原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

ルネサンス期にフィレンチェを支配したメディチ家

2016年01月13日 | 学問・研究
 2週間後の1月27日より、私はイタリアのローマ・フィレンチェ間を列車にて移動の旅に出る。
 本日のエッセイはその“下調べ”の目的で綴る事を、最初にお断りしておく。

 私は高校・中学「社会」「商業」教職免許を取得し、過去に高校教員経験がある。 とは言え、そもそも教師となった頃の私の専門は「経営法学」(大学院修士課程にて「経営法学修士」を取得)であり、その関連科目の「商業法規」「商業経済」あるいは「現代社会」を中心に授業を担当させてもらったのみだ。
 そんな私はどちらかと言えば、「歴史」(日本史、世界史にかかわらず)は苦手だ。  現在の教職免許取得制度に於いて「社会」は「地歴」「公民」に分類されていると認識しているが、もしも私が「歴史」の授業を持たされたものなら、さぞや苦慮したことであろう。

 私がイタリアを旅するのは、今回2度目だ。
 最初に訪れたのは、1979年我が24歳時である。 ロンドン・パリ・ローマを巡る12日間程の団体旅行に参加し、イタリアはローマのみ訪問している。
 何せ団体旅行との全てにおいて制限がある旅形式であり、要するに名所・旧跡を中心に巡るツアーだった。

 そんな中、ローマで私が一番印象深かったのは、ブランド店を巡り買い物をする都度、私の財布に吊り下げていた“キーホルダー”(おそらく鈴等の和風もの)に若き女性店員氏達が興味を示したことだ。 「それが欲しい!」と店員氏達が訴えてくる。 (へえ、さすがにファッションの都ローマだなあ)などと感心しつつも、それを易々とプレゼントする訳にはいかない。
 そうしたところ、某ブランド店の女性店員氏が 「バックを内緒で値引きするから、どうしても私にそのキーホルダーを譲って欲しい!」と訴えて来た。 これには降参して、その女性にキーホルダーをプレゼントした。
 その時の教訓から、私は今回のイタリア旅行に於いては100円ショップにて“和風キーホルダー”を複数買い求め、イタリアンガールズに配る体制を整えている。 
 と言っても、1970年代以降時代が劇的に変遷した今時、国際競争力に欠けている日本の製品など世界中の誰もが欲しいと思わないのかもね…。
 そうだとして旅とは国内外にかかわりなく現地の人との“一期一会”こそが醍醐味、と私は今でも考えている。


 前置きが長引いたが、そろそろこの辺でフィレンチェの歴史検索の旅へ出よう。
 (以下は、ウィキペディア情報より引用させて頂く事をお断りしておく。)

 メディチ家は、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭。 フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。 その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。
 歴代の当主たちが集めた美術品などはウフィツィ美術館などに残され、また、ピッティ宮殿などのメディチ家を称える建造物も多数フィレンツェに残された。

 「メディチ」は「医師」、「医学」、「医薬」という意味であり、先祖は薬種問屋か医師であったのではないかとされており、13世紀のフィレンツェ政府の評議会議員の記録に既にメディチの名前が残されている。 
 14世紀には銀行家として台頭し、フィレンツェ共和国政府にもメンバーを送りこむまでになった。 その後、下層労働者と新興商人が結んだチョンピの乱では、メディチ一族のサルヴェストロが活躍するが、反対派のアルビッツィ家らに巻き返されて失敗する。 そうした中で後のメディチ一族の基礎を作ったのはヴィエーリ・ディ・カンビオ(1323年 - 1395年)である。 ヴィエーリはローマ教皇庁にもつながりを持って、銀行業で成功した。

 メディチ家は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360年 - 1429年)の代に銀行業で大きな成功を収める。 メディチ銀行はローマやヴェネツィアへ支店網を広げ、1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功した。

