原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

8月の米国西海岸旅行中にモントレー・カーメル方面訪問決定

2018年07月22日 | 雑記
 (写真は、今朝メールチェックしたら届いていた、モントレー・カーメル方面ツアーのバウチャー。)


 8月下旬に娘と二人で実施する“米国西海岸旅行”の残されていた後一つの訪問先が決定した。
 
 結局は現地のパッケージツアー会社が主催している、英語ガイドによるモントレー・カーメル方面パッケージツアー参加を選択した。 このツアーの道中に、目的のシリコンバレーにも立ち寄るとの情報も、このツアーを選択した決定打だった。

 ツアー情報によれば、当該ツアーへの日本人参加者は稀との事だ。
 参加者のほとんどが現地米国の人々であるらしく、ツアーバス内でフレンドリーに話しかけてくれたりして、外国人の参加者にとってはまたとない現地の人々とのコミュニケーションの場にもなり得そうだ。

 これならば、集団嫌いな私も下手な軋轢を感じずに済みそうでもある。
 (ただし、既に退化した英会話力を出発までに如何にブラッシュアップ可能かが一番の課題だが…)

 しかもこのツアーの特徴は、我々の宿泊ホテルまで迎えに来てくれる“ピックアップ”サービスもあるとの事だ。
 ただしその迎えのピックアップサービスを利用するには、現地到着後ツアー実施会社に電話を入れて、英語にて迎えの時間等々の最終確認を要するとのことだ。 (恐らく実行可能だろうが…)

 バスツアー中の “英語ガイド” も楽しみだ!
 まさに我が英語力が何処まで“退化”しているのかの確認が出来そうでもある。

 この現地ツアーを申込むに当たり、アドバイスを頂戴していた我がエッセイ集 読者のQAZさんにもここで御礼申し上げます。 (QAZさんは現役時代に米国西海岸のシリコンバレーやモントレーに幾度も出張されていた人物であられ、その過去のご経験によりモントレー訪問等々を推奨して下さっていた。)


 さて、それではモントレーとカーメルに関して、ウィキペディア情報よりほんの少しだけ、以下に紹介しておこう。

 まずは、モントレーから。
 モントレー、モンテレー(英語: Monterey [ˌmɒntəˈrei])は、アメリカ合衆国カリフォルニア州モントレー郡、太平洋岸のモントレー湾に位置する町。
 人口29,674人(2000年)。面積30.4km2。『歴史のゆりかご』と呼ばれている。 映画『エデンの東』の舞台となった。『モントレー・ジャズ・フェスティバル[2]』は2007年で開催50周年。1967年、モントレー・ポップ・フェスティバルを開催。

 次に、カーメル。
 カーメル・バイ・ザ・シー (英語: Carmel-by-the-Sea) は米国カリフォルニア州の小さな街。 通常カーメルと略される。 モントレー郡に属し、西は太平洋、北はモントレー半島に面する。 サンフランシスコからは南に約190km、ロスアンゼルスからは北に約530kmの位置にある。 人口は4,081人 (2000年)。 
 周囲の美しい景観と芸術家の集まる独特の雰囲気で知られる。 1906年、「芸術家や詩人の集まる街」、1910年、「カーメルの60%の住居が景観と融合した芸術として建設された」との特集記事がサンフランシスコの新聞に掲載された。この頃の議会は芸術家達に支配され、また歴代の市長には俳優、詩人、作家などが度々選出されている。 クリント・イーストウッドも1986-1988年にかけて市長を務めた。

 (以上、モントレー及びカーメルに関するウィキペディア情報を引用したもの。)


 ネット上で写真を検索しての感想だが。
 
 原左都子個人的には、後者のカーメルこそに興味が湧く。 確かに芸術性豊かな街と捉えた。
 
 ただ、たかがone dayのバスツアー (いやいや過去の個人海外旅行の経験からその詳細は不明だ。 参加者が少ない場合マイクロバス、あるいは下手をすると我々親子のみのワゴン車ツアーも考えられる。 いや、私などその方が自由度が高い故、それに期待したいものだが…


 何れにせよ、目指すべき旅行の内容を自身で明確にするステップを踏む程に、旅への夢が膨らむものでもある。
 本日仕事が休みの娘にもそれに同感して貰いたく思い、上記バウチャーのコピーを持たせた。

 米国旅立ちまで、後1ヶ月少し。
 ネット検索等々で更なる諸情報を集め、気分を十分に高揚させて出発したいものだ! 



