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Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「ストレンジダーリン」

2025年07月13日 19時13分54秒 | 映画(2025)
つかみ、伏線貼り、急展開、終わり方のすべてが理想形。


実は本作の存在を知ったのは、つい3~4日前のことだった。ラジオの映画紹介をきっかけに、ネットのニュースなどでユニークなスリラー映画との評判を次々に目にして、急遽観に行くことを決めたのであった。

前情報は最小限に抑えた。知っていたのは、逃げる女と追う男の話であり、全部で6章で構成されるが映画は第3章から始まるということくらい。

冒頭、モノクロの画面で女が尋ねる。「あなたはシリアルキラーなの?」。直後に鬼気迫る表情で誰かの首を絞めるような男の姿が映る。場面は変わり、草っぱらを怯えた顔で走ってくる女。赤いナース服のような着衣で、首筋には大きな傷ができている。

そして前情報どおり第3章がスタート。何の解説もなく、先ほどの赤いナース服の女が車を猛スピードで走らせている。その後ろからそれ以上のスピードで追いかける男。女の車が射程に入ると、男は車を止めて一発発射。車で逃げることを断念した女は、森の中へと駆け込んでいく。この後、冒頭の草っぱらの場面へと繋がっていく。

6章の構成は、3→5→1→4→2→6と続く。3章と第5章はいずれも、男が女を追いかけるスピード感と緊迫感がMAXのチャプターであり、それを最初に配置することにより、観る側の目と心を鷲掴みにすることに成功している。

しかしよく考えれば、アタマにインパクトのある場面を持ってくるのは、映画の常とう手段ということに改めて気付く。時間軸を遡るのもよくあることで、最近では「罪人たち」も、夜の闘いが終わった次の日の朝の情景を映してから本題に入っていた。

わざわざ章立てをしているところが本作のミソであるが、とにかく二人の表情が対照的で恐怖感が半端なく押し寄せてくる。そして5章の終わり、民家に隠れていた女が男に見つかったところで話は第1章のなれそめに移っていく。

1章で描かれるのは二人の出会いである。モーテルの前に停まっている車には、夜の酒場で出会って意気投合した二人。男は一夜の快楽を得るのが目的なのだろう。丁寧な言葉遣いと振る舞いで女を部屋に連れ込もうとしている。女は酒に酔いながらも頭の奥では冷静さを保っており、冒頭の「シリアルキラーなの?」の台詞もここで登場する。

結果的に部屋へ入る二人。いつ男の本性が現れるのかハラハラする展開が続くが、事実を知らない女は事もあろうに男をもてあそぶ素振りを見せる。しかし女は突然、男の顔を見てはっとした表情をする。1章はここまでだ。

4コマまんがの基本形は、起承転結である。しかし前述のとおり、映画はエンターテインメントであるから、特に「起」と「転」は大きく構えて観る側を驚かせなくてはならない。

本作はその点が非常に巧妙に練られている。3章と5章の間にある第4章で、何の疑いもなく見てきた立ち位置ががらっとひっくり返されるのである。中には、いち早く気付いた人もいるかもしれない。1章を注意深く観ていれば気付けたと言われればそのとおり。ただ、ここは騙される方が快感なのである。「シックスセンス」のように。

第2章は、全体の中で言えば前半のクライマックスである。3章のカーチェイスに繋がる二人の決定的な対峙までが描かれる一連の流れで、観る側はようやく物語の全体像を理解することができる。

そしてすべてに決着がつく第6章。最後にシリアルキラー"EL"の本性が牙をむく恐ろしい場面が待っていた。"EL"の中には悪魔が棲んでいて、それが表に現れるときに人を殺すのである。人でいるときには愛情を持って接した愛しい人"darling"を敢えて傷つける。それが"EL"の実像であった。

情を持ったら最後、"EL"の餌食になる。ラストは意外ながらも穏やかな展開となり、"EL"の表情の変化を長回しで映しながら画面がモノクロに戻っていく。そういえばはじめはそうだった。

章立ての分かりやすさ、人物設定の巧みさ、展開の練り上げ方、最初から最後まで作り手に気持ち良く転がされた97分であった。

(95点)
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「ドールハウス」

2025年07月06日 14時26分27秒 | 映画(2025)
いつから目を付けられていたのか?


