この章は、総タイトルをいろいろ、変えていく可能性があります。
なお、この章で、私が表現したいことは、義妹や、夫への恨みや、復讐ではなくて、企業による、洗脳なのです。
一般人が騙されている部分の洗脳です。が、とても、緩いものを指します。政治的にグイっと、来るものではなくて、緩いものです。だが緩いからこそ、それを阻止するのが、難しい。そういう種類の洗脳を問題といたします。・・・・・というのは一般の日本人、または、世界中の人が騙され切っているので、回復させるのが、困難なウソのことです。
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副題イ、『あるテレビのバライエティ番組で、小泉孝太郎に、質問をする場面があった。MCが、「何が好きですか?」と問うと、「僕は、柔軟剤が好きなんです。いろいろ、研究しているし、集めてもいます」と答えたのです。・・・・・おや、おや、これは、困った現象だなあ。本当は、これを種に一章を書かないといけないが、小泉孝太郎君の父親、小泉純一郎氏は、CIAに、いじめられている人だから、その長男を、取り上げるのは、やめておこう。わたくしが、どうも、大物らしくて、私が使う製品が、次から次へと製造中止になるし、私が、使う語彙・・・・・例えば、一部上場企業・・・・・が、つぶされて、プライムという名前になったし・・・・・だから、私が、ここで、取り上げることによって、小泉孝太郎がテレビ界から、干されたら困るし・・・・・と思ったことがある』
小泉孝太郎君というのは、両親が離婚をしてしまったのですが、秘書やお手伝いさんもいる大家族の中で、育って、決して、いじけているわけでもない、素敵な青年です。お父さんの姉君が総責任者として育ててくれたのですよね。とても上品です。最近のタレントで、彼ほどに、育ちの良さを感じさせる青年もいないでしょう。
しかし、この「柔軟剤が好きです」という発言を聞いたときに、やはり、両親の離婚が、トラウマになっていたのだと、感じました。これは、強迫神経症の、一種のバリエーションだと、感じています。で、清潔にしないとだめだと、彼が、感じて、そのバリエーションとして、柔軟剤に出会い、それに、凝ることとなったと、考えています。
彼は、本当は、こういいたいのです。「お母さん、どうして、僕たちを捨てて、家を出てしまったの。」と。実は、小泉家は、もう、修復に入っていて、兄弟三人は、よくあっているそうです。そして、実は、そこにお母さんも、来ているのかもしれません。
それだったらいいのですが、まだ、お母さんと自由に会えないのだったら、「叔母君とか、お父さんには、隠れて、お母さんと会いなさい」とも、言いたいです。仲良くするために会うのではなくて、詰問をするというか、なじるというか、自分が、つらかったことを話して、それに対するお母さんの答えを、聞いておくという意味で、あったら、いいのです。お母さんの答えは、小泉家の批判かもしれない。だけど、それでも、孝太郎君の清潔に対する強迫神経症を緩めるはずです。
新次郎君は、一家が、「こっちが政治家向きだ」と、認定している様に、孝太郎君より、図太いので、母親を、詰問する必要はありません。
そういう劇的なケンカみたいなものを経れば、今、柔軟剤が好きだと、言っている、その一種の強迫神経症が解けると、思います。
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副題ロ、『ここで、小泉孝太郎の発言と、反田恭平の発言を、比較してみよう』
私は、反田君の父親を知りません。中村ひろ子さんの本当の父親は、ある有名な政治家(=総理大臣経験者)だったと思っています。もし、反田君の父親が、有名な、政治家、または、有名な実業家だったら、今、私が被っている被害は、反田君の、父親発の復讐かもしれません。ただ、私は、お父さんは、報道をされている通りの、一般人だと、思うから、復讐などないと信じて、何度も批判を繰り返しています。「発言が、傲慢すぎる。考えているのは構わないが外へ出すのはよくない」と。何が傲慢かというと、「僕は音楽家の生活が成り立つために、まず、交響楽団を作りました。将来は、音楽を教える組織=音楽大学=を作りたい」と、言っている部分です。
一方で、小泉孝太郎君の発言を見てみましょう。ほほえましいほど、つつましやかです。音楽大学を作るためには、数百億円かかるけれど、柔軟剤は、一本、300円から500円で手に入ります。特別に高いものでも、1000円程度で、手に入るでしょう。