 ジョヴァンニの息子コジモ(1389年 - 1464年、コジモ・イル・ヴェッキオ)は政敵によって一時追放されるが、1434年にフィレンツェに帰還し、政府の実権を握る(1434年から一時期を除き、1737年までのメディチ家の支配体制の基礎が確立する)。 メディチ家はイタリアだけでなくヨーロッパでも有数の大富豪となった。
 コジモの孫のロレンツォ(1449年 - 1492年)は優れた政治・外交能力を持っていた。イタリア各国の利害を調整する立場として大きな影響力を振るい、信頼を得ていた。 
 ロレンツォが43歳の若さで病死し、長男のピエロが家督を継ぐが、1494年のシャルル8世率いるフランス軍の侵攻に対する対処を誤り、市民の怒りを買ってしまう。 メディチ家はフィレンツェを追放され、メディチ銀行も破綻した。
 1512年、ジョヴァンニを筆頭にしたメディチ家は、ハプスブルク家の援助を得てスペイン軍と共にフィレンツェに復帰し、その支配を再確立した。 1513年、ジョヴァンニは教皇レオ10世として即位し(在位:1513年 - 1521年)、メディチ家はフィレンツェとローマ教皇領を支配する門閥となった。 レオ10世は芸術を愛好し、ローマを中心にルネサンスの文化の最盛期をもたらしたが、多額の浪費を続けて教皇庁の財政逼迫を招き、サン・ピエトロ大聖堂建設のためとして大がかりな贖宥状(いわゆる免罪符)の販売を認めたことで、1517年のマルティン・ルターによる宗教改革運動のきっかけを作った。
   (  中 略  )
 トスカーナ大公国は、フェルディナンド1世(在位:1587年 - 1609年)を最後にしてイタリアの一小国になった。 教皇位もレオ11世が1605年に即位したが、1年もたたずに急死、以降メディチ家は教皇に任命されなかった。
 1737年、第7代トスカーナ大公ジャン・ガストーネが後継者を残さずに死亡した。 トスカーナ大公位は、ロレーヌ家のフランツ・シュテファン(神聖ローマ皇帝フランツ1世)が継承した。 こうして、西ヨーロッパにその名を馳せたメディチ家は断絶した。  この家系は、現在も血脈を保っている。
 (以上、ウィキペディア情報より一部を要約引用。)

 
 何と言ってもフィレンチェ探索とは、メディチ家の歴史を辿る旅物語となりそうだ。

 既に私が訪問先候補として挙げている 「ウフィツィ美術館」 などは、メディチ家コジモ1世の命(めい)により1580年に完成したルネッサンス建築を誇る美術館であるらしい。 ただし海外旅行者に物凄く人気がある美術館であるらしく、予約必須との情報だ。 果たして訪れられるのかどうか… せめて外見のみでも見学して来よう!

 更には、15世紀にピッティ家の邸宅として建てられた宮殿もあるらしく、そこにはラファエロやルーベンスの傑作を収蔵した美術館等があるそうだ。
 フィレンチェ初心者向けとして、「パラディーナ美術館」や「サンマルコ美術館」、「アカデミア美術館」等もあるらしいが、私が調べたところによれば、すべて一人当たり“5~10ユーロ”程の入場料がかかりそうだ。

 庶民の我が身の立場としては、他にもシニョーリア広場やアルノ川沿の中央市場やメルカート(お土産屋)も期待できそうだ。 
 とにもかくにも今回の我が旅行予算に応じた旅を、如何に楽しめるかが一番の課題となろう。

へえ、熟年亭主に関心持って欲しい妻がいるんだ…

2016年01月11日 | 恋愛・男女関係
 (写真は、2年前にプロが撮影した当時20歳だった我が娘の成人祝い振袖縮小写真。 本文とはまったく無関係です。)


 本日1月11日は「成人の日」だ。

 テレビ報道等で成人式の様子を垣間見るに、成人を迎えた男女があまりにも“幼い(と言うか“子供じみている”)風貌であるのに、改めて驚かされる。
 それはおそらく外見的要因のみならず、彼らの態度やしぐさ、言葉遣い等が幼さを醸し出しているとも想像可能だ。

 外見から論評するに、特に女性の場合、皆が皆同じような振袖を着て同じように髪を結っている。 いやいや振袖の色合いや柄、そしてヘアスタイル等は当然個々に異なっているのだが、私の視点からみると、皆に共通するコンセプトがありそうだ。  それは、決して「美しさ」でも「大人」でもなく、(悪い表現を使うと)“低俗”で“ダサい”事であるようだ。 今時の20歳達は敢えてそれを狙っているとも捉えられる。
 そして例年の事だが、振袖姿で常にスマホをいじり、落ち着きなくただただ皆で空騒ぎして戯れている。 (この人達、これで選挙権が与えられるのか? それでいいのか、この国は??)とついつい嘆きたくもなる。

