、「わかりました」と答えた可能性がある。

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副題3、『蛇足としての、・・・・・岸田淳平・への、本夛隆彦さんの取材について』

 渡辺幸子さんへの、本夛隆彦さんの取材と、月刊ギャラリー巻頭、二本目の記事は、とてもつらいものだったと語ってきています。しかし、それで、肺腑をえぐる苦しみは、さらに、その後、二年以内に行われた、岸田淳平への取材で、さらに、掘り起こされ、深められたのです。

 しかし、こちらの方は、ブログ内で、あまり書いて来ていません。どうしてかというと、岸田淳平氏とは我が家の西北の隣人、井上さんの、ペンネームだからです。リアルご近所様です。

 しかも、東大、慶応、早稲田と、偏差値優秀大学卒が、林立しているこの山でも、私が見るところ、もっとも、教養の高い人物だからです。もう一人、すでに亡くなっているが、中村光三郎という、編集者兼、俳人がいて、この人も、教養が高いです。

 これは、一度、文章を書いていて、今、見つかりました。下に後注2として置いておきます。

うちの主人も理工学部卒だから、知識は深くないけれど、心理的な意味では、教養が深いです。しかし、心臓にとどまっていた、巨大な血栓を、カテーテル手術で、散らしてもらったら、砕片の小さなものが、脳に飛んで、発語機能を、破壊したのです。だから、表現力が、極端に下がりました。

 でね、それを自分で言ったら、おしまいですが、私も実は、教養が高いのですよ。しかし、自分の良いところが発揮できない様な、激しい攻撃を毎日発見しているので、自分の命を守るために、こういう文章を書かざるを得ないのです。その種の大きな被害を、この一週間のうちでも、3っつ以上発見をしています。だけど、ここでは、それには触れずに、岸田淳平に戻ります。

 岸田淳平、中村光三郎、私の三者に共通するポイントは、ミッション系の大学へ進んで、卒業をしていることです。ただ、1960年代というのは、アメリカが、まだ、輝いて見えた時代で、英語の習得のために、ミッション系大学(むろん私立)へ進んだとも考えられるのですが、・・・・・一方で高校時代に、すでに、ものを深く考えるタイプだったと言う事も言えるでしょう。

 で、理工学部卒の、連中には、及ぶことができない、教養の深さを感じているわけです。特に東大などは、割り切って、大量の暗記ものを含む受験勉強をしないと入学できないので、深みがないですね。それと、学歴としては、大学院(都立大学。現首都大学)卒業の、前田祝一・清子夫妻が、一番上ですが、やっていることと言ったら、児戯に等しいいじめ行為の連続です。だから、全く尊敬できません。その影響下にあって、言うなりに動いているのが、渡辺賢司夫妻です。この夫婦の奥様の方は、私に「スペインに一年間、研修的滞在に行ってきた」と、言っていたので、外語大卒だと、思うのですが、教養の深さと、言うものは感じません。

 この岸田淳平と、言う文化人は、何か、wikipedia などの形では、外へは出さない、ヒット作があるそうで(それは、別のご近所様からの情報で、音楽のぶんやらしいが)7000万円の、一時金(または、著作権料)が、ずっと前、1980年代か、1990年代に入ったと、聞いています。それは、そうだろうと、思わせる大リフォームが、1990年代に、すでに行われていたので(建坪、45坪以上だと、推察している)もし、本夛さんが、この井上邸で、取材を行ったのだったら、「いや、あの山はすごい。川崎千恵子宅も豪邸だったが、岸田淳平宅も豪邸だ」とどこかで、漏らさないと、いけないのですが、本夛さんは、私の家には、意外感を持ったけれど、岸田淳平は、もともとの有名人なので、豪邸に、住んでいても、違和感を抱かなかった可能性があります。

 さて、本夛さんは我が家の前を通って、井上さん(=岸田淳平)宅へ向かうのに、どうして、私に声をかけてくれなかったのだろうと、思うと、それは、寂しいことでした。ただ、一つだけ、井上さん(=岸田淳平は、取材を、自宅以外で、受けていた可能性を感じています。

 ただね、岸田淳平を取材したと、しても、岸田淳平が、本夛さんに、謝礼を支払ったと、言うイメージはわかないのです。つまり、本夛さんは、ワンマンです。それが、ここでは、功を奏していて、彼の主張やら、考えで、事が進むので、彼は、作家紹介をしながら、その紹介した作家からは、謝礼金をとらなかったと、言う、そういうおしゃれ心があったと、見ているのです。

 そして、それも、私には、魅力的に思えて、本夛さんの雑誌に連載を持ちたいと願ったのでした。そして、奥様とも、関係が良かったのが、2006年なのに、バター騒動が、2008年に起こされ、そのころ、岸田淳平取材も行われているのでした。

 そして、これだけは、本日やっと気が付いたのですが、なんと、岸田淳平という人は、すでに、1984年に、シロタ画廊で、個展をしているのでした。

 私はね。渡辺幸子さんと本多隆彦さんとの関係を考えるだけで、この20年間、自分がどれほどに、損失を与えられてきたかを、目の当たりに、する思いがあります。萩尾望都の、【いちどきりの大泉の話】に励まされて、ここまでの、まとめ方をいたしました。

 渡辺幸子さんんについては、いつも、「同窓生なので、詳しいことは、書いてはいけないと、言う縛りを感じていたのです。しかし、その縛りを取り払ったのが、この4日間です。

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 もう一度戻ってきました。あれこれ、発想が追加してわいてきています。

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  (蛇足2)前報で、私は、本夛さんに蹴られてから、二年後ぐらいに、あのビルを、もう一度、訪ねたと、語っています。最初は、なぜ、そのビルを訪ねたかが思い出せなかったのですが、・・・・・ついに、思い出せました。本夛さんが、今度社屋を移転させると、言っていたので、それが、終わっているかどうかを見に行ったのでした。

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副題4、『新社屋への移転には、悪くすると、1千万円は、かかるだろう。それは、誰が、どこから出す予定だったのだろうか? きっと、伊藤玄二郎が、谷垣禎一さん、もしくは小沢一郎に頼んで、内閣官房機密費から出してもらう筈になっていたと、推察する。それは、鎌倉雪の下の人々を篭絡し、対私への攻撃者として仕立て上げる手法と全く同じである。本当は、どういう風に行動したら、その約束が完了されたのだろうか? 一つの仮説を立ててみたい』

 私は、前報の中で、「もっと、私を大切にした方がよかったのですよ。そうすると、移転のはなしは成功したでしょう」と、言っています。この予定を知らせたのは、栗田玲子さんの様な気がします。でも、柄沢斉から、シロタ画廊を通じて入った話かもしれません。ともかく、その時に、「たった、一年で、切るわけには、行きません」と言う内容を、上手に、その命令者に伝えればよかったのです。私の文章は大変、人気が高かったからです。で、新社屋への移転が無事に完了してから、私に対して、「シロタさんが、どうしてもワシオトシヒコに、その頁を渡してやってくれと、言うのです。ワシオは、今は、駿河台大学の教授です。それに僕はシロタさんには、多大な恩義がある」と彼が言えば、私は納得をしたでしょう。で、二年か三年で、身を引いたはずです。

 私は、本夛さんが、移転をする予定があると、私に言った時から、こういう裏側を察知していました。で、切られてから、社屋を訪問をしたのは、新社屋移転が終わっているかどうかを確認するためでした。終わっていませんでした。室内には、書類が、山積みであって、引っ越しの気配は微塵もありませんでした。『ああ、本夛さんは、例の連中に馬鹿にされ切っているなあ』と、思いました。私も馬鹿にされ切っています。それは、何事も秘匿裡型で、事が行われ、それを、解明する文書は、美術界にいる限りは、書けないのだと、言うジレンマが、多くあったからでした。だから、私のことをだましやすいのだと、考えられていたからです。私は室内にいた社員たちに、「自分が雨宮舜ですよ」とは名乗ったものの、そのほかのことは何も言わず、去ろうとしました。すると、入れ替わりと、言う形で、睦美夫人が帰社しました。私は、誰かが、奥様だと、言うのを待たずに、その人が、睦美夫人であることが、わかりました。直感でです。

 想像していたよりも、はるかにきゃしゃで、そして、はるかに美しい人でした。彼女はやさしく、微笑んでいました。私の方は、たぶん微笑み返して、そして、目礼をしてさりました。何度も言う様に、私を切ることと、バーター取引として提案されていた、引っ越しが住んでいるかどうかを確認するためだったのです。決して、「連載を再開させてください」と、言いに行ったわけではありません。

 ところが、このころもすでに、尾行が付いていて、したがって、私が月刊ギャラリーの社屋を訪問する予定であることは、東京駅を過ぎても横須賀線に乗っていることで、把握をされていた模様で、睦美夫人には、「社屋を離れておきなさい」と命令が行っていたのでしょう。しかし、私が、社内に残っていた夫人以外の、社員たちには、さして、重要なことを語りかけず、去ろうとしていたので、私の本心を探るために、睦美夫人を慌てて、呼び戻したのでした。私は睦美夫人にも何も重要なことを話さずに、帰りましたね。それで、敵さんたちは、私が、その人を睦美夫人だとは考えないで、一社員だと、思って帰ったと、誤解をした模様です。で、私が本当は、連載を再開させてください」と頼みに行ったのだと、考えて、バター騒動を起こしたのです。お前は、あの個人メールのやり取りを、大切に覚えているんだろう。俺たちは、ハッキングで、それを知っている。で、お前が、睦美夫人の、・・・・・一番下の子が、小学校一年生です。この前、その子が風邪をひいたときに、一緒に、クッキーを焼きました。家じゅうにバターとバニラの香りが満ちて・・・・・という文章を頼って、彼女にすがろうとしているんだろう。だけど、そうは、させないからな・・・・・というサインが、込められていたのです。

 しかし、最後の時に、睦美夫人がやさしい笑顔だったのは、本当に、心を癒されました。美しい女性ン、あの痩せっぷりは、仕事が過酷なことを示しており、頑張ってねと、心の中で、祈りました。

 ところで、睦美夫人の優しい笑顔に比べ、鬼の様な顔をした、前田清子さんには、何度も直面をしています。彼女が、盗まれた我が家のアジア医畑を、正当なものとして、使おうとして、孫三人の写真を底で、取っていた日のことは忘れません。そして、それは、のちに、テレビ東京が、ドリームハウスという特番を放映をした時に、夫の祝一氏によって、テレビ画面の中で、復讐的に達成されていたのです。

この番組の放映は、2016年7月18日(月)に行われ、その日、谷垣禎一さんが、自転車で、負傷し、車いす生活に陥り、かつ、その一週間後には、やまゆり園事件が起こされ、さらに、その一年後の、2017年7月10日には、妹が殺された。やまゆり園事件、一周忌の直前に、最大級の脅かし策として、妹が殺されてしまった。

 しかし、どうも自殺として、世間には、流通をしている模様だ。それは、ミャンマー語に堪能な若い外交官が、子供のカリタスへの通学を見送りに、登戸駅に来ていた際に、51歳のマージャン店店員をしていた男が、彼を殺した事件で、私には、判明をした。。

 ここらあたりは、後で、丁寧に、リンク先を探して、解説いたします。本日は、外出の予定があるので、すでに、書いている上野部分は、リンク先を見つけるなどしたいと、思いますが、それが、多大な時間をとるので、お待ちいただきたく存じます。

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副題5,時制は、移動をして、2021年4月10日になった。その日の夕方、私は、平木夫人を訪問をしていた。すると、井上さん(=岸田淳平)が、平木家の庭に面している、二階の雨戸をガタガタと音を立てて、閉めた。それは、昔、前田夫人が、私の猫を脅かすために、午後二時ごろ、二階の雨戸を音高く、閉めて、背後に上がってきたご主人の祝一氏に叱られたことを私に書かれていることを、大変な、マイナスとして考えて、例のごとく、脅かすという行為で、それを、将来にわたって、書かせない様にしようとする行動だとは、瞬時に理解をした。その時点で、100年の恋も冷めるというか、おちた偶像というか、井上さん(岸田淳平)に対する好意を失った。それは、2017年の三月に、京橋の、ユマニテのオーナー十束さんの、恐るべき意地悪さに、初めて接して感じた現象と同じだった。その時に、ああ、ここまで、敵がするのだったら、山口みつ子さんが、自殺ではなくて、他殺であることを書いてもいいなあと、思い至った。それは、四年前の事だったが、今年に戻ろう。

 そして、平木家の長男が、前年の秋からすでに「東大に、入学できますよ」というお知らせをもらっていた話を、4月13日から、書き始める。平木家は、徳山の山中での保美死刑囚がやったとされている、五人の老人惨殺事件が、安野忠彦・智紗夫人を助けるための謀略であることを、事件二日後の火曜日から、お子さん方を使って、実行し始めた。当時祝一氏は、まだ、生きていて、平木家のお子さん方は、すべて、最初に、前田家に呼ばれて、その次に、はしごでしか上がれない、安野家の北側の畑に入って、遊び、その土地の洗浄化に、寄与したのだった。

 そのほかにも、いろいろな奉仕を、前田、安野軍団に、子供を使って、行っているので、そのお子さん方が、成長した、2020年に、大きな見返りを得たのだった。

 そして、井上さん(=岸田淳平)だ。なぜ、この時点で、これほど、乱暴なことをしたのだろう。今まで、35年間、彼は、常に紳士だったのに。最初期に、いじめのターゲットだった、藤本夫人にも、偏波なく、礼儀正しく接していて、藤本夫人は、それを私に感謝の思いとともに、教えてくれていた。それで、私は、4月以降、このことをじっと考え続けているのだけれど、『そうか、井上さん(=岸田淳平)にも、妹が自殺だと、伝えられているのだ。それで、彼は、ほかの住民と同じ様に、私を劣等した人間と考えている。これは、大変だ。修正しておかないと。妹は、他殺なのですから』と思い至った。それが6月19日から、本日まで9日間、書き続けていることだった。

  ところで、はっきりと書きます。前田家は、違法建築です。で、前田家より、奥の長嶋家及び、旧中谷家は、改築、および、新築ができません。しかし、私が死んだら、例のごとくCIAエージェントの特別待遇を使って、改築及び、新築ができるでしょう。だから、早く殺してやれっと、言う策略が、常に行われています。前田家は、自分が違法を犯したわけではなくて、前の住民が違反した、造成をしていて、その奥は、実質的に、幅一メートルの道路しかありません。これでは、新築が許可される可能性はないのです。だから、旧中谷家など、使用可能面積が、60坪はあるのに、1980万円という安値で、売り出されたのでした。それなのに、なかなか、売れませんでした。それで、前田家の長男が買いました。しかし、違法建築を買ったのだから、それを意識して、静かにつつましく生きていけばいいのに、大声で、はた迷惑なこと限りがないのです。特に私宅から、10m下にある安野家の前で、大声で話すこと限りがない、雑駁な人なのです。落ち着きと、品格がない人なのです。都立大学の、大学院を出て、鶴岡八幡宮様をCIAが使って、國學院大學の講師にしたのでした。そういう恩恵を与えてもらったのに、それに対して、感謝の気持ちがなくて、ただ、ただ、自分は、この山で一番なのだと言う、威張る方に発展をしていくのでした。

 これに対して、より近い場所で、その大声を聞かないといけない、藤本夫人はたまらないと、思っていた模様です。というのも彼女は、鎌倉駅近い場所に、開業していた小児科医院、関家の、お嬢様にして、藤本真澄東宝重役の義妹だからです。一方、実家が魚屋さんでもしていたのではないですかと、言う、そういう生活態度の、前田夫人とは気持ちがあう筈もないです。しかも前田夫人って、成熟度が低くて、中学生並みの考え方の女性なのです。だから、いわゆる数の論理を使ったいじめを行います。で、藤本夫人は抵抗しました。それで、我が家のアジサイ畑が、盗まれ、しかも許可もしていない、東北の堺界地ノ山が、中谷共二氏によって、崩壊をさせられたのです。

今は、私が村はずれの方のターゲットですが、1980年代は、藤本夫人が、ターゲットだったのです。その藤本邸を、買ったのが、石井秀樹・あずさ夫妻です。

 藤本夫人が、この山からいなくなることは、私のブログを、否定することに役立つので、石井夫妻は、公称鎌倉駅から、徒歩八分の、この土地を、1000万円の安値で、買いました。驚くべき安さです。公募上は、70坪はあるでしょうから、建蔽率が、40%で、かつ私道を除いた利用可能部分が、実質、40坪でも、好きな設計ができます。そして、CIAの方に役立つ家なので、石井秀樹邸は、石塚雅彦さん等の指図で、二時間の特番として、収録・放映をされています。それは、最大で、1億2せんまんにんの人が視聴する可能性がありますね。だから、数の論理で自分たちの悪が消えるとなって、前田氏は、私宅の私有地私道部分で、自分の姿を取材をさせているのです。それがコンクリート打ちをされていて、花が栽培できず、実質的に盗まれていることは、前田夫人に、大いなる責任があるからこそ、彼は、謝罪ではなくて、私を攻撃することで、乗り越えようとしているのでした。

 ただね、教養人井上さんが、その前田清子さんの、洗浄化に協力するのは、本当に信じられないことです。私の戦いは、果てしがない。

 なお、私自身の本日の状況を言えば、一時間半しか昨夜寝ておらず、しかも本日は、外出しないといけない予定があるので、ここで、書くのをやめます。副題4と、5は、後で、加筆しないといけない文章です。だが、ひとまず、これで、パソコンから去ります。

 では、雨宮舜(本名 川崎 千恵子)

 

後注1、前報、

バターが無いという話は、渡辺幸子さんが、誤解から、私を憎んだ事から始まっている。幸子さんをCIAが盛り上げたからバターが払底した

2021-06-24 23:29:26 | 政治

後注2,

俳人・中村光三郎と、画家にして詩人・岸田淳平は・・・・・我が家のご近所20軒の内、双璧をなす教養人である。

2019-10-14 20:47:21 | 政治

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バターが無いという話は、渡辺幸子さんが、誤解から、私を憎んだ事から始まっている。幸子さんをCIAが盛り上げたからバターが払底した

2021-06-24 23:29:26 | 政治

  下記の文章の加筆が、26日の午前五時に終わりました。総タイトルには、加えていませんが、読売新聞の某記者(一人か、数人かはわからないが?)が、鎌倉エージェントの教唆のもとに、大きな動きを、対私弾圧の方向で、やっていることを、初めて、丁寧に語ります。このブログは、私個人のことを書いている様にみえるでしょうが、実は、日本全体を包む、大きな問題を内包しているのですよ。

 例えばオリンピックです。佐野研二郎問題と、自由が丘駅での、私と、小学校時代の、友人の話の連携を書いています。その時、東京五輪は、失敗に終わると、心の中で、考えていました。ただ、呪いになるといけないので、外には出していません。しかし、その通りになっています。

 また、新国立競技場の設計コンペで、隈研吾が勝ったときには、・・・・・・これで、東京五輪は、120%の大失敗となるでしょう・・・・・と、はっきり感じました。ただ、それも呪いになると、いけないので、口外をしていません。ただ、部分的には、問題点を指摘してあります。

 隈研吾が、植物を競技場に持ち込んだこと(それは、手入れに多大な人件費が必要です)、また、図体の、大きすぎる施設を作ったことで、それ以降、有用性がないので、メインテナンス費用だけ莫大にかかる金食い虫であるという点。それで、彼の設計マンとしての、思想や、哲学を疑いました。国民の税金で作るもので、国民に将来にわたる大迷惑を与えるものを作る設計家って、何なのでしょう? 頭がいいのだろうか? 私は、典型的な東大卒頭脳だと、思っています。だから、国民にとって、大迷惑行為をなす設計家で、この新国立競技場は、日本が滅亡していく過程の、シンボルとなるでしょう。これも開発ちえさんが、残酷極まりないいじめを、2012年に、対・私に対して行い、その際、自分が上であることの証明として、「実家の料亭=開化亭の新館の設計は、隈研吾がやったのよ」と、威張りかえったこととセットになっている、ケースです。

 この紫色のフォントの部分は、すでに、詳細に、委細や、因果関係を書いている部分ですが、そのリンク先を探すことは、今は、やらないで、先へ進みます。(以上は、25日の午後二時半に加筆)渡辺幸子さんに集中したいからです。

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副題1、『萩尾望都の著作には、大いに励まされた。そのどこに?』

 萩尾望都の著作に励まされたと、前報(後注1)で言っています。萩尾望都は理不尽な、(=わけのわからぬ)絶縁状を、一緒に住んでいた竹宮恵子からもらって、激しく苦しみます。その現場である大泉を、相手方も離れ、萩尾も離れます。そして、新しい土地で、商売道具の、目がだめになるほどの、苦しいストレスを浴びるのですが、なんとか、50年近く、耐え抜くのです。しかし、相手方が、ある書物【自伝風のもの】を出して、それ以来、・・・・・二人の間に、本当は、何があったのか?を・・・・・、探りたい人々が、大勢出現しました。それで萩尾の、助手にして、支援者である城章子が、「一度本音を語った方がいい」と、提案します。それは、「自分から語るという形ではなくて、他者から質問を受けるインタビューという形がよい」と、城章子は提案します。萩尾は、神経質な人間なので、インタビューを受ける前にメモを準備します。その準備中に、さまざまな思い出が浮かんできて、萩尾自身が、膨大な文章を書く結果となり、大部な本ができるし、相手側(竹宮恵子+増山法恵)と、自分との間にあった、本当の問題にも、気が付いていきます。

 ネタバレになると、いけないので、その本当の問題の、一つの方だけを、城章子の後がきから、掘り出すと、竹宮恵子+増山法恵側から見たら、思いがけないほど、萩尾の実力が、高く、人気も高くなったので、追いつかれそうな、追い抜かれそうな、危機感を抱いたことがあったのではないか?と、言っています。つまり、後から来たものが、人気を得ることに対する恐怖です。これは、(私の言葉と解釈ですが)、頼朝と、義経の間の争いの発端でもあります。

 しかし、本日は、渡辺幸子さんと、自分との間柄に起きた問題を語りたいので、恐れ入りますが、ネタバレになることを恐れず書いていくと

、争いが起きた一番の問題は、ボーイズラブにあったと、萩尾は、解釈していきます。私は、全く漫画を読まないのでボーイズラブ(少年同士の同性愛らしい)が、腐女子という言葉を後日、産んだと、言うぐらいの知識しかないのですが、

 萩尾は、少年が登場する漫画を、三つぐらい書いたらしいのです。それが、竹宮・増山連合軍の逆鱗に触れたらしいのでした。竹宮・増山は、自分たちこそ、ボーイズラブの世界を、最初に、描くはずの人間だと、思い込んでいた模様です。そして、たまたま、萩尾が、似た世界を書いたことを盗作であると、誤解をしたのでした。その誤解が生まれた、心理的・機序を、萩尾は、排他的独占愛と、呼んでいます。それは、竹宮に対して、遠慮がある語彙で、排他的独占欲と、語彙を変化させると、一般の人の頭にとっては、より、わかりやすい概念になると、私は思います。しかし、萩尾にしてみれば、・・・・・自分は、竹宮たちが、考えている事(自分たちの大切な宝物を奪ったという感想を二人は抱いたらしいが)とは、全く違って、ただ、偶発的、内在的に、浮かんだイメージを作品にしているので、盗作と言われるのは、理不尽極まりない・・・・・と、萩尾は、書いています。

 私は、竹宮の自伝を読んでいませんが、誤解によって、切り捨てた方が、竹宮で、切り捨てられた方が、萩尾だと、言うのは間違いがないと、思います。それが、渡辺幸子さんの、誤解によって、大損失を与えられた私の深い共感を呼んだのです。

 なお、竹宮恵子の後ろには、1970年代には、CIAは、引っ付いていません。ただ、これから先は、私が萩尾望都を、称揚したのでわかりませんが。しかし、渡辺幸子さんの後ろには、CIAエージェントが引っ付いています。で、私の被害たるや、萩尾望都とは、比較にならないほど、大きいです。今まで、いつもカモフラージュして、真実に迫らないで、来ています。それは、幸子さんが、五歳年上だと、言う事もあるし、大学同窓の先輩だからと、言う面もありました。鎌倉在住だし。

 しかし、本当のことを言うと、幸子さんは、中退して、JALのスチュワーデスになったのですよ。父君が破産をしたから、一家を経済的に支えたのです。で、私が、これを以前ブログで書いたので、「スチュワーデス」という語彙が、消えました。キャビンアテンダント、という語彙になったのです。その変更は、ひとえに、幸子さんが、私をいじめたので、始まった変更でした。

 その上、ICU同窓会のサイトで、幸子さんは、長文のインタビューを受けています。インタビューワーは、渡辺真理さん(元、TBSアナで、その後独立している。最近、横浜市長選に出馬とか、言う情報が流れたが、現在のところ、未発表)です。写真入りの、きれいな頁で、ソニー社長とか、平田オリザさんとかと、同じサイトで、同格の扱いを受けて、幸子さんは、大活躍でした。(この部分は、25日の2時半に加筆をした)

 しかし、6月22日にチェックしたところ、今は、引っ込めてある模様です。私のブログの力がどれほど、大きいかがわかります。渡辺幸子さんについて、触れられると大変だから、全員、50人分以上のインタビューを、見えない形に伏せたのでした。しかし、いずれ復活するはずですし、私のパソコン以外なら、今でも、見ることができるのかもしれません。ただし、渡辺幸子さんの頁だけは、復活したサイトの中で、相変わらず、引っ込められているかもしれません。そのインタビューを受けると言う事は、中退を、卒業と、変更してもらったから可能なことでしょう。だから、CIAエージェントたちの特権を証明する頁となるからです。で、引っ込める可能性は、大いにある。

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副題2、『漫画は、雑誌に連載すると、言う形で、初出があり、その後、単行本になる。だから、サイズが決まっている。で、竹宮と、萩尾の争いは、サイズではなくて、テーマだった。テーマを盗んだと、竹宮が誤解をした点が、手ひどい、別離策を萩尾に対して、とることへつながった。

 しかし、油絵の方は、サイズは、大小、種々であり、私と、渡辺幸子さんとの間の誤解は、すべて、油絵のサイズから起きたものだった。それから、テーマにおいても、油絵の世界では、特に具象画の世界ではルーズである。日展など、同じ先生についていると思しき生徒さんが、全く同じ対象(生物画)を描いている絵が、6点ぐらい混ざっているものだ。これは、六本木に移ってからも同じである。

 油絵は、自分で、木枠を作れば、サイズの種類は、無限大になる。同じ長方形でも、長辺と短辺の差によって、S型、M型、F型と三種類あるし。ただし、一般的には、ゼロ号から、150号までを使うケースが多い。

 いわゆる素人さん(市町村設立の公民館で開かれる、かるちゅあースクールなどで、友達と一緒に油絵を描いている人たち)は、6号を中心としたサイズの作品を描く。

 しかし、上野、または、六本木の公募展に、入選させようとすると、特に、今、現在、勢いと人気のある、団体の展覧会の場合、たいていは、上限が、100号なので、ほとんどの人は、100号を描く。それが、いっぱしの画家と、認められる、道の一つだと、言う暗黙の了解事項もある。(ただし、私の公募団体展の知識は、2003年までであり、今は、変わっているかもしれない)

 ただし、公募団体展に、かかわらないで、生きる生き方もあって、そちらの作家たちは、小さなサイズで、主に画廊の個展で、発表活動を行って、名前を挙げていく。保坂涼子さんは、立体と言って、昔でいう彫刻の世界の人だが、小さいサイズ(一メートルで収まるサイズ)で、画廊の個展で、勝負しようとしていた作家だが、最近、新制作に出品の模様。

 こちらの側の作家は、主に美大を出ている人が多い。で、先輩の生き方を見ているので、出世する方法を、知っている。特に、公募団体展以外で、さがそうとしている、人種だ。海外へ、留学する手が、使われるケースが多い。だから、これらの人々は、プロなんだけれど、小さなサイズの絵を描く。

 渡辺幸子さんは、その両方に、出品をしていて6号程度の小さな絵(鎌倉芸術館で展示をする)から、120号(新制作展用)、150号(各地の、コンクール用)までの、作品を常時制作していた。

 私は、1990年上野の公募団体展に、入選し始めると、それ以降は、100号から、120号の絵を描くことだけを始めて、そのサイズを、一年に、7枚は、制作していた。しかし、文化庁の在外研修生として、パリへ、行くことができた、1998年以降は、ひそかに、公募団体展から、足抜けをしようと、考え始めた。で、100号サイズの絵を制作したのは、2001年までである。

 しかし、公募団体展に、いったんかかわってしまい、しかも誰かのサポートもなくて、なかなか、会員になれないで、一般入選者という資格で、生きている場合、脱出することが非常に難しい。この間、国画会のサイトに入ったら、山口千里さんが、まだ、会員になっておらず、会友にも入っていなかったので、脱退したのだろうと、推察した。山口千里さんの場合は、聖心女子大卒という形で、国画会の中で、先輩がいない。ただ、野見山さんの秘書に、すでになっている。私と親しい時期があったがゆえに、CIAえーじぇんとたちにリクルートをされて、野見山暁次さんの秘書になっている。で、テレビで、野見山さんが取材を受けるときは画面に彼女が映るし、雑誌【美術の窓】の野見山さんの連載エッセーの中では、「千里が、千里が」という表現が、頻繁に出てくるほどなので、国画会の、会員であると、言う冠がもう不要なのだと、推察している。国画会に出品しているときから、すでに、三越で、個展をしていたほどなので、嫉妬の対象にもなっていて、なかなか、出世できないと、言う形にもなっていたと、私は推察している。

 ともかく、いったんかかわりができた国画会への出品をやめることさえ、女郎が廓を足抜けをする程に難しいので、私は誰にも言わなかった。その縛りのきつさへの恐れは、幸子さんも同じ様に抱いていて、例のCIAエージェント、たちのご援助で、湘南信金、鎌倉支店の三階の広いホールで、薔薇の油絵(具象画)を展示して、150万円以上300万円近くの売り上げがあったと、思われるのだけれど、それを、新制作の会員である田沢茂塾の人たちに知られることをひどく恐れていた。同塾の筆頭格、武蔵野美大卒の、桜井陽子さんは、江ノ電を使うのだけれど、湘南信金のそばを通って市役所や、紀ノ国屋へ行くかもしれない。それで、湘南信金の、一階の、ホールへの入り口に、通例は、置いてある、渡辺幸子展という看板が置いてなかったほどである。本当に、ばれることを恐れていた。そんな些細なことでも、売上高が、大きいので、ほかの女流画家たちの嫉妬を浴びて、新制作の会員になれないのではないかと、恐れていた。田沢茂先生自身の絵だって、彼女の薔薇の絵ほどの売上高は、あげられなかっただろうから、田沢先生自身が、嫉妬するかもしれなかった。

 まあ、この話は、20年以上前の話だ。その後、渡辺幸子さんは、・・・・・CIAえ-じぇんとの援助で、賞金を得たり、ご主人(外資系会社の社長)の定年があったりして、金銭的には、富裕になり、お金の出し入れに、気を遣うことはなくなった・・・・・・と、私は、推察している。

 彼女は、私より、五歳も年上なのに、気弱なところとか、子供っぽいところがあって、いろいろ内面的な苦しみを打ち明けられていたが、この個展には、お招きを受けていたので、その当時は、私は、彼女から、信頼をされていたと、思う。彼女のシロタ画廊での、初個展でも「気を付けた方がいいことは、何?」と聞かれたので、「一応、オープニングパーティの手配をしておいた方がいい。お料理は、どこで、いくらぐらい買うか、誰かが作ってくれるか? ワインはどこで買うか?とか、事前に、決めておいた方がいい。そのお手伝いを頼む相手だけど、画家仲間には、頼まない方がいい。あなたが、昔から付き合っている、学友がいい」と、言っておいた。個展をシロタで、開くことすら嫉妬の対象になる可能性があるからだった。

 ところが2002年の、二月に望月画廊で開かれた大学同窓会展の、直前に、彼女が、「鎌倉で、展示したものを銀座へ回すわ。だって。望月画廊の会は、社交的なものですものね」と事前に電話で打ち明けてくれていた。それなのに、私は、その時は、自分の考えを漏らさず、ただ、展覧会が始める、その日に、100号をポーンと出した。国画会用だった。それを回しただけだったのだが、それが、大いなる誤解を招いた。鎌倉芸術館で、展示をするものと上野の都美館で、展示をするものは、彼女の場合は、レベルが、違う絵なのだろう。私は、鎌倉芸術館では、展示をしないので、一年に制作するのは、すべて、100号サイズで、まあ、プロ向けの真剣なものだった。しかも、その時転用したのは、国画を去ろうとしているし、パリや、ニューヨークから帰ってきた直後だったから、ある意味で、気張っていたし。だから、とても上等なできの絵だった。彼女も無論、それが、わかる人だ。

 それで、「川崎千恵子は、私を、出し抜いて、自分だけが、良い目を見ようとしている」と誤解した、渡辺幸子さんは、その週、最大級のいじめを行った。彼女は、職業として、日本航空のスチュワーデスだったので、女性固有の、いじめ問題に、練達していて、12人のお仲間全体から私は、手ひどくいじめられてしまった。特に、毎日は、画廊に、詰めていないので、全頁を見ていない芳名帳のコピーをもらえないのは、痛手だった。芳名帳は、グループ展でも、画廊の入り口に、一冊しか置いていない。このグループ展に参加するのは、この時で、三回目か四回目だったが、芳名帳のコピーがもらえないことになったのは、初めてだった。

 で、芳名帳を持っている男性先輩(企業社会で、出世した紳士)に、「お宅の玄関をおたずねしますから、近所のコンビニで、コピーをとってくる間だけ、貸していただけますか?」と言ったら「だめだ」と、言われた。幸子さんのご主人が、この紳士と同学年の男性だから、幸子さんが根回しをしていて、同期のお仲間がいないという、私の弱みを突いてきたのだった。

 望月画廊とは、今は閉店をしている。だけど、独立の会員や、会友が、主に、個展をする画廊だったので、上條陽子さんも、見に来ていただいていた。ほかの人で、女流展で、私を知っている人が来てくれているかもしれなかった。私は国画会でも、女流でも、まだ会員ではなかったから、すべての人に対して、下手に出る必要があった。たった、一点だけ(ただし、100号だが)を展示しているのに、見に来てくれたプロの画家たちに対して、礼状を出すのは、絶対に必要なことだったのだ。

 その12人の中に、石塚雅彦さんがいるので、私と喧嘩をした人は盛大に、持ち上げるという対象に、渡辺幸子さんが、それ以降、成って行ったのだった。

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副題3、『ここで、読売新聞が登場する。Yさんという優秀な先輩が、読売新聞で、出世していたので、石塚さんが、そのルートでも使ったのか、読売新聞は、対・私いじめに、その後、散々使われることとなる。

 2005年ごろ、渡辺幸子さんは、青木繁大賞展の大賞を得るのだが(審査委員には、酒井忠康氏が入っている。そして、賞金が100万円で、ガレリアグラフィカでの、個展の権利を得た。後者は、表向きは、50万円得するだけだが、そこで、個展をする作家は、プラスアルファ(一流であるという証明)が、つく。

 そのニュースを、読売新聞が流した。

 次に読売新聞が、大きな役割を 果たしたのが、山口みつ子さんが他殺なのに、自殺と喧伝をされた一件である。なんと、川島さん(村松画廊のオーナー)に取材をして、「画廊の中には、不況で、自殺をする人もある」と、言うキャプション付きの写真入りの、コラムを載せた。その写真が、ギャラリー山口の入り口ドアの写真だったのだ。一般の人には、自殺をした人の固有名詞はわからない。しかし、美術界の人間だったら、すぐわかる。ひどい形での、サブリミナル効果だった。

 しかも、その新聞記事を、二月に入ってからだったと思うが、exhibit Live and Moris のオーナー、森さんが、切り抜きとして、私に渡した。

 森さんは、そのころ、画廊で、個展を開催していなくて、画廊の真ん中に大きな机を置いて、新聞を大量に整理していた。森さんというのは、額に傷があり、それを質問をすると、若いころに受けたと、答えた。で、私は映画【パッチギ】の世界を想像して、『森さんは、大学を出ていないみたい』と、推察した。『高校時代不良だったんだから。そうでしょう』と、想像した。で、も、大変な勉強家ではある。だから、新聞を大量に整理して、たくさんの切り抜きを作っていても、不思議には、思わなかった。そうなのだけれど、後から思うと、それを含めて、謀略だった。何のための謀略かというと、読売新聞の切り抜きを私に読ませるためだった。

:::::::::::ここで、挿入になるが、私は、森さんの画廊以外では、立ち話をしないので、山口みつ子さんの死は、当然知らなかった。しかし、2010年1月17日着(ただし、パソコンが破壊され続けているので、実物は残っていないが)の、近藤実・奇魔々美術館館長からの、個人メールでそれを知った。

 近藤さんは、一時期大変好意的だったのだが、中沢たい子さんが、経営する画廊の事務室で、一時間以上の長さにわたって、個人的な話を交わしたのが、敵さんの把握するところとなって、近藤さんは、裏切ってくる人となった。きっと中沢たい子さんの画廊で聞いた、かれからの打ち明け話を先に私が、外へ漏らしたと、言う形にして、彼が私を、恨む様に手配をされたのだった。

 それで、近藤さんから、「毎日新聞の下の方に、それが載っているが、ギャラリー山口のオーナーが、飛び降り自殺をしたんだって」という個人めーるをもらった。が、それをくれること自体が、私への、いじめではないかと、疑った。

 が、その瞬間もそれ以降も、みつ子さんの死は、自殺だとは、全く思っていない。近藤さんから、お知らせが来たからこそ、それも傍証の一つとして、山口みつ子さんは他殺であると、確信をしている。ほかにもいろいろあって、他殺であると、確信をしている。

