BSジャパンで土曜日に、午後7時からゴッホに解する新解釈をもたらす番組が放映されました。『小林利英』という方の新解釈に基づいた、再現的歴史ドラマですが、現地の撮影が美しく、かつ再現ドラマのロケ場所も相当選んであり、見ごたえがありました。
ゴッホ役は、選び抜いた役者でしたが、ゴ-ギゃン役は、もし、ゴーギャンファンが見たら、納得できない役者だったかもしれません。ゴーギャンは、ゴッホに比べれば常識のある人ですから、もっと、重々しい感じの役者を選んだほうがよかったでしょう。
しかし、全体によくできていて、二つの新解釈が提示され、結論としていえば、ゴッホはやはり聖人であったと、なります。
『ゴッホの手紙(日本語訳』という厚手の立派な本を40年以上前に、東大図書館で見つけて感動した私は、自分の本作りの情熱の根源がそこにあると、四冊目の本で告白しているくらいなのです。
その本を読む限り、ゴッホは、聖人の一人です。純粋無垢な人間のひとりです。
しかし、さまざまな新解釈と研究が行われ、そのひとつが、私が、この23日に公開した『ゴッホも意外と人間くさかった』という解釈で、それは、現在、ゴッホの子孫が運営しているもっとも大型の美術館の、全面協力を得て制作をされた、NHKで、何回か放映されたものに基づいています。
それに真っ向から反対する解釈が、こと、耳そぎ事件で現れました。
これは、ゴーギャンが、葛藤の上でけんかになり、彼がフェンシングの剣で(それが上手だったそうで、アルルにもそれを持ってきていたそうです)でゴッホの耳たぶに傷をつけたというアイデアです。
私はのちほど展開された、もうひとつの<自殺に関する>新説については、小林利英氏の研究からきているということは、はっきり覚えているのですが、こちら耳たぶの方は、はっきりとは覚えておりません。でも、どうも、これも小林氏の研究成果らしいという記憶があります。
~~~~~~~~~~~~
ゴッホは、後世の人には聖人ですが、往時の身近な人にとっては、なかなか、一緒に暮らすのが厄介な人でもあったと、思えます。
それゆえに、この喧嘩について、ゴーギャンは謝るつもりはなく、ただ、すぐアルルを去っています。そして、ゴッホは、詳細を誰にも語らず、ただ、自分が包帯を巻いている姿を絵に表しています。
今回の新解釈では、ゴッホが、ゴーギャンに、自ら語るのを促したが、ゴーギャンが何も語らなかったので、ゴッホも、「僕も何も語らない」と決心をしたと、何らかの資料からうかがい知ることができるし、
ゴーギャンの絶筆の、最背景部分に、ゴッホのひまわりとそっくりなひまわりが描かれていて、その真ん中に目玉も一つ描かれているので、それがゴーギャンからの告白であるとの説も、傍証として挙げてあります。
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結果として言えることは、・・・・・下世話な表現とはなりますが、・・・・・ゴッホが聖人となるわけです。だって、他者の罪を許し、ひたすらかばったわけですからね。
私がこの説に賛成するか、否定するかですが、70%は賛成します。というのもその後のゴーギャンの生活ぶり、には、もし、その根底に絶望があったとすれば頷けるからです。そして、子孫がほとんど名乗りを上げないこと・・・・・などが、この説を肯定すると、納得ができることと成ります。
五人も子供がいたのです。子供たちが父を尊敬すれば、後日、自分たちはゴーギャンの子孫であると名乗りを上げてもよいはずです。だが、一切出てきません。今までは、タヒチに逃避をしたので、それを、嫌がっていたと考えていましたが、ゴーギャンのほうから、縁を切るように、わざとしたのだと考えると、それも、納得ができます。子供たちを愛するがゆえに、縁を切ったと成ります。
ゴーギャン自身、深く傷ついたのです。心が傷ついたのです。言うに言われない傷を負ったから、タヒチにまで逃避してしまった・・・・・と推定ができます。
外科的な傷はゴッホのほうにもたらされました。ゴッホはそれを、許すという高邁な行動をとったことによって、さらに上の段階に達して、すばらしい意欲を持て、パリよりも北にあるオーヴェール(?)で70枚の有名な作品を次から次へと創作します。
だから、この説が正しいように思えます。もし、自傷行為に走ったのならそこからの精神的な回復には時間がかかったはずです。
ただし、この新説を聞いて、私はゴーギャンを軽蔑をし始めはしません。かえってゴーギャンに同情をし始めました。今までは本能的にゴーギャンの絵を嫌っていましたが、それは、どこかで、『ゴーギャンには、何らかの、秘密が在るであろう』と推察していたものだと思われます。
でも、このように、明らかにされてしまうと、『そんな秘密を抱えながらも、ゴーギャンは絵描きとしてがんばったのだから、それもまた、偉いことだ』と感じ、かえって尊敬を新たにしました。
~~~~~~~~~~~
この後で、もうひとつの驚くべき新説<自殺に関する部分>が続きます。それこそ、小林利英氏の解釈によるのだそうですが、あっと驚く新解釈です。それは、明日語らせてくださいませ。2009年10月25日 雨宮 舜(川崎千恵子)