 冒頭で紹介した我が娘は2年前に、「成人式になど出席したって何のメリットもない」と言い切り、同年の若人達が集う成人式に出席する事を最後まで徹底して拒否し続けた。 それも我が子のポリシーと理解して、私もそれを受け入れた事を思い起こす。
 早いもので、あれから2年の年月が流れている。


 話題を表題に戻そう。

 ただおそらく、今年20歳を迎えた若人達は、実生活上はそれぞれの恋愛などを謳歌し楽しんでいる事だろう。
 若気の至りとは実に素晴らしい事実だ。 お互いに信じ合い、裏切られ、そしてまた新しい人生を取り戻し、未来を見つめ直す…  それを繰り返しつつ未来に向かい更なる成長を遂げていく事こそが、若者の特権だ。
 私自身にもそういう時代があった。 (と言うよりも、私の場合は自分の意思でその時代を40歳近くまでの長きに渡り続ける事としたのだが… ) それは若さ故の貴重な時代であったと表現出来よう。


 さてここで、1月9日付朝日新聞“悩みのるつぼ”に話を移すこととしよう。

 早速以下に、50代妻氏よりの「私の心に関心ない夫」 と題する相談内容を要約して紹介する。

 結婚10年目の50代主婦だが、夫との会話が続かず悩んでいる。 夫は単に寡黙とか口下手ではなく、要するに彼は、私の気持ちや行動や人生に対して全然興味を持っていない。 興味がないから質問しない。 私だけでなく、人間関係全般に関して同様で、親友もおらず親兄弟にもそんな感じで接する。 でも、真面目な働き者で人当たりもいいため職場では同僚から信頼され、「いい人」の典型的な存在として通っている。 本人もそんな自分に自信があり、何の不自由も感じていない。 
 でも妻としては「寂しい」の一言だ。彼は家事も育児も手伝ってくれるイクメンだが、イクメンでなくていいから「君はどう思う?」と聞いて欲しいとさえ思う。 私の心に無関心な人と一緒にいてもリラックスできない。 おそらく彼は「いい人」を保つために相手に近づき過ぎず、興味も持たないという道を選んで生きてきたのだろう。 そんな彼を変える事を諦めて、私が変わるしかないと思うのだが、どうしたらよいのか。
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”相談内容を要約したもの。)


 今回の回答者は、社会学者 上野千鶴子氏であられるのだが、その回答内容が原左都子の私論とほぼ一致する。
 ここは、上野氏のご回答は新聞紙上にてお読み頂くとして、以下に原左都子の私論でまとめさせていただこう。

 晩婚夫婦とて、様々である事を思い知らされる相談内容である。

 相談者も晩婚にて子どもを設けておられるようだが、どうやら平穏無事に出産され、夫氏の“イクメン力”との助力に頼りつつ無事に子供を育てておられるご様子だ。
 その事実のみを取り上げても、私には羨ましいばかりの話である。 何分、晩婚高齢出産にて誕生した我が娘は、出産当初より若干の事情を抱えていた。 にもかかわらず、我が亭主に関しては結婚前よりイクメンなど望むべくもなく、亭主自体に手がかかる事を承知した上での共同生活だった。 最初から母である私一人のサリバン力にて我が娘を育て上げよう!と志し、それを現在に至って実行している。

 それでも私は、我が亭主が「私の心に関心がないから寂しい」、などとの心境に陥ったことはただの一度も無い。
 むしろ、日々の家庭内での所雑な事象において亭主は手がかかる存在だ。  が、我が娘の教育・指導を筆頭に私に一任して自由にさせてくれる亭主に感謝感激だったものだ。(今も引き続きの話だが)  そうやって、我が子の22年間の教育・指導が一応成就し、我が家全体が上手く機能していると私は確信している。

 私が想像するに、上記の朝日新聞相談者である50代妻氏は、もしかしたら、若気の至りの時代に於ける「恋愛経験」に乏しいのではあるまいか?
 晩婚にてやっとこさ出会えたご亭主に、自分の人生すべてを“おんぶ”するべくして婚姻に至ったとも想像可能だ。

