銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

手塚治虫(さそり座) VS 岸恵子(しし座)

2010-01-31 23:16:10 | Weblog
 本日(2010-21-31)、NHKで無縁社会というよい番組が放映されました。が、私は28日の夜から考えたことに、いまだこだわり、書かせていただきましょう。『のだめカンタービレ』から派生したことですが、今回は、それに無かったエロチックさを示したリボンの騎士についてです。

 後者は、紙に白黒で印刷されています。前者は、音楽つきの華やかな映像です。しかし、後者の方がこども心をどきどきさせたのです。が、その例を、挙げて説明しないといけません。今、手元にリボンの騎士の本が無いので、記憶によって文を書きますが、

 リボンの騎士の主役は、女性ながら男装をしている存在です。今、よく取り上げられる性同一性障害などということを先取りしている発想で、しかも『三銃士』などに描かれている時代を換骨堕胎というか、日本へ移入をした作品です。(後述1)また、それは、ベルサイユの薔薇につながる世界でもあります。
 ヨーロッパ大好き少女たちを、わくわくさせる漫画でした。

 ある日、リボンの騎士は何事かで追われて、逃げる必要が出てきます。で、逃げ隠れた先が干草の中です。その干草はたしか、馬車に積まれているものだったと記憶しています。

 追っ手がその干草をそっとめくると、リボンの騎士の白いタイツ姿の足だけが出てきます。干草の中から片足だけ太ももまで。その足がドキッとするほどエロチックだったのです。普段は目の大きい、また頭の大きい、子供らしい姿でリボンの騎士は描かれていますから、そんな感覚は与えられないのに、太ももまで出てきたタイツ姿の足は、なんともエロチックでした。
 しかも状況は、追っ手である男性が、たんなる兵士ではなくて、重要な人物で、しかもそのタイツの足がリボンの騎士であることを既に察知していることを示しています。そこで、だまって見逃すかどうか、次号へ続くという設定だったと思います。

 つまり、ベッドシーンではないのです。だから、女の子向けの雑誌に描いてもまったくおかしくない設定です。ただし、想像力をかき立てるという意味では、圧倒的に、エロチックな設定でした。その男性が敵ながら、これから恋人となるかどうかという存在だったと思います。その男性が、圧倒的に無防備なリボンの騎士に向かって、次に何をするのだろうと想像すると、余計にどきどきするわけです。

 このシーンの印象は強烈で、55年も歳月が過ぎた今でも、忘れられません。
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 その20年後私は必要があって、星占いを勉強することとなります。そして、有名人の星座も知ることと成りますが、手塚治虫氏が、さそり座であることを知って、『ああ、なるほど』と納得をするのです。美川憲一の有名な歌に『さそり座の女』というのがありますが、
誕生月が示す性格の特徴として、さそり座さんは、いわゆるむっつりスケベーなのです。

 あまり、言葉や態度ではその意思やら、思いを出しません。だけど、傍によるとふわっと酔いしれてしまうような、吸引力を持っている存在なのです。

 ここで、一種の二重のスピンオフとして、さらに、外へ向かいますが、岸恵子さんがエッセイの中で離婚について書いていらっしゃる部分があります。それも、さそり座さんを説明するのに役立つので、ここで取り上げましょう。岸さんが、一生懸命、夫である映画監督のスタッフたちのお食事をつくり饗応をしている間に、夫の心がある別の女性に盗まれてしまいます。まったくその経過に気がつかないうちに、最終段階まで行ってしまって、夫は外へ出てしまいます。

 その女性について、岸恵子さんは深くは説明していないのです。ただ、「自分とはまったく異なる性格であった」と表現をされています。そこで、補遺として、私は心中ひそかにですが、『その女性は、さそり座だったのでしょう』と思いました。

 岸恵子さんは、しし座の女なので、一見すると華やかに見えるが、実際にはエロチックなほうではないのです。だからこそ、だんなさんは、別の女性の、秘密めいた誘いのある魅力に参ってしまった・・・・・のでしょう。
 岸恵子さんは、しし座の女として非常に有名なココ・シャネルなどと同じく、仕事を好む人であり、達成感を一番大切だと考えているでしょう。

 実は、小さな存在ながら、この私もしし座であり、同じく、仕事を好む女です。
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 ここで、手塚治虫ファンに対してお断りをしますが、むっつりスケベーなどと、書いても、氏を軽蔑したり、けなしたりしているわけではありません。高度に成功する作品には、そういう部分が、潜在的に秘められているものです。グリム童話も日本で再録されているのは別として、原作には、相当にエロチックな部分が含まれていると言われています。

 そして手塚さんほど、忙しければ、実際には遊んでいる暇もないし、仕事に集中すれば遊ぶ必要も感じられなかったでしょう。創作とは人間の快楽のうちでもっともすばらしいもので、脳内麻薬(アドレナリンのこと)が大量に出るそうです。それを別の言葉で言えば昇華といいます。
 また、私に引き寄せて語って申し訳ございませんが、私にとって、コンスタントに、一日に一本のエッセイを完成させることが、生きる糧にもなっていると、申し上げさせてくださいませ。たぶん、そこに緊張もあり、快楽もあるので、現実には単純極まりない静かな生活を送っている人間です。
 だけど、心の中だけでは、縦横無尽に発想が行きかい、もし許されるのなら、一日に三本以上の長いエッセイを、メルマガやブログで送りたいと思うほどです。

 だけど、こういうものははじめたら、継続するのが、一種の義務だから、自分がばてないようにわざと、集中しすぎないように抑えているほどです。

 さて、「星占いなんて、荒唐無稽なことよ。私は信じない」とおっしゃる方に向かって、次には鳩山首相を、そのリアル鳩カフェに事寄せて、星占いから分析をさせていただきたいです。
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 後述の1; ディズニー映画のライオンキング、および、ミュージカル、ライオンキングは、その筋立てを考えると、手塚治虫さんの『ジャングル大帝』を下敷きにしていると考えます。しかし、そのことをマスコミは問題にしないので、裏側がどうなっているのかが長い間不思議でした。もし、手塚さんサイドへ、お断りとか、著作権料の支払いが無いのなら、いやなことだし、手塚さんご本人がそれを、どう考えられているかは長い間疑問でした。私の中では、その疑問は、まだ解決されていないのですが、・・・・・

 今般、あらゆる脚本は、お互いに少しずつ文化伝播という意味で、影響をし合っていることもあらためて感じ入り、したがって、そういう意味合いで、手塚さんが、ご自分のオリジナリティを無視されることについて、黙っておられたのなら、それは、少しだけ納得が進んだといえます。ただ、詳細はわかりません。

 なお、鳩山さんについて、次に書く予定です。2010年2月1日、  雨宮 舜
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リボンの騎士 VS のだめカンタービレ(エロスのこと)

2010-01-31 10:40:02 | Weblog
 私は漫画を読まないと公言していますが、唯一同時進行的に、ライブで読んだ漫画があり、それは、リボンの騎士です。今グーグル(Wikipedia)で検索をすると、それが1953年から始まっていますから、私が小学生のころでした。

 ところで、そのころの我が家ではエロスとか、エロチックという言葉はまったく使われていませんでした。世間でも同じだったかな?戦前では、一種のモボとモガの世界に生きた両親はそういう方面の事に触れる場合、イットという言葉を使っていたと思いますが、それさえも、子供の前ではできるだけ使わないようにしていたと思います。ちなみにイットとは、英語の代名詞からくるもので、エロチックなものを暗喩で描く言葉です。

 でも、そういう世界から遠ざけられていて、五年生から既に中学受験の勉強を始めていたはずの私が、ひそかにエロスの世界に目覚め、どきどきしたのは、リボンの騎士を読んだときでした。『あ、これって、人前で読んではいけないのだ』と子供心に思ったほどです。
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 今回の『のだめカンタービレ』鑑賞で最も気がついた第三のポイントは、そのエロスの表現のことなのです。簡単に言ってしまうと、まるでエロチックではないのです。恥ずかしくない映画なのです。一人で見ないでも済む映画なのです。それもまた、大きな特色であり、少女向けというゆえんです。そして、80歳のレディが二度も劇場に足を運ぶゆえんと成ってもいるでしょう。

 最近映画を劇場で見ることが多い私は、中山美穂主演の『サヨナライツカ』の劇場予告を見ました。それが、公開をされて、ベッドシーンが話題になっているそうです。迫真で美しいとか? それから、何も皆様に感想をお送りをしていませんが、フランス映画『メスリーヌ』もみましたし、その中でも、迫真のベッドシーンはあったと思います。

 だけど、『のだめカンタービレ』の中では、それが、表現をされていません。あのね、チューという言葉でキス程度は表現をされているのですが、それ以上は何も無いのです。それが、この映画を一種のファンタジーにしており、音楽への導入を容易にしているところです。それが、一種の、言うにいわれぬ成功を、もたらしています。

 でも、映画や原作への失礼が無いように、さらに言を進めると、ある程度のひねりをかけて、それも表現をされています。『変態の森に入っていく』というキーワードで、それが、暗喩されています。しかし、それもこのお正月に放映されたドラマ内での暗喩であって、映画内では、ほとんど、何も無いのです。

 この『変態の森』とはいわゆる白昼夢に主人公が浸ることを示しています。それは天才少女だったら肯定できる設定です。その白昼夢内でのいろいろがあってか、どうかはわかりませんが、ヒロイン(上野樹理)は、先輩千秋(玉木宏)の傍では、他者に『妻です』と名乗るのですが、実態は、まだ、プラトニックラブの段階だと観客に思わせます。

 またはおままごとの世界です。

 ここで、気になって、生涯初めて原作者二ノ宮智子の頁をインターネットサーフィンをしてみました。するとミュージシャンと結婚をしていて、お子さんもあるそうですから、恋愛と、セックスは経験済みのお方ですが、それを、昇華しきっていて、においさえもエロスを感じないのです。この映画から感じ取られるのは『修行』という側面が大きくて、エロスとは無縁に思われます。

 でも、ひとつ納得の行った部分がありました。それは、二ノ宮智子さんが、ふたご座さんだということです。しかも主役の上野樹理もふたご座さんです。二人はかぜのように融通無碍で、ヒトとヒトを結びつけるコミュニケーション能力に長けていますが、
 決してエロチックなタイプではないのです。
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 それが、この映画を、清く、正しく、美しくの世界で、構築をされている宝塚ではないが、少女向けのヒット映画とさせたゆえんでしょう。でも、大人の鑑賞にも堪えますが、ヨーロッパでどうかなあ。こういうテーストが受け入れられるかは疑問もありますが・・・・・私にはわかりません。

 ところで、この項目はもちろん、続きます。お待ちくださいませ。
 だって、リボンの騎士の作者・手塚治虫さんについて、もっと触れないといけませんから。

 2010年1月31日書く、  雨宮舜
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パリの、雨よ、雨よ・・・・・『のだめカンタービレの4』

2010-01-31 01:52:21 | Weblog
 今日の文章は結論を先に言ってしまいます。それは、この実写(ファンタジー)映画が結構パリに慣れている方の私でさえ、『おかしくない』と受け入れられたことなのです。

 いや、急に思い出したのですが、コンセルバトワールも、少しは私に関係があるのですよ。パリに研修に行くときに、そこの教授をしている方にお世話になったのです。私は音楽で研修に行ったわけではないから、彼女自身が受け入れ先なのではなくて、彼女のご主人が受け入れ先でした。
・・・・・(なお、ここで、挿入ですが、これから、文化庁の在外研修生を受験する方のために、しっかりと、内情を言えば、私は受け入れ先を二つ用意していました。かつ、実際にはもっとよいところ=第三の工房=を見つけて、そこで修行をしたのです。で、結論としてお薦めしたいのは、受け入れ先を複数用意しておくことです。事前の情報をしっかりつかむことが大切です。ただし、コンセルバトワールなどの国立大学へ、入学できるのなら受け入れ先は、ひとつでよいでしょう。ただね。フランスの国立大学は27歳前の人でないと受け入れないそうです。ですから、日本の大学を出たあとで、すぐ入学をしないと駄目なのです。で、文化庁の在外研修制度などの、大人になってからの留学制度を利用する場合は、国立大学は受け入れ先としては、使えないのです)・・・・・

 その彼女というのはもちろん日本人女性です。彼女とは、七つ年が違っていて、同級生ではないのですが、彼女が五歳の時から、彼女のお母さんが主催するコーラスを一緒にやっていたから、お願いをしました。だから、私にとって、コンセルバトワールで、上野樹理演じる『のだめ』の指導をする日本人女性というのは、その方に取材をして造形をしているのではないかと思うほどです。
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 のだめカンタービレをファンタジーだと思いながらも、決して嫌がらず、または、『これって荒唐無稽だわ』と思わないで見て行くことができたのは、・・・・・留学生活が、そんなに、順調に行かない・・・・・と言うことを、示しているエピソードがたくさん入っているからです。