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 前回公開した「骨折記念日」に関してですが、「原左都子エッセイ集」にて先に表題のみ公開後に、gooにて“表題同一”(盗作?? あるいは偶然?? 本文内容は全く異なるようですが)の記事を発見し、原左都子と致しましては釈然としませんので、こちら側から削除致しました。
 私どもの「骨折記念日」は既に完治している骨折に関する記載であり、今現在どうしても公開したい内容ではないこともありまして、改めてまたの機会に原左都子の「骨折記念日」を公開したく考えております。 (あるいは今後公開しないかもしれませんが、私どもの意向としましては何ら問題はございません…。  世には不意の骨折に苦しむ方々が数多い事でしょう。 負傷された皆様の1日でも早い回復をお祈り申し上げます。)
 
 

デニス・テン選手刺殺事件に、呆然とするばかり……

2018年07月20日 | 時事論評
 今朝一番にパソコンを開き、ネット情報を検索して、まさに呆然とさせられた。


 フィギュアスケート男子の14年ソチ五輪銅メダリストのデニス・テンさん(25)=カザフスタン=が19日、カザフスタンの最大都市・アルトマイの路上で刃物で刺され、亡くなった。「KAZPRAVDA」や「KAZINFORM」やなど複数の同国メディアが報じた。
 現地報道によると、テンさんは、アルトマイのダウンタウンで、テンさんの車のミラーを盗もうとした2人組に襲われ、大腿部などを刺された。救急搬送されたが、3リットルの血液を失うなど出血がひどく、重篤な状態が続いていた。
 テンさんは6月13日に25歳の誕生日を迎えたばかり。6月9日には首都アスタナでアイスショー「デニス・テン&フレンズショー」を開催し、織田信成、カロリーナ・コストナー、ジェレミー・アボットら多くのフィギュア仲間とショーを繰り広げていた。浅田真央も指導したタチアナ・タラソワコーチも姿を見せていた。
 各国から駆けつけたファンや仲間らから誕生日を祝福され、織田ら選手仲間のツイッターにも楽しげな写真が投稿されていたが、その1カ月後の悲劇となってしまった。

 表現豊かな滑りが武器で、日本にもファンが多かった。事件の直前には自身のSNSを更新していただけに、世界中から「信じられない」の声が相次いだ。
 27位に終わった18年平昌五輪後の今季も現役を続行。今季のグランプリ(GP)シリーズは五輪連覇の羽生も出場する第5戦ロシア杯(11月16~18日・モスクワ)にエントリーしていた。ソチ五輪ではSP9位からフリー3位と巻き返し、羽生結弦(23)=ANA=、平昌五輪後に引退を表明したカナダのパトリック・チャンさん(27)に次ぐ銅メダルを獲得。フィギュアスケートでカザフスタンに初めてメダルをもたらした英雄だった。
 多くのスケーターが、自身のSNS上で突然の死を追悼した。今季現役復帰を表明した高橋大輔(32)は「デニス…本当言葉が見つからない。誰にでも優しかった人がどおして。まだまだこれからだったのに。信じられない」。チャンさんは「共にスケートをできたことを大変光栄に思い、感謝します。彼は最も美しいスケーターの1人。デニスとの思い出を永遠に大切にしたい」とつづった。

 (以上、ネットよりデニス・テン選手の訃報に関する情報を2本転載した。)


 元々、フィギュアスケートファンの原左都子だ。
 
 カザフスタン代表のデニス・テン選手の存在は、ソチ五輪以前より認識していた。
 上記ネット情報に記されている通り、実に豊かな感性と共に繊細な演技力が特徴と私も捉え、応援していた。

