銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

ファビオ ルイージって 思いがけず、 男性的で勇猛果敢な人だった

2024-05-18 22:40:51 | 音楽

 これは明日公開する予定でした。だが、夜10時半を過ぎれば、上に置いた文章は、すでに、お読みいただいていると、考えられるので、以下の文章も、公開をさせていただきます。

 今、18日(金曜日)の15時12分で 一時間のN響定期公演 メンデルスゾーン 交響曲第五番 【宗教改革】が終わった所です。非常に驚いた事は、ファビオ ルイージって、想像を超えて、男性的で、力強い指揮をする人物でした。

 これはね、ルッターの宗教改革宣言から300周年を記念して行われた宗教改革祭時に演奏されるであろうと想定して、委嘱料 お金 が出るだろうと考えて作曲に取り組んだそうです。へーっ。そうだったの 知らなかったなあ  と 驚いて居ます。それなのに、そのお祭りには使われなかったそうです。それでメンデルスゾーン自身が、なかなか発表しなかったそうですよ。だから交響曲としてぱ、二番目に作曲された曲なのに、出版が遅くなり,第五番と言う番号がついています。今年度中にこういう事はねプログラムをもらわないと知らない。なかなか出てこないと驚きますが、でもね、信仰告白だからすごく力強いんですよ。曲がね。あまり繊細じゃないものですから。

 ところで、ファビオ ルイージについては、NHKが密着取材風の番組を多数放映して居たのでね。それをみて。子供の時に体が弱かったとしって居たので、本日の 勇猛果敢な姿には驚かされました。

 さて 15:03に終了後、外の縁石に腰を賭けて、好きなカフェがどこに在るかを探して居たら、目の前をヴァイオリンのケースを肩にかけた人が 横切ったので、えっ、この人もこの人混みの中を渋谷駅まで歩くのですか? と驚いたら、地下駐車場13番と書かれた、大変目立たない階段を降りて行きました。私は車を運転しないし、今の 鎌倉の家には、駐車場が無いので、ほぼ、四十年、車とは、無縁の生活だから、こんな事にもひどく驚きました。

 さて、代々木では 沖縄祭と言うのをやって居て、大変な賑わいです。空は快晴、前夜、三時間しか寝て居ないのに、元気を回復しました。で、これから歌舞伎座へ向かいます。松竹定款というのは、百二十パーセント私のブログ潰しで、とんでもない話だと思って居ます。C IA エージェントと、その手下である、桜田門が反省してくれて居るかどうかを確認に行って来ます。

  終わった後で又、続きを描きます。何も変わって居なかったにしても、本日の日付がじゅうようです。何も変わって居なかったら、私にとっては、嫌な話です。然し、一つ、一つ、試して行かないといけません。

 脅かしと嫌がらせが、二十四時間、又は、毎日続く生活は、戦いの連続ですが、これが、真実を語るものの、対価でしょうから、覚悟の上ですし、次の戦いの、ほうしんも、こう言う試みの結果生起するものですから。

 しかし、ここに書いた部分は、レコードでいえば、A面にあたり、実は、ひねったぶんしょうとしてかいているB面もございます。そ智らは、違う日に公開をいたします。

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武部聡志的生き方・・その1・・彼はクラッシャーですよ + 平原綾香や、鄭義信の強さ

2024-02-27 00:25:20 | 音楽

 私は、発想の赴くままに書くのが好きで、そうしているのですが、松前澄子先生について書いている途中で、武部聡志へ思いが移ってしまいました。

 すると、汚いことをいっぱい書かないとだめなのです。

 だから、松前先生に悪いから、いったん引っ込めます。先にどこかで、武部聡志についてだけ書きます。その上で、別章で、松前先生の思い出を語りましょう。

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 武部聡志って、クラッシャーです。彼と縁を結ぶと、その人に大損失が訪れます。

 柿沢議員もクラッシャーとして有名なんだそうです。柿沢議員は、永田町で、政治家たちに、損失を与えていたらしいのですが、

 武部聡志は、公演(パフォーマンス)の世界で、出演者、及び、他のスタッフに迷惑を与える人です。

 平原綾香も、鶴舞音楽祭で、カタリを、歌う様に勧められたでしょう。それ以来、人気が急激に落ちていますよね。お気の毒に。

 日本イタリア修好オペラも大金をかけたにしては、評判はいまいちでしょう。

 海老蔵の、源氏物語(2017年)もひどいものでした。プログラムに名前が無かったけれど、あそこに出てきた歌手って、日本イタリア修好オペラに出て来た歌手ですよね。

 そして、舞台は、めっちゃくちゃ、演劇としても成立していないです。

 今は、もう、見るのをやめている、ブギウギですが、朝ドラ受けの、あさイチ、司会者、首藤奈知子アナが、武部聡志をほめそやしていると、言うネットニュースを見て、

 『え、そうだったのですか? 道理で、人気が出ないはずです』と、も、思い当たったわけでした。 武部聡志が、参画する限り、一般庶民の人気は得られません。

 武部聡志・的・生き方とは、何を指すかと言うと、実質ではなくて、名刺主義を指します。

 正反対の方向にいる人間を、まず、取り上げてみましょう。チョンウィシンと言う人がいるでしょう。鄭義信と書きます。演劇の分野の人です。彼がかかわると、面白くなるみたいです。マスコミ的有名度を狙ってはいないみたいです。それに失礼ですが、俳優としても活躍しているにしては、お顔は、良くない。しかし、脚本を担当したり、演出を担当したりすると、その劇は、大評判をとるみたいです。映画【月は、どっちに出て居る】の時から、注目をしています。彼の演劇もしくは、映像は、全部は、見ていないのです。実際には、その映画だけしか私は、見ていないのです。しかし、ネットニュース等で、消息は追っています。すると、成功した劇とか映画の影に彼が居る。

 武部聡志に戻ります。「日本イタリア修好オペラで、何々を担当しました」と、書いて、すぐ次に、「海老蔵の源氏物語で、音楽(=オペラ)を、提供しました」。その次にと、名刺風のプレゼンテーション用紙に、自分がかかわった過去の公演を書いて行きます。その公演を実際に見た事のないひと、また、自分独自の判断基準を持って居ない人は、プレゼンテーションカードを見ただけで仕事を依頼すると思います。偉い人だと勘違いするのです。首藤奈知子アナは、そういう人でした。仕方がない。まだ、100分で、名著を担当していないし。ふ、ふ、ふ。

 武部聡志とは、そういう生き方の人ですが、この15年間、ひたすら音によって、私を攻撃してきた人物なので、これから先の盛衰を見届けたいと、思っています。一青窈を、ヒットさせたころは、私とは無関係でした。しかし、これから先、彼がかかわる限り、ヒットとか、人気が出ると言う事とは無縁になるでしょう。怖い言い方だけど、それだけ、ひどいことをやられ続けてきていますので。鶴岡八幡宮を舞台にしてですよ。テレビとか、歌舞伎座で、私が、彼と、かかわりを持って居るわけではありません。

 カタリですが、歌詞を、そらで、カタカナ書きできるほど、覚えています。カタリー、カタリー、ぺケメディティスティパローラーマーレー・・・・・・とはじまって、先へいきます。イタリア語って、日本語のローマ字に似ているので、発音はCDを聴き、ローマ字風に、当てはめていくと、カタカナで、書けるのでした。英語の、th とsの違いとか、rとlの違いに似た難しさがあるのかどうかをまだ私は、知りません。

 伊藤玄二郎と、井上ひさしは、私が長年にわたって、好きで歌い続けて来た、その歌を、有名人中の有名人、平原綾香に歌わせて、大ヒットをさせて、その結果、私が各種のパーティの余興として、その曲を歌っても、「あら、平原綾香の真似ですね。だけど、比較すると、圧倒的に、こっちの方が、つまらないわ」と、聴いた人が思う様にしたかったのでしょう。 私の歌は、それなりに表現力はあります。だけど、声は、特徴がないです。ただ、美しいだけです。松前澄子先生に、「腹式呼吸がまだ、できて居ませんよ」と、叱られながら、「ただ、声だけは、圧倒的に良い声です。まあるくて、明るい」と言って頂いたことを支えとして、人前で、歌ってはいるが、平原綾香の声ほどの、特徴は、ありません。尚、松前先生に褒められて特にうれしいのは、先生ご自身が歌を、美しいつやのある声で、歌う方だからです。小柄なのに、声量豊かな天与の美声で、歌い方の見本を示してくださるのですよ。

 実名は上げないけれど、芸大出身と言っても、特に声楽科出身と言っても、60を過ぎて、もう、声が、しわがれていて、美しくないと言う女性もいるのですよ。そういう先生に、私はねたまれるのです。ねたまれていることは、すぐわかります。特に音大を出て居ないのに、美しい歌い方ができると言う事が、芸大卒の女性たちに、激しい嫉妬心を抱かせてしまうのです。本当に実名を書きたいほど、いじめられました。あ、は、は。今は、笑って過ごせるけれど、いまだに、いろいろ、いじめ役を担っているみたいですよ。伊藤玄二郎達に頼まれてね。ここらあたりは政治の分野に入っていきます。本日も、彼女は、言う事を利く、自分の手下に私をいじめさせました。鎌倉駅構内の、カフェ・デリ・フランスで、夕方五時半ごろ、手下さんに、いじめられてしまいました。伊藤玄二郎 👉 〇〇 〇代 先生 👉 ◇◇ ◇◇代さんと、裏の流れは瞬時に判ります。伊藤玄二郎は、まだ、80代ですが、それ以降の女性二人は、90を超えている人たちです。

 美しい声のまつまえ先生や、反対に、心の小さな、そして、声の汚い芸大声楽科卒の先生たちから、平原綾香に戻ります。彼女の声には、誰だって、あ、平原綾香だと、すぐわかる‥・・・そういう強い個性があるでしょう。それは、私にはないです。まだ、余裕がないというべきか? 絵描きでもそうでしょう。ただ、上手だけではつまらないですよね。私の歌は、墨書でいえば、行書程度かな? 草書ではないです。 

 音楽家として二代目の平原綾香には、そこに余裕や、自信があります。他のオペラ歌手よりも、空気が入っているつやのない声だと、言ってしまえば、それまでですが、彼女は、そこに自分の立地ポイントがあると、知っているのです。そこにセールスポイントもあるとも、知っているのです。可愛いお顔をしていても、内部では、深い、強さを持つ女性です。                

  雨宮舜(本名、川崎千恵子)

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夜の女王のアリア・・・・松前澄子先生(慶喜公の曽孫)に「明るくて丸いいい声です」と言われている私

2024-02-22 23:41:27 | 音楽

 ええと、この一文、24~25にかけて、3倍ぐらいに加筆しております。どうかよろしく。そして25日の午後四時になって、あれなんか間違えたぞと、気が付きました。急いで直しておきます。下の方ですが、森麻季さんの演技上の役名を誤記していました。ごめんなさい。

 このブログは最近写真を、冒頭に置くことにしています。本日は、オーケストラの指揮者です。オペラ魔笛で、指揮をした人です。男性だけど、優美な人です。マダム優美、マダム優美と、最近のブログで、ある女性について、書き、連呼していた美形好きの川崎さんが、好きそうなお顔です。世代を重ねて、音楽に従事していると、こういうお顔になるみたいです。

 これは、魔笛の舞台ではなくて、NHKの【クラシックTV】に、出て、バッハについて、解説している鈴木優人さん(バッハ・コレギウム・ジャパン、指揮者)です。左は、日本音楽コンクールの何かの部門で一位だった人でしょう。ピアノ科かな? 

 魔笛を見ている時は、舞台でカーテンコールと、アンコールの挨拶が三回、あったわけですが、写真を撮るなどとは、まったく思いつきませんでした。それだけ、感動していたのでしょう。テレビの方は、録画してあるので、何度も、繰り返して、見て、このお顔が、一番素敵なので、使います。他にも使える写真(特に、パンフレットから、千住さんの、美術などでの)があるかもしれないので、後で、探しておきます。

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 いや、今日は、ブログを書かないつもりでした。だが、そのつもりで、夜の9時半から、録画番組を見て遊んでいて、日本酒も、半合ぐらい飲んでいるうちに、元気を回復し、ある思いを語らせていただきたいと思い始めました。

 実は、ちょっと楽しかったというか、誇らしげに感じたという話です。ごめんなさい。「他人の自慢話なんて、聞きたくもないさ」と、あなたは、おっしゃると思いますが、今のわたくしって、困難ばかり押し寄せてきている状態ですから、時々、訪れる、こういう楽しみを、唯一の餌として生きていると、申し上げさせてくださいませ。

 どんな、攻撃に出会っても、平静に過ごしている秘密が、これです。その一端を語りたいです。

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 モーツァルトの魔笛については、1999年の11月の末に、ニューヨークシティホールでの、公演を見ています。実は、それを見る数日前に、アイーダをメトロポリタンオペラ劇場で見ています。その体験があまりに素晴らしかった(本物の象さんも登場したし、お隣の女性客二人が、たぶん、中学か高校の音楽の先生で、音楽知識が豊富で、主役の歌手がマンハッタン島のどこで、教えているかとかプリンストンでも教えているのだとか、教えてくれたなどという、休憩時間中の、会話がとても楽しかったし、終焉後B1のショップで、アイーダの父を演じた歌手の自伝を買いサインをもらったりお話ししたりした)ので、もっとオペラを見たくなったのですが、アイーダの切符が手に入った経緯が、大変特殊なものだったので、もう、メットの切符を買うのは無理だろうと考えて、隣の、、シティホールの切符を、切符売り場で探したら、魔笛が、手に入ったのでした。1999年のわたくしはまだ、ネットはやっていなかったのです。だから、アナログもアナログで、劇場の切符売り場で、当日のものを買うのでした。あ、は、は。

 ここですが、アナログとデジタルを正反対に使っていましたね。長時間外出したうえに、このブログを書いたので、疲れ切っていたのでしょう。意味が通らなかったのをお詫びします。

 私は美術が専門です。オペラは、「せっかく外国に来ているので、日本で見るよりも切符が安いから見ましょうね」と、言う感じで、見るので、音楽は100%の素人です。日本で見ると、三万円を超えます。しかし、現地で見ると、一万円前後で、いい席で、見ることができます。だから、海外に滞在している限り、演劇とかオペラは(そして、ミュージカルも)見るべきでしょう。

 だけど、ニューヨークに、180日いたのに、オペラ3回、演劇一回しか見ていません。本当に版画制作、版画修行・一筋に暮らしていたのでした。演劇は脚本も若い時に英語で読んでいる【セールスマンの死】だったから(ユージン・オニール劇場で)、よくわかったけれど、つらい内容のお芝居です。58歳だったから、ちゃんと見ていられたけれど、81歳の、今だったら、もう、つらくて、見られないでしょう。

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 その点、【魔笛】は、見ているのが、楽なお芝居です。

 ただし、わたくしは、まったく予備知識のない形で、見ました。しいて言えば、映画【アマデウス】の中で、【魔笛】が出てきて、モーツァルトが、どういう時期にこのオペラを書いたかを、知っていたということと、夜の女王のアリアに、驚嘆をしたことがあったと、言うことだけです。

 モーツァルトは、フリーメーソンだったという説もある様に、政治にも目覚めていました。

 フィガロの結婚は、最後の四重唱が、音楽として素晴らしいです。しかし、筋を追えば、はっきり言って、当時の反体制主義のオペラです。王侯貴族の処女権行使を、批判している筋です。

 映画アマデウスでは、モーツァルトの、そういう政治的傾向よりも、彼が父に対して抱いていた恐怖、また、嫉妬深い同僚のサりエリの罠によって、どんどん、貧乏になっていく時代の作品だと、解説されています。

 宮廷での出入りが、禁じられた時代のモーツァルトが、それでも、めげないで、汚い庶民向けの劇場で、庶民向けのオペラとして、魔笛を、公演すると、言う背景が語られています。

 私が、本日気が付いたのは、彼が、宗教を、テーマにしていて、教祖様が、登場するのですが、その教祖ザラストロは、エジプトの、神、オシリスとイシスを、崇拝しているのです。

 当時の宮廷とは、キリスト教(当時のカソリック)と、深く結びついていたので、宮廷と決別したモーツァルトは、当時のキリスト教を嫌いだったのでしょう。庶民がその実態を知らないオシリスとイシスと言う神様を、この舞台に呼び込んでいるのです。フーム。それが、限界の反乱だったのでしょうか?

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 松竹定款という形で、歌舞伎座に入れなくなった、わたくしは、本日=2024年2月22日、モーツァルトの生涯と、その思想と、その苦しみを真実理解いたしました。

 私は松竹に対して、喧嘩をしているわけではなくて、ただ・・・・・異様な謀略事件の真犯人は、警察の特殊部隊だ・・・・・と、言っているだけです。平成のやつ墓村事件も、保美死刑囚が老人五人を殺したわけではなくて、警察の中にいる特殊部隊が殺したのだ。そのアイデアは、常に、いまだ生きている井上ひさしから出ていると、言い続けています。

 山田浩二死刑囚が犯したとされる中一の、二人の生徒殺し、小林遼が、やったとされている、おおももたまきちゃんの死後轢断事件、までは、実行者は、警察の特殊部隊です。

 しかし、やまゆり園事件と、京アニ放火は、ちょっと、ひねってあります。死者が一人もいないのに植松聖と、青葉真司は、大量殺人を犯したことになっています。私の見るところ、植松聖と青葉真司は、一人も殺していません。前の事件の、ヴァリエーションとしての、事件です。そういう風に圧倒的な真実を書いている私のブログを否定するために、実際には誰も死んでいないのに、大量の死人が出たということにしたのです。それを否定すると、

 今度は、NHKカメラの目の前で、一般人が殺人を実際に犯すという謀略を生み出しました。やまがみてつやという安倍晋三氏を、殺した一般人は、保美死刑囚、山田浩二死刑囚、植松聖死刑囚と、同じく、事前にリクルートをされ、よくよく、委細を教え込まれて、命令通り、行動した、教唆命令を受けている人間に過ぎないのです。間に千葉景子さんを挟んで、いのうえひさし 👉 伊藤玄二郎 👉千葉景子 👉、山上哲也の伯父と、なって教育を受けたのです。

 そう書いている私のブログを閉鎖するための、松竹定款と、歌舞伎座へ入らせないといういじめでした。

 私は、本日、本当にしみじみと、モーツァルトの苦境と、悲しみを理解し、それでも、許しの心を、ザラストロに、歌わせる、強い強い精神力に打たれました。血肉として、理解をしました。

 ところで、わたくしは、シューベルトのピアノ曲を今は、最高に好きであり、それは、1955年から、始まっている傾向であり、ほぼ変わらないと思います。が、40代ごろまで、モーツァルトは、軽すぎると、思っていました。

 でもね、ひそかに、苦しみを抱えていたからこそ明るい曲を書いたのだと、考え始め、これからは、本当に大切に聴こうと思っています。

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 ところで、今回、【魔笛】を上演した皆様には、失礼な言い草になるとは思いますが、やっぱり【フィガロの結婚】の方が音楽としても、劇としても優越していますね。

 それは、魔笛を作曲したころのモーツァルトが、フィガロを作曲したころよりも、経済的、精神的に、苦境にあり、肉体的にも限界に達するほど、衰えていたことが関係していると思います。死ぬ年(=1971年)に作曲をしているので、無理もないのです。

 でもね。スケールが小さいことが、今回は、かえって、成功へ向かわせました。大成功だったと思います。

 公演そのものは、四日間ある模様です。同じ会場で、23日の金曜日だけ、休演で、四日間連続して、公演があるというのは非常に珍しい形式です。芝居でも同じですが、(文学座とか、民芸という新劇の場合です)が、あるところで、一回、公演したら、別の街で、次の公演をすると、言う形式が多いでしょう。

 これは、たまたま、東急デパート渋谷本店の、建て替えがあり(ただし、次にデパートが、再開するかは、微妙である)BUNKAMUARAの、オーチャードホールが使えないという形があり、渋谷から、東横線で、四つ目の駅にあたる都立大学を、最寄駅とする、パーシモンホールを、一時的に使うことにして、オーチャードホールの、普段のお客様たち(越年コンサート、ジルベスター)に来ている人たちへ宣伝したので、切符四千枚が完売だったと思います。また、企業の協賛もあって、全体で、一億五千万円ぐらいで、まわったのではないかしら。今回だけでも採算がとれたとは思いますが、このまま、京都とか、大阪とか、神戸、愛知、札幌で、公演したら、オペラ文化が、本格的に成就するということになります。それは、慶賀に堪えません。

 この金銭的な、成り行きですが、歌舞伎で、菊之助が【マハーバーラタ】というインドの、叙事詩に基づいた、新作歌舞伎を上演しました。この衣装がたいへん豪華です。ポリエステルの生地で、金箔を、張り付けることができるかどうかを知りませんが、もし、全部絹を使っていたとしたら、大変高かったでしょう。ただ、二度目の公演があったので『ああ、よかったですね。10回も公演したら、衣装代のもとは取れるでしょう』と思った次第です。歌舞伎座は、2000席以上あるでしょう。いや、間違いました。1808席だそうです。その上、23日ぐら公演しますよね。だから、チケット代は、今回の魔笛とは、桁が違うと言うほどの、収入でしょうが、でも、裏方の数も多いので、新作は、再演されないと、採算が取れない可能性があります。

 だけど、魔笛の場合は、座席数が、歌舞伎座より圧倒的に少ないし、公演日も少ないので、「よくなさったわね」と、言うべきでしょう。同じ魔笛でも、カンパニー(座組)が違うと装置も衣装もすべて、作り直すので、それは、なかなか、大変です。オペラが、当たり前のものとしては、なかなか、根付かない一つの理由でしょうね。

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 実は、ニューヨークシティホールの、美術はホックニーでした。有名人でした。ホックニーは、一幕目の夜は、夜で、黒を使っていたので、あまり特徴が、わからない装置でしたが、明るくなる、ザラストロが、登場する場面になると背景がエジプトでした。全体に、まっ黄色でした。砂漠の砂をイメージしていて、ヤシの葉が、緑いろで、衣装は、エジプト風でした。エジプトの壁画に出てくる様な衣装を男性も着て出てきたのです。

 しかし、今回ザラストロの方は、100%現代風な衣装を着ています。背広=スーツです。ネクタイは、していないのですが、グレー系統のスーツです。衣装担当は高橋ゆうすけという人で、三宅一生の下で、メンズを担当した後で、独立をした人だそうです。