 海外でくらすということ。それも、会社の駐在員として、日本人の部下とか、上司がいる形ではなくて、外人の中だけで仕事(または、勉強)をしようとすると、結構大変なのです。必ず、何かのトラブルには見舞われます。挫折というか、悩みに襲われることは絶対にあります。それが外部から来るものであれ、自分自身から出るものであれ、絶対に何かはあるのです。

 この映画を劇場ではじめてごらんになる方は、今回の前篇だけでは、何が何やらお分かりにならないかと感じますが、プログラムを読んだり、お正月の前哨戦みたいなドラマを見た結果、主人公『のだめ』には、落ち込む機会が多かったのが、私には、知らされ、それもまた、リアリティを強めました。

 ただし、褒めすぎると、これから、ごらんになる方は、『え、面白くなかったわ』とおっしゃる可能性もあります。それは、特に、舌ったらずのものの言い方を主役がする、(原作の漫画内で、そう規定をされているからなのでしょうが)ことなどが、引っかかるポイントだと感じますし、他にもいろいろあるでしょう。
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 この映画の中では、ホールでの演奏シーンが予告編などに、多用されていますが、実は最も印象的な場面は雨なのです。パリの雨です。ただし、どういうことに使われているかは伏せます。雨がどういう目的で使われているかを言ってしまうと、それこそ、ネタばれというものになりますので。

 ただし、「あなたの、知ったかぶりはいやだなあ」といわれることをおそれずに、言わせていただければ、その雨こそ、『ああ、これぞパリ』という雨なのです。日本の雨って粒が大きいのです。時には、一時間で100ミリを越すこともあり、ざ、ざ、ざーという感じで、その中を歩くとずぶぬれになります。

 でも、パリの雨は粒が細かい。よくドラマや映画で、雨が必要な時は晴れていても、雨を降らせて、画面に、登場人物の影が映っている場合があります。NHKの龍馬伝でさえ、そんな撮影がありました。龍馬が治水事業を行う場面です。
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 あ、ここで、またまた、スピンオフですが、その大河ドラマ2007年の『篤姫』のなかで、玉木宏は龍馬をやっていたそうですね。俳優の名前には、ちっとも気がつきませんでした。『いけめんの若手タレントを使っているわね』とは思いましたけれど。知らないということは恐ろしいことですね。その前に『氷壁』というドラマでもNHKが既に主役として使っていたそうですが、そのころは、私はテレビには興味が無かったのです。だから、玉木宏を認識したのは、今回の映画が初めてです。
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 で、もう一回パリの雨に戻りましょう。

 映画全般を見れば、そういう偽装がよく行われています。が、この映画では、実際にパリに雨が降った日に、撮影をしている模様です。カメラがそうとうな距離引いていても、他の人間が歩いているのが、見えない場合があり、『あ、本当に雨が降っているのだわ。しかもパリにしては、珍しくも、ひどい量となる雨が』と思ったことでした。

 真ん中にオベリスクの立っている広場を、登場人物が歩く場面があって、『あれ、これって、バスティーユ広場ではないかしら?』と思ったりして、懐かしかったです。プログラムを見ると、「ヴァンドーム広場で撮影した」とあるので、すぐ傍にあるバスティーユ広場に向かって、撮影隊一行は、流れて行ったのだろうと、私は考えます。

 私は1998年9月1日にパリに入ったのですが、7日に雨に降られて、ひどく驚きました。内陸にあり、東南に、太平洋がないパリには、雨は降らないだろうと事前に考えていたからです。他の方角を考えても、偏西風に乗ってくる大西洋の水蒸気は、スペインで落っこちちゃうはずですし、西北にはシベリアに当たる大陸も無いわけですから・・・・・

 でも、降るのです。ただ、長い時間でもないし、大量でもない。

 雨以外にもたくさん、懐かしさを思い起こさせる場面がありました。ただし、今日は長くなるので、ここで、切らせてくださいませ。・・・・・やわらかく細い絹糸のように降るパリの雨の特徴を、きちんと捕らえてあったこともまた、私がこの映画に映像美を感じたゆえんであります。決して、きんきらきんのロマネスク様式の音楽ホールだけに、美を感じたわけでもないのです。もちろん、それらのホールには、金で巻かれた彫刻が施されている柱があり、階段やら床には大理石が多用されており、夢見るようにきれいなのですが、それだけに感動したわけでもありません・・・・・なお、この項は続く予定です。
                       2010年1月31日   雨宮舜
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『のだめカンタービレ』-3、(日本人はヨーロッパが好きなんだ)

2010-01-30 11:16:00 | Weblog
 「のだめカンタービレ」について、書かれているブログ等を読みますと、非難しているヒトもあります。「軽い」とか、「出演者が、タレントの起用が多くて、演技が下手だとか」言って。それは、ある意味であたっています。だから、私の文章の普段の読者が映画館へ足を運ばれて、「いや、面白くなかった」とおっしゃる可能性は、十分あります。
 だけど、『漫画が原作であり、第一ターゲットが少女層であろうと考えると、それを許してあげないといけない』と考えます。

 私にとっては、玉木宏の演技を、チェックすることも大切でしたが、もうひとつ、音楽が好きだから、それが、どういう風に扱われているかというポイントも大切でした。
 それについては、十分に満足し、感謝の気持ちを抱かせられました。この前篇において、メインに選ばれている曲が、チャイコフスキーの『1812』であったというのは、スタッフたちを褒めたい選択です。
 これが、原作の漫画にあったかどうかは私は知らないのですが、よく考えて選択をされています。この曲は交響楽団の演奏する曲目としては、人口に膾炙していません。ポピュラーではないのです。だから、そのこと自体が、新鮮さを呼び覚ましました。裏方として、指揮法の指導を初め、クラシックのプロがきちんと関わっているのを感じさせられます。
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 そして、その結果としてあらためて感じることは、『日本人って、やっぱりヨーロッパが好きなんだなあ』ということです。この映画は冒頭に、Paris  と Wien というロゴが出て、お定まりのエッフェル塔を遠くから望む映像が出たり、ウィーンでは、数々の有名作曲家の銅像が、映し出されます。

 また、中ほどで、主人公『のだめ』の夢(妄想)の表現テクニックのひとつとして、モンサンミッシェルを俯瞰する映像なども出ました。で、ある部分からは、『ありきたりよねえ。これって、協賛企業JAL や、YAMAHA への恩返し、見え見えで、観光誘致映画じゃあない?』とけなされる可能性があります。好意を持っている私でさえ、ピアノだけではなく、大太鼓にさえ、大きなロゴYAMAHAを見つけ、ドキッとしたほどですから。
 でも、それが無くては、映像美さえも伴っているこれほどの映画が、できなかったでしょう。お金がかけられていることは確かです。でも、映画はあたるかどうかがわからないので、現在では協賛企業の資本・参加は仕方がないですね。

 それが、実はクラシック音楽を学ぶ過程でも大きなことなのです。その習得過程において、お金が掛かることが、実態です。だから、クラシック音楽の演奏家になることは日本では一部の階級のものだったのに、それが、だんだん開放をされてきています。そして、小沢征爾や、小林研一郎の出現を経て、・・・・・この映画で、千秋役を演じる玉木宏が、荒唐無稽に見えない社会・・・・・が出現しました。喜ばしいことです。

 そして、それに平行して、庶民階層の出身で、お部屋さえ片付けられない、かつお料理さえできないヒロイン『のだめ』が、・・・・・その才能ゆえに、もしかすると、大ピアニストになれるかもしれない・・・・・という夢が、根底にあるので、この映画がヒットしたのでしょう。この映画もシンデレラ物語のヴァリエーションのひとつですが、そこに長期間の修行という新しい味付けが加えられているのです。ただし、この前篇では、ぷつんと切れるので、それはペンディング(続く)と成っています。

 アッパークラスのヒトが、順当に、修行をして、出世していくところにはドラマは生まれません。ドキュメンタリーは、生まれても劇映画は、生まれないのです。そして、あくまでも、少女たちがメインターゲットだとしたら、この映画は、これでよいのです。

 実は、皆様の中でお若い方は、ご存じないかもしれませんが、小沢征爾さんだって、同時進行的に彼の進歩を見ている、私などの年齢からすれば、修行にお金が掛かるので、いろいろ裏話があったのですよ。今では、そんなエピソードは一切忘れられていますが、あったのです。そういうエピソードを下敷きにして、この原作と、映画が、生まれ、夢の世界を表出しているのです。

 でも、若き日の小沢さんが、バイクを駆ってヨーロッパを音楽修行をしたように、若いということはすばらしいことです。今のヒトは、アメリカも憧れの場所となり、修行の目的地になっている模様ですが、ヨーロッパがあらためて、若いヒトの憧れの対象となるのは、よいことのひとつです。クラシック音楽に大勢のヒトが目覚めた、この原作と映画は、それなりに価値があります。学校の音楽という科目では教えきれないことを、教えてくれているから。

 『今の若いヒトは、元気が無くて、海外旅行にさえ行かないので、旅行会社は危機感を持っている』とも一時報道されました。だからこそ、若いヒトへ夢や元気を与える可能性がある、この映画は価値があります。若いうちに、ツアーでもよいからヨーロッパは経験しておくべきですし。

 ところで、日本という国では、最近、『江戸文化、再評価の気運も高い』です。それもよいことです。ヨーロッパに行くにしても、アメリカに行くにしても、日本の最上のものを学んでおくことは大切です。ともかく、学んだり修行をしている人たちが、たくさん出てくることも、この映画の清涼感を生んでいるでしょう。そのまじめさを、薄めるためのずっこけであり、コメディ化であり、タレントの起用だと、感じます。うがった見方でもあるが『まじめであることが忌避される、最近の日本』だからこそ、こういう工夫も必要なのだろうと感じます。
  この項目続く。            2010年1月30日      雨宮舜
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玉木宏 VS 佐藤浩一 (絵空事を、魅せてくれる、俳優)

2010-01-29 09:16:16 | Weblog
 前回で、なぜ、少女向けの映画であろう『のだめカンタービレ』を、67歳の私が劇場にまで足を運んで見たかといえば、それが、海外で上映をされたときに、気恥ずかしくないかどうかをチェックするためだと申し上げました。

 特に男らしさをもっとも表現する職業といわれる・指揮者・役の『玉木宏に、非現実的な格好よさが与えられていると、かえって、気恥ずかしさが生じてしまうはずだ』と心配したのです。そこが、非常にうまくクリアーされていて、救われました。

 玉木宏というのは、初めて見た男優です。俳優というより、いわゆるタレントという範疇のヒトだと思っていましたが、それなりに、苦難とか、思い惑う場面の表現がきちんとできるヒトで、かつ、声に魅力がある存在でした。そうです。格上げして『男優』と規定してもよいと思いました。

 『のだめカンタービレ』は、全編、実写ファンタジーの要素が強くて、しかも漫画が原作ですので、突然に演技が変わって、ずっこける場面も多いので、そこについては、主演の上野樹理を含めて、賛否両論があると思います。が、最大に格好よい存在として描かれる、指揮者千秋役の、玉木宏が、気恥ずかしくなかったというのは、大きな収穫でした。これが、アジアに向けて海外上映されるのは、グッドでしょう? 欧米ではどうかな?
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 さて、ここで、一種のさしみのつまといっては失礼ながら、佐藤浩一と比較したいと感じました。どちらがよいとか、悪いという表現ではなくて、対照例として、映画『マジックアワー』の中での、佐藤浩一を思い出したからです。

 そちらは、テレビ放映をされたのを録画しておいて後で見たので、鑑賞環境は悪かったのですが、一種の実写ファンタジーという意味では、共通するものがあるから急に思い起こしたのです。絵空事に、いかに観客を引き込むかといえば、主演の俳優にどれだけの魅力があるか、または、ないかに、すべてがかかっているからです。

 佐藤浩一というヒトは、玉木宏に比べれば経験と、実績と知名度という意味で圧倒的に上の存在でしょう。しかも主役を張ることのできる美形の一人とも考えられているらしいです。最近雑誌『日経エンタメ』か、『ぴあ』の中(?)で誰かが語り合っていたのですが、・・・・・NHK大河ドラマの『龍馬伝』のなかで、岩崎弥太郎役を、香川照之ではなくて、もし、佐藤浩一にやらせたらどうなるかと、言えば、「それでは、主役の福山雅治がかすんでしまう・・・・・という話でした。
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 ここで、スピンオフというか、突然、佐藤浩一の父である三国連太郎の思い出に入ります。55年以上前に、私はハイカラ好みの父に連れられて、よく横浜港の大桟橋に出かけていました。その屋上から、7、8メートル下をふと見下ろすと三国連太郎が、コマーシャル写真(当時は白黒のスチール写真の時代です)を、品種・トレンチコートでやっていました。大人の男性の魅力があるヒトなのだろうと、こどもながらに、薄ぼんやりと感じました。当時の子供にとってのスターとは、中村錦之介の時代ですから、ぐっと違う魅力を振りまいている、三国連太郎をちょっと不思議な思いで見つめたものです。
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 その息子ですから、佐藤浩一は、男優としては、実力のあるひとのはずで、特にこの映画『マジックアワー』の中では好感度の高い人物(主役)演じています。