小泉孝太郎君が、大衆の人気をえたくて、計算の上で、庶民性を装っているとは、思いません。何度も言う様ですが、彼は、どんなに丁寧に育ててもらっていても、やはり、両親が一緒に暮らす家で、育ちあがりたかったと、思っていて、そのトラウマから、潔癖性を強めたのです。
でも、ね。ご自分で、洗濯しているのでしょう。それは、ずいぶんとえらいことです。他人をお金で支配しているわけではなくて、自分で、自分の身辺を始末する。とても、とても偉いです。そして、その作業の過程で、柔軟剤を各種試してみることに、楽しみを見出したというわけです。彼にとっては、確かに一つの発見であり、そこから、出発して、深まった趣味であるのでしょう。
一見すると、問題がない様に見えます。しかし、これこそ、洗脳の結果が、見事に表れている部分で、しかも、一般人をだまし、儲けている企業側に立っているのと同じ効果を上げているのです。
小泉孝太郎君はあるメーカーの、あるブランドの、テレビコマーシャルタレントに選ばれているわけではありません。だからこそ、影響力が、けた外れに、大きいのです。困った事です。
私は、食器用洗いようと、洗濯用に、界面活性剤を原料とする、中性洗剤をつかっています。しかし、それ以外は、化粧品をはじめ、できるだけ、化学薬品を使わない様にしています。安価に手に入るものだけに、つい買ってしまいがちですが、できるだけ、自分に縛りをかけています。
なぜか? ・・・・・もし、批判や、疑問がある方は、どうか、レイチェルカーソンを思い出してください・・・・・と、言うだけです。
さて、書き始めた当初の私は、「レイチェルカーソンを思い出してください」と、言う、ところまで、大きなことを言うつもりはなかったのです。それと同じ趣旨のことを、義妹が洗脳されているエピソードを書くことによって、表現をしようとしたのが、前報(あと註1)であり、この章も同じ目的で、書いています。が、もしかして、私的な、復讐をしていると、言う、誤解を受けるといけないと、思って、副題イと、ロを前置きとして付け加えました。で、トルコ旅行の話に戻ります。
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副題1,『トルコアンカラで、日本の援助で、大規模プロジェクトを、になっていた、五人の日本人のうちに、主人の弟が入っていた。その妻に、私は、1980年のことだが、さんざんに苦しめられた。大問題は、漬物類など、夏には、冷蔵庫に入れて置かないとダメなものを、ブランドまで、指定したうえで、多種類、持ってくる様に頼まれたことだった。それが、一番苦労をさせられたポイントだった。特に、「生クリームを買ってきて。それも、スジャータのものを」と、ブランド指定をされたことだった。それは、当時住んでいた北久里浜で、売っていないのは無論のこと、横浜高島屋でも、売っていなかったからだ』
私が、もし、義妹と、親しい心持ちでいたら、「あなた、生クリームを日本から、持っていくなんて、無理よ。だってね。北久里浜の自宅から、成田までだって、3時間はかかるのよ。それに、成田へ着いてから、ジェット機が飛び立つまでだって2時間近くかかるわ。それからね。(当時は、南回りで、しかも、トランジットと言って、途中で、飛行機をのりかえるのでした)カラチ(パキスタン)でも、二時間ぐらい待たされるの。その次は、ダマスカス(または、バグダッド)でも、二時間ぐらい待たされるの。飛行機と飛行機の間で、スーツケースを運ぶにしても、そういう国では、保冷の設備などないはずよ。(特にこの話は、42年前ですから)それにね。あなたが、生クリームを欲しいというのは、ケーキでも作ってくれるつもりでしょうが、イスタンブールで、それを受け取って、その後、一週間トルコ中を旅するのでしょう? アンカラの自宅に着くころには、腐っちゃうわよ」と、言ったでしょうね。
ところが、昔、彼女たちの新居に招待をされたときに、有りえない強さで、長女だけを叱るのです。私は、親戚とは言え、他人ですから、もう、びっくりして、『どうしたんだろう。他人がいるのにこの調子だったら、母子だけだったら、どういうことになっているのかしら?』と、驚き入っちゃったのです。実際に、義弟が、一時期、自分の両親(広島在住)に預けていたみたいですよ。
だから、好きじゃあない。特に、瞬間的に態度を変えて、「お兄様あ、お飲み物、何が、よろしゅうございますう。コーフィーにいたしますかあ。紅茶にいたしますう」と、コケットリー満杯で、大人のお客の方に向かってくるのです。