「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」など快活で意欲的な作品を撮っている印象がある矢口史靖監督が、今回はホラー作品に手を伸ばしてきた。

作品の肝であるアイコンは「アヤちゃん」という名の日本人形。人形は、最近はAI搭載型まで出るほど邦画洋画問わずホラー映画の鉄板アイテムであるが、この王道ネタをどう調理するのか高い関心を持っていた。

長澤まさみ演じる主人公の主婦・鈴木佳恵は、不運な事故で一人娘の芽衣を失う。それから1年以上塞ぎ込んでいた彼女であったが、ある日、骨董市で売られていた人形に魅せられて購入。髪の毛や爪など身なりを整え、芽衣の洋服を着せると、まるで娘の世話をするように人形にべったりの生活を送るようになった。

瀬戸康史演じる夫の忠彦は、不審に思いながらも妻が少しでも元気になるならと傍らに居続ける。その甲斐もあって佳恵は次第に元気を取り戻し、二人のもとには次女の真衣が誕生した。

二人の愛情は真衣へと移り、人形は家の奥へとしまわれた。しかし時が経つにつれ、家の中で奇妙な現象が起きはじめる。

分かりやすい王道のストーリー。すんなり入ってくるし、登場人物への感情移入もしやすい。後半では人形の秘密が明かされるが、おぞましくも悲しい物語は、これも作品の雰囲気とぴったり合っている。

ホラーと言いながら、むやみやたらと人が犠牲にならないところも(甘いと言われるかもしれないが)良い。途中で出てきた警察なんてどう見ても使い捨て退場キャラだが(安田顕だし)、ほど良い後味を残す程度にまとめ上げている。

もちろんツッコミどころがないわけではない。人形をCTスキャンにかける必然性や、呪禁師の神田がケガをしたからと言って人形の始末を鈴木夫妻に委ねる場面は、どう見ても不自然である。

しかし、怨念に囚われた人形の表情や、現実の感覚があやふやになっていくクライマックスの畳み掛けなど、メリハリが効いた明瞭な見せ方が上手く、非常におもしろく観ることができた。

余談だけど、いわくつきの地へ繋がる道が潮の満ち引きのため時間制限されているという設定は、直前に観た「28年後・・・」ともろ被りなんだけど、どう見ても偶然だよね。

終わり方は結構意外だったけど、続篇を作る気あるのかな。

(80点)
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「28年後・・・」

2025年07月06日 13時32分31秒 | 映画(2025)
パンデミックは隔離できないと、世界は知ったはずだが。


「28時間後」「28週後」と作られたD.ボイル監督のゾンビ映画シリーズ。次があるとしたら「28年後」だよねーと言っていたら、本当に作ってしまったというのが本作。

さすがに事が起きてから28年のブランクがあると出演陣は一変しないと成立しないわけで、続篇と言えるのかどうかもよく分からない。好意的に捉えれば、過去作をあわてて復習する必要がないとも言える。

冒頭、懐かしの幼児番組「テレタビーズ」を見る子供たちが映る。天真爛漫な番組内容とは対照的に、子供たちは一様に怯えた表情をしている。そこに現れる感染者たち。部屋は即座に阿鼻叫喚の景色へと変わり、一人逃げきった少年は「なぜ自分は生かされたのか」と自問自答する。

それから28年。事が起きた英国本土は世界から隔離され、生き延びた人たちは本土から海を隔てた離島で生計を立てていた。ただ、島にいるだけでは生活を充足できないため、時々命を懸けて本土へ行っては食料などを調達しているようだ。

12歳の少年・スパイクはこの島で生まれ育ったから、ほかの生活を知らない。病気の母親を心配しながらも、早く立派な大人にならないとと思い続けている。

この島における「立派な大人」とは、感染者に負けない力を持つことにほかならない。スパイクは、父のジェイミーに連れられて初めて本土の地を踏むことになる。

いわゆるゾンビ映画はひさしぶりである。先日は吸血鬼が出てくる映画を観たが、ホラー界の両雄と言って然るべき存在であり、やはりわくわくさせられる。

ただなんだろう。期待し過ぎたのかもしれないが、いまひとつ入ってこなかったというのが正直なところである。

まず、続くのが大前提となっているラスト。もちろんシリーズものとしてそれは必然なのであるが、当該作品の中にきちんとしたクライマックスがあって、その付け足しとしての"to be continued"があるべきところを、本作は明らかに「クライマックスはこの後」と言っているように見えた。