 それは、エンタメ界の実力者、三谷幸喜が脚本監督をした映画で、映画業界へのオマージュとしてのファンタジーです。アメリカ映画『イヴのすべて』とか、『スター誕生』とおなじく、業界の内巻ものですが、さらにひねってあって、ファンタジーとなっています。その中で、佐藤浩一は売れない二流の俳優を演じています。しかもヒトがよすぎて騙されきっているという設定です。

 観客は嫉妬することなく、感情移入ができるという設定です。

 それは、今回の『のだめカンタービレ』内での、玉木宏の役どころとはまったく違ったものです。玉木宏演じる、指揮者千秋は、エリートの両親を持ち、好みのインテリアは、モダンで、フレンチやイタリアンの料理さえ上手に自分で作ることができます。漫画の原作では飛行機恐怖症という過去があるそうですが、映画内ではそれは出てこず、ありとあらゆる意味で、現代の少女があこがれるであろう役どころです。

 ポスターを見ると、肌はつやつや、つまり、少年時代、にきびなんか出たこともなさそうな肌で、しかもほほがこそげ落ちています。現代の漫画に出てくる美青年を絵で描いた様な面立ちですが、これが、ちょっとはずすと、見ているこちらが側が、お尻がこそばゆくて仕方がなくなるタイプだと思うのです。美形過ぎるから。

 今回の『のだめカンタービレ』の最大の特徴というか成功ポイントは、そこにあったと思います。劇中では、彼に具体的な試練を与えて、それを乗り越えて行く過程が、結構なリアリティを持っていたことが重要です。普通なら鼻持ちなら無いとも思われる役柄に、感情移入することができます。

 佐藤浩一の方は、そこまでの美形扱いをされておらず、お定まりの、欠点を持つ人物造形で使われているので、昔からの流れに乗っている俳優さんです。そして、日本の少年にありがちな、昔はにきびがあったであろうと思われるような肌で、しかも、やや肉付きのよい顔立ちです。言葉を変えれば、造形的には平凡とも言われる日本人です。美形ではないともいえるかな。目は大きいけれど。でもというか、だからこそ、ここまで大物になってきたのは偉いです。特に、父が大物であるのに、ここまで伸してきたのは偉いです。

 父子がともに、大物であるケースは少ないので、偉いです。きっと、舞台裏(業界内反応)も好感度が、高いのでしょう。

 引き比べて、一代目としてこれから、さらに成長を重ねるであろう、玉木宏は、これから、ミュージシャンとしてアジアツアーに行くそうです。所属事務所は、映画『のだめカンタービレ』があたっているうちに大もうけをしようという魂胆なのかな?

 ともかく、こき使われることによって、つぶれないで、伸びていって欲しいです。今回の役柄と同じく、自己主張もある考える大人になっていって欲しいと思います。

 40代や五十代になったときに、『ハゲタカ』の大森南朗役ができるくらいに成長していて欲しいです。冷血成る悪役などもできそうです。

 ここで、無理にでもまとめれば、・・・・・ポスターで表現されているよりも、玉木宏が、実質的かつ内面的に、より魅力な人物として造形されていたことが、この映画の成功を支えている一因だった・・・・・と、私は思いました・・・・・ということです。なお、今回は、たった12時間で更新していますので、下もごらんをいただきたく。

 ところで、小さなお断りですが、本日のブログパーツは、私のアイドルです。しかし、小さな時は彼女の写真など撮らなかったので、写真を撮り始めて、半年たった今でも、カメラに慣れておらず、カメラを向けると、・・・・それが、すぐ傍においてある携帯でも、・・・・ピッと警戒します。この写真でも耳が警戒心をあらわにしています。だから、比較すると、俳優という職業の人たちの豪胆さ(?)には、驚きますね。
               では、2009年1月29日、        雨宮 舜
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おばさん(おとな)の鑑賞に堪える・・・・・『のだめカンタービレ』

2010-01-28 19:03:53 | Weblog
 話が緊迫した政治の問題から離れて申し訳ございませんが、今日は、のだめカンタービレを見てきたので、それについてお話をさせてくださいませ。

 私はそれが、テレビ放映をされた(2006年)ころは、まったく、テレビを見ていなかったし、もちろんのこと、漫画を読む世代でもないので、『のだめカンタービレ』といっても、ちんぷんかんぷんのヒトなのですが、最近、ヒットした映画として、話題になっているので、見てみたいなと思ったのです。
 このブログも12年前にはじめた(メルマガ時代)は、ニューヨークから帰りたてで、自分の話題が独自だという自信もあったのですが、日本在住(???)も、10年を超え(???)、話題が普通(???)の人になったからこそ、アンテナをぴんと張って、大勢のヒトが興味を持っていることには、自分も参加をしてみたいのです。


 特に音が美しいと聞いていて、音楽を映像つきで見ることには、反論がありながら、でも、見てみたいと感じたのです。特に、海外でも公開をする予定だと聞いたので、『恥ずかしい映像だと困るなあ』などと思ったりして・・・・・

 結論をいえば、「恥ずかしいところは無かった」となります。特に音楽の部分で、恥ずかしいところは無かったのが、助かりました。プログラムを見ると、チェコスロバキアで、撮影が始まってから、5日目に、今回の映画(ただし、前篇なので、筋としては途中でぷっつりと切れるのですが)の上のクライマックスを撮ったそうで

 主役の玉木宏という俳優さんの努力(常に、指揮の練習をして望んでいたそうです。その撮影に入る前に、ずいぶんと準備を重ねたそうです)に、負うところが多いのでしょうが、

 エキストラ(ホールを満員にしているチェコの人たち、ドラマ上はパリの人たちという設定)と、オーケストラにも大いに負っているでしょう。びっくりするほど皆さんが、集中していて、ドラマを盛り上げています。音楽ホールの隅々まで、・・・「私はエキストラだから、1000分の一だから、ちょっと手を抜いておきましょうかなあ」などという雰囲気が無いのです。

 演奏を実際に行っているのは、そこの場面では、チェコの、国立ブルノ・フィルハーモニー管弦楽団とか。ピアノ演奏に関して言えば、のだめが弾くトルコ行進曲だけは、らんらんだそうですが、それがプログラム上は、大きさ、ニミリぐらいの活字で印刷をされていますので、それは、私にとっては相変わらずの残念さですが、スター優先主義で、上野樹理があのピアノを弾いているのだと、感じる乙女たちの夢を奪ってはいけないのでしょうね。

 あ、ところで、べッキーは、意外なほど、暗い性格の役ででています。この性格がくらくみえるのは、主役ののだめが特別な、天然ボケ振りのお嬢さんなので、比較してそう見えるだけなのです。脇役をできるようになったべッキーというのにも、驚きました。偉いわね。タレントは自分のポジションを、変えていかなければいけないので、偉いことだと思います。褒めているヒトがいない模様なので、ここで、褒めて差し上げましょう。
 しかもベッキーは、ピアノはほとんど完璧に弾けるそうです。『おお』と驚きました。音は知りませんが、運指だけは、は替え玉ではないそうです。
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 そのベッキーさえ従えてしまう上野樹理=のだめは、格別にずっこけた天然振りがあり、秀才ではないという設定なのは、事前に知っていました。だから、役柄上、ファンがたくさんついているということも。

 が、問題は指揮者役の玉木君です。これがかっこよすぎて見えると、気恥ずかしいと思っていたのですが、気恥ずかしくなかったのですよ。ヨーロッパのきれいな中世風劇場内で、ヨーロッパ人のオーケストラを支配するイケメンという構図は、事前に想像すると、『さぞかし、お尻がこそばゆいであろう』と思っていましたが、それが、さしてそうでもなかったのです。67歳の私が見ても。十分にかっこいいのですが、それが、気恥ずかしいところまでは行っていなかったのが、すごいことです。

 それは原作内にあるのか、今度の脚本家、スタッフが加えたテーストなのかは知りませんが、含まれている音楽への理解度が、深いので、気恥ずかしさを招かないのだと感じます。楽曲への深い理解が、救いに成っていて、絵空事がリアリティを持つのです。

 また、クラシック音楽の世界では、ここに描かれているよりも、もっとどろどろした人間関係があると思いますが、(それは、美術の世界でも同じなのですが)、ぎりぎりのところで、上品にまとめてあります。しかも、奇麗事だけでは終わらせないで、その部分にも触れているのがよかったのです。音楽家とは、超がつくほどエッチなヒトが多いということとか、お互いに嫉妬しあって、悪口を言い合っている事実があると思いますが、そういうのを、上澄みにせよ、すこしだけ、加えているところが、面白さを、深めていると思いました。
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 そして、嬢英語、楽しそうにいろいろ話し合っていた私の後ろの席の二人のご夫人など、80歳なんですって。それでも、二回も見に来ているのです。非常に上品な二人で、「二回見たので、よくわかったわ」と言っておられました。

 確かにテンポは早いです。それに私もそうですが、そのお二人もテレビドラマも見ていないし、原作漫画も読んでいないそうですから、たくさん込められているギャグ(笑わせるポイント)には、ついていけないところもあったでしょう。二回見てよくわかったそうです。でも、80歳のレディに二回も劇場に足を運ばせるのですから、『この映画は、立派なものだ』と感じました。

 ところで、これが、海外公開されるといっても、主にアジアだそうです。日本語が全篇に使われていて(金髪の人間も日本語を話すことと成っている)、そういうところがヨーロッパ人がみたら、それこそ、こそばゆいだろうと思っていたら、絶妙の工夫で、それが、不自然に成らないような、しかけが入れてありました。

 これには驚きましたが、他にも人形の多用とか、アニメの混入とか、いろいろな工夫があって、なんとか、『こそばゆくならないで、音楽を楽しむ』という映画になっています。

 特に普通の音楽映画に見られがちな、ひとつの楽曲の細切れ度が少ないので、それゆえに、筋の進み方が犠牲になっていて、前・後編にわかれたそうですが、それは、お客として不満は持ちませんでした。映画『アマデウス』などでも、楽曲の細切れ度が強くて、いらいらしてしまいそうな、残念な感じがありましたが、今回は、一曲を、長めに演奏してありますので、そこに不満を抱かせないのも、よいことです。

 この原作漫画の出版やテレビドラマ化が、きっかけで、日本でクラシックブームが起きたことへの、責任を、スタッフさんたちは、果たしていると思いました。後編が楽しみと成りました。             2009年1月28日    雨宮 舜
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解雇されたり、お店がつぶされたり・・(炭鉱とは?)-1

2010-01-27 21:23:14 | Weblog
 ずっと外出していました。今帰宅したばかりですが、後ろでクローズアップ現代が、放映されています。本日は内橋克人さんがゲスト出演で、正社員が辞めさせられる社会になった、恐ろしさを放映しています。組合として、組織されている人が、18%で、組合とかには、既にほとんどの人が、助けてもらえません。

 このことですが、あいまいにこうなったのではないのです。すべては、仕組まれて、怒涛のごとく、さまざまな分野で、用意がなされ、準備がなされて、こうなりました。

 たとえば、今、電話帳は、非常に薄くて、各・区だけで、一冊が形成されています。昔はNTTの支社は、門戸解放で、ロビーに全国主要な電話帳が置いてあったものですが、今は支社が、ほとんど無くなったり、ドアを一般向けには閉鎖してあって、だれか、名前だけ知っている人の電話番号を知ることは、普通の人には難しくなっています。

 一方で、鎌倉の豊島屋さん(鳩サブレーで、有名な大きなお菓子屋さん)で、お中元を贈ろうと考えると、電話番号だけで、住所がわかりますといわれます。そういうビジネス用のソフトはあっても、ある人が困っていて、『そうだ、学生時代のお友達に相談しよう。あの人は弁護士になったはずだよね。だけど、最近では、ずっと、生活様式が違ってきてしまって(つまり、私は貧乏だから、付き合い切れない感じで)付き合っていないので、年賀状も交換をしていない。どこに住んでいるのかなあ。たぶん、多摩川園だったって聞いているけれど、詳しい住所を知らないなあ』なんて思ったときに、昔だったら、都内の電話帳を調べれば、すぐ、個人名で、自宅がわかったものです。

 今は、”プライヴァシー尊重、プライヴァシー尊重”で、ビジネスソフトを買うような余裕の無いひとには、助け手を求める手段さえ奪われているのです。

 この、”プライヴァシー尊重、プライヴァシー尊重”のムーブメントは、一見すると大切なことで、正しいことのようです。しかし、この現在のぎすぎすした社会を生んだのも、その用意周到に用意された、日本人をお互いに交流させないで、孤立化させ、反抗をさせないで、働き蟻、もしくは牛や馬のごとく、自分たちとはまったく異なった、下にいる意見の無いものとして、働かせたいと思う宗主国があれば、これこそ、都合のよいことなのです。

 日本人が一人一人が、どんなに、苦しもうとも、宮殿のような豪邸に住み、夏は、リヴィエラか、モナコなどに、大型クルーザーで、遊びに出かける宗主国側の人たちにとっては、どっちでもよいことだからです。

