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原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

貴方は何故 “無駄な医学検査” を拒まない??

2019年01月15日 | 医学・医療・介護
 正月に高齢者施設に暮らす義母に会った際、義母の頭髪が明らかに薄くなっている事実に私はすぐさま気付いた。
 その前に義母に会ったのは娘の誕生日祝い会の11月下旬の事だ。 わずか2ヶ月足らずで、これ程までに“薄毛”が進むものかと内心驚いた。
 義母の場合20年程前からウィッグを使用しているようだが、そのウィッグが現在の薄毛を隠すには小さく薄毛状態が露わに表面化している。

 そうしたところ、やはり義母からその話題が出た。
 「あのね、施設内美容院の美容師が少し前に変わったのよ。 その新しい担当者が、髪を染めても痛まないから大丈夫! と言って美容院へ来る都度毛染めをしていたら、見る見る間に薄毛になっちゃって… ウィッグを被っても隠せず困っているの…」
 義母の言う通りだろう。 元々薄毛で悩んでいた義母がこの高齢域(87歳だが)に差し掛かって“毛染め”を何度もしたならば、薄毛を助長するようなものだ。
 何故義母は、「ウィッグで白髪をカバーしますから、毛染めはしないで下さい。」と訴えられなかったのか!?
 要するに自分の頭での思考が叶わず、新しい美容師の“毛染め推奨”を丸のみにしてしまったのだろう。(参考だが、以前の美容師氏は義母に“毛染め”を推奨しなかったらしい。)

 私自身も過去に罹患した頭部皮膚癌摘出手術後の傷を隠す目的で、23年来ウィッグに依存している。
 そのウィッグが義母使用中のウィッグよりも大きいのに加え余る程に自宅にある故に、今度義母にプレゼントすると一応話をまとめて一件落着した。  

 ただ、義母とはそもそも そういう“他力本願”人格者である。
 少なくとも私が晩婚にて義母と知り合う以前より、あらゆる方面に於いて“主体性”に欠ける人物だった。

 医療依存然りだ。
 少しでも体調不良があると「お医者様に診てもらう」と言いつつすぐさま病院通いを始める。 我が晩婚当初より義母は物凄い数々の薬漬け状態だった。 医学関係者の私が何をアドバイスしようが、まったく聞く耳を持たないまま現在に至っている。
 そして医師の診断や処方された薬剤が絶対に効く、と信じて疑わない人生を辿って来ている。 今更ながらそれを誰が指導しようが、既に手遅れ状態… 
 それでも、元々丈夫な体質の人なのだろう。(認知症状と耳の聞こえの悪さ以外の話だが。) 日々医師に処方された劇薬の数々を飲みつつ、87歳の現在何らの致命的疾患も無く、日々杖もつかずに近隣散歩を趣味としながら、ケアマネ氏を捕まえては苦情を垂れつつ施設で元気に生きているのだから。


 さて、その「医療依存」に関してだが。

 本日朝見たネット情報に、医学関係者の立場として “やっとこの種の情報がネット上に出回るようになったか”、と安堵させられる記述を発見した。
 早速、以下に一部を要約して紹介しよう。 

