原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「“商法”の対象」論 学説研究

2019年01月26日 | 左都子の市民講座
 今のこの時期、ちょうど大学の後期試験が実施されている頃だろうか?

 ここのところ、我がエッセイ集「左都子の市民講座」カテゴリーの閲覧が増えている。
 この「左都子の市民講座」は、“経営法学修士”を取得している我が学術経験や、高校教師として「商業法規」の授業を担当した時の授業ノートを参照しつつ、「法学」関連項目を中心に素人にも分かりやすく解説した内容である。

 近年綴った「左都子の市民講座」の中には、多少難易度を上げ、大学の定期試験にも対応できそうな話題も取り上げている。
 例えば2017.06.02公開の「普通取引約款に関する学説研究」などは、まさに我が学生時代に定期試験対策用として自分で模範解答を作成した内容である。
 本文内でも断っている通り、あくまでも30年程前の我が学生時代に記載したものであり、その後の法規改正等々時代の趨勢に対応出来得るものではなく、また学術的誤りも多々あろう事をご承知願った上で参照して頂ければ幸いなのだが。

 それにしても、ここのところ「左都子の市民講座」カテゴリーへの閲覧がスタンダードに寄せられている事実に気を良くして。
 本日の当エッセイ集に於いては、30年程前の我が「商法Ⅰ」大学講義ノートより、表題の「“商法”の対象」論に関して公開させていただこう。


「商法」とは何か。
 これに付き形式的意義に於ける商法、すなわち、「商法」という名称で制定された法典であると答える方法と、実質的意義における商法、すなわち、法律の規制対象とされる生活関係の実質的内容に基づいて分類される商法、と答える方法がある。 問題となるのは後者である。
 商法は、歴史的にまず商人法として生まれ発展した。 つまり商人という概念が先にあり、その商人の生活関係を規制対象とする法規制として商法が生まれた。 近代になり、商法はそれまでの商人法から商行為方へと転換した。 すなわち、誰であろうが商行為を行った時に生ずる生活関係を規制対象とされるようになる。 そうなると、一般市民の生活関係を規制する民法との規制対象との相違が問題となる。

 商法の規制対象に関する学説論争は、商法に定められた商行為を所与の前提としてこれを検討することから始まった。 
 「媒介行為説」とは、“固有の商”すなわち、財貨交換の媒体行為に着目し、そこから製造業、加工業、補助商、さらに第三者の商へと拡大し、それらを商行為と捉え商法の対象とした。 この説は発生史的な関連を説明しているが、固有の商とその他の商との共通の原理が明らかにされておらず、支持を失ってきている。
 「実証説」とは、商法典が商として定められているものが対象となると考えるものであるが、共通の原理を統一的に把握する事を断念しており、支持されていない。
 「商的色彩説」とは、民法が規定している対象がもっている特色を把握し、その中で商的色彩を持つものが商法の対象となる、と考えるものである。 やはり共通の原理を把握する事は断念しているが、民法に対する商法の独自性を理論的に確立するという役割を果たし、また、商行為についての統一的な把握への方法論的きっかけを提示したという点で意義がある。
 今日(30年程前時点)では、商法の対象を企業の生活関係として捉える「企業法説」が通説となっている。 すなわち、利潤追求の目的で投資するという経営の方法、方式により捉えるものである。 しかし、企業とは関係がないのに商法の対象とされているものもあり、これらは「企業法説」からすれば商法の対象から控除されるべきこととなる。 手形・小切手法は企業法に含まれるか否かの問題については、実務上、銀行と無関係に利用する事は稀であるため商法的であり含まれるとする。 独禁法については、自由競争における経済的秩序の維持が目的であり、商法とは経済に関する規制の仕方が異なるため含まれない、とするのが通説であるが、企業法の基本原理を定めているから商法に含まれる、とする説もある。

 現代(30年程前時点)の企業を鑑みた場合、利益の等質性、立場の相互交換性のような性質は既に失われており、従来の伝統的商法には企業の実態に合わなくなってきている。 商法典が基本ではあるが、独禁法、証取法等すべて含めて、新しい企業法として研究していく必要性がある。 新しい企業観に基づき企業の社会的責任を追及し、意思決定への市民の参加、情報の開示、また、集団企業の法規制、多国籍企業の法規制等も商法に加える必要がある。

