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Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「シャザム!~神々の怒り~」

2023年04月02日 10時43分06秒 | 映画(2023)
DCは単品勝負でいいのでは?


「意外とおもしろいじゃない」。本作を観てまず思ったのがこの感想である。

最近どうもアメコミヒーローものが、期待し過ぎるせいもあるかもしれないが、物足りなく感じることが多く、DCに至ってはこれまで良かった作品があったか?と思い出すのにひと苦労なくらい良いイメージがない。

だから本作も時間が合わなければスルーでもいいかなと思ったのだが、結果としては観て正解だった。かなりおもしろかった。

何故だろうと考えてみる。

前作「シャザム!」のとき中学生だった主人公のビリーたちは、高校から大学に差し掛かる年代となった。

よって今回は前作以上に青年期ならではの問題が彼らに差し迫る。それは、里子の制度の問題でいつまでも里親の扶養の下で暮らすわけにはいかないという切実な話であったり、一方では、異性のことや趣味のことなど、ヒーローごっこ以上に楽しくて興味がわくものが出てきてしまっているという話であったり。

一応6人のヒーローのリーダーという位置づけにあるビリーは、そもそも自分がヒーローの資質があるかに疑念を持っていることもあり苦悩する。そんな中で地球の(フィラデルフィアの?)危機はすぐそこにまで迫ってきていた。

私は前作の記事で「MCUでいえばスパイダーマンの立ち位置に近いかもしれない」と書いている。わが国の映画興行で、初めて明確に受け入れられたアメコミヒーロー映画は「スパイダーマン」だと思っているが、その魅力は主人公が等身大であることにある。ビリーたちが今回さらにピーターパーカーの年代に近付いて、親近感が増しているのは確かだ。

次は軽さだ。「アイアンマン」「アントマン」「ガーディアンズオブギャラクシー」といった辺りの、特に初期の作品は、主人公たちの底辺に軽妙な要素があって、そんな彼らがヒーローになって苦難を乗り越える爽快さがあった。ビリーたちも基本は明るい高校生であり、本作にも敵と対峙する場面で迂闊な失敗をして笑わせるシーンが登場する。

意外にも、この両方の要素を持ったシリーズはDCの中には思いつかない。「見た目は大人 頭脳は子供」という逆名探偵コナンの設定の独自さもさることながら、上の2つの要素を持っているからこそ個人的におもしろく感じるのだろうということを自覚した。

そこで最近のヒーロー映画が何故楽しめないのかという問題に戻ると、これはヒーローものの宿命なのかもしれない。漫画でも連載が長くなるにつれて、どんどん強い敵を出さざるを得なくなるインフレが生じるのと同様で、シリーズを続けるために話が大きくなり深刻になるとともに、親近感や軽妙さが失われていくということかと。

とするとこのシリーズも、DCの近況を見ていると次があるのか怪しいが、続けるかぎりは何らかの設定ですべてをリセットしないかぎりは同じ運命を辿るのかもしれない。

改めて書いておくが、今回は主人公たちの年代や立ち位置、ヴィランキャラクターの規模感(3人めのアンの設定も良かった)など、非常にバランスが取れていて良かったと思う。

(85点)
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「生きる LIVING」

2023年04月02日 09時35分06秒 | 映画(2023)
自分に折り合いをつける最期の時間。


毎度のことながら不勉強のため、名作と誉れ高い黒澤明監督の「生きる」は未見である。

それでも主演の志村喬が雪の中でブランコに乗っているシーンは知っている。静かなのに、静かだからこそ人の心に強く残る日本映画史上屈指の名場面と言えるだろう。

そんな名作を、日本人の血を持つノーベル賞作家であるカズオイシグロの脚本でリメイクしたのが本作である。

舞台は1950年代の英国。主人公は役場の市民課で課長を務めるウィリアムズ。

役場の仕事というのが全世界共通なのかは分からないが、常に忙しそうにしているものの、市民の陳情に対しては「所管が違う」とたらい回しにするか、「支障がないから預かっておく」と机上の資料の山に乗せるだけという日常が続く。