もし本作の中でクライマックスを探すとすれば、スパイクと母親が本土で暮らす謎の医者・ケルソンと出会った一連のシークエンスということになるが、これはゾンビ映画のクライマックスとしては甚だ異質である。感染者が産み落とした赤子を含め、生と死が同じ場所で交差する様子を丁寧に描いて見応えがあるのだが、正直これで作品を閉じてしまうと「?」が残ってしまうのである。

赤子ももっと整理できなかったのかと思う。感染者から生まれて元気に泣き声を上げるのを見ただけで「この子は感染者じゃない」って、なんでそんな自信を持って言えるのか分からない。当然のように疑問に思った「命の恩人」エリックくんはあっさり退場。彼の使い捨てぶりも相当に酷い。

エリックがスパイクと母親を救うときにガスが充満している部屋に火を放ったときも、何で感染者は全員焼け死んで母子が無事だったのか、ちょっと雑だよなと思った。

そんな感じでツッコミどころが満載で、D.ボイル監督ってそういう人だっけ?と混乱してしまったのである。

冒頭で逃げ切った子供についての回収も明確には行われず、あまりにも続篇に委ねている部分が大きく、個別作品としての評価は下げざるを得ない。

(60点)
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「罪人たち」

2025年06月26日 20時46分05秒 | 映画(2025)
あるときは罪人、あるときは善人。


北米興行の好調さを受けて急遽日本公開が決まったR.クーグラー監督作品。

明らかな黒人差別がはびこり、禁酒法が施行されていた1930年代の米国南部ミシシッピ州。スモークとスタックの双子兄弟は、シカゴのマフィア社会で稼いだ財産を元手に、地元で酒や音楽を振る舞う酒場を開業しようとしていた。

ジャンルはホラーになるらしい。酒場で演奏したギターが悪魔を呼び寄せてしまうという流れまでは事前に入手して、あとは何も情報を入れずに鑑賞に臨んだ。

まず驚いたのは「悪魔」の正体。これによって、悪魔との闘いが見ようによってはありきたりなホラー映画と大差ないものになっているところは、作品の価値を左右するギャンブル要素であるが、本作は結果的に異様なほど高い評価を得ている。

「素晴らしい音楽は癒しとともに悪魔を呼び寄せる」という言葉が冒頭観る側に刻印される。それは、冷房を入れると排気口から熱風が排出されるように、万物は表裏一体、180度反対の要素を兼ね備えていることにほかならない。

襲来する「悪魔」は白人の姿をしているため、一見人種差別の勧善懲悪を描いているように見えるが、存在としては一時の快楽や自由を裏返した帰結とも捉えられる。人種差別は「悪魔」と異なる形で日常の形式として描かれ、最後に登場する本当の人種差別者はまとめて瞬殺される。

スモークとスタックは名前を聞いただけで震え上がるほど、多くの人の命や財産を奪ってきた過去を持ち、酒場を開こうと思ったのも一攫千金の商売欲が発端となっていることは間違いないが、一方で、家族や近しい人たちへの愛情や、地元に貢献したいという思いも透けて見える。二人は、いとこである若きギタリスト・サミーをはじめ、同士たちに直接声をかけて、新しい酒場を地元の象徴的な場所にするべく奔走する。

果たして酒場は無事に開店。サミーたちが演奏するブルースに引き寄せられるかのように、多くに黒人客が集まってくる。そしていよいよ「悪魔」がやって来る。

演奏の場面は迫力がある。特に「未来も過去も引き寄せる」との言葉に倣う形で、現代風のヒップホップDJたち(おそらく過去の黒人たちもいたのだろう)が現れて競演する演出は斬新だ。また、酒場の中でサミーが魂のこもったブルースを歌い上げる一方で、酒場に入れてくれと頼む「悪魔」たちが奏でる軽快なマンドリン演奏(アイルランド民謡らしい)は対照的でおもしろい。

「悪魔」は、酒場の人間すべて、特に素晴らしい音楽を奏でるサミーを自分たちの側に取り込もうとして襲い掛かる。ここでおもしろいのは、「悪魔」に襲われて自分も悪魔化してしまった人たちが、依然として自分の心を持っているという設定である。ゾンビとは違うわけだ。

