原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

明日は我が身も “認知症”?!?

2016年01月21日 | 医学・医療・介護
 現在高齢者有料介護施設に暮らす義母に認知症状が出現し始めた事態に保証人の立場で気付いてから、既に3年程の年月が流れている。

 ここのところ認知症状の進み具合が急速化しているのを懸念しつつも、あくまでも義母の人格と主体性を尊重しつつ、施設のケアマネジャー氏とも話し合いを持ちながら対応に当たっている。
 
 本日は義母の耳鼻科受診の日だ。(このエッセイを執筆中の今頃、義母は一人で受診しているはずなのだが…)
 当初私がそれに付き添う予定だった。 が、義母がそれを申し訳なく思う気持ちと、耳鼻科の帰り道に一人で買物をしたい意向が強く、どうしても一人で耳鼻科に行きたいとの希望を提示し、それに沿う決断を下した。
 もちろんケアマネ氏と十分に話し合っての結論だ。 義母が入居している有料施設は入居者に対する対応に細心の留意を払うシステムが完璧であるのに加え、何らかの問題が発生しそうな時には、必ずや即刻電話にて保証人に連絡が入る体制が整っている。
 今回の耳鼻科受診のための義母の単独外出に関しても、ケアマネ氏と重々話し合った。 結果として義母の希望を一番に尊重するとの方針で両者が合意したのだが、さて、無事に施設へ帰宅する事が叶うか否か…  
 (実際、本日もしも義母が道中転倒してまたもや骨折でもしたものならば、来週出発を予定している我がイタリア旅行を取り消さねばならない厳しい事態となろう…) 


 私は元々医学関係者である事が幸いして、義母の「認知症」に関し日々冷静な対応が可能と自負している。

 認知症に限らず、精神疾患の一つである「統合失調症」、あるいは「鬱病」等に於いても同様だが、それらの症状に陥った患者氏達と言えども、各個人が呈する症状とはそれぞれの人格に基づき醸し出されるものだ。 従って必ずやその病状も人それぞれに個性豊かであり、千差万別であることを元々理解出来ているつもりである。
 ところがそんな私にとって信じ難いのは、たとえば我が亭主ですら、「母(義母)は認知症でない!」と今に至って言い張りたい様子であるところだ。 
 実息子として母を思うその気持ちは分かるが、ちょっと待ってもらおう。 私としては医学の本来の存在意義を理解して欲しいのだ。 真に医学が目指す方向とは、(特に精神疾患の場合)患者本人の病状に寄り添いつつ、個々に人格が異なる一人一人に対応する事に他ならない。
 その前提として、義母が認知症状を呈している事実を実の息子である亭主には是非共受け入れてもらわざるを得ない。 それに苦慮した結果、我が亭主も少しだけ自分の母に認知症状が出ている事を理解し始めたところとも言えよう。


 さて、1月16日付朝日新聞 別刷「be」 “between”のテーマは、「自分も認知症になると思う?」だった。
 それに対する朝日新聞読者の回答とは、 「はい」が75%、「いいえ」が25% との結果だ。
 それぞれの回答理由を以下に紹介しよう。

 まずは 「はい」から。
  (自分自身に既に)物忘れ、判断力の低下がある。   誰がなってもおかしくない。
  メディアで話題だから気になる。    年齢的にありうる。  家系的に心配。
  糖尿病等生活習慣病が心配。  なりやすい職業、性格と言われた。

 次に 「いいえ」から。
  年をとれば脳の衰えは当然。   家族や周囲に患者がいない。  兆候がない。
  若いから考えたことがない。   予防を行っている。

 上記の読者アンサーを受けて、 早速、原左都子の私事と私見に入ろう。

 私自身も、還暦過ぎた身にして物忘れ・判断力の低下の気配がある事を気にしているし、歳を取れば脳の衰えが必然的であろうとも自覚している。  更には我が血縁家族には患者がいない事が幸いし、家系的(DNA的)に心配はないのではないかとも密かに安心してもいる。
 それでも私は、その兆候がないからといって油断してはいない。 更には予防を行っていると言う人が如何なる予防を実施しているのか、伝授して欲しい思いもある。

 一番心配なのは、自分には 「兆候がない」 と言い切っている楽天派の回答だ。
 私論としては、この種の単細胞人種ほど実は自身の老化に気付かず、家族や身内に一番迷惑を掛けるはめとなるのではないかと懸念する。 (義母が多少これに該当するようにも感じている…)
 やはり人間とは、若き時代より自身に対して客観的に「総合判断」可能なバックグラウンドを育成・成就するべく一生に渡り努力・精進を重ねて来ない事には、いずれ痴呆症に苛まれるのではないかと危惧するのだ。


 最後に、当該朝日新聞記事内で「まず(認知症の)現実を知ろう」との正統派の読者意見が記されているため、それを要約して紹介しよう。

 認知症といっても症状や状態は様々。 過ごした人生の色だけ症状は違う。 認知症を十把一絡げにくくってはいけない。 
 認知症になれば、何も出来なくなり感情も失われると思われがちだ。 ところが、喜怒哀楽など人間の本質にかかわる部分は何も変わらない。  (認知症の)祖母はいつも祖父に「ありがとう」を口にして周囲にも好かれ、尊敬する。

 今の私自身も、まさにその通りだ。
 何故私が痴呆症状が進みつつある“血縁のない”義母の世話を進んで出来るかと言えば、これぞ、義母が嫁である私に対する礼儀を今のところは失っていないからに他ならない。
 義母は私に会うと、いつも口癖のように私に告げる。 「○子さん(私のこと)だけが今の私の頼りなの。これからもよろしくお願いします。」

 ただ今後義母の認知力がさらに低下した暁に、介護に臨んだ私を見て「あなた誰なの?」と義母が言い始めた暁に至って、今まで通りの介護を達成可能か否かについての自信は残念ながら無い… 

 それ程までに、認知症高齢者の介護とは過酷であろう事も想像が付いている。


 - P.S. -

 このエッセイを綴り終えたつい先ほど、義母より私宛に「耳鼻科から介護施設へ無事に帰宅出来ました」との電話連絡が入った。 ひとまず、心より安堵した我が一家だ。