 “ピンクリボン運動”を筆頭に、受診を促すイベントや施策は数多い。 しかし、どこで何才のときに、どのくらいの頻度で受けるべきか、必要ない検診・検査は何なのか教えてくれる医師や自治体はほとんどない。 受けても無駄な検査を盛り込まれて、お金を搾り取られてしまうケースまである、と話すのは某医療ジャーナリスト氏。
 「中には人間ドックを主として、附属のクリニックを設けているところもあります。 一概に全部とはいえませんが、お金儲けのために値段の高い医療を施される危険もあり要注意といえる。たとえ『大きい病院に行きなさい』と他院を紹介されたとしても、患者としては『治るのだろうか』『今後どうなるのか』などと不安が募るものですし、とかく余計なストレスがかかります」
 また、尿酸値に加え、心電図の検査も現在ではやる意味が変わってきているようだ。 国立がん研究センターの検診研究部長の某氏解説する。「尿酸値の検査は無駄ですね。もしそれが高くても、結果として起こるのは痛風くらい。死ぬほど痛いといいますが、死ぬ病気ではないので、起きてから治療しても遅くない。薬をのむなら一生のことになるので、食事制限に限ります。スポーツ選手などであれば別ですが、一般の人にはあまり重要ではないでしょう」
 一方、心電図についてはどうなのだろうか。 「心電図は、心臓の筋肉に障害が起きる心筋症の診断には役立ちますが、治療が必要なかたにはだるさや動悸、息切れといった自覚症状がある。不整脈であっても、『あ、脈が飛んだ』と自分自身でわかるもの。現在では心電図の重要性は薄れてきています」
 高いコレステロール値も、「単に基準値以内ならば手放しで安心ではありません」と某医師が解説する。「コレステロール値は、善玉と悪玉の比率が大事なんです。LH比といって、コレステロールの数値自体が正常であっても、悪玉÷善玉が2.0以上だと動脈硬化の疑いがあります。また、LH比が2.5以上ですと心筋梗塞や脳血栓になるリスクが大きくなります。こういったことは結果通知には書かれていないことが多い」
 そして、今や「受けるべき」と喧伝されるがん検診。 その中には無駄であるばかりか、かえって害になるものまであるというから驚きだ。 2017年、部位別で日本のがん死亡者が最も多かったのが肺がん。男性の1位、女性でも2位に浮上している。この肺がんを見つける検診からもデメリットが明らかになっていると言うのは、某国立大学名誉教授で医師の某氏。「研究により、レントゲンによる肺がん検診では肺がんによる死亡率を減らせないことが立証されています。それどころか、むしろ検診を受けた群の肺がん患者が増加している。X線の被曝によるものではないかと推察される」
 労働者に義務付けられた年1回の健康診断の内容に「胸部X線」検査が入っているが、それは以前、結核が流行していた名残りだとも某氏は言う。 「今では結核は激減しており、全員に胸部X線を受けさせるメリットはない。それなのに、現在でも法律で受けることが義務付けられているのは重大な問題。 検査を拒否し、解雇された人もいるというから深刻です」
 事前に「受けるとがんが増える検査」と知っていたら、受けたいと思う人は誰もいないはずだ。
 (以上、今朝見たネット情報より一部を要約引用したもの。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 「医学」程、素人にとって高度(と表現すれば語弊があるだろうから言葉を変えると)“分かりにくい”分野は他に存在しないのでは無かろうか?  
 いやもちろん、もっと分かりにくい「科学分野」は幾らでも存在する。

 そんな中、「医学」の最大に厄介なところとは、“人命にかかわる”点だ!
 医学関係者が下手な発言をしたものならば、自分の医学者生命は二の次としても、世の人命にかかわってしまうのだ。 これぞ、実に厳しい現実だ!

 私事に戻るが、後に社会科学も学び「経営法学修士」を取得している我が身だが。
 この分野に関しては直接的に人命にかかわらないであろうため、比較的容易に自己のオピニオンを綴り公開出来る感覚があるのが実際正直なところでもある。

 ところが、こと医学分野のエッセイを綴り公開する際には「人命」に関する考察が不可欠なため、私としても緊張を強いられる課題である。

 それでも結論としては、上記に引用したネット情報を原左都子としては支持したいのが私論のまとめである……。

 ただやっぱり医学の心得が無い不特定多数の人達には、とりあえず医師(主治医)に頼れと指南するべきかなあ…

“成人式の黒歴史”  私もその部類かも…

2019年01月13日 | 自己実現
(写真は、朝日新聞昨日2019.01.12付夕刊記事「♯成人式の黒歴史」を転載したもの。)