いきなり襲い掛かる「悪魔」がいるのはご愛敬だが、スタックたちは、現世の苦労と悪魔になることによって得た自由を天秤にかけて、みんなこっちの世界に来いと呼びかけるのである。

同意が得られない中で始まった死闘は夜明けまで続いた。スモークは、スタックにとどめを刺すことはどうしてもできず、生き永らえらせることと引き換えにサミーに手を出さないよう約束した。スタックは永遠の自由を得たが、その引き換えに太陽の光と有限の輝きを失った。

ラストシーンで再び出会うスタックとサミーの姿は対照的であるが、そこには長い時間誇りを持って生きてきたことに対する互いのリスペクトがあるように感じた。平面的に見れば普通のホラーになりかねない作品が、人種差別、宗教問題、そして音楽を巧みに織り込むことによって格調高いものに仕上がっている。

(85点)
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「リライト」

2025年06月21日 20時58分57秒 | 映画(2025)
全員が思い出を共有した夏。やばいよリライト。


映画はたいてい映画館へ一人で観に行くものと決めているが、ときどき無性に誰かと語りたくなる作品に出会うことがある。

謎解きモノはまさにそのジャンルであり、分かったつもりになっていながら、後で更に驚かされるというのもよくある話だ。

本作品の主人公は小説家の美雪。彼女は高校3年の夏に転校生の保彦と出会う。保彦は自分を未来人だと言い、これから二人で過ごす夏の出来事を小説に書き残してほしいと告げる。

保彦からもらったカプセル薬で一瞬飛んだ未来で会った10年後の自分からも完成した小説を見せられた美雪は、保彦と別れた後に努力を積み重ねて、ついに「少女は時を翔けた」と題した小説の発刊まで漕ぎつける。

しかしその時、彼女を待っていたのは、10年前に見たものとは違う風景の未来だった。

タイムリープを題材にした映画は数多あるが、おそらくそのルーツとも言える作品が「時をかける少女」だ。筒井康隆の原作もベストセラーならば、映像作品も実写からアニメから何度にも渡って作られるなど、国民的SFと言って過言ではない作品であるが、その中でも多くの人の心に強く残っているのが大林宣彦監督の1983年版「時をかける少女」であろう。

ぼくはそこまでディープなファンではなかったが、当時の角川映画の隆盛を知らないわけはなく、本作が尾道を舞台にしていること、担任の教師が尾美としのりであることといった、分かりやすいオマージュにはすぐに反応できた(ラベンダーの香りってのもあったな)。

不思議な雰囲気をまとった男子クラスメイトという設定も「時かけ」リスペクトと考えられる。たどたどしさが漂う保彦役の阿達慶の演技も世界観を保つのに一役買っている。

美雪を演じるのは池田エライザ。洗練された外見が周りの同級生から浮いた存在であることを感じさせる。美雪は、保彦の願いを叶えるために久しぶりに地元へ戻ってくるが、描いたシナリオ通りに進まない代わりに、なぜかことあるごとに同級生たちに絡まれる。

鑑賞後に予告篇を見直すと、実は結構この中でネタバレしている。保彦はタイムリープから抜け出せずに困っていて、美雪のクラスメイトにも同じ体験を仕掛けていたのである。

ここで予告篇の主題とタイトルが重なる。この物語を「リライト」したのは誰だ?

ここまで書いて、予告をじっくり見過ぎないで良かったと思う。だって、「怪しいのは誰だ?」となった瞬間に配役で答を想像できてしまうではないか。

何もほとんど知らない状態で観た本篇はおもしろかった。

なぜ10年前に見た未来と違う未来なのか?という疑問に答える謎解きと、では未来を書き換えたのは誰だ?という二段構えの謎解きをじっくりと味わうことができたからだ。

どちらの謎解きも、前半で分かりやすい引っ掛かりポイントが示されていた点が親切で良かった。

美雪の視点でストーリーを追いかけていた前半は、周りの同級生みんながうざったく怪しく思えたものが、謎解きが進むにつれてほぐれていく様子も不思議と心地良かった。

2番めの謎解きで美雪はあるクラスメイトと対峙し、この話のすべてを知るところとなる。

東京へ帰る道すがらに寄った書店で、不意に保彦の声が聞こえる。声の方に視線を向ける美雪。そこにいたのは保彦なのか。そして彼は美雪に気が付いたのか。ラストの描写はそれぞれの感情がいかようにも捉えられて味わい深い。