 ここで、わきへ飛びますが、教育大学出身なのに、音大へ、入りなおした池田理代子が、「オペラの満足感は、使っている(生地)のメートル数にかかっているのです」と言っていたけれど、まあ、その通りではあります。例えばオネーギンなどは、ルネ・フレミングが、当時のロシア風な長いスカートで出てきたのを忘れられません。その後、何度も、近代化された衣装のものを、プレミアムシアターで、見ましたけれど、フレミングと、ホロストコフスキー版が忘れられないです。

 魔笛に戻ります。たった四日間の公演で、ヨーロッパで当時人々が履いていた長いスカートを、再現するわけにもいかないでしょう。おかねが足りなくなるので、プロの公演と言うよりも出演者たちの発表会になってしまうし。高橋ゆうすけは、メンズ担当だったそうで、ザラストロと、その家来の、スーツ姿は、ピリッとしていました。ただ、悪の道化役、モノスタートスの衣装だけが、スーツではなくて、どことなくスカンクを連想させるのは、ほほえましかったです。この遊びに、あなたは、気が付いた?」と問いかけられていると思いますが、もちろん、私は、気が付きました。

 さあて、美術・千住博です。映像担当・ムーチョ松村です。

 私は、この二人が何をどう担当しているのかが、さっぱりわからなかったです。最初の背景、自然の森は、写真でしょうか? それとも、絵でしょうか? それから、途中の、漢字や、数字の乱舞も、千住さんの絵でしょうか? それとも、千住さんはアイデアを出し、プロジェクション用映像は、ムーチョ村松さんが作っているのでしょうか? まったくわかりませんでした。

 まあ、こういう技術は、チームラボの、猪子さんと、ある部分で、相似形だと思うので、千住さんは、以前猪子さんとはなしあったことがあるのでしょうか? ともかく、圧倒的な、映像でした。二次元ではなくて、三次元的(渦を巻く形)で、映像が動いていく場面が、三度は、訪れて、ちょっと息をのみました。

 この三次元的に画像が動いていくところは村松さんの、分担だろうと思いますが、

 ともかく、美術には驚かされました。「プログラムや、チラシの中で、千住さんが大きく扱われているのは、千住さんが、有名人だからでしょう!」なんていう風に気軽に考えていたのですが、違いました。オペラという総合芸術の中で、非常に大きな役割を果たしていました。以前から、指揮者の、鈴木優人さんと、親しいのではないかなあ? そんな感じがしました。気合入っている仕事だったから。

 そして、この美術と映像があったので、人件費が少なくて済みました。と、言うのは、大道具が全くなかったからです。また、歌舞伎と比較しますが、歌舞伎だとリアルな物体としての大道具があります。それは、家屋の場合は、庶民の家、または、武家屋敷、お殿様のお屋敷などの、類型としての、基本形がありますが、ともかく、演目ごとに壁の色などが、違います。ふすまの絵なども、異なります。庶民の家なら、のれんなども違っています。それを、人力で、舞台の上に、引き出したり、回り舞台で引っ込めたりします。特に広いお屋敷を、使う際は、ゴザを敷いて、お座敷の感じを出します。【先代萩】で、小さな家来【乳母、政岡の子供】が、小さなお殿様の身代わりとして、毒入りお菓子を食べてしまい、かつ、その毒入り菓子を、持ってきた敵方のお女中(高官ですよ)に殺される時など、何枚もの、茣蓙を敷いて、御殿の広さを演出しています。それを、数人の黒子が、出て来て、巻いて、引っ込めたりします。しかし今回だと、そういう働きをする人間は不要なのです。ムーチョ村松さんがいじっているパソコンだけで、済んでしまうから。で、この公演が、経済的に赤字を出さないで、済むでしょう。それは、将来の発展のために、とてもいいことなのです、

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 音楽については、満足したとだけ、言っておきましょう。特にパパゲーノの大西宇宙(タカオキと、読む)は、ごく最近、NHK BS クラシック倶楽部に出て来て、「へえー。美形ですね」と、思った記憶があって、・・・・ちょうどタイミングよく出会ったという形だし、ザラストロの、平野和さんも声はいいです。まさかとは、思うが、平野忠彦さんの息子ではないかなあ?

 鈴木優人さんて、あの真面目そうな顔にもかかわらず、遊び心もあるのですね。舞台中央直下に置いてある、エレクトーンだと思われる楽器から、鈴の音や、笛の音を出すときのパパゲーノとのやり取りなどを、見ていて、そう感じました。

&&&&&&&&&&&&&ここから先は、全文を、25日の午前中に加筆する部分です。

 ところで、このブログの初日にも二日目にも、バッハ・コレギウム・ジャパンに関して、何も述べませんでした。それは、ね、私が、1997年の秋以来、交響曲を聴かないという生活になっているからです。ショパンがだめだと何度も語っているでしょう。それは、近親憎悪と言うのか、感情の揺れ動かし方がとても、自分に似ているというか、なので、聞くと、切なくて、切なくて、たまらないのです。哀切の感情に見舞われ過ぎて、それもつかれる原因なので、聴きません。

 それとは、少しニュアンスは違いますが、交響曲も今はだめなのです。音楽に浸りすぎると言うか理解しすぎると言うかなので、交響曲を聴くとものすごく疲れるのです。2024年に仲道郁代+読響+小林研一郎で、北欧のなにか? もしかするとシベリウスを、ミューザ川崎で、聞いたのですが、仲道さんが、ご自分のピアノを、ミューザに運ばせているのですが、そのロゴがヤマハの普通のタイプとは、全く違うものだったと言う事だけが、印象に残っていると言う体たらくです。2024年だったと思うが。

 日本には、俳人と言う種族と、歌人と言う種族が居るでしょう。私も、俳句会に参加していたのですよ。1998年より前には。すると、俳句が出来るのです。すっす、すっすと、俳句が出来るのです。別に俳句会の日に限らず、普段の日にもできるのです。脳がそういう風に動く様になるのですね。しかし、1998年から、2024年まで、25年間も作っていないと、もう、俳句脳ではないのです。だから俳句は今はできません。脳に浮かんでこないのです。

 魔笛には、前奏曲もあるのです。それに、バッハ・コレギウム・ジャパンは、音量も大きい。だけど、最初から最後まで、オペラ全体を、とらえると言う形で、音楽として、バッハ・コレギウム・ジャパンを、独自で、把握することはありませんでした。ごめんなさい。だから、何も言う事はありません。

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 演出について、一言、夜の女王と、ザラストロが、握手する場面です。それって、新解釈らしいけれど、客を幼稚化してみていませんか? もちろん、お客様は、ああ、楽しかったと、思って帰ると思うけれど、わたくしは、何か、小ばかにされた様な感じがしました。

  一方で初台の、新国立劇場では、【トゥーランドット】を何度も公演する模様です。そのさい、特に、2017年の中村恵里さんが、りゅーを演じた時の演出が、新解釈で、わがままな王女様が自殺をすることになっているのです。これは、美術装置も、素晴らしく(階段を多用している形・・・・お金をかけたかどうかはわからないが、しろから、グレー、黒までの無彩色で統一し、合唱団が、迫力を生むにあたって、大変、効果の高い装置と美術だった)大いに話題になったみたいで、私も大満足です。でないと、りゅーが、奴隷そのもので、終わってしまい、アジア人蔑視が、形をとったみたいに見える筋ですから、日本人としては、許容しにくい筋なのです。まだ、マダムバタフライの方が、アジア人としては、奴隷状態ではないと、考えることができるのですが、リュウは、中国人女性を想定していると思われるのですが、まったく、報いのない形で、只死んでいくと言うのは、つらいものですよ。で、王女様が自殺すると言う、新解釈の方がいいです。それをスタッフキャストの名前と、ともに蛇足というところに置いておきます。

 新国立劇場は、何度もトゥーランドットを、公演している模様です。私は、2000年にメトロポリタン劇場で、一回見たのですが、ともかく、筋を嫌っているので、日本で、見たいとは思わない演目です。

 魔笛に戻ります。あの、超人的なアリアを歌う夜の女王は、特殊な方なのだから、毒親のままで、いいのではないかしら。歌手はフランス出身の、モルガーヌ・ヘイズです。

 お嬢ちゃま(=パミーナ)は、森麻季さんでした。今回の公演は、要所、要所に、マスコミで、すでに有名な人が配置されているので、それもまた、聴衆が満足した由縁でしょう。ここですが、森麻季さんについては、オペラを見てから、30時間程度何も書かなかったのです。それで、疲れ切っている24日の深夜、最後の最後に書いたら、役名を王子様と取り替えてタミーノと書いてしまいました。その時になんか変だぞと、自分で思ったのです。しかし、とても寒い夜だったので、二階で、パソコンを売っている私は、一階の、寒い部屋に置いてあるプログラムを、取りに行くのを、嫌がったのでした。ごめんなさい。大笑いです。

 私は美術に関する文章を書く時も同じなのですが、マスコミにすでに乗っていて、一般人にまで、名前が通っている人については、触れない主義なのです。それが悪い方に働いてしまいました。尚、名前を間違えタミーノの方、つまり、主役中の主役である、王子タミーノを、演じたイルカー・アルカューレックは、イスタンブール生まれ、ウィーン育ちだそうです。

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 さて、以上の文章は、まったくの素人である、私が、うんちくを披露してしまったと、言う形ですが、本日、私が、誇りに思って快感を感じたのは、カーテンコールが終わったとたんに、夜の女王のアリアが、歌えてしまったということなのです。特に二つ目のアリア、【復讐の心は地獄の炎のように】が、口をついて出てくるのです。

 私はお歌をマスターするばあい、絶対に楽譜が、欲しい人です。ところが、この楽譜を持っていません。どうしてかというと、1999年ホックニーの美術で、シティホール(NY)で、魔笛を見た時に、すごい曲ですねと、思って、絶対に歌えないだろうと、思ったから、勉強する気にもならなかったのです。それに、コロラチュラソブラノ用の難曲中の難曲だと、解説されているではないですか? ありとあらゆるところでね。だから、取り組むつもりが一切なかったのです。

 ところが、上にあげた、NHK BSで、放映をされている【クラシック倶楽部で】 佐藤美枝子さんか、大村博美さんか、小林厚子さんか? の三人のうちの誰かが、このアリアを歌ったのです。ほかにもソプラノ歌手は出たのですよ。しかし、曲目が、日本歌曲だとか、ドイツリードに限定をされているので、この三人以外ではないと、感じています。

 この三人のうちの誰かが、非常にいい声で、オペラアリアを歌い、とくに、この夜の女王のアリアを歌ったのです。録画してあるわけですが、このころレコーダーが言うことを利かなくて(だから、20日に新しいものを買って、テレビを二台見ることができる様にしたわけですが、)ブルーレイとか、CDVDとか外付け、USBハードディスクに落とすことができなくて、内臓HDDがいっぱいですと、すぐいうものですから、消去してしまったのですが、ともかく、すごい歌唱なので、五回ぐらい聞いたのです。すると、私が、耳から聞いて歌える様になっちゃったのです。もちろん、歌詞は、覚えないし、正確に初めから終わりまで、覚えたわけではないのですが、もっとも特徴のあるメロディは、覚えてしまったのです。そして、パーシモンホールで、カーテンコール三回が終わったとたんに、そのメロディが、口の端をついて出るのでした。

 とても小さな声ですよ。だけど、音程とかは、間違えていないのです。それで、前後左右、四人ぐらいの人は、気が付くわけですが、今回も、誰も嫌な顔はしないのです。ただ、自分としては最高のレベルの声ではないなあと、思うわけです。

 今回は、大勢の人が気が付いて、こっちを見ました。大勢の人というのは、遠くまで、声が届いたというわけではないのですよ。私は混んでいるクロークに寄ろうと思っているので歩き方が遅いのです。しかし、周りの人は、クロークに用事がないらしくて、サッサ、ササと帰路に就くので、大勢の人に、追い抜かれて、そのたびに、見つめられ返したのですが、咎める目は、なかったのですよ。あの人たちは、こう考えて居たと思います。「あら、ちゃんと歌える人が居るのね。きっと音大出よ。でも、そうだと仮定ると森麻季さんとか、本日の女王役(外人)よりは、下手なわけでしょう。だって、上手だったら、すでに、有名な歌手になっているから。となると、自分が負けているのに、非常に楽しそうにうたっている。それだけは、変ですね。しかも、白髪ですよ。すごい高齢者なのに、夜の女王のアリアを歌っている、不思議な人間ですね」と、考えながら、でも、とがめないで、通り過ぎていくわけです。

 私は芸術というものは、理解すればするほどに、参加すべきだと、考えているのです。もちろん、せりふ劇(新劇)などは、参加できません。だけど、歌舞伎のきめ台詞など、父は、よく自宅で、繰り返していました。「しらざあー、言って聞かせやしょう」というのは、九世海老蔵の助六だったろうと想像しています。

 で、せりふ劇は、復習するのが、難しいです。だけど、お歌は復習が、易しいのです。短いから。それにオペラアリアって、歌舞伎のきめ台詞と同じで、特に強烈な印象を与えるので、覚えやすいのでした。

 オペラを見て帰ってきた深夜(というのは、次の日の午前4時)に、楽譜を買うことにして、コンビニでの申込番号を取得しました。

 SAMPLEという妨害用文字が大きく出ていて、今のところ、正しくはわからないのですが、ヘ長調です。そして、最高音は、ハイFだそうです。今、グーグル検索で調べました。上のGまでは出るということを前から確かめていたのですが、ただ、SAMPLEという、大きな、アルファベットで妨害を受けているので、本日は、不確かですが、上の第一線に乗ってる音符が、ちらっとみえて、それは上のAでした。私は、今、81歳ですよ。しかも、音大出身ではないです。中学高校の音楽の先生には、ひそかにかわいがられていたと、言う記憶はあります。それは、すべて、芸大卒の先生で、しかも、40代のころも、芸大出身の先生に、鎌倉で、個人レッスンは、つけてもらっていました。だけど、あの頃は、精神が堅かったので、上のFまでしか出なかったと思います。

 今は、精神が、自由なのです。だから、上のAまで、出るのでした。これが、ひそやかな快感という話です。で、わたくしは、こういう快感を餌にして、生きているのですよ。だから、普通の81歳よりも精神は、若いと思います。苦しみもあるが、喜びもある人生です。自分一人の内部では、見事にバランスが取れている人生です。

 で、本日もすでに、21時間おき続けていて、ブログを一本書きました。お酒を飲んだのに、書けたのですから、うれしいです。これが、二つ目の快感です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 最後に、最高のひめゴトを書き表しましょう。実はね。私は、上で書いている様に40代で、個人レッスンを受けているのですが、その時の先生は、鎌倉・婦人子供会館で、合唱を指導なさっていた松前澄子先生です。澄子先生に個人レッスンを受けたのが、先生が、50代だったでしょうか? その時、先生は、芸大卒ですから、私に、日本歌曲【カラタチの花】などをレッスンをつけてくださったのです。

 私は、その体験の前に、横須賀で、幼稚園のPTA会長をしていた時の打ち上げで(例年、大宴会となる)で、二曲歌って、大喝さいを浴びているのです。20代から、30代の若いお母さま方がね。「川崎さんってすごい。まったく普通の人じゃあない。今まで、なんで、川崎さんがPTA会長なのか、訳が分からなかったけれど、今日はわかった。全然普通の人じゃあない」と、口々に言って、階段で、私の肩を触ったり、背中を触ったりして、私の、実は秘めたる、然し、輝かしいエネルギーを受け取って帰ろうとしたのでした。いわゆるオーラです。普段は、全く弱々し気で、ひとに負けているばかりみたいですが、お歌を歌わせると圧倒的な、オーラを示すのでした。つまり、超人的に、普通の人の、上なのです。ただし、40代での話です。

 鎌倉に引っ越してくる前に、夜八時ごろの満員の京急車内で、突然、トスカのアリア、【歌に生き、恋に生き】が出て来ちゃったのですが、立錐の余地もないサラリーマンたちが、誰も文句を言わないし、こちらを見つめもしないで、じっと聞いてくれていたのでした。それは、1983年より前なので、スマホも携帯もない時代です。

 私は人を信じる人だから、松前先生に、「パーティで歌える歌を教えてください。カタリみたいな」と頼んだのですが、ピアノで、伴奏を請け負っている方と、松前先生は、崩した歌い方をお嫌いだったので、順番を追って、教えていただいていたというわけです。

 ところで、松前澄子先生がすごいところは、小柄でいらっしゃるのに、声量豊かで、しかも、美しい声なのです。私は、ほんのちょっとの期間(と言うのは、講演会を聴いただけの先生などですが)接した先生を含めると、5人の芸大出身の先生と、出会ったわけですが、先生ご自身が、歌を歌って、見本を示してくださったのは、松前澄子先生だけです。他の先生は、50を過ぎると、もう、声が出ないと言う方が多かったのでした。

 で、私は、澄子先生の歌声を、何十回と聞いているわけですが、澄子先生は、お家柄がいいので、専業主婦として生きることを選んでいらっしゃって、藤原歌劇団とか二期会に所属することはなかったでしょう。いい声だけどです。それも先生が、崩した歌い方をお嫌いになる由縁だったと思います。舅にあたる方が、柔道でも、有名な松前重義氏でした。第四代東海大学学長です。ところで、今、歴代東海大学学長名を調べたところ、現在は、18代目で、また、松前姓であり、途中でも、ふたり松前姓の方が、居て、そのどちらかが澄子先生の、ご主人です。今、自分でもわかるはずの芸術家の名簿を持って居るのですが、また、また、盗まれていました。

 本当にものを書くのに役立つ資料が盗まれ切っています。現代の学長は、澄子先生のお子様で、医学部教授だった方ではないかなあ? 最近、松前先生には電話をかけて居ません。先生は、90歳を超えていらっしゃると思うので、電話もかけません。で、知りません。その最近ですが、文化庁の在外研修生で、パリへ行くことになった1998年から、グワーッと言う形で、美術に浸りきったので、もう、レッスンを受けているほどの、余裕が無くなったのです。レッスンを受けていると、予習もしないといけないし、復習もしないといけません。発表会もあるし。で、ついていけないと判断をしたのです。先生は、私に対して、腹式呼吸が出来ない事とか、リズム感がないことなどは、叱ってくださったけれど、声の質については、「あなたの声は、本当にいい声です。明るくて、丸くて」と言って頂きました。

 その後、2013年にICU教会で賛美歌を歌っていた時に、大勢の人と一緒に歌うと、緊張しないので、非常にいい声が出るのですね。するとある女性(多分先輩)が、近寄って来て、「あなたは、天与の美声を持って居る。だから、霊南坂教会のクワイアに入りなさい。四期卒の関さんが、そこにいるから、慕っていきなさい」と言われたのですが、実行をしていません。

 今だったら、いろいろ、あきらめちゃっているから、そこに所属しても、お勉強ができると思うけれど、2013年は、いろいろな事をあきらめて居なかったから、「素敵な話だけど、所属はできない。ついて行かれない筈だ」と、思ったからでした。一流のところに所属できるのはうれしいことです。だけど、それだけ勉強しなくてはいけないという責任はあるのです。それは、わかっているので、このチャンスを捕まえませんでした。

 松前澄子先生の母君、池田謙(かねと、読む。俳号は佳音=かねとはつおんする)夫人にも俳句で、かわいがっていただきました。この方は、江戸時代は、岡山藩の城主で、ご主人が、第14代当主(=侯爵)か、その弟君と結婚をなさって、戦時中は上海にいらっしゃったのです。銀行マンだと思う。うちの父は撫順にいて、今のオイルシェール(頁油岩)を探していたのです。でも、当時、中国とか、満州にいた知的エリートは、非常に厚遇をされて、特高などに追い回されることもなく(ただし、中国の人は怒るでしょうが)、文明度、文化度が、高い生活を送っていたのでした。ただし、731部隊などがあったわけですから、中国の人は、本当に怒っていると思います。

 だから、私は、子供のころから、日本人離れしていると、言われています。でね。前田清子さんとか、安野智紗夫人が作り出し、たった、15軒以内での、上下関係など、あほらしくて、見るに忍びないですよ。

 もう一度言います。池田家の、江戸時代の藩邸の御門は、今国立博物館内に、移転をされて、一応保護されています。年に数日公開されるはずです。東大の赤門は、たぶん加賀藩前田家の物でしたね。池田家の門は、赤門よりも大きいかな、黒門と呼ばれています。明治政府内にも、立派な建築物は保存すべきだと、考えた人が居るのでしょう。でも、池田家にしろ、徳川家にしろ、松前藩にしろ、徳川親藩だったのではないかなあ? そうなると、明治維新は大変でしたね。そして、終戦時(実際には敗戦時)にも財閥解体、華族制度廃止、と言う、名家にとっては、不合理な制度が押し寄せてきたのです。

 しかし、そういう不条理な目に出会いながら、決して、他者に威張ることも、いじめることもなく、常に対等に扱ってくださった、澄子先生と、かね様には、懐かしさが、いっぱいです。今の私の声を聴いていただきたい。そして、私の歌う、夜の女王の、アリアも聞いていただきたいと思いながら、電話をかけません。我慢をして置きます。ただ、ただ、思いだけを空気にのせて、南へ運ばせます。

(蛇足 1)

 トゥーランドット、

2019年7月18,20,22日 版

新解釈、新国立劇場。スタッフ  指揮  大野和士・・演出 アレックス・オリエ・・美術 アルフォンス・フローレス・・衣裳 リュック・カステーイス・・照明 ウルス・シェーネバウム・・演出補 スサナ・ゴメス・・舞台監督 菅原多敢弘

キャスト トゥーランドット・・イレーネ・テオリン・・・・カラフ・・テオドール・イリンカイ・・・・リュー

中村恵理・・・・ティムール・・リッカルド・ザネッラート・・・・アルトゥム皇帝・・持木 弘

 王女が自殺すると、言う解釈、すごい出来で、わたくしも大満足をした。これは、ニューヨークメトロポリタンオペラで、2000年に、違う解釈のものを見ているが、筋としてあまり好きではないと、思っている。 だけど、王女が、自殺するのだったら納得できる筋となる。

(蛇足 2)

 

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トゥーランドット(NHK BS3)は素晴らしかった。Met・2000年より良かったと思う。オンデマンドで、ご覧になる事お勧めです。

2019-09-14 23:02:30 | 音楽

*1)、 今の私は徹夜明けで、体力がないです。で、逃げているわけではないのですが、頭の中に、普段の、ブログ内容が浮かびません。あれって、全身内のもっとも、深いところから出てくるものなのですよ。