 しかもご亭主側の事情に関しては相談内容から推測不能だが、50代妻である貴方の内心の思いをまったく理解していない現状なのではなかろうか。
 一体全体このご夫婦に普段どれ程の会話があるかは不明だ。 が、私が想像するに、妻側こそがもしかしたら寡黙な人物であり、夫氏に対して自由に会話が出来ないような雰囲気のご家庭とも想像可能だ。
 家族関係とはまさに個々に多様であろうが、ここは思い切って、妻であられる50代女性から今の気持ちを夫氏に打ち明ける勇気を持たれては如何かと、アドバイスしたい。

 我が家の事例を語っても何の参考にもならない事は承知の上だが、日々大喧嘩を繰り広げお互いの人権を侵害する程の激しいバトルを展開しつつも、何とか夫婦関係とは繋がるものだとの暗黙の了解がある。

 相談者氏も、相手が自分に「関心があるかどうか」なる、まるで今年20歳になったばかりのような可愛らしい心境を持ち続けるよりも、ここは思い切ってご亭主氏とバトルを承知で、とことん語り合う機会を持たれては如何だろうか。

本人確認が厳格過ぎると消費経済が停滞する

2016年01月09日 | 時事論評
 1月末にイタリアのローマ・フィレンチェ方面へ旅に出る予定の私は、現在暇をみつけてはその準備を少しずつ進めている。


 海外旅行損害保険は既に契約した。

 そもそも私は海外へ旅に出る時にも、損害保険には加入しない主義を長年貫いて来た。 幸いにも保険のお世話になるような事態に陥らずにずっと済んでいたのだが…
 ところが9年程前に、エジプト・ギリシャ方面へ家族旅行に出かけた折に、娘が40℃近い高熱を出しホテルで寝込んだ際、添乗員氏にこっ酷く叱られたのだ。 
 「えっ! 未成年の子供さんを引き連れての海外旅行に保険に加入していないのですか! 親として何を考えているのですか? このままギリシャに残る事になっても私(及び旅行会社)は一切の責任を持てません!」
 私も負けていない。 「娘が高熱を出すのは幼少の頃より日常茶飯事です。 私は医学関係者ですし、今回の旅行中の発熱も想定内でした。 日程が予想以上にハードで無理があった故に一時的に高熱を出しているだけで、一昼夜ホテルで安静にすれば必ず明日までには娘の熱は下がります。 それはお約束します。」
 そして私の予言通り、娘はあくる朝には平熱にまで下がり、多少顔色が悪いものの次なる訪問地のエジプトまでのフライトが叶った。
 それにしても、団体旅行参加者の皆さんにご心配をかけたのは事実だ。 添乗員氏のみならず、旅行参加者の皆さんから次の日の朝、ホテルのロビーにて「娘さんの体調が回復して良かったですね!」のコールが巻き起こった事に、親として申し訳ないやら恥ずかしいやらの思いで、穴があったら入りたい肩身の狭い心境だったものだ。

 そんなこんなでそれ以降は我が身一人であれ娘を引き連れてであれ、海外旅行に出る際には必ず損害保険に加入する事にしている。
 ただし何を補償して欲しいとて、私なりのポリシーはある。 一番の候補として挙げられるのは、携帯品損害だ。 例えば空港で預けたスーツケースが行方不明になるなど昔からよくある例であり、その確率は低いとは言えないだろう。
 更には、今回の旅行に於いて一番危ぶまれるのが“テロ対応”だ。 これを補償内容として列挙している保険に加入したのは当然の事だ。

 それらを兼ね備えているネット加入可能な海外旅行保険を選び契約したのだが、保険加入に際しては本人確認は一切なく、即時に加入契約が成立したのは何よりだ。
 これを消費者側から考察するに、要するに海外旅行保険など保険会社側から言えば、“坊主丸儲け商売”だからではあるまいか。
 “入るは天国、保険金との補償を受ける際は地獄” とも表現可能な保険業界に於いて、顧客が保険に入りたいと申し出れば喜んでそれに応じる事であろう。 ところが一旦海外で補償を受けねばならない事態に遭遇した時に、これ程即時対応してくれるのかどうかが不安材料である。