でね。わたくしは、義妹が好きではないから、トルコへ行きたくないのです。その上、私の両親も「どうして、子供(私自身の方)を置いていくの? 〇〇サンに、一人で、行ってもらえばいいじゃあない?」と、言います。わたくしの両親は、特に母は、何度も何度も海外旅行をしています。横浜高島屋の企画で、相鉄が、サポートをするツァーのお仲間と、何度も行く国を変化させて、行っています。父の方は、一人旅行で、ヨーロッパとエジプトと、インドを長期間旅しました。だが、二回目は、行っていません。が、母は何度も同じ仲間と、海外へ行っています。だから、旅行中に友達は、いるわけですが、絶対に、夫婦そろっては、海外旅行はしていません。事故を心配しているからです。それが私(=妻サイド)の常識だし、考えなのですが、主人の頭の中には、
『せっかくのチャンスだ。これを、失いたくない』と、言うのと、(どうも、潜在意識の中で)、弟との競争意識もあり、自分一人で、行くと、自分たち夫婦の仲が悪いみたいに見える・・・・・と、考えているみたいなのです。
そういえば、実態は、その通りです。特にあの夏の、一か月間は、その通りです。わたくしは、「子供たちを置いて、行かれない。猫もいるし、二週間も、北久里浜の家を留守にするなんて、考えられない。行きたくない」と、何度も何度も言っています。「学校だって、・・・・キャンプの、行く日も帰る日も、親が迎えに来てください・・・・と、言っているわよ。トルコなんて、今は、行っていられない」と、強く、強く、主張をしているのです。それなのに、言うことを聞いてくれません。
どうして、こうなんだろうと、思います。彼が大病をしたときに、長兄が見舞いに来て、「千恵子さんも大変でしょう。〇〇は、思い込みが激しいからね」と、言ってくれて、54年来の、苦労がやっと癒されました。が、それは、2016年に入ってからで、1980年の、このトルコ旅行の時には、自分の考えを譲らないのです。
夫は男性ですから、子育ての責任を持っていません。で、義妹の欺瞞性には、気が付いていなかったのだと思います。で、男性ですから、女性のコケットリーには弱いですよね。で、「おに・いい、さま・ああ」なんて、甘えてくると、柔らかな喜びに包まれるのかしら? だから、私が問題としているところが、全く理解ができないのかもしれません。
そして、そういうコケットリーが満杯の、義弟の家庭が、華やかで、明るいと、見えるのかしら? それに比べて、自分一人で、彼ら夫婦の車の中に、いることが、負けだと、見えるのかしら?
ともかく、彼は、義弟の電話番号を教えてくれないので、(42年前なので、もちろん、固定電話だけの時代です)私は、義弟にも、連絡が取れないのでした。義弟と連絡が取れれば、義妹が嫌いだと、言う部分は伏せますが、それ以外の状況を話して、とてもではないが、夫婦そろって、外国旅行をしている場合ではないと、話すでしょう。そうすれば、彼は、わかってくれたと思います。主人は、四人兄弟ですが、義弟は末っ子です。とても、よくできた人物で、わが亭主より、大人でしょう。これは、両親の接し方にも原因があると、思いますけれど。
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副題2,『ここで、突然だが、トルコエフェソスの大遺跡の真ん中、ハドリアヌス帝、胸像前で、出会った、立花隆の言葉を置かせていただきたい。スジャータホイップ(生クリーム)を生産する会社=めいらくHDについての記述に役立つので』
エフェソスの遺跡は、午前中は、観光バスで、やってくるドイツ人などの、白人観光客で、にぎやかです。しかし、午後は、だれもいなくなって、しーんとしています。一つの大きな谷間であって、川に例えると上流から、下流までが、10キロぐらいでしょうか? 両側の大和山の間が、狭いところで、二キロぐらいだと、思います。土砂が堆積していたらしいので、遺跡がきちんと残っているのです。イギリスの調査隊が、いるはずですが、8月は暑いので、去っていたのでしょう。本当に静かで、両側の山に生えている大量の、松をそよがせる風の音だけ、聞こえるのでした。わたくしは、その音が、幼いころ、船橋市の塚田で、聞いた音とそっくりなので、驚きました。エフェソスの遺跡の、海からの距離と、船橋市塚田の、海からの距離が似通っているからでしょう。
そこで、スケッチをしていると、谷の真ん中を走るメイン通りを下から登ってくる人物がいて、いかにもなアジア人でした。わたくしは、彼のズボンが紫色だし、薄汚れた風体だし、バックパッカーにしては、年取っているしで、最初から、からかいたくなってしまったのです。わたくしは、美しいものが大好きで、紫色のズボンに、紺色のシャツでは色彩的には、あわなので、それだけで、センス悪っとなるのでした。