 ここで、宗主国というのは、アメリカを指すわけではありません。ガンジーがいた時代のインドでは、宗主国は、イギリスであり、ベトナムも宗主国がフランスであった時代もありました。しかし、今では、大企業は、本社を、スイスとか、そのほか、さまざまな国へ分散しているので、どこかの国が日本を支配しているとは、目に見えてきません。だから、日本人は自らを独立国であると信じているみたいですが、本当の独立国の人たちはもっと元気です。今では韓国人、中国人の方が日本人より元気です。それは、そちらが、どこからも支配を受けていない独立国だからです。

 そして、アメリカ人もフランス人もたいていのヒトは元気です。日本人よりはるかに元気です。しっかりしていて、自分に対して誇りを持ち、したがって、他人に対して親切であります。
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 ところで、マイクロソフト社のビルゲーツ社長は、大金持ちの典型としてよくニュースに取り上げられます。でも、あの人は新参者で、しかも能力で大金持ちになったので、例として、取り上げても美しいし、どこにも問題が無いから、安全パイとして、取り上げられます。そして、ああいうヒトになれる場合もあるのだから、貧乏なヒトはおまえ自身の責任だと、突き放される、最大の例として使われています。

 でも、問題は、もっと別の形で昔から特権を持っていた大金持ちです。庶民には見えない形で、存在するたくさんの大金持ちが、日本からの還流金(金融資産の目減りや、電気代として取り上げられている)で暮らしている可能性はあるのです。

 その流れをずっと、キープするために、ありとあらゆる、・・・・・私の言葉で言えば、用意、または、策略・・・・・が弄されています。そして、何よりもいけないのは、日本人の心そのものも誘導されていることです。

 そして、それらの工作の、ひとつひとつは、その理由も根源も目に見えて来ません。 たとえば中国ではまだ、炭鉱が生きています。でも、日本では次々と閉山をされました。これが、何を意味するかというと、日本にある資産を一切使わせず、海外からエネルギー源を買えと、命令をされていることと同義語です。そして、日本人はそこからもお金を吸い取られてしまっています。
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 かつ、私が特に、心配している二つの傾向があります。それは、KYという言葉で代表される・・・・・『意見を述べることを<ださい>とか、馬鹿げたことだ』とする風潮です。

 もうひとつは、お金持ちを敬い、貧乏人を馬鹿にする傾向です。それに毒された青少年が、多摩川の河川敷に住んでいる貧しい老人を殺したりします。本当に心凍る文化(?)が広まってしまいました。
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 私は、ある時には、「誰とも付き合っていません」といったり、別の時には、「常時、2000人の人と付き合っている」といいます。どちらも、ある意味で本当です。今、グルメ本を見ていると、スイーツ(お菓子)のバイキングが、大流行です。お昼のランチバイキング(または、ビュッフェランチ)というのも大流行です。それは、50代以上の女性が、友達と出かけているのです。週にニ回以上一緒に、映画を見たり、買い物をしたり、楽しんでいます。専業主婦もいますが、働いている主婦もお小遣いがあるので、小旅行に女同士で出かけたりしています。だけど、私はそういうことはやってはいません。でも、銀座で絵を見ることを中心として、しょっちゅう出かけています。

 その出かけ先で、すばらしい出会いがあるのです。画家だけではありません。

 駅にいれば、ふと、荷物を持って階段を上がってくれる人に出会ったり、ありとあらゆるところで、人の親切に出会います。林住期という言葉があるそうで、仏教の世界ではある年齢を超えたら、すんでいるところとか、財産を捨てて、旅に出て、人と交流することで、修行を果たすという学び方が、あるそうです。私は天才ではないし、宗教家でもないので、家を捨てたりはできません。食べたり生活をしたりしなくては成りません。

 でも、絵の世界での、ポジションをキープしたり、出世することを捨ててしまっていて、そういう意味では、無一文です。そして、日夜、日本とか、日本の普通の人が幸せになることを祈っています。すると、そのことへの天からの、お返しだと推察するのですが、しばしば、ヒトの親切に出会うのです。

 ですから、毎日、毎日、あらたなエネルギーを与えられます。で、そういう一期一会のヒトも入れれば、総勢五千人と付き合っていると豪語できます。

 そして、そういう普通のヒト、無名のヒト、そして、親切なヒトこそ、もっともよき、日本人だと気がつきます。
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 それなのに、まったく違うタイプのヒトにも、出会ったりします。こちらがやむを得ず体がぶつかったりすると、突然怒り出す男性とか。・・・・・そして、テレビのヴァライエティ番組でもしょっちゅう見ますが、ヒトをいじめることで笑いを取る人たち。これが社会全体にどれほどの悪影響を与えているでしょうか? これをストップできるほどの英傑が出てきません。政治家を敬わない風潮があるので、真の英雄が出てこないのです。小沢幹事長など駄目ですよ。自分の身内に対しても、やくざのしごきまがいの圧迫を与えているのは、方々から聞こえてくる、真実です。

 そして、その集大成として、貧しいことや、どこか、平均以下であることを、極端に嫌い、目をそむける風潮が出ています。それらは、その個人の責任であるかのごとく考えて、救いの手を伸べることとか、それを、自分のこととして考える風潮が一切失われつつあります。

 これは、つい、150年前から、60年前の日本人には、無かった傾向だと思います。それが残念です。どうして、そうなったかを今日は述べませんが、・・・・・・
                      2010年1月27日   雨宮 舜
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映画『牛の鈴音』に、癒されて、帰宅をしました。

2010-01-26 12:47:36 | Weblog
 2010-1-25日の夜、韓国映画『牛の鈴音』を見てきました。現在ブログやメルマガで書いている政治的なことと、離れますが、よい仕事をしている人を、いろいろな人へ伝えたいおせっかいな思いもありますので、ちょっと、感想を書かせてくださいませ。

 予想ほど、涙は出ませんでした。新聞(日経も朝日も)の批評はすこぶるよくて、涙が出るのだろうと思っていましたが、それほど、涙は出ませんでした。私が年だからなのでしょう。鈍感に成っているのかな? 若い人なら、泣くかなあ?

 私はある映画評論家の方から、「どんな映画が好きなんですか?」と銀座の画廊内で問い合わせられたときに、「涙がぽろぽろ流れる映画が好きです」と答えたのですが、この『牛の鈴音』では、ぽろぽろとは出ませんでした。
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 だけど、悪い映画かというと、全然そうではなくて、考えさせられる、そして、何よりも癒される映画です。『癒しが大切だ』と言うのが今のトレンドですが、本当に心が癒される映画です。

 私の場合、最近、『命を食べる』という映画も見ていて、(それは劇場公開よりずっと後で、鎌倉の公会堂での自主上映会ででしたが)、肉を食べることの罪深さをとことん、自覚をさせられた後ですから、(間にフランス映画『メスリーヌ』の前・後篇をはさんだかな?)

 こころから癒されてありがたかったことです。『命を食べる』は欧米が舞台で、監督もスイス人(だったと思う)ですが、野菜や果物をはじめ、ほとんどの食料が、効率を追って大規模生産をされている現場を、バックミュージックと、ナレーションなしで、淡々と、披露をしたものです。

 今回の『牛の鈴音』もまったく同じ手法(ナレーションなしで、判音もなし)で作られています。が、お互いの提示するものが圧倒的に違うのです。どちらが、悪いとか、よいとか、言っているのではなく、牛への扱いがまったく違うのです。欧米の映画の方では、鶏、豚、牛が、子供のときから100%管理されて育てられ、食肉になる過程もショッキングなこと限りが無い、処理で、進みます。

 だけど、こちらの『牛の鈴音』内では、現実にはありえないほどの、理想的な形で、牛が扱われます。だけど、ここに登場するご夫婦は実在の人たちで、かつ、老い切った役牛を飼っているのも、本当のことで、監督がそういう素材を探していたら、誰かが見つけて教えてくれたそうです。
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 これから、先は、この情報を得た後にご覧になる方のために、邪魔にならない形で、ニ、三、周辺の事実を、書かせていただきたいと存じます。

 まず、プログラムによると、韓国での公開一ヵ月後に、大統領ご夫妻が、普通の映画館に見にいらっしゃったそうです。すばらしいことですね。私は上野の博物館に天皇ご夫妻がいらっしゃったときに、すさまじい警備がなされていること知ったので、日本では、こういうことが起こりえないのをさびしく思います。韓国国民は幸せです。

 それと、在日(日本)で育ったイ・ミョンバク大統領の民主主義的な、性格を示していて、ちょっと、誇らしいです。日本の戦後のよい時期の雰囲気を身につけていらっしゃって。

 比較して、金正日総書記をお考えください。国民に不自由と貧窮を強いながら、自分だけは特別映写室を持っていて、海外の優良な映画を見放題だそうです。だけど、国内からよい映画は、出てくるはずも無いです。

 私は創作者の片割れとして、『だから、自由が必要だ』と考え抜いていて、『神奈川県知事が率先している禁煙運動の高まりなどは、まったく不必要で、国民を苛め抜く恐怖政治の始まりだ』と考えています。それも、民主党政治に、大きな危惧を抱いているゆえんです。

 ちょっと、油断をすると、日本だって、すぐ、北朝鮮になります。小沢幹事長の横柄と言うにきわまる態度を見ていると、そう感じます。そして、日本、および世界中の、マスコミが、小沢幹事長を、持ち上げきっている姿を見ていると、末・恐ろしいです。

 韓国・国民は、は今のところ、本当に、幸せです。
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 他にも、監督の牛の観察がするどいことにも感心しました。監督は別の機会に、偶然取材した牛の売買市場で、売られた牛が、(肉に成るわけでもなく)、ただ、飼い主が変わっただけで、涙を流したのを見たのが、この映画を撮る動機のひとつだったそうです。だから、この映画の重要な主役は牛です。

 そして、監督の父が、農民として、労働しきって、自分を大学を卒業させて、知識人としてよい仕事をなすまでに、育ててくれたことへの感謝が、この映画制作の動機だそうで、そのコンセプトがすばらしいがゆえに、映画のできもまた、すばらしいのです。

 また、主人公のおじいさんが、数等の牛を同時に飼っていて、それらの牛の性格がそれぞれ違います。それが、対比となって、主役の牛の性格が際立ちます。それにも感心をしました。ドラマが無いドキュメンタリーなのに、ドラマが出来します。

 若い方の子育て中の牛の方が、主役の老牛より、先に夕方の草をもらいます。ミルクを出している最中ですからどうしても、気を使ってもらえます。その間に老牛のほうはつい忘れられたりします。たまたま、口には、ガード用の網がかけられていて、何も食べられません。その網が掛かったままで、口が開かないのに、おなかがすいたから、草の山に挑む、切ないほどの、かわいらしら。・・・・・おばあさんなのにかわいくて賢い牛なのです。

 草ではなくて、おからや、とうもろこし等のえさを与える飼い葉桶は、丸太をくりぬいた昔風のもので、隣の若いお母さん牛と、つながっているひとつのものです。小屋には仕切りがあるのに、若い牛は意地悪して、老牛が食べられないように、隣まで首を伸ばして邪魔します。困っちゃうのにそれをやります。

 こういうあたりの描写は、演技者が牛なので、教えられた演技ではないので、撮影したこと・そのものに、大いに感心しました。監督は偉いです。ともかく、しみじみとした、癒され状態の、一時間でした。

 『ぴあ』などでは、都心・三館上映となっています。私は、シネパトス(銀座)で見ましたが、一応2月5日までの上映が決まっているそうです。が、1月30日(土)からは、午後のみ4回上映だそうです。新宿と渋谷でも、ほとんど、同じ形式で上映を続けるのではないかしら。郊外にも回ればよいのですが、どうなるかなあ?