ゴッホ役は、選び抜いた役者でしたが、ゴ-ギゃン役は、もし、ゴーギャンファンが見たら、納得できない役者だったかもしれません。ゴーギャンは、ゴッホに比べれば常識のある人ですから、もっと、重々しい感じの役者を選んだほうがよかったでしょう。
しかし、全体によくできていて、二つの新解釈が提示され、結論としていえば、ゴッホはやはり聖人であったと、なります。
『ゴッホの手紙(日本語訳』という厚手の立派な本を40年以上前に、東大図書館で見つけて感動した私は、自分の本作りの情熱の根源がそこにあると、四冊目の本で告白しているくらいなのです。
その本を読む限り、ゴッホは、聖人の一人です。純粋無垢な人間のひとりです。
しかし、さまざまな新解釈と研究が行われ、そのひとつが、私が、この23日に公開した『ゴッホも意外と人間くさかった』という解釈で、それは、現在、ゴッホの子孫が運営しているもっとも大型の美術館の、全面協力を得て制作をされた、NHKで、何回か放映されたものに基づいています。
それに真っ向から反対する解釈が、こと、耳そぎ事件で現れました。
これは、ゴーギャンが、葛藤の上でけんかになり、彼がフェンシングの剣で(それが上手だったそうで、アルルにもそれを持ってきていたそうです)でゴッホの耳たぶに傷をつけたというアイデアです。
私はのちほど展開された、もうひとつの<自殺に関する>新説については、小林利英氏の研究からきているということは、はっきり覚えているのですが、こちら耳たぶの方は、はっきりとは覚えておりません。でも、どうも、これも小林氏の研究成果らしいという記憶があります。
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ゴッホは、後世の人には聖人ですが、往時の身近な人にとっては、なかなか、一緒に暮らすのが厄介な人でもあったと、思えます。
それゆえに、この喧嘩について、ゴーギャンは謝るつもりはなく、ただ、すぐアルルを去っています。そして、ゴッホは、詳細を誰にも語らず、ただ、自分が包帯を巻いている姿を絵に表しています。
今回の新解釈では、ゴッホが、ゴーギャンに、自ら語るのを促したが、ゴーギャンが何も語らなかったので、ゴッホも、「僕も何も語らない」と決心をしたと、何らかの資料からうかがい知ることができるし、
ゴーギャンの絶筆の、最背景部分に、ゴッホのひまわりとそっくりなひまわりが描かれていて、その真ん中に目玉も一つ描かれているので、それがゴーギャンからの告白であるとの説も、傍証として挙げてあります。
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結果として言えることは、・・・・・下世話な表現とはなりますが、・・・・・ゴッホが聖人となるわけです。だって、他者の罪を許し、ひたすらかばったわけですからね。
私がこの説に賛成するか、否定するかですが、70%は賛成します。というのもその後のゴーギャンの生活ぶり、には、もし、その根底に絶望があったとすれば頷けるからです。そして、子孫がほとんど名乗りを上げないこと・・・・・などが、この説を肯定すると、納得ができることと成ります。
五人も子供がいたのです。子供たちが父を尊敬すれば、後日、自分たちはゴーギャンの子孫であると名乗りを上げてもよいはずです。だが、一切出てきません。今までは、タヒチに逃避をしたので、それを、嫌がっていたと考えていましたが、ゴーギャンのほうから、縁を切るように、わざとしたのだと考えると、それも、納得ができます。子供たちを愛するがゆえに、縁を切ったと成ります。
ゴーギャン自身、深く傷ついたのです。心が傷ついたのです。言うに言われない傷を負ったから、タヒチにまで逃避してしまった・・・・・と推定ができます。
外科的な傷はゴッホのほうにもたらされました。ゴッホはそれを、許すという高邁な行動をとったことによって、さらに上の段階に達して、すばらしい意欲を持て、パリよりも北にあるオーヴェール(?)で70枚の有名な作品を次から次へと創作します。
だから、この説が正しいように思えます。もし、自傷行為に走ったのならそこからの精神的な回復には時間がかかったはずです。
ただし、この新説を聞いて、私はゴーギャンを軽蔑をし始めはしません。かえってゴーギャンに同情をし始めました。今までは本能的にゴーギャンの絵を嫌っていましたが、それは、どこかで、『ゴーギャンには、何らかの、秘密が在るであろう』と推察していたものだと思われます。
でも、このように、明らかにされてしまうと、『そんな秘密を抱えながらも、ゴーギャンは絵描きとしてがんばったのだから、それもまた、偉いことだ』と感じ、かえって尊敬を新たにしました。
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この後で、もうひとつの驚くべき新説<自殺に関する部分>が続きます。それこそ、小林利英氏の解釈によるのだそうですが、あっと驚く新解釈です。それは、明日語らせてくださいませ。2009年10月25日 雨宮 舜(川崎千恵子)
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