 ところが、私は、「山口みつ子さんは、自殺ではない」というメルマガを、読者、特に、美術関係者には、送ったものの、どうして、そういえるのかは、その2010年の一月から二月には、発表をしていない。

 2017年に入って、ギャルリーユマニテが、引っ越しの予定を教えてくれないでいて、大変な恥をかかされたので、とうとう真相を語ることにしたのだった。保坂涼子さんが真実の原因だった。

 ギャルリーユマニテが、2016年度中に、二回も個展を開かせてあげ、引っ越し後の第一回目のチャンスも与えていた、保坂涼子(今は、航子と名前を変えている)と、秋山祐徳太子が、山口みつ子さん殺しの、本当の引き金を引いたのだった。ここは、すでに書いている。しかし、今は、リンク先を探すことに時間を費やすよりも、先へ、急ぎたい。このいきさつは、大変長い文章となるので、繰り返しての詳細は語らないが、ともかく、みつ子さんは他殺である。

 殺した目的は何かというと、彼女が、画廊を閉鎖すると、当然、私と付き合いを始める筈で、そうなると、私の力が強大になるからだった。そして、もう一つ、私を脅かす目的もあった。「お前の味方は、警察の特殊部隊が、殺していくんだ。だから、味方を作るな?」という脅かしだった。

 これは、妹の死にも当てはまる。山口みつ子さんの、死の七年後の、2017年の7月10日妹が殺されたのだけれど、全く同じ目的で殺された。二人とも、私のために殺された。

 これは、書けない。特に、2010年当時は、まだ書けなかった。今、なぜ、書けるのかというと、相当に、彼ら、鎌倉エージェント(=CIA)について、書き続けてきて、事実を積み上げている事があって、それがひとつ

 それと、私自身が腹をくくった。このブログは、神様への捧げものとして、書いている。だから、自分が不利になることをも書く、自分が損をすることをも書くと、言う姿勢に変化してきているからだ。だから、妹が殺され、しかも自殺として、喧伝をされていることも書く。それも、私を脅かす為であると書いていく。::::::::という挿入を入れて、元へ戻る。読売新聞の動きについて述べる。その中の一エピソードとして、森さんが、登場する。

 森さんというのは、ひどく上等な女性と結婚をしたらしくて、それで、人生が輝き、発展をした人だった。昔は、ギャラリーMorisという小さいが路面店である画廊を経営していて、コンクールなども運営して、若手作家を支援する、大オーナーだったのだ。で、額の傷の由来を聞く前は、彼を尊敬していて、その画廊では、五分程度、よもやま話をしていたものだった。特に北から見回りを始めると、最後の画廊だったので、長居をした。また、森さんは、奥さんをなくしてから、画廊で、夕飯をとることが多かった。一種のパーティ。立食パーティ。若手の男性画家を招いて、ワインを飲みながら、談笑する。それを知っているので、私は、近所のハナマサで、ワインを買って差し入れたりしていた。

 画廊のほとんどに盗聴機能が仕掛けられていたので、森さんと、私が打ち解けていると、みなされて、「じゃあ、森を使えばいいんだ」と考えた誰かがいて、森さんが私に読売新聞の切り抜きを、手渡しする様に、手配をしたのだった。で、みつ子さんが自殺したとは、全く信じていない私に、その記事を読ませて、考えを変えようと、謀議を尽くしたのだった。

  で、森さんは敵方に、教唆をされて、2010年の、三月に、個展を開けというのだった。私は、彼の額の傷の由来をきいてしまったが故に逆らえなかった。急に豹変して暴力を振るわれることを恐れたからだ。

 その時の個展が、2010年4月5日から、10日までのもので、その間の、9日(金)に井上ひさしは、NHKを大々的に、画面ジャックをして、自分を公的(?)に死んだ事にしたのだった。だけど、それは、嘘で、今、書いている様なことを、10年前のそのころ私が、ポンと書くことを恐れて、死人を、けなすのは、良くないという日本文化を利用して、死んだことしたのだった。

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 読売新聞は、もう一回、恐ろしいことに利用をされるのだけれど、それは、次の章、または、別の章で、書くことにして、ここでは、バターの話に入っていきたい。

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 皆さんは、バターが払底して、スーパーにおいていなかった時期を覚えておられますか? そして、NHKニュース内で、偉い人が、生乳が、どうのこうのとか、発表をしたことを覚えておられますか? だから、あれは、食料品の問題だと、お考えではないですか? 農林水産省関連のニュースだと。

 全く違うのですよ。あれも、また、渡辺幸子さんが、関連しているニュースだったのです。

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副題4、『熊本県在住の、有名な版画家、【初年兵哀歌】の作家・浜田知明が、月刊ギャラリーの編集長のインタビューを、引き受けて居ながら、ドタキャンをした。2006年の9月ごろの事だった。まあ、シベリア抑留経験者だから、その時すでに高齢で、急に、健康を害することもあるが、これは、ひとえに政治的な問題だった。本多さんを熊本まで、呼びつけて置いて、ドタキャンをしたのは、裏に、鎌倉エージェントの差し金があったからだった。

 私には、当時から、浜田知明と、宮崎進(多摩美教授で、鎌倉在住、ギャルリーユマニテが、専売画廊である)には連絡があることをわかっており、(両者は、ともにシベリア抑留経験者だ)、その宮崎進に、北久里浜の大詐欺事件の、主役である益山重夫元海軍参謀と、親友である、元陸軍参謀である瀬島龍三(これまた、シベリア抑留者だ)が、あれこれの命令を、入れていることもわかっていた。ニューヨークで、Caelum gallery を経営している竹本みすずさんの態度の急変(普通に親切だったのに、急に不親切になった)などから、それがわかっていた。竹本さんと、宮崎進は、ともに周南市(旧徳山)の出身だ。

 だから、本多さんが、気の毒だし、その裏に、私に対する、CIAエージェント(鎌倉エージェントと私が呼ぶ人たち)が、隠れていて、本多さんが、代理の人として、いじめられている事もわかっていて、彼が、気の毒でならなかった。

 編集長、本多隆彦さんは、忙しいうえに、現代アート系の情報誌なんて、それほど、儲かる会社でもないのに、飛行機代が、無駄になった。ので、夜11時ごろ着信の、個人メールで、私に、その悔しさや、やるせなさを訴えてきた。

 しかし、私が、上の緑色のフォントの、部分を彼に開示して解説したかというと、それは、まだ、できない時期だったのだ。私は、ただひたすらに、彼を慰めて、「どうか、元気で、帰京してください」とメールを結んだ。

 ここらあたりは、もし、シロタ画廊のオーナーが生きていたら、必ず、このブログを読んでいたはずで、本夛さんに、向かって「大変だったね。悔しかっただろうね」と、今、慰めて、あげてくれるだろう。シロタさんは、別に私の見方ではなかった。でも、ものすごく頭のいい人ではあり、かつ、人情の機微もわかっていて、しかも、私のメルマガや、ブログを読んでくれているのが、はっきりとわかっていたので、それが、どれほどの、私の心の支えになっていたであろうか。亡くなったことは、非常に残念だ。よって、瞑目。

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副題5,『本夛さんは、美術界の既成勢力ではなかった。今の言葉でいう起業家だった。または、新興勢力だった。そこが、私が、買っていたところで、それなりのエネルギーレベルの高さと、一生懸命さがあった。私も美大を出ていないので、本夛さんと、同じ立場であり、自分のエネルギーレベルの高さと、一生懸命さで、道を開いてきた人間なので、そこが、共通する土台だった。私は本夛さんにおべんちゃらとか、甘い言葉をかけた記憶はない。でも、そこが、心底で、通じ合っていたので、上にあげた様な苦しみを打ち明けるメールをもらったと、考えている』

 どうして、そういうこと(12歳ぐらい年上の私を、お姉さん、または、お母さんとして、甘えてきた事)を、彼が、したかというと、私は、2004年ごろから、非常に積極的に、メルマガを配信しており、それが、好評なので、世間に打って出るつもりであって、広く大衆社会に、名前の通じたライターになるつもりだった。その第一歩を月刊ギャラリーの連載に、置いていて、その後、婦人公論などに、発展をしていくはずであって、非常に積極的に、編集長・兼・社長の、本多さんに接していたからだった。メルマガは時には毎日、時には、二、三日おきに配信をしていた。本夛さんが、ホテルで、悔しさに、心理的に涙を流しているときに、私のエッセイを読んで、それに返事として、自分の悔しさを、ぶつけてきたのだろう・・・・・

 どうして、そういうことをしたかというと、2004年当時、10を超える美術情報誌のうち、大衆と作家を結ぶ雑誌として、最適なものとして、月刊ギャラリーをとらえていて、会社を訪問をしたり(会社では本夛さんには会えなかったが)、周囲の評判を聞いて、本夛さんが、今の言葉でいう、起業家、または、古い言葉でいう成り上がりの、ひとであることを知ったからだった。

 美術界にも、文化界にも既成勢力というのがあり、既成権威とか、既成特権というのがある。特にサントリー学芸賞を見ていると、その既成勢力の存在が、明瞭に見えてくる。私は自分の頭脳のは、多大な自信を持っていたが、美大卒ではない。したがって、既成勢力には、コネがなかった。実家がご近所と言う事で、水沢勉先生には、慕いよっていて、メルマガも読んでもらっていたが、まだ、館長になっていない時代の、水沢さんとの、関係は、外には一切出さなかった。その水沢さんは、私が鍜治橋交差点そばで、顔に眼鏡が突き刺さる大けがをして、慈恵医大に運ばれた後で、即座に、メルマガを配信したことに対して、転んでもただでは起きないとはこのことですね」というご返事メールをくれたと言う事は、本当に励まされる現象だった。

 しかし、ゾフルーザ問題やら、カリタス小通学バス襲撃事件が起きてみると、それは、日吉における、私の地盤を失わせることを目的とした謀略事件なので、水沢さんが、姉の悦ちゃん(妹と、小学時代の同期生)に、妹が他殺なのにもかかわらず、自殺であると、伝えた可能性を感じ取っている。私にとっては、大変な悲劇だけれど、水沢さんが、付き合っているのが、宮崎進やら、酒井忠康氏なので、仕方がないのだ。

 一方、本夛さんは、音大出身だとか、聞いた。体格を見ると、如何にも、声楽でも、専攻して居そうな体格で、きっと、この噂は、本当ですねと、思い至った。別れてから、15年は経つので、最近の彼の様子を知らないが、今でも元気だろうか?

 彼との、交流は、2004年までは、主に電話だった。で、月刊ギャラリーが、公募していた、美術評論コンクールにも応募しようとしていた。その際に、草間彌生と、リアルに、そして、実際に、長時間、電話で、話し合っている。その電話番号は、有名新聞社の学芸部の人が教えてくれた。

 ともかく、私は、西麻布を夜歩けば、素敵なコートの若い女性から「あなた外人?」と聞かれたし、電車の中では、別の若い女性にから、「あなたはフランス人ですか?」と、言われたほど、軽々として、妖精のように機敏で、明るかった。どうしてそうなっていたかというと、

 私には、外国の方があっていたからだ。1998年の、パリ三か月滞在も、もさることながら、英語が自由に使えるニューヨークでは、まるで、水を得た魚のように活発であって、ただ、小さな油絵と版画の両方を数点見せるだけで、入学許可を得た、Pratt Institute <<<<<アメリカ東部の大学、第20位に位置している、美術(ブルックリンで)と、オフィス業務(いわゆる商学部に近いか。マンハッタンで)を教える大学>>>>>>での大学院への入学許可とそこでの体験、また、次の年(=2000年)のニューヨーク一古い版画工房での体験などから、自分のうんちくの深さとか、教養の高さには、一方ならぬ自信を持っていたので、本夛さんに対しても、本当に積極的に出て行ったのだった。

 しかし、その本夛さんと、残酷極まりない形で、別離させられるのだが、もう少し、仲が良かった時代の話をさせてもらいたい。でないと、バター払底の、秘密が解けないからだ。本夛さんと仲が良かったからこそ、奥さんの睦美さんとも仲が良くなり、それが、お菓子作りの話に繋がっていき、次に、バター不足の話に繋がっていくからだ。しかも、そこに渡辺幸子さんが絡んでくるので、話は、非常に複雑になる。しかし、まだ、エデンの園にいたころの話をさせていただきたい。

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副題6,『本夛隆彦さんとは、二度、実際にあって、面談をしている。一回目は、この鎌倉雪の下の我が家で。二度目は、銀座7丁目のカフェパウリスタで。この節では、一度目の面談の時の、話をしたい』

 本夛さんが、どうして我が家を訪問をしてくれたのかの、なぞが、今は、解けません。実は、何かがあったのです。でも、本夛さんは、ひどいやり方で、私を傷つけたとは思うものの、一時的には、私を世の中に出してくれたわけなので、感謝しなくてはならないと思うので、あれは、伏せなくてはいけない。これも伏せなくてはいけないと、思う事項が多くて、伏せているうちに忘れてしまいました。

 ともかく、本夛さんの方に何らかの弱みがあったのではないかなあ。それで、来てくれて月刊ギャラリーでの連載の話がまとまりました。

 一時間前に、急に来訪しますと、言う電話があったので、大急ぎで、居間の掃除をして、そして、八宝菜を作りました。高級な和菓子とか、ケーキの買い置きがなかったからです。八宝菜を、【たちきち】製の青磁のお皿にのせると、とても美しく見えるのでした。八宝菜なんて、お惣菜ですが、美的人間にとっては、接待側も、お客側も、その美に満足できる様に、私は、作り上げて、提供できるのでした。本夛さんは、手を付けませんでした。しかし、帰宅後、誰かに、「川崎さんは、豪邸に住んでいる」と、話してくれたそうです。

 もう、大満足をしました。というのも、我が家って、別に富裕層、仕様ではありません。本夛さんが、豪邸といったのは、ひとえに、内部の、落ち着きと、それがもたらす、心理的な美を評価をしてくれたからだと、思っているからです。居間は、7.5畳しかなくて。そこには、胡蝶蘭も置いていないし、ビスク人形も置いていないし、博多人形やら、鎧や、日本刀等も置いてありません。

赤い矢印のついているところが我が家です。これはだいぶ前の写真で、最近屋根をふき替えました。で、屋根はピカピカになっていますが、33坪のごく普通の家です。

 出窓に置いてあるのはワインの空き箱に小型の布団を敷いた猫ベッドぐらいです。しかし、台所は別室で、台所が見える設計とは、なっていません。建具と家具と床は、こげ茶で、カーテンは、ベージュ、壁は白。昔、田中貴金属性の飾り物(一つが、200万円から、300万円はする五重塔など)を、5個か、6個部屋に置いてある人の家を訪問をしたことがありますが、そういう精神とは、全く別の世界を形成しています。

 誇示的ではない。ごく普通の精神を涵養する部屋。だけど、のちに、アメリカ映画【イカとクジラ】を見ていて、インテリが好む、ブルックリンハイツの高級アパート(連棟住宅)の内部と、我が家の方の白い壁を除けば、にていたので、洋間を作るにあたっては、その精神は、しっかりと理解をしているわけです。ほかのお宅を訪問しても、これほど、飾り物を置いていない家など、早々はありません。

 それから、建築そのものが、堅牢なことです。私の父があの人は、宮大工級の実力を持っていたねと、言う棟梁でした。その人を見つけたのは私です。ヨコハマ南部の、丘陵地帯が、開発中で、新築中の家が、15軒程度、ある中で、もっとも素敵な家を作っている工務店に頼みに行ったのです。すると、その人が、私はね、日立勤務の人に次から次へと頼まれているので、飛び込みの人は、引き受けたくないと、言うので「戦前は、日立も日産自動車も同じ安田財閥だったのですよ」などと言って、北久里浜の家を作ってもらったのです。

 10年ぐらい前だったかな。北久里浜の大詐欺事件の、首謀者の一人、杉本俊一、元横須賀市副市長の奥様、正子夫人が、稲田恭子夫人を使って、嫌がらせをしてきました。稲田夫人は、通りがかりの家ではない我が家(=北久里浜の家)を、まるで、昨日見てきた様に、して、「川崎さん、あなたの家、ごみ屋敷になっているわよ」というので、びっくりして見に行きました。が、そうでもなかったです。当時、家を貸していた高尾さんという男性は、白物家電とか、を直して、中古で、海外に売る仕事をしていたのですが、ちゃんと、三つぐらいの、小屋を作って、物を収納していました。稲田恭子さんというのは育ちが良くて、美的才覚が高いのです。それで、北久里浜時代の、友人の中では、トップに置いていて、いろいろな話をしました。ただね。彼女は、自宅を庭も含めて、美麗に保っていますが、プレハブなので、歩くと、なんとなく、ふわふわしていて建築物としての弱さを感じます。

 稲田恭子さんは、これ以外にもいろいろな嫌がらせに使役をされてきた人ですが、実名を出したら、ぴたっと止まりました。ともかく、彼女を動かしている杉本正子夫人の方が悪女・中の悪女で、恭子さんを使役しているのにすぎないです。

 本夛さんに戻ります。2007年の四月以降、本夛さんには、数々、裏切られてくるのですが、でも、この、間接的に聞いた、「川崎さんは、豪邸に住んでいる」という一言で、すっかり許してしまっています。は、は、は。特に大勢の画家の家を訪問をしているわけで、その中には、鎌倉に住んでいて、それこそ、豪邸に住んでいる人も含まれているでしょうから(渡辺幸子さんとか、岸田淳平とか)、私は、すっかり満足したというわけです。抑制の美を、理解する本夛さんの鑑識眼にも敬服の思いを持っていますし。

 さてその次にカフェパウリスタで、会いました。それは、原稿の長さとか、稿料を決める会だったと、思いますが、その時に、私は、【敷石を磨く男】というエッセイを見本の文章として持っていきました。これが、小町通りの、御影石の舗装が撤去され、アスファルトのものへとなってしまって、かつ、瓜南尚子さんの、急激なる、召命へとつながってしまうのですが、今思うと、本夛さんとの会話は、すべて、盗聴をされれていたのです。パウリスタでの会話は、本夛さんが持っているスマホを通じて。我が家の方は、元から盗聴をされていますので、仕方がないことだったのですが、カフェパウリスタでの会話も、すべて盗聴をされていたのでした。

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副題7,『さて、隆彦さんと仲良くなると、その細君の、睦美さんとも仲良くなった。で、当時の私は、二日に一回、夜クッキーを焼いている時代だったので、月刊ギャラリーの編集部にもそれを送った。すると睦美さんから、「レシピを教えてください」というメールが来た。で、返信メールで、ごく覚えやすい分量配分を書き送った。すると睦美さんから、割と長いメールが来た。

 「私は、本当は、川崎さんみたいに、専業主婦をして、クッキーを焼いている生活を送りたいです。今、一番下の子が、小学一年生です。この前、その子が風邪をひいたので、一緒にクッキーを焼きました。家じゅうにバニラと、バターの香りが漂いました。幸せって、こういうことを指すのだと、思いますした。

  どうも、ありがとうございました」

 私は、今、この思い出を書きながら、ふと、涙をしてしまう。というのも、本夛夫人睦美さんて、とても華奢な人だったからだ。

 実は本多隆彦さんと別れたのちに何らかの用事があって、月刊ギャラリーの社屋を訪ねた。その時、初めて実物の、睦美さんと出会った。雑誌を定期購読をしていたので、その領収書をもらいに行ったのかもしれない。

 しかし、すでに、打ち解けて、長話をする段階でもなかったので、目礼程度で、帰ってきた。ただ、美しくて華奢な人だと、言う印象を強く受けた。貴景勝が、初優勝した時、両親という姿がテレビに映った。その時、お母さんを見て、ああ、この女性は、本夛睦美さんを思い起こさせるなあと、思った。

 ところで、仲が良かった時代に、隆彦さんから、聞いたのだけれど、隣り合わせの、おうち二軒を同時に買ったそうだ。そして、一方のおうちに自分の両親を住まわせ、もう一方に、睦美さんの両親を住まわせる。そのじいじ、ばあば、4人に、六人の孫を育ててもらう。

 というのも睦美さんは、会社の重要な戦力だからだ。小規模な会社、特に起業した一代目が経営して居る場合、奥さんは、大変重要だ。渡辺幸子さんのお父さんが破産をしたのも、お母さんは、専業主婦であって、お澄ましした、鎌倉マダムであって、夫の会社を、手伝っていなかったからだと、私は、考えている。

 ここで、渡辺幸子さんへ、また戻ってきた。そして、因果関係が完結する。

 2007年の、一月か、二月には、本夛さんは、私を切ることを決めていたみたいだった。これは、私が文筆家として、大きくなると、困ると、考えているCIAエージェントたちがいると言う事と、

  売文的、美術評論家の生活が成り立たなくなると、言う点で、私は弾圧される様になった。その一つが、月刊ギャラリーでの連載をやめさせることであって、それは、井上ひさし 👉 伊藤玄二郎 👉 酒井忠康氏 👉 ガレリアグラフィカ 👉 本夛隆彦

    または、酒井忠康氏以降が、別ラインで、👉 柄沢斉 👉 シロタ画廊 👉 本夛隆彦と、言うラインだったでしょう。

 しかし、私がひどく驚いたのは、本夛さんが、渡辺幸子さんを画家としてインタビューをしたことでした。本夛さんは、私が渡辺さんに、大きな意地悪をされて、それ以来、渡辺さんが、持ち上げられ切っているという裏側を知りません。ただ、栗田玲子さんに、頼まれたというか、推薦を受けて、訪問をしたのだと、思います。

 私としては、心をえぐられるほどにつらいことでした。これを文章化したかどうかを知りません。覚えていません。メールマガジンの方は、AOLを利用していたので、当時のそれは、パソコンが壊れると、同時に、消えるのでした。

 しかし、こういう計画を立てた連中は、当然のごとく、私が本多隆彦さん、もしくは睦美さんに連絡を取ると、考えたのです。

 電話や個人メールを送って、抗議をする?

反対に、隆彦さんか、睦さんに媚びる。甘えて、慕い寄って、関係の修復を目指す? そのどちらをしてもだめなんだよと、言うサインだったのです。それが、バター不足のニュースでした。

 2015年にも同じニュースが発生した模様です。この時も渡辺幸子さんと何かがあったはずです。

 今、急に思い出しました。なぜ、関係が切れたのに、月刊ギャラリーの社屋を、訪問をしたかの理由です。隆彦さんはあるとき、こういっていました。「近々、新ビルに引っ越すのです」と。

 私は、それを聞いた時に、「ああ、そういう事ですか。私を切ることで、ご褒美として、それが、与えられるのですね」と。で、ビルを引っ越しているかどうかを確かめに行ったのです。

 すると、まだ引っ越していませんでした。『ああ、本夛さん早まったわね。私を切るのが早すぎたので、ご褒美が、キャンセルになったのですよ。もっと、連載を続けさせていたら、確実に、社屋の移転が、成功していたでしょう』と。むろんの事ほかの理由だった可能性も語っておきます。バブルがはじけて、そういう資金を出してくれる予定のところが出さなかったという可能性も。

 ともかく、バター不足のニュースが出る度に、私は渡辺幸子さんと、その激しいいじめ方を思い出すのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題8、『渡辺幸子さんのサイトが、復活していました。』

 人柄については、同窓会のサイトが、

https://www.icualumni.com/interview/guest029

 絵画そのものについては、画廊のサイトがありました。

http://sachiko-watanabe.jp/

http://www.gaden.jp/shirota/2007/0409/index.htm

  2021-6-25~26にかけて、これを書く。 雨宮舜(本名 川崎千恵子)

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妹がCIAに殺された話・・・2021年6月版ー1・・・萩尾望都の書物、浄智寺、世界第三位の広告会社、戸田恵梨香

2021-06-23 14:13:47 | 政治

 このブログは内容が暗いので、それを薄めるために、最初に写真を置くことにしています。今日は本です。

 この本の著者は、国際基督教大学時代の、私の一年後輩で、しかも、妹の結婚によって、私は、義兄弟となりました。そして、この書物の出版にあたっても、私は、相当な誠意を尽くしたつもりです。しかし、手柄を横取りされてしまいました。それは、浄智寺さんが乗り出してきて、大法輪閣を、紹介したからです。ただね、浄智寺さんが、直接、小林さんに連絡を取ったとは思わず、まず、伊藤玄二郎が、妹の連れ合いに、連絡を取ったことでしょう。そして、浄智寺さんの紹介で、大法輪閣の、編集者と、小林篤生さんは出会ったのです。この章は、妹の連れ合いについて語っていく章です。それが、妹が他殺であると、言う事を証明する話となるからです。

 

副題1、『この章を書き始めるのにあたって、レジメとして、最初にお断りをしておきたいこと』

 私のブログの書き方ですが、すべて、ミステリーを解いているのだと、言っています。それは、・・・・・世間の人がまるで知らないことだが、こっちの方が真実ですよ・・・・・と、知らせたくて、ブログとして書いています。ただ、世間の人がまるで知らないことを書くわけなので、傍証付けが必要だと、考えています。その傍証付けのために、あっちこっち飛びます。そして、いろいろなことを、一章の中に、加えてしまいます。で、お読みになる方の中には、『何を言っているのか、よくわからないね』と、お思いの方も多いと、感じてはいます。しかし、私が書いていることは、一貫しています。理不尽な、弾圧を受けている苦しみを書いています。日本には、CIAエージェントという特権階級がいて、たまたまなれど、彼らの悪事を、発見して知覚してしまった私は、死ぬことをかれらから、期待されています。何度も殺されようと、したのですよ。1998年パリから、いえ、1965年三鷹から、始まっています。だけど、10回ぐらい潜り抜けてきているし、

 最近では、「私を苦しめている人の方が、神様のお叱りを受けていますよ。例えば。瓜南直子さんの早世など、その典型です」などと書いているので、彼らは、方向を転換しました。

 私を狙うのではなくて、妹、弟、子供に対する激しい苦しみを与えると、言う方向に転換しています。西原理恵子を使って、息子の職場を奪った話など、すでに、書いています。謀略の限りです。

 しかし、その手の数多い苦しみの中で、もっとも、引っかかっているのが、妹が殺されていて、しかも自殺だと、喧伝をされていることです。新聞に出たわけではありませんよ。だけど、この事実が、過去に、私に、その悪辣さを書かれてしまった人たちに、伝えられていると、感じています。銀座だったら、高橋典夫さん、中島三枝子さん、十束某氏、金成悠子さん、黒田悠子さん、森邦夫さん、栗田玲子さんなどにです。むろん、秋山祐徳太子と、野見山暁次さんにも。

 鎌倉だったら、コーラスグループ・コールの面々、酒井忠康氏、水沢弁先生、それから、もしかしたら、養老孟司先生? 【かど野英子】さん、松尾崇市長、そして、ご近所の面々全部にです。

 私は、これを、絶対に、吹き払わないといけないのです。大変な困難を伴います。警察が、見方をしてくれないからです。むしろ、妹を殺したのは、警察の特殊部隊であろうから、絶対に、真実を警察が明かすことはないと、考えています。だから、傍証付けで、語っていかないといけないのですが、膨大な、傍証付けが必要で、私は、最後まで、書くのを、焦らないつもりです。

 以前、鶴岡八幡宮の上級神官、龍村氏が、私より、安野智紗夫人を上に置いたので、私は言質をとったと語っています。しかし、説明を果たすまでは、10年かかるだろうと、語っています。(後注1)

 妹が殺されている話は、もっと時間がかかると、思います。それに、龍村氏の何がいけないのか、それを語ったあとで、妹が他殺なのに、自殺と喧伝をされている話に取り掛かった方がいいのです。

 しかし、2021年の、6月の今、急に妹の件を語り始めたのは、どうしてでしょう。

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副題2,『第一には、萩尾望都の、【一度きりの大泉の話】という書物に励まされたからだった。それで、妹の・・・・・他殺なのに、自殺だと、喧伝をされている話・・・・・を書く気分になった』

 萩尾望都の漫画を過去に読んだことはありません。そして、上記の書物に出てくる人物たちの漫画も、全く読んだことがないのです。しかし、朝日新聞の書評欄を読んだだけで、これは、読むべきだと感じました。

 どうしてかというと、萩尾望都は、苦しんだ側なのです。苦しんだ側が、助手、城章子の励ましによって、50年前の苦しみを、分析し、消化、または、昇華したうえで、捨て去ろうとしている話です。

 対立する側として、竹宮恵子と、そのコンパニオン(または、知能レベルが極めて高い人物にして、お取り巻きでもある)増山法恵の、連合軍から、理解不可能な形で、切られた思い出があり、それに、長年苦しんできたと、言う時間経過が、50年近くあります。

 これは、ネタバレの一つとなりますが、2017年だったか、竹宮恵子が、自伝を出したらしいのです。

 それで、忘れていた苦しみを思い出させられるうえに、あっち、こっちから、「真相は、どうなっているのだ?」と、言う問い合わせが続いたので、とうとう、書物を出版することになったのだそうです。

 この書物のとても大切なことは、うずもれてきた被害者側の真実が語られていることです。

 翻って、私が抱えている真実ですが、誰も、他殺を信じようとしません。ですが、他殺なのです。これを書き表していくのは、大変ですが、萩尾望都も、政治は、無関係ながら、二対一という力関係で、理不尽な目に出会ってしまったと、言う、その理不尽さは、同じです。そういうわけで、私は、彼女の書物に大いに触発をされました。私の場合は、二対一ではなくて、数百人対一ですが。

 それで、何を、新しく書いたかというと、妹が殺された影に、妹の連れ合いが、噛んでいると、言う件です。

 これを話し始めたのは、六月二十日の深夜です。

 まさか、彼が、殺したなどとは、言いませんよ。だけど、井上ひさしなどと、結託していることは確かなのです。

 で、精神状況的に、私が苦しい立場に陥る様に、妹の連れ合いが、誘導をしたと、感じています。

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副題3、『私は、何年も前から、その男性が、・・・・・1988年、母に、「7億円の借金をして、横浜市神奈川区反町1-8-1の土地にビルを建てなさい。そして、大原簿記学校に、貸しなさい」と提案して、困った・・・・・・という話をしています。・・・・・もし、あの時、その提案に乗っていて、しかも、大原簿記学校が、自前で、ビルを建てて、うちが建てたビルを借り上げなかったら、破産をしていただろう。だけど、母が、「私はね。70を越して、7億も借金をするのはいやよ」と言ったので、助かったと語っています。これは、私の実家が金持ちだと、言う自慢をするために書いているのだと、勘違いした人もあったと思います。しかし、あえて、弁解をしませんでした。しかも何度もこれを書いています。理由は、その人物が、冷血動物みたいなところがあり、かつ、お金に執着をする人間だと、言う事を書きあらわしたかったのでした』

 妹は、千葉大薬学部同期生として、連れ合いと知り合いました。

 あるとき、実家で、こういう話をしたそうです。「あのね、親戚に、ICU卒の人がいると、聞いたので、安心していたのよ。でも、実際には、ものすごく貧乏で、びっくりした。お父さんが長い間、家出をしていたんですって」と。その、たぶん、中流階級の筈よという誤解を与えたICU卒業生とは小林篤生さんという男性でした。冒頭に書物を置いた人物です。

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副題4,『ここで、小林篤生さんと、浄智寺さんが登場する。NHKの【クイズ100人に聞きました・鎌倉篇】に、浄智寺さんが登場して、私は、びっくりしたし、浄智寺さんが軽すぎるので、驚いたのだった。朝比奈宗源氏の息子さんだと、思うが、父君とはえらい違いだ。浄智寺さんは、瓜南直子さんを、ラーメンの会の主催者として、自分のお寺に招いたが、その時、鎌倉五山のすべてのトップと覚園寺さんが招かれていたそうだ。ラーメンを食べる会ですって。生臭い。豚肉(=叉焼=チャーシュー)が入っている、生臭い。なんでお寺で? その上直子さんは、その8か月後、(たぶん)肝硬変で、死ぬのですよ。ラーメンそのものも悪かったでしょうが、偉い人と、座談をしないといけない、ストレスも彼女の死期を速めたでしょう。浄智寺さんに、いっぱしの責任があります』

 そのICU卒の人間とは、妹の連れ合いの義兄で、小林篤生さんと言います。ICUは1967年物理科卒で、色浅黒く、目がキラキラしている男の子でした。2歳年下の筈です。彼は、私に本の出版の仕方を訪ねてきたので、援助しました。雪の下の自宅にも来ています。何度も面談して、相談に応じたのですが、その際に、私は彼の事務所がある蒲田でも、鎌倉雪の下でも、警察の特殊部隊(=ブルーカラーとホワイトカラーの両方)に、追い回されて、大変嫌な思いをしました。

 これは、自分が出版社になることもさることながら、出版の方法を他者に教えると、この現代日本で、大勢の人が、自分の考えを自由自在に紙の本に直すことができます。電子本が、おおはやりですが、自分のオピニオンを世に問いたい人にとっては、紙の本は大切です。電子本だと、昔でいう検閲による削除が、黒塗りの跡などを残さず、自由自在にできるからです。

 で、本当に力を尽くしたのに、突然に小林さんが裏切ってきました。自主出版ではなくて、大法輪閣という仏教書専門出版社から、出版できることとなったので、私を捨てたのです。

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副題5,『実は、裏切られたし、その奥さんから、ひどい扱いを受けているので、語るのだが、小林篤生さんも、実家は、金持ちではなかった模様だ。だが、小林篤生さんは、人柄がいい。両親は、そろっていて、育ったと思う。そして奥さんとの間も、まあ、まあ、心理的には豊かだったらしくて、その家には五人もの子供が生まれた。しかし、妹の連れ合いの方は、どうも本心が見えないタイプだ。

 お父さんが家出をしていた理由は無論愛人がいたからだった。だけど、この年齢の人は、離婚はしない。で、お父さんは、結局は帰ってきたらしいが、相変わらず、収入を家に入れる人ではなくて、お母さんを、頼って、寄宿するために帰ってきたと、言うぐらいらしい。お母さんは、その間、保険の勧誘員をして、一家を支えた。それが、原因なのか、そうではないのか走らないが、この人がお金に執着すると言いうことを語りたかったので、それが、母に1988年に、7億の借金を、迫ったというエピソードであり、それを私が繰り返し語る、由縁になっている。

 私たち夫婦は、相続税対策などすること自体、思いもよらないし、母親に借金を勧めるなども思いもよらない。

 もっと後で、語りたかったのだけれど、父が死んだときの遺産相続で家庭裁判所の、調停員の人が、「あなたは、本当のお子さんですか?」と、私に問いかけた。

 遺言書相続だったし、不動産は、実勢価格ではない、査定なので、表面上は、それほど差が見えなかったが、不動産の、実勢価格を入れると、母が、私の20倍程度、弟が、10倍程度、妹が五倍程度、もらっていた。

 その時、私は不動産をもらっていない。だけど、母、弟、妹の三人は、賃貸収入を生む不動産を父から相続をしていた。で、母は、不動産から上がる収入が、40万円から50万円あり、それが、母自身が死ぬまで、20年間続いた。父の死亡時、実勢価格、3億円以上の土地を相続したが、辻堂の100坪など、すぐ売って、一億円入ったそうで、さらにその後の賃貸収入を合わせえると一憶二千万円、余計にもらうこととなるので、合計7億円は、相続をしたこととなるのだった。私が株と現金を合わせて、三千万円だから、辻堂の土地を除いても、20倍になる。

 弟は、実勢価格3億円はする不動産をもらっていたが、それは、賃貸収入を20万円ぐらい生むので、その後7500万円増えたと言う事となるし、その土地を、反町1-8-1の方は6000万円ぐらいで売って、半分を妹と分けて、三千万円はいり、

 日吉の実家は、去年、売って、一億一千万円は入ったと、思う。

 私は何度も言う様に、三千万円の株と現金だから、弟の10分の1である。

 

 妹は、賃貸収入が、15万~20万円は入る日吉のマンション、一区画と、八街市の、100坪をもらった。日吉のマンションは、5年後ぐらいに売った。それで、八街市に、10戸のワンルームマンションを建てて、賃貸収入を一億円ぐらい得たのちに、まだ、ワンルームの人気が高いうちに、5千万円ぐらいで、一棟まるまる売った。妹は、父の死の時に、反町1-8-1も数十パーセント、相続したので、それを売った金額も、2000万円ぐらいは手にしていると、思う。

 そういうわけで、調停委員の人が、気の毒そうに私を見て、「あなたは本当のお子さんですか?」と問うたぐらいだけど、私は、本作りを始める前までは、お金には、むとん着だった。つれあい、100円とか1000円単位のお金の計算ができるはできるのだが、100万円とか、1000万円になると、全く計算ができない人ではある。

 ただ、父の相続の時、その日のうちに、弟が、美しいレストランに私を誘って、そこで、「僕がお姉さんに、2000万円上げますから、この相続の案件を了承をしてください」と、言った。ので、「はい」といった。

 私は、東京の第〇弁護士会の会長の弁護士さんが舌を巻いたほど、頭が良くて、真実はすべてわかるのだけれど、今まで、訴訟というものは起こしたことがない。訴訟で、不利益を挽回すると、言う概念は、私の頭の中にはない。しかし、20代の時に渋谷の道玄坂で、のちに、母と呼ばれて有名になる手総身の人に手相を見てもらったら、あなたは、一生、お金に苦労はしませんよと、言われて、その通りみたいだ。

 つまり、私にとって、大切なこと、やりたいことは頭を使って考えることであり、それを妨げる様な時間の使い方はしたくない。だけど、性格が弱いと言う事はない。

 妹も弟も、そのほかの人間も私を怒らせると、とても大変なことになるとは知っている。

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副題6、『妹が、最初にして、最後の電話、をかけてきたのは、死の一年ぐらい前だった。それが、不思議なことに「お金がない」という内容だったのだ。ありえない電話だった。妹は、鳥居薬品に、25年間勤務し、いったん退職したのだけれど、数年後、J.W.トンプソンという世界第三位の、広告会社に、ヘッドハンティングをされて、以前と同じ仕事をした。妹に言わせると、各薬品会社が、個別に作っていた、新薬の、宣伝パンフレットを、広告会社JWトンプソンが、数社分引き受けて作ることになったそうである。