 (以上、私が30年程前に大学の定期試験用に作成した記述を引用したもの。) 


 ここで私見だが。

 いやいや上記記述内の、特に最後の部分に記した内容など。
 あれから30年との年月が経過した現在、「商法」を取り巻く企業・経済社会環境が世界規模で大々的に移ろい行き目まぐるしい程の革新の一途を辿った。
 その間に我が国でも「商法改正」が実施され、現在の「商法」の“あり方”議論も大幅に移ろいだ事であろう。


 2008.01.04公開の「左都子の市民講座」バックナンバー「法の適用と解釈(その1)」に於いて、私は以下の記述をしている。
 
 法律は解釈論が面白い。
 元々理論派の私は法解釈の“理屈っぽさ”にはまってしまい、学業の中途から「経営法学」へ方向転換したといういきさつがある。

 まさにその通りだ!
 私が二度目に通った大学に「経営法学コース」があった事が実に幸いだった。
 そのコースにて素晴らしい指導教官氏との出会いが叶い、私はその後修士課程へ進学し「経営法学修士」を取得する事が叶った。

 この経験無くして、更に後の「原左都子エッセイ集」開設もあり得なかったこととも振り返る。
 いや、確かに元々理論派だった事実には間違いないが。
 それでもやはり、二度目の大学・大学院にて学び論文を書き上げた事実が大いに活き、その結果としてこの「原左都子エッセイ集」に於ける“辛口論評”が冴え渡る(??)結実となったものと自負している。

 当該エッセイは「左都子の市民講座」カテゴリーとして公開するため、私事の披露はこの辺で済ませよう。

 学生皆さんの向学心持続の程を応援しつつ、今後も機会ある毎に「左都子の市民講座」の充実も目指したいものだ!

我が娘が小室圭氏と結婚すると言っても私は断固反対する!

2019年01月24日 | 時事論評
 しつこくも、前回のエッセイの続編の形となるが。


 実際問題、年頃の娘を持つ一般人の立場で考察しても、小室圭氏程結婚相手の条件として“貧弱”な男はいないのではなかろうか?

 小室氏は「海の王子」コンテストとやらに出場して王子に選出されたらしが。
 そもそも男の立場でよくぞまあそんなものに出場したものだ。 今の時代、女子ですら“ミスコン”出場とはマイナスイメージでしかなく、それに選出されたものならば人間としての品格が下がってしまう感すらある。
 眞子さまとの婚約当初にこの話題を見聞した時から、私は小室圭氏の品格の程を疑っていた。

 そうしたところその我が感が当たったかのように、次々と小室氏に関するマイナス報道が世に渦巻くではないか。

 小室氏は「国際弁護士」になると言うが、何故「国際」であらねばならないんだ? 日本国内できちんと勉強して司法試験を受験し、“普通”の弁護士に成れば済む話だろう?
 要するに学力がそれに伴っていないのは見え見えだが、それならば自分の学力に見合う仕事を目指し、実直に頑張るべきだろう。

 この「国際弁護士」の話、どうも胡散臭い。

 どうやら母親の金銭問題で雲行きが怪しくなった頃に、急きょ米国留学を決定したようだが。
 巷の噂によれば、その費用は皇室(宮内庁?)が出しているとの事のようだが。 要するに、小室家が金銭トラブルを抱えているにもかかわらず、眞子さまの小室氏に対する“お気持ち”が変わらない事に鑑み皇室側がその対策を急いだのだろう。

 私見だが、その方策は大いなる誤りだ!
 皇室(秋篠宮家? 宮内庁?)側は小室氏側のトラブルにもかかわらず、眞子さまの小室氏に対する“お気持ち”を優先しようとの事だろうが。
 今時の世論に於いて、それが正解であるはずがない!