ある日、ウィリアムズは医者から末期がんにより余命がせいぜい半年であることを宣告される。そこで彼は気づく。自分は一体どういう人間になりたかったのか。そしてその思いは叶えられているのか。

自分らしく生きることなく死にたくはない。しかし、長年の役場仕事がしみついてしまっていて、どうすればいいのか分からない。彼は無断欠勤をし、知らない町で会った男性や市民課の若い女性職員・マーガレットと話して、残された人生でやるべきことを見つけ出す。

人は生まれたときから、死へのカウントダウンが始まっている。時間が限られていることが分かっているのにそれを大切にしないのは、カウントダウンの時計に明確な時間が示されていないからである。

四六時中死の影に怯えて暮らすわけにはいかない。ただ、年齢がかさんでくると人生のまとめ方を考えるようになるのは必然で、だからこそ最近は終活やエンディングノートなんていうものが流行るのである。

ウィリアムズが人生の最後に取り組んだ仕事は、いい話であるが理想論、絵空事に近いといった感想を持つかもしれない。ただ本作の肝はそこではない。

それが分かるのが、遺された市民課の同僚が「課長の遺志を継いでこれからは責任感を持って仕事をしよう」といった数か月後にはすっかり元のお役所に戻っている場面である。意外なことにそれは決して否定的に描かれていない。

そしてウィリアムズ自身も若い職員に遺した遺書の中で、「自分は特にえらいことをしたわけではない。ただ今後生き方で迷うようなことがあったときに、あの公園を見て思い出してほしい」と語っている。生きることについて人はどうあるべきなのかが重要であり、公園整備はたまたまあった一つの道具に過ぎないのである。

現代は1950年代以上に息苦しい世の中で、誰もが他人の目を気にして生きている。ただ、他人にとって自分は、会わなくなれば忘れられるような小さな存在である。最期に向き合うのは自分であり、いかに納得して人生を終えられるのかが重要なのだということを改めて噛みしめる。

(80点)
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「オットーという男」

2023年03月21日 19時02分21秒 | 映画(2023)
当たりも外れも、ご近所ガチャ。


かつて2年連続でアカデミーの主演男優賞を獲得した名優・T.ハンクス

しかし、今年はそれぞれ別の作品でゴールデンラズベリー賞の主演男優と助演男優の両部門にノミネートされてしまう(助演男優賞は獲得)など、必ずしもその名声にふさわしい活躍ができているとは言い難い状況にある。

本作は2015年のスウェーデン映画のリメイクであり、T.ハンクスは製作者として名前を連ねている。

ハリウッドによる外国作品のリメイクといえば、かつてはジャパニーズホラーでも行われていたが、最近は「コーダ あいのうた」など感動モノの焼き直しが結構目に付く。

丁寧に見比べたことがないので適当だが、ハリウッドリメイクは画が垢抜ける一方で、設定や脚本が万人受けするよう修正されるという印象がある。

万人受けというところがミソで、平たく言えば「当たり障りのない」、悪く言えば「つまらない」「心に残らない」ということになりがちで、結論を言えば本作はまさに「良い話だけど・・・」な作品になっている。

早くに妻を失った初老の男性・オットーは、日々近所をパトロールしてはゴミ出しや車の駐車に文句をつけて近所の住人らとトラブルを起こす毎日を送っていた。

何も好きこのんでトラブルを起こしているわけではない。妻の存在なくして生きることに希望が見出せないオットーは、ついに自殺を試みる。しかしそんな時にヒスパニック系の家族が向かいに引っ越してきて、彼の運命に変化が訪れる。

展開のカギを握るのは、このヒスパニック一家の母であるマリソルである。彼女は、普通であれば一見で煙たく感じてしまいそうなオットーに対して、臆することなく、言い換えればずかずかと入り込んでいき、助けを求めたりお礼の品をあげたり、クラシカルなご近所付き合いをする。

はじめは彼女の攻勢を疎ましく思っていたオットーも、食べてみたごはんが美味しかったり、話をしてみればおもしろかったりという経験を経て、知らず知らずのうちに心を開いていくようになる。