 海外旅行保険の話題が長引いたが、次なる課題は「外貨交換」だ。

 私が初めて海外を訪れた(米国へ短期留学した)のは今から遡る事42年程前の19歳(1974年)時点なのだが、当時過疎地に住んでいた私にとって「外貨交換」に難儀させられた記憶がある。 とにもかくにも当時は銀行でしが外貨交換を扱っておらず、特に過疎地に於いてはそれを扱う銀行が本店のみだったのではなかろうか??  一体如何なる手段で外貨交換(¥から$への交換だが、当時は為替が¥360ー固定相場だった)したかの記憶がない。

 その意味では、現在は革新的な進化を遂げていると言えよう。
 如何なる場所でも、如何なる業者も外貨両替を扱っている現状だ。 こうなると顧客側としては、これまたその選択に苦慮する事態と相成る。

 とりあえず私が採った行動とは、円・ユーロ間の相場の動きに注目する事だ。 年末から年始にかけてその動向に注視しているとかなり大きな動きがあった。
 年頭に至り少し為替相場が落ち着いたかに思えた1月5日に、私はネット上にて“一番安価でユーロを購入可能な”業者をしらみつぶしに検索した。
 それはそれは、数多くの業界業者が競って外貨を販売している。 私のネット検索によれば、ユーロが一番安価だったのは、三井住友銀行だ。 ところが当該銀行の場合、口座を開設せねばならない。 これは避けたい。 あるいは、金券ショップが安価だとの情報も得た。 ところがその後私がネット検索したところ、さほどの安価ではない。

 そうして私が探り当てた、私にとって最小安価にてユーロを購入可能な場とは「ゆうちょ」だったのだ。
 私の場合既にゆうちょに口座を持っている。 それを利用すれば即刻“振替”により翌日ユーロを自宅まで届けてくれるとのシステムだ。

 ところが…
 翌日待てども、ユーロは自宅に届かない。 おそらくこちらの前日の申し込み時間が夜だった故と判断し、もう一日待つ事にした。
 翌々日のネット検索「追跡調査」によれば、確かに私が発注したユーロは、外貨取扱いゆうちょ銀行より発送されている! これはもうすぐ我が手元に届くぞ!と思いきや、次なる記載は「配達ゆうちょ郵便局にて保管、保管期間は1月17日」との事だ。
 これに憤った私は、早速配達郵便局へ電話をかけた。 そうしたところ、係員から返って来た応答に更に愕然とさせられる…
 「お客様が発注された配達書留は、本人確認を要します。 もしもお客様が今すぐ入用でしたら身分証明書を持参して郵便局窓口まで来ていただければ即刻お引き渡し致します。  そうでなくご自宅でお待ち頂く場合、郵便局からお手紙をご自宅まで届けますので、それが届いた後に電話かFAXにて再度お届け日時をご指定下さい。 その日時に、書留郵便をご自宅に持参します。」

 いやはや、これで商売が成り立つと信じている「ゆうちょ」なる大規模組織の行く末を案じるばかりだ…


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 確かに金融機関を通して“振り込め詐欺”等の犯罪が後を絶たないばかりか、手口を変えつつ巧妙に弱者を狙う犯罪が悪質化している現状に一般市民としても心を傷めざるを得ない。

 たとえそうだとしても、それに甘んじて(あるいはそれを好都合と利用して)金融機関が一番大事に扱うべきであろう顧客の利益を軽視・損害するとは一体どうしたことか??

 しかも本人証明を強要する金融機関だが、そのセキュリティ対策に対しても私は疑義を呈さざるを得ない。
 例えば、一昨日我が自宅までユーロを持参したゆうちょ職員氏の私の運転免許証の確認が、単に番号記述だった事態に首を傾げざるを得ないのだ。  私自身の感覚だと、運転免許証に写っている私と家にいる私とではまったく印象が異なり、ほぼ別人と自分自身で認識している(外出する時には厚化粧で変貌する)のだが、それの本人確認が本当に可能だったのだろうか?!??