 もうひとつ感心したのが、タイトルロゴです。原作はハングルですが、日本語の書道は菅原文太さんの字(筆書き)だそうです。農業に興味があるので、頼まれたらしいのですが、すごくよい字です。特に『牛』という部分がすこぶる柔らかくて優しくて、よい感じです。それにも感心しました。では、今日はこれで。
             2009年1月25日に書き、送るのは、26日 雨宮舜

 
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篠山紀信氏、1月25日、書類送検とのこと。

2010-01-25 13:21:58 | Weblog
 私は、最近数年間にわたり、私の文章をタネに、脅迫というか、威嚇を受けていることは何度も気がついてきています。しかも、その大根源は、伊藤玄二郎氏と、井上ひさし氏であることはほとんど、正しいと感じています。

 前報でちらと『立花隆氏も関与しておられるかもしれません』と述べました。しかし、私が文章に取り上げれば取り上げるほど、それが否定される現象も多くおきるのです。

 将来、私の方の文章は消されて、フォローとして、訂正された事実のみ残る可能性はあります。ということは、ライターとしての私を抹殺しようとする試みですね。
 しかし、ということは、私が書いていることが、正しいと言うことをも証明しています。


 というのは、タイミングが問題なのです。
 
 私が、『篠山紀信さんの家宅捜索』について、最初に述べたのは、1月22日、『CIAが、うちへ来る』の中が最初です。特に伊藤玄二郎し、および、井上ひさし氏に絡めて書くと決意して書き始めたのは、その日が最初です。

 それから、2を23日に、タイトル番号だけ間違えて、ダブって2とつけたが、実際には3であるものを送信して、24日に、その続報、これもタイトル番号だけ間違えて、3とつけましたが、実際は4であるもの、を、同じく24日に送りました。

 すると、本日お昼のNHKニュースで、『篠山紀信さん、書類送検』とのことが発表をされました。

 その報道の目的は、警察の威信をかけて、雨宮舜ごときの推理に負けてなるものかと、言うポイントもあるでしょう。それについては、私は、『あら、また、なさったの。不、不、不』という程度で、やり過ごしておきます。

 が、もう一つの狙いは、伊藤玄二郎しと、井上ひさし氏が、軍産共同体の重要なエージェントであることを、隠したいと言うか、否定をしたいという点にあるでしょう。
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 そんなことはとっくに、こちらは想像済みです。

 本日も、馬越陽子の続編を書かなければ成らないなあと考えていたところです。

 そちらはまた、別の日に詳しく書きますが、私が何らかの文章を書いたことで、馬越さんに
大きな日が当たる可能性はあります。否定的な側面を明かしたからこそ、

 補償をしてあげなければいけないと、その軍産共同体の諜報・部門のメンバー、および、その手下として、美術界および、日本の文化界、メディア界で、動いている人間は考えるでしょうから、馬越さんがこれから、世界的、大作家へと伸びていく可能性はあるのです。

 しかし、真実を消すわけには行きません。それは、私を殺害しないと消えない話です。

 そして、そういう小さなことの積み重ねによって、日本が支配を受け、日本人のお金が、年間、すさまじい量で、その軍産共同体側に入って行っていて、日本人が、貧乏になり続ける模様を、できれば、開示したいのです。それが、私の目的です。

 ところで、その『続、馬越陽子篇』を先に書かないで、『小沢VS検察の茶番劇(海外からの流入金を隠すことが目的であった)』を先に書いたのは、やはり、影響力という意味で広範囲のことを、先回ししたわけです。

 馬越さんが、CIAの手先としていじめに来たというよりも、小沢幹事長が、本当はどういう存在であるかを、開示するほうが私にとってはより、大切なことだからです。

 ところで、今日は11時間以内で更新しています。よかったら、下もご覧を頂きたく。                   2009年1月25日   雨宮 舜
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それは、猿芝居、または、できレース(?)・・・・小沢VS検察

2010-01-25 11:01:59 | Weblog
 小沢幹事長が、検察の聴取に応じたので、一応のガス抜きができたという形になり、事情聴取の件はすっかり、鳴りを潜めました。私はいままで、この件について一切を述べなかったのです。ところが、昨日の深夜、突然また、書くべきだと天の声が身中に走りました。
 まったく新しい発想に見舞われ、『何だ、そうだったの? それなら、すべてがうなずける。今まで、それに、何も触れなかったのはよかった。あわてて乗って何かを書いてしまって、小沢幹事長の術中にはまるところだったわ』と思い至ったことです。
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 ここで、私にしては珍しく、まず、最初に結論を言ってしまいましょう。

 ・・・・・あの闘争は、真実を隠す目的で行われた。真実とは、国際的、軍産共同体から流れ込んだ、大量の資金を、マネーロンダリングする必要があって、そのためには、その出所が、国内からであるかのごとく、国民に納得をさせる必要があるために、あれほど、大げさな聴取拒否などで、長い時間引っ張ったのだ・・・・・が、真実でしょう。

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 といっておいて、例のごとく、できるだけ丁寧に、経過を推理していきたいと思います。

 とくに、・・・・・水に落ちた犬を叩くがごとく、『それみたことか? やはり、彼は尊敬すべき人材ではないのだ』と、うそぶくことをしないで、本当によかった・・・・と今では思っています。そんなことをしたら、彼をはじめ、私が今、推定加害者と呼んでいる軍産共同体のストラテジストたちに、呵々大笑されたことでしょう。

 『やはり、女だ。それに、専業主婦だ。わかったようなことをほざきやがって。ぜんぜんわかっていないよ。騙せた。これで、当分大丈夫だ。乾杯。乾杯』と、祝杯を挙げているところだろうと、今の私は、感じています。

 上の乾杯場面は、例の見てきたような嘘をいいのひとつです。だけど、心理的にはあたっているでしょう。

 小沢幹事長の名前をタイトル部分に入れると、ブログの読者が減ります。皆さん本当に嫌っているらしいのですが、しかし、彼はしぶとい、しぶとい人間ですし、昔肩で風を切っている人を指して、よく言われた『親方が、日の丸で、威張っている』のではなくて、親方は、国際的軍産共同体ですから、これ以上の権力者は世界中どこを見回しても見当たらず、したがって、例の睥睨するようなまなざしで、臣下(この場合は日本国民を指す)見つめる態度は変わらない・・・・・と思います。彼は、言葉だけは日本語を使っていますし、その言葉はまるで戦時中の政治家が用いるような古っぽい言葉であり、権威があるかのごとく見えますが、彼、個人で、一人で立ったら、きっと弱い人でしょう。その上、日本人が持つ、サムライ文化または、公家文化の中にあるのブレスおぷりっじを微塵も感じさせない人です。慶応大学出身で、日本大学大学院出身だそうですが、どこに、教養の片鱗があるのだろうと、恐れ入っています。どうして、日本のマスコミと世界のマスコミがあれほど、ちやほやするのかが、わけがわかりませんが、彼こそ、原発燃料の日本への輸出に関して、絶対に裏切らない人間であるとみなされているからこそ、ちやほやされているのです。

 さて、皆様が、どんなに、聞くのも見るのも嫌がっても、さらに、小沢幹事長は論議の的としなければならないし、観察を続けなければ成らないのです。

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 というのも、今回の件で、一番大切なことは、資金が、ドメスティックな(土着的、つまり、日本国内からの)入手先であるかのごとく、国民に示すことが、一番大切なことであったと見るからです。国際的、軍産共同体から彼にお金が流れていることを隠すことが、最重要なことだったからです。これは、私の想像ですが、当たっているでしょう。

 数ヶ月前から、西松建設の名前が挙がっています。
 それから、小沢幹事長の選挙区近辺の業者から、何らかの還流金または、献金があったことは既に外に出ています。

 だけど、この大騒ぎの影に、小沢幹事長の軍資金の中に、海外から流入金がある可能性は、薄れてしまっています。いや、隠されてしまったわけです。
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 だから、この検察対小沢幹事長の大闘争は、ある意味で、できレースであり、猿芝居であったと言うことができるのです。

 いえね。田中角栄さんに、ピーナッツという名前でダンボール五箱の現金が運び込まれました。これは、立花隆氏が、月刊・文芸春秋を舞台として、政治家田中角栄の金権体質を、するどく、問い続けたので、やむをえない措置と一般の日本国民は考えていると思います。

 しかし、私は違っていて、アメリカ側、もしくは、国際的軍産共同体が、日本国の首相が力をつけて、本来の意味で政治家として成長することを恐れて、ここで、抹殺をしたのだと感じています。昔浅沼委員長という方が、日比谷公会堂の壇上で、山口某という少年右翼に指されて亡くなりました。それも、もし、右翼の最トップの大立者が、フリーメーソンだったりしたら、山口少年はいわゆる鉄砲ダマと成ります。山口少年は自殺をしたのかな?
 何も語っていないので真相は不明ですが、ともかく、そのころは、今よりは構造がシンプルではありました。

 国民に対して、真実の影響力のある政治家は、実際に肉体上の命を奪われたのです。だけど、田中角栄氏に対して暗殺者を送り込めば、そのいきさつに対して日本国民が、この日本社会を覆っている構造上の真実に目覚める可能性を、勘案して(そこは、まあまあの程度で頭がよいと、申し上げておきましょう)、別のやり方をとったのでした。

 私はいずれ、立花隆氏の分析も行う予定ですが、ともかく、立花氏本人が自覚をしているか、どうかは別として、精神的な意味、または、心理学的な意味で、田中角栄暗殺は成功し、立花隆氏は大貢献をしました。しかも、表舞台から、ひきずり下ろされただけではなく、実際に後日、角栄さんは、脳梗塞をわずらい、悲惨な最期になりました。その姿をまるで、勝ち誇ったように、ヘリコプターから撮影して、鬼の首でもとったように、大一面で、取り上げた当時のマスコミのいやらしさには、本当に反吐が出る思いです。お手伝い三等を篭絡して、「今、外へ散歩に出ましたよ」という情報等を得て、あのヘリは出動したのでしょう。

 その経過を当時は、田中の弟子であった小沢幹事長は、つぶさに見ています。そのとき、肝を冷やしたと思います。そして、七奉行と言われた人たちは、次々に田中角栄の下を離れ、ちょっとの間光が当たった、田中真紀子さんは今では、小沢幹事長の下に下ったといわれています。ふむ。ふむ。ですね。

 歴史の流れはすごいものです。

 しかし、小渕元首相、渡辺恒三、氏などは、去ったが、それだけの、ことで、別に、国際的軍産共同体の、エージェント化したわけでもなさそうです。しかし、当時首相にはなれない品格だが、もっとも実力があるとみなされていた金丸幹事長(自民党)には、この国際軍産共同体からの、接触はあったと思います。大体の本社が、当時でしたら、アメリカにあったので、アメリカから、植民地支配を受けたことと成りますが、今では、コングロマリットの本社がスイスや、他の国へと移動をしています。

 法人税が安いという、件で、そうなっている模様ですが、一種の植民地支配を行っていながら、それを、目立たせなくするための便法でもあると考えています。

 だから、私が、いくら大声で、「日本は被・植民地支配を受けている、国です」と叫んでも、大マスコミの論調はついてきません。その理由は、まず、国民が理解をしないと見ている可能性はありまし、なにより、記者連中が臆病でもあり、かつ、粒が小さいことを示し、また、上からの締め付けがあることをも示しています。

 結局はアメリカ支配ではなくて、原発燃料を生産している、または、金融関係で世界を支配している、軍産共同体(コングロマリット)が、小沢幹事長をもっとも、かわいい、かつ信頼すべき政治家であると、今のところ、考えていて、彼に対して、あらゆる便宜を図ってあげ、かつ、その支援は、日本だけではなくて、国際的な規模にまで広がっているのです。

 では、なぜ、小沢幹事長を日本のトップにすえてはいけないのかといえば、すべて、お金の問題です。日本人のお金がすい取り上げられ、日本人が不幸せになっていくからなのです。
 しかし、これから、先は長くなるので、ここで、とめておきましょう。
では、                   2009年1月25日   雨宮舜
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篠山紀信さんの家宅捜索ー4(着地点は永井画廊です)

2010-01-24 12:22:59 | Weblog

 今の私だったら、西村さんが、私をユダヤ協会へ招いたことについてもかんぐって、あれこれ深く考え込んだでしょう。しかし、当時(三年前ぐらい)の私はこの招待状を西村さんの子供っぽさゆえに送られたと、単純に考えました。『西村さんは人脈を誇りたいのだ。それによって、私から先生と呼ばれたいのかな?』という風に考えました。

 西村さんは、私の尊敬振りが足りないと考えて、いらついておられたとも感じます。氏は芸大の大学院まで出ていらっしゃる芸術家だから、すべての人にご自分を先生と呼ばせていらっしゃいます。ところが、私はこの先生という呼称が大嫌いなのです。もちろん、本当に教えてもらった相手の方を、先生と呼ぶのはかまいません。好きです。だけど、教えたり教えられたりする間柄でもないのに、便宜上、画家を先生と呼ぶ風習を下品な事として、大嫌いなのです。

 芸術の世界に上下関係を持ち込むことを、『異端である』とか、『下品なことである』と考えています。『西村さんは既に銀座の画廊のオーナーという、人もうらやむ職業についていらっしゃるのだから、それ以上、名誉をお求めになる必要は無い。先生と呼ばせることは、社長と、よく呼ばせる似非紳士と似ている』と、感じて、ただ、一人画廊内で抵抗して、「にしむらさん」と呼び続けていたのです。

 ところで、その西村さんと知り合った最初のころは、10年以上前のことで、私も本作りの苦労やら、このCIAやら、警察に弾圧される苦労を知らないころで、非常に若々しく見えたと思います。それで、西村さんは私の方を年下だと誤解をなさっておられたでしょう。その上、私は無冠の主婦であります。『そんなぺいぺいに、さん付けで呼ばれてたまるか』という思いが、この日本・ユダヤ協会ビル内の展覧会へのご招待へつながったと考えます。

 私はだから、内心でほほえましく思っただけです。そして、『お金持ちと自分は違う存在なのだから、これから、青山の永井画廊に向かうのだけど、タクシーを使わないで歩こう』と思ったのです。