便利になったはずなのに生きにくい現代。誰の力も借りずに物事の解決策にたどり着く手段ができた一方で、他者との関係が疎遠になり心の逃げ場がなくなっている。

良き隣人に巡り合えれば幸せなんだろうけど、困ったひとに関わってしまったらと思うと、いまのご時世、なかなか他人に踏み込んでいくのは難しいというのが正直なところ。

だからこそこの映画は「良い話」なのだが、一方で同時に抱く感想は「・・・」であった。

なんだろうと思い返すと、その原因は引き込まれることを躊躇させる脚本にあるのではと感じた。

3つ例を挙げよう。

まずはオットーと亡き妻との出会い。駅のホームで女性が本を落としたのを見かけて拾って届ける。なんか・・・昭和の中期というか、実際に画にすると更に違和感が際立つ場面である。

次に、マリソルが子供を作らなかったのかを直接オットーに問う場面。ずかずか入り込むにも常識の範囲があると思うのだが・・・。

そして、住んでいる区画を乗っ取ろうとする業者に対し、SNSのリポーターを使って悪事を白日の下に晒すことで追い払う場面。・・・そんな簡単にうまくいくか?

最後にめでたしめでたしとなれば、途中は雑・・・とは言わないまでも細かく作る必要はない、と見ているように感じられて、どうにも心を動かされなかったのである。

ひょっとすると、その辺りが上述のラジー賞ノミネートに結びついているのではないかと感じたのである。杞憂ならばいいけど。

マリソルの子供たちがかわいかったので加点。

(70点)
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「フェイブルマンズ」

2023年03月12日 10時16分43秒 | 映画(2023)
映画少年の青春。


舞台は1950年代。主人公のサミーは両親に連れられて行った映画館で「地上最大のショウ」を観て衝撃を受け、映画の世界にのめり込む。

人は様々で興味を持つものもまったく違う。同じ遺伝子を持っていたとしても親子が同じものにハマるとは限らない。だから親は、子供の隠れた可能性を引き出そうといろいろな体験をさせるのだ。

しかし関心を持ったとしても、よほどのことがない限りそれが生業に直結することはない。サミーの両親は映画に興味を持ったことを素直に喜ぶが、その一方で父は「趣味」はほどほどにするよう諭す。

子供にとっていちばんの人生の師は両親である。エンジニアとしての自信と誇りをもって、アリゾナ、カリフォルニアと転職を繰り返し、上昇志向を実践していく父に対し、母も密かに自分の思いを抱えていた。サミーは撮影した家族映画の編集のときにその思いに気づいてしまう。それは、当時高校生だった彼にとっては衝撃のできごとであった。

好きなことは楽しい。そんな個人の純粋な気持ちだったものが、家族や友人との関係が広く絡んでくることによって変化していく。それは映画に限らず男女の関係だって同じこと。誰もが人生で必ず突き当たる壁であり、そこで一定の妥協をもって割り切るのか、欲望を優先して突き進むのかの選択を迫られるのだ。

もちろんそこに100%の正解はない。どちらの選択を取ろうが一定の後悔が残る。特に自分の思いを優先して突き進んだ場合は、他者、特に自分に近い人たちに対して迷惑をかけてしまう。

進路に迷っていたサミーが、あるきっかけで名匠J.フォード監督と面会する機会を得る。映画を志していることを聞いたフォード監督はこう言う。「なぜ映画の世界に行きたいと思うのか。心がズタズタにされる商売だぞ」。中盤で登場した叔父も、芸術を生業にすることについて同じようなことを言っていた。

外の人は言う。好きなことを仕事にできて楽しいだろうね、うらやましい。しかし実際は決してそんなことはなく、むしろ好きという純粋な気持ちが汚され壊されていく非常にストレスフルな生き方なのかもしれないと思った。

ただ本当に好きな人はそれでも、いかに自分が傷つこうとも進んでいくのだろう。面会を終えて事務所から出てきたサミーの足取りはことのほか軽く、それは青春の通行儀礼を終えて晴れ晴れとした心の内を現したかのようであり印象的であった。

時代背景として印象に強かったのは人種問題である。白人と非白人、男性と女性の問題がクローズアップされることが多いが、ユダヤへの迫害が特にカリフォルニアのような大都市圏で露骨だったということを改めて知った。アリゾナでは誰とも仲良くできて、映画撮影では友人たちを率いていたサミーが一気にヒエラルキーの最下層に位置付けられてしまったのには驚いた。