 本日は、10時間も(間に寝たことは寝たのだが)、ものを食べていないのに、まだ、食欲が出ないほど、体は、メタメタです。

 で、NHK ニュース(録画)も点検もせず、ただ、ぼんやりと、椅子に座っているわけですが、頭の中に浮かぶのは、、2019年9月8日の深夜(実際には、9日の午前零時から)BSプレミアムで、放映された、トゥーランドット(新制作)公演が、素晴らしかったと、いう事です。

 私は、ニューヨークメトロポリタンオペラで、2000年の秋に、生で、同じものを見ているのですが、今回の方が、圧倒的に深い感動を与えられました。理由は、はっきりとした違いがあったのです。演出上の。

~~~~~~~~~~~~~~~~

*2)、キャストの、詳細を知りたくて、珍しく、文章を書く前にネット検索をしました。

すると、https://spice.eplus.jp/articles/245490 というサイトで、著者が、解説していたのですが、演出が、相当に特別だったそうです。幕切れが、圧倒的に、普通じゃあない。

 こんな演出は、初めて見ました。でも、大変な感動を与える演出であって、納得、納得です。

 そちらのサイトの著者も、「ネタバレになるので、語れないが」、と言って居ますが、私も、・・・・・どこがどういう風に違うのか・・・・・を、今、ここでは、申し上げない方がいいと、思います。

 どうして、そういう風に違う演出になったかというと、これは、プッチーニが未完で、終わっているオペラなのだそうです。で、楽曲は、別の作曲家が、輔弼して、完成しているのですが、演出は、プッチーニのスケッチに基づいて、行われているらしいのです。

 だから、今回の様な変更は、悪い事ではない筈です。しかも、今回の方が、全体をまとめるにあたって、圧倒的な説得力がありました。これから、こちらの方が世界中で、採用されるのではないかなあ。

~~~~~~~~~~~~~~~~

*3)、下にそのサイトから、コピペした、スタッフキャストの名前出しています。しかし、そこに合唱団が出ていません。その合唱が素晴らしかったのです。その部分は、そちらの著者の、言葉を、そのまま引用をさせてくださいませ。

::::::::::::

今回の上演の一番の推進力となっているのは何といっても合唱、そしてオーケストラの素晴らしさではないかと思う。 

合唱指揮の三澤洋史のもとに新国立劇場、藤原歌劇団、びわ湖ホールの合唱団が一体となった歌は、そびえ立つセットの高さを使った場面ごとのフォーメーションによって様々な立体的な響きを持ち、日本の合唱の規律正しさを失わずに力強さと野性味をも獲得してこのオペラにおける合唱の重要性を明確に示した。そして大野和士指揮のバルセロナ交響楽団は、色彩豊かな音色と大胆な表現力を持ち、弦の艶やかさ、木管の官能性、金管の鮮やかさ、そして打楽器群の多彩さでプッチーニの音楽の持つドラマを描き切った。大野のテンポは緩急をこれでもかと強調して歌手を歌わせながら、このオペラに含まれる当時としては先進的であった楽器の扱いも巧みであり、弛緩した瞬間はまったくない。これ以上ないほどの《トゥーランドット》の演奏を聴かせてくれた。

:::::::::::::

 こちらの著者が、ご覧になったのはゲネプロなのです。したがって、子供の合唱団が、もしかしたら、出てきていなかった? 子供たちも二つの団体が出演しています。ともかく、合唱は、素晴らしかったです。オーケストラは、劇場にいなかったので、私には判断のしようもないという感じでしたが、合唱は素晴らしくて、視聴中に、『これは、どこなのだろう?』と思いました。それほどにに、すごかったです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

*4)、実は、途中から見始めたのでした。例のごとく裏の敵さんが居て、今回は、三つに分けて、録画されていたのです。それで、後藤みどりが出る第三部から、さかのぼって見たので、最初が、主役の一人である、りゅーの、トゥーランドット姫に対する、懇願の場面でした。その時、りゅー役の、中村恵里の、お化粧の、すごさ==汚さ==に、驚きました。髪には、何か、粉末がまぶされていて、ぼさぼさ、かつ、衣装もドロドロ、顔にもどろを塗りたくっています。

 こういうところは、2000年に見たニューヨーク・メトロポリタンオペラでの、トゥーランドット公演とは、100%違うところです。

 ともかく、このオペラの演出は、一般的な演出ではありません。それは、最初から言えている部分であって、全く普通ではないのですが、ある種の一貫性があります。この物語の、主たる部分(残酷性を伴った悲劇)を、明瞭に押し出すことに、おおきな力がそそがれていて、歌手に対するファン気質をあおる様な、幼稚な選出が、どこにもみられないのです。有名な、アリアが終わっても、拍手をする、余地を与えていなかったと、思います。ここは、記憶が定かではないが、そうだったと思います。

 其れには、驚きました。一方、衣装がね。例のごとく、モダナイズドなので、そういう意味では、がっかりなさる方もあるやもしれないが、その倹約度を補って余りある、演出であり、装置であり、衣装なのです。

 ただし、この残酷性を伴った悲劇といっても、オセロー程、深刻ではないです。神話的世界のお話なので、ストーリーには、救いはあります。

 そうです。私の様に年取ってきて、体力が衰えた人間には、オセローは、見るのがつらいです。しかし、トゥーランドットには、物語の多様性とか、登場人物の多さと、言う救いがあって、飽きさせないところがあります。登場人物の中には、コミカルな表現をする、人間たちもいるからです。

 しかし、それにもかかわらず、今回の演出以外の、演出家による、このオペラを見た人の、共通的感想としては、「有名なオペラを見たのだけれど、なんだか、つまらなかったわ」だったと思います。

 ラスト、15分に拍子抜けしてしまうのです。それが、プッチーニ以外の人の、補筆の弱さだったと思います。しかし、今回の演出による、ラスト、5分間・・・・・(いや、正確に言うと、ラスト、一秒です・・・・・だから、大勢のオペラ通が、ブログもしくはサイトで、「見逃さない様に!」と、言って居ます)・・・・を見たら、

 その観客のだれもが『自分は、素晴らしいものを見た』という感想を持つでしょう。そうです。その、一秒の前の、すべての時間が、輝く様になります。

2019-9-15 これを書く。雨宮舜(本名、川崎千恵子) 

   なお、このブログの2010年から数え始めた延べ訪問回数は、5588530です。

 

オペラ夏の祭典 2019-20 Japan↔Tokyo↔World
オペラ『トゥーランドット』/ジャコモ・プッチーニ ※フランコ・アルファーノ補筆
Turandot / Giacomo PUCCINI 
全3幕〈イタリア語上演/日本語及び英語字幕付〉

<スタッフ>
■指揮:大野和士
■演出:アレックス・オリエ
■美術:アルフォンス・フローレス
■衣裳:リュック・カステーイス
■照明:ウルス・シェーネバウム
■演出補:スサナ・ゴメス
■舞台監督:菅原多敢弘

 
<キャスト>
■トゥーランドット:イレーネ・テオリン〇/ジェニファー・ウィルソン●
■カラフ:テオドール・イリンカイ〇/デヴィッド・ポメロイ●
■リュー:中村恵理〇/砂川涼子●
■ティムール:リッカルド・ザネッラート〇/妻屋秀和●
■アルトゥム皇帝:持木 弘〇●
■ピン:桝 貴志〇/森口賢二●
■パン:与儀 巧〇/秋谷直之●
■ポン:村上敏明〇/糸賀修平●
■官吏:豊嶋祐壹〇/成田 眞●

 

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【初恋】と【遥かな友に】は名曲だと思うが、日本の歌百選から漏れている。それは、変だ

2019-04-16 02:06:51 | 音楽

 なお、この一章は、本当は、【日本の、歌百選に、【遥かな友に】が、無いのはおかしい。早稲田びとよ、怒れ!・・・・日大びとも、怒れ! CIA Agentに対して】としたいのですが、昨日の続きとして語ると、音楽の話題から入りますので、総タイトルを、わざと、温和なものにしておきましょう。

副題1、『藤木大地が、石川啄木作詞、越谷達之介作曲の、【初恋】を、最終曲として、予定をしていたであろうことは、彼がどれほどに、今、快調であるかを証明している』

  藤木大地の演奏会を聴いて、その日(=19-4-13)に上野の文化会館小ホールに集まった、聴衆と、主役の間にどれ程に、深い信頼関係があったかを、前報(あと注1)で、述べています。彼は、アンコール曲を四つも歌いました。そして、9時15分に演奏会を終えています。それは、大サービスだと、聴衆は、みんな思いました。そして、「通」の人々は、彼が、用意した、アンコール曲は、本当は、二曲であって、最終曲は、【初恋】になるはずだと、わかっていたはずです。、あまりに会場が盛り上がったので、演奏会の中の二曲を、付け足しとして、さらに、選んだのではないかなあ? で、全部で、四曲になった。ただ、その付けたしの二曲は、私にとっては、未知の外国の曲だったので、この発想が、正しかったかどうかがわかりませんが、たぶん、そうです。

 ところで、最終曲が、【初恋】だったのには、驚きました。だって、たった9小節しかない短い短い歌なのですよ。歌詞は、一番しかありません。それで、締めくくるとは、どれ程に、自分の歌唱力に自信があるか、そして、聴衆が、受け入れてくれていることへの、どれ程に、強い信頼感があるかを示しています。ただ、何といっても、素晴らしい選択でした。

 そして、後注1内では、「政治的な論理を用いない」と、宣言をしていますので、藤木大地が、来る4月29日に覚園寺で、大々的な演奏会を行う事などには、触れておりません。そして、そこに、武部聡志の陰を感じていることをも、語っておりません。なお、その件は、別の章で、語る予定がありますが、今は、触れないで、置きましょう。

 そして、私の方も、実は、今では、そういう、短い、短い曲も美しく歌える様になっていることをも、語っておりませんでした。あくまでも、藤木大地という人を主役に立てた文章だったからです。

 私は、各分野に、それぞれ、その道に通暁している人なら、わかっている傑作というものがあると、思いますが、【初恋】は、その一つです。

 今、別の人のブログ、日々の暮らしを記憶に刻む に入り、その人の、2015年10月のブログ、石川啄木・短歌を歌曲にした越谷達之助にふれる に入り、さらに、その人が紹介をしている、越谷達之介の、青山学院高等部で、教師をしていた時代の生徒であったらしい、青木純のブログ が、紹介をされているのにも、きがつきます。しかし、そこには、私は、入れなかったので、上記のブログの著者が、引用している青木純の文章を選び取り、下に、コピペします。:::::::::::

『日本歌曲の傑作「初恋」〜   越谷達之助の歌曲。
越谷達之助先生が昭和13年に作曲し三浦環に捧げられた日
本歌曲の不朽の名曲「初恋」は今も多くの日本人に愛唱され
ています。また海外の多くの著名な声楽家にもしばしば歌わ
れ、日本歌曲を代表する名曲となっています。
この「初恋」は越谷達之助先生の歌曲集「啄木によせて歌え
る」に収められています。この「啄木によせて歌える」のほ
か、単独の歌曲や連作歌曲を集めた「日本の哀愁」を「越谷
達之助記念会」では再刊しました。
またこの他の歌曲集のコピーやLPからダビングしたCD-R
を頒布しています。』     :::::::::::

 どうして、これ程に、込み入った、紹介記事を書いたかというと、グーグル検索だけではこの曲が作られて時期が、探し出せなかったからです。この曲が、昭和13年に作られたというのは、重要です。それは、まだ、一部に、ほんのトレース程度でも、大正モダニズムの影響が残っている時代だったからでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『次に、童謡の分野では、傑作のひとつであろう、【里の秋】が、いつ作られたかを、知りたくなって、その制作秘話にたどり着いた』

 ところで、私は、この歌の作曲者を探し出そうとして、其れもなかなか、苦労をいたしました。その過程で、同じく、自分にとっての、最近の愛唱歌である、【里の秋】が、いつ、作成をされたかを知りたくなったのです。それは、童謡でもあるが、反戦歌でもあると、言われています。で、戦前に、作られたのではないかと、推察していたのでした。しかし、それは、戦後に、制作されたものだったのです。特に海沼実が、作曲をしたのは、戦後です。しかし、作詞の裏側が、微妙極まりないのでした。その微妙さが、歴史的事実を反映をしているので、wikipediaから、その部分を引用します。::::::::

「里の秋」と『星月夜』

『星月夜』(ほしづきよ)は、斎藤信夫がまだ国民学校の教師をしていた1941年(昭和16年)12月に作られた、1番から4番までの歌詞で、後に童謡の雑誌に掲載された。

太平洋戦争の始まりを報せる臨時ニュースに高揚感を覚え、その思いを書き上げたと言われている。

1,2番は「里の秋」と同じ歌詞だが、続く後半の3,4番は「父さんの活躍を祈ってます。将来ボクも国を護ります」という様な内容で締めくくられている。

早速、童謡にしてもらうため海沼に送ったものの、曲が付けられる事はなかった。

やがて終戦を迎え、海沼は放送局から番組に使う曲を依頼され、要望に合った歌詞を探して見つけたのが「星月夜」だった。

そのままの歌詞では使えないと判断した海沼は、斎藤に東京まで出てくるように電報を打つ。

戦争で戦う様に教えていた事に責任を感じた斎藤は、終戦後、教師を辞めていた。

電報を受けた斎藤はすぐに海沼に会いに行き、「星月夜」の歌詞を書き変える作業を始めたがなかなか進まず、曲名が「里の秋」に変えられたのも放送当日だった。  ::::::::::::::

 この秘話を知って、わかったことは、最初期、1941年(昭和16年)の、詩では反戦歌では、無くて、戦意高揚の、歌詞が、三番と、四番にあったという部分です。で、海沼は、その時点では、無視したのです。しかし、1番と2番が傑作だったので、戦後、「どうですか? 三番と、四番を作り直しませんか?」と、提案して、斎藤信夫が、作り直したのでした。それでは、一般的ですね。戦後には、人々は、自由な発想を許されたのですから。戦時中にあの歌詞で、あの曲が、制作をされたとしたらすごい事だったのですが、・・・・・しかし、其れだけ、軍部の圧力がすさまじかったと、いう事でもありましょう。

 ところで、そういう作業をしているうちに、日本の歌。百選というものがあるのに、気が付きます。【里の秋】が選ばれていると、書いてあるからです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『日本の歌・百選に、【里の秋】は、選ばれていた。しかし、【初恋】と、【遥かな友に】が、選ばれていなかった。ほかの曲を詳細に検討してみた。湯山昭の、【あめふりくまのあめふこ】が、選ばれているのには、・・・・・短い歌でも傑作は傑作だと、言う趣旨からいうと、・・・・・喜びが、大きかったが、【遥かな友に】が、選ばれていないのは、変だ。そこから、数字のマジックとか、CIAエージェント、特に、私が、鎌倉エージェントと呼ぶ連中の陰(=悪い影響力)を察してしまう。ひどいことだ』

 里の秋は、NHKが、放送をしたそうです。それと、学校の教科書に載っていると、思います。したがって、人口に膾炙したと、言えますね。一方で、【初恋】は、高校の教科書に、載っているかどうか? というくらいの、難しい曲の方に入るでしょう。難しさとは、短い曲で、表現することの難しさを指します。メロディが、10段階飛ぶとか、そういう技術的な部分ではありません。

 そして、【初恋】は、最初、日本最初期の有名オペラ歌手、三浦環にささげられたそうですから、クラシック畑の歌曲としてとらえられているので、歌える人が少ないのかもしれません。だから、日本の裏百選にえらばれていない。それは、納得しないといけないかもしれません。

 しかし、【遥かな友に】の方は、納得ができません。一時期、人気が高かった、ボニージャックスの持ち歌なので、テレビでも何度も、放映をされていると、思いますし、いわゆる、市民合唱団の、定番ソングの、一つだと、思うのです。だから、日本の歌百選に漏れているのが、変なのです。

 ダークダックスの方が、慶応グリークラブが生み出した、グループでした。ボニージャックスは早稲田大学グリークラブが生み出したグループです。【遥かな友に】は、道志村(【おらあ三太だ】という児童映画のロケ地として有名)で、早稲田のグリークラブが、合宿をしていた最中に、部員が寝ないので、上級生が、「どうしましょう?」と、当時、指揮者だった、磯部俶に相談をしたら、磯部俶が、腹ばいになったまま、五線紙もないのに、作曲をしたと、されている曲です。静かで、しみじみとした名曲です。だから学生たちも枕投げ等をやめて、すやすやと、寝入ったと、思われる曲です。

 星野リゾートが、リニューアルしたあるホテルで、夜、合唱の催しがあったのです。そこでも、選曲をされていました。本当に美しい曲です。

 でね。これが、日本の歌百選から漏れていること、及び、その選定が、2007年になされていることを考えると、これは、例のごとく、対、私いじめの作業であろうと、みなすほかはないのですね。断腸の思いで語る話ですが、語っていきましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『私は、【隅田トリフォニーホール】の舞台で、磯部俶指揮で、この【遥かな友に】を歌って居る。それは、1999年代だったが、私が本を作り始めて、2007年ごろは、もっとも、活発に、其れを行って居たし、さらに、この百選が、準備されたころの、2006年には、月刊ギャラリーに連載もしていたので、・・・・・ありとあらゆるレベルで、又、アリと、あらゆる方向で、弾圧をしてやれ。そうしないと、自分達が過去に行ってきた悪を世間に、公開をされてしまう・・・・・という形で、この【遥かな友に】を、落とすために、日本の歌百選を選定したのだと、思われる。当時の文化庁は、めちゃくちゃなレベルで、鎌倉エージェントに、支配をされていたので、そこまで、ありえると、感じている』

 今では、どういう経路で、そこに入ったのかを忘れていますが、藤沢女声合唱団というところに所属をしていた時期があります。「鎌倉への引っ越し後、合唱祭を、聞きに行った時に、そこが、新部員を募集していたので、入った」と、あいまいな、記憶ですが、覚えています。その指揮者は、当時は、磯部和先生でした。和(かず)先生は、たまたま、美術界で、私が深く尊敬をしている、高橋和さんと、同じ名前です。そして、俶先生の奥様でした。普通は、藤沢市民会館で、練習成果を、披露をするのですが、一回だけ、俶先生が、指導をしているグループと一緒に、隅田トリフォニーホールの舞台で、数曲、歌ったことがあり、その最終段階で、全員合同で、この【遥かな友に】をうたったのです。なお、私は、1997年から、そこをやめています。パリへ版画の講習を受けに、行かれることとなったので、音楽は捨てて、美術畑に、集中をすることとしたのです。

 なお、磯部俶作曲の童謡で、【びわ】というのもあり、これも、美しい曲です。そして、短いです。作詞は、【まどみちお】

 まあね。まさかとは、思うが、親戚ではないのですが、私の旧姓もいそべです。ただし、ギイソといって、使う漢字が違います。磯部俶先生は、次男だそうで、兄が、学習院の、院長だったそうです。だから、名前が、凝っていて、珍しいです。私の実家は、学習院の院長などしておりません。が、江戸時代からの、教養は蓄えている家なので、父の名前は、礒部千晴と、書いて、ちはると、よみます。次男でしたが、単純な、〇〇二とか、〇次と、言う名前ではありません。

 ::::::::::::でね、此処から先は、例の見て来た様なうそを言いの類の記述に入ります。しかし、当たらずともいえども、遠からずでしょう。2006年ごろから、弾圧の程度がすさまじくなってきていたのです。パソコンを使い始めた、1999年から、特に強い、弾圧が始まっていたのですが、本(400から、800冊という小規模出版ですが)、を、自分で作り始めた時から、さらに、すさまじいレベルでの、弾圧が始まったのです。このころの私は、死に物狂いでした。

 というのも、その種の裏側を、他人に語ることをやらなかったからです。川崎ラゾーナ(日本一売上高が、大きい商業モール)内の丸善で、【原発反対者に対する弾圧】という書物が、平台に大量に、おいてあった時期があって、買ってあるのですが、まだ、読んでいません。もしかすると、盗まれている? でも、そのキャッチコピーに書いてあったよりもひどい、いじめの数々にさらされていました。

 そのいじめの数々を、今は、相当数ブログで、さらしています。本日のもその一つですね。だけど、当時は、書けませんでした。どうして書けなかったかというと、こういう事情が、裏にあります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題5、『2007年秋に、ソニー損保社長だった川島章由君が亡くなった。彼は、国際キリスト教大学時代の、一年時たった、23人しかいない、私の同級生なので、追悼文を書いた。それは、むろんの事、ブログではさらさないで、おいて、(というのも、ブログそのものを開設していなかったし)、メルマガで描いた。しかも、当時、500人以上あった宛先全部ではなくて、110人ぐらいを占めていた、国際基督教大学同期生だけに送ったのだった。しかし、それに続いて、パソコンのシステムに、異常がきたしている窮状もついでに、添えた。すると、読者の内で、何人かが、有言、又は、無言で、メルマガの受信を断ってきた。それ以来、こういう弾圧については、書くのをやめている・・・・・しかし、あまりに弾圧がひどいので、とうとう、それを再開することにした。それは、2012年からだった。特に、ブログの方で、2012年ごろから、書き始めたのだった』

 ソニー損保という会社は、内田有紀と、九代目松本幸四郎(=現白鴎)のコマーシャルで、有名です。後発の損保会社でしょうが、ばんばんコマーシャルを打っています。今、書いた部分が相当量消えました。もっとも、鋭い観察に基づく事実だからでしょう。