 原左都子自身の“成人式の黒歴史”話題に関しては、本エッセイ集バックナンバーにて何度か取り上げているが…


 我が成人式が近づいた1年程前から、親どもから告げられていた言葉がある。

 「成人式の振袖程、この世で不要なものは無い。 あんなものは一切作らないから、そのお金を有効利用して何某か自分の夢を叶える事を考えなさい。」

 我が姉も成人式に振袖を作らなかったどころか、当時大阪で大学生だった姉は「成人式など絶対に出席しないし、郷里にも帰らない!」をずっと以前より宣言していた。
 とにかく自己中・わがまま放題に加え、郷里に女友達のただの一人もいない姉のそのマイナーな心理の程は親どもも私も理解していた。

 その前例もあって、親も意固地だった。 「姉にも振袖は作っていないから、貴方にも作らない。」
 分かりにくい理屈だが、それを両親から言われた時には、私側も別にそれで良いとも思っていた。
 両親共々公務員だった我が家は、決して貧困にあえいでいた訳ではない。 なのに何故、振袖を作らない事に関してこれ程に親が意固地だったのか、実は未かつて分からないままだ…。


 さて、その両親の考えに従い、私は成人式より半年前の19歳時の夏休みに「米国UCバークレー」へ短期留学した。
 それはそれは有意義で思い出深い1ヶ月を現地で過ごした。 30代後半独身時と、そして昨年夏にもUCバークレーへ三度(みたび)旅立った程の価値ある留学経験だった事には間違いない。

 ただ時は残酷だ。
 成人式が近づくにつれ、女友達間で「振袖」の話題に花が咲き始めた。 
 「私は赤の花柄」「私はグリーン系よ」等々、自分の振袖自慢を皆が披露するようになった。 大学へは県内広域のみならず近県各地から学生が集まっているため、私と成人式会場が重なる女友達は一人として存在しないのはラッキーなのだが…  それにしても、どうしてもその会話には入れず、置いてけぼりを食らわされたものだ。 ただ、友達皆が私の場合は振袖を作る代わりに米国短期留学をした事を承知していたため、特段私に後ろめたさも無いものと承知していたようだ。

 ところが実際の我が内面心理は、そう簡単では無かった。
 そんな折、(誰よりも長身の私に、振袖が似合うだろうに… )と多少親を恨み始めた私の下に、成人式の通知が届かなかったのだ。  秋頃に家を建替え一家で引越しをしたためか、引越し先にも元の住居地にも通知が届く事は無かった。
 これ幸いと私は成人式には出席しない宣言を親相手にした。 実際問題、当時より女子のほとんどが振袖で出席する成人式会場に、のこのこと平服で行ける訳など無いではないか!  遅ればせながら親が「役所へ確認しようか?」と聞くのだが「その必要はない!」と私はきっぱり言い切った。

 いや、後で思えば選択肢は複数あったはずだ。
 小学生の頃から貯蓄が趣味(参考だが、高校生の頃自主的に近くの郵便局へ行って通帳を作った記憶があり、その通帳に毎月の小遣いや学生時のアルバイト収入等々を貯め込んでいた)の私は、親の経済力になど依存せずとて自身の蓄えで振袖を作ることなど簡単な事だった。 どうしても振袖を着たければそうすれば良かったと今でも思ったりもする。

 何時の事だっただろうか?
 我が成人式が当の昔に過ぎ去り、既に上京後の事だっただろうか?
 特に母に対して、我が成人式時に何故「振袖を作ってくれなかったのか!?」なる思いを怨念を込めて確認したことがある。
 それを聞いた母が、大いに私に詫びた。「下の娘の貴方が成人式にそれ程までに振袖を着たかったことを今初めて知った。申し訳無かった。この償いは必ずする!」

 その母の「償い方」とは…。
 “どんだけ阿保か、お前は!”  と言いたい程に、その後すぐさま私宛に数々の和服を我が身長に合わせて郷里で仕立て、立派な和ダンスと共に送り届けて来たのだ!
 そんな愚かな我が母の“償い方”を一応尊重し、一度も袖を通す事の無い和服が現在の我が家の和ダンス一杯に収納されている… (二十歳のお祝いに振袖を着たかった“少女心”は本心だが、その後和服を着る趣味など毛頭ない!)