S.スピルバーグ監督の自伝的作品と言われている本作。今だからこそ、当時の状況や気持ちを冷静に俯瞰して整理できたということなのだろう。生き方は違えど、70代を過ぎてそれなりに良い人生だったと言えるようになっていたいと思った。

(85点)
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「エブリシングエブリウェアオールアットワンス」

2023年03月11日 09時38分12秒 | 映画(2023)
家族は宇宙であり、すべてである。


週明けに発表される本年のアカデミー賞において、作品賞を含む数々の部門の戴冠にもっとも近い距離にあると言われているのが本作。賞レース常連のS.スピルバーグ監督作品等を差し置いての評判というのだからすごい。

しかし、事前に入ってくる情報のかぎり本作はアカデミーというよりは娯楽作品。しかもかなり変わった作りのようで、作品の内容もさることながら、いかにしてここまでの存在になったのかに俄然興味が湧いてきた。

主人公は、おそらく米国であろう、特に特徴のない街の一角でコインランドリーを営む中華系の女性・エヴリン。気は優しいが頼りない夫・ウェイモンドと、難しい年ごろに差し掛かった娘・ジョイ、そして年老いて体の自由が利かなくなっている実父・ゴンゴンと暮らしている。

家庭を顧みる余裕がないほど営業成績は綱渡りで、その日も税の申告の協議のため国税庁へ向かったエヴリン。建物に入り乗ったエレベータの中で突如異変が訪れる。

簡単にいうと、もはやMCUではお馴染みとなったマルチバース。ただ、この映画でのマルチバースは、ある人物が過去に対面した選択の、選ばなかった方の選択肢から伸びた人生という定義になっている。

ウェイモンドからのプロポーズを受けていなかったらという選択肢がいちばん大きいが、他にも生きている中でこのことをしていたら超一流になれていたかもしれないという「もしも」がいろいろ出てくる。

その中のある世界にいるエヴリンが天才的な頭脳を持っており、これらのマルチバースを行き来する術を編み出し、同じ世界にいたウェイモンドが、コインランドリーのエヴリンに助けを求めてきたというのがあらすじである。

これだけでもかなり荒唐無稽で、頭の中が複層的に整理されていないと飲み込むのも難しいのだが、その中でも巧いなと感じたのは、数多くいるエヴリンの中でなぜ特段の能力を持たないコインランドリーの彼女が救いの存在とされたのかであった。

助けを求めてきたウェイモンドが言う。「君は誰よりも多くの失敗をしてきた。だから強いんだ」。正確ではないと思うが大体こんなニュアンスである。

成功する者ははじめから天才なわけではない。多大な努力とちょっとした運不運が決めると言って過言ではない。ただそれも、その道を進もうとする選択をしないかぎりは、可能性はゼロである。

このマルチバースの世界では、失敗、つまり挑戦の数が多いほど成功した別の自分が存在するわけで、何度失敗しても諦めないことが尊く、コインランドリーのエヴリンがそれだけ強いということにつながるのである。

という作品のメッセージ的なものに関し、ここまでは褒め言葉であるが、実際はそれをはるかに上回るほどストーリーや映像がぶっ飛んでいて、作品の評価は極めて難しい。時々置いてけぼりにされるし、お下劣で寒いギャグ(っぽい場面)もふんだんに出てくるし、やはり「なぜこの作品がアカデミー最有力なんだ?」という疑問は全編を通してついて回る。

まあ結論としては、作品の勢いが猛烈であるとしか言いようがない。娯楽作であろうが芸術作品であろうが「なぜこの作品が?」は毎年出てくる疑問に違いなく、答えもまた同様である。

ただ、もともと賞レースは狙っていなかったのかもしれないが、非白人系を中心キャストに起用し、主要人物の重要な設定にLGBTQを絡めているところで、ツボをぬかりなく押さえているということは付け加えておきたい。