 今後民間人となって独り立ちする眞子さまの行く先こそ配慮するべきだ。
 婚姻時におそらく1億円を超過する「婚姻支度金」が支払われるのだろうが、1億円など、新居を購入したりその他の支出によりあっという間になくなるものだ。
 その後もおそらく小室氏はその能力の程にかかわらず皇室のコネにより何処かへ就職が叶うのだろうが、この結婚は小室氏の母親との“こぶつき”である事には間違いないだろう。 他人のカネばかり当てにしているこの母親の面倒まで公費(国民の血税)でみるつもりか?!? 国民としては、とんでもない話だ。

 しかも、小室氏本人の今後の勉学・勤労意欲の程も不確実性が高そうに思える。 育った環境によるのだろうが、母親同然に自力でこの世を生き抜こうとの意欲に欠落している人物のような感覚がある。
 
 加えて、眞子さまの“お気持ち”と言えども、それが変化したとて今時の国民にとっては何らの不都合も無いのではあるまいか?
 むしろ、ろくでもない相手(小室氏の事だが)にいつまでもこだわり続けるよりも、より適切なお相手を眞子さまに紹介し、その関係を成就させる事の方が国民説得力がある! と私は判断する。
 現に、国民間では晩婚化が急激に進んでいる。 眞子さまが晩婚であろうが、ろくでもない相手との結婚を急がせるよりもずっと国民にとって喜ばしいのではなかろうか?
 参考だが、天皇家の清子さんも晩婚だったではないか。


 話題を変えよう。

 本日、小室圭氏母親の元婚約者男性より出されたらしき更なるネット情報を発見した。
 以下に、それを引用しよう。

 秋篠宮家の長女・眞子さまとの結婚が延期になっている小室圭さんが、母親と元婚約者との金銭トラブルについて「解決済み」とする文書を公表したことについて、元婚約者の男性は「解決済みという認識はない」と反論した。
 小室さんは22日、報道各社に文書を送り、母親と元婚約者の金銭トラブルについて「解決済み」と主張した。文書では、「婚約中、金銭的な支援を受けた」としながらも、婚約解消の際に元婚約者から「返してもらうつもりはなかった」と明確な説明があり、「金銭的な問題は解決済みと2人は確認した」などとしている。
 これに対して元婚約者の男性は22日夜、JNNの取材に応じ「解決済みという認識はない」と反論した。
 「僕の記憶には少なくとも全く『返す必要はありません』と言った記憶ない。こちらにひと言もないまま、いきなり文書を出して、僕にコンタクトを何らかの形で取る方が先ではないか」
 一方で男性は、「小室さん側から協議の申し出があれば応じたい」との意向を示している。
 (以上、ネット情報より引用したもの。)

 一旦、私見だが。

 いやはや、この男性も苦渋の思いをしている事だろうなあ。
 過去に一時婚約した女性の息子が今や“時の人”となってしまい、皇室(宮内庁?)をバックに付けて、「自分達母息子は婚約者氏に借金をした訳ではなく、婚約者氏のご好意だった事で合意している」と宣言されてしまったのだから。
 何とも、お気の毒に思うよ…
 もし元婚約者氏に財力がおありならば、訴訟を起こして小室圭氏母息子と徹底的に闘う事をお勧めしたいが…
 ただ、眞子さまの小室氏に対する“お気持ち”の程が変わらない限りこの婚姻が成立してしまい、貴方は闇に葬られてしまうのも目に見える気がする… 


 最後に、私論を述べよう。

 我が娘も眞子さま同様に、(過去によく言われた言葉を使うと)“結婚適齢期”に達しているが。 もしも我が娘が小室圭氏のような男性を自宅に引き連れて来て「この人と結婚したい」と言ったならば…
 とりあえず私は、その男性に関する情報収集に躍起になる事だろう。
 そして、小室圭氏のごとくのバック情報を掴んだものならば。
 
 私は絶対的に、その結婚に反対する!
 我が家庭は学際色が強く、その環境下で娘を育てて来ている。 その観点から言わせていただくならば、正直言って小室圭氏は“学際色が貧弱”と判断せざるを得ない。

 それよりも何よりも、小室圭氏の家庭環境に於いて問題があり過ぎる。
 母親の婚約者氏の支援により教育を受けた、との事実を気にしない訳が無い!
 後は冒頭で述べた通りだ。

 再度、眞子さまの御両親であられる秋篠宮家にアドバイス申し上げたいが。

 今時、27歳など若いものだ。
 今後民間人として頑張らねばならない眞子さまご本人の立場を想像・熟考した上で、小室圭氏とのご婚姻が真に眞子さまの今後の幸せをもたらし得るのか否かを、今一度、親の立場で熟考・判断して欲しいものだ。

小室圭さん、要するに借金を返済していないという事だよね?