 妹は、現在では、湘南高校を抜いて、神奈川県一偏差値が高いと言われている=翠嵐高校の出身だ。大前研一さんも、卒業したところ。そして、千葉大の薬学部というのは、実業の世界では、日本一だと、思う。東大とか、京都大学は、研究職を輩出する場所だから。

 と言う事は、頭は悪くない筈だ。そして、お金も十分に持っていたはずだ。

 

 母の見舞いで、同席したときに、社交ダンス(特にラテン)をみなとみらい線の、尾上町で、習っていると、語っていた。月謝が、10万円だそうだ。それだけ、有名な先生について習っているという話だった。造花もずいぶん昔、習っていたが、飯田美雪さんに習っていたし、先生には、有名人を選ぶ、ブランド志向が強かった。そんな人がお金がないと、言う。不思議極まりない電話だった。

 私はあの電話は、脚本に基づいたもので、脚本は、井上ひさしが書いたものだと、思っている。妹の連れ合いは、すでに、2005年ごろから、井上ひさしやら、伊藤玄二郎と面談済みだと、推察している。

 

 そして、もう一回言おう。まさか、彼が、毒を盛ったわけではないだろうが、彼が、指導をして、妹を私に逆らう様にさせていたとも推察している。

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副題7、『妹は、いったん退職したのに、以前より格段に、資本金の大きな会社、JWトンプソンに引き抜かれた。しかし、その会社名を明かさなかった。どうしてかというと、それが、謀略であって、私の親しい友人、小池玲子さんが、副社長をしていた会社だからだった。ただ、「目黒というところまで、通勤で通う」と言っていた。それで、JWトンプソンであることが分かった。

 小池玲子さんは、お茶大付属高校時代、一番早く、私が特別な才能のある人間であることを見抜いてくれて、大切にしてくれた人だった。

 そして、私の銀座での初個展にも、デビアースの一カラットの、チョーカーをして、そして、ものすごく珍しいデザインの(全身銀色の、スリムな宇宙服みたいな)服装で、訪問をしてくれた。

 しかし、その後、小池玲子さんは、敵方にリクルートをされてしまった。

 その裏には、石塚雅彦(日経新聞論説委員)→野々村泰彦(日経新聞、ヨーロッパ特派員。👉日経BP社)が、動いていたことが後からわかってきた。それは、小池玲子さんの、著書【ある女性広告人の告白】(日経BP社刊)の奥付を読むとわかる。

 この本も、どうも盗まれているらしい。献呈を受けているのに、今見当たらない。しかし、小池さんはwikipedia が建っている人なので、著書の正式なタイトルが取り出せた。

 

 野々村君の方は、論文が出ているだけだ。

欧米景気の現状と展望--転換期迎えたアメリカと灰色基調のヨ-ロッパ(日本経済新聞帰国特派員座談会)(時事講座)

だけど、なんという事だろう。この人も大学同期生で、1962年など、一日に、6時間は同じ部屋で、過ごした仲間なのだ。古村幸三君も同じなのだけれど、古村君はゴルフ第一だから、感情移入がない。その点、野々村君は、音楽が大好きで、すごくいい声をしているので、人間性がより豊かな感じがある。歌舞伎座一階の上席で、左隣に、・・・・・野々村一家と、ヨーロッパで、非常に親しくしていて、何とか・・・・・という逗子在住のご婦人と知り合った。彼女との会話で、聞き知ったのだが、野々村夫人は、超が付くほどの美人だそうだ。

 ところで、小池玲子さんと野々村泰彦君について書き始めたら止まらない。で、ここでは、説明不足のまま置いておこう。リンク先を見つけている時間もないし。

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副題8、『妹が、JWトンプソンにヘッドハンティングをされたのは、そこで、作っているパンフレット(新薬の医者向け、パンフレット)が、美麗で、高価で(製薬会社は、一種類、300万円から、500万円支払う筈だ)、有用性があると言う事。それで、私の出版物をけなして、私の出版を差し止めさせることが目的だった。

 実際に妹から数々の侮辱やらけなしを受けた。勝って、勝って、勝ちまくられた。

 

 しかし、妹は、面と向かって、私に、二つ、不思議なことを言った。その一つ目は、「お姉さんは、薔薇の花だけど、私は月見草だからね」というもの。

 もう一つは、今章では語らない。

 妹は朝ドラ、スカーレットの主役、戸田恵梨香にそっくりだ。彼女より姿勢が良くて、胸を出し、腰を出して歩く。それは、バレーをずっと、死ぬまでやっていたと言う事と、ラテンを習っていて、タンゴなどを踊っているからだった。そして、自宅では度の高い近視用眼鏡をかけた、典型的理けじょなのだけれど、お仕事に出るときは、ばっちりとmake upをするので、すっぴんに近い化粧で、ドラマに出ていた、戸田恵梨香よりもきれいなぐらいだった。

 私は美形ではない。しかし、不思議な魅力があるらしくて、日傘雅水さんが、「あなたは、芸術家でよかった。これが、普通の主婦だったら、事件を起こす人になっていますよ」と言われた。母は、それを知るずっと前から、私のことを「あんたは、かわいいところがあるからね。社交ダンスをやってはだめよ。トラブルが起きるわ」と激しく禁じていた。妹には許していたし、自分自身は、父と一緒にやっていた。

 私は、高校の体育の時間に「ワルツは楽しいなー」と思ったが、ブルースと、タンゴは、足の運びを覚えるのが、面倒くさいので、母が禁じても、『ああそうですか!』と思うだけで、残念だと、思ったことはない。母は、私には、車の運転も、禁じていた。「あんたは、いつも、ものを考えている。で、上の空だから、運転してはだめよ」と激しく、禁じていた。それだけはアメリカニュージャージーを他人の車で、旅行をした時に、前後左右、一台の車もいなかったので、・・・・・残念だったわ。ペーパードライバーでいいから、免許取っておけばよかった。ここなら、誰とも事故を起こさないのに・・・・・と、本当に残念に思った。一日のプチ旅行で、600ドル謝礼を出したから、よけいに。(苦笑)

 

 そういうわけで、一生、体育の授業以外は、社交ダンスをやったことはない。

 

 ところで、妹の思い出を書こうとしているのだけれど、全く終わりが見えない。それは、書き始めるときから、わかっていたことなので、本日は、ここで、新規の文章を書くのはやめて、6月19日に書いた文章の中から、ある部分を取り出して、再度、ここに置きたい。

 何を目的として、それを置くかというと、

 妹が他殺でありながら、自殺と喧伝をされている影に、妹の連れ合いの、誘導があると、感じているからだ。妹からの、一生で、一度きりの、しかし、内容が不思議極まりない電話なども、

 

 妹の夫が、妻に命じて、私にかけさせた可能性が高いのだ。それを最初に書き始めたのが、以下のリンク先の文章で会って、その中の重要な部分・・・・・・特に妹の連れ合いに関して、重要な部分が、副題イ)からの、数千字となる。ここにおいて、皆様にも、それを、お読みいただきたい。

 

 

萩尾望都ー2 出産の現場が今大変な事になっている、学芸大学広報部長とは?

2021-06-19 21:39:05 | 政治

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副題イ)、『知人をライバルに仕立て上げて、出世させていく一方で、私を取り残していくために、ありと、あらゆる謀略を尽くした。その一つが、京橋の有名画廊の、オーナー山口みつ子さんを殺したことだった。それに味を占めた彼らは、次に、私の妹を殺したのだった』

 

 というのも、月刊ギャラリーの連載は、私に対しては、何の説明もなく、2007年用の原稿が没になり、そこから、連載がとまってしまいました。それで、インターネットで、英語で、美術評論をしたりしていました。が、二つの大事件によって、それもつぶされました。

 まず、気脈を通じていて、秋山祐徳太子よりも、私の方をずっと高く買ってくれていた山口みつ子さんが、2010年1月17日か、14日のどちらかで、他殺の憂き目に出会いました。そして、自殺と喧伝をされました。詳細に、文章を書いていますが、自殺ではありません、他殺です。

 そしてこれに味をしめた、彼ら、鎌倉エージェント(と、その手下としての警察の特殊部隊)は、2017年の7月10日だったかな。わたくしの妹を殺しました。こちらは新聞には出ませんでしたが、これも、知人や親せきの間では、自殺という喧伝をされました。

 この2017年には、私は、山口みつ子さんの事と、それから、大原光孝さんが、私が評価した、創形美術学校の、ある若手作家のテーマをそっくり剽窃して、それを乱雑な絵として、ベニヤ板に、アクリル絵の具で描いて、三越の、春季院展に、入選させたことの二つで、嫌気がさして、やめていました。この入選は鎌倉エージェントが、中島千波さんに、お願いした裏口入選です。院展三越の画風とは、全く違う絵でした。その上、メルマガを使って、英語の美術評論をやっていましたが、メルマガそのものが送信できない様にされていたのです。システム異常を用いて。

 ですから、2017年に、妹が殺されたのは、違う目的がありました。そちらの方は、やまゆり園の真実を、書くのをやめろというのが、目的だったのです。ヤマユリ円事件というのは、私の、四人目の孫に自閉症の、気が出たのをからかう目的がありました。ところが、その日に限って、私は朝の、5時から、目が覚めていて、順次、真実を書き始めたので、困った鎌倉エージェントは、真実であると、言うことを強調するために、47人ものけが人が出たということにして、そのうちの19人は、死んだ事にしたのです。

 そして、妹が他殺であるのに自殺であるとされている、ひどい話を書き始めたからこそ、ぞふるーざ問題も起きたし、その後、登戸で、カリタス小の、通学バスに、引きこもりだったとされる男が学生服を着て突っ込んで、自殺をしました。これも、異様な事件ですが、作られたものです。
 まず、ミャンマー語が堪能な、外交官が殺されたのは、午前8時半ごろでしょうが、11時にすでに、動画が出るほどの、ニュースとして、配信されました。この時、別に学生服を着た特殊部隊の人間が、数人いて、この外交官も殺し、別の少女たちも殺し、そのうえで、犯人を殺したと、私は信じています。
 なぜそういう事件を起こしたかというと、私が、妹は他殺だと、言い始めたからです。それを、覆すために、日吉の実家周辺で、「千恵子ちゃんの妹は、自殺をしたのよ」と、言ううわさを流して、日吉での、私の存在感を失わせることが目的でした。
 妹の同級生が、ご近所に、二人いるのです。実家から道路を隔てて、北西のお隣さん(塩野義勤務のお父さんがいた)の長男ひろしちゃんと、水沢勉(葉山の美術館の館長)先生の、姉君、悦ちゃんが、妹と同級生なので、そういううわさ(自殺という話)をわざと流されたと、感じています。
 わたくしが鎌倉雪の下の方で、「平木さん、前田家、安野家はただで、ペンキ塗りやら、屋根工事をしてもらったでしょう」と書いたり、「平木家のご長男が、前年の秋のうちに、東大の推薦入学が決まっていた」と、書くのも、あまりにも、差をつけられすぎているので、怒りが深いからです。

 平木家が主人や、お子さん方、男三人が、威張りかえって、そばを挨拶なしで、通っていくのも、妹が他殺なのに、自殺だと、聞かされていて、それを信じているので、頭から、ばかにしているのだろうと、推察しています。

 ところで、妹が他殺である件は、ここでは、その論拠の詳細を明かしません。もう少し、彼らの悪辣さを積み上げておいてから、再び、三度語りたいと、思いますので。しかし、海老蔵の、実家売却の件に取り組んだのも、結局は、日吉の実家売却の件が、最終目的の文章なのですよ。わたくしが海老蔵一家、特に母君・堀越希美子さんの悲しみを、自分のブログの、人気取りのために、使うわけはないでしょう。

  2021-6-23 雨宮舜(本名、川崎千恵子)

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敵は今も妹の連れ合いを使っている? そして、彼を利用して、弟を取り込んでいる

2021-06-21 21:14:12 | 政治

  今、急に楽譜が見つかったので、新しい文章をムゼッタのワルツから、書き起こします。見つかったのは、Doremi 出版の、ソプラノアリア集III (2002年)でした。その28頁に、載っていました。ただ、途中で、弟が、私に対する絶縁を、婉曲に、かつ上手に、申し入れてきた話が、主人から私に入ったので、短い形では、終わりません。それと、弟からの電話にかかわる、銀行の利用(敵さんたちが裏工作=私いじめのために利用するのですよ)を、書き始めたら、いつも通り長くなりました。

 このブログは音楽を語るブログではなくて、政治を語るブログです。それで、この場合の、政治的課題としては、NHK番組を利用して、私が、いじめられるケースが、多々あり、それを論じておきたい・・・・・・というそういう文章の一つです。それが、21-6-13日、昼3時からと、夜九時からの二回NHKで、放映をされました。

NHK ETV 日曜日、夜九時からは、長らく、N響アワーと言われてきて、一時間の番組でした。それが、二時間になりました。で、私は、ちょうどそのころ、交響曲を聞くのが重荷になったし、朝5時から、BSPで、放映をしているクラシック倶楽部と、言うのが、毎日あって、交響曲より、聴くにあたって、心理的な重みが少ない室内楽を主に演奏するので、それを、毎日録画して聞くので、日曜日、夜九時からの、ETVの番組は殆ど、聴かないこととなりました。

 その上、日曜日の夜には、BSPで、4時間から6時間、ヨーロッパの劇場の公演を放映するのです。オペラ、バレー、シンフォニー、など、種々様々ですが、そちらも、録画してみるので、本当にETVの旧N響アワーを見ないことになりました。

 しかし、数か月に一度、NHK公響楽団の、演奏ではない、違う内容を、放映します。それも、ほとんど見ないのですが、6月13日は、アンナ・ネトレプコの、映画【ボエーム】だとあって、仕方がなくて、見ました。その時の気持ちは、

1978年の北久里浜での大詐欺事件が、2014年の豆腐屋うかいでの、私への罠を生起させた + 安愚楽牧場詐欺に、引っかかった友達

2021-06-13 23:23:50 | 政治

 の、副題1に書いてあります。それで、それを、もう一回、ここにコピペします。

副題1、『本日(=21-6-13日の日曜日)、養老先生が、また、テレビ(=NHKBS1)に登場され===明治神宮の森の調査の番組ででしたが、アンナ・ネトレプコが、NHK ETV クラシック音楽館でミミ(ボエーム)を、歌いました。

 これは、両方とも、過去の私のブログを、否定する、番組です。そして、こういう番組構成にした、連中は、・・・・・思い知ったか、俺たちの権力の大きさを。お前さあ、いい加減に、ぶっ倒れろよ。そして、この地上から消えてくれ・・・・・と、言っていると、思います。

 で、そう願われているときは、逆ザヤを張ります。それで、その二つの番組を忌避せずに丁寧に、視聴をしました。養老先生の、神宮の森の調査については、文句のつけようがないので、「あ、そうなのですか」と、承るのみです。私が問題としているのは、ネコメンタリーから始まった、まると養老先生が、共演される番組内で、四か所か五か所、伊藤玄二郎と、井上ひさしが、養老先生を使役して、自分たちが過去に行った悪事の洗浄化を図ったと、言う点の事なのです。それも、サブリミナル効果を利用した、ほぼ、普通の人には、わからない微妙さがあったので、それを、ついているわけですが、そのブログ文に対する、復讐案として、養老先生の、表の仕事での偉さを、テレビを通じて、みせつけてやれっと、・・・・・ 彼らが、言いたかったわけです。で、それに対して、抵抗しても仕方がないので、丁寧に、視聴はしました。

 さて、この同じ日曜日の、夜のNHK ETVで、だいぶ前から予告があって、アンナネトレプコが、主役をするボエームの映画化が、放映をされるとの事でした。

 私は、以前から、「どうしても、アンナ・ネトレプコはだめです」と言い続けています。最近ファンという言葉に代わって、押しという言葉が蔓延をしている模様ですが、押しの反対です。したがって、・・・・・どうだ。NHK ETVの、日曜日の、夜九時から、放映をされるんだぜ。お前負けただろう・・・・・・と、こちらも、言われているわけです。それも、「ああ、そうですか」というしかなくて、丁寧に視聴をしました。

 アンナ・ネトレプコが、出演すると、何の役をやっても、目に見えるのは、アンナ・ネトレプコ・その人なのです。今回は、貧しいお針子ミミの役ですが、「この女性は、貧しいのだ」とは、全く感じられません。ゴージャスそのもので、華やかすぎるのです。ただ、映画なので、二幕目以降は、豊満な胸を隠し、メイクアップも、ほぼ、すっぴんに近いものでした。または、病人メイクというべきかでした。そこは、偉いとは、認めます。しかし、一幕目で、「違うでしょう。これは、ミミのイメージではない」と、感じたのは、最後まで、消えません。それに、これは、2008年制作の映画だそうで、今から、13年前なので、彼女は、まだ、細身です。だから、制作者側は、素晴らしい美女で、美声で、これ以上はない配役だと、感じて、自負満々だと、思いますが、相変わらず、私にはだめなのでした。

 日本人の美女を指す語彙として、水も滴るいい女というのがあります。その際、は、水ですね。しかし、アンナ・ネトレプコだと、溶けたバターがしたたり落ちていると、感じてしまいますので、私はだめなのです。

 しかし、丁寧に、録画番組を見ました。というのも、ミミの対象例として、登場する、はすっぱな女、ムゼッタだけは、特に彼女が歌う有名なアリア、【ムゼッタのワルツ】だけは、聞きたかったのです。このオペラの中で、一番覚えやすいメロディは、これで、今度芸大に行って楽譜を、コピーさせてもらおうと、考えています。ただ、インターネットで、手に入れる仕組みもあるのですよね。

 また朝日新聞には、最後にテバルディの、「私の名はミミが、在る」と、書いてあったので、待っていたのです。1961年イタリアオペラ来日の際の映像と、在りました。が、オペラの舞台ではなくて、スピンオフとしてのガラコンサートで、歌ったのです。その時、テバルディは、すでに、高齢で、太っていました。しかし、バランスの取れた太り方で、オペラ歌手だものね。これが、普通なのでしょうと、言う太り方です。レナータ・テバルディは、中学生頃かな? 人生で、最初に気が付いたソプラノ歌手です。その後、ルネフレミングの、時代が、続いて、このプレミアムシアターで、見た、無観客の、プロミスとか、ミラノ歌劇場、ガラコンサートなどでは、新しい優秀なソプラノが育っている模様です。日本人としては、中村恵理とか、森谷真理とか、 まあ、アンナ・ネトレプコは、お顔もきれいで、ゴージャスなのですが、どうしても、どうしても、うーんだめだと、なってしまうのです。

 これをコピペで、繰り返した理由は、そのブログの総タイトルが、ボエームとは、全く関係がないものが付いているので、自分自身でも、なかなか探せませんでしたから、さらに、このブログに成れていない、一般の方には、とても、見つけてはいただけないだろうと考えたからです。私は、一つの文章の中で、五つぐらい、テーマを入れ込める人なので、そういう結果になります。発想の赴くままに書くので、あっち、こっち、飛び火するのですが、その過程で、ひょいという形で、重大な、真実が出てきます。総タイトルには、入れていない項目が出てきます。

 そういう形で、恐ろしいほどの真実を書いていっています。

 日本は、政治的に、被・植民地国家だとか、

 私の妹は、殺されました。その経過と流れは、京橋の有名画廊、ギャラリー山口のオーナーみつ子さんが、2010年の1月に、殺されて、しかも、自殺と喧伝をされた流れと、全く同じです。・・・・・

 という様な、すさまじくも恐ろしい話をひょひょいと書いてしまうのです。

 しかし、妹が他殺であるのに、自殺と喧伝をされていると、言うのは、ちょっと、早すぎたかもしれないとは、思っています。

 そして、見事に、それに対する復讐行為も出てきています。10個ぐらいありますが、これは、書いて置かないといけないと、言う話を、本日は晒しましょう。したがって、しばらくムゼッタのワルツからは、外れていきます。そして、後半で、再び戻ります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『弟から、婉曲ながら、・・・・・絶縁を望む・・・・というお知らせが、電話であった。それは、十分に予測をしていたことだった。私は、前報を真夜中に、乗りに乗って書いている。しかし、数年前から、これは、どうにかして書くべきことだと、ずっと考えており、その反響が、いろいろ、出てくることは、当然のごとく、予想をしていた。筆が走ったという、単純な行動ではない。

 だが、弟が、去る。しかも。今の段階で?・・・・・それって早すぎるでしょう?・・・・・とは思う。もっと、もっと、語るべき事実がある。それを積み上げてから、彼が、去っていくのなら、十分に納得をしている。仕方がないと、自分の心が納得するだろう。でも、本日(=2021-6-21の、午後三時ごろ、私の留守中に、それを知らせる電話が、主人に、あったと言う事は、・・・・・銀行のスパコンが、鎌倉エージェント=警察庁の特殊部隊・・・・・特にそのインテリ部分に、支配をされていることを証明している・・・・・と、思うので、それを語っていきたい。ここから先は、例のごとく、ミステリーを解いていくという形になる』

 私は、本日は午前12:30に家を出て、14:45に、鎌倉駅へ帰ってきました。そのあと、みずほ銀行の、貸金庫室に2:50分に入りました。これは、名前の入ったカードを二回使うという形です。しかも、私は、物思いにふけっていたので、暗証番号を入力するタイミングを逃してしまったので、向こうになって、新たに部屋の外へ出て、もう一回、同じ作業を、繰り返したので、合計四回ほど、みずほ銀行鎌倉支店で、GPS機能が、機能してしまったわけです。そこに、三時にいるという形です。

 次に、横浜銀行鎌倉支店に行きました。ここは、カギメーカー(というか、金庫メーカー)【クマヒラ】の最新システムを利用しているので、17:00まで、利用ができます。だから、私が実際に使ったのは、16:30です。みずほ銀行鎌倉支店と、横浜銀行を、訪問した時間に、1時間半の時差があるのは、お買い物をしていたからです。スワニーという駅から徒歩五分の所にある、結構有名な小間物と生地のお店により、クレジットカードで、支払いをしました。これも、その時点で、私がそこにいるというGPS機能を、利用をされます。その後、駅前の、東急スーパーで、同じくクレジットカードで、買い物をしました.koremoGPS機能が利用されます。それで、雪の下二丁目の山(鶯がやつと、呼ばれている地名。鎌倉市設営の、看板が、進入口鶴岡八幡宮の、文華館裏門前に、たっすると、そのGPS機能を利用して、渡辺賢司夫人=ミカさんが、あいさつなしで、通りました。それはね。あなた、昔、ベランダで、午前10時半に布団を叩いていたことで、いろいろ、私たち夫婦のことを書いたでしょう。でもね、あなたって、ブログで、妹が殺され、しかも、自殺として、喧伝をされていると、言いましたが、私たちには、警察が見方をしているのです。で、そっちから、正しい情報が入っています。だから、あなたは、強がっているだけです。これからね。私たちは、全員で、あなたが、普通の人よりも劣った人として扱います。いいこと、ちゃんと、受け止めなさいよ」と無言の態度で言っているわけです。

 しかし、私が気が付くまで、音なしの構えで、歩いてきたのです。これは、彼女の行動が、自分一人の考えで行われていることではなくて指図を受けて行っている行動だと言う事になります。

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副題3、『渡辺夫人の、ひそめた足音の影に、ご近所住民、山田さんの、指導があったと、推察している。私のブログ(特に前報)

萩尾望都ー2 出産の現場が今大変な事になっている、学芸大学広報部長とは?

2021-06-19 21:39:05 | 政治

 に書いてある予想通りの展開が見られたと言う事を指す。山田さん、および、世界中で、このブログを見ている、ほぼ、20人の敵陣営の、人間は、「しめた!」と、考えた可能性がある。ここから先、伊藤玄二郎、もしくは、井上ひさしの腹の中を、私が代弁しよう。

 ・・・・・・あいつ(私の事)は、妹は、他殺だ・・・・・と、言っている。しかし、敵さんたちに妹は、自殺したと喧伝をされている・・・・・とも、言っている。彼女が、どういう風に、これから、ブログを書こうとも(これは、ラッキーで)利用すべきだ。

 彼女が、これから、どういう風に、ブログを書いていくかはわからないが、彼女は、有名人ではない。昔、日傘雅水に、【週刊〇〇】(女性週刊誌)に、【二重線の持ち主というタイトル】で、あいつのことを・・・・・警戒すべき、二重性格で、陰険な人間だ・・・・・と、書かせてやった。本人には、二重線は、強い人間の証明ですと、励ましたらしいが、裏で、こう書けば、彼女は、まいるはずだ。日傘は、赤瀬川原平の、言う事は聞くのだから、簡単だった。

 それは、20年前の事だったが、今度は林真理子を利用しよう。彼女は、週刊文春に二頁のコラムを持っている。そこで、この件を書かせる。そして、その号を、銀座の画廊の、オーナーたちに見せる。それは、栗田玲子とか、黒田悠子とか、秋山祐徳太子とか、森邦夫(? ちょっと、正確な名前を忘れています。が、exibit Live and Morisのオーナーだった人物)にやらせればいい。そして、各画廊のオーナーに、ひそかに耳打ちするのだ。「これって、雨宮舜(本名、川崎千恵子)の事ですよ」っと。それで、事は解決する。彼女は、やっぱり、追い詰められていたのだ。ずいぶん元気に書いていたみたいだが、やはり、我々の作戦は正しかった。

 引き続き、安野忠彦・智紗夫妻と、大原光孝には、泥棒行為を行わせる。それから、夫婦そろって、外出するとき(7月19日に、親戚パーティがある予定。娘一家がアメリカへ行くので、お別れ会をする。弟は、そこに招かれていたが、本日、それを断ってきた。娘に断るだけでいい。主催者は、彼女なのだから。しかし、私に、断ってきたのは、・・・・・・そこから先は、次の節で、書きます・・・・・)は、警察の一部隊を、侵入させる。それで、壊滅的脅かしを書けるのだ。それと、同時に、外では、小野寺夫人をはじめ、すべての、その山の住民に・・・・挨拶をしない。$しかと$する$・・・・・という作戦をとらせるのだ。それで、一巻の終わり。事は片付く。彼女は自殺をするか、本当のうつ病に、なるだろう。

 しかし、21日の午前10時半に、富沢夫人を使って、それを行おうとしたのに、彼女の方が無視してきた。で、絶対に足音を潜ませて歩くのだ。そして、2mぐらいの位置に来たら、姿を現す。そして、無視してやる。そのうえで、彼女がぎょっとした顔をしたら、グッと足音を高くして、『こっちがあなたよりも上なのよ』と示してやれ。ボディラングエッジでね・・・・・・という指導を受けていると、確信をします

 さて、渡辺夫人が通り過ぎました。で、その6mぐらい後に、突然、安野氏が現れました。渡辺夫人は、ただ、ポーチを持って外出し、たまたま、一時間半後、園芸の仕事をしていたら、その姿を見たのですが、夫婦でそろって、帰宅をしました。で、賢司さんが、テニスを打ちに行ったか? または、東京、または、鎌倉で、良い仕事をもらった打ち合わせでもあったその帰りなのか? 二人は、何らかの、喜びごとがあったので、お食事を外で、取って、帰ってきたという形です。これは、まあ、まあ、自然に見える形です。渡辺夫人が、私の後を通り過ぎた後で、急に靴音高く、示威的に通り過ぎた、以外は。

 しかし、安野忠彦氏は、ばかげた策略をとりました。幼稚で、見え見えの態度。相変わらず、お馬鹿さんです。しかし、その詳細は、ここでは書きません。彼に、おびえているというわけでは無くて、文脈上違う章で、使いたいと思うからです。弟が電話をかけてきたタイミングは、みずほ銀行鎌倉支店・貸金庫室のカードを四回使ったことを、機縁としているわけですが、渡辺夫人と安野忠彦氏が現れたタイミングは、江ノ電バスの運転手からの、メール等で、知らされたと思います。江ノ電バスの運転手は、私の顔をすでに知っていると、言うのは、以前、語っていますね。駅前で、尾行の人間が、バスに乗ったことを確かめたら、江ノ電バスの運転手と、鎌倉警察署の生活安全課の、課長は、緊密に連携を取り合うのです。

 ところで、私は、何も悪いことはしていないのですよ。ただ悪人たちの悪い行為の数々を知っているというだけなのです。だから、真剣に戦います。

 ところで、雪の下の住民がどう動くかは、日常生活に関係があるので、書かざるを得なかったことですが、弟が、婉曲に、7月19日のパーティ出席を断ってきた話は、非常に重要なので、取り組まないといけません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『これは、間違っているかもしれない。だけど、弟は、中間地点にいるのだ。CIAエージェントたちの被害者でもある。で、性格を言っても、100%敵に奉仕をする、程の悪人でもないと、思う。本当に善人なのだ。日吉の実家を彼がまだ、キープしている時期には、私は、歯医者さんに行くついでに、上がらせてもらっていた。両親を祭るお仏壇に、お線香をあげるために。その時の話し方も、穏やかで、感じがよかった。

 彼は、たぶん、一億二千万円で、実家を売ったと、私は、考える。ただ、一億一千万円だったかもしれない。そのお金で、すでに、一つつくば市に、持っているマンションとは、別に、横浜市内に、タワマンを買った。それは、鶴見にある。私が、鶴見は、素晴らしいと、言う文章を書いた時には、そのマンションを思い浮かべていたのだった。実は鶴見には地の利があって、このマンションを専売している不動産屋を、訪ねたこともある。その当時は、売れ残り物件がいっぱいあった。京急鶴見と、京浜東北鶴見の両方の駅の間にあり、両方の駅とも、徒歩一分で、行かれるので、最高の利便性がある。で、弟から、その話を聞いた時に、「自分もそこを買おうと思ったことがあるのよ。ただし、宝くじが当たったらね」とは言った。しかし、私が宝くじを買う目的は、実家を弟から、買うというのが第一義的目的だったので、そこが無くなってしまったら、急に意欲が落ちてきている。それに、自分は、もうすぐ死ぬのだから、相続を考えないといけない。うちの子たちが、そこに住むのは、危険である。収入から言って、周辺より低いので、精神的に、「負けた方だ」という感覚をもちやすいだろう。自分一人を主役として、たてて、考えるのだったら、最高のマンションだけど、相続を考えると、不適切なのだった。

 しかし、私がぎょっとしたのは、年賀状が、旧住所で、来たことだった。そこは、今でも、持っているわけだから、それで、かまわないと言えばいえるのだけれど、コロナが始まる前は、週に二回は、東京へ行っていた私が、帰りに、寄ることを警戒していると考えた。年賀状に、新住所を添え書きしてあってもいいと考える。一人暮らしなので、西北の角を買ったと、聞tいている。だけど、タワマンだから、部屋番号を聞いていないと、呼び出しさえかけられない。年賀状は、印刷だった。で、それは、11月ごろから、準備をしたものだろうから、すでに、8っか月、私たち夫婦は、つんぼ桟敷に置かれていることとなる。

 コロナの始まる前には、一緒に、年二回旅行をしていた。だけど、もし彼が、私のブログを読んでいたと仮定をすると、彼本人の意思で、私を避けている? しかし、娘主催のパーティに欠席することは、娘に連絡を取ればいい。私は、弟と、同じ立場であって、お客の一人だから、欠席だと、言う情報を、聞く必要はないのだ。

 それを、私に、知らせてきたのは、妹の連れ合いが、そうした方がいいと、判断をして、弟に迫ったのだと、思う。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題5、『私の実妹の、連れ合いは、名前を、柏木孝司という。本日、弟が、私の留守に電話をかけてきたのは、この男性の指図だと、私は、思っている。警察は、私の各種のカードを、すぐ、GPS確定のために使う。みずほ銀行鎌倉支店に私がいると、絶対に30分は帰宅しない。平地(=小町通り)を歩くだけで、帰途は観光客がいっぱいなので、ゆっくりになってしまうし、石段を上がるときに、重い荷物を二つに分けて、二重に上り下りする。で、前々から、警察と、柏木孝司は、示し合わせていて、弟を動かそうと、思っていたのだった。しかし、弟が、固定電話の前にいること、(または、妹は、弟の携帯番号を、知っていた可能性があり、結果的に、孝司も、弟の携帯番号を知っていた可能性がある。私も知っているが敢えて、使わない。で、孝司が鎌倉警察署から電話を受けて、「今です」と聞いたので、弟に、電話をして、鎌倉へ、かける様に示唆した可能性がある。まさか! 弟が、鎌倉警察署と、直通の、電話交換をしている? それは、ありえない。

 午後の三時過ぎに、我が家の主人に、弟が電話をかけてくることは不自然ではない。二人は、海外旅行も二人だけで、一緒にしているぐらいだから、話は通じる。それは、前報の、中間で書いた、毒入り餃子事件の時に、すでに、柏木孝司は、敵方にリクルートをされていたと、言うのが真実だからであろう。それは、皆様が、お気づきにならなかった節かもしれないので、副題8に、再度コピペして置く。

 しかし、問題は、これからなのだ。私が、これから書くことが、重要で、それを、書かせないがために、脅かしてきたというのが真実だと思う。で、本当は、ずっと後に書きたかった事実なのだけれど、妹の、連れ合いが、2017年7月11日に、この鎌倉の家に、電話をかけて知らせて来た内容と、弟に知らせた内容が全く違うのだ。しかし、弟から、その内容を聞いたのは、ごく最近で、2019年だったと、思う。あまりに重要なことなので、ブログには、書いていない。

 私に柏木孝司が、かけてきた内容はこうである。「喜美ちゃんは、自殺しました。・・・・・・十分に時間の余裕==間を開けてのちに、・・・・・14階から飛び降りたのです。警察から、呼び出しを受けたので、見に行きました。白い布がかかっていたので、私は、とてもめくってみる気にはならなかったのですが、娘がめくって触ってみました。腰のあたりがぐちゃぐちゃになっていたと、娘は、言っていました」と。

 概要は、以上だけれど、彼は、電話を、彼の方からは、切らなかった。ところで、私は、彼から、電話をもらったのは、その時が、初めてだった。しかも、それ以前の、邂逅の時には、常に、隔靴掻痒の感があって、真実を語っていないと、思われた。そういう、かれが、その時だけは、意外となれなれしく、しかも、思いがけず、長時間話す。それに、これは、普通だったら、親密度において、彼の娘と私の娘が親しいので、まず、その間に連絡を通じさせ、その次に、娘から、私にお知らせが来るのが普通だと、思う。そして、娘は電話内では、自殺という言葉は出さないと、思う。「お母さんの電話は盗聴をされています」と、常に言ってあるから。

 で、電話が終わってから、すぐ、これは、盗聴用の電話だったのだ。録音をされて、使われるはずだ。ひどいと考えた。今まで、書いている事柄は、すべて、これ以前のものだったけれど、それらが、すべて正しくて、特にやまゆり園事件について書いたものが正しかったので、一周忌を迎える前に、こういう形で、脅かしてきたのだと、考えた。

 ここで、三時半になりました。主人が私の、体を心配するので、徹夜ができません。それで、これから先に書くことをメモで、書きます。

%1%

 清新町の団地には、妹の家は四階建て、110平米だが、昔、五階建てだった建物が、エレベーター付きで14階建てになっていた。それが、五棟とか、六棟あり、一部は、タワマンへと、改築をされていた。

 だが、14階には、入れないこととなっていた。学校の屋上とかデパートとは違う。妹が飛び降りたから、そうなったというよりも、大昔から、そうなっていると、言う感じであった。もし、妹が、13階の外廊下の、手すりを乗り越えて、飛び降りたと仮定してみよう。何か、道具を使わないと、無理で、その時点より前に、相当に、まいっていて、病人化していた妹が、脚立などを持ち込んで、エレベーターに乗るのは無理だと考えた。

%2%

 上の録音が利用されているのは無論だが、如何にも謀略らしくて、その事案の、ずいぶん前に、妹から長電話があった。弟からノイローゼになっているとは、聞いていた。しかし、弱気すぎるし、長時間過ぎるし、一種の演技に近いものだと、考えた。それに、その時は、定年退職を迎えており、自宅にいるはずの孝司が制限をかけないのが、不思議だった。これも、盗聴録音用だったと、考えている。

 このご近所様(特に安野夫妻とか、白井達雄小野寺夫妻とか、平木さん一家とか、前田さん一家とか、渡辺賢司夫妻、大原光孝夫妻(ただし、負債別々の場所で、聞かされたと仮定しよう。すると、21日に発見した様なことは、軽々できると、思う。

%3%

 私は、葬儀で、妹の体を、詳細に、点検をした、ほかの人がいるので、布をめくってみることはなかったけれど、普通はかけていない布が、首から下全部を覆っていた。肋骨の下あたりが、扁平で、骨がないのが分かった。瞬間的に、ああ、これは、私が書いたブログを利用しましたねと、理解をした。私が三原橋交差点そばで、交通事故に出会ったとき医、車のタイヤが、いったん気絶した、私の体の上を、両手、両足と並行状態だったから、武器だったけれど、これが90度、方向違いで、タイヤが、体を、横切ったら、確実に死んでいると、書いている。それを睡眠薬で、眠らせた妹の体の上で、実行をした。だから、肋骨から、下が、扁平だったのだ。

%4%

 弟は、孝司から、14階から飛び降りたとは、聞いていない。で、自宅で、鳥居薬品から、昔、持ち出していた、青酸カリ等を用いて、布団の上で、死んでいたと、想像をしていたそうだった。

%5%

 朝ドラスカーレットの主人公の役名は、公子だった。感じも同じ。つまり、お前の妹は、自殺したんだぜと、毎朝思い出せと、言う事だ。そこで、知名度を上げた、伊藤健太郎は、伊藤玄二郎の血がつながっている、人物だと、考えている。

 ほかにもいっぱいあるのですが、四時になったので、ともかく寝ます。これは、ゆっくり書きたいことですし。

 

@@@@@@ここが、書きかけ中の最先端です。以下はメモです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題9、『ムゼッタのワルツの楽譜って、芸大にコピーを取りに行かなくても、自宅にあったのだった。しかし、それを書くと、又泥棒に盗まれるのではないかと、思う。それで、それが心配で、夫婦そろって、外出する自由がない・・・・・これも、重大な人権侵害だ』

 【ムゼッタのワルツ(原題は、Quando me'n vò 私が街をあるけば)】の、楽譜が必要だと、思うのは、楽譜で、マスターしないと、どうしても不安で、歌いだしができないのです。ほぼ、絶対音感をマスターしていて、原曲のキーで歌えるのですが、楽譜で、マスターしないと、その音が出ないのです。

 で、一週間前のブログで、芸大図書館に行って、コピーをとってくるか、それとも、ネットで、楽譜を買うか?と書いています。で、そのまま放っておいたのですが、本日、2021年6月21日の、夕方7時ごろ、ふと思い立って、本棚をのぞいたら、あったのでした。ものすごく、昔に買ってあった楽譜集の、28頁に、ちゃんと入っていました。

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萩尾望都ー2 出産の現場が今大変な事になっている、学芸大学広報部長とは?