保彦にとって美雪は30数名のうちの一人に過ぎないのか。それとも特別な思い出を共有したパートナーなのか。受け取り方は人によって違うだろうし、そのときの感情によっても変わってくるのかもしれない。

(80点)
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「We Live in Time この時を生きて」

2025年06月08日 19時57分35秒 | 映画(2025)
2時間弱の走馬灯。


ひょっとしたら間違えているかもしれない。ある意味、備忘録も兼ねて書いておく。

冒頭、アルムートはランニングをしている。ジョギングより少し速いペース。部屋に帰ると料理なのか、ボウルいっぱいにホイップを泡立てて、隣の部屋で寝ているトビアスの顔にいたずらっぽくひとさじ持っていく。

場面が変わるとそこは病院。主治医に病状を伝えられるアルムート。腫瘍のステージが進んでいるらしい。自宅に戻ると浴室にたたずむアルムート。臨月かというほどお腹がぽっこり出ている。

矢継ぎ早に断片的に二人のドラマが流されて、整理する間もなく頭の中にそれぞれの場面がストックされていく。

次に映ったのは、ホテルの部屋に帰ってきたトビアス。離婚届の書類にサインをしようとしている。腫瘍の闘病に関係して婚姻関係を解消することになったのか?

サインするためのペンのインクがなくなり、ホテルを出てペンを買いに行くトビアス。しかし途中でうっかり車道に出たところを、やって来た自動車にはね飛ばされてしまう。

首を固定されて病院の待合室に座るトビアス。向かいにはアルムートがいる。トビアスの身体を心配するアルムートが言う。「はねてしまったのは私なの」。

ここでようやく散らかっていた頭の中に一つの方向性ができる。この映画は、時間を前に後ろに行き来しながら妻・アルムートと夫・トビアスの物語を描いているのだ。

前妻と別離した失意の中の自動車事故という偶然で出会った二人。妻は世界的な賞を獲得するほどの一流シェフ、夫はシリアルの企業の関連で働くサラリーマン(おそらく)。重ねられていく物語は一見ランダムに見えるが、二人が何を思い、何を大切にして生きてきたのかを少しずつ形作っていく。

特に二人の娘・エラの存在はアルムートの心境の変化に大きく結びついている。アルムートは豊かなバイタリティを持った女性で、かつて同性と交際していた時期もあるなど、家族や家庭というよりは自分の欲求に従って生きる女性であった。

かたやトビアスは、周りを包み込むような優しさを持った男性。子供がほしいというトビアスにアルムートは「必要ない。そんな姿は想像できない」と言い切り、二人の仲は険悪になる。

しかし映画の中では、すぐ後の場面で愛しそうにエラと接するアルムートの姿が映される。彼女の中でいつ変化が生まれたのだろうか。

転換点は、アルムートの卵巣に腫瘍が見つかったときにあった。残りの命に限りがあることを突き付けられたとき、人は改めて時間の大切さを知らされる。

大切な半年の時間を、結果が不明な治療のために費やしたくない。アルムートは、延命治療に懸けるのではなく、自分のやりたいこと、やるべきことのためにこの時間を使いたいと言う。

時間軸が若干ズレるが、必要ないと思っていた子供を作ったこともその流れなのだろう。自分がいたことによって成し遂げられたこと、それは自分が生きてきた証であり、自分が生まれてきた理由にほかならない。

そんなアルムートを常に大きな優しさで包み込むトビアスが愛おしい。子供の件でケンカしたときも、自分たちに隠して料理コンクールの特訓をしていることがわかったときも、そのときは怒った表情を見せるものの、少し時間が経てば冷静さを取り戻して自ら妻への愛情を示してみせる。

それは決して無理しているわけではなく、それがトビアスの自然体。全力で生きる妻とそれを後ろで支える夫の姿は、時間を積み重ねてきた中でたどり着いた二人の到達点であった。

F.ピューA.ガーフィールドという配役は、芯の強い女性、心優しい男性というキャラクターにピッタリだったと思う。ラストの数分、スケートリンクの反対側で夫と娘に手を振るアルムートと、エラに卵の割り方を教えてあげるトビアスの姿が強く印象に残った。