 とにもかくにもユーロを翌日届けると記載しておきながら、その実態とは「本人確認」のために3日を要した場合、発注した顧客が既に旅に出てしまっている事態となることも懸念される。
 
 いい加減な本人確認を実行し顧客に迷惑をかけるより、もっと有効な犯罪対策を打ち出せねば、今後の金融機関の未来はないと私は警告したいのだが如何だろうか!??

「しつけ」という言葉に私は違和感・嫌悪感を抱く

2016年01月07日 | 教育・学校
 年末年始に朝日新聞のまとめ読みをしていて、オピニオンページの「声」欄内に子供の「しつけ」に関する討論コーナーを見つけた。


 私自身、娘を一人育てている。 
 現在22歳だが、今春大学を(娘なりに立派に??)卒業する予定で、4月には職業人として社会へ旅立つまでに成長してくれているが、未だ育て途中とも表現出来よう。

 我が娘の場合、出産時のトラブルにより若干の事情を抱えての誕生だったため、その後の教育・指導の道程は母として並大抵のものではなかった。 娘のサリバン先生の立場でこの22年間誠心誠意全力投入し、娘の成長のために我が人生を捧げて来たといっても過言ではない。

 だがそれでも、私は娘に対して「しつけ」をしたとの認識はない。 何をしてきたかと言えば、まさにサリバン先生の立場として、娘がこの世を自力で一生に渡り生き抜くべくの「教育・指導」である。

 そもそも「しつけ」という言葉自体が、権力者から目下の子供に対する強制力を伴った行為を想定させられるし、教育者側の“傲慢さ”の匂いが漂い、嫌悪感すら抱かされるのだ。
 どこの誰が、可愛い子供に対して「独裁者」に成り得るのだ!? 
 悪い例ではあるが、子供を虐待して傷つけ苦しめる親ほど、この「しつけ」なる言葉を使って自己を正当化したがる社会風潮があるように私は捉えている。
 

 そんな私にとって、「しつけ」をテーマに討論が繰り広げられている朝日新聞「声」欄の“存在自体”こそが違和感を抱かされるものだった。

 それでも、世間一般の親達や教育関係者達が、子供を「しつけ」るという事に対して如何なる思想を抱いているのかを把握したく考え、当該「声」欄を読んだ。 以下にその内容の一部を(原左都子なりにアレンジしつつ)要約して紹介しよう。

 議論の種を撒いたのは、40代中学教員氏だったようだ。
 「しつけとは我慢を教えること」と題し、教員氏は生徒達の外見の乱れ(茶髪、ピアス等々)を殊更取り上げ、親は子供がその行為で迷惑をかけないなら許されると考えている(と勝手に解釈)した後、異議申し立てをしている。 そしていきなり議論が飛躍し、「褒めて伸ばす」「個性の尊重」は悪い事ではないが、それは基本的な「しつけ」があった上での話と結論付け、しつけというのは子供に我慢を強いる事、とまでの私論を提示し、その仕事は親の責任と結論付けている。 さらには、学校内で生徒達のわがままは許されない故に、親は学校での指導が何のために行われているのか冷静に考える必要がある、と締めくくっている。

 一旦、原左都子の私論に入ろう。

 この中学教員先生、おそらく学校内では良き先生として通っているのであろうと推測する。
 ただ、ご自身の投稿内で “論理の破綻”がある事を自らが認識していない安直さを指摘しておきたい。
 そもそも生徒の外見と内面は皆それぞれ千差万別であり、必ずや相関するものではない。 外見が乱れていると言うが、要するにこの先生が言わんとすることは「校則」に従っていない事実イコール外見の乱れ、との結論なのだろう。  それは一応認めるとして、何故それら生徒の親達が皆子供をその格好で学校へ行かせる事に“歪んだポリシー”があると決めつけるのだろうか??