2019年01月22日 | 時事論評
 小室圭さん、貴方は既に27歳にもなっているらしいじゃないの。
 つべこべ釈明していないで、他人に支援してもらった借金など、母親にカネがないならばとっとと息子の貴方が返済しなさいよ!
 それもせずして、一体貴方は誰のお金やコネで米国へ弁護士留学しているの?
 そんなのさっさと取り止めて、今からでも遅くないから汗水たらして働いて、自分の力で借金チャラにするのが先決問題だろうに。
 まったくもって、いい年をした男が何を世間に甘えてるんだ?!
 そういう不甲斐ない貴方の姿を傍から見ていると、実に腹立たしいよ!


 と、ここまで書いたところで。
 本日昼頃、この事件に対する小室圭氏の母親の婚約者だった男性より、小室圭氏「説明文」に対する反論コメントが発表されたようだ。
 早速、以下にそのコメント内容を引用しよう。

    < 母の元婚約者「トラブル解決してない」小室圭さんに反論  >
  秋篠宮家の長女眞子さまと婚約が内定している小室圭さんが、週刊誌などで報道されてきた家族の金銭トラブルについて「解決済み」と理解してきたと主張していることに対し、小室家に金銭的支援をしたとされる男性は朝日新聞の取材に「トラブルは解決していない」と反論した。
 男性は小室さんの母親の元婚約者で、婚約期間中、小室さんの母親の求めに応じる形で生活費の支援や、圭さんの大学の費用、留学費やアナウンススクールの費用など400万円以上を援助した、と主張。「婚約解消を申し出たのは、金銭援助を求められることが常態化し、生活が苦しくなってきたからです」と述べた。
 婚約解消時、小室さんの母親から金銭の返済について「月々1万円くらいずつしかお返しできませんが」と申し出があったが、「それでは少なすぎるので再考してください」と断ったという。 男性は「交際期間中の食事代やプレゼント代まで返して欲しいわけではない。生活費や学費などは貸したつもりでいた。返済して欲しい気持ちは変わらない」と話している。
 (以上、ネット情報より引用したもの。)

 一旦、原左都子の私見だが。

 この問題、もはや小室圭氏側には何らの“勝ち目”も無い。
 これで眞子さまとの縁談話はきっぱりと破談だよ。
 しかも、どうしたというのか? 
 わずか400万円(ここで参考だが、社会人3年目の我が娘ですら、サリバン指導に基づき既にその金額をはるかに超える預金を自力で貯めているよ。)の生活費や小室氏の学費等々が自力で支払えなくて、母息子で婚約者を“かつあげ”しておきながら、「あちら(婚約者)の好意だった」としらを切り通すとは、まるでヤクザもどきだ。


 参考のため、今朝発見した小室圭氏側の主張である「説明文」をネット情報より以下に要約引用しよう。
 
 秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまとのご婚約が延期になっている小室圭さん(27)が22日、週刊誌で報じられた母と元婚約者の男性との金銭トラブルについて、代理人の弁護士を通じて、事情説明を行う文書を発表した。内容は以下の通り。
 私小室圭と母とその元婚約者の方との過去の関係について、一昨年からご心配をおかけしており、たいへん申し訳ありません。 元婚約者の方との関係について母に代わってご説明したいと考え、このような方法をとらせていただきました。
 私の母と元婚約者の方は、平成22年9月に婚約し、結婚生活を始める準備をしていました。母の再婚については私も嬉しく思いましたし、私自身も元婚約者の方とはとても親しくさせていただきました。婚約期間中、元婚約者の方から金銭的な支援を受けたこともあります。当時、母も私も元婚約者の方とは既に家族のようにお付き合いしており、ご厚意にたいへん感謝しておりました。
 平成24年9月、元婚約者の方から母に対して婚約を解消したいというお申し入れがありました。母は、突然の一方的な申し入れであり、また婚約を解消したい理由について明確なご説明をしていただけなかったことから憔悴した様子を見せていましたが、最終的には元婚約者の方のお気持ちは変わらないと理解し、お申し入れを受け入れました。 その際に母が婚約期間中に受けた支援については精算させていただきたいとお伝えしたところ、元婚約者の方から「返してもらうつもりはなかった」という明確なご説明がありました。 支援や慰謝料の点を含めて金銭的な問題はすべて解決済みであることを二人は確認したのです。実際に婚約解消後はしばらくの間は、私や母が元婚約者の方から金銭の返還を求められることはありませんでした。
 ところが、婚約を解消して1年ほどが経った平成25年8月ころ、母は元婚約者の方から交際していた期間に負担した費用の返還を求めるお手紙を受け取りました。婚約解消時の確認事項に反する突然の要求に驚いた母は、専門家に相談してアドバイスを受けるとともに、元婚約者の方と直接お目にかかって、ご要望には応じかねることとその理由をお伝えしました。母の話を聞いた元婚約者の方からは、私も専門家に相談して何かあればこちらから連絡しますという反応がありましたが、連絡が入ることはありませんでした。その後はご近所にお住まいだった元婚約者の方と自宅周辺で偶然お会いすることもありましたが、金銭の話題が出たことはありませんでした。
 多くの報道において借金トラブルが残っているとされていますが、このような経緯ですから母も私も元婚約者の方から支援については解決済みの事柄であると理解してまいりました。 そのため、平成29年12月から元婚約者の方のコメントだとされるものが連日報道される事態となり、私も母もたいへん困惑いたしました。元婚約者の方のご意向を測りかねたからです。
 報道されている問題に関する母と私の認識は以上のとおりですが、私も母も元婚約者の方からご支援を受けたことには今も感謝しておりますので、今後は元婚約者の方からご理解を得ることができるよう努めたいと考えております。
 私は現在、米国にて勉学に勤しむ機会をいただいております。 多くの方々に日々感謝いたしております。ご心配をいただいている方々のご納得をいただけるよう努力を重ねる覚悟でおりますので、どうか温かく見守っていただけますと幸いでございます。  平成31年1月22日 小室圭
 (以上、小室圭氏による「説明文」を要約引用したもの。)