 そのデニス・テン選手がソチ五輪で銅メダルに輝いた事実に関しては、すぐさま我がエッセイ集当時のバックナンバーにて論評している。
 ソチ五輪にて金メダル・銀メダルに位置付けた羽生結弦選手及びパトリック・チャン選手が失敗を重ねる中、テン選手の演技の方がずっと完成度が高かった故だ。

 
 その未だ25歳のテン選手が、な、なんと、テン選手所有車に取り付けられていたミラーを悪党に盗まれそうになった現場に遭遇し闘った挙句、大腿部をナイフで切られ、出血多量のため死に至ったとのュース報道だ。

 実にやるせない事件だ……
 テン選手が暮らすカザフスタンとの国は、それ程に治安が悪いのか?
 テン選手はその国家に於いて、英雄的存在だからこそ悪漢に狙われていたのか?
 その事件現場にたまたまテン選手が居合わせてしまったがばかりに、テン選手は出血多量で死に至らざるを得なかったの???


 フィギュアスケートファンの私としては、未だ25歳のデニス・テン選手の演技をもっともっと見たかったのに……
 この喪失感を、何処にぶつければよいのだろう…

 (朝一に綴りたかったエッセイだが、夜の時間帯の公開になってしまった… )

小1 猛暑下 校外学習で熱射病死、教員に医学教育を

2018年07月19日 | 教育・学校
 連日猛暑続きの日本列島だが、本日も東京都練馬区の公立高校で、クーラーの無い体育館にて集会中だった高校生数十人が救急搬送される被害に遭っている。 
 ニュース報道の生徒の談話によると、「体育館内は異様に暑く、大勢の生徒達が体調不良で苦しんでいた」らしい。
 幸いなことに重症者は少数のようだが…

 何故、学校現場とは同じ失敗を何度も繰り返すのか? 


 それでは、表題の小1熱射病死事件に関する2本のネット情報を、以下に引用しよう。

 男児熱射病死:救急要請遅れか   2018/07/19 06:30
 愛知県豊田市立梅坪小1年生の男児(6)が17日に校外学習後、熱射病で死亡した。 同市では18日も最高気温39.7度と連日の猛暑が続く。 授業中の痛ましい事故はなぜ防げなかったのか、再び悲劇を繰り返さないための対策は。
 「大事な命を守れず本当に申し訳ありません」。一夜明けた18日朝、体育館で全校児童約730人を前に籔下隆校長が謝罪した。
 男児は学校へ戻ると風通しの良い教室の一角で休んだが、体調が急速に悪化、20分後に意識を失った。 119番し病院へ向かったのはその20分後だった。市教委は「養護教諭を教室に呼んで対処したり、AED(自動体外式除細動器)で救命措置をしたりしており、搬送までにロスした時間はない」と説明する。
 しかし、日本救急医学会の対処法では、軽症の「1度」でも改善しなければすぐ病院へ搬送を求める。一方、市教委が5月に各校に配布したマニュアルには「適切な処理を行う」とあるだけで、どんな症状なら急いで119番すべきかなど具体的な指示はない。 県教委によると、初任者研修のほか熱中症を扱う教員研修はないという。
 熱中症に詳しい三宅康史・帝京大病院高度救命救急センター長は「そもそも帰り道で男児が『疲れた』と言った段階で歩かせるのをやめるべきだった」と指摘。 「子どもは暑い場所に長くいるのはよくない。単に日陰でなく冷房のきいた場所で『質のいい休憩』が必要で、車を同伴し体調が悪くなったら乗せるなど安全への工夫が不可欠だ」と求めた。
 校外学習をした和合公園は約1万1000平方メートルと広く、あずまや2棟のほか強い日差しを遮る樹木はほとんどない。 18日昼も耐えがたい暑さで人影はなかった。
 太田市長は18日の定例会見で「対策が不十分だった。中止の判断もあり得た」と陳謝した。県教委も同日、県内の公立校に対し「熱中症が危惧される場合は行事の縮小・中止も検討を」と再発防止策の徹底を通知したが、中止の判断基準は示していない。
 熱中症の研究に取り組む研究員(環境疫学)は事故の当時、5日連続で愛知県内に高温注意情報が出ていたことに注目。 「暑い日が続くことで体に疲れが蓄積しており、明らかに危険な状況だ」と指摘する。 さらに、今の生活様式が続く限り、地球温暖化で熱中症の患者は今後増えると強調。 学校や公共機関などは天気予報だけでなく、熱中症の危険度を知るため、環境省が明後日までの各地の予測値を公表している「暑さ指数」を見て、指針に従うことが必要だと訴えた。
 籔下校長は報道陣を前に今後の対策を説明した。 学校としての熱中症マニュアル作成▽「暑さ指数」に基づく「熱中症メーター」を校内6カ所に設置▽授業中に水分補給の時間を設ける▽塩分補給タブレットや保冷剤入りのクーラーボックスを用意する--などの内容。 学校行事の中止や延期などの見直しも進めるとし、まずは来週開かれる予定だった市内6小学校の合同スポーツ大会が中止になったと話した。籔下校長は事故当日の対応について「別のやり方があったはずだ」と述べ、学校の責任に言及した。