 時が過ぎ去り…
 我が母への復讐として、いつだったか歳老いた実母に私は思い切って告げた。
 「私が成人式を迎える以前から、我が国で女子を産んだ母親の役目として娘の成人式に「振袖」一枚仕立てる(レンタルでもよいが)のが常識だよ。 貴方はそれを当時理解していなかったよね。」
 母も反論しなかったが、その時私に告げたのは、「貴方が自分が産んだ娘の〇ちゃんにそうしてあげなさい」。

 我が母が私に成せなかった分を取り戻すべく、私は立派な振袖を我が最愛の娘に仕立ててやった。(ただ、そのスポンサーは義母だよ!) 実母であるアイツは孫娘のために一銭も出していやしない!

 何だかやはり、実母の持って生まれている人格の一部を今尚疑っている私ではあるが…。  
 ただ、もういい。 実母の施設入居後は、その世話をほとんどしてないに等しいし……


 冒頭の朝日新聞より転載した写真に話題を戻そう。

 この漫画作者氏は、要するに「成人式」に出た事により旧友より声掛けをして貰って“得るものがあった”との事だよね!
 良かったんじゃないかと、私は祝福したい!
 
 それに引き換え。
 毎年成人式会場にて女性陣に課せられている「振袖競争」! もういい加減に終焉してもよいのではないかとも考察するが…
 それを言ってしまったならば、我が国の「和服文化」が途絶えるって訳だよねえ……

絵むすび (朝日新聞2019.01.12編)

2019年01月12日 | 自己実現
 (写真は、朝日新聞2019.01.12付「絵むすび」に原左都子が解答したもの。)



 とりあえず、解答のみ公開します。

 後程、解説を付け加えます。


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 朝日新聞「絵むすび」ファンの皆様、お待たせ致しました。
 
 それでは、解説に入らせていただきましょう。


 今回の「絵むすび」は難易度3。

 やはり、簡単だった事でしょう。


 私の場合、既に「絵むすび」解答“マイスター”の域に達しているとバックナンバーにても「自負」しましたが、今回も“四角四面”を一見しただけで、およその解答の目途が立ちました。


 まず、注目するべきは右下に位置する「焚火」だろう。
 これを上に引っ張り左折して結んでしまっても、他のアイテムの邪魔にならなさそうだ。

 次に注目するべきは、左上の「とっくり」と「歯ブラシ」だ。
 その際同時に気を付けるべきアイテムは、「苺ホットケーキ」だろう。 “四角四面”の右側に空欄が多い事を勘案しつつ、その空欄をまっすぐ下に伸ばし、左折して結んでしまおう。

 更には「ウサギ」だが、これも右側の空欄を利用して結んでしまって不都合はないだろう。

 その後は、「帽子」と「とっくり」「歯ブラシ」の整合性を残った枡内で取れば解答完成だ!



 ところで「絵むすび」ファンの皆様は、他のパズルもご愛好であろうか?

 この原左都子がまさにパズルファンであり、日頃より暇さえあればネット上の無料パズルゲームを楽しんでいる。

 最近、凝っているのは「リバーシ」だ。
 実は私は、将棋や碁そしてチェス等々“盤もの”(と呼ぶのかどうかも知らないが)には全く縁の無い人生を歩んでしまっている。 (もしも子供時代にそれに縁があったならば、おそらく熱中しただろうに残念無念だが… )
 つい最近、碁分野の9歳天才少女が話題になっているが、いや実際羨ましいなあ。
 もしも我が家庭環境も同様だったならば、この私とて「天才少女」としてこの世に名を馳せられのに…… と見果てぬ夢を見たりもする…  それは冗談として。