 それが、三年後、思いがけずも、篠山紀信さんの家宅捜索につながってしまうのですから、それこそ、驚きの極地ですが、さらに傍証を固める必要があるので、永井画廊と、その座付き作家・馬越陽子さんについて、述べさせていただきたいと感じます。
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 私は銀座の画廊については、よく知っていると申し上げましたが、青山は、毎週行くわけでもないので、馬腰さんからの招待状で初めて永井画廊へ出かけました。それは今をさかのぼる十年前ぐらいのことです。そのころは女流展に出品していたので、その名簿を使って招待状が来たと感じます。当時の私は、まだ、アーチストとして、天才(?)になろうと思っていたころなので、あれこれ、多数のことを平行してやっていました。

 ので、忙しくて忙しくて、気持ちもあわただしくて、芳名帖に記載をする際、ペン皿から赤鉛筆を落としてしまったのです。動作も気持ちにつれてあわただしかったのです。『あれ、何かの音がしたわね』とは思ったものの、後ろさえ振り返らず、馬腰先生の

・・・・・(ごめんなさい。読者の皆様、公募団体展は上下関係があるので、上の人は先生と呼ぶ習慣があります。西村さんの呼称ついてあれこれ分析しながら、馬越陽子さんについては、習慣上、馬越さんとは呼べないのです。女流展をやめた今までも、まあ、そうですね。この二つのケースの矛盾については、どうか、看過してくださいませ)・・・・・作品を見続けていました。

 すると、オーナーがすぐ出てきて赤鉛筆を拾ったのです。びっくりしました。丁寧な人だなあと思って。それを、感想として別の女流画家に述べると、「あら、あの人は何でも鑑定団に出てくる有名な人なのよ。川崎さんって、永井さんに鉛筆を拾わせるなんて、すごいわね」と驚かれました。

 今日の文章はここまでのところ、少し、CIAの問題から離れて、哲学的な要素へ入っています。つまり、人と人が交際する際、相手との距離とか、上下関係をどうとるかという問題です。私はつねに、誰に対しても対等に接しています。それを、生意気だと誤解する人は多いのです。だけど、人間、生まれてから死ぬまで、結局は裸なのですよ。そして、裸の人間として、誰に対しても臆せず威張らず、対等に接しておくことが最高の、防衛策でもあると、私は信じているのです。

 もっとも、自由を保持できる手法です。そして、誰かから、責め立てられても、「ああ、私は、平等主義なのです」と謝罪しておけば済むことなのです。そして、他人への、いじめに入らない、もっとも有効な手法でもあります。
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 さて、このユダヤ協会へ、お招きを受けた日には、既に、永井画廊は、銀座へ移転をしていたのでした。だから、大きな苦労(高速道路に間を隔てられてしまったので、無駄な道をたどる結果になり、ニ、三時間も歩いてしまった)をしたのに、出発点はともかくとして、到着展は、無駄になったのでした。あほみたい。

 銀座へ行くのなら、同じ時間で、20ぐらいの画廊を経巡ることができるのに、半日かけて一つの展覧会しか見られなかったわけです。それで、転んでもタダでは起きないことにしている私は、そんな愚痴ではなくて、美しいエッセイをひとつものそうと、覚悟して、例の原文としての、『青山霊園傍の幽霊屋敷』を、その日のうちに書いたのでした。疲れていても、自分に鞭打って、書いたのです。それを、他の題材が頭に浮かばなかった、2009年10月26日に書き直して、グーブログへ載せたわけでした。

 さて、永井画廊さんというのは、大金持ちだと思います。今では銀座の歌舞伎座の近所のビルのオーナーです。青山の骨董街でも、永井さんや北原さんが、テレビに出ることで、実は、他のお店の人たちに、嫌われていると感じるほど、テレビに出ることは大金持ちになることへつながる模様です。こつこつと、普通にお商売をしている人たちよりは、マスコミを利用した方がお金が儲かるのでしょう。

 で、永井さんご自身は、本当はひどく謙虚な方なのだけれど、CIAに利用されることはあるわけです。いや、永井さんご自身が自覚をしていらっしゃるかどうかは別として、どなたか大切な人に頼まれたという形で、お動きになる可能性はあります。CIAって言ったって、幻の存在ではありません。ちゃんと誰か、人間を介して活動をしてくるのです。

 で、永井さんが頼んだのか、どうかはわかりませんが、馬腰陽子さんが、計ったようなタイミングで、ギャラリー手という京橋(当時の場所)の画廊に出現して、私と会話を交わしたのでした。

 それは、2009年度中のことでしたが、内容はこうです。・・・・・馬腰さんが、近々、銀座の三越で個展をされ、その作品群は北京での個展のものと、同じものもある・・・・・そして、北京で個展をした日本人は馬越さんが最初の人であると、言うこと。
・・・・・
 馬腰陽子さんは、号が、10万円もするお高い値段で作品が売れる大・作家です。だから女流展などに出品する130号の大きさですと一枚が1300万円になる作家です。

 私はそのことに関する驚きを、過去に文章として表しています。そして、さすが平等主義の私でさえ、馬腰さんを目の前にすると、つい、身を引いてしまうところがあると、文学的(?、ふ、ふ、ふ、?)に表現しています。しかも二回ぐらい書いています。
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 今、私に文章を書かせなくさせようとしている、CIAもしくは警察は、私の文章から攻撃用のヒントを得ます。『馬腰さんには勝てないよ。特に売値の面では絶対に。将来にわたっても』と、考えている私に、さらに追い討ちをかける手段として、馬腰さんが目の前に現れたと感じました。ギャラリー手の近辺に停まっている車の中で、馬越さんはタイミングを計っていたとも感じました。我が家が盗聴をされています。外出すれば当然のごとく室内の音はきえます。それに最近、急に銀座の画廊ビル内のエレベーターに監視カメラが設置されるようになりました。だから、私が銀座のどの辺りを歩いているかは、容易に監視できるのです。

 馬越さんは北京の個展で疲れていて、この任務を内心で嫌がっていました。彼女が言ったわけではないのですが、私はそう感じました。でも、私にそれを、察知されたらだめだから、ギャラリー手のオーナー杉山さんにも丁寧に、「初めて訪れた画廊だけど、きれいですね」などと、社交辞令を呈しておられました。

 私は今までは書きませんでしたが、あまりにたくさん、このような攻撃にさらされたので、直感的に、それが、わなであることを察します。そして、因果関係や、背後関係もすぐ察します。で、馬腰さんに直接言うほど、豪胆でもないので、ただ、自分のほうだけを、防衛用に作り直します。すぐその場で、自分を作り直します。

 普通だったら、上下関係のある馬腰さんにそれほど、威張られたら、面罵されたも同然のショックを受けると思うのですが、心構えをしてしまうと別にどうっていうこともありません。ただ、ただ、淡々とすべてを聞いてあげて、『気の毒だなあ。こんなことに動員をされて、誰に頼まれたのだろうか? その人が北京の個展も采配をした同じ人でしょうね。でも、最近、記事が出た、月刊ギャラリーの編集長さんか、美術の窓の編集長さんサイドから頼まれたのかもしれない。または、永井画廊さんからかな?』 などと、考えながら、少し、私より背の低い馬越さんを、丁寧に『かわいいところもある人だ』などとも思いながら、見つめていたのでした。

 馬腰さんが、画業上の成果を誇れば誇るほど、それが、無い私がかわりに持っているものを認識しました。そして、『自分は自分だ』と、はっきりと感じるのみだったのです。『負けた』なんて微塵も感じませんでした。

 つまり、これは、雑誌『美術の窓』の巻頭インタビューで公開をされていますから、美術の関係者はよく知っている話ですが、馬腰さんのご主人は自殺をなさったのです。つまり、同じ業界の人同士ですと、一種のライバル関係にもなるわけですし、また、主婦が仕事、特に創作の仕事をする場合、家庭は気の休まる場所ではなくなるというのは、今回も週刊現代の瀬戸内寂聴さんと、塩野七生さんの対話でも出てきましたが、真実なのです。

 どんなに、『平気よ』と納得をなさっておられるとしても、私は馬腰さんの態度から、やはり、弱々しいものを感じました。自分の生涯やら、人生について、絶対の納得は、まだ、されていないことが察知されてしまったのです。攻撃されきっている私のほうが、ずっと強いとかんじました。私の生きる尺度、そのものさしは、その時には愛に変わっていたからなのです。その時点での、私には、人生の成功も名誉もそれほど、問題ではありませんでした。

 仕事上の成功はもう問題ではなかったのです。一緒に生活している主人との、共同、つまり、心を通わせることが大切なのでした。それは、今回命を狙われるかどうかの瀬戸際で、いやな役目ながら急に帰宅して傍に居てくれただけでも証明をされています。お互いなのです。思いやりは一方通行でもありません。自分がどれほど、主人をいたわっているかは書きませんが、お互いさまなのです。

 その変化の理由やいきさつは、五冊目の本に長々と書いてありますが、痛い痛い病気をして、それを、主人が救ってくれたころ以来、絵を描くのをやめているのにも現れています。

 もし、私が、馬腰陽子さんとの最初の出会いを文章に書いたころと、同じ心持で生きていたら、この計画は相手方の思うつぼとなって、大きなダメージを私に与えたでしょう。だけど、私はまったく変わった違う心境にすでになっていたのです。だから、むしろ、馬腰さんを痛々しくも、見つめました。『この方は、このやり方で、これからの月日を進んでいって、将来、何も後悔をなさらないのだろうか?』と思って。

 さて、これ以上は、この篠山紀信さんの家宅捜索と言う点についても述べません。また、『CIAがうちへ来る』と同じで、「肩透かしを食らったな」とおっしゃる方があるかしら?

 これ以上の説明はしても、しなくても、同じだと感じます。私と同じ立場に置かれた人で無いとご理解いただけないことはいっぱいあります。

 ただ、私は、三回前に申したルートとは別に、警察→(鎌倉に会社のある)伊藤玄二郎氏、→、(同じ鎌倉に在住の)十文字美信氏、→ (カメラマンとして同業の)篠山紀信氏というルートで、篠山紀信氏に『何も心配はありません。これは、こうこう、こういうわけで、何も実害はありませんから』という事前の説明が入っていたとも考えます。

 そのルートが実際にはどうであったかは、例の見てきたような嘘をいいの類のひとつです。だけど、この家宅捜索が、青山霊園というキーワードを用いて、私の文章の力をそぐ目的で行われたという解釈は、ほぼ、あたっているでしょう。他の事からの類推でそう感じます。                   では、2010年1月24日   雨宮舜

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篠山紀信氏の家宅捜索ー3(ユダヤ協会から始まって)

2010-01-23 23:28:29 | Weblog

 篠山紀信氏の家宅捜索は大変大きなニュースとして配信をされたので、心配して、ブログ他で意見を述べている人もありました。私は、実は、<自分が意見を述べることを求められている>と、感じましたが、それこそ、一種の挑発であると感じ、何かをそのときに書けば、まずいこととなる可能性もあったので、一切、それについて、意見を述べませんでした。 

 前報で述べたとおり、よい芸術の創作やら、発表のためには、自由が必要です。青山霊園でヌード撮影をしたからと言って、家宅捜索までするとは、芸術家の創作の自由を奪うことですから、反対したいところでした。が、何らかのおかしな気配を感じたからこそ、一切、当時は、意見を述べなかったのです。

 今、ここで、書くのは篠山紀信氏が最近何かの褒章をお受けになった模様で、私の推察どおり、あの家宅捜索は、ためにするものであった・・・・・と確信するので、安心して書くのです。


 というのもその十日ぐらい前に、私は『青山霊園傍の幽霊屋敷群』という、文章を書いていました。このブログでも、2009年の10月26日に載せております。左側のカレンダーの、10月26日のところを、クリックしていただければ出てきますが、

 ここに、いわゆるピンというものも表記をしておきましょう。これを、グーグルなどの検索窓に入れれば、当該の文章が出てきます。

http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/23fe5b7bd11ac930b57a9a2e458ca8da/19

 ところで、その文章には何も問題がありません。私は今まで、書いた文章に関して、それを正面切って攻撃されたことは一回も無いのです。小沢幹事長からだって、伊藤玄二郎氏からだって、井上ひさし氏からだって、瀬木慎一氏からだって、十文字美信氏からだって、誰からも反論を受けたり攻撃されたことはありません。文章に書いてあることはすべて、事実なので、それに、反対すると、そちら側も大やけどをなさる可能性が高いからでしょう。それに常に、単純な悪口には終わらないような書き方をしています。丁寧に丁寧に、かつ、文学的なおとしどころを踏まえるように、気をつけて書いています。
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 ここで、挿入ですが、この間の『CIAがうちへ来る』の連作を、『肩透かしを食ったみたいだった』というご批判を下さった方に申し上げたいのですが、「殺人が起こらなくてよかったじゃあないですか? 一緒に喜んでくださいよ」と。

