原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

再掲載 「阪神・淡路大震災」発生直後に献身的に動いた医療ボランティア

2021年01月17日 | 医学・医療・介護
 (冒頭写真は、本日朝の西宮市の一風景。 阪神・淡路大震災発生から26年目の朝を迎え、大震災発生直後の時間で止まったままの時計の周囲で黙祷する人達。)



 3年程前までgooブログ上でお付き合いがあった某臨床医師先生(M氏とする)が、上記表題のごとく、当該大震災発生直後の早朝に直ぐに現地へ医療ボランティアに急がれたレポートを発表されていた。

 そのレポ-ト内容に大いなる感銘・衝撃を受けた私が、早速その旨のコメントを記させていただいたところ。 
 M氏より、更なる詳細レポートを届けていただいた。 

 本日はそのM氏による詳細レポートの再掲載を中心に、私なりに「阪神・淡路大震災」の追悼をさせていただこう。



 本日(2021.01.17)、阪神・淡路大震災の発生から26年目を迎えた。

 東京暮らしの私も、“あの日”の事は鮮明に記憶している。

 晩婚の末、高齢出産にて誕生した娘が未だ1歳少しの頃だった。 既に発達の遅れに気付いてはいたものの、未だ“赤ちゃん”状態のためさほどの懸念を抱いていない段階だ。 1歳の誕生日過ぎて、やっとこさ“はいはい”をし始めた娘のその姿があまりにも可愛らしく、その動きを見ては目を細めていたものだ。
 婚姻時点で当時は未だ珍しい存在たった超高層タワーマンションの一室を(義母が)購入してくれ、生まれたての娘も含め一家3人で暮らし始めたのだが…。 どうも“暮らしにくさ”を引きずる日々だった。
 例えばビル風が日々強く吹き荒れるため、バルコニーでの布団干しを禁止されていたり、洗濯物が砂埃で汚れる。 エレベーターの待ち時間が長い。 管理費がべらぼうに高い。 等々…
 転居するなら早めの方が少しでも高く売却出来ると判断し、住居の買替えを実行に移した。 秋頃に売りに出し、年末には買い手が見つかり年明けには売却の段取りとなった。

 さて売買契約締結に向けての最終確認のため、不動産仲介会社の担当者がやって来たのが1995年1月17日の事だ。 
 午前10時過ぎに我が家を訪れた担当者氏が、血相を変えて私に訴える。
 「今朝早く関西地域で大規模地震が発生して、死者が数百人出ているようです!!」
 朝からテレビを見る習慣がまったくない私にとって、大震災の第一報がこれだった。
 「え~~~~~~~~!!!」と驚愕するばかりで、開いた口が塞がらない。 ただ、担当者も仕事の都合があるだろうと推測して、早速面談に入り1時間程で最終確認を終えた。

 担当者が去った後、早速テレビのスイッチを入れると真っ先に画面に映し出されたのは、高速道路が横倒しになっている光景だった。 (嘘でしょ?!? 何かの間違いじゃないのか??)としか感じられない。 その後はテレビ画面にくぎ付けだ。 1歳少しの娘も“はいはい”をやめて、私の隣で訳がわからないなりにテレビ画面を見つめ、横で驚愕する私と一緒に動揺している様子だ。 
 そうこうしていると米国在住の姉から電話が入り、「関西で大地震があったとの報道だが、どうなっているか?」と尋ねる。 姉は大阪の大学へ進学後10数年間大阪で暮らしていた故に、現地知人の安否を気遣っているようだ。
 この日は夜遅くまで阪神・淡路大震災に関する報道を注視した。 特に夜間に入り、神戸市長田区一面が火災で焼け落ちる映像は、まさに地獄をみる思いだった…。


 ここから、表題に掲げたテーマの本題に入ろう。

 昼間は外出していたのだが、夜間になりテレビ報道や新聞にて改めて阪神・淡路大震災23年目のニュースに触れた。
 その後、gooブログを訪問したところ。
 タイムリーに、阪神・淡路大震災関連記事を公開されているブログに出くわした。

 関西地方で医師・大学院講師をされているM氏(とさせていただく)が、23年前の大震災発生直後に医療ボランティアとして活動された記載を公開されていた。
 この私も過去に医学経験があるものの、臨床経験(医療現場勤務経験)が皆無のため、自ずと医療ボランティア力は無くその経験も皆無だ。
 そんな私にとってM氏の医療ボランティア記述は実にリアルであり、また感銘を受ける内容だった。 早速コメントを入れさせて頂いたところ、M氏より更なる詳細のご返答を頂戴した。
 