 「リバーシ」に話を戻そう。
 とあるネット上でこれに初めて接したのは3ヶ月前程の事だった。
 最初は訳が分からずコンピュータ相手に闘っていたのだが、対戦を重ねるごとに少しずつ“訳が分かって”来た。 
 「リバーシ」の場合、1分以内の短時間で勝負が決まるのが嬉しい。 これ幸いと対戦を続けているうちに“訳が分かってきた”私が勝利出来るようになったのだ。 その後は連続勝利の実績を積み重ね、今に至っている。


 あるいは、昔から好んでいる「神経衰弱」ゲームも今尚好きだ。
 ところがネット上の無料ゲームに於いては、「トランプ」ではなく「絵柄」等々で神経衰弱の勝負を争うものも存在する。
 私の場合は、どうしても「トランプ神経衰弱」を好む。 何故かと言えば、我が脳内記憶が「数字」を嗜好している故と自己判断した。 
 「絵柄神経衰弱ゲーム」の場合、それを我が脳裏が「言語」に置き換える作業をしてしまうようで、「絵柄」そのものの記憶力が弱いと私自身が診断するのだが。

 これなど、まさに自身が学んだ過去に於ける教育に依存しているのではないか? などとも考察する。
 要するに美術家氏などは「絵柄神経衰弱」に強いのではないかと想像したりもするのだが、どうだろうか。

 
 それにしても、「パズル」なる娯楽が我が人生を活気づけてくれている事実に感謝申し上げたい。

 今後も、朝日新聞パズルの発展に期待しよう!

左都子コレクション - 銀座養清堂画廊 開催予告葉書編 -

2019年01月10日 | 芸術
 (写真は、この半年程の間に東京銀座養清堂画廊より自宅まで郵送されてきた個展開催予告ポストカードの一部。)


 まず、私と銀座養清堂画廊とのかかわりに関する話からしよう。

 私が銀座養清堂画廊を訪れたのは、今から遡る事13年前の2006年の事だった。
 当時中学1年生だった我が娘がお世話になっていた「造形スタジオ・油絵教室」の指導者 長はるこ先生(東京芸大ご出身の美術家であり数々の国際美術賞を受賞されるご活躍と共に、都心にてギャラリーも主宰されている人物だが。)が、この銀座養清堂画廊にて個展を開催されることになり、娘と二人でその鑑賞に伺った。

 この長はるこ先生には、その後も娘の美大受験(高2終盤に娘が美大受験を断念し大幅に進路を変更して現在に至っているが。)に際し、美大予備校のご紹介等々にて献身的にお世話いただいている。 
 加えて長はるこ先生とはその後も、先生の国際美術賞受賞(インド及びアルゼンチン ブエノスアイレス)に親の私がのこのこ付いて行かせて頂いたりと、後々までご縁がある方なのだが。


 さて、2006年の養清堂画廊に於ける長はるこ先生個展会場にて、私は先生作の一枚の作品を購入させて頂いた。
 はるこ先生の代表作である「B-cushion」シリーズの中の一枚、ロクタ紙なる特別注文された風情豊かな紙に印刷したピンク色が基調の作品が気に入った私は、それを買い求める事とした。
 その時の画廊にての風景が未だ記憶に鮮明なのだが。 
 おそらく画廊のオーナーと思しき男性が、「ご購入いただけるのですか。先生が喜ばれますよ。」と私に告げつつ、早速長はるこ先生まで電話を入れて下さった。(参考だが、当日はるこ先生は画廊には来ていらっしゃらなかった。) はるこ先生に電話にて購入の意思を告げた後、作品到着のスケジュール等々を話し合った記憶がある。)
 その後、おそらく現金払いにて画廊に代金を支払った(と記憶している)。 何分、当時よりずっと以前から“現金払い”をモットーとしていた私であり、当日もおおよその金額を予想して現金を持参していたものと振り返る。
 そして送り届けられた長はるこ先生の作品は、今尚我が家のリビングの一番目立つ場所に燦然と輝いている。(いや素晴らしいのは、あれから13年が経過した現在も南向きで日が当たるリビングにて、当時の発色のピンク色がそのまま美しく存在している事実だ。)