2021-06-19 21:39:05 | 政治

副題1、『私は元気です。そして、書くべき話題も、膨大に有ります。前報の海老蔵の実家が売り出されて話も、続きを書かないといけないし、鎌倉市が嘘の書類を作って、公開をしていた話も続きを書かないといけません。しかし、急にお医者さん通いも増えて、しかも、終活を、真剣にやろうと、考えているものですから、もっとも、書きたいもの(それは、50年間を振り返らないといけないものなので)に、取り掛かる時間と、体力がなくて、簡単なものを書く・・・・・という仕儀になっています。本日もわかりやすい、簡単なものを書く予定です。

 わたくしは、珍しく朝日新聞の書評欄を読んで、これは、読んでみたいと、思った書物を、すぐ買って、読み始めました。それで、一報目を書いています。

萩尾望都の【一度きりの大泉の話】173pまで読んで。映像化を望むが、竹本恵子役を誰が引き受けますか?

2021-06-08 14:55:35 | 政治

 それを書いた直後、読了をしました。

 で、著者の、萩尾望都も、この書物の出版に、こぎつけた、人々も映像化など、飛んでもないと、言っています。しかし、最も、終わり近くで、違う(私独自の)考えも述べさせていただきます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『最近、NHKの一時間ドラマが、重要、かつ、重厚になった。・・・・・あるユニークな(?!?)地点に達している・・・・・というお褒めの、文章が、MSNのサイトで、紹介をされていました。

 わたくしはできるだけ、他人を巻き込みたくないので、鎌倉エージェントと、関係のない人には触れたくなくて、それを、コピペしておらず、正確な文章も、正確な語彙も覚えていないのですが、NHKドラマの、知的レベルが、たいへん高くなったと、ほめてあるものでした。

 わたくしは、時間がなくて、ドラマは見ない主義です。しかし、NHKニュースの録画を点検する際、今、放映をされているNHKの夜の、ドラマが合間、合間に、画面上に登場します。

 それで話題のドラマを一回だけ、もしくは、一回の三分の二か、四分の三見たことがあるのです。それらの知的レベルの高さ、および、表現力の高さには、びっくりしました。これは、NHKもしくは、世の中の進歩です。ありとあらゆることが後退し、ありとあらゆることが、白痴化している今、これは、うれしくて、ありがたい現象です。作り手が、真剣になったのか? それとも、受け手を信頼し始めたのか?

【透明なゆりかご】 父親の性的交わりで、妊娠してしまった少女の回でした。全部見ていないので、その父親が、実の父か、継父かは知りませんが、病院側(医者と、看護師たち)が、少女をどういう風に扱うかをスタッフ全員で、考えたり、考えた結果を、注意しあう場面に、ものすごいリアリティを感じて、感動しました。

:::::::::ここで、私独自の、スピンオフに入ります。ある時銀座の画廊で、20~30点赤ちゃんの絵ばかり展示している作家がいました。6号程度の、大きさで画材がなんであったかは、覚えておりません。が、赤ちゃんたちの、皮膚が全部、灰色なのです。ほとんど、象みたいです。そのうえ、すべての赤ちゃんがしわしわなのです。繰り返しますが、象さんみたいなのです。

 わたくしは、個展で、発表するべき作品は、どこかに、美がないとだめだと、思う人間です。「薔薇の花をリアルに描きなさい」といっているわけではないのですよ。グレーとか、黒を主役にした、汚い色を使っていても、個展の部屋全体を、見ると、美しい空間だと、感じられないとだめなのです。

 草間彌生が、全裸で、画廊の真ん中に立った千のボートショーですが、白黒写真を天井・壁・床に、全部、隙間なく張っているのです。被写体は、公園で浮かんでいる貸しボート、それの実物を一艘だけ、画廊の真ん中において、その傍に草間が立ち、そのほかの、平面は、全部、そのボートを写した写真で、埋め尽くされているものです。その個展の実物を見たわけではなくて、その場面を写した白黒写真で見ただけですが、まあ、それなりに、美しかっただろうと、思いました。::::::::::

 したがって、そういう基本精神を持っている私にとって、画廊全部に、象さんみたいな赤ちゃんの、絵が、繰り返されているのは、美とは関係がなく、ただ、作家の、強烈なメッセージが、感じ取られ、そのメッセージは、聞き取らないといけないと感じました。

 つまり、作家が、この世に警鐘を鳴らすために、こういう絵を描いたと、感じたのです。作家は、「こういう風に未来は、なるのですよ。それは、10年後かな?」と言いたいのかしら?と思って、質問をしました。しかし、私は、常に言葉としては、美術評論家らしき、言葉を使わないのです。「これは、あなたの頭の中の世界ですか?」と、聞いたのです。すると、「いいえ、違います。現実です。わたくしは病院で、助産師をしているのです」という答えを聞きました。

 ものすごく驚きました。これは、女性の体に、恐ろしいことが起きている現状を表していると、思います。女性に、男女同格を与えて、働け、働けと、言うのは、被・植民地国家の、日本が、収奪されているげんじつを、表しているので、表に出せない真実なのでしょう。ハイヒールを履き、ピシッとしたスーツで身を固めた女性たちは、いざ出産となると、昔の様な、ピンクの肌の赤ちゃんを産むことができないのです。死産として処理されるのだと、思います。

 NHKの【透明なゆりかご】を全部見たわけでもないし、たった一回見ただけですが、それでも、少女の妊娠の陰にある問題を取り上げたのは、すごいことだと、思いました。

~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『次に、そのリアルさに驚いたのが、NHKの【今、ここにある危機と、僕の好感度について】だった・・・・・しかし、それを見ているうちに私と知遇があるだけで、独立事業主から、学芸大学教授に選任された。女性を思い出した』

 次に驚いたのが、【今、ここにある危機と、僕の好感度について】です。鈴木杏が、眼鏡をかけた若き学究姿で、登場し、論文剽窃をした教授を、内部告発をするという回を見たドラマです。グランド形式のドラマで、そうそうたる役者が、登場し、大学が舞台ですが、論文剽窃が、起きた、という後始末をする、広報課長が、右往左往をする姿を、主役として描いたドラマです。昔、鈴木杏の【軽蔑】という映画を見て彼女がポールダンスを踊る場面を見ていた、その両方の役の乖離が、私には、感慨が深い場面でした。

 わたくしは、事務職ではない、末端の研究職という形で、東大に、勤務していました。大きな国際会議の裏方補助をしていたので、猿橋勝子さんも出席していた会議に出て、いて、文部省から、来ている、若手吏員(40代)が、学者たちに負けまいと、気張って、あれこれ提案することが、かえって、物事の進行を妨げる無駄の極みであった現象などを見聞きしたりして、いるので、

 このドラマが、リアルであることには感心をしました。

:::::::::しかし、ここで、また、私独自のスピンオフに入ります。わたくしの知人でデザイナー兼、中小企業診断士をしている人がいました。5歳年下で、お茶大付属高校のサブサークル、OPCで、知り合った人です。その会は、戦中すでに、奥さんであった人が、中心だったので、1990年代までは、若手は少なくて、若い人同士は、とても仲良しだったのです。よく五人ぐらいで、神田の、学士会館で、ランチ付きの講演会を聞いた後で、コーフィーを囲む二次会をしていました。そこで、談論風発をしていました。

 わたくしの知人は、私を取り残して、出世していくの典型ですが、彼女は、「独立事業主という形には、将来、不安がある」と、言っていました。収入の件でです。その話が出たのが二人だけの、電話の中だったか、五人はいる学士会館の、お茶会の方で、だったかは、忘れましたが、それが、盗聴によって、鎌倉エージェントの目に留まり(または、耳にとまり)彼女は、しっかりとしたお給料の出る立場になりました。

 最初は、日本工業大学の広報部長になったという形でした。

 その次に転籍があって、国立の学芸大学の広報部長(特任・教授)となりました。最初の就職先も、簡単に言えば、私を悲しませる、出世でした。

 というのも、月刊ギャラリーの連載は、私に対しては、何の説明もなく、2007年用の原稿が没になり、そこから、連載がとまってしまいました。それで、インターネットで、英語で、美術評論をしたりしていました。が、二つの大事件によって、それもつぶされました。

 まず、気脈を通じていて、秋山祐徳太子よりも、私の方をずっと高く買ってくれていた山口みつ子さんが、2010年1月17日か、14日のどちらかで、他殺の憂き目に出会いました。そして、自殺と喧伝をされました。詳細に、文章を書いていますが、自殺ではありません、他殺です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『知人をライバルに仕立て上げて、出世させていく一方で、私を取り残していくために、ありと、あらゆる謀略を尽くした。その一つが、京橋の有名画廊の、オーナー山口みつ子さんを殺したことだった。それに味を占めた彼らは、次に、私の妹を殺したのだった』

 そしてこれに味をしめた、彼ら、鎌倉エージェント(と、その手下としての警察の特殊部隊)は、2017年の7月10日だったかな。わたくしの妹を殺しました。こちらは新聞には出ませんでしたが、これも、知人や親せきの間では、自殺という喧伝をされました。

 この2017年には、私は、山口みつ子さんの事と、それから、大原光孝さんが、私が評価した、創形美術学校の、ある若手作家のテーマをそっくり剽窃して、それを乱雑な絵として、ベニヤ板に、アクリル絵の具で描いて、三越の、春季院展に、入選させたことの二つで、嫌気がさして、やめていました。この入選は鎌倉エージェントが、中島千波さんに、お願いした裏口入選です。院展三越の画風とは、全く違う絵でした。その上、メルマガを使って、英語の美術評論をやっていましたが、メルマガそのものが送信できない様にされていたのです。システム異常を用いて。

 ですから、2017年に、妹が殺されたのは、違う目的がありました。そちらの方は、やまゆり園の真実を、書くのをやめろというのが、目的だったのです。ヤマユリ円事件というのは、私の、四人目の孫に自閉症の、気が出たのをからかう目的がありました。ところが、その日に限って、私は朝の、5時から、目が覚めていて、順次、真実を書き始めたので、困った鎌倉エージェントは、真実であると、言うことを強調するために、47人ものけが人が出たということにして、そのうちの19人は、死んだ事にしたのです。

  そして、妹が他殺であるのに自殺であるとされている、ひどい話を書き始めたからこそ、ぞふるーざ問題も起きたし、その後、登戸で、カリタス小の、通学バスに、引きこもりだったとされる男が学生服を着て突っ込んで、自殺をしました。これも、異様な事件ですが、作られたものです。
 まず、ミャンマー語が堪能な、外交官が殺されたのは、午前8時半ごろでしょうが、11時にすでに、動画が出るほどの、ニュースとして、配信されました。この時、別に学生服を着た特殊部隊の人間が、数人いて、この外交官も殺し、別の少女たちも殺し、そのうえで、犯人を殺したと、私は信じています。
 なぜそういう事件を起こしたかというと、私が、妹は他殺だと、言い始めたからです。それを、覆すために、日吉の実家周辺で、「千恵子ちゃんの妹は、自殺をしたのよ」と、言ううわさを流して、日吉での、私の存在感を失わせることが目的でした。
 妹の同級生が、ご近所に、二人いるのです。実家から道路を隔てて、北西のお隣さん(塩野義勤務のお父さんがいた)の長男ひろしちゃんと、水沢勉(葉山の美術館の館長)先生の、姉君、悦ちゃんが、妹と同級生なので、そういううわさ(自殺という話)をわざと流されたと、感じています。
 わたくしが鎌倉雪の下の方で、「平木さん、前田家、安野家はただで、ペンキ塗りやら、屋根工事をしてもらったでしょう」と書いたり、「平木家のご長男が、前年の秋のうちに、東大の推薦入学が決まっていた」と、書くのも、あまりにも、差をつけられすぎているので、怒りが深いからです。

 平木家が主人や、お子さん方、男三人が、威張りかえって、そばを挨拶なしで、通っていくのも、妹が他殺なのに、自殺だと、聞かされていて、それを信じていまするので、頭から、ばかにしているのだろうと、推察しています。

 ところで、妹が他殺である件は、ここでは、その論拠の詳細を明かしません。もう少し、彼らの悪辣さを積み上げておいてから、再び、三度語りたいと、思いますので。しかし、海老蔵の、実家売却の件に取り組んだのも、結局は、日吉の実家売却の件が、最終目的の文章なのですよ。わたくしが海老蔵一家、特に母君・堀越希美子さんの悲しみを、自分のブログの、人気取りのために、使うわけはないでしょう。

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副題5、『ゾフルーザ問題も、カリタス小通学バス襲撃事件も、妹が他殺であることを証明する出来事だったが、当時、それを、はっきりと書いたわけではない。弟が、現場に住んでいるし、私は、そこにしょっちゅう通っていた歯医者さんがあったのだから。しかし、そのずいぶん前の2007年、冷凍餃子に、毒が入っているという事件が盛り上がった時に、妹の連れ合いが、私の敵方に、リクルートをされていることを、近くした。ただし、それを、ブログに書いたわけではない。妹の連れ合いだからだった。』

  海老蔵は、超有名人です。だから、その名前を総タイトルに入れれば、読者が増えるだろうと、言う目論見で、そうしたわけではないのですよ。こういうお断りを入れたからこそ、ここで、妹が他殺であるという証拠の一つを上げます。とても古い話ですが、皆様は、冷凍餃子に毒が入っていた事件を覚えておられますか? 中国東北部(旧満州でしょう)で、作られていて、現地の、作業員が、上司に不満を持って、注射器で、毒を入れて、その注射器を側溝に捨てたという事件です。あれも、私に言わせると妹が他殺であることを証明する事件なのです。

 問題は、あれが、JT製作の冷凍餃子だったことです。JTは、当時大阪に研究所を作っていました。妹夫婦は、千葉大の薬学部を出て、医家向け薬品を作っている鳥居薬品というところに夫婦で、勤務していました。それだけでも、高給とりだったのですが、連れ合いの方だけが、JTの研究所の副所長として、大阪に単身赴任をしたのです。それを、私が知った途端に、・・・・・JTが、どれほどの大企業であり、妹の連れ合いが、どれほどの、高給をもらっているかを、私に、さらに強く知らしめ、私が、自分の立場をみじめに思う様にするために、・・・・・あの冷凍餃子事件が、起こされたのです。

 その時に、妹の連れ合いは、すでに、鎌倉エージェントに取り込まれていたのです。で、彼は、それ以降、常に、本心を、私には明かしません。彼に接するたびに、私は、隔靴掻痒とは、これを指すのだろうと、思うほど、嫌な感じを受けます。そして、妹の連れ合いも納得ずくで、妹は、殺されたのでした。これから先も、全部わかっているのですが、本日は、まだ、書く段階ではありません。

 ただ、大口病院で、点滴に異液を入れられて、紳士が二人亡くなりました。これも、私が石川和子さんの死が、・・・・病院で、点滴袋に異液を入れられて亡くなったのだろうと、書いた直後に起こりましたので、すぐブログで、謀略であると書きました。すると、内部で、争いがあったのだと、横浜市にメールが届いたという続報が出てきて、時には、林文子市長が、それを補強する記者会見を開きました。しかし、私は、全くひるまず、謀略であると主張をし続けると、若い女性看護師が、「自分が行った」と自白をしました。自分が夜勤で、担当を射ているときに、患者が死ぬと遺族に説明をしないといけないので、それが嫌で、死亡時間をずらせるためにやったそうです。無論、嘘です。そういう様にだれかに教唆をされているのです。この流れが、冷凍餃子の時に、眼鏡をかけた従業員が、中国東北部で、自分がやったと、自白した流れにそっくりですね。こういう風に世の中には、嘘事件が、蔓延しているのです。

 話は、変わりますが、
 今、小休止をとって、トイレに行ってきました。時間は、零時45分です。トイレは、北側においてあるので、(パソコンを打っている限りは、そこが見えない)、北側の家が、よく見えます。すると、山田さんという、私が、・・・・・警察庁のエリートで、ご近所人間に細かい指導をしている人間だ・・・・・と判断をしている家が、電気を煌々とつけていました、それと、渡辺賢司夫妻宅も。わたくしは、神様に向かって書いているつもりですが、明日から、これを別の攻撃用弾丸として使ってやろうとして、井上ひさし他の、枢要な人々の指導を、今、仰いでいるところなのでしょう。
 でも、電話をかけて、やめなさいと言っても聞かないでしょうから、いつも通りで、無視して、先へ進みます。

::::::::::::さて、長い長い挿入を終わります。そして、学芸大学特任教授、広報部長になった、友人に戻ります。

 彼女が、そういう風に出世していくころ、私は、自著の、自分の会社での、スモール出版に忙しくて、すでに、OPCはやめていました。なんと、坂本きっこさんが、今は、OPCの会長でした。坂本さんの指図だったか、それとも、別の筋からの指図だったか、それとも彼女本人の意思だったかは、わからないのですが、はがきに、フォントを小さくした、きちんとした挨

 <<<<<<今、茶色のフォントで、書いてある部分が、突然消えました。しかし、こういう攻撃には、慣れているので、回復し得ました。だけど、ご近所住まいの山田さんと、言う若い紳士が、警察庁の大卒エリートで、私のパソコンを真夜中まで、監視していると、言うのが真実なので、こうされたのです。しかし、山田さんについて書いている部分を一般人に知られると、困るので、瞬時に消されたのでした。後半の挨拶状の、挨というところまで、削除をされたのです。瞬間的な手法であって、15年ぐらい前は、3万字ぐらい、消されても、回復できなかったものです。今は、回復できます。特にブログの場合は、回復できますけれど、昔、本の編集をしているときは、回復できなかったのでした。>>>>>>>という、挿入を新しく入れて、元へ戻ります。

拶状で、そのお知らせが届きました。60代も半ばすぎてからの赴任だから、それは、驚きました。そして、これを知らせることで、私を悲しませることが目的なのだとは即座に理解ができました。

 NHKが、世間の耳目を驚かせるドラマ【今、ここにある危機と、僕の好感度と】というドラマを作った背景に、この女性への取材等もあったと、思います。

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副題6,『次に、おおいに優秀な出来栄えだなあと、驚いたのが、【半径5メートル】だった。これほど、秀逸なドラマを作り出す最近のNHK制作部、この部門には驚いた』

 次に【半径五メートル】に入ります。18日の金曜日の回が、特に秀逸だったらしいのです。わたくしは、その回の後半二分の一を見ています。そして、相当にリアルだと、思いました。ほかの回は、ほとんどみていません。

 舞台は女性週刊誌の編集室です。女性週刊誌もこの頃レベルが高くなったなと、思っています。AERAではなくて、美容院においてあるタイプの女性週刊誌。

 ところで、あれこれ、うんちくを傾けさせていただきたいのですが、このドラマのセットは、相当高級で、今は、こうなのでしょうか? ただ、編集長の美形ぶりは、婦人公論から、中央公論の編集長へ出世していった、神戸女学院→ICU卒の湯川有紀子さんをモデルにしているのではないかなあ?

 私はね、1978年の、北久里浜での大規模詐欺事件を通して、一流弁護士さんから褒められたりして、自分が頭がいいのだと、再確認をしたので、専業主婦から脱皮できないだろうかと、考えたのです。それでね、いわゆるフリーライターになりたいと、思ったのです。

 週刊誌付きのね。で、最初は、女性週刊誌だと、思って、編集部をおたずねしたのです。編集長に会うことはできたのですが、大叱られしてしまいました。「あなたみたいに楽々と、子供を育ててきて、そして、今更、仕事をしたいなんて、ずる過ぎます。私なんて、仕事をしながら三人も育てたのですよ」と。これは、湯川さんではないのです。が、本当に叱られました。

 わたくしは79歳です。その頃の女性たちって、四年制大学卒でも、いったん辞めたら、再就職は、非常に難しかったのでした。そして、私自身40代では、経験が足りなかったので、顔も甘い顔をしていたのだと、思います。でもね、いろいろな編集者に出会って、編集者って威張っているものだと、言う考えを持っています。

 ところで、このドラマで、主役を張る、芳根京子と永作博美は、威張っていないのです。しかし、編集者となるというのは、女性としてはエリートなのです。それが、この回では、ものすごく、上等な形で、描かれていました。

 対象例として、就職氷河期に大学を卒業したために、正社員の職に就けず、塾の講師とか、喫茶店の、お運びさんなどの、アルバイトをしてきた先輩役の、女優が、この回では、須藤理沙です。上手でした。年下の昔の生徒が、今では、圧倒的なエリートとして、自らの目の前に現れてしまった、女性の気持ちを、丁寧に、演じていました。上の節で、私は、年下の友人から、麗々しいはがきで、「学芸大学広報部長、特任教授に任官されました」というはがきをもらった時の、あの何とも言えない気分を思い出しました。本当に聞いてみたいものです。「あなた、もしかして、時枝さんか、坂本きっこさんに、そうする様に言われました? 其れって、かくかくしかじかで、私に対しては、大きな攻撃にあたるのですが、それを知っていて、自覚的になさったの」と。しかし、実際には、電話をかけることも致しません。

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副題7、『さて、この年下の、友人(萩尾望都)が自分(竹宮恵子)を追い越していった。それが、いやなので、萩尾に、絶縁を言い渡した。しかし、その真因をなかなか理解できなかった、萩尾望都は、苦しみぬいて、白目が真っ赤になるほどの、病気状態になってしまう。

 それを見かねた、城章子が、萩尾と、同居して、萩尾を助けることになる。

 ここから先は21日に書きます。お待ちいただきたく存じます。

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海老蔵・・・中目黒駅・徒歩圏内の・・・実家を売る

2021-06-16 20:49:19 | 政治

副題1、『どこのサイトだったか、コピペしなかったので、すでに、わからなくなったが、海老蔵が、実家を売ったと、言うことが、ネットのニュースになっていた。目黒区だという』

 まあ、私としては、その地番も知っているお宅です。もう、海老蔵の物ではなくなったみたいなので、町名を言えば青葉台。東横線・中目黒駅の西側で徒歩圏内です。が、そこに、私は、地の利はありません。しいて言えば、東横線の東側だと、二軒のお宅を訪問をしています。そのうちの一軒は、先輩がインターンシップで、東京を離れる間、数か月、家庭教師の、肩代わりをしたお宅です。

 で、目黒区の東横線の、東側なら、地の利があるのですが、目黒区って、中に、大型繁華街がないので、地味です。が、住むのなら魅力的な街ですよね。歌舞伎座まで、団十郎の自宅からだと日比谷線一本を使って、徒歩も含めて、合計、30分でいかれる地域です。タクシーで、帰ってきても3000円以内でしょう。もし、お金があって、この地域に一戸建ての家を持っていたら、文化の享受という意味では、最高の、人生の楽しみ方をできる場所です。

 だけど、このニュースをお金のやり取りの側面からだけ、取り上げたら、下品ですよね。で、ネットのニュースでは・・・・・・実母の、希美子さんとの、間柄がまずくなっているのではないか。二人の、仲が悪くなっているのではないか? この売買を、希美子さんは、望んでいなかったのだから・・・・・・という切り口で、ニュースとしていました。

 ものすごく、身につまされる話です。親世代としてですよ。つまり最初は、希美子夫人側に立って、この実家の売買の件を考えたということです。しかし、だんだん考えが変わってきます。

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副題2、『このニュースで、私は、初めて、十二代目市川團十郎が、なぜ借金を背負ったかの理由を知った。以前は、白血病で、治療費がかかったのかと、想像していた。が、他人の、負債の、連帯保証人で、負債を引き受けるというケースだった。お気の毒。しかも、その他人と、言うのは、妻の、父君。これは、さらにお気の毒だ』

 私は、仕事をする人間として(お金は、もうからないが、24時間、頭から、それが離れない美術系創作家として生きてきた)ので、婦人雑誌は、廉価なものも高価なものも読まない主義です。子供のころは、母が定期購読をしていた婦人之友は、愛読をしていましたけれど。

 で、歌舞伎界の、奥様連中をよく取材をしている婦人画報とか、家庭画報を読みません。で、十二代目団十郎の結婚についても、まったく知りません。昨日はじめて、希美子夫人について、ネット検索をしましたが。

 しかし、歌舞伎座で、最近五年間の希美子夫人の実物を見かけたことはあり、グレーヘアが、似合うスリムで上品な美女だという判断はしています。また、本屋の平台に、堀越希美子著の、美しい表紙の本を見つけたことは何度もあります。

 でね。昨日(=2021-6-16)に初めて、海老蔵の、借金が、20億円もあり、それは、希美子夫人の父親の会社の、倒産の際の、負債を、父の団十郎が引き受けて、その団十郎が、思いがけない若さで、亡くなったがゆえに、相続をしてしまったものだと、わかりました。

 希美子夫人の父親は、観光開発(=ゴルフ場経営)、不動産投資などを手広くやっていたのだそうですが、バブルがはじけて、破綻に直面し、その直後、亡くなったそうです。ストレスが、大きかったのでしょう。お金持ちであることが、即、幸せにはつながらないと、言う典型例です。

 しかし、そこまで、調べて、海老蔵の借金とは、団十郎の、病気で借金が生まれ、それが膨らんだせいではないと、感じて、それは、良かったことでした。ただ、それほどの大借金がありながら、美しい着物を次から次へとあつらえて、それを書物にする、希美子夫人の、感性にはちょっと、驚いて、海老蔵との、仲が悪くなっても、致し方がないかなあと、思いいたった次第です。

 ただね。着物はただで、業者が、お礼の品として出していた可能性があります。デザイン料、兼、モデル代、または、広告塔としての出演料として。

 ただね。着物がタダであっても、20億円もの借金が陰にあったのだと知ると、あれだけの、シャーシャーとした露出ぶりは、疑問です。どこか、ねじが外れていると、考えます。それは、希美子夫人の父君も同じであったであったのであろうと、感じています。

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副題3、『希美子夫人の父君の性格や、人生をちょっと、想像をしてみる』

 鎌倉でも、二軒ほど「あそこは破産をした」というお宅を知っています。原因は、投資だそうです。で、バブルがはじけたので、破産をしたそうです。我が家も危うく、そういう目に出会いそうでした。妹の連れ合いが、母に、7億の借金をする様に提案をして、「横浜駅北部に持っている土地に7階建てのビルを建てて、それで、テナント収入を得る様に、しましょう」と、立派なパンフレットを作ってきて、それを遂行させるための家族会議が開かれたのです。1980年代のことでした。1988年だったと、記憶をしています。その際に、わたくしたち夫婦には、口をはさむ余地はありません。私の連れ合いは、親からのサラリーマン気質を、引き継いでいて、投資とか、収入を上げることなどには、無関心だからです。私は、一心不乱に、画家を目指しているわけで、お金には、疎い人でしたし。

 しかし、反論ができないものの、私は、直感として、妹の連れ合いを嫌いでした。で、これも『なんか、いやな話だなあ』と思っていました。母は、この1980年代には、私よりも、妹の方を高く評価をしていました。社会的に実績があるからです。製薬会社の学芸部所属で、高収入を上げていたし、マンションを二区画、その時すでに他人に貸して賃貸収入を得ていたし、父から相続した千葉県内の更地に、ワンルームマンション10区画を建てる企画をすでに、胸に抱いていたのでした。それは、実行をされ、20年間にわたって、相当な収入を上げたうえで、すでに売り払った模様です。ワンルームマンションが飽和状態になる前に、売り払いました。とても、賢い売り抜けをしたのです。

 父としては、彼らが、100平米を超えるマンションに住んでいるとしても、「やはり、一戸建てがいいよ。だから、やがて一戸建ての家を建てて、そっちへ、引っ越しなさいね」と、言う意味で、土地を八街市に、準備しておいてやったのですが、そういう使い方をしませんでした。・・・・・ともかく、金融資産という意味では、莫大なものを持っている一家となっています。で、有名なセガサミーの里見家と、娘の結婚によって、親戚になっていますが、「別に気押されてもいませんよ」いう感じで生きています。

 しかし、その計画は、母の、「70を超えてから、7億も借金するのは嫌だわ」という一言で、雲散霧消し、破産へと、追い込まれることは逃れたのです。義弟の目論見は、「借金があると、資産と相殺されるので、相続税がかからないのです。それが、有利です」ということだったのですが、母の感覚は、正しかったと、思います。

 母と父は、どっちが、慎重だったか、どっちが大胆だったか、ケースバイケースで、違うのですが、絶妙にバランスをとって、破産など、しない様に、人生を送りました。母が言うのには、「我が家が、財産を築いたのは、やはり、不動産よ」でした。「それが、値上がりしたからね。それで、財産が、築けたの」といっていました。父は、戦後は、霞が関勤務の時期もあったので、研究熱心で、神奈川県や、市役所、また、国の、企画もよく探索しておいて、あっち、こっち、これから、発展をしそうな場所に、100坪単位の土地を買っていたので、それが値上がりしたのです。大規模開発業者の宅地など、買わず、ネットのない時代に、「これは!」、と思い定めた、駅の駅前不動産屋で、希望に見合う土地を探したのでした。

 今は、湘南モールができていて、大発展をしている辻堂など、駅前には、工場があるだけのさびれていた時期に、100坪、買っていて、大変な値上がりをしました。

 買う前の段階ですが、ちゃんと貯蓄をしておいて、借金は、しないで、一区画ずつ、丁寧に、貯金代わりに、土地を買っていたのです。だから、破綻をしませんでした。なお、不動産は、大好きでしたが、不動産屋を職業としていたわけではありません。実は、それを見習って、買えもしないのに、不動産広告を見るのが大好きなのが、私です。

 最近、サラリーマンが、マンション経営(といっても、一棟ではなくて、区画所有)に手を出して、破綻をするケースが、多いそうです。「もうけ(=年利)が、かくかくだから、ローンを組んでも大丈夫です」などという甘い言葉に乗せられて、買うのですが、実際には、それほどの、賃貸収入が入らず、借金地獄に埋没するとか? 二軒目の家に引っ越して、前の家を貸す程度の、賃貸収入を、見込み、それ以上の欲は出さない方が、安全です。

 希美子夫人は、学習院の出だそうですね。で、お見合いで、十二代目団十郎と、結婚をしました。その娘の結婚も、その父の事業拡大を、派手な方向へ向かわせたのかもしれません。埼玉県熊谷市を根城にしている、元来は、地元の地主だったとしたら、宅地造成と販売で、娘の結婚前に、すでに、お金持ちにはなっていたはずですが、ゴルフ場経営などに、乗り出したのは、娘の結婚で、上流階級入りをしたと、考えたからだったと、思われます。市川宗家と、親戚になったことで、急に派手になって、さらに、急進的な事業拡大をしたのではないですか?

 その妻という人は、夫の収入を使うだけの人だったのでしょうか? 提案や助言を夫に対して、しなかったのでしょうか? 希美子夫人の母ですから、非常に美しい人だったと、思いますが、妻とは、夫が事業をしている場合、夫の行き過ぎとか、暴走に対しては、注意しないといけません。ただ、家事だけをしていて、夫の事業には、口を挟まない主義だったのでしょうか? アパホテルの社長夫妻とか、ニトリの社長夫妻を見ていると、夫婦で、発展をしてきていますよね。女の力も偉大ですよ。美しい顔と、言うのも、一つの、階級アップをもたらしますが、頭の良さと、誠実さが、妻の方にあるかどうかも、事業主にとっては、大切なことです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『ずっと、長期間秘められていた、こういう話が、2021年6月16日に、急に、microsoft 社が、提供するニュースサイト、msnに登場したのは、私に対するひっかけではないかと、思うところがある。しかし、日吉の実家が、2020年の2月に売りに出されて、せつない切ない、思いをしている私としては、この話題には、飛びつかないわけにもいかなかった』

 そうです。最近の私は、ものすごいレベルで、多数の攻撃を受けています。このmsn搭載の、ニュースも、その手の一つの攻撃だったかもしれません。しかし、それらの最近、数日の攻撃を主題のテーマとして、このブログに登場させることはありません。はじめて出会う現象ではない限り、それほど、問題とするべきではないと、思っているからです。

 しかし、テレビだけをとってみても、「ニュースの詳細は、右上のQRコードをご覧いただくと、もっと、詳しい内容をご覧いただけます」と桑子アナウンサーが、最近、いうのは、スマホを使わない主義の私に対するいじめです。最近QRコードを使おうかなあと、思い始めて、娘にその使い方を教えてもらったのに、実行をしていないので、その件を、誇大に悪利用をされています。

 そして、今朝17日のNHKニュースでは、海上保安庁長官・奥島氏が、出てきました。それも、安野智紗夫人を助ける報道で、私狙いの、いじめです。

 が、三つ目として、命令をしていない番組【ジオ四国 16日 NHKBSP 22:32~】が録画されていたのも、最初は、気が付かなかったのですが、最後まで、みたら、私狙いでした。純粋な、科学番組としてみていたのに、最後に、<<<鱧を賞味する人として、竹中直人が出てきた>>>ので、は、ハーンと分かったのです。竹中直人は、ぼんぼり祭りの、夜に、私をいじめる存在として、登用されたことがあるからです。(あと注1)すべては、サブリミナル効果を狙って、企画をされます。もし、そういう狙いがなかったら、私が録画を命令していないのですから、レコーダーは、録画しないで、置くはずですし。

 それから、*****罫線以下に置いた、象の国の、象の死因が判明したと、言う記事。それも毒殺ではなかった(あと注3)と、言う方向が、私が過去に書いた話の否定です。

 それから、かまくら駅、特に浜銀の周辺の、デモ隊や、署名要求の動き、そこで立ちんぼうをしている警官の、存在とか、で、判断をすると、・・・・・今は、最高レベルでいじめてやらないといけない・・・・・と、敵さんたちは、考えていると、言うことが、私にわかります。

 最近、書いているものは、敵さんたちにとって、困りに困る内容ですが、特に前報(あと注2)など、一般の方にとっては、「なに、これ、つまんねーの」でしょうが、敵さんたちにとっては、震撼すべき内容なのですよ。彼らの典型的手法が、KHY子ちゃんに現れているからです。

 KHY子ちゃんは、150㎝ぐらいの背で、色白で、目がぱっちりとしていて、お人形さんみたいに、華やかな声と華やかな風貌の、女の子です。正直で、善良なはずです。でも、どこか、ねじが外れているところがありました。両親が、年取ってから生まれたお子さんだと、言うことで、甘やかされて育ったという点が、ああいう性格を生んだのかもしれないです。また、お母さんが居酒屋を経営していたそうなので、もしかすると、元、芸者さんだったかもしれません。ということは、サラリーマン家庭の子が多かった日吉台小学校では、異端の方だったので、頑張って背伸びをしていたのかもしれません。

 同窓会でも、そうだったと仮定して、だからこそ、自分は、医学部を受けたのだと、言う話が出たのかもしれません。

 そういうところが、きっと、悪人たちに、利用をされ、突っ込まれたのです。

 CIAに、取り込まれた人間の特徴を語る、一例として、別の人間の話を、ここで、出します。

 私が、その人と知り合ったのがは、人生で、最悪のことだったと、思うのは、当時エール大学(アメリカ東海岸の名門大学)の、留学生として、ICUに留学していたベイカーさんです。金髪碧眼の大学生。

 エージェントではなくて、スパイという言葉を使っていた時代に、CIA代表として、日本に送り込まれていた人物ですが、私に言わせると、おっちょこちょいです。私が、びっくりした発言は、「僕は、三鷹警察署長と親しいから」と、言うものでした。で、私が目を見開いて、驚いたので、その私の顔で、初めて『あ、ばれた。失敗したな』と思ったらしいのです。

 が、その後が、すさまじいです。私は、彼に、夜、旧中島飛行機の試験飛行用滑走路で、後ろから、首を絞められて、殺されそうになりました。で、今でも、なんーんって短絡的なのだ。自分は頭がいいと思い込んでいるけれど、それって、本当に頭がいい事だろうか?と、疑ってしまい、やはり、おっちょこちょいの、一言で、片づけられると、思うのです。

 私が、よくご近所様の一人、大原光孝さんをおっちょこちょいだと、言うのは、おっちょこちょいの人間が、CIAに、取り込まれるという一つのパターンがあり、大原光孝さんは、見事に、それに当てはまるので、そういう風に言うのです。今度彼を主役にして、長い分析をしないといけませんが、悪に利用をされて、得意がっている人間の、典型的な、特徴の一つが、熟慮をしないタイプだと、言うことです。

 KHY子ちゃんもそうです。彼女が敵さんに利用されて、威張りかえる前の、親しかった時期にも、どうしても理解ができなかったのは、「医学部に入るために、猛勉強をしたのよ」という話の続きです。彼女は、医者にはなっていない。仕事もさして、していた形跡がない。もっとも、主要な仕事は主婦であり、母であることの様です。本当に医者になるほどの、猛勉強をしたのだったら、不合格は、いやな話ですが、ともかく、そこまで行って、さらに、「あきらめたので、別の、こういう学部を卒業して、こういう仕事に就いたのよ。でも、子供ができたので、やめたの」というところまで、聞かせてくれないといけません。ともかく、日吉台小学校の、六年生の時に、「あの子だったら将来、医者に、なれたわね」と思うほど、頭のいい子が、三クラス合わせて21人は、いたと、思うのですが、その中には、入っていないのです。そして、ほかにも、1955年卒業組の中では、誰も医者にはなっていない。

 彼女は明るいのですが、話の中身は、つかみどころがなくて、ふわふわ感がいっぱいです。「安愚楽牧場に、引っかかって、500万円損をした」というはなしは、本当だと、思うのですが、どうして、そういう場所に、引っかかったのか。そのルートも読めません。私には、お誘いも来なかったと、記憶していますし。

 ともかく、誰かが、彼女を、対私用・攻撃弾とすべく、裏から手を回したのです。私は、それがだれであるか?を知りたいのです。私が、書いているエピソードは、すべて、大本が誰であるのかを追求する文章です。 

 最近、二か月間、庭においてある、園芸用の肥料や、薬の袋に、すべて、切れ目が入っています。ビン入りの肥料が、ひっくり返って、中身がないと、言う形にもなっているのも発見しました。

 室内でも、洗剤の瓶に切れ目を入れた人間がいて、似た様なことをやっています(あと注4)。

 我が家に対しては、侵入してくる四種類の泥棒がいます。すべて、2005年に、警官を家来として、使って、とんでもことをした石川和子さんから始まっています。そして、その時以来、ご近所の二軒は、合いかぎをもらっているでしょう。

 その泥棒・行為のあほらしさと、醜さを私に文章化されると、警察庁長官の責任になるわけですが、特に、ストレートに長官の責任になる、警察官が、それをやったのでしょうか? 例えば、油粕の腐敗液を、ひっくり返して、せっかく時間をかけて、使うと思っていた直前に、水泡に帰して、嘲笑をしながら、帰るのが、警官の姿でしょうか? 