それにしてもK.ホイ・クァン、長らく俳優業はしていなかったというけど、いい感じに年齢を重ねました。これから活躍の場が増えそう。

(75点)
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「逆転のトライアングル」

2023年02月25日 14時44分19秒 | 映画(2023)
上を下への大騒ぎ。


昨年のカンヌ映画祭パルムドール受賞作品である。

「逆転」という言葉は邦題のアレンジ。様々なヒエラルキーの下で暮らす人物の立ち位置がちょっとしたことでひっくり返る様子を、強烈な毒を盛って描いている。

物語は3部構成となっている。導入ともなる「カールとヤヤ」で描かれるのは、都会で流行の最先端を行くモデル業界である。

カールは駆け出しの男性モデル。端正な顔立ちと鍛えられた肉体を持つが、オーディションの審査員からは辛口の評価を受ける。何かが足りないのだ。

一方のヤヤは既にランウェイを闊歩する売れっ子。そんな二人は恋人関係にあるのだが、収入もステイタスも明らかに上にいるヤヤがレストランの会計を払おうとしなかったことにカールが苦言を呈したことから、もやもやバトルが始まる。

偶然ではあるが、最近ネット界隈でも「デート代は男性がおごるべき」というテーマが賑わいを見せている。議論を見ていると、おごるおごらないそれぞれ言い分があるのだが、間違いなく言えるのは、価値観が合わない場合はどちらか、あるいは双方が歩み寄りを見せないとクラッシュするしかないということである。

カールとヤヤに関してはヤヤが下りてきた。それは経済的な余裕もさることながら、彼女はカールのことが好きでたまらないという様子がうかがえる。ステイタスが上のヤヤが実はカールに振り回されている?この微妙な上下関係は後半にもつながってくる。

第2部は「ヨット」。SNSのインフルエンサーでもあるヤヤは、その影響力を期待されて豪華クルーズ船の旅に招待された(もちろんカール同伴)。クルーズ船の乗客といえば、それは全世界共通で金持ちの年寄りと相場は決まっている。

限られた空間には、乗客のほかに彼らをもてなす乗船クルー、表に姿も見せない機械工などのブルーワーカーたちが同居していた。

悪気のあるなしによらず経済的な優位性をひけらかしてしまうセレブ老人たちと、ビジネスに徹していつかはのし上がろうという意思を胸に秘めるクルーたち。その関係は木曜日のキャプテンズディナーの席で崩壊した。

おもしろいのは、この「キャプテン」が実はまったく機能していないという点である。クルーの中にも上下関係はあるのだが、キャプテンは自室に籠ってしまっており、実質のトップは接客リーダーのポーラである。ただ形式的には、セレブな客人と唯一対等に橋渡しができるクルーの最上位はキャプテンであるため、ディナーの日程を彼の意向に沿って決めなければならなかった。

ディナーは荒れ狂う低気圧の夜に開催され、時間を追うごとに体調を崩す客が続出。パニックになれば地位も何もあったものでではない。セレブたちは食べたものを「逆転」させ、大きく揺れる船室の床を転げまわった。

阿鼻叫喚の光景が展開された先に待っていたのは、軍隊に匹敵する攻撃力を備えた海賊(?)からの攻撃であった。

第3部は「島」。船は沈み、カールとヤヤを含む数人が孤島に打ち上げられた。文明の利器がない中で地位を決めるのは何か。それはサバイバル能力。船内ではトイレ掃除のスタッフに過ぎなかったアビゲイルだけがその力を持っていた。

船ではポーラの部下であったが、もはやそれは関係ない。もう船はない。食べ物が欲しいのなら、誰が新しいキャプテンか判断しろ。

新しい関係の中でも、高級腕時計をエサに優遇してもらおうとすり寄るセレブたち。そして極めつけは、権力を手にしたアビゲイルが手に入れようとした、あるモノであった。

人は、自分を上に置いて下の者を従えている状態に安心感を覚える。ただ、その状態というのは必然でも永遠でもなく、脆い砂上の楼閣に過ぎない。

「戻ったら私の付き人にしてあげる」。ヤヤが最後に言ったセリフと、そのすぐ後ろに迫っている光景が象徴していた。

人間の業とでも言おうか、醜い部分をとことんまでさらけ出した秀逸なコメディである。それにしても、キャプテンズディナーの地獄絵図はえげつなかった・・・。

(80点)
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「アントマン&ワスプ:クアントマニア」

2023年02月25日 13時28分10秒 | 映画(2023)
遠い昔 はるかかなたの量子世界で。


MCUの第5フェーズ。ここからいよいよマルチバースサーガのアベンジャーズに繋がる物語が始まる。

その先頭を飾る作品は、インフィニティサーガでも大きなカギを握ったアントマンとなった。神でも超人でもない、並み居るヒーローたちの中でも最も平凡な人物であるスコットラングがその役を担うところがおもしろい。