 もう一度、書き直します。その後、いろいろ、あって、わかってきたのですが、そのシステム異常を、生起させていたのは、同じく、たった、23人しかいない、同期の、古村浩三君だった模様です。彼は、国際基督教大学の、第一男子寮で、石塚雅彦さんとか、ロックフェラー四世と知り合って居るので、・・・・・・また、途中の1965年に、ベイカーさんという金髪碧眼の、アメリカ人男子学生が、私を後ろから首を絞めて、殺そうとした事実があるために・・・・・・なんと、普通の人である、私を、弾圧する側に回っていて、パソコンのシステムを壊すという事を、日常的にやってきていたのでした。彼は、1966年からアメリカにわたって、この種の勉強をしているので、日本の始祖みたいな存在です。そして、今では、警察庁内部他にも、その技術をさらに、ブラッシュアップする集団が、存在していて、又、担当者も、全世界で、20人ぐらいいる模様です。それで、私のパソコンは、敵さんが、其れをやりたかったらですが、24時間、開いている間中、システム異常を起こしがちなのです。
 ただね。2007年の秋に、必死の思いで、書いた苦境を、発生させていたのが、川島章由君と同じ、23人のうちの一人だったと、言うのは、本当の、奇遇ですよね。だから、事実は、小説より奇なりと、なります。
 ここで、四時間休みました。午前10時半に、再開をします。それと、同時に、この文章の所属分野を、音楽から政治に変更したいのですが、それが、不可能みたいなので、weblog として無所属にしましょう。
として、
 で。その後どうなったかですが、書けないものの、苦境は続くので、ブログを開始することとなります。
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副題6、『私は、国際キリスト教大学1966年度全卒業生のうち、電話を頻繁に交換した女性が、全部で、6人ぐらいいるが、そのうち、元筑摩書房編集員であった、笠松敦子さんが、どこかで、敵方に、取り込まれているのを、知った。それが、2008年だった。しかし、私も自分がリアルな世界では、喧嘩をしない主義だし、彼女も優雅そのものの人だったので、やまゆり園事件が起きるまで、そのことをブログに書く事は、無かった。
 
 しかし、実情を言うと、2008年には、彼女は、ひどく、きつく、ブログを開始することを反対したのだった。それが、不思議極まりなかった。苦境を乗り越えるには、大勢の人に現状を伝える必要がある。その一手段として、ブログを開設するのに、其れを、阻止された。
 その時の彼女の言葉なのだが、「ブログを開くと大変ですよ。攻撃があったりして、神経を使います。・・・・・・・ここから、言葉にならないこと葉で、・・・・・あなたは、神経質でしょう。とても、繊細な方なのでしょう。だから、きっと、苦しむと思いますよ。と、あったのち、・・・・・・・ 私は子供の為に、ブログを開いています。必要性があるので、ブログを開いています。その私でさえ、ひどく大変なのですから」と、言われて。
 しかし、彼女が、山折哲雄さんの、
『ブッダは、なぜ子を捨てたか』集英社新書 2006を、編集して、其れを送ってきたとき、とか、
吉田秀和氏の「『たとえ世界が不条理だったとしても――新・音楽展望 2000-2004』(朝日新聞社、2005)」の、二冊を担当し、そのできあがったものをおくってくれたときにも、相当に敵側の気配を、感じ取りました。
 彼女は、お子様が、自閉症と診断されたのちは、筑摩書房を退職して、在宅のフリーの編集者となったのです。で、立派な本を編集し続けてきました。しかし、だからこそ、井上
ひさしとか、伊藤玄二郎とか、三輪喜久代さんとかと、深い結びつきがあって、・・・・・・しかも、其れを、見せつけない様に頼まれていて、ああいう態度を、取っていたのでした。しかし、2012年に、安藤てる子さんの件で、新百合ヶ丘から、彼女の自宅へ電話をかけた際に、電話口に出てきた彼女のご主人から、手ひどい軽蔑の発言を受けてから、裏側の実像は、知っていたのです。
 それでもね。気が付かないふりをしていました。ところが、上で言って居る古村浩三君が、同期生を募って、みんなで、寄付金を一緒に集めて出しましょうと、言う話を出してきて、それを委員会を作って、実行をしました。その理事(または、幹事役)として、笠松敦子さんが、くわっていた事は、敵方にすれば、快哉を叫びたいほどの勝利だったと、思う。しかし、仕方がないので、ただ、黙っていた。
 さて、2016年になって、やまゆり園事件が起きる。すると、事件の起きた月曜日の、夜に手をつなぐ親の会が、声明を発表をした。あまりにも手早い措置であって、それも、私が、この事件が謀略であると、信じる由縁の一つとなっている。
 
 ところで、上の方で言って居るが、当時の、国際キリスト教大学の卒業生は、一般の日本人よりもキーボードしょりが早いと、言って居ます。それが、1960年代ですね。その後も、笠松敦子さんは、ずっと、在宅編集者といて、キーボードを扱っているわけです。し可も、私生活では、お子様(自閉症児)のための、ホーム頁、及びブログ活動、及び、狛江市や、自閉症児団体の、啓蒙や、発信活動を、続けているのです。したがって、私はどこかで、・・・・・・コの素早すぎる声明は、笠松敦子さんが、書いたはずだ・・・・・と、言い切って居ます。
 ところが、ネット情報として、違うと、言う事情が私に開示されました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この件ですが、大変、似た様な、ケースとして、横須賀市池田町六丁目に、ある、杉本俊一元横須賀市、副市長邸の、近所の土地、1千坪が、ずっと、開発されないでいて、杉本家は、ほとんど、千坪の庭を持っているのと同様であると、書いています。それだけの恩典をもらって居るのは、例の、地籍変更届という、大悪事(横須賀市の水道山が、無償で、ある個人へ手渡された)に協力した、恩典であろう。と、書いています。当時杉本俊一氏は、横須賀市の土木課長であり、しかも、私は内々で、こういう異常なことが起きていますよと告げているのに、私の方を無視したのですからね。横須賀市民に対する裏切り行為の一つです。
 それが、この2019年4月9日に現地に行ってみると、十一軒ぐらいのデザイナーズ、建売住宅が建っていて、駐車場に、ベンツが停まっているなどという、高級住宅街へと、変身していました。また、後ろ側の山も開発中でした。
 で、結果として、私の文章の方が間違って居るという事になりますね。しかし、30年以上、ご近所がないという形で、杉本邸は、保護されていたのです。其れについては変わりはありません。それに、地籍変更届が、起きてから、40年たっていますので、あれこれ、変更することが、彼等には可能だったのです。今般青地の存在場所が、私が知っている図面とは、まるで、違って居たとか、いろいろ、ありますので、全般的に、私が間違って居るという事でもないのですよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この杉本俊一邸、近辺の空き地問題と、やまゆり園事件の起きた当夜に、発信をされた、手をつなぐ親の会の声明というのの、いきさつが、非常に似ている様に思われるのです。
 やまゆり園事件は、私に言わせると、とんでもない食わせ物の謀略です。19人は死んでいないし、植松聖は、作り上げられ、洗脳され、演技している、犯人にすぎません。
 しかし、前夜徹夜をしているし、月曜日は、必ず、銀座の画廊街へ行くはずで、ブログが書けないから、通るだろうと、思って事件を発生をさせたのですが、
 たまたま、事件の当日、朝の五時から、起きていて、午前7時からブログを書き始めています。これもまた、井上ひさし原案、実行準備係が伊藤玄二郎であろう、謀略です。しかし、参議院議長、(当初は、総報道をされていたが、途中から)衆議院議長、まで、巻き込んでいますので、この二人だけではなくて、警察庁、神奈川県、及び、関係する医療機関、そして、谷垣禎一氏等が、事前に、洗脳教育を受けていた大規模な、謀略事件なのです。
 しかし、私が書いていることが正しいからこそ、大急ぎで、伊藤玄二郎達、鎌倉エージェント側を、援助する必要が出てきて、其れに役立つ支援人として、二つの方向で、準備をされたのが、神奈川県側(やまゆり園は、神奈川県立の施設だったからだが)の黒岩県知事だったのです。それが、一つ目で、もう一つは、夜に発信をされた、手をつなぐ親の会の、声明でした。
 今般の、第一次地方選挙で、事前にも、事後にも、神奈川県知事、候補者、及び、当選者・黒岩氏に関する情報が徹底的に抑えられていたのも、やまゆり園事件に関する真実を私に語られてしまうことを恐れての事でした。
 其れを、書きかけて途中になっているのが、後注2に置いた文章です。
 
 で、二つ目の、夜発信をされた声明の方へ、戻ります。私は、其れを手配したのは、笠松敦子さんであろうと、書いています。それは、寄付金の問題で、古村浩三君とつるんでいますね。したがって、笠松さんは、そちら側の、陣営に立つ戦士と、既になっているので、依頼を受ければ、すぐさま手配をする可能性が高いのです。
 古村浩三君は、先輩である、石塚雅彦さんと、非常に親しくて、その石塚さんは、伊藤玄二郎達と密接でありますから。
 しかし、上で言って居る様に、そう書いてから、数か月、もしくは、数年たってから、否定をされました。私のブログの、其の章に対して、「これは、違う」というコメントとして、知らされたわけではなくて、「あの声明は、素晴らしい」というお褒めの記事とともに、其の全文が、私の目の前に出現をしたのです。
 すると、文末に署名があって、それは、その当時の全日本、手をつなぐ親の会の会長であった、某女史でした。
 しかし、その署名を見ても、私の、考えは変わりませんでした。その女性は、その時点まで、一切テレビ画面に登場しません。実在をするのでしょうが、登場をしません。その後も一切登場しません。
 テレビ画面に登場するとウソがばれるからです。本日、2019-4-16以降に彼女が登場したら、私は持論が正しかったと、結論をつけます。
 
 で、私は依然として、当夜、発信をされた声明は、原案及び、草稿も、笠松敦子さんが制作し、アップも彼女が行ったと、推察し続けています。ただし、名前は、依然として、某女史でしょう。事件当夜、及び、数か月間、私のパソコンでは、其れを見ることができあいませんでした。今どうであろうか? 時間がないので、確認をしませんが、持論が正しいと確信をしています。
 
 この時に、私は、笠松敦子という友人を、70%の部分で、切り捨てました。敬愛の念を捨てました。『なんという馬鹿なことをやっているのだろう!』と、思いました。お子様が、自閉症で、大変だったのに、其れを、単なる謀略的嘘として使う悪人連中に協力をする人として、とらえる様になったからです。
 30%の部分では友愛感情は、残してあります。それは、お嬢さんに関する部分です。素敵な青年と知り合うと、あそこのお嬢さんは、お兄さんが自閉症なので、バランスが悪くて、30歳までは、まだ、結婚をなさっていなかった。この青年をお見合い相手として、紹介をしたいなどと、思いますが、それ以外の、感慨は、無いのです。
 でね。はっきりと敵対者として、見始めてから、敵対者であるからこそ、確認をしたいことができてきました。
 私はブログ内で、彼女があの声明の文案を作ったし、公開の措置も彼女が取っただろうと、はっきりと書いていて、其れを、いまだ、否定をしていないのですよ。
 彼女は、ある時点で、「あなたのメルマガを、受け取るのをお断りをしたいと、言ってきました。メルマガには、こういう政治的問題は、書いていない上に、AOL側で、突然に、相手に届かないという措置を取られ始めたので、事実上停止しています。
 だから、このブログに何を書いても、知らないのだと、いう事もできます。
 しかし、例の寄付の、幹事委員会で、古村浩三君とつるんでいるのですよ。当然のごとく、このやまゆり園事件で、私が何を書いているかは、届いているはずです。
 で、其れを確認する作業に取り掛かることといたしました。
 届いているのに、無視し続けているのなら、私の考察は正しいとなります。
 しかし、届いていないのが、真実だと、感じたら、そこで、改めて、話をし始めたもいいと、考えて、電話をかけたのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
 さて、電話をかける前に、シミレーションを二つ立てました。
 ところで、皆様、私はここで、外出をしないといけなくなりました。時間のリミットがある相手先です。この続きは、明日、又は、別の日に書きます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
副題7、『午後三時に家を出て、夜8時に帰宅をした。そして、ゆっくりと、心身を休めていたところ、ワンギリの電話が、数年ぶりにかかってきた。で、五時間の休息を経て、又、ブログを書く事と、意志を奮い立たせているところである』
 
 本日は、続きを書かない予定だった。体力を温存して、しっかりとした、最高の状態で、明日、続きを書くつもりだった。それで、テレビをゆっくりとみていた。NHKの【プロフェッショナル】で、美尻トレーニングを、売り物にしている女性が、出現。
 この美尻という言葉は、私にとっては、鬼門である。泥棒ちゃんが、10年以上前に、寝室に、【美尻and 美脚】というラベルを置いて帰ったのを、泥棒の侵入の証拠として、ブログ化している。しかし、その私のブログを打ち消すかの如く、アンアンが、美尻and美脚特集を打った。私はそれを、私のブログが正しかったことを傍証づけるものだと、認識していて、最近、画家Aという泥棒と、安野忠彦氏という二人のご近所様が、警察から合鍵をもらって居て、種々様々な悪さをしに、この私の家に、侵入をして居ることを書き続けている。その二軒の家の上部に存在する、鎌倉エージェントは、私が書いていることを否定するつもりで、雑誌【アンアン】を使ってきたのだけれど、私は、其れを二重否定として、勘案するのだった。したがって、直木賞受賞者、林真理子が裏で動いて、アンアンは、そういう特集号を出したのだし、その裏には、井上ひさしの意思が存在したと、考えている。
 本日、2019-4-16のプロフェッショナルが、美尻トレーナーという人物を取り上げたのも、結局は、鎌倉エージェントが、NHKを支配していると、いう事のあかしだし、ご近所が、泥棒に入っているのも、正しかったのだと、思う。
 しかし、その番組を、見ているうちに、その主人公が、アメリカで、教育を受けて、アメリカ人女性の良い部分(=個性を大切にする。一方で、日本人女性は、横並びで他人と、同じであることを大切にする)を、日本人女性に、植え付けたいと願って居ることを知り、其れは、私も同じだから、割と、熱心に見始めた。
 まあ、私の本音としては、・・・・・日本は、被・植民地国家だから、あに、ただ、若い女性に限らず、みんな没個性で、横並びを、やりたがるわけで、其のトレーナー一人が頑張っても社会が変わらない限り、日本人は、女性であれ、男性であれ、変わらないのだけれど・・・・・といいたいが、それでも、その番組を面白いと思って注目をしていた。すると、テレビのそばに置いてある、新しい機種の電話の、発信先電話番号を教えるウィンドーに、光が入った。時間は、23時直前である。『立っていったら、相手先電話番号がわかるかなあ』と、思ったが、立っては、行かなかった。『どうせ脅かし用ワンギリであろうから、相手は、番号非通知で、掛けてきているはずだから、立って行って、確認をするのも無駄な作業だろうと、思ったからだ。案の定、ワンコール程度で、電話は切られて、例のワンギリであった。これは、
 こういう時間帯に、電話をかけてくる人の心当たりは、二人あった。一人は、津田塾大学卒の、インテリ女性であり、もう一人は、いまだ、実際には、生きている井上ひさしである。私は後者だと、思って居る。そして、久しぶりに彼が真夜中のワンギリを、行ったことに、意味を感じて、急にブログの、続きを書く事と、意志を変更をした。

@@@@@@@ここが、第一の書きかけ中の最先端です。

 この数字を利用する話とか、コンクールを利用して、言論弾圧を行うケースは、佐野研二郎の、オリンピックエンブレム選定に、もっとも派手に表れた現象でした。

 佐野研二郎は、盗作を指摘されていますが、どうして盗作などやったかというと、重圧に負けたからでしょう。

尚、このブログの2010年より数え始めた延べ訪問回数は、5268607です。


 

 @@@@@@@@ここが、第二の、書きかけ中の最先端です。

日本の歌百選(にほんのうたひゃくせん)は、2006(平成18年)に日本文化庁日本PTA全国協議会が、親子で長く歌い継いでほしい童謡唱歌歌謡曲といった抒情歌愛唱歌101曲を選定したもの。

一般から募った895曲から選考委員会が選出し、200612月15に最終的に決定した。発表は20071月14新国立劇場で行われ、これらを歌うコンサートも合わせて開催された。

 

後注1、

藤木大地を、聞いてきました。    2019-04-14 21:02:06 | 音楽

後注2
NHKは神奈川県知事選挙について触れない。なぜか? ・・・・栗田玲子、浅尾慶一郎、竹中直人、寺島しのぶ、飛んで埼玉△
2019-04-08 20:54:59 | 政治

 

 

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藤木大地を、聞いてきました。

2019-04-14 21:02:06 | 音楽

 さて、不連続な、総タイトルになっています。が、お許しください。連続性のあるものも、近々、書きます。

 ただね。全身が洗われる様な経験・・・・・これが、いいものを見て、いいものを聞く事で、もたらされるのですが、・・・・・その実例が、昨日から、本日にまで続いているので、其れを、語らせてくださいませ。

副題1、『ラフォルジュルネの、名前が、消えている。それで、いいでしょう。東京音楽祭春と、なっていました』

 ラフォルジュルネと、は、知っていました。が、美術畑のことで忙しくて、かつ、最近では、歌舞伎にも凝り始めたので、音楽会は、遠いものとなっていて、上野の文化会館小ホールは、ほぼ、25年ぶりの訪問となります。ただ、藤木大地の伴奏者、マーチンカッツについて、調べたくて、プログラムを見たら、有料のプログラムがなかった模様で、歌詞の対訳集しかもらえなかったのですね。そこには、演奏者についての解説は何もなかったのです。しかし、それで、いいのでしょうね。皆さん、インターネットで、情報は、取得するのでしょうから。

 ところで、其の調べものの最中に気が付いたのですが、ラフォルジュルネという名前よりも、東京音楽祭春という名前が、今年から、採用をされているみたいです。それで、いいと、思いますね。パリの真似をするにしても、ほら、気取った感じって、いやな、ものです。

 ただ、BSプレミアムで、朝5時から、放映をしているクラシック倶楽部の、番組内では、この小ホールと、武蔵野文化会館小ホールは、よく出て来るホールの方です。後、王子ホールも出てきますが・・・・・

 ところで、今、ホールを使うための費用を調べたら、(土曜日が、休日と仮定しても、)155000円だったのです。

 今回一人で行ったので、其れを再発見したのですが、御影石を多用した、ものすごく豪華なインテリア(特にホール外、ロビーとか、外壁(といっても、文化会館全体では、内部にあたるのだが)の資材が、豪華な事には、驚きました。お友達と行くと、話が弾んでしまうので、そういうところには、気が付きませんでした。

 こんな豪華な設備で、しかも伝統があるでしょう。ここで、演奏会をするのは、音楽家にとって、とても、いいことなのだろうと、思います。特に芸大卒の人にとっては、「私の、ホールです」という考えもあるのではないかなあ。そして、今回は使用料は無論ただだったと、思いますよ。東京都の、施設なのですから、東京音楽祭に、提供するにやぶさかではないでしょう。有楽町のフォーラムも、元都庁跡地だから、都の施設なのでしょうか? なるほど、ラフォルジュルネは、あちらで、最初、多くの演奏会が開かれていましたね。

 ところで、4月13日の、この上野の文化会館小ーホールでのリサイタルでは、その例の、クラシックを聴きに行く人固有の、気取った感じが、まるでなかったのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『会場内は、まるで、歌舞伎座であるか、3月の、国立劇場(三宅坂)小劇場内みたいな、親密な雰囲気に満ちていた』 

 1月に、藤木大地の、同じ演奏会を三回目として、2017年の演奏会を、再放送をした模様ですが、其れも、収録は、この会館でした。今回も、きっとどこかの会場の同じプログラムを収録する可能性がありますが、此処では無かったですね。

 さて、25年ぶりぐらいに、訪問をして、入り口に菰樽が、たくさん飾ってあって、『あれ、あれ、歌舞伎みたいですね。どこの酒造メーカーが寄付しているのかしら?』と、思って近寄ったら、模造品であって、いわゆる、盛り上げ用、お飾りでした。

 でも、感慨が深かったですよ。クラシック音楽のフィールドに、日本の伝統文化の、お祭り気分を持ち込むとは。ほら、新しい街で、お神輿がない場合、菰樽を、お神輿代わりに担ぐではないですか? それから、発想が起きているのかしら?