 最後に、私論でまとめよう。

 繰り返すが、小室圭さんも貴方の母親もこの婚約者氏に“借金の返済”をしていない事には間違いないようだね。
 冒頭で述べた通り、貴方も母親もその借金を返済する努力を最優先するべきであるはずだ。
 どうしてそれをせずして、「あちら(婚約者)の好意だった」とか「返済しない事で同意している」などとの主張ばかりを繰り返すのか!?

 これ、立派な「刑事(民事か?)事件」として成立しそうにも感じる。
 小室圭氏の母親の元婚約者氏が訴訟を起こせば、両人共に法廷に立たねばならない事だろう。

 本エッセイ集バックナンバーでも、既に述べているが…
 そもそも、秋篠宮家も何故このような“ヤクザもどき”家庭に育っだ男を眞子さまの結婚相手候補に選抜したのか!?
 今更ながら「婚約に関して問題あり」と騒ぎ立てる以前の手段として、眞子さまと小室氏との交際段階初期時点に於いて、小室圭氏に関する内部調査を成すべきだった。

 そして、如何に考察しても男女関係に於いて“海千山千”であり得ない眞子さまの現在の純粋であろうご心情を察して余りある。
 人生に於いて唯一愛した男性が小室氏だったとの訳だろう…… 
 今更それを否定されたとて… 
 自由恋愛が出来る生活環境下にも無く…  
 どうやって次なる候補男性と知り合えと言うのか……

 ここはどうしても、秋篠宮家の力量が問われるのではあるまいか。
 高円宮家次女・三女の婚姻成功例を参照しながら、今後民間人として生き抜かねばならない大事な娘である眞子さまの幸せを真に願いつつ、行動・決断して欲しいものだ。

認知症だからと言って何しても許される訳はない

2019年01月20日 | 医学・医療・介護
 「人間の尊厳」、と口で言うのは簡単な事だが……


 認知症者の介護保証人を務め日々悪戦苦闘ている立場にして、それを経験しない人種よりその言葉を無責任に投げかけられる事実は、正直言って腹立たしい。

 いえいえ、“寛大な心”をモットーにストレスを内面に秘め、義母の人格を最大限尊重しつつ日々対応していますよ。


 義母介護関係話題のエッセイが続くが。

 実は先日義母の耳鼻科付き添いをして施設へ連れて戻った後に、事件が発生したのだ。
 ちょうど義母の部屋にて、ケアマネージャー氏と今後の補聴器の扱いに関して話し合っていた時の事だった。
 義母が、「今日耳鼻科に持って行った補聴器の電池を耳鼻科に置いて来た。」と訴える。
 (それを言うならば、せめて「私の不注意で忘れて来た」と表現するべきだろう、と内心イライラしつつ、 いつも物を無くすと直ぐに“盗られた”との被害妄想癖がある義母の習性を重々把握している私は、母に言った。
 「いいえ、今日お義母さんは電池を耳鼻科には持って行っていませんでしたよ。」
 (実際、私は耳鼻科到着後義母の所持品を確認したが、何故か?過去の補聴器を持参しているのみで、電池は見た記憶が無かった。 補聴器室を出る際にも必ずや義母の所持品を再確認するが、電池がテーブルの上に置かれている光景の記憶はない。)