 児童らが同校から約1キロ離れた和合公園へ校外学習に出発した午前10時頃、同市の気温はすでに32度を超えていた。 籔下校長は、名古屋地方気象台が高温注意情報を出していたことを把握していたが、校外学習の実施を見合わせるなどの指示は出さず、教師らの判断にまかせていたという。
 児童らは帽子をかぶり、水筒を持っていたが、男児は担任に「疲れた」と訴えた。学校に戻った後の教室で、担任が話しかけているうちに唇が紫色になって同11時50分頃に意識を失い、搬送先の病院で午後0時55分頃に死亡が確認された。
 (以上、小1熱射病死に関する2本のネット情報を引用したもの。)

 
 最後に、原左都子の私論を述べよう。

 死亡6歳男児は校外学習前に、教員に対し「行きたくない」と訴えていたらしい。 当該児童は校外学習出発前より体調不良であったことも考察出来よう。
 そして、校外学習中も何度も「疲れた」と教員に訴えていたとの事。 
 その訴えに何故、教員は耳を傾けなかったのだろうか?

 私がこの児童の担任だったならば、まず“問診”に入り、腹痛や頭痛があるか? 他に痛いところがあるか? 等々を尋ねただろう。 そして体温計(教室に一つずつ配備しておいて欲しいが)があれば体温を測定し、脈拍数も確認するだろう。 (我が娘に対しても、幼少の頃より必ずやそれを実行している。)

 もちろん子どもの個性に多様性があるために、子ども個々の個性に応じた対応が望まれるのだが。 我が娘など生まれ持っての“寡黙性”のため、こちらからの聞き取り力こそが肝心要だったものだ。
 片や死亡小1児童の性質の程は、報道のみでは計り知れない。 万一、常に「疲れた」等々を多言する児童だった場合、教員側も扱いに苦慮した事も想像可能だが……。

 そうだとして、当該児童が猛暑下で幾度も「疲れた」を発している事実は捨て置けない事実であろう。
 我が推測に過ぎないが、短時間後に死に至る程の“疲れよう”とは、外見的にも尋常では無いように察するのだが、担任はそれを如何に捉えたのだろうか??

 そして、学校に戻った後の養護教諭の対応は如何なるものだったのだろうか?  養護教諭とはある程度の「医学」教育を受けている故に、このような事例の場合、児童の異常を把握し次第対応出来たはずだ。
 上記ネット情報によると、どうやら担任の対応に一番ネックがありそうだ。 養護教諭を呼んだのが児童の体調が急激に悪化し救急搬送連絡後の事のようだ。

 これはやはり、児童・生徒と日頃直にかかわる一般教員こそに、基本的な医学教育を施すべきだろう。

 それと同時に。

 何故、この国の行政は事無き時に安穏としているのか?
 有事の際等、事ある毎に一応騒ぎ立てるふりをするのはお得意の様子だが、その後またその分野が平穏に戻ると“知らん顔”。
 (現在発生している「西日本豪雨」対応もおそらく然りだろうが…) 

 そんな行政に慣れ切った僕(しもべ)の学校現場教員達がそれを真似る姿も、既に見飽きた。
 悲しいかな、本気で子供達の生命を守ろうと志しているとは到底思えない教育行政の現状を晒したかのごとくの、今回の小1児童熱射病死事件である……。

被災者に我慢を強いる避難所のあり方、改善不能なものか?