 そして、会場内の全体が、親密な雰囲気は、何とも言えないいい感じでした。ブラヴォーと、叫ぶ人なんかいなくてね。まあ、女性のお客さんの方が、多いせいだったからかもしれないのですが。そして、ホールが小さいせいだったからかもしれないのですが、それでも、こういう形式の小ホールでもブラボーって、叫ぶ人は、いるのです。それが、いなかったのも、感じよかったです。

 『どうしてそんなに感じがよかったか?』ですが、藤木大地と、伴奏者、マーチン・カッツの、深い信頼感が、随所に、見られたのです。それが、まず、会場全体に、親密さを伝播させました。会場のお客も、私を含めて、そのことを、事前に知って、来場していますので、(それは、インターネットで、藤木大地が語っていたので、知っているわけですが)、何ともうれしい気持ちで、彼と、カッツが、手を取り合ったり、抱擁をしあったりするのを見ていたのです。

 またね。藤木大地が、作曲家と、作詞家の二人を紹介したのです。その人たちは、私と同じ列に座っていたので、私の列は、ご招待客が多い席だったかもしれません。高い席ではないが、紹介をされ、会場の人々が、その二人に注目をするにしては、とても、適切な席だったのです。

 藤木大地は、この日、割と、通好みのプログラムを設定していました。私としては、アンコール内の二曲を除いては、一回も聞いたことのない曲ばかりでした。藤木は、全体を五分割していて、3部目に、休憩を入れて、休憩後に、マーラーと、ヴォーンウィリアムの、曲を入れていたのです。その、前半の、第三部目が、日本語の歌曲だったのでした。その作詞家と、作曲家が、休憩前に、紹介をされたのです。それも客席に、親密な雰囲気をもたらしました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『圧巻は、彼が、たぶん最終曲として選んだ筈の、【初恋】であった。私は、それに、触発されて、上野駅のホームで其れを、歌わざるを得なかった。小町通りでも、歌わざるを得なくて、次の日の日曜日も歌わざるを得なかった』

 私はその音楽会で、藤木大地さんのお友達と知り合いました。その方が言うには、「今日はすごいサービスですね」とのことです。終わったのが、9事15分だったので、確かに、その通りでしょう。

 そして、藤木大地さんが、もっとも、終わりの曲としたかったのが、其の初恋だったのです。きっとそうです。でね。お客さんの中には、同じことを考えた人もいて、藤木さんが、もう、一曲アンコールで歌ったのですが、其れを待たずに外へ出た人がいました。それをね。私や、音楽好きのその人は、失礼ではないかなあと、心の中で、思ったのですが、外へ出てから、理由がわかりました。CDを買った人がサインをしてもらいたくて、その順番を取りたかった模様です。なるほど。それで、焦って外へ出た人が、10~20人前後いました。私もCDは、買いましたが、サイン等を求める気はないのです。そう言う事で、並ぶ気にはなりません。

 私が、お歌の練習をしたのは、主に、北久里浜時代であって、幅が、当時で、30㎝は超えるほどの楽譜を買いました。そのころはカラオケなどなかったので、私は、いまだにカラオケは嫌いです。自分で、全音の単純な楽譜(コードはついている)に基づいて、ピアノを、分散和音にして、それを、を、伴奏としてつけて、歌いました。幼稚園のPTA会長をしていて、バザーで、利益を110万円上げないといけない仕組みがあり、お母様方が、大奮闘をしたことへの、慰労の意味で、お歌で、感謝を表したいと願ったからです。したがって、1970年代に、北久里浜近辺に住んでいたお母様方が、好む歌を練習したのでした。実際にうたったのは、フランクシナトラの、【マイ・ウェイ】と、春日八郎の、【長崎の女】でしたが、後者の方が受けました。そのレストランの宴会場は、9m×18mぐらいの、広い部屋でしたが、二階にあって、下へ降りるエレベーターとかエスカレーターがなくて、狭い階段で降りるのです。その狭い階段で、お母様方が、私の体に障りながら、「川崎さん、素敵! 川崎さんって、普通の人と全く違うのね。今まで、何で、川崎さんが、会長なのか、不思議だったけれど、やっと、わかったわ。全然違うんだわ、普通じゃあない。普通の人ではない」と、言われました。

 それから、市川市で、開かれたある、パーティで、【琵琶湖周航歌】を歌ったら、旧制一高卒の人たちが、やんやの喝さいをしてくださって、その後、その中の、数人の方から何度も電話がかかってきて困ったほどでした。

 そういうパーティ向けのお歌を練習した時期が、20年以上あるのですが、私が出席するパーティって、あのPTAの打ち上げを徐けば、エリートさんが、出席する場合が多いのです。『すると、歌謡曲やフォークソングではだめでしょう』と、考える自分が居るのです。その上、上で上げた【初恋】など、非常に短い歌です。そして、メロディはシンプルです。『こういう歌を素人が歌っては駄目でしょう。間が持たないし、声や表現力にも、特色がないわけだし、』と、思って居たのです。

 したがって、クラシックの曲をアカペラで、しかも歌詞なしで、歌って、お客様を煙に巻くという事を続けていたのでした。声の質がいいという事は、いろいろな、方から、言われていて、其れには、自信があるからでした。吉田秀和さん(高名な音楽評論家。鎌倉在住)の前でも、平野忠彦さん(芸大卒オペラ歌手、1950年代から、活躍した)の前でも、アカペラで、メロディだけは歌って居ます。松本楼ないですが、

 こちらも楽譜集を何冊も買って居るのですが、器楽曲、例えば、交響曲【田園】や、シューベルトの即興曲なども、使いましたが、パーティで、使ったのは、【ハバネラ】、【カタリ】、【誰も寝てはならぬ】の、三曲です。これで、人を煙に巻いていたのです。(苦笑)

 しかし、2004年から、上野の公募展に、出品をやめました。国展も、女流展も、出品をしなくなったので、歌う場所がなくなったのです。パーティの会場や、二次会の会場がなくなったのです。

 しかし、と、同時に、どんどん、反比例して、声の質も上向き、表現力も、増したのでした。不思議な事ですが、人間としての他人に、聞いてもらおうとするのを捨てて、ただ、神様に、身をお任せすると、言う感じで、歌う様になったからみたいです。そうなると、小学唱歌とか、上にあげた【初恋】などが、身についてきたのでした。【里の秋】とか、【野菊】とかも好きですが、【ゴンドラの唄】なども好きですね。

 今楽譜集が、主人の大病の際の、引っ越し騒動で、見当たらなくなっているので(多分、段ボール箱に入れて、其れを、どちらかの家においてあって、開封をしていない形であるらしい・・・・・アマゾンで、探しても、其れと同じものはなくて、ただ、歌詞集だけが、同じ表紙で、上下二巻として出ているが、私に必要なのはメロディなのだ)作曲家を、グーグル検索で、見つけました。藤井宏行さんという専門家が、作曲家の名前を披露なさっていたので、そこからとります。

初恋    
  歌曲集「啄木に寄せて歌える」

 
    


詩: 石川啄木 (Ishikawa Takuboku,1886-1913) 日本
    一握の砂~我を愛する歌 6 砂山の

曲: 越谷達之助 (Koshitani Tatsunosuke,1909-1982) 日本   歌詞言語: 日本語

 ところで、そのサイトで、藤井さんが指摘なさっていることには、私も気が付いていたのですが、石川啄木は、・みそひともじ・(=三十一の文字数)で、短歌として作っているのです。

 しかし作曲家の、越谷達之助は、少し、繰り返しを入れて、全体で、9小節の唄へと、仕上げています。9小節でも、非常に短いのですが、しかし、傑作となっていますね。

 私は、声楽を習っていた時期があって、その短い期間の課題曲は、山田耕作の唄でした。藤木大地も、【この道】を、【初恋】の前に、歌って居ます。【この道】は、四番までありますね。それは、ほとんど覚えております。

 でも、藤木が後ろに馬合したのは、そんなに短いのに、この曲(歌)が、超が、付くほどの、傑作だからでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ここまでは、表の世界だけの話です。こんな美しい歌声の、ブログからも、裏側に入っていくと、種々のことが書けるのですが、此処は、藤木大地に、尊敬の念を抱いて置いて、表側だけを、描いておきましょう…

 なお、このブログの、2010年より数え始めた延べ訪問回数は、5264237です。

 

 

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今、突然に、東京音大、新キャンパスというニュースに接したが?・・・・・野島稔・・・・名調律師・・・・steinway の action△

2019-04-06 19:48:44 | 音楽

 最初に、この文章で、言いたいことの結論を言ってしまいましょう。本日、2019年4月6日の私は、あれこれのいきさつから、自分が、昔書いた、文章を思い出していたのです。其れを読むと、何と丁寧に、心模様を追って居ることだろうと、懐かしく、いとおしくさえ思いました。そしてあの頃は、自分は、敵さんたちのことを、語らないでいることが、できる日も多かったのだなあと、感慨が深かったですよ。音楽の事だけを語っています。 

野島稔がショパンに見えた20年前。野島稔の消息の変遷に感無量だ△

2014-01-05 22:58:24 | 音楽

 これを後注一として、本日の文章を書き始めます。しかし、昨日描いた前報とは、相当異なる内容です。続きとは、とても言えません。前報の続きは、別の日に書きます。恐れ入りますが、ご了承をいただきたく。また、これも結論ですが、本日語っているあれこれの雑感よりも、上記の、「野島稔が、ショパンに見えた日」の、ブログの方が、ずっと、上等です。

*1)。『浜松市のアクトシティという大きなホールに、今日初めて接したのだった』

 私は、本日描くものの予定は、むろんのこと持っています。ところが、どうしてか、東京音大についての、ニュースかブログかに触れてしまいました。丁寧にいきさつを思い出すと、帰宅したちょうどその時に、NHKBSプレミアムで、【特別編 ミツバチと遠雷】という番組をやっていて、其れを、主人が見ている最中だったのです。

 私は、朝、新聞を読まない主義になっているので、その番組があることを知らず、したがって、録画機能すぃっちは入れないで、外出しました。で、『あれ、面白そうな番組だなあ』と、思ったものの、終わりの方、15分程度しか、見られなかったのです。

 で、画面に、音楽ホールが出てきたのですが、舞台両横の壁を、どうも見たことがないのですね。

 白っぽい壁で、天井が高いとなると、オーチャートホールかしら?、それとも、NHKホール?と、思いながら、『どうも違うわよね』と、思って落ち着かないのです。終わってから、番組の解説を見て、その番組が、浜松国際ピアノコンクールに、密着取材したものらしいと、言うことがわかりました。幸い、浜松は、一回行って居て、そのホールが入っているらしい、高層ビルと、ヤマハ(?)の楽器博物館は、見ています。ただ、そのホール【アクトシティ】は、知りませんでした。駅のそばに、横に細長い高層ビルがあって、そう言う形式の高層ビルが、東京圏にはないので、注目をしました。その中のホールらしいです。

~~~~~~~~~~~~~~~

*2)、『2018年11月の、浜松国際ピアノコンクールに密着取材したらしいと、終わってからわかった。ところで、其の優勝者【ジャン・チャクムル】君か、第二位の、【牛田智大】君だったか、演奏の映像が出たが、譜面台に、イタリックで、Shigeru Kawai と出ていた。『え!、河合のロゴって、こういう形になったの?』と、思って感慨が深かった。私がピアノを熱心に触ったのは、40年以上前であって、その後、ピアノには、接していないので、河合楽器のピアノの譜面台が、ああいうロゴになっているのは、全く知らなかった』

 私はね。実は、河合の方が好きだったのです。こういう事を言うと、このブログの、影響力が強いので、又、自分か、河合楽器かが、困る事になるのかもしれません。実は、私は、林隆三(お歌の、弾き語りが上手な、俳優)、見たいに、お歌の伴奏として、ピアノを、弾いていたので、ピアニストみたいな、本格的な、曲を、さらったり、習ったりはしていないのです。

 私は楽典などは、非常によくわかる人なのです。で、和音の事も、よくわかっているので、【全音】の、500曲収録の楽譜(赤い表紙の、歌謡曲と、青い表紙の、フォークソング集があったが)に、コードが、印刷してあると、其れを分散和音にして簡略な、伴奏を、自分で、作れるのでした。勝手きままですが、自分が自由に歌うためには、その程度で、いいのです。ピアノの方を厳密にしようとすると、歌の方が御留守になってしまいますから。音大出身でもないので、そのくらいしか、自分でも、できないと、わかっていて、無理はしません。また、歌詞も覚えません。覚えた方が感動を与えるとわかっていますが、其れも、私にはヘビーデューティなので、メロディだけで、歌は歌います。つまり、スキャット、というわけですね。

 しかし、運指などで、あまりに、自分勝手ではいけないかと思って、先生について、30過ぎにバイエルを習い始めたのです。今、NHK BSで、【空港ピアノ】という番組を放映していますね。または、駅に置いてあるピアノ。そこで、ひいている人は、自分でピアノを、マスターした人が多いらしいです。だけど、40年前の、特に日本だと、そう言う生き方は駄目らしいので、バイエルから、習ったのです。その時に、先生のピアノが、河合で、いい音だなあと、思いました。

 しかし、家に帰って、親戚からもらったピアノを弾くと、其れもいい音なのですね。私は、実は、ひそかにですが、中学でも、高校でも音楽の先生に、かわいがられていたと、言う記憶があるのです。たぶん声がいいという事と、たぶんですが、自分では、自覚がなかったけれど、耳もよかったからでしょう。で、相当いい耳を持っている私からすると、横須賀、北久里浜での、先生のお宅の河合は、いい音だし、自宅のあまり有名ではないピアノ、Flora も、とてもいい音なのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

*3)、やがてその謎が解けた。川崎、横浜、横須賀では、非常に有名な調律師、YODA 氏が、先生の紹介で、来てくださって、40年以上前の1970年代に、6万円請求なさったが(しかし、いま、思うと申し訳ないほど、安かったと、思う)、

 「これは、アクション(機械部分)は、スタインウエイです。だから、いい音なのです。昔の日本では、運搬が大変なので、アクションだけ、買って、木の部分を日本で、制作したピアノがあったのです。この Flora というピアノは、そう言うもので、ほら、此処をごらんなさい、スタインウエイと、書いてあるでしょう」と、金属部分を指し示しながら、教えてくださった。YODA 氏は、五時間ぐらいかけて、全部分解して、フェルトも張りなおしてくださった。

 ところが、北久里浜から、鎌倉雪ノ下へ、引っ越してくると、事、ピアノに関しては、悲惨な路をたどっていった。鎌倉は、湿気が多い。そして、あの YODAさんは、一回は、いいけれど、もう、二回も三回もは、あの重労働はできないと、お思いになったのだろう。その上、私はピアニストではない。横須賀・北久里浜に住んでいるときは、私のピアノの先生への手前、そちらへの尊敬と義理があるので、その弟子の家にも、来てくださったが、ピアノの先生と別れてしまった鎌倉へは無理という事であった。「もう、演奏会用ピアノの仕事だけで、精いっぱいです」と、言う話だった。

 で、鎌倉で、新しい調律師さんをお願いしたが、全く、いい加減な仕事ぶりで、どんどん、ピアノが痛んでいった。その上、主人が捨てるのが好きな人で、本を捨てろとも言われたが、ピアノも、ソファーも捨てようと、提案してきた。私は、抵抗したが、このピアノを直すのは、もう、yoda さんの様な誠実で、職人家気質の、人がいるはずもなくて、工場に出すしか無くて、其れをお願いするのは、石段を、130段も上り下りする、この鎌倉雪ノ下の山では、修繕費と、運搬費で、100万円は、かかるという見込みを、自分で、持ったので、捨てるのに賛成してしまった。惜しい事だったが、美術への、方向性が強い日時でもあったので、毎日、ピアノを、二時間は触って、お歌を歌うと、言う習慣も捨ててしまって居たので、仕方がない。

 しかし、「ピアノの音は、メーカーによって違うのだ」という事は、よくわかっている。で、ショパンコンクールの裏側を、特に、ヤマハと、河合の、調律師さんたちに、密着取材する番組は、二回ほど、見た。つまり、この10年間に、二度ほど、其れを見たという事となる。NHKが、これも、BSで放映をした番組のこと。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

*4)、『本日、私は、小町通りの半ばで、5時半過ぎに、突然に、【夢路より】が、のどに浮かんできて、歌い始めた。小さな声だが、蚊の鳴くほどという音量でもない。しかし、誰も振り返らず、誰も、こちらを見ない。それは、ものすごく、いい声が出ていることの証拠だと、思う。人々は、脇のお店から、BGMが聞こえてくるとでも、思っているらしい。これは、銀座の裏通りでも、昭和通りでも、鍛冶橋通りでも同じなのだ。交差点で、滞留していても、誰も振り返らない。昭和通りなんて、対抗方向から歩いてくる人が、にっこりと、笑ってくれたほどなのだ。なお、夢路よりは、フォスター作曲の、シンプルな歌謡だけれど、beautiful dreamerの、タイトルで、覚えておられる方もあるかもしれない。

 しかし、美術関係者の、宴席やら、大オープニングパーティで、私が歌って居るのを聞いた人は、「そんなにいい声でもないでしょう」と、いうと、思う。それは、自意識が勝って居る場合なので、自由度が、低いし、神様のご支援がない形だから、最上の声ではないとも言える。プロではないので、いつも、いつも同じ声質の声が出るとも限らない。しかし、芸大卒の三人の先生に、声の質は、ほめていただいている。

 そして、国際基督教大学の教会などで、フロアーの、その他、大勢の人の、一人として、無心に、賛美歌を、歌うときなどは、もっとも、良い種類の声が出ているらしい。女性の、先輩が、近寄って来て、「あなたは、天与の声を持っている。〇〇教会の聖歌隊に参加しなさい。私が紹介をしてあげます」と、言われたりする。〇〇教会とは、港区の、有名な教会だが、チャンスは、前髪をつかめというほどの行動力は、私には、ない。結局、今は、どこの合唱団にも、どこの教会の聖歌隊にも、所属をしていない。ブログを書くだけで、精いっぱいだ。

 私の声を、誰かにたとえるとすると、テレビの世界で、活躍している人の中には、いない。本格的な、オペラ歌手とも違う。平原綾香などとも全く違う。まあ、しいて、誰もが知っている、人で例えると、【自衛隊の、歌姫】というお嬢さんたちがいる。数人いて、そのうちの一人が、鶴岡八幡宮での音楽会で、自衛隊の、ブラバンと一緒に歌ったので、其れを聞いて、『自分は、こういう人達と、似た歌い方をしているし、声も、似ている』とは、思った。

 ただ、あのお嬢さん方は、お若いので、声に丸みとか、太さがある。私も、30代とか、40代は、そう言う声であった。今では、日本刀みたいな、ピュアそのものの声となっていると、思う。体力がないので、そうなる。ただし、キーっと叫ぶ様な、声ではない。もし、そういう声だったら、みんなが振り向くだろう。だけど、誰も振り向かないのだから。

  私は、こういう声が出ているときに、それは、神様が、その存在を証明するために、私の体を道具として、お使いになっていると、考えている。だから、自分を押さえない。しかし、自宅まで、くると、そこには主人が居て、テレビを見ているので、歌うのは、中止する。(苦笑) 小町通りから、家の、居間に入るまでは、自分を押さえない。ただし、態度が派手だと、いうわけでもない。霧か、カスミの様に、ただ、声だけ残して、さっさ、さっさと、歩く。

~~~~~~~~~~~~~~~~

*4)、その様にして、神様が、私の体を音楽漬けにされた、日(本日の事)に、自宅まで、帰ってきたら、テレビに、ピアノが映っているので、思わず、見つめたのだが、後、15分程度しか、画面が続かなかったので、なんだか、残念な気がして、インターネットで、この番組【特別編、ミツバチと遠雷】を、調べまくった。

 すると、どうしてだか、不思議なことに、東京音大が、中目黒に新キャンパスを開くというブログだか、ニュースだかわからないものと遭遇をしてしまった。其れを調べていたわけではないのに、それに遭遇してしまった。

 東京音大については、私の知識は断片的なものだ。池田理代子さんが、漫画家として、成功してから、声楽を学びに行って居るとか。NHK BSプレミアムの、クラシック倶楽部に出てきたパク・キュヒが、同大学を卒業しているとか。音楽は聞くことと、歌を歌うだけが楽しみであって、それ以上は求めないので、知らないことが多い。

 東京音大が、中目黒に新キャンパスを開くと、いう事について、そのブログ(または、ニュース)を書いた人は、相当に好意的にとらえている。私も『そりゃあ、その通りだ』と、思った。音大に、通う様な人は、アルバイトをする必要がない富裕層を、実家としているだろうが、それでも、渋谷に近いというのは、有利な事だと、思う。

 渋谷には、NHKホールと、BUNKAMURAがある。地下鉄日比谷線と、東横線を利用して、かつどこかで、乗り換えも、すれば、ほとんどの有名なホールに、電車だけなら、30分で到着する。これは、うれしい地の利だ。

 8000平米という狭い土地だと、書いてあったが、それでも、『今時、2000坪以上3000坪近い土地を、まとまって、中目黒に見つけるなんて、誰の紹介で、手に入れることができたのだろう?』と、不思議だ。また、誰が、元の持ち主だったのだろう。まあ、ともかく、ものすごく、うまい選択と決断だったと、思う。

 私が見るところでは、「現在の学長の、野島稔さんは、ご自分から、あれこれ、ちょこまかと、動く人だと、言うイメージはないのだけれど、思いがけないほどの、貢献を大学に対して果たしていて、大学は、大発展ですなあ」と、言いたくなる。「学長として、すごい手腕ではないですか! 驚きました」とも言いたくなる。

~~~~~~~~~~~~~~~~

*5)、新キャンパスの設計は、【日建設計】が行うとも、書いてあった。日建設計とは、エリート(有名大学卒の建築家)だけが集う組織で、お給料がものすごく高いはずだ。そして、私のブログに、頻度高く登場する会社だ。

 どうして、頻度高く登場するかは、このブログの、この章の所属するフィールドを、音楽に限定しているので語らないで、おこう。

~~~~~~~~~~~~~~~~

*6)、私は野島稔とは、本当は縁がない。まあ、北久里浜の家が、野島さんの、実家から、二キロ圏内にあるというだけの縁だ。しかし、今、グーグル検索で出てきた、私が、昔書いた、文章を、読み返すと、それに匹敵するほど、野島稔を、丁寧に、描いている文章がなさそうだ。氏を分析したり、オマージュをささげている文章は、ほかには、ないと、思う。無論演奏の事ではなくて、人物全般についての、分析だが。

 同時に、美人で、かわいいギタリスト、パクキュヒについて調べたら、たくさんの文章が出てきた。それだけ、美しい女性は、関心を集めやすいという事だろう。野島稔は、現代のタレントに、匹敵するほどの、イケメンではないと、思うし。

 ところで、野島稔さん程、顔が、変わったり、体重が変わる人もいないと、思う。今回の、新キャンパス、設置に関する文章や、ニュースで出てきた野島稔・画像は、『あれ、野島さんって、イタリア人みたいになっちゃった。不思議です。どうしてなの?』と、思うほど、以前より、やせていて、しかし、お肌だけは、脂ぎっている。

 こういう変化って、どこか、森本草介さんを思わせる。ベクトルは、反対方向でなのだけれど、森本草介さんも、年齢に応じて、その雰囲気が、とても変化した方だ。

 1990年代初め、国画会のパーティにいた森本さんって、まるで、イタリア人だった。太っていて、脂ぎった皮膚と、豊かなちぢれっ毛(もしくは、パーマをかけた髪)を持つ人であって、『本当に、日本人かなあ? この人って、イタリア人みたいだ』と、思うほどだった。絵が一号、数百万円で、売れて、いる画家さんは、毎日、ステーキを食べているのだろうなあと、考えた。でも、絵と、相貌の間の乖離は、気にかかった。

 その時に、私は、上野の精養軒の大ホールでの、総勢、700人程度が参加するオープニングパーティの直前で、控室の、角の椅子から、二つ目に座って開会を待っていた。その時、隣の、(一番角の)、椅子に座って、いたのが、森本草介さんだった。私は、その日(=1991年の四月末)で、初めてのパーティ出席だったので、お隣が、かの有名な森本草介だとは、知らなった。でも、ほかの人が「森本さん!・・・・・」と、話しかけてきているので、わかった。絵の雰囲気は、殺した中間色を用いて、静謐なものだから、絵と、ご本人の、雰囲気の違いにひどく驚いた。

 しかし、私が、オープニングパーティで、森本さんに気が付いたのは、その時だけだ。1992年以降は、一度も森本さんには、気が付かなかった。パーティでも会場でも。

 森本さんは、政治的な動きをする画家ではないので、60歳を過ぎたら、目立たない様な、動きをなさっていたのではないかなあ。たとえば、さっさと帰るとか、出席しないとか? 役員にはならないとか。 総勢、700人を超す、出席者の中で、目立たないでいるという事は、画家としての、自信がとても、大きいという事だと、思う。

 私は、2003年から、国展に出品するのをやめるので、なおさらに、森本さんの、姿は見ないと、いう形になった。氏は、数多く開かれる国画会関係者の、銀座での、個展に、出席する様なこともなかったからだ。そして、氏の日本橋高島屋での、大個展の日に、二度目として、お顔を拝見することとなった。ほぼ、20年ぶりだっただろうか。以前と比べると、やせて来ておられて、かつ、肌も、普通の日本人のそれだった。つやつやしすぎていない、日本人のそれだった。バタ臭くない肌の、色だった。