 で、銀座養清堂画廊との関係のその後だが…。

 その後娘が美大受験を取り止めた理由が一番大きいのだが、一切銀座の画廊現地に足を運んでいない。
 にもかかわらず、13年間の長き年月に渡り我が家に個展予告ポストカードが郵送され続けるのだ。
 これには私宛の郵便物になど一切興味が無い亭主も驚き、「これ一体いつまで送って来るのだろうね?」と言う始末。 私側もテキトーに応えて「まあ、10年ぐらじゃないの?」と返していたのだが、それを通り過ぎて既に13年!
 10年過ぎた頃に、実はあまりの多さに一旦廃棄処分にしてしまった。
 それでも、その葉書に描かれている予告作品が素晴らしくもあり、再びコレクションを始めたとの訳だ。

 今回冒頭写真で紹介した「個展予告葉書」は、ここ半年間程に届いた中から抜粋したものだ。 
 私とすればこれを垣間見せて貰えるだけでも、世の美術家(及びその卵達)が美術分野に於いて精進している実態が想像できる思いだ。

 我が娘が叶わなかった夢を叶えた(叶えようとしている)美術家達の個展予告をこのような形で見せて頂ける現状に、銀座養清堂画廊には感謝申し上げたくもある。

 (最後に、冒頭写真で実名の程が明瞭に映ってしまっている事実をお詫び申し上げます。)


何故、可愛い我が子に“奨学金”との借金を背負わせる?

2019年01月08日 | 教育・学校
 本日2019.01.08 昼のNHKニュースによると、東京都千代田区が保育士と介護職員の奨学金返済を支援する制度を設けたようだ。


 早速、以下に当該ニュースに関するネット情報を引用しよう。

 保育士と介護職員の確保を進めるため、東京 千代田区は、区内の施設で働く人たちの奨学金の返済を支援する独自の制度を設けることになった。 千代田区が設ける新たな制度は、区内で常勤で働く保育士と介護職員を対象に、大学や専門学校などに通う間に受けた奨学金の返済を助成するというもの。
 千代田区が区内の事業者に聞き取りを行ったところ、保育士・介護職員とも、奨学金の返済が長期にわたって負担になっているという声が多かったようだ。 このため千代田区は、最大で10年間、合わせて240万円を限度に返済の助成金として支給することで、保育士と介護職員の確保を進めるとともに、離職を防ぎたいとしている。 東京23区で保育士と介護職員の双方を対象とするのは初めて。
 千代田区は「人材確保を進めることで、保育や介護のサービスの向上につなげたい」としている。
 (以上、ネット情報より引用したもの。)


 一旦、私見に入ろう。

 本エッセイ集にても再三“子供の学費”に関する私論を公開しているが、私は断固として「子供の学費は親こそが負担するべき!」と主張する派だ!
 その私見に関して綴ったエッセイバックナンバーが何本か存在するが、そのうち、(その私論そのままの表題だが)2012.04.05バックナンバー「子どもの学費は親の責任に於いて負担するべき!」の一部を以下に再掲載させていただこう。