2018年07月17日 | 時事論評
 2011.03.11に勃発した「東日本大震災」の半月後に、私は以下のエッセイを公開している。

 2011.03.28 公開バックナンバー 「避難生活能力のない私」と題するエッセイの一部を要約して、以下に紹介させていただこう。

 東日本大震災における避難者は昨日時点で未だ24万人を超過しているようであるが、震災発生より半月余りが経過して、尚先々の見通しが立たず不便な避難生活を余儀なくされているご苦悩を推し量って余りある。 
 当エッセイ集のバックナンバー「大震災被災者支援強化に向けての一提案」において、原左都子は、震災の影響がないかあるいは影響が少ない地域こそが、今こそ避難者を受け入れるべきだとの提案をした。
 日本各地の自治体とて思いは同じだったようで、その後全国各地で避難者受入れ体制が整い、多くの避難者が既に各自治体の避難所で生活を始めているようだ。 被災地の自治体丸ごと県外避難をしている地域もあると聞く。
 ただ、中には被災地域内でのつながりを尊重したり、あるいは受入先への気兼ねや不安から県外移転に踏み切れない避難市民も多く存在するとの報道である。 そのお気持ちも重々察する事は可能だ。 それ故に、災害を受けた地の安全性を確保した上での「仮設住宅」の建設も急いで欲しい思いだ。
 私が何故に自宅を離れて不自由な日々を送る避難者の皆さんを慮るのかと言うと、それはどう考察しても、私自身が避難生活を送れる“キャパシティ”がないと判断しているためである。
 今回の東日本大震災のごとくの歴史的大震災にかかわらず、過去における災害に於いて日本各地の市民の皆さんが何処かに避難を余儀なくされているとの報道を見聞するにつけ、「私は自宅で留まって死を覚悟する方がいい」などと家族に宣言している程だ。??
 それ程に私は、避難生活とは過酷であることが既に想像できている。
 私の場合、過去における癌罹患の置き土産である“頭の傷痕”の問題もある。 普段外出する時にはウィッグを使用しているが、自宅では当然ながらそんなものは使用せずガーゼで覆って頭皮をごまかしている。 その“ガーゼ頭”のままでは一歩も人前に出られないことは承知しているが、まさか緊急時にウィッグを被る余裕はないであろう。 奇跡的にウィッグを装着できる時間があったとしても、まさか避難所でそれを被り続けたものなら夜も熟睡できないであろうし、それよりも頭皮が不衛生状態を余儀なくされる。  そんな不自由な思いを半月余りも耐え続けねばならないならば、私はいっそ自宅で“美しく”?? 死に遂げた方がましかとも普段考えているのだが…   ところが、我が家族の誰もがこんな私の“苦悩美談”に耳を傾けないのは、“どうせあいつは家族を捨て置いてでも自分の傷頭を振り乱しつつ一目散に逃げるに決まっているぞ!” と判断しているからなのか???
 冗談はさて置き、それ以前の問題として私には避難所生活の適性はないと言い切れる。
 元々集団行動が苦手である。 それに加えて人に世話を焼かれる事に関しても多いなる抵抗感がある。 もしも避難所において、どなたかが何らかの“歪んだ”指導をし始めたものなら、それに食って掛かかりそうな気質でもある。 その種の感情を押さえ込んで指導者に迎合する気が一切ない私は、どう考察しても避難所生活は不能である。 
 そんな私は、今回の東日本大震災において避難を余儀なくされている避難者の皆さんの長い期間に渡る不自由や苦悩、そして精神的忍耐力の程を察して余りあるのだ。
 (以上、長くなったが、本エッセイ集バックナンバーより一部を要約引用したもの。)