 私は、ほっとした。その方が絵と、作家の相貌の間に、乖離がないと、思ったので。

 それにしても、現在の、其の、新キャンパス開設にあたっての、学長のご挨拶という記事での、野島稔さんの、顔写真には、ひどく驚いて居る。野島さんが、イタリア人みたいに見えるので。

 最後に蛇足として、自分の現状を申し上げます。今、午前零時になりました。今から12時間前の、6日の正午ごろ、お昼を食べてから、チョコレートを、三かけら程食べただけです。夕食をまだ食べていません。本章は、つまらない文章です。役に立たない文章です。でも、自分で、書いていて、楽しかったから、おなかも、すかなかったのでしょう。楽にかけた文章です。こういう世界でだけ、遊んでいたいのですが、悪い刺激が外部から入ってくるのでね。政治的な文章を書くという事となります。

で、推敲もし終わりましたので、書いた日付と、署名を入れて置きます。そして、総タイトル右横には、恒例の三角印を入れて置きます。2019年3月6日。      雨宮舜(本名、川崎 千恵子)

 まあ、文体の統一が取れていないのと、アクセス数が、書いていないのが、以前と異なりますが、ご容赦くださいませ。集計のサービスが無くなっているので、自分で、計算しないといけなくなったからです。

尚、このブログの、2010年より数え始めた延べ訪問回数は、5251564です。

 今・チャクムル ジャン・チャクムル後注1、

野島稔がショパンに見えた20年前。野島稔の消息の変遷に感無量だ△

2014-01-05 22:58:24 | 音楽

  

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小川寛興(月光仮面・主題歌・作曲者)の【遥かに蝶は】(NHKみんなのうた)が、好きで・・・・

2015-08-16 16:02:03 | 音楽

副題1、『私が特に好きだった曲を、歌手として、歌っていたのは、由紀さおりだった』

 前報の中で、夏休みなので、「ぐっと肩の力を抜いた書き方にします」と、申しあげております。それでも、あれは、一応にして政治モノでした。ところが、本日は、【NHKみんなのうた】と言う圧倒的に平和な、分野の、お話に入ります。

 今グーグル検索をしてみると、NHKみんなのうたは、1961年に放映が始まったとされています。でも、私はたぶんですが、1973年か、1974年ごろに、子育ての為に聞き始め、子供が、小学校へ上がると、ながら視聴になり、中学校に入ると、ほとんど聞かない(または見ない)という形になったと思います。

 しかし、たった五年程度の視聴でも、愛唱歌は、発見できたものです。

 で、私は、『この歌が好きだ。マスターしたい』と思ったら、楽譜を買わないと落ち着かない人なのです。不器用と言うか律儀と言うかでして。。。。。と言うわけで、NHKみんなのうた第12集を持っております。

 それは、初版が、1971年(=昭和46年)11月20日に発刊ですが、私が実際に持っているのは、その12年後に発刊をされた第17刷です。その中の、第15曲目、『遥かに蝶は』が、好きで、楽譜を買ったという記憶があります。

 その楽譜集には、当時では、歌った歌手の名前は、出て居ないのです。後日発刊をされている版では、どういう風に変化をしているかは知りませんが・・・・・で、今、グーグル検索をすると、なんと由紀さおりでした。おーっと驚きます。

 で、由紀さおりが、【夜明けのスキャット】で、大ブレイクしたのがいつだったかを、グーグルで検索をすると、それは、1969年だったので、こちらの方が後ですね。既に有名人になってから、この『遥かに蝶は』を歌っているのです。ところが私の記憶の中からは、歌手由紀さおりと言う項目はすっかり抜け落ちていたのでした。

 でも、1984年刊行の第17刷目のこの楽譜集を買ってから、以降、5年ぐらいは熱心に歌ったと思うのですが、それ以降、特に、1990年に入ってからは、上野の公募団体展に、入選する様になるので、お歌は、お休みとなり、25年間も歌っておりません。それなのに、今朝、2015年8月15日の朝、25年ぶりぐらいに、このメロディが頭に浮かんだのでした。不思議な事でした。どうしてなのか? それは、無論のこと、このメロディが好きだからなのでしょう。

~~~~~~~~~~~~~

副題2、『この曲を好きなのは、単純な曲なのに、憧憬の気持ちが、含まれているからだろう』

 私は外見は、井上ひさしに、何度となく、「ブス」と呼ばれています。ここのコメント欄でね。で、そうなんでしょう。外見は特に。しかし、心の中は違うのです。

 むかし、ある、年は、私より若いが、世間的には、私より有名な女流画家から「あなたは、女中タイプ?、それともお姫様タイプ?」と、の質問を受けて、「もちろん、女中タイプよ」と答えた途端に、相手は沈黙をしてしまいました。今になると、相手があの時、腹の中で何を考えていたか、手に取る様に判ります。つまり、『何言っているのよ。あなたって、いまだに、引きずっているわよ。子供のころの、お姫様願望を。早く現実に即応して生きなさい。早く女中修業をしなさいよ。上を敬いなさい』と言いたかったのでしょう。(苦笑) 彼女は年齢こそ、私より若いものの、生き方としては、現実と折り合いをつけていて、上を敬い、上になついて行っているから、いわゆる出世を遂げているのでした。

 私達に、実は、自由はないです。誰かに屈して、宮仕えしないと、お金がもらえず、生きて行かれません。しかし、私は子供のころから特別に夢が大きく、憧れの気持ちも大きく、白昼夢に浸っていることの多い子供でした。だから、母に運転免許は取らない様にと言われています。これは、素直に行くことを聞いちゃって、損をしたなあと、あとで、思うことはありますよ。だけど、大体において、ものを考えていれば満足をするというタイプです。

 そして、本当のことを言うと、天界に常に目を向けていて、鳥の様に、上の方に行きたいと願ってもいるのです。

 その様な憧れの気持ちをこの曲は、満たし、慰めてくれるのでした。

~~~~~~~~~~~

副題3、『その曲はグーグル検索で、堂々と、多項目として、出現をしているのだった。すでに、名曲として定着をしているのだった。そのことについては、一つも知らなかったけれど』

 今午後4時になって、念のために、【遥かに蝶は】と言うキーワードで、検索をしてみると、すでにたくさんの、項目が上がっておりました。詩も素晴らしいとして、オマージュがささげられている文章があり、曲もYU TUBEに、何個か載っているみたいです。

 皆様も、ご興味があれば、クリックしてみてください。美しい曲です。片岡 輝作詞、小川寛興作曲です。実は、このことを知る前には、これから先を明日書く予定でした。ところが、YU TUBEで、実際に曲が公開されていると知って、突然に、最後まで、この章を書き抜く気持ちになっております。

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副題4、『歌手と、作詞家の名前は忘れていたのに、小川寛興氏の名前は、ずっと、40年近く覚えていて、しかも、三世時蔵・ひな夫妻の長男だと、認識していた・・・・・つまり、錦之助、嘉津雄の兄だと、ずっと、思い込んでいた』

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副題5、『私は、三世時蔵の子供世代が、存在感が薄くて、それで、中村獅童など、苦労をしていたのだが、最近、獅童が歌舞伎役者として大きく成長したうえに、三世時蔵の孫世代が、美形で、能力が高いということで、人気者となっているのを知った。歌舞伎座で、萬屋と言う掛け声が大きかったから』

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副題6、『ぼんぼり祭りでの、中村嘉津雄のぼんぼりが、レベルが高いし、小川寛興氏も名作を作っているし・・・・・小川一族はセンスがいいのだ。不遇の時期を抜け出して、幸運の時代に入った・・・・・と思っていたのが、小川寛興氏が、小川ひな女史の子供ではないと、文章を組み立てるつもりの、目論見がくるってしまった』

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副題7、『しかし、私は小川寛興氏が、小川一族(=萬屋錦之助の一族)の一人だと信じ切っていたので、歌舞伎俳優の家系図などを、見たりしていて、小川寛興の名前が無いので、さらに、小川寛興氏について調べると、氏は有名な楽曲として、【月光仮面の主題歌】等を作曲していたのだった。思っていたよりも、大衆的知名度の高い人だった』

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副題8、『萬屋一族も、一時期、不遇だったのだが、猿之助一族も歌舞伎座出演と言う意味では、不遇だったみたいだ。しかし、現在の猿之助(元亀次郎)は、歌舞伎役者としては、素晴らしい才能の持ち主で、澤瀉屋の代表として、大人気ものであることがしっかりわかった。銀座をパレードしたり、成田山新勝寺でも、何か、大きな催し物を開いたというのは、むべなるかな』

~~~~~~~~~~~

副題9、『私は香川照之を、中国映画【鬼子来了<邦画題名。鬼が来た>の主演以来、非常に高く評価しているのだけれど、最近歌舞伎役者としての評価が低いと聞いて心配をしていた。しかし、自分で見ても、そうだったが、ネットの評判を見ても、7月大歌舞伎、牡丹灯籠での、彼の演技は、絶賛をされており、復活なったというか、歌舞伎役者として、充分にやって行かれるとの、安心感を得た』

~~~~~~~~~~~

副題10、『しかし、香川照之が輝いたのは、玉三郎のおかげらしい。玉三郎って、非常に頭がいいし、志が、高い模様である。歌舞伎役者とは、門閥の世界であって、別の家から、養子として、それほど、大きな役者ではなかった勘弥の養子になっただけなのだが、立派な人である模様だ。女役なのだけれど、いわゆる棟梁と言うかリーダーシップを放つことができる存在なのだろう』

~~~~~~~~~~~

副題11、『この前、鬼子来了の監督が来日したが、その来日は、私に対する政治的な意味があったね。だが、ここでは、その詳細には、触れないでおこう』

尚、このブログの2010年より、数え始めた延べ訪問回数は、3039995です。

 

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TV朝日、関ジャニの仕分け2015-2-22日版への感想△ さらに、加筆済み

2015-02-23 16:37:12 | 音楽

 今は、23日の夜11時です。銀座から帰宅をしたところです。ニュースを見ると、悲惨な上村遼太君の事件が、まだ、解決をしていないみたいで、かわいそうでなりませんが、引き続き、このミュージカルキッズ日本一の文章に加筆をしていきたいと思います。 

     副題1、『10歳の子に、大きく影響をされた私』

 2015年2月23日(月)、私は、有楽町駅を降りたとたんに、ディズニー映画『ピノキオ』の中のナンバー『星に願いを』が、口の端に上って、どうしようもないのでした。それも結構、声量大きくです。しかし、外堀どおり、みゆき通り、並木通り、晴海どおり、と、歩いていって、何十人と出会い、交差点でも、ほかの人が傍にいるのに、誰もこちらを見つめません。こういうときは、すごくいい声が出ている証拠なのです。皆さん、『ビルから、または、お店から、何か音楽が流れ出ているのでしょうね』と判断をするらしくて、すぐそばにいる人間が、アカペラで歌っているとは思わないのでしょう。

 で、私はすぐ、これは、前夜、テレビ朝日で、見た小学生が、競争をする番組の影響だと、推察しました。そこに、4人の10歳前後のお子さんが出てきたのですが、第二位になった、4オクターブの、オペラボイスを持つという、お嬢ちゃんに、完璧に憑依されたのです。もちろんのこと、私は72歳だから、10歳前後の声の質とは違います。でも、どういう風に声を使うべきかを、負うた子に教えられの、典型として、彼女を見ているうちに、自然に、体得していたのでした。

 ねえ。それは、NHKが放映するメトロポリタンオペラの番組の司会をする、ルネ・フレミングになってしまったか、それとも最近、NHKクラシック倶楽部で、何度も同じものを再放送しているハンガリー出身の美貌の、ソプラノ歌手、アンドレア・ロストになったかと、思うほどでした。ちょっと、挿入ですが、アンドレア・ロスト「は、伴奏者の浅野菜穂子さんを、大切にしていて、それは、美しい情景でしたよ。で、元に戻れば、

 そのお嬢ちゃんは、横川温花と、いいます。はるかと、読むらしい。

 子供に、音楽を種に、競争をさせるなんて、ひどい話だと思います。でも、ミュージカルキッズ日本一を決めるというこの番組で、歌い方の、コツを、とことんのレベルと、深みで、教わってしまったのですから、この番組のその日は、許せるといわないといけませんね。

~~~~~~~~~~~~~

副題2、『なぜ、横川温花ちゃんが二位になったのか?』

 私は、音楽の美しさを表現していたのは、四人のうち、二番目に出てきた男の子と、この4番目のはるかチャンが、すばらしくて、あとの二人は、それほどでもないと思います。ただ、その、それほどでもないと、私が言う二人のお嬢ちゃんは、すでに、ミュージカルの舞台を踏んでいるのです。だから、圧倒的なレベルで、自己アッピール力があります。坊やは映画には出たそうです。だが、まだ、舞台には立っていません。

 これをいうと、ほかの三人のお子さんには、残酷かもしれませんが、はるかチャンだけが、まだ、舞台にも映画にも出ていないのです。で、お金を稼ではいなくて、ただ、母親と一緒にレッスンに励むという段階だそうです。でも、はるかちゃんを、これほどに、鍛えぬいたのですから、横川夫人も、モンスターであって、はるかチャンを、もしかすると、苛め抜いているのかもしれません。デモね、私は、10歳前後から舞台に出すというのは、賛成ではないですね。人生は長いです。だから、横川家の方針のほうを好みます。

 ただ、子供らしさという点では、一位になった子・上垣ひなたちゃんの方が上かもしれません。

 この節では、なぜ、はるかチャンが二位になってしまったかというポイントで語りたいです。

 それは、順番の妙だったのです。二回目の競争のときに、二人は、同じ曲、アメージング・グレースを選びました。そして、一位になったひなたちゃんが先に歌いました。その歌う前に、抱負を述べました。すごい迫力だったのです。

 その上、番組のタイトルに、関ジャニの仕分けとありますよね。これは、関ジャニの誰かが、これから始まる競争のうち、どちらが勝つかを予測するというシステムです。その二つに、はるかちゃんが、左右をされてしまったのです。

 歌いだしたとたんに、『あ、さっきとは違う。今度は、すべてが出ていない。さきほどの、40%ぐらいしか出ていない』と、感じました。

 だから、はるかちゃんは、負けたことは気にしないでいいです。ただ、はるかチャンのお母さんが、はるかチャンを、負けたことで、叱るのではないかと、心配をしています。はるかチャンの表情には、ちょっと、大人びたところがあって、それは、お母さんの、せいだと思うので、心配しています。ゆっくりね。人生は長いよ。ゆっくり進んでくださいと、いっておきたいです。

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副題3、『それに、つけても、上村君や、都史君の、かわいそうさよ』

 中一の少年が、多摩川下流の河川敷で、全裸遺体で発見をされました。隠岐諸島から、出てきて、まだ、一年前後だそうです。隠岐にはとても、いい高校ができていて、東京から国内留学するそうです。NHKの何かで、見ましたよ。もし、親が「この子は優秀だから、東京で、教育の機会を増やしてやりたい」と考えて、上京をしたのだったら、とんでもないミスでしたね。

 私たち夫婦は、鎌倉の自宅で、今朝、話し合ったのですが、都会の不文律(子供には子供の世界のそれがある)を知らなくて、部活などで、天真爛漫な発言をしてしまい、生意気だとみなされたのでしょうか? そんなところではないかと、思います。13歳だったら、女の子の、とりあいっこなどは、まだ、関係がないでしょう。この予測は、実は間違っていたみたいですね。両親が離婚をしたので、母方の、故郷に帰って来ていたそうです。いろいろ、かわいそうなことがいっぱい裏にあるらしい。

 でも、これほどの、ことをされるほど、いじめられていたのに、どうして、周りが、救ってあげられなかったのだろう。本当に、残念でたまりません。

 加害者の、親に、子供を育てる力がないのです。本当に、日本は大変です。

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副題4、『鎌倉の自宅には空がない』

 高村光太郎の妻千恵子は、『東京には、本当の空がない』と言ったそうですね。でも、今は北京よりはきれいだと、観光に来た中国人に言われていますが。実は、私の鎌倉の自宅にも空がないです。東と、南の窓からは、木しか見えません。で、月の満ち欠けなど、分かりません。また、日蝕とか月蝕も見ることができません。他人からの視線がないことは素晴らしいのですが、そらとは無縁の生活です。

 昔、新小岩の写真スタジオに、作品の写真を撮ってもらいに行っていたことがあって、そこら辺りが、関東平野そのもので、空が広い事には、いつも感嘆していました。で、新橋駅に降りたり、有楽町駅に降りると、ビルはあるものの、広い道路の、上には空が広がっています。そうすると、気宇壮大という、感覚を得ます。それで、歌が出て来るらしいのです。ただ、銀座に行くたびに歌が出るわけでもなくて、本当に自由を感じて、心が明るい時だけです。

 しかし、私が自由自在に歌を歌える様になるまでには、人生の途中で、あっちへ曲がったり、こっちへ曲がったりの、紆余曲折があるのですよ。高校生の時まで、人前で歌うなんてありえないことでした。それを語りたいが、今は、ミュージカルキッズについて語りたいので、自分のことは、後回しというか、ここでは止めておきます。

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副題5、『辻井伸行君は、母との離脱への願いを、外へ向かって、話していますね』

 私が最も心配をしたことは、横川温花ちゃんという少女の<歌い手>としての完成度が、高すぎることなのです。しかも、お母さんが、指導をしているらしい。そうなると、絶対に、行き詰まるときが来ると思うのです。それが、唯一無二に心配です。それに、他の三人の子と比べても繊細な感じがしますので。ただね。音楽の技術において楽器なら、小さいころから訓練をする必要があって、声が、楽器の一つなら、これで、いいのかもしれませんが・・・・・、難しいですね。

 上の方で挙げた、上村遼太君は、私の想像とは違って、貧しいから、祖父母との同居を目指して、お母さんは、自分の故郷の川崎に帰ってきたのでした。しかし、5人も子供がいて、働かないといけないので、この遼太君に関しても、あまり、面倒を見ていなかったと見えます。一か月知覚、家に帰っていなかったというし、あざだらけだったというのに、防衛策を講じていません。それに、比較をすると、上の番組に出てきた、4人の小学生の、なんと恵まれている事でしょうか?

 しかし、経済的に恵まれており、環境的にも恵まれているお宅の中には、結構精神的な悩みに、襲われている家庭もあるのです。横川温花ちゃんが、母親の、何かの代償(たとえば、自分が本当は、有名になりたかったのに、それができなかったので、子供に夢を託すなどということ)で、ここまでの、訓練を課されていた・・・・・などということがない様に、切に祈ります。

 バーンスタイン賞をとって、世界的に、有名になっていった辻井伸行君には、目が見えないと言うハンディがあります。で、『男って、大体、子供なのに、お父さん(お医者さんだと聞いている)、放ったらかしで、大丈夫かしら?』と、思うほど、お母さんが、伸行君に、つきっきりでした。ただ、送迎のお世話だけではなくて、楽譜の点字化なども、お母さんがになっていたらしいです。でも、テレビの中で、伸行君が、「もう、そろそろ、お母さんと、離れて自立をしないといけないのです」と語っていました。私ね。よくぞそこまで、無事に育ちましたねと、本当に驚き、祝福をしました。

 ハンディがあることで、却って、無事だったのです。もし、伸行君にハンディがなかったら、早晩、亀裂が入ってたいへんなことになったでしょう。ある一点で、マイナスポイントがあることで、普通の人が陥りがちな、傲慢とか油断という項目から、辻井家は、逃れてきたのでした。何が幸いするか、分からないの典型です。

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副題6、『森麻季さんは、ピアノで、母と、一緒に格闘をしていたが、行き詰まっていたのですよね』

 森麻季さんと言う美形の歌手がいます。毎年お正月、NHKが放映するオペラ歌手のガラコンサートの常連です。私は何となくですが、ごめんなさいと言うところがあって、ファンではありません。しかし、今、このブログで、触れるにあたって、念のためにグーグル検索をしたら、私の想像通りだったところもあるし、想像を超えて、成長なさっているところもありました。想像を超えてと言うところは、イタリア人と結婚をされて、長男もすでに生まれているとのこと。これは、知らなかったのですが、いいことです。ただ、美術関係を考えると、子育てとの両立は、本当に難しいのですが、歌い手は、どうだろう。がんばってくださいと言うしかないが。

 しかし、私が何となく、嫌っていた部分をしっかりと、指摘をしている項目もありました。それは、二期会が、団を上げて彼女を大宣伝をしたという項目です。二期会が主導権を握って、彼女の露出を増やしているという事、それは、知りませんでしたが、ご本人の実力以上に、有名になっている人の一人だと思っていました。器楽を入れれば、日本人演奏家も、数知れず、生まれています。世界的な活躍をしている人が、他にも大勢ますが、メディアのサポートがあって、その力で、120%の実力を出せる人と、実力があるのに、よい発表の場が与えられていない人もいるでしょう。森麻季さんは、得をしている人の方だと思っていましたが、クラシック音楽通の人が、音楽通ではない人に、そこら辺りを解説していたので、なんだ、自分の想像は当たっていたと、思い至った次第です。

 ここで、麻季さんの子供時代を語りたいのですが、ご本人は、ご自分のお子さんを育てている段階なので、ご自分が育ちあがったころのことは、遠く過去に消え去り、グーグル検索でも、あまり、出てきません。しかし、ピアニストを作り出そうとしていたお母さんに、きつく練習をする様に、課せられていたので、麻季さんは、一時期練習もさらに言えば音楽そのものも嫌いになっていったのです。

~~~~~~~~~~~~~~

副題7、『麻季さんを救った国立音大の付属高校の先生って、女性だったのだろうか。男性だったのだろうか?』

 そんな麻季さんの救いになったのが、高校時代の先生の一言だったのです。お歌を歌うことに挑戦をしてみたらでした。お歌の方が短時間で、完成へもっていけることの楽しさに目覚めた、麻季さんは、音楽に再び、向かいたいという新鮮な、意欲を、掻き立てられ、救われるのです。だが、その前の、3,4年は、地獄だったでしょうね。

 麻季さんを救ったその先生って、女性だろうか、男性だろうかと考えることがあるのですが、きっとじょせいだっただろうと、私は思っております。演奏家として、舞台に立つことではなくて、教師という道を選んだ人ですから、地味な人です。そして、愛情豊かだったでしょう。麻季さんは、プラシドドミンゴにも見出されステップアップをしてもらっています。

 麻季さんって、年上の人にかわいがられるタイプの様です。私も似ているので、よくわかるのですが、これは、神尾真由子さんなどとは正反対の、暮らし方から生まれるものです。親の愛の質が違うのです。

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副題8、『神尾真由子さんは、先生からの干渉を嫌い、自分自身の、音楽表現にこだわるが、その原点は家庭教育にあるだろう』

 両方とも愛情は深いのでしょう。だけど、神尾さんのご両親とか、祖父母たちの方が、より緩やかな、また、より広い、または、より自然な愛情を示したと、思われます。昔は、こういうタイプの親がいたものですが、今は、非常に少ないでしょう。で、神尾さんは、のびのびしきっています。むしろ、生意気なほどの、自己実現を音楽の世界で、求めます。

 とても新しいタイプです。