サノスとの闘いを終えて大切な娘やパートナーのホープたちとの生活を手に入れたスコットであったが、当然それは昔のままというわけではない。過酷な経験はそれぞれを変えてしまい、それはまっすぐ健全な方向へ成長させたわけではなかった。

「アントマン」第1作のころ小さな女の子だった一人娘のキャシーは高校生になったくらいだろうか。量子学に興味を持ち才能を開花させる一方で、強固な正義感を持ち、デモ活動の鎮静化に当たった警察の車をミニチュア化させてしまうなどの問題行動も起こしていた。

そして彼女が開発した量子世界との交信装置をお披露目したときに事件は起きた。悪い予感を感じたホープの母・ジャネットが止めようとした瞬間に、スコット、キャシー、ホープと両親の5人全員が量子世界へと引き込まれてしまったのだ。

そして、ジャネットが言えなかった量子世界での秘密が明らかになる。それは、世界を再び滅亡の危機に陥れる規模の脅威であった。

冒頭の数分で全員が飛ばされてしまうので、ほぼ全編を通して舞台は量子世界である。だから、お気楽な日常的な風景はほとんど描かれない。

そして、誰も見たことがないから仕方がないことではあるが、この量子世界、ミクロというよりは、どこのユニバースですか?といった印象を抱く。

人間と同様に頭や手足があって、外見だけ異様な生命体がコロニーを作って生活しているという絵面は、映像技術こそ発達しているが40年近く前のスターウォーズから何ら変わりがない。これはスターウォーズが偉大なのか、現代人の発想が貧困なのか限界なのか、おそらく両方の要素があるのだろう。

そんな世界に幽閉されていたのが征服者・カーンである。新たなアベンジャーズの敵として満を持して登場した彼は、サノスと違って見た目は普通の人間である。

しかしマルチバースを操るので、いくら駆逐しても次々にスペアが現れる存在らしい。そりゃ確かに強敵だ。相当上手い脚本を作らないと理解できないし、理解できなければカタルシスを味わうこともできないだろう。

演じるJ.メジャースのたたずまいは良いので、これからに期待したい。

全体的に可もなく不可もなく。こじらせ娘の設定がもう少し穏やかであったら素直に楽しめる作品だったと思う。あ、アリが活躍したのは良かった。

(70点)
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「イニシェリン島の精霊」

2023年02月03日 21時28分37秒 | 映画(2023)
耐えられない退屈が心を壊す。


1920年代のアイルランド。イニシェリン島は、本土が見渡せるほどの距離に浮かぶ島であるが、耕せる農地があるわけでもない荒涼とした景色の中で、人々は細々と暮らしていた。

海の向こうでは内戦が繰り広げられており、時折砲弾が着弾する音が聞こえてくるが、島民たちはまったく意に介さず。主人公のパードリックをはじめ男たちは、することがないから昼間からパブに繰り出して酒を飲む。

そんな、豊かではないが至って平和な島に事件が起きる。

パードリックの飲み友達であったコルムが、ある日突然パードリックに絶交を言い渡したのだ。

嫌がるコルムに無理やり理由を聞くと、パードリックの無駄話に付き合うことで人生の貴重な時間を失っていると気付いたからだと言う。

楽しく飲んでいると思っていたのに。突然の告白に驚くパードリック。でも周りの意見を聞いてみると、どうやら自分は「いい人だけど退屈」というキャラクターで固定しているらしい。

しかし、いくら絶交しようにも島は狭すぎてどうしても日常的に顔を合わせる。その度ごとにパードリックの心は乱れ、異常に険悪な関係はエスカレートしていく。

実は50代も半ばになると、コルムの気持ちが分からないでもない。時間があるときに、ふと、残された時間、限りある時間を有意義に使わないとと、ある意味急かされたように思うことがある。