 まあ、ご近所様のうちの、園芸に凝っているY夫妻のどちらかが、やっているのだと、思うのですが、過去に、いろいろな、いたずらを仕掛けてきた悪意満点の、O氏かもしれません。

 でもね。やることなす事、なんて、子供っぽいのだと、驚くばかりです。それは、鎌倉警察署の生活安全課の課長命令で、行われること(スーパー東急や、かまくら駅で発見できる)ことも同じです。

 ここで、雪ノ下から離れます。歌を使った罠という意味で、KGY子ちゃんと同じことをしたのが、お茶大西洋史学科卒で、立正佼成会が、経営する学園で、先生を長くしていた、宇都宮和代さんです。

 彼女が、バレバレの、わなを、2014年に、豆腐やうかいで、仕掛けて来た話なんて、「どうして、あなた、そんなに馬鹿になっちゃったの? 栗田玲子さんに命令されたんでしょうが、栗田玲子さんが過去にしてきたことなんて、すべて、すでに、バレバレですよ。だから、あなたのことも、近々丁寧に、書くだろうに、それで、いいのですか?

 それにね。栗田玲子さんは、伊藤玄二郎に支配をされています。しかし、鎌倉エージェントは、警察の殺人用部隊を家来として使っています。

 だから、寝屋川のアーケードで、深夜まで、徘徊をしていた涼斗君と友達の中一の女の子(山田浩二が殺したとされていますが、違いますよ。事件当時、詳細に、それが嘘だと、書いています)、徳山の、金峰という限界集落で、惨殺された五人の老人、(川柳を使いましたね。いかにも井上ひさしらしい発案です。、これも保美死刑囚がやったとされていますが、違いますよ)そして、新潟で、死後轢断死体として発見された、大桃たまきちゃん、(これも、小林遼という男性が、殺したことになっていますが、むろん違いますよ)これらの殺人事件を起こした側の一味として、和代さん、あなたは、機能をしているのですよ。

 イタリア留学組として、イタリア大使館主催の、社交クラブは、大切でしょう。でもね、私を相手にあれほど、バレバレのわなを仕掛けるなんて、まあ、おやりになるのは構わないけれど、彼らが悪事を繰り返すたびに、あなたを・・・・・先生なのに、子供が殺される犯罪の、企画者側の、存在であるとして・・・・・、あなたが、豆腐やうかいで、仕掛けてきた、あの日のエピソードを繰り返し書きますよ。友人ではない。敵として機能をしたのですから。

 KHY子ちゃんは、精神病院へ入っているそうです。それって、彼女に対する天の恵みかもしれないと、思うときもあります。彼女が、実家を売ったお金って、もう、そろそろ無くなりかかっているかもしれませんしね。一人娘とも、心も、生活も通じ合っていないみたいだし。それは、彼女があまりにも子供っぽいので、娘さんも、あきれているから、そうなっていると、考えます。そうなると、だれに老後を世話してもらいますか? 

 生活ができなくなります。特に今、老人ホームって、民間だと、ひと月、25万円以上なので、特別な職歴(国家公務員だったとか)でないと、年金は足りなくて、入所できない時代です。だから、KHY子ちゃんが、国税で、精神病院で、暮らすのは、ちょうどぴったりの、配合でした。

 まあ、宇都宮和代さんは、老人ホームに、入所できるでしょう。お子さんがいなくても大丈夫です。立正佼成会の経営する学園の先生だったと、言うことは、年金も高いと思います。

 ところで、本日初出の話を描きますが、私は、何となく、和代さんは、離婚をしている様な気がします。で、複数の男性との、交合もあったと。

 クラス会で、50人以上の同期生の前に立って「わたくしは、今、なんとなく、不調で、ピリッとしないのですが、どうしてなのだろうか?と、原因を考えると、恋愛をしていないからだと、思うの!」と、言うスピーチをして、私をびっくりさせたのですが、

 これは、栗田玲子さんなどと、付き合っているからこそ出てきた、スピーチだと、思うし、玲子さんと付き合っていたら、恋愛の相手も、当然紹介してもらえるから、あの時、すでに、数人の紳士とのアヴァンチュールを、経験していた段階だったかもしれません。そういうバーター取引で、私をいじめなさいと、言う命令も、聞いたのかなあ?

 私は何度も、宇都宮さんが、美形だと、言って来ています。栗田玲子さんを、中心にして、活動をしている、

 渡辺幸子さん(元、JALスチュワーデス)、日本財団理事長として、ストラディバリウスなどを演奏家に、貸しだしている塩見和子さん、ウォーホールに、版画を作ってもらった日動画廊社長夫人の、長谷川千恵子さん、美人版画家として、有名な山本容子さん、

 (林真理子に言わせると、恋愛も仕事も絶好調だと、言う)池田理代子さん、そして、最近、養老先生と、特によく組んで、テレビや、書物に登場するやまざきまりさん・・・・・

 その六人、+栗田玲子さん自身の、7人と比較しても、圧倒的な、差をもって、美しい人が、和代さんです。知的で、すらっと背が高くて、姿勢が良くて、顔は、ギリシャ風です。だけど、子供はいないし、孫もいないでしょう。友人はいるし、仲間もいる人です。その人の人生だから、あれこれを批判的に、言上げする必要はないけれど、・・・・・・

 まあ、和代さんがああいう風に動かされるのも、もとはといえば、かまくら雪の下での、ご近所様、安野智紗夫人に、初因があるわけだから、私が書いていることは、すべて、連動をしているわけですけれどね。

  しかし、三時間後に戻ってきました。大切な事を言い忘れていたからです。私は、離婚そのものが、悪いと言っているわけではないのですよ。特に和代さんのように、収入の高い人は、離婚をしても、老後が、安定しているから、大丈夫です。ただね、私が言いたかったのは、男女平等が、昔の、一夫多妻の反対方向でも、実現をしているという事です。一妻多夫です。そして、こういう特権階級は、自分を勝ち組として、規定をしていて、容易に、人を差別し、軽蔑し、陥れるということです。

 それがあんな罠を平気で、実行したというところに現れています。その当時はね。あなたの周辺に大勢のお仲間がいて(玲子さん、きっこさん、庸子さん、じゅうもん、加奈子さんたちですが)、力関係において圧倒的に、自分たちの方が有利だと、言う判断があったでしょう。だから、何をやっても平気だという判断があったでしょう。でも、仮にです。私が北久里浜の水道山をめぐる詐欺事件から、書き起こし、すべての謀略的殺人事件の裏側を丁寧に、分析し、総計200枚程度の、A4サイズのレポート(40文字36行)にまとめて、立正佼成会が経営する学園の、あなたの元生徒さんたちに読ませたらどうなるのですか?

 あなたは、あの日の午後起きたことを一過性の、お祭り騒ぎで、やがて消えていく話だと、思っていませんか? しかし、私をいじめることは、相当大きな政治的課題なのですよ。私は、決して見過ごしはしません。その場で、けんかを売ったりしません。数の論理で負けるから。

 ただね、離婚をしているのは、栗田玲子さんも塩見和子さんも同じです。栗田さんは、山本容子にも、離婚を進めています。でつくづく感じるのですが、離婚をして、も、以前より経済的に上回る生活をしている女性の勝気さというか、センスの、不思議さなのです。いいでしょう。山本容子と、栗田玲子にとっては。子供もいないことだし。でも、あなたには、生徒がいる。一万人近い教え子がいるでしょう。そういう人に対して、ああいうわなを仕掛けることが、恥ずかしくないのでしょうか?

 あまりにも頭が単純化していますよ。栗田玲子って、あなたを、そういう風に変身をさせたのですか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題5,『でも、こういう文章を書かれることは、伊藤玄二郎たちには、困るのです。だからこそ、海老蔵が家を売った話が、詳しく出てきたのかもしれません。で、そちらに戻ります。戻ることが敵さんにとっては、勝ちなのでしょうが、戻ります。

 私は正確な番地を知っているので、そこのストリートビューを見てみたら、確かに白い塀に囲まれている工事現場が出てきました。建蔽率は、60%、容積率は、150%です。となると一階に四戸で、三階建てのマンションが建てられます。全12戸で、各戸、二億円以上で売れば、24億円となります。でも、それじゃあ、借金との額が合わないので、各戸70平米を、三億円以上で売るのかもしれません。日吉の100坪の実家は、三分割されて、一戸、7800万円以上で、売りに出されました。あまり業者は、儲けていないと、思います。しかし、駅から徒歩15分です。バスを使えば、三分ですが、中目黒とは、格が、違います。

 それとも、借金は、すでに、相当額の返済を済ませていて、残るは、五億円程度だったと、仮定しましょう。希美子夫人や、娘さんの新しい住まい確保とか、そのほか、団十郎襲名の、必要経費の、見込み予算とかを合わせて、7億から10億円程度で、売ったと仮定すると、12戸のマンションは、各戸、1憶五千万円で、売れ、それで、採算が取れます。

 でも、いずれにせよ、希美子夫人には、身を切る様な、つらさだと思います。

@@@@@@@@@@ここが、書きかけ中の最先端です。

 この後、海老蔵の、【源氏物語・・・・最近版】が内包する問題点とか、海老蔵の団十郎襲名も、鎌倉エージェントが、行ったであろう、話とか・・・・・

 それは、私と知り合いの、歌舞伎通との、個人的なやり取りを、ハッキングをしていた、井上ひさしが、急に襲名を思いついたのだと、言う話だとか、

松竹は、海老蔵を奴隷扱いをしている話だとか、いろいろ、話題を、発展させていく可能性があるのですが、いったん、止めさせて、ください。数時間休憩を取らせてくださいませ。

 

 

******************

2021年(令和3年)6月16日 水曜日

千葉 NEWS WEB

千葉放送局 トップ

ゾウ2頭の死因 細菌による腸炎の可能性 市原ぞうの国

06月16日 12時26分

千葉県市原市の動物園「市原ぞうの国」で飼育していたゾウ2頭が死んで1か月がたち、病理検査の結果などから腸内から特定の細菌が見つかったことから、死因はこの細菌による腸炎の可能性が高いことがわかりました。

市原市の「市原ぞうの国」では先月中旬、6頭のゾウが食欲がなくなるなど相次いで体調を崩してこのうち2頭が死んで1か月となる16日、園内では死んだ2頭のゾウの死を悼み関係者がヤマボウシなどの植樹を行いました。
体調を崩した残り4頭のうち3頭はほぼ回復しましたが、最も症状が重かった1頭は点滴を受けるなど現在も不調が続いています。
動物園では死んだゾウの解剖や病理検査を進めるなど死因を調べてきましたが、これまでの検査で腸内の組織から毒素を作り出す細菌が見つかったことから、この細菌が異常に増殖して腸から出血する「腸炎」による可能性が高いことがわかりました。
この細菌はもともとゾウの腸内にいる細菌で、園では何らかの食べ物によって腸炎が引き起こされたものと見てさらに詳しく調べることにしています。
動物園の竹鼻一也獣医師は、「ゾウのエサは他の動物も食べているので、エサ自体に問題があったのではないが、詳しいメカニズムについて引き続き調べたい」と話しています。
また坂本小百合園長は「まだ大きなショックが残っていますが、残されたゾウを守っていきたい」と話しています。

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1978年の北久里浜での大詐欺事件が、2014年の豆腐屋うかいでの、私への罠を生起させた + 安愚楽牧場詐欺に、引っかかった友達

2021-06-13 23:23:50 | 政治

 このブログは、最初の総タイトルを【先週、豆腐屋うかいが、NHKに二度出てきたので、あれを書けと、言われたのかな? いや、書くなと言われたのかな?】としておりました。ところで、15日の朝、三時に、変更した新しい総タイトルの前半の部分ですが、旧・横須賀市の水道山が、ただで、在る数人の、人間の手に渡った、事が、大問題で、しかも、その裏側を私が知ってしまったことが、諸種の嫌なことを私が経験せざるを得ないと、言う形になっています。そこに建っている美麗なマンションの写真が以下です。

 これって、横浜都筑区の傾きマンションにそっくりです。しかも、たぶん鎌倉雪の下の、我が家のお隣さんが、日本三大設計会社の、重役にして横浜支店長として、両方とも設計をしています。しかし、その件を、今日は、相当に異なった切り口で、語っていきます。お歌を中心に語っていきます。この章で出てくる中島加奈子さんが、北久里浜まで出向いて来て、フィガロの結婚の中のアリアを歌ったケースでも、堤義明さんまで、協力しているのだと、詳細に語っていきます。

 しかも、大阪理財局の吏員、あかぎ俊夫の自殺は、嘘だと、言う点にも入っていきます。だから、政治の文章となります。

副題1、『本日(=21-6-13日の日曜日)、養老先生が、また、テレビ(=NHKBS1)に登場され===明治神宮の森の調査の番組ででしたが、アンナ・ネトレプコが、NHK ETV クラシック音楽館でミミ(ボエーム)を、歌いました。

 これは、両方とも、過去の私のブログを、否定する、番組です。そして、こういう番組構成にした、連中は、・・・・・思い知ったか、俺たちの権力の大きさを。お前さあ、いい加減に、ぶっ倒れろよ。そして、この地上から消えてくれ・・・・・と、言っていると、思います。

 で、そう願われているときは、逆ザヤを張ります。それで、その二つの番組を忌避せずに丁寧に、視聴をしました。養老先生の、神宮の森の調査については、文句のつけようがないので、「あ、そうなのですか」と、承るのみです。私が問題としているのは、ネコメンタリーから始まった、まると養老先生が、共演される番組内で、四か所か五か所、伊藤玄二郎と、井上ひさしが、養老先生を使役して、自分たちが過去に行った悪事の洗浄化を図ったと、言う点の事なのです。それも、サブリミナル効果を利用した、ほぼ、普通の人にはわからない微妙さがあったので、それを、ついているわけですが、そのブログ文に対する、復讐案として、養老先生の、表の仕事での偉さを、テレビを通じて、みせつけてやれっと、

 彼らが、言いたかったわけです。で、それに対して、抵抗しても仕方がないので、丁寧に、視聴はしました。

 さて、この同じ日曜日の、夜のNHK ETVで、だいぶ前から予告があって、アンナネトレプコが、主役をするボエームの映画化が、放映をされるとの事でした。私は、以前から、「どうしても、アンナ・ネトレプコはだめです」と言い続けています。最近ファンという言葉に代わって、押しという言葉が蔓延をしている模様ですが、押しの反対です。したがって、・・・・・どうだ。NHK ETVの、日曜日の、夜九時から、放映をされるんだぜ。お前負けただろう・・・・・・と、こちらも、言われているわけです。それも、「ああ、そうですか」というしかなくて、丁寧に視聴をしました。

 アンナ・ネトレプコが、出演すると、何の役をやっても、目に見えるのは、アンナ・ネトレプコ・その人なのです。今回は、貧しいお針子ミミですが、「この女性は、貧しいのだ」とは、全く感じられません。ゴージャスそのもので、華やかすぎるのです。ただ、映画なので、二幕目以降は、胸を隠し、ほぼ、すっぴん(または、病人メイク)でした。そこは、偉いとは、認めます。しかし、一幕目で、「違うでしょう」と、それに、これは、2008年制作の映画だそうで、今から、13年前なので、彼女は、まだ、細身です。

 日本人の美女を指す語彙として、水も滴るいい女というのがあります。その際、は、水ですね。しかし、アンナ・ネトレプコだと、溶けたバターがしたたり落ちていると、感じてしまいますので、私はだめなのです。

 しかし、丁寧に、録画番組を見ました。というのも、ミミの対象例として、登場する、はすっぱな女、ムゼッタだけは、特に彼女が歌う有名なアリア、ムゼッタのワルツだけは、聞きたかったのです。このオペラの中で、一番覚えやすいメロディは、これで、今度芸大に行って楽譜を、コピーさせてもらおうと、考えています。ただ、インターネットで、手に入れる仕組みもあるのですよね。

 また朝日新聞には、最後にテバルディの、「私の名はミミが、在る」と、書いてあったので、待っていたのです。1961年イタリアオペラ来日の際の映像と、在りました。が、オペラの舞台ではなくて、スピンオフとしてのガラコンサートで、歌ったのです。その時、テバルディは、すでに、高齢で、太っていました。しかし、バランスの取れた太り方で、オペラ歌手だものね。これが、普通なのでしょうと、言う太り方です。レナータ・テバルディは、中学生頃かな? 人生で、最初に気が付いたソプラノ歌手です。その後、ルネフレミングの、時代が、続いて、このプレミアムシアターで、見た、無観客の、プロミスとか、ミラノ歌劇場、ガラコンサートなどでは、新しい優秀なソプラノが育っている模様です。日本人としては、中村恵理とか、森谷真理とか、 まあ、あんなネトレプコは、お顔もきれいで、ゴージャスなのですが、どうしても、どうしても、うーんだめだと、なってしまうのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2,『ところで、テレビ番組を利用して、弾圧を受ける話の中で、豆腐屋うかいが、先週、二回もサブリミナル効果的に、使われた。しかも、両方とも、再放送番組だった。と言う事は、「あれを書かない様にね」という脅かしだと、思うのだけれど、それなら、逆ザヤを張らないといけない。で、それを書こう』

 二つの録画番組とは、美の壺(21-6-9)【白い宝石 豆腐】が一つ目と、11日の、【さんどのお風呂いただきます。増上寺篇】の二つです。美の壺の方は、まず、京都南禅寺近辺の、お豆腐から、始まります。そして、関東へ、移動する際に、トップ項目として、豆腐屋【うかい】が出てきます。増上寺篇は、橋本マナミが、安産祈願をしてもらうので、非常に前の放送ものだと、考えます。

 そう言うサブリミナル効果を与える番組が放映されたのは、豆腐屋うかいで、はられていたものすごい罠を、書くなという事なのだと、思います。無論、発案者は、井上ひさしで、実行者は、伊藤玄二郎で、伊藤玄二郎が、かねてから、よしみを通じていた、栗田玲子さんにあれこら、依頼をして、わなが、生成し、実行をされました。

 今まで、この件について、主要な人物として、坂本きっこさん、中島加奈子さん、宇都宮和代さんを上げてきました。だけどね、私が、本当に、問題としたいのは、例のごとく、CIAエージェントであり、もっとも、問題なのは、井上ひさしと、伊藤玄二郎です。

 彼らのやり口を語りたいのですが、しかし、彼らは常に隠れていて、表に出てくるのは、坂本きっこさんと、中島加奈子さんです。2014年の、豆腐屋うかいで、最も活躍したのは、宇都宮和代さんですが、

 その日の夜9時に私が、和代さんに、電話をかけて、「栗田玲子さんを知っていますか?」と言ったら、「知らないっ」と子供みたいな言い方で、大声で叫んだ、っ切り、電話を、向こうから切ったのです。

 で、彼女と、彼女の親友の二人は、向こうからは、連絡を切ってきています。それで、私も追及をしていません。年賀はがきも出していません。でね、このケースを書かないでもいいのですが、伊藤玄二郎が、引き続いて、ひどいことをしています。雪の下のご近所を使ってね。

 で、伊藤玄二郎(そして、その陰にいる、井上ひさし)を懲らしめるために,このエピソードを引き続き書いています。彼にとっては、富沢夫人も、関本夫人も大した存在ではないでしょう。しかし、坂本きっこさんの名前が出ることは、心が痛むはずなのです。

 どうしてかというと、医学書を出版したりしている伝統ある出版社冨山房の社長夫人です。彼女自身も、冨山房インターナショナルと、言う子会社を立ち上げて、ご主人の会社では、出版しない様な、分野の、柔らかなわかりやすい書物を出版しています。そして、何しろ地の利がいいです。会社は、神保町にあります。かまくら春秋社は、川名昭宣君(河出書房新社)に言わせると、一地方出版社じゃあないのと、なるのですが、彼が、そういう風にけなしたからこそ、二人は、相当に親しいのだと、感じました。親しいからこそ、わざと低くいったのでしょう。それこそ、養老先生を使役できるし、里見頓の、四男である山内静雄氏を、懐に取り込んでいますから、ずっと、大きいのです。川名君の方も大物なのですよ。wikipediaが、たっていないことこそ、CIAエージェントとして、大物であることを示しています。

  いや、すみません、今、一時間以上をかけて、上記二人の情報を探していました。しかし、やはり、さしたるものは出てきません。

 その上、坂本きっこさんは、天皇家と、非常に親しいのです。上皇様と、上皇后さまにとって、頼りになるのは、黒田清子さんです。黒田清子さんの、私生活の情報が全く守られているのは、・・・・・これは、全くの推察ですが、・・・・・坂本きっこさんの、自宅(塀の中の、マンション)にお住まいだからではないかと、考えているほどです。冨山房は、100年以上の歴史があるので、社長さんは、四代目ぐらいか、五代目ぐらいでしょうが、ご自宅は、きっこさんが、江戸時代からの文京区、住まいだし、「もしかすると、二人の結婚は、小中学校の同級生か? 上下の年齢の差はあっても、同窓生だったのではないですか?」というほどなので、ご主人の自宅の敷地もとても広いはずなのです。

 今、まだ、見ていませんが、依頼をしていないのに、東芝ブルーレイレコーダーが、【東大城下町、本郷】という番組を勝手に録画しています。これこそ、きっこさんの、実家が出てくる番組ではないかなあ? 赤門とは、非常に近いお宅ですから。後で、チェックします。

 その上、坂本きっこさんは、現在、お茶大付属高校の、同窓会の、主要な役目を歴任している人です。したがって、本日の様な文章を書けば、ある意味で、私の方が損になるでしょう。しかし、とても、大きな世界を俯瞰すると、きっこさんは、ああいうことをやってはいけないのです。日本がアメリカの実質的な植民地国家であり、原発を拒否できない、それこそ、破滅に向かっている国家であると考えると、きっこさんは、ああ、言う事をやってはいけません。

 まあ、とても説明が難しいが、いろいろ、トライしていきましょう。

 特にお歌に関して、小学時代の、同級生のケースを語るつもりです。こちらの友人は、うわさによると、「どうも、精神病院に入っているそうだよ」と、言う話なので、KHYと、イニシャルで、書きます。その人がお歌について、利用をされ始めたのが、2014年の豆腐や、鵜かいでの、わなよりも、さらに古い時期のお話ですが、『それが、成功した』と、井上ひさしが考えていたので、豆腐屋うかいの罠も、企画をされて、実行をされたと、考えています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『小学生時代の、お友達の話を、高校の同窓会の話より、先に書こうか? KHYちゃんは、真っ正直な女の子で、そのレベルがあまりにも深いので、心配なほどだった。それゆえ、悪人に、乗せられやすい、性格の女性であると、考えた方がいいだろう』

 私は、1998年にパリに、在外研修生として言ったわけですが、昔から、いろいろな人に言われていた、日本人離れしていると、言う雰囲気と、日本では、島田章三さんが、北久里浜の大詐欺事件以来、私が、画家として生きることを、妨害しているので、(国画会に、出品をしなくなると、それ以降は、野見山暁次さんが、その役目を果たすようになります)道がふさがれていると、感じていました。しかし、外国には、その魔手は、及ばないと考えていましたし、当時、2400万円の貯金があったので、外国で、活動をしたいと、思いました。そのためには、それを理解しないし、許さない、家族から、まず、自由になるために、逗子の貸マンションを借りて、アトリエを作り、一年で、三か月だけ、海外で、暮らす生活を始めようと、考えました。どうして、行きっぱなしにしなかったかというと、ビザ取得が面倒だからです。58歳過ぎて、就労ビザとか、就学ビザを取るのは、面倒です。観光ビザで、三か月滞在して、猛勉強をして、後の9か月を日本で、過ごしながら、先ほどの三か月分の、復習をして、身に着けると、言う発案です。

 しかし、それが、挫折したのは、大変な病気に二回なってしまって、そのうちの激痛を伴う方を治してくれたのが、主人だったので、『これは、「家にいなさい。主婦業と、母親業をしなさい」と、言う神様の、お指図だろうと、考えて、世界に通用するアーチストになる夢の方をあきらめたのでした。しかし、三年弱ですが、逗子で、一人暮らしをしたおかげで、現在のブロガー生活も確立したのです。

 女性だって、本当に勉強するのは、一人がいいのです。夜も昼も一人。その方がいいのです。深い深い集中ができますので。ただね。ときどきは、息抜きとして、電話をしました。特に、夜。これで、いろいろな友人関係が復活して、大変な勉強も致しました。この二つは、鎌倉の家に、ずっといて、主婦業をしながらでは、獲得ができなかった、能力と知恵です。世界的アーチストにはなれなかったが、ブロガーにはなれた。それで、いいんだと、自認しています。

 その復活した友情の、一つが、日吉の日吉台小学校、六年三組時代の、同級生との、関係です。しかし、敵さんは、虎視眈々と、すべての機会を利用してやれっと、考えていますので、その蜜月的、友情にも、この20年間に、6回を超える、敵さんからの攻撃がありました。

 そのうちの一つが、私のお家芸である、歌を歌うことを、横取りして、自分が、主役に打って出る人が現れたのです。私がパーティで、歌を歌うことを、他人に、勝つための、自己顕示欲だと、考える人は多いみたいです。しかし、違うのですよ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『アーチストって、並みの人間ではできない仕事です。草間彌生が、ニューヨークでの最初の個展【千のボートショー】で、真っ裸で、画廊の真ん中に立って、取材をさせたのを、皆様は、ご存じですか?

 アーチストって、並みの覚悟ではできないのです。最近、渡辺幸子さんのことをあれこれ、書いていますが、彼女は、時間を絵を描くことに割くと言う事に関しては、もう、100%のプロです。しかし、絵を描くことを、出世の、一つの道だと、考えているところがあるのです。それが、おかしいし、ニューヨークにいる版画家のよよ(通称である)と、似ているので、私としては、嫌ったり批判をしたりするところとなっています。面と向かっては、批判は、言葉では、しませんよ。

 でも、よよは、私の批判をわかっていたでしょう。だから、いじめてきたともいえるのです。もう一つの理由は、よよなど、一年に一作しか作りません。でも、夫が金髪で、作曲家です。だから、お金が稼げないので、私に利かせるのは、いつも彼の悪口ばかりですが、日本に帰国する際は、その夫を伴うので、酒井忠康氏など、ころっと騙されて、大変良い賞を与えるのです。神奈川県展でです。で、神奈川県立美術館に作品を収蔵をされます。それを足掛かりにして、栃木県でも、美術館関係では、大きな顔をしているらしい。

 ただ、私に言わせると、よよの旦那って、背が150cmぐらいの男性です。くる病ではないでしょうし、脊椎カリエスでもないでしょう。だけど、異様に背が低い。それは、親子関係で、抑圧があったからだと、私は考えています。ラフマニノフ程度の、有名な作曲家にしようと、母親が、考えたから、少年期に体が育たず、それで、あれだけ、小さな体格になったと、考えています。だから、アメリカ国籍を取りたいから、自分から、そちらに、近寄ってきた、よよと結婚をした。よよ以外、結婚する相手の見込みがなかったからでしょう。

 こういうことは、ニューヨークに住んでいると、つぶさに、感じ取ることができます。ニューヨークに住んでいる女性・日本人・アーチストが、すべて、よよみたいな人格ではありませんよ。もっと、静かで、内向きで、心の中を覗き込みながら、制作をしている人もいますよ。だけど、よよは、どうも、日本では、雑誌の編集をやっていたみたいで、それで、自分以外の他人をバカにする、性格になったみたいです。大部数の市販雑誌って、一般庶民を小ばかにする精神でできているのですよ。ただね、ニューヨークに来たのは、日本で、何らかの失敗か挫折があったからであろうと、推察しています。だから、すごく計算高いです。出世するための、方策については、意識を張り巡らせています。しかし、歩アレスと、言う版画家が、飢え死にしてしまう、原因を作ったのは、よよです。版画工房に、使用料を支払わないで、済む、様に、よよが作ったモニター制度が、災いして、版画工房が、つぶれたからですよ。歩アレスが飢え死にしたのは、毎月六万円(500ドル)を支払っていた私が帰国してから、たった、9か月後でした。2001年です。59歳でした。

 よよが私を憎んだのは、私が彼女たちと比較すると、信じがたいほど、お金持ちだったからです。

 ところで、渡辺幸子さんが、出世を望み、それを美術という形で、実現しようとしたのは、国際基督教大学の、教育方針が、世の中よりも、20年ぐらい進んでいて、成果主義だったことも影響しているでしょう。それと、もうひとつ、彼女は大学を中退しています。それは、石塚雅彦さん等の、お手伝いと支援によって、卒業資格を(いつごろか? 2005年ごろか?)与えられているのですが、私が付き合っていたころは、彼女は、そのことで、悩んでいました。でもね。どうも主体性もないのです。どうしたの?と、言いたいほど、絵を描く方針について、信念がない。例えば、湘南信金、鎌倉支店の三階で、薔薇の花の絵を中心の個展をした時も、田沢先生一派に知られると、困る。こういう具象画を描いていると、知られると、困ると、悩んでいました。私は不思議で、「いいのよ。だって、すごく出来のいいのがあるわ。きれいだし」と、言っていました。私は誰も先生というのが居ません。それでも、国展とか、女流展とか、毎日展に、神奈川県展に、入選していたから、どうして、先生や、仲間に、それほど、おびえないといけないのだろうとは、思いましたよ。

 だけど、今、新制作の会員名簿を見ていたら、他の会、国画、独立、女流のすべてを上回って、サイトが、充実していて、桜井陽子さんが、会員になったのが、2000年だと、出ていました。丁度、私がニューヨークで、二度目の修行をしていたころです。だから、知らなかったのです。その上、このサイトが、ずっと、私のパソコンには、表出しませんでした。平木さん一家にも、私のブログが、表出しないのだと、思います。

 それから、渡辺幸子さんが、国際基督教大学出身の、有名人を集合したサイトで、インタビューを受けています。文字化すると、1万字から、1万5千字のもの。ほかにも数十人分があって、渡辺真理さんが、インタビューをしているサイトですが、今は見えません。

 そのうち、ほとぼりが冷めたら、復活するでしょう。その中で、渡辺幸子さんは、卒業していないのに、こういう扱いを受けてうれしいと、言っています。ところが、次に開いた時には、そこは、削られていました。まったく普通に卒業をした人となっていました。

 私は幸子さんや、よよみたいに、社会的システムを、利用して出世する(受賞とか、美術館収蔵)を狙わないのですが、しかし、アーチストは、普通にしていてはだめだと、考えているのです。

 草間彌生は、ニューヨークでの初個展の際には、真っ裸で、画廊の中心に立って、取材をさせています。あの人は、これまた、直接に長電話を交わしていますが、計算高い人ですよ。ものすごく計算高いです。でも、自分を裸にするというのは、精神的にあっているのです。

 創作者とは、自分を世間に向けて、打ち出さないといけない。または、自分の肉体的、または、精神的裸を、見る人に見せないといけない。というのは正しいのです。だから、このブログでも、損を承知で、文章を書いているわけです。

 しかし、同窓会とか、言う、社交の場に、パソコンを持っていけます? そして、参加者に、30分ぐらいかけて、このブログを読んでもらえますか? もらえません。しかも、奇特な人がいたとして、たった一人が相手です。効率が悪いですね。じゃあ、油絵を持っていきますか? 私の絵は、抽象画です。普通の人が、あら素敵ねと、言うかどうかはわかりません。

 一方でお歌は、圧倒的に、好評なのです。特にマイクがあって、日本の歌を歌い、歌詞もきちんと付けて歌うと、やんやの喝さいです。30代で、横須賀の中華料理店で、PTAの打ち上げで、春日八郎の、【長崎の人】を、1976年に歌ったら、やんやの喝さいでした。1997年ごろ、茂原市で、開かれた、今関一馬先生の、大個展で、【琵琶湖周航歌】を歌ったら、これもやんやの喝さいでした。ところが、ICUのクラス会で、日本語の歌を歌ったら、バカにされてしまいます。歌謡曲なんて、庶民のものです。下等です。と言いう世界だから。お茶代の、付属高校も同じです。しかし、ビートルズなどの最近のお歌は、得意ではないのです。音域がソプラノだから。で、まあ、オペラアリアを、歌詞抜きで歌うと、言うのがレパートリーでした。イタリア語の歌詞まで、覚えていたら、美術家としては、負担が大きすぎます。それこそ、上で、あげているムゼッタのワルツなんて、パーティ余興としては最高です。

 豆腐屋うかいでの罠とは、きゅに席替えが起きて、私の直前に、中島加奈子さんが、歌ったのですが、それが、なんと、日本語の歌詞付きの、日本製クラシック歌曲だったのです。しかも、加奈子さんが作曲をしたのですって。三分以上の長さにわたる、堂々とした歌いっぷりでした。私は普段歌詞を覚えないタイプだから、急に歌わないといけないとなったら、NHKみんなのうたの【雨降りクマの子】ぐらいしか、歌えません。つまり、私は、負けたわけです。

 しかも、これ見よがしの手順が組まれたので、みんな私が罠に引っかかったことはわかったと思うのです。

 中島加奈子さんって、幼児の私立小学校(例えば、双葉とか、慶応幼稚舎とか、お茶大付属小学校とか)の、お受験塾を、経営している人で、上智大学卒なのです。彼女は、まだ、生きている井上ひさしと会って、あれこれを教唆されていたのではないかしら。ああ言う風に強気に出る人ではないからです。普段はね。

 というのも、これをブログで、書いたのちに、北久里浜の我が家(旧宅)の西斜め前の、石川さん宅(その時は空き家であった)に、彼女は、のしてきて、モーツァルトのフィガロの結婚から、【ケルビーノのアリア。恋とは、どんなものかしら)をイタリア語で、歌ったのです。三多摩に住んでいる彼女が、私が、鎌倉の家を出たとたんに、いや、鎌倉駅を、久里浜方面に向かって、電車に乗った途端に、三多摩の家を出て、二時間以上をかけて、北久里浜に待機していて、私がお庭に出たら、ケルビーノのアリアを歌って、「どうだ」と、負かすのですって。

 いや、二日前から、待機していたのかもしれません。平木さん一家が、4月11日の日曜日の午後、自宅を出発して、東京のどこかのホテルに泊まって、武道館で、行われた東大の、入学式に次の日の、12日に、参列した様に、前日から、汐入のプリンスホテルに入って、待機していたのかもしれません。というのも伊藤玄二郎とか、井上ひさしと、通通な、石塚雅彦さんは、堤義明氏と、いとこ同士だと、思いますから、プリンスホテルをただで、使えるわけです。汐入のプリンスホテルが、満室であるはずもないし。

 それにその当時は、気が付かなかったのですが、我が家の会話は、盗聴をされています。で、前日から、私は、「明日北久里浜に行きますよ」と、主人に、言っていたかもしれません。とても嫌な形での、泥棒が入るので、できるだけ、一人は、家に残っている様に工夫をするので、夫婦間で、外出の予定は、必ず、知らせ合っています。

 その上、清泉小学校の上級生の(とても太った背の高い子が)カソリック雪ノ下教会そばで、追い抜きざまに、「逮捕するぞ」と、どなって去っていった日も、同じですが、安野忠彦・智紗夫妻のどちらかは、私の外出を目視で、確かめたのちに、それを警察に知らせるのだと、思います。

 この看板は、13号が安野家の前、14号が前田家の前に立てかけてあったものです。これを見ても、日本の警察が、CIAエージェントの指図を受けていることが分かります。

 特に木曜日の午前九時までに、北久里浜に行って、草を抜いたごみを捨てたいというのが、夫婦共通の認識で、それをするのは、月曜日か木曜日なので、私は、時々ですが、木曜日に行っていたと思います。石川邸の東斜め前には、仲野通巳吉という、すごい人間が一族三人で、住んでいます。以下の豪華なマンションは、今の名前をルネ北久里浜と言って(売り出し時、そらヒルズ)、旧水道山を、ただで、私有化した瀬島龍三が建てたものです。ただで、と言っても、地積変更届というのを利用しています。