(85点)
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「サブスタンス」

2025年05月31日 22時23分49秒 | 映画(2025)
世にも強烈な物語。


B.ウィリスとD.ムーアといえば、1980年代後半から90年代にかけて世間を沸かせたセレブカップルの代表とも言うべき存在であった。二人はその後離婚し、現在B.ウィリスは失語症のため俳優を引退し、認知症を患っていると言われている。

一方のD.ムーアは62歳にして本作に出演。今年のアカデミー主演女優賞にノミネートされるなど、久々に晴れ舞台へと戻って来た。果たして彼女が演じたのはどんな役柄だったのか。

主人公はかつての大スター、エリザベス・スパークル。大きな映画賞の受賞経験を持ち、その名前はウォークオブフェイムにも刻まれているが、年齢とともにキャリアは尻すぼみとなり、今は過去の名前にすがったワークアウトプログラムを持つだけになっていた。やがてその番組も若返りを図る方針のもとで終了させられ、エリザベスはすべてを失った。

そんな彼女のもとに届いた1本のUSBメモリ。「サブスタンス」と書かれたそのメモリには、「私の人生を変えた」というメモ書きが添えられていた。

「サブスタンス」のキットに含まれている薬を注射すると、細胞が分裂し、自分の中からもう一人の自分が誕生する。新しい自分は、今の自分より若くて美しい。ただそれは、生まれ変わったのではなくて、自分が二つの肉体を持ったということであり、その状態を維持するためには、7日ずつ入れ替わりながら過ごすことがルールとして定められていた。

新しい肉体は自身をスーと名付け、エリザベスが降板させられたワークアウトプログラムの後任オーディションに参加し、見事にその座を射止めた。番組が始まるとたちまち評判となり、スーは一気にスターダムへ駆け上がった。

スーが華々しく活躍すればするほど、7日おきに交替するエリザベスの肉体や環境の惨めさが際立ってくる。同一人物であるはずの二人は次第に意識が分裂するようになり、ある日、悦楽に興じていたスーが肉体交換のタイムリミットを越えてしまったとき、エリザベスの肉体に異変が起き始めた。

かつての名声や若さに囚われて堕ちていく人間の話というのは、結構な定番である。ちょうど今日テレビで「世にも奇妙な物語 35周年記念」という番組を放映しているが、甘い誘惑に誘われて、はじめこそ良い思いをするものの、引き返す限界地点を越えてしまって(本作では、昔の知り合いという男性とデートに行こうとした場面。あれがポイントオブノーリターン)結局バッドエンドを迎える、というところまでがワンセットとなっている。

とにかく本作の何がすごいかと言えば、D.ムーアにこのエリザベスという役を引き受けさせたことにあると思う。落ちぶれたスターという点では「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」が思い浮かぶが、本作のエリザベスはビジュアルが半端ない。

序盤は、エリザベスの年齢相応のリアルなシワや肌のくすみをアップで映し、肉体交換が始まる中盤以降は特殊技術を駆使してmonstroへと変貌していく。「ゴースト/ニューヨークの幻」のヒロインという輝かしい過去をぐっちゃぐちゃに潰していく様子に圧倒される。

ストーリーは上述のように定番だし、朽ち果てた肉体になりながらもすぐに勢いよく走り始めるなど、至るところに違和感たっぷりで、カンヌ出品というよりB級テイストが満載なのだが、D.ムーアのすべてをかなぐり捨てた演技にすべて持っていかれる。

あまりに強烈で、次に彼女を見るときにも残像が焼き付いてしまっている気がして、つい今後のキャリアを心配してしまう。

(70点)
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「ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング」

2025年05月18日 12時23分15秒 | 映画(2025)
待たせたな。


映画の冒頭に日本のファンへ向けたトムのあいさつが流れる。

シリーズ第1作が公開されたのは1996年。既に絶頂期を迎えていたT.クルーズの新たな代表作であり、それまでシリーズものを作らなかった彼が初めて続篇を手掛けた、まさに稀代の大スターの代名詞ともいえるシリーズの最新作が満を持しての公開である(まだ先行上映だけど)。

本来は2023年に公開された前作「ミッション:インポッシブル/デッドレコニング」と2部作で作られるはずであったが、諸事情により2作めは公開が延期。タイトルも「ファイナルレコニング」と変更された。