 これに対しては、このコーナーの下の欄に有識者(とやら)のご意見が掲載されているため、それを紹介しよう。
 子供のしつけどころではなく厳しい状況下におかれた家庭も少なくないことを、学校は理解する必要がある。 そのケースの場合、親を責めても仕方ない。
 原左都子も全く同感だ。  
 まさに、産んだ子供を学校へ行かせる事自体が大変な経済的貧困家庭がこの世の片隅に置き去りにされている事実を再認識する事から、公教育現場は出発し直すべきだ。


 更に討論対象となっている4つの追加意見が朝日新聞に掲載されているのだが、残念ながら私論とダブる投稿が一つもない。 一部では同調出来るが、どうしても4名が出されている結論が我が私論と食い違うのだ。
 どういう風に食い違うのかを以下に説明しよう。

 例えば、投稿者である高齢女性のA氏は「学問は学校で しつけは家で」とおっしゃる。
 ところが学問を好き好んでいる私としては「学問」こそを私自身が娘に伝授したいし、元々「しつけ」 なる言葉には大いなるアレルギーがある。

 次なる32歳高校教員の男性は、「好みを押し付けてはいけない」なるタイトルで、やたらに生徒の外見擁護に偏った論評をしておられる。 原左都子の私論としては、それじゃあ学校教員務まらないよ、と指導したくもなる。 生徒の外見を擁護していいが、教員とはもっと本質的に生徒に伝授せねばならない課題が盛沢山だよ。それが実行出来た後に生徒の外見を擁護しても決して遅くないよ、32歳先生。 

 最後に紹介されている50代介護福祉士による論評を、朝日新聞としては“まとめ”としたかったのだろうが、私に言わせてもらうならば、残念ながらまったく“まとめ”になっていない単なる狭き視野からの一投書に過ぎない。
 要するに、当該投書者は生徒の外見に関してまとめようと志した様子だが、そもそも子供の教育を論評したい者が生徒の外見印象に囚われ過ぎる貧弱な発想しか出来ないとは、一体どうした事なのか!?!


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 それ以前の問題として、大変失礼ながら、朝日新聞「声」欄自体が急激にレベルダウンしているような印象を抱かされる。
 それには、ネット進化の影響もあるのかもしれない。 今時情報発信側も私のようにネットを利用して自分でHPを作りそこから主体的に発信するのが常であろう。 そんな環境下に於いて、今に及んでわざわざ新聞投稿により自己実現を果たす人間とは少人数となっている事だろう。

 子供の教育をテーマに取り上げたい場合、昔ならば、もっと多角的視野を持てたはずだ。
 「しつけ」なる用語には、上記に私が明言したように、子供を虐待する親どもが好んで使用する言語である事を朝日新聞は理解しているはずなのだ。

 おそらく愛読者の多くが見るであろう年末年始特集に於いて、「声」欄にて取り上げるテーマとしては「しつけ」ではなくもう少し教育一般論として普遍性を持たせるテーマを設定して欲しかった思いも抱く。


 たとえそうだとしても、私自身は今まで通り我が娘への教育・指導に於いて、我がサリバンポリシーを貫く予定でいる。
 子供の教育・指導とは、決して“上から目線”で独裁的に子供をしつける事ではなく、子供の目線に立ち個性を尊重しつつ、親も努力しながら共に歩む事と捉えて22年間頑張ってきたつもりだ。 

 なんて言ったって、今となっては還暦過ぎて老いぼれ気味の私のサリバン先生を時々娘が務めてくれている(娘側が私に配慮して共に歩んでくれている)現実に、感謝感激なのだけどね… トホホ…

複数の男が 「どうしても君が好きだ!♡」 と私に迫る夢

2016年01月04日 | 恋愛・男女関係
 年末年始と立て続けに2本の硬派時事論評カテゴリーエッセイを綴り公開したため、この辺でガラリとテーマを軟弱化して、“おバカ”な話題でお茶を濁させていただこう。

 私って、天然に“おめでたい”人間なのだろうか???
 いや決してそうではなく、持って生まれたDNA資質としては悲観的に物事を考えてしまう部類だと自己分析している。 (ただそれも人生経験を積むにつれ自己の心理コントロールが上手くなり、今となっては物事を楽観的に捉えるしたたかさが身についているとも言えよう。)

 この年末年始も、夜な夜な悪夢また悪夢の連続だった。

 とにもかくにも、現実世界に於いて様々な難題が私の元に容赦なく降りかかってくる。

 例えば義母だが、12月初旬に介護旅行に出かけ、認知症及び耳の聞こえにくさの急激な悪化に直面させられ、今後の介護対応に関して途方に暮れたばかりだ。 年末年始くらいは休ませてもらえるのかと思いきや、義母は年の瀬が押し迫った時期に散歩中に転倒して右肘を骨折した。  12月28日に義母の付添人として病院を訪れたことは、バックナンバーにても公開している。