 「原左都子エッセイ集」2009年7月のバックナンバーに於いて、「高校無償化公約は安直過ぎる」 と題する記事を公開している。
 当時、民主党に政権交代する直前に選挙の“票取り目当て”で党が打ち出した「高校無償化」公約に大いに反発した私は、それを厳しくバッシングした。
 民主党は本気でそのような公約を打ち出しているのか? その財源確保案に国民公平性はあるのか?  そもそも高校無償化の前提として、現行の学校教育体系における“高校の義務教育化”の議論こそが優先されるべきではないのか?
 どうやら、政治にも“流行(はや)り”があるようだ。 政府やマスメディアが“少子化、少子化”と騒ぎ立て、それがこの世の“元凶”であるかのごとくの社会風潮が捏造されてしまうと、「子育て支援」する振りをして国民にお金をバラまきさえすれば国民の人気が取れると民主党は考えるに至るのであろう。 
 いくら何でもこの公約は保護者を甘やかし過ぎであるし、“付け焼刃”的政策としか言えないお粗末さである。  現在高校進学率が98%に達しているとは言え、現行の学校教育法の下で高校とは義務教育ではない。 現在不況が深刻になり高校生の子どもの授業料が支払えない保護者が激増しているとはいえ、“お金を配る”という至って安直な政策では「子育て支援」を果たし得ないことは明白だ。 それよりも今民主党が優先するべきなのは、経済情勢の如何にかかわらず、可愛い我が子にたかだが年12万円(公立高校の1年間の学費相当額であるが)の高校の授業料を3年間支払ってやれない保護者を量産している、行政の“醜態の現状”こそを見直すことではないのか。  経済構造や雇用体制の見直し、また現行の教育制度改革による“国民が将来に渡って生きる力や自分が産んだ子どもを育てていける力のある”国民の生活基本力の育成等、次期政権を獲るべく目論んでいる政党が優先するべき課題は盛り沢山ではないのか。 “金のバラ撒き”などという、貧困にあえぐ国民をせせら笑うかのごとくの安直な公約ではなく、長期展望に立った成熟した政策を実行して欲しいものである。 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより要約引用)
 別のバックナンバーに於いても子どもの学費に関する見解を幾度か述べているが、私論としては子どもの学費とは親が支払って当然と考えるのだ。
 どういう訳かこの国の親どもの中には、自分の愛車を購入・維持する費用や携帯電話(現在はスマートフォンであろうか)を家族皆が持つ事こそが、子どもの教育費や義務教育過程の給食費を支払う事よりも重要との位置付けの人種が数多く存在するようだ。
 親とは決してそうではなく、愛車を売り払ってでも携帯電話を解約する等自分自身を多少犠牲にしてでも、可愛い我が子の教育費支出を最優先するべきではないのか! (との内容の記事を既に何度か公開している。)
 今回の我がエッセイに於いては、大学生の学費に関して私論を述べさせていただく事を主眼としている。
 私事になるが我が娘が今春入学した大学に於いても、なんと!4割にも上る学生が学費を各種「奨学金」に頼る現実との大学からの説明であった。 その「奨学金」を将来返済するのは卒業した学生本人であるらしい。 すなわち“出世払い”とでも表現できよう。
 この現象とは好意に解釈するならば、学問意欲や将来の就職の安定を我が身の事として自覚できている自立心旺盛な学生達が、親の経済力などに頼らず奨学金を利用してでもその道を極めたいとの“美談”と解釈できるのかもしれない。
 この現象を大学経営者である法人側から考察するならば、学校法人経営維持発展のため入学生に「奨学金」に依存させてでも定員以上の学生数を揃えたいとの、(特に私立)大学側の差し迫った事情もあろうか?
 ところがもっと厳しい現実問題として、この奨学金の返済滞納者が増えている実態でもあるようだ。
 日本学生支援機構に於いては、現在1万人を超える滞納者登録があるとのことだ。 その滞納が9ヶ月以上に及ぶと、奨学金返済を求めて裁判所に督促を申し立てられる運命となるようだ。 
 そのような厳しい「奨学金」制度の現実を招いている諸悪の根源とは、現在の「奨学金」とは名目のみで、その実態は「教育ローン」に他ならない程の高金利を課せられる事実との報道も見聞している。
 この現状では、現行の「奨学金」とはもはや「奨学金」とは呼称できない事実であろう。 子どもの学費を「奨学金」に依存し、その返済を子どもの“出世払い”に頼る親達とは、そんな厳しいこの世の現実を理解した上でそうしているのであろうか?? ( 中略 )
 最後に原左都子の私論に入ろう。
 可愛い我が子を大学へ入学させたい等々、子ども達に出来得る限りの高等教育を身につけさせたい親の思いは我が身を通じて重々理解申し上げる。 そうした場合、親の役割としてはまずその「学費」こそを確保することからスタートするのが常識なのではなかろうか?
 もちろん子ども達の個性はそれぞれであろう。 自立心旺盛に育った子どもの場合「奨学金」を頼ってでも大学へ入学して学問を探究したい!と親に訴えることでもあろう。 そんな健気な我が子に親が甘えて済む話なのだろうか? 
 少なくとも、現在の各種「奨学金」制度が於かれている厳しい現実を親の立場として認識する事から始めるべきだ。 現在の親の経済力の範囲内でその奨学金の返済が将来ままならない状況下を想定できたにもかかわらず、子どもの“出世払い”で大学へ入学させたとすれば、それは一種の“子ども虐待”と私は結論付ける。
 我が娘が今春入学した私立大学の学費とは、(正直言って)容易い金額ではない。 我が家においては、その4年間の学費総額を計画的に蓄積した後に可愛い娘を入学させている。
 この厳しい経済情勢の中、我が娘と同じ大学に入学した学生の4割が“出世払い”の「奨学金」に頼っている現実である。 もしかしてそれら学生達が近い将来就職難にあえがないとは限らない。 その場合、この国の「奨学金」制度とは親の責任を二の次に位置付け、現役学生達に更なる厳しい道程を歩ませるべく魂胆の上に成り立っている“弱者虐待ローン制度”との結論となろう。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を要約引用したもの。)