 話題を現在に移そう。

 西日本豪雨災害の発生から既に10日が経過している。
 被災地では猛暑にも苛まれ、被災者皆様が過酷な環境に置かれている現実だ。
 水道こそ少しづつ復旧し、物資も全国から届き始めつつあるとの情報だが、未だ電気・ガスは復旧されないままとのニュース報道だ。

 そんな中、テレビニュース映像で映し出される各地の避難所の様子を垣間見るに、旧態依然として「雑魚寝」状態…。 避難生活能力のない我が身としては、あの場でしばらく暮らさざるを得ない被災者皆様の苦悩の程を思って余りある。

 昨日2018.07.16付朝日新聞“社説”のテーマは、「避難所の環境 脱『雑魚寝」を急ごう」だったのだが、その内容を以下に要約して紹介しよう。
 我が国は、何度も自然災害に見舞われてきていながら、驚く事に、避難所の光景は半世紀以上あまり変わっていない。 無意識のうちに「避難所とはああいうもの」と思い込んでいないだろうか。
 今回、変化の兆しが生まれている。 事前の生産業者との防災協定に基づいて、岡山県倉敷市は、避難者全員分の段ボールベッド配給を要求した。 これを期に避難所のあり方の「標準」を変えていきたい。
 避難所の環境を改善することは、大切な問題だ。 混雑している発災直後はやむを得ないとして、体育館などの床で横になる生活を続けていると、エコノミークラス症候群になる恐れが大きい。 泥やほこりを吸いやすく、呼吸器障害も懸念される。 内閣府もこうした点を踏まえ16年に定めたガイドラインで「継続的な避難者には簡易ベッドの確保を」と促している。
 しかしその後も、都道府県が協定を結んでいることを被災市町村が知らずに支給を要請しない例や、現地に届いているのに「日本人は床で寝るものだ」とお蔵入りさせてしまうケースがあったという。
 政府は今回の西日本豪雨被害に於て、被災地からの要請を待たない「プッシュ型」支援の対象物資に段ボールベッドを加えた。 引き続き、政府は避難所環境の底上げに旗を振って欲しい。 ベッドだけでなく、被災者の「我慢」を当たり前といない避難所にしていくべきだ。
 (以上、朝日新聞“社説”より一部を引用したもの。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 まさに、上記朝日新聞 “社説” に記されている結論通りであろう。
 政府は今回の西日本豪雨被害を受けて、「プッシュ型」支援体制を採用したとの事実のようだが。
 災害現地での「プッシュ型支援体制」実施状況や、被災者皆様からの反応の実態を随時調査する作業こそを、政府は是非共怠らないで欲しいものだ。 
 
 そして被災地の、特に「避難所」にて生活せざるを得ない市民の皆様も、如何なる厳しい環境下に於いてもご自身が市民・国民として最低限の“生きる権利”を有している事実を思い起こしていただきたい。

 そのための前提として、役所側こそが「日本人は床で寝るものだ」なる旧態依然とした“馬鹿げた”発想を捨て去ることから始めるべきだろう。

 避難所で過ごす能力にはやはり欠けていそうな私だが……

 避難所で暮らさざるを得ない被災者の皆様がほんの少しでも快適に暮らせ、その人権が守られる事を祈る次第である。

昨日猛暑の中、娘の部屋カーテン総取替えの大作業

2018年07月15日 | 仕事・就職
 娘の個室のカーテンは、そもそも前住居のリビングルームにて使用していたものを、私が手作業でサイズを作り変えて再利用してきた。
 我が手作業と言えども裁縫の専門力があるでもなく、また、元々のカーテンの寸法が娘の部屋より短いものを、娘が素直なのを良きこととして、無理やり利用させて来たに過ぎない。

 白いレースカーテンがカビで黒ずんでいるのが目立つのを、私も承知していた。 そろそろ新品に買替時かと思っていたら、娘よりの「部屋がカビ臭いからカーテンを取り換えたい」との要望だ。

 今時、幾らでも手段が選べる。
 完全オーダーにして、プロに採寸から取付けまで丸ごとお任せするとの手もあろう。
 ただ、サリバンの私は考えた。
 ここは、娘に「カーテンの取替え」作業を任せてみようかと。 そうする事により、娘の職場での仕事ぶりがある程度想像出来そうに思えた。