 私は娯楽作品を書いているわけではありません。一種の遺書のつもりで、いつも真剣になって書いているのです。でもね、真剣に成ればなるほど、そこはかとは無いユーモアが生まれるようで、それが、救いでもありますね。

 また、書くことに対して一切の報酬をもらっておりません。ブログで稼ぐ方法もあるみたいです。が、それを申し込もうとすると、できないのです。トラックバックもできません。ツィッターにも、申し込めません。こういう形ででも、書くことやら、発表をすることを弾圧されています。それに抗して書くわけですから、エンタメとして、書いているつもりは無いのです。そんな苦労をしながらでも、書いて発表をする理由と目的は、自分が経験していることから類推して、日本が高度に洗練された様式で支配をされている被・植民地であるという大構造が、わかってしまったので、それを、他の人にも伝えたいからです。

 この日本やら、日本人が損をしていることを、人々に正しく気づいていただきたいと、感じているからこそ、必死に成って書いているのです。が、それでも、気がついたことの、30%ぐらいしか、書いておりません。知っていること、全部を書いてはいないで、60%は抑えているのです。
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 さて、元に戻りましょう。文章を責め立てられた(または、攻め立てられた)ことは無いのですが、
 人間・そのものに対して陰口をきかれたことはあります。それが、間接的に文章を、けなすことと同義語になるのでしょう。「あの人はノイローゼだ」というのが、繰り返し流される悪い噂で、それによって、私の本や文章を読まなくなるという形で、私の文章の力をそぐということは、繰り返し行われています。

 で、その顕著な例だと思われるのですが、『青山霊園』が、キーワードの第三位として、私のブログの案内が、検索窓に三ヶ月の間、ずっと、使われてきました。これが、篠山紀信さんの家宅捜索が、私のブログの勢いをそぐことが目的で行われたと、推察するゆえんのひとつです。本日、2010年1月23日も午後三時まではそれが、検索キーワードとして使われておりました。

 私はほぼ、毎日、更新していますので、グーブログを始めて、すでに、500本は書いていると思います。

 だから、著者の私としては、新しいテーマとか、タイトルを検索窓に入れて欲しいと思いますが、ずっと、変わらず、青山霊園の項目が、検索窓に現れるという形になっています。

 つまり、狙いは、『青山霊園』というキーワードで、読者が身を引いてしまうことにあるのです。私のこの長い文章を好んで読んでくださるような読者は、当然のこと文化人です。インテリのはずです。だから、直感的に、篠山紀信氏の家宅捜索を気の毒に思っていらっしゃるでしょう。それを、思い出させるわけですから、読者が新しく入ってくることに対する妨害になるわけです。

 その検索用導入タイトルを見ただけで、『うわ、あの例の篠山紀信さんが気の毒な目にあった場所と同じ言葉だ。そんなブログは読みたくないよ』とお思いになる人は多いと感じます。そして、私はそういう優しい人が読んでくださるのを、特に望んでいます。

 だから、結果として読者が減るのなら、それは、植民地支配をしている側の得策となります。または、入ってくるはずの読者が入ってこないのなら、私が損をしたことと成るわけです。それを狙っていると感じます。

 私の方は『それで、どうしたの?』と別に気にもしていません。だけど、他にも思い当たる点があります。それは最初の原文を書いて、昔から持っているAOLのメルマガに載せた日は、広尾の日本・ユダヤ協会へ行った日だったことなのです。だから、私のパソコンをハッキングして居る手合いが、CIAか、その配下として動く警察だったら、ちょっと目に留まる日だったわけです。

 たまたまご招待を受けたのです。

 そこのお部屋を使って、グループ展があったのです。本当のことを言うと、私には、銀座に行くしか時間が取れないのです。でもね。日本・ユダヤ協会と言う場所については大いに興味がありました。『国際的軍産共同体の、トップは、200家族の大財閥と、その姻戚関係で、占められている』とは、広瀬隆氏の『赤い楯』(講談社刊)で読んだ話ですが、・・・フリーメーソンと重なって、・・・ユダヤ人財閥の力とは恐るべきものだ・・・と私は、常日頃考えています。その牙城を見ることができるわけです。これは、好奇心を満足させるという意味では最上のチャンスでした。

 この招待状を下さった西村さんも、銀座の大画廊のオーナーですが、私は一時期、『そのビルそのものの持ち主ではないのかしら?』と思ったほどの、お金持ちみたいな方です。画廊の経営は実はとても大変です。それで、ビルのオーナーであったりすると、大丈夫なのですね。それから、日動画廊とか、文春画廊みたいに、バックに大会社がついているところも大丈夫でしょうが、他のところは、皆さん苦労をなさっておられるし、必死で経営なさっておられるはずです。いや、この場合、西村さんの着ているお洋服が上等だったからそう考えた、というわけではないのですよ。付き合いを他の画廊となさらないところが、プライドの高さを示していて、お金持ちだろうと推察をさせるゆえんなのです。

 私は銀座の画廊で、絵のこと以外のおしゃべりをしません。だから、何も知らないように見えるでしょう。が、既に、30年を超える期間、へめぐっているのです。とことんわかっています。どの画廊がどういう画廊とグループを作って協力をなさっているとか、そうではないとか、いろいろわかっています。それゆえ、誰とも組まないというのは、相当自信があることを示しています。

 で、お金持ちだから、日本・ユダヤ協会と縁があるのだと感じました。し、こういう機会ででも無いと、そのビルそのものにも入ることができないだろうとも思って、出かけたのです。確かにそうでした。そのビルは鍵が掛かる形だったのです。招待状が無ければ入れない形でした。ニューヨークなどはすべて延びるがその形式ですが、日本では珍しい形式のビルです。

 私は書くものとして、読者サービスは、やはりすべきだと考えても居るのです。だから、珍しいことには興味があります。未知のことに対しては、知りたがり屋さんです。で、出かけました。結果としての感想を述べれば、日本・ユダヤ協会のビルは、さして、豪勢でも贅沢でもなかったです。は、は、は。ただし、広尾にある。そこがすごいですね。東洋英和のすぐ近くの、高級住宅街の中にはありました。

 いや、西村さんが、CIAのエージェントだなんて、言っているわけではありません。西村さんは、さして大げさな苦労や被害を私に与えた方ではないのです。だから、私が憎んだりしている相手ではありません。だけど、そこから始まったとして、あの例の青山霊園傍を通った日の、お散歩は、、次の目的地も問題でした。やはり大金持ちのお宅だったのです。ただ、今日は、これが長くなりますので、ここで、いったん切りましょう。

 小さなお断りですが、たった8時間で更新していますので、よかったら、篠山紀信氏の家宅捜索-1が下にありますので、それもごらんをいただきたく。                                  2009年1月23日    雨宮 舜

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篠山紀信氏の家宅捜索の2・・・・・(草間やよいのケースと比較して)」

2010-01-23 15:33:45 | Weblog

 私は、1999年ニューヨークの大学院として研究対象に草間弥生を選びました。その時点では彼女は世界では、三回目の再ブレイクの機運があり、ニューヨークではしかるべき存在(画壇の上層部)にはちやほやされていましたが、若いアーチストの中にはまだ、広くは認めてもらえない時期でした。あれから、10年過ぎアメリカでも日本でも(庶民の間でも)彼女は最大級の大物アーチストとしての処遇を受けております。

 10年前とは、つい、先だってのことのようですが、当時、日本では、もっとひどくて、有名美大の教授でさえ、「あんなの・・・・(大したこと無いよ)・・・・・ゲテモノだよ」とお切り捨てになられたものです。ヌードで路上パフォーマンスをしようとして、警察とぶつかったからでしょう。道路でヌードの活動をするということは、警察はともかく、美術界においても、戦前生まれの最上層部の紳士どもにも、受け入れられなかったのが1960年代の日本でした。

 しかも草間やよいの方では、その時期に、素直に日本の警察に、抗議行動をしたので、かえって、日本で生活しにくくなって、アメリカへもう一回帰ることと成ります。その結果は災いを転じて福とナスになり、新しい日再評価の波が起こりそれに彼女は、乗ることとなります。

 彼女の人生を振り返ってみると、戦後すぐ相当早い時期に第一波の大成功がおこり、その後では、フリーセックスを称揚するオージー運動を起こし、その運動内で週刊誌を出したりして、で財政的にすっからかんになってしまって、日本へ帰国したのです。上にあげた警察との、トラブルは、その一回目の凱旋帰国後でしたが、日本における発表に関する不自由さに驚いて、再度アメリカにわたったのです。ニ後目の貧乏状態として・・・・・しかし、力があるので、再ブレイクが起こり、今では世界中のどんな人でも知っているアーチストのひとりとなり、かつ、日本人でもよく知るアーチストのひとりとなりました。
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 警察にとがめられたら、抗議をするのは、草間やよいで無くても欧米で、暮らしたり発表をしたことのある人間だったら、当たり前のことです。しかし、篠山紀信氏は何も抗議をしませんでした。その理由について、前報の最後のほうに、井上ひさし氏からの連絡で「何も心配が要らない」と、事前に聞いていたと・・・私は・・・例の見てきたような嘘を言っているわけですが・・・・・それが、間違っていたとここでは仮定して、正攻法で、正論の方から考え直してみましょう。
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 篠山紀信氏の今回の家宅捜索の理由は、青山霊園で、ヌード撮影をしたことによるとのことです。

 まあ、霊園でヌードを撮る・・・・・ということが、問題かもしれません。

 が、思い起こせば、同じような問題で、1999年に、アメリカ人はまったく異なる反応を示しました。当時、ブルックリン美術館で、イギリスのメディア関係の大物サーチ(発音上サッチ氏とも聞こえる紳士)氏が支援をして『センセーション展』というダミアン・ハーストを中心とする大展覧会を開いたのです。グループ展ですが、11人がそれぞれ、大きな部屋をひとつもらったのです。その中にマリア像を、黒人女性の肌で制作をしたものがあって、大論議を巻き起こしたのでした。

 ニューヨークのジュリアーニ市長が、ブルックリン美術館は市の公営であるから、カソリックを侮辱する、このような作品を、展示するのは好ましくないと、いちゃもんをつけて、展示をやめさせようとしたのです。最近日本で、市などの公有地に立っている神社が政教分離に反するのだとか、なんとか、という小さな問題で判決が出ましたが、このケースでは、ジュリアーニ市長は、明晰にカソリックの肩を持ったわけです。
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 ここで、ちょっと脇にそれますが、ジュリアーニ氏というのは、力量のある人でニューヨークを抜群なレベルで美しい街へと変化させ(掃除を、すさまじい勢いでやった。それが一種の公共投資となって、アフリカンの人々の生活をよくしたために、結果として治安が回復した)将来は大統領へなる可能性すらあったのです。

 しかし、好事魔多しの典型で、これらのトラブルからか、ガンを患い、かつ、そのときにサポートをしてくれた、看護婦さんと、並々ならぬ仲になって、離婚をしてしまいました。カソリック擁護なのに、離婚をしたりすると、主義主張の中の、統一感を失いますね。それもあってか、他の事が問題なのかはわかりませんが、ともかくのこととして、ジュリアーニ氏はアメリカ政界で、大物となって、上昇することができず、いまだに大統領になれずにいます。
 そして、歴史は皮肉にも、1999年は劣ったものであるから、黒い肌のマリア像は受け入れられないはずだと考えたアメリカで、オバマ大統領が出現をしたのです。歴史はそういう風に動きます。有能な人でも、歴史の流れに、大局観で合致していないと、成功できません。
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 さて、元に戻りましょう。ニューヨークでは、政治的な行動を、アート、およびアーチストが定義することが多くて、タイムズスクエアーを、車を規制して、(いや、結果としてそうなるのかもしれないが、)ヌーディストが数千人道路に寝そべって、平和祈願をしたりすることがあるのです。いずれにしろ、路上を使う仕組みは日本より自由なはずです。

 現代アート特に、コンセプチュアルアート(概念芸術)というのは、まず、論議を起こすべき(CONTOVERTIAL)で無ければならないので、過激であり、人を驚かす目的が無ければなりません。

 ところが、日本はあらゆることに規制があり、道路を使うなど、めちゃくちゃに不自由なはずです。マラソンやら、駅伝がかろうじて、許可されていて、警察のサポートも大々的に受けられますが、それ以外は駄目です。じゃあ、青山霊園はどういうポジションに在るか?

 そこで、ヌードを撮影したことの意味は何か?