 最後に、私論を述べよう。

 冒頭に紹介した東京都千代田区の場合、奨学金返済援助職種を “保育士と介護職員” に限定しているようだ。
 これらは区側にとって必須職種であろうし、しかも厳しい労働条件下の現場で働く職員を支援せんとの意思は尊重したい。
 ただその内容を読むと、その援助金額が10年間限度で総額がたったの240万円とのこと。 単純計算すると年間24万円、月額2万円の援助だ。
 この少額の学費を、どうして親が可愛い子供に出資してやれなかったんだ?!?  しかもこの種の親程、可愛い我が子の働き・稼ぎに自身の生活や老後を依存せんとしている軟弱さ・愚かさであることが想像出来てしまい、実にやるせなくもある…。 
 更にはこの類の親ほど、(上述のごとく)自分の愛車を購入・維持する費用やスマホを家族皆が持つ事こそが、子どもの教育費や義務教育過程の給食費を支払う事よりも重要との位置付けなのだろう。

 保育士や介護士になった子どもの立場からの、奨学金援助に対する問題点もある。
 この恩恵があるお陰で、退職したくともそれを不能とする圧力が区側からかかる事態が懸念される。 未だ若き世代にして、その後の職業選択の自由度が制限されそうだ。
 

 世の子供を持つ親達よ。

 真に我が子が可愛いならば、その子の学費負担は“最低限”親の経済力で成すべきだ!
 その手段とは世の貧富の格差にかかわらず幾らでもあるはずと、私は推測・期待する。

 もしも自身の子が優秀(優秀のレベルも様々だろうが)ならば、その子の優秀さに依存してもよいだろう。
 (参考には一切ならない事例だろうが、我が二度めの大学・大学院6年間の学費すべてを私自身がそれまでに単独で備蓄した医学関連部門での収入や、勤労学生としての労働力にて賄って余りあった。)

 とにもかくにも自分が産んだ可愛い子供の教育費くらいは、親の責任として負担して当然!、と私は今後一生に渡り主張していきたい!!