しかし、後からよく考えてみると、彼のズボンは、日本を出発するときは、紺色だったのでしょう。熱暑の日差しに焼けたのです。
で、英語で話し掛けると日本人だとわかって、私は、スケッチブックをいじりながらしゃがんだまま、彼は立ったまま、話をしました。
私は、半分死にかけている、四時間を過ごして、蘇生し、そのことによって、やっと当初の、計画(夫婦二組と義弟の子供二人を加えた、六人で、車一台でトルコの観光地を巡るというもの)が、崩れて、大喜びでした。主人もさすがに、私の意識を失った、四時間には、驚いた様で、特に点滴袋のない時代で、代わりに、蘇生用薬のアンプルを、注入するのですが、最大サイズの注射器が、使った形で、何本も置いてあったので、ただ事ではないとわかってくれた様でした。部屋には、賢くて誠実なボーイ、看護師、数名、医者と、5,6人が詰めており、何よりも窓が開いていたのが、普通ではないと、言う状況を知らせたのです。
言葉では何も言わなかったけれど、大いに反省をしてくれたらしくて、それ以降の時間は、私の望み通りの旅となりました。つまり、絵を描く時間ができたのです。それと、カッパドキア、コンヤなどは、抜かして、トルコを支配した三千年の文明をたどる旅ができたからです。
エフェソスには、くしゃだすで、一泊し、入ったのちに、一般的な、観光をしたのちに、入り口に近いさびれたモーテルに泊まりました。しかし、なんと、主人は、帝国ホテル(東京日比谷)で、修行したそうで、まさしく、日本人向けの料理が出てきました。ローストビーフでしたが量の少ないこと、少ないこと。(フィレ肉で、作ってあるらしくて、面積がちょうえんが7cmぐらいの楕円形で、小さいのに、7ミリぐらいの厚さのものが、一枚しか出てこなかった)しかし、味の上等なこと。上等なこと。さすが、帝国ホテルだと、思いました。
で、次の日の朝、主人をセルチュクの大博物館へ向けて送り出し、私は、エフェソスに戻って写生をしていたと、言うわけです。
紫色の、ズボンの男のことは、(繰り返しますが)、立花隆という有名人だとは、私の方は、知りません。
彼は、私が日本人だとわかると、のっけから、激しい勢いで、トルコをののしり始めました。汚い。教養がないとか。で、私は、内心で、強く反発しました。ジープを改造した乗り合いタクシーでしか、クシャダス(ヨーロッパからの観光船がつく、ヨーロッパ風リゾート地)からエフェソスには、来られないのです。団体旅行の人は、観光バスで来ますが、それに乗るためには、二か月は前に、ドイツで、申し込んでおかないとだめですから。でも、片言のトルコ語をマスタ-してきた私は、彼らと楽しい会話を交わしました。
テシュキューレ(ありがとう)、メルハバー(こんにちわ)など、42年たった今でも、覚えています。それで、十分に通じるのですよ。確かに、立花隆の言う通り、42年前のトルコ人は、ほんとうに貧しくて、汚い服装でした。だが、私は、おそれたり、きらったりはしないのです。だって、イエスは、言っているでしょう。「貧しきものよ幸いなれ」と。こちらが、屈託なく、しかも、何の先入観もなく、話しかけると、乗り合いバスの乗客が、すべて、大喜びをしてくれました。日本人と直接接触するのは、初めてだったからでしょう。
彼が、きわめて強く、ののしったのは、それ以前(1972年)にイスラエルに招かれているので、(もしかするとCIA側陣営の人となる様に洗脳をされましたか?)その時の待遇がよかったので、ことさらに、私費で、回っているトルコが汚く見えたのかもしれません。
でも、ノミがいて、どうのこうのと、言う話になったので、「あなたは、一泊、いくらのホテルに泊まっているの?」と聞くと「現在のレートで、650円かな?」と、彼が言います。わたくしたち夫婦は、この時、すべて、1万円以上のホテルに泊まっていました。で、もし、立花隆だと、知っていたら、「あr、いやだ。田中角栄研究が当たったので、もうかったでしょう。もっと高いところへ泊りなさい」と、言うところですが、彼が立花隆だと、知ったのは、
『エーゲ 永遠回帰の海』須田慎太郎(写真)、書籍情報社、2005年、ちくま文庫、2020年 が、出版をされて、書評で、現代の出版技術で、写真と文章が、一頁おきに出ていて、このお値段なのは、安いと、出ていたので、急いで、立ち読みをしたら、
「トルコではセルチュク博物館が、最も面白かった」と、書いてあったので、・・・あ、あの時の男は、立花隆だったのだ・・・と、納得をしました。というのも、彼にセルチュクの博物館へ行く様に勧めたのはあの日、すれ違った、私の主人だったからなのです。