 その後も、毎日のように義母より電話が入る。 やれ、「口紅を無くしたから今すぐに送ってくれないか?(12月30日にネット通販にて送った)」 さて、「耳鼻科にも行きたいが、骨折中のため外出する場合付き添いがいるからそれにも同行して欲しい。(これは今週実行する予定)」
 等々…  私が何かに集中し始めると義母からの電話が鳴る。 どうやら認知症が進む義母にとっては、年末年始もへったくれも関係ない様子だ。  その電話対応で集中力を遮られつつ、年末年始を過ごさざるを得ない私の頭が休む暇がない。

 そんな私が見るのは決まって悪夢だ。 初夢くらいはいい夢を見たかったものだが、それも叶わなかった。 ただ、どんな悪夢だったかの記憶がない事に多少助けられる。


 ところが、本日(1月4日)の朝方見た夢は様相が違っていた!
 朝起きる直前に見た故に覚えてはいるものの、その記憶は不鮮明だ。 が、とにかくその内容とは(私が好む)恋愛ものの夢だった。

 以下に覚えている範囲で紹介しよう。

 記憶にある最初の場面は、何故か海だ。 その海の中を一人の女性が泳いでいる。 それを空から私が眺めている構図だが、大海原を泳ぐ女性を対岸で男性が待ち受けている。 (ああ、おそらくその女性の恋人か婚約者等の男性だな)と私が思ったところ、その男性が私に「貴方が好きです!」と訴えてくる。 (そう言われても、一人の女性があなたのところに辿り着こうと必死で海を泳いでいるよ… )と思っていると、場面が急に我が独身一人暮らしの部屋に移る。

 ここで参考だが、私は上京後の長き独身時代に4度住む場所を変え転居している。
 夢の中に出て来た我が一人暮らしの部屋が、一体その中の何処なのかと後で思い返してもそれに該当する部屋がないのだ。 おそらく4つの部屋の集合体なのかとも想像する。
  
 何故かその私の部屋に、上記の海で出会った男女がいる。 そして男性曰く、「いい部屋だね。」  女性も何故か懇親的に皆にお茶を出してくれたりする。
 そこに、これまた何故かベランダ側から男性二人が訪れる。 しかもどういう訳か、その一人のイケメン若手男性が私の恋人らしい。 それを皆が認識している様子で、「ここは二人の仲を祝福しよう!」などと言いつつ祝ってくれるのだ。 
 夢の詳細はもっと細部に及んでいるのだが、それを公開すると我が恋愛心理状態を見抜かれそうなため、今回はここまでの記述とさせて頂こう。


 今朝起床した後に、私は何故この種の“恋愛ものの夢”を見たのかのバックグラウンドを探ってみた。

 その一つの要因として挙げられるのは、年賀状にて複数の男性から手書きメッセージを頂いた事によると分析する。
 私の場合、過去に恋愛経験があった男性との年賀状のやり取りは当の昔に終焉している、 それでも、当時の知り合いから頂く年賀状のメッセージが、その感覚を我が脳裏に呼び起こしたのではなかろうか。

 もう一つの要因も、同じく年頭に頂戴した女性達からの年賀状だ。 
 若き頃、私は実際男性にモテた。???   ただ、何故モテたかのその要因は自分なりに十分分析出来ている。 どうして私がモテたのかと言えば、単に身長が高く目立ったが故に、その外見が一見して見栄えしたに他ならないであろう。 
 そんなこと重々把握出来ているのだが、独身当時に交友関係があった女性友達から年賀状を頂いた時に、私の脳裏に浮かぶのは、愚かにも彼女より私の方がモテたなあ… なる戯事だ……


 たとえそれが戯事だとしても、私は包み隠さず “恋愛ものの夢” を見る事が好きだ。
 恋愛が成就した夢を見られた朝には、輝ける1日が待っている気分にさえさせてもらえる。
 何だか我が脳裏に未だ“遊び心”がある事実に、自分なりに安堵させられる思いすら抱く。

 ただしこれはあくまでも我が夢内で済ませますので、関係者の方々、我が失言を何卒お許し下さいますように。