 耳が聞こえにくい事もあろうが、私の話を完全無視した義母が血相を変えつつ、
 「また耳鼻科に電池を盗られた。直ぐに電話をかけて文句を言う!」と言い終わる間もなく、電話を掛けてしまった。
 そして更に血相を変え声を荒げつつ、「あのねえ。今日そちらに私の電池を置いて来たんですよ。補聴器室の机の上にありますから、返してくれませんか?!」と喧嘩口調だ。 
 それに応じて電話口に出た人物が補聴器室内を探してくれた様子で、「今探しましたが、電池はありませんでした。」
 義母応えて、「そんな訳ないでしょ! 私の電池ですから返して下さい!」
 ここで耳鼻科側の要望でやっと私が電話口に出る事が叶い、「申し訳ありません。 本日義母は耳鼻科へ電池を持って行かなかったと私は認識しております。 何分認知症故に物事の判断が付きにくいところがありますので、どうかお許し下さい。」等々と平謝りして電話を切った。
 幸い義母は私と耳鼻科との電話のやり取りが聞こえなかった様子だが。 その後も、「何ですって? 電池が見つからないのですって!? 私の電池なのに困るわねえ。」を繰り返す。(一番困るのは混乱しているアンタだろ!、と内心怒り心頭の私だが…) 

 そこで助っ人になって下さったのが、ケアマネ氏だ。
 「補聴器の電池は施設にも予備を保管してありますから、その電池を使用しましょう!」と義母をなだめて下さる。 そして早速事務室から義母の補聴器に合う電池を持参下さった。
 「これで、大丈夫ですよ!」とケアマネ氏。
 それに応えて義母曰く、「あら、電池があったのね。それは良かったわ。」 と機嫌を取り戻す義母に対し、「気持ちはスッキリしましたか?」」とケアマネ氏。
 「はい。」と義母がニコニコと返すものの…

 私の思いは複雑だ。 
 ただ、認知症状と耳の聞こえの悪さを併せ持つ義母相手に、これ以上議論を繰り返すのは不可能だろう。 
 その種のモヤモヤとした不信感が義母の内面心理の被害妄想を更に煽るのだろうが、これで一件落着に持ち込む事こそが認知症者対応として正解であろう、とケアマネ氏に内心拍手の私だ。

 しかもだ。
 現在義母が一番信頼し依存しているのが保証人であるこの私であり、それ以外誰一人として義母が頼れる人がいない現状だ。(参考だが、義母は我が亭主の事ももちろん信頼はしているが、この方面では“役に立たない”人材との事実を義母が認識出来ている、との裏事情がある。

 それを承知している私がこの件でとことん義母とやり合ったものならば、今後義母の心がますます荒廃し心の拠り所とする身内が皆無となるのが目に見える。 それにも配慮し、我が心理面でもこの件は一件落着とした。 


 この日のケアマネ氏との二者面談内で、興味深い話題があった。

 それは、「自分が認知症ではないかと恐れている人程、認知症にならない傾向にある。」との内容だ。
 言い換えるならば、「その種の認識がある人程、主体的に認知症予防に留意しつつしっかりと生きている。」、とのことだろう。

 その通りだ。

 義母などその対極に存在している高齢者であろうと、義母に会う都度感じさせられる。
 いつも私に会う都度義母が訴える口癖があるのだが。 「あのねえ。 このケアマンションは“頭の変な人”はいないと聞いていたのだけど、私以外は“頭が変な人”ばかりなのよ。 これじゃ、まともに付き合えないしホントに困るわ…」 
 これに如何に返答するべきか、いつも困惑させられる。 「お義母さんこそが一番“頭が変”ですよ!」と喉まで出かかるのを何とか抑えるので精一杯だ。 そして、(これを冗談ではなく本気で言っているのか??!)かと、不思議な感覚にも囚われる。 