ファイナルレコニングは「最後の試練」と訳されている。毎回常に無理筋のミッションをこなしてきたイーサンハントにとって、最後の仕事という意味に捉えられ、明言したのを耳にしてはいないが、シリーズ最終作の位置付けとも取れる。

個人的には、「M:I」表記が前面に出て、イーサン個人の闘いにスポットが当たっていた「M:i:III」までと、サブタイトルが付いて、ベンジーたちと組んだチームプレイが目立つ「ミッション:インポッシブル ゴーストプロトコル」以降にシリーズは二分される。

今回、「すべてのミッションはここにつながる」と銘打ったように、ときどき過去の印象的な場面が挿入されて意外な接点があることが明かされる。30年も前の作品なのに、実際の場面が流れると「あー、この場面か」となるところはさすがである。

シリーズ中最長の上映時間が示すように、前作に続いてアクションシーンの多さとバリエーションも豊富である。ベーリング海の深海からアフリカの空中まで、緯度経度、高度深度なんでもござれの活躍を見せる。

ただ、すごいのは伝わってくるものの、観終わってみると印象的な場面がなかったかなという感想を持つ。それこそ30年経ってもすぐに記憶がよみがえってくる1作めのヘリコプター抱きつきや床面すれすれまでの落下と比べると、沈没した潜水艦の中を捜索するミッションは、丁寧にしっかり作られているのは分かるが、なんとも地味で分かりづらい。

全般を通してチームのメンバーが並行して無理筋のミッションをこなしていくが、これも0.1秒のタイミングを逃すななど無理度が極めて高いものの、あまりに無理が過ぎるせいか見ていていまひとつ緊張感が盛り上がってこない。

前作の感想でも書いたが、複雑に交錯する登場人物の関係については上手く整理されており脚本の巧みさを感じる。新しくチームの仲間として動く人たちのキャラクターも悪くない。

それでも、シリーズとしてはやり尽くした感に満ちており、トムの年齢から考えてもこれで勇退とするのがベストと言えるのではないか。金曜ロードショーで始まった過去作品の見直しで十分に楽しめる。

(70点)
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「サンダーボルツ*」

2025年05月06日 09時29分30秒 | 映画(2025)
今度こそ新たなフェーズの第一歩。


過去にDCのヒーロー映画の感想として、「結局最後は力比べになってしまう」という言葉をよく綴っていた(参考:「ワンダーウーマン」)。

なぜそんなことを言い出したかというと、本作が同時公開された北米において「批評家の大絶賛を受けて好スタート」という記事を見たからである。

本作は、全員過去に傷を負った悪者のヒーロー映画という触れ込みで宣伝をしていたが、それだけならば既にDCの「スーサイドスクワッド」があって新鮮味に欠ける。

加えて、主要な登場人物はみんな特殊能力を持っているが、ビジュアルとして明確なのは、あらゆる物質を通り抜けることができるゴーストくらいで、他は訓練等で戦闘能力が向上した者ばかりであり、彼らが繰り広げるクライマックスを想定した場合、どうしても肉弾戦しか想像できなかった。

しかし本作では、主役扱いのエレーナをはじめとして登場人物を丁寧に取り上げて描くことで、観ている側がしっかり引き込まれる構図になっていた。

物理的な力比べではなく、チームワークや心の持ちようを勝敗を決するカギとするのであれば、長期シリーズにありがちな世界観が広がり過ぎるインフレ問題にも対処が可能というものであろう。

振り返ればかつてのマーベル作品はその辺りをきっちり押さえていたような気がする。神が仲間になっても宇宙を舞台にしても、それらを同じ世界の中に置きつつ崩壊や発散を起こさずにおもしろいストーリーを組み立てていた。

今回高評価の声が聞こえるのは、そうした以前の良きマーベルの姿を思い返す人が多くいたからに違いない。

もちろん映像で魅せる部分や、くすっと笑いを取る部分が、バランス良く散りばめられている点にも言及したい。能力を身につけるまでの過程での苦悩をトラウマに持っているヒーローたちの中に、レッドガーディアンのような張り詰めた空気感に句読点を与える存在がいることで映画の幅が広がってくる。