 瀬島龍三は、元陸軍参謀ですが、友人(親友といってよいのでしょうね)益山重夫が、労働をして、水道山に、果物の木を植えて、自分の果樹園だと主張する、地積変更届というのに力を貸しました。しかし、その書類の我が家部分の、急に青地というものが設定されていたので、驚いた私は、いろいろ、調べまくることになって、事件の全貌を知ることとなりました。それが、私が種々の嫌な思いをする、一番の原因となっています。青地は、江戸時代までは、両側の地主の緩衝地帯といて樹木も植えず、野菜も作らないと、言う空白地でしたが、今では、国が管理することになっているのです。財務局が扱います。大阪理財局の、赤木俊夫、自殺というのは、作られた嘘です。私に北久里浜で、起きたことへ触れないで、欲しい。という脅かしです。

 理財局なんて言う部署は、財務省には、無いのです。で、大阪財務局の同僚たちは、何だろうと、思っていたと思いますよ。やまゆり園事件で、19人死んだというのも嘘ですし、京アニ放火で、36人死んだというのも嘘です。京アニの方は、今沈静化していますね。それは、菊之助、および宮崎駿、および、渡辺万由美、および、渡辺が、世話をしている、木村佳子、菅田将暉など、大勢が、からんできているので、うかつにニュース化できなくなったのです。

 私のブログは、私に知らされる数よりもずっと多くの人が読んでいるでしょうから、うかつに、青葉真司などを、取り出せば、NHK、および、各放送局の娯楽番組など、全滅しますよと、言うことに繋がります。オリンピックに続いて、各民放局の娯楽番組が、全滅すれば、国民の暴動が起きかねないですからね。バスティーユの暴動みたいになっちゃうでしょう。国民の目を、覚まさせないためには、ゲームをやらせたり、ドラマに集中させることは大切だからです。居酒屋で、飲めない上に、テレビという娯楽もないとなれば、暴動が起きるかもしれません。で、テレビのタレントが、テレビに出られなくなると言う事。それが、起きれば、オリンピックに引き続いて、庶民の満足度が、壊滅的になるはずですから、それを強行すれば、バカの極みとなります。ジョン・ロックフェラーに、井上ひさしと、伊藤玄二郎は、叱られることになるでしょう。

 さて、今、2021年では、ここまでのことがわかっているわけですが、そのお歌を最初に聞いた時は、これは、北村充子さんが、歌っているのだろうと、推察しました。北村さんというのは、北久里浜から京急で二つ目の駅、堀之内を最寄りとする女性で、「在日の出自があるので、中学生の時から担任を誑し込んで、結婚にもっていったほど、ものすごい、計算高い女性よ」と、聞きましたが、その通りで、私は、1985年の夏に彼女の家で、大変ないじめに出会います。私は、その時には、何も反論をしないし、喧嘩にはもっていきませんが、26年もたってから、あれこれ、書きますので、その例に倣うと、「平木さん大丈夫ですか?」と、言っておきたいです。私は、天に見守られているので、後、20年生きる可能性はありますよ。

 さて、北村充子さんは、音大を出ていません。でも、根岸小学校、PTAコーラスの指揮者兼指導者の、任務についています。根岸小学校の管内には、音大卒の女性は、何人もいるでしょうが、彼女ほどの、人たらし術は、持っていないので、あなたどうぞ、おやりになってくださいませね」と言う事になっているのだろうと、思います。

 私は、三多摩に住んでいる、加奈子さんが、北久里浜まで、出しゃばってくるとは、夢にも思わないので、北村充子さん、もしくは、その娘さんが歌っているのだと、思いました。北久里浜駅前には、ロータリーがあって、数台のタクシーが必ず、いるので、それを呼んで、堀之内の家から、くれば、私が、鎌倉の家を出てから、行動を起こしても、十分間に合いますし。

 でね、北村さんだったら、嫌な人としては、嫌な人ですが、私は、もう、歯牙にもひっかけないと、言うほどに問題にしていないのです。というのもどこかで、一文を書いていますのでね。文章に記録してしまうと、私の中の怒りも、恨みも消えてしまうのです。で、その人がいい声で歌うと、こちらも当然に、共鳴するわけです。で、私も歌いだしたのですが、超いい声が出るのです。ケルビーノのアリアは、どちらかというとメゾに近い音域です。しかし、私は、コロラチュラと、言ってよいほどのソプラノだから、相当に選ぶ歌が違うのです。しかし、ともかく、楽しくなって、30分近く歌いました。つまり、断片だけですが、15曲程度歌ったでしょう。私はテノールの持ち歌も好きだし、ありとあらゆるお歌を知っているのです。それを6月の鶯が歌う様に、ちゅるちゅるちゅるっと、または、ぴーぴろぴーぴろぴはゃらひゃらと、自由自在に、跳ね飛んで、歌うんですよ。

 すると、加奈子さんは、自分が誤解をしていたと、気が付くのでした。しろちゃんは、天性の歌い手なのです。しろちゃんとは、それは、高校時代からのあだ名で、礒部さんなどと呼ばれたことはないです。結婚して、川崎姓になっても、その名前で、呼ばれたことはないです。

 しろちゃんは、天性の歌い手で、天性の絵かきで、天性の、文章書きです。それらは、全部、注文を受けたわけではない。それから、名誉や、お金と関係がない。でも、体の内側からあふれ出るもので、だれも止めることができないのです。

 加奈子さんには、それが、わかったでしょう。それで、2016年のクラス会の時には、加奈子さんの態度は、違っていました。ぐっと柔らかくて、普通のものでした。しかし、あの2014年の、豆腐屋うかいでの、罠にかかわった、和代さん、きっこさん、じゅうもん、それから、庸子さん、それからその時の罠に、協力したかどうかは知りませんが、以前から、伊藤玄二郎と、話を通じていて、その時も、一種の、笑いを含んで、わなに引っかかる私を、面白そうに、見ていた、美都子さんも来ていませんでした。

 2014年に戻ります。7月にメールで、クラス会の詳細な、お知らせが来て、宇都宮和代さんは、丁寧で、親切でした。だけど、クラス会当日は、鬼の様でした。冷徹に、準備していた手順通り、席替えをして、私の前に、加奈子さんが、歌う様に持ってきました。そして、素晴らしい紹介の言葉とともに、加奈子さんが、歌い始めたのです。

 彼女の歌が始まって、10秒もしないうちに、これが、わなであることが分かりました。で、加奈子さんが、3分近く歌って、着席をした後で、どう出るかを加奈子さんが、歌っている間に決めました。敵さん(=井上ひさし)が、狙っているのは、私が、加奈子さん、または、宇都宮和代さんに、怒りをぶつけることでしょう。どうして、わなにはめたのよと、怒りまくる事。でも、それはないです。次には、何が想定されているかですが、いやあ、負けました。と、言って、自分の方は、歌うのをやめるかです。でもね、私は、あまりにも度肝を抜かれたので、そこまでのセリフを吐く余裕がなくて、「いやあ、びっくりしました。ちょっと度肝を抜かれたけれど、最近、パーティでは必ず、歌うことにしているので、トゥランドットからと、言って、短いフレーズを歌いました。が、むろん、びっくりしてしまって萎縮をしたので、つまらない表現になりました。そして、2018年にも、上記の人たちは、来ませんでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題5、『小学校時代の、友達、KHYちゃんについて触れていきたい。彼女は、医者になろうとしたと、言う。だが、普通医学部に、不合格だったら、そちらに、方針変換をすると、言うそういう別の学部があるが、そちらの大学も出ていない筈だ。で、そちらで、成功すれば、医学部落ちちゃってねは、冗談として片づけられる。しかし、別の道で、成功をしていないのに、医学部不合格を堂々と、話すのは、おかしい。どこかで、話が、変だった』

 私は小学時代は、あだ名がなくて、千恵子ちゃんと呼ばれていました。でKHYちゃんは、58歳にして、46年ぶりに、再会したときに、はしゃいではしゃいで、千恵子ちゃん、千恵子ちゃんと、私を独占、せんばかりでした。ところが、医者になりたいと、言う話が出て、しかも、それは、どうも不合格だったらしくて、医者には、なっていないのですが、普通、医学部と、併願する学部も出ていない模様でした。獣医学科とか、勘が学科というのがあります。しかし、そういう方面の実務の話は出てきませんでした。不思議だなあと、思いました。普通不合格だったら他人に言わないですよね。でも、医者とは別の道で、うまくいっているのだったら、それは、それで、いいのです。ただし、ご主人はいない様で、一人娘である、お嬢様とは、うまくいっていないみたいです。お金は、日吉の、実家を売ったので、大金を持っているという形でした。

 私は誰からも、お姉さん役を与えられる人なので、彼女からも頼られ尊敬されている感じを受けました。ただね。ほかのお友達は対等なのに、この女性からは、過剰に尊敬をされていると感じました。ただね。彼女は背が低いのです。150㎝ぐらい。で、ちょっと、妹みたいな感じだなあと、思って、それで、やっていくかと、思いなおしました。

 しかし、三回目ぐらいから、手のひらを返した様になって、彼女は私のお株をうばったみたいに、私の前に、歌い始め、しかも、堂々と、長い時間歌いました。それは、中島加奈子さんにされたときよりも、ずっと前の事でした。十分に美しい声で、十分に情感豊かでした。

 私は、その日は、「KHY子ちゃんが、歌ったから、今日は、私は、やめます。KHY子ちゃん、上手だったわね」と、豆腐屋うかいでは、あまりにも悪意が明瞭だったので、歌いました。委縮して変な声だったのですが、そこで、歌わないと、負けたと言う事で、栗田玲子さんなどが、銀座で、どんないじめをさらに行ってくるか、目も当てられないことになるのが、必定でしたから。

 しかし、小学校のクラス会に、それほどの悪意ある罠が貼られているとも思っておらず、KHY子ちゃんをたてて、その日は、自分は歌いませんでした。すると、KHY子ちゃんが、「私はね。今、とても、有名なボイストレーナーについているの」と、言いました。

 その時、広島で、日本ペンクラブの会員になって、その後、二人の子供を二人とも医者にして、「今では、奥様ではなくて、大奥様と呼ばれているのよ」と、電話で言っていた、横浜時代のママ友と、とても似ていると、思い当たりました。

 その人は、鴨居駅最寄りの、東本郷住宅に住んでいたころのまま友ですが、二言目には、「私は短大卒で、幼稚園の先生だったの。あなたは、ICU卒だから、全然違うわ」と言って尊敬してくれていたのに、広島へ、行ったら、急に手のひらを反すように、私の方が上よと、言う態度を示した人でした。彼女のご主人は、外語大卒だったので、1970年代という、日本国中にほとんど、存在を知られていなかった、ICUのことをよく知っていて、尊敬しまくってくれていたのです。そして、横浜鴨居時代には、文章を書くことにも興味はなかったはずなのに、広島では、同人誌に、寄稿をしていると、言っていました。

 私は、自分が親しくしている人が誰かから、ご褒美を与えられて、それをきっかけに裏切ってくると、言う形を、この日本ペンクラブの会員になった、鶴見の短大卒の、ママ友と、それから、どこの大学を出たかをも、言わないが、一流のボイストレーナーに指導を受けていて、見事な歌を歌う、このKHY子ちゃんは、そっくりで、二人とも裏に、誰かがいるのだと、思います。

 ペンクラブの方は、井上ひさしが、広島在住の誰かを指導して手配をしたのだと、思いますが、ボイストレーナーの方は、だれが動いたのかは、わかりません。ともかく、KHY子ちゃんは、すっかり、威張りかえる様になりました。私を目下に見る様になりました。

 私は、それにもかかわらず、頑張って、六冊目の本【おばさん、おつりを忘れているよ】を、出版しました。

 これが、郵便で、送ると届かないのです。それで、仕方がなくて、いちいち相手の家に届けに回っていました。KHY子ちゃんは、「日吉駅から、徒歩五分圏内の旧宅を売って、大金を得たので、もう、老後は大丈夫」と言っていました。で、改めて、新しい住所を見ると、横浜市営地下鉄、ブルーラインの、日吉駅から、二つ目の駅の最寄りみたいです。

 で、日吉近辺の誰か彼かに本を配ったのちに、夜八時になって、ブルーラインに乗ろうとしました。しかし、KHY子ちゃんは、ご主人がいないのです。お嬢さんも入院しているとかで、一人暮らしの筈です。そうなると、いつ訪ねても大丈夫ですが、自宅を、訪ねて、話をするよりも、近所の喫茶店で、話し合いたいと、願いました。あ、ごめんなさい。ちょっとま違いました。彼女が住んでいる町まで、ブルーラインを利用して、すでにやってきていたのです。でもね、全く知らない街だから、駅まで、来てほしいと願いました。私の方は、鎌倉から出向いているのです。

 あの打ち解けて、慕い寄ってきた時代を思うと、また、日吉台小学校卒の友達のすべての、普通の日の態度を思えば、それが、普通の出来事でした。ところが電話をとった彼女は、ものすごい剣幕で、怒り出しました。「私ね、今、そんな気分ではないのよ。だって、500万円損をしたんですもの」と、言いました。私が、ちょっと驚いて、無言でいると、「安愚楽牧場に、投資をしたのよ」と言いました。

 私だって、お金の使い方については、息子とか渡辺幸子さんに叱られています。しかし納得をしているというか、その時は、そうせずにはいられなかったお金です。父が不労所得はだめだよと、よく言っていました。だから、銀行の定期が、100万円預けて、100円ぽっちであっても、ある程度は、銀行の定期として、保存をしてあるし、常に財産三分割主義を守っています。

 今、このパソコンに、esetというセキュリティソフトが入っているのですが、どうもマカフィーが、削除されていないらしくて、困ったことがあります。そういうことは、阻止できないし、予防ができないのですが、それ以外は、慎重です。母親は、実の父が、旧姓商業中学の校長を、40年も勤務していた秋山某氏です。母の家からの、養子縁組をけって出て行った祖父でしたが、母は、遺伝的に、その血を引いているので、三億ぐらい、運用していたけれど、「人生を、総合すると、トントンみたいね」と言って、いました。

 そして、私にもいろいろな教訓を残してくれています。メルマガ時代には、今の様に、実名を挙げて、あれこれを書いてはいませんでした。それで、ビジネス社会で、相当な地位についている人から「見事だね。経済の専門家ではないのに、全く正しいことを言っているよ」と、言ってもらいました。

 KHY子ちゃんも、私と仲良くしていて、メルマガを受け取る立場だったら、絶対に安愚楽牧場になど、だまされないでしょうにと思いました。

 しかし、どうしようもないのです。せめて、本を受け取ってくれれば、または、メルマガを、読んでくれていたら、打開点も見つけてあげることができたのではないかと、思います。このブログを読んでもらえばわかりますが、私の生活は、楽なものではありません。500万円を、なくすのも、大変ですが、私の毎日も大変です。だけど、ここで、急にわかりました。同窓会には、盗聴が、かかっていたのです。それで、慕い寄ってきているからこそ、彼女を裏切らせることに、面白みを感じたのでしょう。悪意の塊、井上ひさしの、せいです。

 もう、20年間クラスが続いていますが、彼女が出てきません。で、どうしたのかねえと、言うと誰かが、頭を指して、「病院に入っているみたいだよ」と、言いました。「ウーム」というほかはないのです。井上ひさし、の、悪辣さをしみじみ感じています。お歌を、加奈子さんに歌わせる罠は、このKHY子ちゃんのケースが、成功したと、思っているから、行ったことでしょうし。

 徹夜で、書きました。今から寝ますね。雨宮舜(本名 川崎千恵子)

 

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千代田化工、日揮襲撃事件、周庭開放

2021-06-12 15:54:10 | 政治

 この一文ですが、いったん閉じてから、五時間後=13日の午前二時に、お断りを文末に入れました。どうしてかというと、6飛日間気が付かなかった、井上ひさしからのコメントを、本日、気が付いたからです。で、お断り(青いフォントで、書いている)を先にお読みいただいて、本文にお入りいただきたいと存じます。

以下の文章に対して、随分、大きく出ているなあと、お思いの方もあるでしょう。でもね。シーシェパードは、私狙いですと、言って詳しく書いたら、シーシェパードの活動が、終わりました。と、書くと、また再開するかもしれませんが、ここ数年静かですよね。ですから、私は、非常に大物なのです。しかし、こういう風に書くと、また、まだ、生きている井上ひさしがコメントをよこすだろうと、思いました。誇大妄想だとか、関係妄想だとか、言ってくるでしょう。それで久しぶりにコメントを、検証したら、ずっと前の文章【=2012年の文章)に引っ付けて、結構長いコメントを寄せていました。

養老孟子先生が、歩いて、病院へ行って、急に集中治療室に入ることになったと、言う3月12日放映んという、ネコメンタリーの変異体4【正式なタイトルは、毎日養老先生、ときどきまる】を、報道すると予告していながら、急に、引っ込めたのは、うんぬんかんぬんと、言うブログ(あと注2)を読んで、『これは、攻撃しておかないといけない。養老先生に、申し訳ない』となって、激しく攻撃をしてきた模様です。もう彼の、一一の行動は、手に取る様にわかります。

 そして、たばこを擁護する養老先生が、なんと、この受動喫煙運動を発案し、実行をしている、いのうえひさし+伊藤玄二郎の、家来になっておられることを、証明されてしました。

 なんと、いやなことで、あろうかと、思いますが、かれらが、この世に存在する限り、こういう嫌なことは続くので、「あ、そうですか」と、言うしか、私には、対処する方法がありません。

あと注2,

朝日新聞のラテ欄には、養老先生の番組があると言って居るのに、急に九時に中止。その本当の理由は私が真実を書く筈だったからでしょう?

2021-06-05 20:56:45 | 政治

 

副題1、『根岸英一博士の訃報に接するだけでも、私は、自分の人生を俯瞰照覧できるのだが? ところで、根岸英一博士の叔父だと、私が確信をしている根岸譲治博士は、石油プラント製作企業に、勤務していた。もちろん、すでに亡くなっていると、信じるが? なお、2013年の1月に起きた、日揮襲撃事件の企業、日揮も石油プラント製作会社である』

 安倍晋三総理大臣が、2012年の暮れに、第二次内閣総理大臣となって、組閣をして、1月に入って、外遊をしました。その矢先に、アルジェリアで、日揮襲撃事件が起きました。

 その時点では、安倍総理大臣は、CIAを擁するアメリカの中枢部に、危険視されていたのです。だから、インドネシアで、国家的歓迎行事を受けている様子を、NHKは、報道をしませんでした。しかし、こういう時は、民放のニュースを見ます。で、安倍総理大臣が、インドネシアで、日本でいえば、宮中晩さん会に当たる行事に参加している映像を見ました。

 でも、NHKが、それを一切報道しないのは、安倍総理大臣がアメリカ側に、ひどく警戒をされているのだと、私は、気が付いています。しかし、三月ごろ、テレビ朝日のニュースステーションで、長いインタビューを受けられた時から、一転、変更があったのでした。誰が、安倍総理大臣に、変節をさせたのかは、知りませんが、谷垣禎一氏と伊藤玄二郎あたりだったかもしれません。

 <<かも、知れません>>と、婉曲な言い方をしていますが、ほとんど、事実に近いでしょう。今、私が問題としている、鎌倉エージェントと呼ぶ人たちは、その程度の力を持っているのです。朝日新聞とテレビ朝日も、大きな力を持っています。酒井忠康氏は、朝日新聞の顧問ですしね。

 2013年1月16日にこの襲撃事件の第一報が入った模様です。その後延々と、続報が続きました。そして、今、ウィキペディアが立っているし、一応ですが、正式な報道記事(例えば、日揮社長の、記者会見)などが残っているので、

 保美容疑者(または、保美死刑囚)が、起こした、徳山市の、限界集落での、五人惨殺事件や、

 スタップ細胞疑惑などとは、違って、鎌倉エージェントが、発案をした謀略ではない、・・・・・と、そういう特徴がみられます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『日揮襲撃事件が、謀略であると感じたのは、アルジェリアの砂漠を歩く、つながれた人質たちを、ヘリコプターが撮影した。その映像が、ホリエモン収監時と、そっくりだったからだ。

 ニュースに嘘が含まれている場合、それを、一般庶民に真実だと、信じさせるために、ニュースは、炎上型に盛り上げられる。その一手法として、ヘリコプターによる映像が、よく用いられていた。最近は、それが、終わっているが、その理由は、三鷹ストーカー事件時の、ヘリコプター映像が、私のブログの重要なアイテムとなったからだった』

 副題2の二重ガッコの中は、自制的に、先へ進んでいます。が、2013年に戻します。あの日揮襲撃事件が起きた当時、・・・・・ああ、これは、謀略であろうなあ・・・・・と、感じました。何をもって、謀略というかですが、イスラム過激派、そのものが、CIAの支配下にあるからです。イスラム過激派も、クラスは、6段階ぐらいに分かれていて、そのトップの陰には、CIAがいるのです。

 習近平の陰にも、(フリーメーソンの形でか? どういう形でかは、わかりませんが)、CIAは、います。それが、中国艦船の、尖閣諸島近辺出現に現れています。これは、私のご近所住人、安野智紗夫人の次男様が、海上保安庁に勤務をしているからです。

 そのお子様は、おなり中学での成績が、通信簿に、1と、2しかないと、言う形で、有名なお子様だったのです。「おいちに、おいちに、の、あひるさん」と、呼ばれていました。ところで、安野智紗夫人というのは、彼女の主催する井戸端会議のせいで、我が家の花畑(私道部分)が、35年間にわたって使えないことになった、恐るべき悪女さんです。でもね。だからこそ、優遇をされています。

 1986年に、わざと聞こえる様に、石川和子さん(伊藤玄二郎の愛人である、陶芸家)が、私にわざと、聞こえる様に、「国立大学付属高校ご入学おめでとうございます」と、言っていたので、石川・安野連合軍は、私を、下に置いたという風に、大喜びをした模様ですが、そこから、習近平の国家施策(艦船の尖閣諸島近辺への、侵攻)の真実がわかるので、(いつも言っている通り、事は単純ではなくて、鎌倉エージェントと、それに協力するご近所様、及び、栗田玲子さんが、勝つわけでもなくて、)すべては、フィフティフィフティなのですよ。

 そういう風に動く、習近平なので、周庭を本日開放しました。Ms周庭は、日本の外人記者クラブで、会見をしています。これは、正当な会見もあるのですが、石堂順子さんみたいに、鎌倉エージェントが、石塚雅彦さん(元外人記者クラブ理事長)の特権を利用して、押し込むケースもあって、周庭女史が、そこで、記者会見をしたとたんに、そうか。なるほど、彼女も一般庶民のガス抜きを目指すための道具なのですねと、理解した次第です。

  金正恩の陰にも、います。かれがミサイルを発射するタイミングは、私が、このブログで、隠されている真実を、書き表した時期に、脅かしように、発射します。

 イスラム過激派の、攻撃に戻ります。もっとも下っ端の若者には、本当にテロをしたいと、思うものもいるでしょう。ところが、トップは、反イスラム派、へ、味方をするために、こういう過激派事件を起こすのです。最近で顕著なのは、急にパレスチナへの爆撃を起こしたイスラエルですね。そちらに味方をするために、イスラム過激派事件を起こすのです。つまり、世界中の人々が批判をしているテロ事件を、起こすことによって、普通の生活をしているイスラム信者、及び、イスラム圏国家に、住んでいる人を侮辱し、・・・・・

 そして、日本では、対私弾圧のために、事件を起こします。(苦笑)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3,『ヘリコプターで、ニュース現場を取材するのは、ある部分に嘘が含まれているケースが多いのだ。ホリエモンの収監時に、それが、最高に証明をされた。この日揮襲撃事件でも砂漠の中を歩く人質が、ヘリコプターによって撮影をされている』

 また、一般的に言って、日本では、真実優秀な人は、生きて行かれません。日本が真実の独立国家になっていくのを、本当の支配者であるアメリカは、恐れているからです。

 ホリエモンが、当時社長をしていた、livedoor の、粉飾決算容疑で、逮捕され、収監されるときのニュース映像を覚えておられますか? 夜行われました。高速道路を車列(ホリエモンが乗った車と、メディアの、車が、多数車列を作っていたのです)が、長々と、通っていくのですが、それを空からヘリコプターで、映しているのです。田中角栄が、収監されるときだって、こんな映像が、テレビニュースになったことはないし、ホリエモン以降も、こういう映像が流されたことはありません。

:::::::::ここで、スピンオフに入ります。三鷹ストーカー事件が起きた時、被害者の、少女の苗字が鈴木さんでした。で、私は、名前が違うので、そのお嬢さんが多摩美卒の画家、一ノ瀬智恵乎さんの、お子さんだとは、全く気が付きませんでした。ただね。ヘリコプターの映像を見ながら、頭の中で、「ここらあたりって、一ノ瀬智恵乎さんの家があるあたりですね」と思っていたのです。それを後日、ふとという形で、現代アートの作家(女性)に言ったのでした。すると、「あら、いやだ。あれって、一ノ瀬さんの、お嬢さんだったのよ」と、言われて、それを、このブログで、書いています。(あと注1)それ以降、ヘリ取材映像を、謀略事件の、盛り上げに使うことは、終わりました。::::::::::::::

 ともかく、日揮襲撃事件は、鎌倉エージェントが、提案した、事件だと、思います。それは、だれも、証明してくれないでしょうが、私が、言っていることは、真実の筈です。

 そういう真実を彼らが、起こす謀略事件の中で、私に違和感を抱かせるポイントを集めていくと、わかるのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4,『わたくしは、この日揮襲撃事件を、主に、安倍晋三総理大臣を、否定し、脅かすための、CIA側謀略事件だと、その一面からだけ、考えていた。しかし、根岸英一博士の訃報に接して、急に根岸譲治博士を思い出すと、根岸博士が、千代田化工勤務だったことを思いだした。千代田化工も、日揮も、石油プラントを製造する会社である』

 昔は、石油精製工場は、主に横浜沿岸にあった。それも、本牧岬より北側にあった。生麦とか、の沖に。それで、千代田化工も、日揮も、横浜みなとみらいに、本社がある。

 2011年3月11日から、この2013年1月16日まで、書いた内容が、あまりにも鋭いし、以前より格段に深めたので、それに対する復讐行為として、日揮襲撃事件が起こされた可能性は、ある。

 こんなことを言うのは、いやなのだけれど、彼らの、実態があまりにも乱暴で、ずるくて、道徳観がないので、そのくらいのことをやるかもしれないと、思っている。

  で、日揮襲撃事件でも、日本人が、10人死んで、ほかの国の人も、38人死んだと、書いてあった。

死亡者

被害者側48 武装集団側32

負傷者

7以上

犯人

イスラム聖戦士血盟団 (覆面旅団)[1]

 で、そういう裏の顔を持つ、伊藤玄二郎らと、仲良くしている人間は、悪人であり、悪女であるのだけれど、そういう人間が、この現代社会では、大きな顔をして、枢要な場所に、存在をしている。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

題5、『随分、大きく出ているなあと、お思いの方もあるでしょう。でもね。シーシェパードは、私狙いですと、言って詳しく書いたら、シーシェパードの活動が、終わりました。と、書くと、また再開するかもしれませんが、ここ数年静かですよね。ですから、私は、非常に大物なのです。しかし、こういう風に書くと、また、まだ、生きている井上ひさしがコメントをよこすだろうと、思いました。誇大妄想だとか、関係妄想だとか、言ってくるでしょう。それで久しぶりにコメントを、検証したら、ずっと前の文章【=2012年の文章)に引っ付けて、結構長いコメントを寄せていました。

養老孟子先生が、歩いて、病院へ行って、急に集中治療室に入ることになったと、言う3月12日放映んという、ネコメンタリーの変異体4【正式なタイトルは、毎日養老先生、ときどきまる】を、報道すると予告していながら、急に、引っ込めたのは、うんぬんかんぬんと、言うブログ(あと注2)を読んで、『これは、攻撃しておかないといけない。養老先生に、申し訳ない』となって、激しく攻撃をしてきた模様です。もう彼の、一一の行動は、手に取る様にわかります。

 そして、たばこを擁護する養老先生が、なんと、この受動喫煙運動を発案し、実行をしている、いのうえひさし+伊藤玄二郎の、家来になっておられることを、証明されてしました。

 なんと、いやなことで、あろうかと、思いますが、かれらが、この世に存在する限り、こういう嫌なことは続くので、「あ、そうですか」と、言うしか、私には、対処する方法がありません。

あと注2,

朝日新聞のラテ欄には、養老先生の番組があると言って居るのに、急に九時に中止。その本当の理由は私が真実を書く筈だったからでしょう?

2021-06-05 20:56:45 | 政治

 

 雨宮舜 (本名 川崎千恵子)

 

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根岸英一博士死去、

2021-06-12 07:31:12 | 政治

 今朝(=2021-6-12)NHK ニュースが、アメリカ在住の(もしかしたらすでにアメリカ国籍取得?)の根岸英一博士が亡くなったと報道をしました。

 私は、即座に、満鉄(中央試験所)時代の、父の上司だった、根岸譲治博士の子息であろうと考えました。そして、wikipedia を引きました。

 ところが、英一博士の、父君は、満鉄関連の商事会社勤務とあります。同じ満鉄でも、中央試験所勤務ではなかったです。で、違うなあと、いったんは、思いました。しかし、譲治博士の甥であることは、確かだと、思う記述もありました。

 %%%%罫線以下に、置いてある、Wikipediaの英一博士の経歴の第二節に、

 引き上げ後目黒区の住居で、親戚一同と、過ごしたと、あります。その目黒の家に、私は、訪問をしています。敷地は、広くて、庭の中に、松林か、竹林かのどちらかがありました。つまり、200坪か300坪ほどの敷地がある家だったと、言うことです。

 その家の主人、そして、英一博士の父君の兄であった根岸譲治博士は、カリフォルニア大学卒なので、その叔父の影響もあって、早くからアメリカへの留学を考えたのだと、思います。ペンシルベニア大学へ留学するなど、1960年(=昭和35年)での、日本人には珍しかったと、思います。

 目黒の家は、食糧難だから、大和市(南林間)への転居を考えたとあります。南林間は、その後高級住宅街になりました。ただし、すでに、売ってしまわれたかな?

 なお、この一章は、私のブログの中では、徹底的なスピンオフです。

実は、本日は、一日中前報を、お読みいただきたいと、思っていたところです。

渡辺幸子、石塚雅彦、伊藤玄二郎、酒井忠康、栗田玲子、宇都宮和代・・・・この23年間、私をいたぶり続けた人物たち

2021-06-11 00:23:32 | 政治

  2021-6-12 雨宮舜 (本名 川崎 千恵子)

 

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経歴[編集]

1935年昭和10年)、満洲国新京特別市(現在の中華人民共和国吉林省長春市)にて誕生[1]。翌1936年(昭和11年)、南満洲鉄道商事会社に勤めていた父の転勤に伴い、濱江省哈爾濱市(現在の黒竜江省ハルビン市)に転居して少年時代を過ごした[2]1943年(昭和18年)、父の転勤で日本統治時代の朝鮮仁川府(現在の大韓民国仁川広域市)、次いで京城府城東区(同ソウル特別市城東区)で過ごした[7][8]

第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)11月、東京都目黒区引き揚げ、親戚一同と過ごしたが[8]、深刻な食糧不足などを解消するため、神奈川県高座郡大和町(現大和市)南林間へ転居して、大和小学校および新制の大和中学校へ進学した[9]。満洲国時代に内地の同世代の児童より1年早く小学校に就学したため、神奈川県立湘南高等学校に進学しようとする際に、高校から年齢が1歳若く入学できないと通知されたため、大和中学校の教諭約10人が交代で高校を説得して入学許可が下り[9]、同校に入学した際は同級生より1歳年下の14歳だった[10]。高校のクラブ活動は合唱部に所属し、絵画部にも所属した。絵画部の2学年上に石原慎太郎が在籍していたが、レベル差を感じて根岸は絵画部を短期間で退部している[11]。高校在籍当初は成績優秀な生徒ではなかったが、2年へ進級した後に猛勉強した結果、2年2学期から卒業まで学年トップかトップタイの成績を修め、1953年(昭和28年)3月に湘南高等学校を卒業(28回生)[12]。同年17歳で東京大学に入学。大学受験時はプレッシャーにより体調は最低で、万一東京大学の入試に不合格だった時でも、東京芸術大学楽理科指揮科なら楽器演奏のできない自分でも入学できるかもしれないと考えていた[11]

大学3年の時、胃腸障害をこじらせて一時入院し、1年留年1958年(昭和33年)東京大学工学部応用化学科卒業。東京大学工学部出身者としては初めてのノーベル賞受賞者である[13]。在学中に「帝人久村奨学金」を受給した縁もあり[14]、同年4月に帝国人造絹絲(現帝人)へ入社[12]。その後、1960年(昭和35年)に帝人を休職してフルブライト奨学生としてペンシルベニア大学博士課程へ留学し、1963年(昭和38年)にPh.D.を取得した。博士課程での指導教授はアラン・R・デイ

Ph.D.取得後は帝人中央研究所に復帰するが学界の研究者への転身を決意[15]。日本の大学での勤務を希望していたが職場が見つからず[16]1966年(昭和41年)に帝人を休職(辞表を提出したが帝人が慰留したため休職扱い)してパデュー大学博士研究員となる。このときの指導教授はハーバート・C・ブラウン1979年ノーベル化学賞受賞)。1968年(昭和43年)、パデュー大学助教授(助教扱い)、1972年(昭和47年)、シラキュース大学助教授に就任して帝人を正式に退職。1976年(昭和51年)、シラキュース大学准教授に昇格し、1979年(昭和54年)にブラウン教授の招きでパデュー大学へ移籍し教授に就任。同年のブラウン教授のノーベル賞授賞式には随伴者の一人として式典に出席した[17]1999年平成11年)からパデュー大学ハーバート・C・ブラウン化学研究室特別教授の職位にある。

2011年(平成23年)、母校ペンシルベニア大学から名誉博士号 (Doctor of Science) を授与された[18]。また2010年(平成22年)10月には、古巣である帝人から「帝人グループ名誉フェロー」に招聘され、就任している[19]。加えて、独立行政法人(現・国立研究開発法人科学技術振興機構の総括研究主監に就任し、同機構が日本における活動拠点となっている[20]2014年(平成26年)3月、母校の東京大学から名誉博士号を授与された[21]

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渡辺幸子、石塚雅彦、伊藤玄二郎、酒井忠康、栗田玲子、宇都宮和代・・・・この23年間、私をいたぶり続けた人物たち

2021-06-11 00:23:32 | 政治

  今は、11日の午後1時半です。先程、水曜日に放映をされたNHKの【サンドのお風呂いただきます。増上寺編の】録画番組を、三日遅れで見たところです。すると、増上寺に入る前に、【豆腐や うかい】によりました。収録をしたのは、何年も前のことらしいのですが、以下の文章とピッタリのチャネリングをなしています。したがって、古いことを描いているみたいに見える、この一文は、現在に見事に続いてくる一文となっています。

副題1、『萩尾望都が、血潮を噴きながら書いた、【一度きりの大泉の話】に、触発されて、私も、別れざるを得なかった、人々のことと、その理由や原因を思い出しているところなのだが、渡辺幸子さんと、私とのトラブルには、CIAが挟まっている部分を除けば、竹宮惠子と、萩尾望都の、別れと、そっくりなのだった』

 ::::::::::これは、渡辺幸子さんという画家と、私との間に起きたことと、そっくり同じなのです。その頃、私と彼女は、仲良くしていて、幸子さんから電話で「(今度、望月画廊で開かれる)大学同窓会展には、鎌倉美術家協会に出した、8号を回すわ。だって、あそこは、展覧会としては、社交場でしかなくて、美術界における経歴としては、小さいものですからね。私って、とっても、忙しいのよ」と、予定を聞きました。

 それに対して、私は、批判も肯定もせずに、ただ、承っておきました。しかし、私の方は、100号を出すつもりだったのです。望月画廊で、開かれる大学同窓会展というのは、確かに、美術界での、経歴としては、数にも入らないものです。しかし、まだ、六本木の新国立美術館が、開館していなかった時期の、上野の、公募団体展を、逃げ出す決意をしていて、そちら向けに、制作していた、100号を、こっちに回して出すつもりでした。

 渡辺幸子さんに言わせると、「自分が、8号を出すといっている時に、黙っていて、そして、実際には、100号を出したのは、ひどい裏切りだ。目下(年下でもある)のくせに、不誠実極まりないひどい人間だ」と、言うことになるのでしょう。しかし、私の方にしてみると、沈黙もまた無理ないことだったのです。

 いったん、かかわりを持って、10年近く、出品をつづけている公募団体展(この場合は、国展と、女流展)を抜けるのは、女郎が花街を、逃げ出すほどの、大変な難事なのです。1990年代の、公募房団体展って、やくざっぽいところがあったのです。国画会というのは、芸大出身者が多くて、最も近代的で、かつ、民主的なところのはずでした。が、それでも、私から見ると、自分が、そこには、とても、存在しえない世界なのでした。しかし、足抜けするつもりなのを、渡辺幸子さんに言うわけにもいかないのです。新制作に出品していて、田沢茂先生の弟子でもあり、湘南地方では、アマゾネス軍団の一人として、高名だった、わたなべ、幸子さんに、それを打ち明けることはできないのでした。神奈川県内には、神奈川県内の、美術界の、社交場があって、パーティがあり、打ち上げ会があり、そこで、飲食を共にするわけで、たちまちにして、噂は広まるのです。

 ただね。渡辺幸子さんは、割と現実主義的な人なのです。大きなコンクールとか、銀座の個展という、気張らなければいけない場面では、精魂を込めるが、鎌倉美術家協会展などという、お客さんが、素人だけの会だと、手抜きをすると、言う感覚の人なのです。テーマもよくて慣れていた、ロールスロイスでしたし。そして、それぞれの展覧会に、固有のサイズ制限があって、上野の伝統ある公募団体展は、たいてい、100号までした。ですが、新制作と、毎日展は、150号まで、許可されていたのではないかしら。当時はですよ。それで、100号と、8号では、時間とエネルギーの込め方に圧倒的な差があるのだから、「100号を出したあなたが、私に、勝つのは当然よ。なんていやな人間なの、あなたって」と、思って彼女は、激怒したのでした。