 そんな私は、いつも考える。
 この「認知症者問題」、介護保証人や介護施設が当該認知症者の人権を尊厳している“ふり”をして(言い換えるならば)表向き認知症者にヘラヘラ対応をして、それで済む話なのかと。

 実際問題、世の中には認知症者にして車の運転をし、死亡事故を起こした高齢者もいる。
 この事例の場合は、認知症者本人が刑罰を受けた事だろう…

 片や義母のように被害妄想があって、常に「お金を盗られた」「電池を盗られた」と他者を疑ってかかり騒ぎ立てるのも、犯罪の一種として取り締まるとの一件落着手段がありそうな気もしてくる。
 
 認知症者の「尊厳」ねえ。
 確かに認知症者の場合、本人に悪意が無くしてその症状が出現しているのだろうから責任を問うのは困難としても。

 せめて若き頃より各々が主体的に生きる事を習慣付け、国民皆がその予防に励む事により、将来的に認知症を回避出来、他者に迷惑を掛けずに済むようにも考察するのだが。
 その「認知症予防手段」を国家を挙げて(と言えば大袈裟かもしれないが)、せめて学校教育現場にて指導可能ならば、将来に於ける認知症者の“量産”を防げる気もするが。 現政権下では到底無理難題だろうねえ。

 とにかく、この国の市民達よ。
 将来「認知症」になりたい人はいない事であろう。 違うか??
 そうであるとするならば、今からでも遅くないからその自助努力を成そうではないか!

“一人で飯が食える女” の姿がすっかり板についた私

2019年01月18日 | 自己実現
 (写真は、昨夜義母の病院付き添い後一人で立ち寄った回転寿司屋にて。)


 昨日の義母病院付き添い程、ストレスフルな業は無かった程に疲労困憊した。

 何せ、急な話だった。 次回の義母耳鼻科受診は1月末のはずなのに、義母からの連絡で「補聴器が壊れて困っている。」との事だ。 昨年10月に作り替えたばかりなのに、新品の補聴器の一体何処をどうやって壊したのか想像も付かないが、義母より訴えを聞いたならば付き添うしかない。

 元々日々のスケジュール管理が綿密な私である。 こういう“不意打ち”は大の苦手であるし、実際後々のスケジュールまでもが変更を迫られる。 
 認知症高齢者の保証人として、何を我がまま言ってるんだ!? と思う方もおられるだろうが…。
 とにかく、いつ何時も主体的に生きつつ自己管理力旺盛な私にとっては実にストレスフルであり、迷惑この上ないのだ。


 そして昨日、義母を伴って耳鼻科へ足を運び、三度(みたび)の補聴器担当者である“ギリシャ彫刻張り”イケメン氏とのご対面だ。(当エッセイ集を継続してお読み下さっている方々は当該イケメン氏の事をご存知だろうが。)
 そのイケメン氏ですら嘆いておられた。 「我が社の補聴器を利用下さっているのは高齢者が大多数だが、〇さん(義母の事)ほどトラブル多発にして、それをすぐさま耳鼻科に訴え出て来る人は他に類を見ない。 実際本日のような急な故障修理依頼はさほど経験しない。今日は義母さん相手に少し厳しくご指導しますが、よろしいでしょうか?」 
 私応えて、「どんどんご指導下さい!」

 ただ残念な事には、義母側にその指導を聞く能力が元より欠如している。 それもイケメン氏に説明するのだが…

 結局は高齢者施設に義母を連れて戻った後、施設のケアマネ氏に補聴器の取り扱いに際するご協力をお願いする方策を取った。
 ちょうど、その日は秋頃から義母担当のケアマネ氏との初めての面談が実施された。 その際に、現ケアマネ氏に義母の補聴器の現状をお聞き頂き、今後のサポートを申し出た。
 とは言えども、ケアマネ氏とて日々の業務で精一杯の現状である事を重々ご理解申し上げている。
 はてさて、今後いつまた、義母は「補聴器がまた壊れた」と私に訴えて来るのだろう…… 


 義母の耳鼻科付き添い、及びケアマネ氏との面談を終えて施設を出たら既に外は真っ暗闇だ。

 こんなストレスフルな日を耐え抜いた暁には、“一人で一杯やりたい なあ”、 と思いついた私は、すぐさま亭主にその旨連絡した。
 そして「OK!」回答を貰い、いそいそと回転寿司屋を目指した。
 その回転寿司屋で撮影したのが、冒頭の写真だ。