 さあ、これから、この件の私固有の論に入りますが、今日は長くなるので、申し訳ありませんが、ここで、続くとさせてくださいませ。何も論理がまとまっておりませんが、しかし、ヌードを屋外で、撮影することの意味の、日本と欧米での違いは、申し述べておく必要があるのです。正論から言ってもね。 では、2010年1月23日    雨宮 舜

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CIAが、うちに来る7(皆様のご批判に応えて)

2010-01-22 16:56:43 | Weblog

 ありがたいことにある方から、「CIAがお宅へ来たそうですが、いったい何が目的だったのですか? そこまで書いてくださいよ。大根の葉っぱと油揚げの煮びたしだけ、食べて帰ったのでは、納得ができない」というご意見をいただきました。

 さて、どこから、それに応えることができるだろうと、迷いつつもできるだけ、丁寧にその批判に対する、私側の気持ちを述べてみましょう。

 相手の狙いですが、本当なら、命をとることにあったと思います。別に彼一人が現れるわけでもなく、ピストルを持参する人が回りにしょっちゅううろうろするわけでもないのですが、『命を狙われている』と、感じることはあります。特に、間接的に狙われて、ノイローゼにさせて・・・・・その結果として、ものを書けなくしてやろうという企図は何十回も過去に出会いました。

 しかし、事前に察知して、冷静になるように勤めているので、実際にはノイローゼになることはありません。ただし、睡眠薬が欲しいなあと思うときはあります。いつも、緊張して物事を考えていますからね。時々、内科等にもらいに行きます。その際、クリニックが把握されていて、監視カメラが急に設置されたり、横須賀線が、その内科へ向かう方向へは、急に『動きませんよ』と、成ったりします。医者へ行くことすら把握をされて、脅迫のタネとなっています。人権無視もはなはだしいです。

 その原因としては、種々さまざま書いていますね。(1)政治分析と。

(2)ご近所のめちゃくちゃ、わがままな主婦たちからの被害(猫だけではありません)と、その背後にいる、石川和子氏の元愛人といわれる伊藤玄二郎氏の、『やっつけてやりたい』という個人的な意思の反映とか、

(3)以前横須賀時代に、私に対して、とんでもない程度の、被害を与えた、元、海軍参謀益山某氏の、・・・・・親友である・・・・・元陸軍参謀である瀬島隆三氏の、「復讐してやりたい」という意思が、重複して関与している可能性はあります。


 そのCIAの活動に気がついたのは、マイクロソフト、およびAOLが大関与していることに気がついたのも大きいです。両方ともアメリカの会社です。

 文章を書くときに、自宅では、保存もできずプリントアウトもできないときがあり、外の貸しパソコンを使おうとしても使えないときがあって、このCIA支配の仕組みに気がつきました。

 どういうことかというと、本を一冊編集する場合には、100回以上見直しをするのですが、本文の最初の言葉とか、数章は、その100回中ずっと変わらないわけで、ファイル名が、そういう名前でついていると、敵方は容易に、検索できるわけです。書き手の私がどれほど、ファイル名を変えても、マイクロソフト社がつけたファイル名が永久に変わらないからです。これは、Windows MEまでは、利用者の方にも見える形でしたが、XP以来は利用者の方は見えない形になりました。しかし、世界中において、CIAが追跡をしたいと考えているしかるべき存在は、常に、あらゆることを追跡されていると、私は既に考えております。こと日本だけに限らず、フランスでもドイツでも同じでしょう。

 その現象に最初に気がついた場所は、横浜東口にある大きなネットカフェポパイの内部です。時は、2007年の12月27日のことでした。それ以前から、うすうす気がついていましたが、このときにいたって、私の書くものは、すべて、CIAが世界中、どこで書いても把握できるのだと、観念いたしました。

 ひどく怒りましたよ。そのときに、書いていたものは、別に政治的なものでも何でもなくて、もちろんのこと、CIA分析でもありません。
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 今回、「長らく引っ張ってきた割にはつまらなかったよ」と、
 コメントを下さった方には、個人的なご返事として、「CIAまたは、それと連動している警察から与えられている被害については、文章として、時が来たり、天がお許しくださればそれを、描く」と、応えています。

 既に、メモとして膨大なものが書いてあるので、それを、読者に読みやすく書き直すのは技術的には、簡単ですが、それが、起こす後日の波紋が厄介で、それゆえに、天が『今、好機だ』と、おっしゃって、文脈のすべてが、目の前にさっと明らかになる日以外は、書かないことと決めています。

 今回の一連の外人の来訪についても、彼はもちろん、射殺しに来たのです。もし、私が途中で気がついて、ノートパソコンに、ここ(ブログやメルマガで、この数日)に、展開したのとは別のメモを書き落とさなければ、実行をしたと思いますよ。私が騙されたままであると信じて、一人で待っている、この鎌倉の家の中で、ずどんと発砲をして、逃げ去ったでしょう。手がかりは何も無いのです。顔写真も無ければ、名前も知らず、しかもメルアド(最後に残してくれたが、?????)も知らなければ、宿泊先も知りません。

 もちろん、海外における彼の本宅さえわからないのです。いろいろな迷宮入り事件があるけれど、ああいうのと同じ扱いになって、『きっと、強盗が居直ったのだろう。彼女はよく泥棒に入られるといっていたから、それを予防しなかったのが悪かったのね』と、世間の皆様は思って、それで終わりだと感じます。

 私は『生きることは結構つらいことでもあるから、ここで、バーンと撃たれて一巻の終わりとなって、自分で手を下さない形で、急死するのも悪くないかなあ』とも思いました。いったんはね。だけど、ちゃんと想像をたくましくすると、血で、部屋が汚れちゃうんです。冬の日の落ちるのは早いです。電気が、まだ、ついていない部屋のスイッチを入れた途端にそれを、発見する主人の思いを想像すると、とても、簡単にそんな、わなには乗れませんよね。

 実際に、私の友人で、帰宅したとたんに、死亡しているご主人を発見した方があるのです。その後の人生、とても弱弱しい形で進行し、結局若くして彼女の方も、亡くなりました。だから、夫婦で暮らしている場合、連れ合いの死亡はごく普通の場合でもショックなのに、変死だったら、どれほど、ショックなのか、私には推察できるのです。そういうことも勘案しながら生きていかなければなりません。

 その上、事件のあった土地なんて、売れません。家を壊して、更地にしても売れませんね。となると、この家が数千万円で処分できると考えて老後生活もプランを立てているのだから、そういう側面からも、私がズドンと、一発あてらるのは避けなければならないのです。で、事前に私は最高の準備をしたわけです。私のパソコンが、どのパソコンもすべて、ハッキングの対象になっているという事実を、踏まえると、単に一文を書くだけでも、それが、十分に予防策となることを、どうか、ご理解くださいませ。

 文章がどぎつくなるのをおそれて、あまりきちんと書きませんでしたが、私はハッキングを逆手にとって、暗殺であると察知していますよと、明言したからこそ、相手は、ピストルを撃たないで、和気藹々の会話を交わしただけで帰ると、言う戦法に変更したのです。

 で、その変更を、十分に推察できたからこそ、私は、のんびりとと、自家製スィートポテトも出したわけです。彼がそれに手をつけないので、同時に、きれいな器にいれた、大根の葉っぱの煮びたしも出したわけです。そちらの方は、急遽の思い付きです。驚いたことに、彼は器用に箸を使って、それを食べて帰りました。

 それだけで、終わって、何の負担もなさそうな、軽い話に見えるからこそ、公開するための文章として、書き直しました。

 私はよくくどいと言われますが、決してくどくありません。そこらあたりの微妙さをあえて、触れないで、さらっと簡単に通しています。それが、また、毎日、無事に生き延びている、秘訣でもあります。

 ところで、こんなに、苦労をしているのに、外部の方が、ちっとも、苦労をわかってくださらないようなので、あえて、自分から言えば、今回の文章の文学的な価値といえば、

 ナンバー5に存在するのです。以前、受けたいうにいわれない屈辱が、思いがけない形で少しですが、癒される体験を書けたことでしょう。因縁のカタがついた・・・・・つまり、二人の警官が、滅相も無い、形で、脅かしに来た、その件を、ここで、さらっと公開できたことでしょう。その時の失礼極まりない、他人の「あそこの家はきっと、家庭内別居だから、ベージュ色のドアを、叩いてください」と、頼んだ讒言を、再び思い出させる形での、今回の外人の訪問だったから、その古い玄関での、いきさつを書き抜くことに意義がありました。

 そして、私の命を救ってくれた主人の存在のありがたさを、つくづく感じたのです。そして、それを表明しておくことができました。すべては遺言なのですといつも行っていますが、遺言であるからこそ、普段は照れて、いえない部分をここで、発表をしておくことも大切です。『夫婦喧嘩は犬も食わない』というし、『亭主の好きな赤烏帽子』で、妻が、夫に感謝する文章など、どなたも、お読みにはなりたくないと思います。

 だけど、暗殺をされるかもしれないぎりぎりのところで助かったのは、夫婦という単位で生きているからでした。一人暮らしではなかったからです。そして、頼んだときに、まったく面倒くさいことながら、こ一時間をかけて、診療所から帰ってくれた主人があればこその私の生存でもあったのです。感謝しても感謝しきれないぐらい感謝しています。

 大根の葉っぱだけ、食べて帰ってくれたことには、あの外人にも、本当に感謝しています。また、それだからこそ、この一連の文章、1~7までを公開したのです。本当に緊迫している接点とか、苦しいことは書きません。
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 ただし、井上ひさし氏、および、伊藤玄二郎氏を、CIAのエージェントであると明記している部分は、後日、その傍証を書かなければ成らないでしょう。ただし、それは、本、6冊分を超える長さになる、可能性すらあります。説得力ある形で、描くためには、微にいり細にいる必要があるので、それは、本当に難しいことです。
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 ただし、篠山紀信氏のアトリエ・家宅捜索の問題ですが、あれなんかでも、上の二人が絡んでいる可能性は大いにあります。だから、篠山紀信氏は、何も抗議活動をしないのです。事前に「これは、こうこう・こういうことが目的で行われるので、実害はありません」と、伝えられているはずだから、動かないのです。

 その伝達者ですが、警察・幹部→(間に伊藤玄二郎氏が入っている可能性はあるが)→井上ひさし氏→宮沢りえまたは、りえママ→篠山紀信氏と成っているでしょう。その理由については、今は述べませんが、この見てきたような嘘を言いの類は、多分本当の話です。

 しかも、カメラアサヒは、1月号で、篠山紀信氏を取り上げました。ここらあたりも傍証となっています。本当に問題があるのなら、ご本人も謹慎するでしょうし、雑誌は差し替え記事を使うはずです。私の方の記憶力は定かですから、また、将来詳細を書ける日も来るでしょう。お待ちください。

 ところで、本日は、またもや、すばやく、更新しました。下に、「香川照之の岩崎弥太郎が汚すぎるという声が、三菱の賀詞交換会で出た」という話が載っています。それもどうか、よろしく。   2010年1月22日    雨宮舜

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弥太郎像(NHK大河)に、三菱から文句が出た(?)

2010-01-22 13:43:00 | Weblog
 今日は軽い話題と行きましょう。今期のNHK大河ドラマ『龍馬伝』に、岩崎弥太郎が出てきますが、その衣装とメイクの汚さが、大三菱の賀詞交換会で、危惧と怨嗟の声を、呼び覚ましたそうです。『あれほど、汚かったはずがない』・・・・・とのこと。もとダネは週刊朝日で、それをnifty が配信しました。

 結論を言えば、「大丈夫ですよ。大・三菱の関係者様」・・・・・といいたいです。

 演じているのが香川照之です。彼が、最後まで、自分の演じる役の人物を、つまらない人物として表現するはずが無いです。

 あの番組の総出演者の中でももっとも、うまい俳優さんでしょう。だけど、主役を張る顔ではない・・・・・ごめんなさい。そこまでいって・・・・・でも、馬鹿にしているわけではなくて、私も主役をはれる顔ではないから、実に、注目をしてかつ肩入れをしている俳優さんです。美人過ぎる(?)女優・浜木綿子さんのお子様なのにーーーーと、いうほど、父上の方の遺伝が濃く出ていて、丸顔の日本人らしいタイプです。父上は歌舞伎役者だから隈取等で、どんな顔にも作り上げられるけれど、息子さんの方は、現代の役者さんとしてそれほどの、激しいメイキャップができません。

 でも、それにしては、今回の弥太郎像は、激しいつくりのメイキャップでした。NHK側が命令したというよりも、彼本人の発案もあると感じます。特に、汚い歯が用いられているので、イメージが悪いのです。現在の所、三回ほど、重要な役どころで出演していますが、私の予想では、来週から当分、お休みです。が、ここまでのところ、三菱の関係者が慨嘆したというのもわからないではないです。

 でも、それを乗り越えて、芝居のすごさを見てあげて欲しいです。十分以上に、岩崎弥太郎の、動機(モチヴェーション)が、視聴者側に頷ける効果をあげています。

 ところで、私は、以前、『渋谷の居酒屋で』という文章を書きました。後で、ブログの過去記事を調べて、こちらでアップしていないようでしたら、こちらでもあげましょう。お待ちくださいませ。そこに、この大河ドラマに取り組む前・・・・つまり、国民的認知度を獲得する前の、香川照之について書いた文章があります。

なお、今日のブログパーツですが季節外れなのをお許しください。これは、鎌倉駅北側の線路際の空き地で、そこのご近所の方が、たくさんの種類のお花を育てていて、そこで夏に、勢いよく咲いたカンナを携帯で撮影したものです。 では、2009年1月22日 雨宮舜
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