 私は、100号の作品を出して、渡辺幸子さんを凌駕し、出し抜き、恥を、かかせるつもりなど、一豪もありませんでした。でもね、望月画廊の、お接待用お当番の、予定日に出かけたところ、幸子さんが、私の荷物を乱暴に、ソファーから床に払い落しながら、大声で「なんで、こんな汚い置き方をするのよ」と、どなった時に、すべてはわかりました。しかし、望月画廊は、独立(画家協会、絹谷幸二が、トップの会)の画家が、多く個展をする場所です。独立と国画会は、仲良しです。望月画廊の、スタッフが、聞いている場所で、どうして、「国展には、今年から出さないつもりなの。だから、100号を、こちらにまわしただけよ」と、言えるでしょうか? 言えないです。

 たまたま、その会には、当時、12人のメンバーがいました。しかし、そのうちの、五人が、幸子さんと、同期卒業(?)でした。しかも、幸子さんのご主人が、画家ではないのですが、同期卒業でした。(これは、巻末に、蛇足2として、政治が関与してきて、どれほどに、渡辺幸子さんが、得をすることとなったかを、語ります。)ここでは、12人のうち、6人が敵方に回ったので、私には弁明の余地も与えられませんでした。非常な悪人として、規定をされてしまったのです。

 で、名誉挽回のチャンスはないと考えて、逃げ出すことにしたのですが、ここで、幸子さんと、私との決定的な違いを語っておかないといけません。そうしないと、私としては、立つ瀬がないからです。それは、渡辺幸子さんは、美術の世界における、階級というものに、どっぷりと毒されているという人だと、言うことです。そして、出世したいと、願っている人だと、言うことです。絵を描くことは、純粋な世界ですが、そこに出世とか、階級が入り込むと、苦しくなります。彼女は、この時に、65歳だったから、早く新制作の会員になってとか、そのほか、いろいろな欲望がある真っ最中でした。で、出世のためには、各種コンクールに応募することだと、言うことになって、夜10時だって絵を描いているという生活だったのです。

 また、その出世のために田沢先生の、言うことを聞くことが大切だと、思っていて、支配され切っていました。田沢先生と、言う人物は美大を出ていません。それにもかかわらず、生活のための画塾に、8人程度の、背の高い、美人画家を集めていて、アマゾネス軍団といわれていて、有名なグループでした。女性たちは1940年代という食糧難の時代に生まれたのに、みんな160cm以上の背の高さです。というのは、子供時代にはお金持ちで、育った女性たちです。そういう人たちをまとめて、かつ支配をしていくために、田沢先生は、テクニックを弄していました。中に、美人で、しかも、武蔵野美大卒の桜井陽子さんがいて、固い性格の人でした。その人を弟子から、去らせないがために、幸子さんに、からかわれる役目とか、強烈に支配される役目を、負わせていたのです。幸子さんが、スケープゴートでした。田沢先生は、自分の権力を誇示するために、幸子さんに、朝令暮改と、言う様な指導をするので、悩み切っていました。で、答えるにあたって、「そこを出たほうが良い」と常に言っていました。私は、彼女が、五歳も年上だとは、知りませんでした。ほとんど、同い年だと、考えていたのです。私は、常に人に頼られる方ですが、その理由は見かけによらず、精神的には、揺らがない人だからです。その上、画家としては、私は、一種の二代目でした。父は、石油開発の技師として、満鉄中央試験所というところに所属していました。が、週末は、休みをとれる立場だったし、鉄道運賃がタダですから、中国のありとあらゆるところに行って、遺跡を絵にかいていて、満州文展の特選をとっていて、ラストエンペラーの宮殿、甘粕満映理事長執務室、佐藤正典(後日、人事院総裁に、なっていき、満鉄の、人々の再就職を図った人)などの、執務室を飾っていました。

 それを記録した新聞記事が盗まれています。国会図書館に行けばあると、思っていたら、マイクロフィルム化されていて、かつ、奇数頁で終わっていて、文化面が、採択されていないのでした。それを問題にすると、マイクロフィルムそのものがなくなったと、言われました。アメリカの、公文書館とか、スタンフォード大学行けば、紙の資料があるはずだと、思っていますが、この年になると、もう行くことはできません。

 だから、渡辺幸子さんの方は、公募団体展をやめるつもりだと、言う私の胸中など、推察さえできなかったのでしょう。ただ、ただ、裏切ったとの、一点張りだったのです。

 彼女にしてみると、各種コンクールには、レベルの違いがあって、鎌倉美術家協会展は、もっとも、低いレベルの会(または、コンクール)だから、手抜きの絵だったのです。しかし、上野の、新制作に出す絵は、まったく違うレベルの完成度を目指すものです。

 私は、国展への出品をやめようと考えているわけなので、国展の審査員が求める緻密な技量を示す、作品を作るのを、もう、やめていて、澄み切った心境の絵を描いていました。緑色の研究の絵の集大成だったのです。

 ある一つの作品が成功しているか、否かは、作った側にもわかるものですが、それを、見る人間に、美的センスがあれば、その人にも伝わるものなのです。渡辺幸子さんには、それが、稀有なほどの成功作品だと、わかったのですね。望月画廊で、ほかの、11人と一緒に、一週間だけ展示をするのでは、本当にもったいないことでしたが、傑作を出すつもりで、出し抜いたと言う、彼女の誤解も、郁子なるかなと言うほどに、いい絵だったので、出し抜かれたという気分も大きかったのでしょう。

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副題2、『渡辺幸子さんは、二人姉妹の次女で、したがって、偏愛の対象になっていたと、私は考える。つまり、丁寧な扱いを親から受けない方だ。お父様が、破産をして、その後、彼女は、大学を中退して、一家の生活を長期間支えた模様だ。だけど、お姉さんの方は、無事に大学を卒業をして、家族に奉仕をしないうちに結婚できたと、思う。幸子さんの方に、ひとえに、大きな負担がかかってきた方だった。だから、その責任が終わって、ずっと、待っていてくれたICU同期のご主人と結婚をした後で、ロールスロイスを買う、という気分になったのだろう。ロールスロイスにこだわると、言う理由において、高野ゆりさんとちょっと似ている。一時期経済的に大変だったことへの反動が大きい模様。ご主人は、外資系会社の社長である。だから、お金については、心配する必要はないだろうと思うのに、彼女は、絵描きとしての活動費を、自分で、ひねり出そうとして、必死である。

 私は、自分のお金の、使い方について、彼女から何度も叱られたものだった。過保護というほどに、親から、お金を与えられていたので、お金の価値を知らなかった、そういう側面も、私には確かにあって、そういう意味では、私の方が、彼女より子供ではある』

 渡辺幸子さんの、田沢先生との関係を見ていると、彼女が、本当の意味での自信はない人だと、言うことがわかる。鎌倉のお嬢様であり、フェリス出身であり、1950年代のICU卒業組である。桜井陽子さん以上の自信をもって、堂々と、生きていけばいいのに、田沢先生との関係においては、悩みっぱなしだった。

 ところで、湘南信金、鎌倉支店というのがある。彼女と、望月画廊で、決裂をする前にも、すでに、彼女は、お金という意味で、優遇策を与えられていた。その優遇策のひとつが、湘南信金の三階で個展をすることだった。広さは、銀座の画廊の、大きい部屋の三倍という広さのホールである。2001年だったと思うけれど、当時の彼女程度のキャリア(まだ、銀座では一回も個展をしたことがなかった時期)だと、一週間で、50万円は、とられる時期だったと思う。だけど、湘南信金はあのホールを無償で、貸し出したと、思う。しかも2週間貸した。

 もちろん作家側が、有名になると画廊は、ただで、展示室を貸す。そういう場合、普通だと、売り上げの、40%を画廊側がとる。シロタ画廊が、柄沢斉の個展をするときとか、ガレリアグラフィカが、山本容子の個展をするときは、そういうシステムで、行われる。

 しかし、湘南信金は、画商ではない。その上、日経新聞論説委員にして、外人記者クラブ理事長の、石塚雅彦さんと、伊藤玄二郎合同の、依頼だったら、何の、利益も得ないで、使わせると、思う。で、彼女は、バラを中心とした、花の絵を展示して、純売り上げ150万円は上げたと思う。

 額縁代などの経費を差し引いても、100万円は、純利益として残ったと、思う。彼女は、この時、花瓶に生けたバラの花の絵を中心に売った。バラの絵は、美しく出来上がっているが、どこかで、デジャブーがあった。ただ、フェリス時代のお友達とか御成小学校時代の、同級生には、受ける絵だと、思う。

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副題3,『わたくしは、この時、小品【曼殊沙華】の絵を2万円で買った。これは、お金をケチって、小さいサイズを買ったというよりも、その日、飾ってあった、全作品の中で、最高に、よくできていると感じたから、買ったのだった。その絵だけは、写実から離れて、抽象化してあったが、色が素晴らしかった。赤い円で、表現された曼殊沙華の花が、茶色の背景に浮かんでいる。これは、渡辺幸子の全作品の中でも、成功した方のいってんだと、いってよく、傑作中の傑作ともいえるものだった。

 作る側の立場でいうとこれは、パレットに余った絵の具を使って、ちょこチョコちょっと、描いたものに、過ぎない。と頃が、傑作は、思いがけないところで、描かれているのだった。この絵は、私の手を離れて酒井氏に贈呈をされたと思うが、酒井先生は、葉山に、置くように頼んであるのではないかなあ。まあ、幸運な絵であります。

 しかし、私が、自宅では、妨害を受けて、できない本の制作のために、新橋のネットカフェ【げらげら】で、徹夜をして、やっと家に帰ってきた、その夜中、9時ごろ家に、電話がかかってきて、返すように言われたと、主人が言う。で、徹夜明けで、死ぬ思いだったが、駅まで、持って行った。彼女は、車を運転する人なのに、雪ノ下の我が家までは来てくれず、鬼の様な顔をして、裏駅で、それを受け取った。新橋で、徹夜をしているのは、警察しかわからないことだと、思うけれど・・・・・

 したがって、彼女の後ろにCIAエージェントがいることが分かったのだけれど、・・・・・まあ、これも「お前は、寝かせてやんねえからね。そういう形で殺していくもんね」と、言う例の連中発案の、仕組みの一つだった。

 ただし、彼女は、この個展が、田沢先生に知られることをひどく恐れていた。私は、例のごとく、田沢先生が、嫌いだから、「気にすることはないわ。こっちの方が、上野の公募展に出すのより、いいのもあるし」といった。それは、返せと言われた日の、7年は前のことだった。ところで、絵を買ったお金二万円は、むろん返してもらっていない。

 この後で、彼女には、莫大な、名誉や、金銭が、降ってくる様になるのだけれど、それについては、明日語りたい。

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副題4、『井上ひさし + 伊藤玄二郎の悪意が、豆腐やうかいに、出現したのは、2014年秋だった』

 というお断りを入れて、いったん本日の午前二時に閉じて、12時間後の今、午後二時に再開しているわけです。その間に、【サンドのお風呂いただきます。増上寺編】を見て、・・・・おや、おや、栗田玲子さんに関して、書け・・・・と、神様が言っているわけですか?と、驚いた次第です。 

 とても、複雑ですが、丁寧に書いていきましょう。豆腐屋うかいで、2014年に、開かれた、お茶大付属高校のクラス会で、合計五人が加わっている罠に私は、ひっかけられてしまって、お歌を使った辱めを受け、とても、悲しい思いをします。それを実行した主要人物は、宇都宮さん、坂本きっこさん、中島加奈子さんでしたが、この三人が、自動的に思いつく罠ではあるはずもないのです。

 考案したのは、むろんのこと井上ひさしです。彼は、公的には死んだことにしていますが、そちらが嘘で、いまだ生きていて、様々な謀略を紡ぎだしています。一応死んだことになっているので、表向きの連絡係は、伊藤玄二郎を使います。伊藤玄二郎は、かまくら春秋社社長ですが、同じ出版社、特に私費出版も手掛けている、冨山房インターナショナル社長の、坂本きっこさんと、すでに通々の間柄になっているでしょう。坂本きっこさんは、神保町で、高級喫茶店【冨山房サロンFolio】も、経営している人で、この30年間、同級生の間でも、『その力量は、ご主人を上回っているわね』と、言う評判の女性経営者です。ご主人は、本体の、冨山房の社長さんだったはず。 冨山房サロンFolio は、NHK ETV【スイッチインタビュー・今泉忠明 VS 山田るい3世編】でも、収録場所として使われました。

 坂本きっこさんは、神保町の経営者として、履歴が、40年はあるでしょうから、高野悦子岩波ホール社長とは、すでに、既知の間柄だったと、思われます。その高野悦子岩波ホール社長に、取り入って、懇意にしてもらっているのが、伊藤玄二郎なので、坂本きっこさんも、伊藤玄二郎の、言うことを聞くと、言う流れになっています。きっこさんは、悪い人ではないのです。ただ、計算をする人だし、怜悧な人だから、私に見破られる恐れはないと考えていたと、思い、伊藤玄二郎側に協力をしました。

 私が弾圧を受ける署員はただただ、一点だけ、つまり、頭がいいと、言うことだけなのですから、私を悲しませたり、損失を与えたりしたら、必ず、実名で委細を書かれるとは、覚悟をしてください。

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副題5,『伊藤玄二郎は、栗田玲子さんをも、動かしたはず。栗田玲子さんは、イタリア大使館、出入り文化人の、縁で宇都宮和代さんを、使役することに成功した。このイタリア大使館・で入り文化人としては、現在のところ、やまざきまりさんが、突出して、使役をされている。養老先生の、最近の著書でも、中川恵一医学部教授との、鼎談が、組まれているし』

 ここで、栗田玲子さんが出てくるのには、必須な条件があるのです。この章の、副題3に、・・・・・新橋で、徹夜をしている、私を次の日に寝かせない・・・・・そういう形で、緩慢に暗殺していく仕組みの一つとして、渡辺幸子さんが前夜9時過ぎに我が家に電話をかけてきて、主人に「絵を返せ」と言ったと、書いていますね。その命令を、渡辺幸子さんに下したのは、栗田玲子さんだと、推察しています。その流れを丁寧に、書いていきましょう。

  その頃の私は、自宅では、ワードが、ほとんど使えない、毎日でした。アドビもダメだったのです。ものすごい妨害を受けていて、一晩に、50回以上、システム異常が起こされると、言った体たらくでした。それで、自分のパソコンを持って出て、レストランやカフェで、仕事をしたり、件の日みたいに、その前に、銀座の画廊巡りをする日には、パソコンは、持って出ないで、ネットカフェの貸しパソコンを使って、USBからデータを移して、仕事をしていました。

 当該の日の警察庁長官は、以下の二人のどちらかです。

20 漆間巌 1969年

 (昭和44年) 2004年8月13日

 (平成16年) 財団法人交通事故総合分析センター理事長

内閣官房副長官(事務担当)  

21 吉村博人 1971年

 (昭和46年) 2007年8月16日

 で、責任者は、この二人になるわけですが、警察もしくは、鎌倉エージェントは、『自分たちが頭がいいんだ、どうだ、参ったか』といいたいらしくて、新橋のネットカフェ【げらげら】に、その日10人ぐらいの刑事または、警官を待機させていたのでした。(?・・・・・私は、警察内部の、組織のことはよく知らない。だから、刑事と警察官の区別ができない)つまり、脅かして、仕事をさせないようにして、きたのです。

 どうして、それがわかったかというと、普段は、夜は、ほとんどお客がいないネットカフェなのです。私は、ネットカフェを使うにしても、選んで、使っています。つまり、客層のいいところしか使っていないのです。ここのネットカフェは、たぶんですが、ビルのオーナーが経営しています。で、画廊も同じですが、ビルのオーナーが経営している画廊は、もうけは二の次にして、文化の支援者という形を、協調しています。ネットカフェに戻りますが、ほかの階からのテナント料が、十分に入るので、ネットカフェで、儲けようと考えていません。昼間サラリーマンたちに、休憩と憩いの場所を提供すればいいのだと、考えています。だから、夜はほとんどお客がいません。それなのに、その日だけは、お客が10人程度いて、みんな汚れたズックの靴を履いていました。ちなみに、普段は、みんな革靴です。そして、ブースと、ブースの間に、ロープを張って、薄汚れたタオルを張って、干していました。本当に笑っちゃうほど、想定内パターンを踏襲していて、実情に沿ってはいないのです。

 でね。『また、また、実際の状況をまるで、知らない井上ひさしが、得意がって、こういう提案をしたのだろう。警察は、鎌倉エージェントの、手下ですからね』と、思い、いたった次第です。とても、いやな縁ですが、井上ひさしは、「お前の全行動を把握しているんだよ。膝下に下れよ」と、言い続けてきているのでした。それで、自分を誇示したいからこそ、ブースと、ブースの間に、汚れたタオルを、干しているのです。ストリップ劇場の、座付き作家として、泊まり込みで、働いていたころ、彼こそ、舞台裏にロープを張って、一枚しかないタオルを、干していたのではないですか?

 しかし、馬鹿みたいだなあと、内心で笑いながら、そこで、5時間は、仕事をつづけました。しかし、インターネットに接続をしていなくても、五時間も同じところで、仕事をし続けていると、また、持ち込みルーターなどを通して、支配を受けて、妨害をされます。だから、午前二時ごろ、かしをかえました。ところで、その頃に書いていた文章は、まったく問題がないのです。しかし、レベルが、高くて面白いのだと、思います。で、私がブレイクしたら、困ると、思っている連中が、こういういたずらを警察を使って、行ってくるのでした。

 編集の仕事とは、大きな神経を使うので、疲れ切って、帰宅をすると、渡辺幸子さんから、絵を返せという催促です。彼女は、2002年に、望月画廊で、私を、いじめたおかげで、その後、莫大なお金と名誉を得続けます。その一つが青木繁大賞展の、大賞受賞で、賞金は、100万円でした。その上、貸し画廊としての、ガレリアグラフィカ(栗田玲子さんが経営する画廊)で、ただで、個展ができるという副賞を得ました。この電話がかかってきたときは、すでに、ガレリアグラフィカでの、副賞の個展が終わっていたので、伊藤玄二郎が警察から、連絡を受けて、栗田玲子さんに、連絡を入れ、

 上で、言っている通り、2001年ごろ、湘南信金で、個展をして、100万円から、150万円のお金を稼ぎ得ました。それは、ただ、私と知遇があるというだけで、彼女がライバル設定を受けて、そのお陰で、入ったお金でした。その次に、私を、2002年に、望月画廊で、いじめたおかげで、2005年に、150万円が入ったのです。それは、65歳から、75歳までの、軍資金となったはずです。その後は、外資系会社の社長をしていた、ご主人の、退職金を使えば、なんとでも、活動ができるはずです。非常にラッキーな人生でした。

 その前だったと思いますが、鎌倉駅のトイレに、二人が、同時にいたのです。女子トイレに、玲子さん、男子トイレに、玄二郎がです。その時の栗田玲子さんの、ものの言い方で、彼女がすこぶるつきの悪女だと、言うことがわかりました。彼女は、葉山に住んでいるのですから、夜の10時半に、鎌倉駅に途中下車してはいけないのです。結婚をしているのですからね。しかし、夜の、7時15分から、銀座で、会食をはじめて、1時間半話し合っても、こと私への、加害策をどうするかの話が、終わらなかったのでしょう。それで、伊藤玄二郎が、「お宅へは、タクシーで送りますから、僕の会社の会議室で、続きを話しましょう」と誘ったのだと思います。

 これ以降、書き続ける予定のことは以下です。日本航空と、平野和子さんの話、スチュワーデス(すっちー)という語彙が消えた理由、2000年の私の個展は、平野さんの画廊で、行ったので、日本航空の、縁で幸子さんが来てくれたこと。ただし、ほかの画廊での個展には、来てくれていないこと。したがって、幸子さんは、私の油絵の大作を、かつて、見たことがなくて、望月画廊での、100号を初めて見て、驚嘆をして、私の作品が持つ、色使いの素晴らしさとか、上品さに、激しく嫉妬したこと。それは、今回問題にしている竹宮惠子と、萩尾望都の関係に似ているし、私が、即座に、グループICU展を抜け出して、やめてしまったことも、とても、よく似ている。

 ところで、渡辺幸子さんをめぐるお金の話は、秘密でも、ミステリーでもない。で、それを傍見し、きちんと分析すると、こちら、鎌倉雪ノ下でのご近所様へのお金の流入も、きちんと、正しく、分析できる。(ここは後で、詳述するが、平木家が、屋根の修復も、壁のペンキ塗りも、公費でしてもらって、かつ、お子様が、去年の秋のうちに、東大へ推薦入学が決まっていたと、言うことは、特記しないといけない。平木さんは、この10年間、見事なほどに、敵方に、協力して、私を苦しめている。そのご褒美が、かくして下っている。

 ところで、今週水曜日の、【サンドのお風呂いただきます】で豆腐屋うかいが、出てきたので、2014年の豆腐や、うかいでの、謀略について、触れないといけなくなった。栗田玲子は、教育大学西洋史学科卒で、宇都宮和代さんは、お茶大西洋史学科卒である。ここも、相当な時数を使って、下記進めないといけないところだ。

@@@@@@ここが第一の書きかけ中の最先端です。以下は、メモです。

 国画会内部で、不遇だったのは、むろんのこと政治が関係していて、大沼嘉津江(島田章三さんの実妹である)さんと、杉本正子さんと、杉本俊一氏と、瀬島龍三が絡んでいるCIAエージェントの、指図で、島田章三さんが、弾圧をしていたからでした。我が家の旧宅のすぐそばにあった、旧水道山の、ただでの私有化(地積変更届というものを利用した。で、書類上は、犯罪ではないが、実質的には、大詐欺事件である)を、遂行した一味は、美術界において、若江漢字と島田章三さんを、私の相手として、最初にライバル設定をして、その二人に名誉と、大金が流入する様に諮った(または、図った)のです。

 2002年ごろには、そんなことは、私は、外部には、語っていませんよ。だけど、わかっていました。だから、国展は、やめるしかないのです。しかし、国展をやめて、女流展にだけ出しますか? そんなことはできません。もし、そんなことをしたら、国画会に、けんかを売っていることとなります。

 それについて、国画会の大パーティで、誰かに説明をできますか? できませんよ。だから、私は黙って、身を引いて、日陰の立場に、身を置いたのです。しかし、文章については、自信があったので、そちらに出向くつもりでした。美術評論をしようと思っていたのです。しかし、そちらも、大原光孝さんが、中島千波さんの助けを得て、春季日展に、後輩の画題とそっくりな、ただし、マチエールはまるで違う荒いものを、出品して、三越で、展示をしたケースと、心の奥底で、深い友情で、結ばれていた山口みつ子さんが、自殺と喧伝をされて、実は、他殺と、言う形で、殺されたのと、みつ子さんの画廊の常連で、毎日展の、常連でもあった、そして、中学の動機でもあった、大久保忠治さんが、暴走老女に、ひき殺されたと後で、聞き(大学教授が、ひき殺されても、全国的ニュースにならなかったことや、大久保忠治さんを、よく知っているアズの、山口千里さんや、中学の同期生、100人の中心にいるはずの、高田ひろ子さんの、電話内での、態度のあれこれから、

 

@@@@@@ここが第二の、書きかけ中の最先端です。

 

その亀裂は、間に政治が挟まったので、より大きな亀裂と化し、ヤマザキマリさんが、養老先生病院へ行くという書物の中で、養老先生と、中川恵一氏と鼎談をするところにまで発展をしていく。(間の説明は、ここでは、繰り返さないが、伊藤玄二郎と、栗田玲子さんが、仲がいいことが、こういう点に結びついていく):::::::ここで、私のケースから離れて元へ戻ろう。

 

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萩尾望都の【一度きりの大泉の話】173pまで読んで。映像化を望むが、竹本恵子役を誰が引き受けますか?

2021-06-08 14:55:35 | 政治

   この文章は、渡辺幸子さんに関して詳述をし始めました。すると、大量の、情報を思い出して、それは、結局はイスラム国で、殺されたとされる、後藤健司さんは、実は、生きていますよというところまで、入って行ってしまうです。それで、昨日は、完成しえず、終わりました。本日(10日)は、そこを別章に回して、この章を完成と持っていきます。この文章は、初稿として、#######罫線以下を描き始めました。しかし、大変、面白いエピソードなので(いや、動きとしては派手ではないのですよ。主役の萩尾望都はひたすら耐える側ですからね。)映像化を、したら、面白いだろうなあと、思いいたり、それを、副題1として、書き始めています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題1、「蛇足として、語りたい。この書物を映像化するとしたら、竹本恵子役としては、だれが、適切なのだろうか?』

むしろトップに置きたい蛇足・・・・・この書物を、テレビドラマ化したら、だれが、演じたらいいのだろうか?・・・・・・8日の夜はひどい睡魔に襲われ、竹宮恵子が、誤変換されているのも直せないほどの体たらくで睡魔に、陥りました。今は、9日の夕方4時ですが、喫茶店内で、推敲加筆をし始めるところです。

 この書物は、血を吐く思いで、萩尾望都が、表したものです。出版社が、ヒットを見込んで注文を出したわけでもない、書物です。金銭的な、謝礼を目的としたものでは無論ない。しかし、まだ、4分の1を読んだだけですが、極上のミステリーになっています。竹宮恵子が、それを承諾するかどうかは、大問題で、萩尾望都陣営も、映像化など、全く、考えていないと思います。が、もし映像化したら、女性版【麒麟が来る】に等しい、緊迫した、上質な心理ドラマができると思います。

 勝手な希望・配役ですが、主役は萩尾望都という設定で菅野美穂に演じてもらいたい所です。演技上、一番難しい役は増山さんと言うおとりまき(または、竹宮恵子の、熱烈なファン)ですが、黒木華か、彼女以上の実力派に依頼したい物です。

  問題は竹宮惠子役です。この一遍では悪役ですから、余程腹を据えた人でないと出来ないでしょう。朝ドラおちょやんで宮澤エマが初期には意地悪な継母、最後には、慈愛に満ちた、年上の、ファンと言う素晴らしい役を演じましたが、事務所が、この書物の映像化の竹宮惠子役を受け入れるわけもないので、結局の所映像化は、無理と言うことになるのでしょう。

  でもね、極端な話ですが、再起を目指す沢尻エリカが、竹宮惠子をえんじるとか?   演技派として自信があるはずの中谷美紀が久しぶりに、大役に撮り組むとか? ただ、中谷美紀は、イメージとして細すぎる。繊細に過ぎるのでだめでしょう。

 非常に美しくて、明るくて、自信たっぷりな女性・・・・・として、これも、久しぶりに、南野陽子に、主役級人物として、登場してもらうとか?  年齢的に、菅野美穂と相対する場合に釣り合うかどうかが、問題となるが、演技者としては、すでに腹が座っている、高橋惠子とか、原田美枝子とか?

 私は、その動く映像を一回も見たことのないが、ヒール役として、大人気だという、田中みなみアナに、演じてもらうとか? 忘れていました。尾野真千子がいましたね。?!?!? 吉田羊も、演じることはできそうですよ。 という前置きを、二日目に入れて、初稿に戻ります。

########################

*1)

 わたくしは、いろいろなテーマで、続きを書かないといけないと、言う義務感にも撃たれています。それを忘れたわけではありません。ただし、時間と体力がない状況です。それで、「生きていますよ」と、言うサイン代わりに、今、読んでいる本について、語りたいです。

 それは、萩尾望都の【一度きりの大泉の話】(河出書房新社刊)です。夜就寝する前だけの時間に、手に取っていて、今、137頁まで、読んだところです。

   :::::::::ここですが、全体で、352頁なので、4分の1だけ読んだところですね。それで、一種の書評(?)を書くのですから、相当大胆ですね(苦笑)。しかし、私の場合、深くえぐりすぎるところがあるので、この程度で、一文を書いてしまう方が、今、これを、買う意思を持っている人に対して、迷惑にはならないのです。::::::::あ、否定しているわけではないのですよ。久しぶりに、頁をめくるのが楽しみな本に出合ったと思って、わくわくしているところです。

*2)

 この本に興味がひかれたのは、朝日新聞の書評欄を読んだからです。たぶん、2021年の5月29日付けの書評欄で、取り上げてあったと、記憶しています。

 で、その書評欄の、紹介で、この本に、一気に惹かれたのです。どうも、長い間沈黙を守っていて我慢をしていた方が、とうとう、堰を切ったと、言う意味で、相当におもしろそうだと、感じたからでした。

 しかし、邪道な読者です。というのも、私は、萩尾望都の、作品を一頁も読んだことがないからです。また、竹宮惠子の作品も一頁も読んだことがありません。この本に登場する多数の他の、少女漫画家の作品も一頁も読んだことがないからです。わたくしがストーリーのある漫画を読んだのは、子供のころに手塚治虫の「リボンの騎士」を読んだのと、7歳下の妹が、専用の本箱に、全巻を揃えていた【ガラスの仮面】を、彼女宅に訪問している間に、一冊、読んだ、だけなのです。

 あとは、週刊文春の、タンマ君と、新聞の四コマ漫画を時々読んだ程度です。

*3)

 しかし、この【一度きりの大泉の話】の数多い登場人物の中で、萩尾望都と、武宮恵子と、山岸涼子だけは、その名前を知っていました。多分、新聞に、出てきた記事で、その存在を知ったのです。わたくしは、1996年までは、新聞を隅から隅まで読む人で、自分を雑学の大家だと、自認をしていました。(苦笑)

 しかし、1998年に国費で、パリへ行かれることとなり、かつ、父からの遺産で、まだ使っていない、2400万円があったので、それを使って、世界的アーチストになろうと、言う方向で、生き始めたので、ある一点にだけ集中をして、それ以外のことは捨てました。

 最近では、新聞の書評欄を読むのでさえ、不随意です。だから、この書物に出会ったのは、まことに誠にもって偶然でした。

 ここから先の推敲の仕事を、一時間分、見事に、システム異常を利用して消されてました。したがって、とても重要なことを描いたのだと、思いますので、一つ、一つ、思い出しながら、再度、入力していきましょう。

*4)

 竹宮惠子だけは、鶴岡八幡宮の、ぼんぼり祭りに、献灯をしていると、記憶しています。したがって、鎌倉市在住か、近辺の、湘南在住だと、考えています。だけど、献灯には、安野モヨコなど、ほかにも漫画家が、数多くいるので、`「自分は、竹宮惠子のファンです」というわけでもないです。

 ただ、二人を比較すると、・・・・・各種のメディアの情報だけで、判断をしたのですが・・・・・萩尾の方が、知的レベルについて、上ではないかと、ずっと、考えていました。これは、少女漫画のプロットの構成とかネーム(セリグ)の発想において萩尾の方が、頭がいいと、言っているのではなくて、人間を総合的に見たときに、萩尾の方が、知的な人なのではないかと、考えていたということです。作品を何も知らないのにです。

 朝日新聞の書評欄を読む限り、私の、そういう、うっすらとした、推察が当たっている様に見えて、この書物を読んでみたいと、思ったのでした。

  `そして、さらに、日曜日の6日にこの本を横浜で買ってきて読み始めて、巻末にある、この書物を生み出そうと努力した、マネージャーの城章子さんの、言葉(343頁以降)を読むと、それが、正しかったと、証明されています。

*5)

 まあ、鎌倉に住んでいて、ぼんぼりが飾られる、鶴岡八幡宮の境内から、ゆっくり歩いて、たった二分の所にいる私が、竹宮惠子と萩尾望都を比較して、萩尾の方が、知的なレベルが上でしょうなどというと、「また、敵を作りましたね」ということになるのでしょうが、漫画界には、一切の、コネクションの無い人だから、こういう風に言わせていただくのをお許しください。

 人間が、組織を作り、システムを作り、その中で、階層を作ることが好きな生き物だと、言う側面から、考えると、私が、ここで言っていることは、通らない筈です。私が用いたい、宗教観に基づいた尺度とは、全く別の尺度が、世の中で、通用しているのでしょうから、何を言っても、通らないとは、思うものの、「これは、見逃せませんですね」というところは、取り上げて、噛みついておこうと思います。大筋とは、離れて、とても、小さいことだけれど、創作者を、先生と呼ぶか呼ばか、呼ばないかの違いについては、漫画の世界に、大金が動いているのを推察させます。

 というのも、萩尾望都は、数多い登場人物の中の数人を、先生と、言う敬称をつけて呼び、ほかの数人を、〇〇さんと、よびます。

 その差は、萩尾の中では、いわゆる、先輩と、後輩にあたるのだろうけれど、私は、そこから、漫画作家というものが、出版社と、分かちがたく結びついている、現代資本主義社会の中で、生きている、存在だと知らされるのだ。

 つまり、金銭の授受が明瞭に在る世界であること。だから、世間的なしきたりに、沿うのに、容易であると、言うこと。それなりの、遠慮や、気遣いは、あるのだけれど、私が知っている世界とは、明瞭に違いがあること。これが、現代アートの世界だと、先生と、呼ぶ方が、野暮で田舎っぽいとなるのだけれど、その種の気取り(?)の部分は、漫画作家の場合には、無いと、言うこと。つまり、萩尾望都は、漫画作家だけの世界では、割り切りの遅い方だけど、漫画作家の、世界を全体として見ると、そこは、現代アートの世界よりは、はるかに割り切りの早い世界であること。

 その点、私が、銀座の画廊で、その作品を見る作家たちは、知的レベルが高い人ほど、自分を先生と、呼ばれるのを嫌がります。私だって、昨日、日曜美術館に出てきた、上條陽子さんを、上條先生と、呼んでいた時期もあるが、2004年以降、女流展に出品しなくなり、かつ、上條さんが、秋山祐徳太子に取り込まれ始めた時期(2007年以降)からは、上條さんと、先生抜きで、呼ぶようになりましたし、それを上條さんが、怒っているとは、考えては、いません。

*6)

 萩尾望都は、自分そのもの、また、自分が描くものが、暗いと、感じていた模様です。ただ、それが、客観的に見てそうだったのかどうかは、私には、わからないです。ご本人を知らないし、この世界をも知らないので、何も言えないです。ただ、137頁まで、読んだだけでも、彼女が、自分をいわゆる陰の方で、竹宮惠子を、陽の方だと、見ていたことがわかります。

 朝日新聞の書評を読んだだけでも、何か、萩尾望都の方が、怒ってしまうことが竹宮惠子側に、あったと、推察できるのだけれど、それは、この137頁まででも、伏線として、10個ぐらいは、張ってあります。残像をどう使ったかも、伏線の一つだと、思います。で、慎重な書き方をしているがゆえに、結果として、大・大・ミステリーとなっているわけです。それが、一個人の、位置エピソードを書き表した書物なのに、壮大な物語となっているのです。

 わたくしは、書評を読んで、この本を買ったぐらいだから、

 萩尾望都の方が、そのトラブルから、逃げた(大泉から、埼玉県の田舎に引っ込んだ)方だと、言うことは、推察しています。

 それは、国画会、女流画家協会、国際キリスト教大学大学同窓会展などから、すべて、身を引いてしまった私には、非常に、よく理解できるところなのです。そして、これ以降に加筆した部分が大問題だったので、システム異常を利用して、言論弾圧を受けたわけです。だから、再現していきます。

 自分の精神を健やかに保つため、そして、創作活動をスムーズにしていくために、『これは、自分の精神を、むしばむ』と考えることからは、逃げる方が、正しいです。そして逃げた方が、意外にも強いのです。人間としては、追い出した方より、捨て去ることができる方が強いのです。

 まだ、四分の三残っているが、こういう書物が、出版されただけでも、萩尾望都おそるべしと、言わないといけないですし。ただ、武宮、萩尾の間には、政治は、挟まっていない。でも、増田さんという武宮恵子のファン(=お取り巻き)が挟まっていて、それが何らかの異様な状態を、引き出していくのだと、言うことは、残像という、エピソードを読んだだけでも、推察できるところだ。

 萩尾望都は、このエピソードを書くのが困難だと、考えていて、最初は、インタビューで、書物をまとめようと考えていた模様だ。しかし、インタビューを受ける前に、覚書を作っていくうちに、どんどん、どんどん、思い出が、よみがえり、結局は大部な本になった。

 私と、渡辺幸子さんとの葛藤は、渡辺幸子さんが、武宮恵子の立場であり、自分が萩尾の立場なのだけれど、随時、3000字から、30000字のブログで、委細を書いてきた。それで、心身の健康を維持できた。

 それは、銀座を中心とする美術界での話なのだけれど、居住地鎌倉の方では、安野智紗夫人が武宮恵子の側にあたり、私が萩尾望都の立場にあたる。安野智紗夫人をサポートする女性たちは、この書物の中での、増田さんにあたると思う。

 萩尾望都は、一時期、大いに苦しんだらしいが、河出書房新社から、こういう書物を、公刊として出版することができて幸せだ。祝福をしておきます。

 しかも、編集者穴沢女史、インタビューワー、佐藤女史、そして、一番、力を尽くした、マネージャー城章子さんなどに囲まれて、この本ができたのです。よかったですね。

    2021-6-8 雨宮舜(本名 川崎 千恵子)

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plasticの悪者扱いには、感無量である + 井上ひさしの超絶矛盾(禁煙運動を始めたくせに、養老先生を使役するとは?)