~~~~~~~~~~~~~~~~

副題9、『どうか、横川温花ちゃん、大きく育ってね。祈っていますよ』

 これは、副題に書いた通りです。歌い手としての、私の、全身を改造してしまった、恐るべき小学生です。別にコーチをしてもらったわけでもないのに、彼女を見て、その声を、聴いているだけで、発声をどうしたらよいのかの、こつが飲み込めました。これから、試練の時が来ると思います。まず、両親との反抗期を無事に乗り越え、体を大きくして、そして、どういうところで、次の先生を見つけるか、いろいろ、課題が生まれるでしょう。上手に生きていってほしいと思います。

 なお、このブログの、2010年より数え始めた延べ、訪問回数は、2764795です。

                     2015-2-23 雨宮舜(本名、川崎 千恵子)

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中村紘子 VS クンウーパイク (芸術家を料理するメディア、特に、NHKの、それについて)△

2014-12-17 22:26:24 | 音楽

17日の深夜に、副題6まで、書き、18日に、副題7以降の加筆を始めています。総タイトルも変えました。だが、ここの総タイトルは、部分的な表現であって、中身は、政治です。音楽を政治の道具に使っている話を書いています。

*1)、日吉という特殊な町:

 私は前々報(後注1)で、わが家に来ていたお手伝いさんが、共産党のシンパであって、「赤旗日曜版を取ってください」と、母が言われていたので、実家でアカハタ日曜版をとっていたので、共産党が、どういうものか、そのシンパがどういう人たちかが、よくわかっていて、現代日本政治の分析とか、自分に対する言論弾圧の仕組みについても、それに基づいて、行っていると、言っています。

 詳しく言うとどういうことかというと、井上ひさしと、前田祝一氏のどちらがそれを命令するのか、または、井上ゆり夫人が、それを命令するのかが、分かりませんが、私は鎌倉駅の表駅と、裏駅で、共産党系の催しを使って、よく脅かされているからです。特にメールや電話で、事前に連絡を取っている外出の際は、徹底的に、悪い方向で、利用をされます。一方で、前報(後注2)で、書いている様に、警察様からも、追い回されているみたいなので、そこで、分かることが、

・・・・・警察さんも、共産党も、CIAさんの命令一下で動いている・・・・・・ということです。

 しかし、アカハタ日曜版を、実家で読むことがあったということは、相当に誤解を招きそうなので、少し、解説を加えさせてくださいませ。

 私の実家は、日吉にあります。日吉というのは、東急が、田園調布に続いて、開発した住宅街がある場所です。戦前から開発していますが、わが家は戦後に開発された土地を買って移り住んでいます。日吉は、地形的に言うと、丘陵地帯と、田んぼの両方があって、その丘陵地帯が、先に開発されました。

 そして、その売り出した住宅街に人気が出る様に、大倉財閥の、専門学校を誘致しました。それが、今の慶応大学理学部です。今の日吉には、慶応大学の、理学部以外の分野(特に一、二年生の教養課程の学部)もあるのではないかしら? 女学生などが、まるで、タレントみたいにおしゃれをしていて、かわいいので、文学部ではないかと推察され、理学部だけだとは、思えません。また、田んぼの部分に、慶応大学用の、グラウンド(野球、ラグビー)などを、設置してあります。ものすごいサービスをしています。

 今は、そういう開発を、東急電鉄本体から独立した東急不動産という別の会社がやっていると、思います。

 ところで、日吉の戦前からの住人が、ひそかに、誇りにしていることは、もう一つあって、それは、帝国陸軍とか、海軍の中枢部分が、戦時中に、日吉の地下壕に、移転をしたらしいということです。アメリカ軍の空襲を避けるためでしょう。だから、地方政治的には、横浜市の一部ですが、一九七〇年代ごろまで、電話局が、日吉だけで、独立していました。そして、電話局のビルも、大変、立派なものがありましたよ。

 時々、テレビで、この地下壕の映像が出たりしています。

 私は、武蔵小杉の発展には、目を白黒してしまいますが・・・・・それは、ここ、十年ぐらいの事であります。そこは、商業地としては、大発展をするはずですが、住民が住む町としては、発展をするかどうかは、分かりません。

 タワーマンションの、住民が、自らの居住地に対して郷土愛を発揮するのだろうか? そこが疑問です。一方、日吉の住民の方は、日吉を愛しているはずです。

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副題2、『母は、六人のお手伝いさんと、付き合ってきたのだが・・・・・』

 前々報で、母は、50年間お手伝いさんを使ってきたと言っています。正確に数えると、55年以上です。合計六人の人でした。≪人使いが荒いから、それほどの、人数が変わったのだ≫などとは思わないでくださいませ。最初の人を除いて、みなさん、高齢だったからです。最初の人は若かったのです。だが、元有名実業団のバレー選手だということと、離婚をした後だったということで、とっても、困ることがあって、私が、「やめてもらいたい」と言いました。子供だったけれど、「あの人が家にいると困る」と、私が父に言ったのです。父をフェロモン的に誘惑して、母と入れ替わろうとしていたので、本当に嫌でした。

 で、二人目からは、通いの人をお願いしました。ところが、日吉って、雰囲気の良い中流の上の住宅街なので、お手伝いをしようという人が居なくて、なかなか、見つからず、結局はお医者様(特に女医さん)と母は、仲良くなって、そちらから、教えてもらうというような形で、見つけたらしいです。女医さんは、たくさんの人を知っているのです。ご自分も他人を使っておられるし。で、いわゆる家政婦紹介所を頼ったりしたことはありません。

 で、女医さんのところをやめた人などにお願いをしていたので、皆さん、高齢だったのです。で、10年続けばよい方で、「やめます」と、相手から言われて、それも無理はないという形で、次の人へと、変わっていきました。

 最後の人は、ものすごいインテリでした。

 ご主人は大学教授でしたが、早く亡くなったとのことでした。ただ、お子さんが、3人もあります。

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副題3、『アーチストはもうからない。だから、その母は、子供にお金を与えたい』

 前報で、≪子供が親を思う気持ちと、親が、子供を思う気持ちには、大きな差があり、親が、子供を思う気持ちほど、切ないものはない≫と、私が、言っています。そのお手伝いさんは、ご自分もエリートで、娘時代は、中央官庁に勤めていました。一九七〇年代までの、一時期、お正月、四日か、五日の、仕事始めの、振袖姿が、新聞の一面を賑わわせていましたね。東証の鏡開きが、多かったと思いますが、

 昔は、霞が関の中央官庁の、仕事始めが、新聞の第一面を飾っていたそうで、彼女は、そこに自分の振袖姿が、載っていた類のお嬢様でした。で、本来なら、お手伝いさんなど、するはずもない階層の人なのですが、お子様の一人が、現代アート系の作家であって、しかもニューヨークに住んでいます。その方にお金を送って上げたいのです。

 ここで、ニューヨークと日本の違いを語らないといけません。ニューヨークでは、普通の人々が、よく美術品を買います。結構たくさんの人が、オリジナルの絵を買って、自宅へ飾っています。自分の好みで、絵や版画を買うので、創作だけを専業にしているプロフェッショナルな作家が多いのです。しかし、超が付くほど貧乏な人が多いのも、事実です。日本人に限らず、外人にも、超、貧乏な、しかし、誇り高いアーチストがたくさん存在しています。

 一方、日本では、絵や版画が売れません。みなさん、日常的な場面では、それを、買わないのです。投資の対象として、買う、大金持ちはいても、一般の人が絵を買うということが、非常に少ないのです。銀座に画廊はいっぱいあります。で、そこそこの人数のお客様は来ています。だけど、そういうお客様の中で、作家の知り合いが来たらお付き合いとして、買いますが、知り合いがいても、「一度や二度は、買ってあげましょう。でも、三度も四度もは、付き合えません」となるでしょう。

 だから、≪日ごろの付き合いがない、まったく未知の人が、作品だけの印象を好きになって、その作品を、買って帰る≫という環境ができないといけないのですが、残念なことに、主体性が、少ない日本人は、本物の絵を買わないのです。新聞やテレビで、その名前を見ることの多い、すでに、有名になっている人の、ほどんど、印刷に近い類の、版画化された複製品を、買うのです。平山郁夫の砂漠の絵など、50万円ぐらいで、よくリトグラフ化されて売っています。東山魁夷もそうです。

 が、この二人は、具象系、しかも日本画なので、これは、一定の購買層が、本物に対してもある作家です。で、本物を持っている人のまねをするわけです。非常に残念です。

 で「リトグラフ(エスタンプと言われる種類のもの)を、数十万円出して買うのはおやめなさい」と言いたいです。テレビ東京の「なんでも鑑定団」という番組で、出品者は、「300万円ぐらいかなあ」といったのに、鑑定家に、「これは、印刷なので、価値がないものです。で、1万円です。だけど、きれいですから、床の間に飾っておかれたらいかがですか?」などと、今から、100年後には、言われることと、なるでしょうから。

 画廊をめぐると、1~2万円で、小さい作品なら、手に入ります。本物がです。作家は、マスコミ的には無名であっても、『これは、いいものだなあ』と、私が、ほれ込むような作品は、いっぱいあります。そういうものを買っていただきたいですね。洋服や、着物に、お金をかける感覚で、中流の上の階級の、人々が、夫側だけでも、妻側だけでも、いいから、印刷ではない本物で、部屋を飾るという趣味をもって、絵を買ってほしいと思います。

 日本画系は、売れる可能性がある上に一点の値段が高いです。ので、絵専門のプロになれる可能性は強いですが、現代アート系の作家は、もともと、実験性を多く含むので、作品は、素人目には、完成度が低く見えるし、大体、売れないうえに、売れたとしての、単位が一つぐらい、日本画より安いのです。で、お金にはなりません。唯一の例外は、草間弥生とか、村上隆で、カボチャのリトグラフが、300万円だと聞いたことがあります。『ふーん』というしかないです。

 でね、そのお手伝いさんの息子さんは、ニューヨークにいるからこそ、美術専業です。これが、日本に住む日本人だったら、たいていの人は、何らかの別業を持ちます、男性だったら、先生になったり、企業に入ったりします。女性は、先生になったり、専業主婦になったりします。ここでは、専業主婦とは、職業の一種とみなしてください。ともかく、衣食住の根本を購うお金は、コンスタントに手に入るように人生の、選択をします。

 でも、この章に登場する人は、みんなエリートさんです。だから、日常生活を送るのにも、普通のお金または、それ以上のお金が要ります。で、その在ニューヨークの青年画家のお嫁さんは、働いています。しかも外交官として。ただし、日本国のでは、ありませんよ。別の国の、下級の外交官として。

 さて、実はそのお嫁さんの方が、私の友人です。子供時代の同級生です。したがって、そちら側からも情報が入ります。でね、離婚に至ったのも、知っています。それは、仕方がないかなあとも思います。外交官だったら、パーティなどしょっちゅう出席するので、他の男性との出会いもあるでしょう。そして、今の旦那さんと、比較をする時もあるでしょう。すると、『あれっ、私の理想って、こういう生活だったっけ?』と、お嫁さんの方が考え込むことも、生まれると思います。それで、離婚に至ったのでしょう。お金だけが、大切ではないと言っても、お金が足りないのも、また、困ることなのです。

 そうすると、坊ちゃまの方に、コンスタントに入っていた、妻の月給が無くなります。切ないですね。

~~~~~~~~~~~

副題5、『日吉という町を、基軸にした、エリートたちの人的、コネクション』

 今の私は、恒常的な人付き合いというのをしておりません。一期一会という付き合いならたいへん豊富です。≪人付き合いに満ちている≫と言っていいほどですが、「毎日会いますよ」とか、「週に一回会いますよ」とか、「つきに回は、会いますよ」というような、人付き合いをしては、おりません。これは、見かけによらない強さがあるからこそ、できることなのですよ。一人でいても、不安にならないほど、主体性が確立しているのです。ただし、自分が得をするために、役立つ種類の、人的コネもありません。(苦笑)

 人が社会的に出世していくためには、人的コネというのは、非常に大切な様で、人々はそれを確保するために、種々様々な努力をしているみたいです。サラリーマンだったら、昔は、麻雀、今はゴルフかな? 女の人だったら、PTAや、町内会、そして、そこで役員をしてそのお仲間と密な関係を作ったり、地域のコーラス団に所属したり、同窓の人たちとレストラン巡りをしたり、観劇会を一緒にしたりして、交流を築いています。

 私だって、ある時点で、別の選択をしていたら、人的コネを継続して持っていて、こんなブログを書いていなかったと思いますね。で、そのお手伝いさんが、日吉で築いたのが、中村ヨウ子さんとの関係です。ピアニスト中村紘子さんの、母君です。紘子さんって、私と同い年で、しかも、おなじ日吉に、住んでいたことがあるわけです。ただし、紘子さんは、どうも慶応幼稚舎通学らしくて、日吉の公立小学校には在籍はしていませんでした。

 でね、そのお手伝いさんから聞いたわけではないのですよ。私自身が、紘子さんの著書、それから、週刊誌の記事等を読んでいて、分かることがありました。それは、紘子さんの実父が誰であるかとか? どうして、紘子さんが、いい仕事に恵まれるかとかの、秘密を解く鍵です。つまり、彼女の父君って、相当な大物だということです。その力によって、紘子さんには、容易に、道が開かれるのです。

 たまたま、中村燿子さんが、経営していた月光荘(画廊)の地下室を訪れる縁が、私の方に、ありました。一回だけではなくて、二回も三回も。いえ、数年に分けて、四回も、五回も。ただ、燿子さんが亡くなってからですから、週刊誌が書いていた様な、有名人のたまり場としての、影も形も、香りも、残ってはいませんでした。けれど、アフリカか、東南アジアから輸入されたらしい、ボート型の、長いテーブルだけは、残っていましたが。

 しかし、燿子さんが、そこへ、招く人を限定していたので、彼女が、オーナーだった時代に、そこに、入ることが出来た人は、どれほど、エリート意識を満足させられたでしょうか? 想像するに難くないです。今では、上で、名前を挙げた、なんでも鑑定団の鑑定人のひとり、永井さんが、地下一階にバーのある画廊ビルを作り上げていますが、それに、似ていて、もっと、集う人が、ハイクラス(?)だったのが、そこだったのです。いえ、今の永井さんの、バーもすごいのかもしれませんが、私は縁がないので、知りません。そこは、普段は、ほとんどしまっています。

 JR有楽町駅から、歩いて100mぐらいのところに、≪秘密の応接室を持つ。しかも、それは、自分専用であって、お金を払う必要がない(紘子さんの実父にあたる人にとっては、そうなるだろう)≫ということは、どれほど、エリート意識をくすぐられることでしょうかねえ。それは、想像ができますね。

 つまり、わが家に来ていたお手伝いさんというのは、そういうエリート階級の女性だったわけです。普通ならお手伝いなどしないのですが、たまたま息子さんがニューヨーク在住の、現代アート系作家だったということで、その人にお金を送ってあげたくて、わが家にいらしていたのでした。そして、その母君の方が共産党を信奉していて、我が母に、「どうか、アカハタ日曜版をとってください」といったわけです。

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副題6、『ここで、分かってくる、共産党内部の、二極分裂化』

 共産党って、内部で、二極分裂化しているのが、そのお手伝いさんを見ていると、よく、分かります。上品な物腰で、丁寧語を駆使する人ですが、母と父は、彼女の話を聞くのを、結構なレベルで、嫌がっていました。母は私に「自慢ばかりしているので、嫌だわ」と言っていたし、父は、「はたらいちゃあ、ないのー」と言っていました。お買い物や、お料理は作ってもらえるし、宅急便を受け取るなどという雑用もしてもらえるのですが、お掃除はだめで、母は、「彼女が帰った後で、もう一回するのよ」と言っていました。

 愛情豊かな人で、しかも、モノがよくわかるので、私は彼女と駅まで一緒に帰りながら、話すと楽しかったですよ。しかし、エリートさんであるのも確かで、労働を尊重しない人だったのです。私もお掃除は後回しの方だから、とても似ていますね。甘やかされて育った人なのです。

 でね。彼女の強いエリート意識を感じていると、共産党って、内部で、二極化しているのが、しみじみわかるのです。彼女もエリートの方ですが、現実には、今は、生活費上、優雅ではないので、共産党員内部の特権階級にはなれず、上納金も必要で、それが、新聞購読を、知り合いに勧めるということだったでしょう。

 週刊誌に、宮本顕治が、自分の本宅の周辺に、27か所だか、宅地を買っているのだと、言う記事が出たことがあります。今回の選挙の前に、不破哲三と、ググってみたら、赤い貴族と言われるほど、ぜいたくな暮らしをしているのだそうです。日本には、もともと、家元制度というのがありました。それを、応用しているのです。美術の世界でも同じですが、政治の世界、特に共産党において、激しい階級分化が起きていて、得をする人と搾取をされる人に分化しているのでした。前田夫妻など、ちやほやされる、特権階級の方でしょう。だから、全能感が、強いのだと推察しています。他人、特に私の事なんか、全く認めていません。平等なんて、この世の知識ではないし、企画でもないと思っているでしょう。いや、はや。

 共産党の強みとは、数の力ですが、その内部の、ほとんどの党員とは、上納金を搾取をされ、今回の様な、選挙では、ただ働きを強いられていると思いますが・・・・・

   本当は、これから、選挙の感想へ入っていきたいのです。それが、Aと、しましょう。

 それと、紘子さんの演奏スタイルについて、本当は言いたいことがある。・・・・・それと、特別な、美形に生まれたということの、メリットとディメリットについて。・・・・一般的に言えば、≪美しく生まれたことは、即、幸せにつながる≫と、思われているでしょう。だが、思いがけずも、・・・・・失礼ながら、とても、はっきり言えば、・・・・紘子さんを見ていると、ほのかな痛々しさを感じるのです。

 誰だって、影はあります。だけど、テレビ放映の時には、彼女の、光の部分を強調しすぎるので、かえって、それを感じます。・・・・・これをBといたします。

 それと、朝日新聞と、共産党の関係と、共産党がなぜ、朝日新聞に称揚をされ、ひいきされるのか。それを、Cといたします。

 このABCを、考察したいのですが、しかし、本日(=17日の深夜)は、エネルギー不足です。で、上の様な入り口だけの文章(=思い出だけで構成されている)で、終わらせて下さいませ。・・・・・と、書いて中断し、その同じ、18日の午後に以下の部分を書き足し始めています。

 ここから次の日に入ります。そして、上にあげた三つのテーマのうち、Bだけにこだわって先を書き進めたいと思います。ブレンデルというピアニストがいます。私は、横須賀で、白黒テレビで、N饗アワーを見ているころ(35年前ぐらい)では、この人とか、同じ町内会に住んでいると言われる野島稔が好きでした。そこへ、急に、クンウーパイク(白健宇)という人が混ざりました。

 こういう人たちは男性なので、美形を誇りません。それで、混じり気なく、音楽だけを楽しむことができます。

~~~~~~~~~~~~~

副題7、『クンウーパイクの、シューベルトに対する解釈が素晴らしい』

 NHKがシンフォニーアワーという番組を改編して、二時間にしたのです。その後、そうなると、クラシックを二時間聞くのか、それは、重ったいなあとなって、ずっと、テレビでクラシック音楽を聴くことをやめていたのです、しかし、それとは別に、早朝6時からBSプレミアムで、クラシック倶楽部という番組を放映しているのに気が付きました。それで、大体毎日、録画しておいて、暇な時に、バックグラウンドミュージックとして、聞きながら、他の仕事を同時並行的にしています。そちらは、一時間出し、主に室内楽を放映するので、楽器の数が少ないわけで、音楽自体が軽やかです。

 ≪72歳にもなると、もう、重ったい、音楽は、聞くのが楽しくないね≫という感じですから。

 そこで、中村紘子さんが、2010年だったかな? サントリーホールで、弾いた時のものを、二回ほど、繰り返して放映しています。このクラシック倶楽部という番組は、早朝も早朝で、録画して聞く人以外は、気が付かないので、視聴率という意味では、小さい数字でしょうが、それでも、楽しみにしている私の様な人間がいるのに、再放送が多くて、残念です。ここで、放映をしてあげることが若い音楽家の励みにもなると思うので、

 もっと、お金をかけて、丁寧な取材をして、いろいろなホール情報を集めて、新しい演奏を見せてほしいと思います。と思うほど、再放送が多いのです、そこには不満はあるものの、中村紘子さんのサントリーホールの演奏が、二回ほど、録画をされ放映をされておりました。自動的に。

 あんまり、感銘をうけません。それは、ずっと、前からそうであって、今回もそうでありました。彼女のエッセイは、読みやすく、かつ、≪そうだろうなあ≫と、思い、共感をよくするのですが、演奏自体は、私は、好きではないというか、腕を振り上げるのが、派手すぎて、それに幻惑をされてしまい、音楽そのものに、溶け込めず、それを、嫌がるタイプです。自分はですよ。

 ところで、同じクラシック倶楽部でも、全然、その名前を知らない音楽家は、結構な興味をもって見ています。

 クンウーパイク(白健宇)も、その放送以前は、まったく知らない音楽家だったので、興味をもって見つめました。

 この人が、私が最初に気が付いた時に、英語で行ったシューベルトの即興曲、および、その他についての全体的な解釈を語ったのですが、それが素晴らしかったのです。

 彼は、アジア人がヨーロッパの音楽を演奏することの、自分と聴衆の間双方に横たわる難しさを語っていますが、彼のピアノには、いわゆるヨーロッパの風を、私は、感じることができます。ここでは、その再現をしませんが、含蓄が、深く、≪そうだねえ≫と、思うばかりの解釈でした。

 そして、さらに感銘が深かったという私側の事情を語れば、私にとっては、ありと、あらゆる楽曲のうちで、シューベルの即興曲、全8曲ほど、好きで、好きで、たまらないものはないのですから、本当に注意深く聞きました。そして、演奏にも満足しました。