誰も忙しいときにはそんなことは考えない。考える余裕がない。むしろ、なんでこんなに忙しいのだろうと愚痴を言うかもしれない。

しかし不思議なもので、いざゆとりが出てくると、それが物足りなく感じる場合がある。コルムは言う。「作品を残すことで人は記憶に残る。いい人は誰の記憶にも残らない」。

自分は何故ここにいるのか。この世に生まれてきたのか。考えはじめてしまったら、それはもう出口のない迷路だ。

パードリックの妹・シボーンは、兄のことを心配する思いもあって島にとどまっていたのだが、悪意の塊のような島民たちに我慢が限界に達し、ひと晩泣いた後でついに島を出て行く。

過疎の町を捨てて行く人たちは、必ずしも都会に憧れて出て行くわけではない。退屈に飲み込まれるのが怖いから逃げるのだ。たとえそこが内戦の地だとしても。

(75点)
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「RRR」

2023年01月14日 21時28分34秒 | 映画(2023)
景気良く行こう!


うさぎ年は跳ねる、なんてことを正月のテレビ等で耳にすることがあったが、言葉と裏腹に周りには先行きが見えないことばかり。

ただでさえ1月は、一週間に例えると月曜日のようなもので憂うつになるのに、これは何とかしないと一年もたないぞ。ということで、新年のスタートは景気づけになるような映画を観ようと思った。

インドは今年じゅうに人口が世界一の国になると言う。いや、ひょっとしたら既にもうなっているのかもしれない。これまではあまり世界の表舞台に出ることが多くなかったが、巨大なマンパワーは潜在力だ。政治経済から文化スポーツまで幅広い活躍が今後期待される。

そんなインドの象徴とも言えるのが映画文化である。最初にマサラムービーのブームが来たのは20年以上も前のことと記憶するが、時を経てそのスケールは拡大。壮大なストーリー、豪華なステージ、そして、鍛え抜かれた肉体を駆使したパワーとスピードを兼ね備えたアクションやダンス。製作費は増大し、いまやターゲットは世界マーケットに広がっている。

大ヒットした「バーフバリ 王の凱旋」からおよそ5年。同じS.S.ラージャマウリ監督が手掛けた本作は、昨年10月の公開から、口コミ効果もありロングヒットを続けている。先日発表されたゴールデングローブ賞では歌曲賞を獲得した。

舞台はインドが大英帝国の植民地下にあった時代。インド人を人と思わぬ傍若無人の振る舞いを繰り返す支配者たちに対し、いつの日か祖国を自分たちの手にと、燃える想いを心の底に秘めた英雄たちが立ち上がる。

背景がシンプルなら、キャラクターも徹底して個性を際立たせる。

主人公となる二人の英雄、ラーマとビームは炎(FIRE)と水(WATER)。運命的な出会いから兄弟のような深い関係を築きながらも、やがて避けられない戦いへと巻き込まれていく様子は、観ている側に息つく暇も与えない。

本編の上映時間は3時間を超える。途中にはインド映画おなじみのインターバル(INTERRRVAL)も入り、体もキツくなってくるから、長さを感じないというわけではない。しかしまったく弛まないのだ。冒頭のラーマ登場の場面から勝負が決着する最後の瞬間までぎっしりと見どころが詰まっているのである。

これを観て何を感じるかというと、やはり熱さだと思う。そして勢い。思い出したのは、かつてもう40年くらい昔になるだろうか。J.チェンが若いころの香港のカンフー映画が、それこそ若々しくて勢いがあってひたすら楽しかった。図らずも当時の香港も英国領。現地の人たちが自由に映画を作って表現できる場所だった。

インドも地政学的には非常に神経質な立場にあり、今後国がどうなっていくかは分からない。でも、本作に出てくる人たちや、本作を作った人たちのように、これからも熱い思いを持ち続けてほしい。そしてそれを世界中に振り撒いてほしい。こんな時代だからこそ、そう思わずにはいられない。

(85点)→(90点)5月3日修正
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