主人は、イスタンブールで、仮死状態になった私が心配で、迎えに来てくれたのでした。で、街道から、エフェソスの遺跡に入る、道の両側にひまわりが咲いている場所で、すれ違った主人が、日本人だとわかると立花隆の方から話しかけてきて、今度は、私のことをののしり始めたそうです。「生意気な女がいた。上の方にだ」と、さんざんな、こき下ろしようで、それが、自分の妻・千恵子だと、わかっている主人は、内心で、おかしくてたまらないものの、決して、それを明かす様なことは致しません。
うちの主人はね、他人に対しては、丁寧で、低姿勢です。たいていの場合、そうです。だから感じがよいです。で、立花隆はすっかり安心して気分が良くなって、今度は私の悪口じゃなくて、トルコそのものの悪口を言い始めました。
それには主人は、ちょっと反発を感じたようです。私の方は、1962年から初期キリスト教についてすごく深く学んでいます。ICUってそういう学校で厚さ4センチの(ペーパーボックスですけども)英語でしゃ、しゃ、しゃっと、初期キリスト教の伝道状態を学んでいますからエフェソスにマリアの墓があると言うことも知っています。
ところが主人は違うのです。違う方向で、勉強しました。あまりキリスト教には興味がないけれども、トルコの歴史そのものには興味があります。それでやっぱり旅行に行くんだから、図書館で本を借りたりいろいろして勉強しています。
特に、ブルサ(トルコの古都、日本でいえば、京都とか、奈良。であり、絹織物の産地。盆地特有の、霧が朝出てくる)を訪問をしたときに、すっかり魅せられて、来て、よかったなぁ。と思ったらしいですよ。ブルサというのは黒海沿岸の町で、今、戦争状態の、ウクライナとは、国会を挟んで、対岸に位置しています。市場では主に衣料品を売っています。そういうのを彼は事前に学んできてますから実物を見て、期待通りだったと思い、主人は、感心していましただからね。トルコを好きなんですよ。それなのに。立花隆が頭から否定して悪口ばっかり言うから、相当、嫌な感じを受けたんですけれど、主人は大抵の場合、相手を軽蔑してますから、かえって、喧嘩をしないんです。自分が上だって思ってますから、へいきのへいざです。
それで、大変丁寧に、「実はいま、セルチュクの博物館に行ってきたんですけれど、そこはなかなか良いものを展示していましたよ」と言って豊穣の女神について、それが、あって、うんぬん、カンヌンと説明をしたのではないかしら?
その立像は、胸の前に乳房がぶどうの様についている女神様なんですけれど。そんなことを説明したんではないですか。イズミールのホテルでの、立像をみて、気にいって、いろいろ説明書なんか読んでいましたよ。その二日後に、すぐ近くのセルチュク博物館でも、ホテルでも見つけたんじゃないですか? その博物館を立花隆にすすめたそうです。と、聞きました。その日のうちに、立花隆はそこに行ってみて上に書いていた書物の中で「実は、セルチュク博物館は素晴らしい」と書いています。
だから私は私が、エフェソスの真ん中で、邂逅した男性が立花隆だと、本屋で、分かったのです。しかし、
インターネット地図で、セルチュク博物館を、今調べてみると、存在がありません。
これ以降はメモです。後で、推敲します
その代わりビレッジ何とかと言うものがありますだから名前が帰られた施設そのものがなくなっている撤去されているとなりますこれは現在も続く私が何か顔かくとそれがわざと潰されるって言うのは1つの典型ですでも私が本屋で良品の本を立ち読みしたときに瞬間的にあの男は立花隆だっただとはっきりいたしましたところでねその前に私はこの男性を立花貴久とわからないままに紫色のズボンの男と言う意味でエッセイを書いていますそれはメルマガ時代だから彼は読んでいないはずなんですけれどその頃からハッカーがいてそれが伊藤源次郎とか井上ひさしが読むことになってそしてすぐさま立花隆に送られたのでしょうそういう意味で彼は復讐の書物として冗費の本を出版したのですどうだ僕の方が輝かしい本をしかも交換で出せるお前はパソコンのメルマガだけじゃないしかもそれは非常に限定された笑子が言ってたよ全然俺の方が上だと言いたいそういう気持ちの表れている本でしたそういう意味であまり大したことがないと言いたいと言うこともあるが初版はね上が薄いのですでねカラー写真が次のページに透けてしまっているって子批評社はものすごく高く評価してますが本としては全然汚い水琴やすいです2000いないしかし私は買っていません残念ながら彼がトルコを全く評価してない低く低く見ていることを嫌だと思っているからです