ヴィランの立ち位置にいる女性CIA長官のヴァレンティーナの扱いもおもしろい。普通ならば勧善懲悪で使い捨て退場となるところが、ラストで意外な立ち回りを見せてくれた。「〇〇は戻ってくる」はマーベル映画の定番であるが、「Bベンジャーズ」や「アベンジャーZ」の下りは、本作を盛り上げただけでなく次作以降にも大きな期待を持たせてくれた。

そしてその中心にF.ピューがいることが、個人的には非常にうれしい。

(90点)
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「片思い世界」

2025年05月04日 22時31分49秒 | 映画(2025)
叙情的マルチバース。


いずれも朝ドラの主役を経験した広瀬すず杉咲花清原果耶が共演し、「ファーストキス」のヒットも記憶に新しい坂元裕二のオリジナル脚本と、これ以上ない看板を背負って公開された本作。

「片思い」という個人の感情を表す言葉に「世界」というまったく異なる次元の単語を結びつけたタイトルを注意深く観察していれば、本作の秘密にすぐ気付けたかもしれない。

児童合唱団に所属する美咲は、練習が始まる前の時間を利用して音楽劇の台本を書いていた。最後の一文を書き上げて、近くにいた男の子「てんま」に声をかけたが、さっきまでピアノの椅子に座っていたはずのてんまはそこにいなかった。

ほかの児童たちが集まり始めて、全員で記念撮影をすることになる。シャッターが切られるその瞬間、音楽室の扉が開く。「てんま?」美咲が声を上げると、児童たちは一斉に視線をカメラのレンズから扉の方へ向けた。

舞台は変わって都心のとある一軒家。そこでは20代の若い女性三人が一緒に暮らしていた。美咲、優花、さくらは、どうやら児童合唱団の女の子たちが成長した姿らしい。

朝起きて、食事をして、三人はそれぞれ仕事場や大学へと向かう。夜はスーパーで買った食材で夕食を作り、一緒に食べて就寝する。時には誕生日を一緒にお祝いしたり、仲が良い幼なじみがそのまま大きくなって一緒に暮らしているとしか思えない暮らしぶりであったが、彼女たちには秘密があった。

その大きな秘密が明らかになるまでそれほど時間はかからないのだが、漫然と見ていると「あっ、そういうことか」と驚かされることになる。それも突然明かされる驚きではなく、振り返ってみると実は数々の布石が、どこか記憶に引っ掛かる違和感として散りばめられているのが分かるところが心憎い。この辺りが坂元裕二の巧さなのだろう。

帰宅途中のさくらが道に転がっているボールをすっと避ける。美咲とさくらがバスに乗り遅れ、運転手にアピールするが取り合ってくれず、しかし直後に走り込んできた男性に対し、運転手はすっとドアを開ける。

秘密が明らかになった瞬間に「片思い」と「世界」が結びついたタイトルもすっと心に落ちてくる。美咲、優花、さくらの誰かではない、彼女らが存在する場所が思いを届けることができない世界なのである。

彼女らは三人でいるときはとても楽しそうにしているが、一人になったときには物寂しいというか、どこか諦めの漂う表情をしている。仕事をしたり、勉強をしたり、のみ会に参加したり、という光景を見れば見るほど、彼女らがどのような気持ちでこうした行動をしているのか想像して胸が締め付けられる。

後半、彼女らは一縷の望みを抱いて、片思いを成就する夢を追いかける。予告でよく見た「ずっと、こうしたかった」という美咲の台詞が頭にあったから、きっと夢が叶うのだろうと思いながら観ていた。

前半の秘密が明らかになるまでの流れは巧いと書いたが、後半のそれぞれが夢を追いかける話は「おや?」と思うところが多かった。

何よりもやっとさせられたのが、さくらの「片思い」の相手として描かれたのが、とある事件の犯人であったという点である。相手と繋がりたいと思うのが片思いであり、そこには男女でも親子でも愛情が伴うはずだが、さくらの感情にそれはあり得ただろうか。

彼女らが望みを抱くきっかけになるラジオのパーソナリティの存在が、よく分からないままうやむやになってしまうところも良くない。カミオカンデまで引っ張り出しておいて空振りなのは故意なのか、後で解説するサイトを探してみようと思う。

ただ苦言はいろいろあれど、主演女優陣の輝きはまったく曇りなく、加えて美咲の片思い相手の「てんま」を演じた横浜流星もオーラがあって良かった。さすがは大河ドラマの主演を張るだけある。

(75点)
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