 ここで、本エッセイ集2014.03.08付バックナンバーにて綴った 「身内高齢者を“あの世”へ送った後も一人で飯を食える女でありたい」 と題するエッセイの一部を以下に再度要約引用させていただこう。

 本日(2014.03.08)先ほどNHKテレビで放映された 連続ドラマ「ごちそうさん」内で、主人公め以子の義理姉 和枝が、め以子に向かって発したセリフが現在の我が身とピタリとダブる思いだ。
 「女とはなあ、家族皆を一人ずつ(あの世に)見送ってまた見送って、その後我が身だけ残された後に(この世で)一人でご飯を食べつつ生き残る宿命を背負ってるんや。 あんたも若気の至りで“一人でご飯を食べるのが寂しい”などと言うとらんと、ちょっとは一人でご飯を食べれるようになりや。」
 (原左都子の記憶のみに頼り綴っておりますので、ドラマ内セリフと多少異なっているであろう事をお詫び申し上げます。)
 まさに和枝さんがおっしゃる通りの宿命を、女性は背負って生まれてきていると実感させられる今日この頃の私だ。
 そんな私にとっても、め以子の軟弱さはふがいないし鬱陶しい。 と言うよりも、この場面のドラマシナリオ自体が不自然との実感を抱かされる。 何故、“いけず”の義理姉と一緒に食事をしたいとの発想がめ以子側から出るのか?  何も好き好んで自分を敬遠しようとしている相手(和枝)と本気で食事を一緒にしたい訳などあり得ないだろうに…。
 もしも私が和枝の立場であるとて、め以子と一緒に食事をする事など断じて御免蒙りたい思いだ。
 ここで私事を語るが、私は過去に於いて40歳近くまでの約17年間に及ぶ単独独身生活を貫いてきている。 その間、気心知れた彼氏や友人や職場の上司や仲間と一緒に外食(そのほとんが飲み会なのだが…)をする機会を数多く経験している。 我が若かりし時代のノスタルジーを語ろうが、らちが明かない事など承知の上での話題だが…。
 悲しいことに現自民党安倍政権とは憲法解釈等により、極論を言うならば、我が国を「戦争が出来る国」に仕立て上げようとしている事実に、その政権運営実態から推し量る国民が少なくない事であろう。
 現在放映中のNHKドラマ「ごちそうさん」とは、後半に於いて昭和戦時中に庶民が国家から理不尽や不自由を強いられた時代背景を描くことにより、現在政権を担っている安倍政権へ“ささやかな抵抗”を試みようとの趣旨と受け取っているのは原左都子だけだろうか??
 話題が変わるが、一昨日、私は保証人を担当している親族の一人である義母を伴った旅行から帰宅した。 人生の終盤にさしかかっている(?)義母から、「人生最高の旅行だった!」との感想を頂戴したことが何よりの私の喜びとも実感している今現在だ。
 そんな私は、近い未来に親族皆を“あの世”へ見送った後にも“一人でご飯を食べる”事など容易な事として今は認識している。
 次世代を力強く生き抜かねばならない我が娘に、我が老後の支援など一切頼りたくない思いが強靭だ!
 加えて、集団嫌いな私がまかり間違っても将来「ケアマンション」で集団生活など出来る訳もない。
 ドラマ「ごちそうさん」の和枝さんがおっしゃる通り、女である私は身内皆をあの世に送った後の老後も“一人飯”を堪能し続けるであろうし、そうして生き延びるしか選択肢がない現実を今から切実に実感させられる思いでもある。
 (以上、当エッセイ集バックナンバーより一部を要約引用したもの。)


 最後に、私論でまとめよう。

 2014年時点での我が考察は、どうやらかなり“甘かった”ようだ。
 義母はまだまだ存命し、私の義母保証人との“生業”は今後も続くのだろう。

 なかなか“あの世”へ義母を送れそうもないものの……

 それでも何だか、この私に「1人で飯を食える女」の姿が“板について来た”ような感覚が客観的にあるのだ。
 とにかく“集団嫌い”の私である事は間違いない。
 今後ますますその特質が強靭となるであろう未来を想像しつつ、今後も「1人で飯を食える女」を堪能したいものだ。