 まず、ネット通販利用を娘に示唆した。 
 それに従って娘は単独で業者を選択し、早速採寸作業に入ったようだ。 それに私がアドバイスして、「表のカーテンより裏のレースカーテンの丈を少し短めにした方がいいよ。」
 すかざず娘から「それはネット通販画面に詳細が記されているよ。 それにアジャスターもあるから少しの誤差程度は後で調節可能なようだよ。」
 「こりゃまた、失礼致しました!」  ここはもう、本気で娘に任せよう、と思いつつ、「遮光度や防カビ、防炎等々も選択出来ると思うから、それもしようね」  娘応えて、「もう、したよ。」
 (こりゃ、ヘボい親なぞ要らんなあ~~、 恐れ入りました。)だ。 

 そして娘が “あす楽” で発注したカーテンは、その翌日直ぐに自宅に到着した。
 娘留守中にこっそりと、先に開けてみると。
 何とも美しい“ソフトエメラルドグリーン”のカーテンがそこに梱包されていた。
 (そう言えば、あの子、成人式の振袖もソフトエメラルドグリーン基調の色彩物を選んだなあ。)などと郷愁に浸りつつ…
 (今週末は3連休だし、カーテン取替え作業もあの子に任せよう)、と考えた私は今一度梱包をし直した。

 
 さて、その週末がやって来た。
 娘にカーテン取替えを任せるとは言えども、全8枚、しかもカーテンのサイズが大きいため一人では大作業だ。 ここは当然ながらサリバンが手伝う事となろう。
 「カビ臭さの原因は窓にもあろうから、ついでに“窓拭き”もしよう。」といつもの“指導ぐせ”をサリバンの私が発揮すると、娘が素直に従う。

 早速古いカーテンを取り外そうとしたが、205cmと丈が長いため、思ったより困難だ。 脚立は元々無いが、椅子を利用しようとしても、大型家具に邪魔されて椅子が窓まで入れられない。 
 「私(参考だが、私の方が娘よりも身長が5cm高い)が、カーテンの取り外しを担当するから、貴方はカーテンを取り外した窓から拭き始めなさい。」 相変わらずの“指導ぐせ”を反省しつつも、娘はすぐさま“窓ふき”作業を開始した。
 カーテンを外しつつ娘の作業ぶりを垣間見るに、“真面目な働きぶり”だ。 元々スローテンポの娘だが、やる事は丁寧・確実でもある。 これにスピードが加わると申し分ないのだが、多くを望むよりもその真面目な働きぶりを評価するべきだろう。

 昨日、東京は今夏最初の“猛暑日”を記録したが、窓のカビ取りをするに際し、まさか窓を閉めてクーラーをつける訳にはいかない。 「窓拭きが終了するまでは、クーラー無しで我慢よ!」などと口うるさいサリバンだが、一つの文句を言うでもなく、相変わらず娘は寡黙に働いている。
 「西日本豪雨被災地は、この猛暑の中、土砂撤去作業で皆大汗を流しているよ。 我々も頑張ろう!」とまたまたサリバンが言うのを聞いているのか聞いていないのか、黙々と労働する娘だ。 (この子は職場でもこんな働きぶりなのだろうなあ。 まあ、おべんちゃら言いまくるよりも、真面目が一番さ!) と自己肯定に入るサリバン…… 


 新しいカーテンのアジャスター調整に意外と戸惑ったものの、最後の作業は、新しいカーテン取り付けだ。
 これは是非、娘本人にやらせたい。
 どうしても届かない箇所は私が担当し、ベッド上で作業が出来る窓は娘に取付けさせた。

 全ての作業を終了して、ソフトエメラルドグリーンカーテンに見入った二人だ。

 「綺麗だねえ。 この色、この部屋によく合ってるよ。」と褒め称えるサリバンに対し、娘もまんざらではない様子だ。


 で、娘の働きぶりはどうかって?
  
 いい部分を十分に開花させて育っている様子が、その作業ぶりによく出ていた。
 私が上司ならば、この子の働きぶりで十分だ。