 そのご返答の内容を、私なりの表現にて以下に紹介させていただこう。
 大震災発生のあの日、M医師先生は偶然にも勤務先の大阪の病院にて夜勤をされていたらしい。 仮眠中に物凄い揺れに驚かれたものの、幸い病院の建物には被害がなかったようだが、すぐさま「神戸の病院はどうなっているのか」他の職員氏達と共にテレビ画面にくぎ付けになられたようだ。
 神戸に同業のお知合い医師がおられたM先生が連絡を取られた後、夜勤勤務明けに緊急の医療資材の確認やそれを持ち出すことが可能か、などを看護師たちと手分けして行うと同時に、足の確保などを話し合い準備を整える作業に入られたそうだ。
 尼崎から連絡が入り、4病院が倒壊、倒壊の恐れがあること、また病院の多くが臨時的に野戦救護所的に運営されつつある事など、また「合流したい」との申し出もあり、M先生たちは平常勤務の医師との申し送りも済ませ尼崎へ向かわれたそうだ。  合流場所の阪神尼崎駅からは緊急チームが急遽編成され、彼らの道案内で長田地区に向かったとの事だ。
 後はもう何が何だか分からないままに動かれ…。 現地では、野戦救護所状態だったものの、病院関係者の手伝い、消防や警官のグループに合流、応急処置と病院への橋渡し役などを手分けして行ったのを記憶しておられるそうだ。
 現地では、被災はしたが比較的軽症だった人たちが中心となって、倒壊した家屋、火災した家屋の確認や、行方不明となっている人の捜索などが行われたとのこと。
 以上のような厳しい状況の中、取り敢えず「動けた」ことに、幾らか「使命の一端を担えることが出来た」のではないかと自負されておられるようだ。 M氏は緊急医から医師の一歩を踏み出されておられるとのこと、それもあり医療ボランティアとして動けたとも言える、と記されていた。
 そしてご返答の最後に、今から23年前の出来事はある意味でM先生の原点の一つでもある、と結ばれていた。
 (以上、gooにブログを公開されているM医師先生よりのコメント返答より私がアレンジしつつ引用させていただいた。)

 私見でまとめるが。

 このM医師先生よりのコメントご返答内容とは、今後の大災害発生時に“緊急”「医療ボランティア活動」体制を発動するに際し、貴重な資料となり得るのではなかろうか?
 
 「医療ボランティア」に関する情報に関しては、私は今まで海外の激戦地域で活動している報道しか見聞していなかった。
 もちろん、国内の災害時にも「医療ボランティア」が活動している様子はメディアにて伝えられてはいる。 だが、国内の場合“緊急”感に欠けると言うべきか、要するに大災害がある程度沈着して後の報道に過ぎなかったように感じるのだ。
 もちろん、それも重要であろう。

 その点、M先生が23年前の大震災時に実行された「医療ボランティア」活動とは、まさに大災害発生直後の“緊急事態”に対応されている点に於いて素晴らしい故に感銘を受けるのだ。

 阪神・淡路大震災は、早朝の5時台に発生した大災害だ。
 夜勤明け直前の大揺れにも動揺せず、ご自身のお疲れの身体も後回しにされ、まずは「人命救助」の発想が浮かび、それをすぐさま行動に移されたM先生はじめ医療スタッフの皆様の果敢なボランティア精神・行動に、大いなる拍手を贈らせていただきたい。 

 M医師先生のような医療関係者が今後ますます増えたならば、大災害発生直後期の「医療ボランティア」活動が更なる充実を遂げるのであろう。

 (以上、M医師先生による阪神・淡路大震災発生直後の生々しい医療ボランティア活動レポートを再掲載させていただいた。)



 この臨床医師M先生に関してだが。
 
 当該「阪神・淡路大震災医療ボランティアレポート」を記され公開された後のことだが。
 病に倒れ入院して闘病を続けられていた。 その間もドクターストップにもかかわらず、病床よりスマホでブログ上に現況をご報告されたりしていたのだが…
 
 2018年の大晦日の日に、忽然とネットより姿を消された。
 ブログは、おそらくご自身で“抹消手続き”を済まされたのであろう。

 あの日以来、ネット上で一切お目に掛かれることは無い。

 「マサヒ」先生と自称されていたが、どなたに対してもフレンドリーな方でgooブログ上のファンを沢山抱えられていたのに…
 アベシンゾー・バッシングも超強力!! この原左都子など関連記事によく “同感!コメント” を入れさせて頂いていたものだ。

 今も生きておられ、関西地方で医師としてご活躍されていると信じたいのだが…