2021-06-06 22:37:53 | 政治

副題1、『私は若いときの化学実験の影響で、体が、特に弱いのです。全身の血管の弁が、閉まらない状態だと、聞いています。心臓には、特別大きな弁がありますが、全身にもあるのです。数千という数でしょう。それが閉まらないということは、血管もボロボロだと、思います。本当に低空飛行なのです。気力は旺盛ですが。科学の発達の犠牲者だといっていいと思います。1835年のナイロンの発明以来、87年間にわたって、化学製品が、この世の中に蔓延してきたのに、今、プラスチックが悪者になっています」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『NHKの画面(ニュースにしろ、ドキュメンタリーにしろ、)を見ていて、感無量である。それは、プラスチックが悪者になっていることが、・・・・・それは、本当に、本当に、大変化なのだから・・・・・79歳の長きにわたって生きてきて、それを見る、世の中の、大変化なのだ』

 鎌倉エージェントは、私がレオスカラックス監督の【ポンヌフの恋人が大好きなのを見て、レオスカラックス監督に、侮日映画を製作させることに取り組みました。川北記念館の、元の所有者、藤田氏一族の、経営するフランス映画社に、その企画を出したのです。

 その一族の遺族が、今、アビティというビルを、作っています。上の階は貸しマンションで、一階は店舗で、今のところ、ただ、一軒・腸詰屋が使っていて、あとは空き室です。その件について、経営者はボンボンで、腸詰やと、仲良しだから、腸詰屋のアイデアを取り入れているが、そのせいで、一階が全部空いていると、書いています。腸詰やには、ひどいことをされた過去があるからです。

 むろん、腸詰やの後ろには、伊藤玄二郎や、前田祝一がいたわけです。すべては、政治、政治として、生起する出来事ですが、私の方は被害者です。そして、私は、被害は、すべて記録する主義ですから、いずれ、こちらも詳細に、語るでしょう。

 で、一階を、腸詰や以外は、だれも借り手がない件ですが、植栽が、全面にあて、入りにくいことと、腸詰やの、文化程度が、『ああ、そういう人なのですか!』と、言ってみているほかはないのですが、よーろっぴあん風チンドン屋、なのです。とても派手ながらくたが、前面においてあり、カラフルです。

 これでは、ほかのテナントが、気おされて、目立ちません。そういうことを気にしないのが、腸詰屋です。で、テナント募集と書いてありますが、すでに、一年以上腸詰や以外の4室は空き家です。

 経営者一族は、伊藤玄二郎と井上ひさしの言うことを聞いて、恐ろしい侮日映画、【TOKYO(第二部)】を作り上げました。これは、海外で、上映されると、大変なことになる映画です。三部形式で、一部と三部は、上等な実験映画です。特に三部は、韓国のボンジュノ監督が製作していて、その後、ボンジュノは、アカデミー賞もとりましたね。だから、この映画【TOKYO】は、レンタルDVD、もしくはネット配信で、人気が高まるかもしれません。

 捻りにひねってあります。だけど、海外の人が見ると、日本がいまだに、軍事優先国家だと、認識されるでしょう。井上ひさしという人間は、9条の階を作り、【父と暮らせば】という戯曲も書いたのですが、

 フランス映画社を、使い、かつ、レオスカラックス監督をも使って、日本という国をからかいきる映画を作ったのです。伊藤玄二郎は、井上ひさしと、二人は折戸言ってよいほど、密着していますので、彼も、戦争反対でありながら、日本がいまだに、軍事国家であると、言うイメージを海外に与える様な、日本とか、日本人を、からかいきった、映画を作ったのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『養老孟司先生の、番組が、新聞にしっかりと、再放送の予告がでていながら、急に夜の九時、開始予定時刻に、「本日は、放映をしません」と、言うテロップだけが出て、野球が五分、不必要な、ハイライト、という部分を入れて、放映をされ、次に千葉の、花のガーデン(猫がたくさんいる)の映像が、埋めたのは、

 心筋梗塞が、発見される日に、「歩いて病院へ行って、即座に、集中治療室へ入ることになったのです」と、養老先生が、初回の、放送(ただし、これは、まると一緒の養老先生を、語る最初の番組の、4つ目のバリエーションだったのだが)内で

 おっしゃった部分を削って、放送をする予定だっただろうが、(時間が、20分も短縮されていた)短縮されたら、されたで、私が大問題とするはずだから、急遽、放映そのものをキャンセルにしたのでした。

 どうして、私の心の中が、敵さんに分かったかというと、その放映の、二日前に、私が【養老先生、病院へ行く】と、言う書物をクレジットカードで、買ったからです。それを読めば、歩いて、病院へ行ったのではなくて、東大病院までは、車で、いらしたのです。病院へ入ってからは、歩いて、各部屋を移動されたとは、思いますが、歩いて病院へ行き』というセリフは、嘘に近いものです。視聴者は、歩いてだと、旧佐藤病院(今はふれあい病院という名前)、清川病院、ヒロ病院、額田病院(これは、シャトルバスが、駅まで、出迎えに来る病院)の、四つがあり、そこだと、考えてしまいます。これは、井上ひさしの時も、不思議だ、麻矢さんは、嘘をついていると、考えたのですが、養老先生の場合も、『不思議だ。嘘ではないかなあ?』と、3月12日の放映の時には、思いましたよ。

 2010年の4月に、井上麻矢さん(前夫人好子さんとの間にできた娘さん、特に三女)が、「父は、歩いて病院へ通いました」というのも、嘘だから、井上久は、死んでいないのだと、私が行っています。井上ひさし邸から、歩いて、通える病院は、鎌倉市内(特に、山の内側)には、合計四つあります。しかし、車を使えば、山の外に、合計四つ、山の内外を合わせれば、8つありますが、どの病院の医者尾、記者会見をしないし、デスマスクも公開をされていません。麻矢さんのセリフは、アンパンが好きで、最後まで、食べていました」と、言うのを含めて、嘘が満載です。こまつ座を、率いてきたのは、長女だったのに、急に三女を、引き揚げて、後継者としたのは、三女は、子供がいるし、離婚をしているので、それなりに、したたかだから、平気で、嘘がつけるので、選んだのでしょう。

 井上ひさしは、母親に養育放棄をされて、孤児院(カソリック経営)で育った人だから、中流家庭でそだった普通の人間には、思いもよらない、程のレベルの嘘つきです。

 でも、その嘘を、養老先生が、洗浄化してあげるために、番組内で、視聴者に、誤解を与える様な、発言をなさったということは、がっかりというか、なんというか、何とも言えないところがあります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『現代のメディアで、報道をされることは、一部の、特権階級の内側で、お互いが、なめあって、助け合って、人的コネで、行われるケースが多いので、・・・・・政治も同じですが、・・・・・養老先生も、井上ひさしとは、何度も会食をご一緒になさったことがあろうし、(そのうちの何回かは、佐助の、森の中の邸宅で、百合夫人の手料理をいただくという経験もあったであろうから、

 頼まれれば、ああ、いいですよ。そういう風に言いましょうと、受合われたのだと、思います。

 ここで、それを依頼したのが、伊藤玄二郎だったのか? それとも、公的には死んだ事にしているが、実際には、まだ、生きている、井上ひさしに、出会って、直接頼まれた可能性もありますよね。

 わたくしは、音(特に鎌倉市の防災無線の放送内容)とか、NHKが報道する、出来事とか、銀座で遭遇する出来事とか、鎌倉市内で、遭遇する出来事で、すぐ、井上ひさしが、生きていると、わかるのですよ。

例えば、本日は、駐輪違反監視員二人が、鎌倉市内で、私の目の前を、横切りました。しかし、背中には、目的を書いたゼッケンがなかったです。これは、室内の、夫婦間の会話を盗聴しているので、本日はお墓へ行くと、言うことと、金曜日に、武蔵小杉で出ている処方箋を、薬と、交換すると、言う予定があるのを知って、出没させたのでしょう。前報は、主に、井上ひさしの悪辣さを描いている文章ですから。あの監視員は、警察の管理下にあるそうです。養老先生は、ご自分の、「歩いt、病院へ行ったと、言うセリフが、問題だと、言っている私を警察を使って脅かしになる様な方でしょうか? 自分が失敗したら、警察を使って脅かし手、口をふさぐって、ご近所の石川和子さんが、筆頭ですが、まあ、ご近所の安野智紗さんも、有楽町駅に、禿頭の、警察官(JR東日本の駅員に化けていた)に、切符を二重取りさせて脅かしてきました。それと同じレベルでいらっしゃるのでしょうか?

まあ、井上ひさしと、伊藤玄二郎が警察に、要請したのだと、思いますけれど、養老先生に対しても、百年の恋も冷めると、言う感じでしたね。本当に、下品極まりない形での、言論弾圧行為ですから。

 生きている井上ひさしと、直接会っている可能性のある人物として、もう一人、林真理子さんがいます。しかし、こちらについては、本日は、踏み込みません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題5、『6月6日、HACドラッグの前に現れた、監視員は、駐輪違反という腕章をつけてはいたが、ゼッケンをつけては、いなかった。しかし、この手の制服を着た監視員だが、銀座では、駐車違反監視員と、言うゼッケンをつけて、一応、役に立つ仕事をしているみたいに見える。しかし、本当は、私に対して、嫌がらせをやっているだけなのだ。

 銀座には、裏路地めいた道路がある。そして、そこに、違法駐車をしている車が無きにしも非ずだ。だが、鎌倉には、あまり、そういう車はいない。したがって、駐輪違反監視員と、言うゼッケンをつけて活動をしていた。しかし、鎌倉駅周辺には、合計、四つの駐輪場がある。少し遠いが、おなりにあるのなど、二階建てだし、で、違法に止めている自転車など、無い。ほかの町とは、違うのだ。さすが、観光を売り物にしている自治体である。駐輪場も、屋内のものさえ有って、自転車の下に、ごみがたまっていることなど、皆無である。

 で、目的が違うでしょうと、書いているが、それで、今度は、受動喫煙監視員と、言うゼッケンをつけて、動き始めた。しかし、主に、三菱銀行の前に立っている人間が、ひとりでいて、どういう風に動くかを、ちょっと振り返ってみたら、五分もたたないうちに、消えていた。これは、浜銀の前で、核兵器根絶運動の署名を求める、男性についても同じ。いつも同じ人間が、担当している。

 前報を書いたからこそ、警察が脅かしてくるのだから、本当に現代日本とは、いやな国である。養老先生は、友人の車で、鎌倉から、東大病院まで、連れて行ってもらったと、語っておられる。しかも、東大の方では、中川恵一、医師に、26日の、予約を取って、行かれたのだ。だけど、テレビ内では、あたかも、ただ、散歩のついでに、医院によって急遽、診断が下り、・・・・・云々、カンヌンと、おっしゃっている。まあ、何とも言いようがない。

 本日の外出は、横浜ジョイナス(旧名ダイヤモンド地下街)に在る有隣堂の、平台で、養老先生の、著書類を、観察してきた。井上ひさしが、400冊の著書数を誇っていて、

 養老先生の方は、「コロナ禍で家にいるので本を整理した」と、おっしゃるのにかぶせて、上白石萌音が、「養老先生は、100冊の著書を出されて」と、言っていた。これも、井上ひさし擁護である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題6、『養老先生とまるを共演させたドキュメンタリーは、ネコメンタリーを、最初のものとして、何度も何度も、作られてきているが、

 それは、私が、気に入って、録画したものを何度も、繰り返してみたからだった。わたくしが、どうして、それを気に入ったかというと養老先生が、紫煙をくゆらせながら世間を、ぶんせきする様子が、言葉、内容、すべて好ましくて、そうした。時間を隔てて、四回ぐらい、見聞した。

 だけど、ここからが、大、大、矛盾なのだけれど、受動喫煙防止条例は、私の文章を読んで、そこから、攻撃の種を拾う、井上ひさしが、起こしたのだった。

 【一本の煙草が落ちていて】と、言うエッセイを書いた。まったく新しい一本の煙草が、駅のベンチの上に落ちていて、『どうして、こんなところに、たばこが一本落ちているのだろう?』と、いぶかしくおもったところから、

 それを書いた当時、すでに、始まって居た禁煙運動への疑問を書いた。それを、K’s ギャラリーのオーナー、増田清美さんが、ほめてくれた。画廊でだが。

 山口みつ子さんの画廊は、完璧に盗聴をされていたのだけれど、増田きよみさんの画廊も盗聴をされていたと、思う。どうして、あそこが盗聴をされていたかというと、私が、画廊のオーナーとしての増田さんの審美眼について、高い評価を与えているからだった。ギャラリーbeauxの、平野和子さんの、審美眼も、いいのだけれど、増田さんの、審美眼も結構です。

友達が、メールとか、電話でほめてくれた文章は、必ず攻撃の種となるのだった。ここでは、詳細には語らないが、鶴岡八幡宮境内にあった、コンクリート製の蛇口が、黒御影石のものへと、変更になってしまったが、そうなると、それを、作った当時のテキヤと、呼ばれる人たちの戦後の、身分開放の、気運に乗って、大喜びをした、様子が消えてしまう。こういう例は、いくつもあるのだけれど、

 禁煙運動の、行き過ぎの、忌まわしさについて書いたら、急に受動喫煙禁止条例となった。養老先生も、ストレス解消と、言うプラスの役目と、肺がんになる可能性のケースについて、ご自分は、ストレスを避ける方を選ぶと書いておられる。

 わたくしは、それを読む以前から、考える人には、たばこが、役に立つので日本の文化は、低劣化するだろうと、言っている。

 井上ひさしが発案をして、伊藤玄二郎が、松尾茂文、当時の神奈川県知事を、動かして、決めて行ったことなのだけれど、その二人の言うがままに、動かされておられるのが昨今の、養老先生なのだ。歩いて、病院へ行ったというのは、まさしく、そのポイントを象徴している。

~~~~~~~~~~~~~~~~

副題7、『レオスカラックス監督は、デュポンの一族の出身だそうだ。大金持ちの出自がある人だ。で、世界を牛耳っている、200家族の出身なので、フリーメーソンなどにも入っていて今般、養老先生が、井上ひさし(もしくは伝達者の、伊藤玄二郎)の依頼を受けて、視聴者に誤解を与える「歩いて病院へ行って、即座に集中治療室へ入った」と、言うセリフも、ほんとにさりげない、要請だと、考えて応じられていると、思うし、カラックス監督の方も同じなのだろう。

 しかし、レオスは、ばかではなかった。日本のスタッフに「感謝します」と、言い残して、たった二週間で、帰国した、脚本はないも同然の映画なので、日本人スタッフとキャストは、どういう映画になるのか、皆目見当もつかず、ただ、ただ、立派な監督の作品に出られることに喚起していたのだと、思われる。

 これは、本当に井上ひさしの初案だと、推察するが、彼は、レオスカラックス監督に、日本に対する興味を、失わせたのだった。レオスは、自分が忌まわしい仕事をしたのを知っている。日本人を馬鹿に仕切っていたら、「どうせ理解されなかったでしょう」と、内心で思って、知らん顔をして、来日するかもしれないが、

 わたくしが、この映画の本質を見抜いて批判をしていることは、川名昭宣君か、奥島孝康氏から、伝わっているので、そりゃあ、恥を感じているでしょう。

 ただね。ここまでの、文章は、すべて、前置きにしか過ぎないのです。

 わたくしが、本日、本当に言いたいことは、

 ナイロンが、デュポンで、カローザスによって、発明をされたのが、1935年だそうです。

 ナイロンも、そのほかの、ポリエチレンなどの、化学繊維も、炭素が、鎖状に、横につながってできています。そのところどころに、窒素と酸素がくっついているのですが、あと、一つの炭素に、普通だと、二つの水素が付いています。そして、数えきれないほどの数の炭素が、横につながっているので、ナイロンという丈夫な、繊維ができました。

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副題8、『理工学部においては、学部、および大学院まで、時には、研究職になっても、上司(大学教授または、主任研究員)と、論文は、共著であることが多いのです。で、研究テーマは、たいていは、教授から降りてきます。

 実際の実験とか、研究の労働部分を行うのは学生です。部下の方です。わたくしは、1965年、当時、日本化学会の俊秀としてNHK3チャンネルの高校化学を教えていた湊宏先生の、命令で、こう耐熱性プラスチックを作っていました。言え、結局はできなかったので、作ろうとしていたと、言うべきです。

 どうして、できなかったかというと、原料が、芳香族炭化水素といって、石油から出てくるものの中でも、特殊なものだったからです。

 ポリエチレンなどというものは、原料が、たいへん小さい分子量のもので、二重結合が、一つだけ入っているものです。で、そこが切れやすくて、ほかのエチレンと、手を結ぶので、ポリ(高分子、化合物ができるのですが)

芳香族というのは、ベンゼン核といって、二重結合が、三つ、輪を作っていると、言う、石油製品なのです。エチレンと、ブタンまでは、常温では、瞬時にガス化しています。しかし、ベンゼンから、トルエン、キシレンとなると、液体の、まま、瓶に詰めておくことができます。

 そして、社会の中では、溶剤として、主に使われます。油絵具をとく油のうち、ぺトロールとして、売っているのは、こう言う物質の混合溶液です。

 しかし、油絵作家は、植物系のオイルを好みます。リンシードとか。けしの実からとれる油です。

 しかし、塗装業関係では、長らくトルエンが、使われてきました。より分子量が小さいベンゼンだと、気化が早すぎて、塗りむらができます。より分子量が大きい、キシレンだと、乾きにくくて、次の業者、または、注文主への納期に送れます。特に二度塗りしたいと、思っている際などに、キシレンは、無理です。しかも、それだけお高いですし。

 ただ、通称、亀の甲などと呼ばれている、構造が、がっちりとしていて、二重結合が、切れにくいのです。ですから、プラスチック(ポリマー=高分子化)はできなかったのです。しかも、実験装置に無理があって、突沸という現象が起きるので、500cc全部を吸うという形でした。もちろん、部屋全体に拡散するし、廊下側の窓も、庭方面の窓も開けているときはありました。

 だからのちに、不良少年が、それを、袋に入れて、気化させ、吸引して酩酊状態に陥るなどということはありませんでした。その実験を行っている最中は、別に異常は起きなかったのです。しかし、五年ぐらいたつと、後遺症が現れてきて、疲れやすくなりました。でも、言語化することができなかったのです。

 しかし、横浜東本郷住宅で、もっとも、良き友人だった人が、毎日我が家の方に、親子とも、来ていて、夕方まで、いて、私は、疲れ切ってしまい、「もう、お付き合いをやめましょう」といったのですが、彼女には、その本当の原因がわからず、恨まれてしまいました。その後、彼女は、広島へ、引っ越していきました。ご主人の転勤でです。そして、急に日本ペンクラブの会員になり、同人誌に寄稿をしていると、言ってきました。そして、広島市内のエリート女性として、自身を得た彼女は、お子さんを二人とも医者にしました。で、今では、ご近所主婦から、「おお奥様と、呼ばれているそうです。単純に、奥様と、呼ばれるのではないのよ。おお奥様なのよ」と、言って、笑っていました。

 彼女は大変に頭の良い人です。ただ、鶴見の短大を出て、幼稚園の先生を、昔していた人でした。ご主人とは、お見合い結婚でした。が、たまたま、ご主人が、外語大出身なので、1960年代から、国際キリスト教大学のことを知っていたのです。それで、当時は、入学が大変難しいことで、有名だったので、この・おお奥様も、私のことを尊敬してくれていました。二人で、話した内容は、非常に高かったと、思います。

 その当時、主人が、「お前は、軽く人をあしらうということを知らない。まともに受け止めすぎるから、疲れるんだよ」と言って居ました。今なら、それが、できます。それは、ニューヨークアート修行中に、若い女性(特に日本人)に、仕事の妨害をされて(それも、私がお金持ちで、才能があるという部分に嫉妬したのでしたが)期限が、三か月と決まった中で、家族に犠牲を強いてまで、やってきている私は、彼女たちと、喧嘩をしました。言葉で、状況を説明するだけで勝ってしまうのです。だから、2000年以降の私だったら、このおお奥様と、「お付き合いをやめましょう」といわずに済んだと、思うのですが、当時は、どうしても、追い詰められ切って、いてそういうこととなりました。

 しかし、幼稚園の先生だった、女性が、急に日本ペンクラブの会員になるというのは、とっぴすぎます。当時は、二人とも、下の子が、二歳以下だったので、文章を書くなどという趣味も持っていませんでしたから。

 しかし、広島に引っ越したのちに、35歳以下で、日本ペンクラブの会員になったと聞いて、この時から、井上ひさしは、私をいじめたり、弾圧する役目を担っていたのだと、気が付きました。つまり、私と何らかの関係がある人は、特にライバル関係を設定すると、喜ぶ人は、みんな、持ち上げられるのだと気が付いています。それの例は、こののち枚挙にいとまがないというほどに現れるのですが、本日は、一例だけ上げました。

 養老孟司先生の、項目に、この広島在住時に、日本ペンクラブの会員になった人を、同時に記すのは、二人とも、井上ひさしの支配を受けていると、言う意味で、きょうつうするからです。

 この体の弱さを言語化する様になったのはイスタンブールで、四時間も気絶をしていて、蘇生術を施されたからでした。帰国して、日本のお医者さんに、いろいろ、質問をして、体がだめになっていることを知りました。

 この私の体がだめになったのは、プラスチック全盛時代に、新しい、プラスチックを作り出すという社会的要請に従っただけで、先生に悪意があったわけではありません。

 でもね、今、石油が悪者化していて、かつ、石油からできるプラスチックも悪者化しているのを見ると、感無量です。

 なお、私が、ほかの人は気が付かないであろう、ミスター富沢の、障碍者手帳一級の、原因が、三菱重工が、核燃料棒製造を、久里浜で、立ち上げたことに携わったからだと、推察しているのも、ケミストだからです。

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朝日新聞のラテ欄には、養老先生の番組があると言って居るのに、急に九時に中止。その本当の理由は私が真実を書く筈だったからでしょう?

2021-06-05 20:56:45 | 政治

 この一章は、最初の総タイトルを【今から、NHK(1ch)で、養老先生とまるの再放送があります。お暇のある方は、ご覧頂きたく存じます】としておりました。

確かに上の写真の通り、先生の番組が、再放送としてあります。しかし、不思議なことに、40分間です。そして、9時40分から、別の番組が始まります。

 わたくしは、すぐ、は、ハーンと、意味が解りました。何の意味か?

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副題1、『急に番組を引っ込めたのは、彼らが、私が、書く予定の文章に対して、ビビったからだった。ということは、伊藤玄二郎と、いまだ、実際には、生きている井上ひさしがいかに、この【養老先生とまる】という番組を大きく利用をしているかを、あきらかにしている』

 それは、前報と、全く同じコンセプトで、敵さんたちが、自分たちが勝つために、養老先生を利用していることの、第何回目かとして、「また、養老先生に出場していただこう」と考えたからです。

 そして、最近、立て続けに、利用している大勢の、有名人の”トリ″を飾る方として、絶対の、有名人である養老先生を使えば、結果として、自分たちが勝ちとなり、あいつも、へこむさ、うつ病になるさと、考えているのでした。最近気が付いただけでも、門野英子さんが、2018年に(カラフル魔女云々】と、言って、取材に応じた、番組(一時間半か、二時間)を放映し、その次に、林真理子(あさイチやニュースの中で、8050について、取材するという形で)、を、大きく大きく盛り上げているのでした。林真理子の方にも、あれこれ、語らないといけないことがあるのですが、ここでは、そちらには、踏み込みません。

 と、同時並行的に、日曜美術館が、立て続けに、私が書いていることを否定するために利用をされます。酒井忠康氏と、水沢勉氏が、登場したのは、ベーコンの章で、ちょうど、竹屋画廊が、閉鎖になったいきさつを、桐村茜さんと、からませて描いた(後注1)、その数日後でしたね。

 そして明日(7日)は、上條陽子さんが、午前九時から、【パレスチナの子供たちの絵】と、言う表題で、日曜美術館に、出演します。上條さんって、1990年代は、本当にきれいな方だったのですよ。脳の病気の影響が予告編では、出ていました。でも、それを、どっちでもいいと考えて、パレスチナの、子供たちの、絵を、日本にもってきて、反対に、画材等を、持って行っている、ただひたすら、そういう活動に、集中している姿が、登場します。(後注2で、上條陽子さんには、触れたばかりだった)

 しかし、彼らが、急にその養老先生の番組を引っ込めたのは、私が、6日の夜、8時ごろから、この番組について、言及するつもりであり、しかも、彼らとしては、想定外の、論点に、踏み込むことがわかったからでしょう。

 わたくしは、彼らが考えているほど、頭が悪くはありませんよ。敵方の行動や、動きについて考えるときに、『どうして、だれもが、こんなにあほなのですか? 伊藤玄二郎は、安野夫人の支配を受けているのですか?』 というほどに、考えていることが、彼らの方は、単純です。だから、すぐ心の仲が読めます。

 雪の下のご近所様が、行うことについては、・・・・・常に、安野智紗夫人と仲良くすると、みんな、馬鹿化する・・・・・と、言っています。でも、養老先生は、雪の下に、住んでいるわけではないでしょう。NHKが、養老先生の、住所については、番組内で、嘘を言わなかったと、仮定すると、東勝寺橋を渡った先にあるそうで、それは、住所としては、小町のはずです。または、滑川を渡るので、違うかな? 井上ひさしが、我が家から、西南西600m離れた、丘の上に住んでいて、養老先生は我が家から、東南東に、600m離れた山の中に、住んでおられるというわけで、なんという三角形だろうか?と、苦笑をしてしまいます。

 だけど、伊藤玄二郎と、井上ひさしが、私のクレジットカードの支払い記録を見て、すぐさま、養老先生に、語らせた、

 歩いて、病院へ行って、即入院となった・・・・・という部分を削除している、上で、再放送をすることを突っつかれるのを恐れたからでしょう。

 その歩いて、病院へ行ったと、言う表現こそ、2010年4月9日以降、娘の朝や山河、繰り返し述べた、

 それが、本日のメインポイントです。もともとが、1時間の番組だったのに、朝日新聞のラテ欄では、40分に縮小されています。そのさい、・・・・・歩いて病院へ行ってみたら心筋梗塞だと、言われて、即集中治療室に入った・・・・・と、言うところが削除をされていると、私は、想定したのです。そういう風に私に書かれてしまうことが、彼らCIAエージェントにとって、恐怖の的なので、番組そのものを、急遽放映をしないこととしたのでした。

 表向きの理由は、野球が伸びたからと、言う風に言うでしょう。しかし、野球の勝負は、九時前に、ついていて、あとの、わざと伸ばした五分間は、ハイライト、といって、勝負の勘所をまとめたもので、養老先生の番組に、別に政治的意図がなければ、養老先生の番組を、新聞の予告通り、流していいのです。

 しかし、私に、そこを突かれると、こっちは、ぐうのねもでないなあ。困ったなあと、思うポイントが彼らの方にあったので、急遽番組を、引っ込めたのです。如何に私の追求ポイントが正しいかがわかります。

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副題2、『かれらは、6日の二日前の、4日に、すでに、これを、急遽ひっこめる案を、作成していたはずだ。というのも、私は、3日の夜に、養老先生の新刊【養老先生、病院へ行く】(エクスカレッジ刊)という書物を買っていた。しかも、クレジットカードを使って、ほかの2冊ともども支払いを済ませていた。で、私が、その書物を読み始めていて、それをブログに使うことを、伊藤玄二郎と、井上ひさしは、十分に推察していたのだった。それで、二人は、急遽、NHKに、番組を引っ込める様に、要請したのだった。

 クレジットカードを使うと、そういうことが起きる可能性があるのは、2013年、京都の美術館のショップで、あれこれ、竹久夢二関連グッズを買ったときに、京都市営バスが、なんけいとうにもわたって1時間以上、運休し、バス停傍に、千人を超す人のたまりができたので、よくわかってはいたが、

 そことは、違って、一億二千万人を巻き込む、急なキャンセルなど起こす・・・・・これほど、派手に、動かれるとは、知らなかった。それほどに、伊藤玄二郎と、井上ひさしは、ビビりなのだ。養老先生には、どういう理由をつけてお断りをしたのだろうか? むろん、養老先生は、超有名人だし、超お金持ちなので、一回、予定番組が消えようが、消えまいが、気にもなさらないだろう。

 しかし、現実問題としては、伊藤玄二郎は、また鬼の首でもとった様に、私の悪口を告げていたはずです。一方、その同じ時間帯、私は、信じがたいほどに美しい声で、何やらの器楽曲(らしい)メロディーで、お歌が口をついて出てきたのです。ドリゴのセレナーデに似ているが、きっと違うメロディーです。

 2000年のニューヨークの版画工房で、【よよ】という日本人女性版画家が、いじめてきたので、ふと、ソルベイグの歌が、口に上ってきたのでした。すると、ホアレスという、普段は、超露悪的で、私に対しても憎々しげに、見つめるばかりだった、南米出身の、版画家(後で、彼が、孤独死したのちに知るのだが、同年齢だった)が、すっと、近寄ってきて、静かに、「マリアカラスみたいだ」といってくれた時よりも、よい声が出たのです。ちなみにホアレスが、何時も憎々しげだったのは、私が、彼と比較をすると、信じがたいほどの、お金持ちだったからでした。ホアレスが、毎日、ザラバン紙に包んで、お昼に食べている、サツマイモ入りの蒸しパンが、彼の三食の主食だなんて、私には、想像もつかないことだったからです。

 さて、伊藤玄二郎と、井上ひさしは、CIAエージェントとしての特権があるので、私がメディアには乗れない様にありとあらゆる手段で、妨害をしてきています。このブログもメルマガも、わたくしにしらされているよりは、ゼロが、一つか、二つ、多い数の読者がいることは、2012年、かれらが油断しているときに、知りました。しかし、それ以降、アフリエイト収入も何もない苦境に置かれています。東大というシステムを利用する。直木賞を利用する。芥川賞を利用する。

::::::::、あ、ここで、挿入ですが、石塚雅彦さんというこのブログの登場人物の常連の紳士の奥さまは、現在の皇后さまと、同じ名前、雅子さんです。望月画廊で、何回かご一緒したときに、小さな声で、私が「文芸春秋社の、社長のお嬢様なんですよね」と言ったら、彼女は、別に、きっとした様子でもなく、ゆったりとした感じで、「違います」と、のたまわったのでした。

 むろん、その否定の方が、嘘なのです。彼女は佐々木茂索の令嬢です。夫の雅彦さんより、ずっと、人間味があると、思われるのに、平気でうそをつきます。

 だから、その伝で、西隣の小野寺夫人も、2020年4月15日、あまりな態度を目の前で、見せつけたので、「あなたは、東大卒なのに」と言ったら、それこそ、目くじら立てて「違います」と叫んだのです。だけど、彼女は、二級建築士を養成する専門学校の講師をしていたのですよ。理事長が、女だけれど、荒くれ少年たちが、従うと判断をしたのは、あなたが、東大卒だから、少年たちが言うことを聞くだろうと判断をしたからでしょう。それに、以前、早稲田を、目下に置きましたね。早稲田を目下に置けるのは、東大だけでしょうに。まあ、慶応も早稲田を目下におけるかもしれませんが、慶応に、建築学科があっただろうか? 1970~80年だいに、すでにありましたか? 上智には?

 まあ、嘘をつかれるのは、それだけ、軽んじられているということと同義ですから、気持ちの良いものではありません。ただし、その嘘によって、小野寺夫人の立ち位置がわかるので、彼女からの、被害を、受け止める、ことができて、楽になりますね。騙されないですよ、表面は騙されているふりをしていますが、絶対に騙されないです。::::::というスピンオフを入れて、元へ戻ります。この部分は、嘘という語彙で、統一しますと、言った前報(後注3)に書き足したかった、部分なので、ここに入れます。

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副題3、『井上ひさしの、死後、娘の麻矢さんが、父は歩いて、病院へ通っていましたと、言った。それで、そこからも、井上ひさしの死が、嘘であることがわかった。彼の家は、佐助稲荷の近所の森の中にある。土地は、2000~3000坪所有している可能性がある。しかし佐助稲荷を、鎌倉駅から、普通の順路で、訪れたことのある人なら、知っているはずだけれど、彼の家の近傍の道路は斜度が、旧なので、コンクリートでできていて、丸いすべり止めが、打ってある。その急坂を知っているはずだ。そこを肺がんで、瀕死の人が、一週に一回、または、月に一回、通えますか? ともかく、天然自然林が、1000坪以上ある敷地内で、ポツンと、一軒家風に暮らしてる家で、いまだに、生きていますよ。

 しかし、さすがに、これは、失敗だったと、思っているみたいで、したがって、養老先生にも、同じ言い方をさせたのでした。自分が麻矢さんに否定をさせればいいのに、違う方法で、逃げようとしているのです。ずるいずるい人間です。

 そして、養老先生は、3月12日放映の番組では、確かに「歩いて、病院へ行ったら、即入院になった。ちょっと具合が悪いので、歩いて病院へ行ったのだけれど、即、集中治療室へ、運び込まれて、即手術で、即入院だった」と、おっしゃったのです。これは、変異体4にあたる番組内での発言です。まあ、ヴァリエーションというべきでしょうが、コロナ騒動で、変異体と、言う言葉が蔓延しているので、お借りしました。

 しかし、私は、この3日(水)に、本屋の平台に、上記の本を見つけたときには、おや、おや、養老先生は、こういうご本をお出しになって、NHKのまると、一緒の最後の番組で、おっしゃった、歩いて病院へ行くと、言う話は、どうなるのですか?

 一般的に言うと「歩いて、病院へ行く」というのは、鎌倉市内の病院を想像をさせますよね。井上ひさしの発言の時も、どこの病院だろうと、大いに惑わされました。が、今度も、大いに惑わされました。主人も、2016年に、心筋梗塞を患って、大船の湘南鎌倉総合病院へ救急車で、行きました。わたくしが勧めたのです。その日は、孫(当時は、幼稚園児だった)とデートをする約束をしていたほどだったのですが、様子をはたで、見ていたわたくしが、『どうしてもおかしい。変だ』と、主張したのです。養老先生も、奥様が心配をされていることが、医療体制に組まれたくなかったのを、捨てた、理由だったと語っておられます。

 でね。この本の、20頁、一行空欄があって、それを入れて、7行目に、(2020年)6月26日、友人の運転で、鎌倉から東大病院まで、連れて行ってもらいました。とあります。数行後に、それも書いてありますが、一人ではなくて、奥様と秘書が一緒です。

 この時、車から降りて、心電図をとること、血液検査を、受けること、中川恵一先生の、部屋に入るまでと、そこでの、問診が終わって、待合室に戻るまで、は、養老先生は、自力で、歩かれた模様です。それが、20頁の二行目の、・・・・「今から思うと、この日に、診てもらえなければ、自力で、病院にたどり着くことは、不可能だったかもしれません」と、あります。その自力という部分を、「歩いて、病院へ行きました」と、換言をなさったのでしょうか?

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副題4、『NHKが、急遽、引っ込めた裏側と、私のブログとの関係は?』

 特に、下の、紫色のフォントぶぶんを書きおわったのが、JUST 9時だったのですが、その瞬間、NHK一チャンネルの画面が、「養老先生と、まるは、放映をしません」と、画面で、言ったのでした。そして、野球中継を、五分間、伸ばして、その後、千葉県で、猫が案内する、フラワ-ガーデンを取材した番組を、9時50分まで流しました。その後は、どうなったかは知りませんが?????

副題(仮の)1、(本当は、副題2の中の、一部分となる)『これは、3月12日に、総合チャンネルで、放映をされたものの、再放送だと、思うのですが、いろいろ、論じたいところがあります。養老先生を、伊藤玄二郎が、どういう風に利用を、しているかというポイントで、論じないといけないところがありますので』

この紫色のフォントの、所に人名として、井上ひさしも入れないと成りません。ただ、公的には、自分を死んだことにしている井上ひさしは、いまだ、実際には生きているのですが、養老先生に、「自分は、いまだ、実際には、生きていて、地下潜航をしているのですよ」と、明らかにしているのかどうかは、知りません。養老先生は、それをわきまえて、彼に協力をなさったのでしょうか?

 それとも、妙本寺をお散歩する(これは、一回目の、変異体2として妙本寺が、付け加えられたのだけれど、なぜ、妙本寺が重要なのかは、後半副題αで、詳述します。)映像が、付け加えられていました。それだけ政治的意味合いが増えて、生臭くなっていましたね。

 第二に、これも変異体2に、養老先生が、鎌倉の古い写真を見ていて、『頼まれたから、やらないといけないのですよ』と、おっしゃるセリフがあって、これは、図書館長を洗浄化してあげるためだったと、思います。これも、どういうことかは、後程、詳述します。(副題β) これも、第一回目と、比較すると、生臭さが、増えて、養老先生が、伊藤玄二郎達に、利用をされていることが明瞭にわかる場面でした。

 第三に、これは、変異体3に、登場した画面ですが、養老先生が書棚の掃除をしておられる場面が出てきて、先生の著書が、100冊を超えていると、ナレーターが言いました。それは、明瞭に、井上ひさしの、しのぶ会での出来事を洗浄化してあげている言葉でした。

 NHKテレビは、訃報は、伝えます。そして、その人の業績を、短く、映像と、ナレーションで、説明をします。しかし、お葬式の模様を放映することはありません。ライブではですよ、あとでドキュメンタリー番組のデータとして、報道をされることはあります。たとえば、大原麗子さんとか、大島渚さんとか。

 緒方貞子さんもそうです。没後、緒方貞子特集があった際に、一時間の中に、お葬式や、しのぶ会の映像も含まれていたと、思います。

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副題5、『井上ひさしだけは、死亡日直後の訃報についても莫大な、時間を使って、NHKがあれこれ、報道をしたのだけれど、死(仮装の死ですよ。本当は、死んでいません。そして、死後、そうとうな、時間が過ぎてから、しのぶ会が」開かれました。その会場ですが、きらびやかな、壁紙の貼ってある、結婚式などにも使えそうン、海上でしたが、舞台があるというホール形式が、結婚式には、向かない場所でした。

 6月は、通常、株主総会の、開かれる季節です。が、株主と、経営者側は、対等を、強調するのが、良しとされるのか、舞台は、無い会場で行われ、社長のお顔が、よく見えないと、言う形が、多いのに、井上ひさしの場合は、1.2mぐらい床よりも高い舞台が、あるホールが、使われたのです。

 

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