 このクンウーパイクというピアニストは、韓国で生まれ、ジュリアード音楽院を出て、ブゾーニのコンクールで優勝し(それは、それほど、派手な勲章ではないが、)、現在は、フランス・パリを拠点にして世界で活動しているらしいです。

 さて、この文章では、彼を取り上げて、紘子さんに対する不満を間接的に語りたいわけです。クンウーパイクは、美形でもないし、しかも年齢的にはすでに、中年の、男性なので、衣装に凝ることもないわけですが、表現をされた音楽そのものが、私を惹きつける、演奏家です。本番は、2013年11月8日に凸版ホールで放映をされたものです。

 彼は、腕を派手に上に、振り上げることもしないし、振り回すこともしないし、カメラも、彼の顔を正面から移すなどの、演出には凝りません。画面はありきたりの、スタイルで推移します。だけど、それが、音楽を邪魔しない。

 ところで、私は、この番組の最初の、曲目紹介だけを見て、『ああ、再放送だな。一回聞いたものの再放送だ』と、思い至りました。で、忙しいので、再度、開いてみることはせず、ただ、捨てることも致しませんでした。後で、ブルーレイにでも落として保存をしておこうと思うからです。しかし、その時間もないのでした。彼の演奏だと、それを、ながら視聴をして、聞いて、これは、聞いたねとして、捨ててしまうのも惜しいので。

 ~~~~~~~~~~~~~~

副題8、『しかし、クンウーパイクは、韓国人なので、NHK側は、いろいろ、対私向けの、小細工をしていますね。一回目の放映も、二回目の放映も』

 私は、一回目の放映を聞いた後で、種々の、文章を、彼、および、彼から想起されるあれこれについて、書いています。そのうちの一つ(後注3)は、今でも、人気記事の一つとなっているみたいです。そのリンク先を見つけるのが、難しいです。で、本番の凸版ホールの日付が何年何月何日だったかを確かめて、そのあとの自分のブログを探していきました。600本もさかのぼって探さないといけなかったのです。

 その放映が実際に、凸版ホールで、行われたのは、森少子化担当大臣が、青地のエルメスのスカーフをひるがえしながら、特定秘密保護法案を、国会に提出していたころです。それを、後注5~7へと、三本連動しておいておきましょう。そちらの施行が、この間ですが、2014年12月に静かに(?・・・・・本当は静かでは困るでしょうが・・・・・)施行をされました。後注5~7

 きちんとチェックしながら、再放送を見てみると、演奏そのものは、その一回目の時のものが使われているのですが、間に挟まれるテロップとか、彼の解説の言葉が、新しく再録をされたり、新しく編集されなおした可能性を感じます。

 こうなると、ひそかに推察していた、クンウーパイクそのものが、対・私用、弾丸として、利用をされているのではないかというのが、正しかったとなってきます。彼は、2013年の、1年前に、このシューベルトの特に、抒情的な楽曲で、プログラムを組むように、例の裏側にいる存在達から、教唆をされていたと、言うのが、正しいと、確信をしてきます。

 使者に立ったのは、クンウーパイクと同じく、英語が達者な、ICU卒業生であることも考えられますが、パリ在住の日本人音楽家である可能性も強いです。相当高位な、音楽家も住んでいるのですよ。その人に、奥島孝康氏などの、しょっちゅうパリとの間を往復をしていて、かつ、こういう裏側の政治を、熟知している存在が、交渉役を引き受けたのだったら、クンウーパイクは、簡単に、このプログラム(ただし、選挙区自体は、彼の本分です)で、演奏をすることを、承知したでしょう。その際、NHKの人間か、凸版ホールの人間か、それとも、梶本音楽事務所などの、音楽の専門家も動向をしたとは思うし、交渉の場所が、パリ以外の、場所だったかもしれません。ソウルで、交渉が行われたと仮定をすると、上のメンバーではなくて、別の人物が、交渉をした可能性も感じます。

 私が、よく、本日の文章は、30%までに、とどめておきますよと、言っているのは、ここなどが、もっとも、代表的なところなのです。

 一年前の第一回目の、演奏をクラシック倶楽部内で、聞いたその時点で、・・・・・クンウーパイクは、私を、じらせるため、および、彼の背後に、在日の出自を持っている人でもあるらしい、日本国内のトップエージェントたる、成岡君の存在があることを、知らしめるために、こういうプログラムが組みましたね・・・・・と、書いても被害妄想ですねと、読者が感じるだけでしょう。

 しかし、その時でも、彼の演奏の、≪プログラム表記で、作品番号が使われなかった≫のほか、で、暗喩として、それを、一部は、開示しています。

 それは、後注4として文末に、おきますが、字数が、短いので、ここでも、そのリンク先をここで、行間に、挿入的して置きます。

アマゾンで、シューベルトの即興曲のCDを検索し、D番号と、OPのどちらが優位かを調べた   2014-01-19 12:56:55 | 政治

 で、上の時点、つまり、一年前に調べたのは、アマゾンで、売っているCDだけでしたが、本日は、yu tube もチェックしました。すると、やはり、作品番号、90番と、作品番号142番を使っている人が多いです。で、私は本日は、作品番号と、ドイツ番号の違いを、wikipedia からコピペしてここに挿入として、置きます。

::::::::ドイッチュ番号

出典: Wikipedia

ドイッチュ番号(ドイッチュばんごう、ドイチュ番号とも言う)は、フランツ・シューベルト作曲した作品に付けられている番号。オットー・エーリッヒ・ドイッチュによって1951年に作られた英語の作品目録 "Franz Schubert – Thematic Catalogue of all his works in chronological order"(シューベルト年代順作品表題目録)で附された番号である。Dと略記され、D123のように表記される。ドイッチュ自身が作品目録の序文で「自分の名前の略記ではなく、シューベルトの作品を表す記号として、省略記号であることを示す『.』を用いずに使って欲しい」と述べている。

ドイチュの死後、1978年にヴァルター・デュルWalther Dürr(独語版)、アルノルト・ファイルArnold Feil(独語版)などによってドイツ語の改訂版 "Franz Schubert – Thematisches Verzeichnis seiner Werke in chronologischer Folge" が作られた。

シューベルトの作品には作品番号があるが、これはただ単にシューベルトの生前に出版された順序に付けられているに過ぎず、作曲年代がわからない上に、作品番号の付けられていない作品も多いため、近年はこのドイッチュ番号の方が多く用いられる。

 :::::::::で、ここから先は、私自身の文章に戻ります。

彼の音楽そのものは、素晴らしい。特に、この章では、過剰に持ち上げられていると、私が感じている中村紘子さんの、演奏ぶりと比較をするので、文句のつけようもないほど、感じが良いものです。

 日本に来た時には、彼に対する、余計にしてかじょうな、メディアのサポート(=宣伝用のインタビュー記事が作られること)がないので、音楽そのものに浸ることができますし。

~~~~~~~~~~~~~~

 これは、さらに続くのですが、内容が、非常に深く、音楽そのものに入っていきますので、別章を立てて語りたいと思います。

後注1、

地に足の着いた資格、食品衛生責任者・・・・・清潔な日本の、最も清潔な場所としてのその講義△

2014-12-15 14:27:19 | 政治

後注2、

世田谷一家殺人事件の、マウス誤作動について・・・・・それって、嘘でしょう? △

後注3、 

呉善花が25年前に日本語の優位性を語ってくれたが、その破壊工作が、今行われている△

2014-01-20 03:04:16 | 政治

 後注4、

アマゾンで、シューベルトの即興曲のCDを検索し、D番号と、OPのどちらが優位かを調べた

 2014-01-19 12:56:55 | 政治

副題5

秘密保護法案は、その推移が、山本美香襲撃事件とも、嘉田新党設立にも似ているが、□

2013-12-08 14:08:10 | 政治

副題6、

エルメスのスカーフ(森少子化大臣・・大内順子・・野見山暁司・・醍醐イサム・・山口光子)△

2013-12-06 18:36:56 | 政治

副題7、

エルメスの広告が、2013年12月16日の日経新聞に載っていたが、その理由は?

2013-12-21 20:31:12 | 政治

 この文章は、17日の深夜から書き始め、18日の深夜に推敲を終わる。雨宮舜 (本名、 川崎 千恵子)

なお、このブログの2010年より数え始めた延べ訪問回数は、2645206です。

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野島稔がショパンに見えた20年前。野島稔の消息の変遷に感無量だ△

2014-01-05 22:58:24 | 音楽

  さきほど、帰宅しました。夜の九時45分ごろです。さて、ニュースでも見るかとテレビをつけると、3チャンネル(ETV)にあわせてあって、それが、目に入ってきました。私の留守中に、主人が、日曜美術館にあわせていたと思われます。

 で、クラシック音楽館を途中から見ることと成りました。

 すごくいいメロディ。最近、交響楽団を聴くのがしんどくて、この番組が二時間となった途端に、チャンネルを回さなくなって、しかも録画も、大体していないのです。だから、本当に久しぶりにN饗の音を聴くし、ピアノ協奏曲も、久しぶりだし・・・・

 思わず、新聞を見ると、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番ですって。

~~~~~~~~~~~~~ 

副題1、『ベートーヴェンのピアノ協奏曲なら、野島稔さんが忘れられない』

 すると、突然に、1974年からのち、数年間にわたってN饗アワーに野島稔さんが何回も出て、ベートーヴェンのピアノ協奏曲を、汗を飛び散らせながら、弾いていらっしゃったことを思い出したのです。白黒テレビの時代です。

 野島稔さんって、どこか、雰囲気が、私の弟に似ているのです。とても不器用で清潔な感じがする。そして、優しい。もしかしたら、独身ではないかしら?

 世間の垢が、一切身についていらっしゃらない方。

 アメリカへ移住なさってしまったのも、日本人の、マスメディア利用主義と言うか、マスメディアで、有名になった人ばかり、優遇される措置に嫌気がさしてしまわれたのだと思っています。

 帰国されても、それほど、話題にならないのです。数年前に、埼玉芸術劇場で、公演なさった何かが、日経新聞か朝日新聞にあって、その、小さなコラムで読みました。

 「もったいない。埼玉で、この演奏が行われるとは?」と、締めくくってあったと思います。 

 テレビで、演奏を聴いたピアニストのうちで、その音に感動したのは、野島稔さんが初めてでした。

 そして、それ以降もめったにないのですが、クラシック倶楽部で、2012年度に放映されたケマル・ゲキチと言うピアニスト(1962年クロアチア生まれ)がものすごく、音がいいと思ったのに、続いて、

 本日のラルス・フォークト(ドイツ生まれ)も、音がいいと思いました。二時間に拡大する前にN饗アワーはずいぶん聞いているけれど、テレビで、本当に感動することは少ないのです。

 生で、ホールで、聴いてもそれほど、感動するものでもないです。いや、感動させてもらえるピアニストが、少ないのです。で、生で聴いても感動をさせてもらえなかったピアニストの名前は、どんなに有名人でも、その名前をもちろん、ここではあげません。

 CDなら、グレングールドなども聴いていますよ。 

 テレビなら、・・・・・と、ここから先に演奏家名を列挙していたのですが、弊害があるやもしれずと、感じ・・・・・と言うのも、映画もそうですが、音楽界も、日本では、ほめる以外の本当の批評は、まだないと思われるので、「私が感動しなかった」という文言が批評になってはいけないので・・・・・個人名を削除いたします。

 私は、音楽評論家ではなくて、ただ、単に純粋で素直なひとだと言うだけですから。いや、単なる、あほと言うべきかな?(笑い)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題、『缶ジュースが、カラン、コロンと、音を立てても、怒らなかった、野島さんに驚く』 

 私はたまたま、京急・北久里浜の丘の上に、10年間すんでいたことがあります。その北隣の駅、新大津が野島さんの実家があるところでした。で、ご両親が、三歳ごろから、野島さんをおんぶして、鎌倉までレッスンに通われたと噂に聞いていました。

  自分が男の子を育てていて、三歳から、ピアノに没入させる生活をさせたら、友達とも遊べないし、そりゃあ、普通じゃあない育ちだから、ああいう風に、不器用で、慎重そうな、シャイな青年に成るのも仕方がないだろうなあと思いました。

 『自分なら、そんな個性的なことは、絶対に、できないなあ』と思いましたが、野島さんには、お姉さんが二人ほど居て、そのお姉さんが、先にピアノを習っておられたので、ご両親としては、そうする方が、極く自然な成り行きだったらしいです。 

 1945年生まれです。戦後の開放主義の中で、文化への欲求が強いご両親だったのでしょう。それに、三人の子供に、鎌倉まで通って、レッスンをさせるのは、京浜急行の新大津駅からだと、とても、時間がかかるのです。車で通うのならいざ知らず、1950年代に、自家用車を持っている家庭なんて、ほとんどなかったから、電車でしょう。とても、芯の強いご両親だろうと推察しています。

 ご両親を、横須賀の文化会館の入り口で、・・・・・入場者に対して、挨拶しておられるのを、・・・・・・お見かけしたことがあるけれど、上品なご夫婦でした。

 でも、内面は強いのだと思う。『地域社会の、中での、子供』と言うことを捨てて、一途に特殊な道に進ませて、迷わないのだから。 

 横須賀市って、半島の中にあり、東西には両隣の町がないのですよね。南北も山にさえぎられているので、隣接感が少ないでしょう。

 それと、今は基地の町でイメージダウンがはなはだしいけれど、・・・・・あ、これも、言っちゃあ、いけないことかな?・・・・・いや、本当の事を言って、今日はひどく書きにくかったです。普段の20倍の時間がかかりました。・・・・・それは、こういうところが引っかかったのかな?・・・・・

 戦前は、海軍の拠点だったから、その誇りもあるのか、非常に地域主義が強くて、地域出身の有名人に対する援助意識も強いのです。それは、横浜市などとはまったく違います。

 画家の島田章三さんに対するオマージュも激しいのだけれど、

 ピアニストの野島さんに対するオマージュも激しくて、一年に一回は演奏会をお願いしていたみたいです。で、市が支援するので、入場料も安くて、しかも夏休みに開かれていました。で、子供がいっぱい来ていました。あるときですが、子供の誰かが、缶ジュースを、手から離したらしくて、演奏中なのに、缶がカラン、コロン、カラン、コロンと、いすの間にある階段を転がっていき、音が、文化会館と言う1500人が入れる会場中に、響き渡ったことがあるのです。

 その時に野島さんは、演奏を中断しなかったし、終わった後も、ニコニコして、決して、その音について、文句はおっしゃらなかったのですよ。その時に、非常に誠実で謙虚な方だと、感じました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

副題3、『鎌倉で、20年前に野島さんが、演奏会をしたことがある』

 鎌倉市の旧松竹撮影所跡地には、芸術劇場と言うのが、作られています。そこは美術部門が狭いので、満足していません。中西レイさんが、主になって建築をされたとの噂で、音楽部門が優先をされていると思います。その上、鎌倉って山があるので、同じ、市内なのに、行きにくい場所があるのです。自宅の雪ノ下発で、芸術館に行くのは、東京へ行くのより億劫になるほど、時間がかかります。

 でも、JR鎌倉駅のすぐそばにある、旧中央公民館(現在名きらら)での、催しは便利なので、良く行きます。 

  すごい問題作である・ドイツ映画・『命の食べ方』もそこで見ました。

 きらら(旧中央公民館)は、500人程度の小さい会場ですが、そこで、野島さんの演奏会が開かれたことがあるのです。

 そのお世話は、野島さんが子供の頃、鎌倉までレッスンに通っていた当時のお仲間だと思われ、野島さん、ご自身が切符の手配をなさるわけでもないので、満員ではなかったのです。別にテレビで、宣伝されたわけでもないし、新聞に大きな広告が出ていたわけでもありません。私だって、A4サイズの紙にカラー印刷された告知を、たまたま、公民館に寄ったときに、見つけたので、知ったぐらいですから。 

 で、演奏の始まる直前に、『プログラムの変更があります』と言う発表がありました。難しい大曲からポピュラーな名曲へ、変更になったのです。

  お客さんが少ないので、そういうことになったのかと、いったんはがっかりしました。でも、却って、それが、うれしいなとも思いました。だって、知っている曲の方が楽しみも多い場合もあるのです。私は「自分は、今、音大在学中で、将来は専門家になるつもりです」というわけでもないから。 

 でも、その会場には、少ない人数ながら、野島稔が誰であるかを知っている人々が来ているわけです。だから、相当な期待を持って、耳を澄ませて聴いているわけです。

 で、それが、野島稔さんにもわかるのですね。それで、相乗効果が出ます。で、一体感が出てきました。大人だけが静かに聴いていて、しかも、その大人は、たぶんですが、熟練した音楽好きです。そういう人だけが聴いている落ち着いた会がだんだん熱を帯びてきたのでした。

 今、埼玉芸術劇場の座席数を調べてみました。行ったことがないので。すると、604とありました。音楽評論家と思しき人が、「名演奏だったのに、このホールではもったいない」と、嘆いたのも、なるほどと頷けますが、それでも、その日の演奏は、日経か朝日のどちらかの大手新聞に記録をされたわけです。

 だが、鎌倉での、300人程度の、あの日の演奏会は、新聞評が出たわけでもありません。今思うと、『本当に、もったいないものを聴かせていただきました』と感じます。地元で聴けば、歩いただけで、夜の九時前に、家にたどり着ける幸運。そして、美しい音色を聴くことのできた幸せ。もったいないことでした。

 その日、野島稔さんは、大変な美形に見えました。テレビで見たとき、また、35年前に横須賀の文化会館で、見たときの野島さんは、小太りでめがねを掛けておられて、お上品な事はお上品だが、美形と言うわけでもなかったのです。

   ただ、その鎌倉での、300人の演奏会では、ショパンかと見まごうほどの美形に見えました。ただ、やせておられるのも、そうみえる一因だと思い、ひそかに心配もしたのです。

 その頃、アメリカに定住されようとしておられた日々で、日本の音楽界で、いやな事が、あったのではないかと思って。野島さんは、桐朋音大の出身で、芸大出身ではないし。音楽の世界でも派閥や、嫉妬もあるだろうしと思って。美術の世界で、散々そういうものに悩まされている身には、大体のことは、推察もできるのでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

副題4、『10年前にコンクールが始まる』 

 私は実は、新聞を読む暇もないのです。で、むろんの事、チラシを読む暇はありません、でもある日、ふとですが、チラシを読むと、そこに、野島稔が横須賀芸術劇場で、演奏をすると出ていました。『久しぶりだ、行ってみるか』と思い、足を運ぶと、会場の入り口に、『横須賀ピアノコンクールが野島さん、主審で、行われる予定がある』とありました。

 『うわー、横須賀市もやるじゃん』と思いました。 

 このコンクールを野島さんが、提案したとは思えないからです。シャイな野島さんが、お金のかかることを、ご自分から提案するとは思えませんので。ここには現代の、芸術家とパトロンの、好ましい形がみえました。それは、いいことだと感じました。 

 で、帰ってグーグル検索で野島さんを見てみましたが、それは数本は、あったけれど、まだ、野島さん個人のwikipedia は、たっていなかったと記憶しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

副題5、『この一年間で、私は、ケマル・ゲキチと、ラルス・フォークトを知った』 

 そして、本日、2014年1月5日です。一年の年頭のクラシック音楽館。それはNHKとしても目玉商品としての演奏会を乗っける機会でしょう。そこで、2013年10月25日、または、26日放映の演奏会からの再放送でした。それが、途中から聴いたものだったので、新聞で、タイトルを調べ、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番だと知り、この文章の冒頭へ、戻る事となります。 

 外人の男性のピアニストでした。ものすごく美しいピアノの音色で、誰だろうと、思わず、新聞を見たのでした。すると、ラルス・フォークトとあります。最近のピアニストは知らないのですが、音がいい人なので、急いで、グーグル検索をして見ました。

 それで、項目はたくさん出ているのですが、こちらも、wikipedia   が、まだたっておらず、なんだか、欲求不満に陥って、昨年度中に、知り始めた、やはり、音のよいピアニスト、ケマル・ゲキチを、ググっていたりしていたのです。で、音楽の分野を、集中的にググっているうちに、ふと最近接していない野島稔さんを、ググって見ようかと言う気持ちになりました。 

 すると、野島稔2013と言う項目があるので、そこを開くと、驚いたことに、wikipedia が立っていました。 そして、他にもたくさんの項目が出ていました。10年前とは雲泥の差がありました。

 ただ、蛇足ながら言わせていただくと、音楽家のwikipedia には、その詳細さと言うか、情報量が足りないと思うときが多いです。野島さんの、wikipediaにもむろんの事満足はできません。デモ、あるだけよかった。上に上げたケマルゲキチも、ラルスフォークとも、私はまだ、日本語の、wikipedia は、発見していませんし。

~~~~~~~~~~~~~~~~ 

副題6、『あの野島稔さんが、学長になっていた。大丈夫? でも、消息の変遷にびっくりです』 

 その理由はやがて、推測がつきました。野島稔さんは、東京音大の学長になっていたのです。選挙の結果ですって。おおすごい。そんな椅子、つまり、政治的な部分を必要とする椅子に座ることは、とても想像ができなかったあのシャイな野島さんが、学長に!!!!! 

 内面は強いと思いますけれど、押し出しが強いとか、にらみが利くと言う人でもないでしょう。そこは、昔から、変りはないでしょう。

 そして、東京音大は、もう、小さな大学というわけでもないみたいですよ。と言うのも、お人形のようにかわいいギタリスト・パク・キュヒを出し、間接的ながら、辻井伸行さんを生んでいます。のぼり調子の大学です。 

 私は、今度は、東京音大側から、検索を開始しました。すると、どこにも「野島稔が学長だ」とは出ていないのです。それもまた、野島さんらしい姿勢だと感じました。

 とても、ほっとするニュースでした。ちゃんと仕事をこなしている人、そして、本当に才能のある人が恵まれていることを知って。

 なお、2010年から数えはじめた、このブログの伸べ訪問回数は、1968309です。

                                    雨宮舜 (本名 川崎 千恵子)

 なお、「死刑執行が多数回行われている事の理由は何か?」と言う話の続きは、後日させていただきます。恐れ入りますが、そう、させてくださいませ。いつも、天から降りてくる文章を書き表すことにしていて、帰宅した後では、・・・・・それは、もしかしたら、小さい話題なのかもしれませんが、・・・・・野島稔さんに、心が集中して行ったのです。

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